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04 14
2004

社会批評

ニュースは恐怖を売る


『アメリカは恐怖に踊る』
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 バリー・グラスナー『アメリカは恐怖に踊る』(草思社)を読んだ。アメリカがいかに恐怖に毒されているかをのべた本だ。犯罪が減っているのに増えているように報じたり、恐ろしい統計ばかりをピックアップし、無害なものは無視したり、ティーンエイジャーや母親がすべて凶悪人のように報じたり、と日本とまるで変わらない恐怖売りの現状が報告されている。

 思えば日本のニュースも恐怖ばかりを売っている。若者の凶悪犯罪がふえただの、虐待する母親がふえただの、潜在的な犯罪者としてのひきこもりの増加だとか、ストーカーだとか、医療ミスだとか、ウィルス感染だとか、「恐怖商品」はきょうも私たちの心に釘打ちされる。しかもグラスナーの本にあったように統計上は減っているにも関わらず、衝撃的・感情的な事件が起こるとあたかも増加したように思わされるのである。

 ニュースというのは事実を売っているのではなく、「恐怖」を売っているのだろう。人が情報や知識をいちばん欲しがるのは恐怖を感じたときである。恐怖の対策を知りたいときである。恐怖を感じたときに新聞や雑誌はいちばん売り上げを増やし、ニュースの視聴率は増える。

 売り上げを増やすためなら恐怖はもっと叩き売らなければならない。減少している統計を無視したり、恐怖させる統計をピックアップしたり、水増ししたりするのはもう当たり前のことなのだろう。恐怖というのは最大最高の営業戦略なのだろう。

 「ニュースは恐怖を商売の元手にする」ということをわれわれはいやというほど頭に叩き込まなければならないのだろう。人々が恐怖を感じてくれればくれるほどニュースは売れる。社会の人々が悲観的になったり、絶望的になったり、厭世的になったりとしても、おかまいなしなのだろう。ニュースは売れればいいだけだからである。

 ニュースばかり見ている人は「世の中どんどん悪くなっている」とか「犯罪がうなぎのぼりだ」とか、「暗いことばっかり」と口々にいうが、そうではなくて、われわれは恐怖や不安を煽ることによって儲けようとするニュースの手口に乗っているだけなのである。

 ニュースは倫理や道徳を問えるのだろうか。ニュースとて商業であり商売である。売れなければニュースは発信できないし、倒産の憂き目すら遭う。恐怖を元手にメシを食う以外ないだろう。ニュース業者の倫理を問えるか。

 UFOが出ただの、雪男が出ただの、タブロイド紙をわれわれは容易に信じないだろう。しかし朝日や読売だの四大紙の報道は信じる。うそをついているわけではないからだ。ただ恐怖を煽る報道や情報がより多くピックアップされることを肝に銘じなければならない。商業紙というものはそう義務づけられていると認識すべきなのだろう。自衛しかない。恐怖の水増し分は自分で割り引いて見なければならない。

 市場化社会というのはいろいろ産業や人々から恐怖を煽られる社会なのだろう。人々の恐怖を煽ることがいちばんの儲けになることは商売の最低限の鉄則である。医者は病気の恐怖、専門家は無知の恐怖、保険は将来の恐怖、モノを売る商売なら劣等感や蔑視の恐怖を煽るものである。

 われわれの社会というのはたくさんの人々や商売から恐怖を吹きかけられ、煽られ、脅され、毒づかれ、汚染されあう社会なのだろう。恐怖は最大の顧客である。吸引力や吸着力もすごい永続的な顧客になってくれる。われわれはたくさんの恐怖を人々や産業から吹き込まれる哀れな商業社会のカモなのだろう。

 この社会の仕組みをしっかりと頭に叩き込んでおくことだ。人々はわれわれに恐怖を植え込みたがっている。恐怖がその胸中に花咲けばかれは最大の顧客になる。だからわれわれはこの社会の恐怖というものを割り引いて考えなければならない。われわれが恐怖すればだれがいちばん儲けるのか。だれがいちばん得するのか。この恐怖はだれによって意図されたものなのか。恐怖という感情にはそのような勘ぐりや裏読みが必要なのである。

 中でもニュースにはいちばん気をつけるべきである。われわれの世の中の捉え方や日ごろの心のあり方を決定づけるものだからだ。われわれはたいそう悲観的で絶望的で厭世的になっていることだろう。凶悪な殺人や悲惨な事件ばかり知らされてわれわれはたいそうこの世の中への不信や絶望をつちかっていることだろう。でもそれが世の中のすべてではないし、すべての現実でもない。

 私たちが見る現実というのは私たちがいつもしているように自分で選べるものだ。悲観的なものばかり見ていると世界は悲観的になるし、楽観的なものを見れば世界は楽観的になる。われわれは絶望的なニュースばかりをいつも頭に思い浮かべているわけではないし、日常の生活の中では絶望や悲観は追いやって暮らすのが健康な人の生活というものだ。ニュースは恐怖を売ることを知って毎日の日常を楽観的に暮らしたいものだ。


05 23
2004

社会批評

日本の幽霊とは罪の意識のことである


   さいきん若者のあいだで流行っている怪談話があるという。要約するとこういうものである。

 マンションの4階に住む若い男がメリーさんという女の子をはねて逃走した。その女の子が死亡したという新聞記事を読んだあと、電話がかかる。
「もしもし、わたし、メリーさんよ。あなたのマンションの前の電話ボックスからかけているの」
 次の日、「あなたのマンションの一階にいるの」といって電話は切れる。次の日も電話があり、じょじょに「二階」「三階」とあがってくる。
 「四階」にいるという電話の後、男はドアの外に飛び出したが、だれもいない。部屋の中で電話が鳴り、「どこにいるんだ!」と聞くと、「あなたのうしろにいるの」。

 この話はたいへん恐ろしいが、ひき逃げ犯の罪の意識や良心の呵責を刺激しているわけである。この指摘をしているのは長野晃子の『日本人はなぜいつも「申し訳ない」と思うのか』(草思社)である。この本では日本人の罪の罰し手を内面に持つ心のありかたが、罰し手を外側にもつ西洋人の罪悪感のありようと比較されている。

 私はこれを読んで映画の『リング』をすぐさま思い出した。『リング』は呪いのビデオを見ることにより何日か後に死が約束されてしまうスリラーであるが、ほかの人にそのビデオを見せると死をまぬがれるかもしれないという情報があり、母はビデオを見た息子のために両親にそのビデオを見せる。

 不幸の手紙とよく似ている。これは日本人の「他人に迷惑をかけるな」という道徳律とひっかかることから、罪の意識を発動させるのだろう。その罪悪感が幽霊という具象をとってわれわれの心を恐怖におとしいれるのだ。

 長野晃子の指摘はなるほどなと思った。日本人は罪の意識を幽霊の恐怖とともに植え込むのである。日本人は悪いことをすれば、良心の呵責にせめさいなまれる。その恐怖の母体になるものは、幽霊の恐怖なのである。

 われわれは子供のとき悪いことをすれば、親に物置に入れられたり、外に追い出されたりした。罪悪感をもつようにしつけられたわけである。その恐怖の祖形は、幽霊の恐怖とともにわれわれの心に深く刻み込まれる。悪いことをすれば、恐怖とともに罪悪感が刺激されるというわけである。

 むかしの民話にも金持ちを殺して立派な家をたてた男が、ある夜子供の小便につきそい、「ちょうどこのような夜だったな」と殺された男の顔になったという話があったりする。お岩さんの怪談も妻を火傷させ、殺した罪の意識、良心の呵責が幽霊になったものだとも見なせる。われわれ日本人は幽霊の恐怖とともに罪の意識を深奥に刻み込む、あるいは訓育されるといってもいいのである。

 悪いことをしていなければ幽霊なんて怖くないという言葉や、幽霊が怖いのはやましさや邪心をもっているからだと聞いたことがあるだろう。幽霊とは罪の意識なのである。

 この罪の意識の刷り込みは日本の犯罪率低下にひじょうに役に立っているのはたしかなのだろうが、恐怖を刺激させられるわれわれにはたいへん迷惑な話である。心の平安を乱す卑怯な刷り込みであるし、恐怖から従わされる不快な部分もある。

 そういえば、日本人はむかしから怨霊や幽霊をたいへん恐ろしがってきた歴史があり、その怖れは一国の政治すら動かしてきたことすらあり、そのために神や仏を拝んできたのだが、こうやって日本人は道徳や治安を守ってきたという面があるのだろう。

 しかしこれは人の心を平穏を破るものだし、パブロフの犬のような反応をさせるという意味で、論理や言葉によって道徳を守れると自負できる者は、こういう恐怖に訓育されないこと、恐怖を払拭することがぜひ必要だと思う。

 精神の安定、成長には恐怖の根を根絶することがぜひ必要なのだが、この幽霊と罪の恐怖のしくみを知ることにより、われわれは恐怖というものの客観性や傍観的態度を身につけることができるようになるだろう。(なれるかな)。恐怖をまったくなくすことが、精神の安定と成長、つまり悟りにいたる道なのである。


日本人はなぜいつも「申し訳ない」と思うのかリング
06 06
2004

社会批評

年金のもとにある思想を考える


 年金について思いついたまま書こうと思う。年金についての根底にある思想や歴史を問いかけた魅力的な本が見つからないのもあるし、ネットで資料にあたるのもめんどくさいということで、思いついたことだけを書きたい。

 年金というのは人間の歴史の中で大半は存在しなかった。老後の生活を心配する、もしくは計画するという豪勢な憂慮はできない人が大半だったろうからだ。おそらくは農業なら死ぬまで働いただろうし、息子などとも分業ができたりしただろう。

 人は死ぬまで働くのがふつうだっただろうし、豪勢な隠居生活などめぐまれた一部の人だけだろう。食い扶持が稼げなければ姥捨てのような運命もあったのだろうが、おそらくそれは後世の人がおもしろがったり、めぐまれた優越心を満足するための極端な話だろう。

 働けなければ生きてゆけない、もしくは家族が養ってゆくという形態が人類の大半だったと思う。

 国家が国民の老後を保障するという思想はルソーの民主制思想やマルクスの社会主義思想からうまれた。

 それまでの国家の役割とはなんだったのだろう。国民から税を納められるかわりに他国からの侵略や強奪から守ったりする軍隊の役割や、インフラ整備をになってきたと思われる。人の生き死ににはかかわりなかったと思う。国家が国民を守るのは公共に害がおよぶはなはだしき貧困や伝染病のときだけだったのだろう。国家は国民の生き死ににかかわりをしなかっただろうし、人は勝手に放っておいても生きようとするし、勝手に死んでゆくものである。

 国家が国民の生活を保障するようになったのは、他国との戦争や競争が激しくなってからだ。戦争に負けないためには国民の総力が必要になってくる。国民が国家の戦争に全面的に協力するのは国民の生命や人生が国家に全面的に保障される、もしくは同一化されたときだけだ。

 つまり国家が多くの利益を提供しないと国民は協力しない。戦争が国民総力戦を必要とする時代になったとき、人々に民主制や社会保障などの権利がどんどん与えられていった。つまりえさを与えられたわけだ。国家が国民の全人生を保障するとなれば、国民は全人生のかかった国家を死ぬまで守ろうとするだろう。

 民主制や社会保障は国民の権利のために与えられたのではない。国家間戦争のための利益と交換条件にすこぶる合致したからだ。学校の教科書で教えられたように人々が闘争して自由や平等の権利が認められたり、勝ちとられたわけではなくて、国家は新たな国民の巧妙な利用法を開発しただけである。このような国際条件がなくなったとき、ギリシャで民主性が長くつづかなったように民主制も社会保障も崩れ去るだろう。

 日本でも現在の厚生年金のはじまりとなったものは国民総動員時代の昭和17年からだ。つまり戦争のさなか、国民の戦力高揚のために老齢年金は利用されたのである。現在の経済も1940年代体制といわれるように国民総動員時代からはじまったシステムがつづいており、戦後の国民は民主制や社会保障が与えられる代わりに国家の経済戦争に全力に貢献してきたわけである。

 国家が国民の生活を保障するという考えは国家というものをたいそう崇拝するに値するものだと思われただろう。しかし国家が老後を保障するとき、家族は親の扶助義務を免除されたように思い、家族の紐帯はうすれ、家族の崩壊に寄与したことだろう。家族も利益集団である。老後や生活の保障という交換条件がなくなったとき、人は家族や夫婦の紐帯をかんたんに断ち切るだろう。国家は家族を崩壊させたのである。もちろん家族が崩壊したのは家族で農地をたがやす利益の共同体から、会社に生計の場をうつした形態の関係もあるのだろう。

 年金という老後のあり方は、おそらく人々の人生の捉え方をかなり変えたと思う。人はいつごろから老後の暮らし方やあり方を考えるようになるのだろう。老後の計画や青写真を若いうちから考えたりするだろうか。

 年金は若者の行動や計画を保守的に堅実なものにした。若いうちから老後の人生を憂慮しなければならない人生をつくったのである。青年の時期に冒険や探索ができないような社会は早晩衰退するにちがいないと私は思うのだが。魅力も楽しみもない人間と社会になるだけである。人は明日も知れない身だからこそ冒険や成長ができると思うのだが。

 国家に保障されるとはふしぎなもので、その恩恵に属せない者をずいぶんみじめな思いにする。年金とは特権や利権のパスポートみたいなものである。むかし国鉄民営化のとき民営化される人たちはずいぶん反対したものだが、国家に属するということはずいぶんと人の気持ちを高揚させたり不安定にさせたりするものである。「選ばれし者」と「選らばれざる者」を国家は強烈に人に印象づけるみたいだ。

 それにしても私は保険というものはずいぶん愚かなものだと思う。健康保険なんか毎月払っているけど、てんで病院に行かないのにずいぶん損だと思っている。現金で行ったほうがよほどトクに思える。保険なんか取り越し苦労のかたまりみたいなものだ。相互扶助なんていうけど、利益がまったく感じられない扶助なんてできるものか。

 この保険という思想はほんとクセものだ。20世紀というのは消費でも民主制の時代でなくて、保険の時代だといえるかもしれない。人は老後や健康にそうとうの心配をほどこしたのである。こういう不安や恐怖を大きくさせたのはいったいだれなんだろう。国家が国民の貢献を大きくするために過剰にプロパガンダしたのだろうか。キリストや釈迦の「明日のことを思い煩うな」という教えは現代ほど必要な時代はないだろう。

 さて年金は少子化と高齢化による人口逆ピラミッドによりほぼ不可能になりつつある。そもそも社会とは働かない人をどのくらい多く養えるものなのだろうか。現在で6000万人が働いていて、3000万人の年金生活者がいるそうだ。もうすでにめちゃくちゃな数字だ。ひとつの田んぼに9人いてそのうちの3人は働いていないのだ。もし収入の少ない田んぼだったら、若い働き手はその老人たちをどうしていたことだろう。国家は目に見えないスケールで展開するからこそ、不自然なことでもつづいてしまうわけだから、人間の目のスケールに近づけることはとても大事である。(ハイエクを読もう)

 そもそも会社の定年制はなぜできあがったのだろう。定年制が先だったのか、年金が先だったのか、働けない人たちをうみだしたのが問題である。死ぬまで働ける会社社会になればいいと思うのだが、年金がある人たちには定年はありがたい制度だろう。

 年金はこれからどうなるのだろうか。数々の年金問題を解決するなんてできるのだろうか。私は年金なんてやめればいいと思う。これからとられる額は増える一方だし、払えない人もとうぜん多く出てくるし、会社も社会保障逃れの非正社員を増やす一方だし、受給額も減るし、受給年齢もつりあがる。終わってますよ。私は学生でも20歳からとられるようになったとき、もう終わったと思いました。収入のない人からとるなんてめちゃくちゃだ。

 年金はその根底や思想を問うことがとても大事だと思う。もちろん年金生活者や既得権のある人にはまちがってもそんなことは考えたくないだろうけど。人生観や生命観を捉えなおす必要もあるのかもしれない。年をとって若い人に頼るつらさとかを考える必要があるだろう。年金は生き方として、人のあり方として、必要あるものなんだろうかと考え直す時期に来ているのかもしれない。


06 20
2004

社会批評

ジャーナリズムはなぜ被害者意識に凝り固まるのか?


 斎藤貴男の『機会不平等』(文春文庫)を読んだが、拡大する不平等に戦慄を感じたというよりか、ジャーナリストってなぜこうも被害者の目線からしかものを見れないのかという違和感が先に立った。

 この本はアメリカ流の市場原理主義による階層拡大に対する批判がメインになっている。たしかに悲惨で恐ろしいヴィジョンは現実になろうとしている。それに対する告発や批判は大切なことである。

 ただジャーナリズムはなせこうも被害者的な目線ばかりでものを見るのか、少々不快に思った。私の立場としては市場原理の論理性にはかなり納得してきたほうだ。フリードマンやハイエクの見解にはかなり感銘してきた。平等やそのための全体主義はもういやだという気持ちがしている。

 でも市場原理がよい世の中をつくるのかはまったくわからない。市場原理を徹底させれば、階級社会がほんとうにくるのかもわからない。市場原理はよいメカニズムをもっていると思うが、その先の結果はまるで見通せていないと思う。ただ不平等な階級社会はぎゃくに国家主義や企業主義ではない自由な生き方が可能になる社会がうまれると楽観はしているが。

 だから自由競争社会の悲観論ばかりに視線をもってゆくこの本には少々の違和感を感じたわけだ。不平等や階層化はある程度受け入れるべきだし、そういう社会ではぎゃくに違う価値観や多様な生き方をはぐくめる可能性があるのではないかと私は思っている。平等主義や福祉主義が人々の自由を奪うのである。

 平等を正義とした価値観だけで、人々を悲惨な境遇に描いたり、被害者だけにはしてほしくないと思う。平等を正義にすると、そこから外れる人が悲惨で救いようのない存在にされてしまう。

 われわれは社会に出ると大なり小なり権力や階層のような存在を如実に、あるいは微妙に知るし、自分の境遇や立場の違いをじょじょに理解し受け入れてゆくものだ。不平等や差別があったとしても、それを受け入れて生きてゆくしかない。これが世の中の現実というものではないか。超えられない、変えられない立場というのは厳然とあるものだし、人々はそんなことを関係なしに自分の境遇を肯定したり、自分の生き方に誇りをもったりするものだ。

 しかし平等正義感をもったジャーナリストの手にかかると、われわれは平等から外れた被害者で悲惨な存在になってしまう。当の本人はそんなことをつゆとも思っていなかったり、自分の境遇や立場に甘んじるしかない、または受け入れて自分の生き方を肯定してゆこうとしていることだろう。被害者意識や批判意識だけで世の中を渡ってゆくのは損失とじっさいの被害をこうむるだけである。そんな人生は自分も肯定できないし、楽しめない人生になるだけだ。

 ジャーナリストはなぜこうも被害者意識でものを書こうとするのだろう。新聞が人気がないのは被害者意識に凝り固まっているからだろう。思い出せば、ニュースをふりかえってみると被害者ばかりが続出してきた。

 大店舗法に対する小売業の苦しさや、労働問題なんかも自らを被害者と規定した人たちが出てくる。マルクス主義や共産党の人たちから見ると、少しでも平等や国家の庇護が与えられないと被害者になってしまう。原爆問題なんかも被害者意識である。部落問題も完全に被害者意識である。

 被害者の窮状を訴えることは、「正義の味方」としてのジャーナリズムの面目を保てる。被害者という存在は加害者という「悪」を明確に立てれるから、正義と悪の図式化がかんたんになされてジャーナリストは正義の味方になれる。『水戸黄門』の構造である。被害者というのはジャーナリストが正義の味方になるための必要不可欠の弱者なのである。

 その正義の味方というのは国家にケチをつけるばかりで、なんでもかんでも国家に陳情しており、国家に駄々をこねるだけの存在である。ニュースというのは全能の国家に対する「いうことを聞いてくれないから文句をいってやる」の子供みたいなものに写る。ニュースというのは強くてなんでもできる「大きな政府」を必要とする存在なのだろうか。

 戦後の政府は多くの役割を担わされて社会主義国家=全体主義国家化してきたから、国家は全能の神のように国民の福祉まで面倒を見る義務も生じた。そこに差別や被害者の救済を担う役割も出てきたわけで、政府は彼らの存在がとても大きなものになり、また癒着も生じたのだろう。被害者であることは利権や利益になったのである。弱者であることが利益であるとはなんと変なしくみなのだろう。

 被害者は政府から利益をひきだすための便利なシステムになった。人々の共感や同情もとうぜん手に入れられる。ジャーナリズムもかれらの窮状を訴えれば、正義の味方になれる。こうして国家に対しての被害者続出のなさけない社会ができあがる。

 戦後サラリーマンが増えたことも被害者意識の拍車と無関係でもないだろう。責任は自分ではなく、すべて他者にあり、それも国家がすべて悪いと唱えてまかり通るならこんなに楽な世の中はない。すべて責任は自分に帰ってくる自営業と違って、サラリーマンは責任をすべて会社や国家の責任にしても困らない。責任をだれかになすりつけておいたほうがよほど楽である。こうして被害者意識は増殖したのだろう。

 被害者になっておれば、棚からぼた餅でうまいことが転がり込んでくるしくみが戦後社会にはあったのだろう。だけど自分を被害者だと規定してしまう生き方はすばらしいあり方だとはとても思えない。他者に責任をもとめる思考法もおそらく自分のためにはならなかっただろう。自分に対する厳しさがまったくなくなってしまう。親のせいばかりにして自立できない子供となんら変わりはない。

 ジャーナリズムはこれからも理想に対しての被害者意識を煽ってくることだろう。われわれはいつも平等からこぼれ落ち、階層から転がり落ち、国家の庇護のない悲惨な被害者だと聞かされつづけるだろう。でも私たちはそういう境遇の中でも、人から悲惨だと揶揄されても、その中で生きてゆくしかないのだ。そんなことをものともせず、楽しく肯定的に生きるほうがよほど自分の人生に貢献すると思わないか。被害者意識なんか駅の売店にいっぱい売っているかもしれないが、頼まれても買いたくない。


02 21
2005

社会批評

なぜ犯罪報道はマニアック・マーケットを叩くのか


 犯罪が起こるたび、おたくやロリコン、ゲームやマンガなどの趣味が叩かれることになる。

 もういい加減にしてほしいものである。その趣味をもっている人たち全員が犯罪を犯したわけではないのに、全員が犯罪者のような目で見られることになる。

 たとえばフジテレビ社員やソニー社員のただひとりが犯罪を犯したからそこの社員はすべて犯罪者だとされるようなものである。こんな原因究明でいいのか。報道被害という損害を考えられていないのか。

 マスコミはとにかくマニアック・マーケットを叩くのが好きみたいである。人の趣味やマーケットというものはどんどん昂じてゆくものである。興味外の者たちにはそれが理解できないだろうし、怪しさや嫉妬心を抱いたりし勝ちである。

 マーケットで売られているということは世の中の正当な商行為であるという認識をもたらすだろうし、マーケットからは積極的に楽しめ、買え、上等な客になれという声も感じることだろう。顧客間においても競争が生じ、コレクションやグレードが競われることになる。マーケットはどんどんエスカレートしてゆくことになる。マーケットの世の中に生きている以上これは推奨されていることだし、どの業界にも見られることである。

 マスコミはそこを犯罪報道と絡めて叩くのである。新しいマーケットやマニアック・マーケットの利益や業績のおこぼれをもらいたがっているかのようである。

 犯罪報道はその性質上売れているマーケットの悪い面としかつながれない。いままであったようにインターネットやケータイ、マンガ市場のネガティヴ面ばかりにつながろうとする。彼らにとって新しいおいしいマーケットは毒を吐くことでしか利益を頂戴できないのである。

 マニアックさや性的嗜好は犯罪報道によって抑制される必要があるのだろうか。マーケットはいくらでもその世界を推奨するものだが、犯罪報道はいつもその抑制をおこなおうとする。犯罪報道はこんにちの道徳抑制たりえるのか。バタイユ流にいえば、禁断ゆえの快楽をますます増すだけに作用しているように思えるのだが。


03 06
2005

社会批評

優秀さをめざす病


 まえの断想集で優秀さをめざすがゆえに人が殺されるマンガや物語が多くつくられるのだという考えを提出した。人が殺されるのは主人公が強かったり、優秀であることの証左なのである。

 この社会は優秀さがかなり誉めたてられる世の中である。おそらく優秀さを批判したり、悪者あつかいする意見はまず耳にすることはないだろう。無条件に受け入れられているといってもいいと思う。

 歴史を見れば、とくに人気のある時代を見れば、一目瞭然である。日本を天下統一した戦国武将たち、日本を近代化した幕末志士たち、西欧に目を転じれば、大帝国を築いたローマ帝国や先進文化を誇ったギリシャ文明、文明の草創期をつくったメソポタミヤやエジプトなどの四大文明。すべて優秀さの刻印を押された時代や文明ばかりである。

 歴史はわれわれの価値観や目標を写す鏡なのである。われわれの時代の偉大さや優秀さの価値観が投影されたものにすぎない。はたしてわれわれは歴史の事実を見ているといえるのだろうか。

 人間としては優秀さをめざすのはとうぜんだと思えるだろう。偉人や賢者がいなければ文明や文化は発展しなかっただろうし、よりよい社会に貢献する人物を失ってしまうと思われるだろう。

 国家内においても優秀な人物がいなければ他国に撃ち落されるだろうし、経済競争においても優秀さをめざさないと企業からリストラされると不安になるだろうし、優秀な成績をおさめないとよい大学にもよい企業にも入れないと怖れるだろう。

 優秀さはわれわれの生存の不安から生まれたのだから、とうぜんの欲求だといえる。その防衛本能を抜きとるなんてことは可能なのだろうか。不利益のほうが多いように思われる。

 だが、優秀さの競争が過剰になったとき、デメリットがまったくないとは言い切れないだろう。はじめにいったように優秀さをめざす闘いが物語においてたくさんの殺人を見せるようになっているのである。人を殺す強さや優秀さが誉めたたえられるまでして優秀さは競われるべきものなのだろうか?

 そう、優秀さをめざす目標からはたくさんの闘いや争いが生み出され、憎しみや恨みや怖れの原因になっているのである。優秀さを競って人を蹴落とし、人を打ち負かし、物語では優秀さのために人が多く殺され、国家間においては争いや戦争の原因になっているのである。

 人殺しは大げさとしても、優秀さを誉めたたえる社会というのは落ちこぼれる恐怖を増大させる社会のことである。おおよそ心の安定からはほど遠い日々や人生を送らされているわけである。

 優秀さという無条件に善と思われるものも、はたして手放しで称賛されてよいものだろうか。

 優秀さをめざさない民族や社会もどこかにあったはずである。結果として文明や国家を築かなかった未開民族にそれはあったのではないかと思う。アボリジニやイヌイット、マサイなんかその結果ではないかと思うのだ。かれらの歴史も法外な偉大さをもたないものであると思う。人類には可能であったはずなのである。

 きょうも人が殺されるマンガやドラマ、映画をたくさん見ている「優秀」な先進文明は果たして褒め称えられるべきものなのだろうか。。。


 ■参考文献
 優秀さの解毒剤は中国思想や隠遁思想、仏教に多い。
 『老子・荘子』 世界の名著 中公バックス
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 『菜根譚』 洪自誠 岩波文庫
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03 31
2005

社会批評

受験秀才に志はあるのか


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 昭和の愚かな軍国化への坂道を転げ落ちたのは、受験秀才によるものだという考え方がある。たしか司馬遼太郎や渡部昇一がいっていたと思うが、資料にあたったわけではないので定かではないが。

 明治や戦後のはじめには危機意識をもった国家を案じた志士たちがあらわれる。それがしだいに受験秀才たちに占められるようになり、坂道を転げ落ちたり、暴走に転じたりするようになる。

 そもそも受験秀才は国や社会のために競争に打ち勝とうとするものだろうか。自分の将来のよいポジションや利益のために優秀な成績をとろうとするのではないのか。そういう者たちが国を運営する官僚や役人、大企業のエリートになったりするのである。

 受験秀才がこの国の行方を決めるとはずいぶん不幸なことである。かれらはよい国や社会をつくりたいと志したりするのだろうか。成績がよいばかりに誤って国のトップに立ってしまったという具合に思えてならないのだが。

 よい国や社会をつくりたいと思って国のトップをめざそうとする人たちがこの国にどれだけいるというのだろうか。

 学校の競争がめざすものは知識の学習能力である。優れた国やすばらしい社会をつくるための競争ではない。学校というハコモノはこの国の舵取りにどういう人材を送り込もうとしているのだろうか。

 ひとつの時代が終わろうとするとき、危機意識から新しい国をつくろうと志す者たちがあらわれる。それがしだいに自己の安寧や立身出世を目的にした受験秀才に占められるようになり、国は破局や終末へと転がり落ちてゆくことになる。

 国家のトップやエリートたちがこのような者たちに占められるシステムを考え直さなければならないのではないかと思う。受験秀才たちはかならずしも優秀ではないと断じることはできないが、彼らの履歴と目標は国家の舵取りとはまったくべつのところにある。

 国家は受験秀才とは違うべつの選抜システムをいままさに必要としているのではないだろうか。もちろん理想に燃えた知識人やイデオローグもまた危険である。かれらは頭の青写真のために現実を殺戮するからだ。つぎなる時代の目標に叶った現実的な行動が行える人、そういう人が選ばれる必要があるのではないだろうかと私は思う。


04 03
2005

社会批評

NHK『日本の、これから 格差社会』の感想


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 スタジオ形式の番組は退屈だと思った。ほかのNHKスペシャルのように流れがスムーズでなく、見ていて安心できない。

 ひろがる格差社会を問題ととりあげたのはよかったと思う。ただ堀江貴文がいっていたように格差のモノサシを金だけに捉えたのはあいかわらずの間違いだと思う。これからはこういう金のランクだけで幸不幸を捉えないことが社会のモノサシにならなければならないのに、はじめからつまづいている。若者にはこういうモノサシに囚われない生き方や基準をもってほしいものである。

 内容はニューリッチや成果主義の見直し、規制緩和がもたらしたタクシー業界の困窮、中高年フリーターの増加、親から子へとつひきつがれる格差の固定化などであった。

 ゲストは勝ち組の注目される堀江貴文やふくれっ面の金子勝、政府のブレーンとなっているらしい本間正明、権力批判の急先鋒斎藤貴男、格差の研究者山田昌弘などであった。

 市民の声を聞くということでスタジオ参加者の声もかなり聞きとられたのだが、短いコメントがかなり危なっかしかった。視聴者参加番組といっても設問にイエス、ノーに答えるだけで意味なし。

 やはり私が問題を感じたのは中高年フリーターの増加と格差の固定化である。フリーターは金子勝がいったように年金や社会保障の失敗である。さらに人材のデフレである。それを若者問題にしてしまって、企業の政治的責任が問われないのはまったく嘆かわしいと思う。国はあいわらず国民を守らずに企業を守っているのであって、日本は人間の国ではない。総動員体制と生産マシーン国家なのである。われわれは金のモノサシだけではない幸不幸の基準を森永卓郎のように社会でアピールしあうほかない。

 格差の固定化、貧困の連鎖には長期的な恐ろしさを感じさせた。江戸時代のように身分格差の時代がやってくるのかと不安になった。しかし日本にはすでに憧れられる富裕層や文化層、支配をほしいままにする権力層といったものがイメージとしては存在しないので、格差や序列を嘆く気運も盛りあがらないと思うのである。歯ぎしりをもよわせるような羨ましさの格差はないので、格差はほんとうに問題なのかと思う。

 こういう番組がつくられるのは前時代の枠組みや問題意識からぜんぜん脱却できていないということである。近代化やキャッチアップの時代の捉え方である。それが終わってしまったから、われわれは目標を失い、失われた15年を過ごしているのであって、むかしのような一億総中流がわれわれの目標ではない。終わってしまった枠組みがあいかわらず問題と持ち出されるのは、新しい問題設定や人生目標、国家目標が見えないことをさらけ出しているようなものである。

 われわれはみんなで平均的に豊かになるという目標を失ってしまって、そのおかげで経済が活性化しない、困窮化するという事態におちいってしまっている。もう均一的な目標をもつことなんできない。だから個人的な目標や幸不幸の基準を自分でつくりだすしかないのである。マスコミや世間が煽る金のモノサシで自分の幸不幸を捉える見方は、捨てなければならないのである。


04 07
2005

社会批評

桜と日本嫌い


  CIMG000313.jpg 冬の厳しさの後に咲く桜。

 ここ数年、ようやく桜の美しさがわかるようになってきたが、それまでの私は桜が嫌いだった。酒を飲んでの花見など虫唾が走るほど嫌いだった。「日本的なもの」が大嫌いだったのである。

 日本人が集団で好むようなもの、野球や『紅白歌合戦』、『寅さん』や帰省ラッシュなどが大嫌いだった。それらいっさいに触れまいとしていた。そのなかに花見の宴会がふくまれていた。

 いまでこそ日本的集団への嫌悪感はだいぶ和らいできたが、私はなんでこんなに日本的集団が嫌いだったのだろう。

 歴史教科書で騒がれているように学校教育が日本嫌いを教育したともいえる。アジア各地に侵攻した歴史の反省から、日本の愚かさを教える教育がほどこされたのである。日本のすばらしさや美しさを教えない教育である。自虐史観といわれたりする。

 また新聞やニュースなどが西欧に比べて劣った日本という批判をしまくった影響もあるだろう。なにかといえば西欧の先進性が偶像化され、日本の後進性が槍玉にあげられた。気づいたらそのような西欧比較のニュースをめっきり見なくなったが、いまはもう日本は西欧を乗りこえたのだろうか。

 あとひとつ、日本的集団を嫌いになった理由に「個性消費」の宣伝力もあったのだと思う。つまり「みんなといっしょであること、画一性や均一性は恥ずかしくて情けないことだ、だから人と違う人間になれ」というコマーシャリズムの力にあずかるところも大きかったのだろう。けっきょく私はそれで少量生産の高級品やブランド品を買っただけである。

 いろいろな人たちの思惑が重なって私は「日本的集団」の嫌悪感をつちかっていったのだと思う。だからアメリカのロックを聴き、ハリウッド映画を見て、ヨーロッパのコレクションでファッションを勉強し、ヨーロッパの思想や文学を読んだ。

 日本嫌いというのは他文明を学んだり、受け入れたりするときに有効にはたらく受容器のようなものである。日本を嫌いになれば、優れた文明はすんなりと流入することになる。ぎゃくにいえば、日本讃美は他文明の拒絶である。日本嫌いというのは文明受容のひとつの方法なのである。なにも自虐や反日というわけではないのである。

 アメリカやヨーロッパに憧れた私の年代は終わろうとしている。30才くらいから仏教や東洋思想を学ぶことができるようになり、しぜんに日本の山々や景観、神社などを好めるようになってきた。ただそこには禁圧されてきたパトリオティズム(郷土愛)やナショナリズム(愛国心)の警戒を問い直さなければならないという作業が待っているのだが。

 そして桜の美しさにすなおに感銘できるようになってきたのである。冬の厳しさの対比としての桜の華やかさには目をみはるものがある。夜の中に咲く白い花はこの世のものではないように思うこともある。桜とは私にとって西洋と日本の真ん中にあるものなのである。


04 13
2005

社会批評

コミュニケーションの苦手意識をつくる社会


 自分はコミュニケーションが苦手だから負け組みだととらえたり、ひきこもりやニートに代表されるように若者の非社会性を批判する言説によく出会ったりする。

 こういう枠組みというのは個人を責める方向に進みがちになるが、そういう苦手意識をつくりだす社会や、コミュニケーションを難しくする社会の構造自体を問わなければならないのではないかと思う。そして社会が執拗に若者の非社会性を責めつづけるのはなぜなのかを考えなければならない。

 まずありきたりなことだが第一に社会自体が会話を必要としなくとも用が足せる効率化社会になっていることがあげられる。コンビニもスーパーもショップでの買い物も電車の切符もすべていっさいしゃべらなくても可能である。

 社会自体がコミュニケーションを抹殺しようかしているかのようである。会話が禁止された世の中で会話や対人関係に得意意識をもつのはむずかしいだろう。親密にもなれないし、店員を機械のように無視する関係も心苦しい。そういうなかで対人関係はこじれるのである。人を親しくおもんばかる思いやりが、冷酷な関係を責めるのである。

 学生や若者が就職や会社を怖がったりするのは、彼らが学校で大人や企業社会といっさい接点をもたずに育てられてきたからとうぜんのことである。同じ年の友だちとばかりつき合ってきて、いきなり目上の関係や年上の大人たちとすんなりつき合えるわけがない。タメ口で大人に陰口をたたかれるか、関係から退却するかになってしまう。なじんだり、自然なものになるには永らく時間がかかってしまうのである。

 若者が苦手意識をつくるのは学校教室の友だち関係にあるのだろう。ここでは友だちをむりやりつくらないと居場所がなくなったり、いじめにあったりする。遊びや社交性という強制価値のなかで何年も過ごさせられるのである。つまづいて内攻してゆくのも故なきことではない。会社では仕事という障壁があるから必要以上に恐れる必要はないのだが。

 人前で注目される不安がつくられるのも教室のようである。人前で発表するというのは教師や一段上の関係に上ることである。そういう立場からものをいうことの抵抗が固定化されれば、みんなに注目されることが緊張のともなうものになるだろう。

 そういう学校で育ってきた学生が就職でいきなり自己表現をもとめられるのである。無理な注文というものである。

 若者がコミュニケーションを恐れるようになる要因はほかにはマスコミでおもしろいタレントが人気になるようにおもしろさや社交性の強制力がかなり強くなっていることと、非社会的な人間を責める言説に満ちあふれていることだろう。

 タレントのような社交性が始終すべての人に必要だとされれば多くの人が参ってしまうだろう。とくに若者はマスコミの圧倒的な影響力をうけ、マスコミを崇拝せざるを得ない環境に住んでいるのだから、その強制力はかなりのものである。非社会性は犯罪報道の中で暗に責められたりする。そして必要以上にコミュニケーションの苦手意識をもつ若者がつくられるというわけである。

 個人を責めるより、社会自体や世論・マスコミのなかに問題を見つけるほうが妥当なんだと思う。解決の糸口はそこから開けてくるのではないかと思う。


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