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11 14
2018

労働論・フリーター・ニート論

読めない――『「労動」の哲学』 濱本真男



 「人を労働させる権力について」という副題が魅力だから手にとったが、難解すぎてなにいっているかわからないし、たかが労働論でこんなにわからない論理についてゆく気もなくす本だった。

 ネグリやハート、アレント、アガンベン、ブルーノ・グーリといった思想家を援用した思想書であって、一般的な労働論を期待する人には不向き。そういえば、アレントの労働論を読んだことがあるが、難解でわからなかったなあ。

 労働論はすこしは哲学的なレベルで読みたいところもあるが、むずかしすぎて読めないのも納得がいかない。

 第四章の過労死でようやく読みやすい文章に出会い、あとがきでこんなにわかりやすい文章があるのかと思うほどだった。

 この本の引用で一点気になった点があって、フーコーは瞑想を、想像すること、推論することだと捉えているのは、明らかな間違いだ。思考を捨てたり、傍観するのが瞑想であって、けっして思考に満たすことではない。キリスト教文化ではそう思い込んでしまうかもしれないが。

 著者はニート・フリーター後に大学院にもどった経歴のようで、一般の読者に届かない著書を書いたのは残念だ。83年生まれの著者である。


人間の条件 (ちくま学芸文庫)家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望フーコー・コレクション〈5〉性・真理 (ちくま学芸文庫)“帝国”―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性労働と自由についての回顧録


10 13
2018

労働論・フリーター・ニート論

Kindle本第二弾、『労働と自由についての回顧録』、出版されました!

 Kindle本第二弾、『労働と自由についての回顧録』、出版されました!

 ¥99円のお得価格になっていますので、お気軽に読んでみてください。

 紙本420ページ分のボリューム!





 この本は、当ブログからの労働論のエッセイと書評をまとめたものですので、むかし読んでいただいていた方には物足りないものかもしれません。権利関係から、収録された過去記事は非表示になっています。

 書かれた期間は、おもに2005年から2010年にかけて書かれたものです。


 ではなぜいま出版するのかというと、たんに初作を出版して電子書籍化の方法を覚えたからという理由が、ひとつにあります。4年前に電子書籍化に頓挫していたから、なおさらです。

 ほかの理由としては、わたしたちの労働環境は改善されたか、変わったかというと、そういうことはあまりないと思います。非正規や労働状況は、ほんとうに変わったのでしょうか。

 わたしたちが抱く労働への不満、労働に覆われる人生、お金のために拘束される人生というのは、なにひとつ変わっていないと思います。

 労働というものは、思った以上に変わってないと思わされることは、わたしも四十年前の労働の本を読んで、なにひとつ現在と変わってないやと思ったことがあります。わたしの書いたものも、下手したら何十年もあとになっても、同じ思いを抱く人がいるかもしれません。

 なにより、職業社会に乗り出した若者たちが、過酷な労働状況に放りこまれて、この社会はいったいなんなんだ?と思われたときに、わたしの本のような先人の手がかりがなにかの役に立てたら、という願いが込められています。

 労働に不満や疑問をもちつづけたわたしは、労働の価値を軽く見ていたり、重きをおかない考え方をもっています。

 この会社をやめたら終わりだとか、この会社の評価が自分のすべてだと思っていたり、ブラック労働から逃れるすべを知らない人のような生真面目な人たちには、わたしのような「反逆的な考え方」は、それらの負担を減じられるのではないかと思います。

 でもやっぱり、わたしが苦闘してきた労働への憤り、不満、疑問にたいする思考や考察が、なにかの役に立ってほしい、手がかりになってくれればいいなという思いがいちばんですね。

 そのような思いや願いが込められて、これらの文章は、電子書籍としてまとめられました。

 99円ですので、「缶コーヒーでもおごってやる」の気持ちで、購入していただければ幸いです。



 ■出版記念同時セールをおこないます!

 初作の『思考を捨てる安らかさ』が、

 通常販売価格¥280円が、
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 なんと、¥99円のセール価格で販売します。




 セール期間は、今日から約二週間を予定しています。10月27日までこのお得価格で購入いただけます。

 神秘主義的な心理セラピーの方法をつかんで、心の安寧とともに生きていってください。


10 11
2018

労働論・フリーター・ニート論

【お知らせ】 労働論のkindle本を出します。労働論の過去記事を削除します。

 【お知らせ】

 Twitterのほうではたびたびお知らせしていましたが、当ブログでの労働論をまとめた電子書籍を出します。

 それにともなって、当ブログの労働論の過去記事を削除します。主要なものを抜きとりますので、労働論はガタガタになりますね。ブログ記事をkindle化してもブログ記事を公表している方もいるようですが、いちおう権利関係は尊重しようと思います。苦渋の選択ではありますが。

 おもに2005年から2010年に書かれたものであり、日の目を見ることもありませんし、検索もごくわずかなので、あまり支障はないと思います。思い立って読んでみたいと思われた方は、99円の低価格で販売するつもりなので、缶コーヒーでも「おごってやる」つもりでお願いします。

 ブログに並んでいるだけなら、時間をとってじっくりと読むことはありませんよね。本のスタイルにすることによって、ながい時間じっくりと本文に向き合うことができます。腰をすえて、つきあうということを、本というスタイルは提唱しているのでしょうね。


 古い記事になれば、もう13年も前に書かれた労働論になりますが、この時期に電子書籍化にふみきったのは、たんに初作をkindle化して、電子書籍のつくりかたがわかってしまったということですね。

 じつはこの労働論の電子書籍化は、パブー上で4年前、2014年におこなって頓挫したことがあります。校正まではすすんでいたのですが、校正があまりにも面倒くさく立ち消えになりました。

 今回、校正までおこなえたのは、Amazonのkindleストアに商品をおくという気負いがあるからでしょうか。


 あたらしい記事でも、おもに2010年や2012年に書かれたものになりますから、もう6~8年前になりますね。時事問題をふくんでいて、いまではその状況がわからないことも多々あると思いますが、修正を加えて、げんざいでも読めるようにしました。

 この労働論があとになっても読めるものであるのか、これからも読めるものであるかは、読者にゆだねるしかありません。

 ただ、労働論は、意外にいつの世にも変わらず、状況や精神状態はあんがい同じようなものではないかという気がします。40年前の加藤秀俊の労働論を読んだとき、「まったくげんざいとおなじだ、なにも変わらない」と驚いたことがあります。同じことに悩んでいて、いつまでも解決を見ない。それが労働の本質というものかもしれません。

 「仕事ばかりの人生なんていやだ」、「なんで会社に人生を支配される生き方をしなければならないのか」、「自分の時間がない仕事ばかりの人生ってなんなのか」――そういった疑問や憤りをもちながら、労働論は書かれていましたので、そういう状況はこんにちでも変わってないと思います。

 わたしが二十代で労働に迷い、先に生きた人の労働論を読もうにも、そういった労働からの逃走を謳った人の本というのは、ひじょうに見つけにくかったです。わたしのような労働に疑問をもっても、なんの手がかりもないこれからの若者に、わたしの本がなんらかの示唆があずけられたらいいなと思います。

 また、労働に疑問をもつ者は、労働に価値をおきませんので、会社や仕事の価値にどっぷりと染まり、そこから落ちたら生きてゆけないと思っている人には、解毒剤になると思います。日本人は、会社のために生き、会社のために生かされているような人生があまりにも多く、そういった人生からの脱却を強く私は願っています。

 二十代に労働についてさまよっているとき、労働の迷いについて書かれた本はひじょうに少なかった悔恨がありました。こんにちで非正規や格差問題でだいぶ増えた印象がありますが、本質的な部分までえぐり出した本はどれだけあるのでしょうか。

 人生の生き方として労働と仕事ばかりに覆われる人生でほんとうにいいのか、といったことは考えられているでしょうか。なにかをなしとげたいのに、なんでもないルーティンの仕事しかできず、自分の価値について悩んだりしてないでしょうか。自分の時間をもてず、仕事ばかりに拘束されて、自分の人生ってなんだろかと思ったりしないでしょうか。

 労働は自分の価値にかかわり、人生の価値や充実の問題とも、深くかかわってきます。それは、人生やわたしの価値といった問題に、真摯に向き合うことなのかもしれません。

 わたしの本が、人生の充実やよりよい人生の道案内になれることを願って、本を出すことにします。


▼カバーデザインができあがりました。タイトルは、『労働と自由についての回顧録』です。

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04 19
2016

労働論・フリーター・ニート論

昼からの一日5時間労働で気づいたこと

 いまは昼からの一日5時間の短時間バイトをしている。

 昼からのバイトだから、午前中はゆっくりしたり、用事に使ったり、外で散歩を楽しむこともできる。

 8時間労働なら、朝叩き起こされて、なにか用事や気がかりなことをすますことはまず不可能である。

 午前中の時間が自由になるということは、かくも大きなことかと気づいた次第だ。

 8時間労働では、医者にかかりたいと思ってもムリだし、必要なものがあったとしても買い物もできないし、通勤に必要なバイクが壊れても修理に出すこともできない。朝たたき起こされて、無我夢中で出勤するだけ。

 これに残業や通勤時間がつけ加わると、9時間拘束に残業1、2時間、通勤2時間が加わり、一日12~13時間を仕事関係にとられ、一日の大半は労働と会社に捧げつくして、なにか自分のための時間に使うことはまずムリである。

 8時間労働というものが当たり前、常識となっているが、労働時間を5時間にするだけでこんなに違った世界が広がっているとは思ってもみなかった。

 午前中が開く、ゆとりがあるということは、かくも大きな価値があるのである。


 もちろん一日5時間労働なら、満足に生活できる収入に届くのはまずムリである。10万をちょっと超える程度の収入しかのぞめない。

 失業中に超節約生活をしていて、そういう生活レベルに慣れて暮らせば、ぎりぎり生活できる範囲にようやく収まる。ひごろミニマリスト生活や貧乏生活になじんでいる独身者しかムリな生活レベルである。

 8時間フルタイム労働に戻らなければならないと気持ちはあせるのだが、いちどこの短時間労働とゆとりのある午前中を手に入れると、なかなか手放したくなくなってくる。

 この短時間バイトについたのも、はじめはヴァカンスのつもりの失業期間がしだいに仕事の見つからない焦燥感に駆られて、追いつめられて社会復帰すらむずかしいのではないと思われたから、リハビリのつもりではじめた短時間バイトである。

 午前中時間が開いているなら、ほかに仕事を探す時間があるという算段である。もうひとつ午前中に短時間バイトを組み合わせて、ダブルインカムを試してみようかという目論見もあった。

 それがずるずると半年を超え、一年に近づこうとしている。

 もう8時間労働には戻りたくないのだが、そういうわけにもいかないというところで揺れ動いている。

 労働が嫌いな人、自分の時間や趣味を大切にしたいという人は、短時間バイトいう選択肢もいちど考慮に入れてみてはいかがだろうか。

 もちろん収入は激減、生活にも事欠くレベルなのであるが、それ以上に大切なもの、優先したいものがある人は、8時間労働という縛りを外せば、けっこう融通が利く生活を送れるかもしれない。

 それには正社員は望めないので、バイト、非正規であることの足かせは確実にあるのだけどね。

 もう社会の常識的縛りには耐えられないという人には、8時間労働の縛りを外してみることがおススメです。

 なんで労働は8時間労働と決まっているのでしょうね?



「年収6割でも週休4日」という生き方
ビル トッテン
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01 13
2016

労働論・フリーター・ニート論

「普通になれない」を和らげる考え方

 「普通になれない」アラサー女子を描いたドラマ『ダメな私に恋してください』が放送された。


 「大人になったら普通に恋して仕事して

 普通に彼氏ができて 

 普通に結婚できると思っていたのに 

 普通がこんなに難しいなんて」


 と深田恭子扮するダメアラサー女子が嘆くシーンがある。

 アラサー女子はそこまで「普通感」から逸脱している気持ちをいだいているのかとちょっと驚いた。

 非正規や晩婚、貧困をいちばん直撃しているのはたしかに女性と思われるので、この「普通感」からの脱落はアラサー女子あたりにひじょうに強いのかもしれない。

 男性も非正規や低収入、不安定雇用で、「普通に」結婚して家庭をもち、子どもをもつというひと昔前ではあたりまえだった「普通」を生きられなくなっている。

 若者は「普通」に生きられない辛さを味わっているのだろう。

 不幸なのは、「普通」に生きるのが当たり前だった親世代が、環境の変わった子どもたちにあいかわらず「普通の人生」を送ってほしい、送るのが当たり前だと思っていることだ。

 環境が普通に生きることを許してくれないのに、親世代は普通に生きることを要求してくる。ときには当人自身の責任や能力不足を責めているに思える。世代に断層が走っているのである。


 正社員というのは、ひと昔前のみんなが国や企業に守られていた「社会主義」の時代を生きていたといえる。

 それにたいして非正規というのは、弱肉強食でどんどん突き落とされる「資本主義」の時代を生きているといえる。

 普通というのは、企業や国に守られた「社会主義」の時代を郷愁しているのである。


 世界的に自殺率が多いのはかつての社会主義が崩壊した東欧諸国も、日本のように多い。国民すべてが守られた国営企業で生きられた人生をもう手にできなくなっており、そこに失意や絶望が襲うのだろう。日本と似ているのである。

 日本も1998年ころに一気に中高年の自殺が増えて年間三万人の自殺者数に達した。大企業が軒のみ倒れ、これまでの社会主義的、大企業福祉がいっきに崩壊した境目の年である。「普通に生きられない」中高年が絶望したのである。


 「普通になれない」というのは、社会主義的な、守られた生き方ができないということである。

 しかし社会主義は世界中から多く排除され、ソ連だって崩壊し、東欧諸国もつぎつぎと社会主義を手放した。もう社会主義は世界中から信奉されなくなった制度・思想なのである。

 なのに、なぜわれわれは社会主義的思想にしがみつくのだろうか。


 われわれの「普通になれない」を癒す考え方というのは、社会主義体制の批判やおおくの欠点ではないだろうか。


 バブル時代までの若者は「決められた人生のコース」にうんざりしていた。社会主義の人生は人を社会の歯車のように決められた人生を強要した。だから若者はみずからがフリーターになったり、世界を放浪しようとしたのである。

 それまでの人たちは、「普通に生きること」を不満に思い、絶望していたのである。「終わりなき日常」がいつまでもつづいてゆくことを心の底から恐れた。

 社会主義というのは、社会から「普通の決められた人生コース」を押しつけられることである。いい大学にいって、いい会社に入って、卒もなく定年まで勤めあげる。そんな人生はバブルまでの若者にはもう嫌悪をもよおすものになっていた。

 「普通ではない」生き方を若者はのぞんでいたのである。それがいまではすっかり「普通に生きられない」ことを嘆いているようになっている。

 社会主義というのは保障を得られる代わりに「自由」をひきわたす制度のことである。保障というのは、自由を売り払う代償として得られる人生である。

 バブルまでの若者はそういう人生を忌み嫌い、そして世界中では社会主義は経済的に豊かにも、自由にもなれないと放棄されていったのである。

 いわば、現在はそれが逆転して、自由に生きられる代わりに、保障や安定という「普通」を得られない時代になったといえる。

 つまり、「自由」は手にしている。だけど、保障が得られた時代を郷愁するあまり、自由がミジメで転落したものだと思われるようになっている。

 わたしたちはバブル期までの固まった生き方より自由に選択できる時代を生きているはずである。それなのに転落と普通に生きられない喪失感だけ感じている。


 社会主義的な生き方は窮屈さや人生の自由を奪うものではなかったのか。経済的な豊かさや成長を得られない経済制度ではなかったのではないか。だからこそ、社会主義は世界中から捨てられた。われわれはなにを郷愁しているのだろう。

 終わりの近かった社会主義圏の国は国営企業に守られて働く気をなくし、画一的で時代遅れな国産車が走り、ときには国民服という選べない服を国民が着て、店にはモノがいきわたらなくなり、配給待ちに行列をなす末期の体裁を呈していた。

 われわれはあのような時代を郷愁するのだろうか。

 守られて安定していると思われる大企業だって、遅かれ早かれ、いつかこういう内実をさらしてゆくことになると思う。

 われわれは突き落とされ、転落している代わりに、自由で創造的で多様な生き方のできる時代を生きているのではないだろうか。実験できる時代なのではないだろうか。

 社会主義が喪われたことを嘆くのは、お門違いに思える。



▼社会主義を滅ぼしたハイエクの書。保障は自由を奪うことではないのか

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新編 普通をだれも教えてくれない (ちくま学芸文庫)「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)「最後の社会主義国」日本の苦闘「日本」の終わり―「日本型社会主義」との決別 (日経ビジネス人文庫)働く女子の運命 (文春新書)

02 11
2015

労働論・フリーター・ニート論

失業の不安を、認知療法で解消する方法

 失業したらいろいろ不安が大きくなりますね。「仕事が見つからなかったらどうしよう」「家賃や支払いを払えなかったらどうしよう」といったものです。とくに失業が長引いたり、なかなかめあての求人がなかったりして、待ち時間やひまな時間が増えると人は追いつめられて、せっぱ詰まった気持ちになるものです。

 そういったときには、うつ病に効くとされる「認知療法」の考え方を応用してみましょう。参考文献はエドムンド・J・ボーンの『不安からあなたを解放する10の簡単な方法』の「第3章」から多く負っています。


 まずはいちばん大事なことは、不安や恐怖は自分自身の思考がつくりだしているということを理解しましょう。ぼんやりしているときやふとしたときに自分の心にささやく思考が、自分自身を恐れさせています。そういった自分を恐れさせる心の思考に気づかずに自分自身を傷つけているのです。そういった思考に距離をおき、不安なときには自分の考えることをまったく相手にしない、気にしないといった方法も大事です。

 不安は「もしも~だったら、どうしよう」というつぶやきからはじまります。「もしも仕事が見つからなかったらどうしよう」「もしも支払いが滞ったらどうしよう」といった思考が心のなかにつぶやかれます。

 この「もしも思考」に対処することが肝心です。「頭の中で考えているだけじゃないか」、「不安にさせようとむだなことだ」といった心の反論が効きます。頭の中で想像された思考にすぎないものを「真に受ける」、「深刻にうけとめる」必要はないのです。

 不安な人は「大げさ」に考えてしまいます。極端で最悪な出来事を予想してしまいます。最悪な結果と、自分の対処能力をまったく無視するか、考えてもみません。「自分に対処能力がまったくないのか、解決能力はまったくないのか」と、その「大げさ思考」にぶつけてみることが大事です。

 自分を励ましたり、応援したり、味方する考えをもつことが大事です。不安な人は自分を不安に陥れる思考ばかり「真に受けて」、自分の対処能力やのりこえる力を無視しがちです。自分の中に見方や励ます応援者がいなければ、だれが助けてくれるというのでしょう。

 認知療法というのはこのような自分のゆがんだ思考にたいして、反論や根拠を問うやり方で、自分の思考のゆがみを治してゆく手法です。

 「もしも思考」や「大げさ思考」にたいして、「その確率は?」、「現実にあわせて考えた場合、その可能性はどのくらいあるのか?」、「過去に同じような状況は何度あったのか?」、「自分には対処する能力がまったくないのか?」といった問いをぶつけて、自分のゆがんだ思考を書きなおします。不安にするのは自分の思考なのだから、その思考の根拠や正当性を問うことによって、その思考に脅かされることはなくなるということです。

 思考のゆがみには、
  


  否定的な面ばかり見る「フィルタリング」
  小さな出来事から誇張して全体的な結論にみちびく「過度の一般化」
  問題を過度に大きく見る「拡大視」
  すべての問題を自分に関連づける「自己関連づけ」
  「~でなければならない」といった完璧主義を要求する「あるべき姿思考」


 などがあります。自分の極端に大げさにみせる思考に疑いを抱き、真に受けず、問い直してみることが大事です。

 基本的に不安は自分の心のつぶやき、思考が自分の感情をつくっているという理解が大事です。自分でも気づかずに、自分で自分を脅かしているのが、不安のからくりです。認知療法はその根拠や正当性に反論をぶつけます。自分の対処能力や解決能力を思い出せます。

 思考が脅かせるのだから、考えることをいっさいやめてしまうという方法も効果があります。瞑想の時間をつくってみてはいかがでしょうか。初心者は「思考を無視する、相手にしない、流すままにする」といった方法はなかなかむづかしいものですが、べつに「頭を空っぽにする」「頭をまっ白にする」といったつぶやきを心の中でつぶやきつづけるような方法でも可能です。思考が不安をつくりだしているというからくりを理解するなら、その効果の大きさを理解することができると思います。

 失業中は、深刻に、否定的に、悲観的にものごとを考えないようにすることがとても大事だということです。そのような悲観的な思考や気分に落ち込みそうなら、「考えるのをいっさいやめる、ほかのことをする、運動する、気をまぎらわせる」といったことがとても大事になると思います。自分を傷つける、脅かす、不安にさせるような思考とは縁を切る、断ち切ることがとても大切です。

 それと不安なときは胸をつめて浅くて苦しい呼吸をしています。お腹をふくらませる腹式呼吸を意識的におこなうのがいいと思います。胸を広げたり、背を伸ばしたりする体操も、不安解消に一役買ってくれるでしょう。



 前掲書から不安に陥らないための声明文を引用しておきます。

私は悩みを追いやる方法を習得している。
悩みや不安を抑える私の能力は毎日向上していく。
不安な考えが浮かんだら、時間をかけてリラックスし、それを解き放つ。
不安は実体のない考えから生まれる。そんな考えなら私には追いやることができる。
恐ろしい考えは誇張されるものだ。私には自分の意志でそれを消し去る力がついている。
リラックスして自分を不安から脱出させることがだんだん楽にできるようになった。
どんな状況にも対応できることがわかったので自分に自信がついてきた。
私の人生からは怖れが分解して消えていきつつある。私は平静で自信に満ち安定している。
どんな状況もコントロールできることがわかって、どんどん自分に自信が湧いてくる。




▼この文章はつぎの書からほとんど負っています。
4791105540不安からあなたを解放する10の簡単な方法―不安と悩みへのコーピング
エドムンド J.ボーン ローナ・ガラノ
星和書店 2004-10

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▼否定的な気分なときにものを考えることの危険と害悪を説いた不安からの解消法ベストブック。
4393710312リチャード・カールソンの楽天主義セラピー
リチャード カールソン Richard Carlson
春秋社 1998-12

by G-Tools



04 12
2012

労働論・フリーター・ニート論

「与えられた人生」からいかに自立するか―『キャリア・カウンセリングが会社を強くする』 岩尾 啓一

4766783174キャリア・カウンセリングが会社を強くする―本気で、個人も会社もしあわせになる法、教えます
岩尾 啓一
経済界 2004-10

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 キャリア・カウンセリングというのは即効的なアドバイスをもらえるのではなくて、自分で解決するためのアドバイスだそうだが、ほとんどの人は教えてものだと思っているらしい。

 日本人というのは仕事も人生も「すべからく与えてもらうものだ」という信念にどっぷりつかっている。

 教育も仕事も与えられて、ほかに選択肢がなかったのだからとうぜんだともいえる。そして「与えられた」ものからリストラで放り出されて、途方にくれるという構図があまりにも多かったのではないだろうか。

 「与えてもらう人生」から脱却して会社や組織から自立する個人が生まれ出ることがこの転換期に必要なのだが、「お任せ人生」から抜け出すには個人の意識転換も大事だが、会社や国家、社会意識の転換もそれ以上にアナウンスされる必要があるのだろう。根はかなり深いものだと思う。

 強権的で一方的な「与えてやる」教育や会社のあり方のままでは自立的な個人、自立的なキャリアなどのぞむべくもない。どっぷり「与えられた」人生につかった生き方から脱却するには、個人もそうだが、会社や国家のほうも口をあけて待っている人たちへの依存を断ち切らなければならない。双方の依存があるから、おたがい自立できないのである。

 「疑問をもったら負け」だとか「人と違う道をいけばお終いだ」という人生コースが決まっていたこの国の会社人生において、みずから人生や仕事を切り開く個人のキャリアはどれだけ受容されるのだろうか。決められた人生コースから外れたものは受け入れないという会社があまりにも多いのである。

 キャリア・カウンセラーの著者は失業者相手の支援事業で、九割もの人が職務経歴書の存在を知らないことに驚いている。また派遣労働者に対して自分のお金をつかって自己投資する人がまったくいないことの気概のなさに驚いている。これらは会社が選択を奪って自立的な生き方を許さなかった行動と表裏一体である。

 教師の研修でもだらけていたり、不作法な態度に憤っているが、このオサーン、たぶん上から目線とか、受講者を侮蔑する目線をもっていそうな気がする。この共感や同じ目線の欠如は、支援をむづかしいものにしているんではないかと心配になるのだが。カウンセリングに必要な受容的態度よりか、拒絶的態度が先に立っている気がするのだが。

 教師は受験勉強に必要な知識を教えてくれる。しかし、それを使って、どう自分の人生を切り開いてゆくかということには、教師はなにも教えられない。

 この狭間において、新卒で企業に入れなかったフリーターやニートの階層は増えてゆくのである。自分で生きてゆく力・方法を教えられなかった若者たちは、与えられた会社人生のコースからも外れて道を迷うのである。

 ただ与えられた人生を幸福に感じてきた人も少ないのも事実である。著者は再就職支援で会社をやめた人を何千、何万と見てきたというのだが、「会社に対して「感謝」とか「愛情」をもってやめていった人はほとんどいなかった。「憎しみ」に近い感情をもってやめていった人がいかに多かったか」といっている。はたして「与えられて」安定した人生は幸福だったのか。

 会社の人事評価で低評価になった人というのは、「人と積極的に関わってゆく部分に対して腰が引けてしまっており、リサーチなど「静態的」な能力に対する嗜好が見られる」ということがいわれている。会社というのは指導性(リーダーシップ)を重視するのである。

 キャリア・カウンセラーの不信というのはあると思うが、その業界を渡り歩いた人でないと感覚的にわからない部分がたくさんあると思う。バックラウンドや経歴が違う人になんのアドバイスができるのかと。

 エンジニアの仕事をしてきた人が営業職のアドバイスをすることはできないし、ヒラの仕事をしてきた人が社長へのアドバイスをすることもむずかしいだろう。個人が数多くの職業をすべて知ることは不可能なので、カウンセラーの役割はともに答えを探ってゆく、みずから決定することを補助する役割が求められるのだろう。なんでもわかる、アドバイスできると教える立場が求められるのではない。

 2001年の大卒者のデータだが、三年以上勤めたものは27%しかおらず、あとの七割という大半は転職してしまったか、無業になってしまっている。

 これは怠けや忍耐力がなくなったという問題ではなく、なにか是が非でもほしいものがあるという欠乏がないのだから、ガマンするとか忍耐をムリして継続するモチベーションがもうないのだからだろう。こんな時代に欠乏の時代にできた勤務体系や長時間労働、就業規則などもう維持することができないと考えるほうが妥当というものである。

 キャリアをみずからつくりだしてゆく、切り開いてゆくという行動がこれから必要になる時代だと思う。カウンセラーの視点はみずからをかえりみる視点を与えてくれる。

 いかに自分のキャリアを考えずに、人生設計のない人が多いかと嘆く視点がこの本から見えた。それは選択を奪われて与えられつづけられた国家と会社の人生と表裏一体である。



キャリアカウンセリング入門―人と仕事の橋渡し新版 キャリアの心理学―キャリア支援への発達的アプローチ実践「職場のキャリアカウンセリング」ライフキャリアカウンセリング―カウンセラーのための理論と技術キャリア・カウンセラー―カウンセリングの現場から

10 28
2010

労働論・フリーター・ニート論

『フリーター、家を買う』と怠け者が悪いという倫理

 リツイートがわたしの最高の39人つきましたので、短いのですがまとめておきます。

                   *

「フリーター、家を買う」。自分勝手な主人公が労働倫理をおぼえてゆくという話なのか。典型的なフリーター怠け論と改心の物語じゃないか。企業が労働者の長期的な面倒と保障を切り捨てた、使い捨てとブラックで不況をのりきるという批判すべき面をとりあげないで、ただ怠ける若者が悪いだけか。

お茶の間にはフリーターは怠けていて自分勝手でだから仕事がないというメッセージをプロパガンダしたいようだ。就職難や企業が長期保障を切り捨てたという面を見せたくないようだ。つまり既得権益者のおっさんたちのおべっか。なんでおっさんたちのリップサービスが必要なのか。老権力者のごますり?

けっきょく世の中は生存競争。負けた者たちはメディアを操作する者たちに都合のいいイメージがレッテルづけられる。生存競争に負けた者は負けたゆえにダメだというトートロジー(同語反復)をかぶせられる。ホームレスや日雇い労働者が資本主義の犠牲者という側面を見せない。

あいつは怠けている、やる気がないといい募れば、そいつに高い給料と高い保障を与えない罪悪感を払拭することができる。ほんとうは高い給料を払えないで安くこき使いたいだけなのに、相手が「怠け者」なら安い給料でも悪くない。そいつが悪いだけだから。浮浪者や日雇い労働者をそう見て、責任を回避。

フリーター怠け論は生産マシーン国家と長時間労働、社畜労働者が存続するためのプロパガンダ。容れ者が正当で、そこからもれる、逸脱する者が異常だという発想。社畜国家バンザイ。

あいつは怠け者だから浮浪者やフリーターになったという論理の根本は、困った他人を助けたくないという心情と根っこが同じ。本人の責任でそうなったのだからわたしは助ける必要も義務もない。困った人を助けられない罪悪感を緩和できる。怠け者落ちこぼれ論は他者を救済できないことの正当化。


関連本
フリーター、家を買う。排除される若者たち―フリーターと不平等の再生産「怠惰」に対する闘い―イギリス近世の貧民・矯正院・雇用貧者の領域---誰が排除されているのか (河出ブックス)無縁声声 新版―日本資本主義残酷史


07 18
2010

労働論・フリーター・ニート論

大野正和さんが亡くなられました

 このブログにときたまコメントをくださり、ブログをあたたかく見守っていただいていた大野正和さんの訃報をとつぜん聞きました。50才の若すぎる死です。

 過労死問題や職場の仲間のプレッシャー、自己愛の仕事など、労働の心理的側面を研究されていました。ブログ「自己愛とボーダーの仕事論」は7月2日まで書かれており、べつに変わった様子もなかったのでこれからも変わらず仕事をされてゆくものばかりと思っていました。

 知り合ったきっかけは大野さんの著作『まなざしに管理される職場』(青弓社)のわたしの書評にメールをいただき、労働問題の関心も共通で、家も近かったので会おうともいってくださったのですが、やんわりと断ってしまいました。いつか会えるかもしれないとも思っていたのですが。

 自身も職場でがんばりすぎて燃え尽きた経験から三十代半ばから大学院進学にすすみ、研究者の道を歩みだしたと聞いています。研究者としてどう生き残ってゆくかと思いをめぐらせ、著作の売れ行きを気にして、ホームページのタイトルも「「草食系」のための日本的経営論」と変えたようにトレンドに乗ることを苦心されていたようでした。

 労働・雇用問題は日本のむづかしい問題としてこれからも増大してゆくと思われる最中、問題の分析と解決の道筋を探る研究をなされてゆくと思っていたばかりに大野さんの早すぎる早世に残念でなりません。ご冥福を祈りたいと思います。いままであたたかく見守っていてくれたことを感謝しています。


大野さんの著作

4863191154自己愛(わがまま)化する仕事―メランコからナルシスへ
大野 正和
労働調査会 2010-02

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大野 正和
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大野 正和
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06 07
2010

労働論・フリーター・ニート論

会社はいつでも安い労働力を使いたい



 NHKスペシャルで南アフリカの移民ラッシュのドキュメンタリーをみた。隣国ジンバブエは経済が破綻してインフレ率が二万五千パーセントにもたっし、南アフリカはこの経済格差を利用して隣国からの安い労働力を移民として受け入れる門戸を開いたそうだ。

 ジンバブエで理系大学を出ても南アフリカではかんたんな作業しか雇ってもらえない青年の苦悩が描かれていた。移民はスラム街を形成したり、不法占拠で空きビルに住みついて強制排除されたり、住民たちの差別や移民排斥運動などに苦しんだりしている。

 これをみて日本でもあてはまると感慨深くなった。移民は日本でのフリーターや非正規などの姿にダブった。本国労働者と移民の安い労働力との格差はダブル・スタンダードとなり、企業や国は移民労働力を歓迎するのだが、本国労働者は安い労働力におされて失業し、不満を高める。会社や国は安い労働力で成長や利潤を増やしたいが、本国の労働者はたまったものではない。

 日本の工場などは中国や東南アジアに安い労働力をもとめて移転する。むかし日本も地方との賃金格差に目をつけて地方に工場を移転していたそうだが、いまはそれが国際的なスケールになった。会社というのはいつも安い労働力を使いたいと思っているものなのである。資本主義というのはいつもこの賃金格差を利用して世界の工場は移動し、そして世界の繁栄や中心は移動してきたのだろう。

 日本はある地点まで賃金が上がりつづけた。安い労働力をいつでも必要とする企業がなぜ賃金を上げつづけたのか。高度成長や経済の拡大をみこめた時代には人が足りなく、上げつづけなければならなかったのだろう。高い賃金をもとめて他社に移ってもらっては困るし、自社にとって会社内での知識やスキルを高めた人材を失うのは痛手だ。しかし原則としては会社はいつでも安い賃金を支払いたいと思うと考えたほうがいい。

 日本人の賃金が上がりつづける一方で、新しいサービス業などは主婦パートや学生アルバイトを安く使いはじめた。正社員のように高い賃金を支払う必要のない人材を使いはじめたのだ。ファミレスやコンビニ、ファーストフードなどはこの戦略で利益を稼いだ。この賃金格差が拡大する形でこんにちの非正規問題は生まれた。

 つまり安い労働力として理由づけがされた主婦や学生という縛りをなくして一般社会人にもそれを拡大したのだ。完全な約束違反や契約反故のようなものだが、労働力のダブル・スタンダードはひそかに進行したのだ。社会はそれを怠けや甘えとしてまともな問題としてとりあげなかった。世論は安い労働力を使いたい企業の思惑の煙幕をはたした。

 給料や保障が増えつづける社会に危機感を麻痺してしまったのだろう、日本でのダブル・スタンダード社会は手のつけられないくらい広がった。企業はいつでも安い労働力を使いたいものだ、この原則を忘れて企業への警戒心を失ってしまったのだ。

 消費者として考えるのなら安い商品を買うのはとうぜんだろう。同じ品質なら高い商品を買うものはいない。新しい技術や新製品が生まれたらさいしょは高くても例外なく値段は下がるものである。どうして労働力や社員の賃金は下がらなかったのだろう。インフレの時代であったからだろうが、上がりつづけた商品やサービスもあったが、モノは安くなるのが常識である。労働力も同じであると考えたほうがいい。

 労働力の賃金というのは外部市場との関係から生まれるものである。人手が足りなくなれば賃金は高くなるし、中国との安い労働力が参入すれば引き下げの圧力にさらされる。賃金というのは能力であったり、スキルであったり、経験や知識で決まると思っているかもしれないが、大きいのは外部市場との関係である。

 日本の労働市場はなぜか市場との関係において賃金や待遇が決まるという市場原理の考えが少ない。勤勉であるとか忠誠心であるとか愛社精神とかそういう精神的な面で決まるように思われている。社会主義的発想とか福祉国家的な考え、または終身雇用の思想に毒されたために、会社との関係を精神的なもので測る習慣が根づいている。

 しかし労働力というのは市場との関係で決まるものであり、賃金もそれにならい、わたしの市場価値もそれによって決まるものである。わたしがリストラされたとしても、賃金が落ちたとしても、能力やスキルではなくて、市場との関係でそういう目に会うのだ。そう考えられないところに、精神的な面でとらえてしまうところに日本人の悲劇があると思う。市場の関係がごっそり抜け落ちている。

 会社はいつでも安い労働力を使いたいものだ。勤勉や努力や忠誠心で給料を上げてくれるわけではない。お情けやがんばりを評価して賃金を上乗せするところではない。安く使いたい雇用者と高く売りたい労働者の契約の場だ。なにか精神的な約束で給料が上げられる場ではないのである。

 会社は安く使い高く利益を上げたいといつでも思っている。あたりまえのことであり、消費者としてならわたしたちもとうぜん同じ考えをするだろう。市場での関係が会社との関係を決める。買い叩きたいと思っている企業との関係をしっかりと認識すべきだろう。一所懸命にがんばっていたら給料を上げてやるという市場関係ではもうなくなったのである。

 ジンバブエと南アフリカの労働関係は原初の市場原理を見せていて、このドライで冷酷な関係で労働市場を見るべきだとの思いを強くさせた。お情けや慈善で企業が給料や待遇を与えてくれるわけなどないのだ。戦後の成長市場、福祉国家的な発想のなかで日本人はそのことをあまりにも忘れてしまったと思うのである。

プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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