河内飯盛山から大阪市街をのぞむ


 四条畷からのぼる河内飯盛山から大阪市街をながめてみました。飯盛山は生駒山系の北のほうに位置し、大阪と奈良をへだてる山々としてそびえ、また大阪と京都をむすぶ淀川ぞいをはさんでおり、交通の要所でした。大阪市街や京都市街までの道が一望できる場所にあります。とうぜん中世最大の山城がありました。

 今日はとても曇ってました。写真が暗いです。でもすこしは大阪市街の風貌を知ることができると思います。

 帰りに東大阪・八戸ノ里駅にある司馬遼太郎記念館に寄ってきました。私はファンでもないし、ちょっとしか著作を読んでませんが、東大阪に住んでいたということで少しは親近感がありますのでいつかは行ってみたかったのです。


CIMG0019_thumb.jpg むこうが北摂山系で手前の生駒山系のあいだには淀川が流れ、京都へとつながっています。軍事上の要所となってきたところです。ほとんどまっ黒ですいません。
CIMG0023_thumb.jpg 中央に大阪の高層ビル群が写っています。大阪の市街地が石の粒のように見えます。
CIMG0025_thumb.jpg 南のほうを写しましたが、むこうの山影は葛城山系なのでしょうか。
CIMG0043_thumb.jpg この木はなんていうんでしょうか。やわらかなグリーンが栄える葉です。
CIMG0059_thumb.jpg ふもとにある野崎観音で坊さんが経典をばらばらと大きく繰りながら祈願をおこなっておりました。坊さんも「パフォーマー」だなぁと思いました。真ん中の小さい女の子がなんともかわいかった。
CIMG0061_thumb.jpg 司馬遼太郎の書斎です。庭のサンテラスに向かってイスがおかれています。落ち着いたところです。でもここは東大阪で、ちゃりんこに乗った大阪人が猥雑な感じをかもしているところです。
CIMG0063_thumb.jpg 司馬遼太郎記念館の外観です。コンクリート打ちっぱなしの建築といえば安藤忠雄です。4万冊の書架がありました。私も読んだ本があったりしてすこしうれしかったです。やはり歴史書とか郷土史の量がすごかったです。でも物足りないところでした。もっと直筆の原稿や書き込みの資料を見たかった。



女性の低賃金は差別か、利益か


 女性の賃金は安い。パートをのぞく正社員の男女差は男性が100だとすると女性は65.3だ。86年には59.7だった。パートをふくめたら51.2というデータもあるが、私の実感ではもっと安い気がする。

 さっこんのパートにしろアルバイトにしろ正社員の仕事とたいして差のないことが多いように思う。それなのにこの賃金の安さはなんなのだろうかと思う。女性のパートや学生のアルバイト、フリーターの給料の安さはなぜ正当化されるのだろうかとおかしく思う。

 パートやアルバイトは正社員の補助的作業だから安くできるという理由が漠然とあるように思う。でも補助的作業とはなんだろう。職場で働く以上、雇用者はフルに働かざるをえない環境にあるだろうし、努力もするだろう。補助か中心かはあいまいであるし、仕事にそんな分け方ができるのか。

 女性はいずれ男性に扶養されることになる身だから安くできるという理由もあっただろう。夫の家計補助のためだからパートの給料を安くできる。でも勤続年数の長いパートの働きを見ていると、その安さの正当化はとてもできないように見えるのだが。

 そもそも給料というのは身分や立場で決めることができるものなんだろうか。家庭の家計補助だから、いずれ男性に扶養される身だから、といって給料を安く決めてよいものなんだろうか。仕事の成果や結果自体で決められるものではないのか。立場で決められるのか。それなら独身女性や離婚した女性はぐんと給料を上げなければならないではないか。

 この給料の安さを男女差別だと見なして世の女性方は差別の撤廃をもとめてきたわけだが、この男女格差は不利益ばかりではなく、陰ならぬ利益があったことも忘れはならない。差別が損失ばかりだと見なすのは甘いというものだ。

 男性に扶養される身である女性は自立して生計をたてる責任から解放されていたし、労働の責め苦やプレッシャーからも身を守られていたし、出産・育児のときには扶養者に頼ることができたし、夫の稼ぎを自由時間に消費してよかったし、会社内では責任や義務からある程度はずされていたのでその分お気楽にレジャーや消費を楽しむことができた。女性の差別にはちゃんと利益があったのだ。不利益や損失ばかりだと見なすと、これまでの女性の差別されていたための利益を失う恐れがある。

 女性は男性に扶養されるという利益があり、この利益を手放さないで一方的に男女格差を差別だと主張するのは卑怯すぎる。専業主婦や男性におごってもらうという低地位だからこそ享受できる特権があるのに、不利益だけを主張するのはおかしい。女性はほんとうに扶養される利益を捨てれるのか。多くの女性はその利益を手放そうとはしていないみたいだが。その利益と決別してはじめて差別を批判してほしいものだ。

 低地位や低賃金というのは損失ばかりではない。カネではないべつの利益がある。高賃金や高待遇をめざした男性の働き方は会社人間や企業中心主義、長時間労働といったありかたをうみだした。高い給料には高い見返りを返さなければならない。男性たちは高待遇のかわりに会社に人生の多くを捧げる毎日を選択しなければならなかったわけだ。

 若者たちはそういう会社お抱えの人生を嫌ってフリーターの利益をのぞむ。低賃金や不安定の利益を欲しているわけだ。フリーターの低賃金を差別だと怒る動きがあらわれてこないのは、やはり享受する利益があるからだろう。ただデメリットが大きいのはたしかだが。

 高い給料や高い地位にはそれなりの見返りを返さなければならない。会社でのそれを欲そうとすれば、人生の多くを会社に捧げなければならない。高い給料をもとめれば、われわれは人生の多くの自由をあきらめざるをえない会社人間にならなければならない。給料が多いための不利益を世の人たちはもっとのぞむのか。男女ともども総会社人間化の世の中がいいというのか。

 カネの利益ばかり見ていると、ほかの利益が見えなくなる。利益が得られるのはそれなりの高い犠牲を払っているからだ。女性たちは高い犠牲を払って男性のような働き方をのぞむのか。男女平等や高賃金をのぞむとはそういうことではないのか。

 差別や低地位というのは不利益ばかりだとはかぎらない。利益の部分をちゃんと見つめるべきだ。新聞やマスコミはカネや地位の不利益ばかりを主張するが、その利益を手放したくない者たちはかれらの煽動には距離をおいて見るべきだ。会社に多くを奪われる人生がほんとうに利益なのだろうか。高い賃金をのぞむということはますます会社主義化してゆく世の中をのぞむということだ。二兎は得られない。


ジャーナリズムはなぜ被害者意識に凝り固まるのか?


 斎藤貴男の『機会不平等』(文春文庫)を読んだが、拡大する不平等に戦慄を感じたというよりか、ジャーナリストってなぜこうも被害者の目線からしかものを見れないのかという違和感が先に立った。

 この本はアメリカ流の市場原理主義による階層拡大に対する批判がメインになっている。たしかに悲惨で恐ろしいヴィジョンは現実になろうとしている。それに対する告発や批判は大切なことである。

 ただジャーナリズムはなせこうも被害者的な目線ばかりでものを見るのか、少々不快に思った。私の立場としては市場原理の論理性にはかなり納得してきたほうだ。フリードマンやハイエクの見解にはかなり感銘してきた。平等やそのための全体主義はもういやだという気持ちがしている。

 でも市場原理がよい世の中をつくるのかはまったくわからない。市場原理を徹底させれば、階級社会がほんとうにくるのかもわからない。市場原理はよいメカニズムをもっていると思うが、その先の結果はまるで見通せていないと思う。ただ不平等な階級社会はぎゃくに国家主義や企業主義ではない自由な生き方が可能になる社会がうまれると楽観はしているが。

 だから自由競争社会の悲観論ばかりに視線をもってゆくこの本には少々の違和感を感じたわけだ。不平等や階層化はある程度受け入れるべきだし、そういう社会ではぎゃくに違う価値観や多様な生き方をはぐくめる可能性があるのではないかと私は思っている。平等主義や福祉主義が人々の自由を奪うのである。

 平等を正義とした価値観だけで、人々を悲惨な境遇に描いたり、被害者だけにはしてほしくないと思う。平等を正義にすると、そこから外れる人が悲惨で救いようのない存在にされてしまう。

 われわれは社会に出ると大なり小なり権力や階層のような存在を如実に、あるいは微妙に知るし、自分の境遇や立場の違いをじょじょに理解し受け入れてゆくものだ。不平等や差別があったとしても、それを受け入れて生きてゆくしかない。これが世の中の現実というものではないか。超えられない、変えられない立場というのは厳然とあるものだし、人々はそんなことを関係なしに自分の境遇を肯定したり、自分の生き方に誇りをもったりするものだ。

 しかし平等正義感をもったジャーナリストの手にかかると、われわれは平等から外れた被害者で悲惨な存在になってしまう。当の本人はそんなことをつゆとも思っていなかったり、自分の境遇や立場に甘んじるしかない、または受け入れて自分の生き方を肯定してゆこうとしていることだろう。被害者意識や批判意識だけで世の中を渡ってゆくのは損失とじっさいの被害をこうむるだけである。そんな人生は自分も肯定できないし、楽しめない人生になるだけだ。

 ジャーナリストはなぜこうも被害者意識でものを書こうとするのだろう。新聞が人気がないのは被害者意識に凝り固まっているからだろう。思い出せば、ニュースをふりかえってみると被害者ばかりが続出してきた。

 大店舗法に対する小売業の苦しさや、労働問題なんかも自らを被害者と規定した人たちが出てくる。マルクス主義や共産党の人たちから見ると、少しでも平等や国家の庇護が与えられないと被害者になってしまう。原爆問題なんかも被害者意識である。部落問題も完全に被害者意識である。

 被害者の窮状を訴えることは、「正義の味方」としてのジャーナリズムの面目を保てる。被害者という存在は加害者という「悪」を明確に立てれるから、正義と悪の図式化がかんたんになされてジャーナリストは正義の味方になれる。『水戸黄門』の構造である。被害者というのはジャーナリストが正義の味方になるための必要不可欠の弱者なのである。

 その正義の味方というのは国家にケチをつけるばかりで、なんでもかんでも国家に陳情しており、国家に駄々をこねるだけの存在である。ニュースというのは全能の国家に対する「いうことを聞いてくれないから文句をいってやる」の子供みたいなものに写る。ニュースというのは強くてなんでもできる「大きな政府」を必要とする存在なのだろうか。

 戦後の政府は多くの役割を担わされて社会主義国家=全体主義国家化してきたから、国家は全能の神のように国民の福祉まで面倒を見る義務も生じた。そこに差別や被害者の救済を担う役割も出てきたわけで、政府は彼らの存在がとても大きなものになり、また癒着も生じたのだろう。被害者であることは利権や利益になったのである。弱者であることが利益であるとはなんと変なしくみなのだろう。

 被害者は政府から利益をひきだすための便利なシステムになった。人々の共感や同情もとうぜん手に入れられる。ジャーナリズムもかれらの窮状を訴えれば、正義の味方になれる。こうして国家に対しての被害者続出のなさけない社会ができあがる。

 戦後サラリーマンが増えたことも被害者意識の拍車と無関係でもないだろう。責任は自分ではなく、すべて他者にあり、それも国家がすべて悪いと唱えてまかり通るならこんなに楽な世の中はない。すべて責任は自分に帰ってくる自営業と違って、サラリーマンは責任をすべて会社や国家の責任にしても困らない。責任をだれかになすりつけておいたほうがよほど楽である。こうして被害者意識は増殖したのだろう。

 被害者になっておれば、棚からぼた餅でうまいことが転がり込んでくるしくみが戦後社会にはあったのだろう。だけど自分を被害者だと規定してしまう生き方はすばらしいあり方だとはとても思えない。他者に責任をもとめる思考法もおそらく自分のためにはならなかっただろう。自分に対する厳しさがまったくなくなってしまう。親のせいばかりにして自立できない子供となんら変わりはない。

 ジャーナリズムはこれからも理想に対しての被害者意識を煽ってくることだろう。われわれはいつも平等からこぼれ落ち、階層から転がり落ち、国家の庇護のない悲惨な被害者だと聞かされつづけるだろう。でも私たちはそういう境遇の中でも、人から悲惨だと揶揄されても、その中で生きてゆくしかないのだ。そんなことをものともせず、楽しく肯定的に生きるほうがよほど自分の人生に貢献すると思わないか。被害者意識なんか駅の売店にいっぱい売っているかもしれないが、頼まれても買いたくない。


思想はオタッキーな趣味の世界に帰るべきだ


 勢古浩爾の『思想なんかいらない生活』(ちくま新書)を読んだ。ある程度は興味深く読めた。

 でも「思想なんかいらない」という前に、ほとんどの人が「思想なんてなくても困らない」と思っているだろうから、そんなことすらいう必要もない。

 思想をカッコイイと思ってハマった人のみが「思想なんて自分には必要ない」と悟る必要があるだけであって、最初からほとんどの人にとっては「思想なんか知らない」である。

 もう日本人のたいがいの人にとって「思想なんか存在しない」も同然だろう。いちまつの興味もわかないだろうし、だれかにバカにされたり、共通の話題についていけないということもない。TVや音楽、映画やマンガを知っていれば十分な時代なのである。

 嘆くべきでもないし、悲しむこともない。思想なんてそれを楽しめる人のみのオタッキーな趣味にしておけばいいのだ。まちがって興味ない人に強制したり、知のヒエラルキーに巻き込んでバカにすべきではない。鉄道の趣味やフィギィアの趣味のような奇特な人たちの楽しみに閉じ込めておくべきなのだ。出版業界が欲をもって購買層を増やそうと無知や序列の恐怖を煽るような愚かな真似をするべきではない。新興宗教に対するような反発を食らうだけである。

 思想なんか役に立つとか日常生活に使えるなどといわないほうがいい。私は十年以上読んできてほとんど役に立たなかったぞ。自己啓発のほうがよっぽど役に立った。思想は私を偏屈に意固地に歪ませただけだと思う。奇妙な自尊心を支えてくれたかもしれないが、中には人を軽蔑する人を生み出しただろうし、選民意識をつちかったりするかわいそうな人をつくりだしたかもしれない。優越と軽蔑を育むような思想の扱い方は、懸命な知者になろうと思うのなら、おおいに警戒すべきなのである。

 現代思想なんて知識の優越心を満たすのみしか現在は役に立っていないのではないかと思う。ファッションやブランドと変わりがない。フーコーとかドゥルーズなんて生きてゆく術のなんの役にも立たない。ぎゃくに社会を批判するから世の中を生きにくくするだけだ。

 私にとっての思想の大きな効用はやはりひそかに自尊心や優越心を満足させることではなかったのかと思う。会社社会ではうまく渡ってゆく自信はないし、企業ヒエラルキーの底に位置づけられるし、スポーツや社交で抜群の楽しみを見出せるわけでもない。たまたま思想が自分の頭にすんなりと入ってくるから、どんどんその森の中に入って行っただけだ。

 思想を自分の優越心のための軽蔑や蔑視の道具にしてはならない。つい思想がわかるからといってそれを理解しない人やわからない人を軽蔑のまなざしで見るべきではない。思想がそういう扱いをされるようになったら、知識はなんの役にも立っていないと見なすべきだ。優越や軽蔑を乗り越えることが知の貢献であるべきなのに、その道具にされるのは知識が劣っているとしかいいようがない。

 思想とは私にとっては知ることの楽しみ以外のなにものでもない。ものの見方、考え方、切りとり方を楽しませてもらうのだ。世界の見え方が変わるような思想と出会うのがいちばんの楽しみである。現代の思想が世の中を変えうるとは思わないし、多くの人が読まなければならないとは思わない。知ることの楽しみだけで十分だ。

 出版界が知の序列や軽蔑の戦略をつかってすべての人に思想を読ませようなんかすると、ますます反発を食らうだけだ。純粋に楽しめたり、喜べたりする人が多くいなければ、脅迫のマーケットはいつか狭まるのだろう。学問だって学校システムの全員への強制がなければ、知識をもっと楽しめる人もたくさん増えたかもしれない。知のヒエラルキーをつくり、序列や階級をつくるから、知識ほんらいの楽しみを多くの人から剥奪したのだと思う。

 思想や学問というのは必要のない人にとってはまったく必要のないものだ。興味や必要がなければ、わかることも知ることも必要がまったくない。思想や知識とはそういうものだと思う。興味のないものはいくら読まされても頭に入らないし、ぎゃくに興味があればいくらでも貪欲に吸収したくなるものだ。知識のそういう性質を、人は軽視し過ぎだ。すべての人に知識を強制しても不可能であるばかりか、反発と怨念をつのらされるだけだ。

 知識というのは自分に合うものと合わないものがかなり分かれると思う。いくらでも吸収できる知識とまったく絶理解の知識がある。だれもがフロイトやマルクスを理解できるとは思わない。心に興味あるものはフロイトを理解できるがマルクスがまったくわからなかったり、社会経済に興味があればマルクスをどんどん読みたくなるが、フロイトはまったくと思うかもしれない。それでいいのだと思う。

 すべて等しく理解しなければならないと押さえつけられるから、興味は逸散してしまうのである。興味は一事を掘ってそこから広がってゆくものだと思う。一事も掘らなければ、おそらくどこも掘る気は起こらないだろう。

 だから思想なんて多くが理解できなくていいと思う。フーコーもレヴィナスもウィトゲンシュタインも理解できなくてもいい。ただひとりだけ、たとえばフッサールがおもしろいと思えば十分なのだ。そこから世界は広がるかもしれないし、または広がらないかもしれない。そこで終わるのなら知識は自分にはまだ必要ないか、欲していないのであって、必要のないものは捨てるべきなのである。満腹した腹に食べ物は必要ない。むりやり口につっこもうとするのが教育や知識人である。

 今の世の中は学歴によってヒエラルキーづけられる社会である。知識人が権力の中枢を握る社会である。いや、経済の権力の人的選別を担っているといったほうがいいかもしれない。その選別権を知識が握っているから知識業はその恐怖を煽ってマーケットと権力の拡大をもくろむのである。だから知識には優越や劣等の意識がいやでもまといつき、いやらしい序列感を漂わせるのである。

 優越や劣等感、序列やヒエラルキーがなくなったところにほんとうの知識の楽しみがあると思う。自分の好きなこと、おもしろいことが純粋に追究できるようになるだろう。知識がほんとうに好きなのだったら、そういう世界のほうが楽しいとは思わないだろうか。

 まあ、でも人間から階級や序列をとりさるのはまず不可能だろう。せいぜいそういう序列意識にとらわれない知識を楽しみたいものである。思想もオタクの趣味となんら変わりはないと割り切ったほうが、自然で謙虚な気持ちで知識を楽しめるだろうと私は思う。


晴れた日に六甲山系から大阪湾を望む


 今日は六甲山系の東お多福山に登ってきました。台風一過のため、頂上からの展望ははるか大阪湾一帯を見渡せるほど明瞭でした。たぶん私が山登りした中でいちばん視界がくっきりしていた日だったと思います。こんなにすばらしい展望ははじめてです。

 でも写真に撮って見るとやっっぱりそのすばらしさはぜんぜん画像に写しとられていません。スケールが違いすぎるんでしょうね。この小さな画像ですみませんが、展望のすばらしさをすこしでも味わってみてください。



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山を登ってゆくと芦屋市や神戸市の市街地、大阪湾が見渡せました。
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手前に神戸の湾岸線が見え、かなたには大阪の泉州沖が見渡せます。写真ではぼんやりしていますが、肉眼では泉州のコンビナートまではっきり見えました。
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これは神戸の西のほうを望んでいます。ポートアイランドや淡路島の山影が見えているんでしょう。
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ここはおそらく宝塚や伊丹から大阪平野を望んでいます。肉眼ではもっとくっきり見えましたよ。
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六甲山系から見た大阪平野一望です。右手のほうに小さく梅田の高層ビル群が写っています。巨大な人間の棲家。
CIMG0108_thumb_1.jpg
右手のほうに大阪湾が青く写っています。大阪平野が広がっています。大昔は海や池がげんざいの平野部まで覆っていた名残のようなものが感じられました。

年金のもとにある思想を考える


 年金について思いついたまま書こうと思う。年金についての根底にある思想や歴史を問いかけた魅力的な本が見つからないのもあるし、ネットで資料にあたるのもめんどくさいということで、思いついたことだけを書きたい。

 年金というのは人間の歴史の中で大半は存在しなかった。老後の生活を心配する、もしくは計画するという豪勢な憂慮はできない人が大半だったろうからだ。おそらくは農業なら死ぬまで働いただろうし、息子などとも分業ができたりしただろう。

 人は死ぬまで働くのがふつうだっただろうし、豪勢な隠居生活などめぐまれた一部の人だけだろう。食い扶持が稼げなければ姥捨てのような運命もあったのだろうが、おそらくそれは後世の人がおもしろがったり、めぐまれた優越心を満足するための極端な話だろう。

 働けなければ生きてゆけない、もしくは家族が養ってゆくという形態が人類の大半だったと思う。

 国家が国民の老後を保障するという思想はルソーの民主制思想やマルクスの社会主義思想からうまれた。

 それまでの国家の役割とはなんだったのだろう。国民から税を納められるかわりに他国からの侵略や強奪から守ったりする軍隊の役割や、インフラ整備をになってきたと思われる。人の生き死ににはかかわりなかったと思う。国家が国民を守るのは公共に害がおよぶはなはだしき貧困や伝染病のときだけだったのだろう。国家は国民の生き死ににかかわりをしなかっただろうし、人は勝手に放っておいても生きようとするし、勝手に死んでゆくものである。

 国家が国民の生活を保障するようになったのは、他国との戦争や競争が激しくなってからだ。戦争に負けないためには国民の総力が必要になってくる。国民が国家の戦争に全面的に協力するのは国民の生命や人生が国家に全面的に保障される、もしくは同一化されたときだけだ。

 つまり国家が多くの利益を提供しないと国民は協力しない。戦争が国民総力戦を必要とする時代になったとき、人々に民主制や社会保障などの権利がどんどん与えられていった。つまりえさを与えられたわけだ。国家が国民の全人生を保障するとなれば、国民は全人生のかかった国家を死ぬまで守ろうとするだろう。

 民主制や社会保障は国民の権利のために与えられたのではない。国家間戦争のための利益と交換条件にすこぶる合致したからだ。学校の教科書で教えられたように人々が闘争して自由や平等の権利が認められたり、勝ちとられたわけではなくて、国家は新たな国民の巧妙な利用法を開発しただけである。このような国際条件がなくなったとき、ギリシャで民主性が長くつづかなったように民主制も社会保障も崩れ去るだろう。

 日本でも現在の厚生年金のはじまりとなったものは国民総動員時代の昭和17年からだ。つまり戦争のさなか、国民の戦力高揚のために老齢年金は利用されたのである。現在の経済も1940年代体制といわれるように国民総動員時代からはじまったシステムがつづいており、戦後の国民は民主制や社会保障が与えられる代わりに国家の経済戦争に全力に貢献してきたわけである。

 国家が国民の生活を保障するという考えは国家というものをたいそう崇拝するに値するものだと思われただろう。しかし国家が老後を保障するとき、家族は親の扶助義務を免除されたように思い、家族の紐帯はうすれ、家族の崩壊に寄与したことだろう。家族も利益集団である。老後や生活の保障という交換条件がなくなったとき、人は家族や夫婦の紐帯をかんたんに断ち切るだろう。国家は家族を崩壊させたのである。もちろん家族が崩壊したのは家族で農地をたがやす利益の共同体から、会社に生計の場をうつした形態の関係もあるのだろう。

 年金という老後のあり方は、おそらく人々の人生の捉え方をかなり変えたと思う。人はいつごろから老後の暮らし方やあり方を考えるようになるのだろう。老後の計画や青写真を若いうちから考えたりするだろうか。

 年金は若者の行動や計画を保守的に堅実なものにした。若いうちから老後の人生を憂慮しなければならない人生をつくったのである。青年の時期に冒険や探索ができないような社会は早晩衰退するにちがいないと私は思うのだが。魅力も楽しみもない人間と社会になるだけである。人は明日も知れない身だからこそ冒険や成長ができると思うのだが。

 国家に保障されるとはふしぎなもので、その恩恵に属せない者をずいぶんみじめな思いにする。年金とは特権や利権のパスポートみたいなものである。むかし国鉄民営化のとき民営化される人たちはずいぶん反対したものだが、国家に属するということはずいぶんと人の気持ちを高揚させたり不安定にさせたりするものである。「選ばれし者」と「選らばれざる者」を国家は強烈に人に印象づけるみたいだ。

 それにしても私は保険というものはずいぶん愚かなものだと思う。健康保険なんか毎月払っているけど、てんで病院に行かないのにずいぶん損だと思っている。現金で行ったほうがよほどトクに思える。保険なんか取り越し苦労のかたまりみたいなものだ。相互扶助なんていうけど、利益がまったく感じられない扶助なんてできるものか。

 この保険という思想はほんとクセものだ。20世紀というのは消費でも民主制の時代でなくて、保険の時代だといえるかもしれない。人は老後や健康にそうとうの心配をほどこしたのである。こういう不安や恐怖を大きくさせたのはいったいだれなんだろう。国家が国民の貢献を大きくするために過剰にプロパガンダしたのだろうか。キリストや釈迦の「明日のことを思い煩うな」という教えは現代ほど必要な時代はないだろう。

 さて年金は少子化と高齢化による人口逆ピラミッドによりほぼ不可能になりつつある。そもそも社会とは働かない人をどのくらい多く養えるものなのだろうか。現在で6000万人が働いていて、3000万人の年金生活者がいるそうだ。もうすでにめちゃくちゃな数字だ。ひとつの田んぼに9人いてそのうちの3人は働いていないのだ。もし収入の少ない田んぼだったら、若い働き手はその老人たちをどうしていたことだろう。国家は目に見えないスケールで展開するからこそ、不自然なことでもつづいてしまうわけだから、人間の目のスケールに近づけることはとても大事である。(ハイエクを読もう)

 そもそも会社の定年制はなぜできあがったのだろう。定年制が先だったのか、年金が先だったのか、働けない人たちをうみだしたのが問題である。死ぬまで働ける会社社会になればいいと思うのだが、年金がある人たちには定年はありがたい制度だろう。

 年金はこれからどうなるのだろうか。数々の年金問題を解決するなんてできるのだろうか。私は年金なんてやめればいいと思う。これからとられる額は増える一方だし、払えない人もとうぜん多く出てくるし、会社も社会保障逃れの非正社員を増やす一方だし、受給額も減るし、受給年齢もつりあがる。終わってますよ。私は学生でも20歳からとられるようになったとき、もう終わったと思いました。収入のない人からとるなんてめちゃくちゃだ。

 年金はその根底や思想を問うことがとても大事だと思う。もちろん年金生活者や既得権のある人にはまちがってもそんなことは考えたくないだろうけど。人生観や生命観を捉えなおす必要もあるのかもしれない。年をとって若い人に頼るつらさとかを考える必要があるだろう。年金は生き方として、人のあり方として、必要あるものなんだろうかと考え直す時期に来ているのかもしれない。


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