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03 11
2010

書評 経済

コンテンツの無料経済と「なにに対してお金を支払うのか」



 ネットのコンテンツがどんどん無料になっていて、コンテンツでは食っていけない未来がやってくるのだろうか。これまでなりたってきた本、マンガ、雑誌、新聞、音楽、テレビ、映画、ドラマといったコンテンツはそれ自体で儲けることができなくなるのだろうか。情報や知識といったものにお金は支払われなくなるのだろうか。クリス・アンダーソンの無料肯定論の『フリー』を読んで頭が発酵してしまったので、頭を整理したい。

 フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略

 そもそもコンテンツで稼げたのは、情報を発信したり、送り届ける方法や手段が限定されていたからだ。本は書籍という形態を必要としたし、音楽はCDというパッケージ、新聞は紙面と宅配制度、テレビは放送電波というシステム、映画は映画館という限定された空間によって、それらが得られる方法や手段が限定されていて、それに対してお金を支払わなければコンテンツを得られなかった。物理的限定が問題なくお金の支払いをよういにしていた。

 ネットの登場により、それらの物理的制限はとっぱらわれた。パッケージや印刷、配送、書店やCDショップといった売り場、テレビ受像機、ラジカセといったものが必要なしにパソコンのネットで配信、視聴、コピーできるようになった。コンテンツはいちど「物体」のパッケージをまとい、それによって金の支払いがとどこおりなくおこなわれていたのだが、ネットによりいっきにその壁がとりのぞかれた。壁やドアがあったから料金を徴収できたのだが、素通りになってしまって、さあたいへんというわけだ。駅の改札口、映画館の切符受け取り口がなくなってしまった。ベルリンの壁、38度線の壁がなくなってしまって、人が自由にばらばらになだれこんでしまった。

 コンテンツの物体や壁の制限がなくなり、丸裸になってしまったというわけだ。そもそも本というのは人が話したり、多くの人に話したりすることがらを紙やインクによって物体として保存したものだ。人は場所と時間に限定される生き物なので、遠くの人や時間がへだたった人にその話言葉を送り届けられなかったのだが、書物がその限定を解除した。つまりは本というのは人の話のことである。ふつう人が話していて、お金をとられることはない。講演会や講義など有名人や偉い人の話しかお金をとられることはない。

 音楽はそもそもストリート・ミュージシャンのように道端や人がたくさんいるところで演奏されていたものだ。通りや往来の限定されない空間で音楽を聴いてもお金をとられることはない。それがいい曲や演奏のうまい人が限定されて、たとえば王や貴族の前で演奏されてお金がとられるようになり、酒場や演奏場の空間に限定されるようになってお金が課金されるようになった。音楽は空間の限定によってお金を得ていたのだが、レコードの出現により、この物体の製造や配送にお金を支払うことになったのだ。

 そもそもコンテンツとは物体や空間の限定がないところでおこなわれていたものだ。そこにお金を支払うクッションなどとうぜんありえない。ネットの登場はふたたびわれわれをだだっ広い、なんの障壁もない空間に放り出してしまったのだ。原点に戻ってしまったのだ。情報の発信、コピーがほぼ無料でできるようになってしまって、制限による課金ができなくなってしまった。ふたたび街頭の演説家やミュージシャンに、プロの書き手や演奏家をもどしてしまったのだ。

 ラジオやテレビの出現はそれと似た事態だったのだろう。放送や電波は空間や物体で区切ることはできない。どこでお金が支払われるのか。わたしにはこれがふしぎでならないのだが、人がたくさん集まるところに自社の商品やサービスを知らせたい人がそのコンテンツにお金を払って人の視聴代を肩代わりした。みなさんにコンテンツを楽しんでもらいます、ただしわたしどもの商品・サービスもいっしょに見て買ってくださいということだ。人の集まりを利用したのだ。楽しい催しをおこないます、無料で参加して楽しんでもらえます、それはわたしたちの商品やサービスの広報と宣伝によってですよということだ。それほどまでに商品やサービスは人に知られる機会がないということだ。このシステムがわたしにはいまだに不思議でならないし、なにか理解できないものがある。

 無料がひろがるにつれ、わたしたちはなにに対してお金を支払ってきたのかという問いにひきもどされる。なにに金を支払い、なにに支払わなかったのか。あるいはだれがだ。ラジオやテレビは企業のスポンサーが払い、雑誌はスポンサーと購読者、新聞も同じ仕組み、本は購読者のみ、レコードやCDは視聴者、けれどラジオで音楽を聞く分はスポンサーが支払った。

 本やレコードのパッケージされるものは購買者のみが支払ったが、ラジオやテレビは電波という限定されないもので視聴することではなくて、注目や集まりに対してスポンサーが金を払った。コンテンツに払うものと、注目や集まりに払うものと分かれたのだ。ネットはコンテンツに払われるべきか、注目や集まりを利用した広告に払われるべきか。ネットは空間や物体の限定がなく、電波放送に似ているのでスポンサーよりになるだろうか。ネットはこれまでパッケージで売られていたものを電波放送のように溶かしてしまったので、パッケージで売っていたものはたいへんだ。パッケージが消えてしまうのだ。

 無料経済はまたわれわれにお金を支払うことはどういうことかという問いもつきつける。われわれはなぜ金を支払ってきたのか。コンテンツがパッケージでは支払われ、電波放送では支払われないとすると、わたしたちはなにに金を支払ってきたのか。コンテンツに対してではなかったのか。放送が見せたものは、たとえば本に支払うのは紙や装丁、印刷、配送や店舗販売に支払ってきたということになる。つまりはパッケージ製造と発送、販売にかかるコストに金を支払ってきたのだ。

 コンテンツを創作する努力や苦悩、時間といったものにはあまり支払われなかった。わたしたちとしては製作者を報いる気持ちでコンテンツを買ってきた気持ちでいるのにあまりそれについて払っていたわけではないことがわかる。ラジオやテレビで注目や集まりを得られることにスポンサーは金を支払っていた。かならずしもコンテンツのよさや完成度といったものではなかった。つまりコンテンツというのはコンテンツではなくて、モノや空間に支払ってきたのだ。ネットで課金されなくなるというものだ。

 あまり長く考えすぎるととりとめがなくなってしまう。フリーについてほんと考えることがいっぱいあり、あれもこれも考えなければならなくなるから、ここらで区切ろう。無料経済というのは貨幣経済やビジネスだけではない人間の社会についての考察を迫るし、貨幣以外の注目や評判をほしがる人間は貨幣経済で食っていけないのか、人間の関係というのは貨幣経済以外で食糧や物質の交換をできないのかといろいろ疑問が思い浮かぶが、ブログの一記事に際限のない考察は要求されていないだろう。もっと頭でまとめて書くことにしよう。

 あと一点つけくわえたいが、お金というものはお金を支払わないものには得られないというしくみがあり、ほんらい情報や知識といったものはおおくの人に知ってもらいたいという目的があるのに、お金という交換の仕組みで情報を広めようとしてきたから、これまで情報や知識というのはお金のないものには排除されてきた。お金は壁や障壁の役割をしてきたのだ。ほんらい情報や知識はおおくの人に知ってもらいたいという性質があったはずだ。お金の交換手段は人々を遮断してきたのだ。情報をお金で広めるという方法は情報の性質とそぐわなかったのではないのか。ネットの無料化はそのような制限を排除するものである。フリーはより情報の性質に合ったしくみだといえるだろう。


▼こっち方面で考えたい気もするのだが、ない頭をふれないというやつだ。つまり貨幣以外の人類の交換手段についてだ。
情報の文明学 (中公文庫)ギフト―エロスの交易贈与論 (ちくま学芸文庫)

交易する人間(ホモ・コムニカンス) (講談社選書メチエ)新版 相互扶助論ボランタリー経済の誕生―自発する経済とコミュニティ

01 23
2010

書評 経済

『日本力』 伊藤洋一


日本力 アジアを引っぱる経済・欧米が憧れる文化! (講談社プラスアルファ文庫)
伊藤洋一

日本力 アジアを引っぱる経済・欧米が憧れる文化! (講談社プラスアルファ文庫)


 日本力というよりか、日本を追い越しそうな国の実情を追ったレポートである。中国の驚異的な成長力、追い上げる韓国、インドの勃興などを見ているとたしかに落ち目一方の日本は近々追い越されても仕方がないと思える。GDPは四十年近く日本が世界第二位の地位を保ってきたが、13億人の中国に15年ほどで追い抜かれるだろう。

 この本ではこれらの国々がまだまだ日本を追い越せない事情を探っていくが、こういう脅威の感じ方は疑問に思える。過去の栄光のモノサシ、とらえ方の枠組みで比較する必要などないのだ。私たちはGDP主義のひずみや達成の幻滅感などを知っているはずなので、だからこそ閉塞感を感じているので、ほかの目標やモノサシをもつべきなのだ。勃興する製造業、工業国と同じ土俵に立つ必要などないし、あいかわらず過去の日本にしがみつくことは時代のよどみにとどまるだけだ。この問題意識に立脚するリポートはまるで高度成長期時代に思考停止しているようで、私には?に思えた。

 「ジャパン・ペシミズム」に異議をとらえる点はたしかにと思える。失われた十年などと悲観論にそまっていれば、ほんとうに社会や経済はそのまま落ち目に墜落する。競争力が段階的に落ちた日本はその一方でマンガやアニメ、ポップカルチャーなどで世界へのプレゼンス力を強めたのだ。「ジャパン・イズ・クール」だ。日本にいれば他国の憧れは見えないが、そういう文化の地位にいる自信を忘れてはならないだろう。新たな文化の段階にたっし、その強みを強める方向に進むべきだ。

 中国は驚異的な成長力をのばしつづけているが、著者は先進国にはまだまだ遠いと見る。中国の土地は公有か、集団所有のままだ。資産であるはずの土地がこのようであれば資本主義の根本である私有権すらないことになる。五十年、七十年の定期借地権で売っている。また社会主義体制の正当性の欠如も問題になるだろう。暴動も各地で多発し、社会保障はほぼないに等しいし、農村部から沿海部に出てきた人たちに戸籍はなく、子どもはそのために小学校すら入れないし、一人っ子政策のために急速に高齢化する。走り出したばかりの国で、過去のしがらみを足にいっぱいからみつけたままどこでつまづくか危うい未成熟の国なのだ。

 韓国はサムスン一社だけがガリバーのように稼ぐ出すだけで、早くも製造業の労働者数は減りつづけている。日本は産業の裾野が広い。インドは勃興しはじめたが、文盲率も高く、壮絶な貧困も共存しているし、カーストも根強く残っている。ただし民主主義国家である。

 1990年代から世界は変わり、競争力をつけたのは小回りの効くフィンランド、ノルウェー、スウェーデンなどである。日本は一億をこす大国で、一億をこす人口は世界に十ヶ国ほどしかない。アメリカや中国、カナダ、インドなどだ。機敏に世界の変化のスピードについていけなかったのだろう。

 これから日本は「活力の維持と拡大」を求めなければならない。経済活動の意欲、創作活動の意欲を刺激しなければならない。強いセクターが国を豊かにする。公共部門は富を生み出さなく、生み出すのは民間だけだ。知恵を出して需要をつくりだせないと生き残れない。安定や安泰をもとめるだけの社会から創造や創意工夫は生まれないのである。日本の閉塞感は国民のそういう安定志向にあるのだろう。

 日本は世界に憧れられる文化発信国になっていかなければらないのだろう。京都とか飛騨高山とかの名所では観光を売ってぴりっとしたたたずまいをしているが、そういう精神が必要なのだろう。自国ではたいした人間ではないと思っていても世界からは金持ちや貴族のように思われているのかもしれない。日本人がむかしアメリカ人をすべて俳優のようにカッコいいとカンチガイしたように。世界からもとめられている日本人像は豊かで平和な文化人かもしれない。


カウンターから日本が見える 板前文化論の冒険 (新潮新書) 匠の国 日本 職人は国の宝、国の礎 (PHP新書 501) 上品で美しい国家―日本人の伝統と美意識 ITとカースト―インド・成長の秘密と苦悩 新設 元気が湧く日本の歴史
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01 15
2010

書評 経済

『この国を作り変えよう』 冨山和彦 松本大 


この国を作り変えよう 日本を再生させる10の提言 (講談社BIZ)
冨山和彦 松本大

この国を作り変えよう 日本を再生させる10の提言 (講談社BIZ)


 どんな人たちなのかよくわからないが、前向きな提言がありそうなので読む。ふたりとも東大法学部を出て本人の言いわくエリートコースを脱落して外資系の投資銀行、外資系コンサルティング会社をへてげんざいは経営者となっているらしい。政府のブレーンなどをやっている若手なのか。

 格差は反市場経済的な制度や規制によって発生するという説は目をひいた。ふつうは市場経済が格差を発生させるとなっているが、そのため規制や補助金を導入してぎゃくに格差がひろがるといっている。ふたつの違いを見極めて対処することが必要だということだ。

 日本を若返らせる10の提言がのべられているのだが、二十代の未来内閣や世代別選挙制度の提言などなるほどと思う。たしかにこの国は高齢者や中高年が権力や既得権益をにぎってしまって若者は搾取されたり損な役回りばかり押しつけられ、あたらしく変わることも夢を描くこともできない。若者にとってはつまらない世の中になってしまったものだ。ただ世代間格差もあるのはたしかだろうが、時代の変わり目や変化によって後続世代が損をしていることもあって、世代だけでは割り切れないと思うのだが。

 中流階級は政府の所得分配制度によって生まれたのではなくて、高度成長の結果にすぎないのであって、この発想で日本をよみがえらせようとしても、分配するパイ自体がないのだからできないといっている。

 「自分たちは貧しくなっている」「日本は衰退国家だ」という生活実感を半数の人がもてば、時代の空気は変わるだろうという。まだこの国の人たちはバブル経済や高度成長、あるいは経済大国の夢うつつの中で暮らしているのかもしれない。いろんなものが崩れている、不調がつづいていると気づいていてもすべり坂や崩落の最中にいるということに感づかない人も多いのかもしれない。もう過去の栄光は二度と戻ってこないのだという深刻な診断をつきつけられる必要があるのだろう。

 年金の解散がつげられているのはなかなか小気味いいと思った。こんな破綻の心配に脅えたり泥沼状態の制度はいっそなくしてしまったほうがすっきりする。支払った保険料は全額返還だ。ツケを下の世代に押しつけるのではなく、積み立て型に変換せよということだ。私なんか年金という制度自体やめてしまえ、そうすれば人の生き方や人生のとらえ方も変わると思うのだが、まあ高齢になったら仕事がほんとうになくなるからムリなのだろう。いまなんか年金をもらうより生活保護のほうが高いというようになっているから、あきらかに失敗だ。

 正社員と非正社員の区別撤廃が提言されているが、どうしてこんな当たり前のことがこの国はできないのだろう。これはおかしすぎる。あるいは時代の変換期の滞留面でしかないのだろうか。年功正社員が可能であった時代とグローバル平準化賃金の時代環境の違いにすぎないのか。後者の時代環境に標準化した制度づくりがもとめられるのだろう。社会主義の時代と市場主義の時代が世代によって分かれてしまって、一国二制度みたいになっているのだ。企業が社会主義をやめてしまって、政府はその対応にすくなくとも二十年は遅れている。企業任せの社会保障をやめることが区別撤廃の礎になると思うのだが。

 私としてはなによりも食える社会にしてほしいということだ。職業に必要な教育をなんどもうけられて再転職がいくらでも可能な社会になってほしいと思う。カネをかせぐ技術、能力を徹底的に補強してもらわないとこの先食っていけない。しょぼい自分の足元しか見えない発想だが、自分にとってこの問題はなによりも緊急課題なのである。学校教育でメシが食えるようにならなかったから職業教育の充実を願う人はおおいのではないだろうか。


私の仕事術 (講談社+α文庫) 指一本の執念が勝負を決める 会社は頭から腐る―あなたの会社のよりよい未来のために「再生の修羅場からの提言」 グローバル・マインド 超一流の思考原理―日本人はなぜ正解のない問題に弱いのか 企業価値向上論講義 社長の器
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12 31
2009

書評 経済

『日本再生の戦略』 天児慧


日本再生の戦略 (講談社現代新書)
天児慧

日本再生の戦略 (講談社現代新書)


 著者は中国研究の専門家で、著者もみずからあとがきで書いているようになぜこの本を著者が書いているのかわからない本であった。日本の概括にながらくページが割かれており、いまさらこんな概括なんか読んでも仕方がないし、再生の戦略もお役所的な発想だし、四方山話もムダだ。

 新書で安く買えるから手にとったが、再生戦略はエコノミストか社会学者の書いた本を読みたかった。どうも中国専門家が首をつっこむ話ではなかったようで、あいまいで焦点の定まらない本になっている。まあ、私も日本再生の戦略なんかわからないからこの本を読んだので評価もできないのだが、どうもズレを感じる本であり、あまり読んでも価値のある本ではなかった。

 日本は経済大国をめざしてきて、バブル期以降に経済、労働中心のひずみから生活大国が目標になったときもあるが果たされず、つぎには凋落や衰退、非正規増加、貧困など坂を転げ落ちて、ますます目標もなく、希望もなく、戦略もない時代にさまよっている。日本はどこをめざすべきか。

 まあいまは高度成長期にできあがった社会システムを下落時代に合わせる対症療法が先だろう。正社員保障や核家族モデルを変えなければならない。パート賃金やフリーターでも生きて家族と子どもももてる社会システムをつくらないと正社員保障モデルからもれる大量の若者は希望も未来もないだろう。家庭を男が養い、女が家を見るというモデルももう不可能で、まさに主婦パート賃金でも生きられる社会に対応するしかないだろう。

 若者に夢や希望がなくなった。企業社会が若者に立身出世や大志を抱けないシステムになってしまったのもあるし、ぎゃくに若者からも大志もおおきな夢をいだかなくなったこともあるだろう。消費と私生活主義で、若者はこじんまりと生きるしかなく、それも行きつまってしまった。閉塞感や停滞はそこからきているのだろう。

 希望や夢をいだける方向性を見つけなければならないわけだが、近代産業社会の目標が終わってしまえばそれすら容易に見つけられない。希望や夢はどこにあるのだろう。若者は私生活の価値や幸福を追求するしかないのだろうが、国家としてはどこをめざせばいいのだろうか。近代化あとの成熟社会というのはとてもむづかしい問題のようである。下落をごまかして、間延びさせる方法しかとりえないのではないかと思う。美しき停滞というやつだ。


中国の闇―マフィア化する政治 経済成長という病 (講談社現代新書) 先着順採用、会議自由参加で「世界一の小企業」をつくった (講談社プラスアルファ文庫) リンゴが教えてくれたこと (日経プレミアシリーズ 46) 思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本 (講談社現代新書)
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08 23
2009

書評 経済

『世界でいちばんやる気がないのは日本人』 可兒 鈴一郎


世界でいちばんやる気がないのは日本人――成果主義が破壊した「ジャパン・アズ・No.1」 (講談社プラスアルファ新書)
可兒 鈴一郎

世界でいちばんやる気がないのは日本人――成果主義が破壊した「ジャパン・アズ・No.1」 (講談社プラスアルファ新書)


 日本人は仕事にたいして「ひじょうに意欲的」と答えたのはたったの2パーセント。「意欲的ではない」は41パーセントでインドについで高い。国際競争力も1991年、1992年の1位から2002年に30位に落ち、2007年には中国に抜かれている。もっともGDPはアメリカにつぐ2位であるが。

 この本では成果主義の失敗や北欧とのビジネススタイルなどが紹介されているのだが、日本人がやる気をなくしたのは、圧倒的に会社や組織の力が強すぎ、個人がなにをやってもムダだという気分の蔓延や、組織や社会にまかせていたらいいようにしてくれるだろうという依存心やあきらめだろう。

 自由がなく、個人に自分の人生を選べる、好きなように生きられるといったことや、会社や社会を変えられるという気持ちをもてないと、やる気や自主独立の精神をもてない。日本人は組織や国につぶされたという気がする。成果主義や北欧うんぬんという前に、日本人は組織に殺されてしまったのである。

 右肩下がりの時代に突入してやる気を出させるために市場主義が導入されたが、けっきょくは格差や非正規の悲劇によって日本人の怒りと反発をまねいただけに終わり、組織の温存と強大化はのこり、個人はますます萎縮し、日本人のやる気や気概を削いでしまった。組織やシステムが強すぎて、個人の自由や自主独立の精神が尊重されないと、日本はますます組織の「死にいたる病」におちいってゆく気がする。

 日本人は自分で選んだという実感がほとんどなく、組織やシステムの中で自己決定をしないことが大原則になっている。これでは会社や国におまかせで、自分には責任がなく、悪くなったのは会社や政治家のせいにされるだけだ。組織や国は選択を奪い、個人もおまかせだけだから、けっきょく社会の主体ややる気も生まれてこない。そして日本は死んでゆくのである。

 そう考えると非正規切りの悲劇も日本人にはいい薬に写ったかもしれない。会社も国も守ってくれないのだ。自分で自分の人生を生なければならないのだという覚悟と自覚を生んだかもしれない。それでもそこに生まれたのは国への社会保障の充実の要望と、やっぱり安定した組織への依存心だけかもしれない。個人の自由と自主独立をバックアップできる社会にならないと、大きな船は沈んでゆくばかりな気がする。社会保障信仰や組織のおまかせ依存心が日本人をますますつぶしているように思える。

 この本では管理職は部下に命令や指示を高圧的に出す製造業的なスタイルではなくて、タレントの自由や自主を尊重するマネージャーのようにならなけらばならないといっている。管理職というのは偉そうにふんぞりかえるのではなく、部下のやる気をひきだすフォロワーのようにならなければならないというのである。これは社会や国ぜんたいにもいえることだと思う。

 国や会社が決めて個人は選択を奪われる社会主義的、国営的な組織からいかに個人の自由や自主性をひきだせる体制をつくれるか、そういう時代の変わり目にきているのだろう。しかし組織や保障から放り出され、さあたいへんだ、やっぱり組織や国に駆け込むしかないと脅えさせるようではまた失敗だ。おまかせ社会主義からいかに乳離れできるかが日本の課題だという気がする。



フィンランド豊かさのメソッド (集英社新書 (0453)) ガラパゴス化する日本の製造業 法律オンチが会社を滅ぼす 部下は取り替えても、変わらない! 社長のための失敗学
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02 26
2009

書評 経済

『経済成長は、もういらない』 佐藤 典司


経済成長は、もういらない ゼロ成長でも幸せな国経済成長は、もういらない ゼロ成長でも幸せな国
(2006/08/26)
佐藤 典司

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 私もずっと経済至上主義はどうにかならないかと思ってきたが、いまはこの手の本は夢うつつに思えてあまり信用できない。では、どうやってメシを食うのかという基本的なことを解決しないとなにもいってほしくないと思う。経済成長がなくてもみんながメシが食える社会についてまず考えてもらいたいと思う。現実的な生活を抜きに理想を語られても意味はないと思う。

 もちろん私だってこの経済至上主義の世の中はどうにかならないかと思う。この書はあまりにも現実的な生活やカネに傾きがちだった私にいっときの憧憬を思い出させてくれる。むかし強く思っていたが、カネや生活のために忘れがちになってきていたかつての理想を思い出させてくれた。

「日本人には、生活がありません」

「日本企業は人間を物やサービスを受ける消費者、言い換えるとマーケットとしか見なかった。これが問題だった。人間の中の消費の部分は、せいぜい生活の中の一割か二割か占めるに過ぎず、あとはカラオケを歌う。恋愛をする。世界のことを考える。子供や草木に愛情を注ぐ……」(堤清ニ)

「2003年のわが国の全世帯平均所得579万円は、……世界の人々の所得順位上位1%に入る金額とされる。つまり、世界を見渡せば、99%の人たちが、私たち日本人より貧しいのだ」

「東京では、曖昧に会社員だったり、OLだったり、自由業だったりするが、パリでは、誰もが、まず人間に還元される。……東京では職業が歩いているが、パリでは人間が歩いている」(辻邦生)

「百円ショップにかぎらず、わが国で一番高いものは人件費だから、ここをどう抑えるかが、あらゆる企業競争のカギを握る。つまり、製品がタダに近づくとは、人件費をタダに近づけることにほかならない。
……人間がタダに近づいている、そう直感した」

「低収入のために、家庭ももてない、その結果、子どももつくれない社会。まさかこんな日本になろうとは、誰が想像しただろう」

「最近の若者は、ひ弱でしょうがないなどと嘆いている大人は、実態を知らないのである。自分の息子や娘が、毎日、ボロ布のように使われて初めて気づく。職があるだけ幸せという生やさしい状況ではない。まさに命あってのものだね、という状況にまで現実は切迫しているのだ」

「次の問題は、これから私たちが目指すべき価値とは何かということになるのだが……。それはこれまでのわが国の経済一辺倒の枠組みからは、とくに見過ごされてきたもの、またそうした枠組みの中では、どうしても実現できなかったものである。言い換えれば、それらはまさに、これまでの経済成長至上主義が打ち捨ててきたものとも言ってよい。経済成長と私たちが引き換えにしてきた価値、それこそが、私たちがこれからまっすぐ向かう山の頂のはずである」

「そもそもお金で買うことのできないものについては、私たちはまず比較しようとする気さえ起こさない。お父さんとお母さんは、どちらが価値があるのか、春と秋はどちらがよい季節なのか、台風の大水と地震はどちらが怖いかとか、これらはどこの店でも売っていないから、比較のしようがない。何でも比較可能な状況にしてくれるお金は、今日の楽しみを明日に先延ばしする魔法の杖を私たちに与えてくれた。ただ、それゆえに、取り返しのつかない今を、私たちは将来と交換している」

「GDP(国内総生産)とは、その年の日本国内で生産された新たなモノやサービスの価値を足し上げたものだ。だから、前の年に立てた家や、今でも街を走っている何年か前に生産されたクルマの価値はそこに含まれない。まして、明治時代の建物や、博物館に納まっている中世の美術品、千年を超える屋久島の原生林の価値などが、毎年のGDPに換算されることはない。
これを数学的に言えば、GDPとは、大昔から続いている一国の経済活動を、わずか一年きりの、その瞬間、瞬間だけほとらえようとする「微分的」考え方から成立していると言ってよい」

 日本はずっと経済成長主義一辺倒でやってきたわけだが、どうしてそのほかの価値や意味が切り捨てられてきたのだろう。食うために切り捨てざるを得なかったし、また食うために眼中からなくしてしまったのだろう。しまいには経済一辺倒でほかの価値を削ぎ落としてきて、また食えなくなる時代を迎えつつあるからよけいに悲惨である。経済以外の価値観をとりもどすことが必要である。

 いっていることはもっともなことであり、共感はする。だけどそれではメシが食えないのである。さいしょの問題に逆戻りである。だからほかの人間的な価値観をのこしつつ、どうやってみんながメシを食える社会にしてゆくのかと問われなければならないのだろう。ただ経済成長をやめようとだけいっても、絵空事やたわけにしか聞こえない。


「ゼロ成長」幸福論 (角川oneテーマ21)経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか (平凡社ライブラリー)お金持ちより時間持ち―モノ持ちよりもココロ持ち (ワニの選書)経済成長神話からの脱却

02 15
2009

書評 経済

『全世界バブルが崩壊する日!〈上〉』 浅井 隆


全世界バブルが崩壊する日!〈上〉
浅井 隆

全世界バブルが崩壊する日!〈上〉


 ブックオフの百円本で見つけなかったら買うことはなかっただろう。浅井隆は1993年から「大恐慌がくるぞくるぞ!」と脅しつづけ、それから毎年のように恐怖産業で儲けてきたオオカミ少年にすぎないと思うからだ。恐怖を煽る人でしかない。いったいこのような恐怖を煽る本を何冊出したのだろうか。2008年のアメリカ株価大暴落になにを思うのだろうか。

 この本は2007年の年末に出ていた本だから、世界株価暴落はどのていど予測できていたのかという確認の意味で読む。

 サブプライムの危機は2007年度から何度か噴出していたようだ。2008年のリーマン破綻によるアメリカ株価大暴落までその危機意識はどんどんと高まっていたのだろう。資源価格の暴騰などは沈む船からねずみが逃げたしたようなものなのだろう。

 こんかいの危機で恐ろしいことは世界中でバブルがおこっていたことだ。バブルの時にはだれもがこの成長や景気がいつまでもつつぎ、終わることはないと無我夢中になる。その宴の後に歴史的な暴落をこうむるのは、浅井隆がいつも警鐘を鳴らすようにオランダのチューリップ暴落、イギリスの南海バブル事件、そして1929年のニューヨーク大暴落と変わることはない。

 ドバイやモスクワではオイルマネーで潤い、ロンドンやパリで地価高騰がおこり、上海や香港、シンガポールなどでも土地バブルがおこっていた。世界中がバブルの宴に酔っていたわけである。

 その風船にひとつの針が刺された。アメリカのサブプライム問題、リーマン破綻、そして金融商品のリスク破綻である。アメリカの株価暴落は世界中の株価暴落をひきおこした。

 浅井隆は日本がいちばんヒドイ目に会うと予測し、2015年には政府の借金総額がGDPの三倍にふくらみ、日本は戦後のように国家破産し、ハイパーインフレに襲われるという。2020年には水や資源の争奪戦がおこると風呂敷を広げている。

 株価が暴落して、投資家や資産家は泡をふいたわけだが、一般の庶民には株の暴落は影響が少なく、いまいちぴんとこない。トヨタやソニーなどの赤字決算や損失計上もいまいちびんとこない。しかし雇用のこととなるとそうはいっていられない。派遣の雇い止めや失業、雇用削減計画によって、庶民は明日はわが身とようやくこの恐ろしさの意味を肌で感じはじめたといった具合である。この津波の波はわれわれの日常の生活に及ぶにいたってその恐ろしさが知られてくるのである。

 われわれはこの時代をどう乗り切ったらいいのだろう。悲観や悲惨なことばかりに目を向けるのではなくて、楽観や前向きなことに目を向けてゆくべきなのだろう。史上最悪の景気であっても最高益をあげる企業は存在するのであり、社会というのは一部が最悪なときに最高のチャンスや好機をものにする企業や人もある。利益が何割か落ちたとしても利益はまだ何割か残っているのである。景気は必ず循環するものであり、底に至れば上昇の利益も大きなものとなる。谷深ければ山高しである。

 まあ、認知療法をご存知の方はマイナスに目を向けるのではなく、プラスの思考に書き替える方法は知っていると思うが、景気や経済に関してもそのような目の向け方が必要なのだろう。マスコミは最悪や悲観を極端にあつめてそれを全体像にように見せかける。マスコミにかかればどんな小さい社会の一片でも全体のようにクローズアップされてしまう。それこそがマスコミの働きというものである。認知療法でいえばそれは「全か無か」思考といって、インクのしみに過ぎないものをそれを全部と思ってしまう思考法をマスコミはその機能上もってしまうのである。せめて悲観のニュースを見たら、その半分は楽観の推察をもつべきなのである。

 たいへんな時代がやってきたわけだが、なにものも失うものをもたない若者の一部には泡を吹く連中を尻目に崩壊や新しい時代の到来にうきうき、わくわくしている連中もいるかもしれない。時代や社会に不満をもっている者にはアンシャン・レジーム(旧体制)の崩壊に期待や歓喜を感じるものである。アメリカの危機や崩落にイスラムの連中は大喜びしていることだろう(オイルマネーで潤ったアラブの一部は泡を吹いているだろうが)。願わくば、こういった精神をもちたいものである。私は年をとったのでもう先行き不安のほうが強いのだが。。。


全世界バブルが崩壊する日!〈下〉 天国と地獄―2010年から史上空前の世界経済大変動がやってくる 2010年の衝撃 チャイナ発世界大恐慌〈上〉 とんでもない時代―10年後の日本はどうなっているのか
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02 10
2009

書評 経済

『サラリーマン 絶望の未来』 鈴木 啓功


サラリーマン 絶望の未来 Hopeless Salarymen (光文社ペーパーバックス)
鈴木 啓功

サラリーマン 絶望の未来  Hopeless Salarymen (光文社ペーパーバックス)


 役人がサラーマンにパラサイトして、サラリーマンは負け組か奴隷になるしかないといった現状を告発した書である。たしかにこの本を読んでいると、役人はやりたい放題、したい放題、めちゃくちゃなモラルハザードを犯しているとしか思えない。

 たとえば一般企業で新しく就任した社長にたいして刃向かったり、もっと勉強してもらわなければ困るといったことはいわないだろう。役人は大臣や知事にたいしてそういうことを平気でいうのである。つまり役人は選挙制度を否定しているのである。それは国民の否定であり、さらには日本国家の否定である。政治家は役人のロボットにしか過ぎない。こういう役人がのさばった国家に自由や権利というものがどこにあるというのだろうか。

 役人は税金のムダ使いをやめることはないし、税金を増やしつづけ、自らの失敗の責任はとらないし、天下りや業界との癒着によって自分の取り分だけを増やしつづける。しかも政治家をあやつろうとし、選挙制度も否定するのである。サラリーマンは役人に搾取され、パラサイトされ、奴隷や負け組に転がり落ちてゆくしかない。

 そもそも役人国家は何のために存在しているのかという疑問がわいてくる。国民の税金をあつめて、たんに自分たちの私腹や利益を増すためだけに存在しているかのような構造になっている。国家や政府の存在理由はほんとうにあるのかという気がしてくる。国民が稼いだ金に群がって役人の利益構造を生み出しているだけであり、国家運営にも失敗しているのである。しかもバブル経済をブチ壊した役人は証券市場の社長に納まるという失敗の責任を問われない超無責任・腐敗体質が蔓延している。

 役人は日本国の影の支配者であり、その腐敗や無責任、増長は頂点をきわめているという状況にさしかかっているのだろう。政治家も国民もその暴走を食い止めることができない。著者がいうには貧困にあえぎ、暴動をおこす中国の農民は、日本のサラリーマンの姿そのものだということまでいう。この腐敗や構造ははやく打ち壊さなければならないのだろう。役人も選挙制度にするか、短期契約にするか、ともかく政治家や国民の統制下におけるような構造をつくりだす必要があるのだろう。役人の権力の強さは民主政治の否定や無化にほかならないのである。


総下流時代  All the Lower People (光文社ペーパーバックス) 本日より「時間外・退職金」なし (光文社ペーパーバックス) 這い上がれない未来  Never-Climbing Society (光文社ペーパーバックス) レアメタル・パニック  Rare Metal Panic (光文社ペーパーバックス) マネー中毒  The Money Trap (光文社ペーパーバックス)
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02 06
2009

書評 経済

『日本経済「やる気」の研究』 日下 公人


日本経済「やる気」の研究―先端産業国への条件 (PHP文庫)日本経済「やる気」の研究―先端産業国への条件 (PHP文庫)
(1985/01)
日下 公人

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 昭和56年、1982年に出た古い本である。金融危機や雇用危機によって深刻な情勢になっているから、こういうときに視野狭窄におちいらないで日下公人のようなやわらかい、豊かな発想をとりいれたいと思って読む。

 19世紀イギリスの主力産業は海運だったのだが、若者は過酷な船乗りを嫌うようになり、喫茶店でたむろして働かないようになった。当時の国民にとって亡国の若者として騒がれたわけだが、船員の虐待がひどく、年間死亡率は二割をこえていた。奴隷は生きて持ち帰らないと商売にならないが、船員は生きて帰ると賃金を支払わなければならないから、途中で死んでくれれば丸儲けになったという。

 海運は衰退したが、喫茶店から新たな仕事が生まれた。商社や銀行、保険、報道や通信などである。働かないことに目くじらをたてた大人たちには新しい産業がそんなところから生まれるとは思ってもみなかったのである。時代の変化や産業の変化、若者の意識の変化には新しい芽がそこにひそんでいるということである。

 むかし日本人はドイツ人をみればだれでもカントやベートーベンの子孫に見え、アメリカ人をみればエジソンやカーネギーのように見えたものである。日本人もそのように見られはじめている。そのような勘違いの差異が国際的に発展しているということである。

 かつての日本人の勤勉というのは、工業社会に適した勤勉さであった。裏を返せば、工業以外には不適当な勤勉であるということである。サービス産業、文化産業の時代にはこれまでの勤勉や認識は役に立たなくなるということである。

 日本ではアマチュアとは、プロへと経る前のいちだんと低い前段階と捉えられるのだが、ヨーロッパでは新しい産業や文化を創造したのはみんなアマチュアだった。自動車や飛行機、鉄砲などの名称は個人名が冠せられていることからその様子がうかがわれる。アマチュアが文化や文明を創造してきたのである。アマチュアが高く評価される社会には、新産業や新文化の創造にかかわる挑戦や失敗の気風がやしなわれるということである。アマチュアを評価しない社会というのは新しいもの、産業が生まれない、こり固まった社会だということができる。

 20数年前に出た本であるが、おそらく日本人のやる気や勤勉が崩壊して日本経済はどうなるのだという憂いが出ていたころに、過去のこり固まった発想に囚われない違った視点からの楽観法を日下公人は描いて見せたのだろう。いま、日本の輸出依存の工業社会の崩壊とともに雇用が大量に失われるという深刻な事態を迎えているわけだが、このような時代にも必ず新しい芽や転換がひそんでいるはずである。新しい目で見てみること、新しい発想でこの時代をズラしてみる視点を日下公人のような発想で捉えてみたいものである。


2009年の日本はこうなる日本はどれほどいい国か強い日本への発想―時事の見方を鍛えると未来が見える教育の正体 国家戦略としての教育改革とは?中国の崩壊が始まった! (WAC BUNKO)

02 02
2009

書評 経済

『不機嫌な職場』 高橋克徳・河合 太介ほか


不機嫌な職場 なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書)
高橋克徳・河合 太介ほか

不機嫌な職場 なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書)


 まえの職場で集団的な対立がおこってどうにかならないかと思っていたころにこの本が出て、ベストセラーになっていたから、このような問題に悩む人が増えたのだろうと思われた。

 職場というのは難しい。なかなかみんなが仲良く楽しくというのはむずかしくて、争いや憎しみが蔓延したり、雰囲気が悪かったり、人間関係が悪かったりといろいろ問題が多い。治そうにも集団の雰囲気や状態というのは個人の力では動かしがたいものがあるし、職種上の問題や機能からそれがおこっているばあいもあって、なおさら解決はむずかしい。動物的な問題といえるほどの根深いものがあったりして、問題の解消は容易ではない。

 この本ではおもに仕事のタコツボ化や孤立化、非協力性といったものが問題にされていた。私の職場ではそのような問題はあまり感じられなかったので身近に感じられなかったが、日本の企業にこのような傾向があらわれているという。技術関係とかIT関係にその傾向がいちじるしいのではないかと思ったが。

 リストラや派遣、アルバイトの増加といった背景が職場の関係をいっそうむずかしくしているのだろう。仲間や一体感をもってのかつての職場の雰囲気といったものもなくなっていった。

 この本で説明しているところによるとかつての職場は仕事の範囲の曖昧さがあったが、成果主義の導入によって個人の成果が求められることになり、成果の出ない仕事を避けるようになり、個人の業務に集中する結果、職場のタコツボ化、孤立化がすすんだと説明されている。職場から協力する体制がなくなり、孤立化や責任の重みにつぶされて、攻撃的になったり雰囲気が悪くなったという。

 会社は都心のマンションのようになり、協力や仲のよさがなくなったという。個人主義になったり、会社べったりの関係がなくなっていったわけである。90年代あたりから滅私奉公や会社の仲間主義が嫌われてきたのだが、そこに成果主義が重なり、タコツボ化や孤立化がすすんだのである。

 個人のつながりが薄まれば、「知らない人」への協力体制は弱まるし、全人的評価をおこなってきた仲間の会話やつながりもなくなると、個人のスタンドプレーばかりが残ることになる。職場の気安い関係がなくなってしまったために、協力体制がなくなったり、孤立化がすすんだということである。

 この本での解決策はグーグルがむかしの日本企業のようであるといったような、かつての日本企業の仲のよさや気安さをとりもどすことであるといっているようだが、みんなそういう職場の濃密な関係を逃れるために孤立化にすすんだのではないのかと思わなくもないのだが。リストラや派遣によって仲間の関係は分断されて酷薄な雰囲気が漂っている中で、はたして過去の職場のような「仲よしゴッコ」は可能なのかと危ぶんでしまうし。

 たしかに気安い、仲のいい人たちをつくるのが安心で協力的な職場をつくるには大事なことだと思うのだが、それが縛りや拘束になる不快感をもつ若者も多いことだろうし。まあ、たしかに基本的な人間の感情としては仲のいい、気安い職場に安心感や居場所感をもつのはたしかなんだろうけど。

 職場の人間関係というのはいつの時代もむずかしいものだろうし、不満や憎しみがうずまいていたりするものだ。だれかが楽しくても、だれかがつまらないといった関係になり勝ちである。最高な関係を求めてもそれは最高の「強制」になってしまう。職場の雰囲気や体制といったものも個人が作り出しているというよりか、その機能や体制によって生み出されていたりして、個人は手の出しようがないといったこともありがちである。

 職場というのはとどのつまり動物レベルの闘いといった気もしないではない。動物の論理で動いているのではないかと思う。集団というものにはせいぜい期待せず、問題や対立がおこるのはあたりまえとあきらめて、その前提で解決策や向上策を考え出したりするしかないのではないかと思う。できることはネガティヴ・フィードバックを返すのではなくて、がんばってポジティヴ・フィードバックを心がけるしかないという低い基準で満足するしかないのではないかと私は思ったりするのだが。リストラや派遣など会社では仲よしゴッコでは埋められない酷薄さが基本にあるのだから。


あなたの職場のイヤな奴 短期間で組織が変わる 行動科学マネジメント はじめての課長の教科書 3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書) 「バカ上司」その傾向と対策 (集英社新書 436B) (集英社新書 436B)
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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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