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04 03
2016

社会批評

オタク性犯罪説から見える物質主義と空想主義のたたかい

 アニメ・オタクはなぜ性犯罪者予備軍として叩かれるのだろう。そこにはふたつの帝国・勢力の根深い対立があるのではないだろうか。

 アニメ・オタクを叩く勢力というのは、物質主義の帝国である。

 物質主義の帝国は、ファッションやクルマ、リア充といった見た目の物質で価値や優劣が測られる見た目優先主義の帝国である。

 アニメ・オタクというのそういう競争から降りてしまって、頭のなかの空想、喜びに退却する孤立主義をもたらす。いわば物質帝国主義への尖兵なのである。

 性的な部分で叩かれるのは、物質主義帝国の原エンジンがその性衝動によるものであり、その駆動力を物質主義に駆使しないアニメ・オタクはあやしすぎるという投影なのだろう。


物質主義は女性の獲得競争

 物質主義帝国というのは、女性の性獲得の競争でなりたっているというのは、ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』や岸田秀の『性的唯幻論序説』で指摘されているように、恋愛や結婚が物質主義の原駆動力となっている。

 男が女性を獲得するためには経済的富をもたなければならない。彼女の気をひくためにおしゃれをし、車をもち、家を建てる経済力をもたなければならない。

 その競争が激しくなれば自国のモノでは優越を競えなくなり、外国の舶来モノで勝負をかけなければならない。

 そういう性競争の拡大が全世界や植民地までの拡大したのが、物質主義帝国ではないだろうか。


物質主義と科学的世界観

 物質主義世界ではモノの多寡が精神の安定と優越をもたらす。ゆえに宗教のような空想による精神の安寧を用いてもらっては困る。

 それによって客観的世界像が樹立される。なぜなら、心自体で安寧を手に入れられたら困るのであり、物質だけが精神の安寧と幸福をもたらす。

 心それ自体のコントロール能力は、物質の幸福世界では、入手禁止なのであって、外界の統制自体に幸福がゆだねられる世界像を打ち立てることが必要なのである。

 つまりそれが物質科学世界像に宗教が嫌われる理由であり、わたしたちは物質主義の信徒として、心それ自体の統制能力をうしなうことによって、外界と物質の依存に釘づけられるよう仕向けられるのである。


時間の誕生

 物質主義は、世界経済と富の蓄積に貢献し、人類のゆたかさに大きな貢献をしてきた。貧しさの駆逐にも大きな貢献をもたらした。

 金銭の交換をもたらさないものは、悪や忌避されるものである。富や自分の生活さえ維持されなくなる。女性にとって金と豊かさをもたらさない性的後退者は自身の敵になる。

 物質主義はそれ自体、絶対の正義になった社会体制・システムである。

 物質はだれかのモノであり、だれかがつくったモノである。所有と交換を明確にするためには、過去の所有や製造を記憶にとどめなければならない。

 過去はどこまでも明確に記録され、実体化の地位に祭り上げられる。交換と所有のためには、過去は物体のように明確に刻まれなければならない。

 過去が消え、所有も明確でない時間感覚では、モノの所有権は輪郭化されない。所有権を明確にするために過去の実体化、記録化はなにより重要になった。

 そのことによって、われわれは過去の苦悩や後悔を背負うことになったのだが、物質主義世界ではモノの救済がますます求められ、好都合なことである。


空想主義の尖兵・オタク

 アニメやマンガは、この世界のどこにもない空想の世界に憩い、楽しみを見出すヴァーチャル世界に満足する行為のことである。

 すべて空想、この世のどこにもない絵空事である。

 それでも人は人生を賭するほどの情熱や生きがいをもたらす。

 空想主義は、物質主義の楽しみを代替し、ときには奪ってしまう。

 物質主義にとっては、それは危機であり、脅威である。

 女性獲得の欲望が二次元で代替されてしまうと、物質主義世界の駆動力が失われてしまう。

 物質主義や女性はそれによって、オタクの性的脅威を投影するのではないだろうか。物質主義の根幹を脅かす脅威なのである。


空想主義は宗教

 空想に満足をもたらすというのは、神の物語を信じる宗教と似ていないだろうか。

 現実の物質世界にではなく、神の空想世界を信仰するという形態は、アニメ・マンガオタクのありようと似ていないだろうか。

 とするのなら、アニメオタクというのはすでに物質主義が毛嫌いする宗教的世界観をまとっているのである。

 空想に慰めをみいだしてもらえば、物質経済、貨幣経済のエンジンを回すことにつながらない。経済が収縮するばかりだ。

 アニメ・オタクというのは物質主義にたいする空想主義のテロリズムなのである。


空想主義の復帰、つまり宗教への回帰

 空想主義の興隆というのは、人は物質がなくとも満足する生き方ができるのであり、それのみで幸福を覚えることである。

 これは宗教が物質の慰めでなく、心それ自体のコントロールによって幸福や安寧をもとめる生き方と共通である。

 つまり空想主義はすでに宗教への回帰をふくんでいるのである。

 空想主義が気づかせたことは、物質世界の前に心の世界があり、その心の世界を満足させることが幸福や安寧をもたらすことができるということである。

 ポジティブ心理学や禅的瞑想が興隆するというのは、心の世界、空想によって人は満足をもたらすことができると知ることではないだろうか。

 われわれは物質主義のくびきから解き放たれ、空想主義の世界にすでに踏み入れてしまったのではないか。


物質文明からの退却

 若者の消費離れや恋愛離れ、少子化や非婚化・晩婚化がおこっている。物質主義のエンジンが根元のところが点火不足をおこしている。

 物質主義の魅力を失ってしまっているのである。

 それ以上に物質の獲得には大きな重荷や労働を背負うことを厭う気持ちが強くなっている。

 物質主義の貨幣の駆動は、その代替物であるアニメやコンテンツという空想をつくり、そのことによって物質主義のう回路をつくってしまったのである。

 そして空想、心の世界による安寧と幸福の方法を覚えてしまって、ますます物質文明の後退に拍車がかかる。

 わたしたちは空想主義によって宗教世界に踏み入れてしまっており、過去を実体化してきた時間感覚の世界観も変えてゆくのだろう。

 その時間世界観が、わたしたちの幸福を奪い、過ちを多く生み出してきたことにも気づかれるだろう。客観的世界像の批判や攻撃もおこなわれるだろう。

 宗教世界において遠ざけられた女性はどのように生計を立てたのだろうか、宗教世界において貨幣経済はどのような循環路を見出したのかと疑問に思うのだが、物質主義の果実と苦悩をいちど経験したわれわれは、もうその時代には戻れないのだろう。

 空想主義への疾走がますます加速される時代になろうとしている。

 この時代の幸福と安寧のかたちは、生活や経済のありようまでがらりと変えてゆくことになるのだろう。



恋愛と贅沢と資本主義 (講談社学術文庫)
ヴェルナー・ゾンバルト
講談社
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02 26
2016

社会批評

ブックランキング注目本 2016/2/26


 2016年2月26日のブックランキングから注目本をピックアップ。

 本日2月26日は、1936年の二・二六事件からちょうど80年目ですね。この事件から軍部の暴走がはじまったとされる日ですね。

 でもその前には民衆の貧困化や困窮化という背景があり、社会主義をとなえる知識人を政府が弾圧、青年将校たちは軍事力によって社会主義革命をなそうとしたのではないでしょうか。腐り切った世の中を変えるという現代とも通じる怒りをもっていました。

 だけど、結果的に中国の植民地化という失敗を犯して、戦争の泥沼と国民の膨大な犠牲という過ちをひこおこしてしまうのですが。

 そういう起点の80年後のブックランキングです。


幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII
岸見 一郎 古賀 史健
ダイヤモンド社
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 100万部ベストセラーの『嫌われる勇気』の第二弾。人文新着1位ですね。


人を動かす 文庫版
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創元社 (2016-01-26)
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 カーネギーは人文新着22位。個人の体験談で埋めたことが説得性を増す本ですね。


トランクひとつのモノで暮らす
エリサ
主婦の友社
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 ミニマリストの本が人文新着25位。この社会にどんな影響を与えてゆくことになるのでしょうね。


老子 (岩波文庫)
老子 (岩波文庫)
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岩波書店 (2016-02-18)
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 「老子」が人文新着60位。岩波文庫がKindle化されたからでしょうか。わたしは「荘子」を合わせて読むことをだんぜんオススメ。




 人文新着72位。そりゃ、そうしたいのは山々なんだけど。


オクテ女子のための恋愛基礎講座 (幻冬舎文庫)
幻冬舎 (2016-02-19)
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 社会新着1位。人から憧れられることだけを目的に生きたVERY母のエッセイがすごかった人ですね。「VERY妻になりたかった母の死から学んだこと」


サイロ・エフェクト 高度専門化社会の罠 (文春e-book)
文藝春秋 (2016-02-24)
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 社会新着5位。専門家社会の警鐘? イリイチの「脱学校化社会の可能性」みたいなことをいっているのかな。


貧困女子のリアル(小学館新書)
小学館 (2016-02-05)
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 社会新着23位。三十代貧困女子。非正規、貧困化の波がいちばん押し寄せた彼女たちはなぜ問題にならないのか。


創られた「人種」  部落差別と人種主義(レイシズム)
黒川 みどり
有志舎 (2016-02-26)
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 社会新着76位。部落と人種差別のつながり。


江戸しぐさの終焉 (星海社新書)
原田 実
講談社
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 新書新着25位。ねつ造された江戸しぐさはほかの人まで届くのか。


いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫)
筑摩書房 (2016-02-05)
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 シュタイナーがなぜかノンフィクション新着46位。Kindle化されたためでしょうか。一冊あまりにも信頼できない世界観を読んだことあります。


劣等感という妄想 禅が教える「競わない」生き方
小学館 (2016-02-05)
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 ノンフィクション新着51位。櫻木健古を超えた内容になっているでしょうか。人間の価値序列から超える視点はほんとに悟り。


シンプルだから、贅沢
講談社 (2016-02-26)
売り上げランキング: 7,091


 ノンフィクション新着57位。ミニマリストのドミニック・ローホーのほかの本を読んでいますが、いままで考えたこともない思考をもたらしてくれるかもしれませんね。


神秘学概論 (ちくま学芸文庫)
筑摩書房 (2016-02-05)
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 ノンフィクション新着67位。こんな世界、どこにあるの?という世界観ばかり語られます。これ、マジメに信頼されているの?


英国人記者が見た 世界に比類なき日本文化 (祥伝社新書)
祥伝社 (2016-02-19)
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 ノンフィクション新着96位。連合国戦勝史観を批判した人は日本ヨイショ本も書くのね。

11 29
2015

社会批評

裁きや正義も、ただの「暴力」だということ



悪や犯罪はどこまでも裁いてもよいのか

 犯罪者にたいする罵倒や暴言がまともな人間の範疇をこえて、ときに狂人や犯罪者並みになってしまうことがある。

 レイシズム集団にたいするアンチ・レイシズムの罵倒や暴言が、同じように過激すぎたり、人格攻撃にまで走って、シンパシーを感じていた人も引いてしまうことがある。

 悪や犯罪と認定されたものは、どこまでも裁いてよい、攻撃してよいという暗黙の了解、前提があるからだろう。悪人はどんなひどいことも、情け容赦ないことをしてもいいという社会的常識があるらしい。

 これはいっぱん的に犯罪者を裁く刑罰の法律や社会的常識があるからだろう。犯罪者や悪と認定されたものは、もうどこまでも裁いても、攻撃してもいいのである。もうすでに「人間」の範疇をあたえられなくなったからである。そんなひどいことをした者は、もう「人間ではない」からだ。

 犯罪者を裁くこと、断罪することは絶対的な「正義」である。世の中の「よいおこない」、「常識をもったおこない」である。


裁きや刑罰の暴力性

 しかし、ちょっと待ってもらいたい。

 人を裁くこと、刑罰をあたえることも暴力ではないのか。だれかを拘束して、人の自由を奪って、刑務所に閉じ込める。

 これはれっきとした暴力でないのか。これ自身、無罪の者にすれば犯罪である。

 さらに刑罰は、何年ものあいだ容疑者を刑務所という不自由な空間に閉じ込めることができ、矯正や教育がおこなわれ、ときには死刑という命を奪う「殺人」までおこなわれる。

 これは最高に暴力的な、人間社会のいちばん基本的なタブーではないのか。

 裁きや刑罰はただの「暴力」である。それを無罪の者にすれば、「犯罪」になることでもわかる。


 でもこの社会では裁きや刑罰は「正義」であり、「正当的」なことである。

 なぜ最高に暴力的で、犯罪的な行為が、「正義」なのか。



暴力と国家の独占

 それは犯罪者が犯罪的な行為をおこなったからである。犯罪に犯罪を報いるのはとうぜんであるということである。

 しかし、犯罪に犯罪を報いることは、それ自身、犯罪になるのではないか。ただの暴力や犯罪となにが違うのか。


 それはその暴力や犯罪と同等の行為を、国家が独占しておこなうことから、犯罪と暴力の罪から逃れられるということである。

 つまり個人が報復としておこなえば犯罪であるが、それを国家にゆだねて暴力を独占的にふるう権利をあたえられるから、犯罪に当たらないということである。

 国家は犯罪を取り締まるための暴力や犯罪的手段を特権的にもちいてもよいとする超法規的措置があるというわけである。


 やっていることは暴力や犯罪と変わらない。だけど国家が独占的にそれをおこなう権利があたえられているから、暴力にも犯罪にもならないというわけである。


超越的裁定者を決めるのはだれなのか

 しかしもし国家も個人と同等の存在にすぎないとすると、国家はだれかを裁き、かれに暴力や犯罪的行為を加える権利は、どうやったら与えられるというのだろう。

 特権的、超越的に暴力的権力をもったものが、秩序を裁定する、平定するしかなくなるだろう。

 けっきょく、権力を超越的に持つものが裁定者、審判者になるしかない。

 このゆがみをもったのが国際秩序であって、アメリカのような超大国が国際社会の秩序をたもつ警察のような役割をすることになる。しかしイスラム社会や後進国にとっては、西欧に有利で特権的なルールや裁定ばかり押しつけるという憤りをもつ結果になる。

 たとえば、日本の戦国社会では戦国武将が各国に立っているとき、だれが勝利者や優越者として裁定するのだろう。それぞれ武将がわれこそが優越者として主張すれば、いつまでも全国平定がなされることはない。そういうジャッジをおこなう超越者が、天皇という二重権力によっておこなわれたのが日本の歴史ではないだろうか。


個人的私刑は犯罪である

 一般人にとって裁判や刑罰は、正義や公正な善であると思われている。そのためにその暴力性、犯罪性が気づかれにくく、忘れられがちである。

 裁きや刑罰、正義が暴力や犯罪ではじめてなしとげられる権力の不均衡、不公平でおこなわれることが見えない、気づかれにくい。

 そして正義や裁きは、悪でも犯罪でもないと思うことが始末に悪い。


 その暴力は国家に一元的にゆずりわたされているから犯罪にならないだけであって、個人がその暴力をふるえば犯罪である。

 一般人の暴力を取り上げて、その暴力を一元的に国家をおこなうことで、犯罪の超法規的逸脱はみとめられているだけである。

 個人がそれをおこなえば、犯罪のなにものでもない。個人が国家の権力のように裁きや私刑の権利を行使してもよいと思うようになると、私刑やリンチ、決闘のような中世のような野蛮で無秩序な世界が広がることになる。

 一般人には犯罪者を裁くことも、私的な刑罰を加えることを禁止されているから、社会秩序は保たれて、文明のルールは守られているのである。

 それなのに一般人は犯罪者を断罪して、報復してもよいかのようにふるまうことが多々ある。正義や善だからといって、逸脱した裁きや罵倒もおこなってよいと思われている。

 それは暴力や犯罪と同等であるということが見過ごされているからだろう。


暴力の自覚を

 国家がおこなう裁判も刑罰も、基本は「暴力」である。個人には禁止されている「暴力」である。国家が一元的にふるう権力をあたえられている仮契約にすぎない。

 それを忘れると、個人が犯罪者並みの暴力や攻撃を加える「犯罪」をおこなってしまうことになる。


 個人が正義や善と思われることを、犯罪並みに逸脱して過激な暴力行為をおこなうのは、正義が暴力であることを気づかず、また自分はその権利を国家に奪われている、国家に一元的にゆだねているということを知らないからである。


 国家がおこなう裁きや刑罰をまねておこなう個人の正義は、暴力や犯罪以外のなにものでもない。もともと国家がおこなう権力の行使自体が、「暴力」や「犯罪」同等の権力の行使にほかならないからである。

 裁きや刑罰、正義を個人がおこなっていいと思うようになると、あなたはどんどん「犯罪者」「暴力者」に近づいてゆくことに気をつけてもらいたい。それ自身が、暴力のなにものでもないからだ。


07 27
2014

社会批評

犯罪者報道の不快さとロリコン・オタクのポリティーク

 少女誘拐のような事件がおこると決まってマンガ・アニメに親しんだ犯人像が報道をにぎわせ、そういった趣味をもつ多くの人は不快な気分におちいることになる。「おまえは犯罪者だ」といわれているような気分にさせられる。

 犯罪者は、その犯罪者特有の性格ではなくて、その時代の多くの人が共有している趣味や嗜好をもっているのはとうぜんのことである。大多数の人が共有しているものをもっているのが時代を共にする人がもっている特徴なのであって、犯罪者だけの特殊な性向をさがすほうがむしろむづかしい。犯罪者報道はその特徴を多く共有する人たちに、「犯罪者予備軍」のレッテルや疑いを貼って、多くの人を不快な気分にさせる。

 犯罪報道は犯罪者特有の犯罪にむすびついた性向をあらわす意味でその性向や特徴をあらわそうとするのだろうが、おおくのばあいは時代を共有する人の特徴をあらわすにすぎず、「犯罪者あつかい」された人たちは不快な気分を味わうことに終わる。


こんにちの選別・排除する権力

 この報道は現代の統制や排除としてはたらく権力として機能しているのだろうか。「犯罪者あつかい」されるような趣向や嗜癖をへらし、もしくは威嚇する機能としての権力をにぎっているのだろうか。

 人々を「選別し、序列づけ、排除する」ことがこんにちの権力者の要件である。それはこんにち学校や医学が担っている。学歴で選別づけられた若者たちは企業のヒエラルキーによって序列・選別され、それぞれに遇した人生環境を割り当てられるようになっている。学校は人生を選別する巨大な権力をにぎっている。

 だから非行少年や不良学生は自分たちの地位を低く貶める学校に反抗したのであり、この権力にたいする反抗は、TVでのお笑いの勃興やマンガ・アニメでの趣味の世界への逃避・反逆をもたらしている。

 医学は伝染病やばい菌といった人の生死をおびやかす病気を排除する知識であって、まったくの「正義」と思われているのだが、たとえばその排除のはたらきは、子どものいじめの「ばい菌」あつかいに端的にあらわれているように、人の「合格/不合格」を選別する権力も担っている。医学は「正義」ゆえにその選別・排除の方法は、「聖化」をおびて権力の絶対化をもたらす。現代の嫌煙運動にその作用をみとめることができるのではないのか。

 犯罪報道というのは、この選別と排除の権力をTVや新聞のニュースが左右しているあらわれではないのか。犯罪者という「人間でないおこないをした者」、「こちら側ではないあちら側の者」という選別と排除をすることによって、「われわれ」の世界からの追放と線引きがおこなわれる。「おまえも犯罪者」という疑いや不審をまき散らすことによって、この権力者はみずからの力を増大させているのではないか。

 「犯罪者」として疑われること、見間違われることほど不快やいやな気持ちになることはない。それはかつ低成績学生が教師にレッテルづけられた不快感と似ているだろうし、学校空間でいじめをうけ排除された子どもの心に通じるものがあるかもしれない。選別と排除の権力は、われわれを一方的に裁き、序列づけ、排斥する権力を有するのである。


オタクはなにと闘ったのか

 少女への性犯罪がおこるとオタクほどまっ先に疑われる趣味の人はいないだろう。なぜこの人たちはこんなに疑われ、嫌悪され、親の仇のようにされるのだろう。オタクはなぜこんなに関係性をこじれさせたのだろう。嫌悪や犯罪の脊髄反射的な反応だけではなく、違った見方を見てみたい。

 そもそも、オタクはレジスタンス(抵抗・反抗)であったと思う。低序列、差別化された自分たちの境遇を、マンガ・アニメという二次元にこもることによって、その選別の権力を「無化」、あるいはスルーするいっしゅの戦略であったと思う。学校の権力に低序列化された者たちが反逆をくわだてたように、オタクたちもみずからの砦にたてこもって、「たたかった」のである。

 「イケメン」であったり、「モテ」であったり、「リア充」、「恋愛至上主義」、もしくは恋愛・結婚の「金銭・功利化」にたいする抵抗であり、篭城ではなかったのか。二次元に篭って、リアルな男女関係からの逃走をはかった。

 基本的に男女平等社会における逃亡や篭城ではないのか。「男のいうとおりになる、いいなりになる、自分の思いのままになる世界」をマンガやアニメにもとめた。独善的な利己主義な世界が叶わないなら、二次元の創作や妄想の世界でたのしんで、そこから出ることはない。

 こういったレジスタンスによって、女性からの嫌悪や風当たりは強くなっていったのではないのか。これは男の意のままになる「ポルノ」である。現実の女性の抵抗や葛藤をこうむることもない。ある意味、女性の地位向上や権力増強においての男の抵抗や不承認であり、また男の弱さ・メンツなどの脆弱さの保護でもあったのだろう。

 女性の地位・権力が上がるにしたがい、男のメンツや沽券といったものが叶わなくなり、逃走したのが二次元のオタク空間ではなかったのか。それによって思い通りになる、男の欲望のいいなりになる女性の低年齢化・少女化はすすむことになった。男の地位やリードが可能になる女性は、低年齢化によってしか補えなかったといえるだろうか。

 ロリコンというのは女性が強くなったゆえの、男性の思い通りになる女性の低年齢化によってしか贖えなかった男性の弱さ・脆弱さを意味するのではないのか。少女を愛するというよりか、思い通りに、男の沽券を満足させる女性は、低年齢によってでしか満たせなかった男の隘路をあらわすのではないのか。


男と女の力関係のバトル

 じつはロリコン問題というのは男と女の力関係のバトルが、少女に降りてきたのではないのか。

 ひとむかしまえの男尊女卑の時代なら、女性の結婚年齢が12、3才になって男ののぞむように結婚年齢が低年齢化していたこともありえたかもしれない。歴史的にも世界的にも結婚の低年齢化はふつうにある。

 これはある意味、労働者の低年齢化による青田買い、低時給化の流れと似ているといえるかもしれない。児童労働なら大人のような高給も払わなくてすむといったかたちで、それが禁止されるまえに児童労働は横行した。工場は低時給で働ける児童を欲し、それがだめになると世界の低賃金が可能な国に労働力を求めた。

 ロリコンも青田買いである。男のいいなりになる、思い通りになる女性の青田買いである。それを女性が徹底的に嫌悪し、警察関係も取り締まる。男の低賃金夢想は、どんどん低年齢に降りていったのである。

 嫌悪感や不快感でロリコンというのは禁忌されるのだが、それは女性自身の低価値化の防御であり、安売りされてしまうことの抗戦なのであろう。

 男は安く買おうとして、女は高く売ろうとする経済的攻防がここでくり広げられているのではないのか。

 じつはこの問題は男女の権力関係、力の拮抗を闘う場ではなかったのか。男のいいなりになる女性を男は求めて、女は男のいいなりになんかはならないといった闘いが、少女への性犯罪周辺でおこっていることではないのか。

 性犯罪問題というより、ポリティカル(政治力学的)な問題ではなかったのか。オタクは三次元の夢想をあきらめ切れなかったのだろうか。


欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち援交少女とロリコン男―ロリコン化する日本社会 (新書y)明治のセクシュアリティ―差別の心性史男権主義的セクシュアリティ―ポルノ・買売春擁護論批判 (シリーズ現代批判の哲学)セクシュアリティの戦後史 (変容する親密圏/公共圏 8)


06 10
2014

社会批評

いちばん大事なのは、だれかの序列に踊らされ、脅かされないこと

 人は序列というものにこだわってしまう生き物であるが、序列の価値観にどっぷりとはまってしまうのではなくて、それを相対化する視点をもつことが、この人間社会ではとてもたいせつなことだと思う。

 おとしめられることを恐れ、勝つことに喜びを感じるのは人の習性である。

 だけれどそれは「だれに」とって都合のよいものであるか、だれかにその序列を恐れさせられることによって競争をしかけられているだけではないかという疑念も必要だと思う。それは「だれかの利益」に奉仕するだけの競争ではないのか。

 序列は自分の価値や自分の存在感を知る貴重なモノサシかもしれない。しかしそれを競うことは、だれかの利益や手篭めにされるためのパン食い競争ではないのか。落とし穴として序列競争はあるのではないか。

 会社の序列は人の自分の価値や重要度を測るモノサシになっている。それを競争することは会社の利益に貢献することのみ利しているのではないか。自分の価値をその序列で測ること、そのレースに生涯を賭けることは、会社の思うツボではないのか。

 序列はだれかに踊らされている、だれかの利益に利用されていると疑問に思うだけではなく、人の道徳的なあり方、自分の心の平安、他者の見方において、害悪や弊害をもたらす穏やかざる見方ではないのか。

 劣位は貶められ、心おだやかにいることをできなくさせ、勝つこと・優越感は他者の侮蔑や見下しをはぐくみ、ときには排斥や虐待や暴力に導くかもしれず、この序列意識はだれかに嫉妬し、足をひっぱり、恨み、怨恨を抱かせる、とても平穏ならざる心のベースとなるものではないのか。

 序列を相対化することはそのモノサシのなかで塗炭の苦しみを味わうものにはとても必要な、それから距離をおいて傍観者のようなおだやかさをもつために必要な方法論である。

 だれかの手の内で競争させられている、だれかの利益のためににんじんをぶら下げられて競争しているという疑問をもつことは、そのモノサシから距離をおくためのひとつの方法だろう。

 こんにちでは非正規はみじめで、正社員は守られているという序列意識、差別意識をもつことが一般にひろまっているのだが、この序列意識をもつことはだれに貢献して、だれが得をしているのだろう。いっぱんの人たちにこういう序列意識、差別意識をもたせることは、産業界や企業にとって、人々をチキンレースへと駆り立てる都合のよい恐怖に適しているのではないか。

 わたしたちは隣三軒のせまい競争意識の中だけを見ているかもしれないが、もうすこし大きな視野で見ると、その競走はだれかの利益と権益のために奉仕と貢献させられるための競走場になっていると見ることも必要なのではないか。

 女性は陰で序列を競い合う陰険な世界をもっているというよくささやかされることがある。つき落としたり、けなしたり、陰で悪口をいい合ったりと。学歴であり、彼氏や夫の年収であったり、ファッションであったり、既婚や独身であったり、出産や子をもたないなど、さまざまな序列や競争が陰謀のように渦巻いている。この競争は天分の才であるのか、だれかに競争をしかけられ、だれかに踊らされたものか。

 わたしたちはバブル崩壊を境に、消費活動がマスコミや広告戦略に踊らされ、操作されているというひじょうにシビアな見方をするようになった。消費においてはマスコミに踊らされることの警戒心はかなり強くなったと思う。若者は高級ブランドや流行に乗らなくなり、若者の「消費離れ」がいわれるようになった。

 消費に踊らされているという感が強くなったのだが、わたしたちのまわりにある序列意識も、だれかに操作され、踊らされているという意識をもつことはあまりない。序列競争はあまりにも「自明」で、「自然発生的なもの」と思われているかのようだ。この序列意識にこそ、だれかの都合に奉仕する序列競争ではないかと疑う目が必要なのではないか。

 いまの社会は学歴で序列をつくられる社会になっている。学歴でめぐまれた大企業、裕福な収入や待遇といった序列が人々にふりわけられるとされている。この知識で序列をふりわける学歴階層にはたいそうな反発と怨恨があって、おかげでインテリや教養の価値は信頼をうしない、若者はマンガやアニメに自分の価値を賭け、ヤンキーは暴力的にこの階層に反逆し、テレビのお笑いはこの学歴序列をもの笑いの種にすることによって、その権力の根を崩しにかかった。

 基本的に人はだれかに自分の序列を勝手に決められること、自分の価値をだれかの都合で値踏みされることにたいそうの恨みと反抗心をもつようだ。知識階層の権力はそのような圧倒的な権力をふるい、人々からずいぶん怨まれ、カウンターカルチャーの攻撃をいくえも受けている。

 よって人々の学歴序列にたいする防衛心、対処能力はいくつもの対策をもつことだろう。学歴の序列、差別、恐れ、自分のアイデンティティに重ねることの防衛や対処能力は、いくつものオルタナティブをもっている。

 学歴で人々をチキンレースに駆り立てることができなくなると、非正規/正規といった序列・差別で人々をチキンレースに駆り立てる恐れを植えつけることもできる。労働の目的やしゃかりきに働くこと、企業に滅私奉公することの疑問や懸念が人々に浮上するに従い、企業界は人々に恐れや序列で競わせることの必要を痛感したのではないのか。平等で保障された人々にはもはや競争や向上する強い意志はのぞめない、ならば恐れで競争を煽り立てる。

 人々はさまざまな序列意識をもち、価値観をもち、そこで競争したり、一喜一憂したりする。それは悪い面ばかりではなく、人々に向上や成長をもたらす契機になる面も否定してはならない。人々は競争や序列、勝ち負けが大好きで、強い関心をひきつけ、スポーツではそれが競われる。それに溺れすぎ、一体化し、距離をもつことができなくなると悲劇と悲惨さがおこる。序列はひとつのモノサシ、お遊びくらいの余裕がほしいところである。

 序列の根底にあるものとして日本では年齢序列がいがいに強い。儒教の影響だといわれる。年上や目上のものを敬い、絶対だとする価値序列はとくに体育会系のクラブや軍隊的組織に根強い。けっこう深いところにしみこんでいるので、この年齢序列から外れることに恐れを抱く人は多いのかもしれない。だけど年上だから優れている、凌駕すると絶対にはいえないのであって、個人差のほうが大きいのだろう。この価値序列に疑問を抱くことはその序列体系の相対化に近づける。

 序列の相対化は人が生きるうえでひじょうにたいせつな知恵、メソッドだと思う。序列意識に完全にのみこまれると、余裕がなくなり、それに必死になり、序列に命を賭すようになり、弊害と害悪をもたらす。

 相対化というのはその至上とされる価値感に疑問の言葉をいくつもならべると、けっこうその根拠をゆるがせるものである。その序列を絶対なものとしていれば、思いもつかない発想である。序列に距離をおけることによって、わたしたちは無益で疲労度の高い、しなくてよい人生の回り道を防げるのかもしれない。

 いちばん防ぎたいことは、恐怖によって序列競争を駆り立てられていることである。恐怖に駆り立てられているときには、あなたはただの「奴隷」になり、「盲従の民」となる。この社会の支配方法は、頭が空っぽであるから支配されるとよく批判されるのだが、そうではなくて、序列の恐怖に服従させられることだろうとわたしは思うのだが。


捨てて強くなる―ひらき直りの人生論 (ワニ文庫)菜根譚 (岩波文庫)他人と比べない生き方格差と序列の心理学: 平等主義のパラドクス世間も他人も気にしない (文春新書)

05 26
2014

社会批評

82年生まれ・凶悪犯世代はマスコミの笛吹きピエロである

 82年生まれがつぎつぎと凶悪犯罪を犯していることが指摘されていた。酒鬼薔薇事件に西鉄バスジャック事件、秋葉原の加藤智大、PC遠隔操作事件の片山容疑者…。

 【 凶悪事件犯の年齢が同じ!? 】1982年度生まれに何があった? NAVERまとめ
 1982年生まれの凶悪事件があまりにも有名すぎると話題に

 酒鬼薔薇事件がおこったのはこの世代が14歳の1997年。この世代の時代背景にはどんなことがあって、なぜ凶悪犯に駆られやすいのか。

 わたしはこの世代はマスコミに踊らされたピエロだと思っている。凶悪犯罪にロマンや心の深淵のナルシズムを植えつけられた世代だと思っている。そういった風潮の笛吹きによって演じさせられたピエロだと見ている。

 91年にバブルが崩壊したが、グレードアップ消費社会にうんざりしていて、一部から「モノから心の時代へ」が唱えられていた。そのことによって心理学的なことに興味が向かう人が増え、物質的豊かさではないべつのゆたかさが求められていた。

 でも残念なことに心理学の興味が向かった先は「猟奇殺人」や「多重人格」といった異常心理だった。あたかも心の深い闇や猟奇的な心理が、深淵でカッコよくて、探究すべきものと思われてしまった。

 97年に酒鬼薔薇事件がおこり、センセーショナルに飛びつきやすいマスコミは猟奇殺人を待ち望むようになり、マスコミは「次は次は?」といった心理状態でリアルな猟奇殺人を待つようになった。リアルに少年たちが犯罪を犯すとマスコミはかれの性格や生育歴をワイドショーでながながと流し、ある種の「アンチ・ヒーロー」として祭り上げられた。少年たちは凶悪犯であるが、いっしゅの「憧れ」を抱いたのではないのか。

 当時の人たちはつぎつぎにおこる凶悪犯に真剣に対峙しているつもりだったのだろうが、これはいっしゅの「笛吹きピエロ劇」であって、不安やおそれが過剰になるにつれ、「もっともっと凶悪な犯罪少年が出てきてくれ」という心理状況をつくりだした。ピカレスクに憧れを抱いた少年たちは期待されるままに、人生を失うことになる凶悪犯罪を欲する人たちの前で「演じた」ということである。

 マスコミに踊らされたピエロだったのである。

 こういった反省がとうじのマスコミや少年たちの心理分析を買って出た心理学者からおこなわれたことはあっただろうか。せめてこの世代は自分たちが笛に踊らされた猿であった、凶悪犯罪で名を上げることを期待された犠牲者、慰めモノであったという理解を得てほしいものである。


 時代背景としては95年に阪神大震災があり、戦後のひとつの終りを感じさせたし、オウム真理教事件によって戦後の終焉感はいや増しにされた。

 また91年に崩壊したバブル経済は人知れず闇の中で不良債権を増やしつづけ、第二次世界大戦をひきおこした世界大恐慌に匹敵する経済恐慌を招くのではないかという恐れの中にあった。その不良債権はたまりにたまって、97年に山一證券を皮切りに金融証券業界の崩壊を招いた。戦後の時代が終わるのではないかという恐れの中にあった。

 これまで安定してきた一億総中流や高度成長といった昭和の経済繁栄の時代が終ろうという不安な時代に少年たちはつぎつぎと凶悪犯罪を演じてみせて、心の時代を謳った人たちの慰めモノとなり、足下で起こっている昭和の地盤の崩壊という現実から目をそらしてきたのである。

 三大金融証券会社の倒壊により、戦後の安定の象徴だった終身雇用制は終ったとささやかれるようになり、この年から自殺者は三万人をこえ、ホームレスの青テントも河川や公園にどっと増えた。非正規雇用もどんどん増え、格差社会も話題になり、これまでと違った不安的な時代がやってくるのではないかという不安がふくらんだ。

 現代と戦前は似ているという説もあって、戦前に昭和恐慌や農村恐慌がおこり、政財界の腐敗や堕落に怒りを燃やした軍隊の青年将校たちが政府要人を殺傷するという凶悪な事件がおこったことがある。この青年将校たちの世代は、げんだいの82年生まれの凶悪犯罪世代に重ねることができるかもしれない。

 世が世であったら、少年たちは政府へのテロリズムをおこしていたかもしれないのである。しかし現代の若者たちはただ同類たちを殺傷するという盲目的で方向性のない暴発をくりかえしただけであった。


追記】 わたしの意図はなんらこの世代を否定するものでも批判するものではなくて、犯罪によって名をあげることをそそのかされたり、犯罪にナルシズムやヒロイズムを感じような捉え方に気づいてほしいという意図から書かれたのものであります。むしろ犠牲者である、被害者であることに気づいてほしいというものです。

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05 20
2014

社会批評

「時間勝手」に人生を生きる

 自分勝手という言葉があるけど、わたしたちは学校にいきはじめてからずっと自分勝手に生きられたことはない。自分で自分の時間を勝手に決めて、自分の人生のスケジュールを決めるという意味において。

 そういう時間を支配されて、人生のスケジュールを決められる時間とちがって、自分で勝手に決められる時間のことを、自分勝手にちなんで「時間勝手」に都合的によぶことにする。

 わたしたちが時間勝手に生きられることはまずない。だれかが決めた時間、人生の過ごし方、使い方にずっと縛られて生きる。ずっとだれかが人生のスケジュールを決めている。あるいは拘束されている。

 時間勝手というのは、一日の時間を自由に決められることである。朝起きてなにをしようと自由。どのように使おうと自由。いつまで寝ようと、どこにいこうと人の勝手。

 反対にわれわれの毎日はすべてだれかが時間を決めて、だれかの決めたスケジュールにしたがって生きる。会社に行く日も学校にいくのもだれかが決めている。会社や学校を休む日、祝日や連休などもだれかに決められている。人生の学校にいく期間、会社に就職する時期もだれかに勝手に決められている。

 わたしたちの時間はこの社会に生まれたときにすべてだれかに支配され、とり決められている。

 わたしたちは自分の時間の決め方すら自分の手にはないのである。すべてだれかが支配している。いつまで寝たいとか、いつ休みたいとか、いつまでゆっくりしたいとか、すべて自分で決められることはない。ただだれかの決めたルールと時間割にしたがって生きる。

 わたしたちはちっとも自分の人生の主人でもないし、支配者でもないのである。自分はすべてほかのものに委ねられて、支配されている。

 わたしたちは自分の人生の主人ですらないのである。

 自分の人生の時間をとりもどすことがもっとたいせつなことではないのか。自分の人生を「時間勝手」に生きられるようになることが人生の大きな目的ではないのか。

 だけどこの社会の人々の大きな目的は、お金持ちになったり、社会的地位を得ることであったり、そのために人生の大半を労働のスケジュールに大半は拘束されて生きることになる。おおよそ時間勝手に生きられることはない。

 わたしたちの人生の目標はこれでいいのか。モノやカネや地位をめざすために、人生の大半の時間を自分の時間の主人とならずに時間を手のひらからこぼしつづける。人生もあっという間にすぎていってしまう。

 けっきょく、われわれはどうして自分の時間をだれかに奪われて、支配されているのだろう。どうして自分の時間の主人ではないのか。

 われわれはどうして社会とか会社とかいう巨大な機構に自分の人生の時間を奪われているのか。われわれはどうして時間という二度ととりかえすことのできない人生の重要なものを、自分ではないだれかほかのものに委ねて、売り払っているのか。

 われわれはどうして自分の人生の、時間の主人であり、支配者ではないのか。だれかが自分の人生の時間をとりきめ、自由に支配されていることに、もっと警戒心をもつべきなのかもしれない。

 時間の自由ほど人生にとって二度ととり戻せない価値のあるものではないのか。

04 05
2014

社会批評

底辺と「まつろわぬ人たち」

 人それぞれに底辺をイメージする定義や想像があると思われるが、あわれやみじめさをイメージさせるそれは、ある人は底辺にはぜったいなりたくないと反発し、ある人は自分は底辺だから仕方がないとあきらめたり、底辺は人が近づきたくない、もしくはあきらめの対象であったりする。

 そこから逃走しようとしたり、あきらめて受け入れるにしろ、それが恐怖の対象であるばあい、底辺に囚われた奴隷・隷属状態だということができる。恐怖は人の行動・行き先の多くを規定してしまうものだ。

 底辺に囚われてしまわないためには、なぜそれを底辺と思うのかと問えばいいのだろうか。「底辺だから底辺」という同語反復では、それは不分明なままの闇である。光の下で明晰な像で見てみないと「幽霊」は消滅しない。


■ オタクはなぜ不気味にイメージされるのか

 たとえば底辺をオタクという像に求めてみようか。かれらが底辺だと表象されるのは、現実ではない二次元にのめりこんだり、現実の女性より創作の女性に興味の対象を求めたり、社交的で消費的な生活に背を向けるといったいくつかの要因をあげることができる。

 これは現実の社会にあまり貢献しない、寄与しないといった「反社会的」な要素にオタクは底辺と表象されるといっていいだろうか。つまりは「体制的」ではないのである。

 オタクはじつはいまの「体制」に暗黙に反逆する内容が多いから、社会から底辺としてゲットーされるのではないか。こんにちの「体制」の価値基準に貢献しない。そしてじつはそれへのアンチ・反逆をふくんでいるからこそ、オタクは底辺と揶揄されたり、嫌われたのではないのか。ラディカルな反逆者ではなかったのか。

 女性のために男が働き、恋愛至上主義的な思いによって女性に貢献することが、現今の「体制」をかたちづくっているのではないのか。そういう女性の貢献回路に反逆したのがオタクであり、それゆえに女性の嫌悪をさそったのではないのか。

 底辺とは最下位のあわれな、めぐまれない、かわいそうな人たちなのであるが、じつは反逆であったり、逆賊であったり、つまり「まつろわぬ人たち」=「服従しない人たち」だから、かれらは底辺として表象されるのではないか。


■ 非正規はなぜみじめで差別的だと喧伝されるのか

 さっこんの底辺と表象される人たちは、「非正規」の人たちである。かれらは会社から社会保障を与えられず、国の保障からも外され、生涯収入は正社員と大きな差額を開けられ、不安定で低年収であり、非モテであり、結婚できず、将来は不安で老後の保障とも縁遠い、と各種メディアで「悲惨」と「悲愴」の代名詞のように喧伝されている。まさしく現代の底辺である。

 かれらはなぜこんなにマスコミにあわれでみじめで救いがないと喧伝・アピールされなければならないのか。

 かれらの差別的待遇にたいしての不服申し立て、改善の要求と見なすこともできるのだが、かれらを底辺や下層階級だと表象させることによって、ニートのように働かなかったり、会社や社会に貢献しない労働からの忌避におちいる動きを禁止しているのではないか。

 こんにちの社会体制は労働によって会社や社会に貢献する労働至上主義を賛美・強制する規範をもっている。そこから脱落することは、底辺やみじめ、あわれといったイメージでそめあげ、労働からの脱落・逃走をふせぐ目的があるのではないか。

 あわれな底辺という表象は、現今の体制から逸脱しないためのプロパガンダではないのか。

 かれらはほんとうにみじめであわれな底辺の存在だけなのか。会社や国家への労働への貢献から逸脱する要素があるからこそ、かれらは底辺たるみじめさにイメージされなければならないのではないか。

 労働が人生の大半や毎日の日々をおおう現今の労働主義からの逃走やオルタナティブを思う人も多いと思うのだが、そこから逃れようとすれば、非正規といったあわれで差別的な境遇が待ちうけている。人はだから長時間労働や企業隷属、社畜といった人生を余儀なくされるのではないのか。

 底辺は「禁断地帯」であって、そこに踏み入れることは危険で恐ろしい未来が待ちかまえていると人々にいわれつづけるのだが、そのことによって現在の場所にとどまることは、現体制や現国家に貢献する回路が用意されているだけではないのか。

 現体制にまつろわぬ人たちが底辺と喧伝されることによって、現体制からの逸脱をふせぐ鉄条網としてはりめぐらされるのが、底辺というものの正体ではないのか。


■ 肉体労働はなぜ底辺とイメージされるのか

 労働環境の底辺とイメージされるおおかたのものは、肉体を使う労働や機械的でルーティン・ワーク、上のものから手足や道具のように使われる職業といったイメージに塗り固められているのではないか。

 この反対の上位といったものはよういにイメージできるのだが、頭脳労働でクリエイティブな創造をつかさどる仕事であり、頭脳を酷使して下の労働者を手足のようにつかうといったものではないだろうか。

 つまりこれは頭脳をつかい、手足の仕事をほかのものにさせるといったある人たちの理想――学歴社会の上位に位置する知識人のヒエラルキー的様相を具体化したものではないのか。

 頭脳や知識を使う仕事が上位におかれ、手足や頭脳を必要としない仕事は底辺とイメージさせられる。これは学歴社会の目標と階層の具体的ヒエラルキーのなにものでもない。「頭を使うものがエライ、手足のように肉体で働くものは底辺」という学歴階層の具体像のなにものでもない。

 知識人と学歴社会のヒエラルキーが、底辺の労働にくっきりと刻印されているのである。

 この学歴社会のヒエラルキー・規範をきっちり守るものに上層階級や富裕者といった褒美をもらい、そこから落ちこぼれ、逸脱したものには「底辺労働者」といった罰則と侮蔑的なラベルが貼られる。まさに学歴社会「体制」の賞罰図式である。

 そして学歴社会は人々の頭のよさ・悪さを中立的・公正に測るといったイメージで捉えられることもおおいのだが、ここからもれる人はじつは学歴社会の「支配や服従」といった政治学に反抗や反逆をくわだてた人たちがおおくふくまれるのではないのか。

 頭のよさ・悪さではなくて、だれか知識をつかさどる権力に対する不満・反逆によって、逸脱する人たちが学歴社会の「底辺」にエスケープ・スピンアウトさせられてゆくのではないのか。

 かれらは教師や学校の「優等生」=「服従生」になりたくないために、学歴社会に「まつろわぬ人たち」=「服従しない人たち」になって、「底辺」に墜ちてゆく、もしくは逸脱してゆくのでないのか。

 つまりは知識人、学校の選別と階層をつくる権力作用からの逸脱と反抗をこころみた人たちが、学歴社会の「底辺」に墜ちてゆくのでないのか。

 「底辺」というのはこの社会の権力・体制の褒賞罰則のルール・規範の図式化にすぎないのではないのか。

 底辺はこの社会の権力・支配層による「服従と非服従」の「地獄行き」の図式として表象されるのではないか。


■ 底辺に「楽園」を見る

 底辺をあわれでみじめなものと表象することは、この社会の権力・支配層の体制・規範に内面を支配させられることにほかならない。わたしたちはそういった表象をすりこまれることによって、現体制への服従と支配の内面統制が完成させられる。

 わたしたちが無意識に思う底辺イメージに現体制の支配図式がしっかりと浸透し、そのことによってわれわれの現体制・現権力への服従が完成するというわけである。

 北朝鮮や中国の一党独裁政権のおそろしさはよく刷り込まれているのだが、わたしたちはわたしたち自身の支配勢力の不気味さ・服従図式を遠くから離れて見れることはすくない。

 「底辺イメージ」のようにそれはみじめであわれな最低の人とイメージされるだけであって、そこに権力と支配のヒエラルキーと罰則の図式がくみこまれているとはそう思わないからだ。

 このことがわかったら、わたしたちはどうすべきなのか。なにも反逆や逸脱をこころみろというわけではない。現権力の客観視と距離化をおこなうことによって、現体制の価値ヒエラルキーの相対化と自由な視点を得ることの解放を――内面のくびきからの解放がもたらされるだけでいいと思う。

 底辺をおそれることは現体制の権力構造を無批判に脊髄反射させられことである。その脊髄反射から自由になることがある体制からの自由と客観化を手に入れることである。

 底辺に豊かさと自由、または豊穣さを感じられるようになれば、わたしたちはこの支配・服従図式から自由になれるのではないか。底辺に不必要なおそれや蔑視をいだかないようになれば、わたしたちは違った価値感・人生の価値観の多様さ・豊穣さにふれることができるのではないか。

 底辺をおそれること、またはがむしゃらにそこから逃れることは、わたしたちの人生の自由と多様さを抑圧・禁止することであって、それは現体制への盲目的な服従へとみちびかれ、わたしたちの人生の選択の幅、各人の自由で好きな生き方の剥奪・抑圧になることだろう。

 「頭が空っぽ」だから無批判に権力に盲従するのではない。社会に喧伝された「底辺」や「最下層」を無批判におそれるから盲従してしまうといったほうがいいだろう。

 底辺を体制側のようにみじめであわれだと脊髄反射することによって、わたしは人生の豊穣さ・ゆたかさの可能性を手のひらからひとつまたひとつ落としてしまうのである。


ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)監獄の誕生―監視と処罰服従の心理 (河出文庫)日本のまつろわぬ民


03 29
2014

社会批評

ヤンキーもお笑いも知識人支配へのカウンターカルチャーだった

 ヤンキーとお笑いというふたつの興隆していることがらの根をたどれば、学校文化への反抗という共通のルーツをとどれるのではないのか。

 ヤンキーは学校の教師にたいする暴力的な反抗をくりひろげてきたし、お笑いも優等生をパロって笑うことによってガリ勉といわれる教師に服従する他生徒たちを揶揄してきた。共通の根は学校文化への対抗なのである。

 学校文化のなにに抵抗してきたかというと、学歴によって人々が序列・選別づけられ、社会の階層に位置づけられる権力を有する知識人支配にたいする憎悪や怨嗟の感情がもとになっているのではないか。

 たとえ知識という特権的な道具をもっているとしても、だれか他人に勝手に自分たちの価値を決められ、社会の一定の場所に配置される権力をひとり有することへの反感・不信感はぬぐいがたい。

 知識人支配にたいするカウンターカルチャー(対抗文化)がこの数十年の文化興隆の中でのおおきな趨勢だったのではないか。


ヤンキーという暴力的威嚇

 ヤンキーの発生の根をたどれば、学歴・成績によって侮辱されたり、見下される怒りや反抗がその態度をかたちづくっている。

 無力で弱いままにいては教師ばかりか、他生徒までに侮辱や見下される立場におかれたままでは、成績劣等生のかれには自分を守る術がない。

 その防衛策としてかれらは暴力的な威嚇を先におこなうことによって、成績劣等性への侮辱や見下しを先に封じてしまうのである。「あんなコワイ連中を侮辱したり、見下したりできない」というわけである。「ナメられたら終りだ」というかれらの基本姿勢はこの基本条件を語っていると思われる。

 ヤンキーや教師へ暴力をふるう不良学生といった者たちは成績劣等というレッテル貼りにたいして、暴力や威嚇を先におこなうことによって、教師からの見下し、無視といった制裁と闘うことができるし、他生徒たちからのそれも封じることができる。

 かれらを暴力的な威嚇に駆り立てたのは学校教師の成績劣等性という序列の最底辺に勝手に位置づけられる反感や怒りによってつくりあげられたのであり、かれらは学校文化、ひいては知識人支配に対するカウンターカルチャーをおこなっていたのである。

 かれらは学校文化という知識人権力への反抗をおこない、とうぜんに低学歴で社会に巣立つことになり、中央上昇志向という明治・昭和からつづいてきた学歴上昇コースから外れ、大企業やマスコミといった中央での華々しい成功から離れたところで地元でのいがいに保守的な家庭生活にはやくに収まることになる。

 学校文化にたいする反抗という敵がいなくなってしまうと、社会の階層のなかで拡散したかれらは目立った存在ではなくなり、社会での華々しい上層的成功といった道すじとべつのところで、社会インフラの底を助けるかたちで保守的な生活をおこなってゆくと思われる。

 かつて中卒の田中角栄がおこなったような列島改造計画は土建業のヤンキーたちをつなげることによって、「ヤンキー土建国家」としての再興をおこなったのではないのか。学歴上層部の儲けた金が政府にすいあげられ、学歴底辺たるヤンキー土建層にカネが還元されたのが、列島改造計画だったのではないか。

 かれらは地元での仲間や友だちとのつながりをなによりも大切にするということだが、学歴上昇による大企業文化・大都市のビジネスライクな関係と違う地元での目立たない保守的な価値観をかたちづくっていったと思われる。


お笑いという教養主義を葬ったもの

 学校文化、知識人支配への対抗という意味では、お笑いの興隆というムーブメントもおおきな役割をはたしたことも忘れてはならないと思う。

 70年代の絶大的な人気を誇ったドリフターズには牛乳瓶の底のようなメガネをかけた優等生がかならず出てきて、教師に従順たる学業優等生はバカにされ、見下されてきた。お笑いも学校文化へのカウンターカルチャーという側面も、お笑いの無害性からはあまり意識されない対抗文化が潜んでいたのである。

 タモリは80年代に「ネアカ/ネクラ」という二分法によって、「ネクラ」という暗い性格を笑うことの攻撃をおこなうことによって、それまでのシリアスでメランコリーな日本人的な性格を葬送に付した。日本人はよく「そんなことをしたら人に笑われる」といった規範によって自分の行動を律しているといわれる。お笑いは日本人のあり方を変えてきたのである。

 この後のお笑いムーブメントによって、シリアスで政治的だった日本人は、ポップで私生活利己主義の容認といった平和で小市民的な生活の肯定を得ることになる。「終りなき日常」をただお笑いの無限ループの場でたのしむ日常空間の世界に変貌させたのがお笑いのムーブメントだったのではないか。

 お笑いの席に教養であるとか、学歴であるといったそれまでの価値基準、社会的評価は無意味である。笑いは学歴社会の序列といった価値序列とべつの権力序列を日常の空間に打ちたてようとしたひとつの対抗文化と見ることができるのではないのか。

 日常の場を沈黙で気づまりな空間から、笑いによって親密で楽しい気分的情緒を集団で維持しようとする流れが、お笑いのムーブメントに求められてきたのではないか。「空気読め」や「友だち至上主義」、「職場での仲間主義」といったこんにちの趨勢は、お笑いによって補強・増強されつづけているのである。

 「日常をただお笑いによって楽しめ」という戒律はひとむかし前のシリアスで政治的な日本人を葬り去り、教養や学歴、知識といった価値観のスルーを可能にしてきた。お笑いも学歴社会にたいするカウンターカルチャーだったと見なすことができるのではないか。


知識人支配という権力転覆

 アルヴィン・トフラーもラビ・バトラも社会を支配する層の三分類として、「知」と「武」と「富」の権力を有するものたちの支配をあげている。社会にはそれぞれ知識人が支配する時代・社会があって、軍人が支配する時代・社会があることもあり、金持ちが権力を有する時代・社会があるということである。

 現代では富裕者が権力をもつのだが、人々の序列・選別を担当するのが知識人、学校権力である。この知識人支配に対するカウンターカルチャーがサブカルチャーのかたちでおおきく育ってきたのが戦後の社会といえるだろう。

 知識を有するものが勝手に自分の価値や序列を決めるのである。知識がある者にはそのような選別・配置をおこなう権利があると思うのは、現代の常識にどっぷりそまった人だけである。

 他人に勝手に自分を底辺づけられ、社会的価値の最下位に放り込まれて、うれしい人などいるだろうか。

 そのまま真に受けて自分はダメだという人生観を実直に生きようとする人ばかりではない。自分たちの価値を確認し、みとめさせたいと思うのが人間である。知識人権力にたいする異議申し立てはテレビのお笑い、地元でのヤンキーといったかたちでみゃくみゃくとおこなわれてきたのである。

 基本的に学歴序列は企業の集団内において、無用な闘争や競争の制止といった政治力学のために用いられてきた側面が大きいのではないかと思っている。

 もし地位・出世のモノサシが明確なものではなかったら、会社内でのポストをめぐる闘争や亀裂は壮絶なものとなるだろう。学歴という数字化されたものでは人々のしぶしぶの納得はひきだすことができる。ポストの配置という人事騒乱の回避に知識人による選別が利用されてきたのが、この学歴社会ではないのか。

 そのような選別・序列づける権力をもつ知識人にたいする反感・憎悪・怨恨がマグマのようにたまってきたのが、戦後の文化ムーブメントをかたちづくってきた。

 求められている問いというのは、知識人支配、権力の装置をどのようにしたら転覆できるかということではないだろうか。

 だれかが自分の価値を決めたり、社会的序列を決めてしまうことの怨嗟・憎悪の感は、社会の表面へとあふれ出しつづけているのである。

 学歴社会という形容では本質は捉えられない。知識人が権力をもち、人々を序列づける支配力をもつことに、人々は怒りと憎悪をたぎらせているのである。

 選別と序列づけるという手段をもつものの権力がいかに社会や人々にとっての意味が大きいか、ふたつのムーブメントの底流を見てみて気づかれることだ。叩くのはこの権力を有する場所に向かってだ。



▼関連本
非行のリアリティ―「普通」の男子の生きづらさヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体 (幻冬舎新書)ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)脱学校の社会 (現代社会科学叢書)国家貴族 〔エリート教育と支配階級の再生産〕 1 (ブルデュー・ライブラリー)


03 05
2014

社会批評

マラソン的序列というのは「道具」としての優劣のことではないのか ~「人生はマラソンじゃない」のCM

 リクルートポイントのCMが感動的だとか、不快だとかイラッときたとか賛否両論が巻き起こっている。

 最近TVでよく流れているリクルートの「すべての人生が、すばらしい。」というCMを見てもやっとした。

 わたしは「いいCMじゃんか」と思ったのだけどね。





 このCMで「人生はマラソンじゃない」といっている。マラソンというのは一律的な基準で勝敗や序列を決める競争であって、人生には多様な価値基準や人それぞれの価値基準があってもいいじゃないかと、一元的な価値序列からの脱走を歌っている。

 マラソンというのは時間的・空間的な限定のうえでの、一時的な勝敗と序列を決めるゲームである。あくまでも一定の時間、場所、同条件という「限定条件」が確保できたときにだけ決することのできる「超極小」的な優劣である。

 でも人生はいろいろな価値観があり、人々が同時に競う機会ばかりがあるのではなく、むしろ時間的・空間的な限定のうえでの勝敗や優劣を決めることのできる機会のほうがまれである。比較できる基準のないほうがむしろふつうだ。

 でもこの国の人々は世間的な勝敗や優劣の基準が厳然としてあると思いこんでいるようだね。そういうモノサシはたとえば金持ちや貧乏であったり、学歴であったり、大企業か零細企業かといった格で、人の価値や序列は測られると思っている。この国の人たちはそういう価値規準やモノサシが絶対で、そのモノサシで一喜一憂したり、人を見上げたり、見下したり、人間の価値を測っているようだ。

 このCMではそういう価値基準をマラソンの勝敗や序列にたとえて、人生の価値はそのモノサシで決まるという思い込みから脱出しようととなえている。


世間の序列とはわたしの「道具」としての優劣

 この価値基準というのはだれが決めたのか。だれの必要や都合を満たしているのか。なぜ他人や世間の決めた価値基準で自分の価値を測り、そのモノサシでわたしたちは一喜一憂したり、自分の価値を決めつけなければならないのか。どうして外側の他人ばかりが、わたしの価値や序列を決め、自分の基準やモノサシで決めたらいけないのか。

 すべて外側の他人や世間が決めていることであって、わたしは人の「用途」や「道具」でしかない存在なのか。他人の「有用」や「使用途」といった基準だけでわたしの価値や序列を決められているのでないか。わたしは他人が使用するためだけの「道具」だけなのか。世間のモノサシに迎合することは、自分が「道具」でしかないと宣言しているだけではないのか。

 もしわたしが自分の基準、幸福で判断するのなら、ぎゃくにこの世界を序列づけ、色づける目をもつべきではないのか。どうしてわたしは自分の基準でものごとを判断せず、他人にとっての「道具」の価値だけで自分の価値を測ろうとするのか。なぜ自分の幸福、価値を他人にすべて売り渡さなければならないのか。

 マラソンというのは他人にとっての「道具」としての勝敗や優劣を競うゲームのことではないのか。学歴や金持ち、貧乏、大企業や零細企業といった格はすべて他人からの「道具」としての優劣や序列のことでないのか。

 マラソン的価値基準で競争する人生ははたして「自分のための」人生なのか。自分の人生をとりもどすということは、他人からの道具としての優劣、序列のまなざしから解放されて、そのような目で自分を判断しないことである。


すべての価値を一元化する貨幣

 マラソンの基準で勝敗や序列が決せられるモノサシというのは、すべてのモノや価値が一元化される貨幣にひじょうに似ている。価値観や基準は無数に多様にあったとしても、お金はそれらを同一の価値規準に直して、同一の価値で測るモノサシになる。

 いわばマラソンで序列を測られる人生は金持ちか貧乏かの優劣や勝敗とひじょうに似ている。みんなそれぞれの方向、好きなこと、価値観でばらばらな方向に走ったとしても、さいごには金のあるなしで価値を測られることになる。あなたは金をおおくもつことができたから価値がある、貧乏だから社会的に価値がないと裁断されることになる。

 マラソンから脱走するというのは、すべての価値観を一元化してしまう貨幣からの脱走でもある。

 みんなそれぞれ思い通りの方向に走ったとしても、すべて金の一元的基準で判断されることになるのである。そういう金で価値を判断される基準から逃走して、はたしてわたしたちは自分の価値を測らないでいられるだろうか。

 マラソンからの逃走とは金の価値基準からの逃走も意味する。わたしたちはこの一元化する価値基準から逃れきることができるのだろうか。価値観の多様化、自分独自の価値観を打ち立ててみて、金で測るモノサシから絶対的に逃れ出る、超越できたという悟りを得ることができるだろうか。

 お金というのも社会にとっての「有用性」が測られることである。そういう社会に求められることだけが人生の目標であり、全価値であるといい切ることができるだろうか。自分の人生はそういう社会にとっての「有用」や「道具」としての価値だけで測っていいものだろうか。わたしは社会のためだけに生きて、自分のために生きてはいないのか。


レールの人生からの逃走

 マラソンからの逃走はいちばん表面的にはみんなが学校卒業後に就職するというレール的な人生からの逃走も示唆するのだろうね。とくにリクルートにとって画一的な、みんな同じような顔をして同じような就活の受け答えをするような均一性からの脱出をいちばん強く願うのだろうね。列に並んだ人生からの個性への脱出をこのCMは説くのだろうね。

 だけどレールから外れた人生、人と違った個性というのは、多くの人の声にはのぞまれておきながら、じっさいは列からはみ出すことの批判や蔑視、恐喝といった恐れがうずまいていて、個性個性といわれるとぎゃくにもっと判で押したような画一性が生み出されるのは類型化されているかのようだね。

 どちらかというと会社は軍隊的な絶対服従や規律厳守みたいな「体育会系」の学生を求めている。個性やつきぬけた創造性といったものを表面では求めておきながら、絶対服従の軍隊規律を守る学生を裏では欲している。この二枚舌はなんなのだろうね。

 個性や創造性は同じ顔、同じ受け答えではつまらないからという理由で、ウラでは序列に絶対服従の規律を求める。まるで表面は民主政治を標榜しておきながら、軍隊的な序列階層社会をかたちづくる社会を映し出しているかのよう。

 リクルートはかつて新しい自由な生き方としてフリーターという造語を生み出して、さっこんでは生涯賃金の低さ、不安定さ、身分格差、生涯独身といった「あわれ」の代名詞となるような非正規の人たちを街中に放り出した真犯人である。

 このCMもそのフリーター人生の希望と末路を写しとっているという批判も可能である。

 多様でそれぞれの価値観にしたがって生きるという人生は、底辺や不安定層、格下といった人生に一定の人々を放り込むための「自由という名の」地下牢屋なのかもしれないね。そういうふらふらと自由と多様性といった「迷妄」に迷い込まない人材を選別するために、自由という誘蛾灯は灯されるのかもね。


このCMの「適切」な受けとり方

 このCMはレールから外れる人生の賛歌とすすめと受けとるべきではないのだろうね。行動的にはレールの人生を歩むべきなんだろうね。軍隊的な絶対服従の階層社会を求めるというのが既成権力をもった者たちからはとうぜん望むのがしごく妥当と考えるべきなのだろうね。既成の権力をもった人たちが自分たちを放り出して、権力の座からみずからひきずりおろしてくれという権力層っていると思うか。

 マラソン的価値基準の相対化、客観化のすすめと捉えておきべきなのだろう。この価値基準を内面化してしまうと、自分すらも「道具」としての優劣や序列でしか判断しないようになり、その基準から外れたり、落ちこぼれたりすると、自分の価値、幸福などいっさいないと悲観、内攻してしまうからだ。

 自分の価値をだれか他人や世間にとっての「道具的な」価値基準でしか判断しない自分の心をつくってしまう。他人に植民地支配されたもどうぜんの他人の用途としての自分しか存在しなくなってしまう。

 マラソンのコースからはずれるばらばらな人生は、他人にとっての自分の有用性、用途といった道具的な価値規準からの逃亡、相対化を意味するとこのCMを捉えるべきなのだろう。そういう行動をとったさいにはかつてリクルート社に煽られた人たちの末路が待っていると押さえてべきなのだろう。

 わたしなんかこらえ性がないものだから、ほいほいとコース外の幻想の自由にスピンアウトしてしまうのだけどね。



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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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