『ひとを愛することができない』 中島 義道
ひとを愛することができない―マイナスのナルシスの告白
中島 義道

中島義道は自分の経験や体験から自前の哲学をくりひろげる。これこそがほんとうに哲学するという意味だと私も思うのだが、この本はあまりにも自分の家族、親夫婦の愛と憎しみを語りすぎていて、この家族の形態を人に聞かせる価値はあるのか、この形態が普遍的価値をもつのか、少々倦んだ気持ちになった。
ちゃんと普遍の愛や憎しみにつながっているのならえんえんと親夫婦の愛と憎しみを描くのには価値があると思うのだが、そうでないのなら、一家族の愛と憎しみの歴史を赤の他人が読みつづける価値はあるものか懐疑に思った。
中島義道は自分のことや家族のことにものすごく執着している。執着することにより悩みを広げ、そしてまたそのことによって思索の深みを増そうとしているかのようだ。家族のありかたや愛のありかたに執着するがためにどこまでも苦悩を広げ、傷を深めているようだ。
私なんて家族の過去やつながりなんてあっさりと捨ててしまっている。過去の家族のことなんて必要ないし、どうでもいい。中島義道が親夫婦の愛や憎しみ、家族のありようをえんえんと覚えつづけ、憎み、苦悩し、書きつづけるさまは、私には信じられない。そんな過去なんて捨ててしまえばいいじゃないかと私は思うのだが、だから私はこの本の家族の経験談は普遍的価値がないのなら読む価値がないように思えたのである。
この親夫婦は「愛せない夫」に「愛してくれ」という妻がえんえんと憎しみをぶつける話が主軸になっているのだが、家族ってそんなに愛がどうのこうと悩みつづけるのがふつうなんだろうか。私の親夫婦もけっこう憎しみ合っていたりしたが、家族が愛だのどうだのこうだのと奮闘することはまったくなかった。愛なんて恥ずかしい、わが家族にそぐわない、薄い空気のような絆で結ばれるのが家族であった。中島義道の家族のような愛の強迫観念が襲いつづけるファミリーってそんなに多いものなんだろうか。
個人的な家族に歴史には倦んだが、まあ愛の考察はなかなか鋭いものがある思った。ただ、私は愛がどうのこうのと深く悩む性質はない。愛という言葉には冷淡かもしれないし、しぜんに人を好きになったり、親切になったりして、べつにその程度でなんの問題もないと思っている。愛の基準がさっぱりしているから、中島義道の家族のように愛の問題で深く争う価値がさっぱりわからない。
愛についての感銘した考察を引用。
「とくに性愛の場合、あらゆる人が自分の恋人に魅力を感ずるにちがいないという感じにとらえられる。カントが正確に見てとったように、ほかのすべての人が「彼(彼女)は魅力的である」という判断を下すように「要求」するのである」
「より多く愛している者は、いかにしても相手を失いたくないという一点で、すでに敗者である。より少なく愛している者は、相手をいつ失ってもいいという一点で、すでに明らかな勝者である」
「愛とは何か。自己から脱出しようとする欲求。人間は崇拝する動物である。崇拝するとは、自己を犠牲にし、自己を売淫に付すことだ。だからすべての愛は売淫である」――ボードレール
「愛されていないと自覚した者は、不思議な転落の仕方を選ぶ。自滅していく道を選ぶのである」「夫の狼狽ぶりに彼が自分を愛していないことのさらなる確証を得て、わが身を針で刺しつづける。自分をさらにみじめにすることによって、夫をさらにさらに責める理由を見いだす。この醜い復讐劇によって、ますます夫が自分から離れていくことを知りながら、やめることができない」
「「愛」とか「やさしさ」とか「平和」とか「協力」とか「国際貢献」といった、一見誰も異議を唱えることのできないような厳かな言葉で、わたしたちは、わたしたちの自由を、人権を、ソフトで口当たりのいい「服従」の鎖に繋がれてしまう」――落合恵子
「他人が無性に怖いので、私は他人に愛されよう、気に入られようと必死の努力をするが、その結果そのひとから愛され、気に入られると、今度はたいへんな重荷を感ずるのである」
まあ、私は愛という言葉にそんなにこだわらない人間である。中島義道のファミリーは愛という言葉に鎖や強制や拷問のような関係を強要したみたいである。愛の崇拝ファミリーであって、そんなものを崇拝すれば、ぎゃくにそれは拷問や強迫に化してしまう。
戦後の終身婚や一夫一婦制は愛というもろい感情を基盤において生涯を拘束したためにこのような愛の拷問ファミリーが生まれてしまったのかもしれない。家族というのはもとは労働集団であったのであり、生産集団であると考えたほうがいいのかもしれない。愛だの恋だので生涯を男女の拘束としてしまうと、拷問ファミリーが生まれてしまうのかもしれない。わたしたちの感情というのははかないものであり、移り気なものであり、長くはつづかないものである。愛ゆえの憎しみに転化する関係には陥りたくないものである。
『彼女がイジワルなのはなぜ?』 菅 佐和子編著
彼女がイジワルなのはなぜ?―女どうしのトラブルを心理学で分析!
菅 佐和子編著 小坂 和子 服部 孝子

私たちが心理学に求めるものというのは、日常のいざこざやもめごと、トラブルなどの対処法ではないかと思う。それなのに心理学は心の深層や理論などをあつかう。なんか違うなと思いつつ、心理学の森をさまよう。「HOW TO」が必要なことは忘れるべきではないと思う。
この本では女同士のどこにでもあるトラブルや確執が14例とりあげられていて、カウンセラーが答えるかたちになっている。分析もたしかに大事だけど、もっと対処法や解決法をはっきりと知りたいと思うものである。ときにはその方法だけが必要なほうが多いのかもしれない。間違った迷路にはまってはならない。
トラブルの内容というのは、女子高の仲間に入れてあげた子がぎゃくの立場になると自分を仲間外れにしたといったことや、育児を手伝ってくれ手が離れたときの母の怒り、管理職に登用された女性社員が後進の女性の抜擢をはばんだり、女子大のゼミで教授にひいきにされたために仲間外れにされたり、個人アクセサリーショップに雇ったパート主婦の嫉妬、セクハラを訴えたら同じ被害にあった女性たちに仲間外れにされた、姉のものを奪わなければ気がすまない妹、職場は色男の元恋人だらけといった相談が寄せられている。
私たちは日常のこういった人の行動や人間関係に面喰い、心理学にその分析や解決を求めるのではないか。イタみや悲しみを癒し、対処や解決を知りたいからである。そしてこのように求めた解決法を心理学の森の中からかんたんにひきだすことができないのである。途方に暮れるしかないのである。
ヒドイことをされた、理解できないことをされた――そうして私たちは人はなぜこのような行動や心理メカニズムをもつのか、失望とともに人間性のありようを探ろうとする。そしてその理解できないものとは嫉妬や競争のような公式には悪いこととされていること、社会に表立って表わしてはいけないとされる否定的な感情などであったりするのである。倫理の紙からつき出た人間の悪感情のメカニズムに私はまだまだ子どもであったと悟り、知識の欠落をおぎなおうとするのである。
人間というのは、私にとってヒドかったり、残虐であったり、冷酷であったりする。人はふつう倫理や道徳から私を守るべきだ、傷つけるべきではないというルールがあるはずだ、私はそういう思考の前提で生きている。だからこそ、人とのいざこざやもめごとに面喰う。人間は私にとって残酷や非道であるのがあたりまえだという思考の前提に書き替えないと、私たちは人間関係の波を渡ってゆけないのかもしれない。
嫉妬ややっかみ、競争心というのは、当人にとってはふつうに道に歩いていて、いきなり道端で因縁をつけられるようなものだ。「は? 私がなにかした?」と面喰うのだが、ふつうに歩いているだけでも人の怒りや恨みを買ってしまうのが人間というものの難しさ、奇怪さである。そしてなにも悪気も意図もなかった自分の行動や言動に制限を加えなければならなくなるのである。
人に嫌われたり、恨まれたり、トラブルに巻き込まれないための人間性の洞察が、この本から得られるかもしれない。私たちは道端の群集(世間)にヤジや非難を与えられないために、人の心の奥底にうごめく嫉妬や競争心というものにしっかりと気を配らなければならないのである。
気になる新刊情報 2007年8月刊
この新刊情報はあくまでも新刊本の告知として用いてください。本屋かネットでくわしい情報を調べてからご購入に踏み切ってください。紹介者はタイトル以外の情報を持ち合わせていないもので。



『派遣のリアル』は読みたいですね。『ひきこもりの社会学』―ひきこもりって社会学できるのですか。『ルポ最底辺』はあいりん地区(大阪西成)のルポ。



『旅芸人のいた風景』はおもしろそうですね。漂泊には憧れますね。『日本民族の福祉文化基盤』は日本の福祉を知るうえで参考になりそうですね。『「昭和」とは何だったのか』―なんだったんでしょうね、昭和。



『金持ちいじめは国を滅ぼす』― 真実だと思います。金持ちがカルチャーをつくる。『一度も植民地になったことがない日本』―日本の自慢本か。悪評みたいですね。『働く意味』―考えずにはいられない。



『10年後のあなた』―10年後のことを考えてトクになるのか、損なのか。『デジタルは「国民=国家」を溶かす』―日本語のカベはぶあついですが。『ネオリベラリズムの精神分析』―ラカン派社会学からの本で、そんなものがあったのですか。



『あなたは戦争で死ねますか』―死ねません。逃亡します。 『子どもの本に描かれたアジア・太平洋』―なにがあぶり出されるんでしょうね。『〈帝国〉とその彼方』―ネグリってすごいんですか。



『セカイと私とロリータファッション』―ロリータファッションは「うわ。ハズしてる」と思いますね。『美女とは何か』―男にとっては永遠の探究ですね。『天下り支配』―実質的には官僚が日本の支配者?



『分裂病と他者』―人間の特質が深化されたものだと思いますが。『哲学の歴史 9』―この巻ではマルクス、ニーチェ、フロイトをあつかっているそう。『空の実践』―すぐに忘れて悩みや怒りでいっぱいになるのが人間というものか。



『「天皇家」誕生の謎』―関裕二はざっと楽しめますね。『明治風物誌』―明治をうまく切り取っている本なのですかね。『人口学への招待』―人口学の切り口って必要かも。

そうですね。メディアにだまされてはいけません。メディアの奴隷になるな。メディアを支配者にするなと私は警告を発したいですね。
『すぐカッとなる人びと』 クリスチャン・ザジック
![]() | すぐカッとなる人びと―日常生活のなかの攻撃性 クリスチャン・ザジック(2002/03) 大月書店 この商品の詳細を見る |
これは失敗。さまざまな学問的知見を寄せ集めただけのほとんど心に響いてくるもののない本だった。読んでムダ。
あまりにもそっけないので、ふたことほど引用。
「君が傷ついたのは、むしろ、「この男が私を傷つけたのだ」という君の意見なのである」 エピクテートス
「嫉妬はしばしば、恋愛に持ち込まれた、専制へのやみがたい欲求にすぎない」 マルセル・プルースト
『日本残酷物語〈5〉 近代の暗黒』
『日本残酷物語〈5〉近代の暗黒』
宮本常一・山本周五郎ほか監修

日本の民衆や労働者がたどってきた悲惨な歴史をつづった書。というよりか、なまなましい日本人の父祖の生活や実態が間近に感じられる名著である。
むかし宮本常一の『生業の歴史』(未来社)にも歴史の教科書にすべきだと書いたが、まさしくこの本も歴史の教科書にとりあげられるべき内容の本である。政治屋や国家の歴史なんていらない。民衆はどう生きてきたのかとリアルにわかる歴史書のほうがもっと私たちのためになるものである。
私たちはなぜか労働や世間の実態というものを知らない。学校に隔離されて世間の実態を知らない。そして社会に出て労働の世界に面喰い、それでも世間の実態やなりたちが理解できない。
私たちはこの世間の実態というものが空白のまま、社会につき落とされるのである。だから私はやみくもに世間や労働社会の実態を知りたいと労働界をうろうろしてみたのだが、おそらくはこの本のような知識を探していたのだろうと思う。
この本では明治や大正のころのスラム街や女工、タコ部屋、漁夫、炭坑夫、小作農などのなまなましい現実の労働やすがたが描き出されている。歴史や遠い昔の人の話ではない。私たちと同じ人間、同じ血の通った人たちが味わわなければならなかった現実の毎日や労働のことが描かれているのである。私たちの祖父や祖祖父などはこのような現実を生きていたのかもしれないのである。
そしてかれら労働者が味わった辛苦や悲惨はこのこんにちの日本社会の土台となり、あるいはこんにちでも連綿とつづくものをかたちづくっているはずである。私たちのこんにちの日本社会と無縁であるわけがない。スラム街や部落差別というものはこんにちでも隠然とのこっており、社会が表立って隠すのがうまくなっただけである。差別撤廃や禁止用語がぎゃくに社会の実態を隠蔽する。
現代とのつながりでいえば、派遣がなぜこんにちまで禁止されていて解除されたのか、女工やタコ部屋の歴史を読んでいればその一端が垣間見れる。地方や底辺で生きる人たちを甘い言葉で誘い、前借などでその職場から逃れられなくさせ、長時間労働や過酷な労働を課し、体罰や暴行を日常的に加え、結核や病に倒れ、死者のたえない労働環境が明治・大正のころにあったのである。私たちの社会はまたこんな時代に戻ろうとしているのだろうか。というより企業とは元来このような冷酷非道な存在として近代に立ち上がってきたのである。
女工は地方で窮乏する農村の女性に豪華な施設や待遇を見せつけ、十八時間もの過酷な労働をさせられたのである。寄宿舎に住まわせ、脱走防止の策が張られ、もし怠けるようなら暴行や折檻がおこなわれるのである。千人のうち13人は死亡するという過酷な環境であったのである。女工50万とすると五千人も死んでいることになる。近代の労働はこのような悲惨な条件からはじまったのである。
タコ部屋は北海道の開拓の際にあまりにも過酷な労働から逃げ出す労働者が続出したため、しだいに監禁の要素を強めていき、虐待やピンはねが日常的になった監獄部屋のことをいう。タコは自分のからだを自分で食いつめる習性があるから名づけられたそうだ。死者も続出し、北海道の鉄道は枕木より多くの人間が埋められているといわれるそうだ。そのような地獄に甘い言葉に騙し入れるのが斡旋屋で、派遣がながらく禁止されてきたのはこのような歴史があったからではないのか。
炭坑夫は昭和に入っても一千人単位の事故死者を毎年出している。坑夫は郷里で近親者からそのことを告げるなといわれ、子どもも学校で町名をいえばわかるから決して言わないようにしていたという。職業差別はれっきとしてあったのである。それでもそこで育った子どもたちは炭坑に強い憧れを持ち、すこしでも早くに中に入ろうとしたのである。そしてこのような炭坑の労働者も地方の窮迫した農漁村に募集人が甘い言葉で人々を集めて回ったのである。
小作農は地主におおくを搾取され、たとえ三百年にわたって耕作していようと自分たちの土地にはならず、小作農がちょっとでも盾突いたりしたら、田園がとりあげられたりした。先祖代々の土地がとりあげられるのである。それで地主が殺されたこともあった。
この本の冒頭には大阪、神戸、東京の最貧困地域、スラムの地名などが列記されてゆく。いまであればこのような表記は禁止されるか、表立って知られないようされるかだと思うのだが、私たちは地域や町名によって貧富の差を知るというカンがはたらかなくなって、ホンネのところで困ったこともあるのではないだろうか。
この本は圧倒的な本である。私はこのような世間知というものをずっと探したいと思っていた。しかし先代の労働や生活はなぜかすっぽりと欠落してしまうのである。。伝わらない。知らされない。そして労働や世間がどのようなものか知ることができない。
こんにち派遣業が解禁されて、非正規雇用が増え、企業福祉や国家福祉もどんどんと弱体化してゆく時代になろうとしている。いわば戦後は終わり、戦前の時代に逆戻りするかのような時代になったのである。まさしくこのような本に労働や生活の先行きを占うような時代になったのかもしれない。
さいごに北洋漁業の漁夫のことばを引きたいが、すべての労働とは本質的にはこのようなものと心得ておくべきなのだろう。
「戦争前だったら……作業員なんてそれこそ人間扱いじゃなかったな。係長や班長の命令には絶対服従で、返事が小さかったり、態度がわるかったら、棍棒でぶんなぐられても文句はいえなんだものだ。作業時間だって七月になれば徹夜徹夜で三十時間四十時間もあたりまえで、立ったまま居眠りでもしたらやっぱり棒でどやされたな。それで賃金の方はどうかといえば、ちょっとヘマをやるとすぐ罰金だ。班長あたりが勝手に賃金から差引いてしまうし、幾時間夜勤をやろうがどうしようが歩合は会社の方で好き勝手にきめて渡せばばよかったんだ」
by G-Tools
野宿ツーリング〜白川郷・岩屋岩陰遺跡篇〜
ことしは盆休みがとれましたので、白川郷まで野宿(原付)ツーリングにいってきました。4日間の行程です。高くて深い山並みを期待していたのですが、思ってた以上に深山幽谷という感じはしなかったので残念でした。人家のまったくない秘境を期待していたのかな。飛騨の山並みというよりか、どこにでもありそうな山岳・山村風景だったので、ちょっと拍子抜けです。
「長良川」とか「岐阜」、「飛騨」という「記号」のみに遠くまできたという感じは喚起されましたが、こんかいはあまり遠くまで旅にきたという感じがしなかったです。もう山中ツーリングはだいぶ慣れてきて新鮮味がなくなってきたのかな〜。どうも私は既知のものにすぐ飽きてしまうみたいです。

小川が流れて、むこうには山並みが見える、そんな日本の原風景に魅かれますね。都市民にはそう見れることのない風景ですね。

「うだつの上る」の発祥の地の岐阜県美濃市です。うだつとは火災の防壁らしいですが、金持ちのメルクマール?としてすっかり定着したことばですね。古い町並みがよかったです。いまのうだつとは車だったりマイホームだったりするのでしょうね。私はうだつをあげようとしなかった人生の後悔がたまにきざす年齢になりました。

ライダーはバイクと風景を撮りたがりますが、私にはそういう神経があまりわかりません。たぶん原付バイクであるから、カッコよさとか誇りがないからでしょう。こんかいのツーリングで発進ができなかったり、坂道がのぼれなくなりましたが、バイク屋に駆け込んだらクラッチ関係だといわれましたが、チェーンが緩みすぎていてことが原因だったようです。

単線線路の向こうには川が流れ、山並みが迫る。田舎の風景という感じがしますね。

長良川は鮎つりのメッカですね。絵葉書のような三角形の藁帽子と長い釣竿をもった釣り人が判を押したようにたくさん並んでいました。

きました。こんかいの漠然とした目的だった白川郷です。大阪からは原付で二日でこれました。このようなわら葺屋根の大きな家はほかにはないものですね。世界遺産ですね。

緑の山並みと田園に、白川郷のわら葺屋根はほんとうにマッチしますね。紹介されるような大きな家ばかりではなく、小さな家もあって、ここにも格差があるんだなと思いました。

まとめてわら葺屋根を撮りたかったのですが、うまい撮影スポットが見つけられませんでした。白川郷はいまは観光商業の町ですね。ほんらいの農家で食っている人は少なくなったのでしょう。

白川郷のほんとうのすがたは盛夏にあるのではなくて、やっぱり真冬の豪雪にその真価があるのだと思います。まっ白な雪に深く覆われた白川郷こそがこの地方にしかないものでしょう。でもそんな寒い季節にはツーリングでこれないからこそこの土地の価値があるのだと思いますが。

飛騨高山の古い町並みです。とてもいい感じでしたが、観光商業地にすっかりなっていますね。商売になりすぎたらつまらないし、技巧や演出に思えてきて、古さのありがたみがなくなります。つくられない古さにこそ価値があるのだと思いますが、その維持はむずかしいのでしょう。

飛騨高山の川岸にテントを張りました。迷った迷った。人里はなれた自然の中では恐すぎるし、人がたくさんくるようなところでは落ち着いて寝れないし。けっきょくはかなり市街地の真ん中の河川にテントを張りました(笑)。朝早くに撤収するから朝もやの中の自然ツーリングがまた気持ちいいんですね。

下呂温泉あたりにある縄文遺跡といわれる岩屋岩陰遺跡です。天文観測の考古学的実証がおこなわれた遺跡ですが、場所が場所過ぎますね。なんでこんな山奥なんだ。古代にこの地に権力の中枢があったとはとても思えないし。場所が天文施設の信憑性に懐疑をもたらします。

ななめに傾いた岩の隙間から春分・秋分の光がさします。たしかに天文観測の施設として役割をはたしていますね。このライン上には古代大和では三輪山や伊勢斎宮跡など「太陽の道」が並びますね。

夏至のころの太陽の光が刻まれています。

冬至前後の120間太陽の光が差し込むそうです。これは完全に意図的な建造を直感させますね。冬至というのは太陽が死んで新たに生まれ変わる季節です。生命や神はそこから新しく生まれるわけです。この差し込む方向に再生する神や権力者がいなければならないわけですね。つまり太陽の光によって新たに神として受胎するわけですね。古代の天皇は古墳や墓にこのような機構をこめました。

この巨大な岩は運んだのか、もともとあったのを利用したのか。それもかなり傾斜のある山腹です。山奥です。こんな場所にこの施設をつくるほどの価値があったのか、さいしょの疑問に舞い戻ります。

飛騨の山並みです。思ったように高い山々でもなく、人里はなれた深山幽谷という感じがしませんでした。フツーの山並みでした。「飛騨ー!」という感じしなくて残念でした。

三日目には岐阜や名古屋のかなり下までおりてきて、木曽川の河口の長島という中洲にテントを張りました。探すまでかなり走りつづけました。いいロケーションで寝たいですからね。けっきょくは堤防のコンクリートの上にテントを張って、強風のおもりには自分の体重とリュックにかけました。
▼リンク
日本の考古天文学 金山巨石群と太陽暦
美濃市観光協会
飛騨高山 観光ナビ
▼白川郷や岩屋岩陰遺跡をマッピング。
YouTubeで映画音楽etcを聴く。
YouTubeで映画音楽やインストゥルメンタルの曲を集めてみました。映画音楽は探すのが難しかったのでこのへんで。
リンクは時間がたつごとに見れなくなっていますので、ご了承ねがいます。(UP日 2007/8/11)

『ひまわり』から。悲壮感漂う泣ける曲です。『ひまわり』は戦争未亡人が生きていた夫の幸せな家庭を見つけてしまうという物語のはず。

ご存じ、チャップリンの『ライムライト』。名作映像で見たかったのですが。

『ゴッドファーザー』はいろいろ編曲があるみたいですが、これは切ない旋律ですね。

『風と共に去りぬ』ですが、私は見たことがありません。

おなじみの『ピンクパンサー』。さいきんはあまり聴かないか。

哀愁あるニニ・ロッソの『夜空のトランペット』。私は浜村淳の深夜ラジオでよく聴いたな。

リチャード・クレイダーマンの『渚のアデリーヌ』。この曲がいちばんメジャーなのかな?

喜多郎の『シロクロード』。NHKスペシャルで聴いたことがある人は多いと思いますが。

『炎のランナー』からヴァンゲリス。

ヴァンゲリスの『1492』の曲だと思います。

『あすなろ物語』を盛り上げたSENSの曲です。『掛居く〜ん』と石田ひかりが切なく訴えるシーンに使われましたね。覚えていますか。

SENSは心洗われますね。
![S.E.N.S. - Flying [Live Concert Tour] 2004 S.E.N.S. - Flying [Live Concert Tour] 2004](http://img.youtube.com/vi/GKTinRpoJYA/default.jpg )
これは『ミセス・シンデレラ』に使われていたそう。

アンドレ・ギャニオン。『雨ふりのあとで』。たしか『Age35』の挿入曲で、私はこれに惚れ込んでアルバムを買いました。

アンドレ・ギャニオンの『潮騒』。ピアノの切なさと悲しさのハーモニーですね。

チューリップのこの唄は好きだったな。

ハマショーはこんなバラードが好きですね。
『マフィア流 交渉の極意』 丸山 隆三
マフィア流 交渉の極意
丸山 隆三

日本社会は穏やかで信頼できる社会と思われている。しかし一度暴力や憎悪や策略にみちた集団のなかに放り込まれたら、あなたはうまく立ち回れる自信があるだろうか。マフィアはそういった世界を日常として生きているから、そのことについては学ぶものがある。
この本は意外に読ませた。なにより著者の人生がすごい。アメリカで高級ディーラーとして成功するのだが、麻薬取引に手を染めたため、重犯罪刑務所レベル4に9年間も放り込まれることになったのである。凶悪犯の巣窟で生き残るために著者はかつて聞いたマフィアの生き残り方法を実践してそこで生き残らなければならなかったのである。
世界とはこのような凶悪さや謀略にみちた世の中がふつうである。それにくらべて日本人はお人よしすぎるし、人を信じすぎるのである。他国に侵略されたり蹂躙された歴史をもつ人たちのなかを功利的に立ち回ってきた人たちのなかに放り込まれたら、はたして日本人はかれらと互角に闘えるだろうか。たちまちカモやいいようにこき使われるか、消されるかだけだろう。私たちはこのような極限の世界を生きてきた人たちと互角に闘えるわけなどないのだ。
暴力や策略を土台として生きたマフィアは交渉や駆け引きのプロである。そした私たちの日常も、マフィアのレベルになることはないが、怒りや憎しみの関係になると、このような一面をむき出しにするものである。そのようなときにマフィアの生き方には学ぶべきものがあるというしだいである。
これはどんな人でもいつかは人間のこのような面と何度か向き合うときがあると思う。人間の凶暴さや非情さに立ち向かわなければならなくなったとき、私たちは人間のマフィア性を見ることになるのだろう。
「ここでは、力の強い者、資産を持っている者、便宜を図る権限のある者が、強者として生きる権利を獲得するのだ」
「法ではなく、掟が支配する閉じた社会。そこでものを言うのは、力と金と権力だけ。抗争や殺戮と隣り合って生活する日々」
「中でも、もっとも役立ったのは、権力の構造を見抜き、その大本を掌握するやり方である」
「あなたの身になって、あなたが望むようなものを与えてくれる相手など、世の中に一人もいないのだ」
「法は金持ちのためにあり、絞首台は貧乏人のためにあり、正義は愚か者のためにある」――シチリアの格言。
重犯罪刑務所レベル4とマフィアが生き抜かなければならなかった社会は人間の同じような凶暴さや非情さをあらわしている。そしてそれは私たちの日常や社会も一皮向けばそのような相貌をあらわすものなのである。このような人間の一面と出合わなければならない環境に巻き込まれたとき、この本の知恵は役に立つことになるのだろう。
この凶暴さは人間の普遍的なものなのである。けっして重犯罪刑務所やマフィアだけの世界ではない。あなたはこのような世界で非情さや凶暴さの仮面をかぶれるだろうか。
YouTubeで懐かしの曲を聴く。
あまり主旨は一貫していませんが、ユーチューブでみなさんに聴かせたい曲がありましたのでまたUPします。UP日は2007年8月5日なので、日がたつごとにリンクが見れなくなっていますのでご了承ねがいます。
君に会うまでは 浜田省吾ハマショーのサイコーのどろどろラヴ・ソング。「今夜はそっと時計を 君はバッグにしまい〜」
さだまさし - 北の国から泣けてくる〜! 『95 秘密』のころの失恋を思い出してしまいました。
sona (ユンソナ) - 会いたい『天国の階段』の日本版のテーマ曲。ユンソナが唄っていたとは。
岸辺のアルバム オープニング Will You Dance?このジャニスイアンの歌声を聴きたかったのだ。山田太一原作のドラマでしたね。
Janis Ian "You Are Love"『復活の日』のテーマ曲。
四年目の秋 浜田省吾ハマショーのひとりで生きる女性の詩を歌ったせつない曲。
家路 浜田省吾ハマショーの大作ですね。
女子たちに明日はない チャットモンチータイトルにインパクトがありますね。
河島英五 - 酒と泪と男と女カラオケの定番すよね。
愛のメモリー 松崎しげるいい曲なんですが、どっから見てもギャグになってしまうのが残念。
ALL OF YOU(Extended Lovers Mix2)杏里杏里のバラードはこんな感じでしたね。よく聴き込みました。
イルカ なごり雪 いつまでも聴きたい名曲。
翼をください 赤い鳥教科書にのるとポップソングのイメージがおベンキョーの曲になってしまいますね。
時代 中島みゆき何度でも聴きたい名曲。
季節はずれの海岸物語 (室井滋・鈴木保奈美)このころのドラマってこんな感じだったんですよね。
『「デタラメ思考」で幸せになる!』 ひろ さちや
「デタラメ思考」で幸せになる!
ひろ さちや

ひろさちやはいいことをいう。「「働きたくない」という欲望が、いちばん人間らしい欲望です」。「道徳なんて、馬鹿にしたほうがいいのです」。「欲望を充足させると幸福になれるというのは、悪魔の思想です」。
とくに働きたくない気持ちを正当化するメッセージにはおおいに共感する。私も仕事で遅くなると「いったいなんのために生きているのか?」と怒りに煮えたぎってくるし、仕事をしているたびに人生を奪われている気がする。しかし会社におもねるしか生きる道がないし、年収が低かったり非正規雇用であると「下流」だといって脅される。
なんで日本はこんなに働くことに価値をおいた社会になったのだろう。なぜ日本は働きたくないというごく人間らしい欲望を認められない社会になったのかと思う。私には正気の沙汰に思えない。マジメに勤勉に働いて、立派な家や豪華な車に乗ることがステータスになってしまって、自分のための人生がない。私はこの価値基準がまったくさかさまだと思う。
ひろさちやは世間の価値観や欲望の奴隷となった日本社会のありようをすべて批判する。過激で、痛烈なことをいっているはずなのだが、ふしぎなことにひろさちやの筆は危険なことをいっているという感じがない。たぶんやさしい文章で噛み砕いているから、過激さが中和されているのだろう。
まったくいい社会批判である。そもそも仏教は社会のおおくのことを批判して世間や家族を捨てる思想をもっていたものである。日本の仏教僧は国家公務員であったから、世間や国家の服従を説くようになった。ひろさちやは仏教の原点を社会批判というかたちでくりひろげる。仏教はこのような反社会なものであり、人間の過ちや愚かさを痛烈に批判するものであったはずだ。そういうキバが抜かれた仏教は世間の奴隷や過ちを正す役割をなにひとつもてないのである。
ひろさちやのお顔の写真をながめていると、この人は破天荒な坊さんという感じはしない。どちらかというと世間に従順に生きるタイプのほうに見えるし、サラリーマンっぽく見える。この人は思想と行動が乖離しているのかな、あるいは世間の力をちゃんと配慮できる人なのかなと思う。
ひろさちやはこのような社会批判の同じような本を何冊か出していて、私も一、二冊読んだ。同じことだと思っても、好きな主張だから私は確認する意味でもう一度読むのである。ひろさちやは世間の価値観の足元を蹴飛ばす。仏教とはほんらいこのようなものでなければならないと思うし、人々の世間に拘束されたり、欲望のワナにはまる愚かさを指摘する思想であったはずである。この大切な役割をいまの仏教が果たしているとはとても思えない。
この言葉は好きである。
「立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」
いくらお金や権力をもてたとしても、人間の必要なスペースと食べられる量は限られているのである。人間はどうも世間の他人にむけて権力や豪勢さの威嚇をしないとコワくてしょうがないみたいである。
「日本語の愛は、本質的に「執着」を意味します。
仏教的には自分を中心にして相手への自分の執着を貫こうとする心持ちをいう。仏教では「愛」を必ずしもよいこととは見ていない。また、概して優位にあるものが弱小のものをいとおしみ、もてあそぶ意の使い方が多かったので、キリスト教が伝来したとき、キリシタンはキリストの愛を「愛」と訳さず、多く「ご大切」といった。
二つのものを比較して、どちらかいいほうを選ぶのが「愛」です。だから仏教は、「愛」を嫌います。「愛するな」と教えます」
現代日本の至上のものとされる「愛」だが、やっぱりウソっぽさや欺瞞もたくさん感じられるし、利己主義や功利主義ではないか、たんなる経済の要請に過ぎないのではないかと疑問が噴出するのだが、こういう至上のものを足蹴にしてくれる思想は私の強迫観念を吹き飛ばしてくれて、たいへんありがたいのである。
by G-Tools
▼ひろさちやの過去に読んだ著作

仏教はまったくいいことをいっている。高度成長とかバブルの時代になにをやっていたのだろうか。この本は競争社会に走りつづける日本人のよい解毒剤になるのはまちがいないのだが、いったいどれだけの人が読み、かつじっさいの生き方に実践するというのだろうか。
「なぜ日本人は奴隷になったのか」「生きがいなんて要らない」「過去のことをくよくよしない」「明日の心配はしない」「進歩がなくてもいい」といった魅惑的なタイトルが目白押しで、キレイ言ばかりいう仏教というイメージを一新してくれるかなり批判精神の効いた仏教の本である。
こういう精神のかまえはできるだろうが、じっさいのビジネス社会にどれだけの実効力があるのかというと、やっぱりかなり悲観的にならざるを得ない。

言っていることはものすごくいいことだと思う。「頑張ってはいけない」「競争の渦に巻き込まれるな」「自分と他人を比較するな」「会社や組織を突き放せ」「よけいなことは考えない」「ほどほど、いいかげんがいい」――涙がちょちょぎれるほど、慰められる言葉群だ。
右肩下がりの下り坂の時代にはとてもぴったりした知恵だと思う。ただ、ひろさちやの文章はどうも感銘や驚きがなく、あっさりと読み終わってしまう。落とし処やねじりとか、突き放しがどうもない。森毅のような人に言わせたのなら、辛辣に常識の馬鹿が笑えたと思う。かなり惜しい文章である。
『「人間嫌い」のルール』 中島 義道
![]() | 「人間嫌い」のルール (PHP新書 468) 中島 義道 (2007/07/14) PHP研究所 この商品の詳細を見る |
中島義道はいい。日本社会のウソっぽさや欺瞞をみごとにえぐり出し、息苦しさや窮屈を感じている人に痛快な風穴を開けてくれるからだ。人とうまく、仲良く、思いやりをもてという強迫観念に苦しんでいる人には福音になるメッセージを与えてくれる。
もう一点、中島義道のいいところはほんとうの意味で「哲学」していることだろう。日本の哲学は海外の哲学者の思想をなぞることだとされているが、哲学というのはほんとうは日常の何気ないことをとことん考えることだと思う。人間関係であったり、愛であったり、感情であったり、ごくあたりまえのことを考えるのが哲学だと思う。中島義道は本当の意味で「哲学」しているのだと思う。私の知る限りではもうひとりの日本の哲学者は鷲田清一くらしいしか思い浮かばないが。
中島義道はなぜ人間嫌いになったのか。
「人間が不純だからではない。不道徳だからではない、利己主義だからではない、むしろ(いわゆる)「よいこと」を絶対の自信をもって、温かい眼差しをもって、私に強要するからなのだ。とりわけ共感を、つまり他人が喜んでいるときに喜ぶように、他人が悲しんでいるときに悲しむように、私にたえず強要している」からだ。
「ひとりで生きてはいけない、他人に対する思いやりをもたなくては生きていけない、協調性がなくては生きていけない、そんな自分勝手では生きていけない……という言葉を――祝詞のように――彼らの耳に吹き込むからなのだ」
「日本社会をすっぽり覆っている「みんな一緒主義」、言葉だけの「思いやり主義」「ジコチュー嫌悪社会」が、少なからぬ若者を苦しめ、「もう生きていけない」と思わせ、絶望の淵に追いやっている」
私もこの気持ちがひじょうによくわかる。とくに集団での共感ゲームが大嫌いだ。そのウソっぽさや演技性がどうも我慢ならないのである。ゲロを吐きたい気分になる。私は二人関係ではよくしゃべるが、三人関係になるととたんに黙りたくなる。
中島義道もいっている。
「その和気あいあいとした雰囲気は共感ゲームで充たされ、大量の欺瞞が飛び交い、みなどこまでもよい気分でいたいという欲望がグロテスクなほど露出されていて、気持ちが悪いのだ」
集団で気持ちや感情を共有するのが私はとりわけ嫌いである。集団になるともう行為は演技や功利で満たされ、欺瞞やウソだらけになる。ついでに集団の雰囲気や圧力が私たちを覆いこむ。私個人ではなく、「集団人」として感情し、行為しなければならないとなったら、とたんにその関係性を拒否したくなる。ひたすら同調や共有がめざされる関係が嫌いなのである。
日本人はひたすら集団の同調や協調を強要する人たちである。集団に統率されない人間をひたすら嫌う。それはたんに管理者が集団で統率するほうが便利で合理的であるからだと思うが、私はそれがまるで幼稚園児のお遊戯に思えてくる。集団のかたまりとしか生きられない日本社会のつまらなさや窮屈さは絶望的だと思う。私は個人としての私の感受性や行為をたいせつにしたいのである。
日本社会は「みんな一緒主義」を病気のように信仰し、そこに穴や傷をつける行動や言動や感情を徹底的に嫌う。集団の同調行動に逆らう人間はたちまち排斥の憂き目に合う。その恐ろしさに脅えて、多くの人はしたくもない同調や感情の模倣をおこなう。その欺瞞さやウソっぽさ、みずからの不誠実や仮面性に嫌悪や羞恥しながらも、なおうまくそれを演じなければならないのである。
もういっそ自分の本心をさらして、好きなように生きよう、人間嫌いに生きようとしたのが中島義道である。私はなにもそこまで人間嫌いに徹しなくてもいいじゃないか、テキトーに愛想よくまわりに合わせていればいいじゃないか、ある程度集団欺瞞から逃れてひとりの時間をもてばいいではないかと思わなくもないが、もちろんそれは自分の弱さや人から徹底的に嫌われたり、排斥されたりする恐ろしさも勘案しないわけにはいかないからである。
「……愛情ですって……? こっけいではございませんか。心ですって? 可笑しくはございません? そんなものは権力をもたない人間が、後生大事にしているものですわ」――三島由紀夫『鹿鳴館』
私はこの本は人間嫌いのススメとして読むほうがいいとは思わない。そんなのは苦しい、イバラの道である。人から嫌われたり、排斥されたりすることの苦しさなんてみずから進んで体験するものではない。
この本は「人と仲良くしなければならない」「集団で常時行動しなければならない」「みんなと同じ感情や思いやりをもたなければならない」「人とうまくやることができないのは人間失格だ」と思っている人への癒しやセラピーとして読まれるべきだと思う。なにも人格や集団の「優等生」や「完璧」になる必要などないのだ。
人とうまくいかなくても、嫌われても、仲間外れにされても、友だちがいなくても、充分それでいいんだ、やっていけるんだ、というメッセージとして読むほうが賢明だと思う。たぶん完璧な人格者をめざしている人は薄氷を踏む思いで、絶壁の淵を歩いているような気分で毎日を過ごしていることだろう。中島義道はそんな人生なんてさっさと捨ててしまえばいいんだと身をもって示してくれているのだと思う。「善人」や「いいひと」の欺瞞や偽善さにうんざりしてきた人にはいい薬になることでしょう。
▼過去に読んだ中島義道の著作
『人生を<半分>降りる』 中島義道 新潮OH!文庫 97/5. 581e(古本)

皮肉で批判的な視線にユーモラスがあり、けっこう楽しませてもらった。有名欲の愚かしさ、善人の弱さ卑怯さ、専門家はタコ焼き屋台なみに人生が狭い、学界の電車並みの席取り競争、勝者は醜い、親は「自分のため」を子に強要する、など洞察力あふれる人間観察に共感をおぼえた。私も明るく楽しい人間関係がたまらなくウソっぽくて嫌いなのだが、会社の中では人間関係を断つこともできない。
『ひとを<嫌う>ということ』 中島義道 角川書店 00/6. 1000e

中島義道はエライと思う。人から嫌われることを極度に恐れる世の中にあって、ひとに嫌われる、ひとを嫌うということをとことん考えつめるのはそうだれにでもできるものではない。たいていの人は嫌われていると思ったら、嫌われないように、好かれるようにと「正当」な方向にすすむ。
これはまちがいだ。そうではなくて、嫌う嫌われる関係の波間にじっといつづけ、それを探求するというのはもっと大事なことだと思う。恐怖に駆られて逃走するだけでは、その恐怖は絶対に根絶されないのである。「貧乏」であれ、「落ちこぼれ」であれ、「負け組」であれ、すべてそうだ。恐怖から大多数の人のように勝者を正当的にめざすと、じつは恐怖を強め、増強したにすぎなくなるのである。
中島義道は妻子からとことん嫌われたことにより、嫌うということを徹底的に考えたが、これこそが哲学することだと思う。自分の問題から考えるのが哲学であって、思想界や世間のトピックから考えはじめるのはほんとうの意味では哲学ではない。そんなのは自分のための哲学ではない。人に合わせるための世間話にすぎない。
私は人から嫌われることをかなり恐れ、人を嫌うことすら抑圧した、他人に従順な奴隷のような人間である。だからこの本の人を嫌う気もちというのがいまいちぴんとこなかった。私は「ひとから嫌われる」という恐れを深く見極めないことには、ほんとうの自分というものを永遠に見出すことができないのだと思う。人から嫌われても気にならない心が必要なんだと思う。
『孤独について』 中島義道 文春新書 98/10. 660e

孤独に対する一般論の話を期待するとがっくりする本だが、中島氏の小学校のときの小便もらしの経験とかまったく運動ができなかったこととか、けっこう親近感をもてて笑えた。大なり小なり人は小学生のときこういう気もちはいくぶんか味わっているのだと思う。
そしてその後、悩みを考え抜くことを通して東大に入学できたのだし、教授にいじめられたことはあっても大学の教授にはなることができたのである。まあ、苦しい人生だが、思考すること哲学することに価値をおくと、悩みの世界は極大化し、自己は超特別な存在になるということである。あと紙一重のところに思考を捨てるラクな道もあるのだが。
中島義道『時間を哲学する 過去はどこへ行ったか』講談社現代新書1293 650円

過去や時間について考えることは、われわれの悩みや悲しみから解放されるためには、ひじょうに重要な問いである。
なぜなら、過去こそがわれわれに多くの苦しみをもたらすからだ。
われわれはふだん過去や時間のことについて疑問に思ったり、過去はどこに行ったのだろうということを問うことはまずない。
だが、そのような無自覚な姿勢こそが、過去からの牢獄を、わたしたちの身の上につくってしまうのである。
この本はヨーロッパ哲学の影響のうえに、時間についての考察を進めているが、がぜん、おもしろくなるのは、5章からの「過去はどこへも行かない」からで、過去は「いま」を過ぎれば、すべてどこにも存在しない、一瞬のうちに奈落の底に消えてしまうという捉え方を打ち出しているところである。
われわれは過去はある、と思っているが、じつは過去はこの地上にはどこにも存在せず、ただわたしの頭のなかにあるだけなのだ。
頭の中に、過去の等身大のわたしや、経験や行為がおさまってしまうわけなどない。
このことに気づいた哲学者たち――アウグスチヌス、デカルト、ヒューム、マクタガート、といった人たちは、全身全霊で恐れおののきながら、時間について語っているのである。
それは同時に過去の呪縛から一瞬にして、解放されることを意味し、過去の非実在性をもっと深く理解すれば、われわれは過去の悔恨や恐れ、不安から、完全に遮断されることになるのである。
この本はそのことに気づかせてくれた、ひじょうに驚くべき書物である。












![4393710312.09.MZZZZZZZ[1].jpg](http://blog-imgs-14.fc2.com/u/e/s/ueshin/4393710312.09.MZZZZZZZ[1].jpg)


![79522366[1]12.jpg](http://blog-imgs-14.fc2.com/u/e/s/ueshin/79522366[1]12.jpg)


![050[1]1.jpg](http://blog-imgs-14.fc2.com/u/e/s/ueshin/050[1]1.jpg)
![4140019271.09.MZZZZZZZ[1].jpg](http://blog-imgs-14.fc2.com/u/e/s/ueshin/4140019271.09.MZZZZZZZ[1].jpg)
![4896916158.09.MZZZZZZZ[1].jpg](http://blog-imgs-14.fc2.com/u/e/s/ueshin/4896916158.09.MZZZZZZZ[1].jpg)
![4101294313.09.MZZZZZZZ[1].jpg](http://blog-imgs-14.fc2.com/u/e/s/ueshin/4101294313.09.MZZZZZZZ[1].jpg)


