『国境の越え方―国民国家論序説』 西川 長夫


4582763804国境の越え方―国民国家論序説
西川 長夫
平凡社 2001-02

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 「文明」や「先進国」という言葉はものすごく差別的な言葉である。「先住民」や「後進国」をおとしめ、差別するばかりか、階層をつくり、ときには支配の正当化や虐殺がおこなわれたりする。

 なぜそれらの「優秀イデオロギー」が疑問にさらされたり、反省されたりしないのか、ふしぎに思う。「文明優秀説」はあまりにも当たり前すぎて、問われることもない。危険である。

 問うてみれば、あんがいかんたんな言葉や説明で事足りる気がするのだが、なぜならそれはだれもが自明なものとして感覚で知っているからだからだ。われわれはどの国が先進国でどの国が劣っているのか肌で知っている。そしてどの国をバカにするかわかっている。その自明性が問われないことがおかしい。

 この本はその文明や文化を問うた本だが、まだ思索中というか、検討中の感じがして、すこし消化不良になりそうだ。ただ文明や文化を政治批判的に読み込んだ重要な内容をもった本であることはまちがいない。

 この本は「国境」や「国民国家」を解体することが目標なのだろうか。文明や文化という概念はそれらを強化する方向にはたらいてきたのである。それを批判的に読み解いている。

 私はこのあと先住民像や植民地についての本を読みたいと思う。文明が劣悪視するそれらの表象のなかに優越と劣等を序列づけるイデオロギーを読みとりたいと思う。私はこの階層づけ、差別する価値基準の解体をめざしたいのである。

 名文をひとつ。
「知あるいは文化には本来的に他者に対する支配の意志が内在しているのではないか」


手塚治虫の育った宝塚を歩く


 手塚治虫は5才から24才の昭和10年代を宝塚で育ちました。私には一度マンガの天才の生まれ育った地を見てみたいという気持ちがありました。手塚の旧家はわかりませんでしたが、現在の様変わりした宝塚を見ることができました。

 宝塚歌劇があり、いぜんは宝塚ファミリーランドがあり、阪急の小林一三がつくったエンターティメントの街という感じがしました。ただ大阪平野の北限にあり、山を削り、山の上にへばりつくように高層マンションがたちならぶ現在の様は、神戸の町並み同様、なにかおぞましいものがありました。

 ちかごろはこの路線の大阪寄りで列車脱線事故があり、手塚の母校である池田小では殺傷事件があり、十年前には阪神大震災がありました。手塚の育った地域が崩れてゆくという感じがします。

CIMG0008.jpg 駅を南に下るとぴかぴかな高層マンションやホテルがたちならびます。この街は一戸建ての街というよりか、マンション礼賛の街という感じがします。さらに南は六甲山系です。
CIMG00092.jpg 宝塚大劇場です。男の私にはまったくわからない世界です。手前の武庫川はすぐに山奥の景観を誇る武庫川渓谷に入ります。
CIMG00171.jpg 手塚治虫記念館です。手塚ファンの巡礼の地みたいになっています。私は『ブラック・ジャック』の生原稿のホワイトで修正したあとや、セリフの切り貼りが見れてよかったです。
CIMG00232.jpg 手塚の旧家がある御殿山方向は、裏宝塚とよべるほどさびれている感じがしました。閑静な住宅地ではありますが。いきなり坂道がえんえんとつづきます。
CIMG00331.jpg 御殿山をのぼったあたりから宝塚市全体が見渡せます。むこうの六甲山系のすそ野を削りとるように新興住宅地がならびます。
CIMG00404.jpg さらに上にのぼれば、巨大なマンション群がたちならびます。エスカレーターがなければ昇れないほど急勾配です。バスや車がなければ、ここまでこれないくらいです。
CIMG00472.jpg こちらは豪華な阪急宝塚駅です。もちろんデパートがあったり、宝塚歌劇寄りです。
CIMG00464.jpg その北側にはどこにあるかわからないほどのJR宝塚駅があります。このへんに脱線事故をおこすほどの焦りが見えるようです。JRは長距離にはいいのですけどね。もうほんとに輸送機関だけですね。

 ▼参考リンク
 手塚治虫の大阪を歩く 東京紅團

 mfweb7.gif 宝塚市御殿山付近の地図。

「文明」と差別


 無前提に「文明」をもつものが偉くて、「未開」なものが劣等なものだという認識が当たり前のように浸透している。たとえばそれは「先進国」や「後進国」という言葉にもあらわれているし、「都会」と「田舎」、「勝ち組」や「負け組」、「上流階級」や「下層階級」にも同じようなヒエラルキー(階層秩序)が込められているのだろう。

 「文明」という言葉や価値基準は、差別概念なのである。その優位基準があるために、劣位のものは貶められ、さげずまれ、差別され、抑圧される。

 さらにいえば、近代ヨーロッパはその「文明でない」ものたちを侵略し、虐殺し、支配してきた。「未開」で「野蛮」で「劣等人種」だから、「文明国」はそれらを自由に支配してもよいと正当化してきたのである。文明開化をとげた大日本帝国も朝鮮や中国に同じような考えをもったのはいうまでもないだろう。

 劣ったものたちは「優れた」自分たちが支配しようが、管理しようが、あるいは虐殺しようが自由なのである。自分たちが優れているからそれは認められるばかりか、文明を導くための「義務」とさえ思わせるにいたるのである。とんだ自分勝手な、迷惑どころではない優越基準である。

 「文明」という価値観はいったいなんなのだろう。先進的であり、高度であり、優越しているという「思い上がり」をもたせるそれはなんなのだろう。差別や排除や支配をもたらすその概念や価値観にはなにが秘められているのだろう。

 われわれだって「田舎」より「都会」に住みたいと思うだろうし、なにもない「田舎」をバカにしたり、「金持ち」に憧れて「貧乏人」をさげずんだり、「ブランド品」をもって「安物」をけなしたり、「知性」を誇って「低能」をおとしめたりするだろう。そういう優劣基準の大元みたいなものが「文明」概念なのである。

 「文明」を優越基準としたばかりに、差別や虐殺や侵略、植民地化はおこなわれてきたのである。「文明」というきらびやかな価値観はとんでもない「悪魔」としかいいようがない。無前提に「文明」は優れているという「イデオロギー」には染まりたくないものである。「文明」を反省せよ。


『アポロの歌』 手塚 治虫


4061086359アポロの歌 (1)
手塚 治虫
講談社 1977-10

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 手塚が永井豪の『ハレンチ学園』に触発されて描いた性と愛の物語。母親の性の乱れから動物虐待をくりかえしていた少年が愛の女神によって報われない愛を罰として与えられつづけるイタイ物語である。悲恋を味わえるというよりか、もうマゾイスティックである。

 手塚は多くの作品の中に恋愛の要素はとりあげたが、恋愛マンガはうまくはなかった。そこから少女マンガの学園恋愛モノは興隆したし、手塚に欠けていたスポ根モノも興隆した。昭和のマンガ界は手塚のすきま産業で成り立っていたのかもしれない。

 マンガに性を求める衝動というのは強いものである。エッチなものや裸ばかりマンガに求めるようになった私はなんとなくこの方向がいやになり、マンガから離れてゆく契機になったように思う。そればっかりかよという気になった。虚構に向かう性衝動はとめておいたほうがいいのか、とめないほうがいいのか、私にはわからない。

 ただこの物語が表わしているように性を憎むことはみずからを罰することになるのを覚えておいたほうがいいだろう。性への憎しみは自分の愛をも奪うのである。


『グレイテスト・ヒッツ』 クイーン


B00002MMM2グレイテスト・ヒッツ
クイーン フレディ・マーキュリー ジョン・ディーコン
東芝EMI 1994-06-22

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 クィーンはなんといっても『地獄へ道づれ』がシブかった。この曲のシブさは異様だった。思わずレコード・シングルを買うほどのお気に入りだった。

 『愛という名の欲望』の軽快なノリのロックはかなり気に入った。『フラッシュ・ゴードンのテーマ』はまあまあよかったかもしれないが、映画のほうはおもちゃみたいだった。『Radio Ga Ga』はフレデイ・マーキュリーのナルシズムぶりが際立っていたなぁ。

 あとのほかのクィーンの曲はそんなに好きではない。『ボヘミアン・ラプソディー』なんか際物っぽい曲だし、『ウィ・ウィル・ロック・ユー』は最近のドラマに使われたりしているが、押しつけがましい曲に思えるし、『伝説のチャンピオン』もナルシズム性がどうもなぁ。

 フレディ・マーキュリーというのはまったくマッチョ・ホモの典型のような人だった。唄っているときの壮絶なナルシズム的真剣さは私にはついていけないなぁと思った。三島由紀夫もこういうナルシズム・ホモの系統に走っていたように思うのだが。

このナルシズムさはカッコよさより、こっけいさに私には見えるし、そういうことを求める方向性が私には理解できない。女性の美の欲望が男性にあらわれるとこうなるのかなぁ。もしかして日本の戦国武将ってナルシス・ホモだったりして。

 Greatest Hits, Vols. 1 & 2Hot Spaceザ・ゲームザ・ワークス

   

『「日本文化論」の変容』 青木 保


4122033993「日本文化論」の変容―戦後日本の文化とアイデンティティー
青木 保
中央公論新社 1999-04

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 日本文化論は山のように出ている。その内容に埋没するのではなく、時代によってどのような説が主流になったのか客観的に見る視点は必要である。時代や人々が必要とした言説や「イデオロギー」がどのようなものだったのかよくわかるからである。

 戦後まもなくは「否定的特殊性」の時代であり、ベネディクト『菊と刀』や坂口安吾『堕落論』、桑原武夫『現代日本文化の反省』が出た。55年から63年には「歴史的相対性」の時代とされ、加藤周一の「日本文化の雑種性」、梅棹忠夫「文明の生態史観」が代表的なものである。

 64年から83年は「肯定的特殊性」の時代とされ、中根千枝『タテ社会の人間関係』や作田啓一「恥の文化再考」、土居健郎『甘えの構造』、濱口恵俊『日本らしさの再発見』、村上・公文・佐藤『文明としてのイエ社会』、ヴォーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』などがとりあげられている。

 84年からは「特殊から普遍」の時代であり、尾高邦雄が『日本の経営』を反省的に再論をおこない、デールが『日本的独自性の神話』を、ウォルフレンが「日本問題」を書いた。

 自分たちを否定的に見る見方から、相対的になり、肯定的になり、放漫になり、アメリカとの貿易摩擦で批判的に叩かれる歴史がくりひろげられたわけだ。

 著者は日本文化礼賛に生理的な嫌悪感を覚えたそうだが、この本はどちらかというと批判的ではなくて甘口の客観分析のように思えて、ちょっと退屈だった。もっとイデオロギーとしての、ナショナリズムとしての日本文化論を支配や権力の正当化の神話として読み解いてほしかった。でないと反省や興味が強くおこらないと思うのだが。


『グレイテスト・ヒッツ』 ベット・ミドラー


B00005HDR6グレイテスト・ヒッツ
ベット・ミドラー
イーストウエスト・ジャパン 1993-07-25

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 ベット・ミドラーは感動的で、陶酔的な歌を唄う。『ローズ』はピアノの寂しげなイントロから入り、人生や女性の応援歌のような曲で、勇気をもらえる。たぶんどこかでふいに聴いてしまうと涙がこぼれそうになる。

 『愛は翼に乗って』は陶酔的な曲の盛り上がりがあって、『ローズ』と『ディスタンス』も聞き込みたいから、思わずアルバムを買おうと思ったのだけど、この憎たらしそうな女性の深みに入る気にはなれなかった。いや、たんにベスト盤が見つからなかっただけかもしれない。

 曲は感動的なんだけど、顔を見るかぎりはかなりイヤそうな女に見えるのがふしぎだ。映画とのコラボレーションが多く、やっぱり悪役で出てきそうな気がするんだけど(笑)、違うみたいなのがふしぎだ。ベスト盤を買おうかな。

ローズSome People's Livesベッド・オブ・ローゼズエロスの囁き

『Cry Like a Rainstorm,』 Linda Ronstadt


B000002H7ECry Like a Rainstorm, Howl Like the Wind
Linda Ronstadt
Asylum 1989-09-25

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 アーロン・ネヴィルとのデュエット曲、『ドント・ノウ・マッチ』。この陶酔的な歌声のアーロン・ネヴィルにものすごく惚れた。チャルメラ・ラーメンのような(?)歌声にはまいった。この人のソロ・アルバムを探したかったのだけど、ソロで歌っていたのだろうか。

 リンダ・ロンシュタットのこのアルバムはよく聴き込んだ。パワフルな声とメロディアスなポップス、そして『ドント・ノウ・マッチ』。女の歌声を聞きたいときにはしぶとく聞き込めるアルバムだった。

 リンダ・ロンシュタットは大物だということだが、私はほとんどその活躍を知らない。80年代にはそんなに活躍してなかったように思うのだが。『トラブル・アゲイン』はカーラ・ボノフでヒットしたということだが。『涙がいっぱい』だったか、『涙に染めて』かわからなくなった。

 ほかに『サムホエア・アウト・ゼア』はジェイムス・イングラムとのデュエット曲で、アニメ『アメリカ物語』の主題歌だが、ものすごく好きだ。ビデオではそのアニメが使われていて、緊迫したシーンが曲を盛り上げていた。また見たいな。

『とは何か』 大塚 英志


4480061967<伝統>とは何か
大塚 英志
筑摩書房 2004-10-06

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 伝統がさいきん必要からつくられたことや、柳田国男の政治性など、興味魅かれることや銘記したいトピックなどいくつかあったが、なにかぜんぜん核心に近づいていない気がしてならなかった。いろいろ寄り道してどこに行こうとしているのかてんでわからない。どうも私は大塚英志という人は合わないのかもしれない。『おたくの精神史』ももっと抑制して削りとってくれと思ったし。

『きりひと讃歌』 手塚 治虫


4091920012きりひと讃歌 (1)
手塚 治虫
小学館 1994-11

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 これはどう評価していいかわからない。医学部の教授に生体実験のようにされ、モンモウ病という犬のような顔になる病気にかかり、見世物として売られたりするストーリーを描いている。

 『白い巨塔』に触発されて描いた作品だと思うのだが、医学部の権威主義や名声のようなものが告発すべきテーマには私には思えないのだが。医者が患者を生体実験のように見なすのはどちらかといえば当たり前っぽい気がするのだけれど。

 子どものときに読んだ私には四国の山奥の因習的な村や、ごちそうのかわりに女体がさしだされるなんて、みょうに印象に残ったなぁ。

 それにしても手塚は『バンパイヤ』や『火の鳥 太陽編』など人間が犬になる物語をよく描いたな。「文明」の差別としての「獣」側に身をおくことによって、文明の権力性や身勝手さを告発したのだろうか。差別され、虐待される獣としての人間の気もちを文明人も知れということか。文明の放漫さは大切なメッセージである。


『ポストコロニアリズム』 本橋 哲也


400430928Xポストコロニアリズム
本橋 哲也
岩波書店 2005-01

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 まったく子どもっぽいことだが、西欧や先進国は自分たちの基準をもって自分たちは優れたものだと思いたがる。客観中立なはずの知識や学問もあからさまに自文化優越主義をとなえ、恥じることもない。

 歴史学や学問には情けないほどの自文化優越主義の正当化がおこなわれている。そしてそれが恐ろしいことに未開地の植民地化を正当化するばかりか、義務とさえ思わしむるにいたる。西欧は自分たちは優れた教師と思ったばかりに虐殺や侵略をともなう世界の植民地化はおこなわれてきたのである。

 植民地化の前にはそれを正当化する知識や学問が発展する。食人種が描かれたり、未開で野蛮で非文明的な人種像がかたちづくられる。「ヨーロッパ人は、奴隷と怪物を拵えあげることによってしか、自己を人間とすることができなかった」(サルトル)。 東洋像とは自らがそうあってはならない負のイメージなのである。そしてそれが侵略の正当化や義務にもちいられるのである。

 手前勝手な「優越と劣等」という図式をもっているかぎり、国家規模での虐殺や侵略は終わらないと思った。また知識には優越主義と差別主義が深く染みこんでいることに警戒しなければならないと思った。「優れた私たち」という考え方の恐ろしさを、深く反省しなければならない。

 この本では食人種やファノン、スピヴァクといった人たちが紹介されていて、平明な入門書となっている。

 ▼参考リンク
 ヨーロッパ人による「歴史の改竄」という問題 - るいネット


『ジャングル大帝』 手塚 治虫


4061086014ジャングル大帝 (1)
手塚 治虫
講談社 1977-06

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 これだよ、この表紙だよ。私がはじめて手塚治虫と出会った作品で、ぼろぼろになるまで読み返したものである。昭和52年、私が10才のときだった。それいらい、手塚の作品を読み漁った。僥倖の時期であった。

 子どものころは動物が好きなもので、シートンの『狼王ロボ』が好きだった私はこの作品のさいしょにあらわれるレオの父親パンジャに憧れたものである。

 きょう、マンガ喫茶で読み返してみてびっくりした。テーマがまったく文明礼賛だったからだ。未開で野蛮で後進的な動物たちをみちびいて、文明の先進的で進歩した知識や技術を教えるという恐ろしく植民地主義的な内容であったとはまったく知らなかった。

 ジャングルの動物たちが言葉や読み書きを教えられたり、道路や宮殿を建てたり、伝染病を進歩した人間の医学によって救われるという極度に無邪気な文明礼賛論だったのである。

 文明をそんなに讃美していいものかと思う。文明の負の遺産を経験しつつある私たちには手放しの文明讃美をもう唱えられないし、劣った文明を優れた文明が啓蒙するという考え方は世界の植民地化のイデオロギーにおおいに利用された歴史を知っているのである。

 もちろんこの作品が描かれたのは戦後まもなくであり、公害もオイルショックも経験しない高度成長期いぜんのことである。だけど高度な文明が無邪気にすばらしいという思想は、たしかにいまでも先進国と日本を比べるニュースからもうかがわれるのだが、もうこういう二分法からは脱却しなければならない。後進国を差別したり、侵略のいいわけに用いられるし、そして人生の意味も空疎になってしまう。私たちはこの後のつぎの時代を迎えているのである。

 アニメのオープニングはこんな感じでした。雄大な音楽がよかったね。(YouTubeの映像はあまりよくないです)

『人間昆虫記』 手塚 治虫


kontyuki1.jpg人間昆虫記
手塚 治虫
大都社 1986-12

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 見事な作品であった。いぜんはグラフィックデザインで世界的になり、こんどは芥川賞を受賞した女性が、他人の才能を完璧に模倣する女性であることがわかってゆく。

 秘密を知ったものは殺されてゆくわ、利用できるなら自分の肉体はかんたんにさしだすわ、エリート商社マンと偽装結婚をおこなうわ、成功や頂点にのぼりつめるためなら手段を選ばない。模倣された者は破滅してゆく。『人間昆虫記』とは蝶々のようにさなぎから蝶に変態するさまをいっているのだろう。

 この作品でいっているのは、おそらく日本の経済的模倣や文明の模倣のことをいっているのだろう。文明というの模倣によってなしとげられ、そのお株を奪ってゆくものである。日本の経済的成功がアメリカの模倣であったように。日本もいずれ後進国に模倣され、追い越されるのだろう。模倣の怖ろしさと、利用できるものはすべて食い尽くす女の怖ろしさ(と魅力?)を感じさせる作品であった。

 しかし彼女は満たされない。死去した母親の蝋人形に裸で甘えてみたり、かつて才能を模倣して裏切った男が忘れられなかったり。せつなさやさみしさが彼女からは抜け切らないのである。成功や名声の空しさや病理面がそこには立ち現れているのだろうか。それらに魂を売った日本人の姿が透けて見えそうである。


『99 Luftballons』 ネーナ


B0000025ZI99 Luftballons
Nena
Epic 1990-10-25

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 84年に西ドイツからいきなりアイドルのような風貌で大ヒットしたネーナ。あどけない顔とちょっと舌ったらずのような唄い方、そして衝撃のわき毛(笑)。ビデオでは爆発するシーンが出てきたように反戦的な音楽だったのかな。一曲か二曲だけスマッシュヒットを出して消えていったけど、ドイツでは結婚後もソロ活動をつづけているらしい。

 アメリカで西ドイツのロックがヒットするのはかなり珍しいと思う。アメリカにとってのドイツ人というのはどのようなイメージなのかな。ヒトラーの時代のイメージが若者にはもう強いとは思われないし、工業国でカルチャー的にはあまり学ぶものがないと思われているのかな。イギリスやオーストラリアのようにぞくぞくとアーティストを迎え入れたわけでもないから、英米圏のように親近感はないのだろう。

 ドイツにとってのネーナは、日本にとっての坂本九『スキヤキ(上を向いて歩こう)』のような存在なのかな。何でこの曲だけが、というナゾの曲である。やっぱり「わき毛」進出なのかな(笑)。


「働きたくない」と貨幣経済


  namakemono1.jpg ブリューゲル『怠け者の天国』1567

 一日の大半を仕事に奪われ、何で自分の人生がないのかと私は思ってきた。もっと自分の時間や好きなこと、自分のための人生がほしいと思ってきた。

 働かなければメシが食えなくなるのはとうぜんである。われわれは貨幣経済の中に生きていて、お金がなければ食べ物も衣服もサービスやモノも買うことができない。貨幣経済の中で暮らしてゆくにはいくらかのお金をもたなければならない。だから私は働かなければならない。

 学生が終わるころまではだいたい親の庇護のもとで生きている。だからそれが当たり前になってしまって、働かなくともお金が手に入る環境にいる。親は働きたくないとも文句ひとつもいわずに機械のように働いているから、親のお金を当てにできる。しかしこれは一人前のオトナともいえないし、屈辱的ですらある。

 家を出るとすべての生活資金は自分で稼がなければならない。自分の時間がほしければ、働く時間を減らせばいい。しかし会社というところは人間の全時間、全人生を奪い取ろうとする。少ない時間で多くのお金を払うわけがない。少ない金で長い時間働かせようとするのが貨幣経済での会社のとうぜんの計算方法である。

 お金の経済というのはお金によって「他人のため」にサービスすることである。お金はともすれば「自分のため」だけに生きようとする人間を、お金によって他人に奉仕させようとするひじょうによくできた仕組みである。お金を必要とするためにわれわれはしたくもない他人への奉仕やサービスを強制的におこなわざるをえないのである。お金がなければ人はそんなことをしただろうか。

 この社会はなぜか必要最低限のお金を稼いだら仕事はしないといった方向に進まなかった。かわりに全人生を会社や仕事に捧げ、自分のための人生を失う。お金が増えればあれもほしい、これもほしいとなり、ステータスや高級品もほしくなり、しまいには健康保険や老後年金もほしいとなって、とうとう自分の人生を生きる時間をすべて仕事や他人のためのサービスに捧げることになってしまう。

 さいきん思い始めてきたのだが、日本人はナショナリズムや国家優越のために会社主義や労働主義をおこなっているのではないかということだ。日本国家の経済での優越を必要とするためにわれわれは労働や会社に人生を奪われなければならないのではないかと思う。日本が優越しているというイデオロギーのためにこの「勤勉マシーン国家」は止まる事ができないのではないのである。

 私はあまり働かずに少ない金で暮らす道を選びたかった。だが30代半ばを越えると求人はほとんどなくなってゆくのである。後は会社の長い時間少ないお金の計算方法に従ってゆくしかない。そして私は一日のわずかな残り時間で自分の楽しみを追い求めるしかないのである。

 貨幣経済が悪いのか、あるいは日本という国家や会社がわれわれから自分の人生を奪うのか。自由な時間、自分のための人生をとりもどせる時代はいつか来るのか。

 あるいは自分のための時間という考え方自体が貨幣経済の他人のサービスの魅力ゆえにおこる発想法なのであって、少ない稼ぎでは自分の時間などほしくなくなるものなのだろうか。他人のサービスを必要とすれば、私はもっと働かなければならず、そしてサービスを享受する時間さえ得られないというジレンマに囚われる。貨幣経済の欲望とは無間地獄のようなものである。


『ジェイコブス・ラダー』


B00005FXISジェイコブス・ラダー
エリザベス・ペーニャ ティム・ロビンス エイドリアン・ライン
ジェネオン エンタテインメント 1999-12-10

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 きのうサンテレビでやっていたのでまた観た。『ジェイコブス・ラダー』は私の好きな作品である、というか、じわじわと衝撃を与えた作品である。

 ベトナムから還ってきた元アメリカ兵が戦闘のすまさじさを何度もフラッシュバックしながら日常を送る物語で、すべては衝撃のラストに収斂する作品だ。アメリカに還ってきていたと思っていたが、これらはすべてベトナムで見た死の直前の白昼夢だったわけである。

 不可思議で不気味な雰囲気がいい。謎だらけの雰囲気が私には惹きつけるものがある。ただ退屈に感じる人もいるだろうけど。

 アメリカの日常が死の直前の白昼夢にしか過ぎなかったというラストが衝撃なのは、これはわれわれの時間の感じ方をも表わしているからだと思う。終わったことや過ぎ去ったことは、もはや記憶や思い出としか思い出せない。それは空想とか、存在したか存在したかもわからなくなるレベルのものである。

 われわれの死の直前にも、人生はもはや空想とか想起でしかない。存在したかも存在しなかったかもあやふやになる。おそらく死ぬときの人生の感じ方とはそのようなものだと思う。だから宗教では想いとか心、思い出にしがみつくなといっているのである。この『ジェイコブス・ラダー』が衝撃なのは、われわれの人生のそのようなはかない砂のような感じ方を表わしているからだ。

 新しい恋人や離婚した家庭、交通事故で死んだ子どもと生きているときに出会ったりするのはなぜなんだろう。人生の後悔や悔恨がそれらの想起を思い出させたのだろうか。

 ベトナムで攻撃性を誘発させる幻覚剤がつかわれ、仲間同士で殺しあったというストーリーも出てくるが、これは戦争の本質を表わしているのだろうか。

 なお、『ジェイコブス・ラダー』というのは『旧約聖書 創世記』に出てくる「ヤコブのはしご」のことで、雲の切れ間から射す光のことをいい、ふだんでもよく見かける神々しい光のことである。天の門と考えられている。日韓ふたつのドラマ名にもなった『天国の階段』のことである。

『オリエンタリズムの彼方へ』 姜 尚中


4006001193オリエンタリズムの彼方へ―近代文化批判
姜 尚中
岩波書店 2004-04

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 ちょっと言葉が難渋すぎて、オリエンタリズムの入門書のつもりで読んだのだけれど、もう一冊入門書を読まなければわからないと思った。フーコーの紹介はほかの人がいくらでもしているのだから、難解=高尚みたいな独りよがりの文体はもう読みたくなくなるのだけれど。

 オリエンタリズムというのはかんたんにいえば、西洋が東洋をおとしめる見方、先進国が後進国を蔑視することではないのか。こんな視点はだれだってわかるだろう。難解になるべきかは疑問である。

 植民地政策には学問が先行した。オリエンタルは「「後進的」「退行的」「非文明的」「停滞的」と結びつけられて、それは学問によって正統化されたのである。

 現代人の錯覚によると、知識というのは真理や自由の領域であり、権力とまったく関わりないと思われている。しかしフーコーによるとそれはまったく逆で、知識にはさまざまな権力が結びついており、自由の領域などないことになる。私はいまこの知識の政治性こそ暴きたいと思っているのである。

 日本帝国も朝鮮を植民地化するときに「日鮮同祖論」や「朝鮮停滞史観」などがとなえられた。進歩のない韓人は「有力優勢たる文明」である日本民族が教化しなければならないというわけである。

 オリエンタリズムや植民地主義の歴史にのなかには数々の学問や知識の権力による歪曲や捏造、正当化がおこなわれ、学問によるイデオロギーの宝庫のようになっている。われわれもアジアやアフリカ、イスラムが劣っているという知識を学問的に、あるいは心情的にもっていることだろう。われわれはいまも他国を劣等視する知識や学問をシャワーのように浴びており、その前提を疑うこともない。

 学問や権威だからといって単純にその言説を信じてはならない。その言説こそが自分たちは優れており、他者は劣っているという高慢男のたれ流しにもっとも近いのだから。そんな情けないオトナになりたくないと思うのだけど、学問はあたかも中立客観の顔をしながら、そういうことを平気でやりつづけてきたのである。学問の差別意識に警戒しろ。


『一輝まんだら』 手塚 治虫


406173282X一輝まんだら (1)
手塚 治虫
講談社 1983-12

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 手塚が大人向けのマンガを描くとなぜか歴史もの、それも近代の歴史を多くあつかった。『奇子』や『シュマリ』、『陽だまりの樹』などである。かれは自身のルーツやその生まれ育った時代を探りたかったのではないだろうか。

 物語はまだ西大后のいる清朝最後の時代に、義和団の乱に参加したはちゃめちゃな女性を中心に進んでゆく。『ラスト・エンペラー』の時代かな。彼女は日本に亡命し、孫文などと出会ったり、主役である北一輝と出会うわけだが、物語は未完で終わる。主役があらわれる前にべつの副主役が暴れるというのは『ブッダ』と同じである。

 なにか中国の近代化という問題をあつかっているようなのだが、社会主義者としての北一輝が主役ということは、手塚はそれが成就された国というものを描いてみたかったのだろうか。知識人にとって自分たちの頭で描いた青写真が叶うことはひとつの理想でもある。手塚は知性万能的な思考で社会主義の理想を信じていたのだろうか。


『帝国意識の解剖学』 北川 勝彦 平田 雅博


4790707555帝国意識の解剖学
北川 勝彦 平田 雅博
世界思想社 1999-04

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 私が読みたかったのはこの本だと思った。いま私が知りたいのは、みずからを優越したと思い込んだ者がどのように他者を蔑視や劣等視し、暴虐を正当化するのかということだ。つまり優越者の思い上がりがなにをもたらすかということだ。

 そういう問いには、この「帝国意識」がぴったりだ。「帝国意識」とは支配国に属しているという自負心と、他民族への侮蔑感と自民族の優越感であり、その支配を正当化する意識のことである。

 この本ではイギリス、フランス、ドイツ、近代日本の帝国意識が分析されている。これらの帝国はみな先住民のいる土地を植民地化し、未開や停滞の遅れた民族として科学的に差別し、優れた民族には文明化の使命があると信じ込み、支配や侵略、虐殺を正当化してきたのである。

 ここには自分たちの民族や国家が優れていると思い込んだ先進文明国の思い上がりや放漫さがどのような結果や歴史をもたらしたのか、如実にあらわれている。優越者は劣等者を自分たちの権利や使命として踏みにじってきたのである。

 近代ヨーロッパや近代日本の歴史とはこの植民地主義の歴史にほかならない。先進国や文明国として優れていると思い込んだ人間たちの暴虐の歴史だったのである。

 われわれはここに優越意識の恐ろしさを見なければならない。そして科学的知識というものがいかにその意識を増長させてきたかしっかりと記憶しなければならない。そしてこの優越意識はまだまだ終わっていないこと、いや、これからもずっとつづいてゆくであろうことを世界じゅうでも身近な人たちの間でもたくさん見ることだろう。

 人は自分が優れていることを追い求めつづけるだろうが、その意識には近代のこのような歴史があったことを頭の隅にでもおいておくべきである。国家に現れたことは、集団でも個人でも現れるものである。けっして国家レベルだけの問題と読むべきではないのである。


『Listen Like Thieves』 インエクセス


B000002IIBListen Like Thieves
INXS
Atlantic 1990-10-25

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 カッコよかったな〜、マイケル・ハッチェンス。『ホワット・ユー・ニード>』のカッコよさは半端ではなかった。マイケル・ハッチェンスのように革ジャンの上にGジャンのベストを重ね着したくなった。ヘア・スタイルはさすがに……だが。

 次のアルバム『KICK』は私もよく聞き込んだアルバムだが、500万枚売れた大ヒットになったそうである。カッよさが飛び切りのグループと音楽であった。

 ブレイクする前にMTVで見たインエクセスはなぜか日本の波止場の屋台やトラック野郎の前で歌っていたり、お寺の坊さんの前で歌っていたりした日本びいきのバンドであった。オーストラリアから出てきた彼らはそのころ日の出の勢いの日本経済に自分たちを重ねていたのだろうか。

 あのカッコいいマイケル・ハッチェンスが信じられないことに97年に自殺したそうである。自殺したロック・スターは伝説になったりするが、インエクセスが伝説のバンドになったとは聞かないなぁ。

 キックThe Swingグレイテスト・ヒッツ

 

『百物語』 手塚治虫


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手塚 治虫
集英社 1995-03

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 この物語はけっこう好きである。生きがい探しや人生の充実や幸福とはなにかといったことが語られているからである。

 切腹を命じられた主人公が願いごとの代わりに魂をさしだす契約を悪魔と交わす。願いごとは人生の充実と、一国一城の主となること、絶世の美女を手に入れることである。私は気づかなかったのだが、これはゲーテの『ファウスト』が下敷きになっている。

 これらを手に入れれば、人は満足して死ぬことができるのかといったことが語られているわけである。ふぬけだった主人公がたくましくなってゆくあたりや、魂を買った悪魔のスダマが主人公に惚れてゆく変節など、物語として楽しめた。主人公はそれらが与えられるものではなく、自分から手に入れようとしないと手に入らないことを悟ってゆくわけである。

 人は単純にはこの三つの願いを一度は夢見るものかもしれないが、はたしてこれら三つのものを叶えれば人は満足して死ぬことができるのだろうか。

 またはそれらは魂を売り払うほど価値のあるものかと問うこともできるだろう。現代人ならさしずめ金や安定のために魂を悪魔に売り払っているといえるだろう。魂を売り払った人生が生きるに値するものなのか、この物語を読んであらためて考えてほしいものである。なにかを得るためには大きな犠牲を支払わなければならないということを消費社会に生きるわれわれはあまりにも忘れがちなのである。


『赤い疑惑』とは親の悔恨の物語だった。


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 きのう石原さとみ主演の『赤い疑惑』を見た。77年に放送された山口百恵の『赤い疑惑』は見ていたはずなのだが、記憶はほとんどなく、血液型の「RH−」型というのが選民っぽくてうらやましかったことくらいを覚えていただけで、はじめてこんな話だったのかと納得した。

 眉間にしわを寄せて呻かざるをない内容だった。じわじわと放射能に侵されてゆくさまは、ものすごく心がつらくなった。こんな悲壮な物語はあまり見たくはないんだけど。『世界の中心で愛を叫ぶ』のドラマ版はつくりものぽくてあまり感情移入はできなかったが。

 気づいたのは、この物語は親の視点が中心になっていることだ。若者中心のラブストーリーというよりか、親が子どもをいかに幸せにしてやるかといったことが中心になっていた。これは意外だった。

 17歳という若い女性のこれからを親の過失で失わせてしまうことへの悔やみが胸を締めつけるのである。「輝かしい未来」を約束できない親の悔恨が、この物語の中心テーマになっていたように思う。

 親の悔やみで気づいたのだが、この70年代半ばというのは高校進学率が90%を越えたあたりで、60年代の60%から完成の域に達したころで、親が子どもの輝かしい未来を保障しなければならないという想いが、このドラマへの当時の人々の熱中を生み出したのではないかと思った。

 子どもの「輝かしい未来」への親の義務感が、それを断たれた娘の凄惨さから、いやがおうにも盛り上げられたのである。いうならば「受験戦争熱」にくべられた薪木だったわけである。げんざいは17歳の高校生に「輝かしい未来」があるとはとてもいえなくなったけど。

 この『赤い疑惑』がリバイバルされたのは韓流ドラマ・ブームの原点だということだろうと思うが、たしかに死を前提にした恋愛や兄妹の恋なんて韓国ドラマにありそうだ。さいきんの日本のドラマは見る気もしないほどつまらなくなったが、この原点は現代人の心の琴線にいまも触れるものだろうか。これを機にドラマの再生がはじまればいいと思うけど。


『Hits』 フィル・コリンズ


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Phil Collins
Wea International 1998-10-06

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 私の中では、フィル・コリンズの『アゲインスト・オール・オッズ(見つめて欲しい)』とジョー・コッカー&ジェニファー・ウォーンズ『愛と青春の旅だち』がいちばん好きだ。

 『アゲインスト・オール・オッズ』は映画『カリブの熱い夜』に使われた曲だが、ビデオ・クリップでは映画の一シーンが使われながら雨の中熱唱するフィル・コリンズの顔がよく記憶に残っている。

 メロディのイメージとしては恋が破局してもうどうにもならない〜、破滅の高鳴りに心臓が打ち砕かれるといった感じがドラムで叩かれていたような曲だった。英語の歌詞がよくわからないので、こういうしかないのでごめんなさい。

 84年ころの「キューピーおじさん」は破竹の勢いで、『イージー・ラパー』や『ススーディオ』、『アナザー・デイ・イン・パラダイス』、『セパレート・ライブス』なんかが大ヒットした。『ユー・キャント・ハリー・ラブ(恋はあせらず)』も大好きである。ジェネシスにもどるととたんによく知らないグループなので不気味なイメージしかもてなかった。

 なぜこの時期フィル・コリンズがこんなにウケたかというと、勢いがあったからとしかいいようがない。ノリのいい唄とか神妙なバラードが唄われていたりしたのだが、私にはものすごくいいというものではない気がするのだが。

 『バスター』というフィル・コリンズの列車強盗の映画サントラももっているのだが、曲と曲のあいだに間奏が入っていて、ひじょうに緊迫するようなアルバムづくりになっていて、けっこうこのアルバムは好きである。でもなんといっても『アゲインスト・オール・オッズ』はフィル・コリンズの中でも最高傑作だと思うし、ほかの曲の中でもダントツの名曲である。

ラヴ・ソングスNo Jacket Requiredバット・シリアスリー夜の囁き

 

『柳田国男讃歌への疑念』 綱沢 満昭


tunazawa1.jpg柳田国男讃歌への疑念―日本の近代知を問う
綱沢 満昭
風媒社 1998-04

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 どうやら柳田国男の役割は、急激な西欧化にたいする日本の民衆のナショナル・アイデンティティ確保にあったようである。日本の民俗や村を美化し、「稲作」でくくることにより、民衆を「国民」としてひとまとめにするイデオロギーを生み出したのである。

 西欧近代化だけなら国民をひとつにまとめる力は生まれない。「日本国民」として、「日本人」として、結集させる力が必要になる。個別に国家とは関係なしに生きてきた日本の村々や民衆を画一的に共通のものとして結集させるイメージが必要になる。そこで柳田は民衆がひとつになれる「日本民族のふるさと」というイメージをつくりだしたのである。「国民国家」創出の神話づくりがここでおこなわれた。

 柳田の国家にまつらわぬ者としての「山人」研究から、稲作による「常民」研究の移行は、権力支配や対立や争乱から目をふさぐ国家ナショナリズムへの移行だといえるだろう。柳田の民俗学は画一的な民衆統合のイデオロギーとしてもちいられたのである。

 この本ですっきりとそのようなことが理解できたように思う。あまりメジャーな出版社でも著者でもないようだが、この本を私のGREAT BOOKSに推したいと思う。ただこの本の後半は近代の思想家が数人とりあげられていて、こちらはあまり読むものがない。

 柳田国男のナショナリズム性は村井紀『南島イデオロギーの発生』(岩波現代文庫)でもとりあげられているが、こちらのほうはちと理解が難しい。学問を政治イデオロギーとして読み解く視点はぜひとも培いたいものである。


『ブッダ』 手塚 治虫


4267015112ブッダ (1)
手塚 治虫
潮出版社 1998-11

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 ブッダの物語であるけれども、ほかの登場人物が主役になって連作になるようなかたちになっていて、その物語のつづきを知りたいがためにつぎつぎ読んだ作品であった。

 ブッダが生まれるまではインドのカーストが主題になる物語が展開されたり、王権の争いが主題にあつかわれたりして、そちらのエピソードが物語をぐいぐいとひっぱるのである。その主人公たちは死んだり、あっけなく殺されたりして、悠久の物語がくりひろげられるのである。静的なブッダの物語にくらべてこちらのほうがよほどおもしろいわけである。

 動物の生命を尊重したり、輪廻の物語が『火の鳥』を上回るほど直接に語られるわけだが、輪廻や霊魂が私にはなかなか信じられないものだから、生命は連関しているとしか捉えようがない。せいぜい壮大な生命連鎖の世界の広がりを感じるくらいである。

 この物語はカースト制度に苦しめられる人たちや国王同士の権力闘争の物語のほうがよほどおもしろく、ブッダ本人よりインド社会の背景のほうが魅力的な物語になっているわけである。インド社会、あるいは人間社会や歴史そのものが主役であるといっていいかもしれない。その物語の中にカタルシスを感じるのである。

 ちなみに私の仏教理解は思考を捨てるための無念無想の方法論と、唯識と華厳経の世界観だけを知っているにすぎない。つまり実用的な心理学的程度しか必要としていない。生命や人生とはなにかといったスケールの大きい問題は、渇望したことがないのである。


結婚・三十後の女優も生き残ってほしい。


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 竹内結子が結婚するそうである。『白い影』のはにかんだ笑顔がものすごくよくて、複雑な表情づくりには感服した。あまり代表作とよべるようなすばらしい作品と出会っていないよう気がするのだが、結婚出産した女優が人気を保てることはあまりない。

 ちかごろ三十代をすぎた女性タレント、渡辺満理奈や原田知世が結婚するニュースがあいついだ。女性タレントのようなモテる女性たちが三十代まで売れ残っているというのは、その美貌なのに良縁にめぐまれないという苦渋さ(?)が私には好感がもてたのだが。美人はすぐ嫁ぐより、三十代まで残るほうが、自分を大切にしているみたいですばらしいと思う。

 女性タレントは三十代や結婚を機に消えてゆく。彼女たちの人気はあくまでも恋愛市場での独身としての価値である。人格や人間としての価値ではまだまだ評価されていないのである。その意味では三十代や結婚後も残ってゆく女性タレントに期待したいのである。

 女性タレントが殿堂入りしたというか、頂点をきわめた例では、鈴木保奈美、山口智子、中山美穂、松嶋奈々子が思い浮かぶ。鈴木保奈美は『東京ラブストーリー』で頂点にのぼりつめたのだが、その美貌と澄んだ声はすばらしかったのだが、結婚後のちはまったく消えてしまった。

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 山口智子は『スィート・ホーム』でナチュラルな女性を演じて見せてCMでカルトっぽくなったが、結婚後の活躍はあまりない。中山美穂はヤンキーの女性のイメージが見事に清楚な女性に変貌したのだが、結婚後の消息はまったく聞かない。松嶋奈々子は『やまとなでしこ』で好演したと思うが、結婚後はやっぱりぱっとしないのである。

 三十代のちの女性タレントが需要されることはあまりないのである。ただ負け犬女性の本が売れたり、ドラマや映画でひんぱんにとりあげられるようになって、個人として評価される女性の年齢がのびてきた兆しはある。結婚市場での価値しかない世間の女性への視点が、崩れてゆくことに期待したいと思うのである。

 いぜん三十代をこえた浅野温子・ゆう子の「W浅野」ブームがあった。トレンディドラマで彼女たちがもてはやされたのである。独身消費ライフスタイルのフェーズとして彼女たちは頂点をきわめた。いまはそういう消費価値が落ち込んでしまったから、彼女たちが活躍することはないのだろう。

 結婚しても三十代をこえても美貌と人気をたもっているのは黒木瞳くらいである。おそらく稀有の存在である。三十代をこえて女性タレントの需要は激減してしまうのだろう。結婚したら西田ひかるや広末涼子のようにあんなに人気があったのが信じられないくらい人気はガタ落ちしてしまう。女性タレントは結婚市場での価値でしかないのか。

 もちろんそういう価値で見てしまうこと自体を全否定するのは間違いだろう。それは人間のサガであり、大きな面を占めるのは否定しようがない。恋愛市場での価値観のほかの面で、女性として、人格として、評価される時代がきてほしいものである。深みや重みのある女性も育ってほしいものである。