教習所ってDQN(暴力的)体質なのか
リストラ宣告されたのに、のん気に普通二輪教習に通っている私です。まあ、気分転換できるし、入学金は納めてしまったので仕方がないということで。目的の250ccは買えないかもしれず、原付くんを二種登録しようかな。
今日はじめて技能教習に通ったのだが、鬼教官というものに出会ってしまった。ふつうの展開で説明がすすんでいたのだが、いっしょに受けていた高校生の子がバイクを倒してから、豹変。ボロクソに怒り出した。ちょっとの動作違いで噛みつく怒声が響きつづけた。教習とはこんなところなのかと唖然となった。
私は原付のミッションに乗っているからクラッチとかギア操作にはたいそう苦労はしなかったのだが、その高校生の子ともうひとりの女の子はそれぞれスクーターと自転車しか乗ったことがなく、操作なんかすぐにできるわけがない。それなのにその鬼教官は怒鳴り散らす。女の子はバイクを倒すわ、高校生の子もまた倒すわ、そんなに怒られたらだれだってヒビッてできることもできなくなる。鬼教官はむかしの話だという神話はウソのようである。
みんなのために怒るというが、私はそんなたわ言は信頼しない。人の感情や傷を配慮できない叱責や怒りなんてぜったいに当人のためにならないと思う。対人関係に恐怖を抱かせるだけで、運転への配慮とか慎重さを付け足すわけではない。たんなる感情の自制心のなさを言い訳に使っているだけだと私は思う。
ミッションのバイクというのはさいしょ乗り出すとクラッチとかギアとかまったくワケのわからないものである。私も原付でミッションに乗りはじめたときにはさっぱりわからず、エンストばかりおこしたし、操作のつながりがまったくわからなかった。そういう当たり前の状態を配慮してやって、やさしく教えてやるものが教習というものではないのか。こんなに怒鳴り散らすのはもはや教習という範疇ではないだろう。たんなる歯止めのない怒りの暴発である。という私も反感の態度はおくびにも出さず、二度ほど怒られ、神妙に反省しているふりをしたものであるが。
二輪の教習というのはこのような暴力体質、ブラック体質がふつうにはびこる場所なんだろうか。こういう軍隊的な対応なんて十数年はかかわりのなかった教育体制なので、私はこのような状態はなんなのかとなかなか理解しがたかった。まだ一回しか技能は受けていないが、まさかこんな恫喝・恐喝教習をカネを払ってまでして受けなければならないのか。スピード違反でつかまっても警察の態度はもっと紳士的でやさしいぞ。女の子はさいご泣きそうになっていた。つづけることができるのだろうか。
怒って教えるか、やさしく教えるかは、ほかの仕事でもやはり問題になる事柄である。私は怒って教える人というのは、新人の事情を理解できない人なのではないかと思う。新人というのはとうぜん仕事のことはわからないし、身体も思いのとおりに動いてくれない。そのような理解や慣れの再現をくりかえしていない新人はとうぜん失敗するし、さいしょから仕事などできるわけがないのである。そんな当たり前のことを理解せず、配慮もせず、アホだダメだのように最初から怒り出す人もいる。私はそのような人はすこしくらい知っていたり、できることの「特権」を自分の恐さ表示や優越感、ウサ晴らしに利用しているだけの人だと思う。新人のできないことに怒ることってほんとうに効果があるのか。
今回の教官は怒りの連鎖をとめられなかっただけのように思える。いちど腹を立てたら連鎖的に怒りが連想するのである。ひとつのインクのしみが全体にわたるように。この人は怒りのコントロールのような感情労働につく人としての基本マナーも身についていないのだろうか。
まあ、教習というのは時間に追われる仕事だと思う。人は時間に追われて仕事をこなさなければならないときにいちばんイライラいやすいし、怒りやすくなる。教習は50分という決められたひとコマの時間のなかで、決まった過程を教えなければならない。ひとつ動作が失敗すると、その過密スケジュールが強迫観念となって、教官の怒りに火を点けるのだろうか。学科教習でもほんと決められた過程を時間内に収めることはかなりたいへんだと思う。
まだ技能は一回しか受けていないからこの教習所がすべてこのようなDQN体質かわからないが、ひじょうに問題な場所でこれから過ごさなければならない懸念を感じる。体操なんかしていたらひじょうに悪どい、キツい目つきで生徒の体操をチェックしている教官もいたし、さいしょの所内案内で見たときの教官の群れというものもなにか威嚇っぽいものというか、生徒たちを愚弄するようなまなざしも感じたし。
まあ、私は原付のミッションが乗れるわけだし、きょう400ccを乗ってもそんなに困難は感じなかったからそう怒られることはないと思うし、バイクで走り出したらクルマの教習のように教官にとなりで注意されるということもないから、私自身に害はさしておよばないと思うが、さんざん怒られつづけた女の子や高校生を思い出すと、このようなパワーハラスメント行為に何の対応もできないのかとちょっとふがいなくなる。
バイクは危険な乗り物であるし、人をひき殺す凶器にもなるし、自分の肉体を損傷する道具にもなりうる。だから厳しくしなければならないというのは、どこか論理がすれ違っているように思える。人間から与えられた厳しさはたんに人間に対して厳しさを感じるだけであって、バイクや交通にかんしてでは絶対にない。この経験は交通に生かされるのではなくて、たんに人間のトラウマを生むだけに思える。私は厳しさの効果は信じないというよりか、正直なところ怒りや叱責が好きではないのである。人を傷つける対応は許されるべきものではない。
教習所にDQNや鬼教官が生まれる要因としては、教官が教えたり守る立場に立たなければならないために、反抗的・非服従的な生徒を、抑えつける意味でそのような体質が盛り上がりやすくなる危険性が高いのではないかと思う。教えられたり、注意されたりする立場に立たされる生徒の中にはとうぜんそういう立場がガマンならないという者、さいしょから怒りっぽい者やキレやすい者もいるだろうし、教官も生徒たちとの関係の葛藤を数々経験しなければならない。教える、支配する立場を維持するために威嚇や恐怖の鎧を重ね合わせてしまった教官もいるのだろう。負けたり、なめらたりしないために教官もドキュン(暴力的)な鎧を覆ってゆくのである。
教習所という公共的な場所がそういう巣窟だとしたら、うら寒いばかりなのであるが。あまり経験したくない、知りたくない教習なのであって、人間の暴力的性質をこんな公共の場で味わうなんて残念でならない。
▼参考になるサイト
★2007自動車学校ブラックリスト★教習所
自動車学校(教習所)被害報告スレ
私、自動車教習所が嫌いです。
教習所の教官の態度について - 教えて!goo
教習所の教官のDQN度は異常
最低教習所ランキング 京大生のためのコミュニティサイト
教習所で教官に泣かされかけてます・・
教官が最悪でした。インターネット自動車教習所 相談室
フリーター雑誌の新創刊があいついでいる




上に図示した雑誌のように、フリーターや格差社会、ロスジェネなどについて語ったオピニオン雑誌の創刊があいついでいる。
フリーターやワーキングプア、格差社会について一般の人たちが語り、考え、意見を交換・共有しあう場所がいま求められているのだろう。大手メディアはとりあげたと思ったらブームが去ったようにいつの間にか消えてしまうが、当の若者たちにとってはいつまでも終わらない日常の話なのである。継続して考え、解決してゆかなければならない問題なのである。
私はあまり雑誌は読まない。書籍のようにひとつのテーマで一直線に最後まで運んでくれる編集の仕方ではなくて、興味のないテーマも多くはさまれていて、その部分を読み捨ててしまうことになるので、雑誌はあまり好きではないのである。それで書籍ばかり読んでしまうことになるのだが、書籍というのは継続して語られる場や情報が共有される場がずっとプールされているわけではないので、オピニオンにたいしての情報欠落をきたしやすいと思う。継続して読みたい雑誌もいままでなかったのである。
私はいちおう思想系のほうにも興味があったのだが、『現代思想』とか『ユリイカ』のような思想系の雑誌はレベルが高すぎて興味とレベルがついていけなかったし、『文藝春秋』とか『中央公論』のようなジイちゃん雑誌などまず読む気がしなかった。読みたい雑誌というとせいぜい『SPA!』くらいで、それもなんだか商業主義だしなぁ〜ということで、私はほぼオピニオン雑誌を読まず、ついでに新聞も読まず、興味のあるテーマの書籍ばかり読んできたわけである。私の興味あるテーマの雑誌が出ているということはまずなかったのである。というよりか、私の興味のあるテーマに編集された雑誌など永久に出ることがないと思うが。
私は約20年前ほどになるが、ずっと労働について考えたいと思ってきた。私はあまり働かずに自分の好きなことをしたかったし、会社人間や滅私奉公のような人生なんて心底おぞましいと思ってきた。そのような会社主義を批判してひとり気を吐いていた評論家が佐高信だけであって、労働について考えられる時代ではなかったのである。
このような労働のあり方というのは人生としてのよい生き方ではないと私はずっと悩んで、職を点々とするフリーター人生を歩んできたわけである。そしてそのころはまだバブルが崩壊したばかりで、今日のようにフリーターや派遣労働が際立って増加したわけではないし、まだバブル崩壊不安の中高年リストラに社会的非難が集まるような時代であった。予定調和のサラリーマン人生を再考するという機運はまったくなく、若者はエスカレーター式に自分たちもそのような人生を歩むだろうとぼんやり考えていたのである。「だめ連」のような働かない人たちも一時ブームになったりもしたが、労働について考えられることはなかったのである。
それがいまはフリーターや派遣労働などの非正規雇用の増加により、書店の本棚にはフリーター本や格差社会論が所狭しと並ぶようになり、フリーター雑誌のようなオピニオン誌もぞくぞくと出るようになったのである。しっかりとよりよい労働と人生とはどんなものか、熟慮してもらいたいものである。フリーターや非正規の権利獲得や待遇上昇のような問題だけではなくて、よりよりい人生、社会としての労働をしっかりと考えてもらいたいものである。
このような雑誌に出る人たちといえば、杉田俊介や赤木智弘、雨宮処凛とかになるのだろうか。フリーター経験の中から労働や非正規雇用、経済について考えてきた人たちである。これらの本は私は残念ながら未読であるが。



フリーター雑誌はとうぜんのように格差是正や待遇改善の要求をつきつけるのだろうけど、昭和の時代のような終身雇用・滅私奉公のような人生が獲得される最終目標だのような恐ろしい路頭に迷わないでもらいたいと思う。フリーターも当初はそのような人生からの逃れられる希望の星として語られた時代もあったのである。そのイメージが強いから、フリーターはいまだに怠け者としてバッシングされるのである。構造的な弱者、被抑圧者としてのイメージをもたない人も多くいるわけである。過去の社畜にもどらない人生を目標にしてもらいたいものである。
非正規・ワーキングプア問題はいったいどこらへんにいきつくのだろうか。けっきょくはなんの解決もできずに定着してしまうのかもしれない。産業界や経済界は国家とともに労働者を社会保障するような社会主義の時代からさっさと足を洗いたい要求ではちきれんばかりなのだろう。放り出された労働者はどうするのか。貧しいながらも、不安定ながらも、自力で生きてゆくしかないのである。
労働者がぼろぼろに使い捨てにされる実感が職場にひしひしと感じられるから、小林多喜二の『蟹工船』はブームになって読まれるのである。昭和はじめのプロレタリア文学がリバイバル・ブームになるなんて、いかに若者をとりまく環境が大きく変貌したか、世の大人たちはしっかりと銘記しておくべきである。


でも私としては国家や企業が守ってくれる、社会保障を与えてくれるという時代、捉え方のほうが異常で、常識っ外れだと思うのだが。なんで労働者を企業や国家が死ぬまで面倒を見てくれるというのか。それはなんらかのメリットがあるからで、右肩上がりの長期的な高度成長の時代にはそのような長期的保証が企業奉仕に合致したからであって、今日のように定常型社会といわれる時代においてはそのような交換にはメリットがない。
だからわれわれは守られないのが常識だという前提のもとでこの世を渡っていかなければならない時代の突端に立っているわけである。でも守られるというのも、またぎゃくに高度な奉仕や過重な労働を交換として捧げなければならなかったわけで、それもそれで犠牲の大きな選択であったわけであるが。だからわれわれはこの高い保証には高い犠牲が必要だという「交換のワナ」にも注意深い警戒が必要なわけである。
労働というのはほんらい使い捨てや搾取がとうぜんのベースとある過酷な闘争関係のあるものである。それが高度成長の社会保障や終身雇用の時代にすっかり忘れられてしまったから、私たちは過重労働と企業中心の社会に生きることになってしまったのである。この過酷な使い捨て社会というのはほんらいの社会の関係に戻っただけだと捉えるべきなのである。その上から、労働のあり方や企業との関係は考えられるべきであって、私たちは社会保障の時代の能天気な時代のツケを支払わされているのだと思う。若者が自分の問題を考えることは、「お客さま」として生きられた昭和サラリーマンの時代より、よほど真剣に賢明に生きられる時代だと私は思うのである。
『ブラック企業の闇』 ムネカタ スミト
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この労働状況の悲惨さがギャグになってしまうのはなぜなんだろう。あまりのヒドさにひきつった笑いをするしかないのである。おそらくTVでタレントがいじめられたり、イタイ目に会わされて、笑ってしまう心理と同じようなものなのだろう。人の不幸が笑えるのである。
十年前は就職や転職するさい、会社の評判や内情というものはまるでわからなかった。大企業ならともかく中小企業などの実情なんて知りようがなかった。今日、インターネットができたおかげで個人による匿名の告発や報告ができるようになって、じっさいに働く人たちのナマの実情が聞けるようになった。これは「福音」である。
そして激務薄給のひどい会社にはいつしか「ブラック企業」という名称が冠せられるようになった。インターネットのすばらしいところである。そしてこのようなブラック企業ランキングといった番付けも見られるようになった。
2009ブラック就職偏差値ランキング
2006年度就職ブラック偏差値ランキング
2005絶対就職してはいけないブラック企業就職偏差値ランキング こちらはどんなブラックか知らせてくれていますね。
大手メディアだけではぜったいに知ることのできなかった個人メディアの勝利である。私たちはこのような情報によってはじめて互角に企業と相対峙できるのである。私たちはこのブラック企業にぜったいに就職しないと申し合わせることができるし、束となれば社会的制裁を与えることもできるのである。革命である。個人によるネットの情報により、私たちはこのブラック企業への制裁を与えることできる力を手に入れたのである。情報の力というものである。私たちはこの力をぜったいに手放してはいけないし、企業の権力を掘り崩す磁場をようやく手に入れたのである。
もしかしてネットの掲示板のほうが情報は多いかもしれないが、情報があまりにも散りすぎているため、まとまった情報を手に入れたい場合はこのような本が有効だろう。そしておそらくネットより、出版のほうが読む人や社会的流通度は広がると思われる。
この本では訴訟から明るみに出たブラック企業、元社員が語るブラック企業の実態、業種や体系としてのブラック企業などの章立てがなされている。
偏差値のかなり高ランクに位置する光通信系グループは「死ね」とか「殺す」などの言葉がメールで行き交い、夜の12時まで毎日働かされ、離職率は高く、部下を大声で怒鳴ることによって、いいたいことをまわりにつたえたりするそうだ。ブックオフも朝から夜の12時まで働き、離職率は50%という話である。武富士は消費者金融の業界自体がそういうものだと思うが、残業未払いで従業員に総額35億円支払うことになったり、上司の罵声がテレビニュースで報じられたこともあった。
トヨタは世界的な大企業であるが、じっさいの組み立ては手作業のライン作業であり、私もバイトで零細企業のライン作業をやったことがあるが、チャップリンや鎌田慧がつたえたように非人間的なものである。世間は企業の規模や株価などで企業を判断するかもしれないが、労働者のブラック度という観点で見ると、この労働はずっと労働者を不幸なものにするブラック×ブラックなものである。
テレビ業界の労働も過酷なものと知っている人もいるだろうが、アシスタント・ディレクターは三時間の睡眠も確保できないことも多く、暴力体質もあり、あのテリー伊藤もかなり暴力ディレクターで有名だったようだ。制作会社のADはたとえば16万の給料だったとすると、16時間労働で計算してみると時給333円。最低賃金もクソもあったものではない。なるほどサービス残業というのは最低賃金を突破するためにあるものなのか。ちなみにADの離職率は50%以上。アニメ業界や出版業界の過酷さや賃金の低さは有名なところである。
IT業界も「ITドカタ」とか「デジタル土木作業員」とよばれるほどひどいもののようである。地味で単調で長時間労働におよぶからのようである。もうIT産業は学生から「きつい、帰れない、給料が安い」の3Kとよばれるようになっている。かつて3Kといえば、「きつい、汚い、危険」だったのであるが。
ブラック企業の求人や広告に引っかからない見分け方がのせられている。「月給16万〜45万円」のような幅の広い給与はノルマが達成されなかったりして大幅に減額される恐れがある。「実績次第で即昇進」は上司が部下になったりしてブラック体質になる。総社員数に対して募集人員が多すぎるばあいは、離職率の高さを示している。「学歴不問、未経験OK、フリーター歓迎」は細かい採用条件を提示しているばあいではないのである。「社員が若くて活気のある会社」は若さゆえに高ノルマの設定により暴力的体質になっていることもあるし、離職率の高さから年長者がいないことも考えられる。
企業というのは塀や壁に囲まれてじつに閉鎖的な社会や環境をつくるものである。内部で起こることはいっさい外部に漏れない、知られないことがふつうであった。「民主主義は工場の前で立ちすくむ」という本もあったし、労働基準法ももちろんビルの壁の中まで入ってこない。そして労働争議や裁判はTVニュースで遠い世界で起こっている不幸な人の闘いの記録だと見られたりする。
情報の共有、あるいは当事者意識の欠如、共有意識の不在などによって、会社員や労働者は分断、孤立されていたといっていい。だから情報の共有や知識の伝播といったものがひじょうに大切になるのである。インターネットの掲示板はぜひその壁や塀を突破する情報の波となってほいものである。情報はベルリンの壁を破ったのである。企業の壁も情報の共有によって破られる。私たちはブラック企業という情報の共有によって、そのようなブラック企業、悪徳企業、犯罪的企業というものを社会から追放できるのではないだろうか。カベをブチ破れ。
▼ひどい企業労働の実態に迫った本はほかにあったでしょうか。










2008年5月の新刊・注目本情報
2008年5月の新刊・注目本情報です。アマゾンは書影のUPをやめるつもりなんでしょうか。ひじょうに点数が少なくなっていますね。

本田由紀の新著ですね。まさに「軋む社会」ですね。

2月に出た本ですが、本屋で見てほしくなりました。

広く社会学を見わたして見るのもいいかも。
個人化社会 ジグムント・バウマン
個人化は自由なのか、崩壊なのか、重要な問いだと思います。アマゾンのリンクがまだないですが。
不平等国家中国―自己否定した社会主義のゆくえ (中公新書 1950) 園田茂人

まさしく「不平等国家」で「自己否定した」中国ですね。よくも悪くも中国は世界の関心事になることでしょうね。
自閉症の現象学 村上靖彦

自閉症には時間と自己の根源的な問いがあると思います。
自分ということ (ちくま学芸文庫 キ 14-4) 木村敏

木村敏は「あいだ」概念をつかって、自己について考えましたね。
地球最後のオイルショック (新潮選書)

石油が枯渇するという危機はいつか必ずくるものです。
女優の誕生と終焉―パフォーマンスとジェンダー 池内靖子

メディアが女優と憧れと優越性を生みました。メディアの突出性を疑問に付さないと、たぶん私たちは幸福になれないのでしょう。
文化史とは何か ピーター・バーク

ピーター・バークは『知識の社会史』や『フランス歴史学革命』といった本を書いた人ですね。
ポスト消費社会のゆくえ (文春新書 633) 辻井 喬 上野 千鶴子

ふたりの対談はべつに読みたいとも思いませんでしたが。消費をコテンパンにしてくれる論考があるのでしょうか。

雨宮処凛はがんばっているようですが、問題意識が狭すぎるかも。

サブタイトルが「知識とイデオロギーの社会的構成」でなんとなく興味が魅かれるかも。

家庭に中にモラル・ハラスメントという概念が入ってくるとは。でも家庭ってもともとそういう巣窟ではなかったのかと。
日本の「岐路」―自滅からの脱却は可能か 中西輝政

中西輝政は文明論的視野をもっている人だと思いますが。
政治家とリーダーシップ―ポピュリズムを超えて (岩波現代文庫 社会 165) 山内昌之

山内昌之は幅広い歴史家ですね。
日本人だからうつになる (中公新書ラクレ 277) 上野玲

「日本人だからうつになる」というよりか、心や思考の知識がほったらかしにされているだけと思いますが。

木田元はハイデガーやメルロ・ポンティなどの現象学あたりが中心な人と思いますが。
東洋的な生きかた―無為自然の道 (Minerva21世紀ライブラリー 86) 小坂国継

悠然とした東洋的な生きかたに学びたいものですね。

「〈たとえ〉で学ぶプラトンからドゥルーズ、老荘思想まで」というサブタイトルが興味魅かれますね。
性のアウトサイダー (中公文庫 ウ 6-2) コリン・ウィルソン

放蕩、女装趣味、同性愛などの性倒錯についてのコリン・ウィルソンの本です。
「平凡」の時代―1950年代の大衆娯楽雑誌と若者たち 阪本博志

雑誌が社会をひっぱる時代はこのころから生まれたのでしょうか。
ロベスピエール/毛沢東―革命とテロル (河出文庫 シ 6-1) スラヴォイ・ジジェク

ロベスピエールと毛沢東を並べるなんてと思いましたが、民主政治も社会主義も全体管理的な頭脳主義にいきつきますね。
百姓の力―江戸時代から見える日本 渡辺尚志

百姓からの視点で時代を見てみたいものです。
蘇我氏の古代史―謎の一族はなぜ滅びたのか (平凡社新書 421) 武光誠

蘇我氏はどんな人たちだったのでしょうか。
江戸の恋愛作法 井上泰至

江戸の恋愛作法は現代とどう違っていたのでしょうか。夜這いも恋愛作法のひとつ?
生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫 青 946-1) シュレーディンガー

岩波新書のベストセラーが堂々たるラインナップの岩波文庫に入りましたね。
ネコはどうしてわがままか 日高敏隆

この問いはいつも感じますね。
ぼくが世の中に学んだこと (岩波現代文庫 社会 166) 鎌田慧

ちくま文庫で出されていたこの鎌田慧の本が岩波現代文庫に入りましたね。

精神科医の野田正彰はみすず書房から随想のような本をつぎつぎと出していますね。
生きられる癒しの風景 秋道智彌・市川昌広編
風景って癒しになるんですね。どうしなんでしょうかといつも私は思います。
心の“ゆらぎ”と社会の変化―心理学と社会学の視点で読み解く現代社会 大山 七穂・小川 恒夫編著

現代社会は心理学からでもなく、社会学からでもなく、両方の目でバランスよく読み解いてほしいものです。

ぶあつい本です。
フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書 1946) 今橋映子

「フォト・リテラシー」というものがあるのですね。

ナチ侵攻に逃げ出したフランス政府と残された一般市民。
▼参考にしたサイトはこちらです。もっと多くの新刊書があります。
新刊・近刊書籍情報 2008年5月 人文書
リストラ宣告されました!
いまの会社に入って5、6年――。二十代のフリーター生活のような転々とさまよう人生を、三十代の転職市場の少なさから足を洗おうと決意して定着を狙って、いやなことや不快なこと、ツライことがあっても黙々とたえてきたつもりなのに、リストラ宣告されました。チーン。
まあ、私の勤めている会社はさいしょから深刻な対立があった。親会社のもとで請け負い会社が二社入って仕事を分担し、ときには交錯するといった複雑な職場で、その対立の根はずっとあった。私の勤めている請負会社は弱い立場にあって、こんかい切られることになった。ま、しょせんは請け負い会社である。親会社の鶴の一声でチョンというものである。
少々ツライのは不快さやいさかいがあっても定着しようとがんばってきたのに、切られたことである。それに親会社の顔も見えているし、ともに働く人たちからそのよう宣告を受けることは、人情的にショックがあるというものである。
けっきょくのところ、政治力で負けたのである。新しく入ってきた親会社の社員を親しく遇しなかったばかりに、新しいシステム改革のもとに腹いせを返されたのではないかと思っている。もう一方の請負会社とグルになりすぎた。ひじょうにベタな人間関係、派閥闘争が、こんかいのリストラ宣告につながったと思う。私は孤独を好むものだし、たぶんにかれに承認を与えなかったために切られたのだろう。まえのエラいさんと昼飯をいっしょに行かなかったばかりに恨まれたこともあったし。そういうバタくさいことで切られたりするものだろうか。派閥闘争・政治力学に負けてしまったのである。
私は上司とうまくいかず、かなり嫌われた。恐喝っぽい口調で注意する上司に腹をたててほぼ無視を決めこみ、そういう嫌う-嫌われる関係が長くつづいて、逃げ出したいと思ったことも何度もある。まあこの上司が請負会社のリーダーだから切られたという側面もある。もう一社の請負会社との対立や抗争は根深く、はげしく燃焼した時期もあった。
会社というのは会話のグルーミング(毛づくろい)で円滑に潤滑するものである。そこの従業員はいろいろな人からそういう「承認」を受けたがっている。私はたぶんそのような承認を期待される人物のようである。でも個人を承認できても、会話の輪に入るのが苦手だから集団を承認することができないのがヤバイのであるが。
ある時期仕事が忙しくなり、負担が重くなってくると、私は無口になり、承認を得たがってる人に嫌われた。無口には饒舌と会話の喧騒を仕返しされたのである。私はますます無口になり、それは怒りや集団への批判と読み込まれて、私はますます嫌われることになった。このような私の性格の災いといぜんからあった会社の対立が重なって、ひどい時期になったこともある。辞めたほうがいいと思ったのも何度もある。そのころに考察されたのがブログ・カテゴリの「集団の序列争いと権力闘争」である。マキアヴェッリやチンパンジーの政治学に学ぶことがあったのである。
仕事の努力や貢献もしてきたつもりである。まあ、私のそのよう気持ちもまったく評価されなかったのだろう。なにぶん不快でも長くいつづけようと思っていたところにクビを切られるのはいい気分ではない。だいたい私の履歴書はぼろぼろだし、スキルもないから、狭まった40代の転職市場に挑む気力もあまりない。もう同じ業界でしんどい思いをするのはいやだし。
失業するといつも手に職をつけようと職業訓練校のスクール通いを考えるのだが、失業期間中の生活がしのげず、いつも私の好きではない、だれにでもできる業界に戻ってこざるをえない。スキルがなければ、他業種になんか転職できないのである。もうこのジレンマに何度も悩まされて、あきらめがちである。こんかいもさっそくスクールを探してみたが、手ごたえのいいものがない。
私の労働観もだいぶ変わってきたかもしれない。二十代はとにかく働くことが嫌いだった。なんとか働かないこと、自分の好きな趣味に没頭したいと思っていた。二十代は会社人間の人生なんてまっぴらだと思っていたし、転職市場も多いが、三十代からはその門戸が閉ざされるので、定着を考えてきた。しかし望んでも得られないものだな。年齢が高くなるごとに転職も難しくなってゆくし。
思いがけず、まただれからも首輪をかけられない「無所属」の自由な生活に放り出されることになってしまうが、二十代のようにこのような時間を喜びとする気概は40歳のいまの私にはない。なんとか手に職のつけられるスクールを見つけたいと思っている。
「野良犬」の人生は私が望んできたことであるが、生計が立てられなくなるのは困る。「幸運を祈る!」。
▼こんなふうに考えられたころがなつかしい。旧ホームページ。
「仕事ばっかりの人生なんてまっぴらだ!」
『自閉症―私とあなたが成り立つまで』 熊谷 高幸
自閉症―私とあなたが成り立つまで
熊谷 高幸

このような自閉症の本を読んだのは、特殊な話であるが、数年前に私は心や感情のコントロールを手に入れるために瞑想の訓練をおこなっていたのだが、耳の感覚が鋭敏になってしまい、他人の声にいつも「聞き耳」を立てているような状態になってしまったからである。言葉でいってもわかりにくい感覚であるが、いっしょの場にいる「会話関係の外」にいる人たちの声も耳に入りすぎて、困っている。
他人の会話や他人の関心への感覚が鋭敏に強くなりすぎているのである。ふつう人は他人の声や会話は聞こえていても、遮断や関心外におくことができるものだが、私の耳は瞑想の訓練のせいでこの障壁がどうも弱くなったようである。
困っているところで気づいたのだが、自閉症の子どもというのは他人に関心をもたないし、他人の存在を気にかけないという特徴がある。もしかして私に必要な失われた機能というのは、この他人へ無関心への障壁ではないかとあたりをつけて、自閉症の本を読んでみたわけである。
私の悩みにこの症状が効くかはわからないが、自閉症というのは人間の発達成長の不思議さを教えるものであるし、なによりも人間と時間、または言葉という人間存在の根源をうきぼりにする症例を呈していることに驚かざるを得ない。分裂症あるいは統合失調症の症例のような哲学的問いを発せざるを得ない特徴をもっているのである。
自閉症の子どもは早くに言葉を発することがあるのだが、ある時期から失われてしまう。ふつうの子どももそのような危機をへて、言葉の発達段階をとげてゆくようである。語彙が増加するのはちょうど動詞を覚える時期と重なる。動詞というのは「もの」の世界ではなく、「こと」を表わす世界である。「ワンワン・キタ」「リンゴ・オチタ」のように時間的変化、出来事をあらわすものである。
さっきまであったのに「いま・ここ」にないもの、またはさっきまでなくて「いま・ここ」にあらわれたもの、動詞はそのような時間の変化の中の存在・非存在をあらわす。言葉が必要なのはまさに「いま・ここ」にない時間をあらわすときではないだろうか。時間的な不在の中で言葉は必要となり、生まれたのである。自閉症はこの時間の感覚を育てるのに失敗するのである。
自閉症の子どもは時間的な変化の中で動くものに対応するのが苦手で、動かない、いつまでも待っているような機械や文字が好きである。時間の中で動いたり、変化したりするものに対応できないのである。とらえどころがなく、一義的でないものに困難をきたし、たとえばふつうの子どもでも多義的な存在である「ママ」より、一義的な限られた存在である「パパ」のほうが呼称が早いこともあるようである。
自閉症の子どもは他人の心を読めなかったりするが、おじいちゃんにファミコンをもらうと、「オジイチャンニ ファミコン アゲタ」と表現したりするし、「ヒロクンヲ タタイタ」というと、ぎゃくにヒロ君にたたかれていたりする。
私たちは世界の中心にあるのに、自分の姿が見えない。過去を思い出すにしても、思い出しているいまの自分を見失うと、現在という時間は失われてしまう。自閉症の子どもはときに「透明人間」のように他人のお菓子をとったり、会議中の部屋でTVを見出したりと、あたかも自分の存在がないようにふるまう。時間の中に存在する「自分」という存在あるいは虚像をつくりだすことに失敗してしまって、まるで自分が「存在しない」かのようである。つまりは時間の中の「私」をすっぽりと欠落しているのである。
「自分」や「私」というのは時間のなかで捉える「自己像」といっていいかもしれない。時間の感覚を捉えそこなった子どもは、時間の中で計画したり行動したりすることに失敗し、時間のなかで予測したり把握したりする他人の心も読めず、そして時間の中で生まれる「自分」という存在をつくることにも失敗してしまうのかもしれない。自閉症あるいは人間の「自我」の発達段階というのは、この時間の把握にこそあるものかもしれない。
時間の把握からこぼれ落ちてしまった子どもたちは、捉えようのない変化のある世界の中で、心の中で時間的な自己を育てることに失敗し、自分を見失い、そして時間的な他者を見失い、対応能力を失い、そのような恐怖の世界で自閉症特有のこだわりやルーティン行動に固着してゆくのかもしれない。
かれらが陥った陥穽はひじょうに哲学的な世界であり、そして人間が成長し、言葉と時間の文化のなかに入ってゆく際に必要な通過儀礼なのだろう。時間の把握につまづいた子どもたちは、自己や他者の存在を失ってゆくのである。言葉と時間と私という三つ揃いの関係が、私たち人間をつくってゆくのである。
by G-Tools
ようやく普通二輪の教習に通います
ずっと迷いつづけてきたが、ようやく普通二輪の教習に通うことになりました。ことしの冬の寒い間に免許をとって春から乗れるようにしたいと思っていたのだが、迷いつづけてここまできてしまった。
私は原付のミッションに乗っているから排気量は違うにしても中型の教習を受ける必要があるのかという疑問もあったし、学科なんか独習のほうが私の肌に合っている。ただ一発試験は中型の練習ができないためと、仕事の関係で休みは何回もとれるわけではないので、あきらめざるをえない。何回か練習できる場があればいいのだが、ライダーの友人がいない私は練習もできない。教習の12万はかなりイタイのだが、選択肢はないようである。
これで原付の免許とおさらばできる。原付は法定速度が30劼箸いθ鷂充妥な速度制限があって、私はほぼスピード違反の常習者になっていた。ねずみ捕りに一回、白バイに一回、覆面パトカーに一回というようにバラエティー豊かな手段で捕まってしまったから(笑)、もう観念である。こんなものに乗ってられっか、ということでオサラバである。
クルマの流れの速度で走りたいのである。もちろん原付はだいたい60劼曚匹靴出ないが、流れの速い大きな道路でなければ、その速度ではクルマの迷惑にはならない。つぎつぎにクルマに抜かれてゆくことが屈辱なのである。また危ないし、クルマが追い抜けない狭い道路でとろとろ走ることは大迷惑である。もう私は30卆限で走ることはなくなっていて、だいたい50〜60劼禄个靴討い拭
この非現実な速度制限はなぜまだつづいていて、原付はポリさんの罰金の絶好のカモになりつづけるのだろうか。これは警察の罰金収入の利権のために残っているのだろうか。あるい警官の新人研修や点数稼ぎのてっとり早い手段のため?、あるいは少年犯罪防止の側面から少年の乗る原付を捕まえるのだろうか。
警察はまるで多くの人が犯罪にひっかかるような規制を張ったほうが、警察権力の網の目にかかりやすいと踏んでいるのだろうか。この30卆限は私にとってはふつうに道を歩いていて捕まって罰金をとられるような恐ろしくて不快な体験である。30卆限のほうが犯罪であると認識しているくらいだ。法的に訴えでもしないと変わらないのだろうか。警察はいたいけな原付少年から罰金と罰点をぶったくる犯罪集団なのか。
原付からオサラバしたかったもうひとつの理由は、原付の小ささ、カッコ悪さである。私はスクーターと体格のバランスの悪さはかなりカッコ悪いと思っていて、スクーターだけはぜったいに乗りたくないと思っていた。だから私はYB-1というスポーツタイプの原チャリに乗っているわけだが、この原チャリもバランスがたいそう悪い。大型バイクと体格のバランスを見ていると、まるで大人が三輪車に乗っているような恥ずかしさを感じる。オモチャのようである。だから乗り換えたくてたまらなかったのである。
この原付はそろそろ3年くらい乗っていて、まあ10万のモトはとれただろう。たぶんにバイクの楽しみの多くはこの三年間で味わったと思う。「こんなところまでこれる」とか「こんなところがあったのか」という驚きや発見は、最初の乗りはじめた時期のみに感じられるものである。新鮮さや発見は、道や街を知ってゆくごとに薄れてゆく。原付で乗り回したこの三年間がバイクのいちばんの楽しい時期であったのだろう。
このバイクは中古で買って、かなりオールドタイプであって、ブレーキはきいきい鳴る、雨のつぎの日にはエンジンがかからない、クラッチがすぐに伸びて調整ができなくなる、といった故障だらけであった。買い換えるにはもう原付は乗りたくないし、普通二輪の教習とバイクは高くつくし、と膠着状態に長いあいだ縛りつけられていたのである。タイヤが古くなってつるつるになっていたため、雨の日のスリップ転倒やキャッツアイを踏んでしまったためだが、パンク転倒などの痛い目にも会った。
原付の免許で困ったことはクラッチやギアの操作法を教えてくれなかったことである。原付の問題集や解説書にはたしかそんなことは書いていなかった。だから店で買って帰るときや、それからの一、二週間、クラッチとギアの使い方がわからず、エンストばかりしていた。一速、二速の意味がわからなかったし、まさか信号のたびにニュートラルに戻さなければならないのも知らなかった。ギアやクラッチとはなんぞやとひとつも理解せずに無我夢中で乗らなければならなかった。原付のミッションに乗る場合にはペーパー試験だけではなくて、実技講習も必要なのではないかと思う。いまはほとんどオートマのスクーターばかりかもしれないが、このへんはどうなっているんだろうと思う。
苦労のかいもあっていまはミッションをマスターしたが、それだけに普通二輪の教習の意味はあるのだろうかと思う。スクーターからの人はクラッチやギアの方法は教えてもらったほうがいいと思うのだが、ミッションの原付に乗っている人は普通二輪の教習を受ける必要はそうないと思う。というか、原付に乗っている人は普通二輪の教習を受ける必要があるのかと思う。もう公道で走ってきて規則や実際を体験しているのだから、なにをいまさら学ぶ必要があるのかと思う。まったくはじめて乗る人ならぜひ教習で教えもらいたいと思うはずであるが、原付でも曲がりなりにも交通規範を知ってきた人にとって、普通二輪の教習を受ける意味ってなんなのだろうと思う。
私はクルマの免許がないから、学科の数もかなり多い。土日しかほとんどは受けられないだろう。なんか学科は予約がいらないようだから、仕事帰りに寄れるときもあるだろう。学校のような場所に通うのはひさしぶりだから、ちょっと気分が重いし、技能で人から見られたり、注意されたり、試験の経験もできれば味わいたくないものであるが、免許であるから仕方がないのだろう。
晴れて250ccのバイクが乗れるまでがんばりたいと思う。ほしいバイクとしてはクラシックなデザインのシンプルなものを考えている。ススギST250とかカワサキ・エストレアなんかがめぼしいものかなと思っている。もちろん中古の20万円くらいで見つけたいと思っているが。

スズキ/ST250 メーカー希望小売価格: ¥366,450

カワサキ/エストレヤRS メーカー希望小売価格: ¥483,000
『人生の短さについて 他二篇』 セネカ
人生の短さについて 他二篇 (岩波文庫)
セネカ Lucius Annaeus Seneca

私も40歳になり、人生のあっという間の早さや短さについて思い知らされる年齢になったので(「二十年もたったなんて信じられない」)、人生の短さについて書いたセネカの本が岩波文庫にあったと思い出し、古代ローマ時代のセネカの著を読む。
まあ、ほぼ感銘はない。心にしみこむ言葉もなかったし、インパクトのある文章もなかった。していえば『人生の短さについて』より、『心の平静について』のほうがよかった。翻訳は読みにくいし、意味も通りにくいところもあるのだが、まあ古代ローマ人の感覚を現代語に移すのはやはり難渋するものなのだろう。
私の好みとしてはマルクス・アウレーリウスの『自省録』のほうが好みである。ストア哲学の心の平静についてのエッセンスが書かれているし、哲人王とよばれた人の朝起きたくない愚痴などが書かれていて好感がもてるのである。なによりこれは仏教の瞑想とひじょうに似ており、二千年前にヨーロッパとインドは思想的共鳴や同時代性を生きていたのかと驚くのである。いや、仏陀は紀元前4.5世紀に生きた人なので、インドの影響下にあったわけである。
セネカは二千年前の前4年ころから西暦65年ころまで生きたとされる。ネロの家庭教師となり、自殺を命じられている。二千年前の著作が読めるとはすごいことであり、この二千年の間に多くの人が生まれ、死んでいき、多くの人の思いや考えはこの世に残ることはなかった。そのような時代をへて著作が残るということはすごいことだと思う。書籍という形態は、人間のメディアとしてはこれだけの長さを保つことができるのである。
今日、古代ローマや古代ギリシャの悲劇や哲学書を手に入れることができるのだが、ヨーロッパは近代になって勃興した土地なので、この古代ローマ時代はヨーロッパ人の偉大さや伝統性を正当化するためにピックアップされた時代なのであろう。ヨーロッパは長く中国やイスラムにとっての後進国、周縁の国にすぎなかった。だからこの古代ローマ時代、あるいはルネサンス時代は近代の「偉大な」ヨーロッパを正当化づけるために、その偉大な起源がたたえられなければならないのである。優越性の根拠である。ヨーロッパのイデオロギーにだまされず、中立性のもった視野をもちたいものである。
この本に納められた三篇から感銘した分を抜き出しておく。
大官服をすでに何度も着た人を見ても、大広間で名声を高めている人を見ても、そんなとき君は羨んではいけない。高官や名声は、人生を犠牲にして獲得されるのだ。
或る者は幾千の不名誉を重ねて最高の名誉によじ登ると、ふと、自分は今まで墓碑銘のために苦労してきたのか、という惨めな思いに襲われた。
財産を持たないほうが、失うよりもどれほど苦痛が軽いか。貧乏には失う原因が少ないだけ、それだけ苦悩も少ないことを知らなければならぬ。
災いを厭うべきものとするよりは、むしろ軽いように心掛ければ、どんな種類の生活のなかにも、楽しみも慰めも喜びも見付けられるだろう。
賢者はまた、運命を恐れる理由をもっていない。なぜというに、賢者は自分の奴隷や財産や地位のみならず、自分の体や眼や手や、およそ人間に生活を愛着させるものはなんでも、いや、自分自身をも、すべては許されて仮に与えられたもののうちに数えているからであり、自分は自分に貸し与えられたものであり、返してくれと求められれば、嘆き悲しむことなくお返しする、というように生活しているからである。それゆえにまた、賢者は自分を無価値なものとは思わず――というのは自分は自分のものではないことを知っているから――
われわれに課せられている務めは、死すべき運命に堪え、われわれの力では避けられない出来事に、心を乱されないことに他ならない
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ケルアックはたんなる「ライフスタイル消費」なのか
ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』があたらしく翻訳されて書店の書棚にならんでいる。キムタクが推薦したり、カウンターカルチャーのバイブルとして若者の人気として注目されているのだが、私はなにか違和感や懐疑心がわきおこる。




YouTubeでケルアックやギンズバーグ、ヴォネガット、ブコウスキーなどのナマの映像や音声が視聴できるのでごらんください。私は英語力がないので聞きとれなくて残念です。
Jack Kerouac Explains On The Road
ジャック・ケルアックのインタビュー。ほかにも関連動画はたくさんあるようです。
Allen Ginsberg in Japan 1988
ギンズバーグの日本での朗読会。
william s burroughs
バロウズの自作朗読。
5mtl.com Charles Bukowski kicking his soon to be fiancé
酔いどれブコウスキーが女性を蹴っています(笑)。
Bukowski: Pimps & Whores
こちらのブコウスキーはまとも。渋みの味のある顔ですね。
Kurt Vonnegut
ヴォネガットのインタビュー。
OSHO: Tom Robbins about the Indian Mystic Osho
トム・ロビンズが和尚(ラジニーシ)について語っているのですね。
The Catcher In The Rye D.J Salinger Part 1 of 3
サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』について。
John Irving on the Writer's Craft
ジョン・アーヴィングのインタビュー。
Stephen King Discusses New Book - Duma Key
スティーブン・キング自作を語る。
Paul Auster en 55 Festival de cine de San Sebastián
ポール・オースター、講演会で。
50-60年代に盛んだったビートニクやカウンターカルチャー、ヒッピーといったものは現在のビジネス社会になにも残さなかったではないか、なにも変えなかったではないかという憤りや不快感が、新しく商品として売られていることの欺瞞さやウソっぽさを感じさせるのである。

アメリカの対抗文化―1960年代で知るアメリカ全土の地殻変動

ライフスタイルの社会学―対抗文化の行方 (世界思想ゼミナール)

対抗文化の思想―若者は何を創りだすか (1972年) (ダイヤモンド現代選書)

けっきょく、ビートニクやカウンターカルチャーはたんなる「ライフスタイル消費」や「個性消費」といったカッコよさや憧れを生み出して、商品市場としての地位を獲得しただけではないのかと思うのである。カウンターーカルチャーは「カッコイイ私」を演出する。私はそれを購入して、反抗的で懐疑的で思索的な「深みのある私」をまわりや世間のアピールする。それだけではないのかと思うのである。
社会なんてなにひとつ変えなかった。企業や拝金主義、物質消費社会はますますもって力をもってゆくばかりだし、労働からの逃走や金銭的価値への蔑視、貧困への賛美といったものは今日ほぼ力や勢力をもっていない。カウンターカルチャーはまったく社会のオルタナティヴ(べつの選択)を生み出さなかったのである。
文学というのはカッコよさを売るだけの商売なのかと思う。アメリカ文学はカッコイイ。横文字を並べた、アメリカの雰囲気をつたえるアメリカ文学はそれを購入した私を「アメリカ的」で「先進的」で、カッコイイ価値とセンスのよい人間に仕立て上げてくれる。しかしカウンターカルチャーがメッセージした反体制や反物質主義は骨抜きにされ、私は企業に隷属し、支配され、人生をまるこど奉仕し、私はますますライフスタイル消費、個性消費という幻想と金を使い果たすばかりなのである。
文学というのそもそも「消費」されるだけのものなのか。私はそれを購入して、ファッションやブランド品のように自分の個性を表示する。思想も考え方も生き方も変えずに、ただ商品が「消費」されるだけのものなのか。
アメリカ文学はカッコイイ。ケルアックの本を読んでいたらさすがだとうならされるものがあり、ブローティガンをカバンに隠しもっていたりしたらセンスがいいと思われ、サリンジャーやトマス・ピンチョン、ヴォネガットを読んでいたらアメリカ的なカッコよさが香るように思われる。しかしそれはファッションやカバンのブランドや靴のブランドのようにただ身にまとうだけではないのか。思想にも人生の血と肉ともならない。たんなるファッション消費なのである。
ビートニクやカウンターカルチャーの本は若者に反抗や対抗の気持ちをもりたててくれるだろう。しかし共鳴したとしても、たいていの若者は企業に就職し、奉仕し、反抗より安定を選び、個性消費とライフスタイル消費をおこなってゆくことだろう。かつてのヒッピー世代は少数であったけれども自分の人生にそれを実践したり、生き方にそのような要素をふくめていった。もちろん大半は髪を切って企業に就職して、体制順応主義の生き方をした。人生は霞など食って生きてゆけない。
まあ、そのような体制順応や自由からの逃走、権威への盲従といったものは弱い私たちには仕方がないものである。企業の権力や貨幣の構造には逆らえないのである。さもないと私たちは生きてゆくことができない。
まあ、せめてもの責任と羞恥心をもつ者として、ケルアックやカウンターカルチャーの思想に共感するものがあるのとするのなら、生活の中にすこしでもそれの実践や深化をとりいれていってほしいものである。ただのライフスタイル消費や個性消費は恥ずかしいし、底の浅いファッション消費であるだけをメッセージしているようなものである。ワーキングプアに陥ろうが、社会から白い目で見られようが、苦労多きフリーター人生になろうが、共鳴した思想にすこしでも生活にとりいれるのが、憧憬する人たちへの責務というものではないのか。文学や思想はファッション消費としてだけ終わっていいものだろうかと私は思う。





香水ジルバ トム・ロビンズ

V. 1 新装版 (1) トマス・ピンチョン

ギンズバーグ詩集

『蟹工船』ブームと明治・大正のころの労働
小林多喜二の『蟹工船』(1929年・昭和4年)がブームになっていることを四大新聞がたてつづけにとりあげている。
若者の労働がかつての搾取時代の労働と似ており、共感されるものになっている状況というものを多くのサラリーマンや国民は知らないだろうし、それを知らせる意味でこのブームは役に立つものだと思う。なによりも今日の若者やサラリーマンは明治や大正のころの過酷な労働がどのようなものだったかをほぼ知らないだろう。私たちはなぜか「空白」の労働の歴史を生きているのである。というか、労働は私たちの時代の、マスコミの「ブラック・ボックス」である。
「蟹工船」悲しき再脚光 異例の増刷、売り上げ5倍 読売新聞 2008/5/2
今、若者にウケる「蟹工船」 貧困に負けぬ強さが魅力? 朝日新聞 2008/5/13
プロレタリア文学:名作『蟹工船』異例の売れ行き 毎日新聞 2008/5/14
小林多喜二「蟹工船」突然のブーム ワーキングプアの“連帯感” 産経新聞 2008/5/14
プレカリアートとプロレタリア文学、の巻 マガジン9条 〜雨宮処凜がゆく!〜(039)




『蟹工船』は著作権切れの青空文庫のほうで読めるのでこちらのほうでも。
『蟹工船』 小林多喜二
私のほうでも去年、現代の労働は明治・大正のころの過酷に搾取される労働に似てくるのではないかとそのころの労働白書をたてつづけに読んでいた。きっかけは山本周五郎編の『日本残酷物語5 近代の暗黒』というそのころのひどい労働のダイジェストのような本を読んでからであるが、私たちはあまりにもかつての労働を、あるいは労働や仕事、会社自体の歴史というものを知らないのではないかという思いからも、そのころの労働書を読みたいと思ったのである。
私の書評にリンクしていますので読んでみて、興味をもたれたらぜひ本を読んでみることをおすすめします。
『日本残酷物語〈5〉 近代の暗黒』 山本周五郎編
『日本の下層社会』 横山 源之助
『イギリスにおける労働者階級の状態〈下〉』 エンゲルス
『イギリスにおける労働者階級の状態(上)』 フリートリヒ・エンゲルス
『職工事情 (上)』 犬丸 義一校訂
『職工事情〈中〉』 犬丸 義一校訂
『職工事情〈下)』 犬丸 義一校訂
『女工哀史』 細井 和喜蔵
『大正・大阪・スラム』 杉原薫・玉井金吾編
いわゆる「女工哀史」といった過酷な労働が多くとりあげられている。日本の工場労働というのは繊維業の女工労働からはじまり、安い賃金、18時間もの長時間労働、監獄のような工場・寄宿舎、折檻や虐待といった過酷な労働がまかりとおっていたのである。
地方から都市に出稼ぎ労働して出てきて、寄宿舎に住まい、過酷な長時間労働に従事させられ、劣悪な職場環境により死亡するものや逃亡するものが後をたたず、一年で工場の大半のものが入れ替わるような世界一の転職率を稼ぎ出していたのである。終身雇用や社会保障といったものはこのころには存在せず、辞めても代わりはいくらでもいたのである。そのような過酷な労働を強いなければ、廉価な価格で輸出をはじめた明治の工業発展は立ちゆかなかったのである。
そしてそのような地方から出てきた低賃金で働かされる労働者は都市にスラム街や貧民街を形成したのである。そのころの新聞やマスコミにはおどろおどろしい貧民窟潜入といったレポートがベストセラーとなったり、女工が逃亡したり自殺したりする報道が世間を賑わせている。
私たちはなぜかこのような明治・大正のころの労働といったものを知らないのである。というよりか、労働そのものを知らずに社会に出る。労働を、社会は、学校は、マスコミは、親はなにも知らせないのである。今日の社会のタブーなのだろうか。若者は何も知らずに社会に出て、過酷で不安定な今日の労働状況というものに出会い、面喰って、『蟹工船』のような昭和初期の労働書に親近感を抱くのである。
1990年代ころまでの日本の労働状況はひじょうに穏やかであった。終身雇用や社会保障、解雇規制などがサラリーマンを守り、滅私奉公や社畜、エコノミック・アニマルといったみずから企業に奉仕する労働者を生み出したものである。労働ストライキや労働争議といったものは息をひそめ、曲がりなりにもサラリーマンは幸福な時代を生きたのだろう。
しかし1990年代の出口のない不況を経験して、市場原理の導入や封印されていた派遣労働の解禁、フリーター・非正規雇用の増加により、若者の低賃金・脱社会保障化・不安定化の流れは加速し、若者の労働の報われなさ、過酷さ、搾取性、社会保障からの脱落が大きく若者にのしかかってきたのである。
またこの新しい労働状況というものを世間は知らない。「ネットカフェ難民」や「ワーキングプア」といった言葉が世間を賑わすが、労働の現場はじっさいに体験したものではないと、まともに伝わるものではない。そういった意味でわれわれの労働というのは壁や牢獄の中の秘事に近いといえる。そのような柵の中でおこなわれている労働に面喰った若者たちがいまの状況を知ろうとして、昭和初期の労働状況をつづった『蟹工船』は読まれるのだろう。
かつての終身雇用や社会保障といったセーフティネットから脱落させられた若者がいまの状況をようやく言葉にしようとして見い出したものが『蟹工船』なのだろう。われわれは労働といったものがなんなのかあまりにも知らないのである。
終身雇用や社会保障、一億総中流といった守られたサラリーマンの時代が、労働の問題や権力の非対称性といったものをしっかりと封印・隠蔽してきたのである。生涯や人生を守られたサラリーマンは文句もいえず、不満も表出できず、企業への滅私奉公、長時間労働に従事するほかなかったのである。これはある意味、守られているが、そのゆえに「隠された奴隷」の時代であったといえる。
いまは守られず、捨てられる低賃金、保証なしの若者がどんどん労働市場に参入している。明治や大正のころの労働状況にいっぺんにつき落とされたのである。守られてすっかり対抗や批判の気持ちを忘れていた労働者は、新しい労使の関係に自分たちの立ち位置、守らなければならない権利といったものをすっかり置き忘れてきたことに気づいたのである。『蟹工船』の共感の芽はこんなところにあるのだろう。
ほかに関連本として読んだもので、今日の現代の中国の労働状況のレポート本をあげておく。今日の中国の労働はかつての明治の出稼ぎ労働者が都市に出てきてスラム街を形成したような時代と同じようなものを経験していると思われる。明治日本の『女工哀史』は現代の中国の「民工」とよばれる出稼ぎ労働者に見られるのではないだろうか。しかしそのおかげでユニクロの服や百円ショップの安いモノが買えるというのは皮肉なことである。
『大地の慟哭 中国民工調査』 秦 尭禹
港湾労働に派遣した人材派遣会社が事業停止を喰らったりしたが、かつての人材派遣会社は近代のヤクザの母胎になってきたという歴史がある。派遣労働の解禁というのはまさに明治のころのヤクザを生み出した過酷な労働を再現するということなのである。
『近代ヤクザ肯定論』 宮崎 学
ほかにこんにちの流動的で不安定な労働を知る意味で、以下の書評をあげておきます。
『プレカリアート』 雨宮 処凛
『雇用融解―これが新しい「日本型雇用」なのか』 風間 直樹
『労働ダンピング』 中野 麻美
『不安型ナショナリズムの時代』 高原 基彰
学校の教科書で習ったように明治・大正のころの過酷な労働、労働ストライキの頻発、社会保障のなさといったものは歴史的に克服され、二度と再現しない過去として思われてきたはずである。しかし今日の派遣や日雇い労働、フリーターで働く若者たちはとつぜんにそのような過酷で凄惨な時代に逆戻りしてしまったことを知るのである。
けっきょく、終身雇用や社会保障の時代はなんだったんだろうと思うことになる。歴史はまったく学習されてこなかったのである。また若者たちは明治・大正のころの労働者が経験したことをくりかえさなければならないのかもしれない。『蟹工船』の時代からなにかが変わったというよりか、隠されていただけで、一皮向けばそのよう状況がひそんでいたことにあらためてわれわれは面喰らうことになっただけなのである。
「守られている」と勘違いして滅私奉公に励んだサラリーマンの罪は重い。おかげでつぎの世代の若者はそのツケを非正規雇用・脱社会保障という非人道的な企業の仕打ちに打ちのめされなければならなくなったのである。
『クリエイティブ資本論』 リチャード・フロリダ
クリエイティブ資本論―新たな経済階級の台頭
リチャード・フロリダ

アルヴィン・トフラーが「第三の波」とよび、ダニエル・ベルが「脱工業社会」とよび、ピーター・ドラッカーが「知識労働者」とよび、堺屋太一が「知価革命」とよび、ロバート・ライシュが「シンボリック・アナリスト」とよんだものを、新しい著者は「クリエイティブ・クラス」とよぶ。
リチャード・フロリダのクリエイティブ本はよく読まれたようであるが、先に翻訳された『クリエイティブ・クラスの世紀』(2007)はビジネス書によくあるようにもう書店では手に入らず、新しく翻訳されたこの本のほうを読んでみた。
このクラスは先進国の三割を占めるようになり、おもにそれは科学者、技術者、建築家、デザイナー、作家、芸術家などをさすそうだ。都市経済学を専門とする著者はなぜある都市にはクリエイティブ・クラスが集まり、ある都市は没落してゆくのかを考察し、クリエイティブ・クラスに魅力的な都市の要素を抽出してゆく。ボヘミアンのような変人・奇人のたぐいでも寛容な都市にクリエイティビィティは集まるという。
私はこの手の本は否定的というか、警戒的に読む。トフラーやドラッカー、堺屋太一らが予測したような知識社会とよばれものはたしかにやってきて、このようなブログやインターネットは現実に現出したわけだが、この手の本はまるで「ライフスタイル消費」や「階層消費」、「クリエイティブ消費」といった広告・宣伝を煽っているしか思えないのである。
「クリエイティブな消費をしろ」「クリエイティブな人格になれ」と消費を煽られているにしか思えないのである。そして「クリエイティブな服」を買って、「クリエイティブな行動」をして、「クリエイティブなライフスタイル」を展開するのである。まるで広告・宣伝に釣られているだけに思えてしまう。
クリエイティブさを煽られる私は、または知識社会に乗り遅れないようにとあせる私は、現実の職業社会にそのようなものを脅迫的に追い求めるわけだが、もしこのクラスが三割としたらあとの七割はそのような要素とまったく無縁の労働につかなければならない。日常の用途や生活を充足させる仕事が大半であるし、おそらくこれからも大半の人がそのような仕事につかなければならないだろう。
「クリエイティブ幻想」、あるいは「クリエイティブな青い鳥」を強迫的に求めてといった状態になるのである。そしてここにも、どこにもクリエイティブはないと転職をくりかえし、青い鳥は見つからず、不平不満を若者はかこちつづけるのである。現実にはクリエイティブさは日常にない。クリエイティブは日常では発揮されない。日常の用途や生活を満たす仕事が大半である。
クリエイティブさに煽られると、高級品やブランドばかり買わされ、豪奢な消費におぼれ、そして仕事はつまらない、輝きや精彩がないと転職ローリングへと転がってゆくのである。「ノーウェア・ランド(どこにもない国」をさまよいつづける夢遊病にかかってしまうのである。
この手の本は社会経済の分析というよりか、クリエイティブ消費の宣伝広告、クリエイティブさへの煽りや強迫となってしまって、芸術家を夢見て、作家で一山当てることをめざして、音楽で大成功をおさめることを願って、日常や労務がつまらなくて、精彩を欠き、廃墟に見える心象をつくりだしてしまうだけではないのかと思うのである。
とどのつまり、私もそういうクリエイティブさをもとめ、日常の自分のつける仕事のつまらなさ、くだらなさにながく悶絶してきたからそう思うのである。クリエイティブな仕事につける人は問題ないだろうが、大半の人はそうでない仕事につかなければならないだろう。そうなれば、このクリエイティブ志向は私を責め、苦しめ、いたぶりつづけることになる。クリエイティブさは私を「拷問」する「責め道具」になるわけである。「知識労働」という概念もそうである。
どうもさいきんの若者もそういう「病」にかかって転職をくりかえすそうだから、「クリエイティブ災禍」とよべそうである。今日はクリエイティブさという「青い鳥」をもとめてさまよい、またクリエイティブな「裸の王様」がたくさんいるようである。もちろん青い鳥は私になにかの力や機会を与えるかもしれない。しかし地雷を踏みつづけたり、落とし穴に落ち込みつづけるようなら、災厄である。
クリエイティブの「シーシュポスの神話」、またはハムスターのクリエイティブな滑車を永久に走りつづけないために、私たちはこの「クリエイティブ幻想」というものに要注意しなければならないようである。クリエイティブさは私たちの求めてやまないものかもしれないが、同時に「責め苦」でもあるようである。クリエイティブ幻想には距離と醒めた目と、現実感覚が必要なようである。「渇!」
▼知識労働を予測した本
第三の波 (中公文庫 M 178-3) アルヴィン・トフラー

脱工業社会の到来 上―社会予測の一つの試み (1) ダニエル・ベル

ドラッカー名著集8 ポスト資本主義社会 (ドラッカー名著集 8)



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NHK『セーフティネット・クライシス』を見て思う

昨晩、NHKの『セーフティネット・クライシス〜日本の社会保障が危ない』を見た。健康保険費が払えないで医者にかかれずに死亡する例や、厳しくなる介護保険、母子世帯の生活保護の打ち切りなどの例がとりあげられていた。
どの例も眉をひそめながらいやな気分で見なければならなかったが、NHKがこのような報道をして、なんになるのだろうという根本的な懐疑がきざさないわけにはゆかなった。報道というのはなんらかの窮状を訴えるわけだが、多くの人はそのことを知っていやな気分になったり、ひどいなとか思ったりするだけで、その先のアクションにはなにもつながらない。
いったい報道の意味とはなんなのだろうと思う。そういう意味では私のブログも同じことで、なんらかの意見や見解をのべたところで、なんにも変わらない。ただ感情の「消費」がおこなわれるだけである。知識や報道はこのような面もあって、意見したり、見解をのべることの空しさや無意味さを、昨日の番組はとくにひどい内容だったので、私にあらためて感じさせた。私たちがいやな気分やひどいなと思っても、なにも変えられないし、変わらないのである。行動につながらない情報は空しい。
一個人の感情や見解が変化したところでどうにもならないのだが、知識や見解は私たちの対処の仕方を変えるだろうという楽観のもとにものをいうしかないのだろうか。
私は基本的に保険はものすごくアホらしいしくみだと思っている。モノを買うときのように買うモノにお金を払っているのではなくて、ただたんに保険という「制度」に金を払っているのであって、多くの支払いは露と消えている。健康保険なんて医者に行かなければ、ドブに捨てている感覚に近い。相互扶助とかいうが、金が払えないと健康保険を打ち切られて医者にさえいけないのだから、踏んだりけったりだ。
健康保険は金が払えないと保険の資格が奪われる厳しい制度である。金がある者のための制度である。失業中や年金暮らしになっても払わなければならない。収入がなくても払わなければならないセーフティネットとはいったいなんなのだろうと思う。払えないからこそ保険が必要なのに、払えないと保険証をとりあげられて医者にいけない。これは貧者のための助け合い制度というよりか、「金持ちクラブ」であって、保険料の払えない貧者には二重に医者からの疎外になる。毎月の保険料は痛いし、払えないと9割7割引きの医療費は全額支払わなければならない。
保険は貯蓄のしくみがない。いま払えなかったら、医者にかかれない。そんなんなら貯金としておいて、全額医療費を払ったほうがマシというものではないのか。何十年も保険を払いつづけていても、年をとって働けなくなって保険料を一年滞納したら保険証を剥奪されるのである。こういういちばん困ったときに保険がなくなくなる保険ってほんとうに役に立つのか。
国民健康保険は財源が足りないためにひとりの保険料がかなり高くなり、たとえば年収200万円の人から年間50万もの保険料の支払を課すという気違いじみた暴利がまかりとおっている。「保険のために生活してゆくことができない」といった異常事態になっている。こんなアホな制度があるか。月に4万も5万もの保険料を払わされたら保険料を払わずに医療費を貯金して備えたほうがマシと思うものである。
番組では保険料滞納のために保険証をとりあげられて手遅れの病状まで悪化して死亡した人のことや、零細企業にとっての社会保険費の負担の重さについてとりあげられていた。保険料というものが人や企業の重荷となり、足かせとなり、ときには人の命さえ奪うという「社会悪」になってしまっている。正社員を減らしたり、パート・フリーターを増やすのにはこのような理由がある。企業が国家の制度の重荷に耐えかねて、社会保障からはじかれた若者や女性たちを生み出したのである。もうここまできたら、社会保障が「社会悪」の発生源だというしかないのだろう。
いうなれば企業は国家の社会保障から逃走をはじめたのである。企業は国家の重責の放棄をはじめたのである。そして払えなくなった人たちが医者にかかれずに犠牲になったりしている。社会保障の弱いところからきしみをあげて、崩壊しはじめているのである。
正規雇用−非正規雇用の問題とはとどのつまり社会保障の違いだと私は思っている。企業が社会保障を支払うか支払わないかの違いだと思う。もちろん解雇規制や年収の違いもあるが、根幹は生涯を保証されるかされないかの違いであると私は見ている。その違いが格差不安というものをつくりだしているのである。
社会保障というのはおそらく社会主義が生まれたあたりの人類の夢や希望だったのだろう。国家が医療費や年金を負担してくれることが理想の国家だという希望があった。しかし市場原理に従う企業は弱いところからさっさと社会保障から逃走しはじめている。国家や社会が医療や年金を保証するという制度は、市場原理にはそぐわないのである。
保険というネットは外さなければならないのかもしれない。そんなものが払える人は保険が必要ではないし、払えない人こそ必要なのに、そのような人から先に保険のネットから疎外されるのである。保険料の高騰は市場原理の高騰よりひどいのではないかと思う。けっきょく医療費負担というのは生活保護が必要な人のために残されるネットなのではないかと思う。国家が国民のすべてを網羅した社会保障ネットを結束させるという思想は、国家の屋根から外される人への集中豪雨を用意するようである。
今回の番組でとりあげられずに不審に思ったのがホームレスの存在で、この人たちこそセーフティネットのすべてからもれてしまった人たちなのに、一顧もされなかった。生活の最低保障が約束されたこの国で、そのようなネットに一糸もかからずにおおぜいの人たちがホームレスとしてもれてしまっているのである。この問題をとりあげずになにがセーフティネット・クライシスというのだろう。
ワーキングマザーの生活保護打ち切りの例がとりあげられていたが、私が驚いたのは一家の柱である彼女がパートで10万にも満たない給料しか得られなかったことだった。たしかに女性で中年になれば、パートで10万ほどの職しか見つからないかもしれない。パートは夫の家計補助という名目で進出がはじまったわけだが、中にはシングルマザーのような一家の生計をすべて背負わなければらない女性も含まれているはずだ。そのような待遇しか得られなかったら、とうぜん生活はできない。生活保護以前にこのような待遇しかえられない女性の職業身分の低さに嘆かざるをえないというものだ。シングルマザーの生活保護の問題はこの点に手をつけなければなんの解決ものぞめないのではないかと思う。
ちょっとこのエッセイは細部ばかり見て、大部のほうに目を配れない中途半端なものになってしまったが、社会保障というのは社会主義時代の遺物なのではないかと私は思う。国家全体で国民すべての拠出によりネットを張るという考え方は不可能なのではないかと思う。ネットは生活保護の最低ラインの生活保障が必要な人たちのものに限定すべきではないかと私は思う。保険料が払える人が必要な制度とは思えない。払えない人こそ必要な制度なのに、現行の制度はそのような人こそまずまっ先にネットからつき落としてしまうのである。これは本末転倒だ。というか、国家の本音としては払える経済力のある人を守る、もしく貢献力を増すためのしくみであったといっていいと思うが、そんなものはセーフティネットではなくて、貢献者の褒章でしかないのではないか。
セーフティネットというのは、国家へ奉仕するための「拘束ネット」であったのではないかと思わなくもない。さいしょから貢献しない者はざるのように網の目からぽろぽろ落とす目算だったのだろう。国家は人道的立場から国民を守るのではない。国家の利益に合致するからこそ国民の一部を守るのである。無条件に国家が守ってくれると楽観視するとイタイ目に会う。
『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』 城 繁幸
3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書 (708))
城 繁幸

日本の出口のない閉塞状況の元凶は企業社会にあると思っている。おもしろくないのである。生きている楽しさが、企業や仕事の中からまったく生み出されない。日本の社会というのは人生の楽しみや謳歌をまったくつくりだすことができずに、ただの企業労働マシーンとしか機能せず、人々の生きる楽しみ、喜びを抹殺するシステムをずっと継続しつつづけている。「終わりなき日常」「終わりなき生産マシーン」といったものは回転木馬のようにとまることはないのである。だから死にかけの日本社会は経済ともに奈落に落ちるのである。
年功序列のポスト不足で出世はみこめない、正社員の賃金の上昇もおさえられ、長時間労働の滅私奉公はあいかわずつつぎ、中高年の雇用規制の既得権益は、若者をフリーターや派遣といった非正規雇用に追いやり、なんとか自世代の食い逃げのみを画策しようとする。旧来のサラリーマンを守ろうとする労働組合は特権階級となり、ぎゃくに若者の犠牲と搾取のうえに自分たちの権益を守るという皮肉な逆説におちいってしまったのである。
どうやら踏み台にされつづける若者はそのまま中高年のイスやカーペットとなりつづけるか、あるいは反逆や対抗や逃避を試みるか、明瞭な図式ができあがってきたようだ。日本の改革のいちばん重要な根幹というのはこの企業社会の形態、人生観といったものなのだが、日本人は自らこの人生の労働不幸マシーンを改革できるのだろうか。
企業社会やビジネス社会というのはいつも「変わる、変わる」といわれてきたものである。私は基本的に日本社会は変わらないと思っている。この城繁幸の著作では、昭和的価値観を投げ捨てたアウトサイダーの生き方が紹介されていて、社会は変わるとアジられているのだが、おそらく年功序列とか日本の企業社会は根本的に変わらないと思っている。
何度も変わる変わるというビジネス書を読んできて、私はすっかり世の中なんか変わらないんじゃないかと諦観してしまった。むかしのビジネス書を古本で手に入れたりすると、年功序列は古い、これからは能力給の時代だといわれていたりする。その出版年次をみるともう30年前や40年前の本だと知ってがっくりとくる。同じ変わる変わるといわれてちっとも変わっていないことがまた今年も新しいビジネス書によって新しい変化だと唱えられているのである。もう私はビジネス書というか、人間の働き方、組織の形態というのはテコでも動かないものではないかという観念するようになった。
これは新しい変化というよりか、主流の生き方と傍流の生き方の対照でしかないと思う。いつだって年功序列の安定大企業の生きかたは変わらずに主流に位置するのだろう。そして傍流は「新しい生き方」だといって、主流からそれた価値観や生き方を提唱するのだが、主流の生き方は主流の生きかたでありつづけ、変わらずに社会のメインストリームを占めつづけるのだろう。主流の生き方に不満をもったのなら、多数が変わらずとも、自分の生き方は自分自身の責任と自信をもって生きるしかないのである。主流は安定と継続のみを願うものである。
この本の著者の城繁幸は東大卒で富士通の人事マンとして働いてきた一流エリートで、底辺的な地にはうようなフリーター・キャリアを重ねてきた私には、この人の著作に共鳴を感じることは少ない。フリーターに共鳴はあまりもってないだろうし、ニートなんてほぼ理解できない人のようである。共鳴の共通項は「若者」というカテゴリーのみのようである。若者が犠牲になる日本という社会は変えなければ悲惨な未来が待っているという危機感のみが共鳴を誘う。
この人は「企業人間」であって、あまり人情的な社会的共感の要素をもっている人ではない。フリーター本や格差社会論とちょっと違和感を感じる性質はそのよう背景からかもし出されているようである。
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『若者はなぜ3年で辞めるのか?』 城繁幸
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消費文化イデオロギーに脅かされる若者の労働
内田樹がGREATな文章を書いている。消費文化の個性消費と若者の労働という現代社会にとって欠かせない重要な問いがふくまれている文章である。
またインタビュー 2008/5/8 「内田樹の研究室」
どうして子どもたちは学ぶことを拒むようになったのか、どうして若者たちは「クリエイティブな仕事」を求めて転職を重ねるようになったのかという、このところよく訊かれるお題である。
それは「消費文化」のせいであるとお答えする。
現在のメディアが「個性的な」という形容詞で記述している人間的行為の99%は「どんな商品を購入しているのか」という水準で語られる。
「自分の個性」の発現を「商品購入行動」として観念していると、「まず金が要る」という結論にしか帰着しない。
学びが機能しないのは、子どもたちが「学び」を「商品(知識、技能、学歴など)の購入」という消費のスキームでとらえているからである。
労働のモチベーションが維持できないのは、若者たちが「労働」を「商品(昇給昇進、威信、権力、情報など)の購入」という消費のスキームでとらえているからである。
金で個性や自分らしさを買えるという幻想はわれわれの時代の強固な信念、信仰といってもよいものである。われわれはあるブランドの服を買って、またあるアーティストの音楽を聴いて、また作家や映画の物語を視聴して、雑誌の流行に乗って、「自分らしさ」や私の「個性」がはくぐまれると考えている。
私たちは「個性」や「自分らしさ」の狂気の時代に生きているといってよく、醒めた、流行から外れた目から眺めてみれば、金で個性や自分らしさが買えると思う信念ほどこっけいで、踊らされ、だまされた姿が垣間見えるものはない。「個性」消費ほどウソっぱなイデオロギーはない。
金でなんか「人と違うワタシ」や「人より優れたワタシ」など買えない。買えるのは、売られている優れた「商品」なのであって、まちがっても人より優れた、人と違った「私」ではない。「私」が買えるわけなどないのだ。
われわれの消費社会というのは買い物をすれば、人より優れた、人と違った私になれるという「記号」、「幻想」が売られる社会である。私たちはそのような買い物をすることによって、貨幣経済を回している。この社会の成員はそのようなカンチガイで衣服や音楽や商品を買いつづけてくれないと、お金は回らないというわけである。われわれの時代の貨幣流通の最強なイデオロギーなのである。
私たちがどうしてこうも人より優れたり、人と違ってなければならないかというと、それがわれわれの時代の存在要請だからだろう。社会はそのような存在でないと、存在を許さない。価値がない、意味がない、存在している理由がないと強迫する。それは貨幣流通の最強のディフェンスなのだろう。社会の貨幣流通を助け、スムーズに流させる、その価値観やイデオロギーに貢献したものに社会は価値観と称賛をおく。貨幣流通の価値観が社会をのっとったのである。
「かけがえのない私」や「代替不可能な私」を私たちはなろうとする。だれともでも同じで、見分けも、区別もできない人間になりたくないと思う。私は人と違った存在であり、人より優れたセンスのよい人間でなければならないと思う。そしてすこしえりの違った服を買い、新しい音楽を聴き、新しいショッピングセンターや流行りの店につめかける。だれとでも同じ人間にはなりたくないがために、私は金で人と違った、人より優れたものを買うことによって、それらの目印を手に入れるのである。結果的には人と同じものを買い、大量生産品を手に入れているとしても、あるいはある程度みんなが手に入れるヒット商品を買ったとしても、私は自分らしさや個性を満足させるのである。
オンリーラブ・ロマンティックラブといった一途な恋愛も同じように、私自身に「かけがえのなさ」や「この人でなければならない」といった幻想を満足させるひとつの個性消費といってもよい。私たちはそのような「運命の人」幻想にひたることによって、私は人と違う存在である、みんなと同じどこにもでいる存在ではないという感覚を満足させるのである。
私たちは大量生産時代の大量規格品の商業社会で生きている。そしてそのような大量生産品で「自分らしさ」や「個性」を買おうとして、大量生産品を買いつづけるのである。ほんの少しの差異、ほんのちょっとして違いが自分らしさであり、私の個性なのである。私たちはこのほんのささいな違いに命を賭け、命を削っているといってもいい。そのことによって私たちは自分の個性や自分らしさが表現できたと喜ぶのである。
われわれはこのような方向に血まなこになっている。こっけいであり、気恥ずかしくもあり、差異の誇示が哀れさを誘う。もちろん私もそのような幻想にアイデンティティを求めてきたひとりの人間であるが、自分が労働社会に出て、死にそうなルーティーンワークのなかで自分の「個性神話」をうちのめされ、押しつぶされ、痛めつけられるのをたいそう味わわなければならなかった。
仕事には個性や自分らしさなどちっとも満足させられないのである。内田樹がいっているように若者がクリエイティヴさを仕事に求めて転職を重ねる理由はおそらくここにあるのだろう。消費文化の幻想が個性や私らしさを追い求めつづけているのに、仕事に求められるのは注目も評価もない、私を殺した、私の無価値観を思い知らせる、ただの機械的な労働にしか過ぎないのである。いったら消費社会における落ちこぼれ、劣等生の陽の当たらない無価値さを、労働はいやというほど味わせるのである。個性や自分らしさ、輝きといった自分の属性は、労働や業務には不要なものである。そこで若者はクリエイティブな仕事に、なんとか自分の価値観や個性に望みをかけるのである。
消費社会の価値イデオロギーが労働社会の価値観をしめ殺すのである。消費社会では個性や自分らしさを表現しないと価値がないと脅されつづけているのに、労働社会においてはひたすら個性や自分らしさは滅却させられるか、不必要である。もし労働社会に自分のアイデンティティの軸足をかけるようになったら、かれはまったく無価値で、無意味で、貶められる存在になるのである。労働社会において若者は消費文化の価値観に脅かされつづけているということになるだろう。
私自身も消費文化イデオロギーと労働社会の価値というものの相克にながく悩みつづけてきたと思う。いくら金でカッコいい、おしゃれで、センスのいい買い物をしたって、仕事は輝きのない、同じことのくり返しの、私でなければならない仕事でもなく、だれにもできる仕事である。ギャップにたいそう悩んだ。しまいにはカッコいい、おしゃな買い物の興味を失ってきたし、そのような買い物をする気力もなくなってきた。アイデンティティは消費文化から、労働社会のルーティーンワーク仕様へと転落していったのである。私の個性神話の消費は、労働のアイデンティティを得るにしたがって、失墜していったのである。
若者は個性消費を労働やクリエイティヴな仕事にもとめつづる方向がいいのか、それともさっさと個性神話を削ぎ落としてルーティーンな仕事になじまさせる方向がいいのか、けっこう悩むことだと思う。私としては個性消費を削ぎ落とす方向のほうがいいと思う。なぜなら個性消費なんていうものは、たいして変わりのない人間がいくら違いを際立たせようとしてもしょせんは同じ人間なのだから、そのような幻想ははやく醒めて、開き直ったほうが豊かな人生はぎゃくにそこから開けると思うからである。幻想は早くに醒めたほうが賢明というものである。
なによりも人と違っているとか、人よりセンスがいいと評価するのは他人である。他人の評価や目ばかり気にする志向を消費文化はつくりだしてしまう。他人の評価が神になり、畏れ多き悪魔や恐怖になる。それは他人の評価をひたすら恐れる存在をつくりだし、他人の目の奴隷や囚人となる存在を生み出してしまうことではないのか。他人の評価や選別に私たちの幸福があるのではないし、私たちの人生の目的はそんなところにあるのではない。
そのようなイデオロギーを植えつけられて生きるのがわれわれであるが、それは幸福でも人生の目標でもない。それを目的にした人生は不幸と嘆きと苦しみをつくりだすだけである。理想と現実の狭間にいつもブチのめされることになるのは目に見えている。他人の評価を落としたところに幸福や人生の目標をおくほうが幸福になりやすいというか、即幸福になるというものである。存在しているだけで幸福なら、みんな生きている人はいまでも幸福である。生きているだけで幸福だと思える理想水準が、私たちを安心の境地に導くのである。個性や自分らしさは金で買えるという幻想や目標はなるべく道端に落としていったほうがいいのである。
出雲大社へ野宿ツーリングにいってきました
連休の四日間、大阪から出雲大社まで野宿ツーリングにいってきました。去年の盆休み、白川郷までいけましたので、原付バイク(YB-1)でも可能な距離として島根県まで足をのばしてみました。
私のツーリングというのはまだ自分の足(バイク)で「こんなところまでこれるのか」という喜びを探索する試みなんだと思います。バイクの免許をとって三年、そういう喜びを追究する時期なんだと思います。ただそろそろ「こんなに遠くこれた」とか、「こんな遠くまできたのか」という喜びはだいぶ減じたのだと思います。つぎはどんな楽しみを求めたらいいのでしょうか。
GWは27度まであがって平地の服装は夏のようでしたが、私だけ真冬のジャンパーを着こんで浮いておりました。二日ばかりミスったかなと思う気候がつづきましたが、三日目雨が降り、山の上は死にそうに寒かったです。GWに高山をめざす人は気をつけなければならないですね。GWといえども空気はまだまだ冷たく、真冬の装備がバイク乗りには必要なのかもしれませんね。
それでは私の野宿ツーリングを写真でお楽しみください。180枚撮ったうちで、載せたい写真のみを選びました。なんだか私は自然崇拝というか、古代宗教の残るところに魅かれるようですね。野宿はこんかいあまりいいロケーションに恵まれずに不満足に終わりました。野宿ツーリングが郷愁されるような写真になっていればいいですね。

私のツーリングというのはこういう緑の風景、緑のシャワーを浴びてくる癒しの旅なんだと思います。こういう山々と緑の風景につつまれていると、ほっとするし、安らぎを感じます。すばらしい光景に感嘆しどおしです。

一枚の壁のような巨岩が祀られていましたが、私はこういう光景に魅きつけられるのですね。巨岩信仰とはなんだったんでしょうね。

一泊目は和田山の川岸にテントを張りました。ここはけっこう安心して眠れました。都会では見れない満天の星空に驚かされますね。

テントから見れる町の灯りです。町の灯りがまったくない山中にテントを張る度胸は私にはありません。町の灯りが安心をもたらしてくれます。

鳥取の白兎(はくと)海岸です。因幡の白兎で有名なところで、傷を負った白兎が大国主命に助けられるところです。ここらへんは大国主命の神話にいろどられているところみたいですね。

島根あたりはこのような陸からぽつんと離れた島がたくさん祀られていました。海の向こうからの富、あるいは古代、朝鮮や中国との交易が盛んな場所柄、海の向こうに聖なるもの、あるいは死の国が設定されたのでしょうか。

米子の自衛隊駐屯地に戦車を見つけました。ナマで戦車を見たのははじめてかも。子どものころはよくプラモデルをつくりました。

山陰の漁村の風景です。赤い屋根が多かったですね。海の色もかなりきれいですね。でも冬は雪と寒さに閉じ込められるところなんでしょうね。

この島も鳥居が建てられていました。向きは海側に向けて建てられていて、船の目印にされた島なのか、それとも山の方角に神がいたのでしょうか。

たぶんこれが加賀潜戸(くけど)とよばれるところです。望遠ズームで撮っていますが、古代信仰を勉強した私としては、このような大地の穴から太陽や世界の森羅万象が生まれるという古代信仰に興味を魅かれます。死者の世界に通じる穴であり、また新生の場所でもあったわけです。つまり女胎のアナロジーですね。ここは猿田比古大神と関係があり、太陽再生を祈る「太陽の洞窟」であったようですね。宗教の根源には死と再生があることをお忘れずに。

出雲の荒神谷遺跡です。銅剣や銅鐸がたくさん見つかったところですね。まさかこんなところにこれるとは思ってもみませんでした。出雲平野はかなり広くてその奥の山のほうに埋められていたという感じですね。

出雲大社です。荘厳な場所であるという雰囲気が漂っていました。おそらく神を祭る宗教というよりか、ナショナリズムのほうが濃厚かも。国家を祀っているという雰囲気は伊勢神宮の厳かさと似ているのかもしれませんね。

砂浜にぽつんと立つこの島も祀られていました。このような信仰がかなり盛んな場所のようですね。海の向こうからの神がさいしょにとまるところなんでしょうか。異界の入り口であったのでしょうか。

日御碕の岸壁ですね。古代、出雲の権力が大和に権力をゆずったという神話がありますが、これは出雲からみると大和は冬至の太陽がのぼる方角のことをさしているのだと私は憶測します。冬至の太陽は一年の死と再生です。一年の神は新しい神に復活します。だから出雲は古い神が死ぬ死者の国であり、新しい神が大和に復活することを祈る場所であったと推測できるのではないかと思います。でも十月の神無月になぜ全国の神が出雲に集まるのでしょうか。

二日目のテントは日御碕あたりにテントを張るのは恐すぎて、しょぼく出雲の公園にテントを張りました。夜にぽつぽつと雨が降り出し、つぎの日のツーリングが危ぶまれました。

ここも鳥居が立てられていました。海にぽつんと浮かぶ島に神が坐ますと考えられていたのでしょうね。

米子の方角から見える大山(だいせん)は天にも届きそうな圧倒的な存在感をかもしだしていました。ほんとうに天にも昇りそうな、あるいは天に吸い込まれるような巨大さを見せつけていました。山を信仰するという気持ちがよくわかりました。これは望遠レンズで写しています。

三徳山投入堂です。TVでみて来れることはないと思っていたのですが、ルートをまちがって温泉に入ろうと思って向かった先にありました。山の下のほうから望遠レンズで写していますが、かなり高いところまで上らないとじっさいは見れません。修験者のものであって、甘い観光気分で見れるところではないのでしょうね。

三日目は兵庫県養父(やぶ)の川岸でテント。この日は最悪でした。高山で霧のような雨に降られ、鳥取でビジネスホテルにでも泊まろうと思っていたのですが、やんだから海岸線にでもテントを張ろうと思っていたらルートをまちがい、凍えそうな日の沈みかけの山中を必死に走り、猛スピードのクルマに追い越されつづけ、山中でテントを張る根性もなく、暗がりのわずかな町の灯りを頼りにテントを張りました。かなりみじめな気分になりました。野宿ライダーは自然と闘う。
▼主だった場所をマーカーしました。
出雲へ野宿ツーリングにいってきます。
連休の四日間、野宿ツーリングにいってきます。だいたいの目的地は島根県の出雲大社あたりをめざそうと考えています。瀬戸内の島なみを見れるところまで走って、あるいは都市部がいやになったら山間部にもぐりこんで一泊して、二日目には出雲大社にだとりつきたいと思っています。
いままで私が野宿ツーリングにいった場所は、大阪から熊野、若狭、紀伊半島、関ヶ原、白川郷といったあたりになります。都市部や観光地より、山間や山村のなにげない風景に出会うことを喜びとしています。
これまでの野宿ツーリングの記録です。
熊野川の美しさと驚きの十津川村
若狭へ野宿ツーリングにいってきました。
田園風景と緑の山々と古戦場
野宿ツーリング〜白川郷・岩屋岩陰遺跡篇〜
野宿ツーリング 〜紀伊半島一周篇〜
原付バイクなので距離は稼げませんし、こないだスピード違反でつかまったばかりなので、スピードを抑制して走ろうと思っています。もちろん都市部の幹線道路とかスピードの出やすい場所に気をつければポリさんなんかどこにも存在しないように思えますし、山間部のクルマが飛ばす狭い道路ではうしろの迷惑も考えてとろとろ走るわけにはいきません。柔軟な走りで捕まらないよう祈りたいと思ってます。
私の野宿ツーリンクは景色を楽しむ旅です。「こんなすばらしい景色があるのか」「こんな山奥に人の営みや山村があるのか」といった新鮮な驚きに出会うのが目的です。バイクのスピードを楽しむのでも、バイク自体を楽しみにツーリングに出かけるわけでもありません。バイクは移動のための「手段」なのであって、ともすれば劣等感を抱かされ勝ちになる大型バイクとは「目的」が違います。
原付バイクは小さくて、遅くて、なさけない思いをさせられることが多々あるのですが、目的地に一直線や走る目的をめざすわけではない私は、原付バイクの遅さの風景の楽しみを堪能したいと思っております。自転車でもいいくらいなのですが、自転車のほうが風景や写真を楽しめるわけですが、やはり体力がありませんし、距離も稼げませんからね。
この野宿ツーリンクは知らない風景に出会う旅です。知らない風景に新鮮さと驚きを感じにいく旅です。大阪の都市に住む私は地方の風景というものをまるで知りませんでした。都市部や繁華街、ショッピングセンターにしか興味が向かない人なら、ただの退屈な風景や「通過点」にしか過ぎない景色だと思います。私はそのなんでもない、忘れられたような山間部や山村に癒しやすばらしさや、新鮮さをものすごく感じます。人がまばらにしかいない風景に癒しを感じるのでしょうね。だから観光地や都市部はできるだけ避けたいわけです。
野宿テントはだいぶ慣れてきたといっても、やはりかなり迷いますね。満天の星の下のいいロケーションで寝たいのですが、夜の闇はなにか恐ろしいものが出てきそうな気もして、不安もかなり強いですね。山の中でテントを張るのはたぶん私はムリです(笑)。恐すぎます。山の夜の暗さは私にはかないません。海岸の砂浜がいちばん張りやすいと思っていますが、いい場所がないばあいは公園に張ることも多いですね。空の下で、自由に気の向いたままに、いいロケーションで寝ることは、野宿ツーリングのひとつの目的であり、楽しみですね。いいところを見つけて夜空の星の多さに驚きたいと思っています。またテントを早く撤収するため早朝から走り出すことになるわけですが、自然の中の早朝ツーリングもまた最高に気持ちいいものです。
旅館に泊まるとか、スケジュールの決まった観光地めぐりとかは私は好きではありません。あまり人にもてなされるとか、箱に収められたような行動はつまらないと思っています。
私は二十代のとき、旅行がものすごく嫌いでした。集団や群れで「浮かれろ、楽しめ、孤立するな」、と強迫されている気がして、観光地や旅行に群がる人たちを憎悪してました。バブル時代とかに海外旅行ブームとかがあって、旅行会社の集団管理的な強制を感じていたのでしょうか、集団で行動することにかなり抵抗感を感じていました。とにかく群れの画一化・規格化の流れというものにものすごく腹を立てていた二十代の私でした。
いまは集団で群れずにひとりで行動することがごくあたりまえになって、集団で群れないことの内攻感や孤立感はだいぶ薄れてきましたので、私は自由に地方を散策できるようになったというわけです。若い人はまだ集団で群れなければならない、孤立してはならないという強制の声に多くは縛られているのかもしれませんね。私は自分の中に組み込まれたそんな内攻の声と長いあいだ闘わなければならなかったのですね。ひとりになる自由と好みというのは、私たちの精神の中に多くの人たちによって防御されているのだと思います。
荷物はいつも背負っているリュックにカッパと着替えを少々入れて、テントと寝袋はバッグに入れてシートのうしろにくくりつけるのですが、シートが狭くなるので、うしろのバッグがずり落ちてウィンカーを隠してしまいます。これは道交法違反で点数を引かれるのでしょうか。ウィンカーを隠してしまうのはヤバイと思いますが、シートの狭さについバッグはずり落ちてしまいます。なんとかならないものでしょうか。
まあ、それではこんな感じで行ってまいります。なんかあまり期待感とかうきうき感とか、楽しい気持ちがないなあ〜。四日間の連休という気分も先の三日間勤務のためにどこかにふっとんでしまいましたし。走っているうちに自由と解放感をとり戻して、楽しみたいと思っています。みなさんも連休を楽しんでください。あるいは「楽しみの強制」に腹を立てて、なにもせずに安穏と過ごすのもいいでしょうね(笑)。無事に安全にいってきたいと思います。すばらしい景色に出会えたらいいと思います。
▼野宿ライダーと野宿関連およびバイク本






























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