順位と資源
動物はなぜ順位を決めるのか。
資源――食料やメスの分配をあらかじめ決めておくためだと思われる。もし順位が不明確だとそのつど争いが起きる。したがって順位は争いを避けるシステムである。
われわれ人間は順位がなく平等で上下のない関係が理想だと思っている。できれば権力や服従の関係、尊大さや屈従の関係はつくりたくないと思っている。そのような意識は民主主義や平等社会の推進エネルギーとなってきた。
しかしいっぽうでは順位争いや権力闘争のない人間社会はありえないこともわかっている。われわれは中学のころに暴力やケンカの強さを競うヒエラルキーの競争に巻き込まれざるをえないし、学校では知能や体力、技能などのさまざまな優劣が競われるし、企業集団のなかでも権力闘争や派閥争いといった動物的な争いから無縁だとは言い切れないだろう。一般社会でも富や知能、権力といったさまざまな競争が渦巻いており、だからこそ市場経済はなりたっているとすらいえる。
人間は権力をもとめる生き物である。上下がなく、権力や服従の関係がない社会が理想だと思っても、人はあらゆる権力や序列をもとめるものである。権力や順位をもとめる欲望はさまざまな悲劇に人々をつき落とす。絶対的に安定した順位などないものだから、多くの人が毎日傷つけられたり、痛めつけられたりすることを止められないのである。
順位は資源が少ないときに厳しい序列が必要になる。食料を得るたびに激しい争いがおこるのは避けるべきである。そのために順位を日ごろから明確にしておく必要がある。下位の者には食料が行き渡らないときもあるだろう。それでも集団で獲得できるものの利益には群れから外れることよりも利得があるのだろう。
動物のこのような順位制から人間も無縁なわけではない。子どものころから兄弟間や友だち間において序列が決まってゆく。そのことによって利益や権力の多い少ないが決まるのである。まずは食料分配の順位の上にさらにメスを獲得する順位の闘争が新たにつけ加わる。それは暴力のランクによって決まったり、知能であったり、文化であったり、物資の多寡であったりするだろう。その順位によってメスの獲得のランクは決まってゆくのである。
動物の群れにおいてメスと交尾できるのは上位のものだけであったり、あるいはオスが一頭だけのハーレムをつくる動物もいる。オスの強さや順位によってメスが獲得できるかどうかが決められるのである。人間は一夫一婦制のように社会のほとんどの成員がメスを獲得できるシステムをつくりあげているが、もし資源が少なくなったときには序列が厳しくなり、メスが行き渡らない社会に移行することも考えられる。人間の場合はハーレムのように極端にはならないが、メスの獲得競争にあぶれないためには権力や暴力、物資などの競争に勝ち、順位を高く保っておく必要があるのである。
人間は経済力や物資、文化などによって順位を決める。明確なモノサシなどないから複雑なのだが、われわれはうっすらとランクや順位を知っているものである。ランクが叶わないなと思ったら、資源から手を引く。それは経済力であったり、社会階層であったり、高嶺の花の女性であったりする。ランクによって、「分を知る」ことにより、われわれはそのランク内の階層や文化、生活に馴染んでゆくのである。高望みして恥じたり、絶望しないためにわれわれはほどほどの、あるいはそれなりのランクに満足してゆくのである。
私は思うのである、順位を競う競争は厳しく恐ろしいものだから避けたいものであるが、いっぽうでは蔑まれたり、劣位のものに見られたり、落ちこぼれと思われるのも避けたい、いちばん平穏で安全で危険の少ない道はないものだろうかと。まあ真ん中がいちばんいいということになり、かつて日本人は一億層中流といわれたのだろうが、それでも人はさまざまな集まりの中で順位闘争や権力闘争に巻き込まれるものである。そのために順位とはなにか、順位とはどのようなものなのかをくわしく知り、それから超越できる立場を手に入れるべきだと思うのである。
われわれは生まれたときから知らず知らずのうちに順位闘争をしており、順位競争に巻き込まれたり、あるいは競争を仕かけられたり、ふっかけられたりするものである。そして人はどうして傷つけあうのだろうか、どうしてあの人は私につらく当たるのだろうか、どうしてあの人と相性が合わないのだろうか、私はなぜ人とうまくやっていけないんだろうと悩んだりするのである。こういう人間関係の悩みにはいくぶんかの順位闘争の目で見てみる必要があると思うのである。
イヌやチンパンジーなどの動物の隣人は激しい順位闘争をおこなっている。同じ動物の一員である人間もそのような競争に無縁なわけがない。私たちは親和的で上下のない関係を理想とするが、序列や権力-服従関係の網の目の中で生きてゆかざるをえないのも紛れもない事実である。
理想は現実のネガである。つまり現実はそうではないことの現われである。私たちはいやおうなしに巻き込まれざるを得ない順位闘争の中で、いかに平穏な環境や心境を維持すべきなのだろうか。
巣の中の兄弟につつかれて死んだり、乳から押しのけられて餓死する子犬のような生存競争が根本にあるのだろうが、われわれ人間はそこまで壮絶な生存環境にいるわけではない。激しい生存競争をしなくともすでに生きてゆけるのである。資源の激しい競争に駆り立てられて闘争する必要はないのだ、負けてもいいんだと悠然とかまえてもいいんじゃないかと私は思う。
新刊情報 2007年5月刊



『若者の労働と生活世界』本田由紀ですが、表紙がおどろおどろしく、大月書店って共産主義系でしたっけ? 『僕はパパを殺すことに決めた』は奈良エリート少年の放火事件です。春日武彦はスリラーぽい本が好きですね(冗談)。



フーコー系の本が二冊。



『自由は人間を幸福にするか』は佐伯啓思、竹田青嗣、小浜逸郎が語っているそうですね。







『長男が危ない!』長男ってマジメになるか、スピンアウトするか、どちらかって感じがします。



『東京』昭和三十年代はいいですね。



『植物の生存戦略』じっとしているということは生存にとってプラスなんでしょうか。葉は食べられ、生殖は昆虫や動物がやってくれるけど、人生つまらなさそう。。



養老さんの本が二冊。哲学者と仏教者と。養老さんってなんでウケるのだろう。『グーグル革命の衝撃』はNHKでやってましたね。NHKはひんぱんに「〜の衝撃」ってタイトルをつけていましたね(笑)。






『都市から見る世界史』って期待できるのかな。
観光と文化―旅の民族誌

オリエンタルズ

テレビジョン解体

錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった

これはいいすね。感覚が幻想であるという知識をぜひ身につけたいですね。
銃後の中国社会―日中戦争下の総動員と農村

日常生活の誕生―戦間期日本の文化変容

オタクのための格闘術

なんか新刊情報って私がやることの意味はあるのかなって気がしてきました(笑)。みなさん役に立っていますか。学術書の新刊を楽しみにしている人って私のブログを見ている人にいるのかな。自分が読みたくなるような本を紹介できればいちばんいいんですが。それが新刊情報の第一の意義だと私的には思うんですが。
集団内の争いをどう止めるのか。
この何ヶ月がずっと「いじめと集団力学」というテーマのもと、読書と思索をつづけてきた。はっきりいってまったく成果があがっていない。どのような問いかけがいちばんなのか定められていないし、なにを知るべきなのかが明確にならない。
根本的な問いは集団内の争いをどう止めるかということなのだろう。集団内で攻撃やいじめ、争いがおこったときにどう対処し、怒りや敵意を止めればいいのかということではなかったのかと思う。
争いがおこれば、敵意や憎悪でそれを止めようとすることは容易に考えられる。しかしこれは油に火をそそぐ結果になるだろうし、憎悪や敵意をもった人間に対する対処としては賢明ではない。
ではやられっぱなしでいいかということ、そんなわけはないだろう。争いや攻撃にさらされると人の精神や身体はひじょうに不安定になりやすいし、身体的病気になったり精神的ダメージを強く受ける。自己評価を低く見積もってしまう損害はながく自分の精神に尾をひくだろう。一方的な攻撃が精神的身体的にいいわけがない。人は人間関係のトラブルにそうとうのダメージを受け、大きく日常のウェイトを占めているのかがよくわかった。
集団内で争いがおこったとき、人の意識にあるものは「だれそれが気に食わない」だとか「あいつのああいうところが嫌いだ」といった感情が意識の表面にあるものである。しかしこれはいろいろな方面から考えてみると、どうもそれだけではないようだ。集団内の順位闘争や権力闘争、勢力争いの側面からも捉えてみなければならないものである。人間は主観的には人の好悪や善悪を問うているのだが、客観的には順位闘争や勢力争いをおこなっているばあいもあるのである。人の好悪や善悪の一枚皮をめくったところには権力闘争があるものなのである。
私の属する集団での争乱はさいしょはひとりの排斥の可否を問う問題であったように見える。そして中立や反対が攻撃される対象になり、勢力争いの様相を呈した。その時点では「なわばり行動」になっていたのである。ひとつのグループがなわばりを主張し、他者を排斥し、自分たちの勢力を拡大する様相があらわになっていったのである。
そのような争乱の中で「連合」や「同盟」が集団内でくりひろげられた。チンパンジーもこのようなことをおこなう。二対一で攻撃するのである。そして勢力のあるほうに加勢がついてゆく。人間はそれを閉鎖的な会話関係でおこなう。排斥するのである。そのよう同盟が私の集団で猛威をふるい、戦々恐々しなければならなかったものである。
この争乱の最初から順位闘争があったように思う。連合での排斥はさいしょ地位の低いものからおこった。それがひとつのグループリーダーの加担するものとなり、中立や反対を巻き込んで憎悪のエネルギーは勢いがあるものだからそのまま勢力闘争にふりむけられた感がする。
このグループに従わない者は攻撃される。そうして同盟がひろがり、勢力は増す。裏切りと疑心暗鬼が横行する。勢力か、倫理かの舵取りがおこわれる。この勢力あるグループは目下同調行動がさかんである。そこで「オレたち」と「やつら」の境目が確認される。「やつら」は「オレたち」ではない攻撃され排斥される「異分子」なのである。
このような集団力学に巻き込まれたとき、人はいったいどのように対処したらいいのだろうか。そしてそれはどうしたら止めることができるのか。それが私の問いである。なにか人間の恐ろしさや汚さ、演技や服従、権謀術数の数々を見せつけられているような気がする。勢力と服従の闘いはプライドと屈辱のあいだをいったりきたりするのである。このような経験は人間としてしたくないものである。
その間に私がしたことはこのような集団の力学を本から学ぶことだけだった。これはいじめにも似ているからいじめの本や非行についての本、そして学校の集団心理学――これらの本ではまだまだだから、動物行動学からチンパンジーやオオカミの群れの順位闘争から学ぼうとしたのである。
人間は集団の中でこのような闘争をしじゅうおこなっているはずである。しかしそれをまともに研究した本があまりにも少なすぎる。順位闘争や勢力闘争は人間の意識には表向きにタブーなのだろうか。さもないと人間は平和に協調的に生きてゆけなくなる。そういう集団の中でいじめのように多くの人が犠牲者になっているのである。
まあいまのところ私の考察はこの程度のことである。争いを沈静化する知識はほとんどそなわっていないのである。私たちはいつかこの人間の集団の争乱のメカニズムを理解して、かんたんに止められる方法を見い出すことができるのだろうか。あるいはそういう条件や状況をうけいれて生きてゆくしかないのだろうか。願わくば平和に生きたいものである。
▼参考になった主要文献












『オオカミと生きる』 ヴェルナー・フロイント
オオカミと生きる
ヴェルナー フロイント

幸せなオヤジである。オオカミの群れといっしょに暮らせる人間はそういない。
私のイヌとの経験から類推して、イヌほど人間になつく生き物はなく、服従や親愛の情をからだ全体でもってあらわすから、人間より愛しくなるものである。もしオオカミも同じ性質をもっているとするのなら、人間のつきあいよりもっと満足な気持ちをもてるだろうと思う。
著者のフロイントは冒険家である。動物たちにとくべつの親愛の情をもったり、世界の自然民族への冒険旅行に何度も出かけている。そういうかれの好奇心がドイツの森で五つのオオカミの群れとともに暮らして観察するという冒険をおこなわせたのだろう。こういう冒険家がいるからこそ、現代の人間の知識は築かれたのだと思う。
フロイントはオオカミの子を生まれてすぐに育てた。親と育つと人間を恐れて人間になつかなくなるからである。大きくなると野外囲い地に放して、しぜんなオオカミの群れを形成するようにした。ヨーロッパオオカミやホッキョクオオカミ、シンリンオオカミなどの五つの群れをフロイントは育てた。フロイントはその群れの中でオオカミたちと同じように生活した。
オオカミの群れは順位が明確に決まっている。獲物にありつけるのはアルファオスから順番だし、アルファオスにあいさつするのも順位どおりである。ふだんは穏やかなオオカミたちも順位闘争になると容赦のない攻撃をおこなう。
フロイントはその群れの中で超位オオカミの地位を保っている。鋭い牙でかみつかれたらひとたまりもないだろうし、いつ順位闘争で攻撃をしかけられるかわからない。フロイントは獲物を与えるさい、アルファオスの唸り声や攻撃に出会うとすかさずアッパーカットを喰らわせて、アルファオスに守るべき順位を教えるのである。
順位争いは生まれてからすぐにはじまっていて、授乳時にほかの兄弟を押しのける強いオスがたいていはアルファオスになる。野生では押しのけられた兄弟は餓死するしかないのである。成長すると親しかった人間の子どもたちも順位闘争に巻き込まれて標的になり、ともに行動することはできなくなったこともあった。
私がこのオオカミの本に興味をもったのはこのような社会生活の順位や序列を知りたいと思ったからだ。オオカミやイヌの社会生活における順位は攻撃的でひじょうに荒々しい。一歩間違えば死が隣り合わせの闘争である。この厳しい順位闘争に私は畏敬の念を思わず感じてしまうのである。
人間である私はオオカミのような順位闘争に参加しなくて幸福だったと思うが、同時にオオカミの社会生活は人間の群れにもひじょうに等しいことを感じないわけにはいかないのである。つまりはオオカミの順位闘争は人間の社会生活にもひそかに影を落としているものである。そのへんを読みとる目を養うために私は動物の序列順位に目を向けているのである。
群れの順位はたんじゅんに考えると、食べ物とメスをめぐる争いに端を発するのだろう。資源の分配をあらかじめ決めておくのだ。そのことによって無駄な争いを避けることができる。そのためにオオカミやイヌたちは服従や親愛のしるしを目だってあらわすように進化した。人間はなさけなくもこっけない服従の身ぶりに大喜びするのである。
人間は順位や序列、服従、親愛の身ぶりをできるだけ社会生活から隠そうと努力してきた。平等で親愛的な社会が理想だと思ってきた。そして順位や序列が水面下にめぐってしまい、混乱してしまっているのではないだろうか。私たちは順位やその闘争の中で生きている。だけど実情を意識的に理解しにくくなっているのである。このブラックボックスを解明するためにはふたたび動物に学ばなければ、人間はそれを理解できないというありさまなのである。
私たちは厳しい順位闘争の中で生きている。平等で親愛的な社会が人間社会の真実だと理解してしまうと、人間の真実にしっぺ返しを喰らってしまう。私たちは動物たちの厳しい順位闘争が人間社会にも働いていると見るときに、人間社会で生きてゆく術を見い出せるのではないかと思う。

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ヴェルナー フロイント

幸せなオヤジである。オオカミの群れといっしょに暮らせる人間はそういない。
私のイヌとの経験から類推して、イヌほど人間になつく生き物はなく、服従や親愛の情をからだ全体でもってあらわすから、人間より愛しくなるものである。もしオオカミも同じ性質をもっているとするのなら、人間のつきあいよりもっと満足な気持ちをもてるだろうと思う。
著者のフロイントは冒険家である。動物たちにとくべつの親愛の情をもったり、世界の自然民族への冒険旅行に何度も出かけている。そういうかれの好奇心がドイツの森で五つのオオカミの群れとともに暮らして観察するという冒険をおこなわせたのだろう。こういう冒険家がいるからこそ、現代の人間の知識は築かれたのだと思う。
フロイントはオオカミの子を生まれてすぐに育てた。親と育つと人間を恐れて人間になつかなくなるからである。大きくなると野外囲い地に放して、しぜんなオオカミの群れを形成するようにした。ヨーロッパオオカミやホッキョクオオカミ、シンリンオオカミなどの五つの群れをフロイントは育てた。フロイントはその群れの中でオオカミたちと同じように生活した。
オオカミの群れは順位が明確に決まっている。獲物にありつけるのはアルファオスから順番だし、アルファオスにあいさつするのも順位どおりである。ふだんは穏やかなオオカミたちも順位闘争になると容赦のない攻撃をおこなう。
フロイントはその群れの中で超位オオカミの地位を保っている。鋭い牙でかみつかれたらひとたまりもないだろうし、いつ順位闘争で攻撃をしかけられるかわからない。フロイントは獲物を与えるさい、アルファオスの唸り声や攻撃に出会うとすかさずアッパーカットを喰らわせて、アルファオスに守るべき順位を教えるのである。
順位争いは生まれてからすぐにはじまっていて、授乳時にほかの兄弟を押しのける強いオスがたいていはアルファオスになる。野生では押しのけられた兄弟は餓死するしかないのである。成長すると親しかった人間の子どもたちも順位闘争に巻き込まれて標的になり、ともに行動することはできなくなったこともあった。
私がこのオオカミの本に興味をもったのはこのような社会生活の順位や序列を知りたいと思ったからだ。オオカミやイヌの社会生活における順位は攻撃的でひじょうに荒々しい。一歩間違えば死が隣り合わせの闘争である。この厳しい順位闘争に私は畏敬の念を思わず感じてしまうのである。
人間である私はオオカミのような順位闘争に参加しなくて幸福だったと思うが、同時にオオカミの社会生活は人間の群れにもひじょうに等しいことを感じないわけにはいかないのである。つまりはオオカミの順位闘争は人間の社会生活にもひそかに影を落としているものである。そのへんを読みとる目を養うために私は動物の序列順位に目を向けているのである。
群れの順位はたんじゅんに考えると、食べ物とメスをめぐる争いに端を発するのだろう。資源の分配をあらかじめ決めておくのだ。そのことによって無駄な争いを避けることができる。そのためにオオカミやイヌたちは服従や親愛のしるしを目だってあらわすように進化した。人間はなさけなくもこっけない服従の身ぶりに大喜びするのである。
人間は順位や序列、服従、親愛の身ぶりをできるだけ社会生活から隠そうと努力してきた。平等で親愛的な社会が理想だと思ってきた。そして順位や序列が水面下にめぐってしまい、混乱してしまっているのではないだろうか。私たちは順位やその闘争の中で生きている。だけど実情を意識的に理解しにくくなっているのである。このブラックボックスを解明するためにはふたたび動物に学ばなければ、人間はそれを理解できないというありさまなのである。
私たちは厳しい順位闘争の中で生きている。平等で親愛的な社会が人間社会の真実だと理解してしまうと、人間の真実にしっぺ返しを喰らってしまう。私たちは動物たちの厳しい順位闘争が人間社会にも働いていると見るときに、人間社会で生きてゆく術を見い出せるのではないかと思う。
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『サルの社会とヒトの社会―子殺しを防ぐ社会構造』 島 泰三
![]() | サルの社会とヒトの社会―子殺しを防ぐ社会構造 島 泰三 (2004/07) 大修館書店 この商品の詳細を見る |
ニホンザルの研究をする著者のもとに子殺しの衝撃的な知らせが入ってきたのは1974年の夏のことであった。箱根の天昭山野猿公苑でそれはおこった。
「オスザルがメスザルを襲ってその赤ん坊を取り上げ、赤ん坊を川原の石に幾度も叩きつけて殺し、二回にわたって赤ん坊の手を食べたのである」
いらい著者はその異常で衝撃的な子殺しの解明が生涯の課題となる。岡山県臥牛山では文化財保護のための保護・管理調査中に子殺しがおこった。オトナザルを排除し、赤ん坊を無防備な状態においた調査団のためだったとされる。
ニホンザルの子殺しがさいしょに観察されたのは1960年、愛知県犬山市だった。二年後には杉山幸丸がハヌマンラングールの子殺しを紹介して有名になった。さいしょは異常行動や例外と見なされ、関心は低かったが、重要視されるようになったのはチンパンジーの子殺しと共食いが観察されてからである。
これまで子殺しの要因としてさまざまな説があげられてきた。社会的混乱仮説、包括適応度、性淘汰理論、人的攪乱効果仮説など。
著者は餌付けなどの人為的影響下で子殺しが起きやすいと考えている。またオトナオスがいなかったり、順位が不安定だと子殺しが起こる。そこからこう考える。
「霊長類の社会構造はさまざまだが、そこになくてはならないのは赤ん坊をどのように防衛するかという機構なのではないか」
たしかにほかの肉食獣にもっとも狙われやすいのは子どもたちであり、ライオンのオスの交替時に子殺しがおこなわれるように同種族からも狙われるとなったら子どもの防衛はかなり重要な戦略基軸になるはずである。
目を転じてマダガスカルの原猿類やチンパンジーなどの子殺しの例が探られてゆく。原猿類ではすくないが、ワオキツネザルやヴェローシファカで観察されている。チンパンジーでは子殺しや食肉、殺し合いもまれではない。
さいごにヒトの子殺しが考察されるわけだが、サルの観察例からくらべて人間はもっと衝撃的である。ヒトの子殺しは当たり前にあり、恒常的である。サルにはない「わが子殺し」がある。産業化以前の社会では86.4パーセントの社会で子殺しが見られ、産業化社会でもいまなおつづいているのはいうまでもない。
人間の母親は子どもを育てるのに過剰な負担がある。赤ん坊が自立するまでに霊長類には例がないほど長くかかり、出産間隔が短く、ひとりで放っておかれたらその負担は過大である。夫や祖父母、血縁者、近隣などの協力がないとその負担は取り除けない。祖母が育児後も長生きするのは育児の協力のためだもいわれる。なるほどサルとくらべれば人間の過負担は明瞭というものであり、少子化の遠因にも働いていると思われる。
母親の子殺しの大半の理由は「将来の不安」だといわれる。現実より、想像の不安が母親を押しつぶすのである。
「言葉は、概念を作り、概念にはその言葉の背景となる想像できるかぎりのあらゆる悲惨化、誇大化、拡張化が連鎖してつながる」
そして「人間は、将来への不安から食料を増産し、生態系を攪乱する」
くらべてチーターは母親一人で最大八頭の子育てをし、父親の協力もないし、獲物はハイエナに横取りされるし、ライオンなどにわが子が食われる割合は九割を超える。それでもわが子は殺さない。
「「将来への不安」など感じないからである。野生動物たちは、今だけを生きている」
なるほどサルの研究というのはすべて人間の鏡に集約されるわけか。子殺しや殺人などの人間の凶暴性はサルの社会にも見られる。そこから自然界から超越したとおごりたかぶる人間はサルの延長に過ぎないとわかるというわけである。
70-80年代の洋楽バラード名曲集をユーチューブで。
私のサイトでの一番人気はやっぱりユーチューブにリンクを貼ったページです。でもリンク先は壊滅状態になっていますので、検索で訪れてくれた人には申し訳ないと思っています。おわびのしるしとしてバラード名曲集をUPします。でももちろん数週間後にはリンク先が壊滅していると思いますので、そのときにはアーティスト名でたどってみてください。見つかるかもしれませんので。
私は80年代MTV世代なので、だいたいは80年代、70年代の洋楽が中心になっています。同世代の方はなつかしく思われるでしょうし、もっと若い世代の方は過去の名曲を楽しんでください。バラードでとろけてください。
【追記 2008/8/25】 好評につき、リンク切れしていたものを貼りなおしました。お早めにごらんください。このページは毎日一定の数の人が訪れる人気ページになっていますね。
My Heart Will Go On (Titanic)- Celine Dion
『タイタニック』の映画もメロディも忘れられませんね。
Joe Cocker & Jennifer Warnes - Up Where We Belong
ジョーコッカーとジェニファー・ウォーンズのこの『愛と青春の旅立ち』は名曲中の名曲だと思います。
The Alan Parsons Project - Limelight
希望がじょじょにわいてくる名曲です。
Crazy For You Madonna
マドンナの中ではいちばん好きなバラードですね。
The Bee Gees - Melody Fair
『小さな恋のメロディ』はだれでも口ずさめる曲だと思います。
The Way We Were - Barbra Streisand
陶酔的に思い出にひたりそうになる曲ですね。
Against All Odds (Take A Look At Me Now) - Phil Collins
フィル・コリンズの深刻なバラードですね。
SARA Starship
あきらめが曲からただよってきますね。
Hard To Say I'm Sorry - Chicago
バラードのシカゴを印象づけた曲ですね。
Don't Unswer Me The Alan Parsons Project
あたたかいラブソングにしびれますね。
The Dream Academy - Life In A Northern Town
寒い国の感じがとてもいいですね。
We're all alone Boz Scaggs
もういうまでもないバラードの名曲ですね。
Carpenters - Rainy days and mondays
カーペンターズのこの曲は憂鬱な月曜日に口ずさみたくなりますね。
Elvis Costello - She
とろけるような『ノッティングヒルの恋人たち』のラブソング。
All By Myself Eric Carmen
歌いつがれるエリック・カルメンの「オール・バイ・マイセルフ」。
Simon & Garfunkel - Bridge Over Troubled Water
名曲中の名曲『明日に架ける橋』。サイモンとガーファンクル。
Elton John - Your Song
エルトン・ジョンの『ユア・ソング』も不朽の名作ですね。
James Taylor & Carole King - You've Got A Friend
『ユー・ガット・ア・フレンド』もいつまでも残る曲ですね。
THE ROSE Bette Midler
希望を与えてくれる名曲ですね。
la boum richard sanderson
なつかしさにたまらなくなるソフィー・マルソーのデビュー作『ラ・ブーム』です。
Julio Iglesias - Begin the Beguine 1981
スペインのフリオ・イグレシアスが世界中の女性にもてまくった曲ですね。
The Power Of Love - Celine Dion
セリーヌ・ディオンがエア・サプライの曲をカバーしました。
Without You Nilsson
この「ウィズアウト・ユー」もたまらない名曲ですね。
Somewhere Out there Linda Ronstadt & James Ingram
ディズニーの映画『アメリカ物語』からのあたたかいデュエット。
Yutaka Ozaki - OH MY LITTLE GIRL『この世の果て』だったかで好きになりました。
時代 中島みゆき
この名曲が見れるのはつかの間だと思いますので、お早めに。
Frank Sinatra - Strangers In The Night
シナトラのダサい曲が恋しているときにぴったりの曲とは思いませんでした。
Stairway to Heaven 天国の階段
個人的にチェ・ジウの『天国の階段』は好きです。
Thompson Twins - Hold Me Now
トンプソン・ツインズは好きなんだな。
ABBA - 1980 The Winner Takes It All
アバの「ザ・ウィナー」はイントロで泣けてきそうになります。
Chris De Burgh - Lady In Red
クリス・デ・バージは寂しい曲がいいんですが、好みは別れると思います。
竹内まりや 駅
私たちの多くがこんな切ない気持ちを抱えもっているのだと思います。
Air Supply - Lost In Love (1979)
エア・サプライの代表的なバラードですね。
Linda Ronstadt & Aaron Neville - Don't Know Much
アーロン・ネヴィルとリンダ・ロンシュタットの陶酔的なデュエット。
Billy Joel - Honesty
ビリージョエルの日本での人気を不動にした曲ですね。
小坂明子 あなた 1974
マイホームへの夢を歌ったこの曲はいまでも感動しますね。
▼CDで楽しみたい方へ




『オオカミの魂(こころ)』 マイケル・W. フォックス
![]() | オオカミの魂(こころ)―人と自然の新しい関係 マイケル・W. フォックス (1997/12) 白揚社 この商品の詳細を見る |
イヌやオオカミは群れをつくり、リーダーや序列、支配や服従関係を明確につくる。ディスプレイも噛みつく儀式や、ねじふせられる格好で明瞭に序列をあらわす。ボディランゲージで序列や感情をはっきりとあらわす。だから階層をはっきりあらわさない人間の社会関係より明確に序列や力関係が学べるのである。
人間の序列や力関係についての著述があれば紹介してほしいものである。われわれ人間は職場や学校、家族などで序列競争や権力闘争をおこなっているはずである。しかしそれを詳細に追究した書物はそうないのである。だからこの『オオカミの魂』を読んだ。
むかしTVでみたムツゴロウさんの動物王国でのイヌ社会の闘争が忘れられない。二匹のうなり声をあげるイヌに囲まれながら、一匹の犬小屋のイヌが自分を守るようにうなり声をあげていた。イヌの集団生活はすさまじいものがあると思った。
この本の著者のマイケル・フォックスによると人間の集団関係はチンパンジーよりオオカミに似ているそうである。イヌの人間集団への適応度をみていても納得できる話である。群れをつくり、リーダーと順位の低いオオカミがいて、支配と服従の序列関係を形成し、群れで獲物を追う。言葉がない分、ボディランゲージではっきりとわれわれの序列関係と似たようなものをあらわすのである。
この本では文章より、写真のほうが多く学べた。鼻面を噛みつく真似をしてねじ伏せられる儀式、劣位のオオカミたちは優位のオオカミの後に食事にありつける、服従をしめすキスをするオオカミと頭と尻尾を高くもちあげた優位のオオカミ、アイコンタクトの威嚇や無視をするアルファオス、地位の低いオオカミは尾と耳を下げたディスプレイですぐにわかる。
私はこのオオカミの群れから「服従」や「序列」を学びたいのかもしれない。人間の場合、服従はどれだけあらわされるものなのか、あるいは服従はどこまで拒否できるのか、また服従はどこまで隠されるべきものなのか。序列はなにによって測られ、なにが序列を示し、序列はどんな利益や損害をもたらすのだろうか。
人間はこれらのことを毎日集団の中でおこなっておきながら、明確にこのことを意識しないし、言葉にも文章にもそうあらわさないのである。無意識であり、不文律である。そしてなによりも大事なことである。
人間の集団は平和的で平等であり、そして闘争的であってはならない――そういう不文律が人間の序列を覆い隠しているのだろう。でもこの序列や服従を破ったときの制裁や罰則も不文律に存在するものである。だからこそ、理解しなければならないものであるのだが。
このことに関してよい本があったのなら紹介してほしいものである。動物の社会生活から学ぶしかないのだろうか。暗黙知のままとどまってよい知識だとはとても思えないのだが。
新刊新書情報 2007年5月刊
五月の連休も終わり、五月病の季節がやってきました。なにかに悩んでいるときはほかのことに気持ちを集中するのがいちばん。ざっと新書を読んでみて、うつうつとした季節をのりきりましょう(笑)。
講談社現代新書 2007年5月刊




『近江から日本史を読み直す』が注目。たしかに近江は古代と信長の時代と日本史の転換点ですね。
PHP新書 2007年5月刊




『〈ポストモダン〉とは何だったのか』の本上まもるさんは前からブログを読ませていただいていました。『個人主義とは何か』の西尾幹二はまえもこんな本が出ていた気が。
朝日新聞社 2007年5月刊





『偽装請負―格差社会の労働現場』が注目。労働の現場がほとんどヤクザが犯罪まがいになっていますね。もともと日本の労働現場に法律など通用しなかったのですが、露呈しただけですね(哀悼)。
平凡社新書 2007年5月刊






宝島新書 2007年5月刊


『格差が遺伝する!』は三浦展。つっ走ってますね。一大流行作家に。『「B級自由民」宣言!』は上昇志向なしのインテリ層を指すそうですが、信頼できる本か、ただの広告的煽りか。
ベストセラーズ 2007年5月刊

光文社新書 2007年5月刊



ベネディクト・アンダーソンの講義録が出るなんてお買い得。そういえば新書の著者は日本人ばかりで、外人ももっと活用してほしいですね。
角川書店

ソフトバンク

空海の現代的意義ってあるのでしょうか。
ちくまプリマー新書


茂木健一郎も脳科学者のブームをつっ走っていますね。
洋泉社新書y 2007年5月刊



新潮社新書 2007年5月刊



『コテコテ論序説』は難波のどんなところをもちあげるのでしょうか。私は千日前のジュンク堂にしか用がありませんが。
白水社クセジュ
精神医学の歴史

白水社クセジュはあまりおすすめできませんが、入門書のラインナップは魅力的ですね。
NHK生活人新書 2007年5月刊


『働きすぎる若者たち』は注目。私たちは仕事を抑制できる社会をのぞまないのでしょうか。
集英社新書 2007年5月刊





文春新書 2007年5月刊





祥伝社新書 2007年4月刊






『これだけで病気にならない―顔と口の医学』の西原克成は生命進化から身体を解明していて、期待できるかもしませんね。
『「最後の社会主義国」日本の苦闘』 レナード・ショッパ
「最後の社会主義国」日本の苦闘
レナード・ショッパ

この本で主張しているように私もこの国は社会主義国で、サイレントテロが深く進行しているのだと思う。その護送船団式資本主義の犠牲を強いられてきたのは女性と企業で、いましずかで大がかりな「退出」がおこっているのだと指摘している。
女性たちや企業が政治的に声をあげないのは「退出」というオプションがあるからだ。女性は結婚せずに子どもを生まなかったり、企業は高コストの人件費や電力費から逃れるために海外移転する。そのような逃げ道があるために救いようのないシステムは深刻な崩壊寸前の事態を止めることができないのである。
悲惨なまでに少子化が進行している。女性たちは育児や介護の犠牲を一手に背負いたくないのだ。結婚も保障の厚い大企業サラリーマンの夫にすがりつくだけならリスクが大きすぎる。この国では手厚い保障を手に入れようとすると結婚せずに働きつづけるか、夫に依存する息苦しさや保障のなくなる離婚に脅えながら、ひとりの正社員にすがりつくしかないのである。女性たちは逃げ道を残しておくために結婚も出産もあきらめるオプションを選ぶしかないのである。
社会主義の高コスト体制から女性や企業は逃げ出しているのである。日本の労働コストは先進国でも最高の部類に入り、アメリカやイギリスの一二割高く、中国にいたっては九割も高い。解雇の制約や社会保障のコストも高くつくばかりである。しかもエネルギーコストも高い。企業も女性たちと同じようにひそかに退出をつづけているのである。
逃げ道があるのなら、企業や女性たちは改革の声をあげない。したがって、ゆでガエルのように熱湯に気づくまで事態は底なしに悪化しつづけるのである。例外は介護保険と金融改革である。逃げ道のないそれらは、大きな改革を順調になしとげた数少ない例である。せっぱつまったときには日本人に改革の希望がないわけではないのである。
この本は一般読者むけに書かれた本というよりか、専門家向きの本である。議論が細かすぎる。もう少し一般読者向けの本にしてほしかった気がするが、日本の社会主義がどんなに断末魔の叫び声をあげているのか指摘してくれた点で私はおおいに賛同するのである。
ただし、日本の社会主義の犠牲を女性と企業に絞った点で、男性の滅私奉公的な生き方にたいする犠牲をスルーしている点がたいへん不満だ。非正規雇用の問題もほぼスルーしている。男性も社会主義的政策のためにたいへん犠牲になっているのだ。
保障は手厚くとも企業に強く拘束される男性はほんとうに満足できる人生を送れているといえるのだろうか。若者はフリーターやニートで退出、もしくはサイレントテロをおこなっているのではないかと私は強くいいたいのだが、著者はてんで相手にしていない。女性や企業の声のない退出に鋭く反応しておきながら、なぜこれらに反応しないのだろう。
日本は社会主義国である。保障や保護の面で救いがたい旧弊なシステムを維持したまま硬直している。深刻な問題であり、大がかりな退出の意味を政府関係者は気づいていないのである。
これは生き方の問題である。保障や保護される人生が拘束や束縛の人生になっているのである。夢が悪夢に転嫁している時代の変化に気づいていない。女性や企業、若者はそれらを選択したくないのである。退出し、逃げたいのである。それなのにシステムが変えられない。というよりか、しずかな退出の意味を悟っていないがゆえに変えられないのである。
男性正社員的な保護の生き方がいちばん根本的に改革されなければならない根元であると私は思う。保護される代わりに人生を企業に売り払わなければならない。これがこの国の最高の人生なら女性は夫ではなく自分個人でそれを手に入れようとすると結婚も出産もあきらめなくてはならない。個人の豊かで楽しい人生もあきらめなければならない。だれもこの国で生きたいとは思わない。
日本という社会主義国家からみんな逃げ出している。心情的には北朝鮮の国境付近のように日本人は多く脱国している。ひそかに逃げ出しているのに気づかないのは政治家や政府関係者だけなのだろう。政府の決めた国民人生コースから多くの人が逃げ出しているのである。この本はそのことに早く気づけとうながしている本なのだろう。
by G-Tools
レイラインがGoogle Earthで見れるようになりました。
レイラインとは現代日本にも残る古代日本の太陽信仰の痕跡です。神社仏閣や山岳をそれぞれ冬至や夏至の日の出、日没と結びつけると、つながるいう驚異的なラインのことです。
一時期私はこのレイラインの検証作業に熱中していたのですが、その作成されたロカポDIYマップからGoogle Earthが起動するようになりました。つまりレイラインを3Dの地図で立体的に見られるようになったわけです。Google Earthは無料でダウンロードできますので、インストールされていない方はこちらから。地図の下枠のKMLをクリックしてください。
たとえばGoogle Earthでレイライン上をずっと自動的に動かしてみてラインの終点に山岳や神社仏閣がくるのを楽しむとか、また神社仏閣や山岳から冬至や夏至の太陽がどの方角に沈み、のぼるのかが視覚的に見えるようになったわけです。当麻寺と住吉大社のレイラインでは夏至の日没が二上山のコブのあいだに沈むとか、等乃木神社からは夏至に高安山に日が昇るとかが見えますね。ほかにもいろいろ楽しみがあると思います。
じつは私はGoogle Earthがこんなすごいものだとは知りませんでした。いぜんにロカポの不具合を連絡した有限会社ロケージングの社長上田直生さんに教えてもらうまで、使ったことがありませんでした。Google Earthにつなげてくれた上田さんに感謝です。まるで鳥や飛行機、宇宙飛行士の目を手に入れられるようなものですね。
これでレイラインの検証がもっと高度におこなえますね。あなたもレイラインの奇蹟や驚異を見つけてみませんか。
▼住吉大社レイライン
▼三輪山の太陽の道
▼高安山レイライン
ほかにも家康のレイラインや太陽信仰、古代人の死と再生の観念についていろいろ探究していますので、こちらのほうで。
古代レイライン探索
『「関係の空気」 「場の空気」』 冷泉 彰彦
「関係の空気」 「場の空気」
冷泉 彰彦

ノレない新書であった。「場の空気」という強制力や権力への危機感は私にもあるし、山本七平の『空気の研究』ももちろん読んでいる。この新書は私にはめずらしくほとんど赤アンダーラインをひかなかった。
「空気」を語るのはむずかしいと思う。実例をひんぱんに出してくれないと「空気」がなんなのかわからなくなるし、危機感や問題意識が現われてこなくなる。なによりも自分側の危機感がそうとう深刻でないと、ノッてこれない問題なのかもしれないと思うが。
私がいまこの「場の空気」を問題にしたいと思ったのは、「場」を処するテクニックが私に欠如しているのではないかという思いからだ。どうも私は集団での会話や一体化する仲間内の会話というのが嫌いだ。演技っぽくなるし、ウソっぽくなるし、場や権力に服従を強いられるし、大衆社会論で集団やグループというものがすっかり嫌いになってしまったからだ。
おかげで私は集団での対立を生み出してしまうし、私の沈黙に対しては饒舌や会話の疎外という報復を受けてしまうのである。私はみずから集団への敵対や対立という行動様式を身につけてしまったようなのである。だから場の空気というものの処し方をもう一度学ぶ必要があると思ったのだが、いや「会話の集団内のルール」といったものがより近いと思うが、残念ながらこの本からは学べなかった。いったい私のなにがそんなに対立を生み出してしまうのだろうか。
本の話に戻って、空気が生成されるメカニズムとして言葉の暗号化により「ウチとソト」の疎外感が生み出され、そのために理解への強迫観念と正当性が強制され、反対意見を封じ込めるという攻撃的な空気が生じるといわれている。
空気の権力はまず仲間内の談合や連合から生まれ、疎外者もむりやり言葉のないそれにあわせようとするから、権力空間が場の空気に譲られるということになるのだろうか。もはや個人はそれを御することができなくなるのである。
この新書は日本語の問題から空気の実質に迫ろうとする本なのだが、私はこれは人間関係の権力闘争から解くほうがいいんじゃないかと思う。権力関係の問題なのだと私は思う。
私たちは仲間や人間関係の権力闘争や序列の問題を避けたがるし、言葉にしたがらない。そこで権力のありかや所在が不明確になる。ために権力をどこかに委譲してしまって、個人や人に権力はない、場に支配されてしまうというアナーキーな状態に日本人はより陥りやすいのである。いったら権力放棄や忌避の風土が空気の権力を生み出しているのではないだろうか。権力の所在に日本人は失敗しているといえるのである。
ゆずってゆずって、頭を下げて頭を下げて、権力をどこか場や神棚にゆずってしまって、日本人は空気という暴力に最終的には操られることになるのである。根回し的で民主的な日本の風土も、欠点としてあらわれれば、とんでもない空気の暴虐の危険と隣り合わせということである。日本人は権力の所在をあいまいにするために権力を場にゆずってしまい、空気が絶対権力として猛威をふるうようになるのである。権力の譲位は、ときにはぜったいに譲られない断行として必要であるということは、ケモノなみの集団暴走に陥りがちな日本人にぜひとも必要な技能なのだと私は思う。
by G-Tools
ベストセラーとアルファブロガーは似ている。
私はベストセラーを読まないし、関心がない。自分の興味のあるものを読んでいたら、他人の興味のある本なんて読んでいる暇がないからだ。
多くの人が読むベストセラーは多くの人が読んでいるからいい本だろうという予測をもとに人はベストセラーを読むのだと思う。多く売れたものはいいものだという考え方が多くの人の支持を得ている。
いまはほとんどベストセラーを読まない私も十代のころは音楽のヒットチャートや映画の観客総動員数、TVの視聴率などにお世話になった。ヒットや人気のあるものは無条件に見なければならない、みんな見ているから見るのがとうぜんという考えに呑みこまれていた。
でもヒットチャートの中には気に食わない曲やなぜ流行っているのか理解できない曲がチャート上位を占めていたり、こんな映画のどこがおもしろいのかといったものもあったし、なんでこんなTVに人気があるのかよくわからないものもあった。
つまりみんなが好むものと自分の好みは一致しないことに気づき出した。好みや偏りが出てきたら、ランキングはあくまでも参考にするものになり、しまいにはトップ10なんてどうでもよくなった。みんなの好みなんて当てにする必要もない。趣向が固まってきた私はそう思うようになったのである。
さらには読書においては、自分の興味や疑問でつぎつぎと本を読んでゆく方法を覚えた。「これはなんでだろう」「これはどういうことだろう」という疑問のもとにひとつのテーマの本を読むようになった。多くの人が読むベストセラーなんて必要なくなった。
ベストセラーやトップテンを気にする人は、おそらく自分がなにを読みたいとか、なにを知りたいのかといった動機がないのだと思う。多くの人の関心に興味を重ねられる。あるいはたんに話題やヒットについてゆくことで、世間話をすることが最大の目的なのかもしれない。
ニュースは多くの人の関心を惹きつけ、多くの人の興味や話題をさらう。ニュースはひとつの共同体をつくりだす。自分にとって必要なことなのか、あるいはいまの自分にとって最優先課題なのかといったことも考えられずに、時のニュースは人々の興味を惹きつける。私はそんなみんなの食いつく話題より、自分の身の上に起こっている問題や疑問のほうを追究するほうがもっと重要なのだと思うが。
ニュースやベストセラーは多くの人がいま関心ある事柄である。世の中に起こったことや多く読まれたものに、人はむりやりひっぱられる。人にとって必要なものや重要なものは十人十色だと思われるのだが、印刷機の発明以来、人間はどうもニーズやウォンツの大量コピーが習い性になったようだ。大量生産はマスメディアを通して人間の知識にもそれをおこなうのである。
アルファブロガーと呼ばれる人たちも同じことだ。ベストセラーやトップセラーなのである。多くの人に読まれるからといって、私の必要や重要さを担っていると限られるわけがない。アルファブロガーは多くの人に読まれるが、私にはぴったりとは限らない。
だから私はアルファブロガーに関心がないし、あまり読みたいとも思わない。2006年度のアルファブロガートップ40が発表されて、このようになっているが、やはり私は読みたいとはあまり思わない。参考にざっと見てみるとパソコン関連やニュース関連のブログが多いようである。
ネットは専門性や個人性がより強く出すことのできるメディアである。おかげで人気や注目されるサイトがどれなのかまったくわからない。そういう意味でランキング形式のアルファブロガーと評価される人たちは参考になる。だからといって、私に必要で重要なブログとは限らないのである。むしろ私は評価され、人気があるという衒いや演出性がそのブログを遠ざけてしまうのだが。
ネットからカリスマやヒーローが出てくることはこれからのネットの成長上に必要なことだと思う。アルファブロガーと影響力のあるブロガーが呼ばれ、ブログが振興することは大切なことだと思う。
私がいいたいことは、多くの人に評価されているものより、自分にとって必要なもの、重要なものをしっかりと握る必要があるということである。私の成長や境遇に必要なものは千差万別なもののはずである。そういうものをしっかりと把握してこそ、ネットやブログは私にとって価値ある、重要なものになれるのではないかと私は思うのである。ベストセラーやトップテンを卒業することが成長や成熟だと思う。
アルファブロガーになりたくないな(なれないけど)。
きのう『NHKクローズアップ現代』で「アルファブロガー」特集があったそうだ。見逃した方はYouTubeで見られるのでごらんください。
クローズアップ現代 アルファブロガー特集 part1
クローズアップ現代 アルファブロガー特集 part2
クローズアップ現代 アルファブロガー特集 part3
私は橋本大也さんのPassion For The Futureははてなアンテナでチェックしてたまに書評を読ませていただいているから、親近感はわいた。
私の弱小ブログとなにが違うのだろうとはたと考え込んでしまった(笑)。私はブログで一年くらい、ホームページで10年近くも書評をこそこそと書いてきたのだが、脚光を浴びたことは一度もない(笑)。橋本さんのように出版社からの献本も一度もない。毎日一冊のような驚異的な読書スピードもない。amazonアフィリエイトは橋本さんの年間百万円の百分の一である。
基本的に私のブログは自分本位の趣味でおこなわれているものだ。人に本をすすめたり、内容を紹介したりといった目的で書かれるものではない。努力はしているのだが。。あくまでも自分が思ったり、感じたことを書くだけである。橋本さんの書評はきっちりと内容が紹介されている。本を読まないでも満足できるくらいの内容の紹介がされている。たしかに私の書評は劣るのである(笑)。私のブログは人のために書かれているものではない。思わず納得である。
人気のないホームページを十年もやっているともう人気が出たりとかアクセス数が爆発的に増えてほしいだのといった期待はなくなる。自分の好きなことを書かせてもらって、少数の人にでも読んでもらったら満足だという心境になっている。勝ちにいこうなどとほとんど思わない。なんだかもう書きたいことだけを書けばそれで満足している。自分の満足のゆく書評や文章が書ければそれでいいと思うようになっている。
『クローズアップ現代』ではジャーナリズムの価値やクチコミ広告の価値などがブログに期待されていると伝えられていた。まあ、これはネットができてホームページが生まれたときから予測され、期待されていたことだ。マスコミは巨大な組織であり企業体であるから、そうでない一般の人の意見やホンネを聞きたい。それがホームページやブログに期待されるのは当たり前のことである。
ネットやブログはメディアの民主化や大衆化をひきおこすのである。専門家や一部の人たちだけに独占されていたメディアが一般の人に共有されるのである。車がむかし金持ちだけのモノであった時代から一般の大衆にゆきわたったように、メディアも民主化がおこなわれるのである。
アルファブロガーの存在はネットができたときから予測されていたことだ。このような人たちを生み出しながら、ネットは巨大メディアより信頼でき、等身大としての一般の人たちのメディアとなってゆくのである。
巨大メディアはあまりにも一般人からかけ離れているのである。それはそうだろう、新聞社にしろテレビ局にしろ出版社にしろ、あまりにも巨大で大掛りな組織や設備が必要だ。そんな組織や集団が生み出す集合的でタテマエ的な情報や意見など信用できたものではない。個人が感じる声のほうがよほど親近感や信頼がわく。
いまはまだまだアルファブロガーの存在や情報が入ってこないという気がする。どこにどんな人気の人がいて、どんな評判の人がいるのか、すぐに情報が手に入る段階ではないと思う。知らなければまったく知らない。ソーシャルブックマークや人気サイト情報がもっと手近に入る時代までまだ時間がありそうである。
まあ、マスメディアの時代ははやく終わってほしいものである。少数の人だけが少数の意見を語る。あるいは宣伝する。そして強制される。そんなマスメディアははやく退場してほしいものである。車やバイクに乗り始めたら、電車やバスの窮屈さや不自由さにもう帰りたくないというものである。ブログのメディアはもっと自由な意見や思想を広げることだろう。
私は30歳になるまでマスメディアしか知らない世代として育った。マスメディアの強制力や影響力にはそうとう腹を立てていた。だからネットのような自分の意見が気軽に述べられるネットの登場にはたいそう喜んですぐに飛びついたものである。ネットの影響力はまだまだだろうが、若者たちのあいだでマスメディアの影響を大きく凌駕する時代がはやくきてほしいと期待するのである。
さらばマスメディア。はやくマスメディアが郷愁される時代になってほしいものである。
新刊・注目本情報 2007年5月刊
講談社学術文庫 2007年5月刊




ちくま新書 2007年5月刊





『現代の貧困』が注目ですね。『フューチャリスト宣言』も梅田望夫と茂木健一郎の異色の組み合わせですね。
ちくま学芸文庫 2007年5月刊






『山の民川の民』が読みたいかも。
講談社学術メチエ 2007年5月刊


たしかに『合理的とはどういうことか』と思う。
筑摩書房の注目本
ちくま評論選―高校生のための現代思想エッセンス

これは読みたいかも。

どんな本を紹介しているのでしょうか。
河出文庫の注目本
記号と事件―1972-1990年の対話

ドゥルーズのインタビュー集が文庫で出たからお買い得? その前に理解できるか。
吉川弘文館の注目本

その他の注目本




「少女」の誕生と変遷ですね。

なかなかリアルそうな労働の現場。

オバサンの経済効果ってどんなものだろ。
『あなたのなかのサル』 フランス・ドゥ ヴァール
![]() | あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源 フランス・ドゥ ヴァール (2005/12) 早川書房 この商品の詳細を見る |
社会生活という点で見ると、チンパンジーもボノボも人間とちっとも変わりはないのだろう。かれらの社会生活は人間がやっていることとまったく同じである。むしろ権力闘争や序列、争いなどの関係をよりはっきり見せてくれる。人間はそのことを隠すから、こういう観察記からあからさまな権力関係を知りたくなるのである。
チンパンジーはTVで見ていると愛嬌がありこっけいなイメージをもっているが、集団関係では攻撃的で暴力的である。権力闘争になるとほとんどケンカによって決まる。もちろんほかの集団の支持や支援も必要だからグルーミングやらあいさつやら、ケンカの仲裁やらも欠かせないが。
人間がこのチンパンジーの序列の中で生活するとなったら、どのくらいの地位につくのだろうと思う。腕力ではヴァールによるとまったくかなわないらしい。暴力ではやられるからひたすらみんなのご機嫌とりにうかがって、序列の下位に甘んじるのだろうか。アーネム動物園の強いラウト、暴れん坊のニッキー、老獪なイエルーンの中で、どのような役割を果たしたのだろうか。
ボノボはほと








