2008年3月刊の新刊・注目本情報
2008年3月刊の新刊・注目本です。今月はアマゾンの画像がてんでUPされていません。画像をならべたいから、新刊情報をUPしているというのに。セブンアンドワイなら2ヶ月も先の新書新刊情報を送り届けてくれるというのに。



『流行と虚栄の生成』は興味魅かれますね。「消費文化を映す日本近代文学」というのがすこし複雑ですが。『心に突き刺さるショーペンハウアーの言葉』私もショペンハウアーの本をいつかまた読みたいと思っています。『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』は昭和的価値観の批判をおこなっていて、私も読みたいですね。



二冊、友達関係の本が出ていますね。地獄と幻想だ。私は学生時代の檻のような友達関係からはやく抜け出したくてたまらなかった。うまくやったとしても、楽しかったとしても、孤独とひとりを愛する私としてはあんなにねっちょりした関係は「地獄」ですね。『日本人はこうして奴隷になった』の林秀彦はトンデモ本というか悪書を一冊読んだ覚えがあるのですが、タイトルが興味魅かれるので紹介しましたが、要注意。



ひろさちやが世間の価値観の腰を折ってくれて、なかなか好評のようですね。こういう価値観の投げ捨てを多数者がしてくれるようになると、この日本も楽しい社会になるんだけどなあ。日本人よ、世間のモノサシなんてゴミ箱に捨ててしまえ。『医者が病院から逃げ出すとき』はこの人たちが「夜逃げ」してしまったら困りますけど、過重労働に追いまくられているのなら、自分のほうを大事にすべきです。制度や仕組みが悪いのなら逃げるしかありません。



『モーツァルトが求め続けた「脳内物質」』はやっぱりエンドルフィン(脳内麻薬)なんでしょうかね。人はこれを追い求めていると聴きますしね。 『コミュニケーション力』は学校でつちかわれなかった分、自分で学ぶしかないのでしょうね。



小野谷敦が『恋愛の昭和史』を書いていますね。恋愛という幻想はもうすこし頭を冷やす必要があるのではないかと思います。男と女なんて物々交換がベースです。


『日本の美意識』の著者・宮元健次は『神社の系譜』という私にレイライン探索の楽しみを教えてくれた方で、感謝してます著者です。『モンスターペアレントの正体』はどうも驚きを禁じえないですね。学校と社会の関係が変化している最前線なのでしょうね。
親たちの暴走 日米英のモンスターペアレント (朝日新書 99)

洗脳支配ー日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて

講座社会学 13 (13)

これは階層の本のようです。格差や階層の本はかなり注目されていますね。一億総中流社会から、日本人は階層や格差をどう受け入れてゆくのでしょうね。
物部氏の伝承 (講談社学術文庫 1865)

かつて古代の天皇ほどに権力をほこったとされる物部氏。日本の隠されたルーツはここにあり?
銀河進化の謎―宇宙の果てに何をみるか (UT Physics 4)

本を読むデモクラシー―“読者大衆”の出現 (世界史の鏡 情報 3)

読書大衆の出現は社会と日本という国に大きな意識の変化をもたらしたものと思われます。なにを変えたんでしょう。
生業から見る日本史―新しい歴史学の射程 (歴博フォーラム)

生業から描かれた社会こそが日本の歴史の教科書になるべきだと、学校を出てひとりで雇用社会を渡っていかなければならないわれわれには必要な知識だと思うんですけど。
平城京遷都―女帝・皇后と「ヤマトの時代」 (中公新書 1940)

平城京にはどのような思想や見解がこめられていたのでしょうね。
スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ (ちくま学芸文庫 ア 27-1) ジョルジョ・アガンベン

ジョルジュ・アガンベンは注目される思想家のようですね。
感情とクオリアの謎

アダム・スミス―「道徳感情論」と「国富論」の世界 (中公新書 1936)

市場原理の時代、アダム・スミスは原点から問いなおすきっかけを与えてくれますね。
新自由主義は文学を変えたか―サッチャー以後のイギリス (比較経済研究所研究シリーズ 23)

新自由主義と文学か。20年も前にイギリスは新自由主義に踏み込んだわけだから、格差社会といわれはじめた日本は学ぶべきものがあると思います。
悪の知性 ジャン・ボードリヤール

ボードリヤールの著作ですね。
カラヤンはなぜ目を閉じるのか―精神科医から診た“自己愛”

カラヤンと自己愛ですか。芸術家と自己愛は社会のロール・モデルかもしれませんね。
精神科医ですがわりと人間が苦手です 香山リカ

もともと精神科医って人づき合いがうまい人の興味のひかれる知識と思えないんですが。ひっかかりがあるからこそ、その知識に魅かれるわけで。
エコノミスト、歴史を読み解く―君が代、軍人勅諭から狂言、ミッキーマウスまで

歴史は経済学者が語ってほしいですね。人間の社会は経済動因で動いているものです。いわゆる下部構造ってやつですか。学校で習う政治屋の歴史はどうしてなのか、なぜなのか教えてくれません。それは経済が動かしたんだって。
お金のために死なないで―多重債務による自死をなくす

この問題をいつまで野放しにするつもりですか。自死であろうと人を殺してしまう殺人企業が商業として存在してもいいんですか。堂々とそんな企業がTVコマーシャルに連日出てくるなんて頭がどうかしている。
クレジット・サラ金列島で闘う人びと

世界が仰天する中国人の野蛮

夢の世界とカタストロフィ―東西における大衆ユートピアの消滅

「大衆ユートピアの消滅」――これは重要な本かもしれませんね。ユートピアを失えば、自転車操業の文明はどうなってしまうんでしょう。
戦争熱症候群―傷つくアメリカ社会

アメリカの世界戦略―戦争はどう利用されるのか (中公新書 1937)

各国の内乱に首をつっこみたがるアメリカはどうしてなんでしょう。
はじめて学ぶ政治学―古典・名著への誘い

ジョークで読む国際政治 (新潮新書 256)

政治の風刺って冴えていますね。
テロリズムを理解する―社会心理学からのアプローチ

テロリズムを社会心理学からアプローチですか。期待できるかもしれませんね。
市民はいかにして戦争に動員されるか―戦争史の底辺を歩んで

分岐点を知るうえで重要な知識なんでしょうね。
韓流の社会学―ファンダム、家族、異文化交流

韓流のわけを解いてほしいですね。まあ、もともと文化的に近かった国だったからでしょうか。
アニメが世界をつなぐ (岩波ジュニア新書 591)

子どものときに見たアニメが世界でいっしょだったという同時代体験が生まれてきているわけですね。のび太やドラゴンボールで少年時代を語れるということが可能になっているんじゃないですか。
資本主義のパラドックス―楕円幻想 (ちくま学芸文庫 オ 15-2)

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫 社会 164)

人は苦境にあるとき、なぜ自分だけが、と思うんでしょうね。
テレビニュースの解剖学―映像時代のメディア・リテラシー

ニュースのリテラシーもぜひほしいですね。
『月と六ペンス』 サマセット・モーム
![]() | 月と六ペンス (新潮文庫) (1959/09) サマセット・モーム、中野 好夫 他 商品詳細を見る |
サマセット・モームは私の好きな作家である。『月と六ペンス』の世俗の批判と、『人間の絆』の青春漂流にはえらく勉強させてもらった。だいたい20年ぶりにこの本を再読した。
さいきん芸術と世俗のようなテーマで本を読んでいるので、ちょうどモームのこの本がぴったりだと思い、読みかえした。世俗への小気味よい批判はあいかわらず胸のすく思いがしたし、芸術や創造にとり憑かれた男の狂気には読ませるものがあった。モームは読ませるのがうまいのである。『人間の絆』もかなり長いが、飽きさせないのである。人間洞察の鋭さを自慢げに出しているところなんかはちょっとかな、と思ったりするが、20年前の私はこのような洞察に私の哲学好きな心が目覚めさせられたのである。
周知の事だと思うが、この作品はポール・ゴーギャンの人生に啓発して書かれたものである。じっさいのゴーギャンと作品のストリックランドがどれほど同じで違うのかよく知らないが(こちらのページなど参考に)、この作品では徹底的に他人に対して冷酷な人間像が描かれている。創造に憑かれた人間は世俗の価値に拘泥しないためにそのような人間に見えることをモームは描いたのだと思う。人間の友好や愛に価値をおかない人間にはそのように見えるのである。
「なんてけちな了簡なんだろうねえ、女ってやつは! 愛だ。朝から晩まで愛だ。男が行ってしまえば、それはほかの女が欲しいからだと、そうとしか考えられないんだからねえ。いったい今度のようなことをだよ、たかが女のためにやるなんて、僕をそんな馬鹿な人間だと、君、考えてるのかね?」
「女というやつは、恋愛する以外なに一つ能がない。だからこそ、やつらは、恋愛というものを、途方もない高みに祭り上げてしまう。まるで人生のすべてであるようかのように言いやがる。事実は、なに鼻糞ほどの一部分にしかすぎないのだ。……だが、恋愛というのは、あれは病気さ。女というやつは、僕の快楽の道具にしきゃすぎないんだ。それが、やれ協力者だの、半身だの、人生の伴侶だのと言い出すから、僕は我慢ができないんだ」
「つまり、彼女こそは、女というものは他人の金で生きるもの、そんなことは当たり前だという、いわば奥様階級まるだしの本能を具えた女だったのだ」
じつに男が出て行ったらほかに女をつくったのに違いないのだと疑う世間の下劣さをモームは小気味良くあげつらっていて、私もえらく共鳴する。女や家庭や安定が第一のような価値観なんて、つまらないのである。私もそれが最高の価値なんて思ってやしないし、個人としての女や人間にそんなに楽しみがあると思わない。どうも世間ではそのような「宗教」がいちばんだと思っているようだが。安部公房の『砂の女』にもそのような批判がこめられていて、おかげで私は家庭をもたない人生を歩んでいるわけだが、公房の『砂の女』は砂に閉じ込められた人生に満足を覚えてゆくのである。
「僕は言ってるじゃないか、描かないじゃいられないんだと。自分でもどうにもならなんだ。水に落ちた人間は、泳ぎが巧かろうと拙かろうと、そんなこと言っておられるか。なんとかして助からなければ、溺れ死ぬばかりだ」
「普通、生活の楽しみだとか、美しさだとか呼ばれる事物に対して、彼はいっさい無頓着だったのだ。金銭にはてんで興味がないし、名声にもまたそうだ。たいていの人間ならば、まず好い加減のところで世間と妥協してしまうのだが、その妥協の誘惑にさえ、彼は厳として打ち勝った。……彼の場合は、てんではじめからそういった誘惑がない。妥協の可能性などということは、最初から彼の頭には浮かんでこないのだ」
「……やっぱり馬鹿なことをしたもんだと言いたいねえ。自分の一生をこんなふうに台なしにしてしまうなんて、意味ないよ、君」
だが、果してエイブラハムは一生を台なしにしてしまったろうか? 本当に自分のしたいことをするということ、自分自身に満足し、自分でもいちばん幸福だと思う生活をおくること、それが果たして一生を台なしにすることだろうか? それとも一万ポンドの年収と美人の細君とをもち、一流の外科医になること、それが成功なのだろうか? 思うにそれは、彼が果して人生の意味をなんと考えるか、あるいはまた社会といい、個人というものの要求をどう考えるか、それらによって決まるのではあるまいか?」
「あのストリックランドを捉えていた情熱は、いわば美の創造という情熱だった。それは彼に一刻の平安を与えない。絶えまなくあちこち揺すぶりつづけていたのだ。いわば神のようなノスタルジアに付き纏われた、永遠の巡礼者だったとでもいおうか。彼の内なる美の鬼は、冷酷無比だった」
芸術や創造にとり憑かれた男と、女や家庭との見事な対比が描かれていて、この世間の価値観に拘泥しなかった、見事にその価値観を無視しつづけた男の生涯が、私たちに当たり前の人生コースに再考をうながせるのである。男だったら、世間の価値観なんか捨ててしまいたいとは一度は思うんじゃないだろうか。世間のモノサシなんてどうでもいいと思う瞬間が訪れる男は、幸運なのかもしれない。そこまで賭けられる人生の大切なものを見つけられたからである。このように考えると世間のモノサシや価値観で測られる成功や階層なんてクソみたいなものである。ストリックランドは生涯を賭けた作品すら最期に燃やしてしまうのである。
▼ポール・ゴーギャンの作品(私にはそのよさがよくわからないんですけど(笑))



▼サマセット・モームの作品 『人間の絆』はおすすめですね。




さいきんの女性アーティストの流れ
私はもう最新のヒットチャートは聴かなくなったし、新しい女性アーティストを知るわけではないが、すこし新しいところの動向を探ってみたいと思う。でもはっきりいって、ほとんど知らない。
さいきんはYuiと絢香というアーティストが期待されているみたいだ。【YouTubeで視聴できますが、すぐに動画は削除されますのでご了承ください】
タイヨウのうた YUI
YUI - CHE.R.R.Y SUB
Yui - Skyline
Yuiは女「尾崎豊」というふれこみで聴いてみたら、比べてみたら骨も芯もないじゃないかと思った。反逆とか批判とかの精神はてんでないじゃないか。たとえばいぜん橘いずみという反逆とか自虐のすごいアーティストがいっしゃんあらわれたことがあった。期待したのだが、メロディがなさず、つぶれていった。この流れとしては甘すぎるのではないか。
失格 橘いずみ
尾崎を聴いてください。でもまあ女性が女「尾崎豊」とよばれる傾向が出てきたことは、まあアイドルのようなかわいい女性が期待される時代とちがってだいぶマシだ。
尾崎豊 − 十七歳の地図
尾崎豊 − 卒業
絢香は「I believe」を聴いたら、なんとなく鬼束ちひろの曲を思い浮かべた。鬼束ちひろのように悲愴で悲惨な曲を歌っているわけではないが、 鬼束は女性のアーティストたちにインパクトをあたえたのだろう。でも詞の世界は凄惨であったが。
絢香 ayaka - I believe
三日月 絢香
鬼束ちひろ-月光
鬼束ちひろ - infection
鬼束ちひろ - Cage
はだしで歌うというと一青 窈も思い浮かべるが、なんかこの人は極端な身振りとか、曲調とか系譜が日本のポップミュージック的ではないな。
ハナミズキ - 一青 窈
もらい泣き - 一青 窈
鬼束ちひろはほとんど「狂気」の世界に近づいていたといえるが、芸術家というのはむかしから狂気の淵を歩いていたものである。アーティストは常人と違う世界の淵を歩くからこそ創造の世界にさまよえるといえるのかもしれない。coccoはいい唄を歌っていたと思うが、ちょっと気の毒なくらいに神経症的なところもあった。
強く儚い者たち cocco
Raining cocco
元ちとせとなると、もう沖縄からのシャーマンみたいである。狂気からあちらの世界にいってしまったみたいである。商業ポップカルチャーがそういう世界を受容できるレベルにはないと思うが。
ワダツミの木
元ちとせ 青のレクイエム
語り継ぐこと
いつか風になる日
あと、伊藤由奈とかAIとかアンジェラ・アキとかが注目されているようだ。みんなクロウトっぽいというか、アメリカのブラック・ミュージックをめざしているみたいだ。むかしの久保田利伸とか佐野元春みたいな流れだ。系譜は違うのだろうけど。
Yuna Ito - I'm Here
Mahaloha 伊藤由奈
AI -Story
AI-Believe
Angela Aki - HOME
Angela Aki - Again
This Love
『 そばにいるね 』 青山テルマ - feat.Soulja
ここにいるよ feat.青山テルマ/SoulJa
久保田 利伸 Missing
佐野元春「アンジェリーナ」
やっぱりこのクロウトな流れは宇田多ヒカルの大ヒットによる影響が強いのだろう。私は宇多田ヒカルの大ヒットは90年代のカラオケブームの帰結だと見ているが、しろうとがみんな歌いだしたためにかわいいだけのアイドルは生存できなくなり、くろうとの基準を押し上げたと思っている。
First Love
Automatic - Utada Hikaru
Mai Kuraki~ Love,Day After Tomorrow
Secret of My Heart - 倉木麻衣
倉木麻衣 - Reach for the sky
私はブラック・ミュージックみたいなクロウトっぽい曲ばかりではなく、ふつうの曲のほうも好きである。あまりクロウトっぽすぎるのはカッコいいとしても感情移入や共鳴の部分は少なくなると思うのだ。音楽の大事なところはメロディであると思うし、近づきやすさも大切にしてほしいと思っている。
茜色の約束 いきものがかり
カブトムシ aiko
Nakashima Mika - Yuki no Hana
Time goes by (Every Little Thing)
YouTubeというのはこういう編集の仕方ができて、たいへんすばらしいことだ。本や雑誌でこの曲がいいといっても、同一紙上で音楽を視聴することはできなかった。ブログではちょくせつ音楽にリンクできるのである。しかも文章と文脈のなかにきちんと収めることができる。これはすばらしいことである。さらなる視聴の可能性がいままさに生まれているということだ。
クラシックで癒し in YouTube
クラシックで癒しの曲をYouTubeであつめてみました。私はクラシックはほぼ解さず、いくどか挑戦してもはね返されてきました。ロックやポップミュージックのようにすんなり入ったり、ひきつけられたり、興がのるといった感じにならないのですね。映画音楽やドラマでつかわれるクラシックには感動しても。
また敗残すると思いますが、「癒し」という切り口からだったら入りやすいかなと無謀な挑戦です。ネットで癒しのクラシックを探すと日本語のタイトルが表示されていて、YouTubeでは検索できないので、Rimoで編集されていた「癒し系クラシック名曲集」から曲を借りてきました。日本語タイトルでなくて申し訳ないですが、音楽家の名前はかろうじてわかるだろうと思います。曲もけっこう聞き覚えのある曲が多いものですね。
EDWARD ELGAR: Salut d'Amour
これはドラマなどよくつかわれている曲ですね。
BOSWORTH PLAYS DEBUSSY CLAIR DE LUNE AUDIO VERSION
書店とか画廊とかで聞こえてきそうな静謐な曲ですね。
Yundi Li plays Chopin Nocturne Op. 9 No. 2
高級な回想のシーンにつかわれそうですね。
トラスティベル Play.24
激動とか衝撃のシーンに流れてきそうな曲ですね。
Bach - Air on the G String
教会の懺悔とかの時間につかわれそうですね。
Michael Dulin-'Simply Satie' Music Video
サティの曲ですね。
Mozart Piano Concerto No. 21
勇壮なシーンなんかにつかわれる曲ですね。
Pachelbel's canon in D Major
ちょっと説教ぽい曲調のやつですね。
Bach Prelude with improv
Deutschlandlied (German National Anthem)
勇ましい曲ですね。
chopin waltz
クラシックピアノって感じですね。
Chopin - Valentina Igoshina - Waltz in D Flat Major
お上品な場にふさわしい曲。
Mozart on 2005
これは春っぽい曲なんですかね。
トラスティベル Play.28
あまりにも馴染みの曲ですね。
La Campanella
Je te veux composed by Satie
ちょっと浮かれた気持ちが入っている曲ですね。
Janne Mertanen plays Satie
Erik Satie -Gymnopédie No.1 [piano]
サティのこの曲はおなじみ。
The most beautiful rendition of Ave Maria I've ever heard
『アヴェ・マリア』
バッハ プレリュード1番
動画のこんなピアノなんてあるんすか。
Debussy - Arabesque #1
Bach - Brandenburg Concertos No.5 - i: Allegro
ちょっと騒がしいかな。
『金色のソナタ』 クラウス ウムバッハ
![]() | 金色のソナタ―音楽商業主義の内幕 (1994/12) クラウス ウムバッハ 商品詳細を見る |
これはまったく失敗。クラシック音楽をほとんど聴かない私がサブタイトルの「音楽商業主義の内幕」に魅かれて購入したけど、クラシックのことを知らないからとうぜん雲をつかむ話のようにしか思えない。ひさびさに途中で読むのをやめることにした。
あまりにそっけないのでこの本にとりあげられている音楽家をYouTubeで聴けるようにしておきます。どれもこれも有名な人なんだろうけど、私はカラヤンとパヴァロッティの名は知っているくらいである。
Karajan - Beethoven Symphony No. 9 : Part 1
Karajan - Beethoven Symphony No. 5 - Part 1
Ivo Pogorelich Beethoven's "Fur elise".
Rostropovich plays the Prelude from Bach's Cello Suite No. 1
Mozart concerto 20 in d, K.466 - 1. Allegro (1of2) Gulda
Beethoven Anne - Sophie Mutter
Horowitz plays Chopin Ballade 1
Beethoven Symphony No.9 - Bernstein 1989 (part 1)
José Carreras sings 'Una furtiva Lagrima'
Pavarotti - Nessun Dorma
私はクラシックはまったくだめだ。やっぱりロックが好き。映画音楽のクラシックには感動するが、どうしてもモーツァルトとかベートーヴェンとか飽きもせず同じ曲をやりつづけられるのかよくわからない。芸術とか高級の基準なんてどうでもいいや。さらば、クラシック。
二十年もたったなんて信じられない
年をとると時間が早く感じられるとはよく聞くことである。私も高校を出てからもう二十年もたったなんて、いまだに自分では信じられない。大学を出て今のマンションに住んで二十年近くもたったなんて信じられない。20歳からもう二十年もたったことに私はちっとも実感をもてなくて、二十年という月日の早さと軽さに驚くばかりである。
みなさんも驚いているようで、自分の年齢の自覚がなくて、外側の時間や物事の変化にただ驚嘆しているといった状態がふつうのようである。
自分の歳に驚く瞬間 発言小町
浦島太郎の童話はよくできたもので、われわれの時間の感じ方をいっていたのだとしみじみわかってきた。時間は自分の中では「経って」いないのである。まわりの時間が経っているだけなのである。そして何十年もの年月がたったことにただ驚くだけなのである。時がたつというのはそういうことのようである。
子どものころは時間が長くて、年をとると時間が早く感じられるとよく聞くことばである。なぜ年をとると時間が早く感じられるのだろうか。ネットで検索してみても、いまいちしっくりくる説明がない。哲学の時間論もこの問いとなかなかつながりがなくて、資料に当たれない。あとから探索してみることにして、いま考えられる要因をいくつかひねり出してみたい。
子どものころは世界が神秘で謎だらけである。新しいことや新奇さと、好奇心でいっぱいである。出来事や物事があまりにも多くて、感動したり、驚くことがらが多いために、つまり情緒や感無量といった感覚が大きいために、時間が長く感じられたのだと思う。ひとつひとつのことがらが大きかったのである。
対して、大人になると多くのことは慣れっこのことであったり、わかりきったことであり、べつになんの変哲も変化もないことの連続になる。感覚や情緒の重要性が薄れてしまうため、時間が早くたつように感じられてしまうのである。これは「時間」というよりか、驚きや感動などの感覚の大きさや受容量であるといったほうが近いかもしれない。
また子どものころは「近視眼的」に物事やできごとにぶつかっている。月日や季節がまいとし同じようにくり返されているという自覚より、全体的な視線が希薄で、できごとやイベントに直接ぶつかっている。すべて「新しい」ことで、同じ季節がまいとしくり返されているといった自覚が薄く、新しい出来事にまいとし出会う。巨視的なモノサシをもたずに直接出来事に出会うために、つまり目の前のことに夢中なため、全体を見る目をもてない。子どものころは自分の足のサイズや服のサイズも成長が早いため自覚できなかったことが多々あったと思う。時間の感覚や把握も希薄だったのである。
驚きや感動や出来事が大きすぎた、だから時間が長く感じられたという説明は、私の中ではまあしっくりくる。心理的な受容量が大きいということは、時間を長く感じさせるのである。年をとると、驚きや感動や好奇心はどんどん狭まったものになり、小さなものになり、赤錆びたものになる。心理的時間はあっという間に去ってしまうのである。
これは時間というものより、感動や驚きの心理的量をいっているといったほうが近いと思う。心理的な量が満たされているのである。その感動量が少ないと、時間は細びて、しわがれて、枯渇する。心理的印象が薄れて、時間の感覚は短く感じてしまうのである。
感動や印象や情緒の受容量が減る、それが子どもと大人の時間の違いを説明するようである。大人になると、世界はもう「開かれていない」のである。「閉じられている」のである。神秘や好奇や謎はもう存在しない。そのために心理的時間は短く感じられるのである。
いやなときは長く感じられるとよくいわれる。反対に熱中しているときは時がすぐにたつといわれる。では子どものときはいやなことが多かったのか。子どものときはぎゃくのように思う。熱中していることが多かったが、時間は長く感じられた。大人になるとべつに熱中していなくても、時間はあっという間に去ってしまう。そのとき感じる時間の感覚と、ふりかえって感じる時間は、その長さの感覚が違ってくるのだろう。
大人になるとほんとうに時間が去るのは早くなる。えっ、もう十年たったのか、もう二十年もたったのかと驚くことしきりである。はっきりいって飛び去る月日の感覚がなくなっているといったほうが近いかもしれない。中身のほうは年をとった感覚がほとんどなくて、外的な時間だけがたっているというのが、年をとることの実情かもしれない。40代や50代になっても、自分がそんなに歳になっているなんて実感が薄いまま、人は年をとるものかもしれない。私はいまの自分が40歳になったなんていまだに信じられない。まだ20代半ばのような感覚でいるのである(「あまり年齢感覚のない私。」)。
月日の感覚の早さは、なにかこの世の拘泥するものが少なくなったということなのかもしれない。記憶や情念や神秘のぶあつさというか、深みというか、そういうものが失われたことによるものなのだろうか。日めくりカレンダーが風で吹き飛ばされるような月日の早さである。過ぎてしまったものはあっという間である。ふりかえってみて、月日の速さにただただ驚かされるばかりなのである。
もう少し時間について考察したかったが、時間は存在しないという考えと絡めて時間の早さの感覚について問うてみたいと思っていたが、準備不足で、また次回にゆずろうと思う。
ところで私は読書のジャンルをひとつのジャンルに縛られるのではなくて、未知のジャンルを追究することが好きである。いったら子どものころの世界に感じた神秘さや謎や、不可解さのドアを探してつづけているようなものである。未知で謎の多い世界は、既知のくりかえしの世界のように時間を早く感じさせない。私は時間の早さに歯止めをかけるような意味で、未知の世界にのりだしてゆくのかもしれない。みなさんも時間を大切にする意味で、つねに未知の世界のドアを開けるよう心がけてはいかがですか。
幸福になるためのいくつかの条件
雨崎良未さんのサイト「科学に佇む心と体」で幸福になる条件がいくつか提示されていたので、紹介させてもらうことにする。コピペと引用と注釈だけになってしまうが、サイトの情報は意外と多くの人に知られない可能性があるので、「紹介」の機能は大事にしたいということで許してもらおう。
世界の幸せ比べ:幸福度の各国間比較
幸福になる科学的方法
階級差別とスーパーヒューマン
まず各国の幸せ国トップ10。
第一位 デンマーク
第二位 スイス
第三位 オーストリア
第四位 アイスランド
第五位 バハマ
……
23位 アメリカ
82位 中国
90位 日本
北欧がトップに来ていたり、バハマがきていたり、よくわからない。北欧系は各種の調査で上位にきたりするが、いまのところ福祉国家は幸福感に貢献しているということか。覇権国家のアメリカは23位、日本は悲壮な90位。アメリカのような豊かさや自由、覇権国家をめざしても国民が幸福になるとはかぎらない。
日本は国内総生産(GDP)を最高指標にするのではなくて、ブータンのような「国民総幸福量(GNH)」を基準にするように変えないと、まだまだ落ちるだろう。
またほかの調査ではこうなっている。
幸福度トップ5:
ナイジェリア
メキシコ
ベネズエラ
エルサルバドル
プエルトリコ
不幸せはロシア、アルメニア、ルーマニア
中南米がトップにきているのだが、ラテン系の人はやっぱり幸福に感じられるのか。不幸はロシアあたりに集まっているみたいだ。
幸福につながる10の要因
・幸福観を左右する遺伝子
・結婚
・仲間を大事にする
・多くを求めない
・善行を誰かに行いなさい
・信仰を持つ(信念でもいい)
・自分と誰かを比較することを止める
・お金をかせげる
・上品に老いる
・利口でなくてもかまわない
まあ、基本はお金が稼げるとか結婚とか生活の基盤となるものの確保が大事なんだろう。あとは多くを求めないとか、他人との比較をやめるなどをつけたすことが必要なようである。
幸せにまつわる3大勘違い
勘違い その1:病気や障害は不幸なはず
勘違い その2:子どもがいると幸せなはず
勘違い その3:金持ちほど幸せなはず
子供がいるとうつ病の確率が高くなるというのは意外だが、まあ家族のほうが愛憎が深くなるという話があるのだけど、家族をかんたんに否定するのはよくないだろう。金持ちは多くの人の願望であるし、よく豊かさや金は幸せにつながらないと説かれるが、貧乏も不幸なわけで、せいぜい中間をめざすのがよい、でも中流幻想となってしまうのだけど、そのあたりが賢明なのだろう。
不幸になる秘訣
不幸になる秘訣の1:変化の多い暮らしをさせられること
不幸になる秘訣の2:誰かさんより、賢くあろうとすること
不幸になる秘訣の3:信仰をしないこと
人間はあまり変化を好まないが、変化するのは世の常だから、どこかに変化しないものをしっかりともつことが必要なようである。人との比較は不幸のエネルギー源である。信仰はいまいちウケないが、心の支えとなるものは必要なようである。
しあわせになる2大秘訣
その1:良い人間関係にあること
その2:お役に立てた感があること
これはしごくまっとうな基準であろう。人間関係が幸福をつくるし、役に立てたという気持ちは幸福感を増すものである。忘れないでいたい。
人間を不幸にし、まちがった方向には知らせるものは、人との比較であると思う。子供のときに親からしっかりと他人との比較を洗脳され、すっかり他人との比較・競争に染め上げられた価値観で人を見てしまうようになる。この芽を削ぎ落とすことが幸福感には大事であると私は思う。
「俗物根性」 『アメリカ人の俗物根性を仔細に大解剖』 ジョセフ・エプスタイン
p.25:俗物性の本質は、他人を「犠牲にして」自分は優れていると感じられるようにすること
p.27:スノッブには基準がひとつしかない。「他人との比較」である。そして比較は当然のことながら競争や張り合いを意味し、ほとんどつねに妬/ねた/みを抱くことになる。
p.114:一般的な定義では、自分のほうが優秀であると思い、多少「注目」されたがっている人をスノッブという。
p.206:俗物主義とは、隣人の個人的な存在を否定するか、認めたとしても自分より劣る地位しか許さないことを指すといっていい。
こんにちの日本や西欧の消費社会というのは他人との比較・優劣でなりたっている社会といっていいと思う。それがなくなったら、ベンツも高級住宅も売れなくなってしまう。人間の比較優劣の感情を利用して経済は回っているといっても過言ではない。せめて賢明な人はその渦の流れから切り離されて、安寧な心をもているように比較を遮断したほうがいいだろう。
幸福の基準や価値観というのは調査によってまちまちで、人によってもいっていることは千差万別で、自分にあてはまらないことも多い。これはあくまでも参照データにするのがいいのだろう。ただ、人がいっている基本条件はおさえておくのがいいとと捉えておきたい。
売れない画家に学ぶこと
ストリート・アーティストの絵いつものことだが、私はひとつのテーマを考察するさい、問いが明確ではなく自分でもなにを問うているのかわからなくなり、問いも拡散する。
こんかいは「芸術と創作と生計」という周辺あたりをテーマにしているらしいのだが、私の考察はいま手に入る書籍に依存することがおおく、こんにちそのテーマが考えられていることは少なく、こんかい早くもテーマが終息しそうな予感が出てきた。
一本の明確なテーマはおそらく、「売れなくても創作しつづける根性を学ぶ」あたりかもなのしれない。生活のためにつまらない仕事に時間や人生を奪われる私にとって、売れなくとも芸術至上に生きた芸術家の人生に学びたいということなのである。安定や保障が大事な世の中にあって、そんな基準を逆さまにして、自分の創作のほうを優先順位にした芸術家に学ぶことはないのか、というあたりなんだと思う。生活のために不本意な仕事につくことは私の真意ではない、ということなのである。
一方の道には企業に就職しての安定の道がある。一方の道には自分の才能に賭けて売れない画家の人生を選ぶ道もある。後者の選択をした人たちにその根性を私はいただきたいと思うのである。
芸術というのは、評価のひじょうに危うい世界だと思う。芸術の評価の明確な基準や範囲といったものはないと思う。ゴッホやピカソやゴーギャンのような過去のだいたい評価が定まった大画家とちがって、こんにち売り出そうとする若手画家に評価が定まることはない。海千山千のものに高い評価を与えられることは少なく、というか選択眼をもった人に出会うことも少ないだろうし、売れることも少ないだろう。売り物になるかすらの基準さえ怪しいのではないだろうか。たとえば路上でテキヤのように絵が売られていたとしても、だれが高い評価を与えたり、高い値段で買ったりするだろうか。
そもそもこんにち家に絵を飾る趣味をもった人たちはどのくらいいるというのだろう。かなり顧客やマーケットが少ない気がする。ゴッホやピカソなら芸術に興味のない投資目的の売買人が現われて、億単位の値段で買いとってくれるかもしれない。しかし路上のテキヤで売られる絵にそのような値がつくことはないし、売れることもかなり難しいだろう。
芸術というのは店自体がちゃんとあるかさえ怪しい世界である。コンビニやスーパーとちがって、町のどこにでもいる人たちが顧客になってくれるというわけではない。ひじょうに少ない人だけが顧客になってくれる。また売り物と売り物ではないものの境界はひじょうにあやふやで、それこそ小学生の絵すら同列に並べられる世界である。コンビニに並べられる商品とちがって、商品かそうかでないかの基準はかなり侵食的なものなのである。売り物にならない広大なしろうとの絵も同列にならんでしまう危うい商売の世界が芸術というものなのである。
企業と商品のような市場世界とちがって、アマとプロ、売り物と売り物ではない境界がひじょうに不明確である。同じ沼地にどろどろしているのが芸術というものである。だからこそこの線引きがひじょうにむづかしい世界に、生産者と消費者という明確な区分のつけにくい世界に、生産より趣味や創作に生きたい私としては学ぶことがあるのではないかと思っているのである。
画家というのはプロとアマの境界を生きた人たちなのである。さらにいえば、生前ほとんど絵が売れず、プロではなくてアマチュアとして生涯を終わった画家もいることだろう。それでも画家は創作をつづけた。これはこんにちの受け手より送り手になりたがっているこんにちのわれわれの人生のモデル・ケースになるものではないかと思うのである。
ネットでブログや小説や映像や音楽を発表する人。マンガの同人誌に書いたり、ストリート・ミュージシャンとして街角で歌う人、あるいはカラオケで歌う人。われわれはマスコミの一方的な受け手として戦後の50年ほどを生きてきたのだが、受け手ばかりではなく、送り手になりたくて仕方がなかったのではないかと思う。創作者として世間に評価されたい、知られたい、人生をそのように生きたいと思う人がかなりいたのではないか。ネットは技術が整ったために生まれたのではなくて、われわれの需要や欲望がまさにそのような仕組みを呼び寄せたのである。
だがわれわれの社会というのは企業社会であり、生産者の社会であり、多くの時間を生産や労働に捧げなければならない社会である。創作や趣味に時間をかける人生は許されていない。世間の評価も、金や所有や社会保障で人生が測られる時代である。金のない人生は「負け組」であり、「負け犬」なのである。
売れない芸術家はそのような価値観にNOをつきつけるだろう。富や所有や保障よりか、創作や芸術のほうが大事なのである。売れたり、富をおおくもつことはもちろん願うだろうが、そのために犠牲を多く払うのなら、かれは負け犬や貧乏を選びとるだろう。
受け手から送り手の時代の転換期に、売れない芸術家の人生はモデル・ケースになるのではないかという考察が、おそらくは私のこんかいのテーマであると思う。芸術至上主義、創作至上主義のような価値観で生きられないか、富や所有のために労働に人生を奪われるなんていやだ、といったあたりがテーマであるように思う。社会の、私の価値観をひっくり返せないかをひそかにもくろんでいるわけだ。売れなくても、創作をつづけた芸術家に学びたいというわけである。
アマチュアの時代、価値観を切り開く必要があるのではないかということで、その先人としての売れない芸術家に学ぶことはないかといったことが今回のテーマであるが、芸術関係の書棚を見てもこんにちそのような問いがおおく発せられているわけではない。ということで文献の数に依存する私の考察は早くも暗礁にのりあげる可能性も出てきた。まあ、それでもいいだろう。未解決の問題がのこるのなら、私の考察の楽しみもまたひきのばされたということなのだから。
心ではなくて「身体」が感情するのである
ふつう人は心で感情を感じるものだと思っているが、感情というのは身体で感じられるものである。悲しみや怒りは心の内部でおこると思われているが、身体がつくりだしているものである。感情というのは身体のはたらき、もっとはっきりいえば筋肉の緊張や収縮と考えたほうがいいと思う。
われわれは感情の抑制や止め方、切り替え方というものを知っているだろうか。人はそれぞれ自分なりの感情の切り替え方というものをつちかってゆくものだと思われるが、さっこんのうつ病の増加などを見ていると、どうも人は感情とのつきあい方に往々にして失敗してしまうようである。(うつ病の増加は私は精神科医やカウンセラーの増加により、つまり供給側が増えたことによるジャッジの厳しさがもたらしたと考えるが)。
私もけっこう自分の感情とのつきあい方に失敗して、自分でいろいろ考察してみたので、それなりの心のつき合いかたもわきまえてきた。基本的に私は感情は無視や捨てるという方法が功を奏すと考えている。頭の出してくる思考の流れにつきあうのではなくて、ぽんぽんと捨てるのである。悲観的思考とか悲しくさせる思考を捨てるのである。こういう思考の訓練によって、悲しさなどの感情は捨てられる。
あるいは考え方を書き換えることによって感情を変えるという認知療法などの方法があるが、これは言葉や考え方が感情をつくるという発想が元になっている。言葉が感情をつくるのである。さらに発展させれば、言葉や心は「虚構」であり、「存在しないもの」であり、「実体のない」ものである。つまり存在しないものになにもわずらわされることはない、となる。心とはあるあると思っているが、じつは「ない」もので、考える、思うという行為によって「つくられる」ものなのである。私たちは心を存在しないもの、悲しみも悩みもないものに、一瞬にして、消してしまうことができるのである。
このようなことは旧ホームページで考察していたが、トランスパーソナル心理学や仏教の瞑想などにたいへん学ぶことが多かったのだが、いまでも身体と感情について考察した本がアマゾンを通してけっこう売れていたりする。増田明の『ボディートーク入門』とか、片山洋次郎の『整体 楽になる技術』などだ。身体と感情の考察についてけっこう知りたい人がいると思って、この稿を書いているしだいだ。
たとえば増田明『ボディートーク入門』(創元社)にこう書かれている。
・怒りの感情は背中の中央を硬くさせ、刺激を受けた神経が腹を立たせる。猫のけんかと同じである。胸椎八番は胃の神経とつながっている。
・失恋や絶望感は胸椎三番に詰まりをつくる。心臓の腰がきゅっと縮められる。
・借金の悩みは首のつけ根を硬くする。「借金で首が回らない」だ。
・胃の上部が硬くなるのはいらだちである。胃の下部が硬くなればくよくよしている。
・人前で話すとき緊張するのは、腕のつけ根と胸の間の一点である。警戒した動物がぱたっととまるときにはそこが緊張する。
われわれは身体で感情をつくっている。原始時代に闘ったり、逃げたりするときの筋肉の緊張やゆるみが私たちの感情の起源だと思われる。怒りは肩や腕をいからせて生まれるものであり、恐れや悲しみは胸を守ったりお腹を固くして守ってきたことが由来しているのである。つまりは筋肉の緊張と弛緩のパターンが感情をつくっているのである。
怒りをいま表現してもらったわかると思うが、手をきつく握りしめ、腕や肩に力を入れ、肩をいからせるのがわかるだろう。体の上半部に力を入れ、パワーを集中させて闘おうとしてるのがわかるだろう。問題はその闘いの瞬間ではなくて、人間は怒りを頭の中で思い浮かべた思考やイメージで持続させられるということだ。つまり闘っている最中ではなくて、思い浮かべられる四六時中、そのような怒りの体勢をとることができるのである。そのような怒りは上半身の強ばった塊りをずっとつくりだし、その固まりのために怒りの感情を容易に誘発しやすいだろうし、さらに固まりつづけた筋肉は肩こりやなんらかの障害や病気をひきおこしやすいだろう。
恐れや悲しみは胸を腕で丸めるように守り、腹を固く守ろうとした姿勢に由来していると思われる。内臓は弱く、大事な器官であるため、腕や筋肉の緊張で守られる必要があった。それが恐れや悲しみの元であったと思われる。なにかに襲われたときには瞬間にからだを防備するだけでいいが、思考やイメージでいつまでも恐れや悲しみを持続できる人間は、そのような体の前面を固めて守る姿勢をつづけることになる。筋肉で固めた体は血流がとどこおり、栄養素がいき渡らなくなり、障害や病気のもとになるものである。そのような姿勢はすぐに恐れや悲しみを連想的に誘発しやすくなるだろうし、そのような落ち込んだ気分はずっとつづくことになる。感情とは身体のこのような状態によってつくられるのである。
このようなことがわかったのなら、私たちは感情による身体の状況をコントロールするすべを手に入れたことになる。つまりは筋肉をほぐすということだ。怒りや悲しみがやってきたのなら、かならずどこかの身体や筋肉を固めていることになるから、そこを意識的にゆるめてやる必要があることになる。といっても筋肉の緊張が比較的に自分ではスイッチを入れやすいのだが、やっかいなことに筋肉の弛緩のスイッチを私たちはあまり知らない。だから怒りや悲しみで固まってしまった筋肉はいつまでもゆるめることができずに、私たちはいつまでもその重苦しい感情をひきずってしまうのである。さらには身体に障害をもたらすことになるかもしれない。
私たちはせいぜいストレッチの効用を手に入れるか、または緊張と弛緩のしくみを知って緊張の後に弛緩がくることを利用するしかないのかもしれない。意識的に感情と身体のこわばりをチェックするということも可能だろう。固まってきていると思ったら、意識的にゆるめればいいのである。
心理学が興隆して心に注目が集まることは多くなったが、身体の感情のこういう面はまだおざなりにされている気がする。心とは身体であることを忘れないでいただきたいと思う。感情のケアに心を配るだけではなくて、感情の元である筋肉や身体に心のケアに気を配る必要があると思うのである。
▼参考文献
ボディートーク入門―体が弾めば心も弾む
増田 明




ストレスパワー―プレッシャーが飛躍のバネになる 若桜木虔


デカルトの『情念論』は感情の器官での変化を考察していて、いささか古い記述があるが、おもしろい。
▼私の旧ホームページでの考察はこちらから。
筋肉から感情は解けるか
書評 身体を知る、筋肉を知るほか
芸術家と聖職者的禁欲
芸術は宗教に似ているといわれる。宗教や王権が去ったのち、芸術家がその衣鉢をついだといわれる。聖性や崇高なものは、こんにちの芸術家にもとめられる。
世間は芸術家に聖職者的禁欲をもとめる。聖職者のように禁欲的で修業僧的な態度から、偉大な芸術作品が生まれるとみなされている。聖職者が世俗から隔絶した修道院で禁欲的に修行したように、芸術家はそのような態度によって魂に触れた創作や神へといたる芸術が生み出されるといわれる。芸術はかつての宗教的特性をひきついでいるのである。
なぜ芸術は聖職者的な禁欲をもとめられるのだろうか。かれは神への悟りや宗教的世界への接近をめざしているのではない。あくまでも芸術作品を創作するのである。しかしその態度には芸術を至上とした、禁欲的で修業的な態度がもとめられるのである。魂に触れたり、偉大な創作をなすには、神へと至る道に通底した修業的態度が求められるのである。
禁欲や無私の態度がもとめられるのは芸術家や宗教者にかぎったものではない。政治家や支配階級、教師や医者にもそのような態度がもとめられる。かれらは禁欲的で自己犠牲的で、無私の奉仕的態度でないと、世間から叩かれ、尊敬や崇拝の念がえられないのである。利己的で、貪欲で、エゴまる出しの「聖職者」たちは、世間から徹底的に忌み嫌われるのである。まるで通常の人間ではない崇高な精神をもっていないと、かれらはそのような地位につくことを許されないのである。
欲望や利己主義を捨て去った禁欲的態度、自己犠牲的態度がもとめられるのが芸術というものであり、こんにちの政治家や医者や教師である。もしかれらが利己的・欲望的なふるまいを表出すれば、たちまちその座からひきずり降ろされる。社会の上層に位置するものたちは、宗教的態度をもとめられるのである。
宗教者は奇異なほどまでに自己犠牲、自己滅却の生活や修行をおこなうものである。世俗から隔絶し、家族をもたず、禁欲的に修行に明け暮れる。それはまるで生物の本能からいえば、自殺にひとしい行為とさえいえる。欲望や利己主義を断ち切ることが修行にもとめられるものである。それはわれわれが聖職者的な職業や上層階級にもとめる禁欲的・自己犠牲的態度で同じようなものである。宗教と上層階級は、その禁欲的・無私的態度により、われわれの尊敬や服従の地位を手に入れるのである。もし貪欲な利己主義的態度をかれらがもっているのが露見すれば、たちまちその座からひきずり降ろされる。禁欲的・修行的態度というのはそれらの特権を手に入れるための回路・約束ともいえるのだろうか。
芸術は欲望的なものであってはならない。大衆迎合的なものは芸術とは見なされない。売れるものは芸術ではない。マーケットの受けを狙ったものやマーケティングによる創作物は芸術的なものとは見なされない。芸術はあくまでも大衆から隔絶した、禁欲的で魂の内奥から生み出されたものでないとならない。それは欲望的・利己的・大衆的なものであってはならないのである。無私や自己滅却、禁欲のなかにそれはあるとされるのである。そしてその中から生み出されたものが好評を博し、芸術的といわれ、高額な値段でとりひきされたり、売れたりするのである。欲望的ではなく、非欲望的なものをへて、創作物は評価され、売れるのである。
芸術家にはそのような禁欲的・修業的態度がもとめられるのである。無私や自己犠牲、奉仕的な精神を得たところに崇高な芸術作品は生み出されるとされる。社会の支配階級にもそのような態度が求められ、自己犠牲的な態度で社会に貢献することがもとめられる。われわれから奪ったり、はきどったり、盗むような態度の上層階級はたちまち信頼を失ってしまうのである。そのような禁欲的態度はかつては聖職者や修行僧が宗教集団として示していたが、こんにちでは芸術家や教師、医者などにもとめられている。芸術のための自己犠牲・禁欲的態度が、上層階級にもとめられる態度と通底し、あるいはその態度としての「芸術商品」が市場で売られ、買われるのかもしれない。
宗教者は社会的自殺といえる行為をおこなう。世間から隔絶し、家族を拒否し、欲望と自我を滅却しようとする。そのことにより神へと至る道に近づき、社会の尊敬と上層的地位を得る。利己的で貪欲な上層階級は社会から拒絶される。自己犠牲的で、禁欲的な上層階級がもとめられるのである。宗教がそのような信認を失いだしたころ、芸術家が禁欲的、無私的な態度の後株を担うようなかたちになった。つまり禁欲的・自己犠牲的な精神が、芸術品として購入できるようになったのである。社会で尊敬される禁欲的態度も、われわれの時代においては「商品」として購入されるのである。
『近代美術の巨匠たち』 高階 秀爾
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私はとくべつに絵に興味があるわけでもないし、絵をよく知っているというわけではない。芸術家を、サラリーマンとの対比において捉えたいと思って芸術家の人生を探りたいと思っているだけである。
芸術家というのは、その人の人生や個性、人称といったものが称揚される職業である。それに対してサラリーマンや勤め人というのは、それらがほぼ認められない商品やサービスを売ったりする世界である。非人称的で、非個性的で、非人間的なものである。
売られるものは、たとえば床下の材料であったり、窓枠のサッシであったり、道のガードであったり、電柱柱であったり、電気製品のコードであったり、ネジであったりする。つまりまったく「私」の人間性は売られないし、評価もされない市場の世界で雇用を売らなければならないのである。このような市場の世界において、人間性が認められる芸術家の職業はいっしゅの「英雄」であろう。
私はこのような対比において、芸術家とはなにか、大半が非人称的な世界で生きなければならない企業社会で、私たちの生き方はどのようなものを目指せばいいのかを考えたいと思っている。だから芸術家の人生を探りたいと思っているのである。芸術家は私たちの失われた人格的評価の称賛を得られるゆいいつの「英雄」なのである。
とか思って芸術家の伝記列伝のような本を読もうと思ったら、げんざいでは芸術家の人生を語った手軽に手に入る本はそうそうない。どうやら芸術家の人生はあまり世人の興味を買っていないらしい。というか、美術に興味がある人や、芸術がどれほど一般の人に認知されているといえば、ほとんど少ないのではないだろうか。一般的な教養レベルの基準といえるTVだけ見るのなら、古典的な芸術というのはほぼ一般の人の興味の範疇にはないのだろう。
かわりにミュージシャンや俳優、お笑い芸人が、われわれの時代の芸術家――人称的な称号を与えられる存在であって、私たちはかれらの人格や個性や人称が認知される職業に憧れるのである。ゆいいつ人格が称揚される職業ということで、私たちはたいへん憧れるのだが、たいていの人は床下の材料や道路のガードとか、洗面器を売るような職業につかなかければならないのである。芸術家はそのようなわれわれの涙のポジではないかと思うのである。「私の人生が評価される」――私たちはそんな人生に憧れておきながら、おおくの人はそのような評価を浴びられずに日々を暮らさなければならないのである。芸術家はそのことに関してなにかを語りかけてくるのだろうか。
この本ではモネからはじまって、セザンヌ、ルノワール、モディリアニ、ゴーガン、ピカソ、ロートレックなどがとりあげられている。もちろん上記のような問いをもってこの本を読んでも、その応答を返してくれるわけではない。それぞれ個性ある、生まれや生い立ちまでも紹介されたかれらの人生に、サラリーマンの人生の欠落を埋める材料を見つけるのは容易ではない。売れない、評価されない不遇の人生に、似たような境遇が見つけられるかもしれない。答えは創作するしかないのである。
一般の人が知っている芸術家の人生といえば、ゴーガンやピカソやゴッホくらいになるのだろうか。ゴーガンは安定した職業を捨てて南の島に移り住み、ピカソは奇矯な芸術的天才、ゴッホは耳を切り捨てたエピソードなどを伝え聞いたりするだろう。私たちはそこに芸術家というふつうの一般人とはかけ離れた天才の存在、別格の人種というものを思い浮かべるのだろう。そしてそこに私たちの陽の当たらない人生との対比を見い出し、ふつう人の安楽と安心を感じるのかもしれない。
芸術家というのは人称を切り捨てられた企業社会の、人間であることを評価されるひとつの「英雄」である。私たちはその人たちの絵を買ったり、複製品を楽しむことにより、人格を承認されたメルクマールというものを手に入れるのだろう。それは私たちの大半が日々の生活、または生涯から得られないものなのである。芸術は私たちの人生のそのような側面の欠落を補うのである。
私のカルトな曲をユーチューブで
ここでの「カルト」な曲というのは、ふいに聴きたくなったり、頭にこびりついて離れない曲で、なおかつなかなか聴く機会にめぐまれない曲を指します。聴きたくなる度合いが「カルト的」という意味でつかっています。
さいきんはユーチューブで聴きたい曲を容易に見つけやすくなりましたから、ユーチューブで聴きたくても見つからない曲をカルト的に思うようになりました。かんたんに聴ける曲はカルトでなくなりますね。ユーチューブのおかげでカルト的な曲が少なくなりましたが、見つからないときはなおさらカルトになります。ふいに街中で流れてきて、なつかしさで泣きそうになった曲なんかもカルトにふくめます。定義があいまいで、むつかしいといえますが。
【2008/3/20】 UP日は左記の日付けですので時間がたつほど見れなくなっていますのでご了承のほどを。
Bob Seger American Storm
この疾走感ある曲を聴きたくてたまらなかったんです。
Julian Lennon - Valotte
父親のジョン・レノンのように多大な人気を得たわけではないですけど、静謐さで聴きたくなるジュリアン・レノンの曲ですね。 声がそっくりですね。
Paul Simon - Late In The Evening
ポール・サイモンの『追憶の夜』。このノリはたまらないですね。テンポについていけない詩がなおさらスピードを強調しますね。
Michael Jackson-Don't Stop 'Til You Get Enough
一億万枚を売った怪物アルバム『ザ・スリラー』の前哨であった曲ですね。『今夜はドンストップ』。
John Cougar Mellencamp Crumblin Down
カッコよさとノリがピカイチだったジョン・クーガーの『クランブリン・ダウン』。
Don Henley - Boys of Summer
このカッコよさにはしびれますね。元イーグルスのドン・ヘンリー『ボーイズ・オブ・サマー』。
Jason Donovan - Rhythm of the rain
『リズム・オブ・ザ・レイン』のリバイバルですが、くりかえし聴きたくなりますね。
The Hollies "Stop In The Name Of Love"
壮大な空間的なひろがりを感じさせる曲ですね。シュープリームズより味わいがあるかも。
Venus by Shocking Blue
バナナラマのリバイバルで知った曲ですが、原曲のショッキング・ブルーのほうがサイケで退廃的で耳から離れません。
The Foundations - Build Me Up Buttercup
このノリは人とのつながりを和やかなものにしますね。
Another one bites the dust Queen
シブすぎるクイーンの『地獄へ道づれ』。
you're only lonely - j. d. souther
J.D.サウザーのこの曲はひじょうに憂いをふくんだ曲ですね。
Bertie Higgins - Casablanca
バーティ・ヒギンズの『カサブランカ』も聴きたくなる曲です。
I am a rock Simon&Garfunkel
「岩は泣きもしない 痛みもない 僕は岩」 まるでひきこもりのような唄ですね。
チューリップ - 虹とスニーカーの頃
この曲を聴きたくなるのは、青春の悔恨を思い出させるからでしょうか。
You Are So Beautiful Joe Cocker
ジョー・コッカーのこの曲は心にぐっと残りますね。
Abba - Dancing Queen
ふいに街中で聴いたりしたら、なつかしさで泣けてきそうになりました。むかしの輝きを感じさせる曲だからでしょうね。
Christopher Cross- Arthurs Theme
なんていうか、人生のすばらしさ?みたいなものを感じさせる曲ですね。
GEORGIA ON MY MIND Michael Bolton and Kenny G.
だれしもが抱くふるさとへの想いを陶酔的に歌っていますね。
el condor pasa... Simon&Garfunkel
『コンドルは飛んで行く』の笛の音は哀愁を誘いますね。
Bionic Woman ORIGINAL Intro
70年代の『バイオニック・ジェミー』はなんか聴きたくなるんですね。
岸辺のアルバム オープニング Will You Dance?
あまり見ていたわけではないドラマですけど、耳にこびりついて離れない曲でした。
『異都憧憬 日本人のパリ』 今橋 映子
今橋 映子

ボヘミアンはどのようなものか、パリの芸術家たちはどのような交遊をもっていたのか等々を知りたいと思って読んだのだが、ちょっと私にはレベルの高い本過ぎたのか、500ページの大著をあまり楽しめなかった。この本は94年度サントリー学芸賞芸術・文学部門をとっていて、評価は高いのだろうけど、私的にはいまいちだった。サントリー学芸賞は選択眼が高くていい本が選ばれていると思うが、学術書の賞ってあまりないな。
「パリに新しく流入してきた工場労働者たちは、搾取され、しばしば解雇され、また不衛生なためコレラなどの病気にかかるような生活を強いられ、いわばパリの下層社会を形成していく。この存在が、一般市民にとっては薄気味悪く、よそ者であり、公安を乱す<危険な階級>となる。そして彼らはこの時代「ボヘミアン」と呼ばれて、社会から落伍者の烙印を押された。つまり彼らはまさに大都会の暗黒を放浪=浮浪するジプシーであったというわけである」
19世紀に入ってパリには工場労働者が膨大に流入してきて、貧困層をかたちづくった。明治・大正の日本の都市におこったことや、げんざいの中国におこっている「出稼ぎ民工」と同じ状態が1800年代のパリにもおこっていたのである。そのような中に芸術家の卵であるボヘミアンも生まれた。
「〜「みんながアーチストになりたがっている」時代について書いている。彼によれば「芸術」とは、「神が去り、王もまたいなくなった」時に、実に折良くあらわれた新しい宗教なのである。そして今の若い、自称「芸術家」たちは、才能などこれっぽっちも無く、ただ「時代からはずれて、別の考え別の風俗で生きたい」という考えにとりつかれている」
「芸術家の地位の急上昇」という伝記叙述の定型は、神々の血統を引く者が、卑賤な身分から出発して、逆境に屈せず勝利への道を歩むという英雄譚に比せられることは明らかである。……「神のごとき芸術家」であろう。……ボヘミアンたちが自分の内なる声、霊感に従って他をかえりみず、制作に没頭するという描写には、まさしく「神のごとき芸術家」という芸術家伝説が内在しているのである」
「社会から見棄てられて貧困のうちに暮らすことこそが天才の宿命なのだという考えが、現代でもわれわれの社会に生きつづけており」、これは「もともと中世の宗教的熱狂の中で、信仰上の英雄に対して社会が要求した禁欲的生活態度と関係があるように思われる」と推定している」
貧困の中に宗教的禁欲は生まれ、また芸術家伝説も生まれるのかもしれない。それは貧困層の貧困であることの慰めや正当化をあたえる言説でもあるのだろう。魂の浄化をめざしての貧困――崇高さが芸術の貧困に見い出され、そして貧困な庶民に自分たちの境遇の慰めを見い出したのだろう。
「己れに依頼し、己れのために、制作する者は美術家である。他人に支配され、他人のために、制作する者が、職人である。他人の嗜好に投ぜんとして作ったものの中にも、美術品は出来よう。しかし、自ら楽しまんがためにした、趣味ある人の制作は、ことごとく、美術品である」――岩村透
マーケットや金銭の否定は芸術の条件でもある。しかし逆説として金銭をもとめてやまず、名声をもとめるという矛盾も大きく存在するのが芸術というものである。それはビジネスの目先の損とをとって、長期的な得をとるという戦略なのだろうか。マーケットを否定して、アマチュアだけが芸術だといわれても、かれも金で生活を維持する必要があるわけで、芸術家は野たれ死ぬしかないのだろうか。
「荷風は、芸術家であることを望みながら、銀行員というブルジョア生活を強要されていた典型的な近代人であった。……父の世代との葛藤に悩み、近代のブルジョア社会の一員に組み込まれることを、精神的に拒否し続けた荷風にとって、パリに遊び、そのマージナルなライフ・スタイルに憧れることは、モラトリアムを生き、幸運にも一時的に日本社会から隔離されることであった」
作家や芸術家は企業社会やサラリーマン社会から抜け出れたわれわれの時代の英雄でもあり、そして荷風の時代でもそのような願望はすでにあったようである。定型的でしゃちほこばった経済-企業活動からの逃走、金銭主義からの脱却が、芸術の運動の存立条件であるとも思えなくもない。芸術は金とマーケットへの反逆であり、しかしそれが逆説的に金とマーケットをつくりだすのである。
「貧乏には大きな救いがあることを発見する――将来というものが消えてしまうのである」――ジョージ・オーウェル
オーウェルが『パリ・ロンドンどん底生活』のような貧困生活と過重労働の日々を送っていたとは知らなかった。
「ヨーロッパでは貧乏とは、不幸あるいは不運でしかない。ところがアメリカでは、道徳的欠陥を意味し、社会が許さない」
「パリの街には、哲学をもった乞食の精神があって、その臭気があの都会の台所のすみばかりでなく、サロンの天井まで滲みこんでいたが、ブルッセル(ヘルギー)では、この一部屋のきたない天井までも、清浄で、乞食の住むべき精神はない」――金子光晴
「アメリカでは、あらゆる人間が大統領の器であり、常に「成功」するようにとあおりたてられるが、パリでは、「あらゆる人間が潜在的にゼロ」なのである」
これらの文からパリにおおぜいの芸術家の卵があつまった理由がわかってくるというものである。パリには金銭的モノサシだけではない、存在を許すような雰囲気があったのだろう。こんにちでもヨーロッパは若者のモラトリアム期間にかなり寛容であるということを聞くし。
日本はどうだろう。かなりガチガチの新卒就職のエスカレーターがあっただけである。死にそうに窒息しそうなビジネス社会の子孫たちは、若者の棄民という状態をへてパリのような風穴を開けてゆくことになるのだろうか。人生や社会を企業とビジネスだけの社会にしてしまったツケは大きい。人生の意味や価値の尊厳や崇高さを破壊しつづけているように思えてならない。
by G-Tools
会社の私語と権勢ゲーム
会社の中には朝から晩まで沈黙して、ひと言もしゃべってはならないような雰囲気の会社もある。ぎゃくにみんなが談笑して、会話の輪に入らなければならない職場もある。
私語禁止の職場もあるし、なんとなくそういう雰囲気になっている職場もあるし、私語し放題で、ムカついている隣の人もいるし、話さなければ孤立を恐れて話しつづける人もいるし、部署ごとに対立が生み出される職場もある。
職場の苛立つ私語 発言小町
話さなくていい職場 発言小町
私語厳禁の職場の方いらっしゃいますか。 発言小町
集団や空間をどう捉えて、場所や関係をどう維持してゆくかというルールが拮抗しあっているのである。満員電車やエレベーターでは私語を慎むのが基本的なマナーである。そのような沈黙の場所でとなりの人を無視した大きな会話は迷惑である。なぜかというとそれは他者の無視であり、尊重の否定であり、じつはそれは「なわばり行動」の威嚇でもあるのである。だから公共の場所での沈黙が求められるのである。
私語・会話というのはプライベートなつながりを表示し、権力や権勢をあらわすことでもあり、グループや集団の「内と外」の区分を指し示し、「敵/味方」「われわれ/やつら」という敵対図式を生み出すことでもある。
学生時代は友達と仲良くすることが「仕事」や「業務」であったため、他者やまわりに影響をおよぼすことに無自覚であったことが多いだろう。「われわれ」の仲良くうまくやることが重要で、まわりの人たちの心や感じ方には無自覚、関係ないといった状態がふつうであったと思われる。隔絶された「自集団」を形成していたのである。教室のおしゃべり・私語は自分たちの「空間」の御し方であって、教室という空間の教師やほかのクラスメートは「空間外」のことであったので、かれらの配慮は問題外であったのである。
公共の場所や職場というのは、自集団だけではなくて、その空間や職場の処し方も考慮に入れなければならなくなる。空間全体の御し方も意識に入れなければならないのである。その空間はひとつの「全体」をなすようになる。全体を考慮に入れた配慮が必要になってくるのである。
会社というのは満員電車やエレベーターのような公共空間のふるまいを要求される場所でもある。同時にプライベートの学校や友だちの仲よし集団の形成される私的空間でもありうる。業務や機能主義に徹する冷徹さが求められる場所でもあるし、あるいは楽しさや談笑やつながりが望まれる場所でもある。人それぞれの認識や好み、期待は異なり、また職場の人間関係・集団に求められる規律やルールも違っていて、認識と対処の仕方は人によってかなり異なってくるのである。そこに拮抗やきしみが生まれる。
会社でみんなが仲良く楽しく連携しておこなわれる仕事が重要だと考える人や集団、またはそんなものは仕事の邪魔で、機能や業務が最優先され、私語は禁物だと見なす人や集団もあるだろう。それらのルールが明確でない職場の場合、それぞれの人が見なす職場の規律が拮抗しあってしまうのである。
職場で仲良く楽しくやりたいと思う人は、自集団の権力威嚇や内と外の対立に無自覚である。仲良くやりたいだけと主観的には思うのだろうが、職場においては他業務、他部署に属するものが必ずいて、かれらの「仲よしゴッコ」はまわりに「なわばり行動」や自集団の権力威嚇という恐れをまきちらしているのである。私語の多いもの、群れたがる人というのは、無意識にこの戦略を用いている。群れるという数の権勢ゲームで自分の地位や業務を安泰にしたがっているのである。
そしてその集団に属しない者に「仲間外れ」の恐れを抱かせて、地位を自分より下におこうとしているのである。私語の多い楽しい職場というのはこの「権勢ゲーム」が病のようにひそかに進行しているものである。かれはみんなとわいわい楽しくやりたいと思っているだけだろうが、権勢ゲームでの地位の安定と獲得を狙っているのである。
この権勢ゲームは集団の内と外の出入が厳しいのだろう。権勢チームのインとアウトこそが権力の源泉なら、かんたんにその力を手放さないだろう。派閥というのは会話で成立するもので、かれにとって私語の交流を欠かさないことはひじょうに重要な仕事になってくる。
仲のよい集団というのは、外側の人間にたいしてはひじょうに冷酷で、残酷なものである。新参者はかなり腰を低く下げて入っていかなければならない。また交流の関係も複雑で、会話の流れも隠語のように外部のものには入りにくく、よせつけない。だからこそその集団は権勢を保てるのである。そのような犠牲者を生み出せるから、その集団は強さを誇示もできるのである。
私はこのような「できあがった」集団の輪に入ってゆくのがかなり苦手であった。だから学生時代、会社での人間関係をうまくやっていけるだろうかと不安だった。就職が恐いというのはこのような規範を恐れてのことだったのだろう。集団での一体感を強制される職場を避けてきたように思う。集団のインとアウトの権勢ゲームにさいしょから尻込みしていたのだろう。といっても無自覚であったが、私なりの権勢ゲームの方法ももっていないわけではなかったのだろうが。
私はさいしょは人と談笑することを好むが、仕事の負担が増えてきたり、仕事の自覚が増してくると、黙ってすることを好むようになり、私語をムダと思うようなり、他人の私語にムカついてきて、対抗としてますます沈黙することになるから、人と対立したり、嫌われたりするパターンが多い気がする。無視を怒りのメッセージとして用いることが多いから、それとあいまって、無視されたり、嫌われていると思う人が出てきて、結果私は嫌われたり、対立を生み出したりするのである。仕事が増えてきたら私語が嫌いになり、結果つながりや交流を失ってきた私は力をもてないのである。私とのつながりによって権勢をもってきた人にはやはり嫌われるし。
無視は人の自尊心をかなり傷つけるようだし、嫌われているのではないかという恐れをもよわせる。しかし仕事において業務が忙しくなれば、暇な他人などにかまっておれなくなるから仕方がないものである。沈黙の職場というのはこのような恐れを潜在的にたえず味わわせるものである。沈黙の職場は寂しさも感じさせるものである。寂しさは他人の談笑や会話によってよけいに煽られるから、沈黙の職場はますます私語の禁止という規範をその空間に重石のようにのっけるのである。
沈黙の職場は私語の権勢ゲームのひとつの牽制策でもありうる。私語の多い職場では業務とはべつの権勢ゲームが発動して、会話や交流が仕事の大きな業務になり、仕事に集中できなくなる。孤立を恐れるイスとりゲームに多くの業務量がとられるのである。沈黙の職場はそのようなゲームの抑制策になりうるのだが、同時に寂しさや恐れも味わわせるものである。あまり人間らしいとはいえず、沈黙は負担であるし、このような空間の支配力に人は抵抗したくなるものであるが、空間の沈黙力にはねかえされるのがオチである。
職場というのは人間のパワーゲームの場所でもある。業務をめぐっての、または会話や交流をめぐっての静かな対立がくりひろげられる。そこでのなにが起こっているのか見極めることが大切である。もうすこし考察を深めたいと思うのだが、次回の機会にゆずろう。










