なぜ学校は職業を教えなかったのだろう



 高校生や大学生の就職率がリーマン・ショックで驚異的に落ちていて、また第二波の就職氷河期がやってきそうだ。といっても新卒は就職しにくい状況がいぜんからずっとつづいており、若者の半数はフリーターや派遣など非正規の職につかざるをえなくなっているし、若年層の失業率はいぜんとして高いままだ。若者たちから雇用や職が奪われている。少子化はこういう未来を予測していたかのようだ。

 こんな世の中でどうやって職につけばいいのか、どうやって食っていけばいいのか、わからない人はたくさんいることだろう。どうやって職業能力を身につければいいのか、どうやって求人募集要項の「経験者」にたっすればいいのか、自分の知識の限界を感じていることだろう。

 この社会は学校にしろ、マスコミにしろ、職業をあまり教えてくれることはない。なんだか職業の知識が「秘匿」されているかのようだ。マスコミは消費や遊びの技能を教えてくれるが、職業やお金の稼ぎ方を教えてくれるわけではない。消費者のためのメディアであって、労働者のためのメディアではない。

 学校も職業を教えてくれるわけでもない。いぜんは学校を卒業して職業知識がまるでなくて受験知識だけでも企業が職業訓練をしてくれた。戦後の学校というのは企業のそういう学生の職業無知を周知でうけいれた。高度成長、人手不足で、職業知識は不問にされる余裕があった。だから学生は大学まで勉強して大学では遊べばいいだけだった。といより、学校は職業知識より教養知識を教える機関になり、世間も職業校より普通科を上におく価値観をもっていた。学生は職業知識についてまるで無知であることが至上であるような二十年を生きてきたのだ。

 風向きが変わったのはバブル崩壊後の90年代だ。一転して人手過剰感が企業にあふれ、新卒採用抑制から、非正規雇用、早期退職、リストラと固定コストの削減へとのりだした。企業は右肩下がりの時代に固定コストの脅威をあらためて知ったのである。新卒者をつぎつぎと採用し、固定コストを増やしてゆくような成長モデルでは90年代をのりこえられないことを知ったのだ。それで短期雇用の非正規を増やし、戦後の終身雇用が善であり正しい生き方だとされる世間の価値観あるいは標準人生モデルと衝突した。

 といってもこの大きな転換は世間に気づかれず、非正規の若者は怠けていると非難された。つまり企業の変化に気づかず、若者本人の資質の問題にすりかえられたのだ。世間の愚かさと認識のズレをよく覚えておくほうがいいだろう。

 一時期ニートが騒がれたことがあったが、若者は雇用の転換の犠牲者になったのだ。戦後の教育と職業のありかたと、90年代以降の企業と雇用の関係のはざまにおいて、うちすてられた波間の落し物のように若者は職業からほうっておかれたのだ。学校教育において職業能力がまったくない青年に育て上げられた彼が、どうやって採用を削減しはじめた企業と対等にわたりあるけるというのだ。学校において赤ん坊にされたままでどうやって職を見つければいいというのか。

 高校の教師は就職が決まらなかったり、フリーターになるしかない卒業生をどのような気持ちで送り出すのだろうかと思う。自分が教えてきた教育がかれの将来に有益な保障や保険をあたえてやれなかったことについて悔恨の気持ちをいだかないのだろうか。そんな中、「時給700円でどう生きるか 中学校、現実直視の授業」といのがはじまっているらしい。これが若者たちの逃れられない現実の将来なのだ。

 学校は教養科目をおおく捨てて職業教育に転換すべきなのだ。いぜんから大半がサラリーマン、労働者になるのにどうして学者や金持ちの教養人になるような教育がほどこされるのかふしぎだった。学校は学問や知識の価値を教えるところだ。まちがっても商売や金の稼ぎ方、労働者として生きるすべを教えるところではない。労働者は労働者の教育をほどこされるべきであって、学者のそれではない。価値観を転倒させられてしまうのだ。

 学者ははっきりいえば、労働や労働者を軽蔑する価値観やヒエラルキーをつくりだす。知識や学問の価値観というのは世俗や現実の軽視をふくむ。知識は読書や書き物によって長時間動かないで熟考されるもので、したがって行動や実践を下位のヒエラルキーにおくものなのだ。戦後の学歴社会はいっそうの職業軽視の風潮を強めたのではないだろうか。

 商売や稼ぐこと、職業、企業などの価値観や憧れが低下していったのがバブル以前の社会であったと思う。経営者やサラリーマンになることの憧れ、カッコよさというのは80年代ころにはまったくなかった。まあ、サラリーマンなんてずっと若者にとっては侮蔑の対象でしかなかったかもしれないが、ほとんどの若者がそれになるしかない未来だった。そんな若者が職業に憧れやカッコよさを見出せず、夢をうしないはじめたころ、企業は終身雇用や出世のポストすらか、企業に入るイスすら用意せず、アルバイトや派遣としか雇わないようになった。

 いわば戦後の暗黙の約束を企業が果たせなくなったのである。政府も企業におんぶするかたちの社会保障が企業から捨てられているのに、なんら対策や取締りをおこなわず、セーフティーネットからもれる多くの若者を放置しつづけたのである。

 日本の教育や社会は職業や労働を軽視しつづけてきたのだが、そんなときに襲ってきたのが、就職難や非正規の増加という雇用からの逆襲というか、しっぺ返しを喰らう状況である。商売や稼ぐこと、労働、企業というものに価値をおかなかった風潮は企業や労働で生きていけない社会や若者をつくりだしたのである。ダニエル・ベルがアメリカで『資本主義の文化的矛盾』という本を出したが、消費生活にうつつを抜かす先進国の人たちはいずれ労働に価値をおかなくなるだろうという診断だった。こういう流れと雇用の切り下げは同時進行でおこったから、若者の非正規化は本人の資質の問題にされやすかったのである。だが、ほんとうの問題は雇用がなくなっているということなのだが。

 われわれの社会は稼ぐこと、商売、労働というものにふたたび価値や憧れをあたえなければならないのだろう。戦後の教育は学問に価値をおいたが、大半が労働者になる学生にそんな価値観の醸成は不要であるばかりか、危険である。食っていけない若者に学問など金持ちの道楽や趣味にしかすぎない。就職口がない若者には稼ぐ能力、働く力、需要や金をつくりだす力こそまず必要で、死活問題なのだ。勉強しなくても会社にイスや出世のポストがあたえられた時代はどんなに郷愁されようと二度ともどってくることはないのだ。まずは食える力を養えなければ、教育はなんの価値もない。ロスト・ジェネレーションや就職難の若者はそのことを痛感していることだろう。学校は職業能力を身につけさせる場所でなければならないのだ。

 戦後の教育が職業を教えなかったり、企業もそれを必要としなかったのは、職業や労働に無知であることによって転職を抑制したかった隠された理由もあったのかもしれない。明治大正の労働は終身雇用とほど遠く労働者はすぐに稼ぎのよい他社に転職したし、勤続年数も短い転職率のそうとう高い社会だった。軍事下の転職禁止令や人手不足による年功賃金の政策によって戦後、終身雇用がよいものとされたにすぎない。男性の結婚相手がおぼこや処女をもとめられたように新卒者も職業に無知であることによって他社によういにうつりたくなるような浮気性にならないためだったのかもしれない。おぼこであるために新卒者をもとめない90年代になって若者は企業社会で食ってゆく方法を見つけられないのである。

 教育に職業能力を高める授業を強めないと学校の意味は薄れることだろう。いったところで金と時間の無駄づかいになるだけである。たとえば学校以外に世間を知らない教師より、定年退職した高齢者に労働や企業を教えてもらうのがいいかもしれない。経済や企業、労働について教えてもらう授業をはやくからおこなうことによって、将来自分が食っていかなければならない世界の予備知識を身につけて職業選択の一考にすべきなのである。いまのままでは就活時期になっていきなり企業を勉強するようでは職業選択などできない。

 これまでのお約束であった勉強しなくても企業がうけいれてくれる社会は終わった。そればかりか最初から稼ぐ能力や効率よく仕事をする能力がもとめられるのである。学校はいっさいそんなことは教えてくれない。いまのままの教育では企業がもとめない学生を大量に世間に放り出すだけである。まるで坊さんの学校にいって企業に就職するようなもである。教師も就職の決まらない学生に胸が痛いだろう。教育と学校の価値はがらりと変わってしまったのである。職業能力を教える学校に転換することが強くのぞまれるところだ。

壊れてゆく雇用と日本人の奴隷性



 NHKで「作家・重松清が考える働く人の貧困と孤立のゆくえ」をみた。秋葉原無差別殺傷事件、年越し派遣村から、こんにちの労働、雇用状況をさぐったインタビュー集であった。秋葉原事件は去年の6月におこったなんて、もっとむかしの出来事に思ってしまっていた。

 いまの最低賃金の決まり方は、主婦パートや学生アルバイトの時代に決まったもので、いまはアルバイトや派遣の時給だけで生活したり、家庭をもったりする人がふえたので、これを見直さなければならないのはとうぜんだろう。むかし補助的な仕事と思われていたもので生計をたてなければならず、こういう時代の変化のはざまの低賃金でワーキングプアや苦しんでいる人が大量に生まれているのだ。

 企業や産業界は狡猾である。企業は補助的な仕事であるということで主婦パートや学生アルバイトの時給を安く抑えて人件費を抑えることができたから儲かることができた。コンビニのアルバイト、ファミリーレストランのアルバイト、サービス業のアルバイトなどはみなこの補助的仕事の最低賃金の恩恵をうけている。それを一般の一家の大黒柱の人たちにもこのような最低賃金でつかおうとしてしまったから、おおくの貧困者が生まれてしまったのである。ゆでガエルとはまさにこのことだ。

 いまは非正規がかわいそうということになっているが、正社員も長時間労働や徹夜労働などで過酷な目に会っている。アルバイトや派遣は賃金が安く抑えられて時間給だが、正社員は時間に縛られないでどこまでも働かされる。たとえばチェーン店の店長を管理職待遇にしてしまえば、労働時間の制限をなくして無際限で働かせることができる。アルバイトは時間の制限があるが、正社員は時間の制限をなくした時間地獄の働かせ方がされている。

 年越し派遣村で日本の労働状況が壊れている、おかしくなっているとおおくの人も気づきはじめたのだが、はっきりいってこんな状況は十年や二十年まえからはじまっていた。マスコミや世間が気づいたり、騒ぎ出すのはあまりにもタイムラグがありすぎ、そのあいだおおくの人が過酷な労働条件のもとで現実に生き、働かなければならなかった。そもそも大マスコミは労働者や一般人の味方なんかでなかった、マスコミが助けてくれるなんて甘い期待をいだくのがまちがっているのだろう。秋葉原事件はそういう状況の自殺テロをおこなったのだろう。

 日本の雇用状況はいつからこんなに壊れてきたのだろうかと思うが、さかのぼればむかしから日本の雇用状況というのは壊れていた。むかしは終身雇用という滅私奉公や一身をすべて会社に捧げなければならないという壊れ方をしていた。無際限な自己犠牲が強要される労働社会であった。大マスコミはそういう働き方を理想や失われた郷愁としてもちあげるのだが、自分たちが三食メシつきだから刑務所に入りたいという犯罪者と変わらないということに気づかないのだろうか。

 派遣やアルバイト、名ばかり正社員、こういう雇用の壊れ方の元凶、要因をさぐれば、日本の労働者の弱さ、無力さ、立場の弱さ、従順さ、奴隷性にいきつくというものである。企業や産業界に対して、労働者個人があまりにも弱すぎ、立場が奴隷的すぎるのである。終身雇用時代に守られていたのではなく、このような弱さが企業の丸抱え福祉によって見えなくなっていただけなのである。いま労働者のほんらいの弱さが露呈しているだけなのである。

 この日本人、労働者の弱さはどこから生まれてくるのだろう。まるで奴隷のような弱さを、日本の労働者はもっている。だからアルバイトで正規雇用なみの働かせ方をされたり、かんたんにクビが切れる派遣を増殖させたり、正社員は無際限に働かされるのである。企業や産業界に対抗する社会集団や中間組織といったものがなかったり、社会世論や社会風土の抵抗や強さがない。こんな働かせ方をしてはいけないという断罪や抗議をして労働者を守る世論もないし、社会集団もないし、権力の集まりもない。企業や産業界の歯止めや抵抗勢力が日本にはまったくないのである。労働組合は無視してよい存在だ。いわば人間としての集団、勢力、権力がないのである。だから労働者はどこまでも企業のいいように働かされるのである。企業が無際限の権力をもってしまって、抵抗する勢力がまるのでないのである。

 人と人との契約や交渉というのは、力の大きさによっておおきく条件が変わってくる。たとえば国家間でいえばアメリカのような強大な国は弱小国にムリな条件や不利な契約を押しつけることができる。はっきりいえば力の強いものは思いのままに有利な条件を手に入れ、相手に不利な条件を押しつけることができる。知識や基準すら力の強いものにゆがまされる。日本の労働者はまったくこのような弱い対場に立たされていて、まるで奴隷のような条件ばかり飲まされている。権力や力のない状況こそが、労働者の弱さ、雇用の壊れをつくるのである。日本人の無抵抗、あきらめ、奴隷性はこのあたりから生まれてくるのではないだろうか。

 ことしの高卒の内定率は37%とい驚異的な数字だし、失業率も5,4%ということだが、こんにちのハローワークを通さない就活はもっとおおいのは確実だから、雇用状況はかなり悲惨な状況になっている。ふつうなら餓死者や暴動が起こりそうな状況だととらえるべきだ。失業率はほかの雇用条件にもドミノ倒しのように影響をあたえるから、労働者はますます買い叩かれ、ぼろぼろに使い捨てられてゆくだろう。

 労働者、日本人は狡猾で、強く、卑怯で、損得にめざとい功利的な利己主義者にシフトしないと、力に買い叩かれて不利な条件ばかり飲まされる下り階段を落ちて行くばかりなのだろう。おとなしくしていれば、強いもののいうことを聞いていればいいようにしてくれるといった幻想は通用しないのだろう。日本人はどんどん奴隷の階梯を落ちていってる。狡猾な力には狡猾な力で抵抗しないと、ますます見くびられ、いいように使われる。

 むかし日本では労働争議や労働運動などかなり激しい、怒りや激突に燃えた時期があった。そうしなければ守れない、殺されるような状況があったのだろう。また同じような労働条件が、19世紀的な労働状況がもどってこようとしている。「目には目を、歯に歯を」の訓戒が必要になる時代なのかもしれない。雇用がなくなり、人々の暮らしがなりたたない社会になれば、放っておいても犯罪がふえ、世間が騒乱としてくるものである。犯罪や事件にまきこまれる見聞もひろがってくるだろう。サバイバルが過酷な時代には強く、狡猾に生きなければならないということだ。豊かな社会、福祉に守られた会社の夢うつつから目を覚まさなければならない。

 

「セーフティーネット・クライシス Vol.3」を見て思ったこと



 「セーフティーネット・クライシス Vol.3 しのびよる貧困 子どもを救えるか」を見た。子どもの貧困は見ていて心が痛くなるつらさを味わう。

 若者の非正規率や高失業率を放置していると、そのまま子どもの貧困につながるというしっぺ返しを社会は喰らっているのだと怒りの感情がわきおこる。

 だれが悪いのか。社会保障を捨てた企業と、その転換に鈍感だった社会と政府の責任だ。企業が社会保障を捨て始めた時点で、社会と政府はその事態がひきおこす結果にもっと脅威を感じて対策をうつべきだったのだ。

 企業が丸かかえで社員の生涯を保障するという時代は終わった。若者は短期雇用で働いたり、失業率が高くなれば、生活はかんたんに貧困におちいる。話はそれで終わればよいのだろうが、その若者は生活ができなくなり、とうぜん家庭や子どもをもつわけだから、その被害が家庭や子どもにおよぶ。社会の再生産がここで危機におちいり、社会全体の問題、危機であったのに、若者の雇用問題の深刻さを論じるだけで終わってしまっていた。それだけで終わりになる問題ではないのである。子どもと社会の再生産が崩壊に瀕するということなのである。

 戦後の社会は企業が社会保障を肩代わりすることで成り立ってきた社会なのだが、90年代からじょじょに企業はその役割を捨てはじめた。貧困におちいったり、医療や年金、失業保険のセーフティーネットの傘からもれる大量の若者を生み出した。この事態の変化に社会も政府も対応できていなかったのである。

 先手をうって、企業の社会保障依存を先に用なしにしてしまえば、正規、非正規の格差問題は生まれなかったかもしれない。企業が社会保障するシステムに依存している限り、非正規はセーフティーネットからもれるという事態を迎えることになる。非正規は労働者本人だけでは保険料を払えないということもあるだろう。健康保険、年金あわせて月2万や3万も払えないかもしれないし、雇用保険さえ入れないから非正規なのだ。非正規には格安の社会保険料の設定が緊急に必要なのかもしれない。雇用保険さえ自分でかけられるようにしなければならない。

 企業は社会保障のルールをみずから抜け、壊しはじめた。社会のセーフティーネットのルールから外れたのは企業が先である。企業はこれまで社員の生涯を全面的に保障するということで、かずかずのルール違反も許されてきたと思う。もし企業が社会保障のルールを守らないのなら、そのような超法規的容認は許されないだろう。いまこそ長時間労働やサービス残業、労働者の全人格的奉仕というルール違反はここでご破算にしなければならない。社会保障をしていたからこそ容認されてきたルール違反はその用件をうしなったいま、ルールを厳格に守らせなければならないというフェアな関係が求められる。企業はみずから全人格的奉仕の前提条件を手放したのである。

 企業が社会保障の役割から抜けてしまったのだから、こんどは政府がその役割を肩代わりしなければならない。保険料を払えない非正規にセーフティーネットの条件はあたえられるのかという問題もあると思うが、貧困は世代連鎖や社会への損害をもたらすのだ。守らなければならない。

 番組ではフィンランドの例がとりあげられていて、教育や子育ては社会の責任や投資として捉えられているそうだ。母親や家庭だけの責任として負担がおもくのしかかる日本とはえらい違いだ。晩婚や少子化、それにくわわって子どもの貧困と教育の欠如がひきおこされるというものだ。若者は重荷を嫌って子どもも家庭ももたないようにするだろう。しかも長時間労働や仕事の負担が重い日本ではさらに加重がのしかかる。私は教育や子育てが無料化されるといろいろな弊害が出ると考えないわけでもないが、たしかにこれからは公共事業より人や教育に投資されるほうが有効なのだと思う。

 セーフティーネットの根本の問題というのは日本が90年代以降、新産業や雇用の受け皿をつくれなくなったことにあると思う。繁栄や成長の礎をまったく築けなくなってしまった。企業は非正規や首切りで人件費削減やコストカットを狙うしかない。企業が儲からなくなり、日本経済は右肩下がりになり、社会保障も負担になって非正規を増加させた。ますます落ちてゆくスパイラルが形成されるばかりだ。教育によって新産業をつくりだす創造的人材をつくりだすというのはまさに政府にもとめられる次代の戦略なのだろう。稲を育てるためには教育が重要なのだろう。私もこのまま年をとるだけではいつか食えなくなるという危機感をつよくいだいているので、能力・スキルアップの教育がぜひほしいところだ。


▼子どもが貧困化する社会に戻ってほしくないですね。
子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)子どもの最貧国・日本 (光文社新書)子どもの貧困

41歳の失業と心の危機



 さすがに41歳の失業はキツかった。私は去年の7月に失業してから、ことしの5月まで失業していて、もう私に仕事なんか見つからないという気持ちにひきずりこまれながら、仕方がないから派遣切りでその危険性を知りつつも派遣で仕事を見つけるしかなかった。まだ一週間しか勤めていないし、仕事はかなりキツいが、仕事がある安定感ですこしは心を休めたいと思う。

 去年の7月に失業したときはまだ余裕をもっていて失業の長期ヴァカンスを楽しむつもりでいたのだが、去年9月にアメリカの金融危機が起こり、派遣切りが社会を席巻し、どこへいっても求職者が殺到していて、こんどはもうダメかもしれないという不安に何度も襲われた。41歳という年齢の高さも不安にいっそう拍車をかけた。

 求人誌はいまはフリーペーパーがメインになっていて、「B-ing」や「DUDA」といった情報誌はなくなっている。ネットに移行したのかもしれないが、ネットの情報は古いものが放置されたままだったりして、いまいち信頼がおけない。フリーペーパーはだいたい月曜あたりに出ていて、もし望みの求人がなければ、今週一週間はなにもすることがない。ただひたすら、来週の月曜まで待たなければならない。ハローワークもネットで見られるのだが、いい求人がない。

 そういういい求人が何週間も見つからない日々がつづくと私にできる仕事などなにもないという気持ちがしてくる。時間だけがすぎて、貯金が目減りしてゆく。かなり追いつめられた気持ちになった。腹の調子は悪いし、胸のつまりがとれなくなったりした。もう仕事がなく、貨幣経済から放り出されて、実家に助けを求めるか、路上で生きてゆく方法はあるのか、と切羽つまった気持ちになったりした。これで人生を終えてしまうのはまだいやだとかも思った。

 一日や一週間がながく感じられた。真冬の寒い間は家に閉じこりがちになるので、寒いけどできるだけ自転車で緑のおおい公園にでかけることにした。バイクでも散策に出かけたが、ガソリン代が高いのでじょじょに使わなくなった。切りつめた生活をしていたので、くりかえして食べるラーメンもうけつけなくなったりした。なんだか貨幣経済や人間界から疎外されている気持ちになった。

 夕方になると目が暗くなって、暗さの調節ができなくなった。部屋やTVが暗いままで、いっそう気持ちを落ち込ませた。金融危機や派遣切りの恐ろしさばかり煽るTVは見たくなくなってきて、ニュースやTVもしだいにつけなくなって、たまに見るTVは異界の世界に見えるようになった。追いつめられるものの視野は井戸の底からながめているような変節をへるのである。

 どの仕事も経験者ばかり求めていて、私の経験してきた仕事は正社員の口がなく、再就職先なんか見つからないように思えた。せめて車の免許があれば応募先は見つかるのにと思った。あとは掃除か交通警備員かマンション管理の仕事しかないのかと思ったが、これらの仕事も自分は雇われるのかと不安になったりした。40代以上の転職、ろくに仕事のスキルや経験がない人間の転職はひじょうに困難なものだった。

 貯金もどんどん減ってゆくので、派遣でもアルバイトでも仕事を見つけて、その間に車の免許をとったり、転職に役立つための勉強をしようと思った。転職できるような勉強や資格がほんとうにあればいいのだが、40代以上の転職に役立たせることはできるのだろうか。なにか転職に役立たせる勉強や資格を見つけることが死活問題になる。

 気持ちがどんどん悪いほう、下のほうにひきずりこまれるので、なんとか気持ちを明るくしようと、自己啓発や成功哲学の本を読むようになった。明るくなるためのクスリのようなものだった。ブックオフの100円本ですこしでも気持ちが明るくなる本、前向きになれる本をさがした。

 マーフィーの本がハマった。明るい、幸福な気持ちで満たせ、さもないと悲観は未来に実現してしまうぞと脅すその書物は気持ちを明るく保つためにぴったりの本だった。祈れば手に入るといったような教えも、追いつめられた者の気持ちにはぴったりだった。マーフィーの方法で祈っていたら採用の電話がかかってきたときはほんとうにマーフィーの効用なのかと思った。でもその仕事は休みがないのですぐに辞めたが。失業したときにはマーフィーの本で祈るのがいいかもしれない。


失業時の心のお守りにおすすめの本
マーフィー 眠りながら巨富を得る―あなたをどんどん豊かにする「お金と心の法則」 (知的生きかた文庫)マーフィー 人生は思うように変えられる―ここで無理と考えるか、考えないかで… (知的生きかた文庫)マーフィー 自分に奇跡を起こす心の法則―潜在能力は、それを信じる人には無限の富と成功を約束する! (知的生きかた文庫)
道は開ける 新装版積極的考え方の力―ポジティブ思考が人生を変える (Life & business series)大きく考えることの魔術―あなたには無限の可能性がある


 40代の転職はさすがに追いつめられる。年齢制限にひっかかって自分にできる仕事なんてなにひとつ見つからないという気持ちになった。気持ちもどんどん落ちて、リアルな悪い想像ばかりが思い浮かんで、気持ちを明るく、平穏に保つのがかなり難しくなった。成功哲学を読んで、「自分はできる、やれる、幸福だ、明るい気持ちに満たされている」と暗示をかけても、なかなか明るい気持ちを保つのは容易ではなかった。自分の弱さ、心の折れやすさとの闘いであった。

 とりあえずは派遣の仕事を見つけたので、無職の不安からはすこしは解放されるだろう。しかし仕事はキツいし、人間関係もかなりしんどそうだ。なんとかつづけて次の仕事につなげられるような車の免許とか勉強をしたいと思っている。はたして40代でどんどん年をとってゆく私に次の再就職先は見つかるだろうか。いまみたいに経済危機、失業率増加の時期をしのげば、すこしは好転しているかもしれない。これからは仕事を見つけるための勉強に必死にならないと生きていけないと思うのだが、はたしてそんなに役立つ勉強はあるのだろうか。私の将来が好転していることを祈りたい。まさしく祈りたい気持ちなのである。

 

パートタイム天国オランダをめざしてほしい



 きのう、TVの『サキヨミ』でオランダのワークシェアリング特集をやっていた。パートタイムでも同一労働、同一賃金で、お金より時間を選んだゆたかな国民の生き方が紹介されていた。長時間労働から解放された国の国民は天国のようだった。

▼YouTubeでUPされていたのをようやく見かけましたので、ごらんください。


 ▼くわしい内容が紹介されているブログを参考に。
 「サキヨミ」オランダのワークシェアリング、メモ&感想

 日本もオランダのようなパートタイム天国をめざしてほしいと思った。仕事やお金より、時間や生活に豊かさや人生の幸福をみつける生き方をオランダ人は徹底的に肯定していた。ほんとうに日本の労働状況からみて、奇跡や天国に見えた。

 日本の場合、パートタイムやフリーター、派遣などの非正規は「悲惨」や「格下」のランクに押し込められている。ヒエラルキーが長時間労働の高保障の正社員がすばらしくて上位におかれ、短時間労働の不安定、低保障の非正規はヒエラルキーの底辺におかれて、社会からはじかれる危険にさらされると脅かしつづけている。

 つまり日本はオランダの真逆の長時間労働に服する正社員が「人間としての一般的でまともな」、ついでに「理想」とする生き方が推奨、もしくは強制されているのである。不安定な非正規の職につきたくない、もしくは差別にさらされたくないとますます長時間化労働、過密化労働のほうに追いやられているのである。非正規の差別的待遇が国民の労働の首を絞めているのである。オランダにはほど遠い。

 これから派遣やパートの仕事が増えるのは確実である。韓国ではパート比率は6割に達し、日本では4割だ。補助的であったかつてのパートタイムはいまや本業や一家の大黒柱の正職となった。派遣切りで明らかになったように、もはやだましていることはできない。パートタイムの大きな待遇改善が求められるのだろう。同一労働、同一賃金だ。そして最低賃金もひき上げらなければならないのだろう。

 パートタイムの差別的境遇から、肯定的、推奨的な境遇が求められるのだろう。オランダはだからこそワークシェアリングが成功したのであり、国民もそれを受けいれられた。日本ではパートは格下で、不安定労働で、将来性がないのである。だからそれを肯定的、推奨的な境遇にもっていかないと、いまのように雇用調整弁や賃金カットの差別的境遇だけでごまかしていると、オランダの天国のような働き方、生き方はできないのである。パートタイムが人間らしい生き方としてヒエラルキーの上位に肯定的にとらえられることが日本でのワークシェアリングの可能性のカギを握っているのだろう。社会保障がパートであろうと全労働者に適用されることが最低限必要である。

 TVをみていてオランダは天国だと思った。私がこの日本では不可能だとあきらめていた生き方がオランダでは実現されていた。私はすっかりあきらめかけていて、生きてゆくために長時間も滅私奉公も仕方がないとそろそろ腹をくくりかえている。あるいは差別的、格下的待遇にガマンできないのかもしれない。日本はそれだけ働き方や生き方が変わらないし、変えようがないのだと思う。

 どうしたらオランダ・モデルは可能で日本に導入することができるのだろうか。同一労働同一賃金、ワークシェアリング、そして社会保障の充実が求められるのである。失業率12%の危機的状況の中で可能になったワッセナ合意は日本でも達成されることがあるのだろうか。日本では差別的待遇、貧困的賃金の非正規はどんどん増えているのである。いつまでも放置や放任はできないだろう。そこの底上げをして、社員との差別的格差、社会保障の欠落といった犯罪的慣行をただちに治して、オランダのような理想の国をめざしたいものである。

 日本はオランダのようなパートタイム天国をめざすべきだ。こんにちのような差別的、格下的境遇をただちに改革するべきだ。アメリカのような格差や貧困が増加して、医療保険がないような悲惨な国を日本はめざすべきではないのはとうぜんのことだと思う。日本はオランダのようになってほしい。どうすれば、オランダのような国になれるのだろうか。非正規がこれほどまでに増え、低境遇にあえいでいる日本において、選択の余地はオランダ・モデルにしかないと思う。オランダ・モデル導入の運動をしたいものである。


残業ゼロ授業料ゼロで豊かな国オランダワークシェアリング―『オランダ・ウェイ』に学ぶ日本型雇用革命オランダモデル―制度疲労なき成熟社会欧州のワークシェアリング―フランス、ドイツ、オランダ (調査研究報告書)

雇用はどうなってほしいか



 NHKの『日本の、これから 雇用危機』を見た。そのまえに『製造業派遣は何をもらしたか』という番組も放送されていて、雇用に関して抜本的な改革が必要なときがきたということが思われた。私がのぞみたい雇用のあり方を自由をのべてみたいと思う。

 製造業派遣は減産期に大量の雇い止めを可能にしてしまうがゆえに規制すべきなのだろう。大量の解雇者、それも住み家を失う失業者を大量に出してしまうあり方は日本の社会風土にもなじまないだろう。転職が自由にできる社会になっていたらよかったが、その困難が知られているがゆえに、日本は解雇に対する風当たりが強い。製造業はもともと減産期に解雇者を多く生む構造であると思われるので、解雇が自由な派遣は解禁すべきではなかったと思う。

 セーフティーネットが必要だとよく唱えられるのだが、住居補助や職業訓練の拡充が早急にもとめられるのだろう。雇用保険に入ってなくてもそれは可能でなければ、企業が社会保険をかけない現状ではなんの役にも立たないだろうし、解雇がしやすくなる社会にすべり落ちるまえに失業してもしぱらくはぜったいに安心できるシステムが必要である。

 職業訓練は拡充することがかなり強く求められるし、受講中の生活費補助もセットでなければ、あしたの生活もできないような状態で職業訓練など受けられるわけがない。私も職業訓練を受けたいと思っても余裕のない失業期間をのばすことなんてできなかった。番組中にデンマークのフレキシビリティという制度が紹介されていたが、日本にも失業しても安心して職業訓練が受けられる制度が早急に必要だと思う。

 ここにきて終身雇用が強く求められているというデータがあらわされていたが、私は再チャレンジができる社会のほうがのぞましいと思う。終身刑のような企業がいいというわけではなくて、安心や安定がのぞまれているということで理解したいと思う。派遣やアルバイトの増加などで将来性のなさの不安がかつてないほど高まっていると思われる。スキルの蓄積が身につかない、しかも年をとってからの転職は困難になってゆくばかりだ、このような雇用が増えてきたことの裏返しなのだろう。この新しい雇用形態の将来性の不安についての解決が図られることをのぞみたいと思う。

 日本は転職しやすい社会ということではなくて、転職しようにも経験や技能がもとめられて、多く弾かれる。経験や技能がなければ、会社に転職すらすることができないのである。この経験者優遇というか、経験者しか雇わないしくみはどうにかならないものだろうか。経験がなければ、あるいは同職種でしか転職できないとなったら、ほぼ転職市場はないも同然である。

 年齢制限の記載は禁止されたが、おかげで年をとってからの転職の絶望はすこしは緩和されたが、まだまだ条件つきの年齢制限はおおく認められているのが現状だし、実質上は面接で年齢制限される例はおおくのこされていると思われる。アメリカみたいに履歴書に年齢記載を禁止するような強さが必要なのかもしれない。

 それには年功賃金や年功カーブがゆるやかにされる必要があるのだが、日本では教育費や住居費の高さのせいで、フラットな賃金体系にはなかなか変われない。このような家系補助的な賃金体系を企業はこれから担ってゆかないと思われるので、政府の補助や社会保障、教育費・住居費抑制の政策が必要なのだと思う。企業が労働者の社会保障をつぎつぎと捨てて行くのなら、政府がそれを守るという政策に以降してゆかなければならないのである、それも早急に。

 非正規と正規雇用の格差も緊急に解決されなければならない問題だろう。同一労働、同一賃金の実現が一刻も早く望まれる。正社員を下げて、非正社員を上げるという政策は可能なのだろうか。この法整備は強い力で断行される必要があるのだろう。社会保険も非正規のすべてに適用すべきなのだろう。家計補助の非正規から、大黒柱の非正社員の時代となって久しいのである。この間、企業は社会保障のコストカットを非合法におこなって利益をあげてきたのだが、政府はこのような法違反をこれ以上許してはならないのである。政府への不信任をますます増すばかりである。

 かつての企業は家族経営や終身雇用でモラルが高いという社会評価を受けてきたのだが、いまの企業は非正規は切り捨てる、生活補助も社会保障も行なわない、労働者は搾取、可能な限りに長時間、無権利に酷使するという方向に変わってきた。強い監視や強い罰則、強い法規制がこれまでとはまったく違ってしまった企業に対して必要不可欠なものになった。もう性善説では対処できないほど企業は性悪説で対処しなければならないほどの変貌をとげたのである。企業規制・犯罪に対する警察部門の新たな発足が必要なくらいだと考えるべきなのだろう。

 日本の雇用や労働は大きく変わらなければならない時代にきたようだ。日本人の意識や生き方、考え方も大きく変わらなければならない。政府の役割も社会保障や福祉を企業にまかせられていた時代は終わり、政府が社会保障や福祉の大きな部分も担わなければならない時代になったのだろう。終身雇用と家族経営の蜜月の幸福な期間を終わりを告げた。大きく変わらなければならない時代がきたようである。労働者に血や傷を与えないようなスムーズでやわらかな移行をのぞみたいところである。

内需拡大と労働デフレを考えてみる



 経済のこととなると私はとんちんかんちんなことしかいえないが、アメリカ頼みの輸出産業がぼしゃってしまうと内需拡大ということになるのだろうが、労賃を落としまくっている日本に内需拡大なんか望みようもないというものだろう。

 きのうNHKの解説委員がいっていたが、日本人は1400兆円もの個人資産を輸出産業によって貯蓄するだけではなく、消費するようなライフスタイルに転換すべきだというようなことをいっていた(記憶があいまい)。だれがそんな個人資産をもっているのか実感をもって考えられないのだが、働いて貯蓄するだけの日本人のライフスタイルというのはたしかに再考がうながされるものだろう。アメリカ人のような貯金をせず借金で消費ヅケになるような人生も問題だが、働いて貯めるだけの人生も経済的には害悪だと考える転換期にきているのかもしれない。

 日本という国は輸出産業で儲けるために国民の給料が下げられ、長時間労働で酷使され、そのために内需や国民消費が犠牲になっているという図式を描けばいいのだろうか。輸出産業のために国民はどこまでも犠牲になっているのであり、輸出で儲けるためには国民はないがしろになっていいという考え方が内需を殺してしまっているのかもしれない。

 バブル崩壊後、給料は下がりつづけ、パート労働や非正規労働によってさらに労働コストは下げられつづけている。スーパーやコンビニ、ファミレスなどのサービス業はパート労働と社員による長時間労働によって儲けるというビジネス・モデルを定着させてしまった。パート労働が増える中で内需なんて拡大しようがないのである。なぜかれらが消費者であり、顧客であるという考えができず、国内のお客を減らすようなコスト削減しか企業はできなかったのだろう。蹴飛ばして、内部でこき使うパート労働者が回りまわってお客になるという発想になぜ結びつかないのだろう。

 労賃のデフレ傾向というのはなぜつづいているのだろう。企業はなぜ非正規労働をつかい、社会保障を削り、労働コストをそこまでして下げなければならないのだろう。人材の余剰感や人余りがそんなに加速しているのか。人口減少社会はすでにはじまり、団塊世代の大量退職や労働人口の減少はおこっているのではないのか。いまに人手不足社会にならないのか。

 年功賃金や解雇規制の重みが企業に人件費削減や非正規雇用の増加をうながすという考えがある。正社員の余剰感やコスト増が、非正規を生み出したという考えである。年功賃金を抑えたり、解雇ができないから、そのような重石を背負わないために非正規雇用が利用されたということだ。社員のクビを切ることが社会的非難をまきおこすことが強い国でだからこそ、フリーターや派遣労働が増えたのである。

 いわば若い世代の非正規雇用というのは前の世代の年功賃金と解雇規制のコストを背負されてしまった労働者なのである。社会保障まで削られてしまったから、労基法から逃れたということで、正社員に対する「非」がつくのである。つまり「法律外」の社員ということである。こんな法の抜け穴のウルトラ技が放置されるこの国の労働法の脆弱さは異常というしかない。

 企業はかんたんにクビの切れる非正規雇用をせっせと増やしたのだが、派遣労働者のクビ切りすら社会的非難をうけることを知ったこの国の企業はつぎの雇用調整のどんな手を考え出すというのだろうか。

 解雇がこんなに嫌われるのは、転職市場や有利になる転職条件、社会保障などがそろっていないからだろう。企業組織が年功序列やピラミッド型の組織をもっているかぎり、中途転職者は不利な条件を背負わされる。クビ切りをしやすくなる社会になるためには企業自身が中途入社に有利さや優遇策を与えない限りムリというものだろう。クビ切りを社会全体で拒否する国というのは、企業自身が転職に有利さを与える組織をつくっていないからだ。非正規を増やして雇用調整をおこなおうとするのではなくて、先に組織体系自体を新規入社者に有利なしくみをつくるべきなのだろう。クビ切りを恐怖に感じる社会をつくったのは企業自身ではないか。

 内需拡大の話にもどるが、労働者を賃金的にも時間的にもどこまでも条件を落とすと、消費や内需が喚起されるということはない。日本人は労働者という一面的な存在にされ、消費者や生活者という存在は除外されてきた。ためにかれに消費者や内需喚起者となる時間は残されていない。労働者として絞れば絞るほど、かれは消費者たりえない。国の政策として、戦略として、国民を労働者のみにするのではなくて、消費者としての属性を強める必要があったのではないか。内需の強力な牽引者を国内につくるべきではなかったのか。社会にも労働者を消費者、顧客としての役割を強く意識し、みんなでその立場を推進すべきではなかったのか。消費者なき国に産業が育つのか。新しく商業が創立されるというのだろうか。熟成した消費者が産業や新しい商品を待望させるのではないのか。

 クビ切りが社会的に認められない国でつぎに経団連会長はワークシェアリングという国民の非難があつまらない考えを出してきた。教育費や住居費などでかつかつな正社員は個人的にのぞまないだろうし、経営者にとっての体のいい賃下げになるという批判もある。私としてははるかむかし長時間労働の横行する日本に対してヨーロッパで進む時短の流れに驚異をもってながめていたのだが、失業率の増加がワークシェアリングの導入をスムーズにする時勢をつくりだすとはむかしの謎の解を時間をかけて解いてもらった気がする。

 ワークシェアリングのみではなく、時短という流れももってきていいだろう。かつては好況時にしかいいだせない要求であったわけだが、不況期に必要な施策になったのである。日本人の働き方やライフスタイルも変えるいい機会になると思うのだが。ようやく「働き蜂」や「ワーカー・ホリック」といったあり方も改善されるかもしれない。消費者や生活者という側面が日本人に帰ってくる機会にもなりうると思うのだが、給料が減った労働者に消費の機会を増やすかはむずかしいところというべきかもしれない。これは経済的だけではなくて、社会的・人間的にも日本が変わるいいチャンスかもしれない。日本人に足りなくて、貧しいのは時間であったわけだ。

 ただ私の反省としては、私が賛成するものは企業側にとっては得になるものや労働者にとっての悪条件化に結びつくことが多いかもという反省がある。私が望む自由や気楽さといったものは、労働条件の劣悪化に転嫁したものが多かったという悔恨もある。

 この労働デフレ化でのワーク・シェアリング導入はますますの貧困者増加や生活困窮者を生み出してしまうだけになってしまうかもしれない。非正規の爆発的増加を導き出してしまうかもしれない。給料が減れば、社会保障は払えるのか。無法な長時間労働を企業が手放すなんてことが考えられるだろうか。企業はいつだって狡猾で一枚上手である。たくさんの警戒策の網をはりめぐらしたうえでのワーク・シェアリングの導入が望まれるところである。しかしこんな大きな制度転換がいまの日本におこなえるということはむずかしいと思うのだが。

雇用の流動化の失敗を考えてみる



 正月に住居を失った派遣村のテントがあふれかえり、厚労省の講堂をあけわたしたというニュースをみると、まるで戦火から逃れてきた国民に政府が被災者用住居を与えたかのようである。企業が爆撃をくわえ、家を焼け出された労働者に政府が緊急避難用住居を用意したかのようである。国民に爆撃をくわえたという構図でこれから企業との関係をみるべきであり、国民や政府は企業は戦争をしかけたとわれわれは認識すべきなのだろう。

 雇用の流動化というのは閉塞感につつまれた社会や成長のみこめない経済に成長促進をあたえるかのような起爆剤に一時は思えたものである。しかしそのような流動化政策はただ家から放り出される労働者をうみだし、生活苦や貧窮にあえぐワーキングプアといった人たちを大量に産み落としただけであった。なぜ流動化はこんなに悲惨な結果と失敗をもたらしたのだろう。

 受け皿も社会保障もない労働市場に、解雇が自由な労働者を多く生み出せば、困窮者が増えるのは目に見えている。企業が一方的に解雇や流動化の自由を手に握ると、生活の糧を奪われる労働者はかんたんに路上に放り出される。流動化しても労働者がすぐに仕事を見つけられる、生活や住居が保障されるという条件がないのに、企業に放り出す自由だけをあたえたら、たちまちいまのような被災者を生み出してしまう。はたして企業や政府はかんたんに見つけられる受け皿や社会保障を用意できるというのだろうか。自由化よりまずこちらのほうが先ではないのか。

 解雇や有期雇用が自由化されるより、先に労働市場の自由化されるほうが必要である。つまりいまの企業社会というのは年功賃金や終身雇用によって長期勤続が有利であり、権力や序列もそれによってできあがっており、転職が困難や不利になる条件が山のように積み重なっている。このような条件のうえに解雇や期限をもうけた雇用だけを自由にすれば、たちまち企業の船から放り出されてほかの船を見つけられないたくさんの人を生み出すだけである。まずはこの転職に不利な企業組織というものを解体できるのだろうか。

 年功賃金という年功によって賃金が上昇カーブを描く構造をいますぐやめられるだろうか。職業経験やスキルがなくても、すぐにつぎの転職先を見つけられるしくみが企業にあるだろうか。転職が転職者にとって賃金アップやキャリアアップが確実に保障されるしくみはできあがっているだろうか。転職に不利な条件があるばかりの労働市場に解雇が自由な雇用形態をうみだしたとしても、労働者に有利な条件がひとつでもそろうというのだろうか。

 解雇が自由になるしくみをつくるのなら、まず転職が有利になる企業組織や賃金体系や、失業しても技能やキャリアが不利にならず、社会保障も与えられるような企業風土がまず必要ではないのか。先に解雇の自由を与えるのではなくて、転職が自由で有利になる市場を整えるべきなのである。そのような市場が未整備のままでは、失業者は不利な条件を抱えたまま、雇用の船を見つけられず、冷たい海を泳ぎつづけなければならない。

 困窮者は不利な悪条件の仕事につかざるをえず、労働水準のデフレ・スパイラルがひきおこされるばかりである。この二十年、賃金や雇用形態、労働条件というのは劣悪になりつづけている。非正規雇用の増加によって社会保障はない、賃金は正社員と同じ仕事をしていても半分近くに下げられたり、雇用期間は有期期限やコマ切れの労働があたえられてきた。社会保障や労働基準法に守られているといわれる正社員も長時間労働やそれによる最低賃金を下回る時給で働かされており、賃金や労働条件は劣悪なものになりつづけている。労働者は企業の一方的な強大な権力のもとで、無権利、無法条件のしたで酷使・搾取されてきた。労働者の権利や条件は落ちてゆくばかりであり、企業の強大な権力のもとで、労働者は最低の境遇や待遇におちいってきたのではないのか。このような状況の中で雇用の流動化はますます悲惨な条件を労働者につきつけるばかりである。労働のデフレ・スパイラルの中での雇用の流動化はスパイラルや困窮者を増やすばかりではないのか。

 市場主義はロジカルな市場調節機能を発揮しそうに思われた。しかし社会主義が権力者の横暴や腐敗を招いたように、市場主義も企業や金持ちの権力の横暴や腐敗を招くようだ。経営者や金持ちの専横や権力肥大を招くだけであり、歯止めのない企業論理の暴走がおこる。市場主義というのは市場にまかせるといいながらその論理による権力者の自由や横暴を招き、弱者である労働者はますます悲惨で不利な条件を課させられてゆく。つまりは市場で権力をもつ者に有利なイデオロギーを構築するばかりなのである。市場が味方するのだからわれわれはどこまでも自由で専制をおこなってもよいという論理に化すのだろう。

 労働者のデフレ・スパイラルはつづいている。このような圧力に追随するように派遣の自由化や労働条件の劣悪化は政治的にも認められてきた。労働のデフレ・スパイラルを止めるには不況をとめるために公共事業が必要であったように、労働者にも財政出動が必要なのだろう。労働者を保障することが公共事業なのであり、そのような下支えが労働者の条件を高くて強いものにしてゆくのだろう。どっちみち市場から放り出された労働者は社会保障によって守られなければならない。労働者の権利が弱すぎるために社会保障が必要な条件に落ちてしまうとするのなら、先に手を打つべきではないのか。最低賃金をひき上げるなり、社会保障の短期労働者や全労働者への適用拡大や、職業訓練やその間の生活費保障、住居援助などが必要なのだろう。路上に放り出されるような悪条件におちいる労働者を生み出す前に、市場原理に抗するかたちになろうが先に労働者を守る施策が必要なのである。市場原理が労働者の困窮を導くとするのなら、政府はその前に助けるしかないのである。

 雇用の流動化は明かに失敗した。住居をたちまち奪われるような派遣労働者を生み出した政府は失敗の責任を負わなければならないだろう。戦火から被災してくるような悲惨な労働者を生み出した政府には重大な失敗の責任が問われなければならない。自民党は選挙民の信認をあたえる党ではない。政府が労働者の権利や待遇を強くしてゆく施策をあたえないと、労働者はデフレ・スパイラル的に困窮につき落とされてゆくばかりだ。デフレ・スパイラルをとめる役割が必要なのである。もはやそれを食い止めるためには社会主義的な財政出動や公共投資が必要なのだろう。労働者が落ちてゆくのを止める施策がここにきて緊急に必要になった。こんなものはずっと必要なものであったのが、政府は労働者の劣悪化になんの施策も打たなかった。労働者の条件がどこまでも落とされてゆく趨勢はここで断ち切らなければならないのだろう。

 派遣切りによってこの時代の労働者がいかに弱者におちいってしまったのか、企業が戦火から労働者を守らないばかりか、爆撃をくわえる当の攻撃者であるということを無知な国民もようやく思い知ったことだろう。自分は関係ないと思っている人たちも一部の人たちの滑落が自分の墜落も導くということをいつかは痛いほど思い知ることになるだろう。




派遣労働者を生命の危険にさらす日本的経営



 NHK『視点・論点』で湯浅誠氏が「派遣切り」について話しているのを見た。とても気持ちをゆさぶられた。YouTubeにUPされていましたので貼りつけておきます。




 派遣労働者や非正規労働者はむかしの主婦パートや学生アルバイトのように生活の補助のために仕事をしているのではなくて、いまでは生活そのものがかかっている。仕事を解雇されると家や食べ物さえ満足に手に入れられず、路上に放り出される。生命の危険にすらさらされる。日本の経営者たちは自分の孫や子どもに命を大切にしろということをいえるのかと問いつめていた。

 日本の企業や経営者は変わった。人の生命や暮らしを預かっているという基本的な生命線や道徳すらこの十年のあいだにかなぐり捨ててきた。労働者から職を奪うということは生命を奪うことに等しいという基本的なことすら忘れて、自社の利益や存続のみにかかずりあってきた。人を殺してしまうかもしれないという大切な基本線が経営者の頭から失われたのである。

 労働が生命の存続すら司っているということを経営者はいつから忘れ去ってしまったのだろう。われわれの社会も労働が命の存続をつなぎとめている手綱であるということをすっかり忘れてしまって、安易な解雇やリストラを許してきたと思う。職を失っても他の仕事を見つけたり、あるいはホームレスになってもなんとか食べていくことができるはずだとか、福祉の世話になればいいとか安易な放任主義によって、冷酷な殺戮者になってきたのではないのか。職は人の生死を左右する生命線なのである。安易な派遣切りやリストラの危険性をいま一度思い出してほしいと思う。

 日本の輸出産業やリーディング・カンパニーの非情な派遣切りにたいして、マスコミや世間は驚き、非難し、自治体がおろおろと職や住居を用意したりして路上に放り出される人たちを救おうとしている。自治体やわれわれの社会には職が生命線であるという道徳律や情けというものをまだ残しているのだろう。いっぽう、日本企業のほうにはそういう道徳律や情けはとっくの昔になくしている。企業や経営者は冷酷な殺戮者や道徳なき非情な利己主義者になっている。社会的なモラルをなくしてしまっているのである。

 95年に阪神大震災がおこったとき、多くの人はボランティアや義捐金で被災者たちを助けようとしたし、ニュースを見て心配をしたものである。こんどの派遣切りの震災の震源地というのは企業や経営者の心ないクビ切りが原因であり、発生源である。人間が起こした人災である。それを社会や自治体が救おうとしているが、こういう他者にたいする冷暖の二重構造はこの社会にしずかに蔓延していたのだろう。この金融危機を天災や人災と見なして、人を救おうという気持ちを社会的責任を重く背負っている日本の経営者はみずからもつことができなかったのだろうか。経営者たちは日本のモラルやノブレス・オブリージュ(トップの責任)といった責務や気概をまったく失っているのである。社会のトップの者たちの気概がこのようなものになっている社会の行く末とは暗澹たるものにならざるをえないというものである。

 日本が長期不況に苦しんでいるあいだに企業は社員を守らなければならないという戒律の裏道をウルトラ的な技で生み出してきた。すなわちそういう戒律が適用されない非正社員という存在である。彼らは社員ではないから、守らなくてもよいし、解雇も自由という論理である。そして社会保障もセーフティネットも企業は担わなくともよいというお墨付きを政治家や政府もなし崩し的に与えてきたのである。つまりは政治も社会も一部の労働者の生命線を断ったのである。企業の冷酷な論理を政治家は呑んだのである。それがどのような惨状をもたらすのか政府や政治かも甘く見すぎていて、今回の大量のクビ切りによってその法逃れがどのような結果をもたらすのかようやく知ったのだろう。

 企業は非正社員という法の枠外にもれる人たちを生み出して、かれらが生命の危険にさらされても責任も責務も負わないというウルトラな論理を考え出してきた。いったい戦後の労働運動や労働争議の経験や教訓はなにを残してきたのだろう。また戦前のような貧困層やスラムを生み出したような悲愴で騒乱とした社会に戻ろうとしたいのだろうか。社会のトップのモラルや責任が厳しく問われる瀬戸際にきたということである。企業や経営者は非正規という責任を負わないでいいというエセ論理で逃れようとせず、かれらの生命線を奪ってしまうという道徳や責任を忘れないでほしいものである。経営者という社会にとって責任あるトップの行動のひとつひとつが、これからの社会のモラルや質をつくってゆくのである。

非正規雇用と第三のビール



 発泡酒や第三のビールといった新しいビールが売られ、売り上げを増している。このような奇妙な新ビールが生まれるのは政府がかける酒税のためである。ビールの定義を外したアルコールをつくれば、値段を落とすことができる。発泡酒では足らずに第三のビールが生まれ、いまでは第四のビールが生まれているそうだ。

 このようなビールのあり方は非正規雇用のあり方とひじょうに似ている。政府が税金をかけるとその法の網の目を逃れようと企業はなんとか方法を考える。これはビールではありませんから、税金はかけられませんと企業は主張するのだが、政府は新たに法改正で酒税を課す。正規のビールと非正規のビールがこうして生まれる。安い商品を売ろうとして企業は法の目をかいくぐって、非正規ビールを生み出す。それにしてもどうしてたばこには第二のたばこ、第三のたばこが生まれないのだろう? 大麻や覚せい剤がそれだとしたら救いがない。

 非正規雇用の第二のビールというのはパート主婦や学生アルバイトであったりした。短時間労働や短期間雇用により都合のいい労働を提供してくれるし、時給も安くあげられる。企業にとって麻薬のような役割をはたしてくれたようで、社会保険も負担しなくてよい。近頃の多くの成長産業をみれば、たとえばスーパーやコンビニ、ファミリーレストランなどの業界はほとんど主婦パートや学生アルバイトの低賃金労働での低コストにたよっており、パート雇用は成功モデルになってしまった。そしてこのような片手間、生活補助目的の労働者相手ならよかった形態がふつうの生活がかかっている労働者にも拡大されたことが、「非正規」という変な名詞をもつ雇用を生み出したのである。禁じ手である第三の労働がこうして生み出された。つまりは政府からの法逃れが非正規を生み出した。

 正規と非正規というのは政府による規制がかけられているかかけられていないかの違いである。つまり政府の労働者権利の法からまぬがれていますよということなのだ。正規雇用というのは解雇が難しいこと、期間の定めのない長期雇用であること、そして社会保障が課せられるということである。企業は平成長期不況の影響で人件費という固定費を削ろうとした。そこで第三の労働であるフリーターの活用や派遣労働の拡大による社会保障費カットや解雇規制のない非正規雇用をおおく導入したのである。

 つまりは正規雇用のように政府による保障をすべて課せられないということである。だから正規に対しての非正規なのであって、おかげで社会保障の負担も課せられないし、解雇もさいしょから期限を定めることによって自由ですよということになったのである。法の目をかいくぐって、雇用の新しい抜け道を企業は見つけたのである。つまりは企業の法律逃れ、脱税のようなものである。

 第三の労働は市場主義がもてはやされたり、労働者側も長期拘束を嫌って自由な短期労働というメリットの側面がさいしょは多く見えて、負の側面の警戒が足りなかった。世界的な金融危機による派遣切りによる非情な解雇の仕方、生活の破壊という目に見える冷酷さを見せつけられて、政府や社会ははじめて非正規雇用のあり方に衝撃を受けているのが現今の状況だ。労働法や社会保障のない非正規雇用というものがいかに危うく、国民の生活を破壊するものなのか、いまさながらようやく気づいたということだ。

 そもそもこのような非正規の労働という抜け道をつくったのは、短期雇用には社会保障や解雇規制が適用されないという法の脆弱面があったからだろう。この抜け道による味を企業がしめたために労働者としての権利や社会保障が適用されない多くの労働者が生み出されたのである。政府がぼんやりしているあいだに第二、第三の抜け道が広げられていたのである。正規に対する非正規というのはつまり社会保障や解雇規制が適用されない旧来の労働法からもれる、政府の法律から守られないということなのである。はたして政府は法の適用が認められない人たちを生み出し、放置したままでいいのだろうか。これは犯罪の放任、放置ではないのか。日本は法治国家であることをやめたのだろうか。

 しかし企業側からしてみたら経営環境が厳しく、少しでも安い労働力や社会保障の削除を手に入れたいものである。雇用の流動化や自由化は労働者ののぞむところもあったのだが、社会保障からの撤退や労働者の生活能力の破壊や不可能性をみちびくような雇用形態ははたして労働者ののぞものであり、政府の社会保障や生活の保護にかなうあり方だろうか。企業の要望である市場原理のあり方に任せれば、労働者の人権や生活はちっとも守られず、破壊されるばかりではないのか。ただでさえ労働者の人権や法が守られないこの国において、市場主義は企業・経営側の権力の強大化や無法さを招くばかりではないのかといった危機意識が必要なようである。

 政府はどうすれば企業の第二の労働、第三の労働といった抜け道を防ぐことができるのだろうか。まずは社会保障の適応はどんな短期、雇用の形態においてもすべて適用される必要があるのではないかと思う。ある一定の時間や基準に達しないと社会保険が適用されないという法律をつくると、抜け道がつくられてしまう。社会保障がまるでないといった非正規のあり方は国民皆保険の理念に反していないか。政府は法の保障すら守っていない憲法違反に触れていないか。社会保障の法の網の目からもれる人たちを生み出してはならないのである。

 ビールがそうであったように酒税が課せられると企業はその法の目から逃れる道をなんとか探そうとする。消費者としても高い商品より安い商品を手に入れようとするし、高い課税が課せられている商品から逃れようとする。労働力に関しても同じ市場原理が働くわけだが、労働者は生活や保障が守られなければならない最低の基準というものがある。この最低の基準が満たされないような労働の形態は、国民皆保険のある国や法治国家としては最低限守らなければならないものである。さもなければ貧困層の増大や治安の不安定化、モラルや道徳の騒乱、はては暴動や社会不安の増加をもたらすだろう。この国ははたして隣人が生活苦におちいり、ホームレスになっても、放置しておくような国や社会になりたいのだろうか。

 雇用の流動化は避けられないとしたら、職業訓練やその間の社会保障、また教育などの再訓練の拡充がもとめられるのだろう。雇用の削減をしたいのなら、まず労働市場の整備や企業内部での年功賃金の緩和、などが求められるのだろう。労働市場が育ってない上で、解雇だけが自由になるのは悲劇をつくりだしているようなものだ。転職市場での社会保障の充実や拡大がとても重要な施策になるのだろう。

 第二の労働、第三の労働が生み出される流れといったものは避けがたいものかもしれないが、生活者として最低限の権利や保障は政府が守っていかなければならないものである。歯止めは政府にしかなく、市場原理では最低限の生活すら不可能になってしまうだろう。政府は網の目をかいくぐったり、国境から脱走してゆくモラルのない企業にたいして、強い姿勢と法令順守の精神が求められるのだろう。企業の競争力より、国民の生活のほうが大事だといった最低限のラインがあるはずであり、そこを守られない政府には信任をたくすことはできないのだろう。


底なし雇用危機に思うことをとりとめもなく



 自動車産業の大量の派遣切りは家電産業の大量リストラにまでひろがってきたのだが、一度にこんなに大量の人たちが失業すると、再就職は容易ではない。雇用不安や雇用危機という段階ではなくて、恐慌といってよい段階に入ってしまったのかもしれない。大手のリストラは報道されるが、中小や地方の企業はもっとひどい状況におちいっているかもしれない。雇用の底が抜けてしまったのだろうか。

 まるでこのような状況を予測するかのごとく派遣や期間工などの雇用調整弁的な非正規が増やされ、そしてこの期を待ってましたとばかりに即効、解雇を申し渡す。つまりは景気減退期に正社員はなかなかな解雇しにくいから、解雇のかんたんな非正規にその待遇を入れ替えてきた。まるで企業はこの機会を待ってましたといわんばかりだ。積年の恨みがここで果されたのだろうか。

 メディアや非正規雇用者も怒った。社会的非難を浴びせた。すっかりおとなしくなった非正規労働者がまさかデモや解雇撤回の声をあげるとは思ってもみなかったが、社会や政治もこのような状況がくることを黙って放置してきたのである。解雇が自由で、いつでも可能な非正規を企業はそのために増加させてきたのである。つまり企業のまったく無法な解雇が可能な社会や制度を企業はせっせとこしらえてきたのである。社会や政治は雇用が非正規におきかえられると、人々の生活が貧困におちいったり、かんたんに解雇される状況になるのを容認してきたのである。それが企業の競争力をつけるためにやむをえないことだと社会は黙認してきたのだが、解雇が生活の困難を即もたらすということに頭が回らなかったのだろうか。

 この十年、二十年は企業は好き勝手に従業員の待遇を下げてきた。賃下げに長時間労働、サービス産業、名ばかり管理職といった旧来の正規雇用者にたいする酷使的な労働と、非正規労働や日雇い労働、派遣といった新しい雇用者に対する無責任さ、横暴さをふるってきたわけである。まるでこの国には労働基準法や人権といった歯止めが労働にたいしてまったく存在せず、企業はどこまで人権のない雇用者にたいして無法や横暴のかぎりを尽くしてよいといったお墨付きを政府からもらっていたのだろうか。労働者はなぜ声をあげなかったのか。終身雇用や年功賃金、あるいは福利厚生といった人生の人質をとられて、あるいは家族主義的、温情主義的日本企業という甘い神話を抱いてか労働者は企業の横暴のなすまま受け入れてきたのである。

 正社員の中高年になってからのリストラもおそらく深く広く進行していたのだろう。解雇四原則といった正社員の解雇が容易にできない判例や法規も、たとえば早期退職制度といった名のリストラや解雇によってなし崩し的にされてきたのだろう。この社会や政治は労働者の権利や法律といったものをまったく守られない無規制、無法律の社会になってしまったのではないかと思う。だれも労働者を守らず、だれも労働者を守れない。労働者がかつてもっていたとされている労働の権利や法律はどこにいってしまったのだろう。

 かつての日本企業は不景気になっても雇用を守ると思われていたが、今回の金融危機によってそのような化けの皮をみごとに剥がしてしまった。もはや雇用を守る日本企業は存在しない。企業が生き残るため、景気が減退すれば、たちまち従業員のクビを切る、定年まで保証しない、人生設計も保証も援助もしないといった企業本来の顔を臆面もなくさらすようだ。しずかに若年労働者に見せていた顔を社会にようやく見せたのだろう。マスコミや社会はそのような変貌のすがたを察知していなかったのである。

 企業がこのようなヤクザな存在になってしまったのは、自由主義や規制緩和を推し進めた政治によるものではない。自動車や家電、道路公共事業といった二十世紀をひっぱってきた産業構造が飽和状態に達してしまったことにあると見なすべきだ。産業、社会全体が貧乏父さんになってしまったのだ。企業は成長期には社員の人生や福祉を保証できる金持ち父さんであったが、リーディング産業がことごとく飽和市場に達すると、たちまち余剰体質を維持できなくなる。なりふりかまわず脂肪体質を捨てざるをえなくなったのだ。もはや、がりがりの自分だけを守ろうとする強欲ガイコツ老人しか残っていないのである。

 非常事態の社会になってしまった。経済の収縮が早くにやってきて、経済のパイをみんなで分け与えることが不可能な社会になってしまったのだろう。このままでは雇用の底が抜けてしまうので、非常事態的な断行が必要になるのだろう。私はこういうときだからこそワークシェアリングでの時短のような方法が功を奏するのではないかと思う。雇用のないところをみんなで分け与えるしかないのだろう。時短であったり、サービス残業禁止などの政府の断行がおこなわれて雇用の創出を図る必要があるのだと思う。非正規の解雇のような方法は貧困のデフレ・スパイラルをますます助長させるだけになるだろう。98年のようなホームレスの増加をもたらすとしたら、この社会の治安の悪化、秩序の騒乱は避けえなくなるだろう。企業は経済の次元だけに存在するのではなく、社会的存在としての品格や責任を果すべきなのである。そのような責任を企業にもとめるのもわれわれ社会人の責任と務めというべきなのではないのか。

 ギリシャで若者の暴動がおこった(【動画】地元テレビ局がとらえたギリシャ暴動)。金融危機による経済的要因によるものではないかと想像できるのだが、ギリシャの若者の失業率は25%を超えており、先進国で4位の高失業率である(若者の失業 - OECD(先進国)ランキング)。ちなみに日本は25位で、8.7%になっている。日本にも若者の暴動がおこらないかとも思うのだが、日本は自滅型を選ぶ。名門大にも大麻汚染の逮捕者がぞくぞくと出ているが、日本の怒りは内攻型の退廃型に逃げ込むようだ。怒りのエネルギーはギリシャと同様のものがあると想像するには難くないというものだ。日本もいっそ暴動をおこしたほうがまだ健康的だと思うのだが、この社会の鈍感度はそのくらいの衝撃を与えられないと痛くもかゆくもないのだろう。

 社会は危機的状況を迎えていると思う。これまでの無法労働状況のツケが払わなければならないところにきているのだろう。雇用維持は社会治安維持だという掲示板の書き込みが忘れられない。


日本企業は大母ではなく、ハゲタカの日本企業になったのである。



 自動車主要12社:189万台減産 1万4000人削減−−08年度 − 毎日jp(毎日新聞)
 正社員“首切り”ラッシュが止まらない (ゲンダイネット)
 <派遣切り>許すな…法改正訴え集会 東京・日比谷 - Infoseek ニュース


 金融危機を皮切りに自動車産業の派遣切り、IBMなどの正社員早期退職希望などのクビ切りがそうとうな規模と破壊的スピードで広がっている。派遣労働者がデモをおこしたり、契約違反の裁判をおこなうなど、私には意外に思えた。おとなしいまま素直に派遣労働者はクビ切りを受け入れると思っていたのだが、どうも大手派遣労働者は若年フリーターと違い、政治的能動性があるらしい。

 労働争議など怒れる時代になってほしいと思う。これまでの時代は正社員にしろ非正規労働者にしろ、企業のなすままいわれるままに唯々諾々と従ってきたために、無法な労働慣行や非正規化がしずかに進行してきたのだ。なんの文句もいわないと企業は放漫になってききために、企業の身勝手で一方的な労働切り下げは着々とおこなわれてきたのである。そのツケが今回の大量派遣切りであったり、非正規化、低賃金化として現われてきたのである。

 企業は好き放題の労働者のあつかいを手に入れてきたのである。そのような一方的な切り下げが可能であったのは、労働者がすっかりおとなしくなり、非正規になろうと若年層がいっこうに反抗しなかったからだと思う。労働者は自分が非正規で二分の一の給料でこきつかわれようと、日雇いで生活できないくらいの不安定さで働かされようと、黙々と企業のいいなりになってきたのである。

 そのような無抵抗主義の若年労働者が増えたのは、それまでの正社員があまりにも厚待遇に守られた結果であった。労働者やマスコミが企業に「家族主義的」で「温情」なイメージをあまりにも抱き過ぎたからだと思う。一度働き出したら終身まで守ってくれると信じられた企業にあまりにも安心し過ぎたのだ。これらの世代の人たちは企業から手厚い保護や待遇を受けてきたためにすっかりとキバを抜かれてしまった。そして同時に進行していたのがパート主婦や学生バイト、フリーターの低賃金化であった。安心しきっていた陰でしずかに進行していたのが、未来の労働形であった非正規雇用というものだった。

 企業はまんまと「大母」的なイメージを労働者や社会に売りながら滅私奉公や愛社精神を醸成し労働者をこきつかいながら、一方ではこっそりと未来の非正規化を着々と進めていたのである。「大母」のような顔をしながら、「ハゲタカ」の従業員酷使の方法を編み出していたのである。大母のイメージで企業を捉える人はいまだに多いだろうが、日本企業はこの二十年のあいだにすっかりと「ハゲタカ」の姿に変貌していたのである。頭の禿げたハゲワシや残り物を奪うようなハイエナの存在に日本企業はなってしまったことにいま気づかなければならないのだろう。大母のイメージをあまりにも長く抱きつづけたツケはあまりにも大き過ぎたといわざるをえない。

 日本企業はこれからもっと従業員切りをおこなったらいいと思う。日本人は企業とはなにか、企業とはどういう存在だったのか、あらためて気づくことになるだろうと思う。ショック療法が必要なのである。企業というものがハゲタカと気づいたときにわれわれは企業とどう対すればいいのか、企業との関係はどうあるべきか、自覚をうながされるようになるのだろう。ハゲタカと対するにはガンジーであれば身も肉も食い尽くされるだけである。こちらもハゲタカにならなければ勝ち目はないと気づくことになるのだろう。

 われわれの立場というのは市場原理によって決まるというよりか、政治・権力によって決まるものである。市場原理主義者は経済原理の優位性を説くのだが、政治的な力によって決められることが多いのではないかと思う。企業が力をあまりにも持ちすぎると労働者のリストラや非正規の賃下げはくいらでも可能なのであるが、労働者や社会に政治の力がつけくわえられると、企業もそれ以上の非正規化、安易なリストラは不可能になる。市場が価格が決めるというよりか、政治が価格を決めると考え直したほうがいいのではないかと思う。そういう意味で市場原理主義者は政治権力の原理にあまりにも無頓着すぎたのではないかと思う。知識の事実は真理によって決まるのではなくて、政治で決まるのである。

 市場主義と社会主義(福祉主義)的風潮というのは何十年かごとに振り子のようにゆり戻しをくり返しているようだ。経済学者は政治の力を考慮に入れなくて労働者の凄惨で貧困に苦しむ時代をつくり出し、怒った労働者たちの団結や権力によってその力をはがされる。日本が80年代、あるいは90年代から市場主義の潮流に乗ったとしたら、あとどのくらい市場主義の流れはつづくのだろうか。公共事業の世論バッシングはまだ記憶が退潮していない。そういう意味でもうしばらくつづくかもしれないが、労働者の怒りや恨みを買った経済学者や企業家の権力はそう長くはつづかないだろう。経済学者や企業家は労働者をゴミのようにあつかい、せいぜい労働者や社会に恨みを買ったらいいのだ。敵はそのあいだにもっと大きく、力強いものになる。

 これまでの労働者は生涯を保証してくれるという大母的な企業のイメージを長く抱きつづけたために、その子や未来の労働・生活がハゲタカに変貌していた企業に食いつつかれてしまったのである。企業は温情主義的でもないし、私たちの利益を擁護や保護してくれるわけもなく、隙あらば私たちの骨の髄まで食い尽くしてしまう存在であるとはっきりと思い知らなければならない。そのような敵対的存在に日本企業はなってしまったのだと深く反省なければならないのだと思う。私たちが企業は大母のような存在だと幻想を抱いているあいだに私たちはすっこりコケにされてしまったのである。政治的無能力ほど恐いものはないというものだ。私たちは政治権力の無力化というツケをいま払わされているのである。

 

「フリーター国家」、「その日暮らし社会」の到来



 ストック社会からフロー社会という言葉をむかし聞いたことがあったが、労働力についても人材を在庫してゆくことから、そのつど市場から仕入れてくるという方法に変わってきた。長期に労働力を抱えておくと受注が減少したとき、むだな要員を抱えることになってしまう。労働力を自社に抱えておくのではなくて、必要な要員だけ補充して不必要になればカットする、人材もそう考えられるようになった。

 終身雇用が可能であったのは長期的な拡大経済が見込めたからであり、景気が後退しても社員を調整しなくてもつぎに景気がよくなるという見込みがあったからである。92年からの長期不況はそういう社員をストックしておいたほうがトクであるという雇用環境を粉砕してしまった。長期雇用のメリットがなくなったのである。大企業でも余剰人材は子会社出向のような調整がおこなわれたが、それも限界にきたのである。とうしょ中高年のリストラは社会的非難が強かったが、そのために若者の非正規化におきかえられたのである。

 賃下げの圧力から新規採用が控えられ、つまり失業者の増加によって雇用が調整され、アウトソーシングやアルバイト、パート、派遣などにおきかえられるようになった。外部市場の労働力を半額程度にして、企業はのりきろうとしたのである。

 トヨタにカンバン方式という部品をストックしておかず、必要な量だけそろえるという方法があるが、人材でもそれがおこなわれる。景気が落ち込めば、人材量もかんたんに調整される。パソコンのデルも注文されてから生産される方法であるが、需要量によって人材が調整される究極のかたちが日雇い派遣であり、期間工やアルバイト、派遣社員といったものである。製造業の多くはこの方法をとりいれており、人材の荒廃はそうとうに強いように思われるが。

 もちろんこんにちの問題は需要による雇用調整のみではなくて、長期要員も賃下げ要求によってアルバイトや派遣におきかえられていることである。短期雇用ではないのに、非正規で雇用されるのである。事実上、正社員と同一労働をおこなっていても非正規雇用なのである。派遣やフリーターには越えがたいこの壁がある。人材の能力の問題ではなくて、完全に雇用側の都合なのであるが、階段をのぼる道はふさがれており、将来的な保障のない雇用に停留されるのである。

 長期的な計画や保障がまったく見込めない労働に釘づけられるのである。このような非正規比率は4割にたっし、おおざっぱにいえば正規雇用が三千万人にたいし、非正規は二千万にたっするだろう。三人にひとりである。三人にふたりの時代はそう遠からずやってくることだろう。

 「その日暮らし」社会や「フリーター」社会の到来である。少し前まではフリーターは「怠け者」だ、「やる気がない」「働く気がない」と罵られたのだが、いまはすでに「フリーター」社会になっているのである。そしてたいがいの業種や職種はフリーターによってまかなわれ、フリーターによって運営される時代になったのである。生き方や職業観、社会保障もフリーターによってつくられ、制度づけられなければならない時代がきたということだ。正社員の人生設計、職業観、社会保障はもはや時代遅れなものになり、それではおおくの人をカバーできない時代がきたということなのだ。この認識の変換、パラダイムシフトがすこしでも早くのぞまれるところだ。

 正社員の時代、社会保障は企業によってまかなわれていた。好景気の右肩上がりの時代、人材確保の難しさから、企業は多くの福利厚生の増発によって優秀な人材を囲い込もうとしたからだ。いまのような右肩下がり、買い手市場の時代とまったく異なった雇用環境がそれを生み出したのである。条件が変わってしまい、企業が積極的に社会保障を捨てるようになり、そうなれば企業はますます長期的に人材を社会保障する意味がなくなる。フリーター社会において、人材の人生設計や長期保障はまったく見捨てられ、かなわなくなってしまうのである。

 長期の人生設計や長期的な職業観、雇用観といったものも崩れ去る。これまで維持されていた長期的な雇用による勤勉観や職業観も無効になってゆく。企業が長期的な保障もせず、需要によってかんたんに放り出されるようでは、労働者のほうでも長期的な勤勉観を失ってしまうからである。その日暮らし的な労働観がこれからますますひろがりを見せることだろう。職業の意味や価値は下落し、人々の人生や生きがいといったものも大きく変わることだろう。もはや長期雇用の勤勉観は維持できない社会がやってきたのである。

 社会保障も長期雇用を前提に設計されており、その長期雇用の後の老年期に支給されるというしくみになっているが、雇用が流動化・不安定化すると、若年から社会保障が必要な層がますます増えてゆく。社会保障は失業期間中や雇用訓練としての必要性がますます強くなってゆくのだろう。老齢年金の維持は難しくなり、生涯を社会保障される期間が増えてゆくものだと思われる。もはや時代と環境はすっかり変わったのである。雇用形態の変化に社会制度はフォローアップしていかなければならないのである。

 フリーター国家やその日暮らし社会になってしまうと、われわれは大きな社会意識の変化を迫られるのだろう。長期雇用の社会保障社会はメリットもあったが、長期閉塞や拘束感の強さといったデメリットもあったのである。今でも正社員は「名ばかり管理職」といった長時間労働やサービス残業を強いられて人生を失っている。長期の社会保障はその約束の代わりに人生を捧げろという交換のことであり、そもそも社会保障が生み出されたのは究極的には戦時中に国のために死ぬことの交換によって生まれたものである。社会保障がないことのメリットもないわけではないのである。

 自由に生きて、自由に捨てられて、自由に死ぬ社会は悲惨な面もあるのだが、メリットがまったくないわけでもない。社会や時代が変わったことのメリットや積極面も、おおいに享受するべきなのである。批判や非難しても社会や制度なんてかんたんに変わりはしないのである。積極面を楽しんで享受するしか、個人には選択肢がないというものである。もちろん批判や改善を志向することは大切なのであるが、時代はそれより早く流れ落ちるようである。

 

求人フリーペーパーはトクだけど。。



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 6年前ほどに仕事を探しているときはこんなものはなかったのだが、駅やコンビニの前に求人フリーペーパーなるものがたくさん出ている。おトクだと思ってたくさん集めてきて、ながめてみるのだが、バイトや派遣ばかり。街中のありとあらゆる仕事がバイトで満たされたみたいな感がする。

 フリーペーパーなるものが商売として成り立つのは、企業が広告費を出しているからである。テレビと同じようなもので、視聴者はそれでいっさい金を出さないで情報を見れる。ものすごく不思議で、おかしなしくみだと思うのだが、われわれはそうやって無料の企業に都合のいい、企業にとってメリットのある偏った情報を見せられて、消費や物欲ヅケにされて、企業に都合の悪い情報やデメリットのある情報は知らされないという環境に知らず知らずのうちに慣らされてゆく。ソヴィエトや中国のような情報統制に似ているといえる、ぎゃくの情報放出による統制といったらいいのか。

 「タダほど怖いものはない」という言葉は忘れずに。フリーペーパーにはそういう恐ろしさがひそんでいると思う。「儲かる」といってだまされるサギに近いものである。おいしい話はタダで転がりこんでなんかきやしないものである。偏りや恐ろしさには警戒していたいものである。

 つい数年前は仕事を探すときはコンビニで「ビーイング」や「デューダ」、「アルバイト・ニュース」などをなけなしの金で泣く泣く買ったものである。いまはタダで、しかも数誌ものフリーペーパーが手に入る。失業期間中の節約中にはたいへん助かる情報誌である。しかし甘くはないのである。アルバイトばかり、派遣ばかりの募集なのである。正社員もないわけではないが、ほとんどはアルバイトであり、街の仕事はほとんどアルバイトに満たされたかのようである。仕事はフリーペーパーで探すものだと思っている若者はふらふらとアルバイトの求人に寄ってゆくことだろう。

 ほとんどの仕事がアルバイトである。多くの業種や職種はアルバイトで満たされてしまったのだろうか。学生だけが求人誌を見るとは思えず、社会に出た若者や失職中の働き盛りの人、転職願望の強い人や働きに出たいと思っている主婦がふと手にとる。アルバイトの職しかないのである。もう世の中正社員の仕事はなくなったのだという感もしてくるほどの募集の多さである。

 時給も800円や900円である。単純計算で20日働いたとしても、12万ほどにしかならない。もしひとり暮らしの若者や女性、働き盛りの中年、シングルマザーの仕事がこんな薄給しかないとしたら、どうやって生活してゆくというのだろうか。20代ではひとり暮らしをしたり、家庭をもったりしたいだろうし、シングルマザーなら生活がかかっている。こんな安いバイトの仕事ばかりが町にふれているとしたら、生きてゆけないではないか。いったい世の中どうなってしまったんだろうと思う。年収200万のワーキングプアが一千万人をこえたということだが、この求人誌からその世界はひろがっているのである。

 たしかにかんたんな仕事や新人に与えられる給料が少ないのはしかたがない。しかしこんな安い給料なら生活できないではないか。安い給料やバイトは敷居が低く、気軽にはじめられるというメリットはある。労働市場では人が余ると給料が下がり、人が足りないと給料は上る。そういう市場原理でみなすと、いまは労働価値がどんどん下値に下がっているのだろう。

 給料が安くなると企業は人を雇い入れやすくなるし、求職側にしても敷居はだいぶ低くなる。正社員のように給料や社会保険が高くつくのなら、企業はぐっと門戸をしぼめるし、求職側にしても高い能力を要求されているようでかまえてしまう。給料が安いというのはならずしもデメリットばかりではないのだが、生活ができなかったり、将来の貯蓄ができないような薄給では、将来の希望がもてない。

 中高年の年功コースにのったサラリーマンが500万とか600万とか稼いでいて、いきなり路上に放り出されて、この時給でしか仕事が見つけられなかったとしたら、なにを思うのだろうか。「なんだ、息子のこづかい程度しか稼げないではないか」と絶望してしまうのだろうか。年功賃金はひとつの会社にながくいつづけられるのならよいシステムなのだが、外に放り出されたら、たちまちそれまでの年収の半分以下に落ちるかもしれない恐ろしさがつきまとうシステムである。そしていまフリーターたちの将来も上ることのない時給が世にあふれているのである。まあ、同じ仕事をしていて給料が上りつづけるという右肩上がりのしくみのほうがヘンだったのであるが。

 20代前半の男性の非正規比率は45%ほどに足止めしている。女性では20代をとおして40〜50%である。私はこの流れはとまることはないと思うし、これが未来の労働のかたち、社会のありようそのものだと思っている。もうアルバイトの社会になっているのである。社会や政治、人々はこの状況をどう見なし、どう受け入れてゆくのか、厳しく問うべき時がきたのだろう。

 思えば1990年、18年前にすでににチャールズ・ハンディという経営学者は、「フルタイム・ジョブは時代錯誤」だといっていた。日本では95年の日経連「新時代の『日本的経営』」となるわけだが。

 ビジネスマン価値逆転の時代―組織とライフスタイル創り直せ
 Charles Handy
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「この変化は、いともゆっくり進行してきたので、おおかたの人びとは、この新しい局面に気づかずにいる。
さほど遠くない将来に、常勤従業員は労働力人口のなかで少数派となってしまう。そうなると、仕事と労働の世界はどのように機能していくのか、税金はどんなふうに徴収するのか、個人はどうやって家族を養い生活を設計していくのか、企業はどういう組織になっていくのかといった問題について、われわれの想定は抜本的な転換を余儀なくされる」



 いままさに抜本的な転換をしなければならないときなのだろう。社会制度や社会意識が変えられなければならないときなのである。企業にも国家にも守られない貧しい大量の人たちが生み出される。政府や社会はこの落ちてゆく流れになんの手も打てず、人々もむかしの意識のまま、ただ転がり落ちる人たちを見殺しにするだけなのだろうか。時代ははっきりと変わり、意識と制度が変更されなければならならい緊急のときがきたということなのである。


参考データ
図録▽非正規労働者比率(パート・アルバイト・派遣・契約等の比率)の推移(男女年齢別)
図録▽正規雇用者と非正規雇用者の推移 

平日昼間ぶらぶら



 社会人になれば、たいていの人は平日昼間ぶらぶらできない。もちろんサービス業の人は土日が休めず、平日にしか休日がとれない人も多いだろうが、平日はみんなが働いているという一般的な観念のうえでの話である。働き出すと、平日は自分の自由な時間となることはない。夜遅くや深夜まで残業となったりして、自分の時間を丸一日とることができなかったりする。

 もし平日の自由な時間がとれるとすれば、ズル休みしたり、有給をとったり、祝日があるときくらいである。平日の休みが長期にとれるようになるには、失業するか、ニートになるくらいしかない。いや、大金持ちになって悠々自適に暮らすという方法もあるが、たいがいの人はそれを夢見て、平日休めず一生を働きつづけるものである。

 私はいま平日ぶらぶらできる自由な時間を手に入れている。30代を越えれば再就職先は少なくなるということで、いやいや、むりやり、長く勤めようと思っていた会社をリストラされてしまった。おかげでまた自由で、拘束のない自由な時間を手に入れられたと、ぎゃくにほっとしてしまった。

 40代の再就職はそう生やさしいものではないだろう。しかも私の履歴書は真っ黒、問題あり(笑)というやつである。それでもいまはなにも考えずに平日昼間ぶらぶらできる期間を楽しみたいと思っている。といっても40代の平日ぶらぶらはけっこうこたえるかもしれない。若いときのようなガッコをサボるような優越感を、正直、心にかこつことはなかなか難しい。孤独もひしひしと感じる。

 それでも私は平日の昼間の自由感を味わおうと、今日も平日ぶらぶらする。いましか味わえないだろうから。仕事なんてつまらない、どうでもいいような仕事しか見つからないだろう。だからこそ、いまのなにものからも解放された期間を楽しまなければならないのである。

 平日昼間ぶらぶらして撮ってきた写真をここに載せたいと思う。一部、祝日や休日に出かけた写真もあるが、長い休みにとってはそんなことは関係なくなってくる。平日昼間の自由をここに残しておきたいと思う。この一週間の記録。


奈良の東吉野をつきすすむと、どんどん山奥になってゆく。明治にニホンオオカミが最後に発見された場所であり、古代には大和王朝からまつらわぬ民が住む場所とされたところである。どんな山奥になってゆくのかという感じがする東吉野の山奥。

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東吉野に人の住居がないわけではないし、もっと奥にいっても人の暮らしはあるものである。大阪住まいの私にとっては人が住んでないように思う「秘境」にきたと思うことで、「こんな遠くまできた」という気持ちの解放感と爽涼感をあたえるのである。「未知」や「神秘」が私のつまらない日常感覚に揺さぶりをかけてくれるのである。

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大阪城は私の失業期間中の御用達の休息場所である。失業するたびに近くのハローワークにいき、いい仕事が見つからないと、いつも大阪城公園でのんびり休憩した。仕事を探すより、大阪城にのんびりしにくることが目的みたいだった。ここ十年は中国旅行者の数がかなり増えた。やはり中国人は天下統一の豊臣秀吉を好むのだろうか。ホームレスの本丸であることはいまも変わりはないようである。

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大阪北摂にある能勢妙見山からのながめ。北斗七星信仰の日蓮宗の霊山である。平日いくとがらがら。人っこひとりいないような雰囲気の山頂や寺のなかで、お経の声だけがなり響く。せめてカラスくらいいてもよさそうなのだが、カラスの気配もない。

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海を求めて大阪の南に下ると、海水浴場とともにせんなん里海公園がある。ちょっとシュールな海岸風景がある。駐車場は5時まで、いたるところにバーベキュー禁止などの注意書きがあり、不便この上ないお役所的な公園と海水浴場。地方自治体が囲いこんだ失敗例だと思う。

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バイクで私の好きな山間部にもぐりこもうとしたら、片道1、2時間はかかってしまう上、ガソリンも一日二日で千五百円も使ってしまうのはたまらない。むかし失業したときはマウンテンバイク(自転車)で何時間も走っていたものである。公園や河川でくつろいだ。お金がまったくかからない。バイクは行動範囲を広げてくれるが、やっぱり金食い虫である。

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和泉葛城山ふきんの中腹にある住居群。緑や山の森林ばかりもとめる私は田舎暮らしをしたいのかと自問する。ジュンク堂のような大きな本屋は近くにあってほしいし、けれど景色のいいところ、山に近いところに住みたいし。私はただ山岳の風景、清涼感を味わいたいだけなのか。

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紀ノ川の龍門山あたりの山を高度をあげながらぐんぐんと登ってゆくと、紀ノ川流域の展望が大きく開けてくる。みかん畑の中を転げ落ちそうな急な坂を上り、うっそうとした山道、ひっそりとした田舎道を走る。このような道を走っていると、たまらない安堵感を感じる。たぶんそれは多くの人から承認を受けなくても、自然や人は、生きていいという存在感を表わしてくれるからではないかと思う。自然は人に認められなくても、まったくそんなことも関係なしに自己の存在に満足し、主張しているのである。

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髭は私の「自由の象徴」である。失業してだれからも首輪をかけられなくなったら、髭をのばす。仕事を探したり、会社での風紀的に好ましくないということで、すぐに剃ってしまわなければならないのだが、ほんのつかの間、だれからも束縛されない「自由の象徴」としての髭を生やす。私が髭をのばし放題にできるのは、棺桶の中だけか。ムスリム(イスラム教徒)になりたい(笑)。


関西ぶらぶらマップ


日本人の勤勉とはなんだったのか



 「日本人「勤勉続くと思わない」61%」という記事が読売新聞を飾った。いっぽう、「一生懸命に働くことは美徳だ」という考え方への賛否を聞いたところ、「そう思う」が71%を占め」たということであり、どうも「ワタシたちと違う人たちが日本人の勤勉を崩す」と考えているようだ。「違う人」というのは、企業の労働コスト削減に利用される非正規やニートの人たちであろうが、あいかわらずかれらを「自発的怠慢者」と読みとる人が多いのだろう。

 2008年の労働経済白書をみると、「仕事の満足度」はもともと各項目が80年代から30%と驚くほど低かったのだが、2005年度には軒並み10%代に落ちている。(「第2-(1)-2図 仕事の満足度」5ページ目」

 さらには非正規化や成果賃金で労働意欲や働く気すらなくしている。(「第三節 働く人の意識と社会の課題

 そもそもなぜ勤勉は褒め称えられるのか。よい製品や品質のいいサービスを提供できるからだろうし、勤勉は日本の繁栄やGDPの上位を占められるからだということになるだろう。しかしこのような評価というのは、品質やサービスは顧客ではなく、会社内に向けられることが多くなったし、「お国自慢」や「お国のメンツ」でしかないわけで、庶民や労働者はそういうモチベーションでいつまでも勤勉な仕事をつづけられることはない。

 かつては庶民に自動車や家電、マイホームなどの夢があったりしたのだろうが、それらも充足してしまえば、目標や目的がなくなってしまう。「なにをめざして働くのか」「なんのために勤勉に働くのか」といういちばん根本的な疑問が問題になる。いちばん基本的な目標や目的が溶解してしまったのである。目標や目的がなくなってしまったのに、豊かになるためのハードワークのシステムだけが残ってしまい、われわれを拘束し、ムチ打つ。労働の勤勉観も意欲も満足度も、軒並み落ちるしかないのである。

 勤勉に働く意味がなくなってしまったのである。労働意欲を維持する土台がなくなってしまったのである。どうやって勤勉や意欲を維持するというのだろうか。ほしいモノがなくなり、豊かな生活や安定した保障を得るためだけに、経済を繁栄させ、仕事を創造し、継続しなければならない。いちばん重要な骨組みや土台がなくなったところに、経済の循環や繁栄を求めたところで不可能というものである。

 もう日本人には勤勉も意欲も満足も労働から得られないのである。それなら日本人のホンネのところで生きるべきではないだろうか。もうハードワークの仕組みやシステムを解体すべきなのである。このシステムは成長や発展という目的があるばあいには有効に働くのだが、目的がなくなってしまえば、拷問や拘束装置にしかならない。この装置を解体して外すべきなのである。日本人が幸せになるのはこれしかないだろう。日本人をハードで長時間の労働から解き放ってやるのである。目的なき「漂流ニッポン人」にはそれがふさわしいのだろう。

 ヨーロッパのようにバカンスが一ヶ月や二ヶ月とれるようになるのが好ましい。労働や会社だけの人生に日本人はすっかり疲弊し切っているのだが、日本人には「働かないで暮らす」、「働かない期間を楽しむ」という発想を思いつきもしない。それが日本人の人生の貧困さや、つまらなさ、窮屈さを生み出しているのだが、むやみな勤勉観や労働美徳説なんかがまかりとおっているため、人生を壊滅させる。

 労働の満足度が10%台というこれほど労働に満足を感じないお国柄なのに、どうして日本人は労働と会社に人生を多く縛られるシステムをつづけているのだろうか。企業社会がまことに強健な権力で日本人の人生と時間の大半を強奪しているのである。この労働強制キャンプのようなしくみは高度成長の目標や夢があった時代には合理的であったのだろうが、それがなくなり、仕事の満足が得られない時代になれば、強制労働収容所になって人生の強奪と剥奪になる。

 そもそも日本人の勤勉とはなんなのだろうか。日本の生産性は輸出市場に進出するような一部の製造業をのぞき、生産性はけっして高いとはいえない。大半の人は生産性でないところに勤勉を見出す。その勤勉というのは、長時間会社に残って残業をしたり、あるいは会社の仲間とつるんでゴルフに行ったり居酒屋にいったりすることではないのか。すなわち「共同体」の拘束や束縛に勤勉であるということであり、仕事や労働に対してではない。勤勉というのはつまり仲間意識の醸成に勤勉ということなのである。あるいは仲間との協調や一体感である。日本人にとって勤勉とは仕事仲間の規律を乱さないということではないのだろうか。生産性に向けてのものではない。

 そのような共同体意識の強い日本企業にアウトソーシングや非正規雇用の流れがやってきた。つまりは共同体意識の破壊であり、否定である。概してこれまでの中高年や正社員はフリーターや非正規を働かない、怠け者だと認識しているようだ。だから正社員になれないと考える。共同体への勤勉が断ち切られ、ますます働く意欲や気力をなくす。共同体があったからこそ働く意欲を駆り立てられていたのだが、その絆が断ち切られれば、日本人の勤勉観はかんたんに失墜する。能力主義によって給料も落とされる。漂流ニッポン人は内部崩壊や精神の空洞化がますます進む一方である。日本人の勤勉観をかろうじて支えているものは、年金や健康保険、あるいはマイホームやマイカーの借金の「支払い」のみなのかもしれない。これでは景気が回らないので未来は先細りするばかりである。

 日本人はもう勤勉でもないし、仕事の満足もちっとも感じていないし、労働意欲や働く気をすっかり失っている。ほしいモノもないし、したいこともないし、海外旅行に行きたいとかクルマがほしいという若者もすっかり減ったし、出世したり金持ちになりたいというモチベーションもないし、なんらかのほかの目標や野望が大きいというわけでもない。すっかり失われた=ロスト・ジェネレーションなのである。今日の若い世代があらわしている特徴、ニートやひきこもり、フリーターというのは明日の日本人の姿でもあるのだろう。目標や夢がないのにどうして労働だけ勤勉でがむしゃらに働けるというのだろうか。すっかり無欲に貧困に生きるしかないではないか。

 もう日本人は坂を落ちているのではなくて、すっかり坂を下りてしまったのだろう。そしてなんの目標も夢もない。ただ坂をのぼっている最中の馬力状態を、そのゆるゆる精神で乗り切っているだけである。骨のないクラゲのようなものだ。

 もう上る坂はないのである。そして勤勉も仕事の満足も意欲もない。そういう精神モードにあった形に社会に労働システムを変えてゆくしかないのである。フリーターやニートに合ったような形に社会を変えてゆくのがいちばんびったりした未来社会なのかもしれない。日本人の今日の精神モードにはそのような形態しか合わないのである。日本の近代化はおおよそ130年つづいたが、それは終わってしまったのである。あとは江戸時代やひと昔前のアジアのように貧しい、怠けた社会に戻ってゆくしかないのだろう。それが時代の趨勢というものである。


参考URL、本 第6回 日本人は勤勉ではない 〜本当に新しい歴史教科書・PART1〜 反社会学講座
 第7回 続・日本人は勤勉ではない 〜本当に新しい歴史教科書・PART2〜
 日本人の勤勉神話ができるまで  加藤哲郎

反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)勤勉の哲学 (NON SELECT)日本資本主義の精神 (山本七平ライブラリー)

正社員はどうすれば自由になれるのか



 永井俊哉が「どうすれば労働者の待遇は良くなるのか」という論文を書いていた。この何日か解決策を考えていたのだが、いい案が浮かばないので、書きながら考えることにする。

 永井俊哉は派遣やワーキング・プアの劣悪な労働条件を憂えたあと、正社員も定年雇用制の犠牲者であると説く。

 

 彼(中国人の経営者)が言うわけですよ、日本で会社を経営するのは楽ですよと。業績が悪くなったら給料を減らせばよい。また悪くなったらさらに削る。こうしてどんどん給料を減らしていっても、社員はほとんど会社を辞めない。こんなに会社経営が楽な国はないって。中国で同じことをやったら、社員はあっという間に霧散して一人もいなくなる。米国だって同じ。だから、経営者は第一に社員の処遇を考えなければならない。処遇の改悪はぜったいにできないから、本業で業績を上げることを真剣に考え、取り組まざるを得ないわけです。



 たぶん日本の会社員でこのような選択肢があるなどふつう考えないだろう。家族主義や終身雇用、滅私奉公の精神があるからだと日本文化のおかげにする輩もいるが、年功賃金や退職金、あるいは社会保障というウマみに縛られているに過ぎない。辞めたらソンなのである。歳をとったら転職先もないと悲観視する。実質的には鎖に繋がれて檻の中に監禁されていることと同じである。

労働者たちが経営者に対して「待遇を改善しないと他の会社に行くぞ」と脅すことができるようにならない限り、労働者の待遇はいつまでたっても良くならないだろう。


 明治のころは日本は転職率世界一であったから、このような脅しをいくらでもかけられた。しかし熟練工の定着率を高くしようと諸手当や福利厚生を充実させてゆき、戦時中の転職禁止法などによって、転職の自由は奪われるのである。つまり戦争の国家総動員体制が日本の高度成長の経済力や企業の競争力の源泉になったのである。年金や健康保険の企業の負担がそのとどめを刺したと思われる。

このように虐げられているにもかかわらず、囚人たちは、檻の鉄格子を、自分たちから自由を奪い、自分たちの生活を惨めにしている桎梏としてではなく、自由経済の荒波から自分たちを守ってくれるありがたい防御壁と勘違いし、そこから脱出しようという気を全く持たない。そして、囚人たちを、檻の中から解放してやろうとすると、彼らは「俺たちを殺すつもりか」などと言って大騒ぎをし、鉄格子にしがみついて抵抗を試みる。辻広雅文氏の文にあったように、日本の正社員たちは、檻の中に監禁されていることを自分たちの「既得権益」であると思って、むしろその維持に懸命になっているのである。



 このような文脈の中では派遣やフリーターは悲惨な流動的な労働者なのである。今日の非正規悲惨説は、刑務所の檻の窓からの嘆きでしかない。定年までの安定を至上目的とした戦後のサラリーマン社会は檻の中の安定と保障を至福のものとして夢想してきたのである。このような勘違いがあるかぎり、正社員の自由はないだろうし、そして非正規労働者の改善は見込めないだろう。

 ダイヤモンド社の辻広雅文は「正社員のクビを切りやすくする改革は受け入れられるか」という記事を書いているが、法関係者からはその方法が模索されはじめているそうだが、監獄の楽園を夢想している世間からは、非難轟々のバッシングを受けることは間違いないのである。

 安定と保障を最高の価値におくと、ひとつの会社から抜けられなくなる。それは社会主義のトップダウンのほかの選択肢や商品選択ができない体制と同じである。共産党に指示されれば、決められた国営企業に勤務しつづけなければならないし、商品も党の決めた商品しか選べない。無理や難題を押しつけられてもほかの逃げ場所がない。おそらく北朝鮮や社会主義の国民はほかの選択肢をまったく知らないまま、自由や選択をどんどん奪われながらも、その場所にとどまりつづけているのだろう。日本の正社員もかれらとなんら変わりはしない。バブル期までは経済的に成功したが、国民の豊かさや自由度において成功したとはまったく思われない。

 長時間労働やサービス残業、過労死はますますひどくなってゆく一方だし、この国のサラリーマンが豊かで自由だとまちがってもいえないだろう。国民や労働者の自由や豊かさはどこにあるのだろう。私たちは安定や保障という楽園のためにみずから奴隷の檻の中に入り、自由や豊かさをみずから放棄し、檻の外に出されることを恐怖していないだろうか。檻の外は「非正規労働」という恐怖や転落が待っている。やっぱり檻の中が安定していて、困ることはないと安心するのである。檻の中で守られようとすればするほど、若年層の非正規雇用はその負担を背負って、賃下げや不安定労働を強いられることになるのである。

 問題は檻の中の安定や保障のウマみであり、社会主義メンタリティティの強固さなんだろう。これはどうすれば崩れるのだろうか、あるいはこの不自由さや奴隷性に気づくことができるのだろうか。

 ジャン・ジャック・ルソーが200年前に嘆いたようにこれは人間のサガ・本性というものなんだろうか(『人間不平等起源論』)。

彼は自分の卑しさと彼らの保護とを得意になって自慢する。そして自分の奴隷状態を誇り、それにあずかる名誉をもたない人たちのことを軽蔑して語るのである。



 このようなメンタリティの愚かさ、奴隷根性を破壊できないものなんだろうか。これこそがわれわれ日本人の奴隷性とそれに気づかない愚かさを生み出しているのである。ハイエクも社会主義や福祉国家がはじまる社会の「奴隷国家」への人々の保障依存主義に嘆いているのだが、われわれの社会はどの母親も公務員や安定大企業の就職をすすめる国になっている。わが子が長時間労働やサービス残業で人生を捨てようと、過労死で命を落とそうと、保障や安定のある大企業がいいと、息子をせっせと奴隷の楽園に押し込もうとするのである。奴隷の子は奴隷である。

 奴隷はあんがい自分が奴隷だなんて思いもしないものかもしれない。なんらかのきっかけでふいに自由の身になったりすると、はじめて奴隷の不自由さに気づくかもしれないが、あるいは自由に恐怖してさっさと奴隷の身に舞い戻るだけかもしれない。自由というの貧困や差別や不安定さと表裏一体である。奴隷にはそれが恐ろしくてたまらない。だから檻の中に必死に逃げるのである。そういう人間の弱さというのはどうしようもないものなんだろう。

 日本人はいつ貧困や不安定さのなかに自由というものを見出し、自分たちの奴隷状態に気づくことができるようになるのだろうか。それが経済的成長をへたあとの「成熟社会」とよばれるものかもしれない。せめてわれわれは非正規雇用が望む正社員も檻の中の奴隷であるという悲愴視を保ちつづけるべきである。晴れて非正規雇用が正社員になれたとしてもべつの地獄が待っているだけである。そして私たちはこの特権天国といわれる奴隷状態から、日本人を逃すべきではないだろうか。


隷属からの自由
隷従への道―全体主義と自由自由をいかに守るか―ハイエクを読み直す (PHP新書 492) (PHP新書 492)選択の自由―自立社会への挑戦 (日経ビジネス人文庫)資本主義と自由 (NIKKEI BP CLASSICS)

雇用の流動化は自由をもたらさないのか



 雇用の流動化はこんにち、「ネットカフェ難民」や「ワーキングプア」といった悲惨の相で語られることが多い。派遣やフリーターは「先が見えない」「将来の保障がない」「給料が上らない」「差別的待遇をうける」といったことがささやかれる。そのような悲惨な一面はたしかにあるのはまちがいない。

 でも悲惨の一面だけなのかと私は思う。多くの非正規雇用者が正社員になりたいというが、金銭や保障にめぐまれた正社員は多くの犠牲や代償を払っているものである。一生を拘束されるような閉塞感や滅私奉公、長時間労働、義務的な愛社精神や社員同士の一体感といったものも要求されるのである。安定や保障はタダではないし、安い奉仕で手に入るものではない。人生のすべてを提供する代わりに与えられるのが正社員の保障である。安定や保障は与えられる代わりに自由はまったくなかった。このような代償の代わりに与えられる人生は監獄の社会主義の安定と保障であったのである。

 かつて日本人にはこのような選択肢しかなかったから、90年代にフリーターが現われたとき、世間から怠けのバッシングと視線、そして少々の憧れをもって語られたのである。こんにちの格下差別、給与の切り下げといった面はあまり語られなかった。正社員保護のための犠牲になっているという認識もなかった。

 雇用の流動化と生活の不安定化の悲愴視は保障と安定の正社員のイスからながめられた相なのだろう。それは不安定化を怖れる保障正社員の内面の投影でもある。かれらは保障された奴隷のイスに安穏としていたいから、世論の言説を流動化の悲愴視にもっていきたいのである。「われわれは保障されているが、かれらはかわいそう」だということである。かつて「もたざる者をもつ者へ」という正義感のポーズがあったが、「もたざる者」の悲愴視でかれらを救い出さなければならないという言説はいまでも保障のイスのうしろめたさや罪悪感を癒す甘いクスリになるのである。

 雇用の流動化は選択の多さや自由をもたらさなかったのだろうか。正社員の一生を与えなければならないという重さの代わりにフリーターや派遣は短期契約の気楽さや責任の軽さを味わわなかっただろうか。この会社に一生に勤めなければならないという重さの代わりに「いやになったらいつでも辞めればいいや」「合わなかったらまたほかの会社を探せばいいや」という気楽さを与えたのではないのか。給料は安いし、年齢制限から先の保障がないという恐れもあるのだが、フリーターはこのような気楽さをその代償として得たのではないか。正社員契約では一生の重石が重くのしかかってきたのである。それは保障と賃金上昇とのトレードの関係でもあったのである。

 企業が正社員に年功賃金や社会保障を与えたのは、かつて世界一の転職率を誇った熟練工の定着のためである。会社に長く勤めれば給料も上るし、年金などの保障もありますよといった約束で社員の定着化が計られたのである。これは大量の人出不足感と大きな成長が見込めるという前提の経済状況で約束された企業側の思惑でなったものである。売り手市場が長くつづいたために閉鎖的労働市場をつくるために正社員の終身雇用や社会保障は乱発されたのである。

 こんにち代わって訪れたのがそれとまったく逆の買い手市場と止まってしまった先のない成長である。労働者を定着させる必要もなくなり、それよりか仕事の量による雇用調整ができなくなってしまったのである。この社会はすっかりと終身雇用と社会保障の人生観に染まっているから、急に保障された人々を放り出すことができない。バブル崩壊後の中高年リストラは世間から徹底的に叩かれた。おかげで早期退職者制度でごまかすしかなかった。そして新卒や若者の労働市場を、こんにちの経済状況に合うように密かに変えていったのである。中高年は安心しきって、若年層の雇用の融解化という現実を視野から外せば嵐の存在を目にせずにすんだのである。

 需要と供給の労働市場が大きく変わってしまったのである。そしてその労働市場にマッチするようにつくられたのが若者の労働市場であり、旧来の社会環境でとまっているのが閉鎖的な正社員慣行である。ふたつの時代、ふたつの社会システムが併存している過渡期といっていいかもしれない。市場主義と社会主義がそれぞれの世代によって生まれてしまったのである。そしてマスコミの言説はこの社会主義陣営にいまだに属する者たちによってなされるものである。「非正規悲愴視」はそこからつむぎ出される。極端にいえば、ソ連と北朝鮮のプロパガンダのようなものである。

 とはいえ、雇用の流動化による生活の不安定化はまぎれもない事実である。非正規の賃下げや保障のなさは悲惨視されるべきものだろう。ぎゃくに正社員の安定も長時間労働や滅私奉公の犠牲に得られるという悲愴視の視点もしっかりともたなければならないだろう。こんにちの多くの若者がこのような労働条件を望ましいものと思っているとは思えない。かといって非正規では、といったところが現実だろう。ふたつの陣営のメリットとデメリットがせめぎ合っているといったところだが、この先にある流れはもう止めようがないものだろう。

 われわれは個々人は経済や社会の流れを変えることはできない。せいぜい経済の環境に適応するように心がけるか、現実を受け入れるしかない。否定や批判は私たちをさいなますだけである。肯定や受容が私たちの生活をラクなものにしてくれる。流動化の悲惨視を真に受けると、痛めつづけるのは自分になってしまう。闘う怒りに身を焦がすのもいいが、焼くのは自分自身という犠牲である。デメリットばかりを見るのでなく、メリットや肯定を見てゆく必要もあるのである。それはどんな時代でも環境でも普遍的な真実であると思う。

 こんにちの市場主義の流れをつくったミルトン・フリードマンはこういった。(『選択の自由』から。小泉改革が市場主義をはじめたのではないですよ。80年代のサッチャーやレーガンからはじまっています)

「大半の労働者にとってもっとも頼りになる有効な保護者は、多数の雇用者が存在しているという状況そのものだ。

一人の労働者は、自分を雇ってくれる他の雇用者がいく人も存在しているということによって、自分の現実の雇用者から保護されることができる。また雇用者も、自分が雇用できる労働者が他にも存在していることによって、自分の労働者から搾取されないように保護される」



 終身雇用のような閉鎖的労働市場は労使双方にとって守られない状況を生み出してしまうのである。長時間労働や滅私奉公、休みや自分の生活がない人生といったこんにちの日本人の人生はこの閉鎖的雇用環境から生まれたのではないだろうか。このような人生がのぞましいとはとても思えない。

 しかし雇用の流動化では底辺で悲惨な状況がおこってしまうのは事実である。だからといって雇用の安定が悲惨な人たちを生み出さなかったとはいえないだろう。はっきりいって雇用の安定化は悲惨な長時間労働の大量の日本人を生み出したのである。ならば流動化のメリットを見ようではないか。社畜の人生からの解放という自由がそこに開かれているかもしれないのである。もちろん保障や安定のなさ、格下差別といったものが待ちかまえているだろう。ものごとにはいろいろな面があり、解釈は自分の選択にゆだねられている。なにも世間の解釈を絶対のものとする正当性などない。私たちは雇用の流動性に自由や日本人の新しい文化や生活を見い出してゆくべきではないだろうか。社畜の奴隷の人生がそんなにいいのだろうか。

派遣労働者のテロや治安悪化はおこってしまうのか



 秋葉原の無差別殺傷事件は派遣労働者の差別やリストラが引き金となったと捉えたほうがいいだろう。差別的待遇や雇用をすぐに打ち切られる、将来の安定や保障はまったく見込めない、世間からさげずまれたり、将来性を期待できないといった非正規雇用の不安定労働の閉塞感を世間に訴えるために犯行はおこなわれたと見るべきだ。

 秋葉原の無差別殺人、の巻 マガジン9条〜雨宮処凜がゆく!〜(057)
 【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式 何かごにょごにょ言ってます
 秋葉原通り魔殺傷事件(その9)「加藤の乱」就職氷河期世代の叛乱 天漢日乗
 派遣労働者諸君 自殺するな! 社会に復讐しろ! 反米嫌日戦線「狼」(醜敵殲滅)
 派遣工員「“加藤智大”の気持ちは痛いほど理解できる」 低気温のエクスタシー

 東北地方の工場派遣を転々とし、ライン作業などの工場労働の救いのなさ、そしてリストラの予期と現実に解雇が宣告された事実。容疑者はこの境遇に――多くの若者がおかれている境遇であるが、マスコミや社会がいっこうに救おうともしない現状、そして「正社員になれ」「どうして正社員にならないのか」といった親や世間の無理解の障壁。日本社会は基本的に若者のこのような労働の不安定さや流動性を無視したり、目をふさぐことによって、これまでの安定した社会を維持しようとしている。

 世間が見ないようにしているから、加藤智大容疑者はみずからの労働状況をワイドショーで伝えられるだろうことを予期して、自殺テロをおこなったのである。池田小殺傷事件の宅間守がおかした犯行と同じ日に選び、みずからを格差社会の「脱落組・自殺テロ」と系譜づけたのである。
 

安定した雇用や生活保護は貧乏でかわいそうだからやるんじゃない
治安対策なんだ



 先にリンクした「秋葉原通り魔殺傷事件(その9)「加藤の乱」就職氷河期世代の叛乱 天漢日乗」の引用スレッドにこういった言葉が書き込まれていたが、まさにそういった治安悪化の怖れを放置したままに若者労働の流動化・非正規はおこなわれてきたのである。

 この二十年になし崩し的に派遣労働はひろがり、すっかりおとなしくなった日本の若者や労働者は不安定雇用で差別されたり、解雇されても、唯々諾々と従ってきたのである。企業福祉が機能していた時代の名残りや余韻のために声を出さない若者たちがどんどん犠牲になっているのである。若者労働の実態は戦前のプロレタリア文学『蟹工船』が読まれるようなものになっており、教科書でしか読んだことのない労働争議やストライキが頻発してもいいような状況になっていても、まったく世間のカヤの外におかれているのである。

 企業は忘れているのである、雇用の流動化や解雇がどんな社会状況や治安悪化をもたらすかということを。企業による解雇規制や社会保障は治安の安定というリスクにも費用をかけていたことになる。そしてそれを捨てて解雇や流動性をすすめれば、犯罪や凶行の温床となり、治安悪化や内戦の怖れすら出てくるのである。社会は険悪な雰囲気になり、恨みや憎悪のうずまく場所となる。今回の事件はその未来の予期を切り開くことになるかもしれないのである。

 これまで日本社会が治安のよい国として知られていたのは、ひとつには企業と政府による社会保障が充実していたからだろう。それに酬いるかたちで労働者は滅私奉公やサービス残業もいとわずに働いてきたわけである。もし解雇や流動化がかんたんにおこなわれるようになれば、幸せな交換関係はいっさいご破算になり、企業と労働者の蜜月関係は終わり、そして社会と人間の関係も憎悪と怨恨のうずまく場所となるだろう。社会保障というのは日本の治安維持にも費用を払っていたのである。今回の事件はその幸せな関係の破綻を宣告したことになる。

 秋葉原で襲撃がおこなわれたのも意味がないことではない。労働問題は社会の片隅、特殊な人たちの問題として片づけられる。新聞やニュースはつたえられるのだが、われわれ国民の一般性や普遍性のある問題として意識されない。つまり自分もそうであるという感情がわかないのである。もしこの容疑者が経済界や一企業に自殺テロをおこなったとすれば、右翼や過激派のおこした犯行のように関心外におかれるだろう。だから普遍性・一般性のある問題として、注目される場所で「だれでもない」無差別の通行人に刃が向けられたのである。

 われわれの社会はあやふやにしてきた問題の岐路に立たされている。企業や政府は国民の社会保障をおこなうのか、それとも見棄てるのか。政府は社会保障をなんとか維持しようとし、一方では企業は社会保障を捨てていき、国民の社会保障メンタリティに断絶と亀裂が走ってしまっている。

 一方ののん気な国民は年金や健康保険の維持に必死で、企業の社会保障や安定雇用の信頼や永続を信じてやまない人たちがいる。この人たちは「なんで正社員にならないのか」とのん気にのたまう人たちである。一方では派遣労働のようにいつクビを切られるかわからず、社会保障もかけてもらえず、差別されたり、「国民」的待遇からこぼれ落ち、いわゆる「国民」とよばれるアイデンティティから外れた労働者の層も増殖している。このふたつの亀裂・断絶が深刻であるがゆえに、眼目を集めるように企図された無差別殺人はおこなわれたと見るべきだろう。

 全国の派遣労働者を雇っている企業・職場は今回の事件で、自分たちが刃の対象である、うしろから刺されるかもしれない事をおこなっていたことを胸の片隅に知って冷や汗をかき、雇用のジャスト・イン・タイムやカンバン方式の合理化が、倫理的にどういうことなのかをうすうすと感じたことだろう。日本の「オジさん」「お父さん」とよばれる道徳的に敬称される人たちはそのようなツラの下でこのような冷酷なこともおこなってきたのである。若年層は社会や人々を信頼できるだろうか。

 これから日本は選択を迫られることになるだろう。企業が生き残るために若年労働者を路上に放り出すようなことを平気で行い、社会の治安と信頼を破滅させる社会がよいのか、それとも若年労働の安定と治安を守るために彼らの安定と保障を企業に徹底するか、もしくは雇用規制と社会保障に守られた既得「正社員」の待遇を若者の不安定さまで引き下げるか。

 多くの方の犠牲者を出さないためにこの社会は経済的な解決策よりか、道徳的な解決策が求められるのだろう。ただし市場原理に逆行するようなかたちは問題を二倍にするだけだろう。正義や道徳は市場にそぐわない。守ることより、落ちても徹底的に復活できる制度がのぞましいのだろう。

 企業は自分の都合のいいように好き勝手なことをしていると、治安悪化のコストというしっぺ返しを喰らうこと、または労働争議のコストを支払わなければならないということを肝に銘じなければならないだろうし、マスコミや社会も治安悪化のコスト、あるいは自分が刺され、殺される、テロの対象になるかもしれないという物騒な犠牲も支払わなければならないということを知ることになるだろう。人件費を削り続けると、治安悪化のコスト、または少子化のコストも背負わなければならないのである。これは私たち自身ひとりひとりの道徳的問題でもあるのだろう。

参考URL
派遣会社の仲間意識の失敗」 私の派遣の経験から。

犯罪の九割は失業率で説明がつく 松尾匡のページ
はてなブックマーク > 犯罪の九割は失業率で説明がつく
失業がもたらす痛み 大竹文雄 PDF
失業率と犯罪率 G7版 svnseeds’ ghoti!
不況の社会的費用 大竹文雄 PDF


派遣労働の文献
派遣のリアル-300万人の悲鳴が聞こえる (宝島社新書 243)製造業崩壊―苦悩する工場とワーキングプア雇用融解―これが新しい「日本型雇用」なのか雇用破壊 非正社員という生き方
偽装請負―格差社会の労働現場 (朝日新書 43) (朝日新書 43)日雇い派遣―グッドウィル、フルキャストで働く (シリーズ労働破壊 2)日本残酷物語〈5〉近代の暗黒 (平凡社ライブラリー)近代ヤクザ肯定論―山口組の90年

追記 事件発生から一週間後にあの宮崎勉の処刑が執行された。……やるのか。対決の姿勢をあらわにしたのか。これはまるで「鬼さん、こちら、手の鳴るほうへ」と宣言しているようなものである。テキは私であると手を鳴らしたようなものである。明確な対象と図式をあらわにしただけではないのか。いったいどういう時代になってゆくというのか。日本の平和で治安のよい時代はここに終焉を迎えることになるのだろうか。

格差社会の底辺でも幸福になる考え方



 格差社会の底辺でうちのめされて無差別殺人に走ってしまうという犯罪がおこってしまったが、どうしてそんな単純な格差社会のモノサシやヒエラルヒーを真に受けてしまうのだろうと私など思う。

 「勝ち組」や「負け組」なんて日経新聞あたりがいいだした商品戦略にしかすぎないし、人間の序列やヒエラルキーって社会にひとつのモノサシしかないわけなどないし、いろんな測り方やランクづけができるものだし、はっきりいって人の数ほど無数にあるといっていいほどだし、そもそも人間の幸福なんて人との比較優劣から生まれるものなんかではない。人と比較すること自体が地獄行きの入り口なのである。

 格差社会の底辺に落ちてしまったからといって即不幸になるわけではないし、たとえそうだとしても楽しみや喜びや安穏はいくらでも見つけることができるし、はっきりいえば人類の大半の人は負け組や底辺でも生きてきたのだし(南半球の貧しい人たちはどうだ?)、それでも人生を全うしてきたものであるし、そういう底辺や悲惨な環境でもたくましく、頑強に生きてきた人たちに讃美や称賛が集まってきたものである。底辺は人生の終わりなんかではなくて、ある意味人との比較から解放された天地でもありうるのである。

 もしかして学歴社会や大企業信仰などのヒエラルキーをまともに信じている人ってどれくらいいるのだろう。まさかそういう人生しか生きている価値がないだとか、そこからもれたら生きてゆくことができないだとか、落ちこぼれだとか、そういう単一の価値観しか信じていない人っておおぜいいるのだろうか。

 学歴というのはテストに受かる能力であって、単一な頭のよさを測るひとつのモノサシでしかなくて、そこには人格のよさや道徳的な高さとか、幸福な人生を生きられるとか、優しい人たちに囲まれた人生を送るのなどの評価軸はいっさいない。人生の幸福というのはこういうテストのモノサシからもれるところにあるのであって、学歴の軸にそのような決定点があるわけなどないのはだれでもわかることだろう。

 個人的なことを申せば、私はいい大学に入るだとか、大企業や有名企業に入って安定した豊かな生活を送ることにひとつも憧れや夢を抱いたことがない。有名大学を卒業した教師は弱っちろくて生徒にバカにされていたし、名の通った大企業に就職して偉そうにしても看板の陰に隠れる卑怯さが透けて見えるようで、憧れなど感じる人たちの感覚が理解できなかった。私はもともと世間の上位に来る価値観や優位性といったものにちっとも憧れなかったので、そういう基準のモノサシやヒエラルキーで判断されたとしても痛くも痒くもない。それがツライ人というのはそういう価値観に賛同できたり、憧れを感じられる人だけであって、価値観や優劣観が違うとまったくそのモノサシは無効になるのである。

 格差やヒエラルキーというのはあるひとつの価値優劣を基準につくられるのであって、もしそんな価値なんてどうでもいいと思えば、そんなモノサシなんて瓦解してしまう。相撲でもスポーツでももし勝つことや記録になんの価値があるのか、意味があるのか、どうでもいいことじゃないかという価値観でまなざしてみたら、そういうモノサシの根本からぽっきり折れてしまうものである。勝ち負けなんてものはひとつの価値優劣の「信仰」であって、その価値観を無意味なものと見なせば、価値や負けなんていう概念は存在し得なくなるのである。

 今日の日本で格差社会の上位にくるものというのは金が儲かったり、大企業や安定企業に勤めていたり、贅沢な消費三昧な生活がおくれるということなのだろうが、古今東西の人類すべてが憧れる単一の唯一の目的や憧憬などでは断じてないだろう。多くの人は金持ちや安定に憧れるものだが、貧乏や不安定、はては漂泊や自由を最高の価値におく人もたくさんいるだろう。そういう人たちにとって日本の格差のモノサシは役に立たないし、無用の長物である。人はそれぞれ無数の価値基準をもっているもので、もし自分の価値観でヒエラルキーをつくるのなら、世界の格差構造はたいへんに異なった、多様で、より多くのバラエティーに富んだものになるだろう。はっきりいえば、自分の価値観を最高におくヒエラルキーにご満悦しておれば、人生はそれで幸福なのである。

 それにしてもどうして人は世間で流布される単純な単一のモノサシで人を測ってしまうのだろう。学歴と大企業の単純なモノサシで測るような人間はきっとマスコミや世間様のプロパガンダを真に受けて、神様仏様なみにそのモノサシを信仰する皮相な人たちなのだろう。単純で、わかりやすくて、一般受けするモノサシかもしれないが、そんな単純なモノサシでしか人を測れない人はおそらく自分独自の価値観や基準、または幸福をもたない人たちなんだろう。そういう人たちは自分自身の幸福や安穏をけっして見つけることができないのだろう。

 今日、格差社会が人々の上に衝撃や苦痛、または屈辱を与えているようだが、べつに格差や階層といったものは今日の人類にはじまったわけではなくて、人類も大昔から悩んできたものである。日本の歴史もいろいろ格差や階層が重くのしかかってきて、それを凌ぐいろいろな知恵や方法を生み出してきたのである。というか、日本やアジアは格差社会でも苦しまない生き方や考え方を生み出してきた宝庫みたいなところである。中国の老荘思想や隠遁思想はもろ格差社会からの逃避をめざしたし、仏教もさいしょから競争や格差から降りる生き方を推奨してきた。さっさと競争や格差から降りる生き方を古来の日本はずっと説いてきたわけである。自分たちの過去の叡智をちっとも思い出さない、忘れ去ってしまっているとはなんて不幸なことなんだろう。

 いぜんに私は「ステイタスの不安を解消するために」という古今東西の賢者のアンソロジーを組んだことがある。格差社会でも幸福になれる考え方をいくつか抜き出そう。

 ■豪奢な人は、いくら富裕であっても、(ぜいたくをするので)、いつも不足がちである。ところが、倹約を守る人は、いくら貧乏であっても、(つつましいので)、いつも余裕がある。――『菜根譚』

 ■世人は名誉や地位があるのが楽しみであることを知っているが、名誉も地位もない者の方が、もっとも真実な楽しみを持っていることを知らない。また、世人は飢えとこごえで衣食にこと欠くのが憂いであることは知っているが、衣食にこと欠かない富める者の方が、いっそう深刻で憂いを抱いていることを知らない。

 ■富貴の家の中で生長した者は、その欲望は猛火のように盛んであり、権勢に執着することは激しい炎のように盛んである。

 ■(人間の欲望には限りがない)、物を得たいと欲ばる者は、金を分けてもらっても、その上に玉をもらえなかったことを恨み、公爵の爵位を与えられても、その上の領土を持つ諸侯にしてくれなかったことを恨む。このようにして権門豪家でありながら、我からこじき同然の心ねに甘んじている。
 (これに反して)、ほどほどで満足することを知る者は、あかざのあつものでも、よい肉や米よりもごちそうであると思い、布で作ったどてらを着ても、高価な皮ごろよりも暖かいと思う。このようにして貧しい庶民でありながら、心ねは王侯貴族よりも満ち足りている。

 ■財産の多い者は、莫大な損をしやすい。だから金持より貧乏人の方が、失う心配もなくてよいことがわかる。また地位の高い者は、つまずき倒れやすい。だから身分の高い者よりは身分のない庶民の方が、(つまずく心配もなく)、いつも安心してられてよいことがわかる。

 ■お前さんは名声をとうとばれているようだが、名声というものは公共の道具、財産であり、自分だけが欲ばって多く得ようとしてはならないものだ。
 富をよしとして追求するものは、自分の財産をゆずることができず、高い地位にあることをよしとするものは、人に名誉をゆずることができず、権力を愛するものは、人に権力の座を与えることができない。これらのものを手にしているときは、失うことを恐れて震えおののき、反対にこれを失えば嘆き悲しむ。しかも、このあわれむべき状態を反省することもなく、休むひまもない営みに目を奪われているものは、天から刑罰を受けてとらわれの身となっている人間だというほかない。――荘子

 ■欲望が多すぎることほど大きな罪悪はなく、満足することを知らないほど大きな災いはなく、(他人のもちものを)ほしがることほど大きな不幸はない。ゆえに(かろうじて)足りたと思うことで満足できるものは、いつでもじゅうぶんなのである。――老子

 ■もうしばらくすれば君は灰か骨になってしまい、単なる名前にすぎないか、もしくは名前ですらなくなってしまう。そして名前なんていうものは単なる響、こだまにすぎない。人生において貴重がられるものはことごとく空しく、腐り果てており、取るにたらない。――マルクス・アウレーリウス

 ■放念した者は損をしても悩まない
 この世にまったく所有欲をもたない者は、たとえ自分の家を失ってもその損失を悩むことはない。――アンゲルス・シレジウス

 ■平穏無事を求める者は、多くのものを見逃す
 人よ、けちけちと自分の財産だけを守ろうとすると、あなたはもはや真の平安の中に住まなくなるだろう。

 ■欲の深い者は足ることを知らない
 足ることを知っている者はすべてをもっているのだ。欲深く多くを求める者は、どんなに多くのものを得ても、まだまだ足りないと思うのである。



 これらの賢者の言葉には金や名声や権力をもつことの悲劇や悲惨さ、苦しみが描かれている。それらの羨ましいと思われるものをもった者こそが、多くの悲しみや苦しみに虐げられるのである。権力や大切なものをもてば、奪われる心配や失う恐れとたえず格闘しなければならなくなるし、欲望には切りがない。そしてそれと比較してそうでない者たちの安寧や幸福を説くのである。落ちこぼれや格下であろうと、幸福で楽しい人生を送る余地はいくらでもあるのである。むしろ最初から落ちたり、愚かになったり、負けたりすることによって、逆に幸福になれると説いたのが仏教であり、ほかの宗教も似たようなことを説いてきたものである。

 どんな境遇であろうと、無数の幸福と安寧はあるものである。単一のモノサシにしか幸福と称賛はないと思うことほど愚かな思い込みはない。いまの日本はひさびさに格差に出会ってしまったので、格差社会の抜け道や横道を忘れてしまっただけなのである。負けたり、劣ったりすることによって、幸福や安寧が生まれることもある。自分が幸せになる無数のモノサシと価値観をしっかりもってほしいものである、世間のモノサシに騙されずに。


関連エッセイ
 「ステイタスの不安を解消するために
 「人間の価値観なんて捨ててしまえ
 「もうひとつの愛を哲学する」 アラン・ド・ボトン

参考文献
菜根譚 (岩波文庫)清貧の思想 (文春文庫)老子・荘子 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)
もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)森の生活―ウォールデン (講談社学術文庫)
陶淵明 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)日本の隠遁者たち (ちくま新書)方丈記 (講談社学術文庫 459)
新訂 徒然草 (岩波文庫)芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄 (岩波文庫)山家集 新訂 (岩波文庫 黄 23-1)

捨てて強くなる―ひらき直りの人生論 (ワニ文庫)
捨てて強くなる―ひらき直りの人生論 (ワニ文庫)
シレジウス瞑想詩集〈上〉 (岩波文庫)
シレジウス瞑想詩集〈上〉 (岩波文庫)

フリーター雑誌の新創刊があいついでいる


フリーターズフリー vol.1 (1)フリーター論争2.0―フリーターズフリー対談集m9(エムキュー) (晋遊舎ムック)ロスジェネ 創刊号

 上に図示した雑誌のように、フリーターや格差社会、ロスジェネなどについて語ったオピニオン雑誌の創刊があいついでいる。

 フリーターやワーキングプア、格差社会について一般の人たちが語り、考え、意見を交換・共有しあう場所がいま求められているのだろう。大手メディアはとりあげたと思ったらブームが去ったようにいつの間にか消えてしまうが、当の若者たちにとってはいつまでも終わらない日常の話なのである。継続して考え、解決してゆかなければならない問題なのである。

 私はあまり雑誌は読まない。書籍のようにひとつのテーマで一直線に最後まで運んでくれる編集の仕方ではなくて、興味のないテーマも多くはさまれていて、その部分を読み捨ててしまうことになるので、雑誌はあまり好きではないのである。それで書籍ばかり読んでしまうことになるのだが、書籍というのは継続して語られる場や情報が共有される場がずっとプールされているわけではないので、オピニオンにたいしての情報欠落をきたしやすいと思う。継続して読みたい雑誌もいままでなかったのである。

 私はいちおう思想系のほうにも興味があったのだが、『現代思想』とか『ユリイカ』のような思想系の雑誌はレベルが高すぎて興味とレベルがついていけなかったし、『文藝春秋』とか『中央公論』のようなジイちゃん雑誌などまず読む気がしなかった。読みたい雑誌というとせいぜい『SPA!』くらいで、それもなんだか商業主義だしなぁ〜ということで、私はほぼオピニオン雑誌を読まず、ついでに新聞も読まず、興味のあるテーマの書籍ばかり読んできたわけである。私の興味あるテーマの雑誌が出ているということはまずなかったのである。というよりか、私の興味のあるテーマに編集された雑誌など永久に出ることがないと思うが。

 私は約20年前ほどになるが、ずっと労働について考えたいと思ってきた。私はあまり働かずに自分の好きなことをしたかったし、会社人間や滅私奉公のような人生なんて心底おぞましいと思ってきた。そのような会社主義を批判してひとり気を吐いていた評論家が佐高信だけであって、労働について考えられる時代ではなかったのである。

 このような労働のあり方というのは人生としてのよい生き方ではないと私はずっと悩んで、職を点々とするフリーター人生を歩んできたわけである。そしてそのころはまだバブルが崩壊したばかりで、今日のようにフリーターや派遣労働が際立って増加したわけではないし、まだバブル崩壊不安の中高年リストラに社会的非難が集まるような時代であった。予定調和のサラリーマン人生を再考するという機運はまったくなく、若者はエスカレーター式に自分たちもそのような人生を歩むだろうとぼんやり考えていたのである。「だめ連」のような働かない人たちも一時ブームになったりもしたが、労働について考えられることはなかったのである。

 それがいまはフリーターや派遣労働などの非正規雇用の増加により、書店の本棚にはフリーター本や格差社会論が所狭しと並ぶようになり、フリーター雑誌のようなオピニオン誌もぞくぞくと出るようになったのである。しっかりとよりよい労働と人生とはどんなものか、熟慮してもらいたいものである。フリーターや非正規の権利獲得や待遇上昇のような問題だけではなくて、よりよりい人生、社会としての労働をしっかりと考えてもらいたいものである。

 このような雑誌に出る人たちといえば、杉田俊介や赤木智弘、雨宮処凛とかになるのだろうか。フリーター経験の中から労働や非正規雇用、経済について考えてきた人たちである。これらの本は私は残念ながら未読であるが。

フリーターにとって「自由」とは何か若者を見殺しにする国生きさせろ! 難民化する若者たち

 フリーター雑誌はとうぜんのように格差是正や待遇改善の要求をつきつけるのだろうけど、昭和の時代のような終身雇用・滅私奉公のような人生が獲得される最終目標だのような恐ろしい路頭に迷わないでもらいたいと思う。フリーターも当初はそのような人生からの逃れられる希望の星として語られた時代もあったのである。そのイメージが強いから、フリーターはいまだに怠け者としてバッシングされるのである。構造的な弱者、被抑圧者としてのイメージをもたない人も多くいるわけである。過去の社畜にもどらない人生を目標にしてもらいたいものである。

 非正規・ワーキングプア問題はいったいどこらへんにいきつくのだろうか。けっきょくはなんの解決もできずに定着してしまうのかもしれない。産業界や経済界は国家とともに労働者を社会保障するような社会主義の時代からさっさと足を洗いたい要求ではちきれんばかりなのだろう。放り出された労働者はどうするのか。貧しいながらも、不安定ながらも、自力で生きてゆくしかないのである。

 労働者がぼろぼろに使い捨てにされる実感が職場にひしひしと感じられるから、小林多喜二の『蟹工船』はブームになって読まれるのである。昭和はじめのプロレタリア文学がリバイバル・ブームになるなんて、いかに若者をとりまく環境が大きく変貌したか、世の大人たちはしっかりと銘記しておくべきである。

 蟹工船・党生活者 (新潮文庫)蟹工船 (まんがで読破)

 でも私としては国家や企業が守ってくれる、社会保障を与えてくれるという時代、捉え方のほうが異常で、常識っ外れだと思うのだが。なんで労働者を企業や国家が死ぬまで面倒を見てくれるというのか。それはなんらかのメリットがあるからで、右肩上がりの長期的な高度成長の時代にはそのような長期的保証が企業奉仕に合致したからであって、今日のように定常型社会といわれる時代においてはそのような交換にはメリットがない。

 だからわれわれは守られないのが常識だという前提のもとでこの世を渡っていかなければならない時代の突端に立っているわけである。でも守られるというのも、またぎゃくに高度な奉仕や過重な労働を交換として捧げなければならなかったわけで、それもそれで犠牲の大きな選択であったわけであるが。だからわれわれはこの高い保証には高い犠牲が必要だという「交換のワナ」にも注意深い警戒が必要なわけである。

 労働というのはほんらい使い捨てや搾取がとうぜんのベースとある過酷な闘争関係のあるものである。それが高度成長の社会保障や終身雇用の時代にすっかり忘れられてしまったから、私たちは過重労働と企業中心の社会に生きることになってしまったのである。この過酷な使い捨て社会というのはほんらいの社会の関係に戻っただけだと捉えるべきなのである。その上から、労働のあり方や企業との関係は考えられるべきであって、私たちは社会保障の時代の能天気な時代のツケを支払わされているのだと思う。若者が自分の問題を考えることは、「お客さま」として生きられた昭和サラリーマンの時代より、よほど真剣に賢明に生きられる時代だと私は思うのである。

リストラ宣告されました!



 いまの会社に入って5、6年――。二十代のフリーター生活のような転々とさまよう人生を、三十代の転職市場の少なさから足を洗おうと決意して定着を狙って、いやなことや不快なこと、ツライことがあっても黙々とたえてきたつもりなのに、リストラ宣告されました。チーン。

 まあ、私の勤めている会社はさいしょから深刻な対立があった。親会社のもとで請け負い会社が二社入って仕事を分担し、ときには交錯するといった複雑な職場で、その対立の根はずっとあった。私の勤めている請負会社は弱い立場にあって、こんかい切られることになった。ま、しょせんは請け負い会社である。親会社の鶴の一声でチョンというものである。

 少々ツライのは不快さやいさかいがあっても定着しようとがんばってきたのに、切られたことである。それに親会社の顔も見えているし、ともに働く人たちからそのよう宣告を受けることは、人情的にショックがあるというものである。

 けっきょくのところ、政治力で負けたのである。新しく入ってきた親会社の社員を親しく遇しなかったばかりに、新しいシステム改革のもとに腹いせを返されたのではないかと思っている。もう一方の請負会社とグルになりすぎた。ひじょうにベタな人間関係、派閥闘争が、こんかいのリストラ宣告につながったと思う。私は孤独を好むものだし、たぶんにかれに承認を与えなかったために切られたのだろう。まえのエラいさんと昼飯をいっしょに行かなかったばかりに恨まれたこともあったし。そういうバタくさいことで切られたりするものだろうか。派閥闘争・政治力学に負けてしまったのである。

 私は上司とうまくいかず、かなり嫌われた。恐喝っぽい口調で注意する上司に腹をたててほぼ無視を決めこみ、そういう嫌う-嫌われる関係が長くつづいて、逃げ出したいと思ったことも何度もある。まあこの上司が請負会社のリーダーだから切られたという側面もある。もう一社の請負会社との対立や抗争は根深く、はげしく燃焼した時期もあった。

 会社というのは会話のグルーミング(毛づくろい)で円滑に潤滑するものである。そこの従業員はいろいろな人からそういう「承認」を受けたがっている。私はたぶんそのような承認を期待される人物のようである。でも個人を承認できても、会話の輪に入るのが苦手だから集団を承認することができないのがヤバイのであるが。

 ある時期仕事が忙しくなり、負担が重くなってくると、私は無口になり、承認を得たがってる人に嫌われた。無口には饒舌と会話の喧騒を仕返しされたのである。私はますます無口になり、それは怒りや集団への批判と読み込まれて、私はますます嫌われることになった。このような私の性格の災いといぜんからあった会社の対立が重なって、ひどい時期になったこともある。辞めたほうがいいと思ったのも何度もある。そのころに考察されたのがブログ・カテゴリの「集団の序列争いと権力闘争」である。マキアヴェッリやチンパンジーの政治学に学ぶことがあったのである。

 仕事の努力や貢献もしてきたつもりである。まあ、私のそのよう気持ちもまったく評価されなかったのだろう。なにぶん不快でも長くいつづけようと思っていたところにクビを切られるのはいい気分ではない。だいたい私の履歴書はぼろぼろだし、スキルもないから、狭まった40代の転職市場に挑む気力もあまりない。もう同じ業界でしんどい思いをするのはいやだし。

 失業するといつも手に職をつけようと職業訓練校のスクール通いを考えるのだが、失業期間中の生活がしのげず、いつも私の好きではない、だれにでもできる業界に戻ってこざるをえない。スキルがなければ、他業種になんか転職できないのである。もうこのジレンマに何度も悩まされて、あきらめがちである。こんかいもさっそくスクールを探してみたが、手ごたえのいいものがない。

 私の労働観もだいぶ変わってきたかもしれない。二十代はとにかく働くことが嫌いだった。なんとか働かないこと、自分の好きな趣味に没頭したいと思っていた。二十代は会社人間の人生なんてまっぴらだと思っていたし、転職市場も多いが、三十代からはその門戸が閉ざされるので、定着を考えてきた。しかし望んでも得られないものだな。年齢が高くなるごとに転職も難しくなってゆくし。

 思いがけず、まただれからも首輪をかけられない「無所属」の自由な生活に放り出されることになってしまうが、二十代のようにこのような時間を喜びとする気概は40歳のいまの私にはない。なんとか手に職のつけられるスクールを見つけたいと思っている。

 「野良犬」の人生は私が望んできたことであるが、生計が立てられなくなるのは困る。「幸運を祈る!」。


▼こんなふうに考えられたころがなつかしい。旧ホームページ。
 「仕事ばっかりの人生なんてまっぴらだ!」


『蟹工船』ブームと明治・大正のころの労働



 小林多喜二の『蟹工船』(1929年・昭和4年)がブームになっていることを四大新聞がたてつづけにとりあげている。

 若者の労働がかつての搾取時代の労働と似ており、共感されるものになっている状況というものを多くのサラリーマンや国民は知らないだろうし、それを知らせる意味でこのブームは役に立つものだと思う。なによりも今日の若者やサラリーマンは明治や大正のころの過酷な労働がどのようなものだったかをほぼ知らないだろう。私たちはなぜか「空白」の労働の歴史を生きているのである。というか、労働は私たちの時代の、マスコミの「ブラック・ボックス」である。

 「蟹工船」悲しき再脚光 異例の増刷、売り上げ5倍 読売新聞 2008/5/2
 今、若者にウケる「蟹工船」 貧困に負けぬ強さが魅力? 朝日新聞 2008/5/13
 プロレタリア文学:名作『蟹工船』異例の売れ行き 毎日新聞 2008/5/14
 小林多喜二「蟹工船」突然のブーム ワーキングプアの“連帯感” 産経新聞 2008/5/14
 プレカリアートとプロレタリア文学、の巻 マガジン9条 〜雨宮処凜がゆく!〜(039)

 蟹工船・党生活者 (新潮文庫)蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫)蟹工船 (まんがで読破)マンガ蟹工船―30分で読める…大学生のための

 『蟹工船』は著作権切れの青空文庫のほうで読めるのでこちらのほうでも。
 『蟹工船』 小林多喜二

 私のほうでも去年、現代の労働は明治・大正のころの過酷に搾取される労働に似てくるのではないかとそのころの労働白書をたてつづけに読んでいた。きっかけは山本周五郎編の『日本残酷物語5 近代の暗黒』というそのころのひどい労働のダイジェストのような本を読んでからであるが、私たちはあまりにもかつての労働を、あるいは労働や仕事、会社自体の歴史というものを知らないのではないかという思いからも、そのころの労働書を読みたいと思ったのである。

 私の書評にリンクしていますので読んでみて、興味をもたれたらぜひ本を読んでみることをおすすめします。
 『日本残酷物語〈5〉 近代の暗黒』 山本周五郎編
 『日本の下層社会』 横山 源之助
 『イギリスにおける労働者階級の状態〈下〉』 エンゲルス
 『イギリスにおける労働者階級の状態(上)』 フリートリヒ・エンゲルス
 『職工事情 (上)』 犬丸 義一校訂
 『職工事情〈中〉』 犬丸 義一校訂
 『職工事情〈下)』 犬丸 義一校訂
 『女工哀史』 細井 和喜蔵
 『大正・大阪・スラム』 杉原薫・玉井金吾編

 いわゆる「女工哀史」といった過酷な労働が多くとりあげられている。日本の工場労働というのは繊維業の女工労働からはじまり、安い賃金、18時間もの長時間労働、監獄のような工場・寄宿舎、折檻や虐待といった過酷な労働がまかりとおっていたのである。

 地方から都市に出稼ぎ労働して出てきて、寄宿舎に住まい、過酷な長時間労働に従事させられ、劣悪な職場環境により死亡するものや逃亡するものが後をたたず、一年で工場の大半のものが入れ替わるような世界一の転職率を稼ぎ出していたのである。終身雇用や社会保障といったものはこのころには存在せず、辞めても代わりはいくらでもいたのである。そのような過酷な労働を強いなければ、廉価な価格で輸出をはじめた明治の工業発展は立ちゆかなかったのである。

 そしてそのような地方から出てきた低賃金で働かされる労働者は都市にスラム街や貧民街を形成したのである。そのころの新聞やマスコミにはおどろおどろしい貧民窟潜入といったレポートがベストセラーとなったり、女工が逃亡したり自殺したりする報道が世間を賑わせている。

 私たちはなぜかこのような明治・大正のころの労働といったものを知らないのである。というよりか、労働そのものを知らずに社会に出る。労働を、社会は、学校は、マスコミは、親はなにも知らせないのである。今日の社会のタブーなのだろうか。若者は何も知らずに社会に出て、過酷で不安定な今日の労働状況というものに出会い、面喰って、『蟹工船』のような昭和初期の労働書に親近感を抱くのである。

 1990年代ころまでの日本の労働状況はひじょうに穏やかであった。終身雇用や社会保障、解雇規制などがサラリーマンを守り、滅私奉公や社畜、エコノミック・アニマルといったみずから企業に奉仕する労働者を生み出したものである。労働ストライキや労働争議といったものは息をひそめ、曲がりなりにもサラリーマンは幸福な時代を生きたのだろう。

 しかし1990年代の出口のない不況を経験して、市場原理の導入や封印されていた派遣労働の解禁、フリーター・非正規雇用の増加により、若者の低賃金・脱社会保障化・不安定化の流れは加速し、若者の労働の報われなさ、過酷さ、搾取性、社会保障からの脱落が大きく若者にのしかかってきたのである。

 またこの新しい労働状況というものを世間は知らない。「ネットカフェ難民」や「ワーキングプア」といった言葉が世間を賑わすが、労働の現場はじっさいに体験したものではないと、まともに伝わるものではない。そういった意味でわれわれの労働というのは壁や牢獄の中の秘事に近いといえる。そのような柵の中でおこなわれている労働に面喰った若者たちがいまの状況を知ろうとして、昭和初期の労働状況をつづった『蟹工船』は読まれるのだろう。

 かつての終身雇用や社会保障といったセーフティネットから脱落させられた若者がいまの状況をようやく言葉にしようとして見い出したものが『蟹工船』なのだろう。われわれは労働といったものがなんなのかあまりにも知らないのである。

 終身雇用や社会保障、一億総中流といった守られたサラリーマンの時代が、労働の問題や権力の非対称性といったものをしっかりと封印・隠蔽してきたのである。生涯や人生を守られたサラリーマンは文句もいえず、不満も表出できず、企業への滅私奉公、長時間労働に従事するほかなかったのである。これはある意味、守られているが、そのゆえに「隠された奴隷」の時代であったといえる。

 いまは守られず、捨てられる低賃金、保証なしの若者がどんどん労働市場に参入している。明治や大正のころの労働状況にいっぺんにつき落とされたのである。守られてすっかり対抗や批判の気持ちを忘れていた労働者は、新しい労使の関係に自分たちの立ち位置、守らなければならない権利といったものをすっかり置き忘れてきたことに気づいたのである。『蟹工船』の共感の芽はこんなところにあるのだろう。

 ほかに関連本として読んだもので、今日の現代の中国の労働状況のレポート本をあげておく。今日の中国の労働はかつての明治の出稼ぎ労働者が都市に出てきてスラム街を形成したような時代と同じようなものを経験していると思われる。明治日本の『女工哀史』は現代の中国の「民工」とよばれる出稼ぎ労働者に見られるのではないだろうか。しかしそのおかげでユニクロの服や百円ショップの安いモノが買えるというのは皮肉なことである。
 『大地の慟哭 中国民工調査』 秦 尭禹

 港湾労働に派遣した人材派遣会社が事業停止を喰らったりしたが、かつての人材派遣会社は近代のヤクザの母胎になってきたという歴史がある。派遣労働の解禁というのはまさに明治のころのヤクザを生み出した過酷な労働を再現するということなのである。
 『近代ヤクザ肯定論』 宮崎 学

 ほかにこんにちの流動的で不安定な労働を知る意味で、以下の書評をあげておきます。
 『プレカリアート』 雨宮 処凛
 『雇用融解―これが新しい「日本型雇用」なのか』 風間 直樹
 『労働ダンピング』 中野 麻美
 『不安型ナショナリズムの時代』 高原 基彰

 学校の教科書で習ったように明治・大正のころの過酷な労働、労働ストライキの頻発、社会保障のなさといったものは歴史的に克服され、二度と再現しない過去として思われてきたはずである。しかし今日の派遣や日雇い労働、フリーターで働く若者たちはとつぜんにそのような過酷で凄惨な時代に逆戻りしてしまったことを知るのである。

 けっきょく、終身雇用や社会保障の時代はなんだったんだろうと思うことになる。歴史はまったく学習されてこなかったのである。また若者たちは明治・大正のころの労働者が経験したことをくりかえさなければならないのかもしれない。『蟹工船』の時代からなにかが変わったというよりか、隠されていただけで、一皮向けばそのよう状況がひそんでいたことにあらためてわれわれは面喰らうことになっただけなのである。

 「守られている」と勘違いして滅私奉公に励んだサラリーマンの罪は重い。おかげでつぎの世代の若者はそのツケを非正規雇用・脱社会保障という非人道的な企業の仕打ちに打ちのめされなければならなくなったのである。

消費文化イデオロギーに脅かされる若者の労働



 内田樹がGREATな文章を書いている。消費文化の個性消費と若者の労働という現代社会にとって欠かせない重要な問いがふくまれている文章である。

 またインタビュー 2008/5/8 「内田樹の研究室」

 どうして子どもたちは学ぶことを拒むようになったのか、どうして若者たちは「クリエイティブな仕事」を求めて転職を重ねるようになったのかという、このところよく訊かれるお題である。
 それは「消費文化」のせいであるとお答えする。

 現在のメディアが「個性的な」という形容詞で記述している人間的行為の99%は「どんな商品を購入しているのか」という水準で語られる。

 「自分の個性」の発現を「商品購入行動」として観念していると、「まず金が要る」という結論にしか帰着しない。

 学びが機能しないのは、子どもたちが「学び」を「商品(知識、技能、学歴など)の購入」という消費のスキームでとらえているからである。
 労働のモチベーションが維持できないのは、若者たちが「労働」を「商品(昇給昇進、威信、権力、情報など)の購入」という消費のスキームでとらえているからである。



 金で個性や自分らしさを買えるという幻想はわれわれの時代の強固な信念、信仰といってもよいものである。われわれはあるブランドの服を買って、またあるアーティストの音楽を聴いて、また作家や映画の物語を視聴して、雑誌の流行に乗って、「自分らしさ」や私の「個性」がはくぐまれると考えている。

 私たちは「個性」や「自分らしさ」の狂気の時代に生きているといってよく、醒めた、流行から外れた目から眺めてみれば、金で個性や自分らしさが買えると思う信念ほどこっけいで、踊らされ、だまされた姿が垣間見えるものはない。「個性」消費ほどウソっぱなイデオロギーはない。

 金でなんか「人と違うワタシ」や「人より優れたワタシ」など買えない。買えるのは、売られている優れた「商品」なのであって、まちがっても人より優れた、人と違った「私」ではない。「私」が買えるわけなどないのだ。

 われわれの消費社会というのは買い物をすれば、人より優れた、人と違った私になれるという「記号」、「幻想」が売られる社会である。私たちはそのような買い物をすることによって、貨幣経済を回している。この社会の成員はそのようなカンチガイで衣服や音楽や商品を買いつづけてくれないと、お金は回らないというわけである。われわれの時代の貨幣流通の最強なイデオロギーなのである。

 私たちがどうしてこうも人より優れたり、人と違ってなければならないかというと、それがわれわれの時代の存在要請だからだろう。社会はそのような存在でないと、存在を許さない。価値がない、意味がない、存在している理由がないと強迫する。それは貨幣流通の最強のディフェンスなのだろう。社会の貨幣流通を助け、スムーズに流させる、その価値観やイデオロギーに貢献したものに社会は価値観と称賛をおく。貨幣流通の価値観が社会をのっとったのである。

 「かけがえのない私」や「代替不可能な私」を私たちはなろうとする。だれともでも同じで、見分けも、区別もできない人間になりたくないと思う。私は人と違った存在であり、人より優れたセンスのよい人間でなければならないと思う。そしてすこしえりの違った服を買い、新しい音楽を聴き、新しいショッピングセンターや流行りの店につめかける。だれとでも同じ人間にはなりたくないがために、私は金で人と違った、人より優れたものを買うことによって、それらの目印を手に入れるのである。結果的には人と同じものを買い、大量生産品を手に入れているとしても、あるいはある程度みんなが手に入れるヒット商品を買ったとしても、私は自分らしさや個性を満足させるのである。

 オンリーラブ・ロマンティックラブといった一途な恋愛も同じように、私自身に「かけがえのなさ」や「この人でなければならない」といった幻想を満足させるひとつの個性消費といってもよい。私たちはそのような「運命の人」幻想にひたることによって、私は人と違う存在である、みんなと同じどこにもでいる存在ではないという感覚を満足させるのである。

 私たちは大量生産時代の大量規格品の商業社会で生きている。そしてそのような大量生産品で「自分らしさ」や「個性」を買おうとして、大量生産品を買いつづけるのである。ほんの少しの差異、ほんのちょっとして違いが自分らしさであり、私の個性なのである。私たちはこのほんのささいな違いに命を賭け、命を削っているといってもいい。そのことによって私たちは自分の個性や自分らしさが表現できたと喜ぶのである。

 われわれはこのような方向に血まなこになっている。こっけいであり、気恥ずかしくもあり、差異の誇示が哀れさを誘う。もちろん私もそのような幻想にアイデンティティを求めてきたひとりの人間であるが、自分が労働社会に出て、死にそうなルーティーンワークのなかで自分の「個性神話」をうちのめされ、押しつぶされ、痛めつけられるのをたいそう味わわなければならなかった。

 仕事には個性や自分らしさなどちっとも満足させられないのである。内田樹がいっているように若者がクリエイティヴさを仕事に求めて転職を重ねる理由はおそらくここにあるのだろう。消費文化の幻想が個性や私らしさを追い求めつづけているのに、仕事に求められるのは注目も評価もない、私を殺した、私の無価値観を思い知らせる、ただの機械的な労働にしか過ぎないのである。いったら消費社会における落ちこぼれ、劣等生の陽の当たらない無価値さを、労働はいやというほど味わせるのである。個性や自分らしさ、輝きといった自分の属性は、労働や業務には不要なものである。そこで若者はクリエイティブな仕事に、なんとか自分の価値観や個性に望みをかけるのである。

 消費社会の価値イデオロギーが労働社会の価値観をしめ殺すのである。消費社会では個性や自分らしさを表現しないと価値がないと脅されつづけているのに、労働社会においてはひたすら個性や自分らしさは滅却させられるか、不必要である。もし労働社会に自分のアイデンティティの軸足をかけるようになったら、かれはまったく無価値で、無意味で、貶められる存在になるのである。労働社会において若者は消費文化の価値観に脅かされつづけているということになるだろう。

 私自身も消費文化イデオロギーと労働社会の価値というものの相克にながく悩みつづけてきたと思う。いくら金でカッコいい、おしゃれで、センスのいい買い物をしたって、仕事は輝きのない、同じことのくり返しの、私でなければならない仕事でもなく、だれにもできる仕事である。ギャップにたいそう悩んだ。しまいにはカッコいい、おしゃな買い物の興味を失ってきたし、そのような買い物をする気力もなくなってきた。アイデンティティは消費文化から、労働社会のルーティーンワーク仕様へと転落していったのである。私の個性神話の消費は、労働のアイデンティティを得るにしたがって、失墜していったのである。

 若者は個性消費を労働やクリエイティヴな仕事にもとめつづる方向がいいのか、それともさっさと個性神話を削ぎ落としてルーティーンな仕事になじまさせる方向がいいのか、けっこう悩むことだと思う。私としては個性消費を削ぎ落とす方向のほうがいいと思う。なぜなら個性消費なんていうものは、たいして変わりのない人間がいくら違いを際立たせようとしてもしょせんは同じ人間なのだから、そのような幻想ははやく醒めて、開き直ったほうが豊かな人生はぎゃくにそこから開けると思うからである。幻想は早くに醒めたほうが賢明というものである。

 なによりも人と違っているとか、人よりセンスがいいと評価するのは他人である。他人の評価や目ばかり気にする志向を消費文化はつくりだしてしまう。他人の評価が神になり、畏れ多き悪魔や恐怖になる。それは他人の評価をひたすら恐れる存在をつくりだし、他人の目の奴隷や囚人となる存在を生み出してしまうことではないのか。他人の評価や選別に私たちの幸福があるのではないし、私たちの人生の目的はそんなところにあるのではない。

 そのようなイデオロギーを植えつけられて生きるのがわれわれであるが、それは幸福でも人生の目標でもない。それを目的にした人生は不幸と嘆きと苦しみをつくりだすだけである。理想と現実の狭間にいつもブチのめされることになるのは目に見えている。他人の評価を落としたところに幸福や人生の目標をおくほうが幸福になりやすいというか、即幸福になるというものである。存在しているだけで幸福なら、みんな生きている人はいまでも幸福である。生きているだけで幸福だと思える理想水準が、私たちを安心の境地に導くのである。個性や自分らしさは金で買えるという幻想や目標はなるべく道端に落としていったほうがいいのである。


「休みたければ辞めろ」発言と日本企業の権力専制性



 日本電産の永守社長が「休みたければ辞めればいい」と発言したそうである。ブチっと私はキレて「このファシズム野郎!」と思ったのであるが、日本の企業権力はそのような労働法無視、人権蹂躙のおこないを日常茶飯的におこなっている土壌から生まれた発言なので、このようなヒトラーなみの企業社長は山のように存続を許されているのが日本というものだから、この国の企業権力の専制性には絶望的にならざるをえない。

asahi.com:「休みたいならやめればいい」急成長の日本電産社長

「休みたいなら辞めろ」発言は言語道断! 連合会長、日本電産社長を批判 エキサイトニュース

J-CASTニュース 「休みたいなら辞めろ」発言は暴論?正論? ネットで波紋広がる

 「過労死は自己責任」とか「祝日もいっさいなくすべきです」とナチみたいな発言をしてブラックな笑いをさそった人材派遣会社社長・奥谷禮子とか、港湾労働に違法派遣して暴力団路線を走って事業停止をくらったグットウィルとか、ほとんどポルポト、スターリンなみの企業権力者があたりまえのように存在するのがこの国というものである。

 激務度ランキング
 不眠不休とか残業150時間の違法労働にあたりまえのように大手企業が名をつらねる。

 2006年度ブラック企業就職偏差値ランキング
 みなさんは有刺鉄線には近づかないように。学生の人気企業ランキングってじつはブラック企業と重なったり、マスコミが評価する企業と同じだったりするのだから、この国のふつうの感覚はうすら寒いものを感じる。成長や儲けのモノサシでみたら高得点であっても、労働者から見れば過労死地獄の会社が多いわけで、大手マスコミはそのような視点から企業を評価しないところにすでに労働者のためのメディアでないことが露見しているというものである。

 日本の労働者は虫けらや奴隷のようなあつかいをされていて、労働法違反や違法な長時間労働があたりまえにまかりとおるのが日本というものである。ウォルフレンがいくら「人間を幸福にしない日本というシステム」とののしっても、「生産マシーン国家」とか「もの言わぬ従順な中流階級」と批判しても、びくともしないのが日本の企業社会というものである。

 サービス残業や長時間労働に政府が大なたをふるうといったことは一切おこなわれないし、政府はほぼ企業団体寄りであるし、労働者や国民からこの過酷な労働社会への怒りや不満が表立って抗議されることがすっかりなくなってしまった。正社員の解雇規制が厳しくなったおかげや、年金や健康保険などの社会保障が国民にいきわたったために、国民はすっかり飼い慣らされて満足してしまったのかおとなしくなってしまった。そのような中で当たり前のように若者のフリーター化や派遣労働による非正規雇用の切り落としがおこなわれてきたのである。

 国家からの自由や権利を勝ち取るという運動はメディアをにぎわすのだが、企業権力からの自由や解放といった運動は国民の共感を得られずによそ様の他人扱いの記事で終わる。われわれの時代というのは国家からの自由が問題なのではなくて、企業権力からの自由こそが問題であるはずだと私は思うのだが、そのようなことが深く問われることもない。

 労働者の人権や権利があたりまえのように蹂躙されるこの国はなぜこのような企業専制国家になったのだろうか。おそらくは国家の経済成長と個人の生活向上が重なる時期があったからかもしれないし、社会保障の充実や正社員の解雇規制が労働者の安定や安心をもたらしたにせよ、同時にそれは有無を言わさぬ隷属や奴隷化をともなったし、いちばんは生活の糧を得る企業には文句も不満も言えない立場の弱さがあるのだろう。その弱者性の救済や権力志向が日本人にまったくないことが企業権力の横暴性を温存させているのだろう。

 私たちの時代は国家権力者が私たちの脅威や危機となって君臨しているのではない。企業の権力や組織のなかの権力者が私たちのプチ・ヒトラーやプチ・スターリンとなって君臨しているのである。そのような権力専制性の土壌に安穏としていられるからこそ、企業経営者の横暴な発言や違法なおこないは当たり前のようにおこなわれるのである。

 私たちは働かなければならない。生きてゆくためにはとうぜん自分や私生活を押し殺して働かなければならない。しかしそれが奴隷や違法労働のような立場にまで身を落として、守らなければならない忍苦ではない。私たちには自由に生きる権利があり、豊かに、ゆとりをもった自分らしい人生を生きる権利もあるはずだ。そのような権利が企業の権力によって当たり前のように蹂躙されているのがこの日本というものである。そしてそれに対抗する政府やメディアは存在しないといってよく、労働者や国民にも対抗するだけの権力団体や権力基盤もないのである。新たな時代のファシズムとはなにか、しっかりと自覚するべきなのである。私たちは企業権力に抗う意識と認識をもってはじめて、人間らしさや自由が私たちにほんらい備わっているはずだという基本的権利を認められるようになるのだろう。

他人のために奪われる人生と自分のための満足



 この社会は分業社会で、貨幣経済でなりたっている。他人のためになにかサービスをおこなわなければお金や生活の糧を得ることができない。貨幣経済というのは利己主義に生きがちな私たちに利他主義の強制がビルトインされたうまい仕組みになっている。

 私は自分のために生きたい。はっきりいってしまえば、他人のためになんか生きたくない。他人のために自分の時間と人生が奪われてしまうことがもったいなくて、人生の損失と剥奪に思えて仕方がない。仕事や労働なんかしなくて、自分のためだけに生きたい。

 そう思ってても生活の解を得るためには他人へのサービスをおこなって、お金を稼がないと生きてゆけない。自分のために生きたいと思いつつも、今日も明日も他人と会社のためのサービスにすべての時間を捧げなければならない日々を送っているのである。この歯ぎしりしたくなるジレンマとはいったいなんなのだろうか。

 こんにちの社会は「他人のために生きる」ことと「自分のために生きる」ことのどちらを評価したり、人生の目標にする社会なんだろうか。他人のために生きる人生はたとえば家族愛やボランティア、また社会や公共に奉仕する人生として称揚されているが、そういう人生訓が道徳的に強制されたりすることは少なくなっているし、教えられることも減ったし、家族や親のための自己犠牲といった道徳意識もかなり衰退してきているし、どちらかといえばそれは個人的な利己主義に近い。

 こんにちは消費社会で、「自分のために楽しむ、生きる」といった人生が主流をなしているように思われる。そういう潮流の中で結婚相手や子どものために生きるといった個人的である利他主義が讃美されたりしている。

 自分のために消費をおこなったり、レジャーや享楽的活動をおこなうことは、こんにちのわれわれの理想でもあり、目標でもあり、スタイルでもある。そして消費のような個人的利己主義をおこうことは経済の活性化や繁栄に貢献することであると経済学で捉えられており、こんにち私利私欲がとがめられることは少ない。高いバッグを買ったり、高級なクルマを買ったり、贅沢な消費をおこなうことは「公共善」というか、われわれの社会の「義務」や「任務」に近い。つまり「私利私欲は公益」の時代なのである。

 だが企業活動や仕事というのはそういうものではない。仕事は他人へのサービス、奉仕をおこなうからこそ、代価をえられる利他行為なのであって、他人の満足を満たす企業は大きく成長し、繁栄するものである。ぎゃくに他人の満足を図らず、それの阻害や剥奪をめざす企業は衰退する。企業というのはほんらいは道徳的な利他行為、他人への奉仕を根底にもたないと、成長をとげることはできないのである。アメリカの優良企業でも「サービス・アンド・サクリファイス」――つまり「奉仕と自己犠牲」の精神が生きていると聞く。

 明治や昭和の初めのころはそういった国家や公共に奉仕を志した企業がおおく勃興したものだが、こんにちの企業活動や経済行為を支える心というのは、私利私欲や金儲けの個人的利己主義が動機になっている。消費での私利私欲の公共貢献の考えが、企業活動にも浸透しているといえる。

 消費においても経済においても「自分のために生きる」考えが浸透しているこんにち、われわれは「他人のために生きる」労働に満足や人生の生きがいを求められるだろうか。企業活動においても自分の満足と私欲が露骨に求められ、道徳的奉仕のような利他行為的なサービスは衰退する一方ではないのか。国家や公共に奉仕する精神は滅んでしまったのである。そして自分のために生きられない企業内部の人たちも、不満や不自由感を積らせるばかりなのである。

 他人や公共のために自己犠牲の精神を発するという道徳訓がすっかり失われてしまっているのである。もちろん私もこんな利他行為や公共善への自己犠牲の強制は、大嫌いで不快であると思っている。国家や社会の犠牲になる人生は先の時代の遺産に学んだように私たちの時代の「悪漢」であり、「犯罪」である。だからこそ私たちは個人主義や私利私欲の充足と満足をもとめた人生を歩んでいるのである。そのような流れや今日の状況を否定するつもりは毛頭ない。

 ただ、おそらく「自分のため」と「他人のため」の満足というのはある部分が重なり、ある部分は相違するという関係にあるのだと思う。「自分のため自分のため」といいながらも企業活動や金儲けに貢献し、国家の経済繁栄にも寄与している。「自分のために」国家や企業の経済活動や社会保障に「隷属」している。個人主義というのはかなりのところ公共善あるいは公共経済に依存し、あるいは「奴隷」になるものであるらしい。個人の満足を図れば、ますます国家や公共に隷属し、依存せざるを得なくなるというのは皮肉な逆説であり、愚かな近視眼的目標なのだろう。

 また「他人のために生きる人生」というのはエーリッヒ・フロムも指摘しているように自分の満足を第一に考えなければ、他人も自分も不幸にする結果しか招かないようである。「自分を愛せないものは他人も愛せないし、自分が幸福でないものは他人を幸福にすることもできない」のである。いかなる他人といえども、「自分」を含まない他人は存在しないのである。自分を押し殺した自己犠牲はぎゃくに公共迷惑というか、ときにはファシズムや社会主義がみせたように殺人的災難をもたらすもののようである。

 おそらくは自分のために生きることと他人のために生きることの満足の合流地点に私たちの幸福はあるのかもしれない。他人のために奉仕し、貢献することが自分の満足であり、喜びであるという人生目標を見つけられれば、人生はいちばんすばらしいのかもしれない。キレイごとの言葉であるが無償の愛、見返りを求めない愛というのはそういう地点をめざしているのかもしれない。できれば他人に奉仕することで満足を見い出せることが人生の満足のおおくをもたらすのだろうが、人生そううまくゆくわけがない。私たちは無償の愛を与えようとして、見返りがなくて憤慨し、自分ばかりが損していると落胆し、男女の離婚裁判でみせるように最期には取引的・経済的関係しか見なくなるものである。

 いちばんよい、あるいは妥協点に過ぎないかもしれないが、他人のためにおこなう行為の中で自分の満足する地点を見つけること、それが利己主義と利他主義の葛藤の解消地点なのかもしれない。他人におこなう満足は見返りをどうしても求めてしまうが、自分の満足を与えることに見返りは求めないものである。あたりまえのことである。自分の満足のように見返りをもとめない利他行為の満足を見つけられるようになれば、私たちは利己と利他の対立をのりこえられるのかもしれない。

 あまりキレイごとの御託などならべたくないが、自分のために生きたい私はそれでも他人のための仕事に人生の多くの時間を奪われなければならないのだから、そのような妥協地点をどこかに見い出すべきなのかもしれない。それでも私は自分のために生きたい。他人のための仕事に多くの時間を奪われる人生は焦燥感に駆られるばかりだ。自分の満足が他人への満足をもたらすような社会の場所を私は見い出したいものである。そのような地点を見つけることが私の社会の「居場所」なのだろう。


日雇い派遣哀史、国会にとりあげられる





 去年の11月5日に参院でとりあげられた日雇い労働派遣の質疑応答がユーチューブでアップされていた。日雇い派遣がどんな状況になっているのか生々しく語っていたので、実情をお聞きください。

 グッドウィル:事業停止命令 働き口…募る不安 なぜ法律守らぬ 派遣、怒りの声 毎日.jp
 グッドウィル 事業停止 検索結果

 今月、日雇い派遣大手のグッドウィルが2-4ヶ月の事業停止命令を厚生労働省からうけた。二重派遣や港湾労働派遣などの違法派遣をくりかえしていたからだが、10年や20年も無法状態のまま放置されていた事柄にいまどうして英断が下されたのかという疑問がわく。

 どちらかというと日本の労働状況というのは法律無視の無法状態がまかりとおっているものである。労働現場で働いていてだれからも守られていないという実感はしみじみと感じられるものである。その最悪の形態が日雇い派遣だった。

 グッドウィルが事業停止命令をうけたのは、港湾労働に日雇い労働を派遣したからではないかと思う。かつて日雇い港湾労働は神戸から山口組などのヤクザを生み出した母胎である( 『近代ヤクザ肯定論』書評)。グッドウィルや去年に業務停止をうけたフルキャストは全国にそのような暴力団要素をもつ組織になりかかったという危惧をもったのだろうか。

 日雇い労働は働き方としては毎日を長時間拘束される正規雇用よりかなり自由度の高い働き方である。企業側にしても仕事量や需要に応じて、労働者を調整したいという要請も根強いものがある。かつては西成や山谷の地域に日雇い労働は限定されていたわけだが、派遣法解禁と情報誌やケータイ・ネットのおかげで、その日雇い派遣が全国と若者にひろまった。悲惨さは全国に拡散したのである。

 ただ安定雇用を継続しない限り生活の安定レベルに達しないのが現実というものであるし、日雇い労働は仕事がなかったり、派遣先がみつからないと、すぐに生活困窮レベルに陥ってしまう。日雇い労働は自由であるが、生存そのものが脅かされる労働形態であるし、「人間扱い」されない気分を味わされるものである。

 企業側としてはフレキシブルな労働力はほしい。労働者も平日に休みがとれるような自由な労働条件も魅力的である。しかし生存のレベルを脅かすような労働形態は存続すべきではないのだろう。日雇い労働は全面的に禁止すべきなのだろう。ただ禁止するものはかならず需要が多くあるものだから、不法や闇マーケットをつくりだすものである。禁止は新たな問題をつくりだすだけである。

 企業や労働者私たち自身の自覚が必要なのだろう。安易に日雇い労働や短期労働に頼るということが、その人たちの生活をどのように破壊するかということをよく理解したうえで、短期労働に頼る覚悟と自覚が必要であるということである。西成や山谷のような町を全国のあちこち、身のまわりに生み出してしまうのは、私たち自身の自覚そのものによるのだろう。

なぜ下請け、日雇いは生まれるのか



 こんかいのエッセイはあくまでも思考の訓練用です。問うことによって関心を高め、問いへの執着力を強めるためのたたき台です。したがって答えは正確でも、データから得られたものではありませんし、稚拙な推論に終始すると思います。

 知識の楽しみとはこのような謎解きの問いにあるのですが、学校やマスコミはできあがった答えを与えてしまうために人々から知の楽しみを奪いとってしまいます。答えの出ない問いこそ、私たちの関心や興味をいちばんなひきつけるのですが、答えのない問いはたしかに苦しいのですが、与えられた答えしか知らない人はかなり不幸なことだと思います。

 こんかいの問いはなぜ下請けは生まれるのかということである。仕事の注文をうけると、元請がおおくのマージンをとり、下請け、孫請けと仕事が丸投げされるごとに受注額は減り、収入も減り、しかも元請はてんで仕事をせずじっさいに仕事をうけもつのは下請けや孫請けなのに名前も出ないし収入も減る、どうしてこんな不公平でゆがんだ多重下請け構造があるのかと思う。

 建設業界の仕組み
 IT業界の給与格差を探る!元請と下請でいくら違う?

 しかしも元請は受注額を下げたり、コストを中国以下に下げろと要求できることもできるし、急な注文やむりな納期を迫ることもできる(マスコミが書かない「下請け」の本音)。下請けは大手受注先をうしなえば倒産の危機におちいるため、泣く泣く要求を呑まざるを得ない。産業界というのは日本国内においても、または先進国-後進国においても、このような搾取、ヒエラルキー構造でなりたっているといえる。派遣やフリーター、中国研修生などの過酷な労働が急増したのもこのような搾取構造があるからだと思われる。

 元請はなぜこのような支配的で権力的な立場を維持できるのか。注文が受注先からちょくせつにくれば、下請けはたいそう助かるわけだが、元請がすっとばされることはない。ネームヴァリューであったり、信用であったり、過去の慣行であったり、受注に対応できる技術力であったりするのだろう。なぜ下請けは元請のような地位につけないのだろうか。

 建設業界は伝統的にこのような重層下請け構造でなりたっているし、トヨタやニッサンなども傘下に多くの下請企業や系列企業を抱えることによって競争力をつけている。いわゆる企業城下町を形成する。何次もの下請けはコストや需要減のしわ寄せを喰らい、緩衝材としての役割を背負わされ、悲鳴をあげている。派遣やフリーターが景気の緩衝材として利用されている構造と同じである。最下層は日雇い労働者として不安定で先の当てのない労働に従事するのである。

 TV業界も同じである。TV局は番組をつくらず、じっさいにTV番組をつくっているのは製作プロダクションといわれる下請企業である。スポンサーからの受注額は手数料(マージン)を多くとられ、受注額は下げられ、納期は早められ、無理難題の注文やコスト削減を求められる。そうして悲鳴をあげる下請企業は派遣やフリーター、または正社員も深夜残業などの過酷な労働で酷使して、なんとか元請の要求に答えるのである。

 コスト削減や何次ものマージンによって減らされた受注額によって、下層の下請企業は注文を受けざるを得ないのである。このような下請けのしわ寄せによって、低コストの競争力の強い元請大企業は大きな儲けを得るのである。日本国内ではコストが下げられないとわかったら、中国人の低賃金で働かせればいいのである。

 産業には流行や栄枯盛衰もあるし、定期的・永続的に仕事があるというわけではない。とくに受注がないと仕事がきょくたんにないのが、建設業や港湾労働といったものである。土木建設業というのはビルや道路ができてしまったら仕事がない。その期間に社員を雇っておくと膨大なコストのムダを生じる。したがって建設業は伝統的に日雇い労働者をおおく抱えてきた。仕事のない期間を会社内に抱えておくのではなく、仕事が生じたら外部から人をかき集めてくるのである。

 定期的に収入のない労働者は安定した収入を得ることができない。したがって貧困街やスラム街を形成してきたのである。仕事は一般の企業のように継続的にあるとは限らない。ビルや道路ができると仕事はお払い箱だ。そうして収入が断たれた労働者は貧困に落ちざるをえないのである。

 じつのところ産業界のおおくの企業はこのような需要によって労働者を削減できる構造を欲しているものである。社内失業者を抱えるような高コスト体質の企業にはなりたくない。しかし戦後は高度成長やキャッチアップがつづいたり、人手不足が深く心配されたり、また社会主義や福祉国家、あるいは労働運動の激しさや法律の規制もあって、終身雇用のような従業員囲い込みがおこなわれてきたため、雇用をかんたんに切り捨てるような、労働者を外部にプールするような構造をとってこなかった。

 建設業や港湾労働などに残されただけであった。これらの業界はどうしても労働者を継続的に抱え込むことはできなかったのだろう。おかげで不景気や需要の少ないときには労働者を外部に放り出せばよかったし、景気がよくなれば労働市場から調達すればよかった。その間、仕事のない生身の労働者は貧困の時期をしのがなければならなかったわけだが。

 建設業だけがずるいとなって製造業やほかの業種でもこのような景気緩衝材としての派遣業が認められるようになった。自社内にプールするコストを嫌い、有期期限や低賃金で働かせる労働者を確保することに成功したわけだ。いわばこれは日雇い労働者のような状況の人たちを拡大するということなのだ。仕事のない期間に放り出される労働者が増えるということなのだ。きょくたんになれば、日本全国「西成化」とよばれる状況になってなってもおかしくないのである。

 下層にしわ寄せする構造、下層にコストや低待遇を押しつけることによって大企業や元請企業の競争力や売り上げをあげる構造はここにきてますます極大化しつつある。権力や支配の力関係がますます極端になる構造が完成されつつある。力のある者とない者の暴力や搾取、またはいじめの構造は全社会的に覆っているわけである。なるほど中学生がいじめで弱い子を追いつめるのは社会の「正義」を擬態しているわけである。

 なぜ下請け多重構造が生まれるのか。なぜ元請は強大な権力や支配力を維持できるのか。そのような問いはその強大な権力を掘りくずす要素やユニットをとりだすきっかけを生み出さないだろうか。問いかけることによって権力の源泉を見い出すのである。源泉をとり出すことによって、権力の要素を奪いとれないだろうか。あるいは権力を弱めることはできないか。甘すぎるか。

 この多層ヒエラルキー構造を是正する道は見い出せないか。貨幣の構造はこのような結果を必然的に招来してしまうのか。問いかけることによって、このヒエラルキー構造を掘りくずす方法を見つけることこそが思考の役割ではないかと思う。


労働を歌った唄―『ヨイトマケの唄』『山谷ブルース』



 労働を歌った歌ってほんと少ないですね。私たちの人生の大半は労働に費やされるというにですね。だから日本のポップ・ミュージックは情けないというものです。

 この『ヨイトマケの唄』(昭和40年)ははじめて聴いたんですが、すごいです。泣けてきて、たまらなかったです。ヨトイマケとは「建築の地固めをする際に、大きなつちの綱を引くときのかけ声。転じて、これに従事する人足。多くは女性」(広辞林)だそうで、美輪明宏はこの仕事をして育ててくれた母を歌っています。

 一部差別用語がふくまれるということで(ふつうに流通している言葉に思えるのですが)、放送禁止になっていたそうですが、なにをバカなことをやっているんだと思いました。なにより美輪明宏の神かがり的な歌いっぷりが圧巻です。ぜひお聴きください。




 ほかに岡林信康の『山谷ブルース』を見つけました。山谷のドヤ暮らしをうたった唄で前から聴きたかったのです。「♪きょうのしごとはつらかった〜」




 ▼その他に私の知る限りの現代の労働歌をリンクしておきます。ネットで必死に捜したのですが、労働運動さかんのころからぱったりと曲はなくなったようですね。団結や闘争のような過激でキナ臭い壮絶さが嫌われて、日本の音楽シーンはアイドルやラブソングばかりになり、真剣さや訴えかけるものを失ってゆきましたね。

 仕事についてのドラマも悲惨さや哀しみといった色合いは姿を消し、がんばりや励ましのような前向きなものになっていきましたね。労働のポジティヴに目が向けられ、悲惨さや悲哀、または人生の意味といったものは考えられなくなりましたね。私はこんな現実を見ない音楽界やマスコミはウソっぱちだ、大本営だと思いますが。


 浜田省吾−J.BOY
 誇りも目的も失った豊かな日本。

 たとえばそれは瞳の中の嵐のように(My Home Town)
 宝塚で申し訳ないですが、浜田省吾の画一化した社会を批判した曲。

 45歳の地図 爆風スランプ
 歌詞にリンクしていますが、会社人間の悲哀をもろに歌っています。

 尾崎豊 − Bow!
 「♪あいつはいってたね サラリーマンなんかなりたかねぇ」

 Donna Summer - She Works Hard For The Money
 アメリカのいくつものジョブをかけもちするワーキングプアの女性。

 Billy Joel-Allentown
 鉄鋼業界の不況を歌っています。

追加分です。
 エミネム 『IF I HAD
 アメリカの出口のない労働が歌われています。訳詞です。

 『働く男』 ユニコーン
 ぶんようさんからの紹介です。あまり労働の悲惨さを歌った唄ではないのですが。

  Work Song Cannonball Adderley Sextet
 fryingpanさんの紹介です。ジャズの労働歌らしいですが、ボーカルがないので訳詞のほうはこちらで。

 なかなかほかに曲が見つけられないのですが、労働の悲惨さや悲哀を歌っている曲を知ってたら、みなさんもぜひ教えてください。

 われわれの社会は消費社会ではなくて、労働社会です。TVや映画では人生の大半をすごす労働のことがほとんど語られません。音楽業界でもそうです。せめて恋愛ソングの半分くらいは労働が歌われてしかるべきです。そんなウソっぱちの世の中から脱出するために労働歌を集めましょう。

テンポラリーワーカー(臨時従業員)時代の社会保障



 1990年に出版された『ビジネスマン 価値逆転の時代』(TBSブリタニカ)で、経営哲学者チャールズ・ハンディはこういっていた。

「二一世紀を迎えるころには、企業や各種の団体組織で"ちゃんとした"フルタイム・ジョブ(常勤の仕事)に就いている者の数は、先進工業諸国では労働力人口の半数を割るようになる。多くの者が自営の労働者になり、その数は年を追って増えていく。その多くは、パートタイマーないしテンポラリーワーカー(臨時従業員)である」



「常勤従業員が有効労働力人口の半数にも満たないとなると、常勤の仕事に就くのが当然だと考えるのは、もはや意味をなさなくなる。〜われわれの"労働"についての考え方、"仕事"と"職歴"についての見方が変わりはじめてくる」



「そういう変化を促すものに、シャムロック型組織の出現がある。〜その本質を要約するなら、組織に欠かせない少数の経営陣と常勤従業員からなる中枢部を取り囲んで、臨時の契約従業員とパートタイマーを配置した支援体制を整えている組織形態を指す」



「物事を組織するうえで、これはとりわけ目新しい方式というわけではない。建設業者は、規模の大小を問わず、もう何世代にもわたってそういうやり方をしてきたし、特約通信員から記事を集め印刷業者に印刷と発送を委託してきた新聞社とか、収穫期と休日に契約労働者を雇い入れる農場主なども、同様である」



「それが安上がりの方式であるからにほかならない。全従業員の時間をそっくり自分の自由にしようなどというのは、必要な人的資源を集めるやり方としては贅沢すぎるということである。〜それよりも、必要な人員をあえて組織の外に置いておくほうが、ずっと安くつく」



「さほど遠くない将来に、常勤従業員は労働力人口のなかで少数派となってしまう」



 こんにちの非正規雇用化はしつかりと予測されていた、というよりか計画されていたわけである。これは1995年の日経連「新時代の『日本的経営』」にも、従業員を「長期蓄積能力活用型グループ」「高度専門能力活用型グループ」「雇用柔軟型グループ」に分けようとした考えと同様のものである。時代はこのような考えのもとに動こうとしているのである。

 くわえて、soneakiraさんのうたかたの日々に『現代の貧困』岩田正美(ちくま新書)の引用があったので、コピペさせてもらいます。

「日本の社会保障制度は、基本的に終身雇用の正規雇用者家族が共通に抱える一定のリスクに応えるべく設計されたものである」



「日本では、あまりにも保険主義が徹底しているので、これに代わる所得保障がきわめて手薄である。とくに働ける年齢層で保険料を支払えなかった人々や、支給条件を満たさなかった人々への別の手段が講じられていない」

 

「日本では雇用保険が切れた時、これと連動する「失業扶助」の仕組みがない。しかも、たいていの先進諸国にはある住宅手当(家賃補助)制度がない。家族なし・資産なしの単身者やシングルマザーの貧困、あるいは労働宿舎型のホームレスにもっとも効果的なのは、おそらく住宅手当であろう」

 

 非正規雇用とはとどのつまり企業から社会保障が与えられないということである。賃金も安く、雇用が短期であったり、安定してなかったりする。とうぜん社会保障費は払えないこともあるだろうし、企業もその点の責任を放棄する。このふたつの考えを合わせると、とうぜん社会保障から大量にもれる人たちを生み出すということである。

 企業は社会保障を見捨て、国家もそれを払えない人たちを見捨てる。そういう人たちは貧困に転がり落ち、いまでは街中や公園、河川などのホームレスとしてあふれ出しているわけである。このふたつの流れがもっと大きなものになると、貧困層も大きなものとしてふくれあがることになる。

 払える人に社会保障でなくて、払えない人たちこそがもっとも社会保障が必要になる層なのである。この欠落が日本社会の恐ろしい盲点であり、多くの貧困者を社会からこぼれ落としているのである。

 社会は正社員を保障するかたちのげんざいのモデルから、大きな流れとなっている臨時従業員の社会保障が払えない人たちこそ、社会保障が必要であることをしっかりと認識すべきなのだろう。働き方や貧困のかたちはすでに大きく変わってしまっている。


ビジネスマン価値逆転の時代―組織とライフスタイル創り直せ
チャールズ ハンディ Charles Handy
4484941074

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書 (659))


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