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08 18
2008

集団の序列争いと権力闘争

『友だち地獄』 土井 隆義

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友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書 710)
土井 隆義

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書 710)


 友だち関係や集団関係の維持には私もたいそう悩まされてきた。私は中学のころから友だち関係の維持がめんどくさいと思いはじめ、ひとりになりたがる傾向が強くなった。二十歳以降は文学や現代思想、社会学を好み、画一化・規格化される集団というものを嫌い、集団から外れる方向ばかりに走ってきたと思う。そのような私にとって、この本はずいぶん自分の感じてきた問題と重なるものがえぐられていたと思う。

「今このグループでうまくいかないと、自分は終わりだ」と思ってしまう。

仲間内の人間関係の維持はあまりにもエネルギーを要するものであるため、その関係の中身を吟味したり確認し合ったりする余裕はなく、互いにつながっている時間をひたすら費やしていくだけで精いっぱいである。しかし、そのために何かにいっしょにコミットしていなければいけない。そうしなければ、つながっている時間を保つことすらできない。……いわば物理的につながっているしか術がない。

「優しい関係」は、強迫神経症のように過同調を互いに煽りあった結果として成立しているので、コミュニケーションへ没入していない人間が一人でもいると、その関係がじつは砂上の楼閣にすぎないことを白日の下に晒してしまう。王様が裸であることには皆が気づいているが、それを指摘するようなシラけた態度を誰も示してしならない。

「今は中学生はもちろん小学校高学年ごろから群れていないと不安で、そこにしか生きる世界がないんです。行動規範は仲のいい友だちグループだけで決まっちゃって、そこから弾き出されたら生きていけない」

「あたしの身体にはなにひとつ傷がないのだけど、ただっぴろい教室の中みんなはグループで固まり独りぽつんと机に向かうあたしに刺すような視線を送ってくるし友達には裏切られてしまっているし、何より独りでいることをハブられていることを見られるのが嫌で、そんなあたしをみんながどう思っているのかと考えると恐怖だった」



 いまの時代というのは小集団の維持がますます至上目的となっているようである。ひとりになると居場所がなくなるから、いつも群れていなければならず、かといって群れつづけることは不快で不自由であるし、自由でもない。おまけに集団というのは画一化を要求するものである。似ている者、好きな者同士は同じことや同じ物を好むものである。みんなおそろいになって気持ち悪いと思っても、そこから降りることは集団への批判や脱落と直結してしまう。仕方なく、この欺瞞とウソっぱちの仲よしゴッコをつづけてゆかなければならないのである。こういう状態が私の時代よりもっと深く重く進行しているようである。

 歴史的に眺めれば、このような現象は民主政治がはじまったころから起こりだしたと考えるのが妥当なのだろうか。トクヴィルが『アメリカの民主政治』という本を書いたころにアメリカ人の画一化に脅威しているし、フランス革命に反対したエドマンド・バーク、そしてキルケゴールも画一化・水平化の恐れを表明している。ニーチェは「畜群化」と罵り、J・S・ミルは天才の生まれない画一化の自由の消滅を嘆き、エーリッヒ・フロムやオルテガ・イ・ガセット、デヴィッド・リースマンなどが画一化してゆく民衆を精緻に分析した。いわゆる「大衆社会論」というジャンルでその脅威は論じられた。平等で民主的な理想の社会は、私たちの小さな小集団や友だちのグループの中で、精神や自由や個性を抹殺してゆく動きが深く進行しているようである。

 私たちの社会というのは、友だちや集団によって承認されることがこの社会で生きる根本の規範となっているようである。仲間外れや孤立は、社会からの承認を得られていないことを意味する。これはほとんど生物学的な脅威というか、条件のような気がする。動物的な規範である。集団の承認が得られないことは、動物的に生存の条件を喪失してしまうことである。だから教室や集団の中ではそのようなイスとりゲームが壮絶な試練となって、うずまいている。いじめや不登校、ひきこもりはこのような人間関係の厳しさから生まれているのだろう。教室の内部が「動物的」になっているのである。

 私は集団の維持というものが嫌いである。ウソっぽい演技、白々しいムードや雰囲気づくり、肯定しあったり承認しあったりする関係のダルさ、おもしろもなくうれしくもないのに群れてしゃべらなければならない不快さ、私はそういうもろもろの鎖や監獄にたいそういやになって、ひとりになることをずっと希求してきた。中島義道もそういう集団での雰囲気が大嫌いだそうで、著作の中でも懸命にそれに対する不快感を表明している。でもだからといって、集団からの孤立、脱落はその場での居場所や存在の意義を認めらなく、排斥や攻撃の標的になってしまうのである。「属しても属さなくとも地獄」というやつである。仲間や集団から距離をおきたくなるというものである。

 この「友だち地獄」という集団関係はどうにか解消できないものかと思う。集団の維持と孤立がすべての動物的ルールとなるような、人間の知性や知能、才能をすべて抹殺するような同調的集団を改善できないものかと思う。集団に属することだけがなによりもの人生の生存目標となるようでは、人間の成長も進歩も向上も見込めない、どころか、抹殺する方向にすすむだけだ。もし民主政治と平等主義がそのような窒息しそうな動物的社会をつくっているとするのなら、私たちはその思想的解体に手をつけなければならないのかもしれない。民主政治の理想とは、こんにちの教室の友だち地獄、いじめやひきこもりを生み出すようなら、その根本的病理にメスを入れなければならないのだろう。私たち人間は民主的・平等的につくられた生物学的存在ではないのかもしれない。

 友だち関係の維持は承認のありかたにもかかわってくる。私たちはだれかに承認されて自己評価を維持したり、あるいは自分の存在を認められる充足感を感じる。もしなにものからも承認されないと、自我の深い消沈を味わう。

ひきこもりの青年たちは、「優しい関係」に付随する自己欺瞞に耐えられず、純粋な自分を守ろうとして他人とのコミュニケーション回路を切断しているのかもしれない。しかしその結果、今度は他人からの承認という支えを失って、その純粋な自分の肯定感を維持しづらくなっているようにも見受けられる。

かつての青年たちが「私を見ないで」と叫んでいたとすれば、現在の青年たちは「私を見つめて」と叫んでいる。かつての青年の主要のテーマの一つは、親をはじめとする周囲の人間のまなざしからいかに逃げるかだった。自分が「見られているかもしれない」うっとうしさ、その「不満」からいかに解放されるだった。ところが近年は、自分が「見られていないかもしれない」ことによる寄る辺なさ、その「不安」のほうが強まっている。周囲のまなざしから解放されることによってではなく、むしろそれを心ゆくまで浴びることによって、自分の存在を確認したいという欲求のほうが強くなっている。

自殺した生徒たちを嘆き苦しみ、その短い人生を悼む周囲の人びとのすがたを目の当たりにして、ここに自己の究極の自己承認があると誤解してしまった側面もあるのではないだろうか。



 私たちは承認をやみくもに求めてしまう悲しい生き物である。いろんな蓼食う虫な承認を求めてしまうらしい。承認のためなら自殺してしまうことだってありうるし、人を殺してマスコミにマイナスの面での承認を得ようとするかたちすらある。多くの人は群れて仲間をつくり、しじゅうケータイで連絡をとりあって承認を得ようとする。それがいやになれば、関係を断ったりひきこもる。趣味やネットに承認を求めるばあいだってある。親や大人の承認をいやがって、仲間の承認だけを求めることもある。承認は私の満足や意気消沈をもたらす。ある意味、鎧や依って立つ地盤のようなものである。その承認が仲間内や属する狭い集団からしか得られないとするのなら、私たちの社会は退化して動物化しているといわざるをえないだろう。

 こんにちの集団の強迫維持関係は病理化していると見なしたほうがいいだろう。画一化・同一化の強制は集団が親密で一体化しやいものであったら、なおそらその圧力や同調力は強くなる。その友だちや仲間に承認されているという目印を得るために、私たちは多くの大切なものを失うのである。このような動物的な原則や規範は知性をもつ人間としてはふさわしくないものである。「空気に流される」とは動物的に生きることである。集団や友だちの維持と承認だけに生きる人生はあまりにも狭く、低く、不自由であると思うのである。もちろんこれと闘うことは動物的な攻撃や勢力とぶつかることを意味するのだが。


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Comment

社会生活と孤独。

人間関係のわずらわしさは、おそらく、どこにもあります。
うえしんさんが1年働いて1年間読書・思索・執筆活動をされていたので、私のこの意見には応じてくれると思います。

しかし国語の教科書の教えるように、
「孤独を求めながらも、絶対的孤独にはたえられない私がいる」
というジレンマがありますよね。
アマゾンで仕事をしている人がいるから、このブログで本を紹介できる。
食料品店で働く人がいるから、食事の材料を買うことができる。
パソコン工場で働く人がいるから(以下省略)
電力会社で働く人がいるから(以下略)

ただ、言えることは、比較的都会でないところでは孤独を求める、という人はいませんね。都市生活者には孤独を求める、という考え方があるように見受けられます。田舎から大都会に働きに出た人は生活するために来たのですが、案外匿名性の高い都会が住み心地が良かったのかもしれません。

実際、三大都市圏のひとつ、名古屋市の会社の寮にいた時は、社内の人間関係は別とすれば、たのしい私生活でしたよ。すぐ近くに中華料理屋がある、和食の食堂がある、薬局はある、本屋はある、ファーストフード店もある、何でもありました。人生初の隔週2日休みは楽しかったですね。

ただ、今は変わっているかもしれませんが、大学時代、女性のほうが、グループ単位での行動の「しばり」がきつかったように思います。

女性4人のグループでスタートして、いつの間にか1人がいじめられるようになって。残りの3人が団結して。一緒に行動しつつ、その子だけをいじめる、というのはありました。こういう時はそのグループからさよならすればいいのですが、決断ができない。いやな話です。書いていて気分が悪くなりそうです。
「大学まできて友達グループ内でいじめかよ?!そんなのアリかよ!?」
ですよね。

私なりの答えは「適度な孤独と適度な友人との交流」ですね。

黒田           謹言

黒田様、こんにちは。

この本での問題は、ますます集団の縛りがきつくなっているということですね。

「今は中学生はもちろん小学校高学年ごろから群れていないと不安で、そこにしか生きる世界がないんです。行動規範は仲のいい友だちグループだけで決まっちゃって、そこから弾き出されたら生きていけない」

 ひとりで行動したり、友達と違うことをしたり、グループから外れるということが、かなり難しくなっているようですね。集団の犬や鎖をつけられた状態になっています。そのグループが「全世界の基準」になってしまって、上や下、外にもいけなくなってしまっています。杭につながれた犬と表現したのは、ジャーナリストのウォルター・リップマンでしたが、この卑小な集団規範の縛りは私たちの社会をますます縛り付けていると思います。ものすごく問題と思いますよ。

私が哲学をはじめたのはこのような大衆社会論からです。小さな集団に縛られ、画一化してゆく小市民たちを激しく批判したのが、ニーチェやミルやキルケゴールらでした。集団から外れて息をすることができなくなってしまっています。J・S・ミルは『自由論』を書いて、そのような画一化してゆく小集団の危険性を鋭く批判しました。このような横並びの人たちは天才や好奇心やマニア的なものを抹殺してゆくと激しく批判しました。日本社会はそのような面の精緻な完成をますます強めていっているようですね。

この小さな集団に縛り付けられることの狭さ・卑小さは危機感を感じるべき問題だと思っています。ある小集団に承認されることだけをめざすと、趣味も感性も好奇心もすべてその小集団に受けいられる基準のみに狭められます。この小集団と違う好奇心や嗜好をもつことは、集団に受け入れられないことを意味します。天才や個性のある人はとうぜんこの基準に受け入れられませんね。小集団とは画一化・平均化の罰則・監視集団のようなもので、だから私はこの装置の危険性をかなり嫌います。

集団に受け入れられることは、かなり人間の幅を狭めることだと思います。ニーチェがいったように平均的に、ますます凡庸になってゆくということですね。

女性の場合は集団の縛りはもっときついと思います。トイレに行くのにも金魚の糞のようについていっていましたね。女性は集団に受け入れられることが、人間関係を円滑にこなすことの目印になっています。つまりひとりでいることは嫌われ者、人間関係をうまくやれないことの目印になりますね。だからどこまでもひとりでいてはならない。こういう関係が犠牲にするものはかなり大きいといわざるをえないと思います。

人とうまくやることだけが人生の主要目標になると、おそらく多くのものを失ってしまうと思います。人間関係ばかりに目を向けた人が、なんらかの業績や偉業をなしとげることはまずないでしょうね。これが主要目標になるのは転倒した人生だと思います。

友だちや仲間というものはよいものがある一面、平均を強要する監獄や監視装置になる一面があるということに目をしっかりと向けるべきだと私は思っています。それは人間の好奇心や感性やマニア的なものを抹殺する装置だと警戒すべきものだと私は思っています。

このような力学・論理とはなんなのか、改善できないものなのか、と追及することは私のこれからの課題でもあります。

はじめまして

 こんばんは。初めまして。3年も前の記事にコメントして申し訳ありませんが、何か交流できればと思いコメントいたします。

北海道の地方都市で平日はヘラヘラして過ごし、土日はインラインスケートという公園や広場の手すりなんかを滑り、地域住民から白い目で見られ、時おり叱責され、さらに極稀に賞賛の言葉をもらいながら生きている27歳男です。

 先ほど、酔いながら『友達地獄』を読み上げました。
 私は「南条さん」と同じ時代高校生活を送りましたが、クラスメイトと馴れ合いながらも、毎日の目的は体育系の部活で結果を残すことを目標に生活していたためか、友人間の微妙な空気を無視したり「くだらない」と思いながらも気に病むことなく生活できていました。
 むしろ部活を引退したあと、語り合う時間などができ、薄っぺらに感じていたクラスメイトがものすごいことを考えていると感動し、人間は素晴らしいとさえ思えるようになりました。

 その考えを持った勢いのまま大学に進むと、げんなりするような「優しい関係」と「馴れ合い」に出会いました。「黒田さん」がおっしゃっていたような雰囲気に近いものだと思います。しかしながら、高校時代に獲得した「人間への期待」は薄れることはなかったので、友人・良き先生にも会え、そこそこに満足できています。
 大学時代には、周りの関係に飽き飽きしながらも、もがいてスポーツを日々の生活の楽しみにするということを確立していけました。
 
 仕事中はヘラヘラし、金土は飲みに出かけるなどという日々を送っていますが、先輩方もモヤモヤしながら自己を確立できていないようにも見えます。そんなときこそ、自己を持ってる人は際立って見え会話も弾みます。
 土日はインラインスケートというマイナースポーツで仲間とケガをするという緊張感の中汗をかき、他の地方のスケーターと触れ合い、焼肉なんかをしながら、「今年は人を集められる催しをしよう」などと話し合ってるときに、幸せを感じられます。 その仲間たちとは、それほど馴れ合ったりするわけでもなく口を利かなかったり「むかつく」こともありますが、彼らが発している努力する姿を共有していることで「仲間」と呼べる存在になっています。 
 お互いの利益もほとんどない中、ケガをするリスクの大きいスポーツという性質上、危険はお互いに排除し、危険を冒さず努力を怠っているようなら煽りあいます。
 
 文章では伝えきれませんが、このような人間関係の社会環境だからこそ、自ら自律的に何か行動を起こす必然性があるという“チャンス”だと私は考えています。 

 私は『友だち地獄』は昨今のマスメディアに切り込み、メスを入れるかたちにはなっていて評価できますが、いかんせん一人の社会学者の個人的な価値観からの分析が目立ち、それほど面白くないように思います。 
 ある事象を社会学的に客観的に分析するということは、そもそも不可能でありますし、著者の偏った分析がほとんどのように感じます。それを難しい言葉を使いカモフラージュしてるかのようにも見えることが多いです。 
 
 この“社会”を分析することや・解決方法を探るというのは、学問ができる領域ではなく、実践し感じることにおいてのみ、少しながらの妥当性を帯びるものだと思います。 

 ますや
  

 

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