受験秀才に志はあるのか


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 昭和の愚かな軍国化への坂道を転げ落ちたのは、受験秀才によるものだという考え方がある。たしか司馬遼太郎や渡部昇一がいっていたと思うが、資料にあたったわけではないので定かではないが。

 明治や戦後のはじめには危機意識をもった国家を案じた志士たちがあらわれる。それがしだいに受験秀才たちに占められるようになり、坂道を転げ落ちたり、暴走に転じたりするようになる。

 そもそも受験秀才は国や社会のために競争に打ち勝とうとするものだろうか。自分の将来のよいポジションや利益のために優秀な成績をとろうとするのではないのか。そういう者たちが国を運営する官僚や役人、大企業のエリートになったりするのである。

 受験秀才がこの国の行方を決めるとはずいぶん不幸なことである。かれらはよい国や社会をつくりたいと志したりするのだろうか。成績がよいばかりに誤って国のトップに立ってしまったという具合に思えてならないのだが。

 よい国や社会をつくりたいと思って国のトップをめざそうとする人たちがこの国にどれだけいるというのだろうか。

 学校の競争がめざすものは知識の学習能力である。優れた国やすばらしい社会をつくるための競争ではない。学校というハコモノはこの国の舵取りにどういう人材を送り込もうとしているのだろうか。

 ひとつの時代が終わろうとするとき、危機意識から新しい国をつくろうと志す者たちがあらわれる。それがしだいに自己の安寧や立身出世を目的にした受験秀才に占められるようになり、国は破局や終末へと転がり落ちてゆくことになる。

 国家のトップやエリートたちがこのような者たちに占められるシステムを考え直さなければならないのではないかと思う。受験秀才たちはかならずしも優秀ではないと断じることはできないが、彼らの履歴と目標は国家の舵取りとはまったくべつのところにある。

 国家は受験秀才とは違うべつの選抜システムをいままさに必要としているのではないだろうか。もちろん理想に燃えた知識人やイデオローグもまた危険である。かれらは頭の青写真のために現実を殺戮するからだ。つぎなる時代の目標に叶った現実的な行動が行える人、そういう人が選ばれる必要があるのではないだろうかと私は思う。


『司馬遼太郎―幕末・近代の歴史観』


4309976158司馬遼太郎―幕末・近代の歴史観
河出書房新社 2001-09

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 こまごまとしたエッセイや評論がのせられていて、べつに読むべきものはない雑誌のように思われた。歯ごたえや手ごたえが感じられないものばかりだった。私が司馬遼太郎ファンではないからかもしれないが。

 私がこの雑誌を読んだのは、司馬はなぜ読まれたのか、どんなおもしろさがあるのか、という問いからだった。司馬遼太郎から日本人の歴史観や歴史好きの理由が探られればいいなというもくろみからである。

 司馬のいくつかの特徴としては代表作が高度成長期に書かれ、読まれたということ。『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』はまさしくこの時代である。日本のすばらしき、美しき人物を描き、上り調子のサラリーマンを鼓舞したのである。

 ヒーローや英雄を描き人気を博したのであって、彼の執筆動機である愚かな国の原因の解明から読まれたわけではない。理想をたくした人物を描いたがゆえに彼の執筆動機はみごとに外れたのである。

 司馬遼太郎はイデオロギーや思想が大嫌いだったことがこの雑誌のあちこちからわかった。これはおそらく日本人の歴史好きにも通じるところがあり、思想が嫌いがゆえに歴史の人物から国家や社会を語ろうとするのだろうと私は思った。歴史人物で思想をおこなうのが日本人の特徴なのだろう。

 司馬はこの国が愚かになってゆく昭和の時代を小説にしなかったそうだが、楽天的に読まれる英雄像をつくったがゆえに国民作家となったのだろうが、愚かさの原因を提示しなかったという点で彼は失敗のわだちを埋めることはできなかったといえるのではないだろうか。


ネットはTVをとりこめるのか


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 ライブドアの堀江貴文はどうやらTVの視聴者をオークションサイトにとりこみたいらしい。もうすこしネットの壮大な未来を構想しているのかなと思っていたが、自社利益だけの狭いものなのか。

 ネットの未来がどうなるかということは、ネットが騒がれた96,97年くらいまでは興味をもって本を読んだりしていたが、さいきんは興味が向くこともなかった。

 ネットというのはかなりローカルなメディアに落ち着いてきているんじゃないかという感がしないでもない。個人がメディアをもてたとしても、TVのような圧倒的な視聴者を呼び込めることなんてほぽムリだ。国民の多くが集中的に継続的に見にくるようなサイトはいまの時点ではのぞむべくもない。

 だいたい、いまでもパソコンは高すぎる。いまだに20万もする。2,3万くらいで手に入るのならTVと戦えるようになるだろうが、ローカルなメディアを見るためには高すぎるのである。かわりにケータイが普及したが、画面が小さすぎる。

 ネットはだれもがメディアをもてるようにしたが、TVや新聞のような集中型のメディアにはなれない。拡散してゆく一方のメディアだ。ローカルなたこつぼのようなメディアが多くの人に知られずに存在している状態がいまのネットではないだろうか。

 ほんらいの人と人のコミュニケーションとはそういうものだ。マスメディアが一極に集中する異常なコミュニケーン構造をつくりだしてしまった。ネットはそれを自然の状態に近づける発明になったのだろうが、ぎゃくにそれは人のメディアの力を拡散して弱める方向に進むのだろう。

 そういう中でライブドアはとつぜんTVをとりこむようなテロリストのような行動に出たが、ネットが大のマスコミをのみこむなんてことはいまの段階では無理な気がする。拡散してゆくネットに、一極に集中したいマスメディアの視聴者をどれだけとりこめるというのか。

 時期尚早な気がする。未来的にはネットはTVと融合してゆくのだろうけど、多くの人にとってネットはなくても困らない存在に落ち着きつつある。ネットをやらない人に聞いても、ネットができてなにかが変わったかと聞くと、なにも変わらないというだろう。ネットはこのくらいの活用しかできなものなのか、それともまだまだ可能性を活用できていないだけなのか。

 ネットは細々としたローカルなメディアで終わるのか、それとも社会構造を変えてゆくメディアになるのか。ことしでネットが騒がれた1995年のネット元年からちょうど10年目だ。ローカルなメディアにすっかり落ち着いた感があるが、マスメディアの一極的な権力をつぶす意味でもネットはがんばってほしいものである。


『こんな「歴史」に誰がした』 渡部 昇一 谷沢 永一


4167411032こんな「歴史」に誰がした―日本史教科書を総点検する
渡部 昇一 谷沢 永一
文藝春秋 2000-02

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 このコンビはなんなのだろうな。歴史には学ぶべきものがあるのだが、日本を美化したり、敵対者を屈折した論理で中傷するときには、トンデモ本の部類に入れざるをえない言い方をする。そこで信用がガタ落ちだ。

 日本の歴史教科書はたしかに暗黒史観やコリア史観といったものに毒されていると思う。しかし過去を暗黒にするのはけっして陰謀ではなくて進歩するための批判であるのだし、コリア史観は反日のためではなく、戦時中の日本人自身の反省があるからとり入れているのだと思うのだが。かれらの中傷は屈折して感情的すぎるのでかれらの人間性自体を疑いたくなる。

 自虐史観は戦後からおこったのではなくて、西洋コンプレックスがなせるものだと思う。進んだものをとり入れようとするときにはどうしても自己反省が必要になる。それはけっして自虐とよばれるものではないと思う。なぜこういう物言いしかできないのか。反省を拒否したら進歩はないし同じ過ちをくりかえすのではないか。

 日本人の歴史の誇りや美点を教えることは大切だと思う。しかしそのおかげで国民は戦時中に痛い目に会ったので警戒するのはとうぜんだろうし、誇りや自慢は向上心を終わらせるだろうし、品性に欠けるように思われる。

 ただやっぱり国民のひどい歴史ばかり教えられるのも現代の限定されたしあわせは感じられるかもしれないが、あまりこの国土で生きてきたことに幸運を感じないだろう。これは現政権の利益にかなう歴史像なのか。歴史はどんな面からも見れるから、まずは執筆者の利益と意図をまず読むことが必要なのだろう。

 歴史というのは現代人の利益や満足、価値観からつくられているものである。こういう歴史の書き方はだれが利益を得て満足するのかという視点をもつことが必要なようである。科学のような主観なしの客観性など歴史や人文社会に求めるのは不可能だとますます思う。

 さてこの本は歴史の読み物としてはなかなか興味魅かれるものがあった。

 教科書は29代の欽明天皇を始祖としているらしい、仏教が入ってきたとき先祖が救われないのは困るから仏は先祖の神の姿として現れてきたという本地垂迹説ができたということ、武士は土地の私有権を永代に守るために名を重んじるモラルができた、明治維新は開国によって密貿易をしていた長州と薩摩の利権が失われることからおこった、などいろいろ楽しめる歴史が読める。


大阪のホームレスの青テントはなくなりません。


 とうとう定着した観のあるホームレスの青テントです。いっこうになくなる気配はありません。

CIMG00022.jpg 青テントは97年からいっきょに増えました。山一證券や長銀がつぶれた年です。それから8年、青テントはなくなりません。
CIMG00065.jpg 大阪市内に拡散したのは、西成の日雇い労働者たちが阪神大震災のブルーシートを学習した結果だといわれています。その前にかれらは仕事がなくなり、家に住むという発想を捨てざるを得なかったわけです。


東大寺の大仏さんを見てきました。


 みなさんは奈良の大仏さんは見たことがありますか。修学旅行とかで一度は見たことがあるんですかね。きのう見に行ったので写真で大仏さんを拝んでください。

 奈良はなぜかのんびり安らぎますね。奈良公園とか春日大社とか中心部にやたら緑が多いからでしょうね。

CIMG0020_3.jpg 威厳ある大仏殿ですね。横に伸びる直線がきれいですね。
CIMG0023_3.jpg おお〜、ひさびさに見た大仏さんです。やたらデカいのに圧倒されつづけました。
CIMG0027_3.jpg 華厳教の大仏さんだとあとで知りました。「一瞬に永遠があり、一滴のしずくに全世界がある」という壮大な世界観をもっています。現代の量子力学やフラクタル幾何学の先取りです。
CIMG0029_3.jpg ガイジンさんがたくさん見ています。がりがりのキリストに比べて、こっちのゴッドは豊満だなあと思ったりするのかな。
CIMG0031_3.jpg となりの仏像と大仏さんのうしろが金ピカになっています。なぜ大仏さんは青銅なんだろう。大仏さんも金ピカならえげつない成金趣味に見えたでしょう。
CIMG0055_31.jpg 奈良時代、すでに華厳経と唯識論は成立していました。唯識とはこの世界は心の現れであるといった心理学的な学問をとなえました。学問はほんとうに進歩したのかという気がします。
CIMG0063_3.jpg 幼い女の子が鬼の面に興味しんしんです。こういう年代はどんなことでも神秘的に感じられるんだろうな。かわいいので一枚。
CIMG0073_3.jpg 毎年一月に山焼きされる若草山にのぼりました。東大寺、興福寺、春日大社の領地争いからはじまったといわれますが、ヤケクソになって坊さんが山を焼いたりするか。
CIMG0078_3.jpg 逆光になってしまいましたが、若草山からは奈良盆地を一望できます。むこうには生駒山があり、海からの障壁となり、奈良はぐるりと山垣に囲まれているわけですね。京都にも似ています。
CIMG0114_3.jpg わら葺屋根の茶屋です。春日大社の近くにあります。わら葺屋根はのどかでいいなあと思えます。心が安らぎます。現代のコンクリ住宅なんてちっとも安らがない。

 『唯識のすすめ』 岡野守也 NHKライブラリー
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 仏教の心理学、唯識を勉強してみますか。

 『華厳経をよむ』 木村清孝 NHKライブラリー
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 水滴に全宇宙が宿るとはどういうこと?

  mfweb5.gif 東大寺周辺の地図です。


『司馬遼太郎と藤沢周平』 佐高 信


4334781543司馬遼太郎と藤沢周平―「歴史と人間」をどう読むか
佐高 信
光文社 2002-05

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 司馬遼太郎は国民作家といわれ、経営者やサラリーマンにいまだに多く読まれ、崇めたてまつられている。私は司馬遼太郎にナショナリスティックなにおいを感じとるし、あまり興味を魅かれたことがない。

 なぜ多く読まれたのだろうか、司馬遼太郎はなにをいっていたのか、ということをいま知りたいと思っている。

 それで批判ならこの人ということで、佐高信のこの本を読んだ。ただ佐高信という人は批判や悪口ばかりいっていてこんな人生が幸福なのかという疑問があるし、批判の基準軸みたいなものはひじょうに薄っぺらだと思っているから、留保したい部分はたくさんある。ただ企業批判をつづけた数少ない人としては称賛に値すると思うが。

 この本の中で司馬が読まれたのは、高度成長期の経営者のエゴイスティックな功利主義に、国民国家の壮大な発展に貢献するという位置づけを与えたからだ、という色川大吉の指摘にいちばん納得した。つまり司馬は経営者の功利主義を国家に寄与するものだと思い込ませたのである。国家のために尽くした日本の偉人は私であるという錯覚を与えたのである。罪深い作家である。

 もうひとつ明記しておきたい部分は、司馬は軍国主義の反省から小説を書きはじめたというが、戦前は戦争によって国民を踏みつぶしていたことようなことが、げんざいの会社によっておこなわれているという認識がスポーンと抜け落ちているという佐高の指摘だ。これはかなり重要な問題だ。

 軍国主義を反省したような人が、なぜそれを会社でおこなっているような経営者に支持されているのか、おかしな話である。色川は本当に反省したのなら、あんなにおめでたい小説なんか書けるわけがないといっている。

 私も会社主義がずっと嫌いだったが、そこに戦前と変わらない軍国主義を見たからだと思う。軍国主義を反省した国民が会社の中で同じようなことをやっている、その根深い不信感が私の会社忌避への感情をつちかっているのだと思う。たぶんそれは増えつづけるフリーターやニートの気持ちの奥底にもあるものだと思われる。

 軍国主義や国家主義がほんとうに終わるのはいつのことだろう。そのときまでは会社や仕事に無条件に邁進することができないように思う。それらに利用されるような仕事や人生とはいったいなんの意味があるのだろうかという意識がぬぐい切れない。

 司馬遼太郎は軍国主義を反省しようとしたのかもしれないが、国家主義という枠組みからは抜け出れなかった。国民を踏みつぶす戦前となんら変わらないしくみを批判するばかりか、おおいに称賛する結果におちいってしまった。第二の敗戦の戦犯である。そして会社の中で若者たちや国民を踏みつぶす都合のよいイデオロギーになってしまった。

 司馬は晩年小説を書くのをやめ、エッセイに専念し、国民作家としてくだらない国を導いたと反省していたようにいわれるが、死後その称賛はますます高まっているように見える。司馬が導いた経済軍国主義の反省が省みられないのなら、若者や庶民はこの国からどんどん離反してゆくことだろう。司馬が反省した同じくびきをたどっているように思えてならない。

 なお、この本は司馬遼太郎が支配者の目線で見るのに対して、藤沢周平は庶民の目から見るからよいといったような浅い批判基準で書かれているが、司馬遼太郎を批判したという点で読むべきものがあると思う。とくに石川好と色川大吉との対談によいものがつまっている。


『戦国武将 頭の使い方』 小和田 哲男


sen1.jpg戦国武将 頭の使い方―「知恵と知恵の戦い」を読む
小和田 哲男
三笠書房 2001-07

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 この本を読んだのはもちろん戦国武将の活躍を知りたいのでも、仕事に活かそうというのでもない。なぜ経営者やサラリーマンは戦国時代を読むのかという問いからである。

 現代の会社と戦国武将ってそんなに似ているのかと思う。経営戦略や人事戦略には似ているかもしれないが、スケールや殺戮という点ではだいぶ異なる。ヒロイックに戦国武将に重ねるのは浅はかなナルシズムだと思うのだが。小粒で小さなサラリーマンが戦国武将に重ねるさまはあまりにも誇大すぎるというものである。

 歴史というのはまったく現在のことだと思う。歴史に自分たちの姿を投影しようとする。これはナルシズムの生んだ架空物語としかいいようがない。歴史の真実なんか人は必要ないのではないかと思う。

 ひとつ気づいたのは戦国武将は全国に割拠していたわけだから、けっこう地元の郷土愛(パトリオティズム)を満足させられるのではないかということだ。各土地の武将たちは地域の人たちの優越心を満足させるのである。

 戦国武将とはおのれのヒロイズムの幻影なのである。仮面ライダーやウルトラマンとなんら変わりはしないヒーロー願望が歴史像をつくるのである。


韓国ドラマブームは西洋崇拝の終わり?


  dffger1.jpg 『天国の階段』

 『天国の階段』弟9話はチェ・ジウが記憶をとりもどすストーリーで思わず感動してしまいました。この物語も『冬のソナタ』と同じように交通事故で記憶を失って、愛する人と再会しながら愛し合えないという苦しみをたどるストーリーをもっている。

 こういう物語は愛する人なのに別人になるという哀しみを訴えているのだが、信頼や受容という関係が寸前のところで断たれる苦しみを味わわせる。そのもどかしさが視聴者を引きつけるのだと思う。

 同じ人が別人みたいになるという関係はわれわれもしょっちゅう味わっている。愛する人と別れたり、ふられたり、別人のように冷たくなったり、環境が変わって別人のように見えたりと。信頼があったからこそ、その郷愁があったからこそ、この物語は人を哀しませるのである。

 『天国の階段』は関西では土曜の2:30という中途半端な時間でやっているのだけど、つづけて見たくなった。私は『冬のソナタ』もとびとびだけど、ある程度は引きつけられて見ていた。郷愁的なテーマ曲や愛する人と通じ合えないというもどかしさには魅きつけられるものがあった。

  001_chejiu1.jpg 『冬のソナタ』よりこっちのチェ・ジウのほうがかわいい。

 それにしても韓国ブームである。なぜここにきてブームになったのか不思議でならない。『冬のソナタ』がなぜ中高年女性に受けたのかもよくわからない。

 日本のトレンディドラマの流れがたいそうつまらなくなっていたのはその一因だろう。もう見るものがなくなっていた。12話で完結してころころすぐ新番組に変わるし、浮かれた上辺だけの物語ばかりつくるし、深みも重みもない二十代女性向けばかりのドラマばかりつくるし、人生や社会を教えてくれるような価値あるドラマはひとつもなくなっていた。まあ、それは日本人の日常そのもの自身の姿でもあるのだろう。

 もちろん韓国の文化開放政策もあるのだろうけど、アメリカという憧れられる文化がもう終わってきたという兆しもあるからかもしれない。高度成長期のアメリカのすべてが輝いて見える時代から遠く離れて、ハリウッド映画は巨額をかける大作に堕し、イラク戦争などアメリカの悪い政治面ばかり見せられて、アメリカ離反がはじまっているのかもしれない。

 韓国ブームは西洋憧憬の時代が終わったことを告げているのかもしれない。

 われわれはようやく自分の身の丈のアジア人であることに恥ずかしさやコンプレックスを感じなくなっているのかもしれない。韓国ブームは男性アイドルがもてはやされる現象からはじまったわけだが、中高年女性からそれがはじまったのは、彼女たちが若者のようにアメリカのような突飛なカッコよさを追いかけないですむ世代であること、神社仏閣や古いものをよしとする価値観がとうぜん年をへるごとに増すだろうから、韓国という身の丈の憧れに飛びつきやすかったのだろう。

 韓国人はほとんど日本人と同じ顔つきをしている。中国人となるとちょっと違和感を感じる顔を見るようになるが、親近感は西洋の白人と比べるべくもない。

 ポップ・カルチャー、メディアというものは国境というものをなんのこだわりもなく通り越してしまう。文明や文化、情報や知識というのはほんらいはこういう性質のものであるはずである。あるいは人だってそういうものだったと思う。漁民や交易は国境というものをほぼ感じないで行き来していたと思われるし、そのもとでの文化伝播はかなり活発におこなわれていたはずである。

 政治や国民国家という縛りが人びとの自由な交流を阻んできたのである。なぜそういうことが必要であったかというと、その国の王や首長が自分の利益や権益を守るために必要であったこと、自国の権力者や勢力者も同じような権益をめざしていたからだろう。その他おおぜいの民衆や庶民はそういう縛りに利益や権益があったかはわからない。

 ポップ・カルチャーやメディアは国境をやすやすと越える。自国がメディアが宣伝するような政治的権利など容易にのりこえる。政治メディアがさえぎっていた鉄のカーテンから見えてくるのは、鬼でも化け物でもない普通の人たちの表情や感情である。ポップ・カルチャーは政治的国家を覆せるのか。


『グラディエイター』――大衆政治は正しいのか?


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 ローマ帝国五賢帝の180年ごろを描いたリドリー・スコットの作品である。絢爛豪華なローマ時代、迫力ある剣闘士を描いており、西欧の原初的自慢話、男らしさの迫力をたたえるといった前触れだけで見る気をなくしたが、きのうTVでやっていたのでスペクタル大作としては楽しめると思い見た。

 最後の五賢帝マルクス・アウレーリウスが出ていたのは、「おおーっ」と思った。アウレーリウス『自省録』はいまでも手に入り、私の愛読書でもあるからだ。名誉心を戒める内容やストア哲学の心のコントロール法は一読の価値があると思う。

 皇帝の時代から共和制(民主制)がほめたたえられる時代を背景としていたが、古代の知識人はあまり民主制は評価していなかった。パンとサーカスで代表される衆愚政治におちいるとされていたし、寡頭政治をまねくともいわれていたからだ。かれらは比較の視点をもっていたのである。学校の教科書ではこういうことは習ったのだろうか。

 民主制をほめたたえるテーマがあり、アメリカのプロパガンダ映画になっていたわけである。イラク戦争の自由と民主制の大義名分がメッセージされていたわけだ。この映画を見て何の疑いももたずに民主政治を最高だとみんなはみなすのだろうか。この映画は民主性がはじまる時代の期待感を描いていただけである。大衆政治がなぜすばらしいのか語っていない。

 それにしてもアメリカ人自身もほんとうに民主政治を最高の制度だと本気で思っているのだろうか。その国にいるからこそ欠点も汚濁も見えると思うのだが、よくこんな映画を恥ずかしげもなくつくれるものだと思う。宗教信者も自集団の教説をなんの疑念もなく説けるわけだから、両者は似ているのかもしれない。

 この作品の中では「大衆」という言葉がひんぱんに出ていた。大衆の心をつかむことが、たとえ奴隷の剣闘士のように笑いものになる存在であっても、権力をもつ皇帝より力をもつことができるのだというメッセージを発していた。

 それは政治評と見ることもできたし、映画評とも見ることができた。どちらかといえば、映画の影響力は政治の権力より強いというリドリー・スコットのメッセージが強いように思われた。たしかにベルリンの壁はメディアによって壊されたというように影響力は圧倒的なものがある。でも大衆に支持されるものがいつでも正しいとはまったく思えないのだが。

 大衆が政治に力をおよぼすのはいいことだされるが、私たち大衆がいちばんかかわり、生存の道を握っているのは企業である。なぜ政治ばかり語られて、企業の政治や権力は目をつぶらされるのかいつも不思議に思う。国家や政治が問題にされるより、企業が問題にされなければならないといつも思うのだが、政治ってわれわれのパンとサーカスなのか。

 この映画は民主制ははるか二千年前西洋から始まっていたという西洋の大自慢話なのであるが、われわれはたんじゅんに賛同する見方をするだけはよくないと思う。たとえばその後のローマ帝国の政治経緯を跡づけたり、民主制を検討する本を読んだりして、民主政治の欠点と長所を見極めるためのはじまりにしてほしいものである。

 私たちも学校で民主政治はすばらしく、江戸時代までの民衆は虐げられた暗黒の時代だったと教えられるのだが、それはいまの政府のプロパガンダにすぎないのである。明治からの政府は長州や薩摩からの地方志士たちの革命政府なのであって、前の政府のほうがよかったといわれては困る。だから子どもには前の時代を徹底的に悪かったと教えられなければならないのである。

 「歴史とは都合のよい現在」であることを覚えておいてほしい。


『日本人と武士道』 スティーヴン・ナッシュ


4758431043日本人と武士道
スティーヴン ナッシュ Stephen Nash 西部 邁
角川春樹事務所 2004-05

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 武士道について書かれた本だと思ったら、九割方は日米貿易摩擦によって書かれた日米関係論のような本だった。「だまされた」と思わなくもないが、まあアメリカ人からみた日本社会批判は読むべきものがあることはある。

 日本はアメリカの真似ばかりしているが、アメリカの欠点をしっかりと見よ、慣習や伝統のような日本にもよいところがあるといった保守主義のようなことがいわれていた。おもには日本社会批判が興味を魅かれた。

 たとえば日本は集団主義でアメリカは個人主義だから、日本は恥だ、アメリカに学べとよくいわれるが、アメリカはかなり画一主義の国なのだといったことがいわれたりする。

 日本では主体性の発揮が理想とされるが、主観的という言葉は侮蔑の言葉である、日本人の主体性とはマスメディアの世論だと皮肉られたりする。日本人の重厚な感情は公的に表現されず、私的生活にくすぶっているのである。

 日本人が日本のことしか見ないのは、「人類愛を訴える世界的宗教」がないからだというのはなるほどと思った。

 「延命への欲望」を絶つことによって、生を充分に享楽することができるという逆説がある、といったことがいわれている。

 それにしてもこの本は80年代のビジネス書のようなもので、『ラストサムライ』が公開されてから文庫になったようで、むりやりかつぎ出されたような本であるのはちょっとあざとい商売に思える。日米貿易摩擦ってそうとう騒がれたが、こんにちはイラク情勢ですっかり姿形を失ってしまって、いったいどこにいってしまったんだろう。


『司馬遼太郎。人間の大学』 鷲田 小彌太


4569662765司馬遼太郎。人間の大学
鷲田 小彌太
PHP研究所 2004-10-02

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 私は司馬遼太郎の小説はほとんど読んだことがない。だからこの本を読んで司馬遼太郎がなぜこんなに人気をもっているのか、または日本人の歴史観を探られればいいなと思った。

 私はなんとなく司馬遼太郎の本は好きではなかった。もともと歴史モノよりSFのほうが好きだった。歴史はダサいように思えた。

 歴史好きはナショナリズムの香りもしたのだろう。歴史が全否定された未来モノのほうが正義のように思えたのだろう。歴史を愛することは軍国主義につながるキケンなことだ。そういう警戒も歴史を否定した未来主義にはあったのだろう。

 そう、私にとって歴史はナショナリズムなのだ。偉大なもの、優れたものを歴史に見いだそうとすることは、私にとっては禁じられたことなのだ。だからいま歴史を読もうと思っても、批判や警戒心ばかりがわきあがってくるのである。そのタブー視の呪縛はよいことなのか、悪いことなのか、問いなおすことも必要だろう。

 さて、この本はたんじゅんに司馬文学の魅力をたのしませてもらった。合理主義の『国盗り物語』、『花神』大村益二郎の数奇な人生、『坂の上の雲』の国家の上昇期、『新史太閤記』の嫉妬の避け方、『菜の花の沖』のビジネスの平等性――こんな物語だったのかとか、こんなことが語られていたのかとか、なかなか興味をひきつけられるものだった。

 司馬遼太郎は日本の歴史の中からすばらしい人や立派な事績をひきだしてきたわけである。戦争に負けて、アメリカや西洋のコンプレックスに自己否定ばかりおこなわれている時代に、日本人の自信をとりもどす歴史物語を提供したのである。それは高度成長する日本のビジネス社会におおいに歓迎されたわけである。

 でもそんなものでも私の中に教育された軍国主義の警戒が融けるわけでもない。ビジネスの成功や会社中心主義でも否定の目が根づいているものだから、歴史人物の英雄視すら否定されるべきものに思える。誇りや優越心はもってはならないのである。

 よいことなのか、悪いことなのか、いまの私には判断できない。権力や権威を警戒する心性は否定されるべきではないのはとうぜんのことである。ただそれが自分の人生を否定するような方向に加担しているとなったら、反省することも必要だろう。私の中のそのような傾向は健全な知恵なのか、教育された否定なのか、もう少し探る必要があるのだろう。


古代、上町台地から海が見えた。


 きょうは上町台地の有名な坂道を歩いてきました。海が間近まで迫っていたそうです。いまはビルしか見えませんが、かつては高台から町並みや海がのぞめて、さぞかし絶景だったのでしょう。台地は石山本願寺や大阪城、仁徳天皇の高津宮があったり、げんざいも官公庁街があり、大坂の中心でありつづけました。

CIMG0005_1_11.jpg 高津宮で巫女さんがなにかお祓いをおこなっておりました。仁徳天皇の高津宮がおかれたところだと思われますが、もとは大阪城付近にあったそうです。
CIMG0008_1111.jpg 北前船の模型が飾ってありました。大坂から瀬戸内海、北海道まで物資の輸送に大活躍した船です。大坂の発展はこの船がなければ、ありえなかったわけです。
CIMG0013_12.jpg 仁徳天皇はこのあたりから庶民の町に煙が立たないのを見て課役を三年やめたといわれています。でも皇室が書いた歴史資料しかのこっていません。日本一デカい古墳をつくった人が苦役を課さなかったといえるのか?
CIMG0047_11.jpg 石畳と石垣がのこる源聖寺坂です。なんか有名みたいなんですが、それなりに味わいがあるのはわかりますが、そんなに魅力的なのかな。。
CIMG0060_12.jpg こちらは口縄坂です。高台からははかつて海が見えたと思うと、感無量です。いまは海の方角に電気街日本橋や歓楽街ミナミがあります。
CIMG0074_1.jpg 清水坂です。石垣の坂道が異国情緒をかもしだしています。木造が多かった日本の町並みにはそうありえない風景ですね。
CIMG0119_1.jpg 近くの天王寺駅にはダンボールで眠る人たちが列をなしています。哀れなのか、自由なのか、政府がどうかするべきなのか。人間も動物のように生きる尊厳もあってしかるべきなのかな。。
CIMG00221111.jpg 大阪城です。天守閣は西洋の教会を模してつくられたといわれます。戦国時代からすでに西洋化はおこなわれていたわけですね。

 mfweb4.gif 高津宮あたりの地図です。


私の貢献は何もないのに日本の栄光に同一化できる私


 この世の中で私が私と思っているものに同一化できるものはたいへん少ない。私の働く会社や家族や地域にわずかながらの「私」のつながりを感じる程度だ。ほかのたいていのものは「私」ではないし、私とつながりすらない。

 私は世界から隔絶され、孤立しているのではないかとおもうくらいだ。私のものといえるものは家の中にあるわずかなものだけで、この世の中にはほとんどない。

 人が私の範囲とよべるものはこのように狭いものだといえるのに、「日本国」や「日本文化」、「日本人の歴史」となったりすると、たちまちそれは「私」のものになりえる。私の範囲は孤立した状態からいっきょに巨大なものになるのである。

 身近な街を見渡してみたら、「私」とよべるものはほとんどなかったはずである。世間は同一化できないものがほとんどである。

 私はソニーの社員でもないからソニーが私であるとはいえないし、たとえば日産の車をもっていたとしても私は日産の社員であるとはいえない。でも「日本国」や「日本文化」となるとそれが許されるのだ。国家はどこかの会社員のように排他的な顔をしていない。

 私は日本のGNPが上るとうれしいと思うが、私は私が勤める小さな会社の従業員のみである。ソニーや日産のように大企業の社員でもないのに、日本国の経済繁栄をわがことのように思う。ソニーや日産の利益が上ったからといって、社員でも株主でもない私に喜ぶいわれはない。それよりもっと大きな日本規模になると「私」の喜びになるのである。

 私がソニーや日産の製品を買うと、それらの会社は「私」のことのように思うことができる。私たちは買うことによって、企業の威信や権威を身にまとうことができる。ブランド品を買うことによって私の価値が上ったように思う。

 私は日本国を買ったわけではない。税金を払っている。そのわずかな金額を出資しているから私は「日本国」に同一化できるのだろうか。より大きな出資をしている人はより「日本国」である資格があるのだろうか。

 私は日本文化にほとんど貢献したことはない。信長や秀吉みたいに歴史の舞台を駈けめぐったこともない。それでも海外で日本文化が評価されると自慢に思うし、歴史の英雄を理想化して同一化することもできる。

 私は地域の短歌や和歌をやるカルチャーセンターに通ったこともないのだが、そこの評価が高いからといって自分の鼻が高くなると思うことはない。日本文化となると、私のかかわりや貢献はかぎりなくゼロである。それでも評価される日本文化は私の自慢である。カルチャーセンターの業績を横どりしているかのようである。

 私はライブドアの社長やドンキホーテの社長となんの関係もない。地域の政治家ともいっさいかかわりがない。まったく赤の他人である。現代の偉い人たちとの関係がそうであるのに、歴史上の人物となるとなぜかわがことのように親近感が抱ける。愛着を抱くほど「私」のように感じることができる。

 同じような例として、自分の出身校だけが母校である。ほかの学校を卒業したことにすれば詐称罪に問われる。卒業していないのに、同じ地域という理由だけで応援されるのが高校野球である。「私」とはそこに住む範囲まで含まれるのか。「私」とは身体のみではなく、土地まで「私」なのだろうか。大家や家主のものではないのか。

 私はどこかのスポーツ・チームに属したこともないし、優秀な成績も収めたこともない。近所のスポーツクラブが勝利したからといって、私はうれしくもならないし、自慢にもならない。それを横取りして自分の手柄のように誇れば、そのスポーツクラブにひんしゅくを買うだろう。それがプロ野球やオリンピックになれば許されるばかりか、おおいに推奨される。私に何の関係があるのだろう?

 「私」の範囲とはおかしなものである。近くのものや同時代なものは私とまったく関わりのない隔絶された他人事であるはずなのに、「日本国」や「日本文化」、「日本歴史」となると「私」のことのようになる。

 ものすごい違和感を感じる。会員制のクラブが大きくなるごとに会員制でなくなって、だれでも入れるようになってゆくのである。できれば、私はこのおかしな感覚を大切にして、大きなものを「私」と見なす錯覚には警戒したいと思う。


『攘夷の韓国・開国の日本』 呉 善花


4167633019攘夷の韓国・開国の日本
呉 善花
文藝春秋 1999-09

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 金達寿の『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫)を読んでいらい、日本は韓国人がつくったという説の疑惑をずっとひきずっている。まるで日本の始まりがからっぽになった感じがする。

 この本は韓国生まれの日本在住の著者がみずからのルーツやさすらいのアイデンティティをたどりつつ、韓国人が日本をつくったという説の検証をおこなってゆく。

 日本は韓国より先に先進国家になったから、韓国では古代日本は韓国がつくったという俗説が優位主義をくすぐるものとしてふつうに受け入れられているらしい。それはアメリカとインディアン、オートスラリアとアボリジニのような差別図柄なわけである。先進国家のお手柄はわれわれが与えたのだという劣等感の補償である。歴史にはそういう政治力学があたりまえのように働く。

 著者は飛鳥や北九州、出雲などの古代史跡をたどりながら、みずからの履歴を重ねつつ、渡来人がどのように日本に定着していったのかを探る。古代史は在日韓国人としてのアイデンティティの安定として働くのである。彼女は中立的な立場をとろうとするが、ホンネとしては先進構図に喜びを感じているようである。

 ともあれ、この本を読んで私は朝鮮人が日本をつくったなどとの説にそうこだわる必要はないと思えてきた。げんざいの在日二世、三世でも、ほとんど日本に同化しているものである。ましてや古代の何世代もへた渡来人に何国人かと別ける必要もあまりない。またとくに海洋民族などは陸地による国境別けなど意味のなさないものだから、現代の国境意識からも当時を見ても仕方がないというものだろう。

 朝鮮からの渡来人は多く来て、先進文化をもたらしたが、現代の先進・後進国家のナショナリズムでこの時代を判断することはできない。たしかに多くの渡来人が来たのだが、朝鮮人が日本を支配したと考えるのも、あまりにも現代のナショナリズムで古代を見すぎである。

 そういう優劣感情でしか歴史を判断できない、語れないという自分の心持ちに、哀れさやみじめさを感じるのである。私はなぜ国家の優越を心の安定として必要とするのだろうか。私は国家と一心同体の存在ではないし、国家とは別の存在である。国家との同一化という呪縛からぜひとも解き放たれたいものである。

 さて日本は支配した地域の神を排除しようとせず、支配者の神より高く祭られることが多くおこなわれてきた。出雲や大和でもそうだった。こういう構造から日本の支配の方法が見えてくるのではないだろうか。それは海から神がくるという信仰や、海外から先進文化をとりいれる素早さ、八万よろずの神のような宗教的寛容さへつながってゆくのではないだろうか。

 なお、この本は第五回山本七平賞を受賞している。


『民族と国家』 松本 健一


4569620272民族と国家―グローバル時代を見据えて
松本 健一
PHP研究所 2002-05

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 イデオロギー対立の時代にはナショナリズムの問題は影を潜めていたが、こんにちその情念が噴出しだした。そのような時代の変容を知るには、多くの例や歴史が語られているカタログ的なこの本は、なかなかよかった。

 近代的なナショナリズムがはじまったのはフランス革命からだった。貴族しか軍隊のいない国に比して国民全体が軍隊になれば、その国はめっぽう強いことになる。だから国民には自由や平等や参政権や人権が与えられることになった。ナショナリズムはそれゆえに強化されたのである。

 西欧列強の植民地支配や帝国主義はそのパワーゲームのドミノ倒しだったのだろう。それが戦争による凄惨な結果をもたらしたあげく、東西イデオロギー対立が終焉すると、西欧に勝手に線引きされた各国からナショナリズムやパイトリオティズム(郷土愛)が勃興することになる。

 民族や国家とはなにか、ナショナリズムやパトリオティズムとはいったいなにか、人はどのような共同体意識や記憶をもてば安定するのか、といったことがらがいままさに問われなければならなくなっているわけである。

 私としては他国と競合したり、戦争しなければならなくなるナショナリズムやパトリオティズムはなくすことはできないかといったことなら考えたいと思うのだが、国家や国際情勢についてはあまりにも勉強不足だ。国家意識が希薄な私がナショナリズムについて問うのもむずかしい。

 私がこの本を読んだのは、なぜ人間は国家や民族に優越や偉大さを求めるのか、という問いからだった。人間はふつう身体や家や家族ていどを自分の「範囲」だと見なしているものだが、国家や民族にまで範囲を拡げ、そこに過剰な優劣感情や執着を見せることがある。

 「それはあなた自身のことではないではないか」といいたくなるのだが、人は国家のような強大なものに同一化する。そういう補償機能の意味を問うてみたいとおもったのである。

 民族や共同体や国家を自分と見なすことはひとつの病理現象ではないのか。観念や想像力による病ではないのか。大きな集団に権力を求める心性というものから、われわれは離れることができるのか。

 小さな個人の存在でありながら安定をもつことがわれわれにはできないのだろうか。そういう問いが世の中の安寧をもたらすと私は思うのだが。


マスメディアは早く終わってほしい


 ライブドアの堀江貴文が「テレビはなくなる」とかいったとかいわないとかいろいろいわれているようだが、私は現在のような一方向のマスメディアは早く終わってほしいと思っている。

 マスメディアなんて異常なありかただと思う。少数の人間がおおぜいの大衆に一方的に語りつづける装置なんてものは、カリスマ宗教家に洗脳される信者と変わりはしない。

 そういう異常なありかたに気づかないのは、テレビを見るという行為が個室に閉じ込められるからだろう。もしそういう状況が劇場で毎日くりかえされれば、異常さに気づいてゆくだろう。

 テレビや新聞や雑誌という媒体がなかったとき、人はどのような情報の伝え方をしたか。一対一のコミュニケーションで、または一対おおぜいで、人から人へ直接目で見え、耳で聞こえる範囲でおこなわれるしかなかっただろう。情報の力はこの範囲を越えないものだったのだ。そしてげんざいのものしか見ることも聞くこともできなかった。

 テレビやマスメディアはこういう情報の力をはるかに越えて、少数の者だけが情報を発信しつづけるという異常な情報不均衡の装置をつくりだした。メディアを送れる者だけが、自分たちの考えのもとに、自分たちの思いや感じ方だけを一方的に流しつづけることができたのである。

 そういうメディアの力をもたない多数の人たちは原始的な井戸端会議や、教室や会社の中での会話でとどまるしかなかったのだ。情報を発信する力は一方的にマスメディアに握られている。

 私は十代や二十代のころ、マスメディアの圧倒的な力や強制力にずいぶんと腹をたてたものだ。「マスメディアがこういっているからこうしなければならない」、「マスメディアがいっているから正しい」――といったような強制力にたびたび出会い、怒りをつのらせた。マスメディアは流行や正義や道徳の強制力を、それが正しいとはかぎらないのに、ファシズムのようにもっていたのだ。

 三十代になるとふしぎなことにあまり感じなくなったが。雑誌や映画や流行に興味がなくなってきたからか、それともメディアはそういう力をバブル以降もたなくなったのだろうか。若くてマスメディアに影響を受けやすい世代はまだまだこの強制力のまっ只中にいると思うのだが。

 少数の者だけが毎日情報を送れるという装置自体が異常なのである。そういう装置がほかのおおぜいの人の手に渡るようになってはじめて尋常なしくみができあがるというものだ。井戸端会議でしゃべるしかなかった人もテレビで話せるようになる装置がないと、公平や平等にはなりえない。この情報発信の不公平さは、選挙権みたいに問題とならなかったのがふしぎだ。

 インターネットはその情報発信の不公平さを突き崩す装置になるはずである。そしてテレビや雑誌のような独占権力の構造も崩してゆかなければならない。だれもが公平に情報発信や影響力の装置をもてるようにするべきなのである。

 もちろん個人の情報発信力はひじょうに弱いものだし、情報を有効に広範囲に拡げる術もわれわれはもたないだろう。われわれはこの力の格差にまだまだ鈍感すぎるのである。情報や影響力がどのような力をもつかと気づいたときに、われわれはマスメディアとの異常な格差というものを思い知ることになるのだろう。かれらもわれわれと同じふつうの人間であり、個人ゆえの偏ったり、歪んだものの考え方しかできないものである。

 だからネットでHPやブログを開いている人はがんばってほしいと思う。マスメディアの尋常あらざる構造をつき崩していってほしいと思う。マスメディアはわれわれの手で終わらせるべきなのだと私は思う。


優秀さをめざす病


 まえの断想集で優秀さをめざすがゆえに人が殺されるマンガや物語が多くつくられるのだという考えを提出した。人が殺されるのは主人公が強かったり、優秀であることの証左なのである。

 この社会は優秀さがかなり誉めたてられる世の中である。おそらく優秀さを批判したり、悪者あつかいする意見はまず耳にすることはないだろう。無条件に受け入れられているといってもいいと思う。

 歴史を見れば、とくに人気のある時代を見れば、一目瞭然である。日本を天下統一した戦国武将たち、日本を近代化した幕末志士たち、西欧に目を転じれば、大帝国を築いたローマ帝国や先進文化を誇ったギリシャ文明、文明の草創期をつくったメソポタミヤやエジプトなどの四大文明。すべて優秀さの刻印を押された時代や文明ばかりである。

 歴史はわれわれの価値観や目標を写す鏡なのである。われわれの時代の偉大さや優秀さの価値観が投影されたものにすぎない。はたしてわれわれは歴史の事実を見ているといえるのだろうか。

 人間としては優秀さをめざすのはとうぜんだと思えるだろう。偉人や賢者がいなければ文明や文化は発展しなかっただろうし、よりよい社会に貢献する人物を失ってしまうと思われるだろう。

 国家内においても優秀な人物がいなければ他国に撃ち落されるだろうし、経済競争においても優秀さをめざさないと企業からリストラされると不安になるだろうし、優秀な成績をおさめないとよい大学にもよい企業にも入れないと怖れるだろう。

 優秀さはわれわれの生存の不安から生まれたのだから、とうぜんの欲求だといえる。その防衛本能を抜きとるなんてことは可能なのだろうか。不利益のほうが多いように思われる。

 だが、優秀さの競争が過剰になったとき、デメリットがまったくないとは言い切れないだろう。はじめにいったように優秀さをめざす闘いが物語においてたくさんの殺人を見せるようになっているのである。人を殺す強さや優秀さが誉めたたえられるまでして優秀さは競われるべきものなのだろうか?

 そう、優秀さをめざす目標からはたくさんの闘いや争いが生み出され、憎しみや恨みや怖れの原因になっているのである。優秀さを競って人を蹴落とし、人を打ち負かし、物語では優秀さのために人が多く殺され、国家間においては争いや戦争の原因になっているのである。

 人殺しは大げさとしても、優秀さを誉めたたえる社会というのは落ちこぼれる恐怖を増大させる社会のことである。おおよそ心の安定からはほど遠い日々や人生を送らされているわけである。

 優秀さという無条件に善と思われるものも、はたして手放しで称賛されてよいものだろうか。

 優秀さをめざさない民族や社会もどこかにあったはずである。結果として文明や国家を築かなかった未開民族にそれはあったのではないかと思う。アボリジニやイヌイット、マサイなんかその結果ではないかと思うのだ。かれらの歴史も法外な偉大さをもたないものであると思う。人類には可能であったはずなのである。

 きょうも人が殺されるマンガやドラマ、映画をたくさん見ている「優秀」な先進文明は果たして褒め称えられるべきものなのだろうか。。。


 ■参考文献
 優秀さの解毒剤は中国思想や隠遁思想、仏教に多い。
 『老子・荘子』 世界の名著 中公バックス
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 『菜根譚』 洪自誠 岩波文庫
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『嗤う日本の「ナショナリズム」』 北田 暁大


4140910240嗤う日本の「ナショナリズム」
北田 暁大
日本放送出版協会 2005-02

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 もっとやさしい言葉を使えよと思った。「アイロニー」だとか「シニシズム」だとかそれだけで意味がわからなくなったし、言い回しはもって回ったように難渋だし、広告とかテレビとかネットなど身近な話題をとりあげているのに理解しにくいもどかしさが多く目立った。学術雑誌にのせているのではないから、一般の読者にわかるように書けよと思った。

 内容は広告とかメディア論とか、テレビ論、ネット論など興味惹かれるものが多くあった。メディアに向かう態度のようなものを描いているわけなのだろうか。理解があやふやだから個別的なトピックには興味を魅かれたが、全体的なもの、テーマの目的がよくつかめていません。

 連合赤軍の反省ばっかりする態度から、糸井重里の「抵抗としての無反省」、田中康夫の抵抗が抜け落ちた「無反省」、つながることが自己目的化した社会への変遷が描かれているようである。

 なんだか反省のありようが消費社会においてどのように移り変わってきたかを主題にしているわけだろうか。たしかに60年代の怒れる若者からそれ以降の従順な消費バカの若者にはずいぶん落差を感じたものだが、その説明をしているのだろうか。

 個別的なトピックとしては、消費バカの80年代に10代を送った私には連合赤軍は興味をもてない、糸井重里が過激派だったとは知らなかった、『元気が出るテレビ』からテレビの裏側を見せる番組がはじまったことは覚えておきたい、2ちゃんねんはつながることが自己目的化しているからメディア批判は話のネタにすぎない、近頃もりあがったナショナリズムもそういうことではないのか、等々ひとつひとつのトピックはかなり興味の魅かれるものだった。

 でも使う言葉が難しいから深く理解したいと思う気にならない本だな。個別の題材はもっと追究したい、知りたいと思わせるものは多くあったのだけど、なにぶん基礎用語がわからない私が悪いのか、著者の排他的態度が悪いのか。まあ、メディア論、ネット論としてはたいへん興味を魅かれる題材をあつかっている。

 著者は71年生まれでもうこの世代がたくさん本を出しているのだと思うと、67年生まれの私のなにも生み出してこなかった日々が少々後悔の念を刺激されるのである。


『模倣される日本』 浜野 保樹


4396110022模倣される日本―映画、アニメから料理、ファッションまで
浜野 保樹
祥伝社 2005-02

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 日本のアニメが世界中で受け入れられているのはだれでも知っていることだろう。だけどその影響や浸透のあり方が日本の私たちにはまったく実感できないのである。現地の人のように感じ、捉えることがまったくできないのである。

 だからこういう本を読む必要があるわけだ。ただなにか目新しいことを知るというよりか、確認のために読んだという感が強い。

 こういう本は日本人が書いたものより、ちょくせつ影響をうけた現地の人が書いたものを何カ国も集めた本のほうが適しているのではないかと思う。それも活字よりテレビや映像のほうが適しているかも。

 この本の目玉はハリウッド映画も日本アニメを模倣するようなったということだろうか。でも知っている人はすでに知っているだろう。黒澤明の影響力もあらためて確認させてもらったが、べつに目新しいことではないしね。

 「模倣する」「模倣される」というタイトルにインパクトがあったかもしれない。われわれはここまで来たのかという感をもたらした。模倣の折り返し点にわれわれは来たのだろうか。

 この本の後半部分では模倣する日本の西欧コンプレックスや屈辱的な日本否定や日本嫌いの歴史がのべられていて、自文化をまったく恥のように破壊してきた日本の近代化の歴史に後悔や嘆きを感じさせるものだった。しかしどちらの気もちもわかるものだから、極端に振れるべきではないというしかないだろう。

 さて、日本は<経済大国>から<文化大国>へと転換を計れるだろうか。経済大国への目標はもうなくしてしまったのだから文化大国への転換はおおいにもとめられるところだ。

 でもね、日本のオヤジって時間をなくして仕事だけに邁進することを理想としてきたから、かれらがこれから文化大国の主になれるわけがない。かれらはあまりにも時間抹殺の労働機械なのであり、監獄と思わない労働の檻から抜け出すのは不可能に思える。遊びや文化から仕事が生まれるということは、労働主義者には禁断の考えなのである。

 「貿易は映画に続く」をアメリカ政府はスローガンとしたが、日本も「貿易はアニメに続く」とするべきだろう。

 そしていちばん大事なことは文化とは時間と暇が必要なことである。時間がなければ、裾野の広い文化大国はぜったいに生まれない。時間を労働だけにあてるようなげんざいの経済大国化時間表では確実にムリである。フリーターがのぞむような自由な時間のある社会が、文化大国の基礎に必要なのである。


優秀さを競うために人は殺される


  azu1.jpg 平和のために人を殺す『あずみ』

 きのう上戸彩主演の『あずみ』という映画を見た。人が大量に殺され、いかに鮮やかに殺されるか、いかに強く殺すことができるか、いかに華麗に殺されるか、といったシーンばかり見せつけられて、この映画はいったいなんなんだと悶絶した。

 強さに価値をおくのはわかる。だけど殺人や殺戮シーンに美学を見いだすような価値観にはついていけない。人が鮮やかに殺されるシーンが額縁に飾られるような見せ方というのはいったいなんなのだろう?

 われわれは人を殺す物語をしじゅう見ている。マンガや特撮番組からはじまってサスペンスやドラマや映画にいたるまで、人が殺されるシーンばかり見ている。

 人が殺されるのは勧善懲悪やなんらかの殺すべき理由があったり、倫理観にかなった殺人が描かれるのがふつうである。意味や理由もなく殺される物語もたくさんあるけど、つうじょうは倫理的な要請から殺害がおこなわれる。

 でもほんとうは倫理的な正当化なんてタテマエにすぎないのだろう。人が殺されるシーンを人は見たがっているのだ。

 なんで殺人という人間社会にとって最大のタブーが、人間社会の虚構物語に多く描かれるのだろう。人はそれだけ毎日毎日だれかや人を殺したいと念じつづけているからだろうか。

 腹の立つ上司や教師や、ムカつく家族、道ですれちがったうっとうしい人、いいがかりをつけてきた人、金持ち、自分より優れた人、政治家、差別されている人、みんなみんな人はしじゅう殺したいと思っているのだろうか。

 精神分析家なら殺人シーンというのは、自分の内なる悪や凶暴性を丸め込めるための方法論だというだろう。つまりじっさいの人を殺しているのではなく、われわれの心の内部では、それら殺される人はみずからの悪や凶暴性が象徴されたものだというのである。だから徹底的に丸め込める残虐さが必要だというのである。

 人が殺されるのではない。私の中のその人のような部分が殺されるのである。そういった正統的な理由なら殺人シーンも無益なものではないだろう。童話が残酷なのはその意味で必要なのである。

 われわれは子どものころからマンガや特撮映画などで人を殺すシーンばかり見てきた。悪役も人間と見なすのなら、人間が殺される物語ばかり見てきたことになる。まさかこの社会は殺人を奨励する社会であるはずがないだろう。

 人が殺されるのは相手が悪や敵であったり、または主人公の優越や勝利を得るためだったりする。そのためには人は殺されても仕方がないというか、奨励されることなのである。

 主人公が優れたり、勝ったりするためには相手を負かさなければならない。そういう競争的価値観のなかで主人公は人を殺す。優越や勝利の目印として人は殺されるのである。主人公はそこで勝利や金メダルを得たことになるのである。殺害とは主人公が優秀であることの承認である。

 優れることや正しいことはわれわれの社会の多くの人がめざす価値観である。その至上価値をめざして、人は闘い、人を倒し、そして殺す。優秀さや正義に向かって人は争い、そのために人は殺されるのである。

 人が殺されるくらいなら優秀さや正義を競うことをやめさせるべきだろうが、自分が優れている、正しいと思いたい人がこの地上から消え去ることは決してないだろう。そして物語の中で人は殺されなければならないのである、私の優秀さや正義のために。

 子どもの物語では自分の優秀さが競われる話ばかりたたきこまれる。私は優れなければならない、称賛されなければならない、勝たなければならない、――そうでないと私の人生には意味がない。そうして私の優秀さの犠牲として人は殺されてゆくのである。

 優秀さに駆り立てられる病というものが現代を殺戮映画だらけにしているのだろう。偽善者ぶって殺人シーンを規制したってはじまらない。残酷シーンを規制しようとする正義漢や優秀さのアピールこそが問題なのである。


 ■参考文献 
 『老子・荘子』 世界の名著 中公バックス
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 「もしわれわれが賢者に力をもたせることをやめるならば、人民のあいだの競争はなくなるだろう」――老子


当サイト ブック・ランキング


 amazonへのクリック数・ランキングです。いわば関心度のランクです。すばらしい本はたくさんあるのにランキングで切ってしまうなんてくやしいことですが、とりあえずは上位ランキングをお知らせします。

2005/1/1- 2005/3/1 クリック数
1  すでに起こった未来―変化を読む眼
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 誰かクリックしまくったのかな?
145
2  リチャード・カールソンの楽天主義セラピー
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 やっぱりおすすめの本です。
15
3  なぜ彼は本気で恋愛してくれないのか
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 男らしさが女を傷つける。
15
4  自由という服従
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 タイトル負けしているからオススメしないよ。
9
5  整体 楽になる技術
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 整体と現代思想の合体。
9
6  日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで
 bunkaron.jpg
 日本文化論の名著がわかる。
8
7  捨てて強くなる―ひらき直りの人生論
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 愚かさという賢さや偉さと違う道。
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8  孤独であるためのレッスン
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 群れてばかりいるのはやめよう。
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