『マンガは哲学する』 永井 均


4062568721マンガは哲学する
永井 均
講談社 2004-08

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 マンガはここまで哲学的だったのかとわかる本である。マンガを読んで疑問や違和感を感じたとしても、それを言語化するのはけっこう壁がある。その疑問や違和感を言語化するのが哲学というものだと思う。

 人はマンガを読んでじゅうぶん哲学しているのだけど、それを言葉にはできないのである。思いや気もちのままでとどめてしまうのである。それを見事に言葉にできる人というのが哲学者なのだと思う。

 吉田戦車や藤子・F・不二雄に「意味と無意味」というテーマを見い出し、萩尾望都や吉野朔美に「私とは誰か?」というテーマを、「夢」というテーマで佐々木淳子、諸星大二郎を読み解き、「時間の謎」を『ドラえもん』や手塚治虫から読みとり、「人生の意味」を『天才バカボン』や業田良家にもとめている。ほうほう、そういうことを語っていたのかと感嘆させられることしきりである。

 マンガは思いっきり絵空事を描けるから、哲学的たりうるのだと思った。小説や映画の場合、より現実に近い分、哲学的にはなりえないのである。マンガは現実から離れるための思考の仕掛けのようなものである。より抽象的、想像的な言語操作のことこそ哲学というものである。

 ただこの永井均の本を読んで虚構相手にここまで考えなければならないのかと思った。それほどまでにしぶとく永井均という人は純粋に哲学している。だけど私にはずっとここまで考えるかという思いが強かったから、私の思考は哲学よりもっと現実的、機械的な思考に近づいているのだと思われた。思考のしぶとさにちょっといらだちを感じたくらいなのだから。

 永井均は大学の教員をしていて、哲学の学習が哲学的感度を殺す例を毎年見ているといっている。いつしか哲学界の問題とされている哲学をこねくりまわすだけの人になってしまっているという。そうなのだと思う、枠組みや鋳型にはめられてゆくのである。読書や学習から離れたところで考えるのはむずかしいことだけど、たぶんそこにこそ、はじめ自分が考えたかった哲学の問題があるのだと思う。そういう感性はたいせつにのこしておきたいものである。


『戦国の知将 強者の論理』 鈴木 亨


tisho1.gif戦国の知将 強者の論理
鈴木 亨
三笠書房 2004-08-22

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私は戦国武将とか時代劇にはまったく興味をもてなかった。むしろサラリーマンが戦国武将に自分たちの姿を重ねる姿はなさけないと思っていた。サラリーマン文化というものが大嫌いだったのだ。

 だからこの本は人は戦国武将になにを求めるのかという視点から読まれた。サラリーマンや現代人は戦国武将に自分のどのような欲望を投影しているのだろうか。

 まあ、たしかにサラリーマンと共通しているところはあるのだろう、人を使ったり、賞罰をあたえたり、戦術や戦略を練ったりと。歴史の人物から学ぶことはあるのだろう。

 私は武勇や人の上に立ったり、人を使ったりすることになんの興味ももてなかったから、戦国時代には興味をもてなかった。歴史というのは自分たちの価値観が色濃く投影されるものだ。というより自分たちの価値観でしか歴史は見えない。いいや、自分たちの価値観が歴史の一部を浮上させるのだ。これが事実の歴史といえるのだろうか。

 現代サラリーマンの立身出世の欲望として戦国時代は伝承の闇からあらわれた。司馬遼太郎は戦国時代が日本でゆいいつ実力主義の時代だから評価するのだといっていた。

 私はサラリーマンのような卑小で奴隷的な存在が、死を賭した戦国武将と比べられるわけがないと思うのだが、戦国ヒーローはその卑小さを自覚したうえでの願望だと思うことにしよう。


TV『ラ・ストラーダ 道は何を運んだか』に批判意識はない。


   appia31.jpg ローマ帝国のアッピア街道

 2/26にフジテレビ系で『ラ・ストラーダ 道は何を運んだか』という番組をやっていた。道の歴史についてなにを語るのかと思っていたが、まあこういう教養番組は好きです。

 古代の琥珀の道や塩の道が紹介されたり、ザルツブルグの塩(ソルト)の道がサラリーの語源であるということ(サラリーマンとは塩男?)、ローマ街道の車輪幅はげんざいの鉄道の車輪幅と同じである、馬車生産の産地のハンガリーのコチュ村がコーチの語源ということ、など歴史雑学が多くまなべた。

 なぜ道についての歴史かと思ったが、日産が提供をおこなっていたからだった。番組中の登場人物が日産車の宣伝をするあたりはうまいつくりだなと思ったが、日産宣伝者だけがこういうふうに道に興味をもつだろうけど、一般人が道にそんなふうに興味をもつかと思った。

 道が発展してゆくことによって自動車文化が花ひらいたと自動車帝国の讃美のような番組になっていたのだが、批判的視点がまったく入れられないのが無料テレビ番組の限界だ。自動車文化が肯定的だけに捉えられるのはものすごく片手落ちの教養である。公害がある、交通事故死がある、無益な物質・消費社会の立役者だ、遊びや集いの場を街から奪った、目的ばかりで過程を楽しめない社会をつくった、など批判はいろいろもりこむ必要があるだろうけど、広告でなりたつテレビにはムリな話だ。

 たいそうな歴史ロマン番組だと思ったが、たんに道の雑学的知識が得られただけの番組だったのかもしれない。私も道の何かについて知りたいと思って見たわけではないので何について探究すべきだったといえないけど、道ができることによってなにが変わったか、どのような効用や害悪があったのかと考えてくれればよかったのに思う。

 「道は偉い、なぜなら日産が儲かる」みたいなテーマならこれは教養番組ではない。宣伝番組である。あとから思えば、そういう番組であった。教養はやはり本のようにお金を払ってでないと身につかない。タダほどコワイものはない〜。

   rre1.jpg 『ターミネーター3』

 テレビではじめて『ターミネーター3』を見たのだが、期待していたわりには感想も書けないような低調な映画だった。『T2』のような液体金属ターミネーターのような衝撃はないし、女ターミネーターのすごさやしつこさはあまり感じられなかったし、ストーリにもおもしろみがなかった。4作目につなげるための中継ぎ作品にしか過ぎないみたいだ。

 シリーズ作品でいえば、『エイリアン』は二作目がものすごく恐ろしくてよい出来になっていたが、後の作品はてんでよくなかった、『バック・トゥ・ザー・フューチャー』はまあ三作目までおもしろいままだった、古くは『猿の惑星』は4作目以降はほぼ印象にのこらない、といった感じでシリーズは出来不出来が極端だ。

 でも『ターミネーター』ってあまり深いテーマがなくて、ターミネーターの驚異で見せるような映画だったので、中身がむきだしになっただけなのかもしれない。核戦争の脅威はだいぶ薄くなったし、『T2』のような精神病院(因習ともとれる)への批判のようなドラマもなかったし、『ターミネーター』はもう芯が抜けてしまったのだろう。4作目は『猿の惑星』4作目のようにコーネリアスとジーラが抜けてしまったようなますます遠くなる映画になるのだろうな。


『韓国人の日本偽史』 野平 俊水


4094027165韓国人の日本偽史―日本人はビックリ!
野平 俊水
小学館 2002-04

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 どうでもいいや。韓国人が勝ったとか、日本人が負けたとか。

 事実だけを教えてほしいのである。しかしこの本のなかの韓国側の主張と著者がどういおうとしているのか私にはよく読みとれない部分も多くあった。

 歴史に事実なんかないのだろう。歴史には政治しかないのかもしれない。

 優越とか劣等とか、自尊心とか蔑視とかそういう目で歴史を見たくなんかない。もしそんな階列があったとしても事実どおりうけとりたいと思う。しかしそんなことを許さない人がいて、どっちが偉いだの、どっちが大きいだの、どっちが古いだの、などという比較優劣で歴史を見ようとしたり、都合のいい歴史をひっぱりだしてきたりして、歴史は自尊心と劣等感のあさましい争いの場になる。

 なんで人は民族や国家の優越心や劣等感を自分のことのように思うことができるのだろう。そんなものが私の持ち物でないのは明らかであるし、私の金で買えるわけがないし、こんなものに自己の自尊心や劣等感を賭すのは自己の範囲を拡げすぎである。せいぜいバックや車や銀行通帳までにしてほしいものである。

 国家に自己の自尊心や劣等感を賭す人があまりにも多くいすぎなのである。自分にはなにもないから国家みたいな大きなものに同一化して自分の価値を大きくしようとする。これは自分の自我を安定させるには役に立つのだろうけど、ことがらがあまりにも大きすぎるので制御できないことや不満や紛争が噴出しまくるので自我の範囲は狭くしたほうが得策である。ストア哲学や仏教みたいに外部はコントロールできないから自分にできるのは心やものの見方だけであると考えたほうが賢明というものである。

 韓国は隣国だからこそ、たいして変わりはしないからこそ、優劣は過剰なまでに競われる。歴史は偽史や捏造という言葉で揶揄される関係になる。事実なんか見い出そうとするのは不可能に思えてくる。あるのは優越と劣等を見い出そうとする歴史であり、政治としての歴史だけである。

 そもそも歴史というのは優越や自尊心を得るための存在なのだろうか。歴史が記憶される原動力はそれだけなのかもしれない。なぜ人は自分の記憶にない歴史を知らなければならないのだろう。大きく、偉く、古いものであるという自分にはない崇高なものを自分のものにしたいからではないのか。大きなものになろうとしたら、差別や蔑視を生むだけである。人間としてはあまり偉い道ではない。

 歴史を描く人にはまずはみずからの劣等感からうみだされる権勢主義というものを削ぎとった上で、事実としての歴史を究明してもらいたいものである。とうぜん私たち自身にも自分の優越感への願望という問題がつきつけられるわけだが。

 さて人間に事実としての歴史なんか描けるのだろうか。


『歴史から何を学ぶべきか』 小和田 哲男


owada11.jpg歴史から何を学ぶべきか―教養としての「日本史」の読み方
小和田 哲男
三笠書房 2004-10

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 なかなかいい本だった。歴史の誤った思いこみにおちいらないために読んでおきたい本である。

 私は歴史があまり好きではないからすぐ疑いやこんなわけないだろうかとか、英雄史観や天下人史観とかにすぐ反発したくなるし、結果からの歴史とか正義が勝つみたいな歴史とかに疑いの目をもちたくなる。

 歴史にすなおにのめりこめるタイプではないので、とくにサラリーマンがこじつけるような戦国武勇伝みたいなものが好きではなかったから、現代人の好みや欲望によってゆがめられる歴史というものにもかなり警戒してしまう。だから歴史の懐疑論や認識論はまえから読みたかったのだが、あんがいこういう本はないのだな。

 歴史好きの人にとってはこういう歴史を疑う本ってなかなか手にとりにくいのではないだろうか。戦国武将や維新志士とか、太古の日本人とか、歴史のおもしろさやロマンにすぐにのめりこめる人にはことさら読んでほしい本である。でもなんらかの疑いや疑問をもたないとなかなかこういう本には目が向かないものだが。

 この本ではたとえば歴史から教訓を学ぶべきだといわれるが、昔におこったことを現代にまったくあてはめるのは危険があると後醍醐天皇の例をあげながら説明されていたりする。教訓を学ぼうとする性急さからは信長の奇襲作戦のように創作された歴史も生まれてくることを警告している。

 歴史というのはたいてい勝利者側から書かれるから敗者の事実さえ消されてしまうだろうし、英雄や偉人のみが歴史をつくり、庶民やその他の人たちはまったく何の意味もなく生まれて死んできたという印象を生み出すし、英雄はますます天才化され神格化されることになってしまう。

 歴史にもしもの視点を導入することで見えてくることがあることも教えられる。信長が本願寺・一向一揆をはげしく屈服させていなかったら、武家政権や公家政権ではないまったく新しい百姓政権や寺家政権が生まれる可能性があったことが見えてくる。

 歴史教科書はそのときの通説や定説をもとに書かれているから十年二十年たてばそれらは屍と化すことが少なくないといっている。「通説は書き換えられるためにある」といってもよいかもしれないのである。

 私はあまり歴史が好きではなかったが、ぎゃくに戦国武将や維新志士たちの物語にのめりこめる人たちを羨ましく思ったりする。どうやったら興味をもったり、好きになれたりするのだろうと思う。歴史に疑うことも必要だが、やはり人間の歴史の宝庫なのだから学ぶべきことが多くあるのは疑いないことである。


なぜ犯罪報道はマニアック・マーケットを叩くのか


 犯罪が起こるたび、おたくやロリコン、ゲームやマンガなどの趣味が叩かれることになる。

 もういい加減にしてほしいものである。その趣味をもっている人たち全員が犯罪を犯したわけではないのに、全員が犯罪者のような目で見られることになる。

 たとえばフジテレビ社員やソニー社員のただひとりが犯罪を犯したからそこの社員はすべて犯罪者だとされるようなものである。こんな原因究明でいいのか。報道被害という損害を考えられていないのか。

 マスコミはとにかくマニアック・マーケットを叩くのが好きみたいである。人の趣味やマーケットというものはどんどん昂じてゆくものである。興味外の者たちにはそれが理解できないだろうし、怪しさや嫉妬心を抱いたりし勝ちである。

 マーケットで売られているということは世の中の正当な商行為であるという認識をもたらすだろうし、マーケットからは積極的に楽しめ、買え、上等な客になれという声も感じることだろう。顧客間においても競争が生じ、コレクションやグレードが競われることになる。マーケットはどんどんエスカレートしてゆくことになる。マーケットの世の中に生きている以上これは推奨されていることだし、どの業界にも見られることである。

 マスコミはそこを犯罪報道と絡めて叩くのである。新しいマーケットやマニアック・マーケットの利益や業績のおこぼれをもらいたがっているかのようである。

 犯罪報道はその性質上売れているマーケットの悪い面としかつながれない。いままであったようにインターネットやケータイ、マンガ市場のネガティヴ面ばかりにつながろうとする。彼らにとって新しいおいしいマーケットは毒を吐くことでしか利益を頂戴できないのである。

 マニアックさや性的嗜好は犯罪報道によって抑制される必要があるのだろうか。マーケットはいくらでもその世界を推奨するものだが、犯罪報道はいつもその抑制をおこなおうとする。犯罪報道はこんにちの道徳抑制たりえるのか。バタイユ流にいえば、禁断ゆえの快楽をますます増すだけに作用しているように思えるのだが。


『日本文化論の系譜』 大久保 喬樹


4121016963日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで
大久保 喬樹
中央公論新社 2003-05

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 日本を賛美したり称賛したりする言説はひじょうにこころよい。だけどそんなものに依存してはならない。日本というものの「実体」は境界を探しても歴史を探してもどこにも線を引けるものではないし、優越や競争、果ては戦争といった愚かな泥沼におちいることになってしまう。

 日本の軍国主義を反省するのなら、われわれがこんにちもつ国家の優越を求める心性にこそおぞましさを見いださなければならない。こんにちでもまったく払拭されていないことをあちらこちらに見るだろう。

 日本文化を語った名著とよばれるものはナショナリズムにいろどられているものである。西欧に負けない優越した日本文化があるというわけである。この劣等感の補償としての優越心こそ問われなければならないのではないだろうか。

 この本でとりあげられている18冊の本も「西欧/日本」の「優越/劣等」という構図で捉えるべきではないだろうか。風土や民族、文化、歴史のなかに日本の優越や称賛をみいだそうとする涙ぐましい、あるいは恥ずかしい構図が見てとれることだろう。

 科学とよばれる客観・中立な学説であっても、恥ずかしいくらいこの劣等感の補償という構図が埋めこまれていることに注意しなければならない。人びとに読まれた日本文化論の名著はそれゆえに人びとに大々的にうけいれられたのである。

 この本でとりあげられているのは志賀重昂『日本風景論』、新渡戸稲造『武士道』、柳田国男『遠野物語』、西田幾多郎『善の研究』、九鬼周造『「いき」の構造』、川端康成『美しい日本の私』、坂口安吾『日本文化私観』などである。

 人生と本のダイジェストであり、人生も本の内容もたいへん読ませるものになっている。著名人がどのような人生を送ってきたのか、内容はどのようなものか、感嘆しきりである。とくに出自ゆえに遊郭におぼれた九鬼周造のドラマには読ませるものがある。ひさしぶりに新書らしい新書を読んだ。

 これらの文化論の名著は西欧の真似をすればするほど独自性やアイデンティティが失われ、大昔の日本文化に帰っていかなければならなかった日本人の悲哀を見ることができる。

 若者と老人の対比みたいである。若者は西欧のカッコよさに憧れ、老人は日本古来のダサい哀しみのなかに帰ってゆくしかない。日本の独自性や優越はそこにしかないのである。しかもそれもさかのぼれば遡るほど圧倒的な朝鮮や中国の影響にしか出会えないのである。

 われわれのなかにある優越と劣等の構図こそ消却されなければならない根本ではないだろうか。たとえば個人のなかでは劣等感の解消はどのような方法がいちばんいいのだろうか。

 優越感をとりもどそうとすれば劣等感は強化されるだけだから、対立を無化しなければならないのではないだろうか。心の問題は心がつくりだすものだから心を消す必要があるわけだ。それこそ日本古来の禅や仏教に学べというものだ。


アクセス解析でようやく読者の姿形が見えた。


 アクセス解析をはじめてまだ一ヶ月はたっていないが、読者の声や存在をはじめて身近に知ることができてたいへんよかったと思う。カウンター数だけではわからない読者の行動や要望が読めて、自分のささやかなHPづくりもムダではなかったのだと思えた。

 カウンター数によって私はトップページの来訪者数ばかり気にしていたが、7年もの蓄積がある私のサイトではほかのページの来訪者が多いことも知ることができて、トップページをそんなに気にすることはないことを知った。

 アクセス解析でいちばん意外に思ったことは、このサイトはリンクから来る人より検索ワードから来る人が多いことだ。思いもしなかったことだ。ネットはTVや新聞のように受動的なメディアになると思っていたが、能動的に自分の探し物を見つけようとする多く読者の存在を知った。受身の読者ばかりではないことはネットの大きな可能性だ。

 今月の検索ワードランキングだ。(HPからの移行は断念しました。)どちらかというと、ほかの検索と重ならない一度だけの検索ワードのほうが多い。668位まである。

 『自由という服従』が上位にきているのはオススメしない本だけに残念である。『宮崎アニメ〜』からたどってくる人が多いのは、やはり新刊本の書評を読みたい人が多いということだろう。読者の要望に応えるには新刊本や話題書をとりあげる必要を感じたのだが、やはり私は自分の読みたいものもかたくなに大切にしたいと思う。『感じない男』は思っていたより少ないな。検索ワード数からフィードバックを活かしてゆきたいとも思う。

 生ログから検索内容をたどれるのは、読者の行動や要望を知るうえでたいへん役に立つ。まるで読者の目のように検索や結果を見ることができるからだ。これは検索内容をたどれたのかとか、失敗だとか、うまい検索でこのページにたどってこれたなとか、いろいろ知ることができる。また話題や流行のワードを知ることもできて、フィードバックに活かすこともできて思わぬ収穫だ。

 個人情報のプライバシー問題もあると思うが、個人名も特定できないことだし、べつに知られたって嗜好や傾向がわかるくらいで読者のアンケート調査に答えたくらいと思うのも妥当なんだろう。もし気になるようなら津村ゆかりさんのアクセス情報と個人ログで足跡を消す方法を探られてはいかかでしょうか。

 ドメインを見ていると会社から見ている人もいることを知る。仕事中でも見ていたりして、いいなと思う(笑)。出版社から来ている人もいるが、仕事上の必要から見ているのだろうか、それとも遊び? 大学から来ている人は光栄なことだが、教授が見ているのか、学生が見ているのかはわかりません。残念。

 時系列アクセスや週間アクセス、月間アクセスなどは見に来ている人がいるとか、多い少ないがわかったりするが、べつだんなにかに利用できるものではないみたいである。書評やエッセイの更新によってアクセスの変化を読みとることが必要なんだろう。

 アクセス解析をはじめてたいへん得ることが大きかったと思う。なによりもサイト運営では読者の影や形もまるで見えないのである。ほんとうになにも見えない。いわば客が一人もいない観客席に向かって歌を唄っている売れない歌手みたいなものである。だからアクセス解析は観客の具体的な姿や形をようやく見せてくれる貴重なものである。

 このサイトは7年もつづけておりながらアクセス数が増えない寂しいサイトである。アクセス解析で読者の要望や声を聴きとることによって、読者の喜びや楽しみを増やしていこうと思うしだいであります。ほかの人気検索ワードや話題のキイワードの動向も気にしつつ、読者の声を活かしてゆきたいと思っておるのであります。

 ただやはり自分の知りたいこと、考えたいことを優先にするのは曲げないつもりです。自分のためのサイトだからだ。そのなかに読者の要望やフィードバックを折り込んでゆきたいと思う。それが自分の喜びにもなれればいいと思う。


『京都 秘密の魔界図』 火坂 雅志


CIMG0001115.jpg京都 秘密の魔界図―奇々怪々の13人の英雄に誰もが凍りつく
火坂 雅志
青春出版社 1992-09

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 この本を読んだら京都めぐりに興味魅かれるようになるかなと思ったけど、恐ろしさや不気味さを煽っているだけの本にしか思えなかった。

 新書よりぶあついプレイブックスとかカッパブックスは怪しくていかがわしい本をたくさん出しているが、たまにはそういう本のほうがおもしろいときもあるが、歴史上の京都はまさに御霊だとか魔界とかを真剣に信じていた怪しい本のような社会だったのである。

 おそらく新聞の一面に崇りが出ただとか鬼があらわれただの記事が大マジメに掲げられたような時代だったのだろう。崇りや怨霊に天皇や貴族たちは怖れおののいていたし、神社や神のはじまりはそれらの鎮魂や封印であったのである。おそらく神道や陰陽師、仏教僧などの知識人がひとびとを洗脳したのだろう。現代はそういう洗脳がなくなってよかった。

 でも過去の人たちがこうだったのだから現代人も違う知識によって同じ過ちを犯しているのだと考えるほうが妥当である。現代人は死後の不安を失った代わりに老後の不安というものに恐れ、必要以上にそれを守ろうとはしていないだろうか。平安京の人たちを笑えるほど人間は進歩なんかしていない。


派遣会社の仲間意識の失敗


  hyoryu2.jpg

 2月5日に放送されたNHKスペシャル『フリーター漂流〜モノ作りの現場で〜』はネットでなかなか反響が大きかったようだ。派遣のフリーターたちがたらい回しにされるさまを映していた。

 私も派遣のバイトは何度か経験したことがあるからこんなことはなんの驚きもないことだ。派遣というのはほとんど人間扱いされていなような気分になる。また会社の仲間という意識からも疎外される。

 仕事はすぐに見つかる。ハンコと履歴書さえもっていけば仕事を見つけてくれる便利さがあるからついつい頼ってしまうのだが、派遣は会社の仲間意識という一体感から強烈な断絶感を味わわされるから、何度か経験してもう近づくのはやめようと思うようになった。

 工場も派遣会社も日本的な会社の仲間意識というものを引き裂くから、ものすごい失敗をしていると思う。「獣の集団があそこにいる」ような感覚になってしまうのである。

 日本の会社は仲間意識でいっしょに仕事をがんばろうという感覚でモチベーションをつくっている。仲間となら少々つらくとも、苦しくとも、がんばろうという気持ちで仕事をしている。

 工場や派遣会社はその感覚を引き裂き、「人間」でないような違和感をひきおこす。心がすさみ、仕事よりか集団の中での居心地の悪さから派遣はすぐ辞めてしまい、だから工場や会社はますますひんぱんに派遣バイトをとりいれることになり、人間扱いされない感覚を派遣バイトに味わわせるようになるという悪循環におちいる。仕事がキツイという基礎があるわけだが。

 これから派遣を利用したいと思っている人にはやめておいたほうがいいと私はいいたい。仲間意識から疎外されるというものがどんなものか味わうだけである。派遣でない会社を探すべきである。派遣でもアットホームに接してくれるところもあるだろうが、工場系に「人間らしさ」はまず見つけられないだろう。

 工場にこんなに人間らしさがなくなったのは効率化や合理化がとことんまで進んだためか、それとも工場は以前からこんなもので豊かさを知った若者たちが逃走したからこうなったのか、状況は悲惨なものである。

 この日本の労働状況を知らせる番組に反響があったということは、おおかたの日本人は日本の労働現場というものはこういうものだということを知らなかったのだろう。これが働くということであり、労働社会というのはこういうものだ。

 学校や社会はそれを若者に知らせなさすぎるのだ。物語や消費の甘い夢ばかり見させられる若者はなにも知らずにこの過酷な労働社会に出会うことになる。

 日本は戦時中につくられた国家総動員体制が経済や会社の仕組みにそのまま存続した社会である。つまり軍国主義が経済の中にのこっているのだ。だから個人や人々は守られない。国家の勝利システムのために個人はだれにも守られないのである。このシステムはニートやホームレスの増加によって、ソビエトのように自家崩壊するまで待つしかないのだろう。


『「宮崎アニメ」 秘められたメッセージ』 佐々木 隆


miya1.jpg「宮崎アニメ」秘められたメッセージ―『風の谷のナウシカ』から『ハウルの動く城』まで
佐々木 隆
ベストセラーズ 2005-01

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 宮崎駿のアニメってテーマはわりとわかりやすいほうじゃないのかと私は思っていた。文明と自然の対立とか、欲望の寓話だとか、解釈下手の私もなんとかわかると思っていた。

 でもテーマやメッセージの読み方というのは一冊の本ができるほど、探れば探るほど深みがあるものだと、この本を読んでいて思った。考えることを手放したら、もうそれ以上の深みはないのである。

 物語の謎解き本というのはおもしろいと思う。自分ではまったく気づかない読み方や解釈を見せてくれるから、それはまるで手品の種明かしみたいなものに思える。

 「そんな意味が込められていたのか」だとか、「こういうメッセージが込められていたのか」と、ぼんやり見終わっただけでは思いもつかない種明かしを見せてもらえるのである。物語というのはやはりこんなところまで理解したいものである。

 この本ではハウルやトトロ、千尋、ナウシカ、もののけ姫の5作が解釈されているが、私には千尋の解釈がいちばんよかったのではないかと思う。「千を尋ねる」という名前の意味とそれが忘れられること、カオナシがどういう人物を象徴しているか、それから千尋はなにを学んだのかということなど、ファンタジーだから謎解きの題材はもりだくさんである。私には社会で働くことの意味を教えられる映画だと思うのだが、子どものころにこんな映画に出会えた人は幸せだと思う。

 宮崎作品のなかではスケールの大きい『もののけ姫』がいちばん好きだが、解決がどのようにつけられたのか、はじめてこの本に教えてもらった気がする。

 しかしこの本はいったい何歳くらいの読者に向かって書かれたのだろう。かなり大人向きの感じがするし、ちょっと知的レベルが高くないと読み通せないのではないかと思う。小学生とか中学生で理解できるのかな。子どものほうがもっと宮崎作品の解釈を知りたいと思うのだが。


きんぴかぴか金閣寺!


 室町時代の北山文化といわれるところを歩いてきました。金閣寺と賀茂神社を見てきました。金閣寺は「なんじゃ、これはー?」とやっぱり思いましたね。写真です。

CIMG00042.jpg 下賀茂神社に行くには長い林の参道を通り抜けなければなりません。威厳と尊厳のランドスケープがうまくデザインされていると思いました。
CIMG00132.jpg 下賀茂神社の摂社ですけど、池がうまく配備されていて、境内の風格を高めていました。
CIMG00184.jpg 賀茂川には流れの段差がいくつもつけられていて、景観の快さを増していました。カモやサギも人を怖れずにたくさんいました。京都は水や自然を見せる工夫がうまいんですね。
CIMG0024.jpg 上賀茂神社には立砂といわれる神山をかたどった砂がつき固められていました。なんだかよくわからないよー。これを乳房だと思うのはまちがいなのかな。鳥居は子宮の入り口だというし。
CIMG0027.jpg 境内には川が流れているんですね。自然の景観が、世界が象徴されているわけですかね。
CIMG00403.jpg 「出たー!」という感じでした。きんぴかだー。成金趣味なのか、崇高な極楽浄土を写しているのか、迷うところです。
CIMG00424.jpg 裏側から見たところです。あれ、一階が白壁だ。間近で見ているとここは人が住んだり、くつろいだりするところではない感じがしました。こんなところで修行したり、茶を立てたりしても居心地悪そう。
CIMG00452.jpg 太陽の光を浴びて、強烈に光っていました。たしかにこの世にはない極楽浄土みたいだ。でも金まみれの世界って欲まみれじゃないのか。。
CIMG00512.jpg 境内にはわび、さびの極致のような建物も多くありました。
CIMG00593.jpg 黒川紀章の京都駅ビルです。かなり個性的で近未来的です。これも神社仏閣に負けず劣らぬの名所だなあ。
CIMG00602.jpg 白くぼうっーと京都タワーがそびえ立っていました。かなり俗っぽい発想のタワーですね。

 mfweb4.gif ▼京都はむやみに歩いて、たいへん疲れるのだな。バスでは近距離すぎるし、市内では地上を走る電車が見当たらないし。で、ひたすら歩くことになる。


『感じない男』 森岡 正博


4480062211感じない男
森岡 正博
筑摩書房 2005-02-08

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 扇情的なAVやポルノはいくらでも出回っているのに、性を哲学した本ってけっこう少ないのである。フェミニズムあたりだけが考えていて、性を冷静に客観的に哲学した本がかなり見つからない。

 性という人間にとって当たり前のものが考えられていないというのはおかしな状況である。性の公共的なタブーがまだ根強いからなんだろうか。

 学術文庫や新書あたりにアカデミックなエロ論が増えてきたが、性を学術するのはぜひ必要だと思うのだが、売る側も読む側も低きに落ちてほしくないものである。煽情、欲情させるためだけの本になってほしくない。

 さてこの本は制服に惹かれる理由やロンリコン男の心理を分析していて、たいへん興味が魅かれるもので、ネットでも話題になっていたりして、期待も高かった。

 でも根本的に男の不感症というものがよくわからなかった。射精後の罪悪感のことをいっているのか、私にはその感覚が少ないから、根本的なものにつまずいてしまったのかもしれない。

 制服に惹かれる理由を探った章はなかなか思考のスリリングさを感じられてよかったが、結論が学校という「洗脳」の場に自分の欲望を重ねていると答えられていて「おおーっ」と思ったのだが、冷静になってみたらたんに自分の思い通りになる女を探しているというだけのことじゃないかとがっくりきた。

 制服に惹かれる理由は、たんじゅんに社会的な拘束が快楽の我慢と解放をもたらすからでいいのじゃないかと思うのだが。

 ロリコン男の心理の章は「モーニング娘。」に性的サブリナルが組み込まれているという指摘には驚かされた。彼女たちは「元気印の少女たち」ではなくて、「仮面をかぶった少女ポルノ」だというのである。

 性的対象の低年齢化はひじょうに問題だと思ったのだが、この流れは20年前の女子大生ブームからはじまり、90年代の女子高生ブームとつづいてきたのであって、とうとう中学生や小学生まで来てしまったかという感がある。

 「青田買い」である。古い時代や未開民族では初潮をむかえるころから結婚することはふつうのことだし、オランウータンも少女を「誘拐」してきて育てて妻にするらしいから、性的対象が低いのはふつうのことかもしれない。ただこの学歴社会は自立する年齢が遅くなる一方だから少女を性的対象にすることがタブーになるのであって、経済と本能が拮抗しているわけである。解決はどちらにあるのか。

 ロリコン男になるのは男の身体とセクシュアリティを否定しているからだといっている。う〜ん、やっぱりコミュニケーションや男女平等、男の過重な経済責任があるからなのではないかとも思わなくはないが。ロリコンを「病気」にしたいのは経済的要請がつくりだす「神話」ではないのか。

 性を問うということはとても大切なことだと思うのだが、この本の答えの出し方がほかの解釈をいくらでも思いつかせるものであって、私にはトンデモ本に近いのではないかと思わせるところもあった。岩月謙司みたない不穏なものではないが。

 性を分析することはとても大事な作業だと思う。それは性衝動にふりまわされずに性をコントロールできる人間や社会をつくることにつながると思う。性がわからないままだったら、性は暴走したままである。冷静で客観的な知恵をもとめたいものである。


『ナショナリズムの克服』 姜 尚中 森巣 博


4087201678ナショナリズムの克服
姜 尚中 森巣 博
集英社 2002-11

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 なぜ自国や自文化は優れたものでなければならないのだろう? なぜ自国を自慢しなければならないのだろう? 自分となんのつながりがあり、なんの関係があるというのだろう?

 自国を誇ったりすることは恥ずかしいことだと私は思う。まるで親バカのようにひとりよがりで視野狭窄におちいっている。自慢話は客観性や中立性が失われるから、したくない。

 そう思う私でも日本の経済大国神話や日本文化が優れているといわれれば、胸をくすぐられている気分になる。できればこういう無意識を問い直し、偏りをなくしたいと思っている。自慢に溺れる人はあわれなのである。

 戦争責任のかかわりではあまり考えたくない。大衆文化やポップカルチャーで育ってきた私には北朝鮮を見るような断絶があるし、自分の問題として考えることは不可能だ。現在を生きる者としてはあまりにもムダだ。私は大衆文化のナショナリズムをこそ問い直したいのである。

 90年代からネオ・ナショナリズムといったものが勃興しはじめたが、湾岸戦争や9.11事件、イラク問題、北朝鮮問題などがその背景にあるのだろう。ナショナリズムは劣等感が芽生えると生まれるらしい。

 私は自国を自慢にする偏った見方を排除したいと思うし、できれば国民や国家でくくられるようなアイデンティティはもちたくない。映画やポップカルチャーは国境など関係なく浸透しあっているし、国家という単位でなんか制限されたくない。

 ナショナリズムといえば、左翼とか右翼とかコワいタームが噴出しまくりだが、優越とか劣等の感情論をのりこえて、自国や自文化を自慢にしなければならない心性を分析したいと思う。

 この本はナショナリズムにはどういう問題が含まれているのかと概括できた、ぼちぼち参考になった対談集である。


富田林・寺内町はけっこういい雰囲気でした。


 大阪には珍しく、江戸時代の商家がのこっているところがあります。富田林の寺内町です。ちょっと寄ってみたら江戸時代の雰囲気がのこっていて思わず感動しました。写真でお見せします。

CIMG0055_3.jpg この一向宗興正寺別院が寺内町(じないまち)の中心です。宗教自治都市が築かれたわけですね。高野街道と大和への街道が重なるところから商業が栄えました。
CIMG0070_3.jpg いい感じの窓枠ですね。いかにも日本文化というか、江戸時代の粋って感じがしますね。
CIMG0081_3.jpg 古い町並みといえば、一ヶ所だけぽこりと旧家が残存している町が多いなかで、この富田林は通り丸ごとが旧家の面影をのこしていて、いい雰囲気があるのだな。
CIMG0082_31.jpg 通り自体が木造建築や白壁の蔵に囲まれていたりしたら、江戸時代の町並みに迷い込んだような気がします。
CIMG0089_31.jpg あとは道路が舗装されていない土の道であったり、石畳であったりしたら、もっと雰囲気があったのになと思います。

 mfweb4.gif 富田林の地図です。



『マンガと「戦争」』 夏目 房之介


4061493841マンガと「戦争」
夏目 房之介
講談社 1997-12

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 マンガの一シーンをのせた解説本はかなり好きである。そのヒトコマが栄える。印象に刻まれる。またマンガの読み方もわかって、マンガを読まなくなった私にもメッセージを知ることができて、かなりおトクな気がする。

 私の好きなマンガ解説本は藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』や宮台真司ほかの『サブカルチャー神話解体』などである。でもなかなか良著にめぐりあわないのが残念である。

 手塚治虫や水木しげる、滝田ゆうなどまでは戦後体験は濃厚である。しかしそれ以降の『ゴルゴ13』や『デビルマン』、『アキラ』、『風の谷ナウシカ』などにはほぼその体験は払拭されている。もはや日本の戦争など語っていないのだ。

 『気分はもう戦争』のように「気分」で密航船にのりこみ、「あ…れ…?」と撃たれるくらいのリアリティでしかない。TVのニュース映像か、ゲームのリアリティとしか感じられない。そこまで戦争体験は遠くなっているのである。

 『僕らはみんな生きている』ではTVリポーターやキャスターの「正義」をまとった人たちが、悪者にされる日本の商社マンとなんら変わらないと風刺されていて、小気味よさを感じた。

 水木しげるの戦記マンガは戦争の死を劇的なものではなく、偶然なものとして描く。ふつうの人たちが病気や輸送船の撃沈などでふいに転んだように死ぬ。『総員』の主人公もだれにも見とられることなく、忘れられて死んでゆくのだなあとつぶやく。そこには英雄主義も犠牲行動の賛美もない。

 夏目房之介という人はふだんマンガは時代を映すという反映論を批判して表現論をおこなっているようたが、やっぱり反映論でないとおもしろくないんだな。たしかに作品と時代にはなんの関係もないといえる部分もあると思うが、生理的気分があらわれるマンガには時代の変化を読んでほしいんだな。


『古代日本と朝鮮』 司馬 遼太郎ほか


kodainihon1.jpg古代日本と朝鮮―座談会
司馬 遼太郎 上田 正昭 金 達寿
中央公論新社 1983-01

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 飛鳥は「日本人の心のふるさと」といわれるが、その日本国の中心地が朝鮮人で占められていたということを聞くとどう思うだろうか。日本人の原初が空っぽになった気がする。

 このことは教科書で教えられていたのだろうか、日本人の多くは知っているのだろうか、あるいは専門家だけの知識なのだろうか。

 無自覚である「日本人」であるということの揺さぶりをかけられた気がする。また日本国人であるとはどういうことであるのかという疑問をつきつけられたように感じる。日本国のはじまりはなぜ日本人でなければならないのだろう?

 この本は座談会であり、個人的にはこういう関係の本は三冊目にあたり、インパクトはだいぶ弱まって読む進むのが遅くなったが、この朝鮮ショックはまだなぜか味わいたいのだ。無自覚である日本人ナショナリズムを反省させられているからだろうか。


なぜ歴史に偉大さを探すのだろうか


 古代史の本を何冊か読んでいて気づいたのだが、王国のような強大な権力を探したり、大和より以前に大和を支配した権力者を探したりする自分の無自覚な傾向に気がついた。

 だいたい人が歴史にもとめるものは天下人や戦国武将の活躍であったり、明治維新の志士たちの動き方であったり、古くなれば強大な勢力を誇ったローマ帝国であったり、哲学者の文化を築いたギリシャ文明であったり、科学の進んだ超古代文明であったりする。

 もとめられる歴史というのは、自分たちの価値観やものさしなのである。偉大なものや強大なもの、優れているもの、勝っているもの、進んでいるものなどを歴史に見いだそうとするのである。

 歴史にもとめるものはじぶんの憧れや願望のようである。そしてたぶんそれは無自覚である。ふだんは権力や権勢をもとめたいとは思っていない私でも、歴史にはそれらを求めてしまうのである。自分の無自覚な権力志向を見せられた気がする。

 人が力あるものや強大なものをもとめてしまうのはやはりそこに生命の安定があるからだろう。しかし現代人には野放しの権力志向は抑制されているだろうし、権力崇拝や国家崇拝は禁止されているはずである。それでも歴史にもとめているものは権力ではないのだろうか。

 願望である。権力や強大なものに安全や安定をもとめる。そこには現在の自分に欠けている安心や全能感、優越心があるように感じられる。われわれは自分という個人にはまったく関係がないが、権力や強大なもの、強い国家や進んだ文明などを知識の所有によって安心しようとする。そしてそこに満足をもとめようとする。

 歴史をもとめる気もちには自分の権力志向の願望がある。そして現代では国家崇拝や権力志向は禁止されているはずである。だから歴史にはその願望があふれ出すことになる。権力や強大なものを歴史に見い出そうとする願望に歴史は彩られることになる。

 人間の権力志向の危険なところは、空想や観念が際限ないことである。国家や文明という名の下に人間が蹂躙されるようになる。空想による心の安定は危険なものをふくんでいるのである。

 歴史や物語にもとめられる権力願望というものをわれわれはどう遇したらいいのだろうか。心の中の価値観や願望自身を問われるべきではないだろうか。


アクセス解析でわかったこと。


 一週間ほど前からshinobi_s_04.gifでアクセス解析をはじめた。ページトップのほうにshinobi.jpと点滅するバナーである(ブログ移行前の話である)。たまにほかのサイトでも見かけて怪しいと思った人もいるだろう。

 わかることは時系列アクセス推移やページ毎アクセス一覧、生ログ、リンク元統計や検索ワードなどである。

 時間や日、週ごとに何人が訪れて何ページを見たか、どのページのアクセスはどのくらいか、どのような検索ワードで訪れたのかなどがわかる。

 いちばん驚いたのは検索ワードがそのまま訪れられることである。リンクをたどれば、検索されたサーチエンジンがそのまま表示される。なにか人のプライバシーをのぞいたみたいな気分である。

 私はサイトへのアクセスはディレクトリエンジンからが多いと思っていたのだが、あんがい検索ワードからのアクセスが多いのは意外だった。いまの人はランキングサイトなどに頼っていると思っていたのだが、検索する意志をもった人が多いとは思わなかった。

 日記才人から訪れてくれる人はぼちぼちいて、ReadMe! JAPAN からはほんのたまに訪れてくれるにすぎない。登録しているディレクトリエンジンから来てくれないのは残念である。ほとんど埋もれているのはわかるが。

 検索ワードをたどってゆくと、訪れた人はちゃんとお望みの内容に出会えたのか心配になる。とくに書評インデックスなど山のように書評があるから悪いなと思う。みなさんはgoogleのアドレスバーにある検索ワードを色取るハイライト機能を知っているのだろうか。このサイトは書評を一冊ごとではなく、何冊かまとめてファイルしているから悪いなと思う。

 検索ワードをたどれることは私にとってもけっこう役に立つことだ。私の興味と重なる内容を検索しているだけあって、私にも参考になる検索方法が示唆されているわけである。

 人のプライバシーがそこまでのぞかれるのかと思わなくもないが、たぶん人物は特定できないだろうし、サイトを向上してゆくフィードバックに利用されてゆくものと考えることにしよう。それにネットを使う以上、こういう技術は止めようがないのだしね。

 時間や週のアクセス推移は参考になるのかならないのかよくわからない。何時にアクセスが多くて、何曜日に多いのか、概要はつかめるかもしれないが、使えるかはわからない。だいいちこのHPへの自分のアクセスが含まれるのは困ったものだ。映りや見栄えをたしかめるためによく自サイトを開くのである。

 まだまだアクセス解析の解読法や利用法というものはよくつかんでいないのだが、サイトがみなさんに使いやすいよう、楽しみやすいように向上していけたらなと思う。アクセス数が多かった、少なかったの自己満足の部分も多いと思うが、やはりサイト制作者としてはかなり気になるものなのである。


『天下人史観を疑う』 鈴木 真哉


896916021.jpg天下人史観を疑う―英雄神話と日本人
鈴木 真哉
洋泉社 2002-01

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 われわれの天下人神話の思い込みを剥ぎ落とす爽快な本である。天才化・偉人化された天下人はあまりにも現実にはありえない。

 なぜわれわれは天下人神話を必要とするのか。やはり現代の矮小化された人生があるからだろう。空想の中でせめて国を支配するような偉大な人物になりたい。それが神話化された天才を呼び起こすのである。

 天才願望に彩られた天下人はやはり現実のすがたではない。天下取りの結果から見れば天下人は天才にみえるかもしれないが、かれらとて合目的に行動したとはいえないし、そのときを生きていた彼らに結果など見えていたわけなどないのだ。天下人は結果から見えるわれわれの巨大な願望なのである。

 この本ではほかにもいろいろ雑学的知識が学べる。天下人とみられる源頼朝は東国の土地を支配したにすぎないこと、強い権力をもった藤原氏、平将門、三好長慶、細川政元などは天下人とみとめられていないこと、天下人といわれる人たちだってたまたま天下が転がり込んできたにすぎないなどのことがわかる。

 天下人の意外な一面がみられる感銘することしきりの本だが、私としては天下人を必要とする、あるいは実像をゆがめてまで天下人を創造しようとする現代人の心性こそをとりあげてほしいのだが、これは歴史家の仕事ではないのだろう。

 だれか歴史を、時代劇や時代小説を必要とする現代人の心を分析していないものだろうか。


人気サイトでも読者の反応がない


 憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記(2005/1/31)によると、「いんちき」心理学研究所が読者の反応がないからサイトを閉じると告げていた。

 いずれのサイトもReadMe! JAPAN で80位前後、一日に6000くらいのアクセスを誇る人気サイトだ。それだけの来客数があるサイトでも読者の声はほとんど届かず、海に向かって石を投げているような空しさがあるといっている。まさしく沈黙のオーディエンスなのである。

 私のようなアクセス数の微々たるサイトでも何年か前までは読者のメールはぼちぼちと届いていた。このサイトをどう評価するかというメールをよくいただいていた。いまから思えば、「熱かった」のである。しかしそれがここ何年かはそういう読書のメールはさっぱり届かなくなっていた。

 HPはもう雑誌のような一方通行のメディアのようなものになりつつあるのだろうか。いや、ブログのコメントやトラックバックなどの交流はさかんにおこなわれているからそうとはいえないと思うが、一対一のメールはかなり控えめになってきてはいるのだろう。

 HPの作者はやはりなんらかの読者の反響を期待しているものである。それがアクセスは増えても読者の反響がほとんどないという空しさに立ち会うことになってしまう。

 HPはもう雑誌や本のように読者の反応がないメディアだと認識したほうがいいのかもしれない。読者のばりばりな反応を期待すれば、落差に嘆くことになってしまう。

 サイト作成の楽しみを7割くらいにキープし、読者の反響を1.2割にとどめておいたほうが、長続きの秘訣になるのだろう。

 私のHP作成はかなり自分のためにやっている。自分の疑問を解いたり、知りたいことを追究したいから、こういうHPとして結果として成っている。読者の反応が第一義ではないから、アクセス数が伸びなくてもあまり気にせずにしぶとくやってこれた。

 それでも読者の声や反応は知りたいものである。ただそういう気持ちを知っているサイト運営者の私もほかのサイトを訪れるときはまったくの沈黙のオーディエンスである。見ることのみが当たり前である。コメントしたいなと思うときでもやっぱり気おくれしてしまったりする。

 読者の反応はアクセス数やランキング、アクセス解析やアフィリエイトのレポートで満足するしかないのだろう。まるで森の中で人の足跡をたどっているようなものだが、これ以上の満足をもとめると幻滅に悩まされることになる。

 HPは沈黙交易といって、むかし村と村のあいだに交換する商品をこっそりとおいたようなかたちで満足するしかないのだろう。


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