『妻はなぜ夫に満足しないのか』 安岡 博之
妻はなぜ夫に満足しないのか―中高年「仮面夫婦」のカルテ (角川oneテーマ21 B 102)
安岡 博之

妻の不満を類型化できれば、男女の過ちに前もって気づくことができるだろうということで読んだ。それぞれ個別の問題であったとしても、同じ男女間の問題が原因かもしれない。
女性は自身の変化について注目してくれることが愛情表現だと思っている。男はお金を稼いで生活を安定させることが愛情表現だと思っている。しかし男は収入の高さが自分の価値だと刷り込まれており、女性でも収入の低い夫には価値がないと思っている。女性はお金もあり、細やかな気配りをできる男を求めるのだが、世の男は稼ぐだけで精いっぱいであり、女性への気配りの余裕がなくなる。それですれ違うのである。あれもこれもムリだと思うのだが、女性にはこのふたつが満足しないとだめみたいである。
女性がもっとも欲しい時に、欲する言葉や行動を察して与えられる男性こそが、女性や妻が理想として、一緒にいたいと思う男性像なのである」
――ムリだって。男の価値である稼ぐことに邁進しようとすれば、長時間労働のうえ疲れ果てて家に帰ってきてへとへとになる。さらにそのうえに気遣いの配慮をおこなえというのはムリだろう。男にとって家庭はやすらぎの場であり、好き勝手にできる場所だと思い込んでいる。しかし妻にとっては家庭は「仕事の場」である。働いているそばでごろごろだらだらされていたら、腹が立つ。稼いでくることは当たり前すぎて、もはや男の働きではないのかもしれない。
子どもが生まれると妻は夫に強い不満をもつ。子供が5歳になるまで女性はほとんど離婚を考えるそうである。家事のうえにさらに育児が加わり、しかも夫は隣でぐうぐう寝ている。自分だけしんどい思いをして夫は手伝ってくれないとなるのだろう。夫は稼いでくることで役割を果たしていると思っているから、家事育児は女性にまかせっぱなしである。男の交換条件は、女性の交換条件とは合致しないのである。どうも家事育児のしんどさの交換も必要なようである。男にしてみれば稼ぐことが家事育児との交換条件だと思っているのだろうが、女性には通用しない。女性は家事育児も夫婦として分担交換してほしいと思っているのである。
そしてこの不満は子供が大きくなっても溜まりつづけ、夫を手のかかる長男と見なすようになり、家でぐうたらしていると怒声、罵声が飛んでくるようになるそうである。なおかつ収入を低いことをなじられたりしたら――それは家事育児の分担の不満のはけ口かもしれないが――男として立つ瀬がないだろう。
よく妻は「家庭と仕事どっちが大事?」と聞くそうだが、男にとってはこのふたつは次元が違い、比較にならない。男の価値である稼ぐことに一生懸命になれば、とうぜん家庭にそぞく余力をのこしえない。それでも夫たるもの仕事より家庭を第一に考えないと妻の満足を得られないのである。プライオリティーを家庭におきつつ、なおかつ収入も高ければならない。そんな完璧男がいるものかと思うが、収入の高い男は家事もてきぱきとこなすそうである。仕事のできる男は家事もできるそうである。収入の低い男はプライドのために家ではなにもしない。そして妻の反感を買い、悪循環である。
妻の不満にはどうも家庭という仕事の交換条件にあるような気がしてくる。男は低収入では男の価値がないと刷り込まれ、妻にもなじられるから、稼ぐことで家事育児の交換条件と見なすようになるだろう。しかし妻にとっては家事育児も交換の対象なのである。子供が生まれると女性はそのほかになにもできなくなるほど忙しくなる。この忙しさを分担することが女性の交換条件だと思っているのだろう。しかし夫にしてみれば、その交換条件は稼ぐことである。家ではお役ごめんでぐうたらしたいと思う。それで妻の憎悪と怨恨を買うみたいである。
要はおたがいのしんどさや辛さを思いやって分担することが必要なのだろう。どちらが一方しんどい思いが積み重なると、ブチ切れる。そういうときの怒りというのは職場の分業でもそうだが、人の基本的な怒りの発端となるものである。男は分業を果たしていると思い込んでいるのだが、女性は疲れている目の前でぐうたらしている夫が信じられないのだろう。このすれ違いに気をつけなければならないようである。
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『フラット化する世界(上下)』 トーマス・フリードマン
フラット化する世界 [増補改訂版] (上下)
トーマス・フリードマン
![フラット化する世界 [増補改訂版] (下)](http://ecx.images-amazon.com/images/I/21oZ6aX8wzL.jpg)
2006年5月に書店に平積みになっていた本書はずいぶん魅力的に見えたものである。全米で205万部突破、25カ国で出版予定。アルヴィン・トフラーの『富の未来』もいっしょに平積みになっていて、このトーマス・フリードマンの本はトフラーの本を模したものではないかという思いがする。
トフラーは70年に『未来の衝撃』、80年に『第三の波』、90年に『パワーシフト』というこんにちのネット社会や情報化社会とよばれる社会の到来を予測していた。私もこれらの本を90年代に読んでえらく感動したものだが、とくに『第三の波』が工業社会の規範をうきぼりにして感銘したが、トフラーの本はとうじ中国では発禁処分を受けていたのである。高度成長をつづける現在の中国とは隔世の感である。
『フラット化する世界』ではインドや中国とフラットな社会で競争しなければならない今日を、さまざまな人や場所に出会うことにより描き出した本であるが、サブタイトルにあるように「経済の大転換」という捉え方には私はかなり否定的である。
グロバリーゼーションとかよばれるものはずっと昔からおこってきたことであるし、新興国の移転というものはいくどもくり返されてきたことだ。べつに大きな変化ではないし、衝撃的な出来事でもない。インドや大連などのホワイトカラーやソフトウェア業務のアウトソーシング、業務ソフトウェアによるサービス移転は目新しい驚きであるが、私はトフラーの未来予測のような大きな変化を感じる本ではなかった。不満と不足を感じつづけながら、大部の著を読みつづけなければならなかった。
もちろんそのようなフラット化する産業のあり方には興味をもって読めたし、このようなフラットな世界ではどのような教育が必要なのか、雇用される能力はどうやって磨けばいいのか、成長と停滞する国の違いは何かといった項目は楽しめて読めたが、全体に感じる否定の目はずっとくすぶりつづけた。
変化を大げさに煽りすぎている。インドや中国の勃興はかつての時代には考えられなかったことだが、世界の企業や経済というのはいつの時代も強烈なライバルとどこでも競争しなければならかったのではないのか。これらの変化は予定調和の範疇におさまるものではないのか。大転換には思えないのである。
たしかにネットやインド、中国の勃興、社会主義陣営の消滅による世界の市場化は大きな変化であるし、歴史の流れを変える転換であるのはたしかだろうが、世界経済というのものはいつの世もそうであったと思うのである。その点で不足感をいなめない本であった。変化を感じさせる本であるからこそ、その幻滅は大きいのである。
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愛の洋楽デュエット・ソングをYouTubeで
十代には音楽のない生活なんて考えられませんでしたが、40になったいまは無音の環境がほっとします。仕事で疲れて静寂が必要なのと時間がないということがあると思います。だから仕事ばかりの人生はいやなんだ。
ただ悲しいときや空しいときには、音楽は心を癒して、あたためてくれることを心の底からじわっと実感するときがあります。そんなときには心をクールダウンしてくれたり、愛や希望を与えてくれるラブ・ソングは心の補給源になります。心を立ち上がらせてくれるデュエットの名曲をどうぞ。
この特集は2008/1/26にUPされましたので、時間がたつごとにYouTubeで見れなくなる動画が増えますので、ご了承のほどを。
Linda Ronstadt & James Ingram-Some Where Out There
デュエット曲でいちばん好きだといえば、このディズニーの『アメリカ物語』の主題歌かもしれませんね。
Aaron Neville And Linda Rondstadt- Don't Know Much
アーロン・ネヴィルの歌唱力がすごいですね。
Aaron Neville and Linda Ronstad - All My Life
リンダロンシュタットとアーロン・ネヴィルの名曲をもう一曲。
UP WHERE WE BELONG : JOE COCKER AND JENNIFER WARNES
ジョーコッカーとジェニファーウォーンズの『愛と青春の旅立ち』はデュエットソングの不朽の名曲ですね。
Diana Ross Lionel Richie Endless Love
映画『エンドレスラブ』の主題歌もデュエットソングの不朽の名作。
Atlantic Starr - Always
イントロには心がなごみますね。
Diana Ross & Marvin Gaye - You Are Everything (1973)
サビの部分が陶酔的ですね。
You and I...Eddie Rabbitt and Crystal Gayle
困難な状況でも立ち上がろうという気持ちになれる曲ですね。かなりいい曲。
Olivia Newton-John - David Foster Best Of Me 1986
オリビア・ニュートン・ジョンの声がとてもなつかしいですね。
You Are The Love Of My Life - George Benson & Roberta Flack
新たに立ち上がろうという気持ちになれる曲ですね。
Kenny Rogers & Sheena Easton - We've Got Tonight
シーナ・イーストンはどうも直線的。。
Phil Collins & Marilyin Martin - Separate Lives
デュエットは愛や希望の曲が多いですが、この曲はシリアスですね。
Patti LaBelle Michael Mcdonald- On My Own
パティラベルとマイケルマクドナルド。
The Music of Goodbye - Melissa Manchester & Al Jarreau
映画『Out of africa』のラブテーマです。
Beauty And The Beast Peabo Bryson and Celine Dion
ディズニーはデュエットソングを多用していますね。
Never Gonna Let You Go / Sergio Mendes
曲のよさがどんどん高まってゆく曲ですね。feat.ジョー・ピズーロ&リザ・ミラー
Kylie Minogue & Jason Donovan - Especially For You
カイリー・ミノーグとジェイソン・ドノバンのすれ違いと出会いのビデオがいいですね。ジェイソン・ドノバンはRhythm of the rainのリバイバルがいいですね。
Peabo Bryson & Roberta Flack - Tonight I Celebrate My Love
きわめて爽やかな曲ですね。
Lovers MV: Hold Me - Whitney Houston & Teddy Pendergrass
ホイットニー・ヒューストンのデュエットソングですね。
When I Fall In Love Celine Dion & Clive Griffin
トムハンクスとメグライアンの『めぐり逢えたら』の愛のテーマですね。
Almost Paradise - Mike Reno & Anne Wilson
映画『フットルース』からのバラードヒットでしたね。
All I Know Of Love - Barbra Streisand & Josh Groban
バーブラ・ストライサンドもディズニーのデュエットを歌っているのですね。
Cliff Richard & Olivia Newton-John - SUDDENLY
オリビア・ニュートン・ジョンの歌い方の特徴がよく出ている曲だと思います。
Whole New World (Aladdin's Theme) Peabo Bryson & Regina Belle
これもディズニーのデュエットですね。
Barbra Streisand & Ray Charles - "Crying Time"
大物レイチャールズとバーブラ・ストライサンドのデュエットですね。
Diana Ross & Julio Iglesias - All Of You
世界のモテ男フレオ・イグレシアスがドナ・サマーを誘惑しています。
PAUL & PAULA - HEY PAULA
オールディーズの「ヘイヘイポーラ」。
▼参考にしたもの&デュエットアルバム
洋楽デュエット曲セレクション




2008年1月の気になる新刊情報
2008年1月刊の新刊情報です。おもに私の読みたい本、関心のある本をピックアップしています。私は自分の関心を優先するために新刊書を読む時間をつくりだすことがなかなかできませんが、書店の新刊本をながめるのも刺激的で好きなので、書店に行く手間を省くために新刊情報をUPしたいと考えております。



『不安な経済/漂流する個人』のリチャード・セネットは『公共性の喪失』を書いた人ですね。『貧乏するにも程がある』は芸術とお金の関係をとらえていて、ぜひ読みたいす。 『哲学者ディオゲネス』は元祖ホームレスの哲学者ですね。



『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた』は暗黒の江戸史観に迫っているのでしょうね。『 仕事と日本人』は労働観の再考をうながしてくれるでしょうか。『女になりたがる男たち』はまあ平和な時代なんでしょう。



『ドゥルーズ/ガタリの現在』は状況を聞きたいですね。『リキッド・ライフ』は思想家バウマンの著作ですね。『崩壊する中国 逃げ遅れる日本』高度成長の中国は崩壊してしまうのでしょうか。



『「モテ」の構造』モテが主題になるというのはかつてなかったような。『セクシュアル・ハラスメント』サブ・タイトルに権力とつくのがそそられますね。『少女たちの性はなぜ空虚になったか』 決めつけた前提が疑問ですが、性愛市場のかたちが変わったのかもしれませんね。



『司馬遼太郎と網野善彦』の組み合わせからなにが見えてくるのでしょうね。



『海洋国家日本の構想』の高坂正堯が中公クラッシックスに入るとは高い評価ですね。



『ほんとはこわい「やさしさ社会」』の森真一は『自己コントロールの檻』という名著を出しております。『遺伝子が解く! アタマはスローな方がいい!?』は生物学から性愛をさぐる竹内久美子の著作ですね。



『数学でつまずくのはなぜか』はい、私も早々と散りました。理由を教えてくれ〜。 『フランスの学歴インフレと格差社会』は日本に示唆を与えてくれるでしょう。『人生を〈半分〉降りる』中島義道は新潮OH!文庫からちくま文庫入りですね。



『「痴呆老人」は何を見ているか』いいすね、主観世界をのぞいてみたいですね。 『子どもと語る「菜根譚」』 人生を達観するために『菜根譚』は読むぺし。『国名から世界の歴史がわかる本』はKAWADE夢文庫です。



よくいわれる『日本人は戦略・情報に疎いのか』。『江戸はネットワーク 』は田中優子の著作ですね。






『自由論』のJ.S.ミルですが、家庭教師で育ったようですね。






『構造以来の道』は科学革命の構造、パラダイム概念の提唱者トーマス・クーンの哲学論集です。


『大気の海』のような地球の謎を解く著作もたまに読みたいですね。
ルポ貧困大国アメリカ (岩波新書 新赤版 1112)
これは日本の行く末として注目ですね。ジャガイモの世界史―歴史を動かした「貧者のパン」 (中公新書 1930)

リバタリアニズムと最小福祉国家―制度的ミニマリズムをめざして

「ケータイ・ネット時代」の子育て論―時代の波に流されない力

新保守主義の作用―中曽根・ブレア・ブッシュと政治の変容

温暖化対策と経済成長の制度設計

世界を語るということ―「言葉と物」の系譜学 (双書哲学塾)

フリーペーパーの衝撃 (集英社新書 424B) (集英社新書 424B)

▼参考サイト いつもお世話になっております。人文書
「謝罪」国家の真の謝罪させたい相手はだれなのか
きょうもどこかで頭を下げる企業トップニュースをみるとどこかの会社のエライさんが頭を下げた写真ばかりがならぶ。きょうのニュースをみると再生紙偽装問題とNHK株不正問題でトップが頭を下げていた。
最近の日本は謝罪ばかりである。建築偽装問題に食品偽装問題。トップが頭を下げる。そしておかしなことにこの偽装問題は数年前、あるいは何十年も前からつづけられていたものだと思われることだ。きのうきょうに始まった問題ではないのだ。なんで数十年も前から平然とおこなわれていたことがマスコミの表舞台に引っぱり出されて、わさわざ糾弾されなければならないのだろう。
日本人はトップの謝罪になにを求めているのだろうかと思う。あるいはマスコミが新たな「商品」発掘に目覚めただけなのだろうか。企業トップに謝罪させれば購買部数と社会の関心が集まると発見されて、埃に埋まっていたような不正問題が掘り起こされるのである。日本が貧しく、必死だったころにはもっと偽装問題が日常茶飯事だったと思われるのに、どうしてここにきて不正問題がこんなに世をにぎわすのか。
期せずしてボクシングの亀田親子が反則問題で日本中から謝罪会見を求められた。ここまでくれば、もう「謝罪狂国家」である。誤ればすべての問題が解決するといった観がする。問題の根底は謝罪によって解消する問題なのだろうか。謝罪はその問題がおこった原因や社会背景の追究を無化してしまわないか。
相撲界の朝青龍が休場中に故郷モンゴルでサッカーをしたということで謝罪が求められたのだが、謝罪をしない朝青龍はぎゃくに「ヒール(悪役)」として相撲会場を満員御礼にもりたてた効用がおこったのである。朝青龍が土俵の土をつけば、座布団が舞い踊り、観客は胸の溜飲を下げる。世の中は「悪役」を求めているのである。世の中は憎らしい相手が負けること、謝ることを渇望しているのである。そこですっきりしたいと願っている。
かつて日本がアメリカに負けた後、プロレスブームがおこった。日本の力道山が外国の「悪玉」アメリカン・レスラーをやっつけることに狂喜乱舞するというブームが日本を覆ったのである。これはもちろん敗戦国日本のアメリカに対する憂さ晴らしの効用が求められたのだろう。
こんにちの「悪玉」は企業トップである。世の中を不景気にし、私たちの賃金を下げ、息子たちを非正規・不安定雇用の職につかせ、年金も健康保険も破綻寸前である。だれが悪いのかということである。そしてその責任は偽装問題という些細なことがらをきっかけに、企業トップの謝罪連鎖へと導かれたのである。私たちは企業トップが謝るという「物語り」にこれまでの怨恨の解消を求めているのである。事柄の大小は重要ではない。「謝らせる」ことが私たちいまの日本人にとっては重要なのだろう。
戦後の日本人はこれらの企業トップによって導かれてきた。企業のために必死に働き、貢献すれば、われわれの生活は豊かになり、所得は倍増し、「坂の上の雲」に到達できると信じてこれまでがむしゃらに働いてきたのである。しかしここにきて、約束はおろか将来の安定も老後の年金も保障されないではないか。いったいだれが責任をとるのか。「謝れ! 謝れ!」というわけである。
2006年のひとり当たり国内総生産は18位に転落した。経済は「一流」ではないといわれる。(名目GDPはまだアメリカに次ぐ2位だけどね。平成18年度国民経済計算確報)。このように堕ちてしまった日本人の威信に対して謝れというわけである。
おそらく日本は1998あたりの大手銀行・証券会社の倒産により、「第二の敗戦」をむかえたのだろう。そのような「レッド・パージ(赤狩り)」のような気運が、企業トップへの謝罪要求へと向かうのだろう。政治家は短命首相がつぎつぎに入れ替わったときにその要求はつきつけられ、こんどはその下の企業トップにまで降りてきたのだろう。私たちは些細な偽装問題に謝罪をつきつけているのではなく、戦後日本を導いてきた企業全体にこんにちの決算の謝罪を求めているのだろう。表面的な問題にだまされていけない。
だけど謝罪には私たちの胸のつかえを下ろす役割はあるだろうが、われわれの真の目的はそうではないのだろう。謝罪要求が政治家や企業トップにきたあと、謝るのは自分自身についてである。私たちが信じた世の中が終わろうとしている。そのような夢を信じた自分たちを葬りたいと思っているのである。私たちはこれまでの企業中心の世の中、または企業や消費が導く希望の社会像の終焉、といったものの総決算をつけたがっているのだと思う。あるいは社会保障や生活保障といったものの福祉国家の夢がご破算に陥ったケジメをつけたがっているのだろう。
企業トップの謝罪とはわれわれ自身の過去の夢との決別の決意でもあるのかもしれない。<悲哀の仕事>をおこない、過去との決別をおこなおうとしているのだろう。私たちは泣きながら、喪に服しているのだろう。そのような<泣いている>私たちに私たちを導いた企業に謝れと言い放っているのが、こんにちの企業トップの連続した謝罪会見にあらわれているのだと思う。。
その喪に服した期間を過ぎれば、私たちは<新しい社会>や<次の生き方>に向けて、心の準備を新たに立ち上げることができるのだろうか。泣きはらした目の向こうには、「坂の上の雲」は光り輝いて見えるのだろうか。
日雇い派遣哀史、国会にとりあげられる
去年の11月5日に参院でとりあげられた日雇い労働派遣の質疑応答がユーチューブでアップされていた。日雇い派遣がどんな状況になっているのか生々しく語っていたので、実情をお聞きください。
グッドウィル:事業停止命令 働き口…募る不安 なぜ法律守らぬ 派遣、怒りの声 毎日.jp
グッドウィル 事業停止 検索結果
今月、日雇い派遣大手のグッドウィルが2-4ヶ月の事業停止命令を厚生労働省からうけた。二重派遣や港湾労働派遣などの違法派遣をくりかえしていたからだが、10年や20年も無法状態のまま放置されていた事柄にいまどうして英断が下されたのかという疑問がわく。
どちらかというと日本の労働状況というのは法律無視の無法状態がまかりとおっているものである。労働現場で働いていてだれからも守られていないという実感はしみじみと感じられるものである。その最悪の形態が日雇い派遣だった。
グッドウィルが事業停止命令をうけたのは、港湾労働に日雇い労働を派遣したからではないかと思う。かつて日雇い港湾労働は神戸から山口組などのヤクザを生み出した母胎である( 『近代ヤクザ肯定論』書評)。グッドウィルや去年に業務停止をうけたフルキャストは全国にそのような暴力団要素をもつ組織になりかかったという危惧をもったのだろうか。
日雇い労働は働き方としては毎日を長時間拘束される正規雇用よりかなり自由度の高い働き方である。企業側にしても仕事量や需要に応じて、労働者を調整したいという要請も根強いものがある。かつては西成や山谷の地域に日雇い労働は限定されていたわけだが、派遣法解禁と情報誌やケータイ・ネットのおかげで、その日雇い派遣が全国と若者にひろまった。悲惨さは全国に拡散したのである。
ただ安定雇用を継続しない限り生活の安定レベルに達しないのが現実というものであるし、日雇い労働は仕事がなかったり、派遣先がみつからないと、すぐに生活困窮レベルに陥ってしまう。日雇い労働は自由であるが、生存そのものが脅かされる労働形態であるし、「人間扱い」されない気分を味わされるものである。
企業側としてはフレキシブルな労働力はほしい。労働者も平日に休みがとれるような自由な労働条件も魅力的である。しかし生存のレベルを脅かすような労働形態は存続すべきではないのだろう。日雇い労働は全面的に禁止すべきなのだろう。ただ禁止するものはかならず需要が多くあるものだから、不法や闇マーケットをつくりだすものである。禁止は新たな問題をつくりだすだけである。
企業や労働者私たち自身の自覚が必要なのだろう。安易に日雇い労働や短期労働に頼るということが、その人たちの生活をどのように破壊するかということをよく理解したうえで、短期労働に頼る覚悟と自覚が必要であるということである。西成や山谷のような町を全国のあちこち、身のまわりに生み出してしまうのは、私たち自身の自覚そのものによるのだろう。
『問屋と商社が復活する日』 松岡 真宏
問屋と商社が復活する日
松岡 真宏

問屋や商社なんか不要だというメディアと世間の常識をまるごと否定した本で、私はけっこうおもしろかったし、目からうろこの部分も多かったのだが、amazonの書評では「トンデモ本」とか「買って後悔した」などの酷評がめだつ。それだけ堅く「中抜き論」は信仰されているということか。
戦後ずっと中間流通業者を排除し、製造業と小売業を直結すれば、物価が安くなると信じられてきたし、世間の常識でもある。この常識は1962年の林周二『流通革命』から生まれたらしい。欧米にはない問屋や商社を排して中間マージンをカットすれば、遅れた欧米に追いつくと唱えられた。ダイエーの中内功やディスカウントストアはそのような考えをずっと実践してきたわけだ。
この本はメディアのウソ、世間の常識を暴いた本である。だから楽しい。メディアや世間で信じられている常識を吹き飛ばすときほど快感のときはないし、目からうろこの瞬間もない。これこそ読書の醍醐味というものだし、世間の常識や自明性は疑ってかかるべきだという教訓も得られる。世の中の「絶対」は信じないほうがいい。いったら「空気」に流されるなということである。
メディアというのはいつも欧米と比べて日本は劣等だ、遅れていると喧伝したきたものである。生産性が低い、人件費が高い、物価が高い、と日本を批判してきた。欧米というロール・モデルが絶対であるというパラダイムをバカのひとつ憶えのように戦後日本はずっと信仰してきた。たぶんいまの日本人にもこのパラダイムが深く染み込んでいるのだろう。この本はそのような常識、メディアの喧伝をひっくり返す本である。
アメリカと比べると日本の人件費は高いとされるが、家賃やエネルギー、上下水道のコストと比べるとかなり安い。したがって利益率をあげるには設備費をおさえて人を使ったほうが安上がりなのである。アメリカの大手チェーンにならえという論調はあたりまえのように信仰されているが、独占や寡占がすすむと物価が高くなるのはそのシェア独占の相関図からもわかる。発達した問屋システムが中小・零細小売の存在を助けることによって価格競争はすすむのである。
日本の物価が上昇しつづけたのは人口が増加傾向にあったからである。人口が減少すれば物価は落ちる。日本経済の停滞は金融の引き締めによるマネーサプライの縮小のためである。欧米と比べて物価が高いといわれるが、物価が落ちると内外価格差は拡大し、上れば縮小している。つまりは円安にならないかぎり内外価格差は解消しないのである。価格差というのは円ドルレートのマジックのようなものである。
これらは流通革命が必要な前提をことこどく否定したものである。欧米に比べて日本は遅れている、劣っているというステレオタイプで流通をみていると、経済の事実なんかひとつもつかみきれないということである。そのうえで多品種少量生産を助けたり、小売の競争を促進したり、在庫リスクを負担したり、あるいは物流のコストもかねる問屋の存在を正しく認識すべきであるということである。
私もいぜん拙い頭で問屋はなぜ必要なのかと考えたことがあるが、これは空間の「編集」の役割を果たしているのではないかと考えみたことがある。製造業と小売は全国あちこちにちらばっている。どこに製造業があり、どこにいけば目当ての品を買えるかと探すのはたいへんである。問屋はその「編集」の役割を果たしているのではないかと。零細の小売がこんなことをするのは不可能である。空間と情報の編集は問屋が担うしかない。
私がこの本を読んだのは人材の多重派遣や業務の多重請負などの中間マージンの発生理由を探るためである。あえて問屋有用論を読んだのは、その存在理由がわかるだろうと思ったからだ。なぜ中間業者は必要なのか。IT革命が喧伝されたとき、中間業者は不必要になるとよく囃し立てられたものである。世の中変わったという話はあまり聞かない。仕事とカネはあいかわらず人と業者のあいだを転がされつづけているようである。う〜ん、よくわからないというしかありませんな。
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音楽と「私らしさ」と階層性
無数の「私」が売られている。私たちの若者のときにはたいがい音楽を聴く。ヒットチャートを毎週欠かさずチェックして、気に入ったミュージシャンのCDを買い、あるいはダウンロードし、コンサートに行き、ipodやカーステレオで街中でも音楽を欠かさずに聴く。「ミュージック・イズ・マイライフ」、あるいは「ミュージック・イズ・マイセルフ」といった状況がこんにちにはある。
私たちはなぜこんなに音楽が好きなのだろう。音楽はなぜ私たちをとりこにするのだろうか。私たちは音楽によってなにを表そうとしているのだろうか。
好きな音楽というのは私自身を明確に表すサインになる。好みの音楽の種類は、私をほかの人たちと異なる存在としての自分を際立たせる道具になる。「私」とは好きな音楽によって表せる「記号」なのである。
音楽にはさまざまなジャンルがある。いまではJ-POPが若者のあいだでかなり聴かれるわけだが、そのなかでも数多くのミュージシャンやバンド、嗜好性・音楽性の異なったグループや音楽がある。その無数にある音楽の中から自分の好みの音楽をチョイスするということは、自分の志向性や内面をほかから際立たせる役目をはたす。私の好きで選んだ音楽は「私自身」であるということなのである。
私はあるロックのミュージシャンが好きだとする。私の特徴はほかの無数にある音楽のなかから選ばれた好きな音楽で表される。私はアイドルの唄でもなく、クラシックでもなく、演歌でもない、その唄が好きだということを表す。好きな音楽というのは私のアイデンティティなのである。
私は「何者」であるかをこんにちの若者は音楽の嗜好であらわすことが多くなったのである。友達同士では好きな音楽が合えばもっと親密になれるし、恋人にはなおさら自分の好きな音楽を聴いてもらい好きになったもらいたいと思うだろうし、そしてほかの人との間においては好みの音楽を聴くことにより彼の嗜好や特徴、立ち位置を知ることになるのである。
音楽はいっしゅの名刺や名札のようになったのである。若者のなかで流通するアイデンティティ・カードとなったのである。
かつてのアイデンティティには職業や学歴、階層といったものがあった。職業が階層を表し、学歴が序列を表した。資産も人々の序列をあらわした。こんにちの若者のあいだにおいてそのような職業や学歴といったものより、音楽や趣味で階層性といったものを表すことが多くなったと思われるのである。
ある意味、消費社会が全面に躍り出た社会において、職業や学歴は私の階層性や序列性をあらわす強いメルクマール(目印・判断基準)となりえなくなったのではないかと思う。それは経済社会においては隠然と厳然とあるものであるが、それらと無関係に存在することの多い無職学生において、音楽は強力なアイデンティティ・カードとなるのである。音楽という文化技術において、私の階層性・優劣性は表されるのである。
かつては車に階層性をこめる気持ちが強かったものである。BMWやベンツなどの高級輸入車から、カローラ、軽自動車といった序列や階層性があったものである。車の希少性や都市の交通発達により階層性表示としての車の役割はかなり薄れた。若者はそういう耐久消費財より、文化やソフトでより自己の階層性やアイデンティティをあらわすことが多くなったのである。文化というアイデンティティでないと自分を表せなくなった、際立たせなくなったといったほうが近いだろう。
ファッションでも階層性や文化階層はあらわされる。東京ブランドやイタリア・ファッション、パリ・モードを装うことによってそれは表されたし、こんにちでも若者のアイデンティティをあらわす商業的メルクマールとなっているだろう。女性は社会において容姿が重要なメルクマールであるから、ファッションに階層性や文化性をあらわす流れはこんにちでも大きなものである。それはおもにファッション雑誌においてカテゴライズされ、先導されることが多いようであるが。
そのより内面に近いものをあらわすメルクマールが音楽なのである。音楽は私の内面、思い、気持ち、思想、メッセージをいちばん多く表すメディアとなった。かつては書物の階層性・文化基準があったのかもしれないが、こんにちでは好きな書物が「私」であるという物語には大衆の一般性や有用性がなくなったようである。好きな小説が「私」であるという物語はあまり一般的ではないし、好きな映画やドラマが「私」であるとあらわすことはより有用であるが、音楽のほうがよりそのメッセージをあらわしやすいようである。アクセスの障壁や文化能力がより少ないからだろう。だれでも気軽にその階層性を判断できる。
音楽という文化能力において、「私」の階層性や序列はあらわされるのである。ロックやポップス、ニューミュージック、ヒップホップ、パンク、ヘヴィメタ、クラシックやフュージョン、演歌などによって、無数の私は選ばれ、表示されるのである。私のより内面に近い、感情や思いに近い音楽が私の心の「代弁者」となるのである。そしてそれは他者が彼を判断する際の基準となるのである。
過去を切りとり、むかしの流行歌や演歌をダサい、存在しないものとして切り離して「若者のアイディティティ」は保たれ、ひたすら新製品のヒットチャートを追うことが、若者の作法であり、逸脱しないための最低のルールとなるのである。
私は数多くある「私」のなかから、自分にいちばん近い気持ちや思いを歌ったミュージシャンの音楽を買うことによって、私のアイデンティティや外側への表示を定めるのである。それは私の「自尊心」であり、「プライド」であり、「自我」である。
ミュージシャンは私の「価値」や「社会的地位」も決める。もしそのミュージシャンから人気がなくなったり、世間の評判が悪くなると、私の価値も自尊心も地に堕ちる。ミュージシャンの世間での人気は私の価値のバロメーターでもあるのである。かくしてヒットチャートは「無数の私」の価値や自尊心の競争場となるのである。
私たちはこの商業社会において、私自身の「価値」や「自尊心」、「社会的地位」をミュージシャンに託すことによって、「買う」ことになるのである。私の自尊心やプライドは街中のCDシッョプで売られている。私の価値や自尊心を上げるために、人気があったりチャートにのぼったミュージシャンの曲は買われるのである。「私」は街中で売られ、買われる商品なのである。今日も無数の買われる「私」は街中のショップに並んでいるのである。
▼参考文献




『中国が世界をメチャクチャにする』 ジェームズ・キング
中国が世界をメチャクチャにする
ジェームズ・キング

日本人の賃金の十分の一ともいわれる中国人の低賃金は日本人の賃金を下げる圧力を生み出しているのではないか、中国の低価格商品の輸出攻勢はわれわれの雇用や産業を壊滅してしまうのではないか、そういう懸念からこの本を読んだ。
身のまわりに中国製品がこんなに低価格であふれ出したら、われわれの賃金に影響しないわけがない。中国人がこんな低コストでつくれるのなら、われわれの賃金価値もそこまで急落してもおかしくないではないか。中国の「世界の工場」化はわれわれと無縁ではありえないのである。
たとえばこの本ではそれが現実におこったイタリアのフィレンチェの近く、ヨーロッパの織物業の中心地プラートを取材している。80年代半ばに安い賃金で勤勉にはたらく中国人はじょじょにやってきた。はじめは床の掃除や織物の裁断、ラベルの縫いつけに雇われた。その中国人のほとんどは温州出身だったが、そこは中国でももっとも企業家精神の高い土地だった。
何年か工員として働いたあと、温州の出稼ぎ労働者は独立していった。2003年には1753社と急増している。ぼろを着た出稼ぎ労働者は工場を辞めた翌週に元ボスの競争相手となったのである。そしてついにはイタリア人の元ボスたちを廃業に追いこみ出したのである。このプラートの苦難はヨーロッパの職人に共通したものとなった。
このような貿易摩擦は明日には電子機器やオードハイ、鉄鋼、自動車とつづくことだろう。ある工場の経営陣は中国との国際競争に勝てないと悟り、フランスの工場を閉鎖することにした。イタリアの工場より賃金が57%高く、労働時間が19%短かったからだ。上海での賃金は2600ユーロ。フランスでは1万7000ユーロだったのである。閉鎖された工場のフランス人は上海での再雇用をのぞむか。
これらの事例から暴かれたことは、ヨーロッパがあまりにも少ない生産に対して何倍もの気前のいい給料を与えられているということだ。しかし政治家にリストラや賃金の低下を勧告することはできない。生産や雇用はそして中国や低賃金国へとどんどんうつってゆくのである。
1997年にアジアは通貨危機に襲われて、中国は国有企業から2500万人の労働者をレイオフすることができた。「鉄の飯碗」とよばれた社会保障もあっさり反古にされた。1200万人の出稼ぎ労働者はいっさい社会福祉はうけていない。現代の中国はヨーロッパのどの国よりも社会主義から遠いところにある。ヨーロッパは中国のこのような挑戦をうけて立たなければならないわけだが、マルクスは中国から先祖伝来の地に戻りつつあるようである。
アメリカ中西部ロックフォードでもそれはおこり、「信じがたいほど低価格の中国の部品」が市場にやってきて、何十ものの中小企業を一掃した。もはやロックフォードには時給16ドルを稼ぐ熟練工の仕事はない。元工員のいきつく先は安売り店のカウンターだ。時給7ドルで年金もなしに働くのである。これが雇用といえるのだろうか。
多国籍企業は低コスト国へ業務をアウトソーシングする。そして地場産業を廃業に追い込む。多国籍企業と株主はどこまでも利益を得るが、地元の産業と雇用はどこまで壊滅して行くのである。
このような技術や雇用の移転は世界の歴史でくりかえされてきたことである。安い生産コストをもとめて技術移転がおこなわれ、相手は競争相手や脅威となり、しまいには自国の産業や雇用を破壊してしまうのである。日本も60年代に高度成長をむかえ、80年代にアメリカと貿易摩擦をくりひろげた。記憶に新しいことだが、これはすでに中国との間におころうとしているのである。
しかし中国にはさまざまな問題があり、環境破壊や産業革命期のような人権無視の労働条件がまかり通っているし、いまだに一党独裁であるし、2040年にはアメリカを抜く経済大国になると予想されているが、老齢化も高度成長なみに急速である。いぜんに読んだ『大地の慟哭』のような出稼ぎ労働者・民工の問題も噴出である。すべての要素が巨大鍋で煮えくり返されているみたいなものである。
私のおもな関心は賃金下降の圧力は中国によってどれだけもたらされるかということだ。これから日本はその圧力によってこれまでの賃金の半値、社会保障なしで働かされることになるのだろうか。さらには雇用もおおく失われてしまうのだろうか。このようなことは歴史にいつもくり返されてきたことだと思う。付加価値や新産業創生などさまざまな策が練られてきたはずである。私たちはこの流れから無縁ではありえないだろう。中国との関係から目が離せないと思うゆえんである。
▼賃金についてのリンクを集めてみました。
低賃金は中国経済の強みか
中国の労働力コストは高いのか安いのか なぜ中国人は会社を辞めるのか
メイド・イン・チャイナの本当の実力 日本人のための中国経済再入門 RIETI 経済産業研究所
生産性の話の基礎 山形浩生 の「経済のトリセツ」
「他人の生産性が向上すると自分の給料も増えるのか?」を中学生でもわかるように図解してみました 分裂勘違い君劇場
日系企業よ、安い労働力追求主義から脱却せよ - ビジネススタイル - nikkei BPnet
by G-Tools
私の飽きのこない洋楽アルバム・ベスト10

私の90年代前後のベスト・アルバムを10枚紹介します。私のベスト基準は長く飽きずに聴きつづけられるか、全体のまとまりがあるかということです。いかにリピートに耐えうるアルバムかが基準です。これらのアルバムを何十回も何百回も飽きずにリピートしつづけたものでした。そういうアルバムをことさら探していた時期もありました。
ぜひみなさんに私の最高に慰められる名アルバムの音楽をともに味わってもらいたいと思っています。いささか古いというか、時間はとまってしまっていますが(笑)、ヒットや流行とまったく関係のないところにも名曲があるのは当たり前のことですし、各個人にとってはそういう曲のほうがもっと思い入れが強いものだと思います。アルバムの何曲かは幸いなことにYouTubeという技術によって聴くことができますので、ぜひ私の愉悦を共有してもらいたいものです。
ベスト・オブ・アラン・パーソンズ・プロジェクト(2)〜ライムライト

The Alan Parsons Project - Limelight
Alan Parsons Project - I Robot
The Alan Parsons Project - Mammagamma (1982)
Silence and I
ALAN PARSON PROJECT- Ammonia Avenue
いいアルバムというのは一曲目が肝心だと思います。このアルバムはSF的な曲とバラードが絶品なアラン・パーソンズ・プロジェクトのベスト・アルバムですが、一曲めの『ライムライト』という曲がはじめからひきこませてくれました。しずかに希望がわいてくるような曲ですね。バラードで慰められるような曲も何曲もはさまれていて、私はこのアルバムを数限りなく、あるいはバックミュージックのように聴きつづけたものでした。
透明な音楽

SENS - Like a Wind
S.E.N.S. - Flying
S.E.N.S. - Wish (MV) 神様、もう少しだけ
センスはドラマにつかわれたインストゥルメンタルの曲を数多く手がけたグループで、このアルバムはそれらの聴き憶えのある曲をあつめたベスト・アルバムです。清浄で心が洗い流されるような曲調にずっと浸れるアルバムですね。『あすなろ白書』や『ミセス・シンデレラ』、『神様、もう少しだけ』といったドラマにつかわれた曲が収録されています。哀しみや不幸を背負った曲が多いのですが、そういう曲はなぜか心をとても落ち着いた、希望のあるものに生き返させてくれるものですね。
コンプリート・ベスト・オブ・アンドレ・ギャニオン

Comme au premier jour 〜めぐり逢い〜 本人の演奏ではないですが、こんな曲です。
Apres La Pluie - Andre Gagnon
アンドレ・ギャニオンはピアニストで、私はドラマの『AGE、35』につかわれていた曲に強烈にハマってこのアルバムを聴きつづけることになりました。なんといっても、『めぐり逢い』という曲がとろけそうによくて、恋人に焦がれる気持ちと、黄昏の切なさや憂鬱感がクロスされて、たまらない気持ちになります。アンドレ・ギャニオンは夕陽のせつなさと人生の絶望のようなものが混じって、あたたかさと人生の冷たさを感じさせる曲調が多い気がします。
リメンブランス・デイズ ドリーム・アカデミー

The Dream Academy - Indian Summer
The Dream Academy - The Lesson of Love
Dream Academy - Life In A Northern Town このアルバムには入っていませんが、ドリーム・アカデミーの代表作ですね。
一曲めの『インディアン・サマー』が強烈にいいです。海鳥の泣き声にはじまるイントロ、黄昏の気だるさや海辺のさみしさ、そしてわずかな希望を感じさせる絶妙な曲調になっています。もうあとはドリーム・アカデミーのどろどろした北洋の世界に呑みこまれてゆくだけです。ひじょうに個人的なことですが、このアルバムを流しっぱなしにしながら村上春樹の『ノルウェイの森』を読んでいたので、このアルバムを聴くと『ノルウェイの森』の作品世界を思い出してしまいます。ドリーム・アカデミーは『ライフ・イン・ザ・ノーザン・タウン』という寒いイギリスの町を表現した傑作を生み出したバンドでした。
バスター フィル・コリンズ

Phil Collins - Two Hearts - (HD)
Phill Collins - A Groovy Kind of Love
このアルバムはフィル・コリンズが主演した映画のサントラですが、意外に間奏に曲がはさまれていたりして全体の調和、一体感がかなり感じられるいいアルバムになっていて、けっこう私のお気に入りでした。緊迫や安堵といった映画の構成がこのアルバムでも感じられて、意外ににいいアルバムだと私はひそかに思っています。
レフティー アート・ガーファンクル

Art Garfunkel - So Much In Love
最高のバラードを何曲も聴かせてくれて、私にアート・ガーファンクルにハマらせた傑作アルバムだと思っています。YouTubeで紹介できないのがしごく残念ですが、『ディス・ザ・モーメント』や『スロー・ブレイクアップ』などは心が震える名曲だと私は思っています。『天使の歌声』だと称されるアート・ガーファンクルの曲はたしかに天上の音楽といってもいいと思います。
ネバー・ダイ・ヤング ジェームス・テイラー

James Taylor-Never die young
80年代に音楽を聴きはじめた私は70年代のシンガーソングライターのジェームス・テイラーをよく知りませんでした。せいぜい『思い出の街』といったAORの名曲を知っている程度でした。その感触をもとにこのアルバムをふと聴いてみたら、「日曜のピクニック」みたいにとてものんびりしていて、とても好きになりました。ひじょうに気持ちをのんびりしたものに和ませてくれる曲が多かったのです。牧歌的な風景を思い浮かばせるアルバムといったら、このときのジェームス・テイラーをおいてほかにないでしょう。
Cry Like a Rainstorm, Howl Like the Wind リンダ・ロンシュタット

Aaron Neville And Linda Rondstadt- Don't Know Much
Aaron Neville and Linda Ronstad - All My Life
アーロン・ネヴィルとのデュエット曲『ドント・ノウ・マッチ』が陶酔的によかったです。その曲が収録されたこのアルバムはポップなバラードの曲調を聴かせてくれるアルバムとして安定したものを感じさせます。リンダロンシュタットはこのときにはもうたくましい中年の女性になっていたのですが、YouTubeではじめて知る過去の若いリンダロンシュタットとどうも存在が結びつけにくい気がします(笑)。
フライング・カラーズ クリス・デ・バー

Chris de Burgh MISSING YOU
Don't Look Back-chris de burgh
Chris de Burgh Carry Me
アイルランドの国民的歌手ですが、『レディ・イン・レッド』という全米ヒット以外知る人はほとんどいないでしょう。このアルバムを数十回、数百回と聴きつづけた私はこの人の曲の魅力は心の底から折れそうになるさみしさや心細さを根幹にもっているかではないかと時に思います。ちょっとメジャーでないポップソングといった感じが外観からするのですが、根底には絶望的な暗さがあると思います。私はその実存的なさみしさの泉から、なんらかの快癒を得るよう気がしたのかもしれません。
シングルス 1969〜1973

Carpenters - Yesterday Once More
The Carpenters - We've only just begun
The Carpenters - Top Of The World
The Carpenters - Ticket To Ride
The Carpenters - Rainy Days And Mondays
Carpenters - Superstar 1971
Carpenters - Sing (Japan 74)
The Carpenters-Close To You
カーペンターズはダサくて過去のミュージシャンだと思っていたら、ためしにアルバムを聴いてみたら、数限りなく聞いても飽きさせない不朽の名作をたくさん歌っていたことにあらためて気づかされました。ぜんぜん古さや過去のものだという感覚を感じさせない、聴くたびに曲の深みを増す傑作ばかり歌っていたことに驚かされるばかりでした。カレン・カーペンターには脱帽です。カーペンターズのベストアルバムは多く出されているでしょうが、私にはこのアルバムが「心の唄」となりました。
80年代洋楽アルバム・ベスト3 & YouTube
トートツですが、80年代の洋楽アルバムの画像をならべてみたくなりました。ブログを見て回っていて、古いアルバム・ジャケットがならべられた画像が格好よかったので。(インポート盤にもリンクを貼っているので注意を)。
私のよく知っている音楽シーンは80年代洋楽チャートしかありませんので、Billboard全米年間チャート・トップ10アルバム (1980-1989) を参考に80年代のベスト・アルバム・トップ3をならべてみました。ついでにYouTubeにもリンクを貼っていますので、無料で音楽・動画が楽しめます。
いろいろな世代にとって80年代洋楽チャートってどう見えるのでしょうね。格好いいんすかね。古いんすかね。十代に80年代洋楽を聴いていた私にはまったく古びず、輝きはまったく減じていないですし、新しいヒット・チャートを聞かない分、私の中ではベストの音楽シーンをいつまでも構成することになるのでしょうね。どの世代にとっても十代に聴いた曲がいつまでも永遠のベスト・ソングになるのだと思います。
若い世代にとってもCMとか挿入曲に80年代洋楽がおおく使われているのはまちがいないので聞き覚えのある曲もたくさんあるでしょうね。新しい魅力を発見できるかもしれませんね。
1980



Pink Floyd - Another Brick in the Wall
Eagles - Hotel California
Michael Jackson-Don't Stop 'Til You Get Enough
Michael Jackson - Rock With You
ピンク・フロイドはカルト的な人気を誇りましたね。イーグルスは80年に解散しました。そしてマイケル・ジャクソンはこの『オフ・ザ・ウォール』からつぎの1億400万枚セールスの『スリラー』への前哨をはじめていたわけですね。
1981

Greatest HitsKenny Rogers
reo speedwagon----can`t fight this feeling
John Lennon - Starting Over
Kenny Rogers - Lady
ジョン・レノンが80年に射殺されて最後のアルバムがよく売れました。ケニー・ロジャースがベスト3に入っていたとは意外です。
1982



Asia - Heat Of The Moment
THE GO GOS - VACATION
Foreigner - I wanna know what love is
ゴーゴーズがノリのいい曲をひっさげてデビューしましたね。エイジアもフォリナーも私的には好みではありません。
1983



Michael Jackson-Thriller
Men At Work - Who Can It Be Now
Every Breath You Take/The Police
マイケル・ジャクソンが1億400万枚を売った怪物アルバム『スリラー』を発表した年ですね。出すシングルすべてヒットして、しかもMTVの頂点である『スリラー』を発表しましたね。たんなる狼男とゾンビに変身するありきたりの映像なんですが、MTVでそれをやったことが音楽業界に大きな衝撃を与えたのだと思います。メンアットワークはオーストラリアからやってきて、イギリスのポリスは長らくチャートの一位を独占しました。外国勢のイノベーションがアメリカの音楽の停滞を表わしてもいました。アメリカ経済も日本の繁栄とは対照的に80年代は死に体でした。
1984



Michael Jackson-Thriller
Huey Lewis and the News - The Power of Love
Lionel Richie - All Night Long
ヒューイ・ルイスが愛嬌のある存在感を出していましたね。ライオネル・リッチーはバラードやよい曲を連発していました。
1985



Bruce Springsteen-Born In The U.S.A.
Bryan Adams "Heaven"
LIKE A VIRGIN - MADONNA
この年はマドンナがブレイクした年ですね。前のアルバムからじょじょに期待感が高まって、ニュー・アルバムで爆発したという感じです。『ライク・ア・ヴァージン』のプロモはヴェニスで体をくねらせて歌う金髪と黒いタンクトップがものすごく美しかったです。スプリングスティーンはアメリカの男を歌いましたね。ブライアン・アダムスはカナダからやってきました。
1986



Whitney Houston - Saving All My Love For You
Heart - Alone
John Cougar Mellencamp - Crumblin' Down
ホイットニー・ヒューストンがバツグンの歌唱力と、ディオンヌ・ワーウィックの甥という血統のよさで音楽業界を沸かせました。ジョン・クーガー・メレンキャンプがアメリカのカントリー・ミュージックっぽい格好よさを体現していて、シビれました。
1987



Bon Jovi - Living on a Prayer
Simon & Garfunkel - Late In The Evening
The Beastie Boys - (You Gotta ) Fight For Your Right
ポール・サイモンがこの年のベストアルバムに入っていたとは知りませんでした。YouTubeのリンクには『追憶の夜』を貼っていて、この歌の驚異的なノリが私はとっても好きです。ボン・ジョビもビースティー・ボーイズは私の好みではありませんでした。この年にはもう私も20歳になっておりまして、新しいヒット曲にだいぶ醒めてくるようになっていましたね。
1988



GEORGE MICHAEL [Careless Whisper - 1984]
Dirty dancing - time of my life
Def Leppard - Photograph
ジョージ・マイケルのこの年の大ヒットはいぜんの期待感から盛り上がったもので、このアルバム自体にそんなにいい曲があったとは私は思いません。ノリのいいアイドル男が『ケアレス・ウィスパー』のようなオトナの唱を歌ったということで、男女ともどもの期待値が上ったのでしょうね。マイケル・ジャクソンの『バッド』の期待と近いかもしれませんね。『ダーティ・ダンシング』は先年からの映画と音楽の連携ヒットから生まれたもので、あまり大きな盛り上がりがなかったように思うのですが。デフ・レパード、去年のボン・ジョビとヘヴィ・メタ・バンドが活躍したころですね。
1989



Bobby Brown - Every Little Step
New Kids On The Block - Step by step
Paula Abdul - Straight Up
ボビー・ブラウンもニューキッズオンザブロックも私の好みではありませんでした。ポーラ・アブドゥルはダンス界の新星でしたね。
80年代全米ヒット・チャートをYouTubeで見る
『大正・大阪・スラム』 杉原薫・玉井金吾編
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これからの日本はスラムがあったような戦前に戻るのではないかという恐れから読む。雇用の低賃金化や流動化がすすむと、戦前の悲壮な貧困がよみがえってきてもおかしくないのではないか。政府や企業はそこまで落とすつもりなのか。そのような恐れから明治や大正の労働報告書である『日本の下層社会』や『女工哀史』を読んできた。それを地図の上に落としこむこの本を読んだわけであるる
この本は研究書、専門書であって、おそらく一般読書向けの本ではない。データがやたら多くて、文章もアカデミズム向けであって、一般の読者が戦前のスラムの状況を手にとるように理解させてくれるわけではない。血のかよった見聞ができるわけではない。
この本では日本橋・釜ヶ崎スラム、西浜地区、東成在阪朝鮮人のスラムがおもにとりあげられている。写真や絵、肉声やエピソードで語られたスラムではなくて、データでほとんどが伝えられているので、スラムのじっさいを知らない私にはなかなかつかみどころのない話が多かった。ただ地図のうえでかつてはこの地域にスラムがあったのかと感慨深い気持ちになった。
大工場の紡績女工の賃金は大正期に急上昇したのだが、スラムの子女による低賃金労働は根強く残り、日本の国際競争力を高めていたといわれる。スラム労働力市場が日本の綿製品・雑貨輸出の価格をおさえる役割を果たしたのである。貧困や部落差別でスラムに流入した労働力人口はますます低賃金を生み出す構造となり、日本の国際競争力を下支えしたのである。これからの日本はこのような役割を一部の人たちに押しつけるつもりなのか。
大正末期には教育水準を根拠に、部落住民や朝鮮人を差別したほうが容易になりつつあった。かつての差別は近代的価値規範に適合的な人物であれば、差別する根拠を失いつつあったのである。そして近代日本の労働は女工からはじまったが、彼女たちはそれゆえに近代労働規範を子息たちに植えつける役割を果たしたのである。
釜ヶ崎の大正のころの職業をみると、人夫や沖仕のようなこんにちと同じような日雇い労働が多いわけだが、屑拾いも多くいたし、下駄直しも盛んだった。かれらは日雇いのように使い捨てにされたが、雇用主にとってはフレキシブルな労働力と重宝がられ、経済上・社会上欠かせない役割をも担っていたのである。
スラムの子どもたちはマッチ工場や硝子工場で働いたりしていたが、マッチは日本の重要輸出品目であり、8番目の位置をしめており、かれらの低廉な労働力が日本の輸出競争力を高めていたわけである。また硝子工場の労働は少年徒弟たちにその過酷さで恐れを抱かせるものであった。
より安価で過酷な労働に耐えうる労働力として、朝鮮人がおもに朝鮮南部の済州島から定期航路によって大量に運ばれてきた。日本に行けば仕事があり、金になり、米の飯が食えるといって、島の住民が危機を抱くほど、出航ラッシュはつづくのである。東成鶴橋・中本にくれば親族・地縁のものの援助も当てにできるということで、そして彼らは日本人が嫌がる仕事を長時間・低賃金についていったのである。ある朝鮮人の回想によると楽な仕事は日本人で、しんどい仕事は朝鮮人がおこない、「つろうて、つろうて、大阪の工場、なんべん変わったかわからしまへんね」といっていた。
日本の国際競争力というのはこのようなスラムの低賃金労働力に支えられ、そして世界への輸出攻勢がかけられたのである。労働コストをぎりぎりに切り詰めて、ようやく安価な製品輸出が可能になったのである。そしておそらくは世間の一般の人たちはその貧困や汚さで彼らを排除しようとしたのだろうけど、彼らを必要としたのは日本の競争力のためや雇用者のコスト削減のためではなかったのか。生活もままならないほどの低賃金を必要としたのは日本の国際競争力のためだったのではないか。スラムの住人を経済や国家の犠牲者とみるまなざしが必要だということである。これはげんざいの貧困についてもいえるだろうと思う。
『自由に生きるとはどういうことか』 橋本 努
![]() | 自由に生きるとはどういうことか―戦後日本社会論 (ちくま新書 689) (2007/11) 橋本 努 商品詳細を見る |
著者は私と同じ生まれの1967年生まれだが、本書の自由論は私の心の琴線にふれることはほとんどなかった。『明日のジョー』に尾崎豊、『エヴァンゲリオン』と同時代を生きてきた世代の自由論なのだが、なんか私の希求してきた自由とまったく重なり合わないのでほとんど読み飛ばしたようなものだ。
私の自由とは「労働、企業からの自由」に尽きる。これらから解放されることが自由である。長時間労働や滅私奉公、終身雇用の隷属人生から解き放たれることこそ、私の自由である。だからそういう労働からの自由をいっさいあつかわない本書には失望したのである。オザキを同時代に聴いた私としてはオザキからそういうメッセージを受けとったつもりである。だからあまりほかの自由を語られてもぴんとこないのである。これは極私的であるかもしれないが。
しかし本書のなかでがぜん興味を魅かれた章が最終章の「21世紀の自由論」である。現代の上・中流世代はもう「きらびやかな消費生活」を志向していないといわれるが、つぎの理想的スタイルが「創造的階級」として台頭しているというのである。社会的成功とは別の「創造的自由」をもとめる生き方をポリシーとするのである。
前章のエヴァの章からも引用するが、感銘した部分を抜書きしよう。
「ポストモダン社会において生じたことは、「よい子型順応人間」の悲哀であった。他人の命令に従うだけでは、誰からも評価されず、自由な社会を切り開く力をもつことができない。自由な社会においては、よい子型の順応人間は自分を価値のない人間と見なして、「自分を大切にする」ことができなくなる」
優等生は「牛乳ビンのメガネ」と揶揄され、エリート学生だった教師は精神的な理由で休職する者が後を断たないし、マザコン男や「冬彦さん」としてイジメられたりした。でも大企業や一流企業に勤める高給取りはまだ女性の憧れなのであるが。そこの接合部分はどうなっているのかと思うが。
「エーリッヒ・フロムの言葉を用いていえば、人々の関心は「所有」から「存在」へ、つまり「カネを稼ぐこと」よりも「自尊心の基盤を得ること」へと転換していった」
これはいい言葉だね。所有が自尊心をもたせた時代から、存在が自尊心をもたなければならない時代になったのである。消費やブランドの時代から、「こころの時代」とウソくさいキャッチ・コピーが掲げられたが、カウンセラーの増加と少年犯罪ブームを生み出してそれは終焉した。いま自尊心はへたしたら、「正社員」であるとか、「ワーキングプア」でないくらいなのかもしれない。
「その特徴(ボボズ)を一言でいえば、文化的な創造を求めてあらゆる努力を惜しまない人となるだろう。……ボボズは「創造としての自由」を人生最大の価値とする。彼らはたんに、社会で成功するためにクリエイティブになろうとしているのではない。社会的成功とは関係のない趣味の領域においても、創造的になることを願っている」
「成熟した「豊かな社会」に生きる私たちにとって、「生き方」をめぐる問題とは、「きらびやかな消費生活」を手に入れるためにあくせく働くよりも、「自分で熱中できること」をみつけて没頭したほうが、いっそうすぐれた生活になるかもしれない、という点であろう」
ブラボーな言葉である。消費やカネや地位より、そんなオヤジな価値観より、好きなことを時間をもって没頭したいということである。はっきりいってこの価値観は新聞やニュースのモノサシでは測れない。これらのオールド・メディアはカネ持ちか福祉たっぷりかのモノサシしかもたないので、彼らは悲惨なワーキングプアなのであって、さげずみと、悲愴視と、福祉の分配が必要な対象としか見られないのである。
「こうした自由度の高い職種(フリー・エージェント業)が台頭してきた背景には、およそ次のような社会の変化があるという。第一に、生活の安定と引き換えに組織に忠誠を誓うという「従来型の労使関係」が崩れたこと。……第三に、もはや生活の糧を稼ぐことだけが仕事の目的ではなくなったこと、などてある」
しかし現代の日本では自由度の高いはずである非正規雇用はワーキングプアや悲惨な目で見られる一方である。私たちはこの偏向性をどこかでべつの問題として切り分ける必要があるだろう。私たちをまた保育器のなかに戻したいのか。「ゆりかご世代」は恐くてたまらないから、若者世代の悲惨しか見ないのだろう。
創造的階級とはつまるところ、ビジネス書がつくりだす広告的な理想像である。ビジネス書は何十年も前から「創造的」「クリエイティブ」であることを理想してそのような職業を栄光的なものとして描いてきたものである。あるいは「自己啓発像」みたいなものである。トフラーやドラッカーの時代からいわれている。
これらのイメージはつぎの書が参考になっている。







