オリンピックのエロスはなぜ公認されるのか
北京オリンピックは終わったのだが、私はほとんど見なかった。TVなしの旅行にいっていたし、べつに見る気もおこらなかった。テレビやニュースは国民すべての関心事と煽ったりするが、スポーツ観戦好きでない人もいると思うし、スポーツ好きでもない人がこういう国際行事のときだけ見るのはいかがかなと思うのだが。
こんかい問いたいのは、オリンピックやスポーツはけっこうエロティックな方向性をもっているのではないかということだ。TVやマンガではセクシャルなものは規制や反対がおおく唱えられるのだが、オリンピックの競技では際どいコスチュームやエロティックな競技がないわけでもない。極端にいえば、エロスの祭典であるかのような競技もないわけではない。どうしてこのオリンピックやスポーツのときだけはエロスが公的に認められる競技になるのだろうか。
スポーツというのは肉体の強さや鍛錬を競う競技である。人間の身体の可能性や卓越性が競われる。肉体の可能性の競技なのであって、ある意味ではスポーツは肉体の力を競うエロスを含んだ競技である。肉体の強さを競うということは、性的魅力を競うことでもある。早く走れたり、高く飛べたり、チームとして強かったりするというのは、個人や集団の性的魅力を誇示することでもある。
スポーツの強さというのは性的な誘惑や魅力の顕示もふくむ。筋肉隆々の肉体の誇示やセクシーな肉体の顕示は、強さを競うスポーツの根本にあるものである。競技や記録という公的に公認されたものの下には、性的魅力の競争や誘惑もひそんでおり、ふだんは規制されることの多いセクシャルな表現が、競技という名目の下に公認される。性や誘惑が目標とされる表現はいけないが、競技が目的となるのなら肉体の誇示や誘惑はOKということである。点数や競技を競うのだから、性的競争は黙視される。
新体操とかシンクロナイズドスイミングとか女性が股を開けて大っぴらに見せびらかしたり、足を盛んに誇示したり、悪くいえばストリップやグラビア・アイドルのセクシーなポーズとあまり変わらない。いったいこれはなんなのか、そういうセクシーな肢体の誇示が、なぜメディアで許され、スポーツとして認められるのか、一歩下がってみればヘンなものである。陸上でも女性のへそ出しやぴっちりしたユニフォームも散見されるし、水泳でも筋肉隆々とした肉体の誇示や身体の線にフィットした水着はセクシャルなものである。そういうセクシーさに目を奪われて釘付けになるという諸兄もおおいのではないだろうか。男性のみではなく、女性も男性のセクシーさや肉体美に目が奪われる機会が多いのも、オリンピックやスポーツなどの競技に限られたものである。そこでは性的な露出が公認されるのである。エロスの祭典でもある。
そもそもスポーツはなぜ競われるのか。早く走れたり、早く飛べたり、相手との競技に勝つというのは、なぜ目指されるのだろうか。肉体的能力が高いとか、相手に勝つということは、いったいなんの意味があるのだろうか。
それはもちろん権力や力への欲望、名誉や承認への欲望だろう。人間の社会は他人を押しのけたり、他人をひざまずかしたり、他人を打ち負かしたりする競争や順位を否定するわけではない。肯定し、褒め称え、推奨する。勝つこと、権力をもつこと、偉くなること、人より優れること、われわれの世界は否定しない。それはぎゃくから見れば、負けること、権力に虐げられること、落ちこぼれること、人に劣ることを肯定し、承認し、推奨する世界でもある。オリンピックやスポーツではそれらの欲望が露骨に肯定され、承認される。世界はそれに歓喜する。道徳律はもちろんこれらの欲望や権力を否定したり抑制したりし、スポーツにはスポーツマンシップが求められるが、それらの競争が根底にあるオリンピックが世界的行事になっているように、われわれ人類はこれらの欲望を肯定するのである。
権力や名誉はかれの身の安全や生活の豊かさ、味方の多さなどを保障するだろう。生存の欲望が根底にあるのはたしかである。異性への誇示や誘惑もとうぜん含まれるだろう。スポーツの競争はこの肉体的力による権力や名誉の生存欲がならしめるものであろうし、異性への誘惑欲もたぶんに多く含まれるものだと思われる。
生物の進化は生存の適用によるものがそれをうながすが、異性の獲得競争の進化もなかなか早いものだと思われる。たとえば孔雀の羽なんてものは異性を獲得するための機能しかなく、身体の形態を性の獲得競争は早くに変化させるようである。生物のオスはメスより身体が大きいことが多く、ライオンのオスのたてがみ、ヘラジカなどのオスの角の巨大化などは異性への誘惑がその原動力であろう。ハーレムをもつゾウアザラシのオスの大きさはメスの3〜4倍に達し、異性の競争の激しさを物語る。
人間のばあいはオスの身体は大きくなり、筋肉の発達をうながしたが、異性を誘惑する役割は女性の身体のほうに乳房や腰の大きさといったものにより多く現われている。女性は豊穣な出産力をアピールすることにお尻の擬態である乳房を発達させて、人間界では女性が誘惑する性になっている。女性のセクシーさとわれわれが感じるものは、生殖と出産の能力の誇示なのである。
スポーツで競われるのはわれわれのこのような肉体的性能や能力であるのだろう。とうぜんのことながら性的魅力や誘惑がアピールされるわけである。スポーツとセクシーさは同じものをめざしているのだろう。
社会はふつう性的情報や性的誇示を抑制するものである。人間社会は性的誘惑にかんたんに乗るようでは、経済的得策や有利さを得ることはできないし、性的情報の抑制はハーレムのような異性の独占的獲得を防ぐための禁圧の要素がたぶんにあるのだろう。スポーツにおいてはその性的顕示が競争や競技という名の下に禁制が解除されるのである。あるいはスポーツという「神聖な」競争であるし、スポーツは「われわれ」の集団という勢力に貢献するものだと考えられている。つまりは「われわれの集団」の権力や勢力、名誉を高めるものと考えられている。このスポーツの集団の同一化により、個人の性的顕示の禁制が解かれるというのは、人間のアイデンティティの幅を感じさせる。自我への同一化を集団にもおこなうことによって、エロスの解除は解かれて、晴れて「エロスの競演」はくりひろげられるのである。性的誘惑の抑制は、集団への貢献という「タテマエ」によって解かれるのである。
▼参考にしたい文献(とくにH.P.デュルの『文明化の過程の神話』は読みたいな)








コメント
おいおい
それは「文明と未開」、あるいは「理性と野蛮」、「知能と低能」といった文明のヒエラルキーの構図と同じものだと思います。「文明の秩序」というやつですね。
われわれは文明をもった人間であり、野蛮たる動物ではないという「まなざし」はときには後進国や未開人の蔑視につながり、侵略を正当化するイデオロギーとして転化してきた歴史があります。
「高尚なるもの」と「低俗なるもの」という分け方自体を問いなおす必要があるのだと思います。それは性的なものを抑圧し、理性と性に分断し、性をおとしめるという目隠しをおこなわせるものだと思います。二分法を排除して、ホンネ的な部分でものごとを見るのも大切だと思います。
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僕は性的な意味をぬきにして女性を見ることができません、と言ってるも同じ。
そしてそういう男向けに「美人アスリート特集」とかやっちゃうスポーツ記者もムカツク。すんげぇ下世話。