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01 27
2013

書評 性・恋愛・結婚

羞恥心は西欧近代以前になかったのか―『秘めごとの文化史』 ハンス・ペーター・デュル

4588099086秘めごとの文化史―文明化の過程の神話〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)
ハンス・ペーター デュル Hans Peter Duerr
法政大学出版局 2006-07

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 性はなぜ隠すと魅惑的になるのか、羞恥心とはなにかといった問いをもっていたので、このハンス・ペーター・デュルの『文明化の過程の神話』は興味をもっていたのだが、一冊6千円とか9千円もする大部の著作はとても読めないと思っていた。たまたま古本で8百円で見つけたのでゲット。ほかのシリーズ本はこの単価でないとまず読めないだろうね。

裸体とはじらいの文化史―文明化の過程の神話〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)性と暴力の文化史―文明化の過程の神話〈3〉 (叢書・ウニベルシタス)挑発する肉体―文明化の過程の神話〈4〉 (叢書・ウニベルシタス)“未開”からの反論―文明化の過程の神話〈5〉 (叢書・ウニベルシタス)


 あからさまな陰部にたいする羞恥心がえんえんと世界中、古今東西からの集められていて、エロ本以上のきわどい記述満載の本である。出産と医療の羞恥の歴史、未開民族の陰部にたいする羞恥などがこの巻では追求されてゆく。

 ただこの本の目的は進歩史観・西欧中心主義のノルベルト・エリアスの『文明化の過程』にたいする反論のために書かれた本だとは知らなかった。反論のためにこのような大部の著作をものにできるのかとちょっと驚き。

文明化の過程〈上〉ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)文明化の過程〈下〉社会の変遷/文明化の理論のための見取図 (叢書・ウニベルシタス)


 この本から推察するにエリアスは未開や古代の人は羞恥心というものがなく、人前でも裸や性に関して平気であって、文明化にともなって羞恥心や作法がめばえたという進歩史観をとなえていたようだ。その反論にデュルは未開民族や古代、中世の人たちの羞恥心というものをえぐりだしてゆく。

 まあ、よくある西欧がいちばん偉くて、未開や古代は劣っていて遅れていたという進歩史観や西欧中心主義にたいする反論である。この反論で五冊の大部を書いてしまうとは、エリアスはよっぽどうらまれていたのか、反感を買うものだったのかと思ってしまう。西欧がいちばん偉くて進んでいるのだという優越感は当の西欧人からも疑問や当惑がたくさんつきつけられるようになったのでしょうね。

 わたしの問いとしては、羞恥心はなぜあるのかといった原理的なことであって、進歩史観か歴史相対主義であるとかの対立はあまり関心を占めていない。ただ日本人も江戸時代までは裸や性にかんしてひじょうにおおらかな庶民道徳があったようなので、明治以降の西欧化にともなって裸や性が弾圧されていった歴史は承知のことだと思われるので、未開に組み込まれていた日本としては西欧の目線どおりに従ったことは、歴史の選択として日本人に合致していたのだろうか。

 裸でいる未開民族でも陰部を隠すことのルールはひじょうに厳格に存在していて、洋服で裸を隠さないから淫乱や解放されていたというよりか、性を隠すことのルールは陰部にのみ引き下げられていたと見なすべきようである。西欧人はその段差に性的羞恥心や禁欲が存在しないと見なして、みずからの文明性や進歩度を優越したのだろう。

 デュルは陰部を隠すこと、羞恥心をもつことは、性的魅力を特定のパートナーに限定すること、私物化するためのものだと考察している。性交準備OKの信号をある程度まで管理するということだ。全裸でいる民族でも女性が陰部を隠すこと、男性が陰部を見つめることは厳しく管理されていた。

 性関係の支配関係、所有関係が、性の羞恥心を生み出している、または社会的ルールとして羞恥心を植え込むのでしょうね。所有関係の網の中で、性的魅力の信号を制限して、特定の関係だけにひらかれるあいだがらをつくることは、集団で暮らす人間において追加的に必要となった規則なのでしょうね。

 羞恥心や感情というのは社会が人をコントロールするために植え込む制御装置のようなものだと思う。感情や情動のままにつき動かされることは社会の動物となることである。それを言語化・意識化することはその動物のオリを抜け出すことだと思う。だから羞恥心の源・理由を探り、言語化することは、社会の管理装置をコントロールすることだと思う。操られるか、操るか。知識とはそのために求められるのだと思う。


羞恥の歴史―人はなぜ性器を隠すかパンツが見える。―羞恥心の現代史 (朝日選書)スカートの下の劇場 (河出文庫)お産 女と男と―羞恥心の視点から (勁草 医療・福祉シリーズ)裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心 (新潮選書)

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01 22
2013

書評 社会学

比較とか他者の目から逃れよ?―『「上から目線」の構造』 榎本 博明

4532261392「上から目線」の構造 (日経プレミアシリーズ)
榎本 博明
日本経済新聞出版社 2011-10-12

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 なにをいいたかった本なのか。とちゅうから日本的自己論の話になっていって煙に巻かれて、最後には要点をつかめなかった。

 「上から目線」になる人は「上か下か」や「勝ち負け」のような人との比較にこだわるから、そこから抜け出して自分との比較に視点をうつす「理想的自己」をめざすようになれば、「上か下か」とか「見下される不安」を抱かなくなるといっているのか。

 「理想的自己」と「現実の自己」のギャップを癒すことがカウンセリングの目的だというカウンセリングの立役者のロジャースのような人もいるんだけどな。

 この本は上司の指導にも「上から目線ですね」と反発する若者や、フリーターのように職場を転々として「自分はこんなところにいる人間じゃない」とか「いまは仮の姿」という上から目線の若者はなぜ生まれるのかといった問いを立てている。

 そのような人は「上か下か」とか「勝ち負け」などの人との比較や序列だけで人を見ている。上から目線でアドバイスされると自分が「下」に感じられ、「見下される」不安をいだく。そんな「見下された」現実の自分を見るのがいやで、上から目線に反発を感じたり、みずから虚勢を張って「上から目線」にならないと自信のなさを露呈してしまうヒミツが暴かれている。

 でもね、その上から目線な人の虚勢が暴かれたとしても、横暴で尊大な人の対処法って導かれるのでしょうかね。上からや優位から見下しつづける人の内面の秘密を知ったところで、その人の行動が変わるわけでもない。こういう理論的な本は、ハウ・トゥや自己啓発のような対処法がわからないから、理論を知る意味ってなんだろうと思ったりするね。

 この本はとちゅうから上から目線の話からはずれて、ずっと「空気読み社会」とか「他人の目線に敏感な日本人」といった日本的自己論になってゆく。上から目線の話がどうしてそういう話になるのかと思っていたが、「他人の目に映ったものが自己である」というクーリーの「鏡像自己」や、他者のかかわりのなかでしか自分を出せない日本的自己といったものから、比較や序列に過剰に敏感になる「上から目線」の若者が生まれるのだといっているのか。日本の宿痾だといいたいのか。

 比較や序列を気にしない方法は、仏教や隠遁者が「脱俗」や「脱世間」といった方法で追求していないわけでもない。仏教は世間から「落ちこぼれること」により、最底辺に下落することにより、世間の序列から抜け出すという方法を教えさとしてきた。こういう方法をつかめといっているのだろうか。

 ショーペンハウアーは他者に評価される空しいあがきに蝕まれるより、認められようとする認知欲をできるかぎり引き下げろといっているし、キリスト教のトマス・ア・ケンピスは人にどうこういわれることが気になるのだったら、神の評価だけを気にしろといっている。まあね、人との比較や序列から抜け出す方策はいろいろと考えられてきたわけだ。

 榎本博明という人はいぜんに「自己とは物語である」「自己とはフィクションである」といったいい本を出していた(『私の心理学的探求』 有斐閣)。わたしはそれによってグルジェフの「自我は空想の産物」というメッセージの意味がよく理解できるようになったのだが、自己が物語ならいくらでも書き替えが可能であり、変えることも可能だということができると思う。

 性格や人格というのはしぜんに形成されるものというより、考え方や自己の物語によって演技づけられた、方向づけられたものだということができるのではないか。それなら自己は固定したものではなく、考えや物語を変えれば自己は変えられるということではないのか。「フィクション」だものね。

 上から目線の人は他者からの評価だけが自分になってしまっているという日本的自己から端を発しているというのが著者の問題意識なのだろうか。そういう日本的自己から抜け出そうというのが本書のメッセージなのだろうか。

 こういう「物語」は書き替えたいね。その前に自己が捉われている「日本的自己」の物語の意識化・言語化というものが必要で、でもその無意識の自覚化がむづかしいんだね。


「上から目線」の扱い方 (アスコムBOOKS)「上から目線」の時代 (講談社現代新書)敬語で解く日本の平等・不平等 (講談社現代新書)「私」の心理学的探求―物語としての自己の視点から (有斐閣選書)グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門

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01 19
2013

レイライン・死と再生

敵は全面的に悪だという「怪獣ごっこ」だね―『一神教の闇』 安田 喜憲

4480063315一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
安田 喜憲
筑摩書房 2006-11

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 なんだかなあ。一神教が全面的な悪で、アニミズムが全面的な善のような単純な切りとり方には、あきれるほどの稚拙さを感じたな。自文化中心主義の欠点ももろに出ているし。まるで「スター・ウォーズ」や子どもの怪獣番組みたいな単純な善悪二元論の世界をこれでもかも見せつけられた気分。

 一神教が「力と闘争の文明」で、アニミズムが「美と慈悲の文明」。あまりにも単純化しすぎだろ。

 環境破壊の時代には生命や自然を尊び、慈しむアニミズムの世界観を復権せよというメッセージはしごくまっとうなことだと思う。だけど一神教が破壊や殺戮だけをもたらすような単純な切りとり方はできないと思う。

 スケールの大きい文明論には単純化や要素を切りとる簡素化は必要だと思うのだけど、例外や相違点をあまりにも切り去りすぎていると思う。こんな単純な二元論は首肯できない。

 この単純な二元論がなければ、環境考古学という学問は学ぶことが大きいだろうし、参考になることも多いだろう。基本ラインはもっともなことをいっているのだと思う。だけど敵は全面的な悪だという「怪獣ごっこ」を前面に見せつけられたら、この本全体の信頼性もうしなう。

 わたしは古代宗教やアニミズムの世界になぜかひきつけられているのだが、この世界が善だとか、信仰しているという意味でしらべているのではない。ただ単純にこの世界観のことを知りたい、謎を解いてゆく過程で論理がきちっとパズルのように解ける楽しさを味わっているだけだ。

 この世界観を復権せよとか、もう一度信仰せよという主張ももっていない。世界観のロマンを味わっているだけである。ある意味、聖なるものとか崇高なものがなくなった現代合理世界で、そのような価値の高低のある世界をどこか憧憬しているのかもしれない。

 わたしの問いとして豊穣と多淫の世界観がどうして禁欲的で抑制的に変わったのかという疑問をもつにいたった。その変節の答えとして、安田喜憲のいくつかの著作にヒントがありそうな気がした。『蛇と十字架』や『大地母神の時代』などの著作にわたしの問いに近いものを得られるかもしれないと見当をつけた。

 それでこの本を読んでみたのだが、このイデオロギーにはあまりうなづけるものを見つけられなかった。でも前記の著作はいちおう当ってみる気だけど。

 この安田喜憲の主張は宮崎駿の「もののけ姫」のアニミズム世界に近いものかもしれない。しかし敵は全面的に悪という主張はまったくうけいれることができない。まるで小学生のような悪は問答無用で徹底的につぶしてもよいという独善的世界である。これは一神教のように「おぞましい」世界ではないのか。


龍の文明・太陽の文明 (PHP新書)縄文文明の発見―驚異の三内丸山遺跡森を守る文明・支配する文明 (PHP新書)文明の環境史観 (中公叢書)気候変動の文明史    NTT出版ライブラリーレゾナント006

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01 15
2013

レイライン・死と再生

神が身近にいたひと昔前の暮らし―『日本人の神さま』 戸井田 道三

4480031529日本人の神さま (ちくま文庫)
戸井田 道三
筑摩書房 1996-02

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 現代の多くの人はもう神なんて信じられなくなっているのではないかと思う。でも神が身近にいた生活や習慣はまったく滅び去ったわけでもなく、ところどころに顔を出す。そういった世界観の根を掘ってみたいと思ったら、この本のような身近な神を語った世界をのぞいてみるのもいいかもしれないね。

 昭和のはじめ、著者はおばあさんから「お客さんがきたから肩がこってしかたがねえ」というような話を聞く。「どこから来たお客さんかね。東京からか」と聞くと、笑って「オショロさまだよ」と答えたという。オショロさまというのは、お盆のときに帰ってくる先祖の霊である。神は身近に存在する世界がすこしまえまであったのである。

 この本ではそのような暮らしや生活の身近にいた神のあり方をつたえる本になっている。神は身のまわりにどのようにあったのかと知るにはいい本かもね。

 「火と神」、「水と神」、「土と神」、「小さ子神」といった章立てで身近な神が探られている。

 神がやってくるとき、人は倹約と質素をむねとしていても、そのときだけ盛大な浪費をおこなう。神さまのためならこれほど思いきりぜいたくをしていると、神さまを歓待する気持ちをあらわした。

 旅の客人もむかし思いきり豪勢にもてなしたのも、もしかして神のマレビトであるかもしれないから邪険にあつかってはならないという思いがあったのだろう。神は豊作をもたらしてくれる存在で、まちがってぞんざいに扱えばどんな災厄をこうむるかもしれないもので、それは結果的に客人のていないなあつかいに結びついた。

 沖縄では結婚が決まると妻となる女性が山に逃げ込んで、夫となる男が探しにいかなければならない習俗があった。女性はすべて巫女、神の嫁であって、特別な日に訪れてくる神を歓待しなければならない役割があった。人間と結婚するいいわけを山に女性が逃げこむことによって、神に申し訳していたのである。こういうのは神が「実在」していると思わないととてもおこなうことも、理解することもできない行動だね。

 むかし体の弱い子や、できの悪い子を捨てて、申し合わせていた知人に拾ってもらう習俗があったそうである。神の子として認めてもらい、神の力で育つようにという親の願望だったそうだ。こういう捨て子の習俗は、神という媒介をへないとまったく理解できないので、神を信じない現代人はこの習俗を誤って認識する恐れがあるね。

 『聖書』には「一粒の麦もし死なずば一粒にてありなん」という言葉がある。一粒の麦はそれ自身死んで、やがて芽を出して成長して、無数の麦になる。もし一粒の麦が死なないといつまでも一粒でしかない。鬼子母神や神には凶悪で残忍な面があるのは、死と生の両面の矛盾した面をもっているからだとされる。

 スサノオがヤマタノオロチを退治して、クシナダヒメと結婚した神話は、三輪山伝説のようにヘビの化身である美青年が通って妊娠する話とおなじではなかったのかと著者はいう。ヘビやオロチと交わる昔話的思考を不都合と考えて合理化したものがこのような話になったのではないかと。退治して結婚するは、もとは性交の話だったと考えるべきなのか。水神の結婚の話だそうだ。

 太陽がもっとも弱まる冬至のころ、火をたいて景気をつける祭りがある。火をたくことによって太陽を元気づけるという考えによるものか。夏の日照りのときにも火をたいた。逆療法で、かんかん照りに火をたくと熱すぎるから、雨をふらせるだろうという算段かもしれない。

 夏祭りの原型というのは、カネや太鼓で大騒ぎし、疫病を町の外に追い出すためにおこなわれたことからはじまったのではないかという。

 荒神さまや水神さま、氏神といった身近な神には名がないことが多い。名を知られることは服従することであり、神の名をよぶことは失礼にあたることだった。むかし女の人の名を知ることは夫婦になることだった。『千と千尋』の映画では名が知られることがひとつのテーマとなっていたね。

 祭りは一年の一回おこなわれるが、毎年くりかえされる。神の物語はそのたびごとに現在として、いまを生きる。

 多くの人が自分の出生に疑いをもち、拾われた子だと思い込んだ経験がある理由を著者は探ってみせる。幼少期の神のような親がふつうの人間に見えてしまうとき、全能感の消滅を防ぐためにこの親の実の子ではなく、もっと高貴な親の子であると思って現実を帳消しにする心理がなせるものだと解釈してみせる。なるほどですね。

 さいごの「むすび」がなかなか名文なのだが、あなたはこの本を読んですでに出された答えをおぼえてクイズに強くなろうとしているのでしょうかと問う。この本から疑問を深めてゆく方法をおぼえてくれるなら、うれしく思うと結んでいる。ぴりっとした皮肉と知識のよい向き合い方を示唆しているね。答えだけを知って満足するような読み方はしてほしくないだろうね。


狂言―落魄した神々の変貌 (平凡社ライブラリー (226))忘れの構造 (ちくま文庫)日本の神々 (岩波新書)神、人を喰う―人身御供の民俗学日本の神々の事典―神道祭祀と八百万の神々 (New sight mook―Books esoterica)

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01 12
2013

レイライン・死と再生

オリエントから見える日本の宗教・習俗―『輪廻の話』 井本 英一

978-4-588-35210-2.jpg輪廻の話―オリエント民俗誌
井本 英一
法政大学出版局 1989-01

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 井本英一はペルシアやイラン、オリエントの宗教や民俗の比較から、日本の宗教民俗をうきぼりにした人である。中国からの比較では距離が近すぎて見えないものも、オリエントの比較から見えてくるものがたくさんある。どうも原始宗教は世界的に共通した世界観が共有されていたようだ。

 この本は雑誌や新聞に発表されたものを集めたエッセイになっているが、井本英一がこだわったのは「死と再生」の世界観であり、季節行事にそれがどのようにあらわれているかということだと思う。わたしもなぜか「死と再生」の世界観にひかれるのだが、世界観の根本を規定しているからだろうか。レイラインからはじまったわたしの興味はまだ満足させられない。

 この本が出たのは1989年であり、それ以前はシルクロードとか世界の火薬庫とよばれた中近東が世界史的にひじょうに注目されていた時代だった。このころどうしてオリエントが注目されて、いまはいぜんのように関心を集めなくなったのだろう。西洋化にともなって日本が中国からだけではなく、オリエントからも文化伝播をうけていたという劣等感の解消が一役買っていたのだろうか。

 いぜん井本英一の『飛鳥とペルシア』を読んだことがあり、死と再生の世界観にひじょうに学ぶものがあったと思うが、この本の考察はすこしそこまでには達していなかったように感じた。むかしの人は季節をどう定位したかのようなテーマであるようだが、このテーマは死と再生の世界観自体を深くえぐらないからだろうか。

 いくつかの考察を抜き出してみる。

 釈尊の誕生日は四月八日であり、この日はきわめて重要な節目だったようだ。前年の七月七日に年一回の男女の交会があり、そのときに受胎すれば翌年四月八日に出産するしくみになっていた。七夕は釈尊の誕生日四月八日につながっていたのですね。

 ゾロアスター教の死者の一周忌ではメロンや西瓜がふたつに切られる。死者の魂が再生して生まれるようにという呪術だそうだ。かぼちゃのようなウリ科の果実も冬至にイランで食べられるそうだ。日本でも冬至の夜にかぼちゃを食べたり、ゆず湯に入ることの共通性がみられる。冬至の御子誕生の呪術であった。「シンデレラ」にはかぼちゃの馬車が出てくるし、「灰かぶり」の灰は植物の成長を早めるといわれる。原始宗教の意味が「シンデレラ」にこめられているのかもしれませんね。

 中国には三会日というものがあって、一月七日と七月七日と十月五日であった。これらの三つの日に男女は交会するとされた。七月に受胎すると四月に生まれる。三月の春分の日には十二月の冬至か、一月六日に誕生する。一月の交会の結果は十月に生まれることになった。十月の交会は七月七日だ。

 羽衣伝説で、男があの世の妻のもとからこの世によみがえるのは冬至の日とされている。かぼちゃ粥や赤豆粥を食べる話から示唆されるという。この日は最終的な穀霊の死の日であり、太陽の増大と再生の準備に入る日であった。かぼちゃを食べたり、赤豆粥のような赤い汁を食べるのは、赤い血や中空の子宮を表象する再生儀礼であったと考えられるという。

 ミトラス教では、ミトラスは「岩から生まれた神」として、岩と洞穴のシンボルをともなっている。ミトラスの誕生は冬至の日とされ、キリスト教のクリスマスにうけつがれた。おおくの論考が証明する事実である。

 冬至から春分にいたるさまざまな「冬の祭り」に節目に、聖徳太子一族の忌日が配されている。

 死の三日あとに再生する思想が西アジアにあった。ゾロアスター教では、死者の魂は三日間、枕辺にあり、そのあとで他界で再生する。キリストの復活も死後三日である。

 毎年あたらしい年になると縁起のよい方角も変わり、人々はその方角にある社寺にお参りする風習がある。西北の乾(いぬい)と東南の巽(たつみ)の軸が古来アジアでは神聖視された。西北の方角には異界・あの世が開かれていて、祖霊が往来すると考えられていた。大阪では「巽」という地名があるが、どの方角からなのだろう。

 廟や寺社と人間の住む俗界の境目に賽銭というものが存在し、お金を奉納する。聖と俗のあいだの交換儀礼という人間の古い習俗で、神様と交換するだけではなく、寺社に市を立てて人間どうしも交換した。経済というのは神との交換がまずはじめにあったのではないだろうか。

 ヨーロッパでも、多くの地域でもそうだが、聖地の岩の裂け目や巨樹の樹皮の裂け目に銭がさしこまれる。聖地というのはこの世とあの世の境目であり、人々は銭と交換に福を求めるのである。お金には災厄やケガレをなすりつけるという話を聞いたことがあるが。自然の裂け目=大地の女陰、子宮に神と通じる場所があるのである。

 イスラム教徒は余裕のある者はたえず貧者に施している。貧者に施すというよりか、神に財を収めるといったほうがよい。うけとる側は、人間から恵まれたと考えないで、天からさずかったと考える。神を介在させる施しは個人的恩や好悪をこえた関係をもたらすようですね。

 以上、オリエントから日本の季節行事や習俗の意味が立ち上がってくるという解明がこの本でおこなわれている。

 現代のわたしたちは神や季節行事の意味をもう見失ってしまっている。なぜそんなことをおこなうのかも意味も知らずに季節行事や宗教儀礼をおこなっていたりする。謎として意味を解明することはけっこうおもしろいことではないだろうか。神はもうまったく信じられないとしても、季節にこめた祈りの意味は、わたしたちに納得の気持ちをいくぶんなりとももたらすのではないか。


▼井本英一の本
神話と民俗のかたち穢れと聖性聖なる伝承をめぐって夢の神話学十二支動物の話 子丑寅卯辰巳篇

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01 09
2013

書評 社会学

スクールカーストの物語?―『桐島、部活やめるってよ』 朝井 リョウ

4087468178桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)
朝井 リョウ
集英社 2012-04-20

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 スクールカーストをとりあつかった映画ということで、映画で見たかったのだけど、機会を見つけられなかったので原作で読む。

 たしかにスクールカーストの記述はある。でも自分はあまり小説のすぐれた読み手でないので、この小説に描かれている物語がどうスクールカーストに結びつくのはわからなかった。物語やエピソードはスクールカーストとどうつながるの、わかんないという感想。映画見たほうがしっくりわかるかな。

 作中で登場人物の独白がスクールカーストとはどのようなものかという言及をおこなっている。そこからどのように語られているか抜き書きしてみよう。

 ある女子はトップグループというのは、ぱっと見て一瞬でわかってしまうといっている。制服の着方から持ち物、字のかたち歩き方やらしゃべり方までぜんぶ違う気がするという。ほかの階層の男子がやってもぜんぜん似合わない。

 映画部の男子がいちばんスクールカーストに敏感な独白をおこなっている。トップグループの男子たちは制服をどう着こなせばあんなにカッコよく見えるんだろう、自分たちが着るとどうしてこんなに情けなくなるんだろう。

 生徒のランクは全員一致するそう。目立つ人、目立たない人。運動部か、文化部。上か下か。目立つ人は目立つ人と仲良くなり、目立たない人は目立たない人と仲良くなる。目立つ人は制服もカッコよく着られるし、髪の毛にこってもいいし、大きな声でしゃべっても笑ってもいい。目立たない人はぜんぶだめだ。

 自分はだれより上で、だれより下っていうのは、クラスに入った瞬間なぜだかわかってしまう。

 体育でチームメイトに迷惑をかけたとき、自分は世界でいちばん悪いことをしたと感じる。体育でチームメイトに落胆されたとき、自分は世界でいちばんみっともない存在だと感じる。体育というのは小学校でも上と下を寸断するよくわかる目印でしたね。

 ある女子にとってグループは世界だという独白がされる。クラスで三つの班をつくれと教師にいわれると、一瞬で空気がはりつめ、全女子は頭をフル回転させる。自分たちのグループの人数のほかにあまった人をどうひっぱってくるか。

 目立つグループに入れば目立つ男子と仲良くなれるし、さまざまな場面でみじめな思いをしなくてすむ。どこのグループに属しているかで立ち位置が決まる。

 ある女子は、ダサいかダサくないかでとりあえず人をふるいにかけて、ランク付けして、目立ったモン勝ちで、そういうふうにしか考えられないんだろうと彼氏に思われている。だけど自分もそうだろうと彼も思う。

 まあ、こんなところでしょう。スクールカーストや人の序列というのはだれもが知っておりながら、あまり言語化されたり、知識が共有されてこなかったものだと思う。物語に書かれたり、ネットで「スクールカースト」という言葉が生まれたり、研究書が出たりと、知識の蓄積はこれからどんどんおこなわれてゆくだろう。

 この階層はのりこえられ、根絶させられるべきなのだろうか。それとも人の自然な状態としてそこで生きてゆくしかないものなのか。わたしたちは階層や序列というものを客観視して、言語化して、個人や集団がコントロールできるものとして飼いならすことができるようになるだろうか。


桐島、部活やめるってよ(DVD2枚組)少女は卒業しない教室内(スクール)カースト (光文社新書)女の子って、どうして傷つけあうの?―娘を守るために親ができること子ども社会の心理学―親友・悪友・いじめっ子

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01 06
2013

レイライン・死と再生

雌岡山・雄岡山はなぜ男と女にかたどられたのだろう

 神戸市西区には雄岡山(おっこうさん)と雌岡山(めっこうさん)という男と女がかたどられた山がある。そして雌岡山には性器信仰の神体がのこった裸石・姫石神社がある。


 この山はどうして男と女がかたどられたのだろう。

 大地に性を見て、大地の神が交合することによって太陽や収穫の豊穣がもたらされると考えたのが古代人である。この男女をかたどられた山にはどのような神話があるのだろう。 

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こちらが男の雄岡山。三角錐のきれいな山容をしている。

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 こちらは女の雌岡山。ふもとの池は金棒池とよばれ、民話によると金棒で高さ比べをしているところ、「雄岡山の棒」が折れてふたつの山のあいだにささり、そこが池になったという話がある。

 金棒というのはもちろんファロスですね。交接的な暗喩として語られた民話であると思うのだが、恵みや生命をもたらす池や水がそれによってもたらされたといえますね。雨乞いに近いかたちなのだろうか。

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 雌岡山の山頂をすこし下ったところにある裸石神社の性器をかたどった神体。貝殻が敷きつめられている。神殿の裏にまわると隠されたようにガラスの向こうの部屋に納められている。山頂の神出神社はふつうの神殿の神社。

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 こちらは姫石神社の女陰をかたどった磐座といわれているが、まったくなんのかたちをしているのかわからなかった。


 雄岡山と雌岡山の由来によると、夫婦の神であったが、男神の雄岡が小豆島の美人神に惚れて、妻に止められるのも聞かずに鹿に乗って会いにいったという。とちゅう、淡路の漁師に弓で撃たれ、鹿とともに海に沈んでしまった。鹿はたちまち赤い石になり、それが明石という地名の由来になったという。

 これはなにを意味しているのだろうと周囲のレイラインを探ってみたが、どうも雌岡山からの冬至の日没に小豆島の南端が当るくらいである。これは小豆島の南端からは太陽の最盛期である夏至の日の出がこのふたつの山から現われ出ることを意味する。

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 鹿が赤い石になったというのは、日没の夕陽をさしているのだろうか。明石は雌岡山の南北線に位置するくらいである。小豆島に沈むのならわかるのだが、南北線の明石にしずんだのはどうしてだろう。なぜ淡路の漁師なんだろうか。明石は日本の子午線、日本の時間の基準になっている。

 なんだか航海の山アテとしての雌岡山の位置をあらわしているのだろうか。

 太陽の新生・再生を願うのなら冬至の日の出の光線が重要である。だが日没である。このふたつの山が夫婦となって再生や新生をつかさどる神であらなければならなかった理由はなんなのだろう。この山はなにかを生み出すために夫婦であるとされたのだ。

 淡路島は国生み神話でさいしょに生み出された島である。雌岡山の神出神社にはスサノオの命・クシナダ姫、子供のオオナムチが祭られている。淡路島を生んだ神がこの二山に宿ったということなのだろうか。それで男女の夫婦であらなければならなかったのか。でも男は小豆島に浮気にいっているのだが。

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 雄岡山からは明石大橋と淡路島が見える。

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 雌岡山と雄岡山は東西に結ばれていて、それぞれの山から春分・秋分の日の出がのぼり、日没の日が沈むのが見える。つまり太陽が生まれ、死ぬ場所である。それだけでも夫婦のゆえんであるのは十分なのだろうか。

 まあ、たんじゅんな答えとしては、さいしょの国土の国生みとして淡路島が生まれたと日本神話ではされているが、その淡路島を生んだのがこの雌岡山、雄岡山というあたりが妥当だろうか。するとこのふたつの山に擬せられているのは、イザナギ、イザナミということになるだろうか。雌岡山に祭られているのは子のスサノオだからすこしずれているが、淡路島の国生み神話にこの夫婦山は役割をはたした山として刻まれていると考えられようか。

 山や大地には男女があり、実りや豊穣をもたらすと考えていたのが古来の日本人である。こんにちの隠蔽的な性道徳とちがって、性はこの世の実りや豊穣をもたらす神聖なるものであったのである。


4061597698神と自然の景観論 信仰環境を読む (講談社学術文庫)
野本 寛一
講談社 2006-07-11

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01 05
2013

レイライン・死と再生

性の解放はおこなわれたのか―『盆踊り』 下川 耿史

4861823382盆踊り 乱交の民俗学
下川 耿史
作品社 2011-08-19

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 盆踊りには乱交や性的アナーキーがつきものだったのか。歌垣といわれるものはお見合いパーティというなまやさしいものではなくて、ただの乱交パーティだったのか。そういうことを確認したくてこの本を読む。

 わたしとしてはこの著者の姿勢は感服しなかった。むかしの性を民俗学者のように農耕儀礼や祖霊信仰で説明してしまうのではなくて、性それ自体の問題としてとらえるべきだといっている。でもそれでは乱交や性的アナーキーがおこなわれた、許容された理由がまったく見あたらなくなると思うのだが、著者にとってはそのような抽象的な説明はシュールレアリズムのようだというのである。

 夜明けまで歌垣の契りをつづけていたために松に変わってしまった話をただ全裸で寝過ごした恥だと著者は解釈するのだが、わたしには「神の時間」から「人の時間」まで超過してしまったという解釈のほうがふさわしいと思うのだが、著者にはそういう解釈は是が非でもはねつけたいらしい。わたしは神や農耕儀礼の解釈をふくめないとむかしの性的観念はまったく理解できないと思うのだが。まずは著者との根本姿勢があいいれない本だった。

 ただの性的快楽や解放のために古来日本の性的アナーキーはおこなわれてきたのだろうか。それはやっぱり神や豊穣祈願の世界観を入れないと説明できないものではないのか。著者は庶民にはそのような高尚な理論は必要なくてただの性の渇望だけでなりたっていた世界はよいという観念があるのかもしれないが、それだけなら所有権や子どもの生育の問題をすりぬけて社会に許容されるとは思わない。

 この本は歌垣や夜這い、雑魚寝の項あたりまではわたしの知りたいことと合致したが、盆踊りが念仏踊りとか風流(ふりゅう)とよばれた人を驚かすような踊りとどう結びついてきたか、どう分けられるべきかという問いにはほんど興をそそられなかった。

 歌垣というのは性的放縦がおこなわれたのは事実のようですね。『万葉集』巻九につぎのような句がのせられていますね。

「鷲の住む筑波山の女陰を思わせる水辺で行われた嬥歌に、乙女や男たちが誘い合って参加した。私も人妻に交わろう、他の人もわが妻を誘ってほしい。この山を支配する神もいさめぬ行事であり、今日だけは見苦しいといって咎め立てしないでほしい」



 宮中でも踏歌というものがおこなわれたのだが、聖なる宮中儀式であったかというと、たびたび混浴禁止令や夜祭の歌舞も禁制されたようにそう上品なものではなかったようだ。

「市の立つ間は夜ごとに、男女が知る、知らずを問わず、行合ては即交接する。処女はもとより人の妻といへども交接するに、その夫たる者これを咎むることなし。そはその夫たる者もまた他の婦人と交はるが故なり」 『太宰管内志』



 雑魚寝といえば同性同士で寝ることが思い浮かぶのだが、むかしは男女入り乱れての行為をさしていたようで、江戸時代には西鶴のベストセラーで大原といえば雑魚寝と全国にひびきわたっていたそうだ。

 意外に思えたのだが、聖徳太子の御廟の叡福寺でも「一夜ぼぼ」というものがあり、それを宮本常一が『忘れられた日本人』でしるしていたという。現代のしずかな風景からは信じられないですね。

 お田植祭りといえば男女の交接が演じられたり、伝統芸能といわれるものでも夫婦和合の情景をうつしとったものも多い。性は豊穣や恵みをもたらすものであり、そういう面から見れば、こんにちの性的羞恥のほうが恵みも収穫もいらないのかとなるだろうね。

 明治になると混浴禁止令は八十回も出され、愛をかたどった道祖神や俗信はしりぞけられ、性的な放縦をふくむ盆踊りも禁止されるようになった。村とのいさかいもあり、巡査が殴殺されることもあったようだ。

 しかし盆踊りや若者組といったものは衰退していった。著者は明治42年からの国産レコードの登場や大正14年からのラジオ放送に、その衰退のひとつの理由をもとめているけど、マス・メディアの登場はそれだけ町の人たちの魅力を落としたのだろうね。町中で踊ることがカッコよくて魅力的であったような時代は、マス・メディアの登場によってすっかり駆逐されたのだろうね。西洋文化のカッコよさが土着的な日本の風俗はカッコ悪いと思わせたのも駆逐のひとつの要因だろうね。

 性観念の変遷は豊穣と恵みをもたらす善としての性から、隠すもの・私秘化するべき悪としての性に零落していったわけだけど、こんにちの世界観・常識ではむかしの善悪は測ることはできないね。

 なおこの本を出している作品社は「異端と逸脱の文化史」というシリーズでエロと性の文化史をたくさん出している出版社ですね。みなさんは評価しますか。


盆踊りの話徳島の盆踊り―モラエスの日本随想記 (講談社学術文庫)豪奢と流行 風流と盆踊り (大系 日本歴史と芸能―音と映像と文字による)歌垣―恋歌の奇祭をたずねて― (新典社新書27)雑魚寝

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01 01
2013

集団の序列争いと権力闘争

はじめて「スクール・カースト」の名を冠した研究書ですね―『教室内(スクール)カースト』 鈴木 翔

4334037194教室内(スクール)カースト (光文社新書)
鈴木 翔
光文社 2012-12-14

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 ネットではふつうに語られる「スクール・カースト」という言葉だけど、研究書としてはまだ出されていなかったので、はじめてその名を冠した本を読んでみた。

 「ブラック企業」でもそうだったけど、従来のマスコミだけでは掬えない言葉や事象がネットから生まれたことはネットの力を感じさせるね。

 この本はアンケートやインタビューの集計結果の発表のようなかたちになっている。深い考察や問題意識をえぐられるような指摘が乏しく感じられたのはそのせいだろうか。

 まあ、でも言葉にされるだけでも、うわさをされたり、ほのかに認識されていたけど、明確でないスクール・カーストというものがだいぶ姿を現したのではないかと思う。

 スクール・カーストの解明はいじめ解決の直接的アプローチではないが、その土壌から生まれてくるものであるから、学校内階層を解明することはいじめの解決に向けてのステップになるとはなるほど。

 わたしはこのようなスクール・カーストは人間の本性のようなものだから変えられないものだと思っていたが、なんとなく下に思われていたり、引け目や気後れを感じたり、のびのび自由にふるまえない空間を変えるべきだ、根絶するべきだと思っているのは意外に思えた。そのような人間関係などありうるのだろうかと思ってしまうのだが。

 でもこういう学校空間が自己主張や自己表現がヘタで、引っ込み思案の人間を多くつくりだしているとするのなら、教育問題としてこの教室内のスクール・カーストを早く改善すべきではないのか。スクール・カーストは学習や発表の阻害や障害をつくりだす原因そのものではないのか。

 存在を認識されながらもなかなか言語化されなかったり、研究や改善の対象にならなかったスクール・カーストというものは、おそらくだれもがその中の一プレイヤーや駒にすぎなかったからだろう。その人間関係の荒波の中で、権力のオリの中を泳ぎながら、人はこの日々を渡ってゆかなければならない。この知識の有無はその勝敗すら決したかもしれない。秘密や個人機密、秘法のような性質ももっていたのかもしれない。

 スクール・カーストの上位というのは固定して教室で騒ぐ権利を与えられているようなもので、これは「場の運営権」や「場の発言権」に近いものではないかと思った。場所の雰囲気やムードを決定する裁量権を上位グループはもつのである。いわゆる「空気」というやつですね。下位のグループにはおとなしくて、そういう権利が与えられない。

「「下」には、騒ぐとか、楽しくする権利が与えられていないので、「下」のくせに廊下で笑ったりはしてはいけないんです。「ちっ、邪魔だよ。あいつわかってねぇな、不快だ」ってなります。「上」のやつが廊下で騒いでいる分には、「あ、楽しそうに騒いでいらっしゃいますね」みたいな…。「下」にはそういった異議を言う権利は与えられていないので。それ言っちゃたら治安がなくなってしまうし、クラスのポジションが大変なことになっちゃうんですよ」



 スクール・カーストの下位者には騒ぐとか楽しむ、発言するという権利さえ奪われのである。下位のグループがいかに窮屈で、自由を奪われたポジションに甘んじなければらないか。

 だけどカースト上位者も場の雰囲気やムードを決定し、生み出す義務や責務も与えられていて、みんな黙っているときに冗談をいったり、よどんだ空気を一掃したり、教師に冗談をいう手合いも求められる。それで疲れた上位者は学校をやめた生徒もいたということだ。上位者もなにがしかに拘束されるのである。

 スクール・カーストは個人がきょうから急にキャラを変えたからといって順位が変わるわけではなくて、かなり固定的なようなものらしい。

 クラスの上位たちが仲良く結束しすぎると不明瞭だった階層も固定化されて、統一されて支配される勢力に強くさらされることになるから、クラスの結束はある程度ゆるいほうがよかったという生徒もいる。一枚岩の空気はコワいでしょうね。

 生徒たちはこのスクールカーストを「権力」だと捉えていたが、教師たちはどう捉えていたかというと、それを生徒の「能力」の差だと捉えていたらしい。生徒の中には教師は上位グループの権力にすり寄って、かれらから権力を分けてもらうのだと見えていたようだ。まあ、わたしたちも生徒の権力とのつながりに失敗して、なめられたり、相手にされなかった教師をたくさん見てきたのではないだろうか。

 教師のカースト下位者にたいするインタビューの視線がひどいものがのっていて、

「(弱い系のメリット)自己決定しなくて済む。決断力がない人間は、ついていけば済むから楽かな。言われるがままにやってればいいから。だから何も考えなくていい、のほほんとしていればいい」



「(下位のグループにいる生徒は)100%将来使えない。…今年就職活動とかやってるんだけど、結局落ちてきているのはそういう弱いほうだよ。部活もやっていないオタクで、気も弱い感じのほうだよ。…基本的にその強い系のやつらは、うまいから、生き方が。だから、いざというときはゴマすりとかできるから、だからたぶん生きていけるだろうって思う」



 教師にしてはずいぶん他人事の発言すぎる気がするが、この教師がいっていることは「コミュニケーション力」や「世渡り術」といったものはカースト上位者は長けていて、下位者にはそれがない、といっている。人とうまくやる能力、コミュニケーションする能力が、カーストの上位に位置するようなことをにおわせている。そうかもしれませんね。ただこの教師、進路や将来の責任をまったく投げているとしか思えないのですけど。


 人間はなぜカーストのような序列をつくるのかといったテーマは、わたしもいぜん考えたことがある。アメリカの本でもスクール・カーストのような階層も報告されている。イヌとかチンパンジーの動物行動学に示唆されることがいちばん多かったかなと思う。デズモンド・モリスとかね。人間の序列ってノンバーバル・コミュニケーション(非言語的コミュニケーション)とかボディ・ランゲージのほうにより多く表されてきたのじゃないかなと思う。趣味の階層といったものは、ピエール・ブルデューなんかがやっているね。

 動物の序列というのは、限られた資源を順当に配当するための順番性のようなものかもしれない。序列がはっきりしないと争いばかりになる。序列を決め、守ることで、限られた資源の配分を順番に温和に配当することができる。教室の序列というのは、教室の運営権や発言権、決定権という限られたリソースをめぐっての序列じゃないのかなと思う。

 スクール・カーストは根絶や改善できるものという視点に立つことができると、教育や成長の阻害となっていた原因を多くとりのぞけるかもしれないね。いじめ解決のアプローチにも違った面から切り込めるね。この秘密や機密にされていたような人間の一側面が新しく解明されれば、わたしたちはより生きやすい社会に住まうことができるようになっているかもね。


▼スクール・カーストについての参考本
底辺女子高生 (幻冬舎文庫)桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)花とみつばち(1) (ヤンマガKC (864))女子高生 1 新装版 (アクションコミックス)12人の悩める中学生 (角川文庫)

女の子って、どうして傷つけあうの?―娘を守るために親ができること女の子どうしって、ややこしい!女子の国はいつも内戦 (14歳の世渡り術)マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫)チンパンジーの政治学―猿の権力と性 (産経新聞社の本)


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