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02 16
2005

労働論・フリーター・ニート論

派遣会社の仲間意識の失敗


  hyoryu2.jpg

 2月5日に放送されたNHKスペシャル『フリーター漂流~モノ作りの現場で~』はネットでなかなか反響が大きかったようだ。派遣のフリーターたちがたらい回しにされるさまを映していた。

 私も派遣のバイトは何度か経験したことがあるからこんなことはなんの驚きもないことだ。派遣というのはほとんど人間扱いされていなような気分になる。また会社の仲間という意識からも疎外される。

 仕事はすぐに見つかる。ハンコと履歴書さえもっていけば仕事を見つけてくれる便利さがあるからついつい頼ってしまうのだが、派遣は会社の仲間意識という一体感から強烈な断絶感を味わわされるから、何度か経験してもう近づくのはやめようと思うようになった。

 工場も派遣会社も日本的な会社の仲間意識というものを引き裂くから、ものすごい失敗をしていると思う。「獣の集団があそこにいる」ような感覚になってしまうのである。

 日本の会社は仲間意識でいっしょに仕事をがんばろうという感覚でモチベーションをつくっている。仲間となら少々つらくとも、苦しくとも、がんばろうという気持ちで仕事をしている。

 工場や派遣会社はその感覚を引き裂き、「人間」でないような違和感をひきおこす。心がすさみ、仕事よりか集団の中での居心地の悪さから派遣はすぐ辞めてしまい、だから工場や会社はますますひんぱんに派遣バイトをとりいれることになり、人間扱いされない感覚を派遣バイトに味わわせるようになるという悪循環におちいる。仕事がキツイという基礎があるわけだが。

 これから派遣を利用したいと思っている人にはやめておいたほうがいいと私はいいたい。仲間意識から疎外されるというものがどんなものか味わうだけである。派遣でない会社を探すべきである。派遣でもアットホームに接してくれるところもあるだろうが、工場系に「人間らしさ」はまず見つけられないだろう。

 工場にこんなに人間らしさがなくなったのは効率化や合理化がとことんまで進んだためか、それとも工場は以前からこんなもので豊かさを知った若者たちが逃走したからこうなったのか、状況は悲惨なものである。

 この日本の労働状況を知らせる番組に反響があったということは、おおかたの日本人は日本の労働現場というものはこういうものだということを知らなかったのだろう。これが働くということであり、労働社会というのはこういうものだ。

 学校や社会はそれを若者に知らせなさすぎるのだ。物語や消費の甘い夢ばかり見させられる若者はなにも知らずにこの過酷な労働社会に出会うことになる。

 日本は戦時中につくられた国家総動員体制が経済や会社の仕組みにそのまま存続した社会である。つまり軍国主義が経済の中にのこっているのだ。だから個人や人々は守られない。国家の勝利システムのために個人はだれにも守られないのである。このシステムはニートやホームレスの増加によって、ソビエトのように自家崩壊するまで待つしかないのだろう。


04 04
2005

労働論・フリーター・ニート論

中高年フリーターと正社員という「社会的保証」


 30代を越えるフリーターの増加が問題となりはじめているが、フリーターはなにが問題なのだろう。心配されていることは老後の年金がないことである。つまり老後の保障のない人生は恐ろしいということである。

 正社員とフリーターはなにが違うかというと、仕事の面では正社員とほとんど変わらない仕事をしているフリーターも数多いのである。アルバイトだけで暮らしている人もかなりいるのではないかと思う。

 なにが違うかというと、会社から年金と健康保険を払われているかの違いくらいだ。つまり人生や将来を保障された人材であるかどうかということだ。会社や国に保障されているかの違いに、世間の人は大騒ぎするのである。

 つまりは会社や国に保証されているかという「ステータス」や「社会的信用」が問題となっているわけである。国が保証した人生であるかという問題がフリーター問題の根幹にあるのである。国に守られ、お墨付きをあたえられた社会的信用のある人間かどうか、それが問題なのである。

 いわば公務員かそうでないかの違いである。国家に保護され、保障された人生であるか、その違いが問題となっているわけである。社会主義国家の日本の国営企業に勤めている役人かそうでないかの違いである。

 正社員というのは国の保障に守られた人間であるといえるだろう。そういう国に抱えられた人間に「社会的信用」や「ステータス」があつまったのである。

 しかし企業がコストダウンのために中高年女性パートや学生アルバイトを使い出したころから、企業は社会保障というコストの抜け道を見つけ出したわけである。将来や人生を丸抱えで保障しなければならないという重荷を捨てはじめたのである。企業はそんなコストのかかる信用を保持しなくなっていったのである。つまりは国営企業や社会主義的経営から逃げはじめたわけである。

 問題は企業が個人の社会保障まで背負わなければならないのかということである。企業はその責任から脱走しはじめたのである。

 もうひとつの問題は国や企業に守られているかという社会的信用の問題である。この社会的信用が正社員という肩書きにあつまっているために企業は雇用のコスト高から逃れられない。そしてフリーターの雇用増大へと走るわけである。

 正社員という「社会的ステータス」が雇用の高コストをつくりだし、それから逃れるためにフリーターを活用し、保障や信用のないフリーターを増大させたのである。

 問題の根幹は国に守られた正社員という社会的ステータスなのかもしれない。この安定し保証された人生をだれが責任を負うのか。もしかして企業の社会保障費を全面的に廃止し、個人のみに支払いの義務が課せられるようになると、企業もフリーターもその問題を解消できるようになるかもしれない。

 国に守られるという保障が企業の高コストをつくりだし、保障のないフリーターを大量に生み出しているとするのなら、企業の保障全廃が解決の道になるのではないだろうか。企業の社会主義の時代は終わったのである。


04 16
2005

労働論・フリーター・ニート論

『若年無業者』フォーラムin大阪の報告


  CIMG001812.jpg ライトの加減できちんと写っていませんでした。

 今日は「若年無業者の実情と支援を考えるフォーラム」にいってきた。桜が満開の造幣局の対岸のエル・おおさかでおこなわれた。

 斎藤環と玄田有史がナマで見れたのがよかった。玄田有史は少々投げやりっぽい人であったこと、斎藤環はダンディでおちついた印象をもった。小杉礼子のつぎの資料は衝撃だった。
http://www.keizai-shimon.go.jp/special/vision/life/03/item4.pdf


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 これは卒業しても就職しない比率を表したもので、この赤線の伸びを見よ。四割もの卒業者が就職しないで卒業するのである。学校からの新卒就職がまったく機能していないのである。あとはフリーターや非正規雇用、ニートやひきこもりに吸収されてゆくわけである。企業という船は学校から放り出される若者を波間に見捨てているのである。


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 上図のグラフは働いても家事もしていないいわゆるニートの若者比率である。二割といえばほぼ70万人の若者が宙ぶらりんなまま漂っているわけである。(現在は85万人と推定される)

 キャリア支援がいろいろ行政によってなされるだろうが、そんなもので追いつくわけがないと思った。企業社会は若手の働き手をまったく必要としていないのである。若者とこの社会の将来はいったいどうなるんだろう。

 気休めをいうのなら、若者は遊びたい盛りだから学校もなく就職もしない期間は天国だろう。寝て暮らせる若者たちを生み出したのだから、豊かさをめざしたオヤジたちの勤勉国家の夢は叶ったのである。

 ただいまある状態は未来にほぼそのまま延長されることは中高年フリーターや中高年ひきこもりでじかに見ることができた。ニートはそのまま未来に延長されたまま推移するわけである。目をふさぐことのできない緊急な社会問題であることはまちがいない。

 これは若者の問題ではなくて、完全に社会の構造上の問題、企業社会の問題といえよう。不況や景気が悪いままだと企業は長期的な展望をもたずに若年採用の枠を抑えるか、外すかにしてしまった。企業に甘い政府も放ったらかしである。あとは後々に社会に禍根をのこすだけである。

 それは市場メカニズムが正常に働くための過渡的状況なのか、それともこの社会が崩壊する序曲になるのか、私にはわからない。はたして若者は沈没する船より先に海に放り出されてしまっただけなのか。


05 04
2005

労働論・フリーター・ニート論

『ボクたちが働かない理由~ガイアの夜明け』を見て


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 だめだぁ、ひどいなぁと思った。はじめから対策のことしか考えていない。政府や国が困るから働かせようとしかない前提しかないのか。若者が生活や将来が困るから働きたいという視点から捉えないとだれの心も動かさない。役所の財政のためにだれが働くというのか。

 私も行った「若年無業者フォーラム」だが、親ばかりきていたとは知らなかった。たしかに親御さんらしき姿をよく見かけたが、ニートやパラサイト・シングルの親の過保護の構造がここでもくりかえされていると思った。

 こういう番組はいまだに原因を探るべきだと思う。はじめに対策ありきでは、ぜったいに問題は解決しない。対策の前提の「人は働かなければならない」というものが希薄だからだ。企業や社会がなぜこうなったのか、前提と原因を見極めないと対策は親世代と役所の自己満足だけに終わる。

 さらにいえば、オヤジ世代の豊かな社会や経済大国の夢というのは、こういう若者をめざしていたわけである。豊かさとは働かなくてよいことである。労働の目的を勤勉や貯金だと勘違いした親世代は、労働目的の真の成就に出会って面喰っている。おまえたちがめざした社会がこれなのだといいたい。

 ただ問題は若者自身が自立できなかったり、企業の雇用からつまはじきにされてしまう可能性があることだ。履歴書の空白を嫌う企業は多いし、滅私奉公や終身雇用的な人材を望む企業の目はあいかわらず変わっていない。だからニートはメシを食ったり、豊かで将来の保障ができる人生から見放される怖れがあるわけである。

 解決策はニートをいじることではなくて、人手不足を加速させる経済振興だろうと思う。経済がよくなれば企業は高待遇で若者を迎えようとするのは貨幣経済の常識である。ただそれがムリなら、高待遇の中高年の条件を引き下げることでしか、少ないパイを分けることができない。それもムリなら中高年が自然退職する十数年先まで待たなければならないわけか。

 フリーターやニートがこのまま年をとってゆく社会はすでに固定されてしまった。未来はもうはじまっているのである。常識や考え方はそこからはじめなければならない。すくなくとも会社主義や生産マシーン国家は内部から溶解しはじめているのである。

 私が前から望んでいた社会だが、個人がメシが食えなくなるのはつらいことだ。こういうときには愚かな政府の対策に頼るのも一考なのか。生存の戦略はみずからでつくってゆくしかない。


05 20
2005

労働論・フリーター・ニート論

「働きたくない」と貨幣経済


  namakemono1.jpg ブリューゲル『怠け者の天国』1567

 一日の大半を仕事に奪われ、何で自分の人生がないのかと私は思ってきた。もっと自分の時間や好きなこと、自分のための人生がほしいと思ってきた。

 働かなければメシが食えなくなるのはとうぜんである。われわれは貨幣経済の中に生きていて、お金がなければ食べ物も衣服もサービスやモノも買うことができない。貨幣経済の中で暮らしてゆくにはいくらかのお金をもたなければならない。だから私は働かなければならない。

 学生が終わるころまではだいたい親の庇護のもとで生きている。だからそれが当たり前になってしまって、働かなくともお金が手に入る環境にいる。親は働きたくないとも文句ひとつもいわずに機械のように働いているから、親のお金を当てにできる。しかしこれは一人前のオトナともいえないし、屈辱的ですらある。

 家を出るとすべての生活資金は自分で稼がなければならない。自分の時間がほしければ、働く時間を減らせばいい。しかし会社というところは人間の全時間、全人生を奪い取ろうとする。少ない時間で多くのお金を払うわけがない。少ない金で長い時間働かせようとするのが貨幣経済での会社のとうぜんの計算方法である。

 お金の経済というのはお金によって「他人のため」にサービスすることである。お金はともすれば「自分のため」だけに生きようとする人間を、お金によって他人に奉仕させようとするひじょうによくできた仕組みである。お金を必要とするためにわれわれはしたくもない他人への奉仕やサービスを強制的におこなわざるをえないのである。お金がなければ人はそんなことをしただろうか。

 この社会はなぜか必要最低限のお金を稼いだら仕事はしないといった方向に進まなかった。かわりに全人生を会社や仕事に捧げ、自分のための人生を失う。お金が増えればあれもほしい、これもほしいとなり、ステータスや高級品もほしくなり、しまいには健康保険や老後年金もほしいとなって、とうとう自分の人生を生きる時間をすべて仕事や他人のためのサービスに捧げることになってしまう。

 さいきん思い始めてきたのだが、日本人はナショナリズムや国家優越のために会社主義や労働主義をおこなっているのではないかということだ。日本国家の経済での優越を必要とするためにわれわれは労働や会社に人生を奪われなければならないのではないかと思う。日本が優越しているというイデオロギーのためにこの「勤勉マシーン国家」は止まる事ができないのではないのである。

 私はあまり働かずに少ない金で暮らす道を選びたかった。だが30代半ばを越えると求人はほとんどなくなってゆくのである。後は会社の長い時間少ないお金の計算方法に従ってゆくしかない。そして私は一日のわずかな残り時間で自分の楽しみを追い求めるしかないのである。

 貨幣経済が悪いのか、あるいは日本という国家や会社がわれわれから自分の人生を奪うのか。自由な時間、自分のための人生をとりもどせる時代はいつか来るのか。

 あるいは自分のための時間という考え方自体が貨幣経済の他人のサービスの魅力ゆえにおこる発想法なのであって、少ない稼ぎでは自分の時間などほしくなくなるものなのだろうか。他人のサービスを必要とすれば、私はもっと働かなければならず、そしてサービスを享受する時間さえ得られないというジレンマに囚われる。貨幣経済の欲望とは無間地獄のようなものである。


11 17
2005

労働論・フリーター・ニート論

学校が育てるニート


 079_7_011.jpg 港で働く子どもたち(明治中期)

 学校が教えている価値というのは、「いい大学を出ていい会社に入れ」というものではなくて、じつは「働かないものがエライ」という価値観ではないのかと思う。

 早くに学校を出たりしたら、貧しくてかわいそうだとか、頭がよくなくてかわいそうと世間ではいわれそうである。よって高等教育の期間はどんどんのびてゆき、しまいにはぶらぶら子どもが有閑階級であることが親の常識になってしまった。

 学校は実社会で働くための機関ではなくなって、たんに子どもをぶらぶら扶養させるための機関になってしまったのではないか。私が学校にいたとき、働いたり、稼いだりするために勉強するという価値観や教えをまったく感じたことがないような気がする。たんにそこに行っていただけの感じがする。

 学校教育も稼いだり、自立するための教育ではなくて、実生活にほぼ役立たない知識ばかり教えられる。工業高校や商業高校より、普通科高校のほうが格上とされるし、大学でも理工系より文系のほうが人気があったりする。メシを食うための技術より、いかに実生活に役に立たない知識を学ぶかが格上であるかのようになっている。まったく有閑階級の価値である。

 むかしの日本人は働き手の子どもが必要なために小学校すら通えない生徒も多くいた。農業や漁業、または商業に学校教育なんか必要なかった。じっさいに働くことが仕事の教育になった。現代の仕事にしても、高度な専門知識ならともかく一般的な業務に高等教育はほぼ必要ないと思う。

 なぜ高等教育に通わせなければならないのか。企業が知識の競争を勝ち抜いたものを選別するという狭き門があったからだろう。それ以上に未成年に労働をさせてはならないという法律や不文律があったからではないかと思う。空白の期間の中に過剰なデッド・ヒートがおこなわれてしまったのである。

 おおむかしに教育機関に通えたのはひとにぎりの富裕層だけだっただろう。ご子息を働かせないで教育に通わせる富裕層はたいそうな身分に見えたことだろう。そういう専業主婦のような有閑階級を囲うことが、国や社会のステータスと感じられるような時代がやってきたのだろう。教育は国家の豊かさの見せびらかし消費であったのである。

 学校は教育を受けさせるための機関ではなかったのだと思う。それは富裕層のステータスであったのである。メシを稼がないご子息を囲うことが富裕層のシンボルとなった。実社会に出るための養成機関ではないだろう。職業なんてものは現場で学ぶほうがよほど身につく。学校では職業から縁の遠い知識が学ばされるのである。

 学校で習う知識というのはたいてい実生活に役に立たない知識である。教養や知識を高めたところでメシは食えない。稼げない。そんなところで人生の長い期間をすごした子どもたちはすっかり実生活に役に立たない知識を学ぶことがエライ→働かないほうがエライという価値観を刷り込まれることになってしまう。

 霞を食べるような知識をもてあそぶことがエライという価値観を学校や教師は刷り込む。実業的な知識は軽蔑される。役に立たない知識、損にも徳にもならない知識にもっとたわむれなさい。学校教師はそういう価値観を叩き込んでいた気がする。

 学校教育ってほんとうに必要なのかと思う。働く子どもはかわいそうというが、働けなくなった大人になったらどうしてくれる?

01 19
2006

労働論・フリーター・ニート論

他人のための仕事と自分のための人生



 仕事とは他人のためにサービスをおこなうことである。他人に奉仕してはじめてお金がもらえる。さっこんでは仕事に自己実現とかやりがいとかをもとめて、自己の満足ばかりを追い求めるという傾向になっているが、仕事は他人の満足のためにおこなわれるものである。自分の満足になんかだれも金を払ってくれない。

 いつも思うのだけど、金はよくできたしくみだと思う。自分の利益ばかり追求しがちな人間に、他人へのサービスを強制的におこなわせるシステムをビルドインさせているのである。他人への奉仕をしないと、金を稼いで、他人のサービスを受けられないのである。

 この社会は貨幣社会である。金を稼ぐためには、他人への奉仕をおこなわなければならない。そしてその金によって他人の奉仕を受けられるチケットを手にするわけである。お金とは他人の奉仕のチケットである。

 他人の奉仕をほしいと思えば、たくさん他人に奉仕しなければならない。そして文明社会ではたくさんの他人の奉仕が必要なため、際限なく他人の奉仕をおこなわなければならない。自分の利益や満足を追求すればするほど、他人への奉仕をおこなわなければならないのである。貨幣とはほんとうによくできた皮肉なシステムだ。

 他人への奉仕ばかりに費やされて、いったいだれのための人生か、なんのための人生か、わからなくなる。人はほんらい自分勝手であるから、他人への奉仕を行わずに他人からの奉仕だけをほしがる。つまりは働きたくない。

 自分の好きなことだけして暮らしたいと思う。働かなければ他人の奉仕は得られない。文明社会はたくさんの他人のサービスでなりたっている。食べ物にしろ、服にしろ、家にしろ、すべて他人がつくったものである。自分ひとりではなにもできない。しかもある一定の文明レベルに達しないと「人間」と認められない。そしていったいだれのための人生かと嘆きながら、きょうも他人への奉仕にもくもくと明け暮れるのである。

 「他人のため」といってもちっとも無償の愛や奉仕でおこなわれるのではない。金を得られなければ、どれだけの人が現在の労働量を保持しつづけられるだろうか。私益のために利他行為はおこなわれるのである。

 無償の愛や親切は、家族や友人、知人のあいだだけに限定される。貨幣は人間の私益を利用しながら、社会への貢献を強制的におこなわさせるのである。もし他人への奉仕をおこなわなければ、かれはホームレスとして、この奉仕社会から捨てて置かれる。かれは強制的な利他社会から、チケットのない者として排除されるのである。人間はちっとも無償の愛や親切をもたないのである。

 他人への奉仕地獄から逃れるにはチケットをたくさん手に入れるか、他人からの奉仕を減らすしかない。たいがいの人はチケットをたくさん手に入れようとして、よりいっそうの奉仕地獄に追い込まれるだけである。みんながみんなチケットをほしいがために技術やサービスの基準を上げて、文明の「フツー」や「マトモ」から降りられなくしてしまったからだ。自給自足に近い社会なら、より自分のために生きられたといえるかもしれないが、だけど他人の高度な技術やサービスは発生しなかったのである。

 私は毎日仕事ばかりしていて、いったいだれのための人生かと思う。もっと自分のために生きたいと思う。時間をくれと思う。そのためにせいぜい他人からのたくさんの奉仕をあきらめるしかない。高度な他人のサービスをたくさん得たいと思うのなら、ますます高度な他人への奉仕が必要になるからだ。自分の人生の時間を抹殺しかねない金というものには注意したいものである。CMや広告で魅力的な他人のサービスが流されるが、それを手に入れるために私はどれだけ他人の奉仕に時間を奪われなければならないのか。

01 26
2006

労働論・フリーター・ニート論

若者の人生のストライキを防ぐために



 若者は人生のストライキをおこなっているのである。フリーターやニートは働くことの拒否、ひきこもりは社会的活動の後退、晩婚化や少子化は家事や育児、女性差別のもの言わぬ抵抗なのである。ニートの若者の「働いたら負けだと思っている」という発言はそのことをあらわしている。

 若者はこの社会システムへの全身での抵抗をおこなっているのである。自分の人生を捨てるほどまでにそれは不快なものになっているのである。自身の人生を自爆テロに供するほど、耐えがたきものになっている。

 ただし、かれらはそれを言葉にできない。自分たちがなぜそのような行動をしているのか、社会に説得させる理論をもたない。マスコミのような表出手段をもたない。政治的手段や政治に訴える方法ももたない。社会が変わらないのなら、自分の人生をストライキするしかないと、各々が個人で人生の足をとめるしかないのである。

 現行の社会システムは抜本的に若者に合わなくなっている。だが社会を変えることもできないし、どのように変わればいいのかもわからない。もしひきこもりやフリーター、独身OLが40代にさしかかろうとするのなら、若者の人生のストライキはかれらが成人するころの20年前、1985年前後からはじまっていたことになる。その間、社会はなんの効果的な変革はちっともおこなえかったのである。

 若者の人生のストライキをやめさせるために、かれらのほんらいの人生を生きてもらうためには、社会は変わらなければならないのである。あるいはかれらはすでに自分の環境を自分に合わせてつくり変えてしまったのかもしれない。「いらない」ものを捨てていって、社会的活動や労働、結婚や出産を捨ててしまったのかもしれない。人生を疑える者にはそれらはすべて「いらない」ものの沸点に達してしまっているのである。

 若者が自分の全人生を捨てるまでの社会システムはいったいなんなのだろうか。いったいだれのための社会なのか。なんのための社会なのか。なぜこの腐り切ったシステムは変えられないのか。

 変える方向は労働時間を減らすことと、社会保障を解体させることだろう。個人は企業に全人生を拘束され、社会保障は人生を企業や国家に人質にとられる。若者はそれらを嫌って、沈黙のストライキをおこなってきたのである。結婚や出産の拒否も女性にだけ押しつけられた性別役割への異議申し立てである。若者たちは社会の根本の変革をのぞんでいるのである。それは自分の人生を引き換えにしてでも、得なければならないものなのである。

 若者は人生のストライキをひそかに進行しつづけている。そして社会の大人たちはそのことに気づかない。どのように変わればいいのかもわからない。100年後には人口が半分になるこの国はそれほどまでに生きたくない社会なのである。若者の人生のストライキを防ぐために、この社会はこれまでのシステムを大きくご破算にしなければならない総決算の時期にきているのである。もう非常事態である。

02 12
2006

労働論・フリーター・ニート論

「安い給料は身を助く」


 だれもが給料の高い会社に勤めたがるが、目先の利益だけに捕らわれるのは危うい。たとえば、ある店で買い物をしていたら、ほかの店のほうがもっと安かったら、だれもがそちらのほうに乗り換えるだろう。従業員に関してもとうぜん同じことがいえる。

 給料が高いということはたえず安さの脅威にさらされるということである。とくに下グラフの日本の製造業の賃金カーブを見てほしい。(年齢別賃金カーブの国際比較/「社会実情データ図録」からコピペ。労作のHPですが、リンクだけにとどめておくべきなのか)

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 日本男性の年功賃金は他国に比べて確実に上っているのである。ドイツやスウェーデンなみの水準に落とされる圧力はたえずあるわけだし、十分の一とかもいわれる中国や東南アジアの給料とくらべるともっと危ない。ましてや日本女性の30歳前後のピークから落ちる一方の賃金と比べると(年齢別賃金カーブの国際比較を見てほしい)、憤飯ものである。これに若手のフリーターも加わってゆくのである。

 中高年はそれだけの賃金に見合った仕事をしているのだろうか。優秀で卓越していて、他の追随を許さない仕事をしているのだろうか。パートやフリーターと絶対的な質の違いの仕事をしていると言い切れるだろうか。だからいま正社員は長時間労働の激務の脅威にさらされているといっていいだろう。

 中高年の賃金上昇はたまたま高度成長の黄金時代に重なったにすぎない。人件費の削減のために中高年は早期退職や実力給の再考にせまられている。むかし繁栄した安定企業ほどそういう脅威は強いのである。高い給料は身を危うくさせるのである。

 こういう時代に安い給料はひとつの防衛策になりうる。いわばデフレ時代の価格破壊戦略である。「安い給料は身を助く」なのである。

 しかも企業は女性や若者の社会保障からの撤退もはじめている。給料の高い男性はバブルのあだ花になってしまうかもしれない。給料も安いし、社会保障もないフリーターは未来の社会を生きる先駆形態なのかもしれない。目先の高い利益だけを追い求めていると、とんでもない目に合うかもしれないということである。

 荘子はいっている。こぶだらけのなんの使い道もない大木だからこそ、人に切られたり、乱用されたりしないので、長生きであると。


02 20
2006

労働論・フリーター・ニート論

ニートと年金生活者のなにが違うのか



 すいません。今回は暴論です。思考実験としてお聞きください。

 ニートは働かないから悪いといわれる。そういう定義でなら、働かない年金生活者も悪である。ニート52万人に対し、年金生活者はいまは2700万人もいるのである。なぜ働かない彼らは叩かれないのか。

 むろん彼らは年金を働いているうちに払ったからである。かれらは働けるうちにしっかりと働いた。その功労と功績のために国から老齢年金が支払われる。

 だけど、働かないということを非難するのなら、年金生活者も現時点では働いていないのである。生活費を国に出してもらっているか、親に出してもらっているのか違いである。

 それぞれ言い訳はある。年金生活者はちゃんと働いて掛け金を払ってきた。ニートならどういうだろう。親によって生活できるのならなぜ働かなければならないのか、仕事はハードに長時間拘束されるし、だいいちいまは不況で社会がまともな職を与えてくれないではないかと。

 そもそも「働かざるもの食うべからず」という社会にどうして年金で暮らせる人たちが存在できるのか。自分だけの貯金や資産で食べていけるのなら、だれも文句はいわない。しかし掛け金の何倍もの年金はどういう理由で支払われるのだろう。

 年金のない昔、農家の年老いた親たちは自分たちはむかし働いてきたから、なんの仕事もしないで養ってもらうんだなんていえなかっただろう。それは働かないごくつぶしのどら息子と同じである。家族の負担を減らすためにできる仕事をできるだけしようとしただろう。いまだって農村に行けば、老齢の人たちもぴんぴん働いている。

 われわれの社会は働かないことを理想としているのである。働かなくてよい社会、または現役時代に働いて、働かないで生きられる余生を理想とした。そしてそれを自分の貯金や資産ではなく、現役時代に働いた功労として国から年金が支払われるのである。

 貧しい農家で父さんはこれまで一生懸命働いてきたから、きょうから仕事をいっさいしないで食わせてもらうといったら、肩身が狭くなるか、姥捨て山行きだろう。過去の仕事の功績が老齢時に蓄積されるということはけっしてなかったのである。

 年金生活者は過去の仕事の功績のために国に養われるのは正当だとする。ニートは過去の親の扶養義務を延長させる。むろん正当的なのは年金生活者であるが、現時点で仕事をして金を稼いでいないという点ではニートも年金生活者も変わりがない。かれらは働かないでも養われるという共通点をもっている。

 われわれの社会はどうして年金というしくみをつくったのだろう。国はどうして現役時代に国のために働いた功績を引退後に返さなければならないと思ったのだろう。もし農家で多くの仕事があるのに過去の功績のためになにもしないでメシだけ食う老人は家族の怒りや憎しみは買わなかっただろうか。

 国は老人のニートを二千七百万人も生み出してきたのである。もしそれがこの社会の最高の理想、理想のゴールだと思われているのなら、そんな遠い未来を待つのではなく、親という扶養先がいるのだからどうしてニートにならずにいられるだろうか。つまりは夢の年金生活が夢のニートを生むのである。

 はい、これは暴論です。おふざけとしてお読みください。


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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