労働を歌った唄―『ヨイトマケの唄』『山谷ブルース』
労働を歌った歌ってほんと少ないですね。私たちの人生の大半は労働に費やされるというにですね。だから日本のポップ・ミュージックは情けないというものです。
この『ヨイトマケの唄』(昭和40年)ははじめて聴いたんですが、すごいです。泣けてきて、たまらなかったです。ヨトイマケとは「建築の地固めをする際に、大きなつちの綱を引くときのかけ声。転じて、これに従事する人足。多くは女性」(広辞林)だそうで、美輪明宏はこの仕事をして育ててくれた母を歌っています。
一部差別用語がふくまれるということで(ふつうに流通している言葉に思えるのですが)、放送禁止になっていたそうですが、なにをバカなことをやっているんだと思いました。なにより美輪明宏の神かがり的な歌いっぷりが圧巻です。ぜひお聴きください。
ほかに岡林信康の『山谷ブルース』を見つけました。山谷のドヤ暮らしをうたった唄で前から聴きたかったのです。「♪きょうのしごとはつらかった〜」
▼その他に私の知る限りの現代の労働歌をリンクしておきます。ネットで必死に捜したのですが、労働運動さかんのころからぱったりと曲はなくなったようですね。団結や闘争のような過激でキナ臭い壮絶さが嫌われて、日本の音楽シーンはアイドルやラブソングばかりになり、真剣さや訴えかけるものを失ってゆきましたね。
仕事についてのドラマも悲惨さや哀しみといった色合いは姿を消し、がんばりや励ましのような前向きなものになっていきましたね。労働のポジティヴに目が向けられ、悲惨さや悲哀、または人生の意味といったものは考えられなくなりましたね。私はこんな現実を見ない音楽界やマスコミはウソっぱちだ、大本営だと思いますが。
浜田省吾−J.BOY
誇りも目的も失った豊かな日本。
たとえばそれは瞳の中の嵐のように(My Home Town)
宝塚で申し訳ないですが、浜田省吾の画一化した社会を批判した曲。
45歳の地図 爆風スランプ
歌詞にリンクしていますが、会社人間の悲哀をもろに歌っています。
尾崎豊 − Bow!
「♪あいつはいってたね サラリーマンなんかなりたかねぇ」
Donna Summer - She Works Hard For The Money
アメリカのいくつものジョブをかけもちするワーキングプアの女性。
Billy Joel-Allentown
鉄鋼業界の不況を歌っています。
▼追加分です。
エミネム 『IF I HAD』
アメリカの出口のない労働が歌われています。訳詞です。
『働く男』 ユニコーン
ぶんようさんからの紹介です。あまり労働の悲惨さを歌った唄ではないのですが。
Work Song Cannonball Adderley Sextet
fryingpanさんの紹介です。ジャズの労働歌らしいですが、ボーカルがないので訳詞のほうはこちらで。
なかなかほかに曲が見つけられないのですが、労働の悲惨さや悲哀を歌っている曲を知ってたら、みなさんもぜひ教えてください。
われわれの社会は消費社会ではなくて、労働社会です。TVや映画では人生の大半をすごす労働のことがほとんど語られません。音楽業界でもそうです。せめて恋愛ソングの半分くらいは労働が歌われてしかるべきです。そんなウソっぱちの世の中から脱出するために労働歌を集めましょう。
気になる新刊情報 2007年11月
11月の新刊情報です。読みたい本はたくさんあっても読んでいる時間なんてありません。だから貴重な読書の時間はしっかりと読むべき本を選ぶべきですね。
私の本の選ぶ基準は自分が楽しめるか、興味が最後までつづくかという焦点で選ぶことが多いので、ベストセラーや話題の本まで手を回している時間がありません。自分の興味で本を選ぶということがいちばん大切だと思います。



この三冊はぜひ読んでみたいですね。とくに『自由に生きるとは――』は読みたいですね。雨宮処凛の『プレカリアート』も不安定労働の実情をよく伝えてくれると思います。赤木智弘の『若者を見殺しにする国』は不安定労働が右翼につながる心性が私には乏しいので共感は少ないかなとも思います。



『戦前の少年犯罪』は今日の衝撃ニュースに煽情されないために必要ですね(「女子リベ安原宏美」で要約がありますね)。渡部昇一がまたハイエク本を出していますけど読みたいです。『日本を降りる若者たち』は海外逃亡の若者たちですね。国を見捨てるって究極の社会批判ですね。



社会主義のような代替案がないなかで『反資本主義』はどこまで効力があるのでしょうか。格差本二冊はたぶん専門性の高い学術書になっているのでしょう。



『自殺するなら、引きこもれ』――まったくですね。学校を変われないってことは監獄地獄になっているのですね。『戦後日本は戦争をしてきた』はどこまで経済システムと絡めているのでしょうか。宮台サンはさいきんなにをテーマにしているのでしょうか。



おお、サルトルの『存在と無』がちくま学芸文庫に入ったではないですか。たぶん読みたくなる興味はわかないと思いますけど。『ニュートンの宗教』はたしかにニュートンは科学者というよりか、まだ宗教家に近かったのではないかと。






『うつ病』って増えているのですかね。心を捨てる、頭を空っぽにする方法が私は効くと思いますが。心とは頭に思い浮かべる事柄を選択できるのですが、仏教の知恵を忘れた日本人はうつの予防策をともに捨てたみたいですね。



『見ること見られること』って興味がありますね。私たちは演技の世界で生きてますものね。



『穢れ』は近代によって太古からあるものとして捏造されたのでしょうか。学問は現在あることの正当化を助けてしまうことがあるということです。



『敗者の想像力』――私たちが崇める西洋は植民地民族の大虐殺をおこなったことを、そのすべての面において見なければならないと思います。科学や学問にその根は潜んでいますし、われわれのライフスタイルや経済がそのような過去をひきだしたと見るべきです。









宇宙を哲学する (双書哲学塾)

『宇宙を哲学する』ってまずは私たち人間の最初の問いですね。
心と身体の相互性に関する理解の発達

観念的生活 中島義道

Googleとの闘い

地球環境問題の比較政治学―日本・ドイツ・アメリカ

祝祭性と狂気

アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所

長野重一写真集 東京1950年代

クマグスの森―南方熊楠の見た宇宙 (とんぼの本)

80年代洋楽バラード歌手で癒されたい
バラードは心を洗ってくれますね。心を鎮静化してくれますね。悲しい曲はたぶん心の高まりを冷まして浄化してくれるからでしょうか。
ほっとひと息つきたい人のためになつかしの80年代バラード特集をご用意しました。80年代全米チャートを十代や二十代に聴いていた人たちは、もう人生の渋みや辛さを知った三十代や四十代になってそれぞれの人生を歩んでいると思います。なつかしいあのころの感覚をもう一度思い出してみてください。
UPしたのは2007年11月23日なので、時間がたつごとにリンク先は切れていますのでご了承のほどを。
▼ライオネル・リッチー
ライオネル・リッチーの顔は日本人の私から見てどう見ても美男子ではなく、深刻なバラードを歌っていたらおフザケかと吹き出しそうなところもあったんですが、ともかく曲はきれいでした。世界の美しさを謳っているというのでしょうか、清らかでしたね。
Lionel Richie 1983 -- 1) Still; 2) Lady
Diana Ross Lionel Richie Endless Love
Lionel Richie - Hello
lionel richie-say you say me
LIONEL RICHIE - TRULY
▼フィル・コンリズ
フィル・コリンズはともかく「Against All Odds」が名曲だったと思います。 深刻さと嘆息がつたわってくる曲でしたね。80年代フィル・コリンズはつぎつぎとヒットを飛ばし、勢いは凄いものがありましたね。そんな中でびしっと締めてくれるバラードがかれの音楽の魅力を広げたと思います。
Against All Odds (Lost - Charlie/Claire)
Phil Collins - Another day in paradise
One More Night
▼グロリア・エステファン
グロリア・エステファンのバラードはスタンダードなポップ・ミュージックのバラードとひと味違った清浄さを聴かせてくれると思います。キューバ出身のスペイン調の発音だからでしょうか。どこかにかぼそさや異国的な疎外感がバラードの切なさの吸引力をもたらしているように思います。
Anything For You - Gloria Estefan feat. Miami Sound Machine
Gloria Estefan - Don't wanna lose you
Gloria Estefan-Here We Are
Gloria Estefan-Hold Me, Thrill Me, Kiss Me
▼シカゴ
シカゴはいいバラードをともかく連発していましたね。息の長い古いバンドであるという感をみじんも感じさせず、80年代の新しいバンドといっても通用しました。というか私は70年からの大御所だなんてちっとも知りませんでした。ツボを押さえた曲づくりができたというんでしょうか、バラードはハズしませんでしたね。骨太な安心感のもとで安らかな悲しみにひたれる雰囲気の曲だったといえるかもしれませんね。
Chicago - Hard To Say I'm Sorry (1982)
Chicago - Hard Habit To Break
Chicago-Will you still love me
Chicago Love Me Tomorrow 1982
Chicago - If You Leave Me Now (1976)
▼エア・サプライ
エア・サプライはともかくバラードづくしでした。ペパーミント・サウンドとよばれ、行き過ぎの感もなくはありませんでした。ほかのバラード歌手も多くはダンスロックやノリのいい曲の中にバラードをちょっぴりこぼすという構成でしたが、エア・サプライにダンス・ミュージックはひとつもありませんでした。たまに食傷気味になることもありました。メリハリがあったほうがよかったのかもしれません。ともかくラッセル・ヒッチコックの高音と歌唱力はバツグンでしたね。「Without You」は感嘆しますね。
Air Supply- Without You
Air Supply-Lost In Love
Air Supply - Always
The Power Of Love - Air Supply (HQ Audio)
making love out of nothing at all
All out of love - Air Supply
Air Supply - "Even the Nights Are Better
▼アラン・パーソンズ・プロジェクト
アラン・パーソンズ・プロジェクトはたぶん「ドント・アンサー・ミー」や「アイ・イン・ザ・スカイ」くらいのヒットしか知らない人が多いと思います。しかしアルバムはSF的で神秘的なサウンドをつくりだしてファンを魅了させていましたし、そのなかの無機質なミュージックの中の逆に人間的なあたたかいバラードがはさまれていて、それが魅力的でした。この構成はほとんに泣かせましたし、感動させました。アラン・パーソンズ・プロジェクトのバラードは人間的なあたたかさや感動をあたえる名曲が多いと私は太鼓判を押したいです。YouTubeで探すとアラン・パーソンズの曲にいろいろ映像がのせられていますが、この人の曲はそのような映像を合わせたいと思われる曲がたくさんあったのです。
Alan Parsons Project - Don't Answer Me
The Alan Parsons Project - Limelight
The Alan Parsons Project - Shadow of a lonely man
Alan Parsons Project Old And Wise (Original Overdub)
Time - Alan Parsons Project
Scenic Landscape slideshow - Time by Alan Parsons Project
"Time" - The Alan Parsons Project - Space Slideshow.
alan parsons-the eagle will rise again
the alan parsons project - pipeline
The Alan Parsons Project - Mammagamma (1982)
ALAN PARSON PROJECT- Ammonia Avenue
Silence and I
Brother up in heaven - Alan Parsons
▼クリス・デ・バー
クリス・デ・バーは「レディ・イン・レッド」しか知らない人がほとんどだと思いますが、このかぼそさやさみしさから生み出される曲調はかなりいいものがあったと「フライング・カラーズ」というアルバムを何百回も聴きつづけた私はいいたいです。この魅力は日本人には通じなかったようですし、ゲジゲジまゆ毛の顔はちょっと。。と思うかもしれませんが、私はこの人の曲のかぼそさに身をよじらされる思いがするのです。
Chris De Burgh--Lady In Red
Chris de Burgh MISSING YOU
▼JEAN ROSEさん
上記の歌手群とまったく関係ないのですが、フィリピンのこの人の歌はやたらうまい。家庭用ビデオに写った貧相な民家とジャージ姿の日常とのギャップがまたすごいので、リンクしました(笑)。
If You Ever Change Your Mind
テンポラリーワーカー(臨時従業員)時代の社会保障
1990年に出版された『ビジネスマン 価値逆転の時代』(TBSブリタニカ)で、経営哲学者チャールズ・ハンディはこういっていた。
「二一世紀を迎えるころには、企業や各種の団体組織で"ちゃんとした"フルタイム・ジョブ(常勤の仕事)に就いている者の数は、先進工業諸国では労働力人口の半数を割るようになる。多くの者が自営の労働者になり、その数は年を追って増えていく。その多くは、パートタイマーないしテンポラリーワーカー(臨時従業員)である」
「常勤従業員が有効労働力人口の半数にも満たないとなると、常勤の仕事に就くのが当然だと考えるのは、もはや意味をなさなくなる。〜われわれの"労働"についての考え方、"仕事"と"職歴"についての見方が変わりはじめてくる」
「そういう変化を促すものに、シャムロック型組織の出現がある。〜その本質を要約するなら、組織に欠かせない少数の経営陣と常勤従業員からなる中枢部を取り囲んで、臨時の契約従業員とパートタイマーを配置した支援体制を整えている組織形態を指す」
「物事を組織するうえで、これはとりわけ目新しい方式というわけではない。建設業者は、規模の大小を問わず、もう何世代にもわたってそういうやり方をしてきたし、特約通信員から記事を集め印刷業者に印刷と発送を委託してきた新聞社とか、収穫期と休日に契約労働者を雇い入れる農場主なども、同様である」
「それが安上がりの方式であるからにほかならない。全従業員の時間をそっくり自分の自由にしようなどというのは、必要な人的資源を集めるやり方としては贅沢すぎるということである。〜それよりも、必要な人員をあえて組織の外に置いておくほうが、ずっと安くつく」
「さほど遠くない将来に、常勤従業員は労働力人口のなかで少数派となってしまう」
こんにちの非正規雇用化はしつかりと予測されていた、というよりか計画されていたわけである。これは1995年の日経連「新時代の『日本的経営』」にも、従業員を「長期蓄積能力活用型グループ」「高度専門能力活用型グループ」「雇用柔軟型グループ」に分けようとした考えと同様のものである。時代はこのような考えのもとに動こうとしているのである。
くわえて、soneakiraさんのうたかたの日々に『現代の貧困』岩田正美(ちくま新書)の引用があったので、コピペさせてもらいます。
「日本の社会保障制度は、基本的に終身雇用の正規雇用者家族が共通に抱える一定のリスクに応えるべく設計されたものである」
「日本では、あまりにも保険主義が徹底しているので、これに代わる所得保障がきわめて手薄である。とくに働ける年齢層で保険料を支払えなかった人々や、支給条件を満たさなかった人々への別の手段が講じられていない」
「日本では雇用保険が切れた時、これと連動する「失業扶助」の仕組みがない。しかも、たいていの先進諸国にはある住宅手当(家賃補助)制度がない。家族なし・資産なしの単身者やシングルマザーの貧困、あるいは労働宿舎型のホームレスにもっとも効果的なのは、おそらく住宅手当であろう」
非正規雇用とはとどのつまり企業から社会保障が与えられないということである。賃金も安く、雇用が短期であったり、安定してなかったりする。とうぜん社会保障費は払えないこともあるだろうし、企業もその点の責任を放棄する。このふたつの考えを合わせると、とうぜん社会保障から大量にもれる人たちを生み出すということである。
企業は社会保障を見捨て、国家もそれを払えない人たちを見捨てる。そういう人たちは貧困に転がり落ち、いまでは街中や公園、河川などのホームレスとしてあふれ出しているわけである。このふたつの流れがもっと大きなものになると、貧困層も大きなものとしてふくれあがることになる。
払える人に社会保障でなくて、払えない人たちこそがもっとも社会保障が必要になる層なのである。この欠落が日本社会の恐ろしい盲点であり、多くの貧困者を社会からこぼれ落としているのである。
社会は正社員を保障するかたちのげんざいのモデルから、大きな流れとなっている臨時従業員の社会保障が払えない人たちこそ、社会保障が必要であることをしっかりと認識すべきなのだろう。働き方や貧困のかたちはすでに大きく変わってしまっている。
ビジネスマン価値逆転の時代―組織とライフスタイル創り直せ
チャールズ ハンディ Charles Handy

浜寺の砂浜をかえせ
泉州にそだった者として一度は公共の電波でいいたかったことがある。「浜寺の砂浜をかえせ」だ。そのころから考えると電波ではなくて、このようなネットができたのは信じられないことだ。
子どものころ海の近くに育っておきながら、どこまでいっても「海」はなかった。海があるはずのところには臨海工業地帯があり、煙突や石油コンビナートがあり、海はどこにもなかった。
歴史をたどれば浜寺公園には海水浴場が昭和36年まであったということではないか。明治には東洋一の海水浴場と謳われるほどの規模をほこり、大浜には水族館や内国博覧会がひらかれ、阪急の宝塚に対抗するように少女歌劇がつくられ、浜寺には芦屋とならぶ高級住宅地が造成されたそうだ。
戦後33年の10年ほどは浜寺公園をアメリカ軍が住宅地にし、日本人は立ち入り禁止になり、かれらの海水浴場となった。その記憶を払拭するように沖に臨海工業地帯が埋め立てられて、かつての海水浴場は姿を消したのである。
こんにちの工業地帯や公園の景観からとうじのリゾートの繁栄ぶりをうかがい知ることはまず不可能である。せいぜい高級住宅地の名残や大きなプールがのこるくらいである。地元の人間もそんな過去があったなんて信じられないだろう。海水浴場は二色の浜や磯ノ浦、神戸の須磨までいかなければ、ないのである。
かつての「白砂青松」とよばれた浜寺の絶景をかえてほしいものである。
おほともの高師濱の松が根を 枕きぬれど家し 偲ばゆ (万葉集 置始東人)
沖つ浪 高師濱の浜松の 名にこそ君を待ち渡りつれ (古今和歌集 紀貫之)

こんにちの浜寺運河の姿です。運河のむこうには臨海工業地帯があり、一般人にはまったく関係のない土地がひろがります。「海」はどこまでいってもありません。

かつてここには広大な砂浜があったのでしょう。せめてこんなコンクリ護岸より、泳げなくてもいいから砂浜にもどしてもらいたいものです。大阪の人間は海や海水浴場を抹殺したくてたまらなかったのでしょうか。自然や景観を憎悪・嫌悪したのでしょうか。それとも戦後のアメリカ軍への記憶でしょうか。

大浜公園にはぽつんとサル山があります。「なんでこんなところに?」という思いがしますが、歴史をひもとけば、かつて東洋一の水族館があったということ。大阪港に似たような発想の水族館が90年に開館しましたが、かつてはここ大浜がそういう場所であったのです。いまは工業地帯の入り口にあるうら寂しい公園くらいにしか見えませんが。

絵葉書に描かれた浜寺海水浴場の風景です。上の写真と比べられないほどの景観がひろがっていたのですね。

こんなデッキのような施設があったのですね。「ブルジョアジー」観覧用だったのですかね。

大浜の景観ですね。砂浜が大きくひろがり、たぶん右の堺港から帆船が船出していますね。淡路島と神戸の間、瀬戸内海をめざしているのでしょうか。
▼参考資料(ネットでかんたんに調べられる時代になりましたね。むかしはこんな資料はなかなか見つけられないものでしたが)
浜寺物語
南海電車で途中下車 浜寺公園駅
▼埋め立てられた土地
『女工哀史』の舞台をたずねる
細井和喜蔵の『女工哀史』(大正14年)を読むと大阪の紡績工場がたくさん出てくる。細井は舞鶴にちかい加悦の出身であるからとうぜん大阪に出てきたのだろう。
はたと大阪泉州(大阪南部)出身の私は、泉州は紡績の町であることに思いいたった。子どものころ和泉市のほうにいくとガッシャンガッシャンと機械の音が聞こえたものである。私の住んだ地はこの『女工哀史』の舞台地だったのかと驚いた。(南大阪における地場産業の展開――泉州繊維産業を中心にして――)
紡績業や繊維業は戦後の衰退をむかえ、華やかな時代はとうの昔に去った。紡績業の女工哀史もともに去っていったのだろうか。
明治や大正のころをしのんで、紡績業のあとをめぐってみました。もっと当時をしのべる産業遺産とよべるものはたくさんあるのでしょうが、なにぶんアテもなく泉州一帯をうろついただけで、めぼしいものはなかなか見つけられませんでした。
堺駅のイトーヨーカ堂のうらに戎島紡績所があったとは思いもよりませんでした。明治3年官営の工場として二番目に建てられ、その後、岸和田紡績となったそうです。昭和5年の世界恐慌には40%の賃下げに怒って朝鮮人女工とともにストライキをおこなったそうです(堺意外史15)。長時間労働、酷使、夜業、児童労働といった明治の典型的な壮絶な労働がこの地でおこなわれていたのでしょうか。

当時の紡績工場の面影をのこす貝塚市の寺田紡績です。この工場が過酷な労働をおこなっていたかはわかりませんが、あくまでも明治の紡績業のイメージとして載せておきます。明治45年の操業だそうです。

あくまでもイメージですが、明治の寄宿舎ってこんなカンジだったんだろうなって思いました。鉄の扉ががしっと閉められているし。こんな中で明治・大正の女工たちは寝起きしたのでしょうか。

赤い煉瓦は当時の「西洋」や「近代化」のイメージを背負ったものだったのでしょうか。

門や扉がコンクリートで固められたりして、ほとんど閉じられていました。現代の私たちが工場に「女工哀史」のイメージを重ねることはなぜか「不謹慎」のことのように思われてしまいます。私たちは工場を「搾取工場」と見る見方に禁制をはられているのかもしれませんね。

じっさいの寄宿舎はこんな感じだったそうですね。

明治16年に操業をはじめた大阪紡績三軒家工場。夜業の電灯が観光スポットになったそうですね。(大正区内のスポット/史跡のいわれ) 明治25年に火災のため数百名の死者を出した。
▼古い紡績工場跡の地図
派遣のどす黒い歴史
明治の労働報告書派遣が格差社会とともに問題視されることが多くなったが、私も派遣で働いたこともあるが、禁止された歴史というものをよく知らないのである。なぜ禁止されていたものが解禁されるようになったのか、禁止されるほどのものがなぜ解かれるようになったのか、そのへんの歴史というものをよく知らないのである。世間もその理由を正確に詳細に知らないだろう。
このところ私は明治の労働について語った本をたてつづけに読んで、おぼろげながらこうではないかというのが見えてきた。といっても過酷な労働に従事した女工の姿からだけでは、禁止されたいちばん大きな理由をつかんだわけではないと思うが。
明治の女工たちは昭和の初めころにイギリスをぬき、世界の60%を占めたといわれる紡績業の需要にこたえるために、朝の4時や5時から仕事をはじめ、12時間から17時間の労働に従事させられた。10歳ほどの児童労働も多かった。
過酷な労働から脱走するものがあとをたたず、鉄道自殺や凄惨な虐待事件が新聞や世相を震撼させたのである。『職工事情』(明治36年)下巻には裸にして殴打したり縄で吊り下げたり、盲目になったりと、読むにたえない虐待事件が報告されている。(「新聞記事に見る明治の「女工哀史」」 読売新聞)。そしてそのような女工を農村や地方の寒村から集めてくるのが募集人であり、派遣業者でもあったわけである。
『女工哀史』(大正14年)には募集人の甘言が詳細にのせられているが、機械が仕事をするから遊んで見ていればいいとか、会社には学校があるとか、都会には活動や芝居があるし、見物のつもりで世間へ出てみたらどうか、などという実情とまったくかけ離れた虚言がついやされて、親や娘はついつい欺かれるのである
来てみたら朝から晩遅くまで働かされ、寄宿舎は監獄のようであり、外出も監視人がついたり、めったにできない。まったく過酷に酷使されるのである。叱責や体罰、または虐待も多くあったことだろう。死者も毎年50万〜70万の女工のうち、5千人から1万6千人は出たといわれる。逃亡や自殺が世間を騒がせ、逃亡すれば罰則や拷問が待っていただろうからそれすらもできない女工も多くいたことだろう。前借金によって身動きもできない女工も多くいた。
農商務省商工局が出した『職工事情』(明治36年)では紡績工場の勤務年数のデータがある。一年以内のものが46%、2年が23%、3年が13%というこんにちの3年で会社を辞める若者もびっくりの勤続ぶりである。ある千二百人いる工場では、「逃走除名」が八百人と記されていて、あいた口がふさがらないといった感だ。
募集人は争奪や逃亡の多い女工を、工場を渡り歩かせて多く儲けを得ようとしたことだろう。またときには売春宿に売ったこともあるだろう。女工は逃亡するわ堕落はするわ、また過酷な労働にたいせつな娘を虐げられた地方の親たちは憤り、そして世相は募集人や紹介人を規制する方向に動いていったものだと思われる。
しかしこれは女工の話においてであって、派遣業というのはもっとどす黒い歴史があると見たほうがよいだろう。以下のリンクは過去の派遣業とよばれるものがどのような陰惨な姿をとってきたのかの一端を示すだろう。
タコ部屋労働
常紋トンネル 北辺に斃れたタコ労働者の碑
手配師
口入屋
女衒
人身売買
フルキャストを事業停止に追い込んだ港湾荷役
「近代ヤクザ肯定論・山口組の90年」 宮崎学著
派遣とは女衒や人身売買までもふくまれてしまう、一歩転がれば、そうとうに危険な面ももつのである。
たとえばタコ部屋は北海道の鉄道や開拓のために監禁され、暴力的な環境の中で強制労働させられる監禁部屋のことをさす。北海道の鉄道の枕木より死者の数のほうが多いとまでいわれる。このような労働者も斡旋業者によって本州や朝鮮から、ときには騙されたり、あるいは誘拐まがいにつれてこられたのである。
そしてくわしいことは私もまだ調べていないのだが、港湾労働の関係からヤクザの山口組は生まれてきたのである。つまり港湾労働の派遣から山口組は生まれているのである。禁止された港湾労働に派遣したと業界大手が事業停止に追い込まれたのは故なきことではないのである。私も日雇いの派遣にいったときにそれらしき人がむりやりに事務所仕事をしているのを見て、ヤバイと思ったことがある。
こんにちの私たちはむかしの労働の歴史や経緯をまったく知らないし、聞きもしない。なぜさいきんまで派遣が禁止されていたのかその歴史すら知らない。そしてそんな健忘症のわれわれの前に派遣の世界は広げられてゆくのである。こんな恐ろしい歴史を背負った派遣の道をかんたんに押し広げていいものかと思う。なぜそのような轍をふたたび切り開こうとするのだろうか。私たちは歴史をなにひとつ学べないのだろうか。パンドラの箱は開け放たれた。
『女工哀史』 細井 和喜蔵
女工哀史
細井 和喜蔵
細井和喜蔵明治からの労働報告書として、『日本の下層社会』はジャーナリストの手によるものであり、『職工事情』は農商務省工務局のまとめたものであり、この『女工哀史』ははじめて労働者自身によって書かれたものである。労働者自身が工場のじっさいや労働状況を知っているのはいうまでもないことだし、労働者自身しかわからないこともたくさんあるだろう。
明治から騒がれた女工の凄惨さは大正14年になってはじめて労働者自身の声で語られたのである。凄惨さの一端は朝の4時半からおこされ、12時間労働、ときには17時間労働を強いられたような労働時間の長さであり、地震や火災の際には数百人が犠牲になったとつたえられ、コレラのときには助からないと毒をのまされたり、72万の染織工業の女工のうち、毎年1万6千人も死亡していたことからもうかがわれるだろう。
一方では紡績業は日本の基幹産業となり、めざましい発展をとげた大阪は「東洋のマンチェスター」とよばれるようになり、昭和4年にはイギリスを抜き、綿製品輸出世界第一位となる。産業や経済としては輝ける発展をみせたわけだが、世人はげんざいもこの表面の光だけを見る傾向があるが、そこで働く女工たちは多くの辛酸や惨劇をなめていたわけである。
煙をはく戦前の大阪細井和喜蔵は京都加悦に生まれ、小学校とちゅうから紡績工場ではたらくようになり、作家をめざしていたころにこの本を書くのである。ところどころに大阪の地名が冠された紡績工場が出てきて、大阪にそんな工場があったのかとびっくりしたが、いまはそれらの工場は跡形もない。ちなみに東洋の魔女とよばれたパレーチームは大日本紡績貝塚工場のチームだったとはよけいに驚いた。女工たちの夢の跡の復活みたいなものだったんだな。
女工たちの小唄にこんなものがあり、細井の言葉がつづく。
「工場は地獄よ 主任が鬼で
周る運転 火の車」
佐渡の金山がこの世の地獄だったのは昔、工場とは文字通りなる生地獄に外ならぬ。彼女は休もうと思う。しかし休む自由がある位なら、工場鬼の責め苦から逃れることは出来る。
その後、細井和喜蔵はどのような人生を送ったのかと気にかかるが、この本の出版一ヶ月後にわずか28歳でこの世を去るのである。その後は五人の子どもをかかえて日雇い労働で生きた奥さんの話もこんにちでは伝え聞くことができる。「女工哀史」は関係者がとっくに死に絶えた遠い歴史の話ではないのである。
女工哀史”の著者「細井和喜蔵」とその妻
わたしの「女工哀史」 高井としを
12時間労働や17時間労働でひどい、酷使だとかいわれるが、げんざいの私たちだってこのくらいの労働時間は平気で過ごしている。変わっていないって。法律や条件、または待遇は変わったかもしれないが、根底の力関係が変わらないかぎり、私たちは「労働哀史」を生きてゆかざるをえないのである。学校や世の中が教える法律や制度によって守られていて、女工哀史のような時代は終わったのだという甘い思い込みは捨てたほうがいい。
▼関連リンク 検索するとさすがに多くヒットしますね。現代でも「女工哀史」という言葉が頻出するように世は変わっていないのですね。
新聞記事に見る明治の「女工哀史」 読売新聞データベース
女工のちから 近代資本主義を底辺で支えた娘たち
細井和喜蔵『女工哀史』と富岡製糸場
紡績業
綿業会館
▼現代版
母子哀史(女工哀史の現代版) トヨタ下請
現代版「女工哀史」?、iPod工場の実態を英紙が報道
関連商品
あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)
日本の下層社会 (岩波文庫 青 109-1)
職工事情〈中〉 (岩波文庫)
東京の下層社会 (ちくま学芸文庫)
結核という文化―病の比較文化史 (中公新書)
by G-Tools
大正シーサイド・スカイロード、ワークマンタウン
大阪市大正区は四方を海や運河に囲まれています。電車も環状線が一駅あるだけで、さながら陸の孤島といった感じです。私もめったに足をふみいれたことがなく、未知の島です。いまだに渡し舟が市民の足として利用されています。
沖縄から移住した人が多く、町も工場と住居が渾然一体としています。私はこのような労働と住居が一体化した町のほうが魅力的に感じます。労働が住居から遠く離された郊外住宅は労働観を育てないと思います。工場街というのは汚らしく、閑散としており、ときには騒音や異臭がただよってきたりします。中は暗く、なにが蠢いているのかわからないといった感じもあったりします。が、それこそが人間の現実というもので、労働を隠した暮らしは子どもたちや私たちの現実認識を妨げるだけだと思います。
運河や川にかけられた橋は船の航行条件のためにひたすら高くなっています。さながらスカイロードといった感があります。夜景もすばらしいのですが、どこの橋もそうですが、止まってながめられないのが残念ですね。

このような渡し舟がいくつもあります。橋がかんたんにかけられる時代に渡し舟がいくつも残っているというのは驚きですね。でもそれがかえって、大きな特質になっていますね。

このようなぐるぐる何重も回る道を通って橋は渡されています。そうとうの高度です。ぐるぐる回る上に高くて、けっこう楽しいです(笑)。千本松大橋だと思います。

これは、尻無川新橋かな?からのすばらしい眺めです。さながらスカイロードといった感じですね。駐車スペースがないので観光スポットになれなくて残念ですね。徒歩ではのぽれますが。

大正ドーム(京セラドーム)や弁天町ツインタワーのほうの眺めです。

工場とマンションがとなりに立ち並んでいますね。マンションで育った子どもはこのような工場を見て労働観を育ててゆくと思います。私が育った郊外住宅では働く姿がなく、海の向こうの工業専用埋立地に追いやられていました。工場煤煙や騒音の対策だったと思うんですが、子どもが育つには悪効果の影響ももたらしたと思います。労働を隠蔽した社会になってしまいましたね。

何本ものパイプがむきだしで並ぶ製綱所。強烈な外観は異彩を放っています。生業の風景は目に見えるところにあったほうがいい。
chez-sugiさんの「散歩日和」のように町語りをしてみたいものですが、なにか私には町を詩情的に語るロマンや素質が欠けるな〜と思いました。
▼大正区の地図
悶絶!の「ランチメイト症候群」の考察
職場の昼飯というのはむずかしい。とくにみんなで固まって食べなければならない職場は苦痛である。会話がないと気まずいし、会話に入れないと苦痛はいっそうひどい。嫌ったり、仲良くなったりする流動的な関係にしがみついてゆかなければならなかったりする。
私は基本的にひとりランチである。ひとりで外食にいったり、どこか昼寝の場所を見つける。だれかと食べる関係は気まずかったり、関係の波間にほんろうされて、苦痛である。だから私は関係を断つ。男でよかったと思う。
「ひとりランチ」で検索すると、読売新聞の発言小町に女性たちによる「ランチメイト症候群」関係の悩みや相談がよくひっかかってくる。身につまされる思いで読む。
男も女性と同じような感覚はもつのだが、女性ほど群れやグループの強制力は強くない。それでも除け者や嫌われ者、孤立者と思われないための予防策は張らなければならないのは基本的に男も女も変わらない。
「ランチ時間の孤独」
「仕事より疲れるランチタイム 」
「お昼休みの憂鬱」
「ランチ 誰かとつるまないといやですか?」
「職場で一人ランチ 」
「職場でのお昼ごはんは、1人で食べたい 」
何件かのランチ時間の苦痛や悶絶の発言を抜書きしよう。
■全く理解できない人種の女の子たち(常に文句・愚痴・人の陰口のオンパレード)といやいやランチをともにしてる私です。
じゃあ一人で食べればいーじゃんとも思うのですが、そうもできないので。
ほんとこの子達と話すの嫌・・って思ってたら顔に出ていたらしく、今では完全無視されてます。
■その時話す事といえば、会社の人の悪口・昨日見たトレンディドラマの感想(見てないと仲間はずれ、、、なので見たくもないのにみてました)その内昼休みが来るのがいやで、3年後出社拒否症になってしまいました。
■今回の職場は買いに行くのも皆一緒、食べるのも1つの机を囲んで皆一緒(食べる直前に一人がトイレにいけば帰って来るまで皆食べずに待っています)というような状況。。ここでは何となく一人行動が出来ない空気なのでこの2ヶ月、修行だと思ってお昼は彼女達と共に過ごしてきましたが、大抵が聞いた事もないバンドの話やかなりオタク系なアニメ、漫画の話で盛り上がるので全く付いていけずもう限界です。この職場は仕事内容等は気に入っているので辞めたくはありません。
■いつも4人で食べているのですが、たまに3人の時なんか私の存在は無視かい??と感じるほどずーっとあとの2人(AさんBさん)で喋っていて、時折私にはわからない話をされ、こちらから無理くり会話に入っていかないと参加できないみたいな状況。
■ちなみに私も最近はほとんど会話に参加することなく、もくもくと食べています。当然私以外の5人はお喋りに夢中なので食べるのも遅く、食べ終わった後の時間が更に苦痛でしょうがありません。その子達のオタク話やドラマ話をBGMにぐるっと辺りを見回すと、隣の部署の男性が自分の席でグウグウ昼寝してるのを見えるので心の底から羨ましく思います。
一度皆が食べている途中に「銀行に行って来ます」と席を立ったことがありましたが、その瞬間、場の空気が一変したので、それ以来その手は使っていません。
あぁ、この「何でも一緒集団」から早く抜け出したいです。
■私を含め5人で一緒にランチをとっているのですが、他の4人が私のわからない話ばっかりするんです。
(たぶん意図的)
あとは会社の人の悪口。毎日よくネタがあると思います。
最初はわからないなりに質問や相槌を打つなどして
なんとか話に加わろうと努力していたのですが、
私が話に加わろうとするといきなり話題を変えられたりすることもあり、
ランチの間一言も話さない事が増えました。
さすがに私も頭にきて、銀行に行くとか近くの会社で働いてる友達と食べるから
など理由をつけて別行動をとるようにしました。
■5人で食べていたのですが、アニメやドラマの話ばかりで全然話がつまらない。
一人で席で食べるとなぜか苦情がくる・・・
■女って、「あの人はつるむ相手がいない」「嫌われてる?」と見られるのを極端に怖れますね。群れないと安心しない。私は寂しい女じゃないわ!ほら、周りに仲間もいるでしょ!って。
その考えに囚われてると、一人ランチは、異端児かあぶれ者のする事でしょう。楽だろうけど、自分は勇気ないな・・・って。
■男性3人女性(私)1人、計4人。昼はみんな事務所で食べています。テレビはNHK。仲が悪いわけではないけど、特に喋る人もいません。し〜んとした中テレビの音と、くちゃくちゃ食べる音。お茶をゴクンと飲み込む音。
不快でたまりません。昼休みは特に嫌です。時々車の中で食べます。
■お弁当持参でも社食で食べなければならず、同僚と必ずテーブルが一緒になります。
それはそれでものすごく辛いです。
一人で静かにその時間くらい過ごしたいですよ。
■1時間の昼休みが3時間くらいに感じ、午後仕事をスタートする時にはもうグッタリですよね・・・
女性がいつも群れて、同一行動を終始おこなわなければならないのは、嫌いや対立を極力避けるからだろう。好きな者同士は同じ行動やファッションをおこなったりする。姿勢反響や同調行為とよばれものだ。違う行動は嫌いや対立の表明である。だからひたすら同調行動がおこなわれ――強制されるのである。
これはアメリカの市民社会を分析した社会学の本でもかなり多くの例が観察されている。アメリカの市民のとなり近所のグループにひたらす同調化・画一化してゆく様子が考察されているのである。嫌うことや対立、衝突がひたすら避けられる社会というのは、どこまでも画一化・同調化してゆかざるをえない。女性たちはこの波に呑みこまれて、身動きがとれないのである。
職場というのはこんにちの多くの家にあるような個室がない。大部屋やひとつの部屋に複数の集団で同一時間を過ごさなければならない。対立や衝突は業務上あってはならず、そのためにひたすら同調と、集団やグループでのかたまりが強制されるのである。集団として管理されているのである。
集団から外れることは、集団で業務や仕事をこなすさいの支障になる。孤立はチームワークの失敗の目印、連携の支障の目印である。だからひたすら集団のかたまりと同一行動が要求される。
でも人間は機械でもないし、集団や幾人かでいるとかならず齟齬をきたしたり、感情的対立やいがみあいをもたらすものである。業務上の集団での要請は人間への過剰な要求である。嫌ったり、きまずい関係でも、同じ部屋で同じ時間を過ごさなければならない。
そうしてえんえんとあなたを嫌ってませんよ、集団を嫌ってませんというメッセージである会話がつづけられなければならないのである。でもこの会話は通じない人や合わない人も発生させる。沈黙がつづくと、「あなたを嫌っている」という無視の往還になってしまうのである。沈黙とは、「無視」の側面ももち、敵意や攻撃の一面ももつ。そして同一行動内での会話の「戦争」がおこるのである。
会話の流通権の戦争が起こる。会話から疎外された者は無視や除け者という屈辱や攻撃をうける。意図ではなく、会話が合わなかったり、内向的であるばあいにもそれがおこり、心を痛めつけられる思いがするものである。おそらくははじめは攻撃の気持ちなどみじんもないものが、会話が合わないということで、敵対的関係になることもあるだろう。
このような会話の惨劇にならないために沈黙を賢明にも選びとる集団もある。みんなもくもくとTVを見ながら、食事をとるといった職場である。またこれも苦痛なものである。気まずいし、食事の音ばかりが耳に響き、不快になる。集団というのは、しゃべろうが、沈黙しようが、どちらに転ぼうが、苦痛を発生させるものである。
集団でいることは苦痛であろうとも、孤立や仲間外れと見なされないためには、人は集団やグループに意地でもしがみつかなければならない。人から「嫌われ者」や「除け者」と見られることを、人は極端に恐れる。あるいは、学校教育などで「教育」されるのだろう。
とくに教育や知識のウェイトが落ちたさっこんでは、学校で生き残る術はこのグループに属することのみになっている。ために「ランチメイト症候群」と命名されたひとりランチのできない若者が生まれることになる。これは病気でもなんでもない。「生存条件」といってよいレベルのものである。「嫌われ者」や「除け者」になったら、職場でも学校でも、「居場所」はないのである。私たちはこの苦痛をより強く「刷り込まれ」ている。
孤立やひとりランチは「嫌われ者」や「除け者」の目印なのである。人格的に欠点のある人物なのである。それはただ集団に同調できるか、画一化できるかという条件の内でしかないのだが、いまはその基準が猛威を振るうようになっている。個人主義や自由はこの社会の中ではお笑い種だ。なぜここまで極端になったかと考えると平和で安定した社会の、対立や衝突をひたすら避けてきた社会の帰結なんだろう。
このような集団の力学を利用した管理方法というのは、思想教育よりよほど人々の自由な人権を剥奪するのに強力な武器になってきたのだと思う。言葉や思想が育つ前から、集団の除け者を恐れる感情的な気持ちが個人の自由や個人主義を奪いとってゆくからだ。
私たちの時代というのはこの集団で群居しなければならないという要請に多くの魂を殺されていることだろう。仲良しグループや集団に承認されなければならないという罰則規定に、多くの人たちが轢き殺されていることだろう。
こういう状況で孤立やひとりランチをみずから選びとることはかんたんではないだろう。ある意味ではみずから「嫌われ者」、「除け者」のレッテルや役割を買って出るようなものだからだ。それは相手に対しての「嫌い」や「対立」をメッセージするばあいも時にあり、集団全体に攻撃を仕かけていると見なされることもあるだろう。
しかしこの集団同調行動はあまりにも不自然であり、苦痛である。はやく「一抜けた」ほうが賢明というものである。対立や嫌いを避けた苦痛の代償は、身の安定を得られる代わりに、自身の自由や個人主義の抹殺をもたらすことになるだろう。あるいは「居場所」の確保できない犠牲者を多く増やすことになるだろう。ゆるやかに離れた、個人でも存在することのできる社会にもってゆくほうが、多くの人のためになるのだろう。またそういうことが理解できる、群れを離れることの寛容度の高い社会になる必要もあるのだろう。
『窮乏の農村―踏査報告』 猪俣 津南雄
![]() | 窮乏の農村―踏査報告 猪俣 津南雄 商品詳細を見る |
昭和9年(1934年)に出版された昭和恐慌下の農村の窮状を訴えたルポタージュである。
なぜ私はこの本を読んだのだろう。大阪に住んでいて農村の状態がまったくわからないことと、農民というものがどのような暮らしをしていたのかという興味から読んだのだろうか。
山村や農村の景観というものは美しくて癒される思いがすることに、山に登ったり、バイクに乗り出して気づいたのだが、じっさいはどのようなものかという興味から読んだのかもしれない。自分でもよくわからない。
印象としては農村ののどかな風景とはまったく別に農村というのはカネや借金や経済がどこまで入り込んでいるけっこうシビアな世界であることを知った。牧歌的な農村風景というのはたんに見た目だけであって、カネがどす黒く渦巻いている世界のようである。
この本の内容をまとめることはできないが、印象に残ったことを抜き出すことにしよう。農村にも機械化がはいりこんでいるのだが、年々新しい機械を買わねばならず、かえって重荷に苦しむありさまだということだ。そして機械化は人手を省くので地主や富農が小作させていた土地を自作することが可能になり、土地をとりあげられた小作人はまいってしまう。
農民たちは月給取りを体に楽しているとこきおろし、日曜日などに炬燵にはいって蓄音機かけてと憤っている。窮乏する農村は工場を誘致するのだが、労賃は都市より三分の一ですんだということである。しかし工場は資本の都合で賃下げや休業や解雇をし、しまいには潰れたりして、かえって農民の生活を不安定にしたのである。農家のおかみさんも工場通いするようになってきたのだが、朝の四時ころから出かけ夜の十一時までもがんばったという。明日の米を買うといった非常手段のためであったりした。
明治初年の地租改正、租税の金納化は、現金収入のない山村の農民たちをびっくりさせた。彼らはその負担から逃れようとして法律上自分たちの所有地となった土地を地主にあずけた。そしてかれらは小作人となった。自分たちの食べる米さえ満足に手に残らないような農家が多いのは、収穫米の半分を地主にとられる小作人がひじょうに多いためである。
山や山村に道路ができた。トラック1台はボッカを担いでいた手間賃四十人分の仕事を奪ったそうである。貧農は借金が多く、銀行や信用組合からではなく、個人から借りた。抵当はなく、動物的な労役をもってこれに代えた。借りたが最後返せない。だから借金は大きくなる。
凶作の年、娘が十五円の前借で売られることも珍しくなかった。百円とまとまった金が魅力であるし、娘も農村にいたところで行末にいいことがあるわけではないし、きらびやかな衣服が身につけられるし、ちょっとした不安と恥ずかしさ程度で売られてゆくという。
都市に住む者から見た農村は豊かな自然に囲まれ、のどかで牧歌的な風景に見えるものである。でもそこはカネが転がりまくるけっこう世知辛い世の中であるようだ。昭和恐慌下からは戦争や戦後をへて農村はだいぶ変わったと思うのだが、農村とはどのようなものであるかと知るにはこの本はだいぶわかりやすかったのではないかと思う。のどかな農村のイメージに無知すぎた自分を自覚した。
なぜ労働社会から降りられないのか
私は労働が人生の目的だととても思えない。人生の目的や充実はもっとほかのところにあると思うのだ。だけれどもじっさいは毎日の多くを労働に奪われ、人生のおおくを労働に捧げなければならない。人生はこんなものではないという思いが拭い切れない。
われわれはなぜ労働社会から降りられないのか。あるいはなぜ労働時間をもっと減らすことができないのか。
私たちの社会は、「消費社会」だとか「大衆社会」とか呼ばれ、あるいは「豊かな社会」、「文明社会」ともいわれるが、「労働社会」と呼ぶのがいちばんふさわしい。この「労働社会」であるという事実をいちばん前にクローズアップすることがひじょうに大切である。
答えとしては対企業関係をあげがちになるが、ゆえに休みや労働時間を減らせだとか、給料を増やせなどの企業を「敵」と見なしての労使関係のいがみあいになるが、おそらくこれは労働社会の表層や結果をいじくりまわすだけに終わるだろう。
私たちこそが労働社会を欲す欲望構造や社会構造をもっているから、げんざいの結果を招来している考えるほうが妥当である。文明や分業システムを欲すわれわれの欲望自体がげんざいの労働社会を生み出している原因だと考えるほうが問題の解決策に光を当てることになるだろう。
われわれは文明を欲する。あるいはおおくの人たちのサービスや製作物を欲する。たくさんの人につくられたモノやサービスを手に入れたいがために、われわれはますます自分の時間を、人生を、そのような他人に売り渡すサービスや時間に費やさなければならなくなる。
いったら文明の利器がほしいのなら、おまえも文明の利器をつくれ、サービスしろということである。したがって私が電車に乗ることを欲し、マイホームに住むことを欲し、ガス水道電気の供給をのぞめば、私も同じように人にそのような文明の利器を提供しなければならないわけである。
分業と文明というものはますます私たちを対他サービスの溝に放り込み、そこから降りられなくなさせる。私が車をほしがり、家電をほしがり、映画や音楽を欲し、旅行や趣味を欲するたびに私はそれらを手に入れるための貨幣活動――労働へと駆り立てられる。しまいには労働が私の人生を乗っとってしまい、本末転倒な労働のために生かされる人間になってしまう。ぎゃくにほしがればほしがるほど、それに使う自由な時間が失われるのである。
分業システムが私を労働から降りなくさせるのだろうか。
私が他人のサービスを欲するのを減らし、魅力に感じる気持ちを減じ、多くのサービスを断てば、私は人生の目的や充実を手に入れられるのだろうか。
私たちはなにかがほしいというよりか、他の人と同レベルや平均的な暮らしといったものを欲すがゆえに、労働社会から降りられない。つまり人と合わせるために私は多くの時間を労働に奪われ、人生を失う。
平均的な暮らしを営むために、あるいはみんなの暮らしのレベルに合わせるために、私はみんなと同じように長時間、労働に縛られる。つまり「みんな」と同じであるために私は人生を失うのである。みんながそうであるから、私もそうでなければならないというわけである。
さらには私は「みんな」より劣りたくない。劣等視され、差別されることを恐れる。人より優越し、人から認められ、承認されることを欲す。その基準とは経済的レベルであったり、所有物である。モノサシが金銭であり、物質であるなら、私をそれを得て見下されるのを防ぎ、優越感を手に入れるためにますます労働に駆り立てなければならない。
金銭と所有の競争が、私を労働に縛りつける。私たちはサルがつかんだキャンディーのために穴から手を出せないような状態にはまりこんでいるのである。サルを笑えない。私たちのキャンディーとは、金銭であり、所有物であり、「みんなと同じ」である。ために労働しているうちに人生は黄昏をむかえる。
もし少ない労働時間、少ない収入で満足しようとすれば、人と社会から金銭や所有物がないといって見下され、企業からは身分の低い非正規雇用として差別され、「貧困」や「哀れ」、「悲愴」という言説をレッテル貼りされ、流布される。監獄とは、「みんなと同じ」であり、金銭であり、所有物なのである。
私たちは「みんなと同じ」と経済的所有物を求めるがゆえにどこまでも労働に人生を売り払わなければならなくなっている。これは根本には人間のランクや階層の配慮といったものが、横たわっているのだろう。人より劣りたくない、人より優れたい、みんなと同じ暮らしをして、同じ境遇を得たい――そうして私は人生を生きるより、労働に人生を奪われるのである。
貨幣経済が発展し、みんなの所有物の基準がつりあがると、私たちはますます労働から離れられなくなり、不幸になる。お金がなく、貧乏な社会であったほうが、人々は幸せではなかったのかと思う。
それは人間にとっていちばん重要である「人とのつながり」が緊密で、親切や扶助の関係が機能していたからだと思われるし、みんなが貧しいなら高いレベルの競争は働かない。ゆえに人々はかえって安心して、のびのびと暮らせたのである。われわれの社会とはエリート校やスポーツ選手のような高レベルの異常な競争社会に生きているのかもしれない。
人のレベルが落ち、経済的所有物の願望を、またはレベルを減らし、貧しい社会になったのなら、案外この日本は労働が少なくとも幸せな社会になれるかもしれない。
私たちは勝つことより、人より優れることより、「負けること」「劣ること」に価値や勇気を見い出せる社会にすることが、労働の少ない幸せな社会になることの秘訣ではないかと、私はひとつの類推として推奨するのである。
「負けたっていいじゃないか、労働に自分の人生を奪われるのなら」











