なぜひとりでいてはならないのか?



 レジャー施設や遊園地、海水浴場、繁華街や食堂、教室などで、ひとりでいてはならないような気持ちになるのはだれでも知っていることだろう。われわれはどうしていつも群れていなければならず、いつも仲間と「楽しまなければ」ならないのだろうか? ひとりでいることはなぜそんなに「規制」され、私たちの心に悲しみや恐れをもよわせるのだろう?

 孤立や孤独は、「友だちや仲間がいないことの目印」である。つまり「人とうまくやることができない」「仲間外れ」「人格的に問題がある」という目印になる。私たちは人にそのようにみられないために、いつも群れていなければならず、仲間とつるんでいなければならない。友達や群れというのは、「人づき合いのできる社会的標準にかなった人間」であるというメッセージを発するものなのである。その目印を発信するために群れや集団はいつも形成される。谷底や崖っぷちに落ちる恐怖から、金魚のふんはつくられるのである。

 人とのつながりというのは不確定で流動的なものである。今日の仲の良い友だちはいつ仲が悪くなるかもしれないし、飽きてきたり、ほかの趣味、友だちに興味がうつり変わるかもしれない。そのような流動的なつながりからいつ放り出されるかもしれない。つながりから外れれば、「人間失格の海」のなかに放り出される。そのような恐ろしさとセットになりながら、友だちや群れとの「楽しい」「喜ばしい」関係はつづいていかなければならない。このようなゲームの窮屈さや恐ろしさに耐えられなくなると、ときにわざと仲間外れやいじめられっ子をつくってガス抜きや気休めが必要となる。群れから落ちる恐怖が、いじめをつくりだしているといえる。

 江戸時代に「五人組」という隣人を監視させた管理技術があったと聞くが、そのようなテクノロジーがこんにちの学校の教室や日本の社会にみごとに花開いているわけである。これは支配者による管理技術によるものなのか、あるいは人間という種の本能にもとづいた習性と考えるべきなのか区別はむずかしいが、こんにちのわれわれの脅威になっていることはだれもが気づいていることだろう。おおくの人は疑問も感じず、友だち付きあいや群れることに楽しみや喜びを感じて肯定感を感じていることだと思う。自立や自由を望んだり、演技や崖っぷちの恐ろしさに気づいた人だけが、この恐怖ゲームに不快感を感じるのだろう。

 仲間とつるむということは「社会的基準にかなった人物」であるという承認をおたがいに与えることである。そしてその「承認/不承認」の道具をつかって、私の権力や言い分は行使されたり、ときには自分のほうが仲間外れの危機にあったり、迎合や服従の立場を選択しなければならなかったりする。仲間というのは、当人が社会的に承認される人物であるという原始的なメディアなのである。人間が「群れ」という単位をつかって、承認の目印を外部や社会にメッセージするメディアなのである。

 私たちはなぜひとりでいてはならないのだろうか。なぜひとりで楽しんだり、自由に行動してはならないのだろうか。なぜひとりで楽しむことが禁止されているのか。ひとりで食事をすることが、とくに女性の場合は、禁止されるのか。

 ひとりというのは、脅威や警戒をあらわす単位なのだろうか。群れは個人を恐れるものか。個人に脅威や警戒がそんなにあるものだろうか。

 たとえば知らない人が来るというのは緊張するものである。何者かもわからないし、どんな人で、どんな行いや言動をするかもわからないし、性格もわからない。夜道や人里はなれた人の来ないようなところでばったりと知らない人と出会うと、私たちは動物的恐れを感じる。緊張を解除するためにあいさつがおこなわれたりする。もしその人がほかの人と知り合いであったり、親しげに話し合うようだと、ほっと安心するだろう。人とのつながりが彼の「社会的安全」を表示するのである。もし彼が無口で人とのつながりがないままだと「不安」や「不明」はつづいたままだろう。ひとりというのは、情報の欠落を呼び、なるほど脅威や不安なのである。

 しかし女性のひとりでの食事が他人に脅威や不安を与えるものだろうか。女性はなぜ男たちより群れや仲間とつるむことを強く強制されているのだろう。女性のほうが、「社会的つながり」で人格や性格の基準値に達していることを表示する強制や縛りは強い。女性が弱い性であり、性的にも襲われやすいという立場もあるだろうが、より社会的存在であることを義務づけられた性でもあるからだろうか。社会的関係に依存したり愛着することを、社会は女性により強く望むのである。ぎゃくに社会的関係に親和的であるからこそ、旧知の仲の縛りが強い一面もあるのかもしれない。性的な一夫一婦制もその縛りに貢献するのはいうまでもない。そしてそこからもれたり、外れたりすることの罰則や制裁をより強くするのである。社会の規範やルールは、まずは集団に承認されるということにひとつの柵をはりめぐらせるのである。

 私たちはおそらくこの「社会的安全」や「社会的基準に叶った円満な人物」であるという表示に、おおくの時間をかけ、おおくの可能性や行動を犠牲にするのだろう。人生だってこの表示のために棒に振るということだってありうるだろう。友達に合わせたり、友だちを得るために、私たちはおおくのものを犠牲にし、失わなければならない。ある意味、それは社会が私たちに仕組む社会の防備柵であったり、警戒信号であったりする重要な役割をになっているのもたしかであるが、犠牲や損失もまた大きなものなのである。猿が毛づくろい(社会的絆の確認作業)に一日のおおくの時間を費やすことと同じである。警戒信号の解除に人生の大半を奪われるようでは、人生のおおくの時間を損失したといわざるをえない。

 ひとりでいてはならない空間はとりわけレジャー空間であることが多い。仲間や集団で楽しまなければならないという不文律がある。楽しむことは仲間と分かち合い、仲間と楽しまなければならないものだという暗黙の強制がある。

 なぜレジャーは群れを強制するのだろうか。楽しみは群れの中で完結しなさいという命令があるかのようである。レジャーの空間というのは、ほかの社会的機能や役割のように演技の方向が義務づけられておらず、不安定で流動的である。関係性もいつほころびるかわからない、群れや集団にとっては不安定な場である。演技や行動の幅が広い分、動物的脅威の間隙が大きく開き、そのために群れや集団の縛りはきつくなると考えてもよいものだろうか。旧知の群れの関係が弱くなる分、群れの縛りは強くなるのである。とりわけこのような群れの中でのひとりは孤独感を強く感じさせるものであるが、それは社会的承認を群れによって与えられていないからである。レジャー空間の中をひとりでいく根性や平常心をもった人はそうおおくないといえるだろう。

 私は集団の群れというものに依存したり、承認の恐怖によって釘づけられたり、画一化・規律化させる集団というものに距離をおきたいと思ってきた。なぜひとりで行動してはならないのか、なぜひとりで楽しんではならないのか、なぜひとりで充足することがそんなに悪いのかという疑問とつねづね闘ってきたと思う。集団を維持するためにおしゃべりしたり、むりに趣味や行動を合わせるという無益に思える時間に費やされることを嫌ってきた。孤独を禁圧するような社会的圧力はなんなのかと分析することはそのような縛りから解放されるための試金石だと思っている。ひとりの自由を堂々と楽しみたいと思っているのである。


孤独応援本はたくさん出てきましたね。
孤独であるためのレッスン (NHKブックス)孤独と不安のレッスン孤独のチカラ
友だちいないと不安だ症候群につける薬孤独―新訳孤独と人生

コメント

確かイタリアで…?

女性作家に松本葉さんという方がおれれます。
彼女のエッセイがまとめられた本が好きで2冊読みました。

で、バカンスの時、観光地の立派なレストランに一人で入って食事しようとすると、お店のマネージャーから、言われたのです。
「OK!ウチのレストランの男性をパートナーにお付けいたしましょう。ご一緒に食事をお楽しみください」

このヨーロッパでもこの地域だけなのかもしれませんが、女が一人で食事
する、という事はありえない事なのだ、と気づかれたようなのです。
もしする女性がいたとすれば、それは
「男を誘っている行為」とみなされる。
つまり、売春婦と思われてしまう、という事なのですね。

松本女史は自由なイタリアでもこんな習慣があるなんて…と意外な窮屈感を感じていましたね。

独りでいる事は即物的で申し訳ないのですが、腕力があるとか、仕事の実力が桁違いに凄い、などの特権的「武器」がないと不利益ばかりこうむるようになっています。うえしんさんもその辺はよくご存知では?

黒田           謹言

黒田様、こんにちは。

イタリアは日本女性が旅行すると男性が声をかけてくれるということで一部好評なところもあったと聞いていたのですが、売春婦と思われたり、男をつけてやるといわれると、かなり不自由な国といわざるをえないですね。

日本でも女性がひとりで外で食事ができるようになれば、適齢期を逃すことができる(笑)といわれたりしましたが、ニ、三十代の独身女性も増えた今日、まだおひとりさまの自由度は日本のほうが勝っているのでしょうね。どちらの国のほうがいいかといえば、好みの部分もあるのでしょう。日本の女性はひとりでメシが食えるようになるほうがカッコイイと思う方向にすすみそうですが。

ひとりは不利益をこうむることが多いですね。ですが、私はなぜか群れたり、いつも集団でいることが情けなくて、カッコ悪くて、ガマンならないことに思えて仕方がないです。
それはなんていうか、腹の底からこみあげてくる不快感みたいなものに達成されてしまっていますね、私は。。
ヘタレで、根性がないのになぜかなと思いますが。

私はわが道をいきたいのでしょうね。
だから集団の特性というものを追究したいのですね。

それとやっぱり仲間外れや孤立を怖れての集団への依存、密着の強制はやはり自由の剥奪ですし、人格向上の放棄だと私は思います。

このような集団の力学、あるいは日本的集団の「空気」というものには、私は「水を差して」いきたいと思っています。

参考文献にも諸富詳彦の孤独本いらい、何冊も孤独をポジティヴに捉える本が出ているということは、友達依存の縛りがかなり激しくなっている状況を反映しているのだと思います。

男がいつまでも群れたり、友達に依存するのはやっぱり問題でしょう。
男はやっぱり孤独に、無口に、群れずにじっと耐えるのが、男の道というものでしょう(笑)。

こんにちは。

私も基本的に孤独大好きなので、今の孤独を許さない社会に息苦しさを感じております。
この国は際限のない経済発展が何から何まで支配していますから、孤独を好む人物は国家にとって「不適切な存在」なのでしょう。
唯一孤独が許されるのは作家や音楽家や芸術家などの(売れている)表現者だけなのでは?
このような国の作為的な、仲良しごっこ教育の現役の被害者である今の小中学生を本当に気の毒に思います。いつ仲間外れの的にされないかとビクビクハラハラ、気の休まる日もないのでしょうね。
読書に音楽鑑賞、絵画に映画観賞、一人旅など孤独の良さを満喫する行為はたくさんありますが、いつもみんな仲良しですっ。みたいな人達には苦行以外の何物でもないのでしょうね。

自由

私は気の合う人が居れば、一緒に居たいけど、
そうでない人達と一緒にされると疲れてしまうので、
それだったら一人のほうがいいと思いますね。

今、良く会う友達というのは、一緒にいると安らいだり、楽しかったり
素の自分を受け入れてくれる人達で、人数も多くなく、片手で数えられる
程度です。

無理して仲良くするなんてもってのほかですね。

群れてもいいし、孤独でいても良い。
どちらも強制するものではないですよね。

日本は集団生活や仲良くすることを強要する社会ですね。
学校・会社
確かに、会社というのはチームで仕事をしますから、
仲間とのコミュニケーションは必要。
しかし、それは仕事上だけで十分。

アフタ−5は、気のあった仲間が居れば、一緒に過ごせばいいし、
一人で居たい人は一人でいればいい。

一人で過ごす人を、孤独だのなんだの 許さない雰囲気があるとすると
良くない習慣です。

今の会社は、アフター5に干渉しないし、社員同士で群れて他をはじき出したりしないので、割とすごしやすいです。

前の会社は、対照的な二人がいましたね。
一人は来るもの拒まず誰とでも明るく接し皆に好かれていました。
私はその人と良くアフター5を過ごしたものです。
もう一人は会社内で特定の人のグループを作っていつも一緒に行動し、
他をはじき出すタイプ。なんとも群れないと寂しいのかな?
っていつも思ってましたが。

群れてもいいし、孤独でいても良い。
少なくとも自分のプライベートな時間はそうありたいものです。

友人関係で悩むなら…。

これは提案なのですが、4年生大学の自分が受ける科目ごとに教室を移動してゆく、クラス単位なのは英語と必修科目だけ、というスタイル、これを導入できないでしょうかね?
すべての学校で、とはもちろん言いません。

一県に一つくらい単位制の高校や中学があってもいいと思いますね。

実際、私の県では市の中心近くに単位制のテストケースと思われる高校が存在してもう15年くらいになりますね。
文部科学省も当教育委員会もこれらの蓄積された資料を活用してはいかが?と思います。

授業ごとに各自ばらばらに受ける科目が違うので、いじめなどの問題が発生しにくくなる、と素人の私には思えるのですが…。

あまり全国的に単位制の高校・中学が増えないのも、何か問題があるのかな?と思います。文部科学省の見解を聞いてみたいですね(笑)。

黒田               謹言

たいようさん、こんにちは。

問題は、学校の教室でもそうだったと思いますが、ひとりでいることが「仲間外れ」や「かわいそう」、「みじめ」だと捉えられて、どこまでも皆と群れていなければならないことだと考えます。

いつも友だちがいたり、仲のいい友だちがいたとしても、そういう強迫や強制からむりに友だちづきあいをさせられる空間であったとしたら、つまり恐怖からの友だちづきあいだとしたら、これは悲劇というか、脅迫以外のなにものでもありませんね。こんにちの学校での友だちづきあいはたぶんにそういう要素が強くなっているんだと思います。

そのルールはなんなのか、不文律はなんなのか、どういうメッセージや意味合いがこめられているのかといったことを「言語化」することは、無意識に操られていたルールの支配能力や統御能力を自分の手にとりもどすことにつながると思います。

「言語化」というのは、見えなかったハンドルを自分の手にとりもどす作業になるものだと考えます。私たちはなぜむりに群れや集団を形成させられるのか、言葉にしてその統御能力を手に入れることはひじょうに大切なことだと思っています。

古畑さん、こんにちは。

気の合った仲間がいれば、たいへんに楽しいことですね。
自分の快適に過ごせる距離感を保てる人とのつき合いをもてることは、大切なことだと思います。

強制や脅迫があってはならないと思いたいところですが、人間界の基本的ルールとして集団への強制的参加という暗黙の縛りを私は感じます。
集団の喜びや楽しみのいちばん下には、この孤立や孤独への禁止のルールがあるからこそ、集団というものはかたちづくられると見ています。

イスとりゲームのような鬼ごっこの恐怖が、集団の根底にはあると思います。
群れの欲求は本能というよりか、「社会的安全」を表示するための恐れから群れをつどうのではないかと考えます。

なぜこんなニヒルな考えをつきつめるのかといえば、恐怖から釘づけられた行動は、私たちの自由と尊厳を奪うからです。
恐怖からの行動を自分の中に組み込まれているとするのなら、私はぜひともそのような行動基準というものを、自分の中から排除したいと考えます。
いったらこれは「洗脳」や「マインドコントロール」であり、私たちは不自然なまでの群居行動を強制づけられていると私は見ます。

そのような恐怖から解放されたときにはじめてまともなつきあいや群れを形成できるのではないかと思います。

こんにちの群れや集団というのはあまりにも恐怖から動機づけられていると思われることが、残念に思えてならないです。
いじめや仲間外れはそのような恐怖の外部ーの解消だと見なすべきなんでしょう。

黒田様、こんにちは。

大学の単位スタイルや教習所型は内藤朝雄が『いじめの社会理論』でも提唱していますね。
小学校でも教習所のようなほとんど生徒が口を聞かない空間になったらどうなるんだとは思いますが(笑)、いじめ自殺を殺人犯罪と捉えるのなら、そこまでの思い切った策は必要なのでしょうね。

日本の小中学校というのは全体主義の共同体になっていますね。
仲間外れや村八分を恐怖する制度で生徒たちを管理して、支配者たちに都合のいい集団管理のしやすい人材に育てあげる目標があるのかなと思います。トフラーがいった「隠されたカリキュラム」といったやつですね。

仲間外れを怖れる心的機能をつくりだして集団主義や滅私奉公に奉仕する「工業社会的人材」をつくりだす。
工業社会が必要とする基本の統御方法というのは仲間外れの恐ろしさを叩き込む集団訓育方法なのでしょうね。

社会の「学校化」という言葉があらわすように、日本の社会はけっこうこの学校制度がながらく私たちのパーソナリティーや社会把握をその後もずっと拘束しつづけるものだと思います。学校の偏差値や学生時分のつきあいで階層や順位をはかるような関係はその後もながらくつづきますね。その根本の訓育方法は仲間外れを怖れる集団管理法なのでしょう。

私たちは仲間外れを怖れる集団管理法を自分のなかに内面化して、罰則や制裁の方法を自分の中にとりいれて自分を律したり、あるいは外部の人間を裁いたり、つまりいじめによって集団に訓育する方法を適用するのでしょうね。つまり自分にやられていることを他人におこない、訓育されない人間をいじめ自殺まで追い込むのでしょうね。

産業界の要請だとしたら、孤独の解消を説く学者がおもに心理学者であり、政治学者や社会学者でないというのはうなづけますね。つまり社会の権力に政治学者は立ち上がらないのですね。われわれの時代の「心理主義時代」の陥穽を思い知らされる気がします。

私がこんにちの群れ主義や友だち主義を不快に思うのは、強制や権力を感じるからなのでしょうね。私たちはこの不自然な権力に抗うことができるのでしょうか。あるいは自分たちが心理的な奴隷や隷従状態になっているという「監獄状態」に私たちは積極的に気づこう、自由や権利を主張しようという気運になるのでしょうか。日本人にははるかに遠い外の国のことに思えるのでしょうね。

はじめまして。

本日初めて訪問させて頂きました。とても面白かったです。
ところで・・・。
なぜ人間が群れをなすかという事についてですが、あくまで
私の考えなので気楽に聞いて下さい。
人は動物と同じレベルで行動しているのではないでしょうか。
動物として人間を見ると、なんら武器を持たないひ弱な感じです。
運動能力も無いし、厚い甲羅で覆われているわけでもない。
蛇のように毒もなく、牙もない。
動物も弱い者たちは生き残る手段として集団行動をします。
もしかすると孤独は強い者だけの特権なのではないでしょうか。
単独でも戦える。そんな者にのみ許された特権。
そう考えると女性が男性より群れをなす事の必要性の証明になります。
女性でも一人で行動できるものは何らかの武器を(能力)
備えていると。

社会もピラミット型ですのでトップに登れば上るほど
孤独です。

もし、うえしんさんが孤独を愛するならそれは才能を人より
お持ちだからです。



強いものは(才能あるものは)群れをなす必要性がないのです。

以上わたくしの考えでした。


mosikaさん、はじめまして。

群れの形成はほかの動物に対しての防備の役割を果しているというお話でしたが、基本的な部分はそうなのだと思います。

ただ人間の群れはほかの動物だけに対してではなくて、人間同士に対する群れの要素が強いと思います。
チンパンジーも群れの中で「連合」をつくって、権力争いをします。
群れの中で、集まりをつくって権力をえて、ボス争いや序列争いに有利にはたらくように「連合」の力を利用します。

友だちや仲間は権力をもてるわけですね。
人間のばあいはなおさらおしゃべりや悪口によって、他人の評価や批判をできます。つまり他人の評価を決められるという特権を手にするわけですね。これは群れの中での「権力」をもつことのなにものでもありません。

近所の主婦が井戸端会議などをよくやっていますが、そういう他人の評価という権力を得ているのだと思います。おしゃべりは「連合」です。
女性のほうがおしゃべりだというデータが多いですが、じつは男性もそれ以上におしゃべりをしているというデータもあって、人間にとってのおしゃべり・会話というのは、権力を得るための方法なのだと思います。

人が孤独を好むというのは才能や力があるというよりか、この集団内での権力闘争やつながるための無駄なおしゃべりを嫌ったり、ほかに好きなことがあるといったことのほうが多いと思います。

こんにちの学校や会社では仲間がいないと居場所がないという恐怖から、過剰な友だちづきあいや仲間関係が強要されているところがあり、権力に脅されてむりやり仲間作りをやらされている面があると思います。

恐怖から追い立てられる仲間づくりより、楽しみや喜びから人とつきあえる強さをもちたいものですね。
恐怖からしがみつく仲間関係って不自然で、いやなものですよね。


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