雇用の流動化は自由をもたらさないのか
雇用の流動化はこんにち、「ネットカフェ難民」や「ワーキングプア」といった悲惨の相で語られることが多い。派遣やフリーターは「先が見えない」「将来の保障がない」「給料が上らない」「差別的待遇をうける」といったことがささやかれる。そのような悲惨な一面はたしかにあるのはまちがいない。
でも悲惨の一面だけなのかと私は思う。多くの非正規雇用者が正社員になりたいというが、金銭や保障にめぐまれた正社員は多くの犠牲や代償を払っているものである。一生を拘束されるような閉塞感や滅私奉公、長時間労働、義務的な愛社精神や社員同士の一体感といったものも要求されるのである。安定や保障はタダではないし、安い奉仕で手に入るものではない。人生のすべてを提供する代わりに与えられるのが正社員の保障である。安定や保障は与えられる代わりに自由はまったくなかった。このような代償の代わりに与えられる人生は監獄の社会主義の安定と保障であったのである。
かつて日本人にはこのような選択肢しかなかったから、90年代にフリーターが現われたとき、世間から怠けのバッシングと視線、そして少々の憧れをもって語られたのである。こんにちの格下差別、給与の切り下げといった面はあまり語られなかった。正社員保護のための犠牲になっているという認識もなかった。
雇用の流動化と生活の不安定化の悲愴視は保障と安定の正社員のイスからながめられた相なのだろう。それは不安定化を怖れる保障正社員の内面の投影でもある。かれらは保障された奴隷のイスに安穏としていたいから、世論の言説を流動化の悲愴視にもっていきたいのである。「われわれは保障されているが、かれらはかわいそう」だということである。かつて「もたざる者をもつ者へ」という正義感のポーズがあったが、「もたざる者」の悲愴視でかれらを救い出さなければならないという言説はいまでも保障のイスのうしろめたさや罪悪感を癒す甘いクスリになるのである。
雇用の流動化は選択の多さや自由をもたらさなかったのだろうか。正社員の一生を与えなければならないという重さの代わりにフリーターや派遣は短期契約の気楽さや責任の軽さを味わわなかっただろうか。この会社に一生に勤めなければならないという重さの代わりに「いやになったらいつでも辞めればいいや」「合わなかったらまたほかの会社を探せばいいや」という気楽さを与えたのではないのか。給料は安いし、年齢制限から先の保障がないという恐れもあるのだが、フリーターはこのような気楽さをその代償として得たのではないか。正社員契約では一生の重石が重くのしかかってきたのである。それは保障と賃金上昇とのトレードの関係でもあったのである。
企業が正社員に年功賃金や社会保障を与えたのは、かつて世界一の転職率を誇った熟練工の定着のためである。会社に長く勤めれば給料も上るし、年金などの保障もありますよといった約束で社員の定着化が計られたのである。これは大量の人出不足感と大きな成長が見込めるという前提の経済状況で約束された企業側の思惑でなったものである。売り手市場が長くつづいたために閉鎖的労働市場をつくるために正社員の終身雇用や社会保障は乱発されたのである。
こんにち代わって訪れたのがそれとまったく逆の買い手市場と止まってしまった先のない成長である。労働者を定着させる必要もなくなり、それよりか仕事の量による雇用調整ができなくなってしまったのである。この社会はすっかりと終身雇用と社会保障の人生観に染まっているから、急に保障された人々を放り出すことができない。バブル崩壊後の中高年リストラは世間から徹底的に叩かれた。おかげで早期退職者制度でごまかすしかなかった。そして新卒や若者の労働市場を、こんにちの経済状況に合うように密かに変えていったのである。中高年は安心しきって、若年層の雇用の融解化という現実を視野から外せば嵐の存在を目にせずにすんだのである。
需要と供給の労働市場が大きく変わってしまったのである。そしてその労働市場にマッチするようにつくられたのが若者の労働市場であり、旧来の社会環境でとまっているのが閉鎖的な正社員慣行である。ふたつの時代、ふたつの社会システムが併存している過渡期といっていいかもしれない。市場主義と社会主義がそれぞれの世代によって生まれてしまったのである。そしてマスコミの言説はこの社会主義陣営にいまだに属する者たちによってなされるものである。「非正規悲愴視」はそこからつむぎ出される。極端にいえば、ソ連と北朝鮮のプロパガンダのようなものである。
とはいえ、雇用の流動化による生活の不安定化はまぎれもない事実である。非正規の賃下げや保障のなさは悲惨視されるべきものだろう。ぎゃくに正社員の安定も長時間労働や滅私奉公の犠牲に得られるという悲愴視の視点もしっかりともたなければならないだろう。こんにちの多くの若者がこのような労働条件を望ましいものと思っているとは思えない。かといって非正規では、といったところが現実だろう。ふたつの陣営のメリットとデメリットがせめぎ合っているといったところだが、この先にある流れはもう止めようがないものだろう。
われわれは個々人は経済や社会の流れを変えることはできない。せいぜい経済の環境に適応するように心がけるか、現実を受け入れるしかない。否定や批判は私たちをさいなますだけである。肯定や受容が私たちの生活をラクなものにしてくれる。流動化の悲惨視を真に受けると、痛めつづけるのは自分になってしまう。闘う怒りに身を焦がすのもいいが、焼くのは自分自身という犠牲である。デメリットばかりを見るのでなく、メリットや肯定を見てゆく必要もあるのである。それはどんな時代でも環境でも普遍的な真実であると思う。
こんにちの市場主義の流れをつくったミルトン・フリードマンはこういった。(『選択の自由』から。小泉改革が市場主義をはじめたのではないですよ。80年代のサッチャーやレーガンからはじまっています)
「大半の労働者にとってもっとも頼りになる有効な保護者は、多数の雇用者が存在しているという状況そのものだ。
一人の労働者は、自分を雇ってくれる他の雇用者がいく人も存在しているということによって、自分の現実の雇用者から保護されることができる。また雇用者も、自分が雇用できる労働者が他にも存在していることによって、自分の労働者から搾取されないように保護される」
終身雇用のような閉鎖的労働市場は労使双方にとって守られない状況を生み出してしまうのである。長時間労働や滅私奉公、休みや自分の生活がない人生といったこんにちの日本人の人生はこの閉鎖的雇用環境から生まれたのではないだろうか。このような人生がのぞましいとはとても思えない。
しかし雇用の流動化では底辺で悲惨な状況がおこってしまうのは事実である。だからといって雇用の安定が悲惨な人たちを生み出さなかったとはいえないだろう。はっきりいって雇用の安定化は悲惨な長時間労働の大量の日本人を生み出したのである。ならば流動化のメリットを見ようではないか。社畜の人生からの解放という自由がそこに開かれているかもしれないのである。もちろん保障や安定のなさ、格下差別といったものが待ちかまえているだろう。ものごとにはいろいろな面があり、解釈は自分の選択にゆだねられている。なにも世間の解釈を絶対のものとする正当性などない。私たちは雇用の流動性に自由や日本人の新しい文化や生活を見い出してゆくべきではないだろうか。社畜の奴隷の人生がそんなにいいのだろうか。
2008年6月刊の新刊・注目本情報
2008年6月の新刊・注目本情報です。アマゾンのリンクってあまり役に立たないことが多いかもしれませんで検討が必要かもしれませんね。ページに飛んでも数行の解説すらないページ・リンクは迷惑になってしまいますね。ビーケーワンのほうが親切かも。考えておきます。


この2冊は読みたいですね。『格差はつくられた』クルーグマンは一度読んでみたいし、タイトルも興味魅かれますね。ひろさちやの『世間も他人も気にしない』というタイトルはとてもいいのですが、すこし文字量は少ないかな。ひろさちやはいま世間の価値観を仏教から粉々にしていて、読むだけで気分がラクになると思いますよ。



この3冊が文庫になっていましたね。私のオススメの三冊。本田透の『電波男』(講談社文庫)は恋愛資本主義に疑問をもつ人や展望をもちたい人にぜひ読んでもらいたいですね。藤本由香里の『私の居場所はどこにあるの?』(朝日文庫)は少女マンガの世界を分析していて卓越ですね。グールドの『人間の測りまちがい』(河出文庫)も科学がいかに人類の差別に貢献してきたか、科学もイデオロギーだと理解するために読んでほしいですね。河出文庫ってドゥルーズ本を出したりして思想化してきましたね。期待できるのかな。



中島義道と香山リカの対談はおもしろいかも。



ケータイ小説の本がぞくぞくと。



『イタリア現代思想への招待』。ドゥルーズ、デリダのフランス思想家なきあと、ジョルジョ・アガンベン、ウンベルト・エーコ、アントニオ・ネグリ、マッシモ・カッチャーリ……と注目されているようですね。『座右のニーチェ』は斉藤孝ですが、どうもこの人の軽さ、量産タイプが気に入りませんね。


文春新書の『27人のすごい議論』は社会に影響をあたえた論説がのせられていて、なかなかいいかも。


ヒルティの新装本です。私は読みたいと思いつつもまだ読んでいません。



チベット問題本が何冊も出ていますね。



興味が惹かれる科学本ですね。






仏教、古神道関係本。日本の深層にあるもの、老荘的なものを見い出せる関連がありますね。
処女の文化史 (新潮選書)

処女の意味づけから見えてくるものはいろいろあるでしょうね。
日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題

日本の男性は経済・労働マシーンだから、心理学に着目されることもなく、また蹴飛ばされてきたのでしょう。
ディズニー化する社会―文化・消費・労働とグローバリゼーション (明石ライブラリー 120)

「日本は先進国」のウソ (平凡社新書 424)

先進国ではないという批判はいいと思いますが、先進国が基準でなければならないという考えもどうもね。
フランスジュネスの反乱―主張し行動する若者たち

フランスではクビ切り法令に反対する運動が盛り上がりましたね。日本のおとなしい若者としての対比の意味で参考になるかも。
「海洋国家」日本の戦後史 (ちくま新書 727)

海こそが世界の交通路だったと捉えるべきなんでしょうね。
扶桑社新書 溶けゆく日本人 (扶桑社新書 27)

産経新聞に連載されていた新書化で、私はこれまでの「日本人」がべつに溶けたっていいと思いますが。なんで過去が正しいのか。
テレビのゆくえ メディアエンターテインメントの流儀

市民社会の帝国―近代世界システムの解明

社会と場所の経験 質的心理学講座3

神的な様々の場 (ちくま学芸文庫 ナ 15-1)

ジャン=リュック・ナンシーの著作ですね。
シミュラークルとシミュレーション 新装版 (叢書・ウニベルシタス 136)

ボードリヤールの新装版が出ています。消費社会の記号を生きるわれわれとしては読んでおきたい著者だといえますが、すこし難解かもしれません。
物の体系 新装版―記号の消費 (叢書・ウニベルシタス 103)

法政大学出版局の本は高いよ〜。よい本がたくさん出ているのですが、疎遠になっちゃいますね。
いま哲学とはなにか (岩波新書 新赤版 1137)

世界無宿の女たち

シベリアや東南アジアなど海をわたった「からゆきさん」の生涯。
古代の王権祭祀と自然

アメリカ型福祉国家と都市政治

福祉後進国といえるアメリカ。
現代に生きる仏教社会福祉

仏教の社会福祉って現代どのようなものなんでしょうか。
物乞う仏陀 (文春文庫 い 73-1)

アジアのもの乞う子どもたちや障害者の背後にあるもの。
『自己主張が楽にできる本』 石原 加受子
自己主張が楽にできる本―相手を恐れず言いたいことを言うために
石原 加受子

エポック・メーキングな本になると思ったが、いまいちこの方法を自分に定着することができなそうでそこがひじょうに残念である。
この本では「あいつがどうした〜、こうした〜」という不平不満ばかりになっている「他者中心の意識」から、自分の意志や感情を見つめるようになると、傷つけたり嫌われることを怖れて主張できなかった自分の意見や意志をあらわすことができるようになると謳っている。
なるほど他人の顔色をうかがったり、他人を傷つけることを怖れて、自分の意見や気持ちをなにひとつ言えなくなるのは、自分の気持ちや意志より、他人の感情ばかり気づかっているからだというのはたしかにわかる。他人への不平不満も他者中心の意識ばかりになっている。他人に腹をたてつづけるのというのは他者が主体となり、他者の奴隷となった状態である。われわれの「主体」というのはじつは自分ではなくて、このように「他者」になっていることが多いのではないだろうか。他人にふりまわされつづけて、自分の気持ちや思いが「主」にならないのである。「私」とよばれるものはじつはこのような「他者」が中心になり、私の心や感情は「他者」にぶら下がっているといえないだろうか。
だからそのような「他者中心の意識」をやめて、「自分中心の意識」に切り替えよう、そうすれば怖れたり気づかったりしてなにもいえなかった気持ちや思いを告げられるようになるというのである。
私たちはほんとうに「他者中心の意識」で生きていると思う。「あいつがどうした〜、こうした〜」、「あいつがムカつく」、「あいつはどうにかならないか」「なんであいつはあんなことをするのか」といった他人の動向や不平不満ばかり抱えているものである。まったく「他人の奴隷」である。他人を批判したり、裁いたり、ときには支配しようとしているのだが、まったく他者に支配され、ふりまわされつづけている。他人を奴隷にしようとして、自分が他人の奴隷となる。
しかし結果を気にしなかったり、支配・被支配の関係を捨て去ったら、自分の意志や感情に目を向けられる、自分の気持ちや感情をラクに主張できるようになるというのは、なにかいまひとつひっかかりがないのである。「あいつが〜、あいつが〜」という気持ちから、「私は――どう思うのか」「私は――どうしたいのか」という自分の意識に焦点を合わせれば、うまくいくというのは、自分の意識の流れをふだん意識していない者にとっては、なかなか定着しにくい意識のありようだと思うのである。まずは自分の意識がどんなに他者中心になっており、自分で満たされた意識とはどのようなものかという境界が引かれないと、なかなか自分の意識の中にそのような方向性を刻み込みにくいと思うのである。エポック・メーキングになりそうでならないというのはその障害があるからである。
本の中から語ってもらうことにしよう。
「私は、「自分を中心にして、自分の気持ちや感情に焦点を当て、相手の態度や表情に目を向けないで欲しい」ということと、「相手の怖い態度は単に恐怖でそうやっているのだ」ということの二点をアドバイスした。そして、こうつけ加えた。「相手を責めるような言葉を使うと、あなたの主張に耳を傾けてくれるどころか、権力闘争になってしまいます。くれぐれも怒りの感情に発展しないよう、自分の気持ちや感情を中心にした言葉で喋って欲しいと思います」
「相手を主体に考えてしまうと主張することが怖くなってしまう」
「自分の主張をとおすことだけを考えないで、自分の気持ちや感情を大事にするために表現するという、そのプロセスを大切にすることを第一の目標にしてほしいの。
主張することがとてつもなく高いハードルに見えて恐れを感じるのは、プロセスではなく結果を重視し過ぎるためである」
「自分の言い分を認めさせようという考えを捨てて、自分のために表現するプロセスことが大事なのだという気持ちでいれば、結果はそれほど重要ではないと思えるようになるだろう。相手に勝つという目標さえ捨てれば、断られたらどうしようという恐れも半減するに違いない」
彼らが滑らかな言葉で語り出したのは、支配・被支配の意識を捨て去ったからだ。「人にどう思われるか」という恐れが消えたら、あとは自分の頭の中で交わされる会話を言葉にするだけでよかったのである」
「本来、自己表現・自己主張するということは、他者と争って何が何でも自分の主張をとおすことではない。自分の意識の中でつくりだされたものを表現することである」
私は主張ができるようになるということより、この他者中心の意識というありようのほうが強い関心を魅かれた。私たちはたぶん他者にばかり注意を向けている。そして自分の感情や思いをないがしろにしているのである。他者が意識の主体となり、自分の感情は無視される。私たちは「自分中心の意識」のあり方に変えなければならないのではないだろうか。通常は「自己チュー」は最低だと思われるのだが、私たちは自分中心というよりか、「他人中心」の意識ばかりになっているのではないかと思う。他人が大事だから、他人が中心になっているから私たちは他人とトラブルを起こすのではないだろうか。
自分の意識の中から他者への関心・興味をそぎ落とすのだ。そして自分の意志や感情に焦点を合わせる。そうして自分らしさやあるがままでいられるようになるのではないだろうか。「他人が〜、他人が〜」と思うようになるから、私たちは自分を表現することも主張することもできなくなるのである。自分の思いや感情に目を向ける、それが大事なようである。
こういう「他者/自己」中心の意識というものは重要だと思うので、この手の本か、この著者のほかの著作に注目したいのだが、「腑に落ちる」知識に出会えるかどうかは、いまのところわからない。エポック・メーキングな本になってほしいものである。
▼著者のサイト
心理相談研究所 オールイズワン (「ダイエットにやせた」ふうの広告になっていて残念なサイトですね)
▼お、しまった、文庫本で出ているではないですか。たぶん同じ本だと思いますが、ソンした。

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『自分探しが止まらない』 速水 健朗
自分探しが止まらない (ソフトバンク新書 64)
速水 健朗

自分探しの系譜や歴史をまとめてくれてかなり興味魅かれたというか、驚かされることしきりの本であったが、自分探しを「カルト」や「詐欺ビジネス」として捉えるまなざしにはかなり否定的に思った。
読後感がかなりもやもやしていて、個別の自分探しの項目には興味を魅かれたのだが、全体的にこの流れをどのように捉えたらいいのかよくわからない。肯定的に捉えるべきなのか、否定的に捉えるべきなのか、宿命的に捉えるべきなのか、あるいは自分探しをすべきなのか、すべきではないのか、私の中でもその態度がはっきりしない。いや、肯定的なのだろう。
われわれは拭いがたく自分探しの旅に出なければならないのだと思う。自分探しというよりか、生き方探しや自分の居場所探し、最高の人生とはなにか、と迷いながら生きてゆくしか仕方がないのだと思う。かつてはサラリーマンになって出世して定年退職してみたいな人生観があったのだが、今日のわれわれがそのような人生だけで満足できるとは思えない。そういうもやもやもした不満足感、欠損感が私たちをやみがたく自分探しに向かわしめるのだと思う。
なかなか居場所が定まらないからといって、「一所」懸命の人生が絶対的にすばらしい人生だと思える時代はもう去ったのだと思う。むしろ定まらない人生のほうに評価をおく時代になったほうが、私たちはより自分の人生の可能性や展望を開かせるのではないかと思う。ひとつの会社、ひとつの場所にとどまりつづけることが最高の人生だという考えのほうが卑小で、つまらないことに思える。私は一生自分探しをつづけて、とり返しのつかない人生になろうが、そのほうが人間らしく生きたのではないかと思う。彷徨しない人生のほうが私には不気味で卑小に思える。若者が自分探しに彷徨うのはサラリーマン的人生の枠組みを外れた生き方をしたいという欲求の蓄積なのだろう。
この本でとりあげられている自分探しの事例というのがサッカー選手の中田英寿の世界を旅したり(私は知らなかった(笑))、格闘技の須藤元気のバックパッカーの旅であったり(だれ?(笑))、『あいのり』、イラク人質事件の自分探し、自己啓発本、ニューソート思想、高橋歩、『起動戦士ガンダム』、藤原新也、『深夜特急』、小林紀晴、フリーター、『俺たちの旅』、猿岩石、やりたいこと、自分探しビジネス、などなどと、こんなにも自分探しの系譜と歴史は多くて種類が多かったのかと驚嘆と興味がかき立てられた。こういうくくり方で系譜を知らせる知識はそうないので、これも自分探しのひとつの流れなのかと驚かされるのである。ある社会現象を自分探しの相でながめることはそうないのである。
この本がもやもやとした読後感を残すのは、このような数々の自分探しの現象をたくさん並べるだけで、分類化や全体的な俯瞰や分析がおこなわれていないからだろう。個別の分析や言葉には驚かされる文章があるのだが、全体的な展望や分析がどうも得にくい。
個別の事例ではこんな文章は銘記しておきたいと思う。まあ、自分探しと関係のない言葉が多いのだが。
「『あいのり』では、参加者の年収や学歴が決定的な評価軸になることはほんどとない」
「自分探しに海外に行き見つけた答えが、もう日本ではまっとうに生活できない自分の経歴だったというのでは、あまりにも酷だ」
「マスメディアの動向によって簡単に左右される女性をわらうための言葉が、この「スイーツ(笑)」である(デザートの言い換え)」
「団塊ジュニアの女性は、「消費主義」に走る男が「みっともない」ものにしか映らない」。……「イタい」とか「キモい」と言われてしまう」
自分探しがよくないとされるのは、基本的にこの社会はサラリーマン社会に合致するような人生を送らなければならないからだろう。履歴書の空白や転職回数の多さが嫌われたり、仕事以外、あるいはひとつの会社に長く勤務しないことを嫌う傾向があるからだろう。つまりサラリーマン、職業人、労働者でないことは、われわれの社会のご法度なのである。そのような人生の条件が私たちの社会をたいへん息苦しいものとしているし、人生の幅や深みを狭めているし、たぶんに人生を絶望の淵に落とし込むのだろう。このような「人間の条件」が日本人のつまらなさや教養のなさ、魅力のなさを生み出しているに違いない。たぶんにこんな男に性的魅力や人的魅力があるわけがない。去勢されすぎているのである。女性が安定した人生を送ろうとして安全パイの大企業男を狙うかぎり、男の魅力は落ちてゆくばかりだろう。
履歴書を汚して、あるいは空白期間を多くつくり、それでも会社は評価したり雇い入れるような社会でないと、この社会に魅力あふれる人物が増えることはないのだろう。そしてたくさんの自分探しに彷徨い、落ち込み、失敗し、たくさんの経験をし、はいあがってきた人が評価されるような社会がつちかわれたとき、この日本の人間的な魅力や成熟度は高く上ることになるのだろう。企業の労働マシーンしか評価しない狭い門戸が、日本を滅亡させると考えるべきなのだろう。でも若者はどんどん自分探しに駆り立てられるだろうけど。
なお著者の速水 健朗は「犬にかぶらせろ!」というメディアに強いブログを運営していたのだが、社会的なまなざしも強いとは知らなかった。
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『ヘタな人生論より良寛の生きかた』 松本 市壽
![]() | ヘタな人生論より良寛の生きかた―不安や迷いを断ち切り、心穏やかに生きるヒント (河出文庫 ま 9-1) 松本 市壽 by G-Tools |
良寛というのは現代社会のヒエラルキーでいえば、いちばん最低で底辺の生き方をしたわけだが、そのような生き方に幸福や安らぎや自足を見い出したからこそ、人気があるのだと思う。いちばん最低と思われている人生にも幸福も安らぎもあるのだ、ぎゃくにそちらのほうにほんとうの幸福があるのだといわれれば、必死にカネやモノや地位を求めるわれわれにとっては、ずいぶん癒される存在になることだろう。いったらニンジンをぶら下げられてつっ走る現代人の人生を揶揄した生き方に評価が集まるのである。
われわれは物心ついたころから学歴やら競争やら、カネやら消費やら出世やら権力を奪いとる生き方をセットインされて馬車馬のようにつっ走って生きるわけだが、そしてその生き方に疑問や懐疑も抱かず、ひたすら洗脳・教育された生き方と価値観しか知らずに墓場まで高速ジェットでつっ走るのである。背中のゼンマイを親や社会に回されて、そのまま墓場までまっしぐらである。良寛の無欲で無所有の生き方は、われわれの高速ジェット人生の強烈なアンチテーゼなのである。この人生はさしずめ山下清の人生をドラマ化した『裸の大将放浪記』に似ているといっていいかもしれない。
といっても現代人が良寛のように乞食でホームレスで、組織に属さず、風流を愛すといっても、生きてゆけるだろうか。河川や公園にホームレスのテントがたくさん立ち並ぶが、かれらを称賛や憧憬の目で見たりすることができるだろうか。日雇い労働者の町で昼間から酒を呑んだり、道路の脇で寝ている人たちを見て、風流だ、すばらしい生き方だと評価したりできるだろうか。軽蔑や悲惨さのまなざしを向けるのがオチなのである。
良寛となにが違うのだろうか。良寛は詩や書を書いた。それゆえに評価が今日まで残っているのだろうけど、もし良寛のような存在が前述のテント村や日雇い労働者の町に人知れず存在したとしても、われわれは正しく評価できるとは思えない。軽蔑することだろう。なにか良寛の評価や人気が絵に描いた餅に思えるのである。
現代人は良寛のように生きられるだろうか。乞食で生計を立てて、書や詩をたしなむ。文学の評価というものがなければ、ただのホームレスである。決然と現代人の欲多き生き方はまちがっているから、良寛のように乞食に生きようといっても、現実的に生きられるものではない。良寛を好きな人も、評価する人も、たいがいはきちんと会社勤めをし、しっかりとサラリーをもらい、マイホームをもち、妻と子を食べさせ大学に行かせていたりするのである。なんかウソっぱち良寛評価であるが、世の中の現実とはこのようなものなのだろう。まあ、もちろん良寛から学ぶものはホームレスの実践ではなくて、心のもち方、欲のあり方なんだろうが。良寛好きな人でもまさか明日から財産を新興宗教に喜捨してホームレスとして生きるなんて人はいないだろう。私としては良寛を好きならそこまでやってほしいものであるが。ウソつき、欺瞞。
もし現代の多くの人が良寛のように無所有で無欲で生きようと決意したらどのようになるだろうか。相田みつおのような詩を路上で売り、コンビニやゴミ箱の食べ物を漁り、公園や河川で寝泊りする人たちが大量に生まれたりするのだろうか。そんなことは絶対に現実にありえないところが、良寛人気の残念ながら、現実というものだろう。あくまでも良寛は理想や憧憬であって、現実の実践にはなりえない。
日本人は西行や吉田兼好、鴨長明などの隠遁者や近くは種田山頭火や尾崎放哉に憧れてきたものである。無所有や無欲、放浪の生きかたに理想を見てきた。だけど現代はしっかりと、いや大昔からそうであったのだろうが、欲望と所有と権力をもとめる生き方をしてきたものである。そういうものを目指さないと生きてゆけない、生計が立てられない、恥ずかしいとなって、多くの人のように欲望全開の人生を全うするのである。しごく健全というものだろうか。
良寛や隠遁者人気にはウソと欺瞞があるわけだが、それでも心のふるさとのように思えてしまうのである。いろんなものを削ぎ落とした中に人生のシンプルで力強い幸福があるという教えは、上昇中でも落下中でも私たちの心を癒してくれるからだろう。なにもないところの幸福と安らぎ。そのようなところに基本的な安らぎを見つけられるのは、ずいぶんと心強いものである。というか、こういうところに幸福やら安らぎを見つけないと、いつまでたってもわれわれの心が休まることはないのだろう。良寛と比べると、欲望のために走り回って心休まる暇のないわれわれはずいぶんと哀れな存在といわざるをえないというものである。
現代人が欲まみれ、あるいはりっぱな人間や偉い人間になろうとするのは、他者から見捨てられることが怖いからである。他者から見下げられたり、無価値だと思われたり、無意味な存在だと思われたりするのが恐ろしいから、われわれはりっぱな人間や偉い人間になろうとする。つまり良寛のようになにもない、見下げられた存在であることに安心や幸福を見い出せないからである。つまりは「なにもない」「あるがまま」の状態に自足する、安心することができないのである。だからわれわれはこんなに価値があり、意味があり、りっぱで偉い人間であるとまわりに宣言=泣き叫びつづけなければならなくなったのである。
良寛は強い心をもって、かんたんに欲望にひっぱられない生き方をすることによって、安心と幸福を手に入れたのである。多くの人は心が弱いからかんたんに欲望にひっぱられる。りっぱで偉い人間であると泣き叫びつづけることで人生を終える。無価値で無意味であることにとどまることができないのである。
これは心の作用でもそうであるが、恐れや不安を抱くと人はそれを打ち消したり、否定したりしようとする。じつのところ心とは幽霊や映像のようなもので、実体あるものでも、現実にあるものでもない。それを否定しようとすると、幽霊が本当に存在するように思え、そして幽霊に抗い、逃げ続けてしまうことになってしまうのである。つまり幽霊とは自分を無価値とか無意味に思ったりする心のことである。良寛はこの心のカラクリを理解して、幽霊の恐怖に打ち克った稀有な人なんだろう。だから彼はりっぱな人間にも偉い人間にもならず、人から軽蔑されても、幸福や安心があることを知っていたのだろう。つまり心という幽霊の恐怖に追われることはなかったのだろう。このような心の恐怖に打ち克った人は良寛のような安心と幸福のシンプルな人生を送れるのだろう。
あれっ、この本についての書評ができなかったが、まあ、良寛の詩が現代語訳で紹介されていて、ざっと読みやすい本である。ほかに多くある良寛書となにか違いがあるかといえば、たぶんよく見つからないかもしれない。
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▼関連サイト
Vol.07 良寛の”詩”コース ぐるっと新潟観光ルート
良寛記念館
良寛のみち跡 三条市
良寛という老いの風景 食と文化の物語
ハマショーの大好きな曲がYouTubeで聴ける!
私は浜田省吾のファンで、1987年ころ、私が二十くらいのとき、初期のアルバムを何十回、何百回も聴きつづけたものでした。そんな初期の大好きな曲がユーチューブで多くUPされていて、みなさんにも聴いてもらいたいのでリンクしました。ハマショーのよさとすばらしい曲を知ってもらえば、人生の味わいも深いものとなると思いますよ。
【2008/9/15】 すいません。リンク先の動画はほとんど削除されていますので、いまは聞けないと思います。ほとぼりが冷めたところになつかしい曲がUPされていることを願いたいですね。いや、CDを買って聞きましょうということになるのでしょうね。
浜田省吾ー愛という名のもとに
ハマショーの最高の曲といったらこれだと思います。このどろどろの曲調がたまらなくひきつけるんですね。
君に会うまでは / 浜田省吾
感動的なラブソング。この曲でハマショーにハマったと思います。
浜田省吾ー夏の終わり
大好きな曲。海辺での隠棲願望がとてもここちよい。
浜田省吾ー"マイホームタウン"
画一化した日本社会を批判したハマショーの社会派ソング。こういうカッコよさが日本のロッカーにはない。
遠くへ−1973年・春・20才 / 浜田省吾
この大作のような物語が好きだったなぁ。「♪遠くへ 遠くへと 願った日々〜」
浜田省吾 途切れた愛の物語
哀しみの名曲。「♪息もできぬくらいに 傷つけて合って 愛はふたりに 悲しみと憎しみだけ残して 消えた〜」
浜田省吾ー19のままさ
二度ととりもどせない青春の物語をやさしく唄っていますね。
浜田省吾ーMidnight Blue Train
人生の迷いと悲哀をたっぷりと唄った私の代好きな曲です。
浜田省吾ー愛のかけひき
初期のハマショーのラブソングで、なんとも心にわだかまる曲ですね。
浜田省吾ーとらわれの貧しい心で
フォークのような弾き語りで都会の孤独を唄っていますね。
浜田省吾 - 二人の夏
海岸線のドライブに聴きたい曲ですね。
防波堤の上
死を想う絶望的な曲ですね。
浜田省吾 PAIN
絶望の中でも人は生きてゆく。
浜田省吾 初秋
大作ですね。愛する人の別れを感動的に唄っています。
浜田省吾 家路
これも大作ですね。人生をたっぷり唄いこんでいます。
浜田省吾ー僕と彼女と週末に
これも大作。地球規模のエコロジーを唄っています。
浜田省吾 AMERICA
ハマショーもアメリカに憧れつづけた世代ですね。
四年目の秋/浜田省吾
都会のひとり暮らしの女性を唄った曲ですね。
浜田省吾ー青春のヴィジョン
なつかしい!
浜田省吾ー生まれたところを遠く離れて
ファーストアルバムからフォークソングのような味わい深い弾き語り。
▼ハマショーのアルバム(私はライブ版やベスト版、オリジナル一枚などをのぞけば、全部聴いていますね。)





















派遣労働者のテロや治安悪化はおこってしまうのか
秋葉原の無差別殺傷事件は派遣労働者の差別やリストラが引き金となったと捉えたほうがいいだろう。差別的待遇や雇用をすぐに打ち切られる、将来の安定や保障はまったく見込めない、世間からさげずまれたり、将来性を期待できないといった非正規雇用の不安定労働の閉塞感を世間に訴えるために犯行はおこなわれたと見るべきだ。
秋葉原の無差別殺人、の巻 マガジン9条〜雨宮処凜がゆく!〜(057)
【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式 何かごにょごにょ言ってます
秋葉原通り魔殺傷事件(その9)「加藤の乱」就職氷河期世代の叛乱 天漢日乗
派遣労働者諸君 自殺するな! 社会に復讐しろ! 反米嫌日戦線「狼」(醜敵殲滅)
派遣工員「“加藤智大”の気持ちは痛いほど理解できる」 低気温のエクスタシー
東北地方の工場派遣を転々とし、ライン作業などの工場労働の救いのなさ、そしてリストラの予期と現実に解雇が宣告された事実。容疑者はこの境遇に――多くの若者がおかれている境遇であるが、マスコミや社会がいっこうに救おうともしない現状、そして「正社員になれ」「どうして正社員にならないのか」といった親や世間の無理解の障壁。日本社会は基本的に若者のこのような労働の不安定さや流動性を無視したり、目をふさぐことによって、これまでの安定した社会を維持しようとしている。
世間が見ないようにしているから、加藤智大容疑者はみずからの労働状況をワイドショーで伝えられるだろうことを予期して、自殺テロをおこなったのである。池田小殺傷事件の宅間守がおかした犯行と同じ日に選び、みずからを格差社会の「脱落組・自殺テロ」と系譜づけたのである。
安定した雇用や生活保護は貧乏でかわいそうだからやるんじゃない
治安対策なんだ
先にリンクした「秋葉原通り魔殺傷事件(その9)「加藤の乱」就職氷河期世代の叛乱 天漢日乗」の引用スレッドにこういった言葉が書き込まれていたが、まさにそういった治安悪化の怖れを放置したままに若者労働の流動化・非正規はおこなわれてきたのである。
この二十年になし崩し的に派遣労働はひろがり、すっかりおとなしくなった日本の若者や労働者は不安定雇用で差別されたり、解雇されても、唯々諾々と従ってきたのである。企業福祉が機能していた時代の名残りや余韻のために声を出さない若者たちがどんどん犠牲になっているのである。若者労働の実態は戦前のプロレタリア文学『蟹工船』が読まれるようなものになっており、教科書でしか読んだことのない労働争議やストライキが頻発してもいいような状況になっていても、まったく世間のカヤの外におかれているのである。
企業は忘れているのである、雇用の流動化や解雇がどんな社会状況や治安悪化をもたらすかということを。企業による解雇規制や社会保障は治安の安定というリスクにも費用をかけていたことになる。そしてそれを捨てて解雇や流動性をすすめれば、犯罪や凶行の温床となり、治安悪化や内戦の怖れすら出てくるのである。社会は険悪な雰囲気になり、恨みや憎悪のうずまく場所となる。今回の事件はその未来の予期を切り開くことになるかもしれないのである。
これまで日本社会が治安のよい国として知られていたのは、ひとつには企業と政府による社会保障が充実していたからだろう。それに酬いるかたちで労働者は滅私奉公やサービス残業もいとわずに働いてきたわけである。もし解雇や流動化がかんたんにおこなわれるようになれば、幸せな交換関係はいっさいご破算になり、企業と労働者の蜜月関係は終わり、そして社会と人間の関係も憎悪と怨恨のうずまく場所となるだろう。社会保障というのは日本の治安維持にも費用を払っていたのである。今回の事件はその幸せな関係の破綻を宣告したことになる。
秋葉原で襲撃がおこなわれたのも意味がないことではない。労働問題は社会の片隅、特殊な人たちの問題として片づけられる。新聞やニュースはつたえられるのだが、われわれ国民の一般性や普遍性のある問題として意識されない。つまり自分もそうであるという感情がわかないのである。もしこの容疑者が経済界や一企業に自殺テロをおこなったとすれば、右翼や過激派のおこした犯行のように関心外におかれるだろう。だから普遍性・一般性のある問題として、注目される場所で「だれでもない」無差別の通行人に刃が向けられたのである。
われわれの社会はあやふやにしてきた問題の岐路に立たされている。企業や政府は国民の社会保障をおこなうのか、それとも見棄てるのか。政府は社会保障をなんとか維持しようとし、一方では企業は社会保障を捨てていき、国民の社会保障メンタリティに断絶と亀裂が走ってしまっている。
一方ののん気な国民は年金や健康保険の維持に必死で、企業の社会保障や安定雇用の信頼や永続を信じてやまない人たちがいる。この人たちは「なんで正社員にならないのか」とのん気にのたまう人たちである。一方では派遣労働のようにいつクビを切られるかわからず、社会保障もかけてもらえず、差別されたり、「国民」的待遇からこぼれ落ち、いわゆる「国民」とよばれるアイデンティティから外れた労働者の層も増殖している。このふたつの亀裂・断絶が深刻であるがゆえに、眼目を集めるように企図された無差別殺人はおこなわれたと見るべきだろう。
全国の派遣労働者を雇っている企業・職場は今回の事件で、自分たちが刃の対象である、うしろから刺されるかもしれない事をおこなっていたことを胸の片隅に知って冷や汗をかき、雇用のジャスト・イン・タイムやカンバン方式の合理化が、倫理的にどういうことなのかをうすうすと感じたことだろう。日本の「オジさん」「お父さん」とよばれる道徳的に敬称される人たちはそのようなツラの下でこのような冷酷なこともおこなってきたのである。若年層は社会や人々を信頼できるだろうか。
これから日本は選択を迫られることになるだろう。企業が生き残るために若年労働者を路上に放り出すようなことを平気で行い、社会の治安と信頼を破滅させる社会がよいのか、それとも若年労働の安定と治安を守るために彼らの安定と保障を企業に徹底するか、もしくは雇用規制と社会保障に守られた既得「正社員」の待遇を若者の不安定さまで引き下げるか。
多くの方の犠牲者を出さないためにこの社会は経済的な解決策よりか、道徳的な解決策が求められるのだろう。ただし市場原理に逆行するようなかたちは問題を二倍にするだけだろう。正義や道徳は市場にそぐわない。守ることより、落ちても徹底的に復活できる制度がのぞましいのだろう。
企業は自分の都合のいいように好き勝手なことをしていると、治安悪化のコストというしっぺ返しを喰らうこと、または労働争議のコストを支払わなければならないということを肝に銘じなければならないだろうし、マスコミや社会も治安悪化のコスト、あるいは自分が刺され、殺される、テロの対象になるかもしれないという物騒な犠牲も支払わなければならないということを知ることになるだろう。人件費を削り続けると、治安悪化のコスト、または少子化のコストも背負わなければならないのである。これは私たち自身ひとりひとりの道徳的問題でもあるのだろう。
▼参考URL
「派遣会社の仲間意識の失敗」 私の派遣の経験から。
犯罪の九割は失業率で説明がつく 松尾匡のページ
はてなブックマーク > 犯罪の九割は失業率で説明がつく
失業がもたらす痛み 大竹文雄 PDF
失業率と犯罪率 G7版 svnseeds’ ghoti!
不況の社会的費用 大竹文雄 PDF
▼派遣労働の文献








▼追記 事件発生から一週間後にあの宮崎勉の処刑が執行された。……やるのか。対決の姿勢をあらわにしたのか。これはまるで「鬼さん、こちら、手の鳴るほうへ」と宣言しているようなものである。テキは私であると手を鳴らしたようなものである。明確な対象と図式をあらわにしただけではないのか。いったいどういう時代になってゆくというのか。日本の平和で治安のよい時代はここに終焉を迎えることになるのだろうか。
格差社会の底辺でも幸福になる考え方
格差社会の底辺でうちのめされて無差別殺人に走ってしまうという犯罪がおこってしまったが、どうしてそんな単純な格差社会のモノサシやヒエラルヒーを真に受けてしまうのだろうと私など思う。
「勝ち組」や「負け組」なんて日経新聞あたりがいいだした商品戦略にしかすぎないし、人間の序列やヒエラルキーって社会にひとつのモノサシしかないわけなどないし、いろんな測り方やランクづけができるものだし、はっきりいって人の数ほど無数にあるといっていいほどだし、そもそも人間の幸福なんて人との比較優劣から生まれるものなんかではない。人と比較すること自体が地獄行きの入り口なのである。
格差社会の底辺に落ちてしまったからといって即不幸になるわけではないし、たとえそうだとしても楽しみや喜びや安穏はいくらでも見つけることができるし、はっきりいえば人類の大半の人は負け組や底辺でも生きてきたのだし(南半球の貧しい人たちはどうだ?)、それでも人生を全うしてきたものであるし、そういう底辺や悲惨な環境でもたくましく、頑強に生きてきた人たちに讃美や称賛が集まってきたものである。底辺は人生の終わりなんかではなくて、ある意味人との比較から解放された天地でもありうるのである。
もしかして学歴社会や大企業信仰などのヒエラルキーをまともに信じている人ってどれくらいいるのだろう。まさかそういう人生しか生きている価値がないだとか、そこからもれたら生きてゆくことができないだとか、落ちこぼれだとか、そういう単一の価値観しか信じていない人っておおぜいいるのだろうか。
学歴というのはテストに受かる能力であって、単一な頭のよさを測るひとつのモノサシでしかなくて、そこには人格のよさや道徳的な高さとか、幸福な人生を生きられるとか、優しい人たちに囲まれた人生を送るのなどの評価軸はいっさいない。人生の幸福というのはこういうテストのモノサシからもれるところにあるのであって、学歴の軸にそのような決定点があるわけなどないのはだれでもわかることだろう。
個人的なことを申せば、私はいい大学に入るだとか、大企業や有名企業に入って安定した豊かな生活を送ることにひとつも憧れや夢を抱いたことがない。有名大学を卒業した教師は弱っちろくて生徒にバカにされていたし、名の通った大企業に就職して偉そうにしても看板の陰に隠れる卑怯さが透けて見えるようで、憧れなど感じる人たちの感覚が理解できなかった。私はもともと世間の上位に来る価値観や優位性といったものにちっとも憧れなかったので、そういう基準のモノサシやヒエラルキーで判断されたとしても痛くも痒くもない。それがツライ人というのはそういう価値観に賛同できたり、憧れを感じられる人だけであって、価値観や優劣観が違うとまったくそのモノサシは無効になるのである。
格差やヒエラルキーというのはあるひとつの価値優劣を基準につくられるのであって、もしそんな価値なんてどうでもいいと思えば、そんなモノサシなんて瓦解してしまう。相撲でもスポーツでももし勝つことや記録になんの価値があるのか、意味があるのか、どうでもいいことじゃないかという価値観でまなざしてみたら、そういうモノサシの根本からぽっきり折れてしまうものである。勝ち負けなんてものはひとつの価値優劣の「信仰」であって、その価値観を無意味なものと見なせば、価値や負けなんていう概念は存在し得なくなるのである。
今日の日本で格差社会の上位にくるものというのは金が儲かったり、大企業や安定企業に勤めていたり、贅沢な消費三昧な生活がおくれるということなのだろうが、古今東西の人類すべてが憧れる単一の唯一の目的や憧憬などでは断じてないだろう。多くの人は金持ちや安定に憧れるものだが、貧乏や不安定、はては漂泊や自由を最高の価値におく人もたくさんいるだろう。そういう人たちにとって日本の格差のモノサシは役に立たないし、無用の長物である。人はそれぞれ無数の価値基準をもっているもので、もし自分の価値観でヒエラルキーをつくるのなら、世界の格差構造はたいへんに異なった、多様で、より多くのバラエティーに富んだものになるだろう。はっきりいえば、自分の価値観を最高におくヒエラルキーにご満悦しておれば、人生はそれで幸福なのである。
それにしてもどうして人は世間で流布される単純な単一のモノサシで人を測ってしまうのだろう。学歴と大企業の単純なモノサシで測るような人間はきっとマスコミや世間様のプロパガンダを真に受けて、神様仏様なみにそのモノサシを信仰する皮相な人たちなのだろう。単純で、わかりやすくて、一般受けするモノサシかもしれないが、そんな単純なモノサシでしか人を測れない人はおそらく自分独自の価値観や基準、または幸福をもたない人たちなんだろう。そういう人たちは自分自身の幸福や安穏をけっして見つけることができないのだろう。
今日、格差社会が人々の上に衝撃や苦痛、または屈辱を与えているようだが、べつに格差や階層といったものは今日の人類にはじまったわけではなくて、人類も大昔から悩んできたものである。日本の歴史もいろいろ格差や階層が重くのしかかってきて、それを凌ぐいろいろな知恵や方法を生み出してきたのである。というか、日本やアジアは格差社会でも苦しまない生き方や考え方を生み出してきた宝庫みたいなところである。中国の老荘思想や隠遁思想はもろ格差社会からの逃避をめざしたし、仏教もさいしょから競争や格差から降りる生き方を推奨してきた。さっさと競争や格差から降りる生き方を古来の日本はずっと説いてきたわけである。自分たちの過去の叡智をちっとも思い出さない、忘れ去ってしまっているとはなんて不幸なことなんだろう。
いぜんに私は「ステイタスの不安を解消するために」という古今東西の賢者のアンソロジーを組んだことがある。格差社会でも幸福になれる考え方をいくつか抜き出そう。
■豪奢な人は、いくら富裕であっても、(ぜいたくをするので)、いつも不足がちである。ところが、倹約を守る人は、いくら貧乏であっても、(つつましいので)、いつも余裕がある。――『菜根譚』
■世人は名誉や地位があるのが楽しみであることを知っているが、名誉も地位もない者の方が、もっとも真実な楽しみを持っていることを知らない。また、世人は飢えとこごえで衣食にこと欠くのが憂いであることは知っているが、衣食にこと欠かない富める者の方が、いっそう深刻で憂いを抱いていることを知らない。
■富貴の家の中で生長した者は、その欲望は猛火のように盛んであり、権勢に執着することは激しい炎のように盛んである。
■(人間の欲望には限りがない)、物を得たいと欲ばる者は、金を分けてもらっても、その上に玉をもらえなかったことを恨み、公爵の爵位を与えられても、その上の領土を持つ諸侯にしてくれなかったことを恨む。このようにして権門豪家でありながら、我からこじき同然の心ねに甘んじている。
(これに反して)、ほどほどで満足することを知る者は、あかざのあつものでも、よい肉や米よりもごちそうであると思い、布で作ったどてらを着ても、高価な皮ごろよりも暖かいと思う。このようにして貧しい庶民でありながら、心ねは王侯貴族よりも満ち足りている。
■財産の多い者は、莫大な損をしやすい。だから金持より貧乏人の方が、失う心配もなくてよいことがわかる。また地位の高い者は、つまずき倒れやすい。だから身分の高い者よりは身分のない庶民の方が、(つまずく心配もなく)、いつも安心してられてよいことがわかる。
■お前さんは名声をとうとばれているようだが、名声というものは公共の道具、財産であり、自分だけが欲ばって多く得ようとしてはならないものだ。
富をよしとして追求するものは、自分の財産をゆずることができず、高い地位にあることをよしとするものは、人に名誉をゆずることができず、権力を愛するものは、人に権力の座を与えることができない。これらのものを手にしているときは、失うことを恐れて震えおののき、反対にこれを失えば嘆き悲しむ。しかも、このあわれむべき状態を反省することもなく、休むひまもない営みに目を奪われているものは、天から刑罰を受けてとらわれの身となっている人間だというほかない。――荘子
■欲望が多すぎることほど大きな罪悪はなく、満足することを知らないほど大きな災いはなく、(他人のもちものを)ほしがることほど大きな不幸はない。ゆえに(かろうじて)足りたと思うことで満足できるものは、いつでもじゅうぶんなのである。――老子
■もうしばらくすれば君は灰か骨になってしまい、単なる名前にすぎないか、もしくは名前ですらなくなってしまう。そして名前なんていうものは単なる響、こだまにすぎない。人生において貴重がられるものはことごとく空しく、腐り果てており、取るにたらない。――マルクス・アウレーリウス
■放念した者は損をしても悩まない
この世にまったく所有欲をもたない者は、たとえ自分の家を失ってもその損失を悩むことはない。――アンゲルス・シレジウス
■平穏無事を求める者は、多くのものを見逃す
人よ、けちけちと自分の財産だけを守ろうとすると、あなたはもはや真の平安の中に住まなくなるだろう。
■欲の深い者は足ることを知らない
足ることを知っている者はすべてをもっているのだ。欲深く多くを求める者は、どんなに多くのものを得ても、まだまだ足りないと思うのである。
これらの賢者の言葉には金や名声や権力をもつことの悲劇や悲惨さ、苦しみが描かれている。それらの羨ましいと思われるものをもった者こそが、多くの悲しみや苦しみに虐げられるのである。権力や大切なものをもてば、奪われる心配や失う恐れとたえず格闘しなければならなくなるし、欲望には切りがない。そしてそれと比較してそうでない者たちの安寧や幸福を説くのである。落ちこぼれや格下であろうと、幸福で楽しい人生を送る余地はいくらでもあるのである。むしろ最初から落ちたり、愚かになったり、負けたりすることによって、逆に幸福になれると説いたのが仏教であり、ほかの宗教も似たようなことを説いてきたものである。
どんな境遇であろうと、無数の幸福と安寧はあるものである。単一のモノサシにしか幸福と称賛はないと思うことほど愚かな思い込みはない。いまの日本はひさびさに格差に出会ってしまったので、格差社会の抜け道や横道を忘れてしまっただけなのである。負けたり、劣ったりすることによって、幸福や安寧が生まれることもある。自分が幸せになる無数のモノサシと価値観をしっかりもってほしいものである、世間のモノサシに騙されずに。
▼関連エッセイ
「ステイタスの不安を解消するために」
「人間の価値観なんて捨ててしまえ」
「もうひとつの愛を哲学する」 アラン・ド・ボトン
▼参考文献












捨てて強くなる―ひらき直りの人生論 (ワニ文庫)

シレジウス瞑想詩集〈上〉 (岩波文庫)

『日本を降りる若者たち』 下川 裕治
![]() | 日本を降りる若者たち (講談社現代新書) (2007/11/16) 下川 裕治 商品詳細を見る |

これは私のGREAT BOOKSだな。労働のオルタナティヴを見させてくれたという点で。そしてじっさいにいかに働かないで暮らすかという生き方を実践している点で、おおいに参考になった。こんな生き方もあったのかと、私はぜひ応援したい。
バックパッカーの存在はもちろん知っていたが、日本で集中的に働き、物価の安い東南アジア、とくにタイで働かないで節約して暮らすことを実践している若者たちがいることを私はあまり知らなかった。海外旅行や旅は観光という目的があるのだが、この本でとりあげられているタイの町で観光もせずにぶらぶらしている「外こもり」とよばれる若者たちは「いかに働かないで暮らしてゆくか」を目的にしているようで、対立項が「労働」なのである。労働からの退散がタイでの金のかからない生活となっているのである。
目的が日本の「労働過重社会」からの退散である。日本で集中的に働けば、タイで半年や一年は遊んで暮らせる。そういった円高差益を利用して、タイや東南アジアで暮らす若者たちが増えているということである。まさしく「企業至上主義」の日本から降りた若者たちである。
かれらは確信犯的に日本の労働から降りている。ここには「働くことのほうがソンだ」という価値観、仕事ばかりでは人間らしい生き方ができないというはっきりとした主張があるわけだ。私もそういう労働観・価値観をもっているのだが、あまりそういう主張を前面に出した生き方では企業に雇ってもらえなくなるという恐れがあって、私はそれを前面に押し出した生き方はできなかった。しかしかれらは見事にそれをやっているのである。堂々と日本の労働社会を拒否しているのである。そこまで思い切りのいい生き方をしている点でわたしは賛辞を贈りたい。
基本的に多くの日本人は「働くことがソンだ」という感覚はもたないと思う。働くとお金が儲かって、いいモノが買えて、豊かで安定した暮らしができることを自明のことだと今日も労働に勤しむことだろう。しかし働けば自分の自由な生活はできないし、好きなこともできないし、人間らしい生き方、自由な時間ももてないだろう。労働というのは豊かな安定した生活を得ることはできても、自由と人間らしさを失ってしまうのである。タイや東南アジアで暮らす若者たちは労働で失ってしまう「人間らしさ」や「自由な暮らし」といったものをとり戻したいがために、短い日本での労働と、物価の安い東南アジアでの生活を組み合わせて生きようとしているのである。労働マシーンとではなく、「人間として」生きようとしているのである。
またそのような人たちにとってタイの労働観は働かないでもぶらぶら暮らす大の大人を容認するようなところがあるようである。日本では学校を出た若者が働かないでぶらぶらしていると近所で白い目で見られ、世間からは「ニート」や「ひきこもり」だと非難や好奇の目を向けられる。金や仕事がなければ人間ではないと見られるような日本社会と違い、タイの労働観はいたって大らかで、そういったところが日本の若者にここちよく、癒される思いがするのだろう。
たとえば40代の妻子もちのタイ人男性は「飽きた」といって10年働いた会社を辞め、それで社員も納得するという。タイ人の女性の金遣いも荒く、生活費も2,3日で消えてしまい、宵越しの金をもたない主義のようである。そして私たちを驚かせるのが、子どもができると働き出すという妻の存在だろう。日本では逆に子どもができれば夫が一家を支えてゆかなければならないという暗黙の了解があるのだが、タイでは逆に妻が働きに出るという。いったら日本の男を苦しめているのはこの妻子を養わなければならないというプレッシャーであり、経済観念であり、そのために日本の男たちの労働観念は悲愴で壮絶なものになるのだろう。この男女関係をチャラにしないかぎり、日本男性が労働マシーンから解放されることはないのだろう。タイでは仕事のない三十男でも両親は喜んで娘を嫁にやるようである。むかしの日本もそのようなところがあったようだが、失業男やフリーター男はとんでもないといまの日本はどうして硬直してしまったのだろう。
日本の企業至上主義社会、労働生産マシーン国家、企業が生涯を奪い支配する社会、そのような社会がたえられないと思うのなら、すこし小金を貯めてタイや東南アジアで暮らすのもいいかもしれない。あるいはさいきんでは派遣やフリーターからはいだせず、将来の不安や閉塞感をもっているのなら、タイや東南アジアの労働観や生活に触れることによって、自分を追いつめる労働観を癒すことができるかもしれない。バックパッカーたちは東南アジアの異界にそのような価値観、労働観と出会い、自分たちを癒し、日本人とは違うほかの生き方ができることを学んできたのだろう。私たちはへたをしたら、北朝鮮の国民のような自分たち以外の生活、国家があるとは思いもしない井の中の蛙なのかもしれない。
私自身はほとんど海外旅行や海外の生活に興味をもたないが、日本人の労働観を肩すかしにするような、あるいは腰折ってしまうような労働観・人生観に出会えるのなら、感覚的に味わってみたい気がする。ほんらい日本人は今日の生産マシーン国家のような労働観をホンネのところでもっていないと思うのだが、社会のシステム、労働状況がそうなっているから擬態するしかない、がんばるしかないというところがほんとうのところではないかと思う。ほんとにこのイカレた労働状況はどうにかならないものだろうか。ほんとに「日本を降りたい」。タイや東南アジアに行かずに「日本から降りれる」のがいちばんなのだが。かれら「外こもり」の労働観が再輸入される日を待ちたいものである。
なお著者の下川裕治はおもに東南アジアのトラベル・ライターで、私は『12万円で世界を歩く』なんて本を読んだことがある。藤原新也の『印度放浪』や『西蔵放浪』などを読んで世界をめぐってみたいと思ったこともある。まあ、でも私は読書の旅のほうが急がしくて、じっさいの旅にはなかなか出なかったのであるが。ただのトラベル・ライターと思っているとこのような社会批判的なタイトル『日本を降りる』という眼目をひくネーミングを思いつき、社会学的な目線で現象を捉えているのは驚いた。旅行には批判的、または脱走的な要素があるという結びつきを私は捉え損なっていただけなのであろうが。




▼ほかにバックパッカーのバイブルとなった本




『古代人と死―大地・葬り・魂・王権』 西郷 信綱
![]() | 古代人と死―大地・葬り・魂・王権 (平凡社ライブラリー さ 1-4) (2008/05) 西郷 信綱 商品詳細を見る |
あいかわらずレイラインから導かれた死と再生の世界観にこだわっているが、それが古代人にとっての基軸となるコスモロジーであるからだと思う。冬になって世界は死に、新しく生まれ変わるという再生の世界観は、世界中で固く信仰されていた。いわば地図やカレンダー、世界観の碁盤となるものである。古代の遺跡や神話にはあちこちにその痕跡が見い出せるから、興味が尽きないのである。
この本は古代人の死の世界観について考察されているから手にとったのだが、再生については重点がおかれていなかったので私の満足する本ではなかった。魂や世界が新たに再生・復活するという物語が死とセットでないと古代人の死生観は理解できないと思う。再生や豊穣を願う祈りが、性に仮託することによって、死のさいに願われたのである。古代の神話や遺跡にはその物語がわかちがたく結びついている。そこから読み解かないと古代や神話は見えてこないのである。
銘記しておきたい文章を残しておくことにする。
「山の神の女コノハナノサクヤビメと海神の女豊玉姫や玉依姫は大地の生産力、その豊穣を象徴する女性であり、だから天つ神の子はそれと婚することによって稲穂みのる国の王たる資格を身につけるという神話的想定がここにはあるのである。ワタツミが農の水を支配する神たるゆえんである」
「どうかすると私たちは、大地がそれじたいおのずからにして豊穣なるものであるかのように思いがちである。……「母」なる大地が豊穣であるためには、それを孕ませる男性原理が必要で、その象徴がつまり蛇にほかならぬという関係になっていたはずである」
「蛇はしきりに脱皮をくり返す。これは不死とか再生ととかと結びつく。また蛇は姿を消したかと思うと急に現われる。つまり春になると地中の冬眠から目覚めて穴を出る。蛇が春をもたらす太古の地の霊(デーモン)とされるゆえんである」
「大事なのはこの石棒と土偶が概ね一つのセットをなしていたこと。さらにこれを受けついだのが、実は山の神と石神(イシガミ・シャクジン)との対応関係にほかならぬこと」
世界の再生のコスモロジーは性交と結びついていた。自然の神や物質が性交することによって世界は新たに再生・黄泉がえる。性交とは世界の復活を願う祈りであったのである。大地や岩、蛇などにそれが仮託されて、復活が願われた。自然の神々が性交することにより世界は再生し、そして古代の天皇も自然の神と性交することにより再生すると考えられていた。古墳に祈られていたことは神としての再生であり、山岳や寺社の方角にはそのような信念がこめられていたのである。つぎにはフレイザーの『金枝篇』を読まないとな。


金枝編 5冊セット―岩波文庫
アメリカ的消費とフロンティアの消滅
ガソリンや食糧の高騰がおこっているが、これはアメリカの没落と関係があると思っている。夢や希望を失ったマネーが投機を求めて、人間の生存に最低限必要なモノに投資されているのである。アメリカという希望や夢の消失が、マネーの行き場を失わせたのである。フロンティアの消滅である。
かつてはアメリカという夢があった。いまはアメリカという国が憧れであったり、夢や理想であったりするパーセンテージはどのくらいになったのだろうか。アメリカがカッコいい、憧れる、ぜひアメリカに行きたいとアメリカに熱中する人はかなり減ったのではないだろうか。少なくとも私の中にはもうアメリカの憧れはないだろう。
アメリカの憧れ 鈴木英人の絵かつて昭和三十年代、1950-60年代のTV草創期にアメリカのドラマが大量に放映され、人々のアメリカの憧れを駆り立てた時代があった。家電の揃った郊外の家に、日本人の多くは憧れと羨望のまなざしを向け、いつか自分たちも夢のようなアメリカの暮らしを手に入れたいと多くの日本人は奮起したものである。いまの日本――大量消費の社会はそのころの憧れの結果である。
▼参考までに
懐かしのアメリカTVドラマ 映画の話でコーヒーブレイク
特集:1963年 -昭和38年-アメリカンホームドラマへの憧憬……
三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史』 やりみずホームページ
私は昭和42年生まれなのでせいぜい『奥様は魔女』とか『バイオニック・ジェミー』などでしゃれたアメリカの生活というものを垣間見た程度だが、昭和30年代には「パパは何でも知っている」、「ウチのママは世界一」、「ガンスモーク」、「拳銃無宿」、「ローハイド」、「ララミー牧場」、「幌馬車隊」、「サンセット77」などのTVドラマが日本で放映され、人気を博したのである。
そしてドラマに描かれる家電の揃った室内、清潔に計画された郊外住宅地、マイカー、商品が山のように詰まれたスーパーマーケットといったアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを手に入れたいと日本人はがむしゃらに働いてきたわけである。
コカコーラにマクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、そしてエルヴィス・プレスリーにフランク・シナトラ、マリリン・モンローやジェームス・ディーンなどに憧れ、戦後の日本はアメリカ的な消費を追いつづけたのである。
そのような憧れや理想があったからこそ、日本人はおおいに働き、アメリカのような消費社会を実現しようとさまざまな計画や建設をおこない、そして理想社会を求めつづけたわけである。
いまおこっていることはそのような夢やフロンティアの消滅である。80年代に日本はアメリカの家電やクルマ、郊外住宅地の夢をある程度は実現してしまい、一億総中流というアメリカの夢が日本国民に平均的にゆたきわたる夢を果してしまったのである。
そしてフロンティアの消滅という未曾有の事態に直面してしまったのである。アメリカという坂をめざしてがむしゃらに登りつつけてきたのだが、頂上についてしまうと行き場を失ってしまい、あとは坂を転げ落ちるしかないという状態に陥ってしまったのである。理想やフロンティアは高いところにひき上げてくれるが、到達後の状況は思いもしなかったのである。山の向こうにはなにがあったのか。転げ落ちる急坂しかなかったのである。
アメリカ的消費生活の向こうになにがあったのか。理想やフロンティアを失った後に残ったものは、大量生産の労働や不必要な消費、お金を回すための生産といった「終わりなき日常」だけである。フロンティアの看板の裏にはゼンマイ仕掛けの歯車を回すだけの毎日が待っていただけなのである。
フロンティアを失った日本はただその歯車を延命させる日々しか残されなかった。十年たっても、二十年近くたっても、つぎのフロンティアはまったく見い出されない。せいぜいインターネットやケータイが私たちに新しい夢を見させた程度で、かつてのアメリカのようなぴかぴかした憧憬のフロンティアは私たちの目の前には一片も思い浮かばないのである。
私たちはこの大きな夢を失ってしまったために成長や期待、好景気の時代を得ることができないのである。人件費という固定コストを削ることでしか企業の利益を計上できず、そして多くの労働者の賃金を落とすことによって、消費市場はますます冷え込んでゆくばかりなのである。
この根本の問題――理想や夢の社会の消滅という事態を解決しない限り、この日本がよくなることはないのである。そのような夢や理想があったからこそ、日本人はがむしゃらにがんばれたし、社会に活力やパワーがあったのである。それが失われれば、活力源が供給されることはない。借金してでもほしいモノや死にそうに働いてでも得たいモノがないかぎり、日本人が猛烈にがんばるということはない。
このフロンティアの消滅という問題に正面からとりくまなければならない。社会や国民を動かす力というのは文化的な憧れやフロンティアである。フロンティアがあるからこそ、高度成長のような社会のパワーは生み出されるのである。
あるいはこの先何十年もフロンティアが見つからないようだというのなら、このフロンティア猛進型のシステムや価値観を抜本的に捨てるべきなのである。夢や理想がないのなら、がんばることも、必死にたえることもないし、なにもムリする必要がない。若者や人々の現実感覚というものはおそらくこのようなものなのに、企業マインドだけは猪突猛進型の仕組みがつづいているのである。ひきこもりやニートは社会のこの接続のズレが生み出してしまうものであると思う。
フロンティアがないのなら、「ゆるい」社会をつくるしかないのである。なぜならだれもめくらめっぽうにがんばる意味も必要もないからだ。突進型が必要なのは大きなフロンティアがあるときだけである。フロンティアが消滅すれば、そんな加速型の生産様式は必要ない。
社会は大きな夢を失ってしまったのである。アメリカ的な憧憬というものはとっくに終わり、私たちはその夢の跡をただよっているだけだ。タチが悪いのは、われわれの気分や身体に社会のシステムが合っていないということなのである。この社会のシステムというのはフロンティア追走型である。フロンティアなき社会にフロンティア追走型システムだけが暴走する社会というのは、喜劇というしかない。そういえば小泉前首相はプレスリーに憧れた世代で、まだ若きころのフロンティアが消滅したということを知らないのかもしれない。フロンティアがある時代とない時代の決定的な差異というものを、政治家世代はご存知ないのだろう。
金儲けの中に自分の価値を見失うな

『爆笑問題のニッポンの教養』でいい話を聞いたので、記しておくことにしよう。きょうのゲストは経済学者の橘木俊詔で、テーマは「愛と幻想の価値論」。
▼橘木俊詔の本




この『爆笑問題のニッポンの教養』は私の知っている学者が出ていたらたまに見るが、その学者のテーマや強みを引き出さないで太田光が自説を披露することが多くて、インタビュアーが逆じゃないかとたまに思うのだが、まあ学者が身近に感じられるからいいのだが。
しかし爆笑問題はどこにいくのだろう。お笑いタレントなのにインテリみたいなことをする。まあ、お笑いタレントにもそういう路線も必要なのだろう。小学生にウケるギャグばかりやっていたら、お笑いのレベルは低いと思われるままだろうし、だいいち自分の価値も落とされるだろう。それになぜ人は笑うのかと疑問に思えばたいそうむずかしい問題で、ダーウィンやベルグソンも笑いとはなにかと考えたほどなのである。
今回の感銘した話というのは「千両みかん」の話である。バブルのころのカネの











