『僕のなかの壊れていない部分』 白石 一文


4334738397僕のなかの壊れていない部分
白石 一文
光文社 2005-03-10

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 白石一文はぶあつい文庫が何冊か出ていて、はじめて読む本は選びにくかった。この本は表紙のくま?のイラストがかわいいし、タイトルもインパクトがあるし、ポップな内容なのかなと思ったけど、てんで違った。

 重い。主人公は性格が悪い。知的な会話で相手を責める物言いは容赦がない。ストーリーもほとんどあってないようなものである。

 思弁小説である。人生の生きる目的や生や死を深く問いつめていて、その真摯に考えるさまはよいものがあると思うけど、私はめったにそのようなことは考えないので、興味がある人には深い思索が提供されるかもしれない。線をひきたい箇所は何ヶ所もあった。私はほえ〜、そういうことを考えて生きるているのか、と参考になった程度である。

 もしかしてドストエフスキーをめざしているのかと思ったりするが、こういう生や死を深く考える作家というのは近ごろではそうそういないのではないかと思う。それにしてももうすこし物語でそれを語ってくれよといいたくなるが、でないとハードすぎて小説としてはおもしろみがないと思う。思索を読んでいるとなんとなく宮本輝を読みたくなった。


若手作家の台頭と自己表現


 face1.jpg 綿矢りさ。かわいい。顔だけで売れる!

 若手作家が台頭しているということを、今年の三月に『クローズアップ現代』で特集していたそうである。マンガやゲームで育ち、文学を読まない若手作家たちがぞくぞくとあらわれているという。

 だるまBLOG: 文学に異変あり
 Digital Town 若手作家がつぶれる日

 文学といえば十年や二十年前は死んだといわれ、「文学青年」なんか死滅したはずである。そして古典文学から隔絶したところから新しい作家はどんどん生まれてきているのである。

 そりゃそうだろう、鬱屈した日本文学なんか死滅したほうがよかったのである。つまらない伝統文学なんか読まされるから、だれも見向きもしなくなるのはとうぜんのことなのである。

 新しい作家はたぶん古典文学なんか読んでいないだろう。われわれの時代にはマンガにゲームに映画にドラマがあるのである。わざわざ時代遅れのつまらない小説など読みもしない。若手作家はおそらくそういう素養の上に、安上がりな紙とペンのみで創り上げることのできる物語という方法を選んだだけのことだろう。とくべつに古典文学や文学の伝統に思い入れがあるわけではないのだろう。

 われわれはマスコミの創り上げるヒーローに憧れて育ってきた。マスコミで憧れる人間になりたい、ならなければならないと思い込まされる少年時代を送ってきたのである。俳優やミュージシャンがわれわれのヒーローである。むかしは高級品やブランド品をもつことによってまわりの人たちから称賛されたかもしれないが、もういまは、マスコミに称賛されるということが多くの者たちの憧れられる目標になっている。

 モノによる認知から、文化や創作による認知にうつりかわっているのである。モノはしょせん他人や企業がつくった受身的なものであり、他人の創ったもので自慢するなんて情けない。自分でしか創れないものに価値がおかれるのはとうぜんである。

 90年代には文芸誌の新人賞に応募してくる者が購買者を上回っているといわれたことがある。たぶん文芸誌なんかまちがっても読まない書き手たちが確実に増えていたのだろう。小説に思い入れがあるのではない、自分を表現すること、あるいは自分を特別な存在にしたいという思いが強くなっていた人たちが小説を書いたのだと思う。

 そういう欲求が強まっていたころにインターネットというメディアが95年に注目される。自己表現、自己創作のかっこうの媒体を提供したのである。ケータイが普及してメールを打つことによる自己創作もふえた。書くこと、自己を表現することがずっと身近になった。書くことの敷居が低くなり、多くの人に自分の創ったものを見せるという機会が確実にふえたのである。

 小説は紙とペンさえあれば書ける。しかもネットとは違い、商業ベースに乗せることができるし、マスコミという後ろ盾を得ることができる。ものはかんたんに書けるという発見が、さっこんの文学を読まない若手作家の胎動を生み出しているのだろう。

 かれらは作家になりたかったのではない、タレントか有名人になりたかったのだ。世間やマスコミから賞賛され、憧れられる人間になりたかったのだ。おそらくそうでなかったら、存在しないも同然なのだろう。マスコミによる認知はわれわれの存在の根源にそこまで喰いこんでいるのだと思う。

 「一億総評論家」といわれた時代もあったが、現在は「一億総作家」の時代になろうとしているのだろう。人間は自分を認められたい存在である。ちっぽけで見向きもされない人間にはなりたくない。かつてはモノによって認められようとした人たちは、自分にしか創れない書くという行為によって認められようとしているのである。

 社会は人々のそのようなニーズの多い欲求を満たしてやるべきだろうし、確実にそのような方向に進んでゆくことだろう。書くことの評価や賞賛のシステムが必要になることだろう。根本的にわれわれは認められたい存在である。たぶん手段や方法はなんでもいいのである。社会が大きくなり、モノが満たされる世の中になると、創作という方法が必要になっただけだ。そのニーズを早く組み込むことのできる社会が必要なのだろう。


『肩ごしの恋人』 唯川 恵


4838712987肩ごしの恋人
唯川 恵
マガジンハウス 2001-09

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 唯川恵というのは女のVSを描く作家だと思う。生き方や性格の違う女性を対立項として登場させるのである。いうなれば選択の迷いである。あれもこれもなれたかもしれない女性の選択の可能性を何パターンも比較しているのである。

 この作品で比較されているのは結婚を何度もする女と結婚したくない女、または女を武器にする女と、女であることを弱点と思う女である。こういう比較をすることによって女性の選択の良否を探ってゆくのが唯川恵の作品の特徴だと思う。

 唯川恵はほかのさいきんの女性作家とくらべて安心して読むことができる。ふつうに楽しい。じつにフツーっぽい等身大のOLや女性たちが主人公なので身近に感じることができる。ふつうすぎるから直木賞には値しないとかもいわれるかもしれないが、ふつうだからこそ、そんなことも関係なしに読者には読まれる作家なのだと思う。恋愛や人間の観察眼にもためになることもあるし。

 作品を読んでいるときにいつも気になるのは唯川恵本人の幸福や状況のことである。いろいろな女性の陰には唯川恵自身の幸福観や選択の迷いが透けて見えるように思うのだ。作品の登場人物より、唯川恵本人は幸福なのかどうかばかりが気になるのである。

 選択の迷いをつむぎ出しつづけるこの女性作家はいまも選択の分かれ道でとまどっているように思えるのである。それはおそらく選択が無限に楽しめる消費社会の、けれども人生は何度も選択できないという矛盾の中に、多くの人がおかれていることと重なり合うのだろう。

 「カネでモノは買えても、人生は買えないのである。」


高尚と低俗


  Snap_010311.jpg 『電車男』 オタクも人を助ける。

 文学や哲学を高尚と尊び、マンガやオタクを低俗と軽蔑する考えを私たちはもっているわけだが、この基準がいっているのは、性欲や自己満足、利己主義を好きなだけ追究するか、あるいはどれだけ離れるかということなのだと思う。

 低俗なものがおとしめられるのは、性欲や自己満足がとことん追究されるからだ。自分の利益ばかりを追求する人は嫌悪されたり、非難されたりする。オタクは自己の性欲や愛着をあまりにも忠実に執着しすぎるから、ほかの人に嫌悪されるのである。

 ぎゃくに高尚なものが誉められるのは、自己利益から遠くへだたった行為や趣味をおこなうからだと思われる。政治や哲学、社会について考えるのはこの共同社会の利益に貢献すると思われるだろうし、難解で深遠なことを考えておれば、われわれの社会に利益がいずれはもたらされるだろうと思われるのだろう。

 高尚なものは自己利益から離れ、共同社会に益するものだと思われており、性欲も覆い隠されているがゆえに非難からまぬがれる。自己利益を追求していないように見える。自己利益の倫理が、高尚と低俗という基準にもりこまれているわけである。

 オタクというのは自己の性や愛に忠実でありつづける強さをもっている。性欲を中心に執着するということは、この社会ではいっぱんに嫌悪され、隠蔽されるのである。オタクはそのうえに幻想によって自己の性満足を追究するがゆえに、異性の利益ももたらさないので、この共同社会の風当たりは強くなるのだろう。非難にも耐えて自分の好きなことを追求できることはかなりの強さや技術、あるいは無神経さをもっているのだと思う。

 私は自分の弱さゆえに低俗なものにふみとどまれずに高尚なものへと向かう求心力をもっている。低俗を非難する声にすぐに屈するのである。高尚なものに興味が向かうというのは、自己利益を放棄するということでもあり、低俗への非難に弱いということである。他人の言動に左右されやすい弱さをもっていることになる。

 社会は共同体の利益のために性欲や利己主義を断ち切らせようとする。われわれは低俗という非難によって自己利益を放棄するように訓育されるわけである。

 低俗なものを非難する心をもつことによって、われわれは自分の好きだったことをどんどん放棄させられて成長してゆくことになる。高尚なものが絶対的に善であり、正義や優越だとは私は思わない。それは社会的体面をとりつくろう技術でしかないと思う。

 そういういつわりのペルソナにむしばまれてゆく人生は、かつて反抗した世間体を気にする親たちとなんら変わりはしない。低俗を非難し、高尚という仮面を身につける人生には警戒したいものである。他者の利益に奉仕するだけの人生は他者のあやつり人形でしかないのである。


『タイタンの妖女』 カート・ヴォネガット・ジュニア


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カート・ヴォネガット・ジュニア 浅倉 久志
早川書房 2000

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 ヴォネガットは初期の村上春樹に濃い影響をあたえたから気になる作家になった。そうでなかったら、ユーモアやシニカルさは楽しいけど、私にとってはストーリーはイマイチというこの作家の何作も読まなかったと思う。

 いわば村上春樹の滋養や栄養分を味わいたいがゆえに読んでいたといえる。それ自身のみの魅力となったら私にはその作品を手にとっていたかはアヤシイ。好きなアイドルが読んでいたから読んだという本に近いのである。

 『猫のゆりかご』『チャンピオンたちの朝食』『スローターハウス5』『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』と読んだ作品は、いずれもヴォネガット特有のシニカルさやユーモアはこの人にしかない卓越した素質だと思うのだけど、ストーリーを読ませる魅力はあまりなかったように感じるのである。

 ヴォネガットは日本の村上春樹人気にあやかってどれほど読まれたのかわからないけど、こういう読まれ方をしたとするのなら、ヴォネガット自身にはよいことだったのか、不幸なことだったのか、むずかしいところだと思う。村上春樹のオーラや文壇の評価がなかったら、SFのヘンなユーモア作家くらいのイメージしかもたれなかったと思う。

 『タイタンの妖女』というこの作品は全能者の宗教家(?)に大富豪が操られるという話だが、ヴォネガットのシニカルな文体はたまらないと思うけど、ストーリーはなんだったのかな〜という感じが残った。私はテーマやストーリーを読みこなすのがかなり貧困だからまったく正当な判断ができないが、人類の目的に意味なんかないみたいなことをいっていたのかな〜と思う。

 記憶を消される軍隊のシーンがおもしろかったくらいで、ストーリーにはあまり魅力を感じなかった。でも何度もいうけど、ヴォネガット特有のシニカルなユーモアはほんとにこの人にしか書けないものだ。


『見えない都市』 イタロ カルヴィーノ


4309462294見えない都市
イタロ カルヴィーノ Italo Calvino 米川 良夫
河出書房新社 2003-07

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 イタロ・カルヴィーノは『まっぷたつの子爵』『不在の騎士』を読んだことがある。コミカルな寓話が楽しかった。

 大人向けの寓話ってけっこう楽しめると思う。いっときの童心に帰る楽しみを想い出させてくれるし、すぐにテーマがわかる内容ならなおさらいい。難解で意味もわからない寓話は願い下げだけど。カルヴィーノは安部公房のような寓話に近いと思う。あと村上春樹ももちろんそうである。ほんわかとした寓話の味わいが安らかである。

 ひさしぶりに小説の本棚を見てみたら、カルヴィーノの文庫が何冊も出ている。この本はマルコ・ポーロがチンギス・カンにいろいろな都市の話をするという内容である。「都市と記号」「都市と欲望」「都市と眼差」といったタイトルは現代思想的である。

 はっきりいって、私のイメージ力の貧困さからほとんど都市のイメージがわいてこなかった。なんでこんな話をするのかも、なんのためにこのような話をするのかもちっともわからなかった。都市論や文明論に見えるけど、物語る行為を問うているのかもと解説に書かれてあった。まず私には読解できない本であった。


まっぷたつの子爵不在の騎士柔かい月

『アメリカ文学のレッスン』 柴田 元幸


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柴田 元幸
講談社 2000-05

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 柴田元幸はアメリカ文学の紹介者として村上春樹とともになくてはならない存在であるそうである。私は村上春樹のカッコよさや影響から逃れたいとずっと思ってきた。アメリカ文学を読むというのは村上春樹の圧倒的な影響力から脱するということでもある。でも村上春樹のひとり勝ち状態はまだつづいているのだろう。

 この本は名前や食べる、建てる、破滅、勤労、ラジオといったキーワードからアメリカ文学を縦横無尽に語った本である。人生の薀蓄や深みについて達しそうな考察や、社会学的・歴史的考察がきらりと光るところはあるのだけど、う〜ん、偉そうなことをいうけど、もうあと一歩かなという感じかな。感動や深遠さには達していないと感じるのである。

 アメリカといえば、フランクリン流の「アメリカン・ドリーム」だけど、やっぱり私はヘンリー・ミラーの次のような言葉に共感する。

 「あっちじゃみんな、いつの日か合衆国大統領になることしか考えない。〜こっちは違う。〜もし何か一丁前の人間になったとしたら、それは偶然であり、奇跡なのだ。
 〜だが、まさにチャンスがほとんどないからこそ、希望がほとんどないからこそ、こっちでは人生も楽しい。一日、一日ただ過ぎていく。昨日も明日もない。〜とにかく、絶対に絶望しないこと。
 〜希望のない世界、だが絶望もなし。」


『現代小説のレッスン』 石川 忠司


406149791X現代小説のレッスン
石川 忠司
講談社 2005-06-17

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 新しい読みたい作家を見つけてくれるガイドブックを期待したのだが、違った。つまらない近代文学を現代作家がどう乗り越えようとしているかの話で、そんなことは私ほぼ興味がない。だからテーマの根幹が楽しめない。現代作家のおもしろさを見つけてくれる本のほうがよかった。

 文芸評論の本ってこんなことにだれが興味あるのだろうという印象がある。教育関係の人しか読まないのではないかという偏見がある。ひとりの作家、ひとつの作品やトピックを長々と論じる興味や根性はどこからわいてくるんだろうと思う。私は文芸評論は社会問題や時代の問題にコミットメントしてほしいと思うのだけど、そこではじめて興味をもつことができるのだが、違うところに価値があるようである。

 おもに村上龍や保坂和志、村上春樹など論じられている。村上春樹の喪失感は恋人の自殺があったからではなくて、まずはじめから喪失感や罪悪感があり、それを打ち消すために原因がデッチ上げられるというのはなるほどと思った。フロイトは犯罪者に強い罪悪感がはじめからあり、それを打ち消すために犯罪を犯すのだといったが、その構造が村上春樹の作品群にみてとれるというのだ。

 この本は帯に新しい作家がいろい書かれていたからそういう本を期待したのだが、本を選ぶときは内容をしっかりと確かめようということでした。新しい魅力的な作家を紹介したブックガイドはないものかな〜。


カメを捕りにいった夏休み


 kusagame1.jpg クサガメ (webで拝借)

 小学校のころの夏休みはよくカメを捕りにいった。コンクリートで囲まれた用水路を歩いていたらカメを見つけることができたのである。カメは好きだった。あののん気でのろまな風情を見ているととても愛らしく感じられた。

 私が育った町は大阪郊外の新興住宅と田んぼがせめぎ合うような境界だった。小学校のまわりにはまだまだ田んぼが広がり、幹線道路が遺跡発掘のために中断されていたり、雑草地やお化け屋敷のような古い屋敷がのこっているというようなところだった。そのようなところでも昭和40〜50年代の子どもたちは身近なところにたくさんの生き物の営みを見つけることができたのである。

 用水路を歩くというのはいっしゅの冒険のようなものだった。電車の下を通ったり、真っ暗なトンネルを抜けたり、堰止めた水かさが増したり、地上の道路からは見れない町並みを見たり、終点という用水路のはじまりの池を見つけたりと、未知の世界を探検する楽しみがあった。

 用水路の水かさはたいてい足元程度しかなく、石や草陰にふつうにカメは転がっていたりしたので、かんたんに捕まえることができた。どんなところに潜んでいるのか、どのあたりで見つけることができるのか、というわくわく感は宝探しみたいなものだった。

 用水路に転がっているカメはとうぜん大きく成長したものが多く、20センチくらいはあった。ほとんどはクサガメで、黒っぽくて茶色い色をしていて、独特のカメのにおいがあって、そういうにおいのするところにはカメがいそうな気がした。イシガメという黄色くて甲羅のうしろがぎざぎざになっているカメはめったに見つけられなくて、いつも探していた羨望のカメだったのだが、おそらく一、二匹をのぞいてほとんど伝説のまま終わった。

 たしかクサガメは韓国からもってきた外来種で、イシガメが日本しか生息しない在来種で、私は韓国の生き物のほうにより愛着を感じていたのだった。ミドリガメは巨大化したやつを何匹かみつけたが、たぶんあまり愛着がわかずに家にもちかえることは少なかったように思う。夜店で売っている小さなミドリガメはとうぜんかわいいのだが、巨大化したミドリガメはどうもかわいくはなかった。

 家にもちかえると、バスのユニットに十匹くらい飼っていた。いつもいつも首をのばして上に必死にはいのぼろうと、駆けずりつづけていた。パンなどをあげていたと思うが、あの食べ物を見つけてじっと注視し、かぶりつき、爪ではじく独特の食べ方はずいぶんかわいいものだった。

 カマキリもよく捕まえにいった。といってもカマキリが成長するのは夏休みではなくて、9月、10月だけど。近くにはきりん草のたくさん生えた雑草地があり、多くを見つけたものである。大きければ大きいほど、うれしかった。

 カマキリの目は大きなレンズのなかに一点黒い点があり、近くで見るとじっと人間の私を見ている気がした。バッタをむりやり食べさせているときなんか、それでも私を注視しているように思えた。いつでもこっちに目を据えているように思われた。カマキリにとって巨大な人間はどのように見えるのだろうかと思ったものである。

 オオカマキリ以外の種類はあまり知らなかった。秋が終わりのころ草の幹に卵が植えつけられていて、丸くて大きなものと、チューブのようなものの二種類をよく見つけた。中を割ると、みかんとそっくりの実のようものがつまっており、しばらくはみかんが気持ち悪く感じられた。虫かごに産みつけた卵から一度子どもがたくさん生まれたことがあり、押入れはカマキリの子だらけになったことがある。

 ザリガニはするめをつけて釣ったり、あるいはザリガニ自身の腹部をつけてエサにしたり、またはザリガニは独特の穴を掘っていたりするので腕をつっこんでひきづり出したりした。田んぼや池にはもう赤いアメリカザリガニしかおらず、ほかの在来種を見つけることはほぼ皆無だった。ツメが大きかったり、図体の大きいやつを見つけることが楽しみだった。

 ひじょうによい思い出である。生き物を捕まえにいくというのはたいへんにわくわくして、うきうきしたものである。そういう気持ちというのは年をへるごとにしたがって、失われていった気がする。あのころの世界に対する神秘さや好奇心はもう味わえないのだという気がする。


『あしたはうんと遠くへいこう』 角田 光代


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角田 光代
角川書店 2005-02

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 角田光代はふつうになれない人たちを描くという話をどこかで読んだことがあり、気になる作家になった。就職したり、結婚したりというふつうにはなれない若者たちがどんどん増えているのだ。ふつうは拒否したいのだが、ふつうからこぼれ落ちるのもつらいという時代なのだろう。

 この小説は初めての恋愛小説と銘打たれているが、悲惨な恋愛話ばかりである。高校からはじまって、30過ぎまでちっとも関係がつづかない物語が、当時の音楽と絡めながら語られてゆくのだけど、あまり気分のいいものではない。

 主人公は自分を軽くあつかいすぎるのだ。恋人やつきあう男も同じだ。そうして新しい男と長つづきしない関係をくりかえすことになる。

 反省や自己分析をしないのかと思うが、関係がうまくいかない原因を見つけるのってだれでもむずかしいと思う。わからないのである、なんでこの関係がうまくいって、この関係がうまくいかなかったのかって。

 安野モヨコの『ハッピーマニア』みたいな恋愛狂に近いと思うが、こっちのほうがリアルであり、ギャグですまないところがあり、自分をぜんぜん大切にしていないってことが浮き彫りになる。たぷん恋愛のときめき感だけに魅かれて、関係を深めるってことが重要に思えないんだろう。信頼や信用のない浅い関係ばかりがつづいてゆくことになる。

 でもやっぱりそこには親の家庭で見た終身婚の軽蔑や不快感があるのだろうと思う。ふつうで健全な関係というのはムリをしているのだが、そこを暗黙の目標にしてしまうところが、私たち後続世代のなんともいえない欠損感をもたらすのではないかと思う。終身結婚制度は壊すべきなのか、健全な目標でありつづけるべきなのか。

 この物語を読んでいる最中、著者の角田光代自身の恋愛談が書かれているのかそうでないのかとずっと気になったが、小説って個人的体験の狭い範囲に規定されるものではないかと思う。それは読む価値あるものなのだろうか。小説は普遍的体験を描きえるものなのか、疑問に思った。


『あたしのマブイ見ませんでしたか』 池上 永一


4043647018あたしのマブイ見ませんでしたか
池上 永一
角川書店 2002-04

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 むかしの日本人は霊魂をどのように捉えていたかということに興味をもっていたときに気になっていた小説で、いまは小説を読みたい時期なので読んでみることにした。「マブイ」というのは沖縄でいう「魂」のことである。

 むかしの日本人はよく魂を抜けるだとか、抜けない工夫とかをしていたのである。この小説にあるようにそんなことを本気で信じられたのだろうか。魂がうろうろするような世の中って、怪談以外なら、けっこう魅力的な世界観に思えるんだけどな。

 この短編集はそのような不思議で奇妙な沖縄(石垣島)の世界を語ったものである。私は短編を読んでも物語が記憶に残らないことが多いのだが、この作品群はいずれも印象に残った。といってもものすごくよかったわけでも、よくないわけでもなかった。ビミョ〜なところである。

 怪談をめざしているわけでもないし、ファンタジーというよりかかなり現実的な話だし、マブイとかユタなどの神秘的な世界がまだリアルに生きている日常を垣間見せてくれる点では興味が魅かれるのである。

 科学的・合理的世界観はそのような闇の世界を葬り捨ててしまったが、神秘や不可解がのこる世界のほうが魅力的な気がするんだけどなぁ。神秘が日常に同居した生活というのは、われわれも子どものときにもっていたものだし、日本人も何世代か前までは抱いていたものである。頭の中でわかり切ったと思う世界ほどつまらないものはない。


賞賛をモノによって満たそうとする人間


まったくそう思う。橋本大也さんのPassion For The Futureの「成長の限界 人類の限界」の書評での言葉である。

 「人が必要としているのは大型車ではなく、とっかえひっかえの衣服ではなく、賞賛や尊敬であり、ワクワクしたり、他人に魅力的だと思われることなのである。もう一台コンピュータやテレビが欲しいのではなく、自分の頭や感情を満たす興味深い何かがあればいいのだ。求めているのは非物質ニーズなのに、それを物質ニーズで満たそうとするといくらあっても不足してしまう。」

 われわれは賞賛や尊敬がほしい哀れな生き物である。そのために人より稼ぎ、人より高いモノをもとうとする。そういう性根が恥ずかしいと見透かせるようになれれば、われわれの競争は落ち着いたものになると思うんだけど。

 勝つことが羞恥プレイとなる風潮はできないものか。といってもそれは老荘思想がめざしたことであり、アジア的停滞とかいって、ヨーロッパに侵略されてしまうのだけど。


三重県関宿の古い町並み


 東海道53次47番目の宿場町として栄えた関宿を見てきました。参勤交代や伊勢詣でにぎわった様がしのばれました。

CIMG0006112.jpg 往時をしのばせる古い町並みがしっかりと保存されていました。時代劇のような人たちが町を行き交ったのでしょうか。
CIMG00112.jpg 道路がアスファルトではなく、土の道路だったらもっといいのになと思います。ついでに馬とか江戸時代の着物を着た人を歩かせたらもっといいのに。
CIMG00222.jpg 高札場といって、幕府のお触れや宿場の決まりが掲示されたところだそうです。これはリアルさを感じました。
CIMG00322.jpg そば屋ですけど、この木造のつくりはひじょうに味わいがあります。
47seki1.jpg 広重が描いた江戸時代の関宿の様子です。お殿様の参勤交代なんでしょうか。
CIMG00465.jpg 関宿を山から俯瞰するの図です。むこうは鈴鹿の海にひろがっていて、手前をいけば奈良や京都まで奥深い山々が連なります。たしかに境界に位置するところですね。
う〜ん、なんだか田舎の駅舎って感じがしますね。大阪からは天王寺で大和路線にのり、加茂で快速を降り、ワンマンカーの各停にのりかえます。約二時間ですね。

 ▼関宿の地図です。
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『アメリカの鱒釣り』 リチャード ブローティガン


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リチャード ブローティガン Richard Brautigan
新潮社 2005-07

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 ブローティガンがいまごろ文庫になっている。読んでみようかという気になった。『愛のゆくえ』という作品がゆいいつ文庫で読める作品だったから読んだことがあるが、図書館のファンタジーであまり意味がわかるものではなかった。そして今回は――。

 うへへ。「アメリカの鱒釣り」なるものがなんなのかさっぱりわかりませんでした。短い断章ばかりだからすいすい読みやすいのだが、なにを意味するのか皆目見当がつかない。そういう意味やメッセージの拒否がしくまれているのかとも勘ぐるが、あるいはちゃんと象徴されているものがあるのかもしれない。

 ブローティガンはやはり村上春樹がおおいに影響をうけたという点で気になる作家である。初期の村上春樹はこのブローティガンとヴォネガットに強い影響をうけたのがよくわかる。重厚で写実的な物語の拒否は、ポップで現代的なスタイルをもたらしたのである。村上春樹はこの路線から離れていってカッコよくなくなっていった。越える作家はいないものか。


『幻想の地誌学』 谷川 渥


44800858151.jpg幻想の地誌学―空想旅行文学渉猟
谷川 渥
筑摩書房 2000-10

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 未知に対する人間の空想力のすごさを楽しめる本である。テーマは島、月、海、地底、砂漠、密林の美女などで、文学作品を中心に人間の想像力を狩猟してみせる。

 月や地底など人間には知ることのできない未知の領域が、さいきんまではたくさんあったのである。ヨーロッパ人はそこを想像力によって埋めたのである。現代になって、あるいは人は大人になるにしたがって、そういう夢見る世界を失ってゆくものである。たまには神秘や闇の世界を思い出したいものである。


『パイロットフィッシュ』 大崎 善生


4043740018パイロットフィッシュ
大崎 善生
角川書店 2004-03-25

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 しずかな、青春を回想する小説であった。19年ぶりにかかってきたむかしの恋人の電話から物語ははじまり、そのころを回想してゆく物語なのだが、彼女が見つけてきた出版社がエロ本の雑誌だったところから、どうなってゆくんだろうと話はおもしろくなった。

 「人は、一度巡りあった人と二度と別れることはできない」と冒頭でのべられているように、この小説は人は記憶に拘束されて生きるというのがテーマであるようである。大人たちの生き方を否定した高校時代の友人が発狂してゆく様にそのテーマが見てとれる。

 ただ私は過去の記憶をほぼ重要だと思わない人間なので、すぱすぱ忘れ去ってゆくことを信条としているので、このテーマの意味がいまいちわからない。記憶に拘束されてしまうのは自分自身の姿勢の問題だと思う。こういうメロドラマ的姿勢は感傷的な物語を美化するが、心の持ち方としては賢明ではないと思う。記憶と感情に蝕まれるだけであり、そういう姿勢は捨て去ることもできるのである。

 タイトルのパイロットフィッシュは高級魚に適した水槽の環境をつくるために生態系を用意する魚のことをいい、のちには捨てられる。はて?、物語とどう関連しているのかがわからない。


『南方に死す』 荒俣 宏


4087482057南方に死す―荒俣宏コレクション
荒俣 宏
集英社 1994-08

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 荒俣宏の興味やテーマは縦横無尽にひろがっているから、いったいなんの本であるかは整理しにくい。西洋が南の島にみた「楽園幻想」をたどる本といったらいいだろうか。荒俣宏は航海誌や旅行記などの博物学にたいへん興味をもっているらしく、そのへんが中心の本なのだろう。

 西洋は16世紀以降の人口楽園づくりに幻滅し、自然状態こそが楽園なのだと思うようになった。ルソーなどの主張である。それを南の島に見つけたのである。自然の果実はとれほうだいに実り、南の島の住人は労働という原罪から解放されており、裸体で姿をあらわした女性は性に放縦であり、まさしく南の島は楽園だったのである。

 南洋の楽園幻想は文明のネガであり、正反対の概念だったわけである。文明に抑圧されたすべてのものが南洋には存在するように思われた。しかし西洋はしだいに南洋を収奪するようになり、原住民を劣等視や差別して酷使するようになり、自国領にくみいれてしまう。

 現代の歴史すら南洋は西洋に発見されてからの歴史が記述されており、はるか昔にかれらが暮らしはじめた歴史はまったく無視されているのである。

 バリやタヒチ、フィジーやハワイはいまでも観光地としての南の楽園としてイメージされている。文明という抑圧の存在しない島と思い込まれている。それは空想の楽園――人が頭の中で勝手に創り出したディズニーランドのようなものでしかないのではないだろうか。


『未開の戦争,現代の戦争』 栗本 英世


4000263730未開の戦争,現代の戦争
栗本 英世
岩波書店 1999-07

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 戦争を考えるなら、やっぱりヨーロッパの戦争より、未開や人類学の戦争から考えたい。集団の争いの原型があらわれていると思うからだ。(発展史観かな〜?) 広範な人類の争いを見たいと思うのだが、後進諸国へは強い興味がもてないことが問題である。

 著者によると戦争にはふたつのイメージの原型がある。始原状態の人間は戦争を常態としていたホッブス的人間観と、文明の害悪に染まっていない無垢で平和的な高貴な野蛮人というルソー的人間観である。人類学はそのふたつの類型にあてはまることになる。

 本書は未開民族のいろいろな戦争の形態がのべられたり、人類学の成果があげられりたりしているのだが、私自身の興味のなさから少しばかりの参考になった本という位置づけになるだろう。私自身は集団はなぜ争い合うのか、もしくは集団内の闘争はなぜひきおこされるのか、ということを考えたかったのである。

 現代の戦争は約九割が第三世界で生じており、約4500万人が死亡した。85年以降は国家間ではなく、国家内の戦争なのである。ルワンダの94年の内戦では50万〜100万人の市民が殺戮され、スーダンでは93年の内戦で犠牲者は200万人に達したという。私たちやマスコミは西欧のほうばかり目を向けているから、世界の現状というものをかなり偏ってしか見ていないのではないかと思った。


阿修羅ガール』 舞城王太郎


4101186316阿修羅ガール
舞城 王太郎
新潮社 2005-04

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 女子高生のうだうだしたひとり言文体はかわいかった。好きでもない男とエッチして悩むような日常的な物語がえんえんとつづけばよかったと思うのだけど、二部からは話が飛んでワケがわかんなくなる。

 アルマゲドンという凶暴な騒乱や、音や声を発すると怪物に殺される森の物語、三つ子を殺したグルグル魔人の独白なんかが出てきて、話についてゆくのがかなりむづかしくなる。

 私が解釈するには自己嫌悪や自己憎悪が殺戮や凶暴性をまねくのだ、この物語に出てくる女高生や森の怪物、子どもを殺したグルグル魔人に通底するのはそれらなのだといっているように思う。

 ある仏像職人がなんども阿修羅像を壊して新しくつくりなおしたように、自分たちを嫌悪し破壊しようとする心に殺人や凶暴性が宿るのだといっているように私には思われた。――かな〜?

 まあ、おそらくこのころは犯罪少年ブームで、そういう少年たちの心を主題にしたのではないかと思う。いまはそういう話題はウソのようにすっかりなくなり、マスコミと心理学者が結託したあの犯罪少年ブームってなんだったのだろうと思う。マスコミという知識の商売に乗せられただけなのだろうか。マスコミによる自己反省がまったくなされていない。

 舞城王太郎という作家は純粋に作品だけを評してもらたいから世間にはいっさい顔を出していないそうである。たしかに作家がアイドルとかヒーローになるのは恥ずかしい。自我のナルシズムの肥大を小説はまねいているように思われる。そういう物語自己はコッ恥ずかしい。「物語的自己に酔う私」というのがいやだったから、私は小説を読めなくなっていたんだっけ。

 舞城王太郎はけっこうおもしろそうだからまた読もうかな。


むかしの民家は安らぐなぁ。


 服部緑地にある日本民家集落博物館にいってきました。ハイキングで山里のわらぶき屋根を見つけて、むかしの家ってなんともほっとするな、と思うようになったので、いちど見たかったのです。写真です。

CIMG00066.jpg これは宮崎県日向の民家です。わらぶき屋根の家って自然にとけこんでいて、ものすごく素朴な感じがするのだな。
CIMG0008_2.jpg 木造だらけの部屋にいおりが囲まれています。
CIMG0012_2.jpg 牛や馬の小屋です。私のおばあちゃんの家にもまだ牛小屋があったように記憶します。それにしても牛や馬はりっぱな屋根つきの小屋に住まわされたものですね。
CIMG0014_2.jpg 白川郷の合掌造の民家です。20〜40人の大家族が住み、長男のみがヨメトリし、あとは通い婚だったそうです。この民家はやっぱり長野県のロケーションで見たいな。
CIMG0018_2.jpg 便所ですけど、私のおばあちゃん家(徳島県)の便所は家から離れていて、夜はコワくていけなかったなぁ。
CIMG0026_2.jpg かまどです。なにか手作りっぽい、だんごを積み重ねたような稚拙なつくりでしたけど、これでりっぱに役に立ったんでしょうね。
CIMG0033_2.jpg 真夏の陽射しの中、見るからに暑苦しい信濃秋山の民家。豪雪地帯だったそうで、マンモスの足みたいな外観はさぞかし寒さを防いだことでしょうね。
CIMG0036_21.jpg 玄関の入り口もやたら小さくてかがんでしか入れません。入ると、左手にお馬さんの部屋がありました。ずいぶん高待遇ですね。
CIMG0044_2.jpg 十津川村の板張りの民家。雨がよく降る地域だそうで、木造の家はけっこうモダン?でありました。
CIMG0057_2.jpg 風呂桶です。ガスや電気がなくともじゅうぶんにお風呂に入れるものだなと思いました。
CIMG0079_2.jpg 緑の山に囲まれた中で、こんなわらぶきの家を見るだけで心が安らぎます。コンクリートやモルタルの都会はちっとも安らぎをもたらさないと思います。

『人はなぜ戦うのか』 松木 武彦


4062582139人はなぜ戦うのか―考古学からみた戦争
松木 武彦
講談社 2001-05

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 「人はなぜ戦うのか」という本というより、古代日本はどのような戦争の変遷をへてきたかという本である。だから哲学者が考えるような原理・原則の本ではない。私はもちろん哲学者が考えるような戦争原因論を読みたかったのだが、古代史をすこしかじったことがあるので、そっちのほうの興味からもこの本を読んだ。

 考古学からいろいろなことがわかると感心した。著者は農耕社会が不作のリスクが大きいがゆえに戦争がはじまったと見る。また、古代の倭国家は各地に近畿と同等の古墳がつくられたことから、強力な中央集権がかたちづくられたのではなく、各地の英雄が倭の政権を擁立したと見る。なるほどである。独裁権力が成ったのなら、巨大な古墳など各地につくらせなかっただろう。

 著者は戦争の発生メカニズムには二つの視点があるという。人口と資源の関係であり、あとひとつは地位と名誉、理念のコンセンサスである。経済と名誉のこのふたつが絡まり合って、戦争を生みだしているといえるだろう。


『異文化への視線』 佐々木 英昭編


CIMG00011114.jpg異文化への視線―新しい比較文学のために
佐々木 英昭
名古屋大学出版会 1996-03

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 私は西洋がいかにみずからを優越したものとして思い上がり、他国家や他民族を見下したかということを知りたかった。他集団への差別意識がどのようなものか、えぐり出す本を探していたわけである。

 そういう意味ではこの本は参考にはなったが、政治的恐ろしさを喚起させてくれるものではなかった。優越意識は侵略や支配や虐殺をもたらしてきたのであり、たんなる優越感のみに還元できるものではないのである。

 この本はさまざまな文学者をとおして西洋コンプレックスや西洋崇拝、あるいは西洋の他者蔑視などをとりあげていて、バラエティー豊かな異文化への視線を見ることができる。島崎藤村、徳富蘆花、ラフカディオ・ハーン、夏目漱石、またはエドガー・アラン・ポウ、ジュール・ヴェルヌ、T.S.エリオット、ディドロ、モンテーニュ、などかとりあげられている。

 自集団というのはたえず他集団への劣等感にとらわれたり、優越感をもって蔑視したり、序列意識にとらわれているものである。西洋からサルと同等にまなざされるをえなかった日本人は西洋化をめざし、反転してアジアを蔑視するまなざしを手に入れた。集団や国家はこのような比較序列から自由になる道はないものだろうかと思う。

 あと、気づいたことは、科学も西洋中心主義そのものにほかならないということである。真理や普遍性を主張する科学も、西洋の帝国主義に染め上げられているのである。科学も西洋帝国主義であるという視点はしっかりともつべきだと思う。


『山背郷』 熊谷 達也


4087477649山背郷
熊谷 達也
集英社 2004-12

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 かなりよかった。山や海で生きる人たちの姿を描いて、サラリーマンや会社生活しか送るしかない現代人とはべつの生き方を夢想させてくれるという点で、これはかなり興味津々に読めた。

 都市生活者のわれわれの何世代か前の人たちはこのように自然に向かって生きていたのだ。私はそのような猟師や漁師の生き方とはどのようなものだったのか、漠然と興味をもっていた。せせこましい会社生活以外のほかの生き方はできないのか、という興味があったのである。

 舞台は東北だが、海や山で生きる人たちの内面や生き方を垣間見れた。おそらく民俗学に興味がある人や、網野善彦の農耕民族以外の日本人に興味がある人には、かなり楽しめるのではないかと思う。

 ただ物語の深みや感嘆させる結末などはなくて、物語としてはあまりうまくないように私には思われた。民俗学的、歴史的日本人といった姿を見るにはひじょうに適していると思うのだが。

 いまごろなんでこんな作風の作品が出てきたのだろうと思うが、著者の熊谷達也は1958年宮城県生まれで、動物好きの作者はニホンオオカミの調べものをしているうちに東北の歴史に興味をもったようである。

 人の顔色ばかり気にしているサラリーマンやひ弱になった都市生活者は、かつて大自然の中で骨太に自然と対峙して生きてきたたくましい日本人の姿に、憧憬と畏怖の念を感じないわけにはゆかない。あ〜、こんな野性的な生き方ができたらなあと思う。


『大英帝国のアジア・イメージ』 東田 雅博


4623026175大英帝国のアジア・イメージ
東田 雅博
ミネルヴァ書房 1996-03

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 私としては「文明のリーダー」を自認した国の放漫さや思い上がりをもっとえぐり出してほしかったのだけど、この本はそういうことに関してはおとなしめだったので、あまり期待以上の収穫はなかった。

 ヨーロッパの先進国というのは自分たちの文明を最高なものとみなし、アフリカやアメリカ先住民、アジアの民族や文化を徹底的に蔑視した。ヨーロッパの人文科学というのはその思い上がりと蔑視のプロパガンダのなにものでもない。人類学や進化論はヨーロッパ文明や民族を頂点に置く捉え方を無前提に根底にすえているものである。私はそのような知識の自文化中心主義を探りたかったのである。

 この本はヴィクトリア時代のイギリスの総合雑誌の言説を探っており、それはたいへんな労作業だったと思うが、論者によってはさまざな意見があるので、統一した見解を見ることができないのでもどかしい思いをした。

 インド、中国、日本がどのように語られてきたかということがのべられているのだが、インドや中国はたいそう蔑視されているのに、日本はかなり評価が高かった。西洋化の優等生だったということ、なびかないインドや中国にたいする憤りの反動だったそうである。

 文明の中心から離れたヨーロッパが世界史の中心に躍り出たとき、ヨーロッパは他文明を見おろすという放漫さを味わった。科学や知識もみずからを頂点に置き、他文明を劣位に置くという序列をせっせとつむぎつづけた。

 ヨーロッパの超越性を真に受けた日本人もその「教典」をありがたく受けとったのはいうまでもない。私たちはそろそろ知識の「帝国主義的」性質というものをしっかりと見抜くべきではないだろうか。

 知識は真理ではない。自己の優越性の証明のことである。


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