『やった。』 坂本 達


やった。―4年3ヶ月の有給休暇で「自転車世界一周」をした男 (幻冬舎文庫)
坂本 達

やった。―4年3ヶ月の有給休暇で「自転車世界一周」をした男 (幻冬舎文庫)

 おもしろいので一気に読み終えた。とくに人種も民族も違う人たちに食事をもらったり、宿にとめてもらう親切をうけたことなど、思わず涙がにじんでくるほど感動的。アフリカでマラリアと赤痢になり、治療してくれた医師ががんとしてお金をうけとらなかったり、アラスカの酷寒のなかで無料のキャビンが用意されているところなど、見返りを期待しない人間の親切ほど人を感動させるものはない。またどんな国や人種にあってもそういう無料で食事をおごってくれたり、親切に宿を提供してくれるなどのやさしさを受けると、国や人種になんの隔たりもないことを思い知らされる。

 こういう旅はサイクリングの世界一周だからこそ、得られた貴重な体験であると思う。電車やタクシー、ホテルなどに泊まっていると、こういう体験にも出会わないだろう。クルマに乗れと誘われたり、ウチに泊まってけといわれたり、チャイをすすめられたり、食事をすすめられたりと、世界各国で人の親切ややさしさに出会っている。このような見返りのない親切というものは、都会の中で暮らしているといっさい出会わなかったり、通り過ぎたりするものだから、この著者は世界中で貴重なすばらしい体験をしてきたのだと思う。都会の寒々しい関係しか知らない人は、この旅のやさしさや親切を一度読んでみたほうがいいかもしれない。

 同じようなユーラシア大陸ヒッチハイク横断をした猿岩石が香港を出発したのは96年4月。著者はイギリスを95年9月に旅立っているから、猿岩石より早い。「電波少年猿岩石1」YouTube。猿岩石はこのような親切を受けなかったように思う、というか、自虐的なハプニングがウリだったから、そのような親切は印象が薄くなっただけかもしれない。

 旅行の中でとくに印象深かったふたつの経験を引用したい。見返りのない親切が感極まる。

昼時になると、高床式住居の下の日陰から、「キンカオ!(ご飯食べな!)」と声がかかるので、寄らせてもらう。
とくに田舎は質素な生活をしていて、みんなほとんど靴を履いておらず、ごく限られた身の回りの品だけで、つまくし暮らしている。日本にくらべれば、足りないものばかりなのに、ラオスの人たちはなんでも人にあげたがり、心が満たされているんだと思った。近代的な発展だけが幸せでないことを、痛感させられる。



「ナダヒニ・リゾート」。これはサイクリスト、スキーヤー、そしてハイカーに無料で利用してもらおうと、ある善意の人が建て、メンテナンスまでしている小屋だ。
この厳しい寒さと、向こう何十キロと何もない吹きっさらしの土地に、まさに天国を見つけた思いだった。
「ここにたどり着けたことが、どれだけ幸せだったか! このキャビンは、人間を幸せにするために、いかに少ない物でこと足りるか、ということを教えてくれた」



 自転車旅行というのはそうとうの体力やタフさがいる。いまは距離のある移動だと電車やバス、クルマに乗るのが当たり前である。あえて自転車という自分の体力だけが頼りの旅に出ると、寒さや熱さ、疲労をもろに受けて、見えるもの、体験すること、そのどれもが違ってくるのだろう。電車やクルマはとちゅうのこのような情景や経験をすべてぶっ飛ばしてしまう。それらで出会えるのは商業化された、ビジネスの人たちだけである。自転車旅行は生活や暮らしを体験できる移動手段なのかもしれない。

 なお著者はミキハウスの有給休暇を利用して4年3ヶ月の世界一周の旅に出ている。会社の業務に関係あるのか、企業にこんな要求をしていいものかすこし心配になったが、ミキハウスはこれで宣伝になるのだろうか。著者はいま人事部に属して、講演やギニアの井戸掘りプロジェクトをおこなったりしている。自分探しの若者の中にはボランティア的自己実現をめざす人がけっこういるが、そういう方向にいこうとしているのだろうか。


著者のサイト
 TATSU SAKAMOTO'S BIKE TRIP AROUND THE WORLD



ほった。―4年3カ月も有給休暇をもらって自転車で世界一周し、今度はアフリカにみんなで井戸を掘っちゃった男 行かずに死ねるか!―世界9万5000km自転車ひとり旅 (幻冬舎文庫 (い-30-1)) 流学日記―20の国を流れたハタチの学生 (幻冬舎文庫) いちばん危険なトイレといちばんの星空―世界9万5000km自転車ひとり旅〈2〉 (世界9万5000km自転車ひとり旅 (2)) 洗面器でヤギごはん 世界9万5000km 自転車ひとり旅III
by G-Tools

2008年7月刊の新刊・注目本情報



 2008年7月刊の新刊・注目本情報です。私は節約生活にそなえてなかなか高い本が買えませんが、お金がなければ深い追究ができないというのは残念なことですね。知識ってカネで買えちゃうものなんでしょうか。高邁な知識も金のヒエラルキーなんでしょうかね。

ディオニュソスの労働―国家形態批判
ディオニュソスの労働―国家形態批判
ネグリの労働拒否の思想はここに書かれているのですかね。国家形態批判?

新しい貧困 労働 消費主義 ニュープア
新しい貧困 労働 消費主義 ニュープア
バウマンが日本の労働状況とそっくりなことを語っていますね。

個人化社会 (ソシオロジー選書 1)
個人化してゆく社会の問題は考えなければならないと思います。

経済衰退の歴史学―イギリス衰退論争の諸相日本に古代はあったのか (角川選書 (426))西洋余暇思想史 (世界思想ゼミナール)
『経済衰退の歴史学』は日本も参考にしたいところですね。井上章一『日本に古代はあったのか』は歴史観を根本からゆるがしそうですね。 『西洋余暇思想史』 人は余暇のために生きるのか、労働のために生きるのか。

「生きづらさ」について (光文社新書 358)雑談力 おしゃべり・雑談のおそるべき効果 [マイコミ新書] (マイコミ新書)「まだ結婚しないの?」に答える理論武装 (光文社新書 362)
『雑談力』は読もうと思っています。雑談のつながりをなめていたら恐ろしい目に会います。『「まだ結婚しないの?」に答える理論武装』 私は人から結婚しろとさっぱりいわれませんが。

自己評価メソッド―自分とうまくつきあうための心理学「私はうつ」と言いたがる人たち (PHP新書 534)ネットいじめ (PHP新書 537)
『「私はうつ」と言いたがる人たち』 アダルト・チルドレンのときもそういう人がいましたね。心理学ってマイナスの「物語」を自らかぶりたい人たちを生み出しますね。ヒロイズムというか、共同幻想に乗り遅れたくないというか。

閉塞経済―金融資本主義のゆくえ (ちくま新書 (729))ビジネスに「戦略」なんていらない (新書y 195)株式会社という病 (NTT出版ライブラリーレゾナント 34)
『閉塞経済』 金子サンいまの経済ってどうにかならないのですかね。『ビジネスに「戦略」なんていらない』 『株式会社という病』 いずれもタイトルからして目からうろこですね。

ドゥルーズキーワード89こんな日本でよかったね─構造主義的日本論 (木星叢書)“理想”を擁護する――戦争・民主主義・政治闘争
『ドゥルーズキーワード89』 ドゥルーズの思想は世の中を変えてくれるんでしょうかね。ノマドロジー=遊牧民的に生きられる世の中になったのでしょうか。リゾーム概念はウェブ社会の予言になりましたね。

モノと男の戦後史ポリティカル・セックスアピール―米大統領とハリウッド (新潮新書 274)スポーツの魅惑とメディアの誘惑―身体/国家のカルチュラル・スタディーズ
『モノと男の戦後史』 戦後の男はクルマとかモノに憑かれてきたような。

医療格差の時代 (ちくま新書 (731))置き去り社会の孤独小林多喜二時代への挑戦
『医療格差の時代』 医療も根本的な改革が必要ですね。『置き去り社会の孤独』 若者の非正規とかあつかった本のようですが、タイトルが言い得て妙ですね。『小林多喜二時代への挑戦』 『蟹工船』は現代の若者を象徴する本になりましたね。

憂鬱な国/憂鬱な暴力 ― 精神分析的日本イデオロギー論 ―国家の崩壊―新リベラル帝国主義と世界秩序中国なしではやっていけない日本 (講談社+アルファ文庫 G 39-4)
『中国なしではやっていけない日本』 中国は目の離せない国になりましたね。メイド・イン・チャイナで私たちはできているといってもいいかもしれませんね。

『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか (講談社選書メチエ 417)文化の型 (講談社学術文庫 1881)心理テストはウソでした (講談社+アルファ文庫 F 49-1)
『文化の型』のベネディクトは日本論の古典『菊と刀』の著者ですね。

旅の風俗史大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー 258)農耕起源の人類史 (地球研ライブラリー 6) (地球研ライブラリー 6)
『大飢饉、室町社会を襲う!』 飢饉が襲った社会とはどのようなものだったんでしょう。社会の根本にはそのような不安が完璧に払拭されたわけではないですね。

代表的日本人 (ちくま新書 733)科学が進化する5つの条件 (岩波科学ライブラリー (146))満州開拓民悲史―碑が、土塊が、語りかける
『代表的日本人』は斉藤孝サン著ですが、大量に出される著作本のタイトル・テーマはいいなと思うんですが、どうしようもない軽さが読むことを控えさせます。中身は読む価値があるんでしょうか。


本当のところ、なぜ人は病気になるのか?―身体と心の「わかりやすくない」関係
本当のところ、なぜ人は病気になるのか?―身体と心の「わかりやすくない」関係
心から病気になるときがありますし、身体から病気になるときもありますし、関係はわかりにくいですね。

教科書には出てこない江戸時代 将軍・武士たちの実像
教科書には出てこない江戸時代 将軍・武士たちの実像
私たちはけっこう教科書のイメージで歴史を捉えていますね。

音楽空間の社会学―文化における「ユーザー」とは何か
音楽空間の社会学―文化における「ユーザー」とは何か

自己肯定感って、なんやろう?
自己肯定感って、なんやろう?
自己肯定感って必要ですよね。知ることによって、自己肯定感や自己否定感に翻弄されないようになることが知識の価値というものですね。

年をとって、初めてわかること (新潮選書)
年をとって、初めてわかること (新潮選書)
年をとって初めてわかることは、先に知っておいたほうが対策を立てられるというものですね。

グノーシス「妬み」の政治学
グノーシス「妬み」の政治学

文系ウソ社会の研究 続 (2)
文系ウソ社会の研究 続 (2)


▼ラファルグの『怠ける権利』は長らく絶版となっていましたが、ようやく平凡社ライブラリーから8月に出版されるようですね。社会は社会主義や福祉国家に行く前にまずこの「労働三時間制度」を提唱すべきだったんです。社会主義や福祉国家は豊かさや経済の安定を求めるがゆえに労働時間は公式発表とはべつに10時間や13時間とどんどん増えてゆきますね。「ほしいものがあるからもっと働かなければならない」ということですね。「働かなくてよい豊かな社会」をめざすべきだと私は思います。

 拙ブログ「ラファルグの『怠ける権利』があった

『アジアを歩く』 灰谷 健次郎 石川文洋


灰谷さんアジアを歩く (えい文庫 156)灰谷さんアジアを歩く (えい文庫 156)
(2007/11/10)
灰谷 健次郎

商品詳細を見る


 旅行記は写真がたくさんあるほうがいい。写真はダイレクトに情報をつたえてくれる。文章は知らない国についての満足な視界を与えてくれない。

 この本は写真が多い。とくにアジア人の顔、子ども、女性たちの表情がゆたかにいきいきと捉えられている。下町や庶民の人たちの表情が多く捉えられていて、アジア人の魅力や活気はこのようなところにあるのだと思う。

 アジア紀行の順番としてタイ、ベトナム、フィリピン、ミャンマー、ラオス、ネパール、中国、インド、パラオと捉えられているのだが、アジア人の顔の特徴やつくりがそれぞれ個性的で、そのような顔はどのように変遷・拡大していったのか、やっぱり日本人にいちばん近い顔やどこから日本人はやってきたのかという関心も抱かざるを得なかった。

 ときに私は日本人の顔の特徴を忘れるときがある。街中で見ていて、日本人とくくるよりか、アジア人の顔とくくったほうがいいと思うときがある。縄文顔、弥生顔と分けられるときがあるが、縄文顔のほうが多いように思ったりする。日本人のルーツは中国雲南省あたりと聞いたことがあるが、ラオスの女の子の顔は日本の子どもの顔にそっくりだ。カゴを背負って仕事の手伝いをする髪の毛がぼさぼさの女の子たちを見ていると、むかしの日本人の子どもたちもこんなふうだったんだなと思う。フィリピンといえばマリーンというジャズ・シンガーの顔のように瞳が大きくて鼻が広がっているのが特徴だな。ベトナムは透けるアオザイが魅力的である。ネパールやインドにくるとアジア人というよりか、トルコ人やヨーロッパ人の顔つきになる。このようなアジアの並びの中で中国は冷えた、つまらない社会に思えてしまう。

 灰谷健次郎はいくどかアジアに旅したそうだが、魅かれる理由としては貧しさとたたかう姿や泥臭さ、人間臭さ、そしてかつて貧しかった日本の姿に重ねられるからだと分析している。貧しさには同時に活気や熱気もある。豊かになるとそのような熱気も失われ、死んだような、冷めた国になる。おそらく市場や屋台にあふれる人の姿が建物の中に隠されてゆくからだと思ったりする。喧騒や猥雑さは日本の働く場から失われ、せいぜい繁華街やターミナルで見かけられるていどだ。社会がそのような活気を失った傷跡は大きいといわざるをえない。

 灰谷健次郎は2006年に11月に亡くなっており、この本は追悼書のような体裁も合わせ持っている。


灰谷健次郎の著作
太陽の子 (角川文庫)兎の眼 (角川文庫)天の瞳 幼年編〈1〉 (角川文庫)


日本人はどこから来たのか
DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス 1078)日本人のルーツ探索マップ (平凡社新書)DNAから見た日本人 (ちくま新書)

日本人の起源―古人骨からルーツを探る (講談社選書メチエ)日本人の骨とルーツ (角川ソフィア文庫)私たちはどこから来たのか―日本人を科学する

日本人はどこから来たのか―古代日本に“海上の道”を通ってやって来た部族がいた!日本人のルーツ―血液型・海流で探る (ニュートンムック)日本人のルーツ解明―2500年前中国呉国の国家大移動 (ルネッサンスBOOKS) (ルネッサンスBOOKS) (ルネッサンスBOOKS)

日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く (NHKブックス)
日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く (NHKブックス)
日本人の起源(ルーツ)を探る―あなたは縄文系?それとも弥生系? (新潮OH!文庫)
日本人の起源(ルーツ)を探る―あなたは縄文系?それとも弥生系? (新潮OH!文庫)

正社員はどうすれば自由になれるのか



 永井俊哉が「どうすれば労働者の待遇は良くなるのか」という論文を書いていた。この何日か解決策を考えていたのだが、いい案が浮かばないので、書きながら考えることにする。

 永井俊哉は派遣やワーキング・プアの劣悪な労働条件を憂えたあと、正社員も定年雇用制の犠牲者であると説く。

 

 彼(中国人の経営者)が言うわけですよ、日本で会社を経営するのは楽ですよと。業績が悪くなったら給料を減らせばよい。また悪くなったらさらに削る。こうしてどんどん給料を減らしていっても、社員はほとんど会社を辞めない。こんなに会社経営が楽な国はないって。中国で同じことをやったら、社員はあっという間に霧散して一人もいなくなる。米国だって同じ。だから、経営者は第一に社員の処遇を考えなければならない。処遇の改悪はぜったいにできないから、本業で業績を上げることを真剣に考え、取り組まざるを得ないわけです。



 たぶん日本の会社員でこのような選択肢があるなどふつう考えないだろう。家族主義や終身雇用、滅私奉公の精神があるからだと日本文化のおかげにする輩もいるが、年功賃金や退職金、あるいは社会保障というウマみに縛られているに過ぎない。辞めたらソンなのである。歳をとったら転職先もないと悲観視する。実質的には鎖に繋がれて檻の中に監禁されていることと同じである。

労働者たちが経営者に対して「待遇を改善しないと他の会社に行くぞ」と脅すことができるようにならない限り、労働者の待遇はいつまでたっても良くならないだろう。


 明治のころは日本は転職率世界一であったから、このような脅しをいくらでもかけられた。しかし熟練工の定着率を高くしようと諸手当や福利厚生を充実させてゆき、戦時中の転職禁止法などによって、転職の自由は奪われるのである。つまり戦争の国家総動員体制が日本の高度成長の経済力や企業の競争力の源泉になったのである。年金や健康保険の企業の負担がそのとどめを刺したと思われる。

このように虐げられているにもかかわらず、囚人たちは、檻の鉄格子を、自分たちから自由を奪い、自分たちの生活を惨めにしている桎梏としてではなく、自由経済の荒波から自分たちを守ってくれるありがたい防御壁と勘違いし、そこから脱出しようという気を全く持たない。そして、囚人たちを、檻の中から解放してやろうとすると、彼らは「俺たちを殺すつもりか」などと言って大騒ぎをし、鉄格子にしがみついて抵抗を試みる。辻広雅文氏の文にあったように、日本の正社員たちは、檻の中に監禁されていることを自分たちの「既得権益」であると思って、むしろその維持に懸命になっているのである。



 このような文脈の中では派遣やフリーターは悲惨な流動的な労働者なのである。今日の非正規悲惨説は、刑務所の檻の窓からの嘆きでしかない。定年までの安定を至上目的とした戦後のサラリーマン社会は檻の中の安定と保障を至福のものとして夢想してきたのである。このような勘違いがあるかぎり、正社員の自由はないだろうし、そして非正規労働者の改善は見込めないだろう。

 ダイヤモンド社の辻広雅文は「正社員のクビを切りやすくする改革は受け入れられるか」という記事を書いているが、法関係者からはその方法が模索されはじめているそうだが、監獄の楽園を夢想している世間からは、非難轟々のバッシングを受けることは間違いないのである。

 安定と保障を最高の価値におくと、ひとつの会社から抜けられなくなる。それは社会主義のトップダウンのほかの選択肢や商品選択ができない体制と同じである。共産党に指示されれば、決められた国営企業に勤務しつづけなければならないし、商品も党の決めた商品しか選べない。無理や難題を押しつけられてもほかの逃げ場所がない。おそらく北朝鮮や社会主義の国民はほかの選択肢をまったく知らないまま、自由や選択をどんどん奪われながらも、その場所にとどまりつづけているのだろう。日本の正社員もかれらとなんら変わりはしない。バブル期までは経済的に成功したが、国民の豊かさや自由度において成功したとはまったく思われない。

 長時間労働やサービス残業、過労死はますますひどくなってゆく一方だし、この国のサラリーマンが豊かで自由だとまちがってもいえないだろう。国民や労働者の自由や豊かさはどこにあるのだろう。私たちは安定や保障という楽園のためにみずから奴隷の檻の中に入り、自由や豊かさをみずから放棄し、檻の外に出されることを恐怖していないだろうか。檻の外は「非正規労働」という恐怖や転落が待っている。やっぱり檻の中が安定していて、困ることはないと安心するのである。檻の中で守られようとすればするほど、若年層の非正規雇用はその負担を背負って、賃下げや不安定労働を強いられることになるのである。

 問題は檻の中の安定や保障のウマみであり、社会主義メンタリティティの強固さなんだろう。これはどうすれば崩れるのだろうか、あるいはこの不自由さや奴隷性に気づくことができるのだろうか。

 ジャン・ジャック・ルソーが200年前に嘆いたようにこれは人間のサガ・本性というものなんだろうか(『人間不平等起源論』)。

彼は自分の卑しさと彼らの保護とを得意になって自慢する。そして自分の奴隷状態を誇り、それにあずかる名誉をもたない人たちのことを軽蔑して語るのである。



 このようなメンタリティの愚かさ、奴隷根性を破壊できないものなんだろうか。これこそがわれわれ日本人の奴隷性とそれに気づかない愚かさを生み出しているのである。ハイエクも社会主義や福祉国家がはじまる社会の「奴隷国家」への人々の保障依存主義に嘆いているのだが、われわれの社会はどの母親も公務員や安定大企業の就職をすすめる国になっている。わが子が長時間労働やサービス残業で人生を捨てようと、過労死で命を落とそうと、保障や安定のある大企業がいいと、息子をせっせと奴隷の楽園に押し込もうとするのである。奴隷の子は奴隷である。

 奴隷はあんがい自分が奴隷だなんて思いもしないものかもしれない。なんらかのきっかけでふいに自由の身になったりすると、はじめて奴隷の不自由さに気づくかもしれないが、あるいは自由に恐怖してさっさと奴隷の身に舞い戻るだけかもしれない。自由というの貧困や差別や不安定さと表裏一体である。奴隷にはそれが恐ろしくてたまらない。だから檻の中に必死に逃げるのである。そういう人間の弱さというのはどうしようもないものなんだろう。

 日本人はいつ貧困や不安定さのなかに自由というものを見出し、自分たちの奴隷状態に気づくことができるようになるのだろうか。それが経済的成長をへたあとの「成熟社会」とよばれるものかもしれない。せめてわれわれは非正規雇用が望む正社員も檻の中の奴隷であるという悲愴視を保ちつづけるべきである。晴れて非正規雇用が正社員になれたとしてもべつの地獄が待っているだけである。そして私たちはこの特権天国といわれる奴隷状態から、日本人を逃すべきではないだろうか。


隷属からの自由
隷従への道―全体主義と自由自由をいかに守るか―ハイエクを読み直す (PHP新書 492) (PHP新書 492)選択の自由―自立社会への挑戦 (日経ビジネス人文庫)資本主義と自由 (NIKKEI BP CLASSICS)

『アタシはバイクで旅に出る。』 国井 律子


アタシはバイクで旅に出る。―お湯・酒・鉄馬三拍子紀行〈1〉 エイ文庫
国井 律子

アタシはバイクで旅に出る。―お湯・酒・鉄馬三拍子紀行〈1〉   エイ文庫


 かわいい。アイドルの写真集をながめているような本。お決まりの温泉入浴写真もあるし。アイドルのような女の子がハーレー・スーパースターに乗っているという本であって、男ばかりの世界で孤独であったライダーには慰められる本である。文章はおとなしくて、文学志向が強そうな文章であるが、ところどころにかわいさが浮き出る。コイズミ的感性(古い)の自己のつきっ放し方がかわいいのである。

 バイクはなぜか男の趣味、というお決まりがある。クルマはそうではなく、一般人や女性の乗り物と見なされている。バイクもエンジンで走る乗り物であって、変わりはないと思うのだが、むき出しの危険性が男の乗り物だという趣向を高めるのだろう。「危険性が隣り合わせの世界に耐える男だ」というメッセージ性に男たちは群がるのだろうか。

 そういう孤独な男の世界にアイドルのような女の子が現われ出たら、男たちは群がる(笑)。またそういうハーレムを見て、女性たちにも憧れられるかもしれない。ライダーでもアイドルになれるんだ!と。女性のライダーで有名人というのは私はあまり知らないのだが、作家の赤坂真理とかタレントの真鍋かをり、財前直見、松雪泰子、高島礼子なんか乗っているそうだ(カッコつけの人が多そうな)。「バイクに乗っている有名人

 そういえばバイク雑誌とかカー雑誌の表紙って不自然なくらいにバイクやクルマといっしょにセクシーな女性が写っている。中身はまったく女性と関わりがないのにである。こっけいである、というかほとんどギャグ。メッセージは「バイクやクルマを買うともれなく女性が――それもセクシーな女性が、ついてくる」という意味なのだろうか(笑)。男たちはカッコいい、カネのかかるバイクやクルマに乗ることによって女を手に入れられるとせっせとバイクやクルマにカネをかけてきたのである。それはヤドカリの貝に惹きつけられることと変わりはないのだが(笑)。

 そういうおまけに女がついてくるライダーの世界に、バイク自身にまたがるアイドルのような女性が出てきた。男たちは、男の要素をもったライダーの世界を身にまとうアイドル女性の存在にとまどい、彼女の置き場所に困る。「おまけ」についてくるはずだった女性が、オレたちの道具をとってしまった。そうして恐々とその存在のありようを確かめてみなくてはならなくなったわけである。貝をとられた男たちはハダカのまま女性と向き合わなければならなくなったのである。男たちの自負、男たちの包囲網への挑戦である。ジェンダーのボーダーが破られるのである。もちろんそのようなジェンダーへの挑戦はアイドルのような「かわいい子」として中和されるだろうが、男たちは内心では男のジェンダーの崩壊をじわりと感じているのではないだろうか。だから女性ライダーは男の前提をつき崩す少々気になる存在になるのである。この女性はどんな存在か、なぜバイクに乗るのかと。

 私は雑誌はほぼ読まないので知らないが、国井律子はこのバイク旅エッセイを皮切りにアウトドア雑誌や自転車雑誌などに進出しているようである。旅行や放浪が好きなようである。アイドルか、文筆家か、放浪者なのかよくわからない活躍をしているが、もし彼女をタレントやアイドルと定義するのなら、芸能界の活躍の場が舞台から路上や周辺とうつりかわっていったのだと見なすこともできる。いぜんの国民の憧れがアイドルのような舞台で歌う女性であり、われわれはそのような姿に憧れてカラオケを歌ったとするのなら、これからの憧れはアウトドアや旅行の上で築かれてゆくのかもしれない。いや、あるいはこれは狭いジャンルの上のアイドルのことでしかないかもしれないが。


関連URL
 国井律子さんインタビュー
 国井律子ブログ
 国井律子ホームページ
 

アタシはバイクで旅に出る。 (2)  エイ文庫―お湯・酒・鉄馬三拍子紀行 (021) アタシはバイクで旅に出る。〈3〉―お湯・酒・鉄馬 三拍子紀行 (〓(エイ)文庫) モーターサイクル・トラベリング・ガール―国井律子PHOTO BOOK   エイ文庫 放浪レディ 続・放浪レディ
by G-Tools

『出たとこ勝負のバイク日本一周(実践編)』 小林 ゆき


4777901998 出たとこ勝負のバイク日本一周(実践編) (えい文庫)
 小林 ゆき
 えい出版社 2004-09

 by G-Tools


 「日本一周」ってなんだか「優等生」的な発想を感じてしまう。だれかのいいつけを守って、しっかり「課題の頂点」を達成しましたみたいな。だからある意味ではこっけいであり、嘲りの対象にもなる。そしてナショナリズムのむじゃきな信仰者であるし。あるいは大きなことをしたという優越感を育むことになるのだろうが、そういうことにいっさい価値をおかない「定住民」には、かれらの優越ヒエラルキーに足蹴にされて腹を立てたりする構造があると思う。価値序列としてとりあつかいの難しいジャンルである、というか、モノサシの違う人たちにはほぼ黙殺されるジャンルだろう。「だからなに?」と返される個人的な自己満足であることを勘違いしないのが賢明というものである。

 野宿ツーリングが好きになってきた私であるが、そういう旅の情報がなにか得られたらと思ってこの本を読んだが、ものすごく個人的な日記のようなもので、おいおいこのような内容が公共の出版物として出されるものなのかとすこし首を傾げるものであった。こういう出版物って極力、個人的な情報を避けて、一般的・普遍的な情報を書くべきではないのか。ガイドブックではないのだから個人のツーリング記であってもいいわけだが、それにしても個人の日記まるだしの内容はすこし出版物としてのボーダーに達していなように感じられた。これは自費出版か、ブログか、まったく個人日記向けのものだ。でもそういう本でもツーリングに役立つ情報はないわけではないが。

 この小林ゆきという人はモータージャナリストで、ある程度業界ではメジャーな人であって、だからこのような個人記が許されるのだろうか。作家の旅行記だって、ここまで個人的な内容は書かないと思うのだけれど。これは衆知されているモータージャナリストの自伝なのだろうか。

 この本は1989年に旅した記録であり、彼女はだいたいユースホステルに泊まっている。ミーティングや自己紹介があったりして、孤立好きな私などは「ウザ!」と思ってしまうのだが、そういう人との出会い、友達との出会いというものが、フツーな旅の楽しみなのだろう。この旅の記録はほとんどそういう人との出会い、関わりに重点がおかれていて、風景や風土、また観光がほとんど触れられていなくて、旅の目的はそれぞれ違うのがあたりまえでいろいろな価値があっていいが、これは出会いの旅であって、べつに日本一周する必要もないのではないかと思えてしまう。

 キャンプで日本一周している女性の750ccライダーにも出会い、著者もキャンプをするのだが、林道で何かの動物が近づいてくる気配を感じたりして、なかなかたくましい体験をしているのだと思う。私は夜の林道の暗さと恐ろしさでテントは張れないと思う。女性のライダーがキャンプ・ツーリングなど思いもよらないことだが、けっこういるのかもしれない。

 この当時に30代や40代のフリーターのような人もいて、「夏は北海道、冬は石垣」で暮らすような人たちもいて、もうすこしこういう人たちがいるという情報がわれわれの中にあったのなら、決められたコース以外の人生も謳歌できたかもしれない。「キャンパー」はニンジンやモロコシ、鮭加工の日払いバイトなどをして移動費を稼ぐ。建築家で一年のうち9ヶ月働き、3ヶ月沖縄で遊ぶような人にも出会っている。旅行というジャンルはこのような漂泊者や流浪者を生み出しているのである。むかしから季節労働のようなものはあったと思うが、その系譜は今日もしっかりつづいているのであるる

 この本、というか著者のもうひとつの主題というのは、男から「性の対象」としか見られないことへの憤りである。著者は典型的な女性らしい音楽家の道もめざしていたのだが、男っぽいライダー関係の道へと進んでいる。ショートカットで男に間違われるような格好をして、30分話しても女性と気づかれないような男らしさを身につけている。中性的になれば、性や恋愛の問題から解放される。「女の部分」にたいして吐き気がするくらい嫌悪感が募ったそうだ。

 女性は「性の対象」としての女を受け入れることに、たいそう苦労するらしい。さいきんのドラマ『ラスト・フレンズ』で上野樹里がそのような性同一性障害の役を演じていたが、葛藤の起源を考えればわからないでもないだろう。私の身体が他人の欲望の対象となり、私が望まずとも私の身体は欲望をそそる惹起物となり、貞操観から性の抑制や禁止を学び、なおかつ性を受け入れなければならない。性対象としての身体の統合ができない。その苦しさから男であれば苦しまずにすむという方向へも進んでしまうのだろう。この旅は性的な女性であることの脱出、模索の旅でもあったのだろう。女性の性の統合はかんたんなものではないようである。

 ところでさっこんはネットで「日本一周」を検索するとさまざまなホームページやブログに出会うことができる。こんなに多くの人が日本一周を敢行しているんだなとわかる。旅に生きるということは仕事も学校も放り出すことである。生産ではなく、非生産な生き方をすることである。こういう境界によって人々の生き方や人生の幅や選択は広がってゆくものなんだろう。


出たとこ勝負のバイク日本一周(準備編) (〓@53B2@文庫) バイクの島、マン島に首ったけ。―出たとこ勝負のバイク旅・海外編 (〓文庫) 自由に至る旅―オートバイの魅力・野宿の愉しみ (集英社新書) 暁のキックスタート (広済堂文庫) 50CCバイクで島の温泉日本一周 (小学館文庫)
by G-Tools

『会社が放り出したい人 1億積んでもほしい人』 堀 紘一



会社が放り出したい人 1億積んでもほしい人 (PHP文庫)
堀 紘一

会社が放り出したい人 1億積んでもほしい人 (PHP文庫)


 むかし私もビジネス書をよく読んだ。いまの経済はなぜこうなっているのか、どうしてこうなったのか、と歴史的なものを学びたかった。だけど商売や業績、出世に興味のないヘンな読み方であるが。堺屋太一、ドラッカー、日下公人、大前研一、江坂彰、などを読んだ。げんざいの経済の起源や原因を教えてくれるような堺屋太一やドラッカー、大胆な発想をする日下公人、などが好きであった。

 堀紘一もそのような本として読んだ。TVでもよく見かけ、押しのある自信のありそうな声が印象に残っている。かねがね経済やビジネスの変化をつたえるビジネス書は読みたいと思ってきたのだけど、薄っぺらい本でも千五百円もしたりして、買うのを控える機会が多かった。

 まあ、この本は会社人間的発想で生きていれば、二十年三十年後に悲惨な目に会うというビジネスの変化を謳った本である。でもそういう会社人間的、社内力学的なものは、片足はつっこんでないとこれもまた問題だと思うのだが。世の中変わらずにそういう力学で動いてゆくのもまた事実だろう。

 堀紘一は45年生まれで、たぶんに団塊世代的な環境や世代を生きているからだろうから、のちの世代がぴったりと参考になる環境や考え方を学べるかは怪しんだほうがいいかもしれない。人間というのはどうしても世代や環境の枠内でしか見えないほうが多いだろうし、自分の職業やまわりの環境で世界を普遍化してしまう傾向もあると思う。経済・社会全体を語っているように見せかけて、自分の業界や半径10mのことじゃないかとツッコミを入れたくなることもあるのだが、そこらへんはよくかみ分けて読むことが必要なんだろう。たとえば就職氷河世代はまた違った時代を生きていることも理解しておくべきなんだろう。

IBMの取締役は、社長たった一人に嫌われるだけで、これまで何十年もかけて築いてきた地位や名誉も一瞬にして失ってしまうことになる。
「オレなんか、年間に千台も自動車を売っているんだから、誰か一人の客に嫌われたって、売上が一台減って九百九十九台になるだけだ」
自分の生殺与奪権を握っている上司に見放されたら終わりというのでは、あまりに情けない生き方だと思うのである。



 これはこの社会の基本だろう。世間では中古車の販売店より、デカイ会社の社長のほうが偉いとされているが、根本の強さでは、社長や部長の地位は風前の灯の前に立たされている。社会主義か市場主義のどちらがいいかということもこの言葉は語っていて、社会主義もトップのサジ加減ひとつや機嫌でどうにでもなるものであり(ほんとうに殺された)、市場でのプレーヤーは民主的な強さや多様性の強さをもっているといえるだろう。社内の政治力学もあいかわらず大事だと思うが、市場での強さも考えなければならないということである。

 会社が放り出したい有害な社員は、仕事ができるかできないかではなくて、こういわれている。「欲のない」人である。

.泪ぅ淵校弭佑凌
▲妊泙鯣瑤个洪
ヤル気のない人



 いっぽう、一億円プレーヤーの基本条件はこうである。

《大前提》何か一芸に秀でている。
《基本条件》強烈な目的意識を持っている、常に自分原因論で生きている、絶対に諦めない、表現力が身についている、信用がある、真の仲間がいる



 私などは企業活動にやる気を見出せないし、一億円プレーヤーなんかめざしたくなくもないし、会社が放り出したくなる「欲のない人」なのであるが、だからこそなにが会社で評価されるのかも悟っておく必要がある。擬態は必要である。それにしてもこういう、人を善と悪に切り分ける二分法って、けっきょくは人の悪口に近いものにたどりついて、好き嫌いに帰着するという、自分の性格に合うものを語っているに過ぎないと思うこともある。他人の評価って究極的には、いっている本人の性格の適合性しか語っていないんじゃないかと見なしておいたほうがいいんじゃないかと思う。どんな理論で武装されていようと。


サラリーマンなんか今すぐやめなさい 実践的リーダーシップの鍛え方 突破力!(仮) (PHPビジネス新書) 超人脈力 (講談社ニューハードカバー) 常識として知っておきたいビジネス数字
by G-Tools

杏里のカバー・ソングの元唄をユーチューブで。




tears of anri 2tears of anri


 杏里のカバー・アルバムはいいですね。邦楽の名曲をあつめた「涙のうた」は、新譜に興味のなくなった世代としては、なつかしい想いにしてくれますね。一作目は10万枚売れたそうで、徳永英明のカバーアルバムとかが話題になって、新譜ばかりに煽られる聴き方はもうかんべんしてほしい、よい歌を長く聴きつづけるといった傾向も出てきているのかと思います。というか、歳をとったら新曲なんか聴きたくなくなりますからね。そういった世代をあてこむマーケットも必要かと。

 杏里のバラードは私も好きで、アルバムをレンタルして杏里のバラード世界によく浸ったものでした。こんかいはそのアルバムの選曲から、元唄のほうをユーチューブで聴けるようにしてみました。杏里のボーカルでしっとりとその世界に浸るのもいいですが、経済的に元唄でまかなってみましょう。というか、私のユーチューブ編集のネタに使わせてもらいたいんですけど。


tears of anri 2

Goodbye Day 来生たかお
来生たかおの歌声は諦観のただよった味わいがありますね。

安全地帯 - ワインレッドの心
この曲を選ぶより、『悲しみにさよなら』のほうが個人的には好きですが。

村下孝蔵 - 初恋
当時はありきたりな曲だと思いましたが、けっこう人々の心に残っている曲みたいですね。

中西保志 最後の雨
サビの部分は覚えがあります。

涙そうそう 夏川りみ
もうスタンダード・ポップスですね。

もう恋なんてしない 槇原敬之
横文字を使わないアンチ・トッポイ系で純朴な心をあらわそうとしましたね。

ラブ・ストーリーは突然に 小田和正
これは泣ける唄じゃないんですが。

コブクロ -
天王寺で歌っていたころに通り過ぎていたかも。

Mr.Children 抱きしめたい
ミスチルはなぜこの曲が選ばれたんでしょうか。

瞳をとじて 平井堅
うん、いつまでも名曲として残りそうですね。とくにセカチュー世代には。

- 松山千春
この曲が残るとは思ってもみませんでしたね。「男はいつも待たせるだけで 女はいつも待ちくたびれて……」。

オフコース / さよなら
ほんとに名曲ですね。

これらの男の唄を杏里が歌うとどうなるんでしょうね。


tears of anri

夜空ノムコウ SMAP
「あれから僕たちは何かを信じてこれたかな」――日本の閉塞状況を歌っているかのようでしたね。

小泉今日子 - 優しい雨
アイドルたちっていまでも聴ける曲を残したのでしょうか。

薬師丸ひろ子 探偵物語
角川映画もアイドル・ブームに収斂されてゆきましたね。時代だ。

悲しみがとまらない 杏里
杏里は『オリビアを聴きながら』でしょう。

LOVE IS ALL 〜椎名恵
シャーリーンのカバーですね。

あなたのキスを数えましょう ~you were mine~ 小柳ゆき
うーん、この曲はオトナの唄かな?

やさしいキスをして DREAMS COME TRUE
『砂の器』とダブっている人はどのくらいいるのでしょうか。映画版『砂の器』放浪シーン

森高千里 
アイドルからの脱皮の苦悶が見えますね。

会いたい 沢田知可子
死ぬなんてワザは。。と思いましたが。

雨音はショパンの調べ 小林麻美
すっかり忘れられた曲に近かったように思うのですが。

聖母たちのララバイ 岩崎宏美
岩崎宏美はたしかに唄がうまかったのですが、いまに残る曲かな〜?


杏里のオリジナル・バラード
杏里 「ALL OF YOU
杏里のバラードってこんな感じでとてもいいんですね。癒されます。

杏里 オリビアを聴きながら
やっぱりこの曲はいつまでも心に残る曲ですね。

杏里 「SUMMER CANDLES
サビの部分は覚えのある方も多いかと。

杏里 「砂浜
メロディーだけではなくて、詩も考えさせますね。

杏里 ANRI-YOU ARE NOT ALONE(1984)
メロディーが癒してくれますね。

『ホテルバンコクにようこそ』 下川 裕治



ホテルバンコクにようこそ (双葉文庫)
下川 裕治

ホテルバンコクにようこそ (双葉文庫)


タイ人の怠惰などというものは、それはもう日本人からしたら人格の底を失ってしまうぐらい怠惰なのであり、労働時間とか休日といったレベルの問題ではない。



しっかりカネを蓄え、財をなすような発想は、貧しい風土が生んだ北の美意識なのであって、豊穣な南の国ではカッコいいことでもなんでもない。確かにタイ社会において、倹約家の中国人や日本人が成功することはいとも簡単なことかもしれないが、その過程で、彼らの生き方が、「豊かさとはなんなのか」と突きつけてくる。



 このようなタイ人の労働観に魅かれて、タイ社会に興味をもっている。タイは冬がないから、冬に備えるアリが必要ないようで、貧しいアリの発想で生きる北の日本からしたら、ずいぶん羨ましい社会なのである。といってもむかしの日本人はタイのような熱帯地方の労働観に近いものがあったはずである。江戸時代のころは西洋人にウシのようにとろいと評されていたくらいだから、日本は近代の間に西洋の貧しい労働観にすっかり洗脳されたわけである。土層にはタイ人のような熱帯地方の労働観が日本人もまだ残っているはずである。

バンコクが最も暑くなる午後一時から二時頃に街を眺めてみる。商店や屋台なとで閉まっているところはどこにもない。これを見て、「バンコク人は働き者だ」などと間違っても思わないことだ。確かに店は開いているが、その奥をのぞくと、半分ちかくの店の店員は眠りこけているはずである。……客がいなければ店で眠る。
 スペインやスーダンのように、暑い午後、一定の時間、店も役所も昼寝のために休む習慣をもった国がある。



だいたい三ヶ月から六ヶ月も働くと、彼らの労働意欲は限界に達してしまうらしく、再び、働く気になるか金がなくなるまで休暇に入ってしまうのだ。それも一週間や十日といったハンパな長さではない。一ヶ月、二ヶ月単位で休んでしまうのである。
……そのあたりの計画性はまったくといっていいほど欠如している。気分しだい。行きあたりばったりなのである。
……食事や居住費がべらぼうに安いタイだからこそできる暮らしだが、その勤勉ぶりではつとに有名な日本人から見れば首を傾げたくなるばかりだ。



 このような労働観や生活に魅かれて旅先でタイに沈没(長期滞在)してしまうバックパッカーが増えているそうだが、長時間労働、滅私奉公の日本人からしたら、対極の生き方だろう。だからタイに長くいつくことになってしまうのである。ほんらいの日本人もそのような生き方を望んでいると思われるのだが、システムが許さない。そして勤勉と労働マシーンに擬態して生きるしかないのである。そのような勤勉労働観が身体にしっかりと沁みついた日本人からすれば、タイは人格の芯や背骨がとろけてしまう虚脱感を与えるだろう。

 もちろん著者が観察するタイ人の労働観は一面的なものだと思う。西洋的な労働規律や勤勉観をもったサラリーマンもたくさんいると思う。著者は貧乏旅行やアジアの下町を好むようだから、ことさらそのような一面が目につくのだと思う。北の国が捉えるような貧困や階層、社会問題はたくさんあるはずだし、刹那的で生きざるを得ない環境で暮らしているかもしれず、あるいはそれでも生きられるタイの生活の真の豊かさといったものがほんとうにあるのかもしれない。97年のタイ・バーツ暴落からはじまったアジア通貨危機は、なんだかタイ人の怠けぶりに対する西洋人の恫喝に思えてくる(笑)。

 日本人はタイ人のように怠惰になれないものか。あるいはタイ人のように「戻れないのか」。日本人の勤勉観は高度成長と所得倍増、社会保障の充実などによるニンジンやウマみによって釣られているところかが多分にあると思う。これらがなければ生きられない、ホームレスになると恐怖を植えつけられているところがミソである。最低生活の基準がかなり高いところになってしまったので、低空でも生きられるということに気づかない、忘れてしまっただけと思うのである。日本人は低空飛行でも生きられると気づくようになると、ふたたびタイ人や東南アジアの怠惰な労働観にようやく戻ってゆけるのかもしれない。タイ人や下流社会はそのようなヒントを与えてくれるだろう。

 国家はタイにはけっして学ばないと思うが、庶民や下流社会とよばれている層、あるいはサラリーマン社会はたまらないと思っている人は、タイ人の労働観や生き方にしっかりと学ぶべきである。日本人は寒い国の貧しい西洋人の発想でなく、東南アジアの暑い豊穣な国の発想にかなり近かったはずである。アジアに帰れ。


バンコクに惑う (双葉文庫) 新・バンコク探検 (双葉文庫) バンコク下町暮らし (徳間文庫) アジアほどほど旅行 (徳間文庫) バンコク迷走 (双葉文庫)
by G-Tools

教習所とはどのようなところか



 フリーの身となって、平日昼間から普通二輪の教習に通っている。無職の身となって平日昼間に通うのは少々恥ずかしいが、ニートのような気持ちで平日昼間の自由感と優越感を主張すればいいのである。平日昼間に通える人なんて専業主婦か、夏休みや冬休みの学生、平日休みのサービス業の人くらいしか思い浮かばないが、教習所は平日昼間からやっている。

 私は車の免許がないから、普通二輪でもクルマといっしょの学科を受けなければならない。なんでクルマの話を聞いているんだろうと思いつつ。しかも40歳である。だいたいは学生や20代前半でクルマの免許をとりにいくものだろうが、私はクルマに興味がなかったり、カネがなかったりとで、クルマの免許をとっていない。なんとなく異質感があるが、開き直ることにする。20年ひとまわり下の子たちが成人に達していると思うと、月日の早さに呆然となるしかない。しかも私と同年代を親にもつ子たちもいるのである。人間の成長のサイクルの早さに嘆かざるを得ない。

 教習所というのは、小中学校のような学校とちがって、自分たちのクラスや教室というものがない。自分の受ける学科や技能の教習に出てきて、終われば帰る。大学の講義と同じものである。友だちや横のつながりはほぼできないと思う。空き時間でもみんな黙って、それぞれの時間を過ごしているだけである。恋愛に期待する向きもあるだろうが、そういう空間には思えない。クルマの教習は若い女性が多く、クルマはこれから女性のものになってゆくのだろうか。

 公立学校で問題になる「いじめ」だが、このような教習スタイルにすればなくなると説く学者もいる。クラスで集団主義や窒息しそうな共同体意識を植えつけられるから、異物排斥の動きが顕在化してしまうのだと。だけどこのような教習所スタイルは、あの小中学生のむじゃきな仲間関係ができないとしたら、寂しいことである。学校のような友達関係は社会に出るともうできないものである。

 学校という関係はむしろ社会にはないものである。社会に出ると人々はたこつぼや閉鎖的な環境に収まってゆく。職業世界というのはひじょうに狭く、一度収まってしまうと、なかなかなほかの職業や環境の人と出会うことはない。学校こそが、社会にないものである。職業・環境横断的な人々の集まりや場所というのは学校をおいてほかにないものなのである。教習所は公立学校とまったく違うものである。

 学科の教習は、配当表というものがあって、それぞれの時間に何番目の学科のスケジュールがあるか決められていて、受けれる時間を自由に選択していい。配当表というのを見せられて、まったくなにがなんだかわからなかったが、一段階、二段階の学科のコマをそれぞれ選択していけばいいのである。予約はいらず、自由に参加すればいいのである。こういう授業スタイルで質問で当たられるのはたいへんにいやだが、学科のほうは受ければいつの間にか時間が過ぎていて、単位をとれるということになるのでラクである。

 技能のほうは予約が必要で、じっさいに自分がバイクにまたがり、注意や指摘をされなければいけないわけだから、あまり快い体験ではない。まちがったり、失敗したりすると、怒られるような、詰め寄られるような雰囲気になったりして、気分がゆううつになるときもある。ミスが多かったり、失敗が多いと、やはりそうとうに注意されるので、めげない心構えが必要である。

 私は原付のミッションを3年乗ってきたので、400ccに乗ってもそう違和感は感じなかったのだが、スクーターや自転車に乗っていた人たちは、クラッチ操作やギア操作はとまどうことが多いだろう。自転車しか乗ったことのない人は、こがずに勝手に動く乗り物というものに驚くかもしれない。教習を受ける前に自分ひとりで練習できるような場があればいいと思うのだが、そういう場がないのが残念である。

 私は一発試験でもいけるかもと思ったのだが、仕事の関係で何度も落ちる可能性のある試験はそう受けられないし、二段階に入る前に技能や学科はもうだるいなと思って、とちゅうでショートカットして一発試験を受けてやろうかと思ったのだが、たとえ免許がとれても、6時間くらい講習をうけなければならないらしい。どのみち教習には通わなければならないのである。

 技能の一段階はおもに操作面を習い、カーブやスラローム、一本線、クランクや曲線など課題が増えてゆく。つぎにどんなことをやり、なにを課題にするのかわからないと不安だから、ネットには教習日記というものがたくさんあって、どのよう課題があり、失敗があったとか、事細かに記されているので、かなり参考になる。できるだけ失敗やミスの多い人の日記を読むとはげまされるし(笑)、勉強になる。

 気になるのは教官との関係や対人間関係の部分ではあるが、だいたい技能も学科も同じ教官に当たりつづけるということは少なく、鬼教官やニガテなタイプの人とも一回だけとか、数回しか当たらないという場合が多いと思う。あっさりと一回かぎりの関係と思って、距離を保てるのではないかと思う。ずっと同じ人が担当するとすれば、いいところもあると思うが、担当が替わるのも関係がこじれるリスクを回避するためにはいいかもしれない。怒られたり、しつこく注意されるのも、しっかり覚えるための自分のためだと思うに越したことはない。

 教習にかかる時間だが、働いているととうぜん土日や夜間にしか受けられず、ペースは遅くなるだろう。私は一段階の技能9科目と教習10科目だけで、おおよそ二ヶ月くらいかかった。休日は午前中しか受けなかったし、2時限連続で受けられる技能もしんどいので一時限しか受けなかったから、このくらいの時間がかかった。平日昼間まるまる受けられるとすれば、学科も技能も段階ごとにほぼ一週間か二週間で終えることができるようだ。フリーになった私はこの一週間、二週間でばっと二段階をとってしまい、はやくキャンプ・ツーリングへと出かけたいと思っている。

 いぜんに技能のはじめての日にヘタな人と受けてかなり怒られた体験をしたので、「教習所ってDQN(暴力的)体質なのか」という記事を書いたが、このような心配はとり下げてもいいと思っている。のちの教習はそんなに目にはあっていない。ただし、技能がうまくこなせないとそういう環境になる可能性もあるので、なるべくバイクや課題は前もってなんらかの予習はしておいたほうがいいと思う。 

 

『海とオートバイ』 内田 正洋



海とオートバイ (えい文庫 163)
内田 正洋

海とオートバイ (えい文庫 163)


 ツーリング紀行や旅行記というのは写真がたくさん収められているのが好きである。視覚にダイレクトに訴えてくるものは、一目瞭然なインパクトを与える。文章でどこそこに行き、どんなことがあり、風景はこんなものだと文字で語られても、行ったことも体験したこともない者には実感や興味もかき立てられないのである。ツーリング紀行や旅行記は文章家より、写真家のほうが適していると思う。

 私は壮大な風景に納まったバイクの姿が好きである。大きな風景にぽつんと孤独に走るバイクの姿に旅情をかき立てられる。自然の大きさとちっぽけな人間の対比に、主役としての風景や自然の偉大さや圧倒性、そして人間やバイクの卑小さを思い知らされる。そんな風景が好きである。

 この本にはそのような構図の写真が多く収められており、そして文章のほうもどこそこに行ったという紀行文ではなくて、風土や地名の起源、人類や日本人の移動や文化が考察されていて、ツーリングや旅行はこのような学問をひっぱりだしてくることで、おもしろみはもっと増すと思う。旅行は学問探索の知識に結びつくことで、深みと広がりを増すのである。

 方角の考察もまたいい。

北(キタ)は、汚し(キタナシ)という言葉から来たらしい。
沖縄では、北をニシと呼ぶ。ニシはイニシ(去にし)から来ている。
西日本では、帰ることを、イヌル(去ぬる)という。

南(ミナミ)とは水が多くある水辺のことらしい。
水面は(ミナモ)だし、日本の南は海の世界。

東(ヒガシ)は、ヒムカシ(日向かし)から来た言葉。
つまり太陽が出る方角に向かうこと。

西(ニシ)は、去にし。
シは方向を意味する。



 方角を言葉から読み解き、そして地名も言葉によって読み解く。

徳島はかつて阿波の国と呼ばれていた。……アワとはポリネシア語で海峡を意味する。
和歌山のワカもポリネシア語では、なんと船や船乗りや海人族を意味する。
さらに大阪の浪速は、それをナニ・ワという風にポリネシア語で解釈すると、ナニは美しいで、ワは河口。



 ツーリングで各地をめぐりながら、このような考察ができれば楽しいではないかと思う。また風土や土地はそのような疑問や考察を駆り立てるものである。深く、広く、学問の考察に結びついてほしいものである。新しい地に出会う新鮮さはそのような疑問や考察を思わず立ち上げてしまうものなのである。ツーリングや旅行によって、学問の考察と結びつくことが、たんなる観光消費との一線を引くだろう。

オートバイは自然に対峙する、気概のある人を育てるのだ。寒風の中を凍えながら疾走し、どしゃ降りの雨に打たれ、秒速30メートルの風に吹かれながらの旅。



人は簡単に死ぬ。そう自覚することが生きること。



 ツーリングや旅行はたんなる観光や享楽で終わるのではなくて、深い文化性や精神性が付与されてほしいものである。こういう姿勢は日常の生活や人生にも共通してくるものだと思う。享楽と精神性の違いは、旅の行動や結果に多くの違いを生み出すことだろう。人生や人格だって同じである。


Rider's Story バイク小説短編集 ひとたびバイクに 禅とオートバイ修理技術 上―価値の探求 (1) (ハヤカワ文庫 NF 332) 禅とオートバイ修理技術―価値の探求 (下) (ハヤカワ文庫 NF (333)) 路上へ。TOURING RUN MEANS...
by G-Tools

『ASIAN JAPANESE〈2〉』 小林 紀晴



ASIAN JAPANESE―アジアン・ジャパニーズ〈2〉 (新潮文庫)
小林 紀晴

ASIAN JAPANESE―アジアン・ジャパニーズ〈2〉 (新潮文庫)


 「いい大学へ入っていい会社に入って」といった人生観やサラリーマン人生にたまらない閉塞感を感じはじめていた90年代、若者たちはアジアやヨーロッパにほかの人生を探しにいった。はるか昔にはモラトリアムやアパシーとよばれた若者の閉塞感は、00年代にひきこもりやニートとなり、若者の高失業率や非正規雇用と加速し、閉塞感の深刻度はいっこうに解消されないように見える。

 著者の小林紀晴は68年生まれのだいたいバブル入社世代である。サラリーマン社会の閉塞感から脱出し、ほかの人生を探るアジアの旅に三年の新聞社勤務の後に出た。自分と同じように何者かになろうとする「途中の人たち」をアジアに探しにいったのである。

 この巻ではヴェトナムとパリのアジアン・ジャパニーズが取材されている。ヴェトナムとパリの対比といえば、もちろん先進国と発展途上国の位階秩序である。ヴェトナムが混濁した若いパワーをもつ国だとすれば、パリは熟成した成長を通り越した国になるのだろう。熱い国と寒い国、または赤い焼けた土と、石の街という対比がいえるだろう。あるいは汗をかいて走っている姿と、体温を失ってしまったように映る街とも表現されている。小林自身はトレッキングシューズと底の厚い靴という対比や、汚れたザックと金属のスーツケースという違いをそれぞれの国に感じている。

 日本が凝り固まった石の街、システマティックな経済マシーンと化してしまったとするのなら、パリはその先にある街であり、ヴェトナムはまだここにこない熱い国になるだろう。青年期と老年期のようなものである。そしてわざわざ日本の国を飛び出した若者たちはそれぞれの発展段階になにを見て、なにを託してきたのだろうか。日本の閉塞状況の突破口のヒントは老年期と青年期の国に見つけられるのだろうか。

 書店の文庫本の棚をみると、アジア旅行記の本が何冊も見つかる。若者たちの視線は熱いアジアに向かっているのである。それはシステマティックなこり固まった社会になってしまった日本の、失われてしまったパワーやハングリーさ、活力や生といったものをとりもどすための旅に思える。高度成長を担う前のハングリーさやパワフルさを味わいたいがために、アジアに向かっているように思える。昭和30年代ブームの背景にも同じ志向が流れているのだろう。

 新聞やマスコミの目がいつもヨーロッパやアメリカの先進国に向かっていたとすれば、若者たちは東南アジアの後進国や発展途上国に向かっていたのである。小林紀晴のこの本はその流れの先陣をつけた。若者たちは死んで固まった日本ではなく、若者がそうであるように東南アジアのパワフルさやエネルギーに同調していったのであろう。

 東南アジアのエネルギーの源を探索する旅だったのかもしれない。日本はなぜ閉塞し、冷え込み、死んでしまったのだろうか――東南アジアの旅にはそのような問いがこめられている気がする。高度成長を沸騰させたエネルギーや活力の源はなんなのか、日本にそのような磁力をとりもどせないのか――アジアの旅にはそのような問いが潜んでいるように思える。エネルギーやパワーへの巡礼の旅といっていいかもしれない。

 死んでしまった国を蘇らせる――若者の東南アジアの旅にはそのような動機があるように思える。われわれの国はなぜ死んでしまったのか。国家や社会の若返り、あるいは成熟の継続はどのようにしたら得ることができるのだろうか。アジアや昭和30年代への熱い視線はその答えが得られるまでつづくのかもしれない。「ジャパン・デス」からの再生が求められているということである。


ASIAN JAPANESE〈3〉 (新潮文庫) ASIAN JAPANESE―アジアン・ジャパニーズ〈1〉 (新潮文庫) アジアロード (講談社文庫) デイズ・アジア Tokyo Generation
by G-Tools

TV版『ホームレス中学生』の撮影場所と社会的孤立状況



 みなさん、日曜日のTVで『ホームレス中学生』を見ましたか。ホームレス体験であるよりか、母への思慕が、ホームレスの境遇にめげず、兄弟でがんばることの誓いを生んでいて感動的だったのだが、私は大阪の地元民として撮影場所についてもの申したい。ローカル・ネタです。

 ホームレス中学生

 じっさいの田村裕が住んだのは大阪府の北部、吹田市で、あの「まきふん公園」は山田西第二公園であるそうだが、TVを見ているとなぜか大阪市のやや南、新世界や住吉大社を空腹を抱えて歩いているではないか。おや、と思った。どうして吹田市の人間が大阪の南のほうまで歩いてくるのか。そうとうの距離である。住吉に住む私としては違和感を感じた。

 私の憶測としては、大阪をイメージする風景として「チンチン電車」がある場所として、住吉大社あたりの場所が選ばれたのではないかと見る。道路をクルマといっしょに走るチンチン電車はもうそんなにない。そういう「大阪らしい」場所として、住吉大社あたりが選ばれたのではないかと思う。池乃めだかがハトにあげるパンの耳を田村に食べられてぶっ倒れたシーンが住吉大社である。住吉大社あたりは大阪の庶民の人情味のある町として選ばれているのである。

 住吉に住む私としては、吹田市は大阪市の郊外といった感じで、千里ニュータウンや万博公園が近くにあり、大阪は北高南低だから、わりあいに進んだ町だと認識している。もう郊外型の町になっていて、大阪っぽい、庶民的でも、人情味あふれる町でもないかもしれない。

 Snap_0016_convert_20080714195244.jpg


 この写真はドラマのワンシーンだが、大和川の中央をチンチン電車が走っていて、まさに私の家の近く、よく私は自転車で散歩したり、ぼーっと大和川をながめていたりした場所である。それともう一件、はっきりは確認できなかったが、どうも我孫子道あたりの見覚えのある風景が撮られていた気がする。これらのシーンは田村が友だちの母親や近所の人たちに助けられて兄弟とアパートに住むあたりに撮られていて、この住吉界隈は大阪の人情味あふれる町としてイメージされているのだろうか。もし吹田の友だち関係に紹介されたとしても、大阪市の南、住吉まで越してくるだろうか。

 この住吉に20年住み、大学を出てからひとり暮らしをはじめて近所づきあいをまったくしてこなかった私としては、この界隈にそんな人情味あふれる町が残っているかどうかは知らない。じっさいに田村兄弟が住んだのか、それともイメージとしての大阪として選ばれたのかはわからないが、ここらへんは大阪の町をイメージする場所としてふさわしいのだろうか。たしかにチンチン電車や昔なつかし庶民の商店街が少しばかり並んでいる。ここは大阪の庶民的な顔としてふさわしい町なんだろうか。

 とつぜん話が飛ぶが、つぎのデータを見ていただきたい。

 図録▽社会的孤立の状況(OECD諸国の比較)

 日本では人とほとんど付き合わない率が15%にも達していて、ダントツである。アメリカが3%、イギリスが5%、フランスでは8%である。日本はまれに見る社会的孤立度の高い国といえる。理由としては伝統的な絆が失われたことと、経済的サービスが発展したことの二つが考えられるとされている。

 私は後者の社交がなくても経済的サービスで満たされるという理由を選びたい。仕事とお金さえあれば、わずらわしい付き合いをしなくても生活はできるのである。日本はそういう方向でスーパーやコンビニや便利な暮らしを選択してきて、そして社会的孤立の深い国になったのだと思う。私もこういう経済サービスで満たされていて、人づき合いのない世界のほうが心地いいと感じる。

 しかしそのような快適な社会というのは、一歩仕事と金がなくなれば、壮絶な「無縁社会」と転げ落ちるものなのである。日本社会のホームレスの増加はこの社会的孤立と無縁社会にその理由を求められると思う。金がなくなれば、いっさいの経済サービス圏から放り出され、地縁や共同体からも省みられず、路上や公園で暮らさざるをえないのである。日本の快適さである強さは、一歩踏み間違えば、とてつもない奈落の底を用意しているのである。『ホームレス中学生』の家族はそのミゾに落ち込んでしまったのだろう。そしてベストセラーの要因は、われわれの社会の不安もあぶり出しているのだと思う。

 快適であるけれども、一歩道を間違えば、だれも助けてくれない社会になったのである。快適な経済サービス圏はお金がなければ、たちまち弾き出されてしまう。それは経済マシーン化してしまった、人間の助け合いや情緒を失った社会だといえるだろう。われわれがホームレスや困った人に手をさしのべられないのは、このような経済マシーンの社会を選択し、信仰してしまっているからなのである。

 私たちはこの快適な経済マシーンの社会を拡張しつづけるべきなのか、それとも不快で不便も多いかもれないが、人づき合いがあり、顔のある助け合いの社会に戻ってゆくべきなのか。ホームレスや孤独死、ワーキングプア、ネットカフェ難民、医療難民、これらの人たちはこの経済マシーン社会から弾き出されて、この回転木馬の酷さや壮絶さをふり落とされたところからながめてしまった人たちである。『ホームレス中学生』の田村裕も同じような光景を見て、そしてこの本やドラマを見た人もその視点を思いがけず垣間見てしまったことになる。

 経済マシーンの便利で寂しい国は、どこまで弾き飛ばされた人たちを踏みつづけるのだろうか。

評価と承認を他人にあずけるな



 会社からリストラされるってことは、人に深い傷を刻み込んでしまうものだろうか。あるいはこんなクソったれ会社、自分から辞めてやらぁと思えたら、なんの落ち込みも経験せずに会社をオサラバできるものだろうか。

 こんかい約6年間勤めた会社を請負会社ごとリストラされることとなった私は、どういう心構えでいることがいちばんリストラのショックを受けずにすむかとおりおり考えてきた。たぶんに自分の自我や人生の多くを捧げた人にとってはリストラはたいそうツラい経験となると思う。自分自身の自負やアイデンティティ、または評価が会社と同一化している人は、自分が失われるような落ち込みを経験するだろう。

 評価や承認を会社に期待している人はたいそうの傷を負う。逆にそれらを期待していない人にはその傷を和らげることができる。その会社を嫌いだったり、上司や社長が尊敬できなかったり、承認も期待していなかったのなら、会社からの排除勧告は私の心を痛めない。評価されたいと思ってもみない人から評価されなくても、べつにどうでもいいことだからである。だれに承認されたいかという欲求はおそらくはわれわれの人生を左右するものなのだろう。

 日本人というのは学校に評価され、教師に承認されることを動機づけられ、社会に出ても会社や上司に評価され、承認され、出世ボストを上ることが「正しい人生」とされてきた。他人の承認をもとめるように動機づけられてきたのである。人生の最初は両親に認められることであったり、友だちや仲間に承認されることが、社会に出ると会社の上司や仲間に承認されることに変わる。そういういつも「私」はまわりの他人に評価され、承認してもらうことを人生の目標にしている。

 これでは私の価値や意味は「他人に決められてしまう」。他人に「私」の人生のゲタを預けてしまうことである。そして「私」は他人に認めてくれ、「私」は優秀だ、優れている、こんなによくできる、とまわりに宣伝しつづけなければならなくなったのである。それが人生だ、目標だと思っている者にとって、もしリストラされたり、格下に評価されたり、劣等扱いされるとたいそう痛い経験となることだろう。他人の評価や承認でつくってきた私の自我が砕け散ることを意味するからである。だから私たちはできるだけ他人の承認をアテにしない戦略と自我をつくることが賢明というものなのである。

 ショーペンハウアーはいっている。(『幸福について』新潮文庫)

「われわれが他人の思惑を重視し、それを絶えず気に病んでいることは、通常、どんな目的活動にもまず類を見ないほどはなはだしく、いわば世間一般に波及したというよりはむしろ人間生来の偏執だと見てもよさそうなくらいである。

この名誉欲という動機を理性的に見て妥当と肯かれる程度まで抑制し引き下げること、すなわち不断に責めさいなむこの棘をわれわれの生身から抜き取るのがいちばんよいことは明らかである」



 名誉心や承認欲といったものは人間の根本的な人生の欲望みたいなものである。それが後天か、先天かはむずかしいが、ショーペンハウアーも人生の心配の半分はこれに費やすといっている。もしこの承認欲を引き下げれば、心の平静と自分自身の生を生きられるだろう。そして他人の承認の奴隷になったり、首輪をかけられずに、心配や不安を多く落として、ほんらいの自分自身の人生をとりもどせるだろう。

 われわれは承認や評価のゲタを他人に預けるべきではないのである。とはいってもこの社会は他人に評価されたり、承認される者が、社会で偉くて尊敬される存在とされている。つまりは承認欲を引き下げることは、他人の評価も承認もあきらめるということである。社会では劣等や格下の存在と見下げられることも意味する。社会は社会に貢献する者のヒエラルキーをつくって、社会の貢献をわれわれに動機づけるのである。われわれはこの心的作用によって、不承認や不認知の傷や悲しみを発動させられるのである。社会はわれわれの心的作用にこのような装置を組み込んでいるといえるだろう。

 不承認のキズを受けないためには、われわれは承認を期待しないこと、もしくは承認のジャンルや対象をずらすことが必要ではないかと思う。承認を与える社会の基準評価に染まらないことである。その承認のかたちに当てはまらない自己承認をもったり、あるいはそういうかたちの承認を必要としない思考形態を編み出すことがよいのではないかと思う。そういう承認形態は私の必要とするものではないということである。もしその母体から承認されないとしても私の心にキズができるわけではないのである。べつに承認されたいと思っているわけではないのだから。

 もし学校や会社に評価され、承認されることしか人生の価値や意味は認められないと思い込んでいるのなら、それらからの蔑視や排斥の宣告を受ければ、「私」の自我はこなごなに砕け散ってしまうだろう。しかしべつにこんなものの評価や基準で自分の価値が決まるのではない、それらの承認なんて受けたいとも思わなかったら、「私」の衝撃は少ないものになるだろう。

 価値の軸をどこにおくかということである。今日の企業形態や企業業務に価値や意味をあまり認めていないのなら、その評価や不承認は「私」の重要事ではない。もともとそれらに価値をおいていないから、認めてほしいとも思わないのである。「あっ、そうですか」というレベルである。

 承認というのは、「私」の価値があると思ったり、認められたいと思っているものから得られるのならうれしいものだが、価値をおいていないものからの承認/不承認はさらりと流せる。好きでもない異性や仲良くなりたいとも思わない知人からそっぽを向かれてもなんとも思わないとしても、好きな異性や認められたいと思っている人から、嫌われたり捨てられたりしたら、たいそうツラいことである。だからそういう対象をできるだけ減らせば、私は承認を他人に預けなくてすむということである。承認を他人にではなく、自分のほうに重みをおくと、私は他人に振り回されずにすむのである。

 クリシュナムルティの言葉である。(『未来の生』春秋社)

「君が野心的なとき――宗教的に、または世俗的な意味で君がひとかどの者になろうと努力しているとき、もし君自身の心をのぞきこんでみれば、君はそこに恐怖の虫がいるのを見出すことだろう。野心的な人間は、誰よりも一番恐れている人間である。なぜなら彼は、あるがままの自分であることを恐れているからである。彼は言う。「もし私がいまのままの自分だったら、私は何者でもない。それゆえ、私はひとかどの人間にならなければならない。知事、判事、大臣にならなければならない」

彼は、彼自身の内面において取るに足らず、貧しくそして醜いと考え、孤独で、まったく空虚だと感じ、それゆえ彼は「出かけていって、何かを達成しなければならない」と言うのだ。

野心的な人間はけっして彼の天職を見出さなかったのだ。もし見出していたら、彼は野心的でなかっただろう」



 私たちは自分が偉くなり、他人や世間から承認されれば、自分の無価値さやちっぽけさは解消されると思っている。もし得られなかったら悲劇だが、大半の人はほぼこの屈辱を味わわなければならないだろうし、承認を得たとしても、それは「自分自身のありのまま」が承認されたわけではないので、いずれにせ悲劇である。私たちは自分が承認されていないとしても、それは心がつくりだした「不満」や「空虚さ」という「作為」であることに気づき、その心が去るのを待つことである。思考が問題をつくり、解決を考え出し、そしてその結果はすべて失敗に終わる。なぜなら心は「砂上の楼閣」である不満をつくりだし、解決はそこから一歩も出ていないからである。

 こんにち社会で価値があるもの、意味があるもの、あるいはヒエラルキーの頂点にあるもの、これらの真似事をして承認を得ようとすると、多くは他人の奴隷になったり、振り回されたりすることになる。他人に不満をもち、他人を恐れ、自分自身をなくす。承認されないことの恐れと、承認されないことの現実に胸を一刺しにされるだけである。他者に承認されることをひき上げて、なるべく自分自身の価値や好みによって承認や価値を得ること――それが私たちの平穏と幸福をもたらし、ひいては自分自身の生も生きられるのだろう。


参考・関連文献
幸福について―人生論 (新潮文庫)わたしを認めよ! (新書y)人はなぜ認められたいのか―アイデンティティ依存の社会学承認欲求―「認められたい」をどう活かすか?

未来の生 クリシュナムルティ
未来の生

『5万4千円でアジア大横断』 下川 裕治


5万4千円でアジア大横断 (新潮文庫 (し-57-1))
下川 裕治

5万4千円でアジア大横断 (新潮文庫 (し-57-1))


 5万4千円でアジアが横断できるのかと読んでみたが、ひたらすバスに乗りつづける自虐的な旅は、猿岩石の無銭旅行を思い出させたが、そこまでおもしろいものではない。ひたすらバスの行程が描かれるだけで、すこしの期待を抱いては読めるが、それ以上でも以下でもない。まあ、そういう本であり、ほかにいうこともない。

一軒の食堂に入り、注文に戸惑う僕らに露骨といっていいような嫌な顔をされると、中国社会で生きていくことの厳しさのようなものを痛切に感じてしまう。

 ところがボーダーを越え、時差の調整のために時計の針を一時間遅らせるベトナム社会では、急に人と人のあたりが柔らかくなる。日々の暮らしには笑顔があり、遠慮とか謙譲といった空気が流れてくる。タイやカンボジア、ラオスといった小乗仏教ともいわれる上座部仏教の国からやってくると、ベトナム人のきつい国民性にたじたじとなることは多いが、中国からやってくると、すべてを包みこんでくれるような優しさが際立つのだ」



 旅行でこういう比較文化的な視野がひろがるのっていいなと思う。中国から東南アジア、インド、イスラム圏と来れば、かなり人種や風合いも変わってくるだろうし、違いも明瞭なものがあると思う。そういう視野が手に入るのなら、アジア旅行の醍醐味があるというものだろう。

「イスラム圏には大家族が残っている国が多い。子どもはすべて神の子だからだ。それは、少子化に悩む先進国に比べると、出生率が高く人口増加が維持できることを意味していた。いまの世界を、イスラム教対キリスト教といった対抗軸で語る人が多いが、その一方で、その勝敗はすでに決しているという見方もある。出生率を眺めると、キリスト教のなかでもプロテスタント圏、そして仏教圏が軒並み低下しているというのだ」



 人口増加の数でいえば、イスラムとかインド、アフリカなどが勝っていて、先進国はもう先がないといえる。人口が増える国に新しい文化や文明が生まれ、世界の中心になってゆくのだろうか。そしてこんにちの先進国は世界の遅れた、片田舎になってゆくのかもしれない。それにしてもキリスト教や仏教のような禁欲を説く宗教が先進国をおおい、人口数を減らすような宗教が受け入れられたりしたのだろうか。ヘンな話である。

 アジア旅行に出かける人が多くなったり、アジア旅行記の本がたくさん出ているが、アジアに興味が向かうと、なぜかヨーロッパに興味が向かわなくなる。ヨーロッパは高級ホテルで、アジアは大衆ホテルといった感じがして、ヨーロッパの敷居は高くなる。アジアに魅かれる人は若干の先進国の優越感をもって、アジアの後進性に自負心を満足させるのだろう。「先進/後進」のヒエラルキーが旅行者を満足させる。

 旅行者はアジアの後進性を笑うために向かうのだろうか。いいや、後進性のスローさや猥雑さ、そして飾らなさ、そういったもののアジアに魅かれるのだと思う。アジアの旅行者は日本が失ったむかしのよさを思い出すためにアジアに向かうのかもしれない。昭和30年代ブームと近いものなのだろうか。

 旅行というのは比較文化的、比較文明論的な視点を養うものなのだろう。そして井の中の蛙の人生や常識にゆさぶりをかける。人間というのほかの人の生き方や考え方、技術などをたくさん学ぶことによって、進歩したり、あるいはよりよい生き方、人生を選びとってきたのだろう。選択の幅をひろげるということである。たったひとつの人生しかないと思い込んでいた井の中の蛙の日本人は、たくさんの蛙がいることを知って、はじめて自分はなんて狭い井の中に住んでいたのかと悟ることになるのだろう。


12万円で世界を歩く (朝日文庫) 週末アジアに行ってきます (講談社文庫) 古戦場 敗者の道を歩く (講談社+α新書 (345-1C)) 日本を降りる若者たち (講談社現代新書) 新・アジア赤貧旅行―やっぱりアジアは面白い (徳間文庫)
by G-Tools

『みんな土方で生きてきました』 日野 勝美


みんな土方で生きてきました (新風舎文庫)みんな土方で生きてきました (新風舎文庫)
(2006/04)
日野 勝美

商品詳細を見る


 この社会のすべての人は何らかの仕事に関わっているはずなのに、仕事や労働について語られることは少ない。子どものときに見るメディアでも語られるものは勇気や友情や愛だったりして、労働や仕事についてではない。世間は労働について語ってくれないのである。主観的に自分の仕事や労働について語られる情報はほんとうに少ないのである。

 街中で見る土木作業員、いわゆる土方と呼ばれる人はどんな思いや考えでその仕事をしているのだろうか。労働について迷いつづけてきた私としては、ほかの人の労働観をのぞいてみたいといつも思うのである。

「工場で働いているとき、私には土方や土木作業員について漠然としたイメージがあった。それは、汚い仕事で、きつい上に危ない作業が多いということだった。なんといっても格好悪いというイメージがあった。
現実に工事現場で働くようになってからもこのイメージは変わらなかった。やっぱり、汚い、きつい、危険な仕事で、格好悪いものだった。

……知り合いや家族に見られるのは格好悪く、穴があったら入りたい気持ちだった。
「おとうさん、道端で土方の仕事はやめてよ。格好悪くてやれんわねん。もっとなんか、他に仕事あるだろうがねん?」
家族に言われたことがあった。

「ドカチン服で外に出るのやめてよ。格好悪くてやれんがねん」と女房に言われたものだ。



 私たちはみんな仕事につかなければならないはずなのだが、なぜか働いている姿を人に見られるのを恥ずかしがる。労働を隠したいのである。職業貴賎や職業階層が働いているからだろうが、労働には「役割」をまとう恥ずかしさや、苦役に縛られている罪悪感のようなものが、隠蔽意識を働かせるのではないかと思う。

 みんな「穴の中」に入るように仕事は建物の中に消えてしまったのだが、土方の仕事は道端や河川でおこなわれ、人の注視にさらされる。仕事が隠蔽された社会で、土方は尻を隠せないのである。建物のなかでスマートに頭をつかう仕事に優越性が付与され、外に出て体をつかう仕事は蔑視の対象になる。学校の知能選別によるピラミットが有効に働いているのである。

「土方には何か不思議な魔力みたいなものがあった。一度その世界に漬かって、ひと通り仕事を覚えると、なぜか体が土方をほしがるのである」



「測量は……形あるものが現地に残せない。土方は形あるものが残せた。大きな道路や橋や堰堤をつくれば、仕事をしたという実感があった。
土方人間は気さくでつき合いやすい。……面子や体裁にこだわらないのだ」



 イスに座り、机に向かう仕事は、沈黙を強いられ、協同の喜びも削がれる事も多いのだが、体をつかい、協同で働く仕事は、気さくで自由なコミュニーケーションがとれ、飾りや鎧がいらない。たしかにこのような中で働くことは、人間の根本的な喜びであると思う。職業はカッコよさやスマートさ、知性のヒエラルキーでは測れない良さや喜びがあるもので、学校知能のピラミッドしか知らない者には味わえない喜びをかれらはもっているといえるだろう。だいたい人間には手足があるのだが、イスに座りっぱなしで手足を使わない仕事は、知性のヒラエルキーでは上位にこようと、人間としてはかなり不自然なことなのである。

 この本の中で著者は個性的な人たちの仕事ぶりや人格を数多く観察している。仕事談というよりか、人間談なのである。仕事というのは、優秀さや成績で測られることもあるだろうが、まず第一に人間そのものが出るものであると思う。性格や人格が仕事をしているようなところがある。職場の人たちの会話となれば、仕事の業績や貢献より、人物評価になりやすい。仕事とはその人の「人間性」そのものといえるように思う。はっきりいって、ときに「仕事」にいっているというよりか、「人間関係」をやりにいっているんではないかと思うときもある。

 著者は島根県で土木作業をしていたそうだが、農業のかたわら土木作業に就く人たちが多いそうである。農業では食えないから、百姓に近い土をあつかう仕事として土木作業が選ばれたそうだ。島根県の一戸あたりの農業所得は57万円。これではとうぜん食えないので、土木作業を兼業することになるのだが、休日に農作業をおこなったり、あるいは田植時期や収穫期にはおおぜいの作業員が休むことになるそうである。地方の農家は本業でも、あるいは公共事業の削減により土木作業でも食っていけない時代がくるかもしれない。

 この本ではおんな土方や流れ土方のことものべられていて、土方という職業のひじょうにリアルで、人間っぽい側面が読める労働文学、あるいは人生の書ともいえるかもしれない。労働や仕事を人生という側面から語った本や体験談をもっと読みたいものである。しかし日雇い労働や西成から見た土方とはどのようなものになるのだろうか、この側面から見るともっと違った相が出てくるのだろう。


おんな土方、ヨイトマケの唄 YouTube
1966年のヒット曲。「土方」が差別用語ということで放送自粛に。近年、再評価がいちじるしい。(ウィキペディア)
ヨイトマケの唄 美輪明宏 神かがり的。
米良美一 ~~ ヨイトマケの唄 スタジオの表情がいい。
ヨイトマケの唄 - 泉谷しげる
桑田佳祐「ヨイトマケの唄

著者のブログ(2007年で更新はストップしていますね)
みんな土方で生きてきました

『自由に至る旅』 花村 萬月



自由に至る旅―オートバイの魅力・野宿の愉しみ (集英社新書)
花村 萬月

自由に至る旅―オートバイの魅力・野宿の愉しみ (集英社新書)


 近々長い休みがとれそうなので、野宿ツーリングを楽しもうと、かつて読んだことのあるこの『自由に至る旅』を再読した。いぜん読んだときはバイクの免許もなく、ただ憧れだけで読んだ。いまは原付に3年乗り、野宿ツーリングも何度か体験し、感じ方も変わっているだろうと読み直した。

 私は旅行というものが嫌いだったし、バイクに興味をもったこともほぼない。通勤の必要から原付バイクに乗り出し、人と関わらないで地続きに日本の土地のどこまでもいける野宿バイクの魅力に改めて気づいたということだ。旅行は嫌いだった。「旅行にきています」と悟られるのがいやだった。ヘンな自意識なのだが、旅先で関わるいろんな人に旅行者というまなざしで見られることが不快だったのである。旅行を「感傷」や「郷愁」といったレッテルで見てしまう、そんな私の他者への投影に不快感をもっていたのかもしれない。

 野宿ツーリングはそういう私の不快感をいっきょに解決してくれる。地続きで人と関わらないでどこまでいけるし、他者の好奇の目(自意識ではあるが)を味わわないですむ。近所に出かける足をひきのばせば、どこまでもいけるし、泊まるところを安上がりであげられれば、何日も旅行することに平気になれる。こういう手段を確保してはじめて、日本の景色や風景は私の身近なもの、手の届くものになったのである。電車や旅館という手段しかもちえなかったら、たぶん私は旅を嫌いなままだっただろう。

「もういい加減、旅館やホテルなどの宿泊施設に泊まるということの不自由さに気づいてもいいのではないか。なんで、あなたの行程が、たかが宿泊施設の有無に左右されなければならないのか。わざわざ金を遣って面倒を背負い込むその精神が理解できない。
宿泊施設に頼る旅の欠点は、思いつきで行動できないところです。予約という名の予定を入れてしまえば、あとはそれをこなすだけになってしまう。それって日常的な仕事、作業と一緒じゃないですか」



 野宿ツーリングはたまたまめぐりついたところ、疲れてしまったところなどで、テントを張って眠ることができる。目的地や目標をいっさい設定しないで好きなところをめぐることができるのである。何時までにどこそこの旅館に入らなければならないとか、時間のために立ち寄りたい場所にも寄り道することができないといったこともない。すべて自由気まま風の吹くままである。はじめから目的地・時間の決まった旅程などがんじがらめの集団規律みたいなものである。

 私はバイクをカッコいいとか思ったこともないし、自慢や優越感をもって走るようなライダーとはまったく違う種類の人間だと思っている。バイクは移動するための「手段」や「道具」にしか思っていない。バイクに過剰な自意識を付与させる人たちとはまったく違うと思っている。私はあくまでも風景や景色を楽しみたいだけで、バイクのカッコよさとかライダーであるという自意識をまったくもっていない。バイク雑誌でいっているような良さとかカッコよさはまるでどうでもいいのである。なんだか「バイク同一性障害」みたいな感じだが、まったくバイクにそういう過剰な意味をつけることを削ぎ落としてほしいものである。それは私にとっては鉄道旅行の「てっちゃん」の趣味みたいなもので、私にはどうでもいいことなのである。

 花村萬月のこの著書はそういう意味ではライダーの部分が多い本であり、何百キロもいっきに走り飛ばしたり、バイクに優越的価値を求めたりと、そういうところは鼻につく、というか贅肉の部分であると思う。それはバイク雑誌の仕事である。個人的にはこういう景色がよかったとか、野宿の方法や場所だとか、冬や夏の対策だとか、そういう部分をいちばん読みたかった。もちろんこの本にはそういう情報は満載であるが、私にとってはこの人はまだライダー・オタクであると思う。

 私が野宿ツーリンクで興味をもったものというのが、風景のすばらしさや写真を撮ること、古代史や民俗学などであったりしたのである。風土や風景はその土地のよって立つ歴史を思い浮かべずにいられなかったし、山村や漁村に住む人たちの生活や生業に私は興味をかき立てられた。私の興味は完全にこちらのほうに向かっているので、バイクのどうのこうのという趣向はほぼない。でもバイクって、いやがおうにもバイク趣味でなければならない部分があって、やっかいな乗り物であるとは思うが。

 私は野宿ツーリングによって各地の風景や生活の営みを楽しみたいと思っているだけなのである。やはり「バイク同一性障害」だな。


オートバイ・ライフ (文春新書 (048)) 風と旅とオートバイ―ツーリング・シーン12章 (広済堂文庫) 暁のキックスタート (広済堂文庫) 出たとこ勝負のバイク日本一周(実践編) (〓@53B2@文庫) 出たとこ勝負のバイク日本一周(準備編) (〓@53B2@文庫)
by G-Tools

『アジア定住』 野村 進


アジア定住 (講談社プラスアルファ文庫)
野村 進

アジア定住 (講談社プラスアルファ文庫)


 私は海外旅行にいきたいだとか、海外に定住したいという夢などちっともたなくて、アジア各国に定住する日本人をインタビューしたこの本はべつに魅力的ではなかったし、憧れを駆り立てられるということもなかった。

 ただアジアは日本を相対化してくれると思う。西洋化、経済化しすぎて閉塞状況に陥っている日本の行きづまりになんらかの打開策をもたらしてくれるのではないかと思うのである。日本はヨーロッパやアメリカのほうばかり目を向けているのだが、近代化される前のアジアに日本は改めて学べることが多くあるのではないかと思う。私たちの社会というのは経済化されすぎた社会になったためにたまらなく息苦しく、生きづらい世の中になっているのではないかと思う。アジアの古き佳き時代、スローな生活というものに学べないものだろうか。日本人はそういう時代に還りたいと思っていないだろうか。

「タイに長く住む日本人研究者に言わせると、日本に帰るたびに日本の若者がタイの若者に近づいていることに気づかされるという。
「いい意味で"脱力"していますよね。出世しようとか金持ちになろうとか力まないで、その日その日を楽しく快適に過ごせばいいと考えるようになっている。日本の若い人は、すぐにしゃがむでしょう。ああいう姿勢なんか、タイ人にそっくりだと思いますね」



 日本は西洋化・経済化の150年をつっ走ってきたわけだが、ここいらで疲れてきた、もういいや、という気持ちになってきているのではないだろうか。「生産マシーンの日本人」をやることにへとへとになってきたのだろう。またのんびりしたスローペースのアジア人、むかしの日本人に帰りたがっているのではないだろうか。日本人はそろそろ目標を西洋からそらして、タイとかアジアに定めるほうが、日本の民衆はじつは心の底から願っていることはではないだろうか。「軍隊=経済化」しなくても、日本は生きてゆけるのだろうし、日本の新しい世代はもうそんなことをのぞんでいないだろう。日本人はまだ「軍服」を脱いでいないといえる、経済という名の国家軍事である。

「日本にいると先のことを考えないといけないでしょう。バリの人は、その日その日のことしか考えないんです。きょう食べる分があればいいという考え方。……ここの人たちは飢えることがなかったし、暑いからこごえる心配もありません。先のことを考えなくても生きていけるんです。がんばらなくてもいいというのは、とても楽ですよ(笑)」



 いまの日本人には足りないのはまさにこのような考え方だろう。日本人は学生のころから年金や生涯の安定のことを考えて生きるように設計されている。その有利な席を確保するための学歴競争や出世競争で人生を終える。一生を先のことを先のことを考えて暮らし、老後の不安や心配ばかりに今日を生きるのである。幸せなわけなどないのである。日本もかつては豊潤なアジア的な生態系に満たされて明日のことなど心配しない生活を送ってきたのではないだろうか。明日の心配をとりのぞくことがまったくムリだとしても、もっと身近な設定までで打ち止めにできるような人生のほうが、日本人を豊かにできるのではないかと思う。こういう意味で日本は悲愴なまでに「貧しい」といえるだろう。

「マレーシアを含めて東南アジアの民族や民衆は、日本人のように組織とか国に仕えるという気持ちはこれっぽっちもない」



「(中国人は)愛社精神とか会社への帰属精神なんてありません。……技術者のプライドというのはありません。給料の少しでもいいほうにいいほうにと転々と職を変えていきます」



 日本人は組織とか国家への忠誠心がいぜんとして高いといえるだろう。年金とか社会保障だとか、年功賃金だとか退職金、転職の不利さなどから、組織や国家にしがみつかざるをえない仕組みがあるからだろうが、日本の閉塞状況、あるいは民衆の豊かさ、自由さを生み出すという意味ではあえてこの組織依存のメリットを破壊してゆかなければならないと思う。このメリットのせいで日本人はとてつもなく縛られた監獄の人生を送らなければならなくなっている。これは生涯保障という捨てられない安心なのだが、生理的に耐えられるものではない。だからアジアのスタンダードのように組織や国家にそっぽを向いたような人生のほうが、日本人をラクにできると思うのである。

 ただアジアには悲惨や学ぶべきではないものもたくさんある。アジアに手放しで学べるなんて思いはだれももたないと思うが。

「実は日本以外のアジアの大半は、「カーストなきカースト社会」と言ってもいいほどの階層社会なのだ。人々は、民族、宗教、職業、居住地、貧富、それに男女の差などによる階層で、幾重にも厳しく分断されている。
階層が違えば人を人とも思わぬメンタリティーを、少なくとも戦後これまでの日本人が否定してきたことの尊さを強調したい」



 日本は西洋からの相対化の目よりか、アジアからの相対化の目をとりいれる必要があるのではないかと思う。西洋は進んでいて優れていて、アジアは遅れていて劣っているというモノサシだけではたぶん日本人は幸福になれないだろうし、今日の日本の閉塞感は突破できないだろう。西洋一辺倒が私たちの今日の忙しい、息苦しい人生と生活を提供してしまったのではないだろうか。アジアの先進国という優越感をもつより、すなおに人間らしい生き方、ゆとりのあるラクな生き方を教えてもらうという意味で、アジアはもっと大きな懐をもっているのではないだろうか。


アジア新しい物語 (文春文庫) コリアン世界の旅 (講談社プラスアルファ文庫) 新・アジア赤貧旅行―やっぱりアジアは面白い (徳間文庫) 香田証生さんはなぜ殺されたのか 笑うバックパッカー (双葉文庫)
by G-Tools

ユーチューブでなつかしの洋楽名曲にひたろう



 You Tubeは2006年5月頃ころからハマりにハマりました。私は80年代MTVで育ちましたので、もう見れないと思っていた当時のミュージック・ビデオが山のように見れて感激しまくりました。TVを見る暇も寝る暇も惜しんでなつかしいビデオを探してまくったものでした。でもなつかしいミュージック・ビデオを探る以外の楽しみを見つけられませんでした。いぜんはよくYouTubeのリンク記事をつくったものでしたが、もうすっかりネタ切れです。

 関西圏以外でもやっているか知りませんが、神戸のサンテレビでときたまなつかしの曲を集めたCDショッピングのようなものをやっていて、なつかしい曲を何曲もやっているのでついつい見てしまいます。今回はその収録曲からの何曲かを紹介したいと思います。

〜僕たちはこの音楽を聴いて大人になった。〜 MY HEART マイ ハート


Boz Scaggs / We're All Alone
恋人たちの曲といえばこの曲をおいてほかにありません。

Up Where We Belong JOE COCKER & JENNIFER WARNES
80年代の最高の曲と思っています。ジョー・コッカーのうなり節がいいですね。

You're Only Lonely J.D. Souther
J.D. サウザーのこの曲はたまらなく好きです。

Linda Ronstadt Desperado
中年のリンダロンシュタットしか知りませんでしたが、若いころはかわいかったのですね。

Air Supply - Lost In Love
エア・サプライの陶酔の境地につれていってくれる名曲ですね。

MICHAEL JACKSON BEN THEME
マイケル・ジャクソンはこのころから世界的なシンガーになると約束されていたのでしょうか。

Diana Ross - Theme from Mahogany
ダイアナ・ロスってさすがにいい曲がいっぱいありますね。

Diana Ross & Marvin Gaye - You Are Everything
小耳にはさんだだけでも耳に残る曲ですね。

Gilbert O'Sullivan - Alone Again
なつかしの「アローン・アゲイン」ですね。

Gilbert O'Sullivan "Clair"
このギルバート・オサリンバンの曲もなかなか。

Randy VanWarmer - Just When I Needed You Most
邦題『アメリンカ・モーニング』で知られた爽やかな曲。

Chicago - If You Leave Me Now
若きころのピーター・セテラが長髪で。

Chris Rea : On The Beach
しわがれ声がシブいクリス・レア。

Joe Cocker - You Are So Beautiful
体ぜんたい、ジェスチャアぜんたいで唄うジョーコッカー。

Sailing by Christopher Cross
なんともゆったりした気持ちになれる曲ですね。

I'm Not in Love  10cc
名曲に数えられる曲ですね。

You're So Vain Carly Simon
カーリ・サイモンの『うつろな愛』

Charlene - I've Never Been To Me
はじめて聴いたら前にも聞いたことがあるような曲に思える曲ですね。

Harry Nilsson - Everybody's Talkin'
ニルソンの『うわさの男』。この曲も耳にすることが多いですね。

Peabo Bryson & Roberta Flack - Tonight I Celebrate My Love
爽やかな曲ですね。

Marty Balin - Hearts
マーティ・バリンの『ハート哀しく』。ビデオがあったなんて。

Kool & The Gang - Joanna
『ジョアンナ』はよかったですね。

Kenny G - Song Bird
サックスのとろけるような曲。

Minnie Riperton - Loving you
朝の爽やかな空気が似合う曲ですね。

Bertie Higgins - Casablanca
哀愁漂うバーティ・ヒギンズの歌声。

Earth, Wind and Fire - After the love has gone
サビの裏声を覚えていますね。

Rupert Holmes - Him
ルパート・ホルムズはかなり魅力的でしたね。

Rosanna TOTO
TOTOはなつかしいですね。

Shakatak - Nightbirds
軽快なインストゥルメンタルの曲がよく流れていましたね。

Almost Paradise - Mike Reno & Ann Wilson
映画『フットルース』からのバラード曲。

Dionne Warwick - Heartbreaker
ディウォンヌ・ワーウィックの『ハート・ブレイカー』


『アジアン・ジャパニーズ〈1〉』 小林 紀晴


ASIAN JAPANESE―アジアン・ジャパニーズ〈1〉 (新潮文庫)
小林 紀晴

ASIAN JAPANESE―アジアン・ジャパニーズ〈1〉 (新潮文庫)


 先ほど読んだ下川裕治『日本を降りる若者たち』。旅行ってお決まりの観光地をめぐる引率パッケージ・ツアーの呆けたイメージしかなかったのだが、この本を読んで旅行に日本のオルタナティヴを探す、あるいは日本を降りるという動機があるのを知って、がぜん旅の可能性に啓かれた気がした。

 日本以外のほかの生き方はないのか、ほかの国でそのような可能性が見つかるかもしれない。日本ではサラリーマンになって年金や退職金のために定年までがんばるといった人生しかないのだが、他の国の人たちはもっと自由に多様な生き方をしているかもしれない。とくに先の本の中でタイにハマる若者は現地の気楽な労働観にふれて、「沈没(その国に長期間滞在)」してしまうことが多いそうである。平日の昼間からぶらぶらしていても後ろ指をさされない「ゆるさ」にハマってしまうらしい。アジアはそういった労働観においては「ゆるゆる」のものをもっているらしく、私もそういう実情を探るべく旅行本を物色中にこの小林紀晴の本を見つけた。小林紀晴の本を読むのは十年ぶりくらいだ。

 小林紀晴は三年勤めた新聞社のカメラマンを辞めてアジアの旅に出た。同じようになにかを求めてアジアを旅する若者に、旅する意味や旅から得たものを問うた。写真を撮り、インタビューすることにより、みずからの迷いや問いの答えを見い出そうとしたのである。日本のサラリーマン人生の閉塞感や空虚感のオルタナティヴを見つけようとして。

 アジアの旅に出たからといって、帰ってきても日本は変わっているわけではない。同じ退屈な終わりなき日常、先の見えたサラリーマン人生が待っているだけである。この本が出たのは95年だから、それから十年たち、日本の閉塞感や就職氷河期、若者の混迷は深度を深め、とうとうアジアに沈没し、長期滞在する若者もかなり増えたことだろう。日本は経済マシーンや労働マシーンと化してしまったのだが、そこまで到らない貧しいアジアはぎゃくにゆるやかで穏やかな人生が広がっているのかもしれない。アジアを旅する若者はそのような「ほかの生き方もできる」という人生観を啓かせて帰ってくるのかもしれない。

 日本に暮らしていれば、知ることは日本のことばかりである。海外の国や社会のことをほとんど知ることはない。日本人という画一化・均質化したステレオ・タイプの人生コース、人生観を叩き込まれるばかりである。アジアを旅するということはさまざまな人生観や社会、労働観にふれ、実感として味わってくることではないだろうか。そのことによって、こういう人生しかないとか、「正しい人生コースから落ちたら生きてゆく道がない」といった思い込みからの脱出と寛容の意識が芽生えるかのかもしれない。

「人間はどんな風に生きてもいいんだ」



「会社を辞めて旅している人たちに何人か出会ったんだ。五年くらい就いた仕事が向いてなくて、もう一度やり直そうと旅に出ている人たちに。……僕は一回就職したら、そのまま一生やらなくてはとずっと思っていたんだけど、そんなに固く考えなくていいんだな、考えすぎなんだと気づいたんだ。すごく気が楽になった」



「貧しい、遅れていると言われていた世界で実は、四角い空ばかり眺め、満員電車に乗っていた僕などより、幸せを感じている人間がいた。しかし、それはけっして幸せだけではない。悲惨さも、醜さも、卑怯さも、滑稽さも、生も、死も、あからさまだった。リアルであった」



「日本人は大変ね。だって休みとれないでしょ。フィンランドでは四、五ヵ月くらい休みとって旅行とか行くの当たり前だから。日本は一ヵ月の休みをとろうとすると、会社を辞めなければとれないなんてナンセンス。厳しすぎるよ」


 
 アジアを旅する若者たちは日本と異なった人生観や労働観を見ることによって、人生の多様性や自由を垣間見てくるのだろう。そして日本でのオルタナティヴを切り開いていったり、あるいは人々の意識を変えていったり、または日本の労働マシーンにただ呑みこまれてゆくだけかもしれない。でも知っていることと知らないことの差は大きいだろう。さまざまな生を知っておれば、一流コースから落ちれば終わりだみたいな人生観のアホらしさに気づくだろうし、責めさいなまされることもないだろう。

 労働マシーンの日本にとってアジアは「癒し」なのである。多くの日本人にこの強迫的な労働マシーン以外にほかの可能性や生き方もあるのだと知らしめることが、アジア旅行の重要な役割なのかもしれない。日本人は北朝鮮を笑えないって。アジアの人たちも日本のマシーン国家を憐れんでいるのかもしれない。アジアに滞在する日本人も同じような目線で日本人たちをまなざしているのだろうか。
 


ASIAN JAPANESE―アジアン・ジャパニーズ〈2〉 (新潮文庫) ASIAN JAPANESE〈3〉 (新潮文庫) アジアロード (講談社文庫) Tokyo Generation デイズ・アジア
by G-Tools

 | HOME | 

これから読む本

カテゴリ展開メニュー

  • 自己啓発・成功哲学(66)
  • 芸術と創作と生計(24)
  • 集団の序列争いと権力闘争(53)
  • 国家と文明の優劣論(61)
  • おすすめ本特選集(23)
  • 古代レイライン探索(39)
  • YouTubeマイ音楽館(51)
  • 労働論・フリーター・ニート論(60)
  • 書評 労働・フリーター・ニート(56)
  • 社会批評(59)
  • 書評 社会学(72)
  • 書評 性・恋愛・結婚(69)
  • 風景写真(54)
  • 歴史・地理(70)
  • 書評 経済(88)
  • 新刊情報・注目本(49)
  • 書評 心理学(18)
  • 書評 歴史(33)
  • 知識論(20)
  • 読書(20)
  • 市場経済(10)
  • ネット関連(43)
  • CD評(11)
  • TV評(26)
  • 社会哲学(6)
  • 日常(26)
  • 恋愛至上主義社会論(2)
  • 恋愛・性・結婚(4)
  • 書評 小説(29)
  • 映画評(4)
  • 80年代ロック&ポップス・メモリー(20)
  • 手塚治虫ノスタルジア(23)
  • 書評 マンガ論、サブカル論(10)
  • 書評 哲学・現代思想(10)
  • つぶやき(1)
  • 人生論(10)
  • 未分類(3)
  • バイク・ツーリング(44)

リンク

このブログをリンクに追加する

ブログ内検索

Powered By FC2ブログ

Powered By FC2ブログ
ブログやるならFC2ブログ

RSSフィード

私のおすすめ本


『楽天主義セラピー』 リチャード・カールソン 春秋社
4393710312.09.MZZZZZZZ[1].jpg

思考なくして苦悩はなし。

『どう生きるか、自分の人生!』 ウェイン・ダイアー 知的生きかた文庫
gibun11.jpg

考えと現実は同一ではない。

『愛と怖れ』 ジャンポルスキー VOICE
aito.jpg

攻撃心は恐怖から生まれる。

『グルジェフとクリシュナムルティ』 ハリー・ベンジャミン コスモス・ライブラリー
79522366[1]12.jpg
 
頭の中の「私」とは絵空事である。

『捨てて強くなる―ひらき直りの人生論』 桜木健古 ワニ文庫
CIMG0001_111112.jpg

落ちこぼれる恐怖を捨てよ。

『キリストにならいて』 トマス・ア・ケンピス 岩波文庫
 CIMG0016_111.jpg

苦悩のない方法論。

『無境界』 ケン・ウィルバー 春秋社
050[1]1.jpg

思考や感情、自我は「私」ではない。

『孤独であるためのレッスン』 諸富祥彦 NHKブックス
4140019271.09.MZZZZZZZ[1].jpg
 
仲間外れを怖れずに孤独を喜ぶために。

『「心の専門家」はいらない』 小沢牧子 洋泉社新書y
4896916158.09.MZZZZZZZ[1].jpg

心理主義化社会を警戒せよ。

『この人と結婚していいの?』 石井希尚 新潮文庫 
4101294313.09.MZZZZZZZ[1].jpg

男と女のすれ違いの名著。

『菜根譚』 洪自誠 岩波文庫
sai1.jpg

人生の達観した名著。

『正統の哲学 異端の思想』 中川八洋 徳間書店
seito.jpg

民主主義と平等が自由を抹殺する。

『自己コントロールの檻』 森真一 講談社選書メチエ
giko.jpg

衝撃の心理学批判の本。


Thanks Goodpic.com