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01 05
2017

幻想現実論再読

「クロ現」の「サピエンス全史」特集 フィクションを信じる力の意味

 きのうの「クロ現」(2017/1/4)で、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』の特集をやっていましたね。


 世界のリーダーが注目 人類250万年の旅 NHK NEWS WEB

 
B01KLAFEZ4サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ
河出書房新社 2016-09-16

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 認知力が生み出す虚構の力!『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』すべては7万年前に始まった。 HONZ YAHOO

 虚構が起こした革命──『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』 基本読書


 この本の目新しいことは、人類の飛躍的発展の理由を「人類のフィクションを信じる力」に求めたことですね。フィクションを信じる力が集団での共同作業を可能にし、ほかの生命をひきはなす能力や知能を人類につけ加えたのだと。

 宗教や貨幣もフィクションにすぎないし、国家も科学も会社もフィクションにすぎません。それを「事実」、「絶対的な現実」と考える力を手に入れたからこそ、人類の飛躍的発展を可能にしたのだと。

 これは読書好きな方ならすぐわかると思うのですが、吉本隆明や岸田秀、竹田青嗣がいってきた「共同幻想論」のことですね。ニーチェやリオタールのポストモダン思想家もいってきたことであり、一部の人には伝わっていたことでも、大半の人には伝わっていなかったのかもしれませんね。( 「共同幻想論」を知るためのブックガイド )

 フィクションを共同で信じる力を人類の強力な発展力の理由に据えたという意味で、この本の影響力は大きかったのかもしれません。

 ホモ・サピエンス(賢い猿)から、フィクショナル・サピエンス(想像する・物語る猿)に定義を変えることの意味はそうとう大きいと思います。

 フィクションは人間に大きな力を付与しましたが、同時に惨劇や悲劇をつけ加えたこともまちがいありません。フィクショナル・サピエンスと定義づけることで、その過ちを克服する道筋を見つけられるかもしれません。

 フィクションを「絶対的な現実」ととらえる人が大多数の世界では、フィクションによる戦争、対立が後を断ちません。共同幻想論は、フィクションからの相対化や客観視の賢明な視点をつけ加えますね。

 ハラリの『サピエンス全史』は共同幻想論の破壊力を大きくひきだす定義にふみこめたのかもしれません。


 フィクションに強くこだわってきた人間にとってはもうひと言もうさないわけにはいきません。

 人間は共同のフィクションだけではなくて、個人のまわりの認識もフィクションで補っているということですね。

 あなたの過去も未来もフィクションだし、あなたが人間関係をとらえる認識もフィクションだし、自分をどのようにとらえるかという像もフィクションにすぎません。さらにそのまわりを共同幻想、共同フィクションがとり囲んでいるということです。

 あなたの過去はすでに永久に失われ、あなたが思い出していることはフィクションにすぎません。あなたがあの人はどういう人だ、わたしはこういう性格だという認識もフィクションによって補われているにすぎません。

 人間がフィクションによって目の前に存在しないことを存在する現実のように思う力を手に入れたということは、終始フィクションの、虚構の世界に生きるということです。

 フィクションの力というのは、目の前に存在しない虚構の出来事を、あたかも「現実に厳然と存在する」と思い込める力と同然です。

 そのことによって、あなたは時間をこえた物事を操作する力を手に入れますが、同時に時間とともに終わらない苦悩や悲劇も背負うことになりました。あなたの苦悩というのは、フィクションであるのです。

 こんなことを急に聞いても現実は目の前にあるではないかと反発するかもしれませんが、自分が思ったり考えたりすることはモノとして目の前にとりだすことができるのか、過去はいまどこにあるのかと考えればよいかもしれません。存在しないものを想像する力がその正体なのですね。

 これははるか大昔に仏教がいってきたことなのであって、フィクションであることの理解がむづかしいために仏教は説明をあきらめてきたのでしょうか。怠慢すぎるのですが。


 『サピエンス全史』は未読ですが、クロ現の説明でおおよそは共同幻想論のことをいっているとわかりました。フィクションに強くこだわってきた人間には、この世がフィクションであるとわかることの価値はたいへん大きいものと思っています。

 フィクションをみんなで信じることの力の意味を多くの人が熟考する契機になればいいと思います。


共同幻想論の本
ものぐさ精神分析 (中公文庫)「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫)ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)

01 08
2017

幻想現実論再読

「フィクショナライズ・サピエンス=虚構する・猿」定義の提唱をします!

 ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』は虚構・フィクションが人類の文明発展の理由だと説明して、各国のリーダーも注目してベストセラーになっているということですね。

 
430922671Xサピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之
河出書房新社 2016-09-08

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4309226728サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之
河出書房新社 2016-09-08

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 前回の記事のくりかえしになりますが、人類はフィクションの世界に入り浸っていることの客観視の見方は、人類に過ちや失敗の透徹した見方をつけ加えることになると感じました( 「クロ現」の「サピエンス全史」特集 フィクションを信じる力の意味」 )。

 「フィクショナライズ・サピエンス=フィクションする・猿」の定義づけは、人類にフィクションの世界に入り浸る過ちに気づかせる大きなきっかけになるかもしれませんので、この人類の定義づけをおおいに提唱することは大切ではないかと思いました。


 人類はフィクションを信じる力を得ることによって大集団を統合する知恵を身につけましたし、文明の発展力もつけ加えました。だけど同時にフィクションは人類が対立、戦争するきっかけもつくりだしました。

 フィクションを信じる力だけでは過ちに陥り、フィクションにはまり込んでいる過ちに気づくためには、「事実」や「世界そのもの」ととらえている像をフィクションだととらえる見方も、人類には必要なのだと思います。

 われわれは「国家」を信じ、「宗教」を信じ、「民族」や「人種」があると信じています。そのことによって統合や人類の技能や知恵を結集する技術も手に入れましたが、そのことによってぎゃくに対立・分断・戦争をひきおこします。

 これが人類が統合するための「フィクションな接着剤」にすぎないと見るようになると、人は一歩引いた冷静さをとり戻せるのではないでしょうか。

 わたしたちが命を賭けて戦っている「国家」や「宗教」はフィクションに過ぎない、としじゅう思い出されることは、信念や信仰への歯止めをかけるのではないでしょうか。


 わたしたちの過ちは「国家」や「宗教」のような共同幻想の過ちにおちいるだけではなく、個人の日常生活においてもフィクションの世界におちいることの過ちにはまっています。

 フィクションは現実に存在しないことを、あたかも現実に存在するかのように思わせます。わたしたちは日常の人間関係や行動、規範や記憶の中でも、フィクションの過ちにおちいっています。そのために悲しみや怒りにいつまでもつきまとわれます。

 過去は終わって二度と帰らないのにいつまでも過去を思い出し、過去の感情にさいなまれます。未来の不安は存在しないフィクションなのに、現実の脅威のように恐れつづけます。ある人がおこなった行動や言動はもうどこにも存在しないのに、報復や復讐を考えてわが身を焦がします。頭の中で思い描いた自己像の価値を守ったり、プライドを守ったりしますが、それは現実に存在するものでしょうか。

 われわれは時間的にも終わり、物体的にも存在しないフィクションという思考方法によって、現実には存在しない世界で嘆き苦しんだり、焦燥に駆られたりします。そんなものはどこにも存在しないフィクションであるということに、フィクションの世界につかり切ったわれわれには気づかないということです。

 仏教はずっと人間の認識はフィクションに過ぎないと伝えてきたのですが、この理解があまりにもむづかしいためか、怠慢のためか、人々に深く理解されることはありませんでした。


 「フィクショナライズ・サピエンス」という定義が突きつけることは、この過ちに人間がいつも気づかされるということではないでしょうか。

 わたしたちはいつも「フィクションの夢の世界」に入り浸っているのだと思い出せてくれる概念にはならないでしょうか。

 フィクションを信じ切っている人にはそれが「事実である」、「世界そのものだ」と信じ切っています。それがひとつの考え方、解釈である、フィクションであるという客観的な見方からは切り離されています。

 呪文のようにくりかえせるという意味で、「フィクショナライズ・サピエンス」という定義は、わたしたちの入り浸っているフィクション世界のカーペットにいつも揺さぶりをかけられるのではないでしょうか。

 生物学者や人類学者の学者さんに定義づけの検討をお願いしたいところです。


フィクションの夢から醒めるために
ものぐさ精神分析 (中公文庫)「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫)民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理 (岩波新書)グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)

02 22
2017

幻想現実論再読

幻想現実をひきはがせ――『ものぐさ精神分析』 岸田 秀

4122025184ものぐさ精神分析 (中公文庫)
岸田 秀
中央公論社 1996-01-18

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 約二十五年ぶりくらいに読みかえす。といっても岸田秀の「唯幻論」や「共同幻想論」ほどわたしに影響をあたえた思想はなく、この幻想現実をはがす探究にずっと費やしてきたといってもおかしくはない。

 ハラリの『サピエンス全史』が文明の発展理由に人類のフィクション能力をもちだして脚光を浴びたことにより、ふたたび「共同幻想論」をその後の検討もつけくわえるかたちで、再検討したくなった。しばらくは共同幻想論、ならびにトランスパーソナル心理学あたりを、この二十数年の結果をへての再検討の時期に入りたいと思う。

 岸田秀はこれが「唯幻論」「共同幻想論」の決定版だという本になかなかめぐりあえず、このエッセイを集めた本も共同幻想論だけをびっしりと語った本ではない。

 岸田秀は客観的には共同幻想のしくみを語るのだが、どのようなものが共同幻想であり、具体的にどのようなかたちをしているのか、なかなか語らない。共同幻想を自明な前提に語っているところがあり、その前の説明部分をしっかりとしてくれと思いたいところがある。

 なにより岸田秀の限界はすべてが「幻想現実」や「共同幻想」というのなら、それに囚われているわれわれはどうやったらその幻想現実からひきはがすことができるのか、解放されるのかをほぼ語らない。

 その幻想現実から引きはがす方法を説いたのが、仏教や禅であると気づくまでにはあと十年近くにリチャード・カールソンとかウェイン・ダイヤーの自己啓発の「思考は現実ではない」という説明に出会うまでかかった。つまり科学信仰と宗教忌避の考えがあるから、仏教がそんな幻想現実のひきはがしをおこなっているとは思わなかった。ぎゃくに神や仏を信仰しろという教えと思っていたのだが、仏教は幻想からの離脱を説いた考え方であったのである。

 つまり岸田秀の唯幻論というのは、物質主義の時代から精神主義の時代の変わり目を説いたのである。ぎゃくに岸田秀は幻想我により現実我の分離や危機にも気づいていたのであり、むしろ唯幻論は全能感をみたす幻想我の暴発をまねく思想でもある。

 「ナルチシズム論」で「幻想我の実現をはばんでいる現実の世界を恨んでいるのである」というように、幼児の全能感をとりもどしたい現実から乖離した幻想我は、たえず暴走の危機におちいっており、それが現代日本の右傾化と日本賛美の時代潮流と重なっていることがなんとも悩ましい。

 岸田秀が心理学をこころざしたのは、強迫神経症に悩まされていたからであり、献身的な母親と思っていた女性が、自分の思い通りにしたいエゴイズムの女性であったと気づいたときにその症状がウソのように消えてしまったという。

 つまり岸田秀は自分が思っている観念に追い込まれたり、客観的現実と思っていることが自分を強迫的に追いつめる経験をしたからこそ、現実は幻想だという思想を必要としたのであり、現実と齟齬をきたさないとなかなか必要に気づけない思想ともいえるかもしれない。中島義道も自身の死の恐怖から逃れるために、客観的現実の幻想性をはがさなければならなかったわけで、世界の事実を知っており、それとの齟齬をきたさない者には必要とされない思想かもしれない。かれらは宗教を通さずに幻想現実を暴露する道を選んだ人たちである。

 「世界の事実を知っている」という者たちと、それは幻想にすぎないという者たちの対立は、現代でも科学やテレビの「こちら側」と、宗教の神に隷属する「あちら側」の対立でもおこっており、いずれも「事実を信じる」人たちの隷属はおこっているのだけどね。

 世界を事実だと思う人たちにそれが幻想にすぎないと説けば、世の争いは解けるかもしれない。だけど、幻想我はそれを解きたくないのである。世界を事実そのものだと思い込むといろいろ追い込まれることがあると思うのだが、そういう追い込まれた経験をしない人は、世界は事実そのものだと思いつづけたいものかもね。自分の「客観的現実」と思われるものに追い込まれないとね。

 二十数年ぶりに読みかえして、自由闊達なアイデア噴出がちょっと奇妙に思えるところもあったが、ほんとに鋭い洞察力があちこちに発揮された本であって、いちばん鋭い考え方は、「時間と空間の起源」かもしれない。

 「時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する」

 人は全能だった幻想我から引き離されてゆき、「人間は憎悪のうちに現実を発見する」。空間はその屈辱感によって発明される。時間と空間が壮大なフィクションであるということに気づくには、人は想像力にまみれた幻想現実の住人に長らくひたりつづけて、そこからもう出ることができなくなっているのである。

 仏教や禅が、幻想現実は思考によってたえず産出されており、そこから抜け出すために思考の根を断てといったのだが、この一歩に踏み出すまでに、現代のわれわれはあまりにも世界の事実を信じ、宗教の忌避感をつちかわれているのである。


サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福リチャード・カールソンの楽天主義セラピーどう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)唯幻論大全史的唯幻論で読む世界史 (講談社学術文庫)


02 27
2017

幻想現実論再読

「客観的世界像はルールにすぎない」――『「自分」を生きるための思想入門』 竹田 青嗣

4480421750「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫)
竹田 青嗣
筑摩書房 2005-12

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 共同幻想論やトランスパーソナル心理学を読みかえす期間がつづきます。

 共同幻想論を理解しようとしていたとき、それについて語った論者がいがいに少なく、言語論や記号論まで手をのばしてひじょうに苦労した。竹田青嗣は、「世界像はルールに過ぎない」とはっきりいい切った哲学者であり、ポストモダン思想をわかりやすく紹介してくれた貴重な論者である。

 世界像は共同幻想にすぎないということを理解するのはなかなかむづかしく、それだけに「世界像」「現実」というのは、この世界の「事実」や「自然」と思い込む力が強かったのだろう。この「現実」をひきはがすのに、ひじょうに苦労した。さらにその事実がルールや生き方になることの理解はもっとむづかしかった。

「人間にとって、客観的な現実というのはどこにもありません。現実とは、彼が自分の欲望に与えている関係的な秩序(その解釈)の形です。だから、一人一人の人間が自分なりの現実をもっているだけなのです。人が客観性とか客観的関係と呼んでいるものは、この解釈のうち、多くの人間が共有し、納得せざるをえないような部分のことです」



 竹田青嗣はここまで共同幻想論をいい切ったのであり、それはヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」や、フッサールの「現象学」、あるいはニーチェの『権力への意志』などでいわれていることなのだと告げる。

 「世界像」「世界のルール」というのは、おのずからその生き方や指針をしめすものである。世界やものごと、自分をどう解釈するかによって、人の生き方、行動の仕方も変わってくる。世界像というのはルールなのであり、行動規律なのである。透徹した世界解釈である。

 これが「絶対的真実」があると信じた「モダン・近代」に対して、あるのは解釈にすぎないと相対主義を提唱した「ポストモダン思想」なのであるが、学校ではただひとつの答えをずっと教えつづけており、この思想と教育の乖離は、どうなるんだと思わずにはいられないが。

 客観的現実はどこにもありえない、真実と呼ばれるものにも根拠がない、ただ共同体での了解があるだけという世界観は、事実や現実があると思い込む人たちの虚実をひきはがす力をもちうるのだが、その世界観はひろく浸透せず、世の中にはただひとつの教えられた世界観があると思い込む人の信念は、揺るぎがたいものがあるのだろう。

 世界観に根拠はない、人間はエロス的欲望を生きるために世界像を選択するのだという竹田青嗣の考え方には、欲望肯定や容認のにおいがあって、わたしにはなかなか抵抗感があるのだが、もちろん竹田青嗣も自己中心的な生き方をすれば他者とぶつかり、挫折せざるを得ないと釘を差しているのだが、やっぱり鼻につく。

 わたしは欲望をミニマムにするほうが生きやすいという生き方をしてきたこともあって、欲望肯定の生き方はどうも受容しにくいのである。

 仏教は現実の幻想性を指摘して、その虚妄性をさとることにひとつの目的をおき、欲望を断った生き方をすすめる。幻想性をさとるには欲望を断たなければならないと考える。竹田青嗣は、そうすることが死後輪廻から救われると説いた仏教の「物語」だと否定する。仏教は物語を否定したからこそ、欲望も否定したと思うのだけどね。欲望は物語や世界観を立ち上げずにはいられないのである。

 岸田秀にしろ、竹田青嗣、中島義道といった心理学者、哲学者は、仏教の幻想性にかぎりなく近づいておきながら、仏教の側から語ることをいっさい拒否する。仏教は共同幻想論を語ったわけではないと思うが、現実の虚構性には深く言及した。「こちら側」の世界にとって、宗教はあまりにも迷妄すぎるから信じられないということなのでしょうね。



現代思想の冒険 (ちくま学芸文庫)哲学探究ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))言語ゲームが世界を創る―人類学と科学― (世界思想ゼミナール) (SEKAISHISO SEMINAR)

03 01
2017

幻想現実論再読

他人のせいにする痛み――『愛と怖れ』 ジェラルド・G. ジャンポルスキー

4900550205愛と怖れ―愛は怖れをサバ折りにする。
ジェラルド・G. ジャンポルスキー 袰岩 ナオミ
ヴォイス 1990-06-01

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4763184431愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)
ジェラルド・G・ジャンポルスキー 本田 健
サンマーク出版 2008-06-16

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 知らない人はまったく知らないだろうし、はじめて知ると心の革命をもたら知恵になる本。

 『ユダヤ人大富豪の教え』を書いた本田健は原書をぼろぼろになるまで読みかえし、同じ本を新訳で出した。この版のほうがサンマーク文庫に入っているほうになる。

 「悪いのは他人や世界で、それら悪いことを変えなければ自分が幸福になれない」と思いこんでいる人は、自分の認識の仕方がいかにまちがっているか思い知らされることになるだろう。

 わたしたちは「他人が悪い、世界が悪い」という思い込みを素朴に信じているのだが、これは科学的世界観のためであると思う。外界は自分の外側にあって、不幸や迷惑を自分にかけ、その変化や物質的改善をしなければ、人は幸せにはならないと科学は教え込む。

 しかしこの本ではその認識の根本的転回をもたらす。「自分がそう思っているから、そう感じられるのだ。感情の原因は自分の考え」。

 人は世界が原因で、結果として自分の感情がもたらされると考えるのだが、この本では自分の考え方が原因でその結果が感情としてもたらされると捉える。そのことによって、心の平安ややすらぎは、自分の選択で可能になる。

「私たちがやすらぎを感じるために、ほかの人が変わる必要はない」

「ほかの人を「直そう」とすることは、たとえ建設的な批判を述べる場合でも、相手の間違いと自分の正しさを示すことによって、実際は攻撃していることにほかなりません」



 わたしたちは他人が悪い、世界が悪いと考えて、それらが変わるまでいっときも心の安らぐときを得ることはない。だけど、それは自分の考えに過ぎない、捨てたり、許したり、考えないことによって「現実」を選択し、いますぐやすらかで穏やかな気持ちで過ごすこともできるのである。

 わたしたちはこの認識の根本的違いを知らない。それで他人が悪い、変えなければ幸せになれないとずっと不快な気分で過ごすことになる。たんに人間の認識のあり方、思考と感情の関係を知らないばかりに両手いっぱいの不幸を抱えるのである。

 ジャンポルスキーのいったことは「唯心論的転回」である。自己啓発のウェイン・ダイアーも同じことをいっている。

 「自分の外側に世界がある」という科学的あるいは素朴な思い込みは、「この世界や他人に感じることはすべて自分の心、思考だ」といった「唯心論」によって、世界の犠牲者であり続けた人たちを解放する知恵になる。

 他人を変えられなければいっときも安らぐことのない科学的態度は、自分の考えや現実は自分の選択で変えられるという認識論にたいして、あまりにも人の不幸を助けない。まるで世界から被害をうけつづけて、物質的改善をしたり新商品を買わなければ、あなたは幸福になれないといった消費物質社会の脅迫かのようである。

 そして、だからこそ科学的物質消費的な世界は進展したのであり、同時に世界から被害をうけつづけると思う人たちの救済もなされないのである。

 この唯心論的転回をへると、人の悪口をいってかっかと怒りに燃えている人は、なんでわざわざ自分から不快になる現実を選択しているのか、マゾイストかと思えるようになる。思考や現実を選択できない人はなんて不幸なんだと思うようになる。

 自己啓発やスピリチュアルの著作は、科学的世界観にたいする唯心論的転回をほどこしているのであり、外界は自分の外側にあって自分に災難をもたらすものという素朴な思い込みを批判するにかかる。他人や世界に思うことは自分の心であって、その選択をしないと山ほどの不幸を受けとることになる。唯心論はそういう転回を、既成宗教とはすこし違った土台からはじめているのである。

 なおジャンポルスキーのこの考え方は、『奇跡の学習コース』というチャネリングに得られた知識によっていわれているのであって、こんな怪しい世界からしか、これほど有益な知恵がやってこないのは、われわれがいかに科学側から抜け出た世界観をもってはならないということなのでしょうか。


奇跡のコース 第1巻 テキスト―普及版ゆるすということ―もう、過去にはとらわれない (サンマーク文庫)やすらぎ療法(セラピー) -愛はすべてを癒す (元気のでる心理学)どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)


03 05
2017

幻想現実論再読

自分の思考こそが加害者――『どう生きるか、自分の人生!』 ウエイン・W. ダイアー

4837907857どう生きるか、自分の人生!
―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)

ウエイン・W. ダイアー Wayne W. Dyer
三笠書房 1995-12

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483795572Xどう生きるか、自分の人生!
―実は、人生はこんなに簡単なもの

ウエイン・W. ダイアー Wayne W. Dyer
三笠書房 1999-09

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 この本をはじめて読んだのはもう二十年前ほどになるだろうか。つぎのような一節を理解して、腑に落ちるまで納得させるのにどんなに苦労したことか。思想や考えることが好きで、過去の反芻ばかりして、頭の中のことを「事実化」、「現実化」していたわたしにとって。

「あなたが自分の考えと現実が同一のものだという確信のものに生活するとしたら、自分に課した倉庫いっぱいの苦悩を受け入れるはめになる。

人間の頭の中以外には、恐ろしいことはない。

あなたの考えがあなたのためだけに、それをいやなものにするのである」



 頭で考えたこと、思ったことを即「事実」や「ゆいいつの現実」だと思っていたとうじのわたしにとって、この思い込みをはがすのはいかにむづかしかったか。こういうストア的な思想を知らない人はいまでも多くいると思うのだが、気づけば、いかに自分が愚かな心の習慣にはまっていたか、嘆かわしいほどである。

 ウェイン・ダイアーの『自分のための人生』がベストセラーになったのは1976年であり、いまでは全世界で3000万部売れたことになっている。ストア哲学や唯心論的転回はこのころからはじまっており、そして知らない人は知らないままの思想かもしれない。『どう生きるか、自分の人生』は1995年の出版。

 科学と唯心論はシーソーの関係のようになっており、世界や他人を変えないと幸福になれないと説く科学は、思考や心を変えることによって安寧を説く唯心論が増長すると、物質的改善や物質消費に慰めを求める求心力が減退してしまう。

 科学というのは自分の外側に外界があり、他人や世界が不快なことをしたから、ちょくせつ自分が不快になったのだと思う素朴な思い込みから発している。唯心論のように他人や世界に思うことは自分の心であり、その現実を選択しないと、不幸を背負うことになるといった考えは、だれかから教えてもらわないと、科学的世界観のなかで、伝わることは少ないのかもしれない。

 他人や世界からちょくせつ感情がやってきて、それらを変えないと幸福になれないと科学は教える。唯心論を知ると、自分から不幸や不快な感情をみずからひきうけているように見えるようになる。

 この本ではそのような「現実」を選べないばかりに世界や他人から不幸をうけとってしまうことを「被害者」というキーワードで如実に見せてくれる。思考を選べば、わたしたちは外界の犠牲者にならずに、みずからの安寧や幸福を選択できるのである。

 でもその選択ができることを知らないばかりに、外界から被害をうけつづけると信じる被害者を生んでしまうのである。まさしく自分の思考こそが加害者なのに、世界や他人が加害者だと思いつづけるのである。

 ただ、この本ではウェイン・ダイアーは腹のたつことがあったら肩をすくめて忘れなさいといっている一方、あなたはどんなに被害者になっているかとムカムカした気分を植えつけ、他人やとくに店員にたいして自分の言い分を聞かせるまでがんとゆずらないクレーマーのすすめも説いていて、それこそあなたの説く「被害者」の役割ではないのかといいたくなるが。

 この本を読んでいるとずいぶん自分が被害者なのかと自覚させられ、ムカムカした気分をかもしだされる。この本を読んだ当時、職場で怒り出した拙い思い出が甦る。読みかえしたいまも、イライラが醸成されるなと感じて、鏡のようにイライラした人や出来事を見つけやすくなってしまう。

「過ぎ去ったこと、どうしようもないことは、悲しんでもどうにもならないことである。

なおらないものは、気にすべきではない。やってしまったことをやってしまったことだ」



 わたしたちは思考や想像力のおかげで、ああすればよかった、こうすればよかった、もしああしていたら、もし、もし、と永遠に変えられないことに思考を費やすようにできている。時間や空間を飛び越えられる思考や想像力のおかげである。でもその想像力にすぎないものを「実体化」してしまい、その「現実」に自分を追い込んでしまうことになる。ストア哲学や仏教は二千年前から人間の愚かな想像力の戒めを説いてきたのだけどね。

「「なんでまたあんなことがいえるのだろう!」「私をこんなにかっかさせる権利など彼にはない!」「非常識人に出会うと気分が悪くなる」などということによって、自分自身を他人の行動で犠牲にしてしまう。これはあなたの感情の糸を、あなたが嫌っている人間に操作させているのと同じことである」



 どうだろう? こういう怒りに身に覚えのない人はいないだろう。だけど、唯心論を知るとみずからが犠牲者になっていることを知れるのであり、さらに愚かなことにそういうかっかとした怒りをもたらす思考を選択しているものは自分自身にほかならず、自分自身が加害者だったのだと気づくようになるだろう。

 われわれは思考や想像力の戒めを知らないばかりに、自分で殴っておきながら、他人が殴ったと自分で思いつづけるのである。

 もちろんこの態度には敗北主義や退却のような批判もできるだろう。外界を変えようとしてどれだけ不幸を積み重ねてきたかの違いによって、態度を決めることもできるのだろう。


自分のための人生 (知的生きかた文庫)老子が教える 実践 道の哲学ザ・シフトグルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)


03 08
2017

幻想現実論再読

知の正当化の方法論――『ポスト・モダンの条件』 ジャン=フランソワ・リオタール

4891761598ポスト・モダンの条件
―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

ジャン=フランソワ・リオタール
水声社 1989-06

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 共同幻想をひきはがすためにむかし読んだ本の再読がつづきます。

 共同幻想論を知ることの大切は、自分たちの社会で「事実や絶対」と思われていることの相対化ができることである。

 わたしたちは北朝鮮や新興宗教の盲従者たちを批判して笑うことはできる。だけど自分たちも同じような権力構造にのみこまれて、隷従や服従をくみこまれているのではないか、だとしたらどのような支配構造をくみこまれているのか、外観的に見ることができるようになる。自分たちがいっさいの権力構造から逃れられていることなんて、おめでたすぎるのである。

 リオタールの『ポストモダンの条件』は「知はどのように正当化されるのか」といった問いを、言語ゲームという戦略をもちいて分析した本であり、かならずしも知の権力にのみこまれる様を批判した書ではないと思う。ただ知の正当化のコンセンサスを客観的に見るという立場を与える書であると思う。自分たちの社会を斜め上から見ることは、自集団の真理や絶対から逃れることでもある。

 この本は150ページほどの薄い本であり、難解な現代思想の中では比較的読みやすい部類に入るのではないかと思う。でもわたしにはけっしてすべての文脈はかみ砕けるまでには理解をすすめられたというわけではないけどね。ぽつぽつと重要な指摘が浮き上がるという感じだ。

「物語知はその正当化という問題に価値を認めないことということ、すなわち、それは、論証にも証拠の提出にも訴えることなく、伝達という言語行為によってみずからを信任する、ということを指摘した。

科学的知は、もうひとつの知、つまり科学的知にとっては非知にほかならない物語的知に依拠しない限りは、みずからが真なる知であることを知ることも知らせることもできない」



 本書はこのように物語知や科学的知はどのようなものであり、どのように正当化されコンセンサスを得られるのかを垣間見せる本である。それは同時に政治権力のあり方でもある。こういった手続きをへないと正当化されないものが、われわれの社会の真というものである。

 リオタールは「大きな物語の終焉」という言葉で紹介されることが多いと思うが、ここでは人間の解放という物語や、富の発展などとしてさらりと触れられているだけで、そう大きなテーマにはなっていない。

 知が商業や富にのみこまれる様も指摘している。

「お金がなければ、証拠はなく、言表の確認もできず、そして真理もない。科学の言説ゲームは富める者のゲームとなる。

問われる問いは、もはや「これは真であるか」ではなく、「これは何に役立つか」なのである。知の商業化の文脈においては、この最後の問いはしばしば「これは売れるか」を意味している」



 わたしたちは自集団や時代の絶対や真実を信じて生きるが、そこには隷従や支配の構造がくみこまれている。それにぴったりと合致して生きることも可能であるが、そういう形態にしがみつこうとすれば、さまざまは苦痛や悲劇を背負うことになる。

 その社会においてなにが重んじられ、なにに価値をおかれるかはそれぞれ異なっている。それゆえに人生からとりこぼされるものは多くなるし、自分を十全に生きられないという思いも蓄積してゆく。だからこそ、共同幻想論のような自集団の相対化と脱却が必要となるのである。

 自分たちを縛りつけているものはなにか、その多くはこの社会の世界像であったり、常識であったり、当たり前の中にひそんでいるのではないだろうか。自集団の相対化は、自分を縛りつけていたものから自由になることである。


こどもたちに語るポストモダン (ちくま学芸文庫)ポストモダンの50人 -思想家からアーティスト、建築家まで相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)知識人の終焉 (叢書・ウニベルシタス)言説、形象(ディスクール、フィギュール) (叢書・ウニベルシタス)

03 10
2017

幻想現実論再読

ストア哲学を知らないのは人生の損失――『要録』 エピクテトス

4121601726語録 要録 (中公クラシックス)
エピクテトス 鹿野 治助訳
中央公論新社 2017-03-08

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▲さいきん出ましたが、画像ありませんね。

4124006241世界の名著 (14) キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス (中公バックス)
キケロ 鹿野 治助訳
中央公論新社 1980-11

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▲アウレーリウスの『自省録』も入っていて、オトク。


 ストア哲学の心理原理を知らないのは、人生の損失だと思う。過去を後悔し、悩みを考えつづけ、だれかや世界を責めつづけ、不幸やうつ病になってしまう。

「人々を不安にするのものは、事柄ではなくて、事柄についての思惑だ」



 この心理原理を知らないと、わたしは世界や他人に翻弄されつづけ、外界の犠牲者となりつづけるだろう。ただ、考え方のみが自分を苦しめ、傷つけると気づけないだけで、人生の両手いっぱいの不幸を受けとってしまうことになる。

 わたしもこの心理原理を知らないばかりに、二十代まで悲嘆や苦悩を背負いつづけた。だれかが教えてくれていたら変わっていたと思うが、ぎゃくに苦痛を感じつづけていたからこそ、よけいにその大切さや原理に迫ることができた。

 現代ではそういう原理を教えてくれるのは、自己啓発であったりする。ウソっぽい、詐欺師みたいな精神主義だと軽蔑しておれば自己啓発にはまったく近づくことなく、心理原理を知ることはないだろう。

 ウェイン・ダイアーやノーマン・ピール、またはアランやヒルティ、ジョセフ・マーフィー、リチャード・カールソンといった人たちにそれはのべられているのだが、自己啓発を嫌う人は、こういった知恵に気づくこともないのだろう。

「記憶しておくがいい、きみを侮辱するものは、きみを罵ったり、なぐったりする者ではなく、これらの人から侮辱されていると思うその思惑なのだ。それでだれかがきみを怒らすならば、きみの考えがきみを怒らせたのだと知るがいい」



 わたしたちは考えが自分を傷つけていることに気づけずに、他人や世界が自分を傷つけたと考える。それによって他人や外界を物質的に改善しようとして、変わらなければ激昂や屈辱をずっと背負いつづけるのである。ただ思考がそうしているのだと気づけずに。

 エピクテトスが生きたのは一世紀から二世紀にかけてのローマ、ギリシャだといわれている。1800年前の知恵が、わたしたちにまったく届かずに、わたしたちは外界に殴られつづけていると思い込んでいるのだ。

 それには外界の物質的改善にのりだした近代西欧の征服力の力があずかっているだろうし、心内のコントロールだけで幸福をめざした社会は、おそらくは中世西欧やインドのような物質的発展途上国の汚名をかぶせられるのだ。

 物質改善と心内の幸福はシーソーのように、物質の発展と心内の幸福のどちらかを選ぶように迫るのだろう。物質の発展をねがうと、外界の犠牲者になりつづける関係とバーターである。ただ、考えを変えるだけで幸福を説くなら、物質の改善はおろそかになる。われわれは物質の改善の時代に生まれて、心内の不幸を背負うめぐりあわせの時代に生まれたのである。

「出来事が、きみの好きなように起こることを求めぬがいい、むしろ出来事が起こるように起こることを望みたまえ。そうすれば、きみは落ち着いて暮らせるだろう」



 ストア哲学はインドの仏教とどうつながっていたのか、わからない。ただストア哲学をつきすすめた先には、心内の幸福や悟りをめざしたインドの精神文化があるだろうし、日本はその仏教の影響を近代までに強く受けた世界だったのである。

 わたしたちは両方の世界の欠点と長所も知っているのだから、うまくバランスをとって、この世界観の橋渡しを考える必要があるのかもしれない。

 なお『要録』はしごく短いもので、『語録』のほうは一般的な処世訓になっている。


自省録 (岩波文庫)どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)幸福論 (第1部) (岩波文庫)【新訳】積極的考え方の力リチャード・カールソンの楽天主義セラピー


03 13
2017

幻想現実論再読

思考を捨てる安らかさ――『自省録』 マルクス・アウレーリウス

4003361016自省録 (岩波文庫)
マルクス・アウレーリウス 神谷 美恵子
岩波書店 2007-02-16

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4061597493マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)
M. アウレリウス 鈴木 照雄
講談社 2006-02-11

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 マルクス・アウレーリウスは考えや思考が悩みをつくり、それを捨てればなんの悩みもないと自分に言い聞かせつづけたローマ2世紀の皇帝だった哲人。

 1800年前のむかしの人が思考の消去を説いていたのに、こんにちのわたしたちに届かず、ずっと思考によってもたらされる悩みや苦痛にとらわれているままなんて、どういうことなんだろうと思う。

 このストア哲学はインドの精神文化とどう関わりがあり、どう影響し合ったのかと思うが、日本にも同じような考えは仏教や禅として伝わり、日本人の心となったはずだが、こんにちではこのような考え方を聞くこともなくなった。

 『自省録』はほかに死後の名声への渇望を戒めたり、死をやすらかに受けいれるための心構えがなんども説かれていて、これも宇宙スケールで諭されていて、年をとればとるほど味わい深くなってゆく著作かもね。

「「自分は損害を受けた」という意見を取り除くがいい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。「自分は損害を受けた」という感じを取り除くがいい。そうすればその損害も取り除かれてしまう」

「君の想念を抹殺してしまえ。「いま自分の考え一つでこの魂の中に悪意も色情も、心を乱すものは一切存在しないようにすることができるのだ」

「今日私はあらゆる煩労から抜け出した。というよりむしろあらゆる煩労を外へ放り出したのだ。なぜならそれは外部にはなく、内部に、私の主観の中にあったのである」

「すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。したがって君の意のままに主観を除去するがよい。するとあたかも岬をまわった船のごとく眼前にあらわれるのは、見よ、凪と、まったく静けさと、波もなき入り江」



 みごとに思考を捨てることの安らかさと因果が説かれている。これを知らずに思考や感情にまみれ、苦痛にのたうちまわっている人はなかなか受け入れがたい考えかもしれない。わたしもこの考えを定着させるためにはずいぶん骨を折った。

 ストア哲学では心労を排斥するための思考の除去が説かれているのだが、仏教になると悟りやこの世界から解脱するための瞑想などとなって、とうしょの心理的安らかの目的があまりいわれなくなる。そのことによって、思考を捨てる知恵は一般人から縁遠くなるという因果もあったのだろうか。

 「思考=感情=苦痛」という図式が崩れ、感情や苦痛をなくすためには外部の人やモノを変えなければならないという時代に、われわれは生まれた。そのことによって、苦痛の原因・起源である思考という図式を知らないまま育つ人も多くなった。感情の原因や他人や外界になり、みずからの思考が自分を傷めつづけているという因果が見えなくなったのである。

 ハンドルの存在を知らないままクルマに乗っているようなもので、あちこちにぶつけて文句をいっている。われわれは外界を変えなければ幸せになれないという物質主義の時代の犠牲者なのである。


世界の名著 (14) キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス (中公バックス)ストイックという思想どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)リチャード・カールソンの楽天主義セラピー

03 15
2017

幻想現実論再読

時間の幻想性に気づけ――『人生が楽になる 超シンプルなさとり方』 エックハルト・トール

4199060030人生が楽になる 超シンプルなさとり方
(5次元文庫)

エックハルト・トール
徳間書店 2007-11-09

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 エックハルト・トールのこの本ほど悟りについてわかりやすく書かれた本はないと思う。悟りというか、人間が陥る認識の誤りだと思うのだけどね。

 それには時間の幻想性についてたしかめてみるのがいちばんだ。よく「いま、ここ」に注目しろといわれるが、それには時間の幻想性を知らないとなかなかわかりにくいのではないかと思う。

「これまであなたは、「いま」以外の時に、なにかを経験したり、おこなったり、考えたり、感じたりしたことがあったでしょうか?
「いま」以外の時に、なにかが起きたり、存在したりすることは可能でしょうか?

過去には、なにひとつ起こっていません。
起こったのは、「いま」なのです。

未来には、なにひとつ起こりません。
すべては「いま」、起こるのです」



 時間というのは奈落の底に呑みこまれるように、瞬間瞬間、終わってゆく。それなのに過去の想起や思考がいつまでも過去を終わらせない。そのことによっていつまでも過去の後悔や羞恥や屈辱にさいなまされる。もはや永遠に存在しなくなった幻想の過去をいつまでもむしかえすのが思考である。

 しだいに人は「思考はわたしである」と思い込むようになる。「思考こそがわたし」「思考こそがすべて」「思考のないわたしは存在しない」「思考のない者は奴隷か、痴呆だ」と思い込むようになる。

 しかし思考というのは、もはや永久に失ってしまった過去の後悔や悩みをいつまでも存在させるものである。そのことによって、われわれの苦悩や苦痛はしじゅう再演されるようになる。人間の苦悩の構造は、思考による過去の再演や時間の想起にあるのである。

 エックハルト・トールを読むと、われわれの社会や学校がいかに思考を奨励し、思考を崇拝させる社会か、思い起こさせる。考えたり、計画したり、反省したり、改善するために思考を使いなさいと教えられる社会である。

 思考に悪を見たり、害悪を見ることは禁止されるか、もしくは思いもよらない社会になっている。そのために思考に自分のアイデンティティを重ねた人は、思考による苦悩、苦痛から逃れられなくなり、思考による病のうつ病になっても、その原因や解消策に気づけない。もはや思考が感情やうつ感情を生み出していることに思いもよらない社会になっている。

 あなたが苦痛や苦悩にまみれていまの状況や現実にさいなまされているときに、エックハルト・トールはたずねる。

「しかし、「いま、この瞬間」に、なにか問題がありますか?」



 わたしたちは思考や時間の幻想性にまったく気づけずに、思考や時間のフィクションにずっと苦悩を背負い込まされているのである。

 そして、思考がわたし、自分自身になった人には、思考が害悪をもたらしているとは思いもよらなくなっている。

 ほかに、「大いなる存在」の一体感については、わたしはわからない。「インナーボディ」という存在にも気づけない。

 エックハルト・トールは、感情の痛みを「ペインボディ」という言葉で表現しているのだが、これは「たとえ」であって、まちがって「実体化」して捉えてしまわないかと危惧する。エックハルト・トールがいっているのは、外界を自分の外側だと捉えたために、自分の思考の被害者になっている状態に気づけないことだと思う。これはウェイン・ダイアーやジャンポルスキーのほうがわかりやすい。

 人間は時間はあると思い、思考に自分を重ねている。そのことによって永久に去ってしまった過去をいつまでも再現し、苦悩し、悲観に暮れる。だが、そんなものは時間とともに永久に去ってしまったのだ。思考や想起の能力があるために、人は永遠の苦悩をいつまでも「呼び出し可能」になった。時間を見ると、そういうたんじゅんな認識のあやまちがわかりやすくなる。

 思考というのは、それ自体が幻想であり、存在しないものである。しかし人は思考を使いつづけて、それが「現実」や「実体」としてあるように思うようになる。思考こそがわたしであり、それ以外の認識形態はないように思うようになる。苦悩はいつでも再現可能の地獄を見るようになるのだ。

 たんに大脳新皮質の思考する・想像する能力による過ちに思える。これを現実化、実体化してしまった人間の悲劇を、われわれ自身が治せなくなっている。でもそうすることが「宗教」だといわれてしまうのだから、われわれの社会は、認識のあやまりや思考に同一化することに意地でもしがみたい社会らしい。メリットが大きすぎて、害悪を見ないのである。

 宗教ではなくて、たんに認識の誤りであると受け入れられるようになるのはいつのことだろう。


さとりをひらくと人生はシンプルで楽になるわたしは「いま、この瞬間」を大切に生きますニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-最初で最後の自由(覚醒ブックス)DVDブック マインドとの同一化から目覚め、プレゼンスに生きる ―「覚醒」超入門(覚醒ブックス) (<DVD>)

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