日本人の勤勉とはなんだったのか
「日本人「勤勉続くと思わない」61%」という記事が読売新聞を飾った。いっぽう、「一生懸命に働くことは美徳だ」という考え方への賛否を聞いたところ、「そう思う」が71%を占め」たということであり、どうも「ワタシたちと違う人たちが日本人の勤勉を崩す」と考えているようだ。「違う人」というのは、企業の労働コスト削減に利用される非正規やニートの人たちであろうが、あいかわらずかれらを「自発的怠慢者」と読みとる人が多いのだろう。
2008年の労働経済白書をみると、「仕事の満足度」はもともと各項目が80年代から30%と驚くほど低かったのだが、2005年度には軒並み10%代に落ちている。(「第2-(1)-2図 仕事の満足度」5ページ目」
さらには非正規化や成果賃金で労働意欲や働く気すらなくしている。(「第三節 働く人の意識と社会の課題」
そもそもなぜ勤勉は褒め称えられるのか。よい製品や品質のいいサービスを提供できるからだろうし、勤勉は日本の繁栄やGDPの上位を占められるからだということになるだろう。しかしこのような評価というのは、品質やサービスは顧客ではなく、会社内に向けられることが多くなったし、「お国自慢」や「お国のメンツ」でしかないわけで、庶民や労働者はそういうモチベーションでいつまでも勤勉な仕事をつづけられることはない。
かつては庶民に自動車や家電、マイホームなどの夢があったりしたのだろうが、それらも充足してしまえば、目標や目的がなくなってしまう。「なにをめざして働くのか」「なんのために勤勉に働くのか」といういちばん根本的な疑問が問題になる。いちばん基本的な目標や目的が溶解してしまったのである。目標や目的がなくなってしまったのに、豊かになるためのハードワークのシステムだけが残ってしまい、われわれを拘束し、ムチ打つ。労働の勤勉観も意欲も満足度も、軒並み落ちるしかないのである。
勤勉に働く意味がなくなってしまったのである。労働意欲を維持する土台がなくなってしまったのである。どうやって勤勉や意欲を維持するというのだろうか。ほしいモノがなくなり、豊かな生活や安定した保障を得るためだけに、経済を繁栄させ、仕事を創造し、継続しなければならない。いちばん重要な骨組みや土台がなくなったところに、経済の循環や繁栄を求めたところで不可能というものである。
もう日本人には勤勉も意欲も満足も労働から得られないのである。それなら日本人のホンネのところで生きるべきではないだろうか。もうハードワークの仕組みやシステムを解体すべきなのである。このシステムは成長や発展という目的があるばあいには有効に働くのだが、目的がなくなってしまえば、拷問や拘束装置にしかならない。この装置を解体して外すべきなのである。日本人が幸せになるのはこれしかないだろう。日本人をハードで長時間の労働から解き放ってやるのである。目的なき「漂流ニッポン人」にはそれがふさわしいのだろう。
ヨーロッパのようにバカンスが一ヶ月や二ヶ月とれるようになるのが好ましい。労働や会社だけの人生に日本人はすっかり疲弊し切っているのだが、日本人には「働かないで暮らす」、「働かない期間を楽しむ」という発想を思いつきもしない。それが日本人の人生の貧困さや、つまらなさ、窮屈さを生み出しているのだが、むやみな勤勉観や労働美徳説なんかがまかりとおっているため、人生を壊滅させる。
労働の満足度が10%台というこれほど労働に満足を感じないお国柄なのに、どうして日本人は労働と会社に人生を多く縛られるシステムをつづけているのだろうか。企業社会がまことに強健な権力で日本人の人生と時間の大半を強奪しているのである。この労働強制キャンプのようなしくみは高度成長の目標や夢があった時代には合理的であったのだろうが、それがなくなり、仕事の満足が得られない時代になれば、強制労働収容所になって人生の強奪と剥奪になる。
そもそも日本人の勤勉とはなんなのだろうか。日本の生産性は輸出市場に進出するような一部の製造業をのぞき、生産性はけっして高いとはいえない。大半の人は生産性でないところに勤勉を見出す。その勤勉というのは、長時間会社に残って残業をしたり、あるいは会社の仲間とつるんでゴルフに行ったり居酒屋にいったりすることではないのか。すなわち「共同体」の拘束や束縛に勤勉であるということであり、仕事や労働に対してではない。勤勉というのはつまり仲間意識の醸成に勤勉ということなのである。あるいは仲間との協調や一体感である。日本人にとって勤勉とは仕事仲間の規律を乱さないということではないのだろうか。生産性に向けてのものではない。
そのような共同体意識の強い日本企業にアウトソーシングや非正規雇用の流れがやってきた。つまりは共同体意識の破壊であり、否定である。概してこれまでの中高年や正社員はフリーターや非正規を働かない、怠け者だと認識しているようだ。だから正社員になれないと考える。共同体への勤勉が断ち切られ、ますます働く意欲や気力をなくす。共同体があったからこそ働く意欲を駆り立てられていたのだが、その絆が断ち切られれば、日本人の勤勉観はかんたんに失墜する。能力主義によって給料も落とされる。漂流ニッポン人は内部崩壊や精神の空洞化がますます進む一方である。日本人の勤勉観をかろうじて支えているものは、年金や健康保険、あるいはマイホームやマイカーの借金の「支払い」のみなのかもしれない。これでは景気が回らないので未来は先細りするばかりである。
日本人はもう勤勉でもないし、仕事の満足もちっとも感じていないし、労働意欲や働く気をすっかり失っている。ほしいモノもないし、したいこともないし、海外旅行に行きたいとかクルマがほしいという若者もすっかり減ったし、出世したり金持ちになりたいというモチベーションもないし、なんらかのほかの目標や野望が大きいというわけでもない。すっかり失われた=ロスト・ジェネレーションなのである。今日の若い世代があらわしている特徴、ニートやひきこもり、フリーターというのは明日の日本人の姿でもあるのだろう。目標や夢がないのにどうして労働だけ勤勉でがむしゃらに働けるというのだろうか。すっかり無欲に貧困に生きるしかないではないか。
もう日本人は坂を落ちているのではなくて、すっかり坂を下りてしまったのだろう。そしてなんの目標も夢もない。ただ坂をのぼっている最中の馬力状態を、そのゆるゆる精神で乗り切っているだけである。骨のないクラゲのようなものだ。
もう上る坂はないのである。そして勤勉も仕事の満足も意欲もない。そういう精神モードにあった形に社会に労働システムを変えてゆくしかないのである。フリーターやニートに合ったような形に社会を変えてゆくのがいちばんびったりした未来社会なのかもしれない。日本人の今日の精神モードにはそのような形態しか合わないのである。日本の近代化はおおよそ130年つづいたが、それは終わってしまったのである。あとは江戸時代やひと昔前のアジアのように貧しい、怠けた社会に戻ってゆくしかないのだろう。それが時代の趨勢というものである。
▼参考URL、本 第6回 日本人は勤勉ではない 〜本当に新しい歴史教科書・PART1〜 反社会学講座
第7回 続・日本人は勤勉ではない 〜本当に新しい歴史教科書・PART2〜
日本人の勤勉神話ができるまで 加藤哲郎








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