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04 19
2016

労働論・フリーター・ニート論

昼からの一日5時間労働で気づいたこと

 いまは昼からの一日5時間の短時間バイトをしている。

 昼からのバイトだから、午前中はゆっくりしたり、用事に使ったり、外で散歩を楽しむこともできる。

 8時間労働なら、朝叩き起こされて、なにか用事や気がかりなことをすますことはまず不可能である。

 午前中の時間が自由になるということは、かくも大きなことかと気づいた次第だ。

 8時間労働では、医者にかかりたいと思ってもムリだし、必要なものがあったとしても買い物もできないし、通勤に必要なバイクが壊れても修理に出すこともできない。朝たたき起こされて、無我夢中で出勤するだけ。

 これに残業や通勤時間がつけ加わると、9時間拘束に残業1、2時間、通勤2時間が加わり、一日12~13時間を仕事関係にとられ、一日の大半は労働と会社に捧げつくして、なにか自分のための時間に使うことはまずムリである。

 8時間労働というものが当たり前、常識となっているが、労働時間を5時間にするだけでこんなに違った世界が広がっているとは思ってもみなかった。

 午前中が開く、ゆとりがあるということは、かくも大きな価値があるのである。


 もちろん一日5時間労働なら、満足に生活できる収入に届くのはまずムリである。10万をちょっと超える程度の収入しかのぞめない。

 失業中に超節約生活をしていて、そういう生活レベルに慣れて暮らせば、ぎりぎり生活できる範囲にようやく収まる。ひごろミニマリスト生活や貧乏生活になじんでいる独身者しかムリな生活レベルである。

 8時間フルタイム労働に戻らなければならないと気持ちはあせるのだが、いちどこの短時間労働とゆとりのある午前中を手に入れると、なかなか手放したくなくなってくる。

 この短時間バイトについたのも、はじめはヴァカンスのつもりの失業期間がしだいに仕事の見つからない焦燥感に駆られて、追いつめられて社会復帰すらむずかしいのではないと思われたから、リハビリのつもりではじめた短時間バイトである。

 午前中時間が開いているなら、ほかに仕事を探す時間があるという算段である。もうひとつ午前中に短時間バイトを組み合わせて、ダブルインカムを試してみようかという目論見もあった。

 それがずるずると半年を超え、一年に近づこうとしている。

 もう8時間労働には戻りたくないのだが、そういうわけにもいかないというところで揺れ動いている。

 労働が嫌いな人、自分の時間や趣味を大切にしたいという人は、短時間バイトいう選択肢もいちど考慮に入れてみてはいかがだろうか。

 もちろん収入は激減、生活にも事欠くレベルなのであるが、それ以上に大切なもの、優先したいものがある人は、8時間労働という縛りを外せば、けっこう融通が利く生活を送れるかもしれない。

 それには正社員は望めないので、バイト、非正規であることの足かせは確実にあるのだけどね。

 もう社会の常識的縛りには耐えられないという人には、8時間労働の縛りを外してみることがおススメです。

 なんで労働は8時間労働と決まっているのでしょうね?



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01 13
2016

労働論・フリーター・ニート論

「普通になれない」を和らげる考え方

 「普通になれない」アラサー女子を描いたドラマ『ダメな私に恋してください』が放送された。


 「大人になったら普通に恋して仕事して

 普通に彼氏ができて 

 普通に結婚できると思っていたのに 

 普通がこんなに難しいなんて」


 と深田恭子扮するダメアラサー女子が嘆くシーンがある。

 アラサー女子はそこまで「普通感」から逸脱している気持ちをいだいているのかとちょっと驚いた。

 非正規や晩婚、貧困をいちばん直撃しているのはたしかに女性と思われるので、この「普通感」からの脱落はアラサー女子あたりにひじょうに強いのかもしれない。

 男性も非正規や低収入、不安定雇用で、「普通に」結婚して家庭をもち、子どもをもつというひと昔前ではあたりまえだった「普通」を生きられなくなっている。

 若者は「普通」に生きられない辛さを味わっているのだろう。

 不幸なのは、「普通」に生きるのが当たり前だった親世代が、環境の変わった子どもたちにあいかわらず「普通の人生」を送ってほしい、送るのが当たり前だと思っていることだ。

 環境が普通に生きることを許してくれないのに、親世代は普通に生きることを要求してくる。ときには当人自身の責任や能力不足を責めているに思える。世代に断層が走っているのである。


 正社員というのは、ひと昔前のみんなが国や企業に守られていた「社会主義」の時代を生きていたといえる。

 それにたいして非正規というのは、弱肉強食でどんどん突き落とされる「資本主義」の時代を生きているといえる。

 普通というのは、企業や国に守られた「社会主義」の時代を郷愁しているのである。


 世界的に自殺率が多いのはかつての社会主義が崩壊した東欧諸国も、日本のように多い。国民すべてが守られた国営企業で生きられた人生をもう手にできなくなっており、そこに失意や絶望が襲うのだろう。日本と似ているのである。

 日本も1998年ころに一気に中高年の自殺が増えて年間三万人の自殺者数に達した。大企業が軒のみ倒れ、これまでの社会主義的、大企業福祉がいっきに崩壊した境目の年である。「普通に生きられない」中高年が絶望したのである。


 「普通になれない」というのは、社会主義的な、守られた生き方ができないということである。

 しかし社会主義は世界中から多く排除され、ソ連だって崩壊し、東欧諸国もつぎつぎと社会主義を手放した。もう社会主義は世界中から信奉されなくなった制度・思想なのである。

 なのに、なぜわれわれは社会主義的思想にしがみつくのだろうか。


 われわれの「普通になれない」を癒す考え方というのは、社会主義体制の批判やおおくの欠点ではないだろうか。


 バブル時代までの若者は「決められた人生のコース」にうんざりしていた。社会主義の人生は人を社会の歯車のように決められた人生を強要した。だから若者はみずからがフリーターになったり、世界を放浪しようとしたのである。

 それまでの人たちは、「普通に生きること」を不満に思い、絶望していたのである。「終わりなき日常」がいつまでもつづいてゆくことを心の底から恐れた。

 社会主義というのは、社会から「普通の決められた人生コース」を押しつけられることである。いい大学にいって、いい会社に入って、卒もなく定年まで勤めあげる。そんな人生はバブルまでの若者にはもう嫌悪をもよおすものになっていた。

 「普通ではない」生き方を若者はのぞんでいたのである。それがいまではすっかり「普通に生きられない」ことを嘆いているようになっている。

 社会主義というのは保障を得られる代わりに「自由」をひきわたす制度のことである。保障というのは、自由を売り払う代償として得られる人生である。

 バブルまでの若者はそういう人生を忌み嫌い、そして世界中では社会主義は経済的に豊かにも、自由にもなれないと放棄されていったのである。

 いわば、現在はそれが逆転して、自由に生きられる代わりに、保障や安定という「普通」を得られない時代になったといえる。

 つまり、「自由」は手にしている。だけど、保障が得られた時代を郷愁するあまり、自由がミジメで転落したものだと思われるようになっている。

 わたしたちはバブル期までの固まった生き方より自由に選択できる時代を生きているはずである。それなのに転落と普通に生きられない喪失感だけ感じている。


 社会主義的な生き方は窮屈さや人生の自由を奪うものではなかったのか。経済的な豊かさや成長を得られない経済制度ではなかったのではないか。だからこそ、社会主義は世界中から捨てられた。われわれはなにを郷愁しているのだろう。

 終わりの近かった社会主義圏の国は国営企業に守られて働く気をなくし、画一的で時代遅れな国産車が走り、ときには国民服という選べない服を国民が着て、店にはモノがいきわたらなくなり、配給待ちに行列をなす末期の体裁を呈していた。

 われわれはあのような時代を郷愁するのだろうか。

 守られて安定していると思われる大企業だって、遅かれ早かれ、いつかこういう内実をさらしてゆくことになると思う。

 われわれは突き落とされ、転落している代わりに、自由で創造的で多様な生き方のできる時代を生きているのではないだろうか。実験できる時代なのではないだろうか。

 社会主義が喪われたことを嘆くのは、お門違いに思える。



▼社会主義を滅ぼしたハイエクの書。保障は自由を奪うことではないのか

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02 11
2015

労働論・フリーター・ニート論

失業の不安を、認知療法で解消する方法

 失業したらいろいろ不安が大きくなりますね。「仕事が見つからなかったらどうしよう」「家賃や支払いを払えなかったらどうしよう」といったものです。とくに失業が長引いたり、なかなかめあての求人がなかったりして、待ち時間やひまな時間が増えると人は追いつめられて、せっぱ詰まった気持ちになるものです。

 そういったときには、うつ病に効くとされる「認知療法」の考え方を応用してみましょう。参考文献はエドムンド・J・ボーンの『不安からあなたを解放する10の簡単な方法』の「第3章」から多く負っています。


 まずはいちばん大事なことは、不安や恐怖は自分自身の思考がつくりだしているということを理解しましょう。ぼんやりしているときやふとしたときに自分の心にささやく思考が、自分自身を恐れさせています。そういった自分を恐れさせる心の思考に気づかずに自分自身を傷つけているのです。そういった思考に距離をおき、不安なときには自分の考えることをまったく相手にしない、気にしないといった方法も大事です。

 不安は「もしも~だったら、どうしよう」というつぶやきからはじまります。「もしも仕事が見つからなかったらどうしよう」「もしも支払いが滞ったらどうしよう」といった思考が心のなかにつぶやかれます。

 この「もしも思考」に対処することが肝心です。「頭の中で考えているだけじゃないか」、「不安にさせようとむだなことだ」といった心の反論が効きます。頭の中で想像された思考にすぎないものを「真に受ける」、「深刻にうけとめる」必要はないのです。

 不安な人は「大げさ」に考えてしまいます。極端で最悪な出来事を予想してしまいます。最悪な結果と、自分の対処能力をまったく無視するか、考えてもみません。「自分に対処能力がまったくないのか、解決能力はまったくないのか」と、その「大げさ思考」にぶつけてみることが大事です。

 自分を励ましたり、応援したり、味方する考えをもつことが大事です。不安な人は自分を不安に陥れる思考ばかり「真に受けて」、自分の対処能力やのりこえる力を無視しがちです。自分の中に見方や励ます応援者がいなければ、だれが助けてくれるというのでしょう。

 認知療法というのはこのような自分のゆがんだ思考にたいして、反論や根拠を問うやり方で、自分の思考のゆがみを治してゆく手法です。

 「もしも思考」や「大げさ思考」にたいして、「その確率は?」、「現実にあわせて考えた場合、その可能性はどのくらいあるのか?」、「過去に同じような状況は何度あったのか?」、「自分には対処する能力がまったくないのか?」といった問いをぶつけて、自分のゆがんだ思考を書きなおします。不安にするのは自分の思考なのだから、その思考の根拠や正当性を問うことによって、その思考に脅かされることはなくなるということです。

 思考のゆがみには、
  


  否定的な面ばかり見る「フィルタリング」
  小さな出来事から誇張して全体的な結論にみちびく「過度の一般化」
  問題を過度に大きく見る「拡大視」
  すべての問題を自分に関連づける「自己関連づけ」
  「~でなければならない」といった完璧主義を要求する「あるべき姿思考」


 などがあります。自分の極端に大げさにみせる思考に疑いを抱き、真に受けず、問い直してみることが大事です。

 基本的に不安は自分の心のつぶやき、思考が自分の感情をつくっているという理解が大事です。自分でも気づかずに、自分で自分を脅かしているのが、不安のからくりです。認知療法はその根拠や正当性に反論をぶつけます。自分の対処能力や解決能力を思い出せます。

 思考が脅かせるのだから、考えることをいっさいやめてしまうという方法も効果があります。瞑想の時間をつくってみてはいかがでしょうか。初心者は「思考を無視する、相手にしない、流すままにする」といった方法はなかなかむづかしいものですが、べつに「頭を空っぽにする」「頭をまっ白にする」といったつぶやきを心の中でつぶやきつづけるような方法でも可能です。思考が不安をつくりだしているというからくりを理解するなら、その効果の大きさを理解することができると思います。

 失業中は、深刻に、否定的に、悲観的にものごとを考えないようにすることがとても大事だということです。そのような悲観的な思考や気分に落ち込みそうなら、「考えるのをいっさいやめる、ほかのことをする、運動する、気をまぎらわせる」といったことがとても大事になると思います。自分を傷つける、脅かす、不安にさせるような思考とは縁を切る、断ち切ることがとても大切です。

 それと不安なときは胸をつめて浅くて苦しい呼吸をしています。お腹をふくらませる腹式呼吸を意識的におこなうのがいいと思います。胸を広げたり、背を伸ばしたりする体操も、不安解消に一役買ってくれるでしょう。



 前掲書から不安に陥らないための声明文を引用しておきます。

私は悩みを追いやる方法を習得している。
悩みや不安を抑える私の能力は毎日向上していく。
不安な考えが浮かんだら、時間をかけてリラックスし、それを解き放つ。
不安は実体のない考えから生まれる。そんな考えなら私には追いやることができる。
恐ろしい考えは誇張されるものだ。私には自分の意志でそれを消し去る力がついている。
リラックスして自分を不安から脱出させることがだんだん楽にできるようになった。
どんな状況にも対応できることがわかったので自分に自信がついてきた。
私の人生からは怖れが分解して消えていきつつある。私は平静で自信に満ち安定している。
どんな状況もコントロールできることがわかって、どんどん自分に自信が湧いてくる。




▼この文章はつぎの書からほとんど負っています。
4791105540不安からあなたを解放する10の簡単な方法―不安と悩みへのコーピング
エドムンド J.ボーン ローナ・ガラノ
星和書店 2004-10

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▼否定的な気分なときにものを考えることの危険と害悪を説いた不安からの解消法ベストブック。
4393710312リチャード・カールソンの楽天主義セラピー
リチャード カールソン Richard Carlson
春秋社 1998-12

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07 13
2013

労働論・フリーター・ニート論

「非正規労働者 過去最高38%」の報道に意味はない

 「非正規労働者 過去最高38%」とニュースはいうのだが、この報道に意味はないだろう。

 この平均の数字を見せられてサービス業の雇用者は非正規がこんなに増えているならよしウチもと思うかもしれないし、転職希望者はあきらめて非正規の職につくかもしれない。

 平均の数字を報道であらわす意味はなんだろうか。この流れを加速したり、加勢するための数字にしか見えない。

 男女別と、年代別の数字をみないと意味がない。

 この平均の数字は女性がひきあげているのであり、男性は20代、60代以外ほとんど蚊帳の外の話である。この数字を聞くとおぼろげに男性の非正規もずいぶん増えているんだとイメージするかもしれないが、男性はそうではなく、ほぼ女性の問題、数字がひきあげているのである。


 総務省の「平成24年就業構造基本調査」の16ページのグラフを見ていただきたい。

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 男性の30代から50代までの正規率は8割、9割にたっしている。働き盛りの正規率はほぼ大半を占めているのであり、報道の38%はこの層をイメージするかもしれないが、まったく違うのである。

 38%という平均は女性の非正規がひきあげている。女性の40代から50代の非正規率は6割にたっしていて、二十代から三十代前半は4割から5割にたっしている。この割合が平均をひきあげている。

 38%という数字は男性にとっては20代前半の3割、6,70年代の6,7割以外はほぼ該当しない。男性の主要戦力の世代はほぼ大半が正規雇用なのである。


 平均の数字があらわされるとあたかも男性の主流の働き方も非正規に侵食されているとイメージするかもしれないが、正規の磐石な地盤はけっこうしぶといようだ。報道はこのイメージを壊している。


 非正規率の問題は女性の問題なのである。そして女性の問題であることを報道はなぜかふみこまない。

 女性の単独者やシングルマザーが正規の雇用からもれているということがこの問題の本質ではないのか。女性が正規の雇用から追放されている。国家の保障からもれる人生を余儀なくされている。

 男女別、年代別の現状を見ないことにはこの報道の意味はなく、誤ったイメージを植えつけているにすぎないのではないかと思う。


▼平均なんか信じるな。
 「「平均」のウソ八百とバカさ加減!」


04 12
2012

労働論・フリーター・ニート論

「与えられた人生」からいかに自立するか―『キャリア・カウンセリングが会社を強くする』 岩尾 啓一

4766783174キャリア・カウンセリングが会社を強くする―本気で、個人も会社もしあわせになる法、教えます
岩尾 啓一
経済界 2004-10

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 キャリア・カウンセリングというのは即効的なアドバイスをもらえるのではなくて、自分で解決するためのアドバイスだそうだが、ほとんどの人は教えてものだと思っているらしい。

 日本人というのは仕事も人生も「すべからく与えてもらうものだ」という信念にどっぷりつかっている。

 教育も仕事も与えられて、ほかに選択肢がなかったのだからとうぜんだともいえる。そして「与えられた」ものからリストラで放り出されて、途方にくれるという構図があまりにも多かったのではないだろうか。

 「与えてもらう人生」から脱却して会社や組織から自立する個人が生まれ出ることがこの転換期に必要なのだが、「お任せ人生」から抜け出すには個人の意識転換も大事だが、会社や国家、社会意識の転換もそれ以上にアナウンスされる必要があるのだろう。根はかなり深いものだと思う。

 強権的で一方的な「与えてやる」教育や会社のあり方のままでは自立的な個人、自立的なキャリアなどのぞむべくもない。どっぷり「与えられた」人生につかった生き方から脱却するには、個人もそうだが、会社や国家のほうも口をあけて待っている人たちへの依存を断ち切らなければならない。双方の依存があるから、おたがい自立できないのである。

 「疑問をもったら負け」だとか「人と違う道をいけばお終いだ」という人生コースが決まっていたこの国の会社人生において、みずから人生や仕事を切り開く個人のキャリアはどれだけ受容されるのだろうか。決められた人生コースから外れたものは受け入れないという会社があまりにも多いのである。

 キャリア・カウンセラーの著者は失業者相手の支援事業で、九割もの人が職務経歴書の存在を知らないことに驚いている。また派遣労働者に対して自分のお金をつかって自己投資する人がまったくいないことの気概のなさに驚いている。これらは会社が選択を奪って自立的な生き方を許さなかった行動と表裏一体である。

 教師の研修でもだらけていたり、不作法な態度に憤っているが、このオサーン、たぶん上から目線とか、受講者を侮蔑する目線をもっていそうな気がする。この共感や同じ目線の欠如は、支援をむづかしいものにしているんではないかと心配になるのだが。カウンセリングに必要な受容的態度よりか、拒絶的態度が先に立っている気がするのだが。

 教師は受験勉強に必要な知識を教えてくれる。しかし、それを使って、どう自分の人生を切り開いてゆくかということには、教師はなにも教えられない。

 この狭間において、新卒で企業に入れなかったフリーターやニートの階層は増えてゆくのである。自分で生きてゆく力・方法を教えられなかった若者たちは、与えられた会社人生のコースからも外れて道を迷うのである。

 ただ与えられた人生を幸福に感じてきた人も少ないのも事実である。著者は再就職支援で会社をやめた人を何千、何万と見てきたというのだが、「会社に対して「感謝」とか「愛情」をもってやめていった人はほとんどいなかった。「憎しみ」に近い感情をもってやめていった人がいかに多かったか」といっている。はたして「与えられて」安定した人生は幸福だったのか。

 会社の人事評価で低評価になった人というのは、「人と積極的に関わってゆく部分に対して腰が引けてしまっており、リサーチなど「静態的」な能力に対する嗜好が見られる」ということがいわれている。会社というのは指導性(リーダーシップ)を重視するのである。

 キャリア・カウンセラーの不信というのはあると思うが、その業界を渡り歩いた人でないと感覚的にわからない部分がたくさんあると思う。バックラウンドや経歴が違う人になんのアドバイスができるのかと。

 エンジニアの仕事をしてきた人が営業職のアドバイスをすることはできないし、ヒラの仕事をしてきた人が社長へのアドバイスをすることもむずかしいだろう。個人が数多くの職業をすべて知ることは不可能なので、カウンセラーの役割はともに答えを探ってゆく、みずから決定することを補助する役割が求められるのだろう。なんでもわかる、アドバイスできると教える立場が求められるのではない。

 2001年の大卒者のデータだが、三年以上勤めたものは27%しかおらず、あとの七割という大半は転職してしまったか、無業になってしまっている。

 これは怠けや忍耐力がなくなったという問題ではなく、なにか是が非でもほしいものがあるという欠乏がないのだから、ガマンするとか忍耐をムリして継続するモチベーションがもうないのだからだろう。こんな時代に欠乏の時代にできた勤務体系や長時間労働、就業規則などもう維持することができないと考えるほうが妥当というものである。

 キャリアをみずからつくりだしてゆく、切り開いてゆくという行動がこれから必要になる時代だと思う。カウンセラーの視点はみずからをかえりみる視点を与えてくれる。

 いかに自分のキャリアを考えずに、人生設計のない人が多いかと嘆く視点がこの本から見えた。それは選択を奪われて与えられつづけられた国家と会社の人生と表裏一体である。



キャリアカウンセリング入門―人と仕事の橋渡し新版 キャリアの心理学―キャリア支援への発達的アプローチ実践「職場のキャリアカウンセリング」ライフキャリアカウンセリング―カウンセラーのための理論と技術キャリア・カウンセラー―カウンセリングの現場から

04 11
2012

労働論・フリーター・ニート論

労働者も「安く買い叩きたい!」

 わたしたちだって買い物するとき、高い価値のあるものをすこしでも安く買い叩きたい。少ない金額で最大の価値を手に入れたい。不良品や故障品をつかまされたら怒り狂うだろう。

 この消費者の感情というのはそのまま会社の雇う側に適用したら、会社や経営者がわたしたちを雇うときの損得勘定や胸算用がよくわかるのではないだろうか。

 雇われる身としてはすこしでも労働時間を少なくして、労働量も少なめで、ラクな仕事で最大の給料や処遇を手に入れたい。消費者としてはそう行動するのが最大の効用である。

 しかし企業で働く身になったら、自分の利益を最大にする行動や考えはつつしまなければならない。なぜなら上司や会社はわたしを使うことによって最小の投資で最大の利益を得ようと待ちかまえている消費者なのである。お客さんなのである。

 うかつに自分の最小投資・最大利益のホンネをもらしてしまえば、会社側の最小投資・最大利益の行動と抵触してしまう。会社に入れば、会社側の利益にはせ参じる気持ちを最大限に発揮することがもとめられるのである。さもないと総スカンか、使えないやつだ、サボっていると評価されてホサれるだろう。

 会社側にとっては最小の金額で最大の効用をうることが従業員にもとめられる最大の美徳である。経営者から見れば給料以下の働きしかしない者は「払い損」なのであり、給料以上の働きをする者は「おトク」であり、「大儲け」なのである。

 会社は利益や儲けが少なくなれば従業員を買い叩いて、最大利益を搾りとろうとするだろう。こき使われる身にしてみれば強欲や権力を傘にきた搾取だと腹にすえかねるだろう。

 しかし会社もお客に買い叩かれている。お客も少ない金額で、最大の利益を得ようとしている。安売り競争がおこっている業界ではもっと買い叩かれるか、さもないとほかのライバル会社に利益と客をもっていかれるかもしれない。

 お客に安く買ってもらうために苦しい会社や経営者が考えることは従業員の給料を下げて商品の価格を下げるか、従業員を最低賃金を下回るような長時間労働でふたり分の仕事をしてもらうことである。ふたり分の仕事をひとりでしてもらえるなら、経営者はふたり分の労働力を買わずにふたり分の労働量を手に入れられる。

 こういう経営者や、こういう労働力ダンピングでしか生き残れない値下げ業界があまりに多い、あるいはそうでしか生き残れない業界があまりにも多いのが日本のサービス業の性格かもしれない。

 会社というのはわたしの労働力を安く買い取って、最大の利益を手に入れようとするお客である。わたしは買い主の利益にそうように安い給料で最大の効用を与えるか、最大の効用を与えて給料をつり上げる努力をしなければならない。

 といっても買い手の権力があまりにも大きくなりすぎる労使関係は、権力の抑制がおこなわなければならない。一方的な権力の行使によって長時間労働に縛りつけたり、業績不振を理由にクビをかんたんに切ったり、給料を大幅に下げたりされないよう、権力の抑制を厳しくとりしまる必要がある。

 日本ではその権力の抑制がザルのようにダダ漏れにされたままであり、労働者の不幸と悲哀がいつまでも終わることはない。労働者は人間であり、長時間労働やとつぜんの解雇などの酷使・雇用責任の放棄にたえられるものではない。権力のアンバランスを抑制させる役割の国家が買い手側の権力と同調してしまっているのである。

 デフレの業績不振によって企業は安く買って、最大の効用を得るために社会保険や長期保障をあたえない非正規雇用の労働契約を増やしつづけている。これは労働者に与えよという条件の社会保障や長期保障を与えずに、労働者を得ようという払い逃れである。おまけにそのような雇用形態を怠けゆえに選びとった若者が悪いという世間の声もまかりとおる。

 非正規というのは企業が正規の値段で買わずに、社会保障・長期保障の掛け金を払い逃れした雇用形態であり、企業が国家の課せられた条件を逃れたゆえに「非正規」なのである。責めは企業が受けるべきものではないのか。それがこの国では事業がなりたたないといった言い逃れで、払わずにすむのである。

 購入のときに義務づけられていた課金を払わずに、商品を手に入れたようなものである。これがずるずるとつづいて増えるのが日本である。

 どの立場の者も安く買って大きな利益を得たい。お客に売るときは安い値段で最大の効用があるように宣伝して、メリットが得られるようにしなければお客をひきとめておくことはできない。

 求職者が仕事を得るためにはいかに会社に役立ち、得するかを説明しなければならない。わたしはできません、力不足ではだれもわたしのサービスを買わない。最大のメリットあるものを選ぶ。役にたたないものはとうぜん選ばない。

 労働者は最小のコストで最大のメリットを得られるのがいちばんの合理的な行動である。しかし会社の論理では最大のコストをかけるように圧力をかけられる。会社側は最大の労力を手に入れるほうがトクだからである。

 この国の不幸は会社の利益と同一化してしまって、労働者側のホンネがいえなくなったことである。休みたい、ラクしたい、サボりたいのホンネがいえなくなった。会社のメリットと労働者のメリットは対立してとうぜんなのに、この国ではその対立を表立たせることはご法度である。会社の権力の抑制がまったくおこなわれていないか、放任されているために、対立相手に同調・同化するしかないのである。

 もし最小投資によって最大利益の極大化が図れずに、最大投資だけを求められる不利な契約ばかり押しつけられるなら、ニートのように働かないほうがトクかもしれない。ワリに合わないのである。ごく正当な合理性なのかもしれない。

 この記事の意味は自分の買い物をする目で、相手側の利益・メリットのあり方を見てみよということである。そうすれば安く買い叩いたり、最大のメリットを求める行動が見えるだろうということである。わたしたちはひじょうに蓮っ葉で、ドライな購入行動をしているもので、それはわたしを雇う会社や経営者も同じ目でわたしたちを見ているということである。


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人はむりやり他人を動かそうとするが、ほしいものを与えたら喜んでついてきてくれる。

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サービスをケチったら客は離れる。サービスをもっともっとしたいと思うと客はついてきてくれる。

10 28
2010

労働論・フリーター・ニート論

『フリーター、家を買う』と怠け者が悪いという倫理

 リツイートがわたしの最高の39人つきましたので、短いのですがまとめておきます。

                   *

「フリーター、家を買う」。自分勝手な主人公が労働倫理をおぼえてゆくという話なのか。典型的なフリーター怠け論と改心の物語じゃないか。企業が労働者の長期的な面倒と保障を切り捨てた、使い捨てとブラックで不況をのりきるという批判すべき面をとりあげないで、ただ怠ける若者が悪いだけか。

お茶の間にはフリーターは怠けていて自分勝手でだから仕事がないというメッセージをプロパガンダしたいようだ。就職難や企業が長期保障を切り捨てたという面を見せたくないようだ。つまり既得権益者のおっさんたちのおべっか。なんでおっさんたちのリップサービスが必要なのか。老権力者のごますり?

けっきょく世の中は生存競争。負けた者たちはメディアを操作する者たちに都合のいいイメージがレッテルづけられる。生存競争に負けた者は負けたゆえにダメだというトートロジー(同語反復)をかぶせられる。ホームレスや日雇い労働者が資本主義の犠牲者という側面を見せない。

あいつは怠けている、やる気がないといい募れば、そいつに高い給料と高い保障を与えない罪悪感を払拭することができる。ほんとうは高い給料を払えないで安くこき使いたいだけなのに、相手が「怠け者」なら安い給料でも悪くない。そいつが悪いだけだから。浮浪者や日雇い労働者をそう見て、責任を回避。

フリーター怠け論は生産マシーン国家と長時間労働、社畜労働者が存続するためのプロパガンダ。容れ者が正当で、そこからもれる、逸脱する者が異常だという発想。社畜国家バンザイ。

あいつは怠け者だから浮浪者やフリーターになったという論理の根本は、困った他人を助けたくないという心情と根っこが同じ。本人の責任でそうなったのだからわたしは助ける必要も義務もない。困った人を助けられない罪悪感を緩和できる。怠け者落ちこぼれ論は他者を救済できないことの正当化。


関連本
フリーター、家を買う。排除される若者たち―フリーターと不平等の再生産「怠惰」に対する闘い―イギリス近世の貧民・矯正院・雇用貧者の領域---誰が排除されているのか (河出ブックス)無縁声声 新版―日本資本主義残酷史


07 25
2010

労働論・フリーター・ニート論

金儲けを嫌えば、利己主義者になる

 皮肉なことだと思うのだが、金儲けを嫌えばなぜか利己主義になる。ふつうは金儲けをする人が利己主義だと思うものである。この側面があることを否定しないが、金儲けの利己主義を否定する人は利己主義になる。

 なぜだろうと考えてみたい。

 金儲けを利己主義だととらえるようになると、世の中は奪い合いや泥棒の世界に見える。人は奪い、盗み、わたしの利益やお金をかすみとる悪人の世界観になる。わたしは奪われないように自分のお金をふところにしまい、ちょっとやそっとでサイフを開かないようになる。みんな疑わしい盗っ人で、鵜の目鷹の目でわたしのお金や利益を奪う存在に見えてしまう。

 営業のセールスはわたしからお金を奪いとろうとする儲け主義者にしか思えないし、店員が声をかけてくればむりやりわたしからカネをむしりとるハゲタカに思える。お金のかかわる商売の世界は汚い利益主義者の奪い合いの世界だ。商売やビジネスは利己主義者の強奪の世界に思えるのである。

 わたしはケチケチしたお金の使い方しかしなくなるし、人のためにお金をつかったり、大盤振る舞いをする気もちも気が知れないということになる。人に贈り物やなにかの施しなどしたいとも思わない。

 お金の使い方はまた人との関わりあい方でもあり、この世界とつきあい方の姿勢にもなる。わたしは強奪の世界で必死にふところのふろしきをかばっている防御の姿勢で固まることになる。世界を利己主義者の世界と思うとわたしも自分を守るために利己主義者になるのである。

 しかし世の中の見方を変えてみよう。社会は互酬の関係でなりたっている。互酬の関係にかなわないものは関係が断たれる。ギブ&テイクのバランスが崩れるとふつうは取引はおこなわれない。社会は互酬の関係で見てみなければならない。社会のおおくの側面はこの互酬性の大原則で考えてみるべきである。互酬がとぎれるものはこの社会から退場させられるものである。そう考えるのなら、奪うだけの関係で世の中はなりたつだろうか。

 わたしがお金を払うのはなんらかの利益や楽しみ、便益があると思うものに限られる。損したり、被害がおよぶものや不要なものにお金を払ったりしないだろう。泥棒にお金を率先して払うものはいないし、自分だけ得しているような公務員であるとか、儲けばかりを考える悪徳企業にお金を払おうと思わないだろう。あくまでもお金を払うのはわたしの便益や利益、楽しみにかなうものである。

 商売の基本は他人になんらかの便益や利益をあたえるからこそなりたつものである。つまり利他主義が先行している。金儲けや利己主義と思われるものであっても、さいしょには人になんらかの便益や利益をあたえないと、だれもお金を払うことはないし、サービスを利用することもない。社会や人の役にたっているのである。

 お金というのはこの利他主義やサービスが強制されたシステムである。お金を得るためには社会に役立つこと、なんらかの便益を与えないとお金を得ることはできない。お金とは利他主義がビルトインされたシステムである。金儲けや利己主義だけでなりたつものではない。あくまでも人がそのサービスを便利だと思ったり、ほしいと思ったり、価値があると思ったものだけにお金を支払う。金儲けをひとりしたいと思ってもこのステップをこえないことには社会にサービスとしてなりたつことはない。

 ではどうして金儲けのこの側面を見ないで、利己主義や強奪に見えてしまうのだろう。なぜ奪い、自分だけが得をして金を儲けていると思われるのだろう。

 そこには貧乏人のスパイラル・メカニズムがあるのかもしれない。貧乏人はお金がないためにサイフを固く閉めなければならず、そのために世界の人たちは自分の少ないお金を奪う強奪者や強欲者に見える。ますますお金をつかわないので、人のためになにかをしたり、お金をつかうということがない利己主義や自分を守るだけの存在になる。社会に与えたり、役にたつことを与えられない人には社会はお礼を返してくれることない。そうしてますます貧乏になり、強奪者の巡回は脅威に見えてくるということではないだろうか。与えられることがない人は社会から与えられないのである。

 社会は互酬やお返しでなりたっている。多く与えたものは多く返ってくるし、少なくしか与えられないものはほとんど返ってくることはない。いいサービスや商売にはお金をたっぷり使っても惜しいとは思わないが、ほしくない、いらないサービスにだれもお金を払わない。それと同じである。かれは社会を強奪や利己主義の世界ととらえたばかりにかたくなに社会に与えることをせずにますます貝が閉じるようになる。自分を守るために利己主義になってゆくのである。人のため、社会のためになにもしなくなってゆく。

 この社会を互酬性でとらえなければならない。世の中は強奪者や泥棒だけでなりたっているわけではない。金儲け主義者や利己主義だけでなりたっているわけはない。金持ちになったのはまずは社会に便益や楽しみを多く与えたからである。利己主義や金儲け主義だけでお金がそんなに集まってくるわけではないのだ。

 もし自分が貧乏でちっともお金も境遇もよくならないと思うのなら、この互酬性の目で見直してみるべきだろう。わたしは与えているだろうか。それとも自分のことを守ろうとばかりしていないだろうか。互酬性を見ないといっぱい働いているのに給料がふえないだとか、給料がこんなに少ないのだから働く時間を減らそうとなる。

 少なく与えて多くもらおうという考えばかりになる。互酬性で考えるのならより多く与えた人にリターンは返ってくる。だれも少ないサービスに多く払おうと思わないものだし、少ない容量に多く払わない。多いサービスや多くなった容量に喜んでお金を払うものだ。得や利益が多くなったから人はお金を払うのだ。会社の給料も多く与えた人に多く払い、少なくしか与えないものには少なくしか与えないものである。奪う世界観をもっている人は与えることより、もらうことばかり見てしまうのである。自分の与える量を見れないのである。

 道徳くさい話になったが、たんじゅんな互酬性や足し算引き算の話である。合理的で数量的な関係でこの社会はなりたっている。冷徹にこの関係を見るべきである。互酬性とはプラスを与えた者にプラスが返ってきて、マイナスしか与えないものにはマイナスしか返ってこないという単純な交換のことである。社会を奪うものと見るか、与えるもので見るかによって、人生のリターンは大きく変わるようである。

 もっとも社会はこの麗しき互酬性のバランスだけでうまくなりたっているわけではないだろう。道徳や利他主義だけで社会はコーティングされているわけではない。じっさいは金儲けや利己主義で金や権力が倍々ゲームになっているばあいもあるだろう。この側面も否定しないし、この側面との整合性をわたしもまだ統合できない。

 しかし、社会は奪うものより、与える側面で見たほうが自分の人生によりリターンを返すのではないかとわたしは思うようになってきた。このようなことについて考えたよい本をだれか知りませんか。


だれか金儲けと利他主義について考えた人はいませんか。
ユダヤ人大富豪の教え 幸せな金持ちになる17の秘訣 (だいわ文庫)夢をかなえるお金の教え 豊かさの知恵 お金と幸せを呼びこむ「経済自由人」という生き方人生は勉強より「世渡り力」だ! (青春新書インテリジェンス)国富論〈1〉 (岩波文庫)道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

蜂の寓話―私悪すなわち公益 (叢書・ウニベルシタス)
バーナード・マンデヴィル

07 22
2010

労働論・フリーター・ニート論

労働時間の決まり方をラディカルに問い直せ

 人生の時間はだれのものだろうか。社会人になればたいていの人は朝から晩まで会社に売り、人生の時間は自分の手元にほとんど残らない。わたしは少しの時間で多くを稼ぐ方法もできたはずだし、少し働いて少ない収入に満足して暮らすという方法も可能なはずである。

 でもたいがいの人は朝から晩まで会社に拘束される。だれがこのような労働時間が人生を奪う規範を決めてしまったのだろう。

 まずは長時間働かないと生活費がまかなえないという時代があったのだろう。会社は商売なら安く買って高く売って利益を得るところである。労働者も安い給料で長時間働かせたほうがお得である。長時間働かないと生活ができないという了解ができあがったのだろう。労働者はほんらい短い労働で高収益を得るという商売心をもつべきであった。

 しかし日本のばあい、労働は道徳や規律になった。労働は商売ではなく、社会人としての義務やたしなみ、成人である条件になった。利益行動を求めた商売ではなく、なんとなく道徳行為や規範行動となってしまった。長時間働くことがエライこと、社会人としての条件、規範行動となった。労働というのは社会人の道徳となったのである。

 人生の時間はだれのものだろう。ほんらいなら人は自分の時間で好きなことをしたり、趣味に費やしたり、怠けて暮したいと思うだろう。人生の時間を好きに過ごしたいと思うはずである。しかし日本のばあい、そういった欲求は禁圧された。働かないと食えないのだし、長時間働かないと満足な給料が得られなかったからだ。自分の時間などほしくても得られないものだった。だからあきらめるほかなかったし、それを道徳や規範としての行動で覆い隠すしかなかった。あるいは社会の役に立つうれしさや仲間と働くことの楽しさにその欲求を埋めるほかなかった。

 道徳になれば長時間労働をはるかに安価に手に入れることができる。カネのためにではなくて、道徳や規範行動としての労働を提供してくれるからだ。労働者は採算を無視したアンチ商売魂で働いてくれる。つまり儲けにならない長時間労働を安価で提供してくれる。会社にとってこんなオイシイ話はない。道徳や労働イデオロギーバンザイである。道徳は安いカネで長時間働いてくれる愚かな労働者を提供してくれる。計算ができる人なら十円二十円の利益のために長時間働く愚やムダをわかるはずなんだが、日本の労働道徳はそれを推奨してきたのである。

 会社というのは利益計算がちょくせつ見えなくなるところなのだろう。少ない利益に長時間費やすムダが見えなくなる。カネの流れが見えなくなる。巨大なブラックホールである。月給制や時間給は出来高制のようなちょくせつ目に見える利益計算を見えなくさせて、採算無視の行動をとらせやすいのだろう。外部との市場との取引ではなく、会社との取引で働いてしまう。

 会社は労働者の全時間を吸いとったほうがお得である。できるだけ長時間働かせ、休みを少なくしたほうが利益が出る。会社の論理というのはどこまでも労働者の時間を吸いとることが最大の利益である。しかし労働ばかりではだれでも不満がたまる。休日や労働時間削減を図らないとベテラン従業員がやめていってしまう。従業員ひきとめのために不満をおさえるかたちで休日や労働時間削減がおこなわれてきたのだろう。利益や儲けが出る会社は時間の還元というかたちでも返さないと従業員の不満をおさえられない。

 先進国の基準というかたちで日本は政府が休日や労働時間削減を与えてきた。お上からの恩赦がないと日本の休日や労働時間削減はおこなわれなかっただろう。会社は安く長時間働かせることがお得なのである。不況になれば人員を減らしてひとりの従業員を多く働かせないと経営が危なくなる。会社はいつもそういう誘引に誘われており、中小零細企業ではその誘引が勝ってしまう、あるいは利益のために安長の働かせ方をさせざるをえないところも多い。従業員はそこで採算度外視の道徳行為に走らざるをえなくなる。自営業者と考えるのなら失格だが、対企業との関係でそれは相殺される、あるいはそう思い込んできた。日本での労働は商売ではなく道徳なのであるから。

 労働時間や労働日数の取り決めなんかほんらいは基準などない。週休三日、五日の働き方もできたはずだし、休日祝日の日数も120日ではなく、200日でも、250日でもできたはずである。もっともそんなに休めばだれも利益を出せないだろうが、少ない収入で自由な時間を楽しむというオプションもあったはずである。なのに日本の労働時間、日数はなぜ今日のようなものに決まってしまったのだろうか。なぜ多くの人はスタンダードな働き方をしなければならないのだろう。人生の自由としては多様な労働時間、日数で働くこともできたはずである。

 それはもちろん買い手としての会社の論理、権力関係で決まってきたのだろう。会社は従業員の全時間を吸いあげたほうがお得である。労働者の力が弱いとその論理だけでつっ走ることになる。いまのところは会社の論理で多くが決まっている。長時間働かないと生活費がまかなえないという時代が長くあったからだ。

 権力関係、需給関係が崩れるとたとえば次のようなことがまかりとおる。私立大学の入試で本命の大学の結果を見る前に入学金を支払わなければならなくなったり、それは本命に受かってても返還されなかったことが普通の慣行としてまかりとおってきたし、賃貸では礼金敷金や更新料という意味不明な慣行もおこなわれてきた。権力のバランスが崩れていると理不尽なこともあたりまえのこととして存続するのである。会社が従業員の全時間を自由につかっていいという慣行こそ理不尽な権力の最たるものではないか。それも労働や社会貢献にまつわる道徳というオブラートにつつみかくされるのである。

 しかし豊かになると労働者にオプションがとうぜん出てくる。出世もいらない、お金もたくさんいらない、買いたいモノがたくさんあるわけではない、自由な時間のほうがもっとほしいとなる。労働者に選択のオプションがふえる。生活のために長時間会社に売らないと生きてゆけないという原生的関係から脱すると、長時間拘束のコストが見合わなくなる。長時間働く利益がなくなってしまうのである。長時間労働は会社だけの利益になってしまう。

 なぜ長時間労働のスタンダードな働き方は今日も趨勢を保っているのだろう。それはおおぜいの人が労働を慣習にしたがって働くものだと思っていたり、道徳のようなあいまいな基準でとらえているからだろう。超自然現象のように労働慣行をとらえている。こういう人が多くいれば労働者のスタンダードの基準は高くはねあげられ、ハードルの高いものになるだろう。

 低賃金長時間労働に従事しておれば会社との関係は安泰と思う人が多くいれば、そのような人材を多く手に入れられる労働市場はこの基準をスタンダードにできる。劣る人を市場からはねられる。労働者間の安売り競争によって会社は長時間低賃金の労働者を手に入れられるわけだ。

 労働時間の決まり方をラディカルに問えば、労働者はもっと強い権利を手に入れられるかもしれない。わたしたちはただ慣行やスタンダードな基準という理由で今日の労働時間をあたりまえのものと思っていないだろうか。そのためにわれわれの人生の貴重な時間や働き方はダンピングされているのではないだろうか。

 今日あるものが今日あるような理由や基準なんてひとつもないのだ、そう考えることはわたしたちの人生の自由や幸福を増すひとつのきっかけになるかもしれない。

07 18
2010

労働論・フリーター・ニート論

大野正和さんが亡くなられました

 このブログにときたまコメントをくださり、ブログをあたたかく見守っていただいていた大野正和さんの訃報をとつぜん聞きました。50才の若すぎる死です。

 過労死問題や職場の仲間のプレッシャー、自己愛の仕事など、労働の心理的側面を研究されていました。ブログ「自己愛とボーダーの仕事論」は7月2日まで書かれており、べつに変わった様子もなかったのでこれからも変わらず仕事をされてゆくものばかりと思っていました。

 知り合ったきっかけは大野さんの著作『まなざしに管理される職場』(青弓社)のわたしの書評にメールをいただき、労働問題の関心も共通で、家も近かったので会おうともいってくださったのですが、やんわりと断ってしまいました。いつか会えるかもしれないとも思っていたのですが。

 自身も職場でがんばりすぎて燃え尽きた経験から三十代半ばから大学院進学にすすみ、研究者の道を歩みだしたと聞いています。研究者としてどう生き残ってゆくかと思いをめぐらせ、著作の売れ行きを気にして、ホームページのタイトルも「「草食系」のための日本的経営論」と変えたようにトレンドに乗ることを苦心されていたようでした。

 労働・雇用問題は日本のむづかしい問題としてこれからも増大してゆくと思われる最中、問題の分析と解決の道筋を探る研究をなされてゆくと思っていたばかりに大野さんの早すぎる早世に残念でなりません。ご冥福を祈りたいと思います。いままであたたかく見守っていてくれたことを感謝しています。


大野さんの著作

4863191154自己愛(わがまま)化する仕事―メランコからナルシスへ
大野 正和
労働調査会 2010-02

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4787232495まなざしに管理される職場 (青弓社ライブラリー (42))
大野 正和
青弓社 2005-10

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4787232118過労死・過労自殺の心理と職場 (青弓社ライブラリー)
大野 正和
青弓社 2003-03

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Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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