『権力に翻弄されないための48の法則〈下〉』 ロバート グリーン


権力(パワー)に翻弄されないための48の法則〈下〉
ロバート グリーン ユースト エルファーズ Robert Greene

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 権力指南の本はそうないと思う。人に好かれたり、人間関係をうまく渡る方法は自己啓発として多く出されているが、権力獲得のためのハゥトゥー本はあまり見かけない。この本はあからさまな権力獲得の方法が指南されていて、たいへん貴重な本であると思う。

 角川から出された単行本、文庫本ともども早くも絶版になっており、下巻を手に入れるためにブックオフを何軒も回らなければならなかった。このようなすぐれた本がすぐ絶版になる理由があるとしたら、歴史から事例をひく内容量があまりにも多いため、敬遠されたのかなと思う。

 権力を得る方法が書かれた本はそうない。あからさまな権力志向は私たちの社会ではタブーだろう。サクセスや趣味の本はたくさんある。しかし権力志向は非難されるべき、慎むべき態度とされている。

 だが、本当のところは多くの人が権力を志向しているものである。権力という装いをできるだけ隠すのが人間社会のルールとされているから、このような知識が出回ることはそうないのだろうが、だまされてはならない。善や人気を志向していようとそれは権力志向にほかならないのである。権力獲得の行動の中に人間の真実の姿がたくさん垣間見える。

 例によって感銘した文章を引用したい。

「われわれは自分の臆病さを、人を傷つけたくないとか怒らせたくないといった他人への思いやりの感情に見せかけることがあるが、事実はその反対で、本当は自己中心的で他人が自分をどう評価するかを心配しているだけなのだ」

「たいていの人が現在の時点にとらわれるあまり、先を見越して計画を立てられない。したがって、目前の危険や楽しみを無視できることがパワーとなる」

「弓を教えてやった者たちはみな、最後には私を的にしようとする」

「みずからの意志と選択によって負った怪我やその他のあらゆる損害は、結局は他人に負わされたものよりも痛みが少ない」――ニッコロ・マキアヴェッリ

「恥ずかしがり屋はちやほやしてもらいたくてしかたがない」

「不安を抱える人は何かによって社会に認めてもらいたがっている」

「王は自分を尊敬することによって、それと同じ感情を他人にも起こさせる。自分の力を信じ、王のように振る舞うことによって、王冠をかぶるべき人間であるように思わせることだ……たとえ自分を欺くようなものだとわかっていても、王のように振る舞え」

「小さい問題に目を向ければ、それが本当の問題になる。敵に注目すれば、それは強大な敵になる。小さな過ちを修正しようとすれば、さらにひどくなり、さらに目立つようになる。ときには放っておくことが最善の策である。欲しいのに手に入らないものがあれば、軽蔑してみせるのが一番だ。関心を隠せば隠すほど、すぐれた人物と思われる」

「「人を尊敬しない者は尊敬される」、イタリアのうまい諺にある通り、無視は尊敬にまさるのである」――アルトゥール・ショーペンハウアー

「重要に見えることの多くが、無視してみると、重要でないことがわかる。……多くの場合、治療自体が病気の原因である」――バルタサル・グラシアン

「考えるときは少数派、語るときは多数派であれ。流れに逆らって泳ごうとすれば、あっさりと危機に瀕してしまう。……意見が相違すれば、侮辱したと見なされる。他人の意見を非難したことになるからだ」

「癇癪はパワーではない。無力の印である」

「友人がほしい者は、自分の所有物を愛してはならない。適切な贈り物をすることで友人を得なければならない」

「先駆者であることは大きな強みであり、その仕事において傑出した才能があればそれは倍増する」

「パワーをめぐる争いにおいては、孤立は死を意味する」

「パワー・ゲームではまわりにいる人びとにはこちらを助ける理由などまったくない。あるとすれば、それは彼らの利益になるときだけだ」



 この本は多くの哲人などの引用があるが、とくにバルタサル・グラシアンの引用が多かった。ニーチェやショーペンハウアーはとうぜんとしても、注目したいと思う。

バルタザール・グラシアンの 賢人の知恵バルタサル・グラシアンの成功の哲学―人生を磨く永遠の知恵102303.jpg意志と表象としての世界〈1〉

ナマの思想家をYouTubeで観る


 何年か前に思想家をYouTubeで探してもてんで見つからなかったのですが、こんかいはたくさん見つけました。スペルを自分で打ちこまずにウィキペディアでコピペしたからかな。

 リンクは検索結果のページにつながっています。直に動画につなげるほうが便利だと思うんですが、ほかの動画も紹介できなくなりますし、すぐに動画が見れなくなっている場合も考えられますからね。

 思想家というのは本で読んだり写真で見たりすることはありますが、映像や声を聞くことはめったにありません。それだけナマの映像に飢えることになります。思想家に憧れる人には垂涎モノの動画かもしれませんね。残念ながら翻訳はありませんので私にはちんぷんかんぷんですが、お顔と肉声が拝めるだけで私にはありがたいです。

フリードリッヒ・ニーチェ
これは写真か動画かわからない映像ですね。

ジグムント・フロイト
フロイトの映像がのこっているなんてすごいですね。

ジャック・デリダ
デリダはさいきんまで生きていたのでとうぜん映像はのこっていますね。

ミシェル・フーコー
やっぱりフランス語をしゃべってますね。スキンヘッドがトレードマーク。

ジル・ドゥルーズ
ドゥルーズ。けっこうもうろくしたおじいさんなんて感じがしますね。

エーリッヒ・フロム
フロムだよ、フロム。私の好きな思想家ですが、けっこうぶくぶくしていたんですね。

ジャン・ボードリヤール
消費社会の鋭い分析をおこなったボードリヤールですが、フツーのおじさんぽいですね。

ピエール・ブルデュー
額と眉間のしわがすごいですね。

ジャン・ポール・サルトル
サルトルは名前をよく耳にしましたが、翻訳はあまり残っていませんね。

カール・グスタフ・ユング
ユングは正当な学問として評価されているようですが、けっこうボーダーな思想ですね。

マルティン・ハイデガー
写真で見たとおりの顔で動いていますね。『存在と時間』とか実存哲学ってほんとにわかりません。

レヴィ・ストロース
レヴィ・ストロースはジーンズの「リーバイ・ストラウス」と読めるんですかね。人類学が構造主義の火付け役になったんですね。

アルベール・カミュ
カミュもひところ人気があったようですね。

ジャック・ラカン
「ラカンはわからん」のラカンですが、思想が難解なのか、翻訳が難解なのか。

マックス・ホルクハイマー
ホルクハイマーの映像が見られるなんて。

アントニオ・ネグリ
ネグリは主著の翻訳があいついでいますね。

ユルゲン・ハーバーマス
ハーバーマスは私には思想の特徴がいまいち薄いんですが。失礼ですが口が。

ピーター・ドラッカー
ドラッカーは危機の90年代に大流行りになりましたね。80才や90才で著作をものにするのがすごいですね。

レフ・トルストイ
トルストイはかろうじて映像の世紀にまで生き残っていたんですね。なんかわかりにくい映像ですが。直リンク。

マーシャル・マクルーハン
マクルーハンの『メディア論』は一読の価値あり。感覚の延長とか、印刷が大量生産の起源だとか。

ケン・ウィルバー
ウィルバーはトランスパーソナル心理学の立役者ですが、一般の評価はどうなんでしょうかね。正当な学問として評価されてゆくのでしょうか。

ジッドゥ・クルシュナムルティ
クルシュナムルティは思考の哲人ですが、学者として評価されるのでしょうか。

バグワン・シュリ・ラジニーシ
ラジニーシの思想は明快だと思うんですが、組織としては危うかったのかもしれませんね。

アルヴィン・トフラー
トフラーはTVでもおなじみの顔でしたね。現在はトフラーの予測した未来になっているのですね。

アドルフ・ヒトラー
ヒトラーのような人が国家や大衆に支持された時代があったということを忘れるべきではないと思います。大勢に支持されるものがかならずしも善や正解とはかぎらない。

マハトマ・ガンジー
私はガンジーの生涯はよく知りませんが。

エドムンド・フッサール
ひじょうに見にくい映像がのこっていますが。

ジュリア・クリステヴァ
写真はもうすこしお美しい感じで出回っていた気が。

ロラン・バルト
ダンディですね。

好きなのにいえない後悔――『プロポーズ大作戦』



  Snap_0229.jpgSnap_0180.jpg ケンゾーと礼


 『プロポーズ大作戦』はさいしょ欠点ばかり見えたドラマであったが、後半になるに従い設定が気にならなくなって、手に汗握るドラマとなった。好きな者同士の気持ちが通じないもどかしさは古今東西のドラマの金鉱である。

 まずはタイトルがふざけすぎている。『プロポーズ大作戦』――むかしそんな人の恋愛行為をさらけだす低俗な番組があったっけ。それから結婚式から毎回のように過去にタイムスリップするなんて、毎回これかよとはやくもマンネリを感じた。でも時がたつにつれ、それは新たな挑戦に期待する前哨となったのだが。

 キャストも合ってないように感じられた。山下智久は一途な男というよりぼーっとしすぎだし、長澤まさみは繊細さやクラさがないから、いまいちこのドラマにはぴったしの感じがしなかったのである。

 いちばん気に食わなかったのは青春グラフィティティを背景にもってきたことである。学生時代の気さくな関係が社会に出るにしたがって薄れてきて切ないという感情は、あまり美化できる感情ではない。個人的にせいせいしてすっきりしたと思っている私は、このせつなさがどうも共感できない。馴れ合いやじゃれ合いの関係が美しかったと私は思わないのである。

 このドラマはもっとシリアスなメロドラマにしてほしかったのである。青春グラフィティティやコメディなんかはよけいだ。『冬ソナ』のようにどろどろのメロドラマでよかったのだ。私はこの点がひじょうに残念で、切なさや悲しさが全編を覆う作品のほうが名作になったと思う。設定やテーマがよいだけにかなり惜しい。

 とはいえこのドラマは想い合う者同士がおたがいの気持ちを通じさせることができずにほかの男と結婚するという切なさや悲しさを十分に味わわせてくれるよい作品だった。毎回好きな者同士が別れてゆくというツラさを感じなければならないのである。人はそういう物語にロマンや郷愁を感じるのである。それはたぶん好きな気持ちというものは叶わないからこそ美しく、人を想うという気持ちが昇華されるからだろう。

 私個人も好きな女性に気持ちを伝えられずにほかの男と結婚するプロセスを指をくわえてながめていたこともあって、「もしあのときに……」と思わずにはいられなかった。私はこの辛さを正面から向き合おうとしなかった。とはいえ私は私であるから、何度過去をくり返しても同じことだと私は思うのだが。

 このドラマのメッセージは「過去を後悔するより、いまから変えよ」ということである。過去なんて変わらない。いまでも間に合う。失うことの後悔や悲しみをかみしめながら、いまから変えよということである。過去の後悔を未来への希望の推進力に転嫁せよということである。

 好きな人がほかの人にとられるという絶望は、ふがいない今日の私を180度転回する力を与えてくれるのである。山下智久が何度も過去に帰らなければならなかったのは、変えようというエネルギーを過去の後悔からひきだしてくる必要があったからだろう。失うことの大きさをいつも感じながら、いまを行動せよということである。いったら「明日死ぬように今日を行動せよ」ということだ。「一期一会」も同じような意味である。

 このドラマは幼なじみが気持ちを伝えられずほかの男と結婚してしまうという物語であったが、幼なじみは結婚や愛という関係より、友だちや仲良しであるという関係が強く、なかなか結婚の対象とは見れないのではないかと思う。よくわからないのだが、幼なじみは結婚相手というよりか、兄妹や友だち関係に近いのではないかと思う。ふたりはこの関係から抜け出せなかった。

 「ケンゾーはなんにもわかってないよ」とは長澤まさみのセリフだが、私もその言葉の意味がどうしてもわからなかった。なにが「わかってない」のだろうか。この言葉が男の私にはかなりナゾである。

 長澤まさみは、どうしてケンゾーの気持ちを受け入れられなかったのだろうか。なぜ好きという気持ちに素直になれなかったのだろうか。人はなぜ好きという感情を伝えられないのだろうか。おたがいに好き同士でもそういうことが多々あるようなのである。そして長澤まさみはほかの男と結婚しようとした。たぶん多くの人たちが素直になるという鍵を見つけられずに好きな人との関係を失っていったのだろう。ケンゾーはどうやら最後の最後にその鍵を見つけたようだが。

 最期は残念なことにふたりの幸せな姿を見たかったのだが、追いかけてふり返るシーンで終わってしまった。これは悲しい。ともかく土壇場の起死回生が叶ってうれしい。

 このドラマは私たちのだれもがもつ心の痛みを思い出させるいいドラマであった。後半から録画したビデオをたまに見てみたいと思う。

 ▼YouTubeでエンディングテーマをどうぞ。
 桑田佳祐-明日晴れるかな 
 TVエンディング版
 piano version

 ▼こちらはオリジナル小説とサウンドトラック
 プロポーズ大作戦 もしもあの日に戻れたらフジテレビ系 月曜9時ドラマ「プロポーズ大作戦」オリジナル・サウンドトラック だからこのフザケ具合が気に食わないって。

私たちは信頼できない企業と国家の時代を生きている。


  Snap_0275.jpg 帝国派VS庶民派

  NHKの『日本の,これから 「納得してますか? あなたの働き方」』を見た。毎度のことながら議論してもどこにもいかないというあきらめの感情が覆っただけだった。

 正社員と非正社員の問題だが、私たちはこのような「身分社会」を生きてゆかざるを得ない。森永卓郎や金子勝がいくら非正社員の味方をしてくれようが、世の中はなにも変わらない、と90年代以降の激変した雇用環境を生きてきた人はそう思うはずだ。

 いくら経済学者やマスコミが非正社員の擁護に回ろうと、企業の雇用情勢は変わらないし、私たちが日常に出会う雇用環境はますますそのようになってゆくだろう。雇用環境の中において、私を守ってくれる人も頼もしい力強い存在などどこにもないのであり、それは日本が企業社会になって以来変わっていないのだろう。

 私たちがまちがっているのは企業や国家は私たちを守ってくれる、私たちを助けてくれるという思い込みである。企業や国家が私たちを守ってくれることなどないのである。権力は権力に都合のよいときにしか国民を守るふりをしない。

 現在の正社員は解雇規制や社会保障などの生活サポートがあると思われているが、これはバブル以前の高度成長期に可能になった雇用インフレのおかげである。それと国民すべての総力を結集したほうが国家間戦争において有利だったという国民国家の論理によるものである。なにも国家は善意や人権上の立場から国民を守るなどとは思ってはならないのである。そんな常識は経済が立ち行かなくなるとあっさり見捨てられるのは、90年代後半のリストラ旋風で学習したはずである。

 私たちは経済が右肩上がりの時代を長く生きてきたために企業や国家は社会保障をほどこして私たちを守ってくれる、日本の企業は家族主義経営などといって、すっかりメルヘンチックな幻想にうつつを抜かす危ういおヒメ様になってしまったが、経済の坂道を転がり始めるとそういう蜜月期間はすっかり終わってしまったのである。

 私たちはこれから企業や国家が守ってくれない時代を生きてゆこうとしているのである。会社に長く勤めていれば、おとなしく税金を払って政治活動に関わらず小市民の幸福を追求しておれば、企業や国家が報いてくれるという信頼の時代は終わってしまったのである。私たちはそんな幻想のハシゴからぼろぼろとつき落とされているのである。

 私たちは甘すぎる。もの言わぬおとなしい市民であれば企業や国家が報いてくれるという幻想にひたり切ったままだ。そんな甘い幻想は90年代の社会主義国家の崩壊の時代から終わることを予測していなければならなかった。

 もう信頼や思いやりの関係だけでは生きてゆけないのだろう。私たちはかつて歴史で学んだような闘争の関係を生きてゆかなければならなのかもしれない。権利や尊厳は自分で勝ちとってゆくしかない時代を生きているかのかもしれないのである。口を開けて待っていれば、なにもかも与えてくれる時代ではないのである。

 私たちはなにか不利な環境があれば、国家に文句をいえばどうにかしてくれるという考えをもっている。しかし国家は私たちのために存在するのか。政府はひとつの権力集団として、自己利益を追求する存在として、私たちの上に君臨する外集団ではないのか。私たちを守ってくれるという幻想は民主政治や総力戦体制のマヤカシであって、それは彼らの利益がたまたま私たちとの利益と合致した時期があったということだけではないのか。

 私たちは小市民としてまったくだれからも守られない烏合の衆として存在するだけではないのか。国家なんかちっとも守らないという世界観のもと、この社会をながめてみるべきではないのか。私たちはそういう世界で、自分の力で生きてゆくしかないのだ。世の中を変える権力も手段もない。私たちは戦後の60年のあいだにすっかり骨抜きにされてしまったのである。

 私たちの老後の生活の命綱である国民年金のスキャンダル報道がつぎつぎと露呈している。国家はこのような報道を流して年金の諦念を植えつけようとしているのか。国民がアテにしていた財宝の船が沈むことを報せているのか。

 どうやら国家や企業と国民との蜜月期間は深刻に崩壊しようとしているようである。私たちはそのあいだにひじょうに力のない弱い存在に堕してしまった。そのツケが若者に支払われようとしている。どうもわれわれは認識を変えなければならないようである。


いじめを権力闘争として読む


 なぜ人は人を傷つけるのだろう、どうして弱い者いじめをするのだろう、人の嫌がることをなせわざとするのか。

 このような疑問の根底には人はやさしく、親切で、親和的であるはずだ、そうでなければならないという前提がある。

 しかし人間の人生の最大目的は人との友好や親和にあるのではない。それより優先するのは権力の拡大や増大にあるのではないのか。もし後者が前者より優先されるとするのなら、友好さはうち捨てられ、暴力やいじめ、冷酷で非情な行為はおこなわれる。親和より自己の権力増大が重要なのである。

 権力は限られた資源を分配するときに有益な指標となる。オオカミや類人猿などの社会性動物において食糧は権力の順にわりふられ、メスもその順位にしたがってわけあたえられる。その場その場の争いを避けるために順位はあり、権力はその指標となる。

 人間ももちろん生まれたときから権力闘争をおこなう。鳥の場合なら遅れた生まれた兄弟をつついて殺すこともあるし、犬なら乳首からたえず遠ざけられる子供は餓死するだろう。こんな極端な例ではないが、人間も同じようなふるまいをおこなうのだろう。兄弟ゲンカは権力闘争の端緒だと考えてよいだろう。

 学校に上れば、子どもたちは級友たちと権力争いや順位競争をはじめるだろう。権力を握れば大きな自由や支配力が行使できるし、ぎゃくに序列が低ければ多くの面で割を食う。それは子供のときから大人になるまで人が一生のあいだおこなうことであり、終生終わることがない。

 私たちはこのような権力闘争に目をふせる。あたかも人間の一生にはこのような闘争や競争は存在しないという思い込みで一生を送ろうとする。友好的で親和的な関係が人間の集団だと思い込みたがる。それはそう思い込むことで人の友好性をひきだしたり、平和な日常を送れるはずだという願望があるのだろう。まるで権力闘争を目隠しすれば、あたかもそれに出会わないかのように思い込むのである。

 このような人間観からすれば、人をいじめたり、冷酷で非情な行為をおこなう人間は理解できないだろう。そんな人間は存在しないはずだ、いたとしてもなんらかの不幸や回線の間違った人間が生まれてきたのだと思い込める。そして私たちは日常にひどい行いや冷酷な行為に出会って面食らい、世の中には理解できないことがたくさんあると嘆くのである。

 世の中は権力闘争と思ったほうが見え方がはるかに明瞭になるだろう。親和や友好より、権力の増大のほうが優先順位が高いのである。そして私たち自身が目隠ししていた自らの権力獲得の闘争の行為や方法にうっすらと気づくようになるだろう。私たちがほしいもの、したいこと、それは権力獲得のための闘争ではないのか。

 われわれはさまざまなもので権力の増大を謀る。それは一般的なものでは、金持ちになったり、高い地位をめざしたり、優れた知識や技能をめざしたり、友をたくさんもったりといった、ふつうの欲求でさえ、これらは権力獲得のための一手段と見なせるのである。いや、そのような目で見るべきなのである。

 権力は私の安全を守る。権力は私の自由を守る。権力は私の支配力や制御力、欲求を満足させる。もし私が何らかの権力をもたなければ、だれかからいじめられたり、虐げられたり、押しのけられるかわからないし、どこから叩かれたり、押し飛ばされたり、自由を制限されるかわからない。人間界のあらゆる怖れから身を守るためには私にはなんらかの、どこかの権力が必要なのである。

 学校集団においてもとうぜんのごとくこの権力力学がはたらく。狭い場所の中にむきだしの人間がつめこめられるのである。資源をめぐっての――ここでは自由や支配力、テリトリーなどの目に見えない資源が闘争されるのである。

 集団のなかでは権力闘争や序列競争がくりひろげられる。友だちをつくり、仲のよい関係を長く維持するということも、外部に対する勢力や権力誇示になる。ぎゃくに孤立してしまうと、いじめの格好のターゲットになることから、友だちという勢力がいかに身を守る砦になるかわかるというものだ。

 いじめられる者は人から自由に扱われる。自分の恥辱や怖れが手玉のように自由に操られる。行動や恥辱の自由権が他人に奪われるのである。このような行為はいじめる側にとって他人の行動権の奪取を誇示することになり、かれは権力や序列の階段をひとつ上にのぼることになるだろう。いわば人の自由権の獲得という権力である。かれは人間の尊厳を奪うという権力をもてるという権力を誇示しているのである。

 このような人の自由権や行動権の獲得ゲームはあらゆるところでおこなわれているものである。いちばんの要因は経済的なものによるが、小学校や中学校においてはケンカや気の強い弱いによって決まるのだろう。このような獲得ゲームをとおして、子どもたちはみずからの社会での立場や地位のポジションを教育・修得してゆくのだろう。権力闘争は学校において無縁であるわけがないし、おそらくは少年-青年期のほうが未知数のものを多く含むので、競争が激化するのは避けられないのだろう。

 いじめをやめなさいという。しかし権力獲得をやめなさいと人はいえるだろうか。それ以前に人は自分の権力闘争の行為や方法すらよくつかみ切れないだろう。私は権力闘争などおこなっていないと思っているからだ。そして自分のほしいもの、したいことが権力闘争と結びついていることすら思いもいたらないのである。

 問うべきことはいじめはなぜなくならないかではない。人は権力闘争をやめることができるのかと問い直すべきではないのか。あるいは権力闘争の制御の方法を探るべきなのである。国際政治では超大国があることによってようやくパワーバランスが保たれ、個々人のあいだにおいては無数の権力増大の手段や方法がこころみられている。この権力闘争がバランスをとることなんてできるのだろうか。教室においても同じ力学がはたらいているのである。まずは権力闘争の真実を見るべきではないのだろうか。





『仏教的生き方入門』 長田 幸康


仏教的生き方入門 チベット人に学ぶ「がんばらずに暮らす知恵」 [ソフトバンク新書] 仏教的生き方入門 チベット人に学ぶ「がんばらずに暮らす知恵」 [ソフトバンク新書]
長田 幸康 (2007/05/17)
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 仏教は優れたセラピーである。おだやかで心を流す知恵を与えてくれる。しかしこの仏教国日本で仏教の知識はどんどん忘れ去られている。たぶんにそれは経済的支配者にとって都合の悪い知識だからだろう。

 私は仏教の知恵はなるほどだなと思う。前によく読んだのだが、さいきんは権謀術数の功利的な知識を得ようとしているので、ふっと仏教的おだやかさを思い出したくなったのでこの本を手にとった。

 仏教は心を寛くしてくれる。おだやかに、なだからに、悠然とさせてくれる。気楽にかまえて、むりをせず、いい意味であきらめて、泰然とさせてくれる。

 著者はチベットに惚れて入りびたりのようだ。チベット人のエピソートのうえに仏教の教えがはさまれているのだが、どこの国でも同じだろうが、憧れられる人はいるだろうし、最低の人もいる。チベット人がみんな仏様であるわけがない。

 こんかい心にひっかかってきた言葉を記すことにしよう。

悔やんでも過去は変わらない。悩んでも未来はわからない。

一つひとつのかなわぬ欲望が、苦しみに姿を変えて心の中に積み重なっていき、大きなストレスとなる。これを避けるには、まず「欲しい」と思わないことだ。

こだわるものが少ないほど、人の意識は自由になり、気楽に生きられるようになる

「私」と「それ以外」を分けて考えることが「私」への執着を生み、優劣や好き嫌いを判断することにつながり、すべての煩悩の原因となっていると考えられる。つまり、仏教では「分別がある」は悪い意味なのだ。

憎しみが大きければ大きいほど、自分が苦しむだけで、相手には何の影響も及ぼさないんだ。

多くのチベット人にとって、仕事はお金を得る手段にすぎない。



 ちなみに私の仏教知識は、日本の仏教より、それを経由したアメリカのトランスパーソナル心理学やニューエイジからおおく学んだ。輸入パッケージされた仏教のほうが手にとりやすかったのだ。

 私に必要だったのは心を捨てる方法だった。瞑想や禅の方法を得たかったのである。悲しみや不安を捨てる方法を知りたかったのである。私はそれを捨てる方法を知らなかった。いつまでも悲しみや不安がとりついて離れなかった時期があって、だから心を捨てる方法や心のしくみを知る必要があったのである。それを教えてくれたのがトランスパーソナル心理学であった。私に心の革命をおこした書は以下のものである。

 もしあなたが何らかの感情をとりたいと思うのなら、迷わずリチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』をおすすめする。ケン・ウィルバーの『無境界』は感情や自我に同一化しない方法を教えてくれる。クルシュナムルティの『自我の終焉』は思考の愚かさを精巧に探究した本。ハリー・ベンジャミンの『グルジェフとクリシュナムルティ』は自我が頭の中のおしゃべり、幻想にすぎないことを教えてくれるだろう。これらの本に私は最大限のの賛辞をおくっても惜しまない。

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あまり年齢感覚のない私。


 小中学校のとき、共通一次などのニュースで見る大学生ってなんてオッサンなんだと思っていた。自分がなってみると、オッサンという感じはなかった。なんも変わらないやという感覚であった。自分が年をとってみても、中身はちっとも変わらないのである。

 20代は社会に出たり、人生を決めたりする大事な年代だと思っていたが、あっという間に過ぎてしまった感がする。がむしゃらであっちこっちの壁にぶつかって、もがいていた年代という感がする。

 30代はなんか二十代の付録のように思えて、二十代よりはるかに月日が早く感じられた。

 いまの私はもうすこしで40歳になろうとしているが、40歳であるという自覚はかなり希薄である。年はとったと思わない。でも社会に出てもう20年近くたっており、大学を出てずっと住んできたマンションと街に20年近くも住んできたのだと思うと、月日の速さに驚くしかない。郷里の街の思い出や愛着と比べると、足元にもおよばない。

 20代で結婚したり、子どもをもった同学年はもう中学生や高校生の子どもに成長していてもおかしくないのだ。そう思うと感慨はひとしおである。

 この年齢感覚の希薄さはおそらく比較対照の人が少ないことからくるのだろう。家庭をもっておれば、子どもの年齢で自分が年をとったことを感じとれるだろうし、ひとつの会社でながく勤めておれば、つぎつぎと入ってくる新人の年齢とのへただりに自分の年齢との差を自覚せずにはいられないだろう。

 年齢というのは比較で感じるものかもしれない。そういえば子どものころ家族と住んでいるとみんなが寝静まった夜は真夜中という感じがしたものである。ひとり暮らしをはじめると、夜が遅いという感覚が希薄になった。時間の区切りやめりはりが弱くなった。時間というものも年齢と同じように他人が自覚させるものなのだろう。

 そういう比較対照がない私は自分の年齢感覚がずいぶん弱いのである。おかげで何歳までに何々をしなければならないとか、家庭やマイホームをもたなければならないというプレッシャーが希薄であり、そういう波に乗りおくれた感慨をたまに抱くこともある。

 ようやく子どもがかわいいという感覚もわかりだしてきた。小さな女の子がむしょうにかわいいと思うときがある。家庭とか子どもに食指を動かさなかった私だが、女の子のかわいさにはたまに胸が震わされるときがある。でもまあ、そういう気持ちはなるべくながく継続させないようにしているが。

 中学や高校のころ、自分がオトナに見えるのか子どもに見えるのかとまどっていた。40近くになるとかれらはずいぶん成長段階の子どもっぽさが残っているように見える。20代、30代のころは自分は若く見えるのかオッサンに見えるのかわからなかったが、いまの年齢から20代を見ると、若く頼りないように見える。細く、きゃしゃに見える。

 女性の見え方として私は年上の女性が女として見えない、「男でも女でもない」オバチャンという人種にしか見えなかったのだが、たまに女としての部分が見えるようになってヤバイと思うようになった。それにしても「男でも女でもない人種」という感覚はすごいと思うが、性対象と見ない分断が感覚としておこなわれているのだろう。

 子どもをもった女性がコドモに見えて驚かされるのはしょっちゅうである。母親は子供のころ不動だにしない存在に見えたものだが、彼女らは子供が大きくなった状態のまま子育てをしていたのだと思うと、過去にあった母親に対するいらだちをあたたかく見守れる気がするのである。

 年齢というのはおおくは「役割」によって感じとるものなのだろう。「父親」や「母親」、「上司」や「おじちゃん」、「おばちゃん」、そういったものが自分に年齢を感じさせる。年上の役割はいやがおうでも自分の年齢の高さを感じさせるものである。

 私の場合はほとんどそんな役割をもたなかったし、演じてもこなかった。だからそんな役割をおこうことが苦手であるし、年上であることの年齢感覚も希薄である。自分が何歳であり、どのような年齢役割をおこなわなければならないのかという感覚がずいぶん育っていない。役割や年齢感覚が抜け落ちた私は幸せなのか、不遇なのか。

40歳といえば、あと20年は働かなければならない年齢である。職業人生としてはあと半分、人生としてはあと3、40年ほどと考えてよいだろう。流されて生きてきて、時間をたいせつに生きてきたとはいえない私であるが、人生の残りが有限であるという感覚とともにこれからの人生を生きてゆくべきだと思う。以上。

 

注目本情報 2007年6月刊

 新刊注目本を紹介していますが、私の読書は新刊にまったく追いつきません。ひとつのテーマに没頭しているときは新刊にまで手が回りません。本は読まれるときまで書店で待ってくれているからいいんですね。

若者を喰い物にし続ける社会ホワイトカラーは給料ドロボーか?他人の力を借りていいんだよ──「縁生」で生きなおす仏教の知恵
『若者を喰い物にし続ける社会』―構造的にそうなってしまったんですね。福祉が必要になったのは若者のほう。『ホワイトカラーは給料ドロボーか?』―どういう切り込み方をしているんでしょうか。『他人の力を借りていいんだよ』―泣きそうになるタイトルですね。お金と自立の社会は他人に頼ることができない寂しい社会ですね。

もう、国には頼らない。経営力が社会を変える!「ひきこもり国家」日本―なぜ日本はグローバル化の波に乗り遅れたのか格差社会の世渡り 努力が報われる人、報われない人
『もう、国には頼らない』―そういってくれる人が増えればいいんですが。『ひきこもり国家日本』――高城剛ってアヤシそ〜な人。

敗者の戦後アメリカのスポーツと人種―黒人身体能力の神話と現実傷つけ合う家族―ドメスティック・バイオレンスを乗り越えて
『アメリカのスポーツと人種』―黒人はすごいが頭は悪いという神話。『傷つけ合う家族』―家族って修羅場になる可能性がある関係だから、離合集散はゆるやかなほうがいいのかも。

同窓会の社会学―学校的身体文化・信頼・ネットワーク芸者と遊び―日本的サロン文化の盛衰大人のための「学問のススメ」
『同窓会の社会学』―同窓会って複雑な気持ちが入り乱れますね。『芸者と遊び』―田中優子っておカタイ学術だけど、テーマはワイドショーに近いかも。『大人のための「学問のススメ」』―私もススメます。ニュースや映画よりハマればハマるものです。なんといってもこの世は永遠に謎だらけですから、ネタに困らない。

ネットはテレビをどう呑みこむのか?混沌からの表現日本精神分析
『ネットはテレビをどう呑みこむのか?』――YouTubeの登場によって動画アーカイヴとしての機能性がぐんと増しましたね。ネットって広告産業になってゆくのでしょうか。あとの二冊は山崎正和と柄谷行人の大物?による著作。

漢字の文化史新編新宗教と巨大建築天文学史 新版
ちくま学芸のラインナップ。漢字と建築と天文。

孝経 全訳注中世ヨーロッパの社会観合戦の文化史
講談社学術文庫のラインナップ。

マキァヴェッリの生涯―その微笑の謎人類学的思考の歴史ギリシア人の人間観 新装―生命の起源から文化の萌芽へ
『マキァヴェッリの生涯』―知謀のマキァベリズムに注目。『人類学的思考の歴史』――人類学というのは差別イデオロギーと政治プロパガンダの合体みたいなもので警戒が必要。

お江戸の意外な商売事情―リサイクル業からファストフードまで「数」の日本史―われわれは数とどう付き合ってきたか天才の脳科学―創造性はいかに創られるか
『お江戸の意外な商売事情』―サブタイトルが「リサイクル業からファストフードまで」で江戸時代も生活の利便性はいまと変わらなかったかも。もちろん車や電車はなかったけど。

ジャパンクールと江戸文化
ジャパンクールと江戸文化

海外の人たちはジャパンアニメとハラキリ・サムライ・ゲイシャとどう結びつけているのでしょうか。
いじめの構造
いじめの構造

視界良好―先天性全盲の私が生活している世界
視界良好―先天性全盲の私が生活している世界

目の見えない世界はどのようなものなんでしょうか。


『ワルに学ぶ「実戦心理術」』 ライフビジョン21


ワルに学ぶ「実戦心理術」
ライフビジョン21

ワルに学ぶ「実戦心理術」


 まあ、わざわざ書評を書くまでもない本である。あまりワルと思えない記述がたくさん出てくる。ずる賢くもないし、悪賢くもない。商談とかが出てくるふつうの心理テクニックの本である。これくらいの本は手ぬるいと思う私はどこをめざすのでしょうか。。

 いぜんに『ワルの知恵本』という本がよく売れたと思う。そのときにつくられた本だと思う。たしかに世の中、お人よしで、やさしいだけではやっていけない場面に出会うことが多々あると思う。ワルや悪に学びたい時もあるものである。「よい人」の皮をかぶった人はいつかそう思うときもあるのだろう。

 とりあえず私はマキアヴェリと韓非子あたりに目星をつけて読もうと思っている(amazonリストマニア 権謀術数)。そういえば戦国武将の話というのはこういうずる賢さを身につけるための本だったのかといまさらながらわかったような気がするのである。人でなしにはなりたくないが、ワルの知恵が取捨選択できるような知識のプールはほしいなと思っている。



ワルの知恵本 またまたワルの知恵本 悪用を禁ズ!ワルの知恵学 ワルの恋愛術--ワルな男は3秒で女を虜にする! ワルの人生論
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『権力(パワー)に翻弄されないための48の法則〈上〉』 ロバート・グリーン


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4042893015 権力(パワー)に翻弄されないための48の法則〈上〉
ロバート グリーン ユースト エルファーズ Robert Greene
角川書店 2001-11

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 最高傑作である――世の中、権謀術数とパワーゲームだと気づいた人には。しばらく手元に置き、頭にたたきこむまで何度でもめくってみたい私のバイブルになりそうである。

 しかし「いいひと」になりたい人、親切や思いやりが世の中ではいちばん大事だと思う人は間違ってもこの本を開いてはならない。壁に投げつけたくなるだろう。

 ずる賢く、利巧に、如才なく世の中を渡ってゆきたいと思う人にはバイブルになり得る本である。だけど世の中の真実とはこのようなものなのである。純粋でヨゴレがなく澄んだ心の持ち主は気づかないだけなのだろう。世の中このようなパワーゲームで動いており、ただ気づかなかっただけなのである。この本を読んで私は積年のパワーゲームの謎がすこしは解けてきたように思えた。

 邦題はまちがっている。権力に「翻弄されないための」ではなくて、権力を「得る」ための法則が書かれている。パワーゲームの法則が書かれている。世の中の権力のしくみと、そして権力を操り、権力に押しつぶされないための処世術が描かれている。最高傑作だと思う。

 しかしこの本は99年に角川書店から単行本で売り出され、01年に角川文庫に入ったのだが、もう絶版になっている。角川書店は書籍を週刊誌なみにあつかう。上巻はブックオフで手に入れたが、下巻が近くのブックオフを駆け回っても一冊も見つからない。つづきを読みたくてたまらない本なのにくやしい。

 おおくを引用したいのだが、一部だけを抜粋しよう。

「つねに善人であろうとする者は、善人でない多くの人びとのなかで破滅さぜるをえない」 ニッコロ・マキアヴェッリ

「パワー・ゲームに意識的に加わるのは反社会的な悪いことであり、そんなものは過去の遺物だと感じている人もいる。そして、自分がパワーとはかかわりをもたないようにしていれば、このゲームから離れていられると思っている。こういう人には用心しなければならない。口ではそう言っておきながら、実はたいへんなゲーム巧者である場合が少なくないからだ」

「多くの人びとが、正直にして開けっぴろげでいれば人々の心をつかめ、自分のよさをわかってもらえると信じている。これはたいへんな勘違いである。正直でいれば、人を傷つけると思っていい」

「沈黙は相手を不安にさせる。……必要以上のことを語らなければ、重要人物、有力人物だという雰囲気をかもしだせる」

「名声は、パワーの礎である。名声を通じてのみ、人は他人を威嚇し、勝利を得ることができる」

「人は謎に魅了される。謎はつねに解釈をうながし、人びとを飽きさせることがないからである。謎めいた人物は理解しえない。そして、はてしなくとらえどころのないものは、パワーを生みだすのだ」

「過去は知識と知恵の巨大な倉庫である。アイザック・ニュートンは、これを「巨人の肩の上に乗る」と称している。……ぜひとも過去の知識を利用するすべを身につけよ。たとえ実際は単なる抜け目のない剽窃者にすぎないとしても、世間は天才と見てくれる」

「パワーの究極のかたちは、自主独立であるという、多くの人がおかしている考えちがいをしてはならない。パワーはしょせん人間関係なしに語れない」

「愛や友情のように微妙で移ろいやすい感情に頼れば、自分の立場が不安定になるだけである。一緒にいるときの楽しさからよりも、失ったときの恐怖から頼らせるほうが確実である」

「自分の必要性を相手の必要性と混同しないことである。大方の人間はここで失敗する。自分の願望や要求に、すっかりとらわれているからだ。そういう人間は、相手が私利私欲を抜きにして自分を助けてくれると決めてかかっている。……だが、たいてい相手はその必要性をなんとも思っていない」

「なんでも流通すれば値段は下がる。それと同じく、あちこちで姿が見られ、声が聞かれる人間は、ありふれたつまらない人物と思われる」

「誰しも自分が隣の人物より愚かだとは思いたくないものだ。ならばカモには頭がいいと思わせてやれ。ただ頭がいいだけではない。こちらより頭がいいと思わせるのだ」



 こういうずる賢く、功利的で、権謀数術をはりめぐらすことは、悪くて陰険でいやらしいことに思えるものである。とうぜんである。だれだって親切で思いやりのある「いいひと」になりたいだろう。だけど世の中はこのような権力ゲームでなりたっており、うかうかとしておれば、このパワーゲームにはじきとばされ、いいように弄ばれるだけである。

 これが世の中の真実というものである。人は真理を隠して、人にやさしくて「弱いひと」になってもらい、自分だけはぬけぬけと権力を得ようと画策しているかもしれないのである。

 この権力闘争というものは知らず知らずのうちに人が身につけ、無意識におこなっているものである。純粋無垢の聖者のような顔をした人も無意識に行使するパワーと無縁ではありえないのである。

 たとえこのようなパワーゲームに加わらないと誓うにしろ、世の中の力のからくりを知っておくのはなによりもたいせつな知恵だいえるだろう。人は集団の中でこのようなパワーゲーム、権謀数術をはりめぐらしているものなのである、気づくにしろ、気づかないにせよ。。。



『嫉妬の世界史』 山内 昌之


嫉妬の世界史
山内 昌之

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 私はあまり嫉妬を感じないらしい。人を羨むということがあまりない、たぶん。はじめから競争や比較を避けるのか。人のことが気にならないのか。自分の楽しみのほうが大事である。

 のほほんと暮らしていても人の嫉妬に無関係ではありえない。人の嫉妬や憎悪について考慮できるようにならなければ、世の中渡ってゆけない。

 思い出せば弟に母に買ってもらったおもちゃをストーブで焼かれたときには嫉妬を感じないわけにはいかなかったし、友だちとの悪さに加わらないことで難を逃れたことに対する友だちの嫉妬心も忘れられない。なにか私が優秀で優れた成績や業績をのこして嫉妬されたということは、そういう優秀さに無縁の私には経験したことがないのである(笑)。

 嫉妬心というのは子どもっぽい心である。正義や道徳に反するはずである。あからさまに表明することは恥ずかしいことではないのかと思うのだが、どうも人間は正義や道徳が行動の第一基準ではないようだ。自分の快や権力の増大が第一義で、道徳や羞恥は放っておかれると考えたほうがいいのかもしれない。

 私はこの本を嫉妬心の解明から読んだというよりか、人や集団はいつも憎しみ合うのだ、傷つけ合うのだ、だからもし私が人から憎まれたり、嫌われたりしたとしても、安心していいのだという読み方をしたように思う。私はどうも「人から嫌われたら終わりだ」という前提が強いのである。古今東西の嫉妬のあり方に慰めてもらったのである。

 この本の登場人物は世界の歴史人物である。森鴎外やロンメル、中谷宇吉郎、牧野富太郎、石原莞爾と東条英機、島津義久・義弘など世界中の歴史人物がとりあげられている。人物評論である。

 著者の山内昌之の受賞暦がすごい。『スルタンガリエフの夢』でサントリー学芸賞、『瀕死のリヴァイアサン』で毎日出版文化賞、『ラディカル・ヒストリー』で吉野作造賞、一連の業績に対して司馬遼太郎賞を受賞している(Wikipedia)。

 私はこの人こそ人から多くの嫉妬を受け、だからこのような本が書けたのではないかと思う。できればこの人の東大での嫉妬や権謀術数の数々をつづってくれればおもしろかったかもしれないと思うが。

 読者がいちばん関心のあるのは自分の集団や組織のナマの嫉妬や憎悪、駆け引きであると思う。それは共通話題に昇りえないから、このような世界中の偉人や有名人の嫉妬心のありように仮託しなければならないのである。私もようやく組織内の嫉妬や憎悪がわかりだしてきたということである。

 嫉妬はよくないことだと多くの人は思っているはずだと思う。しかしその本人にとってそれは相手が悪いからなのだ。相手が悪いことをしたから憎いのだ。嫉妬という概念・言葉はもう少し客観的なまなざしから可能になる概念であると思う。だから人は今日も嫉妬という感情を、嫉妬とも思わず相手を悪と決めつけ、嫉妬の制裁に狂うのである。とほほ。

難儀でござる 歴史と外交 ソロモンの指環―動物行動学入門 歴史と政治の間 イスラームと国際政治―歴史から読む
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新刊注目本 2007年6月刊


ぼくにだってできるさ―アメリカ低収入地区の社会不平等の再生産トクヴィル 平等と不平等の理論家ビバ! ひきこもり~働いたら負けかなと思ってる~市場社会とは何か―ヴィジョンとデザイン
『ぼくにだってできるさ』はアメリカの不平等の再生産の本。日本はこの道をめざすのか。『トクヴィル 平等と不平等の理論家』ー150年前にアメリカの画一化社会に警鐘を鳴らした思想家だけに読みたい。『ビバ! ひきこもり 働いたら負けかなと思ってる』ーそれでメシが食えればいいんですけど。

中年童貞 ―少子化時代の恋愛格差―ジャパナメリカ 日本発ポップカルチャー革命思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界
『中年童貞』ー同盟があるそうですね。『ジャパナメリカ』は日本のポップカルチャーがアメリカにどれだけ影響を与えているのか。『思春期をめぐる冒険』ー村上春樹を心理療法から読むとどうなるか。


ネットで人生、変わりましたか?カネと野望のインターネット10年史―IT革命の裏を紐解くウェブ社会をどう生きるかウェブ社会の思想―〈遍在する私〉をどう生きるか
ネットの本。ネットが世に出て十年。人生変わったか。たいして変わってないと思うけど、私はおおいに変えてゆくことに期待大。

新装版 アメリカの日本空襲にモラルはあったか―戦略爆撃の道義的問題イーハトーブと満洲国―宮沢賢治と石原莞爾が描いた理想郷司法は腐り人権滅ぶ
『イーハトーブと満洲国』―宮沢賢治と石原莞爾の組み合わせがすごいですね。

知の越境者人間論 新装ホワイトヘッドの哲学
『知の越境者』ー私は梅棹忠夫が好きですね。中村元は仏教学、梅原猛は哲学者。アランは哲学者でありながら考えない幸せを説いた人で私は好きですね。

やもめぐらし―寡婦の文化人類学エリートセックス破壊の女神  中国史の女たち
『やもめぐらし』は配偶者亡き後の暮らしを。『エリートセックス』ーセックスがエリートかよ。『破壊の女神』ー中国史の女たちはすごそうですね。

地球温暖化 人類滅亡のシナリオ化は回避できるかマクモニーグルが語るリモート・ヴューイングの世界アフリカ大陸史を読み直す 第1巻 (1)
『地球温暖化』ー人類滅亡とかサブタイトルがつけられるとアヤシくなる。『マクモニーグルが語るリモート・ヴューイングの世界』ーTVによく出ている超能力者。第何次かの超能力ブーム? 『アフリカ大陸史を読み直す』ー後進国とか途上国という思い込みだけでは見えない世界がひろがっているはずだ。

教師格差
教師格差

日本人と組織
日本人と組織

山本七平の組織論か〜。


アクセス激増に恐れをなしていました。


 私のサイトの総アクセス数はせいぜい一日300アクセス。

 しかしおとついの3日に3573アクセス、4日には5227アクセスを数えた。10倍や20倍に達する勢いだった。

 いったい何事かあったのかというよりか、「カンベんしてよ」「早く終わってくれ」と正直、思った。まるで私の大草原の憩いの家が大量のアメリカン・バッファローに踏みつぶされて、草葉の陰からじっと様子をうかがっている気持ちがした。

 ZARDの坂井泉水さんの追悼文(ZARD 坂井泉水の栄光と凋落。)を書いたのだが、まさかここまで注目されるとは思ってもみなかった。恐ろしさのほうが先に立った。ブログだけ見ているとなにも変わらず、じつに静かなものだが、アクセスカウンタやアクセス解析上では数字がどんどん跳ね上がっていった。

 アクセス解析でたどってみると、流れ的にははてなブックマークの人気エントリーにとりあげられて、トーイチャンネット情報屋さん。News Walker.NETなどのほかにもたくさん個人ニュースサイトにとりあげられたことが大きかったようだ。はてなブックマークの波及力はすごいということだ。

 こちらがアクセス数が激増した5月3日のリンク元の記録。

リンク元ページ アクセス数 アクセス総数に占める割合
http://b.hatena.ne.jp/hotentry 400  14.55%
http://jyouhouya3.sakura.ne.jp/ 327  11.89%
http://www.toychan.net/archives/2007/06/03_1549.ph… 224  8.15%
http://jyouhouya3.sakura.ne.jp/index.html 214  7.78%
http://b.hatena.ne.jp/entrylist?sort=hot 160  5.82%
http://reader.livedoor.com/reader/ 143  5.2%
http://www.toychan.net/ 126  4.58%
http://b.hatena.ne.jp/ 118  4.29%
http://www.google.co.jp/ig?hl=ja 101  3.67%
http://www.google.com/reader/view/ 53  1.93%


 この日はまだはてなブッククマークの威力が強い。

 アクセス数がピークの5200に達した5月4日のリンク元を表示してみるとこうなる。

リンク元ページ アクセス数 アクセス総数に占める割合
http://jyouhouya3.sakura.ne.jp/ 1843  42.49%
http://jyouhouya3.sakura.ne.jp/index.html 1077  24.83%
http://www.toychan.net/ 148  3.41%
http://www.toychan.net/archives/2007/06/03_1549.ph… 140  3.23%
http://blog.livedoor.jp/akio_live1/ 107  2.47%
http://b.hatena.ne.jp/hotentry 102  2.35%
http://jyouhouya3.sakura.ne.jp/2007/06/07063.html 95  2.19%
http://reader.livedoor.com/reader/ 61  1.41%
http://b.hatena.ne.jp/hotentry?mode=daily 58  1.34%
http://news-walker.net/ 52  1.2%  



 情報屋さん。やトーイチャンネルなどの個人ニュースサイトのパワーがいかにすごいものかわかるというものだ。いまはこのように個人ニュースサイトが多くのアクセスを運んでくるのだな。

 ようやく注目や人気の記事がネット上で集められるようになったのだな。かつてはサイト検索が中心で、ネットでどんな記事が人気で注目を集めているのかさっぱりわからなかった。人気と注目の記事を集めてくれるサイトが出てきたおかげで、ようやくネットの旬の話題や注目記事がわかるようになった。はじめからこのような機能がないものかと思っていたのだが、はてなブックマークがその先陣を切りはじめ、そして個人ニュースサイトがその波及の役割を果たすようになったみたいだな。私はネット上のことは少しうといので、これらがいつはじまったのかあまり知らない。

 まるでイナゴの大群のようである。しかもサイレントである。アクセスカウンタや解析がなければさっぱり気づかない。コメントに残してくれる人はほんのひと握りで、2ちゃんねん的な書き込みがあってコワイ。。

 記事だけが目当てだからサイトのほかのページに寄る人はほとんどいない。記事だけを読んで、あるいはぱっと見て、さーっと帰ってゆく人ばかりである。記事が旬のころを過ぎれば、潮のように引いてゆくだけである。まあ、私としてはそのほうが自分の好きなようにものを書けると思うので、どちらかというと、いちげんさんだけでもけっこうである。

 多くの人の期待に添うような文章を私は書きたくない。多くの人の注目を集めるような記事はできるだけ狙ってこなかったつもりだ。私のブログの目的はあくまでも自分の考察がメインなのであって、多くの人の注目を集めるためではない。そりゃあ、多くの人に評判になったほうがうれしいだろうが、そういうことは注目を集めたい人に任しておいたほうがいいと思う。私は自分のために考察するのだ。

 まるで人の流れが衝動的な動物の群れのように感じられたアクセス激増の日々であった。イナゴの大群の表現がふさわしいように思う。ネットのアクセスは人気記事をもとめて生き物の群れのようになったのである。

 アクセス激増はちっともリアルさや騒がしさが伝わってこない。いつものアクセス数とまったく違った数の人たちが見に来ているのにまったくリアルさがない。サイレント過ぎるのである。でもアクセス数だけがことことと上りつづける。多くの人たちが見ている。私にはさっぱり伝わってこない。なんなのだろうと思う。

 潮が引いて、このサイトはいつものように往来の少ない通りになることだろう。それでもまったくかまわない。西行庵のようにひっそりとたたずめればいいと思っている。アクセス激増は見えない地下でうごめくなにかの衝動的な群れを思わせて、私はすっかり恐ろしい思いをしたのでした。


『イヤなやつほど成功する!』 スタンリー・ビング


イヤなやつほど成功する! -マキャヴェリに学ぶ出世術
スタンリー・ビング

イヤなやつほど成功する!  -マキャヴェリに学ぶ出世術


 「いいひと」をやってきて人から好かれてなにかいいことがありましたか? 成功したり、金持ちになったり、自分の思い通りに生きられてきたと思えますか。

 「善人」の殻を破りたくなったとき、こういう極悪人指南の本がある。もちろんこれはジョークも混じっているし、人間の極悪さを笑える本でもある。ふっとたまにこんなふうに自己中に人にふるまえたら人生さぞかし楽しいかもと思ったりする。

 怒鳴り散らしたり、自分勝手な考えや行動を押しつけたり、人を痛めつけたり、傷つけたりすることを生きがいにしているような人に私たちは何度か出会ったこともあると思う。こんな人と関わりたくないとか、さわらぬ神に祟りなしとか、あわれだなとか、いろいろな反応があると思う。羨ましい、尊敬すると思ったりする人はいるのだろうか。

 こういう人はほんとうに出世したり、ボスや大物になっていたりするものなんだろうか。この本はマキャヴェリ的な自己中心的人物をめざして出世を指南する自己啓発書の体をなしているのだが、同時に出世や自己中の狂気さやあきれた発想法が皮肉られている。どちらにでもとれるようになっているところが、また私たちのアンビヴァレンツな心を皮肉っているともいえる趣向の凝らした本にもなっている。

 たとえばこんな感じである。

誰が敵か見定める。これは簡単だ。誰があなたをコケにしたか? なぜ、そいつらを生かしておかねばならぬ?

書類上で殺すことなんて(リストラすること)、たいしたことではない。二年も続けば、公園での散歩と同じとはいかないだろうが、夜、眠れないなどということはなくなる。

これは、現代版王権神授説である。好きなだけ感じの悪い態度をとる能力と、その行動に感じる誇り、それは君主の権利なのだ。

あなたにも必ず根性悪の側面がある。いままでは押し殺してきただろうが、それはあなたがまだ有名ではなかったからだ。

真の権力を手に入れたいと思うなら、自分の性格のなかの最も唾棄すべきいやらしいところを掘り起こし、風にあてよう。

他人は自分の欲望実現の道具であると思えなければ、まだまだ修行が足りない。あなたのなかには、とてつもない利己的な人間が潜んでいる。そいつを表に出そう。花を開かせよう。

「さあ、わたしを見てくれ。わたしが野蛮な人間に見えるか? わたしの良心は澄みきっている」  ポル・ポト

ほかにこんな指南がつづく。極端な二面性で相手をビビらせる、自分の根性悪を美徳に変える、自分の狂気をいとおしむ、ゴキブリが絶滅する日まで怨恨を抱きつづける、自分の残虐さを誇らしく思う、失望させられた相手に永遠のダメージを与える、死んだほうがマシだと思わせるまで人をいじめる、部下がたがいに争そうように仕向ける、怒鳴り散らす、エトセトラ。。。



 こうも悲惨な項目がならべたてられると、著者の意図が見えてくる。出世や自己中の悲惨さを告発する本なのだ、この本は。マキアヴェリになれといっている本ではない。体裁はそうなのだが、自己中のススメを説いておりながら、じつは自己中の悲惨さをえぐり出す本なのである。このヒドさや狂気を笑い、悲惨な人間の見本をならべたてることによって、その悲惨さや哀れさを告発する本なのである。

 であるけれども、私はときにはこのようなマキアヴェリ的な構えも学びとりたいなと思わないわけでもないのである。ときにはそういう心も必要なときがある。「いいひと」をめざしても「いいこと」ばかりあるとは限らないのである。むしろソンしたり、キケンなばあいもあるかも。たぶんに根性悪や利己心は私のツラのすぐ下にあるのだろう。「あんなイヤなやつにはなりたくない」とばかり思ってきたせいで、どうも私は人に軽く扱われたり、バカにされたりしてきたように思わなくもないのである。。。



なぜイヤなやつほど出世するのか 人生を変えた贈り物 あなたを「決断の人」にする11のレッスン 病気にならない生き方 -ミラクル・エンザイムが寿命を決める- 鏡の法則 人生のどんな問題も解決する魔法のルール
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ZARD 坂井泉水の栄光と苦しみ。

 【お詫びと謝罪

この記事にはファンの方や病気の方などが見られると、不快になる表現や内容が含まれているとの指摘が多数の方から寄せられました。

不快に感じられた人にはたいへん申し訳なく思っています。

記事は削除したほうがいいと思うのですが、貴重なコメントの反応の意味が通らなくなりますので、あえて叱責される記事は残さざるを得ないと思います。

この記事は新聞記事や事実に基づいたニュース報道ではありません。随想やエッセイ、評論のジャンルに属する書き物であって、著者の推察や洞察が独善的・短絡的と思われる推論によって書かれています。随想はその点が自由で抑制がないがために自由な推論をくりひろげたために読者のたいへんなご叱責を買ってしまい、申し訳なく思っています。新聞記事ではないとあらかじめご了解のうえ、この記事に接していただきたいと思います。

タイトルは「栄光と凋落」と当初なっていましたが、この箇所がたいへんにご批判をうけましたので、「凋落」を外しました。凋落という言葉のショッキングな響きに著者の配慮が足りなくて、みなさまにはたいへんなご心痛を与えてしまったことを申し訳なく思っています。


警告】もし記事を読まれるようでしたら、以上のご指摘をあらかじめご了解のうえ、責任をもって読んでください。(「続きを読む」で記事を隠したかったのですが、技術上できないようなので、まことにすいません)

私の配慮のない記事のために多くの方に不快感や怒りを抱かせてしまったことにお詫びと陳謝を申し上げます。たいへん申し訳ありませんでした。

【Read More】

『したたかに生き抜く悪の処世学』 阿部 幸夫


したたかに生き抜く悪の処世学―悪意を悪意と悟られない老獪世渡り術 したたかに生き抜く悪の処世学―悪意を悪意と悟られない老獪世渡り術
阿部 幸夫 (2005/11)
日本文芸社
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 「いいひと」になるだけでは世の中渡ってゆけないときもある。争いに巻き込まれたり、人からいやがらせをされたり、憎まれたり。善や正義だけではやってゆけないのが世の中というものだ。したたかに悪に生きる知恵もつけておくべきだ。

 この本は私にとってはまったく読めなかった。中国の古代春秋あたりの歴史事例がのべられていて、漢字だらけの字面に文脈を追えないことがいくつもあった。私は抽象論が好きで、歴史事例はどうも苦手なのである。ふつうはドラマのほうがわかりやすいという人も多いと思うが、私もどうもそこから教訓や意味をひきだしにくいタイプなのである。

 よってこの本は三笠書房のような自己啓発的なタイトルのみが役に立った。そういうところだけ引用。

「強きをたすけ弱きを叩け」
「長い物には巻かれ強い者には負けろ」
「落ち目の者との約束は遠慮なく破れ」
「力に媚びるファミリーを形成しろ」
「三人がいえば虎はたしかに街に出たことになる」
「法の不備は知恵者の富の源」



 ひどい事例であるが、現実の世の中というものはこういう力関係でなりたっているものである。だからこそこのような行為を非難し、頭では正義漢になろうとする。しかし力には現実には立ち向かえないこともわれわれは心の底でいやというほど知り抜いているものである。

 理想や正義はほどほどにということである。自分が孤立しても、おおぜいを敵に廻しても勝てる、くじけることもないと胸を張っていえる者だけが正義や理想を抱え持つべきなのである。自分の力と相談して、正義の分量は考えるべきなのである。世の中はそういうものである。学校や教師が教えてくれたキレイゴトでは世の中渡ってゆけないものである。

 はやくにそういうことを悟った者たちがみんなでひとりをいじめたり、群れや徒党をつくって力でねじふせ、そして人を傷つけたり、人の痛みに無頓着になってゆくのだろう。くりかえすが、これを非難する力を自分はもっているのかと問い直して非難すべきなのである。正義や理想は強いものだけに許された特権だと心得るべきである。