『ナショナル・ヒストリーを超えて』 小森 陽一 高橋 哲哉


4130033131ナショナル・ヒストリーを超えて
小森 陽一 高橋 哲哉
東京大学出版会 1998-05

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 自由主義史観や「新しい歴史教科書をつくる会」を批判するために編まれた論文集である。べつに度肝を抜かれるような本ではなかった。

 私はこの戦争責任論を避けて無視してきたほうだ。国家の話をするよりポップカルチャー好きのあまりにも小市民だったから、嫌悪感が先にたち、関わりたくはなかった。国家より自分の身近な労働や社会組織について考えるほうが大切だと思ってきた。

 さいきんちょっと古代史をかじるとめちゃくちゃ国家のイデオロギーぽかったので、歴史のそういう面を追究したいと思ったのである。近現代を読み進めるかはわからない。

 戦後の日本は軍部が悪であり、国民はだまされたという言説を流布してきたが、おそらく現在韓国や中国で反日が盛んなのは、同じ路線を経済で無自覚に行っているから反発されるのだと思う。経済の優越性、拡張主義に反発されているのである。戦争と同じ蹂躙をされていると彼らは感じるのだろう。どこまでも無反省な日本人である。

 この本で特筆すべき論文は長谷川博子の『儀礼としての性暴力』で、これだけは読む甲斐があったと思わせた。戦争にはかならずレイプがつきまとうが、個人の性欲のせいにされるが、じつは敵の共同体を脅かしたり、共同体の誇りや名誉を陵辱するためにおこなわれるという指摘には度肝を抜かれた。女は共同体の象徴であり、名誉の財なのである。ものごとを個人のせいにする愚かさは、ほかの原因論にもよく見られ、あらためてその貧しさを思った。


『シングルズ1969-1973』 カーペンターズ


B0002ZEUHMシングルズ1969-1973
カーペンターズ
ユニバーサルインターナショナル 2004-10-21

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 私の心の歌。たまにテープをとり出しては心を慰められたり、安らかにさせたりしてくれる。心が清らかになる。

 70年代にエレクトーン教室やその他で小耳にはさんだことのあるカーペンターズが、80年代ロックばかり聴いていた私の、何度も聴いても飽きない心の歌になるとは思わなかった。

 曲がいいんだろうな。メロディーラインがきれいで口ずさみやすい。カレン・カーペンターの歌声がいいのはいうまでもない。ちょっと暗い中に希望や美しさが感じられる、そんな曲が多いのかな。

 やっぱり青春の回想としての『イエスタディ・ワンス・モア』は名曲だし、『レイニー・デイズ・アンド・マンデーズ』はつい月曜日に口笛を吹いているし、このアルバム全体のトーンもひじょうに心に響いてくるものがある。

 カレン・カーペンターは年若く拒食症で死んだが、やっぱりヒット・チャートから落ちていったことが原因だろうか。好青年風のいでたちはアンチ・ヒーローや反逆が流行る時代の若者にとってはダサく感じられただろうし、優等生すぎたのかもしれない。だけど時代を超える名曲は残ったのである。

▼YouTubeで視聴できるビデオ(ほかにもけっこうあります)
Carpenters Please Mr. Postman MTV
Carpenters I Need To Be In Love KTV
Top of the world
superstar
HURTING EACH OTHER - Carpenters

青春の輝き〜ヴェリー・ベスト・オブ・カーペンターズSingles 1969-1981HorizonA Kind of Hush

『フラッシュダンス』 サウンドトラック


B000063KYXフラッシュダンス ― オリジナル・サウンドトラック
サントラ アイリーン・キャラ シャンデイ
ユニバーサルインターナショナル 2002-05-02

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 アイリーン・キャラの『ホワット・ア・フィーリング』が大ヒットした。マイケル・センベロの『マニアック』もヒットした。83年のことである

 MTVが音楽と映像の合体の魅力を知らしめ、それは映画にも持ちこまれていった。音楽は映像と結びつくとき、その魅力を何倍にも増加させるのである。日本ではドラマやCMとのヒット曲の相乗効果が強かったが、アメリカは映画と音楽が結びついたのである。

 ダンスを夢にしている女性が鉄工所で火花を散らして働いているなんて、みょうに印象的なシーンだったなあ。華々しさと地味さ、きらきらとした職業と3Kの職場の断絶がおこりはじめていたのである。マスコミがわれわれの日常や労働の世界をつまらないものにしていったのである。

     

『ブラック・ジャック』 手塚 治虫


4253031609ブラック・ジャック (1)
手塚 治虫
秋田書店 1974-05

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 いまの若い人にとっては手塚治虫といえば、『ブラック・ジャック』になるのだろうか。アニメにもなっているし。

 ブラック・ジャックは天才的な手術の腕をもちながら、巨額の手術料を請求するという非情な無免許医師である。大金を請求するから、金より大事なのは生命という、こんにちの生命より金が大事という風潮に対する風刺になっている。

 また法外な手術料を請求するために人情や金より大切なものが問われることになる。大金が惜しくないほど生命や人とのつながりが大切なのかと踏み絵を踏まされるわけである。ブラック・ジャックはときには手術料をいっさい請求しなかったり、無料で手術したりするのである。そこに毎回感動のドラマが生み出されるのである。

 一話完結の物語で、泣いたり、笑ったりするひじょうに内容の濃い短編となっており、感情の高まりを感じない作品はほとんどないといっていい作品である。


『愛と青春の旅だち』 サウンドトラック


B00005FOGD愛と青春の旅だち
サントラ ジョー・コッカー ジェニファー・ウォーンズ
ポリスター 1992-09-26

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 ジョー・コッカー&ジェニファー・ウォーンズの『愛と青春の旅だち』はものすごく好きだ。静かなイントロではじまり、希望や期待をじょじょにわきあげるように唄う渋いジョー・コッカーと寄り添うように唄う女声のジェニファー・ウォーンズのハーモニーはなんど聴いても飽きない。私のなかでは名曲中の名曲だ。

 のちにジョー・コッカーの体の芯から絞り出すように唄う姿勢にはちょっと笑った。ジェニファー・ウォーンズはあまり印象のない女性だった。このふたりがつったって唄っている様は、手振り身振りで必死に唄うジョー・コッカーと背の高いジェニファー・ウォーンズのコンビはこっけいだった。

 映画のほうはなんだろうな〜、軍人と工場ではたらく女性とのふつうのラブ・ストーリーなのだが、それがどうしたという感じの映画だ。工員の鬱憤のたまる毎日から、バラ色の軍人が私をひっぱりあげてくれる、というのが夢物語なのだろうか。『プリティ・ウーマン』のような露骨な金持ち信仰みたいな話よりマシかもしれないが。女性ってあまりよくない境遇からだれかがひっぱりあげてくれる夢ばかり見ているのか。人に頼ってばかりでいいのかと思う。

 
B0007XG65S愛と青春の旅だち
リチャード・ギア テイラー・ハックフォード デブラ・ウィンガー
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2005-03-01

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『サイモン&ガーファンクルのすべて』


B0000W3RIUサイモン&ガーファンクルのすべて
サイモン&ガーファンクル ポール・サイモン
Sony Music Direct 2003-12-17

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 いまだに聴いてしまうサイモン&ガーファンクル。60年代に活躍した彼らをリアル・タイムに知っているわけではないけど、名曲中の名曲『コンドルは飛んで行く』や『明日に架ける橋』はもちろん知っていた。

  「♪ライク・ア・ブリッジ・トラブル・ウォーター〜」――困難なとき君の心に橋をかけてあげよう、こんなことをいってみたいものである。

 『コンドルは飛んで行く』は学校の授業で笛を吹いていたので、なつかしさと、いい曲であるという再認識をしながら聴く。

 私はベスト版を友だちにカセット・テープで録ってもらったが、タイトル名がわからない。この紹介しているアルバムには上記の二曲と、恋の躍動感の『いとしのセシリア』、ひきこもりみたいな心情の『アイ・アム・ア・ロック』、たしかバングルスでも唄われた『冬の散歩道』が収録されているからいい。

 ソロになったポール・サイモンとアート・ガーファンクルはそれぞれとてもいい曲を出していて、アート・ガーファンクルの『レフティ』というアルバムはずっと聴きこんだ。時代を超えて聴かれる名曲ぞろいのグループだと思う。

▼YouTubeで視聴できる曲はほかにもあります。
Simon & Garfunkel - The Sound of Silence (1965)
Simon and Garfunkel- America
Simon_and_Garfunkel-Scarborough_Fair-sandg.avi
I Am A Rock

 明日に架ける橋サウンド・オブ・サイレンス卒業-オリジナル・サウンドトラックParsley Sage Rosemary and Thyme

『火の鳥 1 黎明編』 手塚 治虫


4257987413火の鳥 1 黎明編 (1)
手塚 治虫
朝日ソノラマ 2003-04-01

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 死と不死の生命をもとめるという手塚治虫のライフワークである。ひとつの物語ごとに時代設定を過去や未来、歴史にもとめ、輪廻や孤独や生命力を描き、壮大な叙事詩になっている。

 この「黎明編」は卑弥呼の時代をとりあげ、クマソとの戦など古代史のロマンを駆り立てられたものである。

 主人公が不死の生命火の鳥を自分のものにしようと殺されるラストは衝撃だった。『火の鳥』全編にあらわれる猿田彦も殺されており、主役に思い入れをもっている読者には衝撃である。

 洞窟の中に閉じ込められ、それでも家族が何代も生き延びるエピソードには人間の生命力の強さや賛歌を感じさせるものだった。私のなかではこれほどくり返しながめたマンガはないだろう。


『司馬遼太郎エッセンス』 谷沢 永一


4167411024司馬遼太郎エッセンス―『播磨灘物語』から『ひとびとの跫音』まで
谷沢 永一
文藝春秋 1996-08

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 はやくも文庫本で見つからないので古本の単行本で買った。

 司馬遼太郎から日本人の歴史観をさぐろうという試みなのだが、小説を読むのはめんどくさい。ということで『翔ぶが如く』や『胡蝶の夢』、『菜の花の沖』などが紹介されたこの本を読んだ。ほんとうは本人の作品を読むのがいちばんいいのだが、小説はよけいなエピソードや物語があるので回りくどい。

 人間社会を知ろうと思えば、歴史はなにか人間の本質を指し示しているはずである。しかし私は社会学や哲学に興味はもてても、個別的な歴史にはどうも興味が向かない。個別の中から普遍を見いだす作業がめんどくさいのだろう。だが人間とは個別の中に学ぶしかないのではないかと思わなくもない。

 谷沢によると司馬は概念は生きた歴史を冷凍するに過ぎないという。司馬は個別の事象の中に個別の教訓を見出した、あるいは普遍の教訓を垣間見ようとしたのかもしれない。

 まあ、司馬遼太郎の洞察するいろいろな歴史が楽しめた本である。


『ナンバー7』 手塚 治虫


4061087932ナンバー7 (1)
手塚 治虫
講談社 1980-06

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 核戦争あとの地球とか侵略者とかの話がよかったな。黒のユニフォームがカッコよかった。ヒロインの女性が宇宙人のスパイだったというのはショックだった。不信と疑いという要素がこの作品を心に残るものにしている。荒廃した未来の地球という設定は少年にとっては悪夢のようにリアルだった。


『ニューヨーク52番街』 ビリー・ジョエル


B0002ZEZAYニューヨーク52番街(紙ジャケット仕様)
ビリー・ジョエル
Sony Music Direct 2004-11-03

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 私の80年代はまずビリー・ジョエルにハマった。『オネスティ』や『素顔のままで』、『ピアノマン』など聴く曲すべていい曲に思えた。

  この『52番街』のジャケットには中学生だった私は憧れたなぁ。このアルバムではやっぱり『オネスティ』と『アンティル・ザ・ナイト』が大好きだな。

 ピアノのメロディラインと太すぎず細すきずの声がよかったのだな。むかしはビートルズの『レット・イット・ビー』をはじめて聴いたとき、ビリー・ジョエルだと思った。ビートルズのように万人に愛される曲の要素があるんだと思う。 

 ビリー・ジョエルは最初のアルバムが三枚ほど売れずに、『ストレンジャー』でようやく売れるようになったから、売れないころの苦労がファンの好感をも増したのだろう。

私は『グラス・ハウス』から幻のデビュー・アルバム『コールド・スプリング・ハーバー』までさかのぼり、『ナイロン・カーテン』『イノセント・マン』まで各アルバムを聴き、それ以降はヒット曲で知るような存在になった。太り出したビリーは繊細なイメージがもうなくなって、大御所みたいだった。

▼YouTubeではライブのほうが多いですね。むかしの名曲のクリップがあまり見つけられませんでした。
Scenes From An Italian Restaurant
Billy Joel's We Didn't Start The Fire こちらのヴァージンも。
Billy Joel - River of Dreams
Billy Joel - Goodnight Saigon
Billy Joel - Allentown
Billy Joel- The Ballad of Billy the Kid
Billy Joel - Pressure
Billy Joel - Uptown Girl

ビリー・ザ・ベストピアノ・マン:ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ビリー・ジョエルThe Strangerグラス・ハウス(紙ジャケット仕様)コールド・スプリング・ハーバー〜ピアノの詩人〜ピアノ・マンイノセント・マン(紙ジャケット仕様)

『人生相談「ニッポン人の悩み」』 池田 知加


4334032966人生相談「ニッポン人の悩み」 幸せはどこにある?
池田 知加
光文社 2005-03-17

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 かなりおもしろい。悩み相談の変遷のなかに見事に日本社会のありようを浮き彫りにすることに成功している。悩み相談は日本社会の鏡でもある。

 人生相談のなかに私も自分と同じ境遇を見出したり、状況を解説するキーワードを発見したりしたものである。ただ回答者の価値観の押しつけはよく反発したものだが。

 この本ではおもに女性の家庭や離婚の悩み、男性の仕事観の変遷、学校の意味の変化などがとりあげられていて、その移り変わりの鮮明さにたいそう感心した。主婦の忍耐から離婚をすすめる価値観への変化、余暇志向と求職難の時代のフリーターやニートの状況、そして人間完成のために学校に行くという考え方から勉強がよい将来に結びつくとは考えられない現在への変遷など、人生相談が現代社会学の教科書のようになっている。

 個人のナマの悩みの声だからこそ、社会の変遷はリアルさをともなって読者の心に響いてくる。悩み相談とは優れた社会学書になるものである。こういうところに目をつけた著者の目は鋭いと思う。著者の卒業した桃山学院大学の社会学部は私も行きたいと思ったのだが、不本意ながらほかの経済学部を選んでしまい、自分の好きなことを見つけるのが遅くなってしまった。

 この本でいちばん驚いたデータは「一生懸命勉強すれば、将来よい暮らしができるか」という質問で(2002年)、父親母親ともの七割が「そう思わない」と答えていることである。こりゃあ、学校が早晩終わってしまうと予感させるデータである。本当の勉強とはいえないと思っている親も六、七割に達しているのである。

 「日本の将来は明るいか」という質問では高三の七割が「そう思わない」と答えているが、奇妙なことに「幸せか」と聞かれると九割が「幸せ」だと答えているのである。身近な友だちとその日を楽しく過ごせればいいと思っている若者には、日本の閉塞状況や将来設計はもはや視野の外にあるのである。見事に江戸時代のその日暮らしの庶民に戻ってしまったようだ。

 この本は悩み相談とデータにより見事に日本社会の変遷やありようを垣間見せくれる本である。そして悩み相談のなかに自分の現在の境遇や将来の悩みを見ることになるだろう。われわれはここから自分の人生を考えることもできるのである。

 そして人生モデルや規範がなくなった現在、自分で選択して決断しなければならないと回答者に迫られるようになり、解決も責任も自分にゆだねられるようになった。大きなものに頼れる時代の郷愁を捨てなければならないのである。


私は一ヶ月前からシステム障害だぞ。


 新聞社や鉄道などでシステム障害があいつぎ、トレンドマイクロ社のウィルスバスターの不具合のせいになっているが、私のパソコンにはソースネクストのウィルスセキュリティ2005を入れているが、CPUが100%になる状態がずっとつづいている。違うソフトなんだろ?

 とりあえずはタスクマネージャーを開き(Ctrl+Alt+Del)、tcpsvcs.exeのプロセス終了を押すとCPUが正常になるから問題はないといえるが、立ち上げるたびにこれはやるのはめんどくさいし、ネットでも解決策がよくわからない。ソースネクストのHPではなにもいってないし、ウィルスではないのかい。

 アクセス解析で見ると、この問題で訪ねて来る人が多かったのだが、すいませんが、私には解決策はわかりません。ほんとにトレンドマイクロだけの問題なのかい。だれか教えてください。てかっ、自分で調べろってか?


『武蔵と日本人』 磯貝 勝太郎 縄田 一男


4140807555武蔵と日本人―価値の転変する時代に。
磯貝 勝太郎 縄田 一男
日本放送出版協会 2003-02

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 武蔵にまったく興味がない私が武蔵はなぜ読まれるのかを探ったこの本を読むのはムリがあった。読むのがとどこおった。

 さいきんはマンガの井上雄彦『バカボンド』が3500万部売れ、あまり評判がよくなかったようなNHKの大河ドラマになり、昭和10年に書かれた吉川英治の『宮本武蔵』はいまだに読みつがれている。その吉川版宮本像を中心にこの本は書かれている。

 私が武蔵に興味がないのはもともと歴史上の人物に興味を抱かないこと、武勇伝的価値をもたないことなどがあげられると思う。人をばったばった斬ることに価値を見出さないし、修養的人生にも興味がない。この本を読んだのは歴史はなぜ読まれるのかというテーマ上のことである。

 武蔵は吉川英治の求道型武蔵像があらわれるまでは講談の仇討ちが中心であり、吉川はこんにちの武蔵像を決定した。大衆文化研究グループによると、「修養、骨肉愛、あわれみ」の三徳目が吉川の読まれる要因だとした。

 吉川版がこんにちでもベストセラーたりえているのは国民的危機感を前提に書かれた時代であったこと、武蔵像の非情と権謀のなかに戦時下の非情に生きなければならなかった庶民のたくましさがあらわれているという。

 戦後の歴史小説は山岡荘八の『徳川家康』や司馬遼太郎の『竜馬がゆく』、津本陽『下天は夢か』のように組織のリーダーとしての姿がビジネスマンに読みこまれた。歴史小説はビジネスのリーダー論や組織論だったわけだ。孤独な求道者たる武蔵には決してないものである。武蔵が読まれるのは強靭なる個が渇望されるようになったといえよう。


歴史とはイデオロギーか


 歴史は事実をあらわしているというよりか、イデオロギーや思想ではないかと思う。主張や主義がたっぷりとまぶされ、イデオロギー臭さを感じざるをえない。

 たとえば江戸自体は現代の民主主義にたいして封建主義で、西洋近代国家をめざした現代よりはるかに遅れた後進国家とされる。つまりは現在の国家の正義ぶりがイデオロギーされているわけである。歴史の事実というよりか、現在の体制を正当化するためのイデオロギーに近い。

 たとえば韓国や中国の歴史教科書をみれば、日本の侵略がいかに酷かったかとえんえんと記述されているそうだが、これは歴史の事実としてはたしかにあったのだろうが、他国に蹂躙されることの酷さにたいしての愛国心を刻印するためのイデオロギーにみえる。

 戦国時代や幕末維新はビジネスマンにおおいに好まれるのだが、覇者を競ったり、領土を拡大したり、組織や人間を管理したりといった知識がサラリーマンを鼓舞するイデオロギーになっているように思える。武士や志士は現代企業のイデオローグとして利用されているのである。かれらは歴史というよりか、ビジネスであり、思想である。

 古代史には国家の創造・始源というたいへん重要なイデオロギーが背負わされている。それは聖なるもの、崇高なもの、神秘的なものでなければならない。国家の始源はわれわれの姿を規定するものである。国家の創造者として古代人たちは過剰な崇高さを付与されてわれわれの前にあらわれる。古代国家は聖なるイデオロギーなのである。

 歴史はイデオロギーや思想にしか見えない。歴史はメッセージや意味をもつ。現代と比べて酷い自体だったとか、崇高で偉大な人物がこの国の礎になっているだとか、優れた人物がこの国に生きただのとか、過剰なイデオロギーやメッセージ性をもつ。

 イデオロギー性なしの歴史をわれわれは見ることなんてできるのだろうか。われわれは歴史を見ているというよりか、イデオロギーや思想を受け入れるのである。歴史書を読んでいるのではなく、思想書やイデオロギーを読んでいるのである。


『南島イデオロギーの発生』 村井 紀


4006001223南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義
村井 紀
岩波書店 2004-05

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 柳田国男がボロクソに批判されていると思った。そして知識というのはこうでなければと思った。知識というのは政治の衣をまとっているものである。

 柳田国男は民俗学の祖として崇められているが、そもそもは農政官僚であり、政治家として植民地の政策研究をおこなっていたのである。つまりは民俗学というのは植民地侵略のイデオロギーとして作用したのである。

 たとえば沖縄人やアイヌ人は古来日本と同じ民族であったといわれたりするが、それは植民地支配を正当化する言説になったりしているのである。それが韓国や大陸に延長されたりすると、大日本帝国の版図になるのである。

 知識とは恐ろしいものである。何食わぬ顔で客観や中立を装いながら、高度な政治的支配の正当化になっていたりするものである。もし韓国や中国が日本人と同じ民族とされるのなら、支配が正当化されることになる。民俗学は知識において植民地主義をおこなっているのである。

 こういう知識をほかの面から見ること――政治やイデオロギーとしてみることはものすごく大切な知恵だと思う。純朴に主張や表面だけを信じると、ヘンな方向に権力の片棒をかつがされたりする。すべての知識は政治の結果をもたらすという警戒はたえずもっておくべきであると思った。

 なおこの本は精緻な分析がおこなわれていて、私は多くの文脈を噛み砕いて理解できたとはとうていいえないから、もっとかんたんな概要にまとめてくれたらよかったにと思わなくはないが、それは私のレベルの問題なのだろう。ともかく重要な本である。


吉野桜 今日ばかりは 修行僧


 関西の山を愛する者としては一度はいってみたかった吉野の桜。人ごみを覚悟で吉野の満開の桜を写真で写してきました。桜を堪能しようとするおおぜいの人たちが標高差約600mをへとへとになって登っておりました。

CIMG0001_112.jpg 吉野駅をおりると人の山の向こうに桜が見えました。このおおぜいの人たちは800mの高さの内、どのくらいの高さまで登るつもりなんでしょうか。
CIMG0019_14.jpg 山いっぱいに桜が広がっていました。たしかにこんなきれいな桜はほかに見ないですね。ここらへんは中千本とよばれるところなのかな。
CIMG0027_11.jpg 吉野の町の全貌です。町は桜に囲まれています。そのはるか向こうには金剛山や葛城山が見えます。じっさいのところ緑もかなり多いです。
CIMG0035_14.jpg 水分神社の鳥居の前には桜が咲き、ものすごくきれいだなと思いました。桜吹雪もあちこちで散っていて、それはそれは幻想的でした。
CIMG0056_11.jpg 歌と漂泊に生きた西行の庵です。清貧と無欲を理想として生きることは現代では不可能なんでしょうか。
CIMG0064_11.jpg 山の斜面に桜はたくさん咲き、観光客もへばりつくように斜面で休憩しています。
CIMG0090_1.jpg 小川が流れ、山のふもとに田畑がひろがる牧歌的な原日本的な風景です。いいですよね。
CIMG0113_1.jpg 奈良時代の天皇家たちのリゾート地であった宮滝です。巨岩が圧巻です。
CIMG0109_1.jpg 川の色がすごいんです。この深いグリーンの色の川はそうそうない。


『若年無業者』フォーラムin大阪の報告


  CIMG001812.jpg ライトの加減できちんと写っていませんでした。

 今日は「若年無業者の実情と支援を考えるフォーラム」にいってきた。桜が満開の造幣局の対岸のエル・おおさかでおこなわれた。

 斎藤環と玄田有史がナマで見れたのがよかった。玄田有史は少々投げやりっぽい人であったこと、斎藤環はダンディでおちついた印象をもった。小杉礼子のつぎの資料は衝撃だった。
http://www.keizai-shimon.go.jp/special/vision/life/03/item4.pdf


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 これは卒業しても就職しない比率を表したもので、この赤線の伸びを見よ。四割もの卒業者が就職しないで卒業するのである。学校からの新卒就職がまったく機能していないのである。あとはフリーターや非正規雇用、ニートやひきこもりに吸収されてゆくわけである。企業という船は学校から放り出される若者を波間に見捨てているのである。


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 上図のグラフは働いても家事もしていないいわゆるニートの若者比率である。二割といえばほぼ70万人の若者が宙ぶらりんなまま漂っているわけである。(現在は85万人と推定される)

 キャリア支援がいろいろ行政によってなされるだろうが、そんなもので追いつくわけがないと思った。企業社会は若手の働き手をまったく必要としていないのである。若者とこの社会の将来はいったいどうなるんだろう。

 気休めをいうのなら、若者は遊びたい盛りだから学校もなく就職もしない期間は天国だろう。寝て暮らせる若者たちを生み出したのだから、豊かさをめざしたオヤジたちの勤勉国家の夢は叶ったのである。

 ただいまある状態は未来にほぼそのまま延長されることは中高年フリーターや中高年ひきこもりでじかに見ることができた。ニートはそのまま未来に延長されたまま推移するわけである。目をふさぐことのできない緊急な社会問題であることはまちがいない。

 これは若者の問題ではなくて、完全に社会の構造上の問題、企業社会の問題といえよう。不況や景気が悪いままだと企業は長期的な展望をもたずに若年採用の枠を抑えるか、外すかにしてしまった。企業に甘い政府も放ったらかしである。あとは後々に社会に禍根をのこすだけである。

 それは市場メカニズムが正常に働くための過渡的状況なのか、それともこの社会が崩壊する序曲になるのか、私にはわからない。はたして若者は沈没する船より先に海に放り出されてしまっただけなのか。


非社会性を人はなぜ叩くのか


 われわれの社会では非社会性は非難の的である。犯罪を犯すだの、成長できないだの、就職できないだの、人格に欠陥があるだの、ありとあらゆる陰湿なイメージをふっかけられる。

 どちらかといえば現在で問題なのはその実体よりか、そのメッセージ自体が若者を追い込んでいないかと問うことこそ重要に思える。強迫観念のように若者を追いつめていないだろうか。

 なぜ社会は非社会性をそんなに非難するのか。友だちがいなかったり、おたくであったり、ひきこもりやニートであったとしても人の自由であるし、勝手だし、人にとやかくいわれる筋合いはない。非社会性は人に迷惑をかけるものなのか。ぎゃくにもっとも人に迷惑をかけないひっそりした人たちではないのか。

 非難する人たちは怖れているのだと思う。自分の中のそういう部分を投影しているのだと思う。自分の非社会的な部分を必死に叩いているのだろう。

 そもそもわれわれの社会は経済の効率化やサービス化をめざしてきて、徹底的に非社会的な社会をつくってきたのではないか。いっさい話さずともモノやサービスが買える社会をわれわれはつくってきたのではないか。非社会性をめざしてきたのはだれなのか。

 人間の社交や交流も経済サービス化したために社会性を失わせたのはだれなのか。われわれは人と会わなくても古今東西の有名人の話やお笑い、歌などを本やTV、新聞などで見聞きすることができるのである。人と会うことの魅力の大半はメディア産業に奪われてしまったのである。このメディア産業をブッつぶしてしまえば、われわれは社交というものに強烈に飢えることになるだろう。しかしそれは不可能というものだ。

 このような社会でわれわれは自身の非社会性にやましさを感じ、怖れているのである。そして社会性が育たないことを知っているからこそ、非社会性を非難しなければならなくなったのではないか。社会性が魅力でないサービス化社会の功罪なのである。

 非社会性を非難する人なんか相手にしても仕方がないのだろう。われわれ自身こそがメディアやサービスによって非社会的な社会を押し進めたのである。反省するなら若者を叩くより、産業を問え。この非社会的なサービス社会をわれわれは手放せるというのか。

 そしてそのツケは社会性を育てられない若者の大量出現となって現れたのである。この非社会的な社会をやめられない以上、非社会性に寛容になり、容認し、非社会的でも生きやすい世の中をつくってゆくしかないだろう。そういう社会や若者をもとめてきたのはわれわれ自身ではなかったのか。


コミュニケーションの苦手意識をつくる社会


 自分はコミュニケーションが苦手だから負け組みだととらえたり、ひきこもりやニートに代表されるように若者の非社会性を批判する言説によく出会ったりする。

 こういう枠組みというのは個人を責める方向に進みがちになるが、そういう苦手意識をつくりだす社会や、コミュニケーションを難しくする社会の構造自体を問わなければならないのではないかと思う。そして社会が執拗に若者の非社会性を責めつづけるのはなぜなのかを考えなければならない。

 まずありきたりなことだが第一に社会自体が会話を必要としなくとも用が足せる効率化社会になっていることがあげられる。コンビニもスーパーもショップでの買い物も電車の切符もすべていっさいしゃべらなくても可能である。

 社会自体がコミュニケーションを抹殺しようかしているかのようである。会話が禁止された世の中で会話や対人関係に得意意識をもつのはむずかしいだろう。親密にもなれないし、店員を機械のように無視する関係も心苦しい。そういうなかで対人関係はこじれるのである。人を親しくおもんばかる思いやりが、冷酷な関係を責めるのである。

 学生や若者が就職や会社を怖がったりするのは、彼らが学校で大人や企業社会といっさい接点をもたずに育てられてきたからとうぜんのことである。同じ年の友だちとばかりつき合ってきて、いきなり目上の関係や年上の大人たちとすんなりつき合えるわけがない。タメ口で大人に陰口をたたかれるか、関係から退却するかになってしまう。なじんだり、自然なものになるには永らく時間がかかってしまうのである。

 若者が苦手意識をつくるのは学校教室の友だち関係にあるのだろう。ここでは友だちをむりやりつくらないと居場所がなくなったり、いじめにあったりする。遊びや社交性という強制価値のなかで何年も過ごさせられるのである。つまづいて内攻してゆくのも故なきことではない。会社では仕事という障壁があるから必要以上に恐れる必要はないのだが。

 人前で注目される不安がつくられるのも教室のようである。人前で発表するというのは教師や一段上の関係に上ることである。そういう立場からものをいうことの抵抗が固定化されれば、みんなに注目されることが緊張のともなうものになるだろう。

 そういう学校で育ってきた学生が就職でいきなり自己表現をもとめられるのである。無理な注文というものである。

 若者がコミュニケーションを恐れるようになる要因はほかにはマスコミでおもしろいタレントが人気になるようにおもしろさや社交性の強制力がかなり強くなっていることと、非社会的な人間を責める言説に満ちあふれていることだろう。

 タレントのような社交性が始終すべての人に必要だとされれば多くの人が参ってしまうだろう。とくに若者はマスコミの圧倒的な影響力をうけ、マスコミを崇拝せざるを得ない環境に住んでいるのだから、その強制力はかなりのものである。非社会性は犯罪報道の中で暗に責められたりする。そして必要以上にコミュニケーションの苦手意識をもつ若者がつくられるというわけである。

 個人を責めるより、社会自体や世論・マスコミのなかに問題を見つけるほうが妥当なんだと思う。解決の糸口はそこから開けてくるのではないかと思う。


『「負けた」教の信者たち 』 斎藤 環


4121501748「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論
斎藤 環
中央公論新社 2005-04-10

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 ニートやひきこもりになるのは、私自身のなかにもあるコミュニケーションの苦手意識や現状否定のプライド、世間の目を怖れる心などが拡大・延長されたものであるという思いを強くした。就職を忌避した私は、かれらと同じような心情をもっていると改めて思った。

 自分の中の弱い部分を延長してみたらひきこもりになる気持ちがよくわかる気がした。大人や社会とコミュニケーションすることを怖れ、就職に自尊心や自己愛をすべて賭け、社会を否定的に見ることにプライドを保ち、近所の目をやたら気にしていた部分が延長されれば、ひきこもりにならざるをえないんじゃないかと思った。

 これはいまの社会経済の姿をそのまま写しているんだと思う。学生は社会の大人と接することはてんでなくて過剰な不安を抱かせるし、学校や地域と職業社会の接点はぜんぜんなく、地域から見れば職業社会は遠くの閉ざされた世界に見えるし、それらの接続はひじょうに弱く不況と重なって就職への壁は高いものになっているし、近所の世間体の目というものはブチ切れるほどうっとうしいものである。社会の機能不全の面がすべてひきもりに背負わされているように見える。

 学校と郊外住宅地が企業社会から隔離されすぎた結果なのだと思う。学校という高い塀が若者の働いて生きる道をぎゃくに閉ざしたのである。子どものころから丁稚奉公に出されていたら、彼らはいまのような社会の恐れを抱く暇もなかっただろう。子どもと主婦だけの空間になる学校や地域社会を職業社会のなかに融合させる必要があるのではないかと思う。

 あと一点、ひきこもりやニートを不安な面や恐ろしい面ばかりからみる傾向が強いが、あまり深刻さや病理的にとらえるのはよくないのではないかと思う。かれらは心理主義化された社会の格好の餌食なのである。非社会性を恐れるわれわれ自身の不安なのである。

 古今東西の歴史の中でひきこもったり、働かずに生きてきた者などたくさんいたのではないか。仙人や聖職者はそういう生き方こそを崇拝してきたのではないか。いっそ仙人をめざしたらいい。それらを異常視するまなざしを問え。

 なおこの本のはじめまではかなり期待をもって読めたが、雑誌に掲載されたものであるから当時の時事問題ばかり読まされ、かなり倦んだ気持ちになった。本というのは時事問題にとらわれない長く読まれる問題をあつかうのではないのか。今日明日に古くなるような新聞や雑誌ではない。もうすこし長期的・本質的な内容ではなかったのが残念である。


『仕事のなかの曖昧な不安』 玄田 有史


4122045053仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在
玄田 有史
中央公論新社 2005-03

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 不況が何年も続いた90年代後半、中高年ホワイトカラーの失業が社会問題になる影で、若者の10%の失業率はただ若者の怠け癖のせいにされた。

 そういう状況の中で、中高年の既得権益のために若者の仕事が奪われていると指摘したこの本は意味があったのだろう。サントリー学芸賞や日経・経済図書文化賞を受賞している。

 私にとってはデータばかりを読むこなすのにだいぶ疲れたし、楽観的なビジネス書になるような後半にはあまり関心をもてなかった。失業やフリーターにならざるをえない若者を擁護しているという点ではいい本であると思うが。

 ただなにか物足りない読後感がのこったが、それはやはりサラリーマン社会や会社中心社会を批判する目がまったく欠けていることにあったのだと思う。失業やフリーターになるのは生産マシーン国家への静かな抵抗があるからだと思う。その点がすっぽり抜け落ちているこの本はてんで若者の代弁書とはなっていないのである。

 悪いのは中高年の既得権益で、会社中心主義をまったく問題にしない視点は、若者を生産マシーン国家に放り込むだけの結果に終わってしまうだろう。


花見とホームレス


 大阪城公園には桜がきれいに咲き誇っていました。春の陽気に花見や宴会で人がごったがえす公園にはホームレスの居住群がたくさんあるのですが。。
 
CIMG0019_13.jpg 桜並木がずらりと並んでいて、きれいだったのですが、宴会の席のためか柵の中には入れませんでした。
CIMG0022_111.jpg 桜並木の向こうには天守閣があり、手前では宴会がおこなわれていました。桜はきれいですが、この花見客は猥雑で下品でこの日本的風習はたまりません。もっと静謐に風流に味わえないものか。
CIMG0023_12.jpg 花見客であふれかえる林の向こうにはホームレスの青テントがひっそりと立っています。
CIMG0028_13.jpg 大阪城公園の広大な敷地のなかには無数の青テント群がひろがっています。
CIMG0035_13.jpg 手前の宴会客のむこうにはホームレスの青テントがあるのですが、酔客には関係のないようです。「自分さえよければいい」――そういう風潮はかならず禍根を残すことでしょう。


『歴史小説に学ぶ』 会田 雄次 江坂 彰 青木 茂


CIMG0002_11112.jpg歴史小説に学ぶ
会田 雄次 江坂 彰 青木 茂
プレジデント社 1995-02

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 雑誌『プレジンデント』にのせられた歴史小説評をまとめたもの。やっぱり歴史小説はビジネスマンに読まれているのである。歴史ものにビジネスを読みとることはそんなに可能なのか。

 この本では津本陽『下天は夢か』、山岡荘八『徳川家康』、池波正太郎『真田太平記』、子母沢寛『父子鷹』、司馬遼太郎『坂の上の雲』、水上勉『一休』など歴史小説の有名なものがとりあげられている。

 私はやはり歴史ものには色を失うような興味しかもてないのだが、『真田太平記』の領民に慕われた信之にはげしく感動し、無頼の姿を子どもに教えた『父子鷹』に興味をもったくらいだ。歴史小説って読んでおくほうがいいのか。

 ヨーロッパでは歴史が昨日のことにように生活の中に生きているのだが、日本は戦後、生活の中から歴史がなくなってしまった、だから歴史小説が読まれるのだと会田雄次が指摘していた。なるほど、歴史の生活からの断絶が、歴史ファンを生み出しているのだな。

 あとひとつ思ったのは、日本の歴史人物は小説なり伝記でとりあげられるが、外国の歴史人物はほとんど紹介されないのは気になるところだ。そもそも外国にこんなヒーローものがたくさん生み出されているのかすら疑問に思える。こんな狭いナショナリズムでOKなのか。

桜と日本嫌い


  CIMG000313.jpg 冬の厳しさの後に咲く桜。

 ここ数年、ようやく桜の美しさがわかるようになってきたが、それまでの私は桜が嫌いだった。酒を飲んでの花見など虫唾が走るほど嫌いだった。「日本的なもの」が大嫌いだったのである。

 日本人が集団で好むようなもの、野球や『紅白歌合戦』、『寅さん』や帰省ラッシュなどが大嫌いだった。それらいっさいに触れまいとしていた。そのなかに花見の宴会がふくまれていた。

 いまでこそ日本的集団への嫌悪感はだいぶ和らいできたが、私はなんでこんなに日本的集団が嫌いだったのだろう。

 歴史教科書で騒がれているように学校教育が日本嫌いを教育したともいえる。アジア各地に侵攻した歴史の反省から、日本の愚かさを教える教育がほどこされたのである。日本のすばらしさや美しさを教えない教育である。自虐史観といわれたりする。

 また新聞やニュースなどが西欧に比べて劣った日本という批判をしまくった影響もあるだろう。なにかといえば西欧の先進性が偶像化され、日本の後進性が槍玉にあげられた。気づいたらそのような西欧比較のニュースをめっきり見なくなったが、いまはもう日本は西欧を乗りこえたのだろうか。

 あとひとつ、日本的集団を嫌いになった理由に「個性消費」の宣伝力もあったのだと思う。つまり「みんなといっしょであること、画一性や均一性は恥ずかしくて情けないことだ、だから人と違う人間になれ」というコマーシャリズムの力にあずかるところも大きかったのだろう。けっきょく私はそれで少量生産の高級品やブランド品を買っただけである。

 いろいろな人たちの思惑が重なって私は「日本的集団」の嫌悪感をつちかっていったのだと思う。だからアメリカのロックを聴き、ハリウッド映画を見て、ヨーロッパのコレクションでファッションを勉強し、ヨーロッパの思想や文学を読んだ。

 日本嫌いというのは他文明を学んだり、受け入れたりするときに有効にはたらく受容器のようなものである。日本を嫌いになれば、優れた文明はすんなりと流入することになる。ぎゃくにいえば、日本讃美は他文明の拒絶である。日本嫌いというのは文明受容のひとつの方法なのである。なにも自虐や反日というわけではないのである。

 アメリカやヨーロッパに憧れた私の年代は終わろうとしている。30才くらいから仏教や東洋思想を学ぶことができるようになり、しぜんに日本の山々や景観、神社などを好めるようになってきた。ただそこには禁圧されてきたパトリオティズム(郷土愛)やナショナリズム(愛国心)の警戒を問い直さなければならないという作業が待っているのだが。

 そして桜の美しさにすなおに感銘できるようになってきたのである。冬の厳しさの対比としての桜の華やかさには目をみはるものがある。夜の中に咲く白い花はこの世のものではないように思うこともある。桜とは私にとって西洋と日本の真ん中にあるものなのである。


『時代小説の読みどころ』 縄田 一男


4043671016時代小説の読みどころ―傑作・力作徹底案内
縄田 一男
角川書店 2002-10

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 私は時代小説をまったく読んだことがない。時代劇もほとんど見たことがない。『木枯らし紋次郎』と『必殺仕事人』くらいである。時代劇というだけで興味がなくなる。

 そういう私がこの本を読んだのは、日本人の歴史観が時代小説にあらわれているのではないかと思ったからである。歴史ファンというのは教科書や学術書より、時代小説の登場人物から歴史を認識しているのではないかと思う。日本人の歴史観というのは人物によってつくられているのではないか。

 日本人の歴史観をさぐるという意味合いでこの本を読んだわけである。ほうほう、なるほど、日本人は歴史のこういう人物や物語に興味をもってきたのかと、なにも知らない私は感心したわけである。

 捕物帳が流行ったり、ニヒルな剣豪や忍者ものが流行ったり、ビジネスマンに読まれる戦国・維新モノが注目されたり、股旅ものがブームになったりした。いずれも流行した時代背景からその理由を探り出すことができるだろう。

 ヒーロー像も時代により変遷しており、この本では覇者3代や武蔵、忠臣蔵、次郎長と忠治、新撰組なとがとりあげられていて、その変遷は時代の求めているものを写しているのだろう。

 私は歴史にあまり興味をもたない。もったとしても社会や経済にかんしてであって、人物にではない。多くの歴史ファンは物語に登場する歴史人物から歴史に興味をもつのではないだろうか。

 それは現在に存在しないカリスマを求めての探究のように思える。歴史ファンやビジネスマンはカリスマたる存在がことのほか好きなようである。カリスマのように評価され、認知される歴史人物のようになりたい――歴史ファンはそのよう希求をもっているのではないだろうか。

 かれらの人物評や自我像はいつも結果から見られるだろう。自分自身も歴史の人物のように捉えているのではないだろうか。それは自分を縛る拘束着にならないかと思わなくはないが、杞憂に過ぎないというものだろう。ただ、かれはヒロイズムに染まった人生観をもつことだろう。


中高年フリーターと正社員という「社会的保証」


 30代を越えるフリーターの増加が問題となりはじめているが、フリーターはなにが問題なのだろう。心配されていることは老後の年金がないことである。つまり老後の保障のない人生は恐ろしいということである。

 正社員とフリーターはなにが違うかというと、仕事の面では正社員とほとんど変わらない仕事をしているフリーターも数多いのである。アルバイトだけで暮らしている人もかなりいるのではないかと思う。

 なにが違うかというと、会社から年金と健康保険を払われているかの違いくらいだ。つまり人生や将来を保障された人材であるかどうかということだ。会社や国に保障されているかの違いに、世間の人は大騒ぎするのである。

 つまりは会社や国に保証されているかという「ステータス」や「社会的信用」が問題となっているわけである。国が保証した人生であるかという問題がフリーター問題の根幹にあるのである。国に守られ、お墨付きをあたえられた社会的信用のある人間かどうか、それが問題なのである。

 いわば公務員かそうでないかの違いである。国家に保護され、保障された人生であるか、その違いが問題となっているわけである。社会主義国家の日本の国営企業に勤めている役人かそうでないかの違いである。

 正社員というのは国の保障に守られた人間であるといえるだろう。そういう国に抱えられた人間に「社会的信用」や「ステータス」があつまったのである。

 しかし企業がコストダウンのために中高年女性パートや学生アルバイトを使い出したころから、企業は社会保障というコストの抜け道を見つけ出したわけである。将来や人生を丸抱えで保障しなければならないという重荷を捨てはじめたのである。企業はそんなコストのかかる信用を保持しなくなっていったのである。つまりは国営企業や社会主義的経営から逃げはじめたわけである。

 問題は企業が個人の社会保障まで背負わなければならないのかということである。企業はその責任から脱走しはじめたのである。

 もうひとつの問題は国や企業に守られているかという社会的信用の問題である。この社会的信用が正社員という肩書きにあつまっているために企業は雇用のコスト高から逃れられない。そしてフリーターの雇用増大へと走るわけである。

 正社員という「社会的ステータス」が雇用の高コストをつくりだし、それから逃れるためにフリーターを活用し、保障や信用のないフリーターを増大させたのである。

 問題の根幹は国に守られた正社員という社会的ステータスなのかもしれない。この安定し保証された人生をだれが責任を負うのか。もしかして企業の社会保障費を全面的に廃止し、個人のみに支払いの義務が課せられるようになると、企業もフリーターもその問題を解消できるようになるかもしれない。

 国に守られるという保障が企業の高コストをつくりだし、保障のないフリーターを大量に生み出しているとするのなら、企業の保障全廃が解決の道になるのではないだろうか。企業の社会主義の時代は終わったのである。