『人体 失敗の進化史』 遠藤 秀紀
遠藤 秀紀

この本に興味が魅かれたのは、いまあるものをないものと見なす哲学的発想があるからだ。われわれの身体に当たり前にある心臓や肺、耳や骨というのは、進化のはじめの生き物にはなかったものである。それがどのようにつくられていったのか、いったらありあわせのパーツで設計がどのように変更されていったのかを探るのがこの本である。歴史のパースペクティヴでみれば、ふだん気づかない身体の機能や用途がよくわかるというものである。
たとえば有名な話では、足のなかった魚にどのように足がつくられていったかということである。水中で器用な動きをするためにひれに骨が入れられ、そのさいしょの用途から離れてそのひれは陸に上るための足に変更されてゆくのである。
心臓もむかしの生き物にはなかった。ナメクジウオでは血管の壁に心臓の筋肉がばらばらに存在するだけである。肺ももちろんなかった。水中ではえらが酸素をとり入れるはたらきをしていたから、うきぶくろが陸で息をするための役割をになってゆくのである。
耳も太古から当たり前にあったように思いがちだが、振動は水中を伝わるのでその振動を集めればよかった。ワニも地面の振動を集めればいいから、耳がない。地上に立った者は空気の振動を拾うためにてこの原理で振動を増幅させる耳をつくったのである。この骨はありあわせの蝶番の骨から拝借し、その代用を側頭骨と歯骨で間に合わせたのである。生命の進化というのはいかにありあわせの材料でその場をしのぐかという、設計変更がくりかえされるいきあたりばったりなものであったのである。
われわれが知る身体の役割や機能というのは、いまあるものだけを対象にしている。そのためになぜその機能が必要になったのか、用途や役割を深く問うことがおろかそになる。身体のパーツの進化史をひもとけば、それが必要になった理由や、どのように身体に変更を加えていったのかが明瞭になってくる。
なによりもわれわれの身体にあるほとんどのものはむかしの生命にはなかったことが驚きである。賢固に当たり前にあるわれわれの身体も、さいしょに「無」であったことを知ることは、知識の常識というものをあっけなく捨て去るものである。これこそ知の根本的な役割というものである。
それにしてものこる疑問は、いったいこのような身体の設計変更や製造工程はどこのなにが施すものなんだろうかということである。身体に関しては「意識」あるいは「私」というものはいっさい関与しないし、できない。意識というのはその身体に間借りしているものであり、この設計製造にいっさい関われない。生命はどのように環境に有利になるような機能をつくりだしてゆくのだろうか。身体自身が知識をもっているいうのだろうか。あるいは細胞自身が。意識はその知識と関われないのである。それが当たり前の世界に住んでいながらである。だから人間は言葉でその世界を再構築しなければならないのである。
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『輸入学問の功罪』 鈴木 直
![]() | 輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? 鈴木 直 筑摩書房 2007-01 by G-Tools |
題材は魅力的であったが、つまらなかった。むずかしいというか、わかりづらいというか、近代の思想史につきあわされたくないと思った。いっぱんの読者にもわかりやすい翻訳をという著者がこんなアカデミックな理解しにくい本を書くとは皮肉なことである。
私も哲学や思想の難解さにはへきえきしてきた。理解できないもの、興味のないものは、自分自身にとっては読んでもムダというふうに切り捨てるようになった。ふつうの人は自分の無知さや勉強不足を嘆いたりするものだろうか。それが翻訳のせいだとしたら、だいぶ救われる話なのであるが。
やはり哲学の翻訳本は訳者自身が自分で翻訳しておきながら意味がわからないことがあるみたいである。なおさら読者には難解であろうと言い放つ。学生によくあるように辞書の単語をつなげていって、日本語の体裁をなさない文章をつくって、自分でも意味が理解できない。アカデミズムは原文の構文がくずれないこと、一語一語対応、一文一文対応の原則を守るあまり、読者にわかるような日本語を二の次にするのである。
この本は商業主義からはなれていって、アカデミズムに閉じこもる過程をドイツと日本の近代史に探るわけだが、私にはこの近代史がつまらなかった。どうでもいい話に長々とつきあわされる気がして、かなり倦んだ気持ちになった。
翻訳本に泣かされてきた経験は多くの人がもったであろうから、魅力的な題材であるから残念なことである。近代史につっこむより、こんにちの翻訳の誤訳やトンデモ訳などをあげつらって、アカデミズムを笑ってくれれば、もっと楽しかったかもしれない。
哲学書や思想書がわからないのは翻訳のせいだと悪者呼ばわりしてくれれば、だいぶ溜飲が下げられると思うのだが、思想が難解になるのはヨーロッパでもそうであり、たぶんに仏教の経典がいまだに外国語で読み上げられるように権威主義と専門主義のハクがつけられやすいからだろう。
商業主義からアカデミズムを笑うこと、批判することは大切な視点だと思う。哲学や思想は多くの人にとっての人生の糧となるはずなのに、難解さの上にさらに意味のなさない翻訳を読まされるのはおおくの人にとっての損失である。学校という社会保障がさらに商業主義をはばむ。まともな日本語で、お金を払う人にたいする責任を果たしてもらいたいものである。読書のわれわれも翻訳書は国に守られ、まずいコーヒー、冷めたラーメンを食べさせられる国営食堂だったという自覚が必要であるということである。
『不死と性の神話』 吉田 敦彦
![]() | 不死と性の神話 吉田 敦彦 青土社 2004-10 by G-Tools |
大和にのこる古代レイラインの探索をしているうちに死と再生という信仰が重要な鍵をになっていることがわかりだしてきた。死んで甦る。それは毎日の太陽にくりかえされることであり、作物もそうであり、また天皇の古墳にもそのような願いがこめられた。
神話はそういう死と再生の物語を現代にも語りかけている。日本神話にまったくひどい食べ物を身体からつむぎだして、汚いといって殺される神の存在をご存知だろうか。『古事記』ではオオゲツヒメ、『日本書紀』ではウケモチという女神である。
口や尻から食べ物を出してもてなそうとして、怒りを買って殺されて死んでからも身体の各部からも食べ物が生まれるという存在である。なんでこんなヘンな神が語られるのかというと、これは世界中で信仰されてきた大地母神のことをあらわしているのである。
大地母神というのは人間が暮らしていくのに必要なありとあらゆる物をいくらでも自分の身体から出してくれるありがたい女神である。農業の営みというのはその母なる大地の身体を燃やしたり傷つけたりする行為である。大地はそのような犠牲を払って人間に必要なものを産み出してくれるのである。縄文中期の母性を強調した土偶がほとんど破片となって発見されるのは、そのような信仰を語っていると思われるのである。殺されることによってわれわれに生の恵みをもたらす――日本神話の奇妙な女神はそのことを語っているのである。
そのような大地母神の信仰はクロマニヨン人の洞窟画からも発見されている。洞窟の困難で長い道をへた広間に狩の獲物が描かれている。そこは大地母神があらゆる生の恵みをもたらす大地の子宮でり、太古から人類はそのような場に感謝と再生の願いをこめていたのである。そしてそれは大地のはたらきを人間の性や誕生を重ねることでもあったのである。
太古にはひんぱんに女性の乳房や尻、性器が豊満にデフォルメされた像がつくられている。人間の性は豊穣や再生を願うものであったのである。それが後期旧石器時代になると旺盛な生殖力や繁盛性が淫乱な娼婦とそっくりと見なされるようになるのである。見境なしに男と関係をもとうとする淫乱な娼婦という存在に堕とされてゆくのである。そしてわれわれは身体から食べ物を出すという女神の存在を理解できなくなってゆくのである。
作物の神は無残に殺されてわれわれに生の恵みをもたらす。死んで地下の世界に行かなければならない。そしてふたたび春になれば、新しく生まれ、そのことを毎年くりかえす。人間の性と誕生はそのつなぎ目であったのである。世界の死と再生に、人間の性と誕生が重ねられていたのである。
以上のようなことがこの本からわかった。大地と作物の死と再生のテーマはまだもうすこし探究してみたいと思わせるものであった。こんにちでもまだ決して滅んでしまったものではない古代の世界観が理解できると思うからである。
『タバコ有害論に異議あり!』 名取 春彦 上杉 正幸
名取 春彦 上杉 正幸

私は一日一箱喫う喫煙者であり、禁煙がひろがってゆくこの世の中はいったいどうなってしまったんだろうと思っていた。喫煙者が病気ではなくて、社会が病気なんじゃないかと思っていた。人が好きで喫う嗜好品を奪いとる世の中はどうかしていると思っていた。
医者がいう肺ガン説なんて、なんで先に工場排煙や車の排気ガスのほうをもっと悪者扱いしないのかと怪訝に思うし、医者は人を脅かさないと儲からないのだからいちいち真に受けるのは愚かだし、人の好きなものを奪いとる社会なんてよほどみんなが好きなことを奪われている社会なんだと思う。まあ、でもどうでもいいことなんだけど。
禁煙がエスカレートする世の中で、ようやく医者と社会学者からの反論本が出たという感じだ。こういう意見はぜひご拝聴したい。
まあ、社会的には伝染病から慢性病の時代になり、「感染しなければ健康」という単純な健康観から「異常がないのが健康である」という健康観になったためにどこまでも異常を見つける世の中になったということだ。異常を排斥する底なし健康観のなかで、複雑に要因が絡まった慢性病相手に、ひとつの要因を最大の原因に仕立て上げたのである。慢性病の時代に健康と異常の判断は不可能なのである。
医者からはたばこが肺ガンや喉頭ガンに結びつくという統計データのウソっぱちを暴いている。喫煙者がすべて肺ガンになるとは限らないし、たばこを吸わない人でも肺ガンにかかるのである。またきれいな肺と喫煙者の肺をくらべた写真があるが、健康人の肺は出血した肺を正常だと載せる過ちをおかしているのである。たばこの煙は水蒸気やタールであって肺に蓄積されることはない。
まあ、どちらが正しいとかどうでもいい。禁煙をヒステリックにエスカレートする社会のほうがアブナイと思う。
嗜好品として日本人はお酒に寛容な社会であるが、むかしアメリカでは禁酒法が成立してアル・カポネなどのマフィアを肥え太らせた愚かな時代がある。ふたたびそのような時代になってしまったのだろうか。なにか社会の異常のシグナルと捉えたほうがよいのかもしれない。
もちろんだからといってたばこをプカプカ喫いまくるのがいいわけがないし、嫌煙者のためにはマナーを配慮すべきだし、私もたばこは喫いすぎないのに越したことはないと思っている。
だいたい人の好きなことを奪いとれると思う社会のほうが誤っているのである。人生の喜びや楽しみを人から奪いとるという暴力に、社会はもっと警戒すべきなんではないかと私は危惧するのであるが。
といっても会社なんかでは仕事の負担が増えてくると、まずは楽しそうに談笑している人がまずは怨まれたり、憎まれたりするものである。俺はこんなにしんどい思いをしているのに、あいつはなんだとなる。そうして会社の集団は楽しそうな雰囲気が抹殺され冷ややかになってゆくのである。
このような嫉妬のメカニズムを社会に敷衍してみれば、みんななにかの負担に押しつぶされそうになっていて、ガス抜きとして人の楽しみであるたばこがターゲットにされたということが浮かびあがる。その深層に隠されている負担――人の楽しみを奪い去るものにまず焦点を当てることが大切なのかもしれない。まあ、これは高密度な労働かもしれないし、高負担な税金や社会保障かもしれない。われわれは禁煙運動よりか、たばこを怨む人の心理メカニズムを見つめるべきなのかもしれない。
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無縁社会と孤独死

2005年9月にNHKで放映され話題になった『ひとり団地の一室』という番組の再放送をみた。千葉県松戸市のニュータウンで孤独死があいついでいるという。大阪市でも孤独死は85年から三倍にも増えている。40代50代の働き盛りもふくまれるのである。
一人世帯はこの5年で12%増え、高齢者は三割近く増加しており、一人世帯は三割に達している(統計局)。近所に付き合いや話相手もいない老人も増えており、まさにこの社会は「無縁社会」となろうとしているのである。
いぜん風間茂の『ホームレス人生講座』(中公ラクレ新書)という本を読んだが、ホームレスも血縁や社縁から断ち切られるから路上に放り出されるのだとのべていたが、この孤独死も同じような人とのつながりがまったくない無縁社会から発生しているのだろう。
私も数年前、貯金だけで失業期間を半年ほど過ごしていたことがあったが、毎日ほとんどだれとも口を聞かない日々がつづいた。会社や仕事からはなれると、街中では人とのつながりをまったくなくす世の中がひろがっているのである。失業した中高年や定年になった高齢者もこのような日々を毎日送っているのだろうか。
戦後の日本人は田舎から都会に出てきて、会社だけのコミュニティをつくり、近所とのつきあいを断った関係をつくりあげた。田舎の因習的な関係を拒否し、核家族に自由と幸福をもとめるライフスタイルを築いたのである。そしてお金と仕事だけで人とつながる関係をつくり、近所には知り合いのいない街をつくりあげたのである。会社から離れると人はたちまち孤立した個人として放り出され、だれともつながりのない世の中に住まうことになったのである。
たしかに近所とのつき合いはっとうしいものである。監視されているような息苦しさがあった。会社でのつきあいにわずらわしい思いをし、仕事でくたくたになって、近所で人とつきあう余裕もなかったのだろう。しかしそんな世の中で失職したり病気になったりしたら、近所ではだれとのつながりもないのである。そうして世間から忘れ去られるように生をひっそりと終えるのである。
戦後の人たちはなにをまちがったのだろうか。このような人生の終わり方は戦後日本の大きな過ちの結果だったのだと思う。
私はいつもの自分の主張で申し訳ないと思うが、やはり戦後の「経済至上主義」と「会社中心主義」のせいだと思う。会社と労働に「国民総動員体制」がかけられたために、われわれは会社以外のコミュニティをつくる時間も余裕も奪われたのである。会社だけがコミュニティであり、共同体であるシステムをつくりあげてしまった。それは人間らしい生き方の強奪であり、人間としての生活を奪うシステムであった結果が、この孤独死なのである。せめて会社以外の比重がかけられる社会であったら、このような人生の終末は防げたのではないかと思う。
貨幣経済の進展も人との関係を断ち切っていった。農業社会で大家族で自給したり、近隣で食べ物を融通しあったりする関係も断ち切られ、お金とサービスで買える関係だけに置き換わっていった。家族や共同体は解体され、金とサービスで買える関係だけに個人は切り離されていったのである。
それは便利で効率的なものであったが、代わりに人とのつながりや縁をぱらばらにする関係でもあったのである。そのような貨幣サービス関係だけでは死は看取られることはないし、個人の行状が知られることもない。効率的で自由な個人主義は人の生き死も自由であり、そして無視されるのである。われわれはこの効率的であるが、生死も見捨てておかれる社会に今後も将来をたくすべきなのだろうか。
先ほど読んだ広井良典の『持続可能な福祉社会』(ちくま新書)に、この孤立したコミュニティ論に一章が割かれ、「コミュニティとは、本来「死」という要素を本質に含むものであり、同時にまた、”「死」を含むコミュニティの再構築”が現在そしてこれからの日本社会にとっての大きな課題なのではなかろうか」とのべられている。
この本には先進国の社会的孤立を比較したデータがあり、家族以外に人と会う頻度をあらわしたものだが、日本では16%ほどの人が人と会わないとされており、ほかの国に比べてダントツである。アメリカやオランダ、イギリスなどは6%〜2%におさまっている。日本がいかに孤立した無縁社会になっているかということだ。
日本人は自分の知らない人に対してのコミュニケーション技法や能力をまったく発達させてこなかったのである。そのような結果が死後のタイムラグをへての発見となってしまうのである。近隣とつきあいのない快適な関係が、孤独死という人が死んでも見捨てられるような痛みや悲しみをわれわれにつきつけるのである。つまり人が死んでも放っておかれるような社会や地域をわれわれはこれからも継続させてゆくつもりなのか。
葬式というものは、不思議なものだと思うが、死んでしまった本人は葬式がおこなわれている自覚はすでにないはずである。どちらかというと、残された人の悲しみや慰めのためにおこなわれるものであり、または生前の本人の安らかさをもたらすものであろう。孤独死は残ったわれわれにえもしれぬ悔恨を与えるのである。
われわれは戦後に都会に出てきて、近隣とつきあいのない自由で効率的な社会をつくったが、そのような社会には孤独死という痛みをわれわれにつきつけるのである。会社とお金の関係だけでは、われわれは人としての関係を築いているいるとはいえない。隣人が死後何日もたって発見されたとしたら、私たちにとってどんな痛みや悲しみをもたらすものか、考えてみなければならない。
私たちは近隣とのつきあいのない関係の中で孤独死やホームレスをたくさん生み出しているのである。いまでも孤立や孤独の中で生きている人もたくさんいるはずである。われわれはそのような痛みを放置したままでも、近隣とのコミュニケーションやつながりを断った関係をつづけてゆこうというのだろうか。
日本人は知らない人に対する、身内に対する「ソト」の人に対しては冷酷で冷淡すぎる。このような行動様式がいま、ぼろぼろと孤独死やホームレス、または困窮した人たちを生み出しているのである。われわれは不快で窮屈にならない近隣とのコミュニケーションや関係を新たにつくってゆかなければならないのである。
老後や健康の社会保障というのは国家や会社だけが与えられるものではない。家族や親族だけが頼れるものではない。近隣や共同体こそがまず担わなければならないものである。私たちはそういう自覚と覚悟があまりにも薄かったのではないだろうか。
原付の免停と法定速度について
ねずみ捕りの現場にてぱちり。座席がずらりと。去年12月にスピード違反でつかまった。大阪から滋賀の近江八幡にいく遠出の途中で、国道一号線のねずみ捕りにほかの車がぼろぼろつかまるのといっしょに一網打尽にされた。27キロオーバーで、12000円の罰金。
去年の三月くらいにも21キロオーバーで白バイにつかまって初心者講習をうけ、6点を超えたので「行政処分の出頭通知」がきた。はじめての免停です。こんかいは期間を短縮させる講習は受けないつもりだ。お金がアホらしいし、もう原付という免許には愛想が尽きた。
原付なんか30キロの法定速度を守れないのは当たり前のことである。30キロで走るのは車の迷惑と邪魔になることであり、路注の車をよけれないし、右車線の車の流れにも乗れないから右折もとうぜんできない。交通事情を知るにつれ、このアホらしい法定速度を守る気なんかなくした。原付であれ、車といっしょの道路を走るのだから速度制限は同じ速度にするべきである。
なぜこの法定速度は変えられないのだろうか。ネットで調べても不明だが、時間が止まっているとしかいいようがない。それとやはり警察の罰金収入のウマみが大きいのだろう。原付はヤクザさんのカツアゲの最大のカモである。現今の交通事情を無視した交通法規にはそういう利権があるのだろう。
速度制限はほんらいは交通事故を防いだり、安全のためであろう。私も原付のゆっくりしたスピードの安全性は魅力的であると思うが、車のスピードというのは速度制限をほどこしても守られるというものではない。自生的秩序というものがある。
それをつかまえて罰金や免停の罰則を課すことは、けっきょくは怨恨や憎悪を生み、果てしない対立関係といたちごっこを生むだけであり、中高生のような禁止と規則の破壊を快楽と大人の仲間入りと見なす認識をつくりだすだけである。
つまりは速度制限なんて意味のないものであり、あくまでも努力目標にすべきであり、罰則なんてたんなる公権力の金銭強奪にしかならないのである。とりしまる警察が怨まれるばかりである。注意だけならどんなに気持ちが和らぐことか。車道の安全秩序はドライバー自身たちにゆだねるべきである。罰則はあきらかな危険行為や暴走行為にとどめるべきである。
速度制限や罰則は安全や正義という美名のもとおこなわれるが、金銭強奪の集団をつくりだしているだけであり、法定速度が守られることはまずない。法律や罰則は効果がない。交通法規はたんなる公権力の暴走や迷宮入りを生み出しているだけに思う。
ただ交通の安全を守ることはほんとうに大切なことだと私も思う。年間一万人も死者を出している交通事故はぜひ防がなければならない。しかし速度制限や罰則は向かう方向が違ってしまうし、見えないところでは違反が当たり前にはびこるのである。安全は罰則であるより、車の性能自体に速度制限が設けられるべきなのかもしれない。
交通罰則は街中をふつうに歩いていて、いきなり職務質問されたり、あらぬ嫌疑をかけられりすることと同じ不快感がある。交通法規という不自然な設定値を設けることにより、ヤクザに言いがかりや上納金を納めているような気になる。このような権力を乱用した交通法規は、市民のためというよりか、市民の敵や怨恨をつくりだしているだけのように思う。
もう私は原付の免許とかかわりたくない。自動二輪をとるべきだと思う。といっても仕事がある人間に容易に教習所や試験に通えるわけでもない。自転車の自由と気楽な乗り物にもどったほうがいいのかもしれない。交通法規と罰則は小市民の自由と安楽を奪いとるだけである。原付に乗ってはじめて警察という存在がいかに不快なものなのかよくわかった。
『持続可能な福祉社会』 広井 良典
広井 良典

61年生まれの若い著者であるからさすがに時代の変化をしっかりと捉えているし、たぶんこの年代あたりの世代から大きな時代の断絶を身をもって感じとっていたのだろう。それ以前の世代はこれからの社会の変化を乗り切ってゆけないのだろう。
ラディカルな哲学考察もあって、こういう人に国の舵取りをお願いしたいと思うところだが、ベーシック・インカムのような国民に最低限の所得を保障するような、なんでもかんでも福祉でまかなわれる発想はよくないと思う。福祉には「恥」の感覚が必要だと思うし、財源はどうなるのか、ローマ崩壊のようなモラル・ハザードを導かないかと思う。
この人の唱えている「定常型社会」はひじょうにに重要な概念であるが、つまり需要も成長も頭打ちになったポストモダン社会のことをいっているのだが、どうも社会がすっかり変わってしまったという認識がこの社会には薄いのではないか、というか忘れられていると思う。
これほど重要な転換が何十年も前からおこっているのに、いままでと変わらない成長経済を期待する国民や政治家たちはいったいなにかと思う。この基本認識が欠如しているために社会はトンネルのような閉塞感に囚われつづけているのだが。
需要が拡大しないのだから「成長による解決」は赤字を増やすのみだから、これからは労働時間の削減が失業率の減少につながり社会的善になる。働けば働くほど失業率が上る時代なのである。パイが大きくならず、定常化する社会には大きな発想の転換が必要なのだが、その前提である社会の断絶をみんな認識していないから、この社会は転がり落ちるのみなのである。なんでみんな「近代」や「昭和」は終わってしまったということに気づかないのだろう?
この本で唱えられている人生前半の社会保障という発想もおどろいた。たしかに若者の失業率は10%近くになっており、当たり前に福祉の対象となる老人より相当な危機を迎えているのだが、この世代の福祉が考えられることもなかった。これはたしかに発想の転換が必要であるが、ただ福祉に守られる青年の中から強靭な精神や成長は見込まれるとは思えないし、他人に決められ指示される人生の息苦しさやつまらなさも配慮が足りないな。私はだから福祉が嫌いである。福祉は申し込み制にしてほしい。
コミュニティ論の章もなかなか心に響くものがあった。日本人はウチには思いやりやいたわりの繊細な心遣いをはたらかせるが、ソトの人となると冷淡で無関心である。戦後の日本人はウチのコミュニティを会社のみにつくりあげてしまったために、街中にまったくつながりのない孤立した個人を数多く生み出した。ホームレスだってその無縁から生まれたといわれる。
会社のコミュニティからはじかれてしまうと、まったく孤立してしまい、近所の人ともつきあいもなく、孤独死が増えたりするのである。孤立の度合いは先進国でダントツである。日本人はこれからソトの人に対する新たな関係性をつちかわなければならないというのは、まったく同感である。だから会社のコミュニティの価値観だけが突出してしまって、ほかに拮抗する価値観や共同体をもてないのである。私たちは街中のつながりというものを芽吹いてゆく必要性を胸に刻むべきだ。もちろんうっとうしい近所づきあいを乗り越えるものにならないとだれもコミュニティに還りたいとは思わないものであるが。
私たちは近代という成長の時代を終えてしまい、需要も成長も見込めない時代に突入してしまったのである。問題を成長頼みの解決にゆだねることもできなくなってしまった。大きくならないパイをみんなで分け与えなければならなくなった。そこから労働時間削減やワークシェアリング、そして自由な時間をもつことによる人生の豊かさや人間らしい生き方の無限の可能性が展けてくるのである。若者はその変革待ちのために何年も社会の席を見つけられないのである。
私が夢に思っていた社会のあり方は、この「定常型社会」という概念のすぐ一歩先にあったのである。私たちはこんな豊かな社会の行く末を目の前に控えておきながら、旧態依然の成長経済の亡霊しか頭に思い描いていないのである。いかに貧困な人たちの集まりであることか。たぶん59年の宮台真司あたりからは新しい時代をつくってゆけるのだろう。いまの45歳前後の人が社会を変えれらるかもしれない。
村上龍もだれも近代化が終わったことの自覚がない、アナウンスしなければならないと98年にいっていたが、いまも状況は変わらない。この著者にはぜひ「定常型社会」という概念でがんがんとアナウンスしてほしいものである。TVの公共放送機構で宣伝してほしいものである(笑)。たぶん前戦争のような明確な区切りがないからだろう。「戦争」が終わったと知ってはじめて、人は新しい世の中の期待を心に描けたのである。
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『古墳のこころ』 保田篤也
『古墳のこころ―古代日本地図・行基図に秘められた国造り達』 保田篤也
筑林書林 2004/1 1500e

amazonで買ったから、書店で見つけていたら買わなかったかもしれない。アマチュア史家の書いた本で、構成がよくわからないし、小説形式がまずい。行基図の設計やかごめ唄の謎が解けたというふれこみだったから、探究中のレイラインのことかなと思っていたら、どうもその箇所も少ない。せっかくの愛好家の本をけなして申し訳ないと思うが、私の感じとしてはどこにもいけない。
『超古代巨石文明と太陽信仰』 野島芳明+エドワード野口
『超古代巨石文明と太陽信仰』 野島芳明+エドワード野口
日本教文社 1998/1 1524e

日本には神社や山岳を結びつける太陽信仰の痕跡があちこちに残り、現代でも天皇の皇祖神は太陽神である。太陽信仰は日本だけではなく、古代エジプトやマヤ文明、イギリスのケルト民族など、世界的に信仰されていた。はたしてこれらの太陽巨石信仰とよべる文化圏に交流や伝播はあったのだろうか。
この二十年間の間に数々の証明によって古代の人々が遠大な距離を交流していたことが学者の共通の認識になってきたようである。インダス文明の人びとがシュメールや地中海のフェニキア人と交易し、ヨーロッパやアフリカ、アメリカ大陸まで広がっていたことが発見されている。そのような中で巨石太陽信仰は前5000年前ほどから前2000年前ほどに世界中を覆いつくしていたようである。
ローマ帝国のヘブライ人とアメリカテネシー住民の先祖とは直接的な接触があり、オクラホマなどではケルト語を話す天文学者がいたそうだ。ミシシッピーにはエジプトやリビアからやってきた指導者たちがいたそうだ。日本のペトログラフ(岩刻文字)はシュメール文字やシナイ文字で解読されるということである。このような世界的規模での交流の中で太陽巨石信仰はおおくの地域で信仰されていたのである。
しかし神とともにあった時代は紀元前2000年ころからカオスをむかえ、神と人間が分離した時代をむかえることになる。紀元前500年前後の老子や孔子、ゾロアスター、ブッダやソクラテス、プラトンなどがあらわれる時代である。精神革命がおこり、太陽巨石信仰は世界じゅうから影をひそめてゆくことになったのである。
日本はこのような趨勢の中で天皇や皇祖神というかたちで太陽信仰をこんにちまでつたえる珍しい国家である。この著者はその伝統を称揚するようなことをいっているが、私はそんなことはあまり意味がないように思うのだが。太陽や神とともにあるパラダイムがこんにちで通用するなんて思えず、不可能だろう。太陽信仰は空間の崇高性を垣間見せてくれるから心躍るのだが、それ以上のイデオロギーに敷衍するべきではない。
なおこの本は書店で見つけられず、私にとってはamazonでの初買い物である。一週間ほどでとどいた。
無償経済の可能性と貨幣経済の欠陥
はてなアンテナでチェックさせてもらっている「まなざしの快楽(旧題「溢るる汚物」)だが、こんかいの「なぜ「生産消費者」は非金銭経済を目指すのか」で、金銭経済と非金銭経済という分けかたに興味をもった。
未来学者トフラーの言葉「非金銭経済での活動が金銭経済に与える影響は、ますます大きくなっていく。金銭を使わないまま、多数の必要や欲求を満たしている。」をうけての考察であるが、私は他人の考えをなぞるのが苦手なので独自に考えたい。
ネット社会は知識がどんどん蓄積されていっているのだが、無償労働が増殖していて、YouTubeなどで著作権保護が問題となっている。知識や情報というのはそもそも所有化できないものである。独占専有化できない。物体ではないし、交換できるものではないからだ。だから知識は書物やレコード、雑誌などと「物体」のあつかいをうけて、はじめて所有権・私有権があたえられた。または劇場や映画館、教室などのような空間の壁によって、商売として成り立った。
ネットはそのような物体や空間の壁をすべてとっぱらった上で成り立っている。だから貨幣経済が浸透できない。しかし知識や情報を私的占有するのは人間にとって好ましいわけがない。知識は共有されてこそ、大いなる価値を発揮する。これまでの貨幣経済は知識の独占専有化をもたらし、多くの人に知識の伝達をさまたげ、不利益を生んできた。ネット社会の非貨幣経済はそのような弊害をうきぼりにするだろう。学校の公立化はそのような不均衡の是正をめざしたものであるが、序列の再生産装置になるとは皮肉なことだ。
貨幣経済というのは物体の交換によって成り立ってきた。物体であるからこそ交換も可能であり、貨幣に換算されてきた。もとは食糧の交換に貨幣が威力を発揮したのはいうまでもない。食糧や物質は貨幣の交換にもとに価値を平準化・一律化され、その簡明なモノサシによって、市場経済は地球規模で拡大していったわけである。貨幣は人間の食料や物体の流通や分配を、簡潔になしとげていったのである。
貨幣サービス社会は金の価値をひとり高める。人間は種の存続や人生を楽しむために生きているのではなくて、貨幣の交換や貨幣を生むための労働に生かされるかたちになる。つまり貨幣至上化による編制がおこなわれるのである。金で測られる・金で交換できるものだけに価値がおかれ、それ以外のものはいっさい排斥されてゆく。人間は他者への奉仕・労働・承認のみに生きる存在ではないと思うのだが、貨幣交換のシステムはそれのみに価値をおく社会をつくってゆく。
自給自足経済・贈与経済・無償経済というものはどんどん駆逐され、人のあたたかみ、つながり、コミュニティは壊滅させられる。相互扶助の集団・地域も消え去り、分業化・専門化がすすみ、人はひとりで生きてゆくことができなくなり、イリイチのいう近代化された貧困(無能力)がすすむ。貨幣経済はその効率化のために人間という存在を機械労働化してゆくのである。まるでロボットの人生である。人間らしさを疎外された存在が労働者の目的になる。
貨幣経済は富者と貧者を生み、ヒエラルキーを生み出し、人生の不均衡や差別をつくりだしてきた。職に就けない者やお金のない者は冷酷無比に排斥するシステムである。効率化・ロボット化しすぎた人間は「働かざるもの食うべからず」という格言を正当化する。もちろん人間は他者の痛みを理解し、助けたい存在であるから、飢餓や乞食、貧困層を助ける意味でキリスト教や福祉団体、それらの機能をもった国家が福祉や貨幣の分配をになうようになってきたのである。平等や福祉の思想は貨幣が作り出す貧困不均衡や差別を是正するために生まれてきたものである。
貨幣は効率的に食糧や物体を均質化・一律化して分配するよくできたシステムであるが、かならず富の偏在や不均衡、貧困や差別を生み出すものである。この不幸を是正するシステムが国家に一極的に集中させられるようになったのが、近代国家や社会主義国家である。そしてその分配システムが市場経済の流れを分断・破壊するシステムであることが理解されるようになり、国家の分配システムが放棄されつつあるのがこんにちのありようである。
われわれは貨幣に勝る人類の流通・分配システムはないものだろうかと思う。貨幣のほかにこの分配システムは夢想できないものなんだろうか。われわれは貨幣というモチベーションと機能のみでしか、共同体のために奉仕できない存在なのだろうか。
ネット社会での非貨幣経済・無償労働の存在は、人間は貨幣のみのために生きる存在でないことを教えてくれる。または知識のように私的占有されるのではなく、共有財産として共有されたほうが人類に益するものがあるということも教えてくれる。贈与経済、無償労働というのは、貨幣経済が進展する中でものこっているものである。
貨幣という分配システムをあらためて考え直すヒントが非貨幣経済の中に垣間見えそうな気がするのだが、人類の分配システムは貨幣のほかの手段で可能なものなんだろうか。われわれは貨幣システムにあまりにも支配・制御されすぎている弱い存在すぎないか。人類は非貨幣社会で生きられないものなんだろうか。貨幣のほかの分配の可能性、そのような光はないものだろうか。
こういう神なら祈りたい――最明寺滝
私は磐座に魅かれるのだが、理由がわかった気がする。私は神社や寺の神仏を信じているわけではない。いってみても建物や仏像を拝めているだけで、ちっとも神性や実在性が感じられないのである。
それに比べて磐座は大自然の神秘性や荘厳さを感じさせるのである。こういう気持ちならわかる、祈りたいという気持ちになる。原始宗教はいまでは失われてしまった信仰の原点を教えてくれるのである。自然の神秘さには畏怖や荘厳な気持ちを抱かずにはいられないのである。
現代の神や仏にはこのような神は失われてしまっている。なんのために神社や仏が祀られているのかよくわからない。人為性や作為があまりにもつけ加えられすぎているのである。聖性の原点を教えてくれるということで、私は自然の神に魅かれるのである。
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阪急宝塚線山本駅から最明寺川をさかのぼると、巨岩がごろごろ転がっていて、このような岩場の陰にいきつきます。 |
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右手の岩場のくぼみには天地明王という祠が建てられています。ふつうこういう霊場は空海伝説が重ねられたりするのですが、ここにはいないみたいですね。 |
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最明寺滝です。おそらくこの滝も神として祀られています。川の源流は生命と誕生の起源でもあります。滝つぼはもしかして子宮でかすね? |
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その奥の岩場の深い亀裂には地の底に通ずるかのような不動明王が祀られています。大地の神がおそらくここに坐すと古代から思われてきたのでしょうか。くぼみは生命が生まれる女陰でもあります。 |
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ここにいると大地の神が地の底からうごめているような厳粛な気持ちになります。神仏とはそもそもこのような畏怖の感情から生まれたのではないかと思います。 |
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このような岩場の裂け目に最明寺滝や不動明王はあります。ここは生命の誕生である子宮でもあり、再生の場と考えられたのかもしれません。死んで再生する、古代信仰の要です。 |
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生命の源をつちかう水源地は守られるべき神域であったのはいうまでもありません。 |
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この巨岩は西宮市にある越木岩神社の甑(こしき)岩です。高さ10m、周囲40mもある磐座です。現代でもこのような巨岩を祀る神社はあるのです。 |
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甑岩より奥の高いところにある稚日女尊宮(わかひのめのみこと)の磐座です。後背地にある北山という神体山を祀る磐座であったのでしょうか。 |
▼最明寺滝と越木岩神社の地図
『エリアーデ著作集 第2巻 豊穣と再生』
『エリアーデ著作集 第2巻 豊穣と再生』 ミルチャ・エリアーデ
せりか書房 1968 2800e

10年ほど前から山に登っているうち、木や石や山が祭られている神秘的な場所をいくつも見かけ、「どうしてこれらが祭られているんだろう?」と疑問に思うことしきりであった。まったく感覚がわからない。日増しに謎に思う気持ちは強くなったが、それを解く機会になかなかめぐりあわなかった。
このエリアーデの著作にはしっかりとその謎を解く鍵が描かれている。この本は「宗教学概論」の第二巻である。うっかり古代史に走ってしまったが、宗教学にその答えがあるとは。私は原始宗教を解きたい。そのことによって古代日本人の世界観が解けると思うし、こんにち規定している世界観も見えてくると思うのだ。
この第二巻の「豊穣と再生」は「月と月の神秘学」、「水と水のシンボリズム」、「聖なる石――エピファニー、しるし、形態」、「大地、女性、豊穣」、「植物――再生の象徴と儀礼」という章からなっている。
月と水、石がなぜ祭られたのかこの本から明確にわかる。月は凋落して、人間と同様、死をもって終わる。三晩の間、星空には月が出ない。月は周期性をもち、人間の再生や新生の希望をもたらすがゆえに崇められた。蛇は脱皮(再生と不死)をくりかえすことから月の化身と思われ、人間の女性と交わる、または月を見ると妊娠するからといって、月を見ないこともあった。
水は形なき状態の回帰であり、水につかすことは、形の解消であり、新しき誕生でもある。水は宇宙的創造をもう一度くりかえすのである。罪を洗い清めると同時に、新しい創造、新しい生命、新しい人間を生み出す。
石は死を保護するものであった。石が腐らないと同様に死者の魂もいつまでも存在しつづけなければならない。魂は石の中に住んでいる。石は畑や女性を豊穣にするための道具であった。石は祖先の石化した霊であった。石の前で夫婦が性交するという風習があったそうだが、鉱物を有性化するためであった。新生児に石の穴を通過させる風習があった。神の子宮の誕生、太陽の再生、という意味があったそうだ。
土と子宮、生殖行為と農耕作業は多くの文明で同一視されてきた。大地は生命や豊穣を生み出す母でもあった。誕生前の胎児は洞窟、割れ目、井戸、木などの中に誕生前の生を送っていたとされる。水、水晶、石、木などに魂は生をはじめるのである。ヨーロッパでも現代でもなお子どもは沼沢や泉、川、木などからやってくるといわれる。非業の死を遂げた人間は植物、花、実といった別の形をとって生きのびようとする。人間は植物の新たな存在様態のつかの間のあらわれにすぎず、死は宇宙の母胎への帰還にほかならない。
以上は私が多くの事柄の中から数点だけを強引にとりだしたものだが、整理されないながらも、原始宗教がどのようなものであったか、片鱗にふれられた気がする。原始宗教といっても、われわれの生活や世界観のなかにまだまだ身近にのこっているものである。とくに山や古神社にいくとその痕跡がのこっているものであり、生活のサイクルにも色濃く残っているものである。
私は死と再生、死と豊穣の世界観をいちばん知りたかった。死と再生にこそ、世界観の要があると思うからである。死んで新たに甦る。そのような信念や祈願に人間の世界観は満ちていると思うのだ。自然界はそのサイクルによって支配されている。人間もその一部であり、そのサイクルを生きる。古代史の中に、あるいは現代の世界の中にもおおくの事例をそれを見つけることができるだろう。その要を深く知りたいと思うのである。
古代人はなぜ巨岩を崇めたのだろうか?
なぜか巨岩を祭る神社に興味が魅かれる。見ると圧倒されるというのもあるが、それ以上に巨岩を祭り、崇めた意味がまったくわからないのである。謎が私を魅きつけるのである。
また古代の太陽信仰の聖地にはかならず磐座が祭られていた。太陽とどのような関わりがあるというのだろう。ますます謎である。石を祭る原始信仰の意味がわかれば、古代人の世界観の根本が見えてきそうな気がするので、厳かな興味を抱くのである。
さいきん大阪付近でみつけた磐座の写真をいくつか紹介したいと思う。
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奈良県柳生の天乃石立神社の磐座。山の森の奥にとつぜんあらわれる切り立った人工的な岩の壁に思わず「これはなんだ」と思った。高さは6mある。 |
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横から見るとこのような角度で立ち上がっている。 |
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そしてこれが天照大御神。なぜ太陽の神がこれなのか。 |
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一刀岩といってげんざいは柳生一族と関わりのある岩とされているが、私はこれはむかしは女性器の象徴として崇められていたのだと思う。女性器は太陽や豊穣を生んだのである。 |
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巨石の多い山添村の神野山のなべくら渓。天の川を模してつくられたとされるが、はたして? 山添村いわくら文化研究会ホームページ |
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磐船神社といえば交野市にあるが、河南町にもあり、このような磐座が祭られている。 |
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これはあきらかにワレメのある女陰を祭っているのだろう。いまなら子宝祈願の岩だろうが、むかしは豊穣や再生が願われたと思われる。世界は女陰から生み出されるものだったのである。 |
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生駒市にある稲蔵神社の磐座。ぬぼ〜とした三角形の妖怪みたいだ。高さは6mもある。うしろ側はつたが幾重にも重なり合って、まるで脈打つ血管のようだ。でも男根と呼ぶより、おにぎり。 |
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生駒山系の高尾山山頂ちかくにある鐸比古(ぬでひこ)大神。河内が見渡せる景色のいいところにある。比古とは「日子」であり、「彦」になり、「日女」は「姫」である。つまりみんな太陽神の子なのである。 |
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たまたま通りかかって息を呑んだ吉野の岩神神社の巨岩。高さは十数mあるそうだ。岩というよりは崖である。 |
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交野市にある磐船神社の磐座。饒速日(にぎはやひ)が乗ってきた天の磐船とされる。いわゆる天孫降臨神話というものである。 |
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滋賀県の巨岩信仰の箕作山(みつくりやま)。太郎坊宮が中腹にあって、巨岩むきだしの山そのものが崇められたような奇怪な風貌をしている。 |
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わかりにくいが、生駒山系の岩戸神社。岩山がご神体とされており、となりの高座神社は天照大神を祭っている。太陽の神は岩盤のワレメから毎朝生まれると考えられていたのかもしれない。 |
▼紹介した磐座マップ
▼磐座にかんするリンク
磐座(イワクラ) 種々の石
磐座・巨石、磐座、巨石
岩石祭祀学講座
岩石信仰の対象とその祭り
イワクラ(磐座)学会 -Iwakura Study Society-

































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