ブログに移行したいけどできない。
前からずっとブログに移りたいと思っていた。コメントはつくし、トラックバックはあるし、ファイルの管理が便利だ。
私のサイトの最大の失敗はファイルの管理だ。いつくかの記事をまとめてひとつのファイルにまとめているために、検索した人がその記事の箇所にすぐに飛べないし、たとえば書評なら書名をタイトルにあげれば検索の上位にくるのだが、そういうこともできない。
ブログなら月別アーカイブとかカテゴリ、その記事だけと自動的に収納してくれる。手動でカット&コピーするのはめんどさいのである。新しいファイルをつくるのもかなりめんどうである。
ブログに移りたいと思うのだけど、最大のネックは過去のデータの移動である。私のサイトはもう8年もやっているから、過去ログは半端なものではない。一枚一枚コピーしていこうと思うのだけど、二、三件ですぐに挫折してしまう。過去ログを見捨てて、新しいブログに移れるほど、愛着がないわけがない。
「有名サイトがブログにしない理由を教えて」というはてなの質問があったが、やっぱり過去ログの移行の問題があるのだと思う。いったいどうやって何年もの蓄積を移動させて、ブログに移れるっていうんだろう。
たしかに初期のHP作成者には一方通行的な情報発信が好きな人もいるだろう。HPを従来のマスメディアのような受け手に送り手の意見を発信するものだと考えているわけである。
基本的にHP作成者は人の意見を聞くより、自分の意見をいいたいから作成しているものである。人のコメントをたくさん聞きたい人はマスメディアでも十分だし、チャットや掲示板でもいい。自分の意見をいいたい人はより本質的な一方通行的なHPに進むのである。だからコミュニケーション重視のブログになればなるほど、HP作成の意味がなくなるというものである。
私がHPをつくるのは自分の意見や考えを公表したいのがいちばんだが、人の意見や考えも聞きたいと思っている。むかしHPには掲示板があたりまえにあったが、私は導入しなかった。記事にたいしての意見が反映されにくいし、自分の現在の興味以外の話題にふりまわされたくないと思ったからだ。いまのブログなら記事にたいしてのコメントが付されるからいい。
しかし過去ログが多すぎで、さいしょの一歩がまったく踏み出せない。今回もいろいろなテンプレートを見比べて、FC2ブログに開設してみたが、二、三件のコピー&ペーストですっかりやる気をなくした。ちょっと画像がコピーできなかったりしたら、「も〜、やってられっかー!」となる。
ということでまた今回も地団太(?)を踏むだけの結果に落ち着いてしまうのか。あるいは過去ログをおいておいたままにして、身一つで新天地にのりだすか。
人が新しいことをできなくなるのは、過去に蓄積があるからである。この愛着が変化や創造をさまたげる。過去のない人ほど新しい創造ができるのはほかのことでもいえることである。これは学ぶべき教訓である。
いちばんいいのはホームページ・ビルダーにブログの全機能が補完されることである。できないかな〜、ホームページ・ビルダー。
『心はからだの外にある』 河野哲也
![]() | 「心」はからだの外にある―「エコロジカルな私」の哲学 河野 哲也 日本放送出版協会 2006-02 by G-Tools ![]() |
心理主義を徹底的に批判したすさまじくすばらしい本である。革命的と思えるほど興奮して読んだ。ただし第三章あたりまで。
現代は「自分探し」や個人の内面に問題を探る風潮が支配的である。まるで政治や社会、経済になんの問題もないかのごとく、ひたすら個人の内面が問題にされ、ただその当人のみが悪いとされる時代である。
若者は怠惰でやる気がないからニートになるといわれ、雇用情勢が問題にされない。十代の少年が連続的に犯罪を起こしてもマスコミや心理学の知が問われることもなく、ただ当人の内面だけが問題にされる。下流階層化は当人の社交性の欠如のせいだといわれるが、雇用や社会情勢の変化は問題にされない。まったく個人の心理の責任ばかりに帰せられるのである。
私も十代や二十代に強く心理学に興味をもっていたが、そのうちに心理学の内罰的な傾向や自分を異常視してしまうことへの疑惑をもつようになった。なんで私の心ばかり責められて、社会や経済のせいにされないのだと。(「あなたの心が悪いのです」断想集 2000/2/29.) 問題の原因は社会学や経済学に求めるほうが妥当と思うようになった。
この本はそのような心理主義を徹底的に批判した本である。痛く感銘した。感嘆の声をあげながら読みたい気分だった。しかもこのような心理主義はデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」の主観主義哲学から導かれた帰結であるという壮大な歴史も提出する。人間の本質は心であると規定したのはデカルトである。
「自分探し」がブームになっているが、それを心理学に探ろうとする人は多いが、そもそも心理学は、医療上の要請や産業上の有用性の基準から求められてきたものである。つまりは病的概念のオンパレードであり、そんなものを読む私は病気だらけであり、そして産業社会の成功と失敗の選別だけで自分を値踏みする頭をつくってしまう。心理学など政治的なイデオロギーに過ぎないのである。しかも内へ内へと向かう説明方式は、社会からまったく孤立した心というものがあるかのようである。
人が自分の性格を知りたいということは、自分の行動特性を知りたいのではなくて、自分の行動傾向を変えたいとのぞんでいるのである。それなのに内面に「私」を探そうとする者は、自分の内面深くに行動の指針を与えてくれる社会的基準や社会規範を探そうとするのである。それは心の外部にあるものなのである。私の本質は、私の外部の権力なのである。
内面がないという第三章もすごかった。私たちはある人を「優しい」とか「愚か」とかいったりするが、それは身体的な行動パターンから観察されるものであり、その背後に実体としての心があるわけではないといっている。内面があるという思い込みは率直な自分の考えや感情の表現が押さえ込まれることから起こる。そして私たちはたいして「真の自己」といったおおげさなものなど隠していないのである。
私の説明は舌足らずのためにこの本の多くをまったく説明できないが、スリリングな文章で心理主義の解明をおこなってゆくさまはひじょうに読ませるものがある。心理主義批判には胸のすく思いがする。心理主義化した社会にはずいぶん抑圧されてきた思いがあるからである。
問題を自分の内面へ、心理へ探し求めるのではなく、社会や権力に求めてゆくこと――こういう転回がいままさに必要とされているとこの本ではいっているのだと思う。




森真一『自己コントロールの檻』は心理主義批判の衝撃作である。『心の専門家はいらない』もずいぶん鋭い。『フロイト先生のウソ』も心理学をペテンだと言い切っている。『ナルシシズムの時代』にはアメリカでのセラピー普及現象についての一章がある。心理学は徹底的に叩かれなければならないと思う。
『リバタリアニズム読本』 森村進

リバタリアンの思想を知りたいのなら、入門書を読むより原典を読んだほうが理解がしやすい。古典や名著とよばれる書物はそれだけ多くの人に理解されたり感銘された歴史があるわけだから、入門書よりはるかに読みがいがあるはずである。へたな入門書より原典もしくはブックガイドのほうが役に立つ。
この読本にはリバタリアニズムの25冊としてあげられているのは、アダム・スミス『国富論』、ハイエク『隷属への道』、ミーゼス『ヒューマン・アクション』、ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』、ブロック『擁護できないものを擁護する』、ディヴッド・フリードマン『自由のためのメカニズム』、ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』、ロスバード『自由の倫理学』、ゴティエ『合意による道徳』、アイン・ランド『水源』、バーネット『自由の構造』などである。
自由主義でいちばん感銘したのはここにはあげられていないが、フリードマンの『選択の自由』である。市場のメカニズムのはたらきには驚きだった。アダム・スミスは一巻くらいで放り出している。ロスバードは『20世紀を動かした思想家たち』(新潮選書)という本にあきれられるアナーキストとして登場している。ハイエクやブロックはさいきん読んだ。
国家の干渉や介入を避ければ人間は自由を得られるのか。げんざいの日本は福祉国家や統制経済の末期症状を呈しているのではないか。
そういう疑問からノージックやロスバード、D・フリードマンやミーゼスなどの著作を読んでみたいとおもったのだが、いずれの本も五千円近い高額な本ばかりだ。まいったな〜、古本でも見つかりそうにもないしな〜。どうしよー。








大阪古本屋めぐり

阪急かっぱ横丁の古本屋街
リバタリアンの本はいずれも高い。amazonとジュンク堂で目をつけておいたノージック『アナーキー・国家・ユートピア』、ロスバード『自由の倫理学』、D・フリードマン『自由のためのメカニズム』はほとんど四、五千円台だ。
私にとって四、五千円台の本は高すぎる。よっぽど買う価値が認められないと買う気にはなれない。いままで高すぎて買えなかったドゥルーズとかブルデューの本も見送ってきた価格だ。二千円台の本が二冊買えるし、新書なら5、6冊は読める。
さっそく大阪の古本屋めぐりだ。amazonやネットの古本屋で見つけられないわけではないが、私はクレジット・カードをもっていないし、やはり現物を見てさいごまで読めるのかの検討も必要だ。
私は大阪市の南部に住んでいて、近辺とミナミ、キタのいくつかの古本屋を頭にインプットしている。高い本がほしくなったら、それらの古本屋をひととおりめぐる。まあ、そういう少ない本を探すときはたいてい徒労に終わるが。
長居の福永壊徳堂?はあるていど専門書や新書はそろっているが、だいたい希望の本は見つからない。喜連瓜破(きれうりわりと読みます)の日の出書房は人文書は多いが、あと一歩のところだ。ブックオフも喜連瓜破にあるが、人文書目当ての私には魂の抜けた品揃えにしか思えない。ブックオフって愛書家の気持ちがまったくない。
南田辺の古書店も人文書は多いが、いまいち古いのが多いのである。今里の日の出書房まで足をのばした。狭い本棚のなかに目当ての本は見つけられない。上本町に二店ほど古本屋を見つけているが、たまにしか行けない。近大の通りに寄ってみたが、大学のテキストなんかそろっていても意味がない。
天王寺にはアポロビルと商店街に二店ほどある。期待の本がいつもないので寄るのを控え勝ち。ミナミには千日前や日本橋あたりに何店かあり、球場跡ちかくに数点集まっている。人文社会科学に強い古本屋ってそうないのだな。
梅田にはかっぱ横丁に古本屋街がそろっている。専門書が充実した店が多いのだが、今回は目当ての本は見つけられず。大阪駅前ビルの地下の古本屋群は私の好みの本は少ないのでざっと寄るだけ。天神橋にも人気のある古本屋があるみたいだが、あまりなじみのあるところではないのである。
私の大阪の古本屋マップはだいたいこれくらいで、探している本は見つからず、ぶらっと寄るときにはほしい本がみつからないといったことがふつうである。だから品ぞろいの多いジュンク堂か、新書の新刊をそろえた大きな書店ばかりがひいきになる。駅前の本屋に寄ることはまずなくなった。
今回は目当ての本が見つからないのは予想していたことだ。ノージックの本をいぜんに見かけた記憶が一回あったかないていどだから、期待はさいしょからできなかった。
いままで自転車や電車で探していた古本屋めぐりはバイクで行くようになって、効率的になったが、道に迷ったり、右折がむずかしいので(笑)、目当ての場所にたどりつくのもむずかしかった。まあ、私の宝探しはたいてい鉱脈にたどりつけない。
神戸の三宮や京都に寄ったときには古本屋に寄ることもあるが、たぶんに多くの店を見つけられているわけではない。リバタリアンの本は図書館に頼ることにしようかな〜。図書館はあまり好きではないけど。線引きはできないし、会員にならないといけないし。
▼大阪古本屋マップ
地図を組み込みましたが、正確な場所はかなりいい加減です。だいたいこのあたりにあるかなと? 多くの情報は書き込めませんので、このへんで。
権利や正義という「悪徳」
不況も15年もつづけば、労働の消費者たる会社は労働者の値段を下げたいとおもうだろう。しかしモノはかんたんに値下げをできるが、労働者となるとかんたんではない。
解雇は困難だし、労働争議の歴史があるし、政府や世論は人間の権利や道徳をもちだしてくる。よって既正社員はすえおき、これから労働市場に参入する若者や女性の賃金を下げたり、非正規雇用で対応することになる。つまりは賃下げできない保護された既正社員が犠牲者を産出中なのである。
市場でモノの値段が下がったからといって、モノ自身は文句はいわないし、保障や保護と叫ぶこともない。人間はそうではない。保障や保護を人間の権利や道徳として要求する。労働力もまたひとつの市場の商品だという覚悟がない。福祉を期待された国家は値段の機能がはたらかない。
ウォルター・ブロックの『不道徳教育』のなかに「学問の自由」を叫ぶ大学教授の話が出てくる。それは顧客の意向を無視して、自分のやりたいことをする自由のことである。もし「配管の自由」というものがあれば、水道管を好き勝手につなげてよい権利になるし、タクシーやウェイターの自由があれば、客はどこに運ばれるか、なにを飲まされるか、不明だという恐ろしいことになる(笑)。
人間というのはなにかに特権や権利を認めて、それを市場原理から例外的にはずして、供給者がエラい、守らなければならない、尊厳だと主張する向きがあるようである。ぱっと思い浮かぶのでも出版文化を守るための定価制とか、医療や教育の神聖化などがある。
それは「お客様は神様ではなくて、オレたちにひれふせろ」というわけである。「オレたちはエラいことをやっているのだから、客はオレたちのいうことを聞いて、オレたちのいいなりになるべきだ」ということなのである。配管やタクシー、ウェイターの自由まで主張されるようになると、客はおちおち他人のサービスを受けられなくなる。自由原理を理想とする経済学者はこういう供給者のギルド化にいつも阻まれたきたわけである。
客を守るより、供給者はいつの世も政治的に強く、市場原理をぶっつぶしてきた。犠牲はたとえば労働市場からしめだされた若者や女性というかたちをとったり、売れない本なのに文化的という理由で高い値段で買わされたり、医療や教育において私たちののぞまないサービスをうけさせられたり、エラそーにされたりと、代償はどこかで高く支払わなければならないのである。
基本的に衰退産業や落ち目なものほど政治的に守られる。市場で食えないからこそ、政治力が必要になるのだ。落ち目な芸能人が政治的に守られて毎日つまらないテレビを見せられるのはたまらないだろう。衰退した自動車メーカーのポンコツ車に乗らなければならなのは苦痛だろう。政治的に守られた飛行機に乗るなんてもっとヤバイだろう。老人は労働市場で食えないから年金が用立てられるのである。
神聖な職業や人間の尊厳は守られなければならないと人はいうだろう。しかし政治に守られたものはどこかに犠牲をしわよせし、腐敗した態度と見当違いのサービスを無鉄砲に生み出すようになる。市場は退場や値下げのしくみがあるからこそ、うまく働くのである。守られたものはほんらいなら安い値段だったものが高価格になり、どこかで犠牲をせっせと生み出しているのである。
人間の権利や尊厳、福祉といったものはクセモノである。正義や道徳といったものは、どこかでまちがったものを生み出す。社会主義は道徳的であったが、権力者の独裁を生んだ。正義や道徳ってどうも正義でも道徳でもないなぁ。なんでだろう?
働かない人生を国家目標にしろ!
いま、リバタリアンの本をいろいろ物色中だが、リバタリアンは国家の介入を減らせば自由な商業がおこなえて自由になれるという。う〜ん、なんかね、経済の放任にそんなに自由があるのかと疑念に思うところもある。私は会社で働くことほど不自由なところはないと思うからだ。
そもそも20世紀に人々が社会主義のとりこになったのは、働かない悠々自適の人生がおくれると宣伝されたからではないのか。人が金持ちになりたがるのは働かないで贅沢な暮らしができると夢見ているからではないのか。基本的に人は働かない人生を一度は夢見たことがあるはずだ。
ホンネのところでは働かない人生を夢想しておきながら、この社会はどんどん労働から降りられない社会をつくってきた。ますますカネが必要になる社会になっている。グルメやらファッションやら、家電やら海外旅行、マイホーム、車、そして健康保険や年金。人が生きるためにますますカネと労働の重荷が必要な社会になってしまったのである。少子化はこの重荷の帰結だともいえる。
私たちは贅沢な暮らしを手に入れようと思えばますますカネが必要になり、ますます働かざるを得なくなり、夢見た働かなくてもよい人生はどんどん遠のいてゆくばかりだ。私たちは贅沢だけどそれを楽しむ時間もない労働の人生か、それともそんな贅沢より働かない人生のどちらのほうが望みだったのだろうか。
私は会社に生涯を拘束される人生より、贅沢はできないが自由な時間がたっぷりある人生のほうを選びたい。会社で仕事ばかりしていたら、いったいなんのための人生かと実存的に悩まなければならなくなる。必要なカネだけが稼いだらあとは休むといった生活が理想なのだが、現実問題としては転職先がないのでひとつの会社に長時間拘束されるしかない。
私たちはなぜ目標をまちがえてしまったのだろう。生涯を保障されているけど、金ぴかのバカ消費と奴隷労働の人生をなぜ選びとってしまったのだろうか。ひとえに私たち自身の肥大した欲望のなせる業である。自分のあれもこれもほしいと欲張りが通ってしまう民主政治と福祉国家のせいである。私たちは自分の欲望の重荷にたえかね、そしてみずからの首を絞めているのである。
私たちはもう一度働かない人生が目標になるような社会を生み出せないものだろうか。いまの二十代やニート、フリーターならおおかた賛成してくれるだろう。もちろん国家や企業が保障してくれる人生なんかまちがっても望むべきではない。それは家畜と奴隷への道である。私たちは人生のモラルとプライドにおいて自分の生活の糧は自分で得るべきである。なおかつ働かない時間をおおく手に入れる。そんな人生や思想が生み出せないものだろうか。
国家は民衆にカネをもっと稼いでもらわないと税収でうはうはの生活ができないから、消費振興と労働主義イデオロギーを押しつけてくるのはまちがいない。国家とは他国との競合のことだからだ。国家は民衆をぎゅうぎゅう働かせて血税をむさぼりとることしか考えないから信用できない。
私たちはカネで得られる楽しみを減らしてゆくしかない。そうすることでしか自由な人生は得られない。消費と保障の人生は奴隷の人生である。私たちは豊かだけど、どうしようもなく陰鬱で重苦しいこれまでの世代をたっぷり見てきた。このような人生のわだちを踏まないためには、なにかを失わなければならないのである。どっちみちこれからは保障が不可能な世の中になるから、自由を選ぶしかないと思うのだけど。
『中央公論 04月号 若者を蝕む格差社会』
![中央公論 04月号 [雑誌]](http://ec1.images-amazon.com/images/P/B000EPFT5C.01._SCMZZZZZZZ_.jpg)
基本的に雑誌は好きでない。興味のないトピックが多いからだ。この号には格差社会と、加藤秀一の離婚大国、川本三郎の阪神間文化の論考があったから、迷いながら買った。
格差社会では三浦展と本田由紀の対談があった。三浦展はむかし脱消費の若者を肯定するような考えがあったのが、「下流」や「フリーター」叩きに転じたのは、中立的に捉えられるために否定的なスタンスに変わったそうである。企業が悪いととらえる本田と怠ける若者バッシングの三浦の構図の対談である。
高原基彰の『創造性で稼げない若者の苦悩』がよかった。フリーターと正社員の対概念を捨てろという。アメリカでは正社員といっても流動性が高い。日本は中高年の雇用を守るために流動性は下層やフリーターだけに押し込められてしまった。80年代半ばから正社員雇用保護のために若者に犠牲が強いられるのは予測されていたそうだ。
重要なことは、大企業に入れば守られて安心だという成功のコースが若者の、日本の閉塞感の元凶だということである。流動性の中で上昇や成功をめざせば、下層やフリーターだと罵られる。こんな社会ではだれも活力や自発性をもてない。やっぱり国家に保護される人生は、ステータスや成功を誤った方向づけに硬直させてしまうのである。おかんや女が公務員を求める世の中に男までが同調して女々しいと思わないか。
加藤秀一の『日本はかつて離婚大国だった』では、離婚や片親が白い目で見られた世間への、終身婚制度という不自然さへの反発から書かれたものなんのだろうか。愛情が移ろいやすいものは仕方のない現実である。
それにしても執筆者が東大関係や早慶関係の連中ばっかりだ。視野や意見の偏りが気になる。。


▲三浦展はかつて『マイホームレス・チャイルド』で無欲で脱消費の若者を肯定していた。本田由紀は宮本みち子の『若者が社会的弱者に転落する』の継承なのか。加藤秀一は恋愛至上主義に一石を投じるか。
一週間ネットにつながりませんでした。
先週の金曜日からフレッツADSLにつながらなくなった。ローカル・ディスクのCばかりにデータが貯まって、ディスクDは空っぽのままだったので、移動させていたらおかしくなったのか。
きょうNTTの人に来てもらって、直してもらった。回線がおかしくなっていたのと、フレッツの接続ツールがおかしくなっていたらしい。
ネットにつながらない一週間はつまらなかった。なによりも公共の場にものを表現することのできないつまらなさはひとしおだった。私はともかくHPにものを書くのが好きらしい。公共の場にものをいいたいという欲求は、おそらくはマスコミに憧れる心性によって生み出されたのだろう。
毎日の習慣だったアクセス解析とamazonのクリック数のチェック、それとはてなアンテナのブックマークの更新情報を断たれるのは、ほんと味気なかった。ぶらっとネットをのぞくこともできない。本を新しく買ってもHPの更新できないし、感想も書けない。なによりもネットに発表できないとなったら書く気もなくした。
ネットができる前はひとりでも私はいまのHPのような考えるためのエッセイをずっとつづけていた。人に見せるためではなくて、自分のために社会や心についてモノローグをつづけていた。HPを開設してからは人に見せるための思索という割合がだいぶ強まったようだ。
フレッツにつながったことだし、これからも私の書きたい欲求を満足させてゆきたいと思っておりますので、よろしくお願いします。
『自由はどこまで可能か』 森村進
![]() | 自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門 森村 進 講談社 2001-02 by G-Tools |
リバタリアニズムとは政府に介入されない市場の自由や、個人的自由を守ったり、国家の縮小や廃止を説く立場のことである。経済的自由だけを認めのは保守派である。規制や再分配をおこなうのがリベラルである。みんな「自由」を唱えておきながらずいぶん違う。
私としては政府が市場に介入したり、財の再分配をおこなうと、社会や人がどんなに歪むのかという話を聞きたかった。また、いちばんに社会保障が人をどんなに奴隷状態に釘づけるのかということも知りたいのである。
安い入門書ということで買ったが、私としてはリバタリアニズムの古典ブックガイドのほうを読みたかった。




『不道徳教育』 ウォルター・ブロック

すぐれた本である。世の中の不道徳なことが、それを禁止することによってもっと悪い方向に転がることを教えてくれる本である。
つまりは道徳や福祉を強制すると、まったく逆の悪い方向に効果をよぼしてしまうのである。人間の意図は、それとは逆の効果をもたらすのである。まるで老荘思想のようだが、だから自由市場の神の見えざる手に任せたほうがうまくいくというわけである。
この本は1976年に発表され、アメリカで大きな話題を巻き起こしたそうだが、「2ちゃんねらー」や「ホリエモン」といった最新のキーワードも頻出しているのは、橘玲という訳者が「意訳」や「超訳」しているわけである。
自由主義者の主張を具体的な事例で説明する手腕には驚かされる。ミルトン・フリードマンの『選択の自由』もそうだったが、人間の計画や禁止が社会にいかに悪い方向や逆の方向に導くのかという説明にはいつもながら驚かされる。
人間の称賛されるべき道徳や慈愛に満ちた福祉が、ぎゃくに市場や人々の生きる権利や自由を阻害したり、人間や社会を壊滅させるとは意外を通り越して、驚嘆に値するが、自由主義者の説明をきくと、まったくそのとおりだと思ってしまう。
つまりは人間のすばらしき道徳や福祉はその意図とは逆にまったく逆の効果をもたらしてしまうのである。たとえば麻薬は悪いからと禁止してしまえば、闇市場で値段が暴騰してしまい、シャブ中は犯罪に手を染めてでも高額をそろえなければならなくなる。またアフリカの貧困に対して食糧がとどけられると、政治家の票集めに利用されるか、タダ同然の食糧と現地の農家は競争しなければならなくなる。
児童労働は悪いというけれど、それを禁止してしまえば貧しい家庭では収入の道を閉ざされ、物乞いや売春するしかなくなる。最低賃金や労働基準法は私たちを守ってくれていると思うのだが、それは経営者に安い労働力をあきらめさせて、雇用を抑制して、失業者を増やすことに貢献してしまうのである。同様に男女雇用機会均等法も子育てにとられる女性の雇用を抑制する方向にはたらく。
なんか政府のやっていることはぜんぶ失敗に落ちるみたいである。たぶん人為的な強制や禁止は人々から自由な選択を奪い、選択の抜け道をさがす方向にすすむからなんだろう。禁止は人の自由を奪い、また悪い症状を生み出してしまうのである。
そもそも国家は無能であっても市場から退出する仕組みを持たない。失敗しても公務員はクビにならないし、給料も変わらないし、自分のふところが痛むわけでもない。生き残りをかけて必死に自分の金で努力する商人とはえらい違いである。自由市場は愚かな経営者を退出させる賢明なメカニズムをもつ。
われわれの社会には金儲けに対する拭いがたい敵意がある。そして国家に対して富の分配を迫るのだが、それは権力者や独裁者を生み出してしまうだけなのである。自由経済ならば会社を辞めたり、顧客を変えたりする自由は開かれているが、管理された経済ではほかの選択肢はいっさい認められず、独裁者の支配を許してしまうのである。だから自由主義のほうがマシだとリバタリアン(自由原理主義者)たちはいうのである。
リバタリアンがいうには福祉制度というのは労働者階級のためにあるのではなくて、特権階級による支配や服従のための装置だということになる。やっぱりなという感がする。私たちは道徳や福祉を国家に要求してしまうと、独裁者の権力を増大させることに貢献することになり、私たちの自由や選択はどんどん奪われてゆくことになるのである。私たちの要求が自分たちの首を絞めるとはまことに愚かしいパラドックスである。
禁止は社会の報復をもたらす。私たちは政府の禁止による残骸物を現代でも目の前でたくさん見ているのだろう。自由主義は格差や貧困をもたらすと反対する人も多いが、私は人の自由に生きる権利を奪われるよりマシだと思う。戦後昭和の社畜として生きなければならなかったサラリーマンの不自由を思い出せといいたいのである。
『別冊環 脱=「年金依存」社会』 神野直彦+田中優子ほか

タイトルの割には年金なんかやめてしまえという話がぜんぜん出てこない雑誌である。
私は経済学的な話なんか読みたくなかった。ややこしくて、わかりづらい。
私が年金について知りたいのは思想や哲学としての年金であり、生き方としての年金である。はたして老齢になれば働かずに生活できる金額が払われる生き方とは人としての生き方として正当なものなのだろうか。それは生活保護のような羞恥をともなう生き方ではないのか。
それがいまでは逆転して、とうぜんの権利としての生き方になってしまった。若いうちから老後の心配をし、年金のために多くの選択肢や自由を削ぎ落とされ、年金の奴隷のような生き方を余儀される。はたして年金は人としての生き方に尊厳や自立、自由な精神を奪ってしまったのではないか。このようなふだんの会話の延長として、生き方論として、年金が語られるようなものであってほしいのである。
もうひとつ年金について歴史上どのような経緯で国家が年金をになうようになったのかということも知りたかった。社会主義の防波堤の役割のためか、あるいはビスマルクが国家への忠誠心を誓わせるためにはじまったのか。この雑誌には年金の歴史がいくらかとりあげられているが、私には十分ではなかった。
年金のいちばんの問題点はやはり他人任せの人生を余儀なくされるということだろう。生き方を国家から与えられてしまうのである。国家にお任せの、国家が決めるまで待っている人生なんてなんかおかしい。私は自分の人生の選択権を奪われてしまうような人生が、生きがいのある人生とはとうてい思えないのである。
『なぜ彼は本気で恋愛してくれないのか』 ハーブ ゴールドバーグ
ハーブ ゴールドバーグ 角 敦子
![023938730000[1].jpg](http://blog-imgs-1.fc2.com/u/e/s/ueshin/023938730000[1].jpg)
たぶん女性向けに書かれているのだろうが、男がぜひ読むべき女性にとっての男の性質がどのようなものかを教えてくれる驚嘆の書である。男らしさ、男としてよかれとやっている論理や感情の抑制が、女性を傷つけているとはじつに皮肉なものである。
「少年のころは、身近な人に頼らない男らしさを見せると好感をもたれました。とくに喜ばれほめられた気質は、自立心旺盛、意欲的、野心的、目標志向、ワンパクさ、責任感の強さ、活発さ、といったところでした。
――ところが皮肉なことに、彼を「男らしく」見せていた気質が、将来「無神経」で女性に横暴にふるまう男に彼をしたてあげてしまうのです」
男は男らしくなろうとしてクールで論理的で無口になろうとするものだが、感情と共感をとても大切にする女性にとってはその態度は拒絶や拒否としかとられかねられないものなのである。
男として条件づけられたものが、女性との気持ちのすれちがいを数々ひきおこしていることがこの本の中で多くとりあげられていて、本書は感嘆することしきりの本である。もちろん女性として条件づられたものが男にどのような気持ちをひきおこさせるかものべられている。
この本は男と女の違いをのべた私にとっては赤ラインとドッグ・イヤーだらけの貴重で重要な本になった。男女ともども読んでほしい本である。
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『この人と結婚していいの?』 石井 希尚
この人と結婚していいの?
石井 希尚

男と女のすれちがいに悩む人には最高の名著だと思う。男と女の感じ方、考え方のちがいをこれほどまでに明確に具体例をあげて教えてくれる格好の本はないと思う。
たとえば女性が「話したくない」といったとき、傷付けられたことを訴えたいだけであって、男は言葉どおりにうけとって黙ってしまいがちになるが、そうではないという。女性は気持ちの共感や同情がほしいだけなのである。
女性は大切にされているという実感をとても大切にするが、その安全基準がどこにあるのか男にはまったくわからない。だから男性には女性がなんで怒っているのか訳のわからないことが多い。タオルの置き場所を怒ることによって、大切にされていない不安を訴えたりする。男性は女性の感情生活により神経をそそぐことが重要なのである。
男なら女性の脈絡のない会話に閉口したことがあるかもしれないが、男は要件や用事のない会話はムダだと思うからだが、女性は会話する安心感や共有する充実感をとても大切にするため、沈黙をひどく怖れる。関係が破綻しないよう男はなんでもない会話でも共有する努力を怠ってはならない。
この本はほんとに男と女の言葉と感情のすれちがいを見事に解明してくれていて、感嘆と発見と驚きの連続の本である。経験したかもしれない男と女の言葉や感情のすれちがいの原因をあちこちで見出すことになるだろう。
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『恋愛セラピー』 松本 一起
恋愛セラピー―読むだけであなたの想いがかなう!
松本 一起

かなりすばらしい本である。喧嘩や嫉妬より、愛したり許したりする気持ちのほうがどんなに大切なことか教えてくれる本である。愛する人を失うために怒りや嫉妬に駆られるわけではないのだから。この本は愛する愛おしさの気持ちをなんども思い出させてくれるかなりいい本である。
「恋人が出来なかったあなたは、今まで自分のことを大切にしていなかったのです。今日からは、あなた自身を過大評価して、上へ上へ舞い上がりましょう」
「いいですか、人に自慢しては駄目です。あなた自身に自慢してあげるのです。毎日、自慢してください。あなたはたくさんの人の前でも、堂々とあなたでいられるはずです」
「恋愛の想像は、なぜかマイナス志向が多いのです。頭で思うって分かりますか。気持ちを鎮めることから始めるのです。好きな人のことを悪く悪くイメージして、押さえ付けてゆくのです」
「嫉妬しない方法。とても簡単なのです。相手を信じればいいのです。悪い想像力を使って、些細なことを広げなければいいのです。たった、それだけのことです。だって、あなたはその人と別れたいのですか。相手の人のことをすべて信じればいいのです。疑うなんて最低です」
「あなたが、彼のことを心から愛していたり好きだったりしたら、どんなことでも許してあげるのです。――それとも、自分の我を通して、相手を押さえ込んで、相手に謝らせたいのでしょうか。何日も何日もかかって、相手に謝らせたいのですか。その間、音信が途絶えても自分を優位に立たせたいのですか。好きな人と喧嘩して何が楽しいのですか。ただ苦しむだけなのです」
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『夜這いの性愛論』 赤松 啓介
夜這いの民俗学・夜這いの性愛論
赤松 啓介

一冊の本を読み終えたら世界の見え方が変っていたということがあるが、この本はまさしくそのような本である。おおらかで積極的で目からうろが落ちるようなむかしの男女の性体験、性風俗が語られていて、こういう語りこそが大人から人生を教えてもらうというものだろうと思った。
性をあからさまに語るということはまさしく人の生きざまを語るということなのだと思う。性を語れなくなった現代というのは人生をも伝えられないということなのだろう。性に拘泥せずにおおらかに性を楽しんだむかしの日本人の姿を知ることはかなりのカルチャーショックである。とにかく読むべき本である。
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『人間通でなければ生きられない』 谷沢 永一
決定版 人間通でなければ生きられない
谷沢 永一

批判や悪口、欠点を指摘し、アンチを唱えるのはだれでもできることで、それが日本の知識人や言論界の仕事と思われたり、優越感や選民意識が満足させられたり、怨みつらみが発散させられたりするのはよいことではない。
とくにアタマからこれを信じてしまう読者は世を呪い、人を怨むようになり、人生は不幸と悲惨につき落とされてしまう。知識の正誤より、人生の幸福や満足を客観的にみられるほうが重要ではないのかと思う。批判やアンチは人生の肯定と愛を破壊してしまうものだ。
谷沢永一はそういう知識人の否定と肯定の態度を客観的に見られる人であり、だから批判的知識ばかり摂取してきた私としてはたいへんに重要な知恵を与えてくれる。心理学のポジティヴ・ネガティヴ思考のような枠組みが社会観にも必要だと思うのである。
この本では批判や罵倒に傾いてきた知識人のなかでも日本を肯定的に捉えた人たち――大宅壮一、梅棹忠夫、司馬遼太郎、高橋亀吉、山本七平がとりあげられている。
肯定や称賛が行き過ぎて放漫さや暴虐にまで走ってしまうのはキケンであるが、罵倒や蔑視のみもおおいに誤った姿勢である。人生は肯定も否定もせず、ただ受け入れることが大切なのではないかと思う。社会を否定することは自己も幸福も破壊することである。
『「心の専門家」はいらない』 小沢 牧子
「心の専門家」はいらない
小沢 牧子

この本も心理学に対する問題提起の本だ。心理学やカウンセラーが必要とされるということは、心や人の関係が商品や消費となってしまうことだと警鐘を鳴らしている。
心の問題とはしょせんは生き方の問題なのだが、大人たちがそれを見せなくなったうえ、産業化によって家族や共同体の絆は断ち切られ、孤立の度合を深めている上に、さらに心の問題まで商品化されると、人々はますます閉ざされ、孤立し、不安にさらされてゆくことになるという。もっとも必要なことは人々がつながりやすい条件の援助だと著者はいう。
この消費社会は「自分でやろうとするな、依存せよ、購入せよ」というメッセージに満ちている。産業に依存することにより個人は自前でやりぬく能力を失い、家族や共同体はますます解体されてゆくばかりだ。人は「生かされる消費財」として生き、「生きることは買うことなり」という人生を生かされることになる。
専門化や商業化されてゆく危険性を強く感じる本である。われわれは専門家に依存し、ますます個人の能力、家族や共同体の絆を失ってゆく。しかも専門家は自前のやりかたを批判し、家族や共同体を解体させながら、自分たちの発言力や地位をあげてゆく。個人や家族は専門家の前でますます無力になり、依存してゆくいっぽうになり、人々は自信を失ってゆくばかりである。
さらに心理学は人々の異常性を告発する知識であり、社会変革を放棄した順応主義のテクノロジーにもなりうる。心理至上主義や専門家主義はひじょうに問題の多い要素をはらんでいるのである。専門家信仰にたいする批判力や判断力がわれわれに緊急に求められているのではないだろうか。
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『フロイト先生のウソ』 ロルフ デーゲン
フロイト先生のウソ
ロルフ デーゲン Rolf Degen 赤根 洋子

これまで心理学によって与えられた常識を見事に覆してくれる好著である。学問というのはどこか必ず根底から覆し、批判する知識が必要だと思う。信仰になったらおしまいだ。
とくに心理療法は現代のペテンだといったところや、つらい記憶は抑圧されなく、とうとつに思い出される、精神の健康は不安やネガティヴな感情から逃げることによって維持される、フロイトの近親相姦説は生物学の常識からいって考えられない、などの統計データから導かれた説がよかった。
もう私もフロイトの説より、自己啓発や禅仏教などに学ぶほうが精神の健康にはよほどよいと思っていたから、この本はとても勇気づけられた。(瞑想は昼寝程度の平静しかもたらされないといわれているが)
本の帯には「フロイトはマルクスよりも多大な損害を人類に与えた」と書かれているが、あながち大ボラとはいえないかもしれないな。つづく心理学も業界の利益のためにみんなを病者にすることによって人々の恐怖を煽り、マーケットを広げているし。心理学はクスリと劇薬だな。
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『若者が『社会的弱者』に転落する』 宮本 みち子
若者が『社会的弱者』に転落する
宮本 みち子

そうだな、若者を「社会的弱者」とくくることはとても納得できるカテゴリーづけだと思う。私の経歴からいっても実感できる。若者は世界的にみても貧困、低所得、失業、フリーター、未婚の坂を転がり落ちつづけているのである。
中高年は所得は高く、社会保障もしっかりしているほうだし、マイホームもある。世代間格差が確実にひろがっており、若者はその差をうめるべく親にパラサイトし晩婚化するしかない。
しかもいまのマスコミや世間はその現実をみようとせず、若者の怠けぐせとしてかれらをバッシングするのみですませている。自分たちの既得権益のやましさを、若者のバッシングでかわそうとしているかのようだ。
若者の危機に警鐘をならしたこの本はとても共感できる部分が多く、まるで自分の声を代弁しているかのような箇所がたくさんあった。若者が層として不利益集団になりつつある、という新たな認識のもと、社会政策やシステムを変えてゆかないと、将来の惨禍はたいへんなものとならざるをえないといわざるをえないだろう。若者のまわりの社会から変えてゆかないと、未来はないのだろう。ぜひこの本を読んでほしい。
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『筋肉疲労が病気の原因だった!?』 福増 一切照
![]() | 筋肉疲労が病気の原因だった!?―驚異の触手療法 福増 一切照 by G-Tools |
慢性筋肉疲労が万病のもとだという本である。緊張がつづくと血行障害をおこし、腰痛や肩こりになり、内臓機能を狂わせ、糖尿病や心臓病をうみだすということである。
また筋肉の緊張/弛緩は自律神経のセンサーであり、筋肉は血液を送り出す第二の心臓だということである。筋肉の役割はいままであまりにも見過ごされていたというわけである。
筋肉にも人生のパターンは記憶され、怒りや恨みは慢性疲労の大敵である。それらの感情は筋肉の緊張を長引かせる元となる。心は一過性のようにあることが大切である。
『疲労回復の本―あなたの心身疲労を気功で癒す』 津村 喬
![]() | 疲労回復の本―あなたの心身疲労を気功で癒す 津村 喬 by G-Tools |
心の疲労がからだの筋肉の緊張やこりをもたらすということは、もっと注目するべきだと思う。その慢性筋肉疲労がさまざまな病気をもたらすということにもっと気づくべきだと思う。
この本はその筋肉疲労に注目した数少ない本の中の一冊であり、探していた本をやっと見つけたという気がした。われわれは怒りや恨みなどの感情を長くもちつづけるために筋肉が緊張し、その延長が慢性疲労や病気につながってゆくのである。
情念としての筋肉をときほぐすことはものすごく重要なことだと思う。それより前に感情が身体をどのように緊張させるか、どの部分を緊張させるのか、ということを知らなければならないと思うが、そのことを追究する人もあまり多くない。筋肉と感情の関係にもっと注目すべきだ。
この本の中の緊張をときほぐすエクササイズはちょっと絵柄が大ざっぱでくり返しに向かないのが残念だ。
『整体 楽になる技術』 片山 洋次郎
整体 楽になる技術
片山 洋次郎

身体を現代思想的に語った本はそうない。書店に並んでいる健康医学の本は読者の知的水準をバカにしたような教科書的な本ばかりだ。だから身体についてもっと深く考察してみようという気にもならない。
この本は不安や怒り、緊張したときにわれわれの身体はどうなっているのかということや、われわれの身体はいまどのような状況におかれているのかということが、現代思想的に探られている、知的好奇心を誘う優れた本だと思う。おかげで身体をもっと探究してみようという気になった。
とくに感情と身体の明確な関係図は把握したいと思う。緊張すれば胸が緊張し息がつまり、呼吸と眠りは腰椎5番と関係が深く、頭と目の疲れは首の緊張と関係がある、胃が痛くなるのは腹直筋とみぞおちが硬くなるから、下腹部とみぞおちはシーソーの関係になっているなど、こういう身体の図式はぜひとも頭に入れておきたい。
われわれはあまりにも自分の身体のことを知らない。怒りや恐れのときに身体がどのようになっているのかも知らないし、客観的な知識ではなくて、内側から自分の身体を知るということもない。そしてわれわれは身体の犠牲者になる。自分の身体を実感や身体感覚から知らなければならないと思う。
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『「嫌いな自分」を隠そうとしてはいけない』 デビー フォード
デビー フォード Debbie Ford 小林 由香利

「嫌いな他人とは自分自身のことである」――このことを自覚するのはむずかしい。他人と自分はまったく別物と思うからだ。しかしなぜ他人の嫌いなところが感情的にひっかかるのだろう。それはその嫌いな部分が自分自身にあることを認めたくないからである。
これはユング心理学でいう「影の部分」である。自分の嫌いなところを自分から隠そうとすると、他人に見つけてしまうのである。そうして人は自分の嫌悪感を排斥したいばかりにずっと影の部分と無益な闘いをおこなうことになる。
この影の部分のとりもどしは前からの私のテーマだった。でもなかなかよくわからないのである。それでこの本が出ることになって、よりいっそうの理解を深めることができるようになったと思う。
たぶん認識の失敗があるのだと思う。心の中には自分も他人もない。ただひとつの心があるだけである。しかし人はそのひとつの心を自分と他人に分けてしまう。気に食わない部分、あったら困る部分は都合よくぜんぶ他人に与えてしまう。しかしその捨てた部分はオバケのように他人の姿にあらわれ、ずっと自分の嫌な部分と闘いつづけるというわけである。オバケが消えるのはそれが自分だと、自分の心だと、わかったときである。
なおこの本では悪い部分の投影だけではなく、よい部分も投影されていることを教えてくれる。あなたがある人に偉大さを見るとするのなら、それは自分自身の偉大さである、つまり影の部分であるということである。影は善悪両面で成長のためのきっかけを与えてくれるのである。
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