次の思想家はこの人たち?


 ドゥルーズやデリダ、フーコー以降の新しい思想家を私はよく知りません。次にくる思想家の評価はまだ固まっていないからでしょうか。いちおうこの人たちかなと目星をつけて書籍を集めてみました。

 思想家というのは私にとっては難解で、理解が届かない代物がおおく、興味が重ならない部分も多々あるのですが、思想の頂点ということで、興味がないことはありません。いちど、なんらかの機会に挑戦してみるのも悪くないと思っています。


ジョルジョ・アガンベン ウィキペディア YouTube検索結果
ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生中味のない人間開かれ―人間と動物
アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人人権の彼方に―政治哲学ノートバートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

スラヴォイ・ジジェク ウィキペディア YouTube検索結果
イデオロギーの崇高な対象否定的なもののもとへの滞留    ちくま学芸文庫幻想の感染
厄介なる主体1―政治的存在論の空虚な中心ジジェク自身によるジジェク快楽の転移

ポール・ヴィリリオ ウィキペディア YouTube検索結果
戦争と映画―知覚の兵站術 (平凡社ライブラリー)パニック都市―メトロポリティクスとテロリズム速度と政治―地政学から時政学へ (平凡社ライブラリー (400))
情報化爆弾情報エネルギー化社会―現実空間の解体と速度が作り出す空間ネガティヴ・ホライズン―速度と知覚の変容

ベルナール・スティグレール ウィキペディア YouTube検索結果(なし)
象徴の貧困〈1〉ハイパーインダストリアル時代現勢化―哲学という使命愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を

ジグムント・バウマン ウィキペディア YouTube検索結果
リキッド・モダニティ―液状化する社会アイデンティティ政治の発見
近代とホロコースト
廃棄された生―モダニティとその追放者
廃棄された生―モダニティとその追放者

社会学の考え方―日常生活の成り立ちを探る
社会学の考え方―日常生活の成り立ちを探る


スコット・ラッシュ ウィキペディア YouTube(なし)
情報批判論  情報社会における批判理論は可能かポスト・モダニティの社会学
再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理
再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理


リチャード セネット ウィキペディア(なし) YouTube(なし)
それでも新資本主義についていくか―アメリカ型経営と個人の衝突
公共性の喪失
公共性の喪失

無秩序の活用―都市コミュニティの理論 (1975年)
無秩序の活用―都市コミュニティの理論 (1975年)

権威への反逆
権威への反逆


ノルベルト・ボルツ 
意味に餓える社会グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス)世界コミュニケーション
批判理論の系譜学―両大戦間の哲学的過激主義 (叢書・ウニベルシタス)カオスとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)

ジュディス・バトラー ウィキペディア YouTube検索結果
ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱触発する言葉―言語・権力・行為体アンティゴネーの主張―問い直される親族関係
生のあやうさ―哀悼と暴力の政治学偶発性・ヘゲモニー・普遍性―新しい対抗政治への対話

まあ、こんなところでしょうか。彼らの鋭い分析や洞察にあやかりたいものです。でも意味がわかんねぇ〜からね(笑)。みなさんもその難解さ・難渋さに後悔しないように。

私の気になる新刊本 2007年9月刊


〈私たち〉の場所―消費社会から市民社会をとりもどすスポーツニュースは恐い―刷り込まれる〈日本人〉 (生活人新書 232)なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか? (講談社+α新書 364-1C)
■『〈私たち〉の場所』―サブタイトルが「消費社会から市民社会をとりもどす」で、これはほんとうに現代の重要な問いですね。
■『スポーツニュースは恐い―刷り込まれる〈日本人〉』――スポーツ・ナショナリズムは考えたい問題ですね。すなおに「国民」になっていいものか。
■『なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?』――社会や政治より、私生活のみで自足される社会はどこにいくんでしょうね。

分裂にっぽん 中流層はどこへ病気になったら死ねというのか―医療難民の時代誰が日本の医療を殺すのか―「医療崩壊」の知られざる真実 (新書y 180)
■『分裂にっぽん 中流層はどこへ』――画一化した中流ボリューム層より、上下流のふたつの生き方が共存する社会のほうが楽しいかも。一億層中流の生き方なんて社会主義の国営の人生みたいなものです。
■『病気になったら死ねというのか―医療難民の時代』――健康保険ってヘンな制度だと思っていましたが、保険が払えなくて医者にかかれないという時代になりましたね。本末転倒だ。
■『誰が日本の医療を殺すのか』――医療の現場ってそうとうハードみたいですね。私はなんで医者がエリートで金持ちなのかよくわかりませんでしたが。

日本売春史―遊行女婦からソープランドまで (新潮選書)プラスチック・ワード―歴史を喪失したことばの蔓延自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書 680)
■『日本売春史』――小野谷敦のブログを読んでいますが、さすがにおもしろいところに目をつける人ですね。
■『プラスチック・ワード―歴史を喪失したことばの蔓延』――現代は歴史のつながりが希薄な時代といえますね。過去の経験や叡智を軽視した社会というのはうぬぼれからか、愚かさからか。
■『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』――法哲学からの自由論らしいです。

無心ということ (角川ソフィア文庫 359)日曜日に読む「荘子」 (ちくま新書 678)動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない (ちくま学芸文庫 ヒ 11-1)
■『無心ということ』――世界的な仏教者の鈴木大拙の本は読みたいですね。
■『日曜日に読む「荘子」』――荘子はいろいろな「当たり前」を脱臼させてくれますから読んでおいて損はないと思います。
■『動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない』――世界は幻想か、この問いは仏教の認識論とつながってくる、私にとってはぜひ問いたい問題です。

老いてゆくアジア―繁栄の構図が変わるとき (中公新書 1914)最高学府はバカだらけ―全入時代の大学「崖っぷち」事情 (光文社新書 318)影響力の武器[第二版]
■『老いてゆくアジア』――これからと思われていたアジアに高齢化の波がしのび寄っているのか。
■『最高学府はバカだらけ―全入時代の大学「崖っぷち」事情』――大学にだれでも入れるようになると、意味や価値も変わってきますね。それにしても日本の大学や教養って学歴のための道具になっているから、とことん無意味だと思いますね。
■『影響力の武器』――この本はなかなか読まれている本なのでしょうか。

幻想の未来,文化への不満 (光文社古典新訳文庫 Bフ 1-1)アドルノ伝歴史を哲学する (双書哲学塾)
■『幻想の未来,文化への不満』――フロイトの著作がいっぱんの文庫で読めるのはありがたいことですね。
■『アドルノ伝』――ハクのある分厚い本です。
■『歴史を哲学する (双書哲学塾)』―― 歴史というのはまずはメディア・リテラシーの問題が問われなければならないと思います。

崇高の哲学―情感豊かな理性の構築に向けて (〈思想・多島海〉シリーズ 9)夢のもつれ (角川ソフィア文庫 357)ブローデル歴史集成 (3)
■『崇高の哲学』――現代は崇高さのなくなった扁平な社会だと思います。
■『夢のもつれ 』――鷲田清一はなにを語っているのでしょうか。
『日常の歴史』――ブローデルの一万ほどするぶあつい本です。

なつかしい話―歴史と風土の民俗学日本古代史を生きた人々―里の民・都市の民・山海の民奈良名所むかし案内―絵とき「大和名所図会」
■『なつかしい話―歴史と風土の民俗学』――宮本常一はいまなぜ注目されているのでしょうね。足で見た日本の民衆に身近さを感じるからでしょうか。
■『日本古代史を生きた人々―里の民・都市の民・山海の民』――都市民いがいの人たちを知りたいですね。
■『奈良名所むかし案内―絵とき「大和名所図会」』――むかしの観光名所って現代のハイキング・コースと重なりますね。ハイキングが時代の重層を得ておもしろくなりますね。

聖徳太子と斑鳩京の謎―ミトラ教とシリウス信仰の都天皇の国・賎民の国―両極のタブー (河出文庫 (お15-1))
■『聖徳太子と斑鳩京の謎―ミトラ教とシリウス信仰の都』――古代の太陽信仰ってペルシャが起源なんでしょうか。栗本慎一郎が喜びそうな本ですね。
■『天皇の国・賎民の国』――ヒエラルキーは上と下の両方がなければ完成しませんよね。

ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」 (幻冬舎新書 (か-4-2))
ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」 (幻冬舎新書 (か-4-2))
アパートなどの住居費が高すぎるんでしょうか。

勝手に絶望する若者たち (幻冬舎新書 あ 2-1)
勝手に絶望する若者たち (幻冬舎新書 あ 2-1)
若者は「勝手」に先走って絶望しているだけなんでしょうか。

格差国家アメリカ―広がる貧困、つのる不平等
格差国家アメリカ―広がる貧困、つのる不平等
アメリカは日本の何歩先をいっているのでしょうか。

格差社会から成熟社会へ
格差社会から成熟社会へ
格差社会は成熟社会につながるものなんでしょうか。

格差社会にゆれる定時制高校―教育の機会均等のゆくえ
格差社会にゆれる定時制高校―教育の機会均等のゆくえ
格差社会では定時制はツライですね。

若者職人の社会と文化―14~17世紀ドイツ
若者職人の社会と文化―14~17世紀ドイツ
ギルドとか徒弟制がはたらいていたころなんでしょうか。

ひとと集団・場 第2版―ひとの集まりと場を利用する
ひとと集団・場 第2版―ひとの集まりと場を利用する
集団ほど難しいナマモノはないと思いますね。

日本の大学教授市場 (高等教育シリーズ 142)
日本の大学教授市場 (高等教育シリーズ 142)
大学教授市場ですか。大学教授ってほんとポストの少ない厳しいそうな職業ですね。

暴力論〈上〉 (岩波文庫)
暴力論〈上〉 (岩波文庫)
新訳復刊のようですね。

日本人の精神と資本主義の倫理 (幻冬舎新書 は 3-1)
日本人の精神と資本主義の倫理 (幻冬舎新書 は 3-1)
波頭亮はなにを語ってているのでしょうか。


『ネオリベラリズムの精神分析』 樫村 愛子


ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書 314)
樫村 愛子

ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書 314)


 新書としてはかなりレベルの高い書物である。専門書なみである。現代思想の新しい動向、スティグレールやヴィリリオ、リッツァやカストリディアス、ギデンズ、ル・ゴフ、ラッシュ、バウマンといった人たちの思想を紹介してくれる点でたいへんありがたい。どうも私はドゥルーズ、デリダ、ボードリヤール以降の新しい思想家の情報がいまいち入ってこないのである。

 内容のほうは、「社会の流動化が進むことで、社会の「恒常性」が奪われ、長期的展望が成り立たないこと――。これが現在の私たちに突きつけられている問題であり、本書のテーマである」。ということでプレカリテや再帰性や恒常性、共同体などが語られてゆく。

 私としては再帰性や恒常性ってなんだというはじめのところでつまづき、なにが重要で、なにが問題なのか、よくわからないと思った。思想家の紹介はたいへんに魅力的で、刺激に富む論考を垣間見せさてくれて興がのるところもあったのだが、全体になにを問題にしているのかいまいち私にはつかみにくかった。

 思想家の紹介のつぎはぎだけでそれはじゅうぶん価値のある内容をもっていると思うのだが、紹介本のみでは、あるテーマを追究しているという使命感がなく、重要性を感じられないので、このようなテーマをもった本でいいと思うが、そのテーマ自体が読解力のない私にはさらに霧の中に隠されてしまった気分がする。

 まあ、現代思想から遠のいてしまった私としては、思想家の新しい動向を知るという意味で、刺激に富んだ書物ではあったが、紹介された思想家を読みたくなったり、論考に刺激されてそれを考えてみたくなったということはあまりなかった。私にはもうちょっとの本だった。おおくの思想家の論考や分析はかなり興味のひかれるものであったのだけれどね。新書にはこのような思想家の動向を紹介しながら、みずからの思索をおこなうという本がたくさん出てくれればありがたいと思うのですが。


アインシュタイン よじれた宇宙(コスモス)の遺産 情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX) (講談社BOX) 精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題 本格保守宣言 (新潮新書 225) ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2
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求人の年齢制限が禁止されても。


 2007年10月1日から求人の年齢制限が禁止されるそうである。求人や就職情報誌から原則的に年齢の記載がなくなる。

 厚生労働省(PDFファイル)
 http://www.mhlw.go.jp/topics/2007/08/dl/tp0831-1a.pdf


 求人の年齢制限が30歳や35歳の壁に何度も嘆息してきた私としてはたいへんにありがたいニュースである。この年までに人生を決めなければならないのかと絶望してきたが、まあ希望をもてるようになったといえるのだろうか。

 かつて私は「年齢差別について考える」(99/7)というエッセイを書いた。中高年のリストラが世間を騒がせているのに求人は30歳までばかりだ。こんな世の中では年をとったときに仕事がないではないかと将来を憂えた。

 いろいろな人の努力が実ってと思うが、原則として年齢制限が禁止されることになった。だが政府が禁止したからといって、実情が変わるとは思えない。政府のやることはだいたい裏目に出る。だからこそげんざい政府のやることなんか信用できるか、という市場原理主義に戻ろうとしているのだ。

 玄関だけは年齢制限がなくなるだけで、中身は年齢制限だらけになるというのが実情になるだろう。企業の内にまで政府の規制なんかかけられるわけなどないのだ。能力や実力といったものはどうせ測れないから、年齢に頼るのだ。

 そもそも求人の年齢制限はなぜ30歳までだったのだろう。30歳までしか仕事を覚えたり、会社になじめないと考えられていたのだろうか。終身雇用や年功序列がよく働いてた企業環境にあったからだと思うが、この制度のもとにある、人は一つの会社を勤め上げるのが偉い、みだりに転職するのは転落の人生だ、といった就業観はなぜ生まれたのだろうか。

 戦前は日本もアメリカなみに転職が多かったそうだ。熟練工をつなぎとめておくために企業はいろいろうまい話をつけてくる。もちろん優秀な、会社に残ってほしい人のためだけにだが。たとえば退職金であったり、勤続奨励金であったり。そして戦時中の国家総動員体制のもとに転職の禁止や全体主義的な職業規制が設けられていったのだろう。

 しまいには年金や健康保険の企業の折半や、高度成長期におけるベースアップ賃金によって、ひとつの会社から離れることがマイナスになる企業環境を完成させていったのだろう。企業ものぞむし、労働者もともに会社を転職することは損だとなって、終身雇用や30歳までの年齢制限が編み出されていったのだろう。

 すべては高度成長の人手不足感が、労働者を囲い込む政策をつくらせてきたのだ。しかし平成不況からの右肩下がりの経済において、たちまちその脂肪太りの体質を切り落とす必要が出てきた。中高年のリストラや若者の非正規雇用によって当座をしのごうとしたわけだが、仕組みが高度成長のままであったから、これらの企業福祉から捨てた人たちはまったく戦後の護送船団から放り出されて途方に暮れるしかなかったのである。求人の年齢制限など高度成長期の慣行のままである。

 そもそも求人の年齢制限はひとつの会社にながく勤めるほうが得である、という経済環境にもとに成立したものである。労働者にとって年功賃金や退職金が上るし、年金や健康保険も安心である。企業もながく自社に尽くしてくれる人材を大切にしたい。このような環境にヒビが入ったのは、右肩下がりの時代になってからで、企業は生涯丸抱えの人材を放り出す必要が出てきた。中高年を放り出せば社会的非難が大きい。よってなにも知らないし、損得計算もまだない若者にワリを食わせて、賃金アップも社会保障もない非正規で働かせようということになった。

 問題は高度成長のしくみと、低成長時代のしくみが並立していることである。リストラ中高年や若者フリーターには低成長時代の環境をたっぷり味わわせて、残った中高年サラリーマンや企業は高度成長の甘い蜜をたっぷり味わおうというわけである。年齢制限もこの高度成長時代のしくみが残存したもので、低成長時代に対応せずに、自社にながく貢献する年齢の者だけを企業は採用したいわけである。いちど脱落した人たちはこの「高度成長クラブ(社会主義クラブ?)」に入れない、存在しないとしてきたわけである。

 玄関の門戸をひろげても意味はないだろう。企業の年齢制限を支えているものは、優秀な人材をながく企業にとどめて貢献させようという意図である。たくさんの福祉を積み重ねてかれを会社から離れさせなくさせる。国家の福祉もその企業の意図を後押ししてきたのである。おたがいの好条件のレールから外れる人たちを企業はのぞむものだろうか。

 年功賃金も退職金の割り増しもある。多くの企業はいぜん勤続年数の長い者に賃金アップを上乗せしてきていることだろう。年功序列では中高年はとうぜんにこの体系に組み入れにくい。また年齢による経験の蓄積があり、その序列で組織がなりたっているから、年齢の序列になじまない中途転職者は立場上も難しいものになるだろう。

 求人に年齢制限がなくなるといっても、それを必要としてきた企業の条件や序列にテコ入れでもしないかぎり、暗黙の求人年齢制限が残るのはとうぜんだろう。差別用語や禁止用語を増やしても、実態が見えなくなり、水面下に潜るだけである。企業の採用の実態というものが、企業というものがますます外側の人間からは見えなくなる可能性が高まっただけかもしれない。

 私としては終身雇用のひとつの会社しか知らない、それだけの人生というのは、心の底から恐ろしい人生に思えたものである。井の中の蛙の人生に終わる人生の不幸を心底恐ろしいと思った。もっと世間や会社や、いろいろな人々を見てみたいと思ってきた。だから転職が何歳になっても可能な明るい社会になってほしいと思ってきた。何歳になっても世間の新しい面、新しい職業や役割の人生を選べたら、人生楽しいだろうなと思ってきた。

 終身雇用や終身保障の人生は生涯をひとつの会社に拘束するから、これほどまでにつまらない人生はないと思ってきた。しかし世間はどうも違うらしい。一つの会社にながく勤め、安定していることが偉く、転職をくりかえす人は転落した人生だと思うらしい。私にはそんなせせこましい、社会主義国のような生き方ほどつまらないと思うのだが、すべての金銭的保障をそのような「正しい人生」を選択するように塗りたくってきたわけである。ほんとうにこのような人生が掛け値なしの幸福なのかはおおいに疑問なのであるが。

 年齢制限がなくなっても、現実には年齢の壁は強く残るかもしれないが、もしかして夢や希望があると勘違いできる余地もなきにしもあらずだ。採用側もりっぱに優等生のように年齢差別を禁止する企業も出てくるかもしれない。へたをして、そのようにこの政策が転がってくれれば棚からぼた餅なのであるが。


野宿ツーリング 〜紀伊半島一周篇〜



 連休の三日間、紀伊半島の海岸線を一周めぐってきました。大阪に住んでいる人なら一度は紀伊半島を海岸線沿いに一周ぐるりと回ってみたいと思うのではないでしょうか。白浜ならいったことがあるにしても、枯木灘や串本、熊野灘の光景はなかなか出会うことがないと思われます。

 愛車のYB-1(原付)にテントをのせて、ひいーひいーいわせながら、大阪から熊野市までいってきました。9月はオフシーズンなのか案外すいていて、よかったです。やっと私の頭の中に紀伊半島の海岸線や風景の地図が書き加えられました。

 なおこれまで使用していたデジカメは紛失したため、オリンパスの710万画素の新しいデジカメを買いましたが、メモリカードのトラブルで一日目の白崎や日ノ御碕の写真を消去しなければならなくなり、残念です。


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一日目は白浜の対岸線にテントをはりました。波音を聞きながら、月明かりをながめる、なかなかいいロケーションで満足でした。ホテルや町に泊まると、このようなじかに月明かりや満天の星々に触れることはできませんから、野宿は魅力的なんですね。

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白浜のリゾート地の灯りをながめながら眠りにつきました。白浜はなんでこんな繁栄したリゾート地になったのかと考えましたが、阪神間の人たちが海水浴場を自分たちの近くから追いやり、「南洋」や「太平洋」といった海のイメージをここまでもってきたからかなと思いました。

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円月島です。ぽっかり開いた穴に夕陽が沈んだり、月が見えたときなんか、聖なるものとして崇められたのではないかとレイラインに関心のある私は思うわけです。太陽は大地の子宮に夜のあいだ戻り、ふたたび東の空から生まれるわけです。この地にそんな信仰はなかったのでしょうか。そんな地はよみがえりや再生が願われる場所でもあったわけです。

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三段壁です。絶壁に立つと恐いです。いのちの電話の看板があるところなどなかなか複雑な気持ちになります。

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白浜には田辺に住んだ南方熊楠の記念館があります。再訪です。写真にとりたかった。漱石と同窓であったこと、アメリカやイギリスへの洋行がすごいなと思いました。この人は子どもの頃から気に入った本を写本するという趣味があり、少年時代の好奇心のあり方を終生維持できた幸せな人なんだと思いました。それにしてもどうやってメシを喰っていたのかばかり思ってましたが。

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枯木灘とよばれる風景の中の一写真です。このへんを走る電車はこの海岸線だけにあり、電車で町のつながりをイメージしていた私は、これ以北の広大な山中には人なんか住んでいないのではないかと思っていました。電車と車は土地の感覚を劇的に変えたんでしょうね。

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串本の橋杭岩です。これはすごいのひと言に尽きます。このような岩が40ほど連なります。鳥居が立てられていましたが、そりゃあ、たしかに祈りたくなりますね。自然の中に「意志」や「目的」をもとめると、だれがなんのためにつくったのか、と考えたくなりますよね。

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ふたたびやってきました。雄大な熊野川の風景に見とれて、もう一度やってきました。切り立った山と青い川の広大なランドスケープに大きな解放感や雄大感を与えられます。この風景はたいへんにすばらしい。

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やばい。ガソリンがもうなくなる。4ℓしか入りませんからね。熊野川をさかのぼって絶景の瀞峡(どろきょう)を見ておこうと思ったら、山中でガソリンが切れかかりました。地図で頼みにしていたガソリンスタンドもとうぜんのように休みや跡形もなかったりしますね。車にガソリンを分けてもらうしかないのかと必死に海岸線まで降りようとあせりまくりました。

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ガソリンがもうないのに、ガソリンスタンドがあると思われる海岸線の町までこんなにも距離がある。嘆息の一枚です。気を落ち着かせるためにばしゃり。

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どど〜ん、どど〜ん。波音が轟音のようにとどろく熊野灘、七里御浜に二日目のキャンプを張ることにしまた。風がすさまじく、波打ち際もどんどん高くなり、砂浜の真ん中に張ったテントがばたばたと飛びそうになったので、必死にかつぎあげて、防波堤まで避難しました。

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防波堤の近くでは風は弱くて、助かりました。こんな日にも水平線には漁り火が点々と灯っています。こんな夜にも人々の仕事や労働があると思うと、生活や労働というものは決して生やさしいものではないと感慨にふけります。

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手掘りのトンネルです。ぎざぎざの掘り跡がかなり生々しかったです。トンネルを掘ることの労苦がしのばれる思いです。

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熊野市あたりの集落はなんか貧しい感じがするな〜と思っていたら、一階建ての住居が多いみたいですね。二階建ての家ってけっこうハクがあるんですね。でもその分お金がかかり、働く量も増えなければならないのですけどね。

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雨にふられた北山村の山中に神秘的な霧がかかります。バイクは雨に降られたら濡れねずみのような気分になってよくないですね。でもそのような反面このような景色や自然と触れられるのだから、まあよしとしましょう。


『非常民の民俗文化』 赤松 啓介


非常民の民俗文化―生活民俗と差別昔話 (ちくま学芸文庫)
赤松 啓介

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 これは学問や民俗学というよりか、おじいちゃんの人生や世間話を聞いているんだという気になる。私たちは祖父や祖母がどのような人生を送ったのか聞くことは少ないし、伝え聞くこともあまりないだろう。そういうおじいちゃんの人生や世間を聞かせてもらっているという本である。

 赤松啓介といえば夜這いだが、老若男女いりみだれてすごかったんだな〜とまたしても思う。この夜這いの話にかなり興味ひかれる。順廻りに若衆が娘のもとをまわるムラがあったり、阿弥陀堂や薬師堂などでオコモリして実地に性教育がおこなわれたり、また夜の山中を帰っていると女の夜這いにあったりしたということである。一夫一婦や純愛などの現代からは考えられないほどのひっくり返りっぷりというものである。現代はなぜこうもつまらなくなったのか。

 内容は400ページほどのぶあつい本で、ムラの子どもから女の共同作業、夜這いはもちろんのこと、間引きや尼寺、豪商やスラム街、五十軒長屋と幅広いむかしの人たちの生き方や民俗が伝えられている。もうすこしやわらかかったら、おじいちゃんの世間話そのものである。学問や民俗書と読むのはもったいない。

「金儲けする、立身出世する、これがほんとうの人間だという仮説、規範を作っておいて、これに反抗し、従順でないガキどもは徹底的にしごこうとするのが、臨教審というアホタレがいう自由教育、個性教育だ。こどもを黄金魔や権力魔に仕立て上げることを成功だと思っている民衆、市民、常民のバカともが、そうだ、そうだとわめいている」



 最高にすっきりする言葉だ。こういう金儲けや出世の価値イデオロギーしかつくれなかった日本人を最高になさないと思う。

「どこのムラにも家筋、家柄というような目に見えない階層がある。だいたいは草分け、本家、分家、水呑み、被官という程度……。ムラの開発および起立、定着に関係した家を中心に置き、それから枝分かれ、郎従下人、新規移住というように家格が下がってゆく」



 ムラにこういう階層があったって知ってましたか。これは現在の経済的実力とまったく関係なく、没落していたり、小作人であっても、祭礼のときには最上座に坐ることもあったそうだ。

「大学は出たけれど、まだ生活が安定しないから、結婚は早いというようなバカなことは思いもしなかった。一人前の賃銭を支払うということは、それで結婚してともかく生活できるのを保証したのである」



 たしか団塊の世代とか無職の男であっても結婚やお見合いの話とかがまいこんできたというような話を聞いたことがある。いまはフリーターとかニートの男はまったく相手にされなくなったのだが、むかしは男の将来や可能性が信じられる時代でよかったなと思う。

「私なども、夜這いは夏のほうが盛んなのかと思っていたら、かえって冬の方が盛んで好季節と教えてもらう」



「母と娘、姉と妹がかち合って、大喧嘩をするのも珍しくないらしい」



 夜這いのことである。

「船場あたりの豪商が別宅を建てるようになったのは、古くは大川端、明治になって上町台地、夕陽ヶ丘になどに変わり、大正になると住吉、箕面、宝塚、芦屋、浜寺など郊外へ出る」



 大阪の人しかわからないだろうが、たしかにこれらの地名には現在でも高級住宅街の名が残っているところもある。箕面や宝塚、芦屋などは阪急電鉄がつくりだしたものであるが。

「〜船場方言の難しさであった。……船場と本町とではもう違うらしい。船場にいわせると道修町など一人前の商人でなく、場違いモンである。心斎橋も船場には入れてもらえず、千日前、難波となると下の下らしい。堂島、北浜は本町系と思うが、本町にいわせると迷惑だそうである。船場がA1、本町がA2、新町がB1、堀江がB2というあたりが公平らしい」



 これはてっきり商売の格だと思ったのだが、方言の違いらしい。商売の格だとしたら、心斎橋や難波が下になるというのがおもしろいね。船場で私も働いたことがあるが、いまはもう船場商人という粋や独特さなんててんでありませんでしたね。

「貧民窟から細民街へ、そしてスラム街へ、その名称も変化してきたわけだが、この名称の変化は、また実態の変化と照応していると思う。おおまかにいえば明治の軽工業発達とともに都市に集中してきて脱落した人たちの群居が「貧民窟」であり、大正の重工業発展に吸収されてきた人たちが脱落して形成されたのが「細民街」である。スラム街は昭和になってから、経済恐慌のあおりで集積された離脱の人たちで、それぞれの時代と社会相をもっているだろう」



 これはわかりやすい解説である。そして現代では高度成長の日雇い労働者たちが大阪では西成や河川、公園などに青テントを張って暮らしているのである。

「古代や中世では、男女の相互関係は極めて流動的で、かつ多様性をもっていたことが、文献や物語の類でも明らかである。もともと流動的であり、多様性をもつのを本質とする男と女との関係を、国家的管理のために法律をもって固定し、「家」の枠にはめて支配しようとしたのが結婚制度であり、その極端な定型化が一夫一婦制であった」



 赤松啓介はおおくのムラの男女関係や自身の経験から、男女の関係が一夫一婦制に収まり切らないことを知り尽くしていたのだと思う。私たちの時代はかれらの目から見るとなんて堅苦しくてつまらなくて禁欲的に見えることだろう。「性は思想である」とたしか伏見憲明がいっていたと思うが、たしかにそのとおりだ。

「「夜這い」が田舎でも盛んになるのは、徳川時代の後期初、享保ぐらいからで、つまり近世商業経済が農村へ侵入し、男たちの出稼ぎや離村が激増してからだ」



 なるほどムラの男女の比率が変わることにより夜這いは盛んになったということだ。比率が変わるところに男女の営みも変わるのである。赤松啓介は女性の社会進出によって男女の関係がまたもや変わるだろうと予測している。

 たった数件の引用だけでは伝えきれない豊かな内容をこの本はもっているのだが、もしひと昔前のおじいちゃん、おばあちゃんがどのような人生を送ったのかを知りたいと思ったら、この本を手にとるといいだろう。ちょっと底辺や荒くれ者たちの人生が多いのだが、現代の人はあまり階層や底辺といったものの現実感はつかみにくいのではないかと思う。「一億層中流」の時代をへたあとでは、階層の意味はだいぶ変わったというか、見えなくなったのだと思う。

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『怒る技術』 中島 義道


怒る技術 (角川文庫)
中島 義道

怒る技術 (角川文庫)


 中島義道は怒る、怒る。教室で怒鳴る。電車のなかで怒る。レストランで怒る。洋服店で執拗に怒る。商店街で怒る。マンションの騒音問題で怒る。それも少年時代にはまったく怒れなかったそうで、だからこそどうやって怒れるようになったのかと実体験から聞きたくなるものである。

 かくいう私も怒れない。必要なときに怒りや憎しみを表わせないで後悔することも増えてきた。どうやったら怒れるようになるか教えてほしい。私が怒れないのは怒る人の恐さや恐ろしさに出会ってきて、あんな他人の気持ちを感じられない行為をおこなったり人になりたくないという思いにもとづいていると思う。というか、自分の弱さだと思うが。

「怒ることができない人、とくに怒りを相手に伝えられない人は、何を恐れているかと言えば、相手から仕返しを受けることも当然ながら、それによってさまざまな不愉快な思いをしなければならないこと。
いったん相手にはっきり怒りをぶつけてしまうと、それからは相手からの執拗な怒りを覚悟しなければならない。そうでなくても、いたるところで相手の冷たい態度とつきあわなければならない」



 けっきょくのところ、関係がこじれたり、嫌われたり、怒られたりする関係が恐いのである。だからひたすら怒らない人間をまわりに演出するのである。

 対立や憎しみあう関係をひたすら日本社会は避ける。悪いことだとされる。あってはならないことだされる。日本社会はとくに現代になって顕著になってきたと思われるのだが、街中でケンカを見かけることはかなりなくなってきた。対立や憎しみをひたすら隠蔽する社会が完成しかかっているようだ。

 中島義道が怒る理由がよくわかる気がする。対立や反対がなければ、意見や独自の哲学や思想は生まれない。対立を避けていれば、ひとつも意見も哲学も育たない。議論や哲学のない社会はよういに多数者の専制や少数意見の抹殺にかかる。これでは社会に自由はないし、画一化や同一化の強制や暴力は激しくなる一方だし、「みんないっしょ主義」や「仲間・友だち主義」がはびこる理由もわかるというものである。

 つまりは対立や憎しみを避ける社会というのは、いっけん平和で安全でしあわせそうに見える社会なのだが、一皮剥けば、人々の精神に同調化や画一化を強制する恐ろしき社会なのである。こういうのを「ファシズム社会」というのだが、いっけん穏やかな対立や反対意見のない社会だからこそ、病理や症状は深刻といわざるをえない。

 私たちは対立や怒りをひき受けるしかないのだろう。意見や議論や哲学が育つ風土というのは、たくさんの対立や反対意見が言い表される社会である。それが評価され、承認される社会のことである。だから哲学や少数意見に価値をもつ中島義道はひたすら怒るのだろう。

 だけどこの本残念ながらほとんど怒りの技術の話からはじまる。なぜ怒れるのか、どうやったら怒ることのやましさや抑制を解除できるのか、どうやったら人からひどい、残酷と思われることにたえられるようになるのかという基本的な前提を教えてくれない。私はまずこの抑制部分をとっ払う正当化の理論がほしいのである。そこがなければ、怒りの習得にはかんたんに飛びつけない。私は人から嫌われたり恐れられたりする人間になってよいものだろうか。

「わが国では、「〜をするな」とか「〜が厭だ」とか「〜をやめてくれ」という言葉を正確に発するだけでも、たいそう反感を買い、その場を一瞬ぐらりと揺さぶります」

「怒鳴ること以前に、厭なことをされたら「やめろ(やめて)!」とはっきり言って拒否すること、これは、人間が生命・身体・名誉・財産を守るうえで基本的な能力だと思うのですが、どうもある種の人はこれさえうまくできない。〜こういう場面になっても、とっさに叫べない人は、人間として、いや生物体として、自己保存能力が欠如してしまっている。善い悪いの判断以前に、まともに生きてはいけません」

「われわれが、自分の快楽のためにやすやすとひとを苦しめることは、人類の歴史をちらりと眺めてみただけで、あるいは文学作品をちょっと開いてみれば、あるいは能でも歌舞伎でもオペラでも枚挙にいとまないほどの事例によって証明されます。ただし、だからといってそれが「善い」ことだとは教育されなかったことも事実です。
この区別をしなければならない。人間にとって自然であることと善いこととは別なのです」



 対立や憎しみのない社会は平和に見えるけれども、これほど危険な社会もないといえる。ケンカや争いがしょっちゅうあったり、危険思想だといって思想家が監獄に入られたり、ストが弾圧されたりする時代のほうがまだまともだったのかもしれない。自分の意見や考え、思想をもつことができたからである。

 対立や反対意見がない社会というのはそれさえ禁じられる。友だちや仲間集団において「ダサい趣味」やグループと違う行動をすると徹底的にバカにされたり排斥されたりする力学が全社会をおおってしまっているのである。この深くて深刻な病に危機感や警戒心を抱かなくてどうするんだと思う。


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洋楽ビデオクリップに描かれた日本の姿を観る。


 ひさしぶりにマドンナの去年のビデオを観ると、日本のネオンや街並みをバックに唄っている。マドンナにとっても日本の風景はビデオに撮る価値があったのかと驚いた。

 洋楽ビデオはカッコよさがウリなのだが、日本の風景や小物がとりあげられたりするということは、日本はクールであると認識されている証拠なのだろうか。海外にとって日本はカッコいい国になったのか。

 検証する意味で私が見つけられる範囲の日本が映し出されたビデオクリップを集めてみました。日本像がどのように変化したり、捉えられているか、見てみてください。

 私がこのような日本のビデオを見つけられるのはごくわずかです。もしほかにもっとビデオがあるというのなら、紹介してください。追加したいと思います。

 なおリンク切れは必至なので、ご了解いただきたい。

Madonna - Jump Madonna - Jump

マドンナが日本のネオンをバックに唄い、ニンジャっぽい男が日本の街並みを飛び回る。これがマドンナにとってカッコいいのか、あるいはアメリカの人にとってと思った。あるいは日本ファンへのサービス?

styx,mr roboto styx, mr roboto

「ドモ・アリガト・ミスター・ロボット」と唄われてます。80年代に日本はロボットとともに未来を予想させるものであったのでしょうね。

Peter Cetera - The Glory of Love Peter Cetera - The Glory of Love

80年代の日本の経済的成功はカラテのように奇蹟や不可思議なものに思えたんでしょう。

INXS - I Send A Message INXS - I Send A Message

80年代にオーストラリアからブレイクしたインエクセスは艶っぽいゲイシャとお寺を背景に唄いました。見事に古典的な日本のイメージですね。

INXS Original Sin INXS Original Sin

インエクセスはトラック野郎と屋台の前で唄いました。80年代にアメリカ的カッコよさに憧れていた私は日本をとり上げる意味がさっぱりわかりませんでした。カッコいいのか、日本が。

culture club - miss me blind culture club - miss me blind

80年代にカルチャークラブはタイと混在した日本像を描きました。やっぱり日本はフシギな国だったんでしょうね。

Pet Shop Boys - Flamboyant Pet Shop Boys - Flamboyant

ペットショップボーイズは日本の街並みやテレビの広告、『欽ちゃんの仮装大賞』などを織り込んだより現代のリアルな日本を捉えていますね。日本は街中より、メディアに魅力や楽しみがある社会だとたしかに思いますね。

Love and Money - Halleluiah Man Love and Money - Halleluiah Man

一杯横丁にパチンコ屋に街中のモニター――カッコいい日本ですね。さいごにビジネスマンがビジネスバッグを放り出すシーンが日本人の共感を誘いますね。

Bob Dylan - Tight Connection to My Heart(PV) Bob Dylan - Tight Connection to My Heart(PV)

ボブ・ディランが日本の警官につかまっています。

R. Kelly - Thoia Thoing [OFFICIAL MUSIC VIDEO] R. Kelly - Thoia Thoing

カッコよすぎる音楽と少々江戸趣味とナショナリズムなJAPAN。

Mariah Carey feat Cam'ron - Boy I Need You Mariah Carey feat Cam'ron - Boy I Need You

日本とも近未来とも判別しかねるなんともヘンな映像ですね。怪獣も暴れ回っていますしね。

Prodigy - hot ride Prodigy - hot ride

日本の凶暴化した少年たちが描かれています。数年前の「犯罪少年ブーム」のイメージから日本は捉えられたんでしょうか。国のイメージはニュースや事件から捉えられますからね。

Beastie Boys- Intergalatic Beastie Boys- Intergalatic

巨大なロボットが日本に降り立ち、地下街でガードマンたち?が踊りまくります。ただのギャグ?

Brooke Fraser - Deciphering Me (video) Brooke Fraser - Deciphering Me (video)

ブルック・フレイザーという歌手がただ雨の夜の渋谷や新宿で歌い流すビデオ。それだけにじつのふつうの日本の姿ですね。アメリカ人にとってただこれだけでカッコよく写ったりするのでしょうか。


▼参考リンク
秀逸ミュージックビデオ500選
ビデオ・クリップに描かれた「アジア」−1983年前後におけるイギリスのビデオから−

▼アメリカのTVや映画が戦後日本に憧れをもって迎えられたように、日本のアニメやカルチャーも世界に憧れてゆくのでしょうか。
クール・ジャパン 世界が買いたがる日本日本のポップパワー―世界を変えるコンテンツの実像日本発イット革命―アジアに広がるジャパン・クール日本の文化力が世界を幸せにする


『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』 中島 義道


カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ (新潮文庫)
中島 義道

カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ (新潮文庫)


 生きにくさや弱さ、繊細さで苦しんでいる人にはとても救いになる本だろう。中島義道はそれは「いい子」や「善人」であることに原因をもとめ、その破壊策や脱出法を教えてくれる。中島義道自身は逆噴射しすぎだと思うが(笑)。

「「いい子」とは、大人たちが結託して作ってきた一つの犠牲者なんだ」



 このからくりがわからないと、「いい子」は一生親や世間の犠牲者になり、生きにくさやつらさを抱えて生きることになるだろう。つまりは「いい子」というのは他人の都合や利己主義に徹底的に迎合するように編み出された親や他人の合成物なのである。ぜんぶ他人の欲望の都合や親の世間体などの欲望でできあがっている。

「きみは自然にしていると、いたるところで他人と対立してしまうことを知っている。だが、きみは他人と対立することが怖い。だから、自分を押し殺してまでも他人に合わせようとする。自分が傷つかないように」

「善良な市民は「ひとに迷惑をかけるな」という言葉が大好きだ。〜だから、先の言葉は、おまえはみんなに迷惑をかけるなという意味であり、みんながおまえにかける迷惑は我慢せよ、いや迷惑ではないと思え、という意味なのだ」



 「いい子」というのは他人が不快になったり傷つかないようにするために、サンドバックのように自我を押しつぶされた人間のことである。だからこそ、「いい子」なのである。まあこの「いい子」というのは力の強い大人や他人に囲まれている場合には仕方がない生育方法なのだろう。力の強いものには迎合し、顔色をうかがい、かれに迷惑をかけないように生きるしかない。

 それを心理学では「アダルト・チルドレン」とよぶ。中島義道はこの克服法を徹底的に自分の自我や力を表出する方向にもとめる。つまり人に迷惑をかけ、怒りまくり、自己チューに徹するというかたちである。

 その方法がすさまじい(笑)。「親を捨てる」「なるべくひとの期待にそむく」「怒る技術を体得する」「ひとに「迷惑をかける」訓練をする」「自己中心主義を磨きあげる」「幸福を求めることを断念する」――などなど、いい子脱出法の必殺技噴出である。

 他人のエゴイズムの犠牲になっていた自分から、徹底的にエゴイスティックな人間の変貌をおこなうのである。自分の身体に縛りつけられていた鎖を、外側の他人に振り回そうというわけである。これはたしかにひとつの解であるが、ほんとうにそれを実践・体得してしまう中島義道の強さや強引さはすさまじい(笑)。あっぱれというか、思わず伏せて拝みたくなるのだが、身近には関わりたくないものである(笑)。

 アダルト・チルドレンの克服法で加藤諦三の本をよく読んだことがある。親の行動や言動をひとつひとつ憎みつづけるという方法で、たしかにアダルト・チルドレンに育ててしまったのは親であるけれども、大人になった者が何十年も前のことを恨みつづけるのは違うと私は思うようになった。これに比べれば、中島義道の方法のほうが正解だろう。

 「やられていたことをやり返す」というわけだが、行き過ぎも児童虐待の連鎖のように危うさも潜んでいないとは思えないのだけれど。まあ、私は自分を縛っていたものがなんなのか、迷惑をかけたりエゴイスティックになっていいと知るだけでも、だいぶ自分を解放するものだと思うのだが。

 中島義道の悩みつづける著作について疑問に思っていたことがひとつあるのだが、どうして禅や仏教のように悩みや思考を捨てる方法を獲ようとしなかったのかということがあった。師は仏教に接近したといえる大森荘蔵がいるし、哲学者でもマルクス・アウレーリウスやエピクテトス、アランなどは悩みや思考を捨てる方法を説いているのだ。なぜこの叡智を活用しようとしなかったのだろう。

「外形的にも、当時のぼくにとって四〇歳を過ぎた男たちの醜さは限りがなかった。それは、社会に順応してしまった醜さであった。悩まない者の醜さ、悩みをうまくコントロールしてしまった者の醜さであった」



 そして悩んでいる若者を美しく感動的だという。なるほど中島義道は悩みを克服することをやめ、思索や哲学することを徹底的につきつめ、至上におくことを誓ったんだなとわかった。これはイバラの道であると思うが。

 さいごにもう一度いい子についての言葉を引こう。

「「いい子」は生物体としての息の根を止められた犠牲者だ。
きみのまわりのみんなが一致団結してきみの体内からそうした動物としての本能を駆逐してきたからさ。
自分の中に潜む健全な闘争本能を呼び起こそう。場合によっては他人を傷つけてでも、自分を自分の大切なものを守るという動物としての本能だ。
きみは生きなければならない。とすると、闘争しなければならないんだよ」



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『日本の下層社会』 横山 源之助


日本の下層社会 (岩波文庫 青 109-1)
横山 源之助

日本の下層社会  pt4-03.jpg 横山源之助

 このような明治のルポタージュは現代人にもひろく読まれて意味をなすものであるが、明治期の古い言葉のまま出版されており、現代人には意味がひじょうに通りにくい箇所も多くあって残念でならない。岩波文庫の怠慢を感じる。現代語訳にしてもらわないと読めない。

 この本は明治30年前後の東京貧民や手工業・機械工業の労働者たちのすがたが描かれている。

 ルポタージュの白眉とうたわれる本であるが、個人的には数量が多く、社会科の教科書のようであり、労働者も大局的につかまれているだけであくまでも外観だけで、なかなか実情や親身に迫る労働者像が描かれているように私には思えなかった。明治の文章だから意味が読みとれない部分も多くあったのだけどね。

 あまり労働者自身の境遇や心情に迫った本ではなくて、私が先ほど読んだ宮本常一他編の『日本残酷物語5 近代の暗黒』にはとてもかなわない本であった。『日本の下層社会』はデータで労働者を見すぎていて、かれらの苦しみや内情がほとんど伝わってこないのである。

 明治の中ごろまで少年労働がふつうにあったんだなとか、私は大阪人だから大阪の紡績工場の実態が描かれているのを見て、この地が通ってきた近代工業の勃興期を思ったりした。あまり明治期の労働者が目の前に立ち上がってきそうな本ではなかった。

 東京の貧民窟にすむ日稼人足はいった――「おらぁ常雇(じょうやとい)のような馬鹿な事はしねい」と。たとえ識字階級から哀れに思われようとかれらにはかれら自身の自負や矜持もあったのである。われわれが知る下層民というのは、文字を書く人たちによって貶められ、さげずまれたフィルター濾過の像にすぎないのかもしれない。かれらには安定した常雇の世界は監獄か、この世の地獄に見えていたのかもしれない。まずは私たちの偏見の基準こそ気をつなけなければならないものである。


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『「人間嫌い」の言い分』 長山 靖生


「人間嫌い」の言い分 (光文社新書)
長山 靖生

「人間嫌い」の言い分 (光文社新書)


 「人づき合いは面倒くさいな」とか「だるいな」と思ったことはだれだって一度はあることだろう。人間嫌いというのはこの気持ちを延長した先にある、もしくは肯定したところに生まれるのであって、人づき合いのだるさを人間嫌いというのなら、多くの人が人間嫌いを自覚することだろう。

「子どもの頃の方が私はずっと大人だったように思う。クラスメート達のお喋りに合わせて無理して笑ったり、誘われれば興味のないアイドルのコンサートにも行ったりした。友達扱いしてくれる人に嫌われるのが恐く、楽しくなくても楽しいふりをした。けれど、まわりにいる大勢の人達への『なじめなさ』は年々大きくなってきて、最近で会社の宴会にしぶしぶ出たりすると、上司のプロ野球談義や説教や、それに合わせて適当に頷いている若い子達に殺意さえ覚えるときがある。」――山本文緒『ファースト・プライオリティー』



 「みんなといっしょでなければならない」「協調性がなければやっていけない」「友達や仲間がたくさんいなければならない」「仲間外れにされたり、人に嫌われれば人間失格だ」みたいな雰囲気や強制が世の中をおおっている。とくに「友達至上主義」や「仲間主義」は壮絶に私たちを鎖の関係に縛りつける。

 たいがいの人はこの絶壁から落ちることを極度に恐れる。私たちの日本村のオキテであり、その場から外れることは奈落の底に落ちることだからだ。そして「うっとうしい」「だるい」「ブチ切れる」と思いながらも、きょうも仲間といっしょにつるみ、行動をともにし、趣味をそろえ、楽しいふりをする。そうして心の中のうっとうしさは日増しに抑圧され、人と関わることのストレスは増大する。

「煩わしい人間関係のなかでも、もっとも人工的であり、そのくせ異常な密着を迫られるのが「結婚」である」



 若者の晩婚化の理由をこのような人間嫌いの抑圧に見い出しているのはこの本の真骨頂だろう。恋愛や結婚もたんなる人づき合いの一種であり、ずっと群れて、しゃべることの強制であり、同調行動の修羅場である。なるほど「仲良しゴッコ」社会の究極の先は結婚関係の拒否につながるのである。

 私たちの社会はなぜこうも「仲間主義」の世の中になったのだろう。「村八分」がとてつもなく恐ろしい社会である。対立や不和を恐れる弱さや未熟な精神性が、窒息しそうな仲間主義を生み出すのである。まあ、これは集団で仕事をおこなうこんにちの経済条件にもとめられるのだろう。そして終身雇用の拘束や労働市場の未発達性がそれを後押しする。要は移動が容易でない社会の失敗である。

 仲間というのは同調行動をおこなわないと、その集団を嫌っている、否定しているということになる。だから行動や趣味はみんな同じになり、意見や考えもみんな同じになり、そして四六時中つるんでいないと仲間外れにされないかと不安になる。

 この画一化・均質化の恐れは20世紀の大衆社会のはじまりから――おもにアメリカから一部の知識人に嫌われ、恐れられてきた。キルケゴールやニーチェ、トックヴィル、J.S.ミルなどがその不快感や嫌悪感を表明し、それはオルテガやフロムやリースマンなどの哲学者・社会学者によって精緻に分析された。

 この画一化・均質化は日本社会をおおい、仲間主義や友達主義はわれわれの人間関係を鎖や重りのように縛っているのだが、日本人からこの不快感や恐れが聞かれることはあまりない。おそらくみんなその水の中であっぷあっぷしているのだが、その水が先人たちの指摘した腐った水であるということに知識のつながりを見い出せないのだろう。なんとも警戒感や危機意識のない国民であることだろう。

「「みんなといっしょ」がいいことだと刷り込まれている人たちは、出家でもしない限り、人から笑われたり陰口をきかれることを気にして、自分が「正しい」と思うことはおろか、「こうしたい」という欲望さえも抑えて生活することになる。これでは欲求不満がたまって、生き霊になるしかないだろう、と私なぞは思うのである」

「「自分はみんなと同じ意見なのだけれども、そのみんなはどんな意見をもっているのか」が分からないという不安に、常に怯えている」

「友達にシカトされるのがこわいからと、無理して話を合わせたり、心にもないことを言ったりしなければならないとしたら、それはストレスも溜まるだろう」

「そしてその協調性というのは、結局は多数意見もしくは教師が誘導する「正解」を鵜呑みにする従順さのことでしかない」

「「けっきょくは「自分で考える」ことよりも、「自分の考えに固執せずにみんなに従う」がよしとされてきた」

「どうしたら「他人といっしょ」でありながら「自分であること」が守れるのか、子供たちには分からない」



 私たちはこの社会の異常さや病気に気づいたのなら、少しずつ「人間嫌い」の訓練を、徒歩をはじめるべきではないかと思う。けっきょく失うのは自分の個性であり、自由であり、欲求であり、人生そのものである。仲間主義や友達主義のいちばん恐ろしいことは、魂を奪うことである。集団に同調し、人に嫌われないように、浮かないようにしていれば、安全は図れるかもしれないが、自分というものをまっ先に失う。だから私は仲間からはずれ、人から嫌われ、仲間外れにされてもすっくとひとりで立てるような人間にならなければならないと思うのである。こんな社会からはなにも生まれない。天才も、自由も、個性も、自分も、すべて殺されてしまうのである。

画一化・均質化する大衆への批判
死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス)善悪の彼岸 (岩波文庫)アメリカの民主政治〈上〉 (講談社学術文庫)自由論 (光文社古典新訳文庫)
大衆の反逆 (中公クラシックス)世論〈上〉 (岩波文庫)自由からの逃走 新版孤独な群衆

いっしょに暮らす。 (ちくま新書) 不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か (光文社新書) 若者はなぜ「決められない」か (ちくま新書) わかったつもり 読解力がつかない本当の原因 (光文社新書) 謎解き 少年少女世界の名作 (新潮新書)
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『人生は負けたほうが勝っている』 山崎 武也


人生は負けたほうが勝っている―格差社会をスマートに生きる処世術
山崎 武也

人生は負けたほうが勝っている―格差社会をスマートに生きる処世術 (幻冬舎新書 や 1-1)


 残念ながらタイトルのように達観した本ではなかった。ふつうのビジネス処世術の本。

 「負けることで勝つ」ような人格的・精神的な悟りのレベルはかつての仏教で深く追究されたのだろう。釈迦は仏教僧に乞食になれといったし、良寛や西行、鴨長明はそういった人間的比較を超えた精神のレベルに達しようとしていたのだろう。風雅や隠遁のなかに人間の勝ち負けを超えた価値観を見い出そうとしていた。

 現代では負けることは恥だし、「下流」であるし、「落ちこぼれ」の「劣等生」であるし、ましてや人格的・精神的に「優れている」といわれることはまずない。そういう世間の眼目もなくなったといっていいだろう。むしろそういった伝統や評価がなくなったほうが恥だと思うのだが。

 世間では勝つことや優れていることが偉い、優れていることだ、評価されることだ、とばかり吹聴されているのだが、負けるほうが偉い、余裕がある、人との比較や競争に心を乱されることもない、自分の人生と平安を得られるという考え方もぜひ頭の片隅においておいてほしいものである。優劣を競わなければならない人生は悲愴である。そして大多数の人はそういう価値観しか知らないのがこれまた悲劇であるが。

 そういった人格的・精神的悟りに達した啓蒙書というものがこんにちまた見つけられること少ない。勝つこと、優れることの脅迫・強制の時代である。むかしの人はそんなに立身出世ばかりを夢見て人生を生きたのか、画一的に人と競うようなことはなかっただろうと思う。「知足安分」の精神は多くの人に安らぎと幸福をもたらしたことだろうし、そもそも比較対象の数すら少なかったと思われる。

 この本では出世や好かれるための負け、妬まれないための負けなどが語られているのだが、いくぶん功利的である。そして残念ながら達観のレベルに達していない。私もてんで達観のレベルに達していないのでぜひこのタイトルの本から学びたいと思ったのだが、学ぶもの少なしであった。

 少し本文から引用。

「見栄を張るのは、自分のあるがままの姿に満足していないことを示している」

「見せびらかしたいと思うのは、一般的に知られていないからであり、したがって大した業績でもないというのと同じだ」

「そもそも、(財産が)「ある」というのは有限であり、限定的である。それに反して、「ない」というのは無限であり、条件によって縛られていない。あらゆる発展の可能性を秘めている」

「何かを知っているということは、その対象となるものを限定的に考えていることでもある。範囲を定めて、そこから外に広がっていこうとしない結果にもなっている」



 私たちは負けることや劣ることの恐れや恥を刷り込まれて生きている。この考えから脱却できれば、多くの人は平穏に満ち足りて生きられるかもしれない。どんな考え方や常識も、その劣等や低位に満足したり恥と思わなければ、大多数の人は健やかに生きられる。それは覚えておくべき思考や考え方の知恵である。

 大多数の世相に足をひっぱられないで生きたいものである。ただそう思っている私は劣等や低位でいることに誇りや自信をもつことは、やっぱりできないでいるのである。


CIMG0001_111112.jpg清貧の思想 (文春文庫)良寛にまなぶ「無い」のゆたかさ (小学館文庫)もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安


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