『ヤクザに学べ! 男の出世学』 山平 重樹
![]() | ヤクザに学べ!男の出世学 山平 重樹 (2003/08) 筑摩書房 この商品の詳細を見る |
お断りしておくが、私はヤクザに一度も憧れたことはないし、尊敬することもない。私が学びたかったのは、集団内で憎しみや争いが勃発したとき、どのように関係を渡っていったらいいかということだ。勝つためには、あるいはやられつづけないためにヤクザになにか学べないかとやみくもに、ヤクザの処世術の本に手を出しただけである。
ヤクザとて人間の集団であり、組織である。なるほどビジネスマンもヤクザに学ぶことはあるだろう。ヤクザのほうが人間の集団や構造をよりよく表わしていると考えられる部分もある。あの緊張感や脅しやハッタリ、その対極といえる思いやりや気配り、義理や人情といったものは、なまはんかな企業組織にはとうぜんないものである。
ヤクザはサラリーマンとちがって、自分でシノギを見つけてこなければならない。フリーランスや自営業と近い。そしてお客はカタギの人間である。だから一方では脅し恐がれつつも、営業マンのような穏やかで信頼される商人像も必要なのである。組織内においても義理や信頼がものをいう。オオカミの顔をもち、その獣性をかぎりなく従順な飼い犬のように飼いならす技能も必要なのである。ヤクザは恐怖を元手にした商人ともいえるのである。
この本から私の感銘したところをかいつまんで。ヤクザも真面目じゃなければだめである。新聞に書かれるようなヤクザは決してヤクザではない。抗争事件が起こって、若いヤツが捕まるが、親分が命令を出したのではない。命令されなきゃ若い衆が動かないようでは組織はつぶれるのである。成功は他人に譲り、失敗の責任は自分で負えとビジネスでは言われるが、ヤクザでは組のために働いても見捨てられることがあるのがシビアなところである。
ヤクザもカタギに高圧的にしゃべると怒られるが、なめられてはならない。ヤクザも武闘派と頭脳派の両輪が必要である。おいしい仕事は子分に花を持たせてやると恩を返してくれる。ヤクザの上下関係の厳しさは軍隊と同じだが、この厳しさが組織の強化につながっている。非情さのない人間はリーダーになるな。
ヤクザなんて事件やニュースで知る限りではたいへん恐ろしい連中ばかりだと思うものである。しかし本を読んだりして内実を知るにつれ、ただの人間や集団にすぎないのだというイメージもできてくる。そりゃあ、しょっちゅう、ケンカや抗争を組織内部でくりかえすようでは組織自体がもたないし、命がいくらあってもたりないし、稼ぎもない。自重する部分と脅しのイメージがうまく重なり合ったところにヤクザの成功があるのだろう。
学問バトン
私のところにいままでバトンなど一度も回ってきたことがないのですが、バトンを放り投げている人がいましたので、強引にもらっておきます。
このサイトの著者の自己紹介のようなものです。著者がなにを探っているかよくわからないと思っている人は参照してみてください。
◆あなたの専門・専攻・得意教科は?
社会学が中心、そのつぎに人文科学全般。興味はつぎつぎに変わりますから興味の赴くままに掘ります。現代思想、経済学、心理学、人類学、民俗学、古代史、サブカル、メディア論……なんでかもかんでも。
◆あなたは、どのようなテーマに関心がありますか?
テーマはそのときの関心によって違います。いまは集団力学や権力闘争といったものに焦点を合わせています。そのまえは古代レイラン探究をしておりました。そのまえはたしか性愛論について考えていたような。めくらっめっぽうにその時の興味のわいたジャンルを掘り進めるのが私の楽しみです。
◆あなたは、なぜその専門・分野を選んだのですか?
興味がわくから。知りたいから、謎や疑問を解きたいから。たぶんそのときの自分にとって処世するための知識や知恵が必要だからと思います。
◆あなたが最も影響を受けた人と、その理由を挙げてください(複数人可)。
フリードリッヒ・ニーチェ、アルトゥール・ショーペンハウアー、ヘンリー・ソーロー、エーリッヒ・フロム、オルテガ・イ・ガセット、デヴィッド・リースマン、ジャン・ボードリヤール、ミシェル・フーコー、堺屋太一、ピーター・ドラッカー、竹田青嗣、今村仁司、中野孝次、リチャード・カールソン、クリシュナムルティ、ラジニーシ、ケン・ウィルバー、岸田秀、村上春樹、などなど。
◆あなたが影響を受けた本とその理由を、何冊か挙げてみてください。
・『楽天主義セラピー』 リチャード・カールソン
・『森の生活』 ヘンリー・ソーロー
・『幸福について』 アルトゥール・ショーペンハウアー
・『自由からの逃走』 エーリッヒ・フロム
・『大衆の反逆』 オルテガ・イ・ガセット
・『孤独な群集』 デヴィッド・リースマン
・『現代思想のキーワード』 今村仁司
・『清貧の思想』 中野孝次
・『無境界』 ケン・ウィルバー
やっぱり二十代のはじめ・なかばに読んだ本が重く残っていますね。さいきんも感動した本にたくさん出会っているはずなのですが、このころ読んだ本のほうが影響は強いですね。というか選べないほど雑多な本に影響をうけているといったほうが近いと思います。
◆入門者に、その分野の「入門書」として一冊お勧めするとしたら何を薦めますか?
上記参照。
◆あなたが考える、その専門・分野の「武器」はなんですか?
武器? そんなものが必要なんでしょうか。知識は世の中を知るために必要なものであって、武器とはならないような。
◆他人に「君、大学では何を研究してたの?」等と聞かれた場合、なんと答えるようにしていますか?
経済学。なんの役にも、自分のためにもならかった。社会学か哲学にいけばよかったと後悔するのみ。18のころに自分の興味なんかわからなかったし、そのころに興味があったことといえば、SF映画とMTVとデザイナーズ・ブランドくらいでした。
◆あなたがその専門・分野に関して、一般の方に知ってもらいたいところは何ですか?
学問は言葉の訓練であって、言葉を持たないと世の中を知りえないし、描くこともできない。映画や音楽、TVだけでは言葉の技術は磨かれないし、ということはその世界は存在しないということです。
◆あなたがその専門・分野に今後期待することはなんですか? あるいはあなたがその分野で達成したい目標はなんですか?
知識は世の中を生きる道具や技術となってほしいと思う。実践的な知恵や技術になってほしい。学問のための学問ではなくて、自分が生きるための技術になってほしいものです。それでこそ人は賢明に生きられて、世の役に立つものになるというものです。
■バトンはご自由にお使いください。
『現代ヤクザに学ぶ最強交渉・処世術』 夏原 武
現代ヤクザに学ぶ最強交渉・処世術 (宝島社文庫)
夏原 武

交渉や処世によって人と駆け引きしたり取り引きしたりする知恵や技術というのはたいせつだと思うが、先を読んだり結果を見極めたりする能力はまたかんたんに身につくものではないと思う。チェスや将棋のように駆け引きの先手まで読めるものなんだろうか。どうも私は駆け引きの先が読めないようである。
ヤクザというのはこのような駆け引きにおいて、功利的にエゴイスティックに自己利益を最優先して動きそうである。ずる賢さや抜け目なさにおいて、私はヤクザなら学べると思った。
この本では交渉や取り込む・ハメる、おだてる・謝る、開き直る、借りる・逃げる、といったさいの交渉術や処世術が事例をもとに説かれている。心理学よりよほど役に立つ心理操作のテクニックが書かれている。だけどこのような技術はどうやったら身につくのだろうと、こういうことにニガテな私は思うのである。人を操作したり追い込んだりすることは功利的であり純朴でないと思ってきた私はどうもその技能が身についていないのである。この本についてはあまり感想が書けないな。
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人間の価値観なんて捨ててしまえ。
私のバイブルの一冊として、櫻木健古の『捨てて強くなる――ひらき直りの人生論』(ワニ文庫)がある。ワニ文庫といえばおもちゃみたいな本を出していて、この本は84年に出て、いまでは絶版でamazonで1円で買える代物である。

この本のいっていることは「人間の価値観なんて越えてしまえ。無の世界に遊べ」ということなのだが、私はこういう主張の本でこれ以上の本を読んだことがない。もっとこのエッセンスを知りたいと思っても、同じような内容を語る書物はあると思うのだが、なかなかぴったりの本が見つからないから、私にとってのこれ以上の本はないのである。
「金銭第一主義の人もいれば、地位や名誉をことのほか重視する人もいる。だが、どのみち価値というものは、相対的なものでしかないから、我欲や我執からこれにとらわれると、チッポケな<有>に振りまわされる奴隷となって、<無>をも<絶対>をも見失う結果になる」
「もろもろの相対的な価値を――否定するのではなくて――超えた世界に生きる、すなわち<無>の住人になること」
「貧富貴賎にたいして平気、毀誉褒貶にたいして平気、吉凶禍福にたいして平気、その他のいっさいにたいして平気であれ」
「人間は価値感(観)にとらわれるから、卑小になるのだ。自分はそういうものを超えて、「無価値に」(超価値的に)生きた。だから、世間のモノサシから見れば、「一生を棒に振った男」ということになるだろう。しかし、ほんとうにこれを棒に振っているのは、もろもろの価値に執着している連中ではないのか」
「無価値に生きよ!
一生を棒に振れ!」
「賢と愚、利口と馬鹿、才能や能力の有無、優劣……そういった価値尺度に、私たちはとらわれすぎているように思われる。そのモノサシで、自分と他人をいたずらに比較して、安心したり、劣等感にとりつかれたりして、心をせせこましいものにしている。"平気"になれないのである」
「<有>にとらわれ、ドーナツの環と穴だけを見つめていれば、小さな違いも大きく見えてこよう。しかし、広大な<無>の世界に出て、そこから眺めて見れは……? 人間おたがい、似たようなもの、ドングリの背くらべ……ということになりはしないか?」
「すなわち、かれらは、他人との比較はいっさいしていないのである。いわば、「人を相手にせず、天を相手として」自分を見、その姿をとらえる。その立脚点から――そこだけから――「われは愚なり」という自覚をなしているのである」
「「おれはダメだ」という式の自嘲や自信喪失、劣等感のたぐいはすべて、「人を相手にする」(自他の優劣を比較する)ココロから生まれるものであり、その裏にはつねに、優越感という小我的な欲望がある。
一見、自己否定のように見えるこれらの心情は、じつはものすごい(そして醜い)我執から生まれるものだ」
われわれは人間の価値観だけに生きる。まわりの知人や友人だけの価値観に染まり切る。むこう三軒両隣との優劣や比較だけにこだわる。視野が狭くなって、そういう狭い競争や価値観だけがすべてだと思い込むようになるのである。
こういう卑小な世界観に凝り固まってしまったら、ときにはそんなせせこましい価値観を笑って、つきとばす必要があるだろう。なんてつまらないことにこだわって、人生をむだに過ごしてきたのだろうと反省すべきである。
人間の価値観なんて捨ててしまえ。そういう優劣やヒエラルキーにとらわれてしまうと、けっきょくそれだけの人間になってしまう。そしてそれら一喜一憂し、生きるや死ぬかの騒ぎになってしまうのである。はっきりいって、そんな価値観は天や地球からながめれば、ゴミやノミ程度の視点でしかない。そういう視点からものごとや自分をつき落としたとき、自分のせせこましさや卑小さに笑ってしまうしかないだろう。
人はこういう価値観から抜け出られたときに、ほんとうの成長があるのだと思う。比較や優劣にこだわったり、もだえ苦しんでいるくらいでは、人はなんの進歩も成長もない。世間や社会の価値観を抜け出たところに、人生の豊かさや真実を見い出すべきなのである。
もし世間の価値観――たとえば金持ちや大企業、学歴などの優劣・ヒラエルキーに圧倒されたとき、私たちはこの視点を思い出すべきなのである。はたしてヒエラルキーの頂点にいる人たちは競争や優劣の価値観に囚われた操り人形、卑小な存在ではないかと疑ってみるべきなのである。そういうヒエラルキーを外した彼らは立派で平穏でおだやかな心をもっているのだろうか。私たちはこういう価値観のないところに安心と成長を見い出せるのではないだろうかと思う。
この本は私の知恵のバイブルとしていつも心の片隅においておきたい本なのだが、ひとつ疑問が解けないことがある。この本に出てくる「無の達人」のほとんどが「偉人や有名人」であることだ。偉人や有名人であるからこそ、かれらの無価値な生き方も賞賛されるのではないかと。
はたしてわれわれは街中で見るなんの価値も賞賛もされないような人たちに「人間の価値観を超え出た」ものを見いだすことができるだろうか。かれらは「脱俗」の栄誉が与えられべきものなのか。偉人でなければ、「無の達人」の称号はつかないのか。
かれらの心の内面を推し量ることはできない。かれらが人間の価値観を超え出ていたり、安心安穏の心をもっているかはわからない。ただヒエラルキーや優劣のそぶりや演出の構えをもっているかはわかる。かれらは社会の価値観の役割をみずから演じているかそうでないかはわかるものである。かれらもヒエラルキーの頂点にいる人と同じようにヒエラルキーの劣位の役割をみずから負いかぶさっているのかもしれないのである。いわば社会の価値観を背負い、みずからが演じているのである。かれも社会の犠牲者――ふたつの両端の道化者かもしれない。
人間が偉さや優越の気持ちをとるさることは並大抵のことではないと思う。だれだってあの人には負けたくないとか、あいつだけには負けたくない、カッコイイ姿を見せたい、ミジメでブザマな格好を見せたくないと思うものである。そんな心をはたして捨てられるだろうか。
私たちが人間の価値観やヒエラルキーを否定するときは、自分の負けたり劣ったりしているときのいいわけや慰めに使われがちになるだろう。世間の価値否定は自己肯定の裏返しに使われるのである。人間はそこまで自分の偉さや優越にしがみつきたいものである。しかし負けたり劣ったりしたからこそ価値観や優劣を捨てられるポジションに立てるのであり、成功者はなかなか捨てられないだろうし、そもそもそんな必要すら感じられないだろう。
人間の価値観など捨ててしまいたいものである。そうすればつまらない悩みやこだわりともおさらばできるだろう。そんなものは人生のムダである。比較や優劣のないところに自分の生きる道を見い出せるかもしれないと私は思うのである。
賞賛されるより、無価値のほうが偉い。
「賞賛商品」でわれわれは自分の価値を補給する。世の中で賞賛されたもの、売れたもの、ベストセラー、ブランドといわれるモノを買うことによって、私は賞賛される人間であるかのように思い込む。
いわば賞賛の代替品を手に入れるわけだ。私たちはその商品の実質や本質にはあまり興味がないのだろう。世の中から評価され、賞賛されたモノであるということで、その意味を買いとるのである。賞賛されたモノを身にまとうことによって、私は「賞賛された者」となる。
私たちはベストセラー本を、多くの人が感動したから読むのではない。賞賛された本を読むことによって、私は賞賛される人間になれたかのように思い込めるからである。人気の映画やトップセールスのCDを観たり買ったりするのは、その内容がいいからというよりか、賞賛されたモノを見たり聴いたりすることによって自分も賞賛された人間になったかのように思えるからである。
世の人々は賞賛がほしくてたまらないのである。そして商品や消費はその賞賛を得られるように、消費者やお客に回されるのである。
私たちは賞賛や評価がないと、自分が無価値であり、意味のない存在に思えてしまう。存在する価値のない人間に思えてしまう。いてもいなくてもどうでもいいような人間はなりたくない。
そして私は人から賞賛され評価される人間になろうとするのだが、ふつうの人が多大な評価を得ることなんてまずは不可能である。かわりに賞賛されたモノを買うことによって、私の価値観を補強することができるのである。私たち凡人は貨幣で賞賛商品を代替的に買うのである。
私たちはたえられない、自分が無価値で、意味のない存在であることが。だれからも必要とされず、愛されず、評価されず、意味もなし、存在している存在していないかも分からない、そんな存在にはなりたくないと思う。
お金があれば、もっとたくさんの賞賛を買える。りっぱな家に高級車、ブランド品の服やバッグ、そして美術品や知識や学歴の数々。私たちは賞賛そのものよりも、賞賛されるものをいくらでも買える金というものに多くの賞賛を期待して、来る日も来る日も金持ちになることを夢見るのである。
金で買えるものは賞賛を見た目ではっきりと表わす。こんなにはっきりとわかりやすいものはない。豪華で豪勢なものは賞賛を明確に表わす。私たちはそんなはっきりと目に見える賞賛に圧倒されて、私ももっと賞賛品がほしいと思うのである。
私はそんな価値を捨てられる人のほうが偉いと思っている。人からの賞賛を欲さない人のほうが勝っていると思う。
賞賛なんてものは気まぐれな一時の感情であるし、不変であるわけがないし、賞賛されるモノはたえず変わってゆくし、モノはすぐに古びてボロは剥がれるし、永久的に賞賛を保持することなんて不可能である。したがってそういう永久に得られないものをはじめからあきらめたり、引き下げたりした人のほうがよっぽど賢いと思っている。
だけど私たちは恐ろしいのである、自分が無意味や無価値であり、人からちっとも評価されたり賞賛されないことが。そんなふうに見られることは自分がこなごなに砕け散ってしまうような恐ろしいことに思えてしまうのである。
この恐怖とセットとなった賞賛欲や認知欲といったものはなんだろう。私たちの心はなぜこのタコのスミのような感情や欲望を吐きつづけるのだろう。本能的なものはいくらかあるかもしれないが、多くは人工物だろう。社会化されるにしたがい、私たちの心はそのように創造・製作されてゆくのである。商業や知識などによる社会の要請によるものだろう。
私たちの心の創造物はできるだけ剥がしてやるべきである。私の心は自由でもないし、思う存分に生きられるわけでもないし、自分の人生ではなく社会の価値のうえを生きるだけの存在になってしまうからだ。心に内面化された社会化の自我を剥がすことが、私たちの自由であり、解放であるといえるだろう。
人や社会から無価値であり、無意味であり、存在している価値のない人間であることをめざせばいいのである。賞賛や価値をめざすべきではない。それは社会の奴隷や社会の規格品になることである。私たちはその要請を几帳面に生きるわけだが、この要請には距離をおき、相対化できるようになり、客観視できることが、われわれの生を自由にするのである。
人や社会から無意味であり、無価値であると思われることを期待したほうが自由に生きられる。私たちは人からの賞賛を求めてしまうがゆえに不自由になり、社会に拘束された存在になるのである。
私たちは無意味で無価値な存在になれるだろうか。私は賞賛や評価の価値というものをできるだけ外してゆきたいとは思っている。しかしこのブログによる考察も、自分が無価値でないというメッセージのなにものでもない。私はてんで無意味で無価値の存在にはなり切れていないのである。賞賛を求める気持ちがしっかりとここに刻印されている。私はこの気持ちを外せたときにもっと自由に生きられるようになるのだろう。
▼無価値になるための本。




ファッションはだれに見せるためか
しょぼい考察しかできないかもしれませんが、見切り発車でGOします。
もしある女性が男性と結婚したとする。彼女のファッションはその男性に向けてだけ着飾ればいいはずなのだが、そうではないだろう。女性は特定の男性に向けてだけ着飾るのではない。不特定多数の世間や社会に向けて着飾る。
街ゆく見知らぬ人の視線や賞賛を感じたとしても、彼らから直接利益がもたらされることはない。世間のたいていの人は彼女に金銭やサービスなどの利益をもたらさない。それなのになぜ女性は不特定多数の見知らぬ人に対して着飾るのだろう。なぜ見返りのない投資を際限なく飽きもせずおこなうのか。
ファッションというのは他人からの見た目を飾ることである。他人のためにおこなわれるものであり、他人のまなざしに捧げられるものである。評価や賞賛、見ることは他人の領域に属するものである。女性は、あるいは男性は、他人への捧げものとして服を着飾り、スタイルとを気にし、見た目の印象にこだわる。
他人は見ないかもしれない。他人はまったく関心がないかもしれない。他人は一瞥もしないかもしれない。それでも女性は、男性はカッコいい、おしゃれといわれるファッションを競うように着ようとする。
服にこだわる人はそれを「自己満足」のためだとよくいう。他人は評価したり、称賛したり、見たりしてくれるとは限らないのに、際限なくファッションに投資せざるをえないのである。見返りのない努力のことを納得するためにこれは「自己満足」だというのだろう。はっきりいって自分でもなぜこうもファッションに駆り立てられるのかよくわからないのである。
それを他者の評価や賞賛が内面化されたものと考えてみる。他者の評価や賞賛の声が自分の中に想定されるのである。彼女はそこから評価や賞賛を得てくる。キマったファッションやおしゃれと思ったスタイルが叶ったときに、その他者の声は自身を称賛するのである。他人の評価や賞賛を内面化したものが、私の満足や充実をもたらすのである。したがって私は評価や賞賛をたえず自身で充足しなければならない存在ということになる。
われわれはなぜこうも他者の賞賛や評価を必要とする存在なのだろう。社会や世間の評価や賞賛をなぜそんなに必要とするのだろう。世間や社会というのはちっとも見返りを与えてくれない。街行く見知らぬ人は私になんの利益も見返りも直接与えてくれない。それでも私は、彼女は、見知らぬ人たちの街中で着飾りつづけるのである。ファッションの満足が自己満足と嘆息されるゆえんだろう。
私たちは自己満足がほしい存在である。賞賛や評価はなおさら与えてほしい。もしだれも与えてくれないとしても、ファッション雑誌が称賛し評価する服やファッションで着飾れば、私も評価され称賛された存在になれる。私は賞賛や評価を、ファッションという代替物で補給するのである。
私たちはなぜこうも社会や世間から賞賛され、評価されなければならないのだろう。いったいだれが仕組んだんだろう。いったいだれが仕掛け人なのか。
逆にいえば、私たちは人から軽蔑されたり、貶められたり、見下げられたりすることをたいそう恐れる。この恐怖が、評価や賞賛の原動力になるのは間違いない。この不利益はなんなのか。やはり社会から見捨てられる怖れがあるのだろう。この人間集団から見捨てられると、私たちは生きてゆくことができない。生存の恐怖としての賞賛欲があるわけである。
そしてもし賞賛や評価が得られないとしても、おカネがありさえすれば、私はファッションという代替物で自分の賞賛を補完することができる。ファッションは「鎧」である、社会に出るための「鎧」だとは聞いたことがあるし、私自身もブランドものを着たときの気持ちのはりや強さには気づいたことがある。落ちぶれ、見捨てられたものではないという目印であり、表示なのである。この表示をかぶることによって、私は見捨てられた存在ではないというメッセージを街に発信するのである。
私は恐いかもしれない、見捨てられ、落ちぶれることを。しかしその虚構のオバケのような恐怖を見透かすことができたとき、私たちはファッションへの狂騒熱から解放されるのだろう。世間や社会というのは見返りや利益を与えてくれないものである。もっと直接的に利益をもたらすものに投資したほうが得ではないか。
いじょう、ファッションの自己満足の構造について分析してみた。私たちは賞賛や評価への際限なき無限ループからのゆるやかな解放をめざすべきなのだろう。服なんて何着かありさえすれば、充分なのだから。
▼参考になりそうなモードとファッションの考察。











『ヤクザの実戦心理術』 向谷 匡史
ヤクザの実戦心理術―なぜ彼らの言いなりになってしまうのか (ワニ文庫)
向谷 匡史

なるほどかれらは心理操作のプロフェッショナルなのである。恐がらせて、怖れさせて、実をとる。実戦心理学のツワモノといえる。そういう「ダマし」ともいえるテクニックはこの業界に身をおくことによって身につくのだろう。
ヤクザも依頼者がいなければ商売にならない。かれらの商売というのは人と人とのあいだの利害調整――仲介がおもな仕事である。債権の取立て、地上げ、用心棒、トラブル解決――これらの仕事は依頼からはじまるから、ヤクザも人気稼業といえるのである。
自己演出、イメージが大事だから、金がなくても金があるように見せる。オイシイ話は国産の中古車に乗った男より、ベンツに乗った男にもってゆく。だから高価な服や装飾品を身につけ、財布にはたっぷりと現金をつめこみ、銀座を一巡して羽振りよさをアピールしたり、一晩の大判振る舞いを見せつけたりする。
恐怖や脅しのイメージ戦略を操作する。恐く見られてナンボの世界である。ときには仲間とグルになって劇団まがいの演出をおこなって、カタギをだましたりする。恐怖を元手に人をだます詐欺師のようなものである。
脅すだけではダメである。そんなことをすれば警察に訴えられてムショ行きである。だからお金ですんでよかった、と思わせなければだめである。感謝されなければならないのである。
ヤクザは恐くなくてもいい。恐く見られ、表社会に恐れられればそれで目的は達せられるのである。
かれらの儲け話の操作テクニックや、うまい話の追い込み方は、三段論法のように鮮やかである。感心するのだが、こんなふうに追い込まれるカタギの当事者はたまったものではないと思うのである。
かれらはある特殊なビジネスのプロといえる。人を操作したり、だましたりするビジネスのプロである。心理戦術の技巧や戦略をこらしたテクニシャンなのである。ふつうの人のビジネスや世渡りにもそういう面が必要なのはいうまでもないことだから、かれらの技術には学ぶべきことがあるといえる。しかし脅しや恐怖を与えるような商売はもちろんしたくないものであるが。
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私のお気に入りのビデオ・クリップをユーチューブで。
私の好きなビデオ・クリップを集めてみました。音楽がいいのか、映像がいいのか、ときにわからなくなりますが、映像に重点をおいて選びました。
やっぱり映画のシーンが挿入されたビデオはいいですね。音楽はドラマに合う。たぶんに音楽というものは、「感情」や「情動」をあらわすものだと思います。情動は音楽として感じられているものなのかもしれません。それだけにドラマには「音楽=情動」が合うのだと思います。
お約束としてユーチューブは期間限定です。UPしたのは2007/7/21ですから、時間がたつごとにリンクが見れなくなっていることを了承お願いします。
Louis Armstrong - What A Wonderful World
ベトナムの日常を写しとった映像が、「なんてすばらしい世界なんだ」というルイ・アームスロングの音楽にぴったりと合っています。
Stairway to Heaven 天国の階段
何十回見たかわかりません。韓国版『天国の階段』の凝縮されたビデオとなっていて、悲哀の情動をそそられます。
Kylie Minogue - Come Into My World
カイリー・ミノーグが何人も出てきて、うしろの風景のトラブルも倍増してゆきます。超パラレルワールドを楽しめます。
槇原敬之 - 君の名前を呼んだ後に
松嶋奈々子の日常的なシーンがいいです。
世界の中心で、愛を叫ぶ
白い制服姿の綾瀬はるかがまぶしいですね。山々や港町の風景もいいですね。
Metallica - One
戦争によって手足を失った戦傷兵のすがたが衝撃的でしたね。メタリカはヘビメタのバンドでした。
LUNKHEAD 夏の匂い
初々しい高校生の恋愛物語が見せましたね。多部未華子の姿が印象的でした。
SAY YOU, SAY ME Lionel Richie
映画『ホワイトナイツ』のシーンが挿入されたビデオは感動をもりあげました。
Dennis DeYoung, (Styx) - Desert Moon
里帰りをしたデニス・デ・ヤングが物思いをのこして去る物語がよかったですね。
steve perry-Oh Sherrie
スティーブ・ペリーが大げさな物語あるいは演出された恋愛物語を批判しているのでしょうか。
Broken Wings" Mr.mister
地上に落ちてきた美しい天使のゆくえが気になります。全編映画のストーリですね。
Donna Summer - She Works Hard For The Money
早朝から掃除やウェイトレス、縫製など超ハードに働く女性が出てきます。
Dreaming Girl
さとう珠緒の爽やかさとセクシーさがとてもいいビデオですね。愛しい女性はこのような心象風景として写るんでしょうね。
Holding Back The Years - Simply Red
過去の悔恨や嘆きが思い出されてきそうな映像ですね。
オフコース - 緑の日々
『ロッキー』のようなビデオで、この静謐さが私は好きだったんですが、いまはユーチューブ見られないみたいですね。ライブ版が見れます。
BOYS OF SUMMER Don Henley
モノトーンの映像でドン・ヘンリーがカッコよすぎ。
Titanic- Celine Dion
恋をして子供を生み、ふつうの生活をするという人生が奪われるという悲劇を描き出すことによって、そのあたりまえの生活の最高の讃美となっていますね。金持ちとの対比はその生命の営みにとって重要なことでも、幸せなことでもなんでもないと訴えられているのでしょう。
Crazy For You Madonna
マドンナのとろけるようなラヴ・ソングが、映画のシーンの挿入によって高められていますね。
Don't Unswer Me The Alan Parsons Project
アメリカン・コミックのコミカルなラブ・ストーリーがアラン・パーソンズの甘い曲をいやがおうでも高めていますね。
The Dream Academy - Life In A Northern Town
寒々しい町の風景と音楽がひじょうにマッチして名曲映像になっていますね。
Elvis Costello - She
エルビス・コステロの甘すぎるラヴ・ソングと『ノッティングヒルの恋人たち』のシーンがひじょうによくブレンドされています。
la boum richard sanderson
ソフィー・マルソーのあどけない姿が見れるだけで泣けてきます。
Somewhere Out there Linda Ronstadt & James Ingram
子守唄のような『サムホエア・アウト・ゼア』。ディズニーの『アメリカ物語』の映像も緊迫感をもって盛り上げてくれます。いまはユーチューブでないのが残念です。
やさしいキスをして Dreams Come True
宮崎あおいが出ているビデオ。つくりこんでいる感じがするビデオなのだけど、ちょっと内容がないかな。ドラマ『砂の器』に合わせれば、よかったかも。
FOREVER MINE 山下達郎
ホームレスが、たぶんむかしの恋人と最後の邂逅を夢見る秀逸のビデオ。いまユーチューブでないのが残念です。
柴田淳 - 片想い
日常を写しとった静謐な映像と、恋の歌を訴える柴田淳の熱いまなざしに思わず見惚れてしまいます。こんなせつなく見つめられたら。
survivor-the search is over
家から出ようとする男の苦悩がせつないですね。
Survivor-the moment of truth
『カラテ・キット』の映像が楽しめますね。
You're Only Human (Second Wind)
自殺防止を訴えた黒装束ビリー・ジョエルがコミカルですね。
Yes - Owner Of A Lonely Heart
サラリーマンが不条理な世界に連れてゆかれる不気味なビデオでしたね。
The Romantics - Talking In Your Sleep
夢の中のランジェリー姿の女性たちが魅惑的でしたね。
The Bangles - Walk Like An Egyptian
街ゆく人たちのエジプシャンの格好があたたかみを感じさせましたね。
Eighth Wonder - Stay With Me
爽快にデビューしたパッツィ・ケンジットのパワーが感じられますね。
Tracey Ullman - They Don't Know
恋と結婚生活のはすっぱな日常をリアルに描いていて、それなりに共感できますね。
Venus by Shocking Blue
60年代サイケの退廃的な雰囲気が衝撃的ですね。
Paul Hardcastle - 19
ベトナム兵の平均年齢が19歳だったという衝撃的なビデオでしたね。
It's Raining Again Supertramp
恋人を追って都会でだまされて、老婆に傘を差し出されるシーンがいいですね。
If I Could Turn Back Time - Cher
飢えた海軍のまえでTバックで唄うのがすごかったですが、いまはユーチューブにないのが残念。
JACK & DIANE John Cougar
これはジョン・クーガーの音楽のほうがいいのかな。すりきれた青春物語って感じがいいですね。
FLASH DANCE ・・・WHAT A FEELING Irene Cara
『フラッシュダンス』の映像がよかったのですが、いまはユーチューブにないようです。
WHEN DOVES CRY Prince
プリンスのキモカッコイイビデオが見れないのが残念。
LIKE A VIRGINMadonna
ヴェニスの船の上でくゆらせるマドンナの姿は醒めるように美しかったですね。
WITH OR WITHOUT YOU U2
ボーノのカルト的カッコよさが出ていますね。
Every Little Thing - 出逢った頃のように
初々しい持田かおりが爽やかですね。
Beach Boys - Getcha Back
美しくなった元幼なじみの恋を得ようとするダメの男の健闘ぶりが泣けるんですが、いまは見れないようですね。
J. Geils Band - Centerfold
むかしの初恋の人がポルノなんかに出ていたらぶったまげますよね。
Nena - 99 Luftballons
たんに荒地で歌うだけのネーナだったんですけど、ひじょうに釘づけにされたビデオでしたね。
John Cougar Mellencamp - Small Town
街を歌わせたら天下一品のジョン・クーガーですね。
Phil Collins - You Can't Hurry Love
ノリノリのフィル・コリンズがとてもいい。
Desperado Linda Ronstadt
中年太りしたリンダロンシュタットから知っている私としては、若いころのリンダロンシュタットって何者だろと思ってしまいます。
Chara and Rolly 愛の自爆装置
CHARAの歌い方に新しい時代を感じたものです。
『マキアヴェッリ語録』 塩野 七生
マキアヴェッリ語録
塩野 七生

しみてきた。『君主論』の原著のほうは先に読んだのだが、こちらの塩野七生による抜粋は肝心なところだけが抜き出されているので、心によくしみこんだ。
『君主論』は当時の歴史的状況もながながと記述されていて迷宮入りしてしまうし、こちらのほうは『政略論』や『フィレンツェ史』、『手紙』などの抜粋も、少ないけどあって、まったく損失ということにはならない。
マキアヴェッリは人間性のダークサイドからの処世術を説いたのだろう。善や思いやりで世の中を渡ってゆくこともたしかにできる。しかしそれが権力の場や争乱の場となってしまうと、たちまちそんな生ぬるい処世術は一発で蹴飛ばされてしまう。人間性のずる賢さや残虐さが発揮される場での処世術をマキアヴェッリは説いたのである。
国王の話だからといって、私たちと無関係な話だとは思ってはならない。すこし悪い関係になってしまうと、われわれの属する家族や友人、集団や組織はたちまちそんなずる賢くて残酷な場所になってしまうものである。だからこそ国王なき民主制の時代になってもマキアヴェッリの古典は残りつづけているのである。
「わたしは、愛されるよりも怖がられるほうが、君主にとっては安全な選択であると言いたい。
なぜなら、人間には、怖れている者よりも愛している者のほうを、容赦なく傷つけるという性向があるからだ。
このひと言にマキアヴェッリの人間性の洞察と出発点があるように思う。信頼は裏切られる。しかも信頼されているほうがなおさら欺かれやすいのである。君主には、あるいは人間にはずる賢さや権謀術数が必要というわけである。
しかし、われわれの経験は、信義を守ることなど気にしなかった君主のほうが、偉大な事業を為しとげていることを教えてくれる。
それどころか、人々の頭脳をあやつることを熟知していた君主のほうが、人間を信じた君主よりも、結果から見れば越えた事業を成功させている」
「謙譲の美徳をもってすれば相手の尊大さに勝てると信ずる者は、誤りを犯すはめにおちいる」
けっきょくのところ、人間は尊敬や信頼も大事であるが、最終的に勝つのは力や恐怖をあたえたものなのである。とくに君主や組織のリーダーなどの力の争いの場となりやすいポジションではそうなのである。たぶんにこれが人間性の正しい理解なのだろう。平等や対話などと甘っちょろいことをいってられるのは、そこが権力に守られた場だからだろう。権力に守られていない場所ではひたすら権力におもねるしかないことを人は学んできたはずである。
「人間というものは、必要に迫られなければ善を行わないようにできている」
善をおこなうのは利益があるからである。親切や思いやりを返してくれるし、まずは攻撃や暴力をうけないと思われるからだ。攻撃の防御なのである。しかしもし攻撃されたとき、善や親切には闘うすべがない。ただやられっ放しになる弱さから出た処世術である。
人間に大事なのは力である。権力である。そして権謀術数である。そんなあからさまな指摘がマキアヴェッリのいったシンプルなことだろう。残念ながら私もそう思う。そして権力が隠された生っちょろい理想なんか信じたくない。だからマキアヴェッリのいった処世術は私は助けてくれる知恵になると思うのである。
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『逆に考える」人が成功する』 轡田 隆史【監修】
![]() | 「逆に考える」人が成功する 轡田 隆史【監修】 (2003/02) 成美堂出版 この商品の詳細を見る |
なかなかいい本であった。「逆に考える」というのは一般通念の発想を逆にしてしまうことで、たしかにみんなと同じ発想をしているだけでは人の後をついてゆくだけになってしまうだろう。新しいことも、成功も、なにひとつ生み出せない。
もうひとつの逆転思考の効用としては、常識や自明性という固い思い込みを蹴飛ばせることである。けっきょく、「絶対」や「岩盤」のような揺るぎない常識があると思い込むと、すべてのことに足を絡みとられてしまう。多くの人はこの思考のワンパターンのくりかえしだけだと思う。思考の機械に釘づけられてしまうのである。同じところに拘束された人生がのこるだけである。
この本はおもに経営者の逆転の思考が紹介されていて、実例の人生があげられているから、理解も早い。私はあまり経営者をリスペクトするような発想法はそんなに好きではないのだが、かれらはたしかに常人ではない発想法や行動をするものである。成功や偉業の秘訣である。
章立てとしては、「安定を嫌え」「名を残そうと思うな」「時流を読むな、時流に乗るな」「自分をもっと教師にしろ」「発想は盗まれて価値が出る」「常識がないから自由がある」「自分を迷子にせよ」「悪評を無視せよ」「野心をもつな」「すべてが金で買えると思え」「自分のために金を使うな」「社員に教育などムダだ」「理想を低くもて」「理解されることを求めるな」などであるが、いかにわれわれが常識を絶対に疑うものではないという強固な思い込みをもっているかわかるというものである。
「人間の可能性の限界は、その人の空想力の限界である」――セコム創業者 飯田亮
「他人から吸収することで学んでばかりいると、自分からは積極的にものごとを考えなくなる。これは非情に危険なことだ」――味の素開発者 池田菊苗
他人に厳しく、そして軋轢に耐え続けるという意味で自分にも過酷な状態を強いる姿勢が、彼(カラヤン)を世界一有名な指揮者にしたのである。
「人は興奮した時に人生を成功させるものです」――クライスラー創業者 クライスラー
丸い風呂桶の中で自分のほうへ湯をかき寄せようとすると、湯は向こうへ逃げてしまう。逆に湯を押しやると、風呂桶の壁面に沿って湯はぐるりと回り、自分のほうへ帰ってくる。金もこれと同じだ。まず、自分の利益より客や社会の利益を考えろ、ということだ。
「勇者とは怖れを知らない人間ではない。怖れを克服する人間のことなのだ」――ネルソン・マンデラ
それにしてもこの本はいいことを書いているのにライターの名前がひとつも出てこない。監修者ってチェックするだけなんでしょ。うかばれないな。。
2007年7月新刊の注目本



「貧困」「ロストジェネレーション」「ワーキングプア」――失われた十五年で若者の現実はすっかりこのようになりましたね。ヤケドするまで気づかないゆでガエルのようですね。
反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)

文庫でめくってみたらおもしろそう。でもネットでまだ読めるんですね。まとまった文章は文庫のほうが読みやすいかな。 「スタンダード 反社会学講座」

大衆文化論でおもしろいのが出てきたかな。



『女ことばはどこへ消えたか?』―たしかにオトコ言葉が流行りましたね。『団塊世代の戦後史』――三浦サン本出しすぎ。『幼児化する日本社会』―榊原英資って知識人なのか?
民営化で誰が得をするのか―国際比較で考える (平凡社新書 384)

市場・道徳・秩序 (ちくま学芸文庫 サ 22-1)

市場主義は問われなければならない問題ですね。
社会性の哲学 今村仁司

現代思想のすぐれた紹介者であり自らも思想した今村仁司さんのご冥福をお祈りします。
知についての三つの対話 ファイヤアーベント (ちくま学芸文庫 フ 27-1)

ファイヤーベントは一度は読んでみたいんですけど。

いじめの終わるとき 芹沢 俊介

明治時代の人生相談―一〇〇年前の日本人は何を悩んでいたか

人生相談ってほんと時代と社会をよく映すものだと思います。
大学という病―東大紛擾と教授群像

竹内洋さんは知識論をやっているのでしょうか。
昭和30年代―「奇跡」と呼ばれた時代の開拓者たち (平凡社新書 382)

平成不況の暗さがあるからこそ昭和三十年代は輝くのですね。

世界中にちらばる縄文人の類似性はおもしろそう。もしかして古代文明って大航海時代だったのかもしれませんね。


なぜ私は、幸せではないのだろう?―人生を変える「幸せ型」思考システム

こういう問い方っていいですね。幸福ってだいたい欠如から考えるものですが、欠如をないと見れば幸福であることもできますね。釈迦とかキリストもそういう方法で諭しましたね。

地球温暖化の象徴のような島ですね。
面白いほどよくわかる地球と気象―地球のしくみと異常気象・環境破壊の原因を探る

一度天気のメカニズムについてきちっと知っておきたいですね。
第三の脳――皮膚から考える命、こころ、世界

皮膚にも脳ほどのしくみがあるのでしょうか。胃腸にもそういわれた本がありましたが、身体には器官ごとに無数の脳があるのでしょうか。

ピーター・シンガーが逆説的な本を書いていますね。
「玉の輿」幻想と干物女とオタク。

恋愛にまつわる二つのドラマの感想。二作とも少女マンガが原作。『山田太郎ものがたり』と『ホタルノヒカリ』。
『山田太郎ものがたり』ではエリート校の男子生徒の「玉の輿」に乗ることに憧れる女生徒と、じつは大金持ちだと勘違いした男子生徒が極貧だったという話を軸に展開される。どちらかというと貧乏がハート・ウォーミングなものとして描かれる。
おそらくこれは女性の「玉の輿」幻想を笑うテーマをもつのだろう。女性の男性にたいする高飛車な幻想や理想を批判しながら、かつその健気さを自虐的に可愛がる。
女性の七割は年収600万以上の男性を結婚相手に希望するが、現実は結婚適齢期の男性の7割が600万以下で、4割が200万から400万のレベルである。年収600万といえば、たったの5%ほどしか存在しないそうだ。
こんな破天荒な理想を女性はしゃーしゃーとのべて、現実を見ないし、知ろうともしない。そういう突拍子もない理想を笑うドラマがこの『山田太郎ものがたり』のメッセージなのだろう。そして極貧男とくっついたさいの心理的衝撃の対処と現実馴致のレッスンもかねているのだろう(笑)。幻想のしゃぽん玉の割り方を女性たちに教えているのである。
それにしても女性たちはどうしてこう楽して棚からぼた餅的発想をもつのだろう。まあ、だれだってラクしてトクしたい気持ちをもっているから、とうぜんの発想なのだろうが、これはあまりにも痛い。
だれもが永遠に赤ん坊のようには生きられない。女性は赤ん坊のように男性にあやしてもらうことを生涯の理想としてしまう。世界は私が赤子であるための揺り籠ではない。世界のまなざしというのは「私」を利用的観点からしかながめていないものである。はやくにこの現実に気づいて、発想を転換しないと、たぶんあなたは世界から痛めつづけられるだろう。被害者や悲劇のヒロインとして感じてしまうだろう。「世界は他人の都合のために存在するものである」
対して『ホタルノヒカリ』の女性は恋愛するより家で寝ていたいという女性が主人公である。「コワい」「不気味」「干物女」として批判される。
恋愛や社交から退却した人間はいつの世も叩かれる。「クライ」「友だちがいない(嫌われ者の印とされる)」「童貞」「処女」「オタク」といってバッシングされる。こういう袋叩きに怖れをなしたボーイズ&ガールズは人に媚びまくり、群れまくり、だれかのあとをついて回る金魚のふんのような品行方正な青年になる。
世間やマスコミはどうしてこう非社交性を叩くのだろうか。やはり彼らの利益が転がってこないからだろうか。彼らの利益とはカネであったり、評価や名声であったりするのだろうか。人が群がることにより、私は評価され、カネが回ってきて、私のつまらない価値は上昇する。つまりは非社交的な人間は私を無視して、ないがしろにして、私を孤独にして、私をつまらない人間にしてしまうから許せないということなのか。
要は私を「ないがしろ」にするなということなのだ。街に出て私をちやほやしろということだ。そこでようやく私の無価値さは救われる。
「非社交性」の代名詞だったオタクは雑誌ファッション文化から叩かれた。他人や社会に対する過剰な装飾や自意識過剰を特徴・生きがいとするファッション・カルチャーは他人の見た目に命を賭ける。私の存在価値は他人からの見た目である。他人に見られ、注目されないと私の価値はない。
そうすると私の価値のない姿を街でさらした者というのは、ファッションや他人に対する見た目をまったく気にしない者である。いうなれば、彼は私の落ちぶれた姿であり、いちばん人にさらしたくない部分である。そんな格好で人に見られるなんて――。
ファッション・カルチャーにとってオタクは自らの見られたくない部分なのである。いうなれば自己嫌悪である。それは私のいちばん価値のないネガ・フィルムなのである。私の丸ハダカなのであり、いちばん恐れている姿なのだ。だからオタクは徹底的に嫌悪され、忌避された。
オタクは戦略であり、対抗である。見た目に過剰に価値を賭けるファッション・カルチャーにたいするアンチである。彼らは見た目を捨てた。私の幻想を、カルチャーを、頭脳の幸福を夢見た。私の幸福を他人の社交や恋愛の中に見い出さず、そんな幸福をハナから相手にしなかった。
そして世間から叩かれつづけたが、オタク・カルチャーが世界中から注目され、日本の輸出産業と見なされるようになると、彼らも現実の恋愛を好むのだとメディア・ミックスにより(『電車男』)、世間に受け入れられるようになりつつある。
ターゲットをなくすと世間は叩くものをまた探し出す。さもないと他人との関係にしか自分の価値のない者は自尊心の撃墜をもたらすからだ。
「私は社交的である、かれらは社交的ではない。ゆえに私は優れている」というタイプの人はたえず他者をバッシングしないと自分の価値を維持できないようである。社交以外に価値や幸福を見い出せる人間が許せないのである。それは私の尊厳の暴虐に思える。私の価値のない姿はたえず叩いていないと、私のみじめさは救えないのである。
ドラマの『ホタルノヒカリ』から飛びすぎたが、彼女は恋愛より家でまったりすることのほうが幸福な人間である。彼女は恋愛のほかに自分の価値を見い出せる、またはそんな価値や自尊心に賭けなくても幸福に生きられる人間なのだろう。
でも彼女はドラマの回を重ねるにつれ、「回心」して、恋愛至上主義的な信心を重ねてゆくことだろう。「恋愛はすばらしい」といって、「ヒモノオンナ」であった自分を悔いてゆくことだろう。それがテレビ・カルチャーの、広告や商業でなりたつメディアの絶対訓戒である。
彼女はみずからで幸福であっては困るのである。欠如があり、不幸でなければならない。「TVが、広告が、消費が、あなたの欠如と不幸を埋めてあげますよ」――それこそがTVの毎日発信しなければならないメッセージであり、視聴者には無料でなりたつというウソみたいな無料メディアの存在理由なのである。
女性はオタクのように闘えないだろう。もし闘ったとしても、それは一般に受ける「美少女」でなければならならい。ブスであるならばだれも見ないし、関心がない。彼女は抹殺されるだけである。そしてそれは女性がいちばん恐れていることである。ヒモノオンナはすっかり自分の「幸福の踏み絵」を踏みつけにするのである。


『韓非子』
韓非子―ビギナーズ・クラシックス中国の古典
西川 靖二

中国のマキャヴェリズムと称される韓非子。冷酷非情な知恵を学ぼうとしたのだけど、どうも私の目的とちがうことが語られているようだ。
このビギナーズ・クラシックでは君主に知識を説く方法や支配の技術、人間観などがとりあげられている。この本はまだ私の心の琴線にふれない。
非情で冷酷な知恵や態度はどうやったら身につけられるのか。私はこの技術が不足しているために権謀術数の世界で蹴とばされる。あるいは暴力的な環境にいやおうもなく巻き込まれたときにまったく自分を守るすべをもたないのである。非情で冷酷な人間になりたいというわけではなくて、そういう知恵や戦略も人間界では必要だという事実に私もようやく目覚めつつある。
ニヒルで厭世的な世界観を説いた思想家といえば、ショーペンハウアーやニーチェ、マキャヴェッリなどが思い浮かぶが、実践的な非情な方法論を説いた思想家はいるのだろうか。
「いいひと」や親切だけで世の中を渡ってゆけるのがいちばんいい、ほんわかとした人生である。しかし人はいやおうなしに争いや暴力の関係に巻き込まれることがあるだろう。そういうときに非情さや冷酷さの技術をもっていれば、身を助けられるかもしれない。どんな人も一度はそう思ったことはないだろうか。
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『君主論』 マキアヴェリ
君主論
マキアヴェリ Niccol`o Machiavelli

集団の中で生きるわれわれはいつかマキアヴェリに学ばなければならないときがくると思う。集団というのは知らずにすますこともできるが、いわゆる権謀術数や権力闘争といった陰の面がうずまいているものである。
よく聞く女性のグループでの陰口や陰湿さ、男性では派閥闘争や出世争いなどの闘争がとうぜんあるが、またグループでの趣味や行動の同調化も権力闘争の一端といえるのである。この争いを打って出るにせよ、うまく渡るにせよ、権謀術数や策略の知識を得ないことにはパワーゲームの実体すらつかみ切れないというものである。
「いいひと」や思いやり、親切だけでは集団を渡っていけないと感じたとき、マキャベリズムとよばれるものに学ぶ必要が出てくるというわけである。非情さや冷酷さ、権謀術数といった面を身につけたいと思ったとき、マキアヴェリは手にとりたいと思わせる古典なのである。
マキアヴェリのいうように「何ごとにつけても善い行いをすると広言する人間は、よからぬ多数の人々の中にあって、破滅せざるを得ない。したがって、自分の身を守ろうとする君主は、よくない人間にもなれることを習い覚える必要がある」ということだ。
一読してみて私にはいまいちインパクトが弱いように感じられたのだが、文章を再読してみたら、けっこう非道なことが書かれていたことに気づく。私に必要な知識とは、人はいかにしたら冷酷さや残酷さを身につけられるかということだ。この「いいひと」ヅラの仮面がぬぐえないために、どうも私は権謀術数のゲームの中で蹴とばされすいのである。蹴とばされないために非情なキックも必要だということである。多くの人は小学生や中学生で学んで人を平気で蹴とばす人になっていると思うのだが、私は愚かな理想論で人間の現実を見誤ったのかもしれない。
「民衆というものは頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならない。というのは、人はささいな侮辱には仕返ししようとするが、大いなる侮辱にたいしては報復しえないのである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないようにやらなければならない」
「君主たる者は、自分の領民を結束させ、忠誠を誓わすためには、冷酷などの悪評をなんら気にかけるべきではない。あまりにも憐れみぶかくて、混乱をまねき、やがては殺戮や略奪をほしいままにする君主にくらべれば、冷酷な君主のほうは、ごくたまの残酷さを示すだけで、ずっと憐れみぶかい人物になるからだ」
「人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるものである。その理由は、人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害がからむ機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。ところが、恐れている人については、処刑の恐怖がつきまとうから、あなたは見放されることがない」
「現代の経験の教えるところでは、信義などほとんど気にかけず、奸策をめぐらして、人々の頭を混乱させた君主のほうが、むしろ大きな事業(戦争)をやりとげている。けっきょくは彼らのほうが、信義に基づく君主を圧倒していることが分かる」
「人間は邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものでもないから、あなたのほうも他人に信義を守る必要もない」
「なぜなら、人はやむをえない状況から善人になっているわけで、そうでもなければ、きまってあなたにたいして邪になるものだ」
かなりニヒリスティックな人間観であるが、人間は親切や思いやりにあふれた一面を示す反面、いっぽうでは争いや戦いの局面にさしかかると、冷酷非道な面をあらわすものである。この事実に目をふさぐべきはない。これが人間の冷徹な現実というものである。




【追記】ブログ作成中にまたもや「有効期限切れ」をおこして文章を消失させてしまいました。FC2ブログ・ユーザーのみなさん、期限切れの設定変更を知っていましたら、哀れな私に教えてやってください。
『雇用融解―これが新しい「日本型雇用」なのか』 風間 直樹
雇用融解―これが新しい「日本型雇用」なのか
風間 直樹

沈鬱になった。これを読んでしばらく重苦しい気分がはりついて離れなかった。
この本のサブタイトルは「これが新しい「日本型雇用」なのか」であるが、まさしくこれが日本の今日の、そして明日の労働のすがたなのだろう。学生や若者はこれから自分が働く現場はどのようなものか知っておく必要があるし、のん気なサラリーマンも日本の現状と行く末を知っておくべきだ。
この本には派遣ばかりの製造業や業務請負王手のクリスタル(現グッドゥル)、キャノンに代表される偽装請負や外国人研修生という奴隷、固定化された非正社員や個人請負という労働法番外地、ホワイトカラー・エグゼンプションや教師・医師の激務ぶりなどが告発されている。
このような雇用のメルトダウンの現実はなかなか世間に知られないし、知らされることもない。労働というものは人の見えないところにあるものだから、一般の人たちがこのような労働の現場というものを知ることも、またはイメージすることすらできず、その悲惨さや衝撃が打ち込まれることもない。
確実に日本の労働の現場はこのような流動的で、非正規的なものになりつつあるのである。会社にちゃんと雇われた画一的なサラリーマンといった像はもはや崩れつつある。日本の労働現場の現実というものが日本人の頭にちゃんとイメージを結べていないのではないかと思う。
私たちは業務請負や派遣、フリーターといった非正規雇用が大きく占めつつある、かつての画一的なサラリーマン社会というイメージと大きく異なった社会にこれから向かおうとしているのである。
私も90年代の業務請負の工場や派遣の現場を経験したけど、ひどいものだと思ったものである。フリーターはまだ直接雇用だからすこしはマシだった。工場の業務請負や派遣はとくにすべてをひっくるめて悲惨な状態だった。悲鳴が聞こえてきそうな状況であった。業務請負や派遣はなんでこんな状態なのか、なんでこんな状況がおこっているのかわからないながらも、この雇用にだけは近づくのはやめようと思った。
この流れは95年に日経連が出した「新時代の『日本的経営』」から打ち出されたものである。基幹職以外は昇給も年金も退職金もない非正規雇用におこかえようという雇用改革案である。つまりは財界は国家の社会保険から一部の国民を放り出したのである。このようなヴィジョンは確実に進行され、政府はこれまで国民のすべてに約束していた健保や年金とどう折り合いをつけるのだろうか。
一方ではこのような安定した職や社会保険なき流動的な労働者を生み、一方ではホワイトカラー・エグゼンプションのような残業手当なしの長時間労働を強いる働き方をおこなわせようとするような両極端の動きがひそかに進行している。
若者には究極の選択しかない。会社にますます拘束されて働きづめの過労死の人生か、安定した職も保険もないワーキング・プアかのどちらかの地獄道である。企業や政府は国民にこのような人生のオプションを選ばせて、私たちにどんな人生観や国家観をもたせようとしているのだろうか。二集団の内紛や紛争状態を導きたいとでもいうのだろうか。
労働政策審議会の委員である奥谷禮子氏は「過労死は自己管理の問題です」といって世間に波紋をまきおこしたが、ILO(国際労働機関)について「はっきり言っていらない。労働省はいらない。労基署もいらない。要するに国が働き方をどうしろ、こうしろなんていうこと自体、ナンセンス」といっている。もう笑うしかない。
個人請負という業態の労働法番外地や外国人研修生という奴隷の実態をみていると、この国の財界人たちは労働者を無法地帯にほうりこみたくて、うずうずしているようである。
ホワイトカラーには守ってやる代わりに死ぬまで働け、非正規雇用には明日の職や生活など知っちゃこっちゃないと突き放しているようなものである。この日本はそのような究極の二つのレールに国民をつき落とそうとしているのである。かなり悲惨な未来が待ちかまえているようである。国外逃亡か、山奥に隠遁するしかないか。
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しばらく更新できないかもしれません。
パソコンのマウスが動かなくなりました。左端に固まってしまって上下には動くのですが、左右には動かなくなりました。困ったものです。
いまはミナミのネット喫茶から更新していますが、ひらがな入力ができなくて、チョー困ってます。
なるべく早く復旧したいものですが、しばらく更新とコメントができないかもしれませんのでご了承ください。
【追記】 杞憂でした。モニターがつぶれてしまったかな、もしかしてパソコン本体が。。どうしよう〜と思わずパソコン・ショップを見て回りましたが、赤外線のマウスが故障しただけだったのようです。お騒がせしました。















