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07 11
2004

書評 経済

『中世人の経済感覚』 本郷 恵子


中世人の経済感覚中世人の経済感覚
本郷 恵子


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 お金はいつの世も大事だ。お金が人の生き方や生活をおおいに規定づけていたと考えるのが妥当である。だからお金から人の世を捉えることはかなり重要だと思う。お金は歴史や政治を動かしてきたのだと思う。学校で教えられるように政治家や歴史人物が世の中を動かしてきたのではない。政治家が原因の歴史なんてぜったいおかしい。


10 10
2005

書評 経済

『なぜ安アパートに住んでポルシェに乗るのか』 辰巳 渚


4334933335なぜ安アパートに住んでポルシェに乗るのか
辰巳 渚
光文社 2004-03-24

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 かなりおもしろい。ふだん買い物に感じているいろいろなことを再確認させてくれるし、その意味も説明してくれる。「そうだ、そうだ」という気もちや、「あれはそういうことだったのか」と納得させてくれる。買い物は意外な発見に満ちているのだと教えてくれる本である。

 たとえば、カタログを隅から隅まで検討して買おうとするのは、失敗を避ける心構えであるということや、または選ぶのに時間かがかかったりして、迷う楽しさ、買うまでの時間を楽しんでいるといえる。買い物とは、プロセスを買うことでもある。

 コンビニでおにぎりを一個買いするのをためらったりすることがあると思うが、それは貧乏人と思われたくないからである。買い物というのは、自分をさらけ出す行為でもある。見せたくない「私」を店員に見せなければならないのである。たしかに私もコンビニの店を変えたりして、店員に顔を覚えられるのを懸命に避けていたりする。

 コンビニや店員ってけっこう社会の「門番」というか、「監視役」みたいもので、かなり神経を使うものである。無言の警察官のようである。オトナのものを買おうとするときも店員のカベはいつも立ちはだかっていたものである。店員とは規範や道徳でもあるといえる。

 いまの商品で文句をいいたいとするのなら、ドリンクやラーメンやスナック菓子などはしょっちゅう新製品ばかり出してきて、かなりうんざりしている。うまいと思って食べたくなったラーメンはもう売っていないし、新製品でないとそんなに売れないのかとあきれる。行き過ぎだと思う。

 タイトルの「安アパートのポルシェ」は収入と比例しない消費行動のことをいっている。収入のランクが上ったからこれを買うというスタンダードはなくなって、ほしいもの、必要なものだけを買い、あとはどうでもいいという消費スタイルが増えてきたということである。金額が「分不相応」というモノサシをもたなくなったのである。高いから売れるもなくなって、好きだから買うしかなくなった世の中だといえる。金持ちや貧乏人という単純な金のモノサシでは世の中は見えなくなったということだ。

 私たちは買い物で「なに」を買っているのだろうか。期待や探すという行為、人からどう見られるかということも買っているのである。買い物は結果から考えるより、その前の一連の行為を買っているといえるし、感情や情動も買っているし、なによりも「社会的地位」や「優越的自己」、「他人から見える自己」、または「幸せなファミリー像」も買っているのである。買い物の深さを堪能させてくれる本であった。


 ▼消費について考える本。
yuukan1.jpgshohi1.jpg CIMG0010_111112.jpg020550830000[1].jpg

10 13
2005

書評 経済

『経済成長神話からの脱却』 クライヴ ハミルトン


4757210809経済成長神話からの脱却
クライヴ ハミルトン Clive Hamilton
アスペクト 2004-10

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 かなり考えさせられる名著であった。われわれはモノにあふれ返った豊かな社会からどこに行けばいいのだろう? 経済成長や金儲けしか知らない頭には強烈な冷や水を浴びせかける論考であった。ただし、私は5章から8章はほとんど退屈だったが。

 どこの国の政治も経済成長を最大の目標にしているが、それは幸福や満足とは結びつかない。西欧諸国もそうだし、日本にいたっては、1958年から1991年のあいだに実質GDPは六倍になっているが、人生に対する満足度はまったく変わっていない。それなのになぜまだ経済成長を求めなければならないのか。本書いわく「経済成長は幸福を作りだすものではなく、不幸によって維持されるものなのだ」

 「ほとんどの中流階級と多くの労働者階級の二十世紀アメリカ人にとって、人生とは休みなく"いい生活"を追求しつづけ、くり返し自分の無力さを思い知らされることだった」

 「世界でもっとも裕福な国民が、自分たちはみじめだ、こんな生活はいやだといい、そしてなにより、金持ちになるという過程そのものが問題を引き起こしている」

 われわれの社会はすでに必要なものは多かれ少なかれみんなもっていると感じている。しかしそれは消費者資本主義にとってはいちばん危険なことだ。そして企業や広告は商品のわずかな違いが、消費者の人生の質を大きく変えてしまうように信じさせるのである。

 「わたしはなにものなのか、わたしはなにものになりたいのか。意味とアイデンティティに関するこの質問は人間が発するもっとも深遠な質問だが、今日ではそれが車のラインやソフトドリンクのボトルのかたちに発せられている」

 「消費がもはや人類の必要を満たすためのものではなくて、その目的は今やアイデンティティを作りだすことにある」――みなさんはお気づきだろうか。私たちは必要のためではなくて、自分はなにものか、人とどう違うかを表わすためにむやみやたらにモノを買いあさる段階にいるのである。

 しかし、「人生を意味あるものにしたいという奥深い欲求をデザイナー・ジーンズで満たすことはできないのだ」

 「家族や友人とのつながりも含んだ社会的な関係こそが、一般的に幸福を決定するもっとも重要な要素だということだ」

 「人生の満足度にもっとも強い影響をおよぼすものは、意味と目的の感覚である」

 「幸福とは欲しいものを手に入れることではなく、すでに持っているものを欲しいと思うことなのだ」

 「モノの取得は共同体の意味を見いだすための手段となった。~社会に認可された商品を買えば、それで帰属意識が購入できるとでもいうように。まわりにいる人々には目もくれず、われわれは共同体感覚をスーパーや服飾店の棚に探し求めた」

 われわれはこの「経済成長フェチ」の世の中から抜け出すことができるのだろうか。「お腹はいっぱいなのに、まだ足りない」と思わせることでしか、われわれは生活の糧を得る方法を知らない。ついでに私たちは人より「落ちぶれたくない」。これまでと同じように無意味と感じつつも、ほんのわずかに違う商品をつくりだし、購入しなければならないのだ。

 日本は大きな転換点に立ち至っている。大きな舵取りが必要なのである。新たな社会思想や哲学がつくられなければならない時代である。政治が意味ある人生を送れるような社会づくりをめざすべきなのであるが、その前に社会理念や哲学が必要なのである。

 ▼消費と豊かさを問う本。
CIMG0002111.jpg浪費するアメリカ人―なぜ要らないものまで欲しがるかCIMG0001_11.jpgCIMG000211.jpg

11 02
2005

書評 経済

『経済の文明史』 カール・ポランニー


4480087591経済の文明史
カール ポランニー Karl Polanyi
筑摩書房 2003-06

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 非人間的な生産労働と、無益な物質消費を強制させられるこの経済社会はどうにかならないものか。

 そのような問いに答えるものとして、栗本慎一郎の経済人類学という学問があった。経済が生まれる原初を未開社会に探るというもので、そこにはなにか人間らしい経済や経済のほんとうの意味がのべられているように思えた。

 その栗本慎一郎に影響をあたえた先人として、ジョルジュ・バタイユとカール・ポランニーがいる。それでちくま学芸文庫から出たこの本に注目していたのであるが、難しそうなので手を出すのをこまねいていたのだが、読んでみたらやっぱり難しかった。人類学的知見が多いのなら楽しめたのだろうが、かなり経済学的で理解が難しい。私にとっては読んでもあまり意味のある本ではなかった。

 ただ、現代の市場経済社会は人類史上きわめて特殊な制度的所産であるという見解には、目からうろこが落ちそうになった。現代の経済社会をひっくり返して見せるのは一筋の希望をあたえてくれる。人間は経済的存在ではなく、社会的存在である、原始経済では利潤の欲求をもっていなかった、等々の経済至上主義いがいのものの見方を垣間見せてくれるのである。この経済社会いがいの生き方はないものだろうか、と私は夢想するのである。

▼栗本慎一郎の著作
パンツをはいたサル―人間は、どういう生物かCIMG00011115.jpgecoanth1.jpg経済の誕生―富と異人のフォークロア

11 08
2005

書評 経済

『パラサイト・ミドルの衝撃』 三神 万里子


4757141262パラサイト・ミドルの衝撃 サラリーマン― 45歳の憂鬱
NTT出版ライブラリーレゾナント016

三神 万里子
NTT出版 2005-10-13

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 前半はすごい本ではないのかと思ったのだが、後半の知識産業者の生き方については私は業種がまったく違うので、雲をつかむような話にしか思えなかった。

 まあ、45歳以上が日本企業を滅ぼすという話である。この著者の語り口はなかなか緊迫していて魅力的なのだが、無能な私はそれを伝えることはできない。私なりにというと、95年以降競争が劇的に変わっているのにその場にいさえすれば食べていけると考える45歳以上が企業の競争力や若者を犠牲にしながら居座りつづけているということである。

 若者のニートやパラサイト・シングルはこの45歳以上の親の会社内での立場と同じではないかというのである。大量生産の与えられる仕事でやってきた世代にとって、たぶん自分で稼ぐとか、行動するとかできないのだろう。ぶら下がるのが得だという価値観はそのまま子どもにも伝わる。年金や退職金があるから無難に食い逃げしようとする姿勢が、変化を押しとどめる体質を生み出してしまっているのである。

 社会保障などに手厚く守られてきた中高年世代と、社会保障もなく賃金も値切られる若手世代とのギャップはどんどん進行する。それはそのまま時代環境の違いである。変化は新しい時代の若者に多くあらわれ、そして守られた中高年世代を突き上げようとしている。会社にパラサイトする中高年は既得権を食い逃げできるのだろうか。

 ちなみに銘記しておきたい話をふたつ。2007年に改正年金制度が施行され、専業主婦が離婚すると夫の年金の半分を得られるようになり、熟年離婚の危機がくるということ。

 女性の約四割は結婚相手に年収600万を希望しているが、該当する男性は3.5パーセントしかおらず、男性の年収でいちばん多いのが200万から400万円で43パーセント、この水準を期待する女性は4.3パーセントしかない。アホかと思うが、たぶんこれで独身女性は希望額に近い親父にパラサイトしつづけることになるのだろう。

 さて、これからパラサイト・ミドルのパッシング・ブームはやってくることになるのだろうか。これは「社会主義の世代」と「市場主義の世代」の衝突といってもいいだろう。すでに市場主義に安く買い叩かれている若者たちは、あるいはマスコミや世論は、かれらをどう遇するのだろうか。次の対決は「市場主義」と「家族主義」になるのではないだろうか。中高年の家族保障は突き崩されることになるのだろうか。

 ▼かなり古いですが、知識産業について。
CIMG002411.jpgポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるかtisiki1.jpgザ・ワーク・オブ・ネーションズ―21世紀資本主義のイメージ



01 15
2006

書評 経済

『経済学的思考のセンス』 大竹文雄

4121018249経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには
大竹 文雄
中央公論新社 2005-12

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 私は人間の関係はお金の関係でとらえなければならないと思っている。感情のやりとりや結婚、性愛関係もお金のギブ・アンド・テイクでとらえるべきだと思っている。経済的な考え方というのは大事だと思うのである。

 この本には魅力的なトピックがならぶ。「女性は、背の高い男を好むのか」、「イイ男は結婚しているのか?」、「賞金とゴルファーのやる気」、「年功賃金はねずみ講だったのか?」、「見かけの不平等と真の不平等」、「高齢化と所得格差」、「所得が不平等なのは不幸なのか」など、おもしろいと思ったので思わず買った。

 むずかしいというよりか、ややこしい。意外に思う見解も示されていたりする。結婚の話とか所得のインセンティブなどの話がおもしろかった。経済学は日常のいろいろなことも切り込めるのだと思ったけど、こじつけや実証が不可能ではないかと思うところもあった。下手に転がればトンデモ本か、ゴシップ記事なみになりそうだ。もちろんこの本はしごくまじめな研究書であり、そういうことはいっさいないと思うのだが。

 年金未納は若者の逆襲であるといったことや、高齢者の増加が所得格差の拡大をもたらしたということ、所得格差が広がったのは90年代ではなく80年代であり、格差が近年に問題になったのはやはり失業やホームレス問題が目に見えるようになったからだ、ということにはなるほどと思った。

 経済学の実証的な目で社会を見るのは大事である。

選択の自由―自立社会への挑戦 ハイエク―マルクス主義を殺した哲人経済思想の巨人たち入門経済思想史 世俗の思想家たち

01 27
2006

書評 経済

『国保崩壊』 矢吹紀人


4871540448国保崩壊―ルポルタージュ・見よ!「いのち切り捨て」政策の悲劇を
矢吹 紀人 相野谷 安孝
あけび書房 2003-05

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 国民健康保険のバカ高さは異常である。たとえば福岡市の年収724万円のサラリーマンが退職して年金生活で年収が214万円になった例がある。所得税は当時は44万円、いまは10万円。会社での社会保険料は年間18万円だが、国保料はなんと年間56万円にもはねあがっているのである。年収が三分の一にも落ち込んでいるに対し、保険料は三倍にもなるのである。

 失業したり、退職したりしたら、この異常にバカ高い金額が待ちかまえているのである。ほかに大阪市の場合、年収300万円に対し41万円の国保料がかかり、収入比の13%にもなる。北海道では年収51万円に対してその半分28万円以上の国保料が課せられたり(!)、神奈川県でも年収500万円で保険料53万円である。福岡市で年収240万円の独身者が50万円である。所沢では年収40万しかない人に1000円納めてもらっているという。

 この病的な高さはなんなのか。年収が低くても月に3万から5万もとられるのである。もう一軒安アパートが借りれるくらいであり、サラ金の返済もこの額になれば苦しいだろう。

 国保は年金生活者と60歳以上が半数を越える保険制度である。そこに農林水産業の二割、自営業の二割が入る。毎年100万人ずつ増加し、リストラされた人やフリーター、無職者または中小零細企業の人が入ったりする。だいたい年収は200万以下が平均である。

 とうぜん滞納したり払えない人が出てくる。そういう人には短期保険証や資格証明証という医者にかかりにくくなる保険証が贈りつけられてくる。この本のルポには保険証をとりあげられて医者にかかれなかったり、死亡した例もあげられている。もう国民皆保険制度は終わっているのである。

 私はこんなバカ高い異常な保険料を払うのなら、保険なしで医者にかかったほうがよほど安くつくと思う。あたりまえの感覚である。保険なしでは行きにくかったり、診療してくれないこともあるのだろうか。なによりも、保険証は身分や身元の証明のような感覚があり、これがないことは恥ずかしいような感じがある。だからといって、このバカ高い金額を払いつづけるのもまともな感覚でもない。

 手術や入院になると何百万にもなるから、ぜひ必要になるのだろうけど、カゼやちょっとした不調で年に数回医者にかかるような健康な人なら大損である。まともな経済感覚のある人なら、なぜこんな異常な制度に金を払いつづけられるというのだろう。

 こんな健康保険制度なんてもういらないと思うのである。制度がなくなれば、医療はどうなるのだろう。軽い病気なら支払えないことはないだろうけど、手術や入院となると払えない危機が出てくるだろう。でもそこはまともな金銭感覚が出てきて、高すぎる医療にかかる人はいなくなり、診療代は安く抑えられると思うのである。制度はまともな市場原理をどれだけ破壊してきたのだろう。

 保険制度は国民の生命や健康を守る制度だから死守すべきものだと思う人もいるのだろうけど、月々と年間の保険料は尋常でないほどに釣り上がっているのである。健康を守る以前に、すでに生活基盤を破壊する制度に成り下がっているのである。「健康保険のために生活できない」という事態は本末転倒である。

 国保は全国の四割の人が加入している制度である。この人たちがみんな高額な保険料にいままさに直面しているのである。こんな尋常でない問題がいまも改善されないという異常さに私は頭をかしげざるをえないのである。この国はもう政治機能も自浄作用も存在しないのだろう。

正直者が馬鹿を見る国民健康保険「日本」の終わり―「日本型社会主義」との決別選択の自由―自立社会への挑戦ハイエク―マルクス主義を殺した哲人

02 14
2006

書評 経済

『日本の医療を問いなおす』 鈴木厚


4480057757日本の医療を問いなおす―医師からの提言
鈴木 厚
筑摩書房 1998-10

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 月3万も4万もとられる国保料のバカ高さから医療の世界を問う気になった。数年に一度医者にかかるか、かからないかの私が、毎月こんなバカ高い金額を払うなんて常軌を逸している。どうにも納得できない。いまでは保険証がない。少なくとも私の身の上には「国民皆保険制度」はない。

 この本を読むと、「うわわわわ~」と嘆きたくなることばかりだった。とくに厚生省の官僚が診察の値段や政策まですべて決めていることには頭を抱えた。まったく社会主義統制が生きているのである。

 90年代にドミノのようにソ連や東欧の社会主義が崩壊したのに、社会主義の北朝鮮を思いっきりバカにして笑っているのに、医療の世界はいまだに官僚による社会主義がつづいているのである。社会主義は権力の集中により独裁者を生む。スターリンやポルポト、キム・ジョンイルの歴史に日本人はなにも学ばなかったのか。郵政民営化どころではない。

 日本の医療の問題は診察料が官僚に安く抑えられているからだと医者である著者はいう。初診料は散髪代より安い2500円、再診料はラーメンなみの590円だ。これでは医者や看護士を増やすことができない。三時間待ちの三分診察、そして看護士が病院を駆け回ることになる。

 なによりも医療はタダという感覚があるために、高い診察料のために医者にかかることをあきらめるということがない。そのために医療料が増大する。患者にも医者にも金銭感覚やコスト意識がまったく働かないのである。カネによる垣根がないためにほんらいならそうとう高くなるであろう医療の垣根が低く抑えられているのである。この世は貨幣社会であるのに、金銭感覚がまったく働かない異常な世界が現出しているのである。それを天国というのなら、地上には長くつづかない。

 ふつうのモノの値段は安ければおおくの人が買うが、高ければ買う人が少なくなる。医療ではそういう金銭感覚がまったく働かず、高ければやめようということにならない。制限や抑制がないのである。

 100人の住民がひとり一万で町内会の医療費を運営しようとすると、ひとりがガンで100万使い果たすと、ほかの人はもう医者にかかれない。この規模ならわかることが国民全体の保険となると、この感覚がまったく欠如してしまう。健康保険という財源は現実のカネから遊離してしまう絵空事になってしまうのである。

 ほんと、この健康保険ってなんなのだろうなと思う。市場の感覚が働かない官僚が一方的に診察やクスリの値段を決め、許認可や保険取り消しの生殺与奪の権利をもち、戦後一社の倒産もない製薬業界を儲けさせるクスリの値段も決め、そこに天下る。官僚の社会主義天国である。もしかれらが武力や軍隊をもっていたら、スターリンやポルポトの誕生になっていただろう。

 昭和58年に老人医療費の七割を保険組合が負担しなければならなくなった。国民健康保険も、大企業の健保組合も、政管健保も、軒並み赤字に転落する。そして保険組合は病院への医療費の支払を拒否しはじめ、財政の苦しい自治体は保険料の払えない人たちから保険証をとりあげるようになっていったのである。

 生命は地球より重いというきれいな言葉があるが、カネのない世界で世の中を動かすことは不可能である。カネがないから医者にかかれない世界というのはつらい。しかしそれこそが人間の世の中というものであり、カネがなければ多くのものをあきらめなければならないというのも現実である。もうそろそろ健康保険という天国のまねごとはやめて、ふつうの市場に返すべきではないかと思う。社会保障は貧困層のみに残されるべきものではないのか。ただ、もう少しこの件については考えてみたいと思う。

社会保障を問いなおす―年金・医療・少子化対策国保崩壊―ルポルタージュ・見よ!「いのち切り捨て」政策の悲劇を正直者が馬鹿を見る国民健康保険「日本」の終わり―「日本型社会主義」との決別

02 26
2006

書評 経済

『隷従への道』 フリードリッヒ・ハイエク


CIMG00021113.jpg隷従への道―全体主義と自由
フリードリヒ・A. ハイエク Friedrich A. Hayek 一谷 藤一郎
東京創元社 1992-07

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 読みにくい翻訳文である。あるいはもともとの文章がわかりにくいのか。読みすすめるのにだいぶ時間がかかった。

 がぜん興味をひかれたのは第九章の「保障と自由」からである。読みたかったのはこれであると思った。

 「特権の与えられている人の数が増加し、彼らの保障と他の人々の差が大となるにしたがって、まったく新しい社会価値体系がしだいに発生する。社会的地位や身分を与えるものは、もはや独立ではなくて保障であり、青年に結婚適格性を与えるものは、青年の有為性ではなくて、年金を受ける権利となる」

 「優越性や地位が、ほとんどまったく国家の有給官吏になることによってのみ得られ、個人に決められた任務を履行することが、個人のためになる分野を選択することよりも称賛されるものと見なされ、公的階級の確定的な地位や一定の所得要求権を与えないすべての仕事が、劣等なものと見なされ、あるいはややもとすれば、不名誉なものとさえ見なされているところでは、多くの人々が長い間、保障よりも自由を選ぶというようなことを期待することはできない。

 従属的な地位における保障に代わるものが、最も不安な地位であって、個人は成功しても失敗しても、同様に軽蔑されるようなところでは、自由という対価を払うことを要する安全の誘惑に抵抗するものはきわめて少数であろう。

 事態がここまで進行すると、実際、自由はほとんど物笑いの種になる。というのは、自由というのは、この世の大部分のよきものを犠牲にして、はじめて取得できるものだからである。このような状態においては、ますます多くの人々が経済的保障がなければ自由は「もつに値しない」と感ずるようになり、彼らが自由を保障のために喜んで犠牲にするのは驚くに足りない」

 「われわれは自由というものが一定の価格を払って初めて得られるものであるということ、そして個人としてのわれわれが自由を保持するためには、きびしい物質的犠牲を払う用意をしなければならないということに、目を開くことを虚心に再認識する必要がある」

「僅かな一時的な安全を手に入れるために、根本的な自由を放棄する人は、自由と安全の両者をもつに値しない」――ベンジャミン・フランクリン

 ハイエクは50年後の現在の日本の状況をまるで目の前で見ているように語るのである。母親たちは息子に公務員になれといい、保障のしっかりした大企業に入れとすすめ、女性たちは結婚の相手をこのような政府に保障された男を探そうとする。ハイエクが嘆いた自由の消滅はこの日本において完璧に完成されたのである。

 ハイエクがいうには計画化や統制がヒトラーやスターリンを生み出したのであり、けっして社会主義国家だけの問題ではないと警告するのである。

 「国家が唯一の雇用者である国においては、反対することはしだいに餓死することを意味する。働かざるものは食うべからずという旧い原則は、服従せざるものは食うべからずという新しい原則に取って代わられる」――レオン・トロツキー

 日本は後進発展国のため計画化や統制がおおくとり入れられ、すこし前まではマルクス主義がおおいに流行った。社会主義はおおいに日本の中に浸透し、社会保障が国家だけではなく企業からも与えられるという東欧もびっくりの社会主義=企業主義国家になった。

 自由は死んでしまった。あるいは長らく存在せず、人々は自由がなんたるかを忘れてしまったのかもしれない。保障の奴隷ばかりの国になった。フリーターやニートはようやく奴隷労働のこの日本にはじめて自由を発見しはじめているのだろう。そして自由にはきびしい物質的犠牲がともなうことも、知ってゆくのだろう。


03 12
2006

書評 経済

『不道徳教育』 ウォルター・ブロック

4062814145不道徳な経済学──擁護できないものを擁護する (講談社+アルファ文庫 G 98-3)
ウォルター・ブロック 橘 玲
講談社 2011-02-22

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4062132729不道徳教育
ブロック.W 橘 玲
講談社 2006-02-03

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 すぐれた本である。世の中の不道徳なことが、それを禁止することによってもっと悪い方向に転がることを教えてくれる本である。

 つまりは道徳や福祉を強制すると、まったく逆の悪い方向に効果をよぼしてしまうのである。人間の意図は、それとは逆の効果をもたらすのである。まるで老荘思想のようだが、だから自由市場の神の見えざる手に任せたほうがうまくいくというわけである。

 この本は1976年に発表され、アメリカで大きな話題を巻き起こしたそうだが、「2ちゃんねらー」や「ホリエモン」といった最新のキーワードも頻出しているのは、橘玲という訳者が「意訳」や「超訳」しているわけである。

 自由主義者の主張を具体的な事例で説明する手腕には驚かされる。ミルトン・フリードマンの『選択の自由』もそうだったが、人間の計画や禁止が社会にいかに悪い方向や逆の方向に導くのかという説明にはいつもながら驚かされる。

 人間の称賛されるべき道徳や慈愛に満ちた福祉が、ぎゃくに市場や人々の生きる権利や自由を阻害したり、人間や社会を壊滅させるとは意外を通り越して、驚嘆に値するが、自由主義者の説明をきくと、まったくそのとおりだと思ってしまう。

 つまりは人間のすばらしき道徳や福祉はその意図とは逆にまったく逆の効果をもたらしてしまうのである。たとえば麻薬は悪いからと禁止してしまえば、闇市場で値段が暴騰してしまい、シャブ中は犯罪に手を染めてでも高額をそろえなければならなくなる。またアフリカの貧困に対して食糧がとどけられると、政治家の票集めに利用されるか、タダ同然の食糧と現地の農家は競争しなければならなくなる。

 児童労働は悪いというけれど、それを禁止してしまえば貧しい家庭では収入の道を閉ざされ、物乞いや売春するしかなくなる。最低賃金や労働基準法は私たちを守ってくれていると思うのだが、それは経営者に安い労働力をあきらめさせて、雇用を抑制して、失業者を増やすことに貢献してしまうのである。同様に男女雇用機会均等法も子育てにとられる女性の雇用を抑制する方向にはたらく。

 なんか政府のやっていることはぜんぶ失敗に落ちるみたいである。たぶん人為的な強制や禁止は人々から自由な選択を奪い、選択の抜け道をさがす方向にすすむからなんだろう。禁止は人の自由を奪い、また悪い症状を生み出してしまうのである。

 そもそも国家は無能であっても市場から退出する仕組みを持たない。失敗しても公務員はクビにならないし、給料も変わらないし、自分のふところが痛むわけでもない。生き残りをかけて必死に自分の金で努力する商人とはえらい違いである。自由市場は愚かな経営者を退出させる賢明なメカニズムをもつ。

 われわれの社会には金儲けに対する拭いがたい敵意がある。そして国家に対して富の分配を迫るのだが、それは権力者や独裁者を生み出してしまうだけなのである。自由経済ならば会社を辞めたり、顧客を変えたりする自由は開かれているが、管理された経済ではほかの選択肢はいっさい認められず、独裁者の支配を許してしまうのである。だから自由主義のほうがマシだとリバタリアン(自由原理主義者)たちはいうのである。

 リバタリアンがいうには福祉制度というのは労働者階級のためにあるのではなくて、特権階級による支配や服従のための装置だということになる。やっぱりなという感がする。私たちは道徳や福祉を国家に要求してしまうと、独裁者の権力を増大させることに貢献することになり、私たちの自由や選択はどんどん奪われてゆくことになるのである。私たちの要求が自分たちの首を絞めるとはまことに愚かしいパラドックスである。

 禁止は社会の報復をもたらす。私たちは政府の禁止による残骸物を現代でも目の前でたくさん見ているのだろう。自由主義は格差や貧困をもたらすと反対する人も多いが、私は人の自由に生きる権利を奪われるよりマシだと思う。戦後昭和の社畜として生きなければならなかったサラリーマンの不自由を思い出せといいたいのである。


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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