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06 17
2008

人生論

『ヘタな人生論より良寛の生きかた』 松本 市壽


ヘタな人生論より良寛の生きかた―不安や迷いを断ち切り、心穏やかに生きるヒント (河出文庫 ま 9-1)
ヘタな人生論より良寛の生きかた―不安や迷いを断ち切り、心穏やかに生きるヒント (河出文庫 ま 9-1)
松本 市壽

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 良寛というのは現代社会のヒエラルキーでいえば、いちばん最低で底辺の生き方をしたわけだが、そのような生き方に幸福や安らぎや自足を見い出したからこそ、人気があるのだと思う。いちばん最低と思われている人生にも幸福も安らぎもあるのだ、ぎゃくにそちらのほうにほんとうの幸福があるのだといわれれば、必死にカネやモノや地位を求めるわれわれにとっては、ずいぶん癒される存在になることだろう。いったらニンジンをぶら下げられてつっ走る現代人の人生を揶揄した生き方に評価が集まるのである。

 われわれは物心ついたころから学歴やら競争やら、カネやら消費やら出世やら権力を奪いとる生き方をセットインされて馬車馬のようにつっ走って生きるわけだが、そしてその生き方に疑問や懐疑も抱かず、ひたすら洗脳・教育された生き方と価値観しか知らずに墓場まで高速ジェットでつっ走るのである。背中のゼンマイを親や社会に回されて、そのまま墓場までまっしぐらである。良寛の無欲で無所有の生き方は、われわれの高速ジェット人生の強烈なアンチテーゼなのである。この人生はさしずめ山下清の人生をドラマ化した『裸の大将放浪記』に似ているといっていいかもしれない。

 といっても現代人が良寛のように乞食でホームレスで、組織に属さず、風流を愛すといっても、生きてゆけるだろうか。河川や公園にホームレスのテントがたくさん立ち並ぶが、かれらを称賛や憧憬の目で見たりすることができるだろうか。日雇い労働者の町で昼間から酒を呑んだり、道路の脇で寝ている人たちを見て、風流だ、すばらしい生き方だと評価したりできるだろうか。軽蔑や悲惨さのまなざしを向けるのがオチなのである。

 良寛となにが違うのだろうか。良寛は詩や書を書いた。それゆえに評価が今日まで残っているのだろうけど、もし良寛のような存在が前述のテント村や日雇い労働者の町に人知れず存在したとしても、われわれは正しく評価できるとは思えない。軽蔑することだろう。なにか良寛の評価や人気が絵に描いた餅に思えるのである。

 現代人は良寛のように生きられるだろうか。乞食で生計を立てて、書や詩をたしなむ。文学の評価というものがなければ、ただのホームレスである。決然と現代人の欲多き生き方はまちがっているから、良寛のように乞食に生きようといっても、現実的に生きられるものではない。良寛を好きな人も、評価する人も、たいがいはきちんと会社勤めをし、しっかりとサラリーをもらい、マイホームをもち、妻と子を食べさせ大学に行かせていたりするのである。なんかウソっぱち良寛評価であるが、世の中の現実とはこのようなものなのだろう。まあ、もちろん良寛から学ぶものはホームレスの実践ではなくて、心のもち方、欲のあり方なんだろうが。良寛好きな人でもまさか明日から財産を新興宗教に喜捨してホームレスとして生きるなんて人はいないだろう。私としては良寛を好きならそこまでやってほしいものであるが。ウソつき、欺瞞。

 もし現代の多くの人が良寛のように無所有で無欲で生きようと決意したらどのようになるだろうか。相田みつおのような詩を路上で売り、コンビニやゴミ箱の食べ物を漁り、公園や河川で寝泊りする人たちが大量に生まれたりするのだろうか。そんなことは絶対に現実にありえないところが、良寛人気の残念ながら、現実というものだろう。あくまでも良寛は理想や憧憬であって、現実の実践にはなりえない。

 日本人は西行や吉田兼好、鴨長明などの隠遁者や近くは種田山頭火や尾崎放哉に憧れてきたものである。無所有や無欲、放浪の生きかたに理想を見てきた。だけど現代はしっかりと、いや大昔からそうであったのだろうが、欲望と所有と権力をもとめる生き方をしてきたものである。そういうものを目指さないと生きてゆけない、生計が立てられない、恥ずかしいとなって、多くの人のように欲望全開の人生を全うするのである。しごく健全というものだろうか。

 良寛や隠遁者人気にはウソと欺瞞があるわけだが、それでも心のふるさとのように思えてしまうのである。いろんなものを削ぎ落とした中に人生のシンプルで力強い幸福があるという教えは、上昇中でも落下中でも私たちの心を癒してくれるからだろう。なにもないところの幸福と安らぎ。そのようなところに基本的な安らぎを見つけられるのは、ずいぶんと心強いものである。というか、こういうところに幸福やら安らぎを見つけないと、いつまでたってもわれわれの心が休まることはないのだろう。良寛と比べると、欲望のために走り回って心休まる暇のないわれわれはずいぶんと哀れな存在といわざるをえないというものである。

 現代人が欲まみれ、あるいはりっぱな人間や偉い人間になろうとするのは、他者から見捨てられることが怖いからである。他者から見下げられたり、無価値だと思われたり、無意味な存在だと思われたりするのが恐ろしいから、われわれはりっぱな人間や偉い人間になろうとする。つまり良寛のようになにもない、見下げられた存在であることに安心や幸福を見い出せないからである。つまりは「なにもない」「あるがまま」の状態に自足する、安心することができないのである。だからわれわれはこんなに価値があり、意味があり、りっぱで偉い人間であるとまわりに宣言=泣き叫びつづけなければならなくなったのである。

 良寛は強い心をもって、かんたんに欲望にひっぱられない生き方をすることによって、安心と幸福を手に入れたのである。多くの人は心が弱いからかんたんに欲望にひっぱられる。りっぱで偉い人間であると泣き叫びつづけることで人生を終える。無価値で無意味であることにとどまることができないのである。

 これは心の作用でもそうであるが、恐れや不安を抱くと人はそれを打ち消したり、否定したりしようとする。じつのところ心とは幽霊や映像のようなもので、実体あるものでも、現実にあるものでもない。それを否定しようとすると、幽霊が本当に存在するように思え、そして幽霊に抗い、逃げ続けてしまうことになってしまうのである。つまり幽霊とは自分を無価値とか無意味に思ったりする心のことである。良寛はこの心のカラクリを理解して、幽霊の恐怖に打ち克った稀有な人なんだろう。だから彼はりっぱな人間にも偉い人間にもならず、人から軽蔑されても、幸福や安心があることを知っていたのだろう。つまり心という幽霊の恐怖に追われることはなかったのだろう。このような心の恐怖に打ち克った人は良寛のような安心と幸福のシンプルな人生を送れるのだろう。


 あれっ、この本についての書評ができなかったが、まあ、良寛の詩が現代語訳で紹介されていて、ざっと読みやすい本である。ほかに多くある良寛書となにか違いがあるかといえば、たぶんよく見つからないかもしれない。


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良寛のみち跡 三条市
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