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02 16
2020

幻想現実論再読

世界も私も幻である――『脳はなぜ「心」を作ったのか』他2冊 前野隆司




 前野隆司の本を三冊つづけて読んだので、まとめて書評。『脳はなぜ「心」を作ったのか』、『錯覚する脳』、『人はなぜ「死ぬのが怖いのか』以上三冊。

 前野隆司は心は幻だという立場に立つ。感覚器官が色や音などのクオリアある世界をつくりだしているが、それは人間がつくりだした幻であって、この世界はなにもないのっぺらぼうな世界だ。

 われわれはこの意識や私がなくなることを恐れて死を恐れるが、この意識や世界のクオリア自体が幻であって、そもそも生きていながら死んでいる状態とそもそも変わらないのだ、だから死を恐れることはないと説く。

 仏教のこの世界は幻だという見解を、科学的に解いた本である。私の感覚のクオリアも世界も感覚器官がつくりだした幻、私という意識も進化上に必要なエピソード記憶のためにつくられた幻、もともとないに等しい、だから死を恐れる必要はない。

 心はあるように感じられる、しかしそれは幻想にすぎず、もともとなにもないのだ、死んでいる状態となにも変わらない、だからなにも恐れる必要はない、というのである。

 私は神秘思想で学んできたから、ひじょうに近いこの幻想論と距離をおきにくくて、頭を整理しにくかった。神秘思想はこのようなことをいっていたのかと、ぎゃくに距離をおいてながめられない。

 世界も心もないのだ、幻だという考えによって、仏教や神秘思想はやすらぎの知恵を手に入れたのか。私は個人的には、言葉や思考は実在しないのであって、だから苦悩も悲嘆も存在しないという立場で、やすらぎを手に入れる方向に進んできた。

 前野隆司は理論としては心や世界の非実在性を説得するわけだが、日常的には言葉と思考にまみれているのだから、この隙間隙間ごとに苦悩や悲嘆がつくられてしまって、日常のそれを拭い切れないことになると私は危惧するのだが、心と世界の幻想論はそれなりの効果は否定しない。

 前野隆司は人は自分の意志を信じているが、手を動かす前にすでに無意識のスイッチは入っているのだという実験を知らせて、主体やコントロールの幻想を説く。私はなになにをした、このようなことをきのうしたといったエピソード記憶もそれを覚えていないと場当たり的な行動しかできないので、必要上につくられた幻にすぎないと、「私」の非実在性も説かれる。

 音も色もこの世には存在せず、感覚器官がつくりだした幻だ。音はそこに身体がないのに、遠い場所から聞こえるというクオリアがあるのは驚異的だといっている。指や身体なら感覚のクオリアがつくりだされても不思議ではない。だが身体のない場所までクオリアはつくられるのだ。身体はそこまで拡張される。目に見えるものであっても、明るさや色などの空間をつくりだせるのだ、なにもないのに。

 このことは、禅の話に、雨はおまえの心の中に降っているといわれる話を思い出した。唯心論的な話に帰ることなんだろうか。感覚のクオリアは身体を拡張して、はるか遠くまで感覚できる。身体の外にあると思われる世界は、私の脳がつくりだしたリアルな幻想なのか。

 私がこれまで読んできた神秘思想と仏教の話と、距離をおいて、比較や検討をする頭がなかなか働かないんだな。神秘思想や仏教はこのようなことをいっていたのか。唯心論や、心・自我の非実在論がそれらだったのか。

 仏教や神秘思想は、言葉を滅却させることによって、理論を組み立てずに、いま・ここ以外の幻想性や非実在性を身体にしみこませてゆく方法である。言葉で理論を組み立てると、言葉の壮大な実在の幻に囚われ、実在の世界から抜け出せなくなってしまう。だから言葉は言葉が立ち上がるこの現場から、瞬間に落としてゆかなければならない。心を立ち上げる瞬間こそが、仏教がたえず立ち返ろうとする場所である。理論を後生大事に抱えてしまっては、幻想の建物に捕えられたままなのである。

 理論ではなく、自分の実際の心や身体に、その幻想性や非実在性を感じてゆく、神秘思想や仏教の方法である。理論はもちろん理解を増やして、納得の地平をひろげてくれるので、ふたつの車輪のように理解してゆくのが好ましいと私は考えるが。

 理論で理解しようとする人は、ふだんに思考をはりめぐらせているだろうし、言葉の非実在性を反省してみることはない。その陥穽こそが、われわれの苦悩や悲嘆の立ち上がるまさに源泉そのものである。言葉と思考の滅却にこそ、この幻想論の有効性はない。言葉と思考にまみれた頭に、苦悩の消失がおとずれることはないのである。






02 01
2020

幻想現実論再読

概念、肉体を去れ――『意識に先立って』 ニサルガダッタ・マハラジ

  

 『アイ・アム・ザット 私は在る』は巨星とよばれるにふさわしい書に思えた。ぶっきらぼうで、言葉は簡明で、経典や専門用語をつかわない日常の感覚でつかめる言葉で、質問者に答えかける。といっても理解はかなりむずかしい。言葉や観念でとらえられない世界のことを語るからだ。

 この『意識に先立って』はマハラジの最晩年の対話がのせられたもので、図書館で見かけたので思わず飛びついた。

 今回はかなり理解がおよばない気がした。前書でも理解がおよばないところが多く、理解できるところを結びつければかろうじてわかるところがある書であったことには変わりはないが。

 この書でもしきりに「私は在る」に帰ろと語られていた。しかしそれを肯定するのではなく、否定する言葉だったのかと今回気づいた。

「存在感、つまり「私は在るという性質」が客の印だ。あなたの答えは深い信念からのものだろうか?

…あなたは存在していないという知識を、あなたは完全に受けいれているのだろうか」



 「私は在る」という感覚すらも不要な概念だと断じられる。

「「私は在る」という概念を身につけると、あらゆる概念に巻き込まれる。この「私は在る」という概念が去ると、私は存在していたとか、こういった経験をしていたという記憶は何も残らない。まさに記憶がぬぐい去られるのだ。あなたが完全に一掃される前に、まず自分の痕跡が少し残っている前に、この場所を去ったほうがいい」



 肉体の否定もたびたびおこなわれる。あなたは肉体ではないのだ、肉体やそれにともなう意識の一体化を捨て去れという。この意識も肉体にともなうものであり、肉体が去れば、それもなくなるものだ。その一体化をぬぐい去れと。

「「私は在る」という第一の概念が、肉体のアイデンティティにしがみついているので、すべての問題が起こるのだ。自分は概念でないという結論に到達しなさい」



 概念も去らせて、肉体の一体化、記憶も意識も去らせる。私たちのあり方そのものが否定される。私たちはあまりにも概念、思考、記憶のとりこになっているので、マハラジは私の考えがあなたがたに理解されることはないと何度もいう。

「源泉に戻りなさい。存在性の概念である「私は在る」が起こる前、あなたの状態は何だったのか」



 前回の書では気づかなかった、もしくは忘れていた、私の存在性以前に戻れという言葉が発せられる。

「存在感が到着する前、あなたは時間の概念がまったくない状態にいた。ということは、何が生まれているのか? それは時間の概念であり、誕生や生きること、死ぬという出来事がいっしょになってまさに時間と継続を構成するようになるのだ」



 禅でも出生以前のあなたの顔はどのようなものかと問われる。存在感が生まれる前の状態は子ども時代に経験したことであり、キリスト教でも幼子のようになれといわれることと同じである。そして私たちは概念や思考にいっぱいになっているために、それらが生まれる前の子どもの状態に戻れることはないのである。

 言葉や思考が生まれると、時間の展望が生まれ、私たちは記憶とともに、人生の経験やエピソードとしての自分こそが「私」であるという信念を形成してゆく。その一体化こそを神秘家はぬぐい去れといっているのではないだろうか。

 マハラジの動画を見ると、ぶっきらぼうな粗野なおっさんだという印象がある。それでも話している内容はとても心理的、認識論的な内容である。けっして経典や教養のある高尚な専門用語で語らない。質問者からお金をとらなかったというし、グル的な威厳を見せつけなかった人だ。まさにタバコ屋のおっさんが、神秘思想を語るのである。市井に生きる人が、生の神秘から切り離されることはないのである。


▼かみつくような話し方のマハラジ。日本語字幕あります。






 
01 26
2020

幻想現実論再読

禅風なアドヴァイダ――『絶対なるものの息』 ムージ

  

 ムージはプンジャジの弟子で、ということはラマナ・マハラシのアドヴァイダ(不二一元論)の系譜である。現代インド人の覚者ならヒンドゥー教なのだが、それはあまり表立っていわれない。

 ムージの本名はアンソニー・ムー・ヤングで、原著はこの本名で出ている。ジャマイカ出身で、ロンドンで40年以上暮らし、インドのプンジャジの弟子になる。ガンガジのような西洋人がインド風の名前を名乗るようなものか。

 この本は禅風の本人のイラストもはさまれていて、禅を感じさせる書物になっている。

 文章に銘記したい一節があるような文を書くタイプの本ではなく、全体でメッセージをつかめという本になっている。私は銘記しておきたい文章に出会いたいタイプだから、全体的なものをつかむのが苦手である。

 「あなたはそれである」――ゆえに努力や外側をさがそうとするなというメッセージをおもに語っていると思われる。私は外側に知識を漁りに行って、なかなか源流や「在ること」の意味をつかみかねるので、このタイプの教えが身につかない。なにもしなければ過ちをもった目でしかながめられないのだが、外をさがすのも禁止とされれば、どこへも行けないではないかといいたくなる。

 「真我」や「私は在る」といった言葉は、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラシの系譜を感じさせる言葉である。

 いちばん響いた言葉はつぎの一節である。

「マインドの書く記事はいつも過去のことであり、真実のイメージであって、決して真実そのものではありません」



 言葉や記憶というのは、それ自身であることは永遠にないのであり、いつもわれわれはこれをつかみにいって、「ほんとうのもの」「真実」をつかむことはない。それは「実在」しない頭の中のイメージにすぎないのである。この違いに気づかないと、私たちはずっと頭の中の夢の中で暮らすことになる。夢が実在を帯びた世界にとりこまれるだけなのである。

「あなたは神の存在を信じることはできますが、真実の存在を「信じる」ことはできません。あなたにできるのは、真我で「在る」ことだけです」



 言葉と「ただ在ること」の違い。言葉やイメージをつかみに行くな。

「自分と命は別のもの、自分というものがあり命というものがある、という考えが人類の精神の奥深くに根を下ろしています。
…あなたが生、命なのです」



 自分と命は分けることができない。命を切り離してしまうと、私は生きていない。言葉はいつも自分と身体や命といった別のものに分けてしまう。切り離して存在できるわけがないのだ。それをどの方向に展望していっても、同じ図式が広がることだろう。身体と世界、目と見えるもの、手と感覚されたもの――言葉やイメージに頼るな。言葉のないただ在るだけの存在に戻れ。





01 17
2020

幻想現実論再読

いやな思い出を思い出して叫びたくなることへの根本的解決策


 だれにでも経験あることだと思うが、いやな思い出がよみがえって、叫びたくなる時の根本的解決策をのべたいと思う。ネットでちょっとググれば、山のように同じ悩みがつづいている。

 突然嫌な思い出がよみがえって叫んでしまい悩んでいる(追記)  はてなブログ
 思い出し奇声してしまう人 ガールズちゃんねる
 過去の悔いを思い出し叫んでしまう私 発言小町
 昔の嫌な思い出や黒歴史がフラッシュバックして「うわあああ!」って  はてなブログ


 じつはこれ、はるかむかしからある仏教が瞑想という方法で、その解除策を教えてきた。

 だけど、こんにち学校で勉強するように、なにより記憶と思考力を鍛えることが学習の最大目的になっている。そのために記憶と思考を駆使しつづけることが最大善だと思うわれわれがみな陥るワナにかかっているのである。

 記憶を強化しているなら、なおさら過去のいやな思い出はよみがえるし、思考することが推奨されているなら、もっとそのいやなことを考えて考え、またそのいやな記憶を脳からひっぱりだしやすくなるだろう。この前提こそを、解除しなければならないのである。

 瞑想というのは、頭の中に流れてくる記憶や思考をぼうっとながめる地点に立つことである。考えたり、その記憶につられたりせずに、ただ流れるに任せるポジションに立つことである。そうすれば、思考は自然に去ってゆき、なくなる。この訓練がうまくなれば、過去のいやな回想にひんぱんにひきずりこまれることはない。


 大事なことは、記憶や思考というものが、私たちの頭の中以外にはどこにも存在しないということを、しっかり理解することである。そんなものは頭の外にはどこにも実在しない。私たちはこの記憶の「実在視」をしてしまうから、いやな思い出に叫びたくなるのである。

 この思考や記憶の「実在視」をやめるということが、瞑想の大きな目的である。いったい思考とか記憶とか、頭の外にあったことがあるだろうか?

 記憶というのは、もう終わってしまった過去を思い出しているだけで、この地球上からは永久に去ってしまったものである。もはや過去はどこにもない。二度と自分の頭の外に見出すことはできないものである。

 この世の時間は一度過ぎてしまえば、永遠にその過去がよみがえることはない。永久に無になる。永久に奈落の底に落ちる。

 ならば記憶とはなんだろう? もう存在しなくなった過去の残像でしかない。もう自分の頭の中以外にどこにも存在しない。まったく実在しなくなったものがわれわれの記憶である。

 そのような過去はたしかにあった。だがこの世のどこにも存在しなくなったものである。われわれはなぜまったく存在しなくなった頭の中の心象に、恥ずかしく思ったり、後悔したり、叫びたくなるのだろう? それはもう亡霊や幽霊のようなものである。あなたは幽霊を信じますか? 信じないとしたら、なぜ恐がる必要があるのだろう?


 われわれは過去を思い出しては、後悔や考え直すことをよしとする習慣にとらわれている。過去をひんぱんに思い出して、あのときはどうだ、こうすればよかっただのと過去を反芻することを成長やよいことだと思っている。その信念や習慣こそが、過去のいやな思い出をいつまでもよみがえらせる一役を買っているのである。

 過去をどこにも存在しなくなったものと見なし、いっさい過去をシャットアウトすると断行すれば、過去の悪夢は襲ってこなくなるものである。われわれ自身こそが、過去の反芻をよみがえらせる選択をしているのである。

 性格であるとか、アダルトチルドレンだとか、発達障害だとか、トラウマだとかいっさい関係ない。私たちがそういう過去や思考を大事にする習慣や態度をもっているからなのである。とうぜんのごとく過去をひんぱんに思い出して、いやな回想の地獄を見るのである。

 私たちは思考や記憶を大事にするあまり、その「実在視」にどっぷりとハマる。過去はもう実在しなくなったし、思考なんて頭の中以外にはどこにも実在しない仮想のものである。

 私たちは思考や記憶を「実在視」するから、その思いに泣いたり、笑ったり、悲しんだりできる。でもそんなものは頭の中にあるだけであって、頭の外にはどこにも実在したことがない。心象や感情の「実在視」にわれわれは陥っているだけなのである。

 思考や記憶なんてどこにも実在しない。そのことがしっかりと実感できれば、数々のいやな思い出もスルーすることができるようになるだろう。

 だが、われわれがこれまで培ってきた心の習慣をかんたんにやめることはできない。瞑想やマインドフルネスの本を読んでもなかなか身につかないものかもしれない。ここで提示したのは基本的な線だけである。あとはあなたの努力しだいである。そして、それはたいそうむずかしい。


▼これまでの心の呪縛を解く方法
 瞑想を理解するための10冊の本


01 05
2020

幻想現実論再読

神秘思想のおすすめ本11冊


 神秘思想・精神世界は字面の怪しさや、スピリュチュアルのほかの怪しい本やクズ本があまりにも多すぎて、敬遠する向きがあるだろうが、セラピーの要素を多くふくんでいる点で利用しないわけにはいかない。

 神秘思想は「一なるもの」「大いなるもの」との一体化がめざされる知識技法が表面的なのだが、その過程において、言葉や思考で描かれる世界像の客観視や脱同一化がおこなわれる。すなわち言葉で描く世界から離れる。私たちはこの世界像に埋没しきっていて、客体化をほぼ行わないのだ。その幻想性、虚構性を暴くとき、ひとつの平安や安らかさを手に入れられる。愚かさを知る。

 言葉や思考で想像力を最大限駆使することが、われわれの時代の知性や優越とされる時代である。しかし言葉と思考が描く世界が感情をよびおこし、私たちを苦悩や悲嘆に投げ入れる面も、忘れるわけにはいかないのである。言葉がつくりだす世界はどのようなものか。言葉の描く世界は私たちにどんな歪みを見せるのか。言葉の悲嘆はほんとうに実在するのか。神秘思想は、言葉や思考という乗り物や道具を、あらためて外側から点検する作業なのである。

 私がこれまで読んできた神秘思想のなかから、これはよいというおすすめの本11冊を紹介します。神秘思想というのは、言葉や概念、観念でつくられた世界から離れる、その実在視をやめるということである。






  

 まずはこの本をおいて、瞑想も神秘思想もその必要性がわからないくらい重要な本と私は見なす。思考のメカニズムや、ネガティブに陥る連鎖の連関を分解してくれて、私たちの思考の過ちや愚かさを教えてくれる本である。マインドフルネスや瞑想はこのためにおこなわれるのだと明解になる。私たちは思考を捨てる、思考を流すという方法を知らずに、どこまでも思考で解決し、分析しなければならないという考えをもっている。そのためにどんな苦しい目や愚かな目に会っているか、この本で一目瞭然になる。バカ売れしたコラム本と比べようもないくらい、思考の原理を知ることができて、これをつかまずに思考から離れることができないだろう。


  

 まずは現代の神秘思想家にはどんな人物がいて、どんな思想をもっているか、一望できる見取り図が必要だろう。ハクスリーやアラン・ワッツからはじまって、クリシュナムルティ、グルジェフ、ラマナ・マハラシなどが紹介されている。その思想もくわしく説明されているので、読みたいもの、合いそうなものを選びとることができる。シュタイナーのオカルティストのような怪しい人も紹介されているので、取捨選択も重要になるだろう。神秘思想家がどのようなことを考えているのか、一覧と概要を手に入れられる書である。


  

 クリシュナムルティは、言葉を即座に捨てさせる禅と方向がまったくぎゃくに、言葉と理知を使い、言葉から離れる方法を模索した神秘思想家だといえるだろう。「思考は時間の運動にほかならない」とかいった難解な言葉回しになって面喰うことになるのだが、現代人にはまずは知性的な納得が必要だろう。カタい言葉で言葉のない状態にひきつがれるのは難しいと思うが、言葉での説得こそを現代人は欲するだろう。クリシュナムルティは講話集が多いのだが、この本は書きおろしのようなかたちで語られているので、おすすめ。『自我の終焉』の新訳。


  

 和尚=ラジニーシはあまりにも多くの講和集が出ていて、どの一冊をおすすめできるかむずかしい。だいたいは経典をテーマに語っており、経典から離れて自分の話しやすい方向に流れがちなのだが、この『般若心経』なら奥深い話が聞けるだろう。ラジニーシはゆったりとポエムみたいな口調で語り、なおかつ深みと重みをもつ。冗長すぎて、ゆったりしすぎなのだが、やはり深い思想もかねそなえている。好きな経典や本について語られている本を選べばいいだろう。


  

 ケン・ウィルバーの語り口はひじょうに学術的で、西洋的な明晰な論理に固められている。どこまでも論理の道で説明するスタイルはやはり西洋人の信頼である。東洋の神秘家に足りないのはこの面だと思う。ウィルバーはこの本で西洋の心理学と、東洋の神秘思想・宗教の段階的な接合をめざした。西洋では自我と影の一体化がめざされているのだが、東洋では身体や環境との一体化がめざされているとひとつのスペクトル線上においた。この本においてさまざまな古今の神秘家の引用も多く、展望も概括も広がる。神秘思想は西洋的な説明や論理がやっぱり必要だとこの本を読むと思われる。


  

 言葉や観念から離れるためには、時間の性質を見きわめることがとても大切である。過去や未来について思っていることが、現在にしか存在しないことを理解しないことには、時間の悲嘆から逃れることはできない。エックハルト・トールはその時間の性質をひじょうにシンプルに説明して理解させてくれる。私たちは過去を思い出すが、その過去はもうどこにも実在しないのではないのか。時間は瞬間に奈落の底だ。時間のこのような性質を知れば、私たちが嘆き苦しむ過去はどこにもないことがわかる。過去はもう幻想だ。神秘思想ではこの時間の非実在性をしっかり理解することがとても大切だ。それは言葉や心の非実在性もひきつれてくることになるだろう。


  

 シンプルで、簡明な言葉で語る巨星といってよい人だろう。おそらくは言葉や観念でつくられる世界像から離れることをしきりに説いた人なのだろう。私たちは言葉と観念の世界を離れることができない。醒めた人にとってはその世界は実在ではない。存在しない。しかしわれわれには実在の、どうしようもなくリアルな世界である。このスキマに気づかせようと、マハラジは質問者になんども答えて、質問者は面喰う。見ている世界が違う二人が対し合うとんちんかんさが、この対談集に頻出する。言葉や観念がすっかり落とされたマハラジが、言葉と観念の世界から絶対に出れない人と対し合う。禅の世界ではどこまでもすれ違うが、マハラジの言葉はどこまでも対談者によりそう。しかしそれでも理解できないのがわれわれである。言葉や思ったことが実在すると思いつづけるのがわれわれである。


  

 この本では「想像上の自我」といったものがどのようなものか白日の下にさらされて、その愚かさに気づくことができる。「自我」というのは自己賛美のキャンペーンのことである。さもないとその想像上のそれは、存在する価値を見出せない。だれかに侮辱された、だれかに不当な扱いを受けた、そう思うと自我はあわててみずからの価値上昇のキャンペーンをおこないはじめる。それが私たちが頭の中でずっとくりかえしつづけている「頭の中のおしゃべり」である。自分のそのような経験をなんども恥ずかしく思い出すことができるだろう。自己の価値を守る自我という愚かさを、みずからに突きつけられてあっけにとられる書である。グルジェフがこれをいっていたということだが、どの書に書かれているのか未確認だ。


 

 人類学者カスタネダが見いだしたインディアン呪術師ドンファンの思想を説明した書であるが、簡明にして重要な指摘がたくさんつまっている書である。この本のおかげでカスタネダの本に直接当たらずに読んだ気になってしまう。呪術師が語り出す「トナール」という守護神が、人間の言葉でつくりだす「共同幻想」を意味していると知ることは驚きである。言葉や観念、明晰さ、意味、過去といった人間の知性の過ちがこの本によって驚くほど明解にしめされる。言葉で編みこまれた「世界」を解体することこそが、このインディアン呪術師の仕事だったのである。「履歴を消しちまえ」など日常にも利用できる知恵の書である。


 

 言葉や思考の貼るラベルやレッテルを引きはがす試みをした本だといえるだろうか。私たちは即時にそれをよいものか悪いものか判断し、裁き、変えたり、管理したりしようことをおこなっている。そのおこないこそが、あるがままからの抵抗ではないだろうか。言葉での判断や制御が、世界に亀裂を入れる。言葉で判断された世界は、自我や身体の私、外界や独立した物体の世界像を即座に立ち上げる。色分けも亀裂もなかったひとつながりの世界に、独立したモノ・分離されたモノの世界が立ち上がる。原初のそのような試みを詳細に分析したこの本には驚かされるばかりである。読了後思わず再読したほどの感嘆の書である。非二元と紹介されるこの流れは、ヒンドゥー教が西洋人にバトンタッチされたところに生み出されていると私は捉えている。




 詩的で、あいまいで、象徴だらけの二行詩であるが、かなり深い神秘的次元を言葉にあらわしているのではないだろうか。シレジウスは17世紀ドイツの神秘主義的詩人である。あなたが不安にしている、地獄をつくっているのはあなただといったことや、神は無であり、外に求めれば求めるほどつかむことはできないなど、神秘思想でいわれていることが簡明にして語られている。あまりにも象徴や迂遠すぎるのだが、直接に語らないとこういう表現になるのだろう。




 以上がおすすめの11冊になる。言葉や観念の世界から離れること、神秘思想はかんたんにいうとそれを企図しているように私には捉えられる。

 私たちは当たり前のように過去を思い出しては嘆き、未来を思っては不安になる。だが、時間はこの瞬間に消滅していることを知ると、それらが実在しないことを実感できる。でもその思い出したもの、想像したものはなんなのか。

 それはこの世に実在しないものではないのか。その実在しないものになぜ嘆いたり、不安になったりするのだろう。私たちの思ったり、考えたりするすべては実在しないものではないだろうか。

 私たちはずっと実在しない夢を見ているのではないだろうか。

 言葉や思考で把握するもの――それらはすべて実在しない。自分について思い描くもの、過去の私も実在しないものではないだろうか。日常に思うもの、考えることも、実在しないのではないだろうか。

 私たちが当たり前にとり憑かれている言葉や過去の世界――それを落としてゆくのが神秘思想だ。

 それだけにとどまらず、分離されたモノの世界、身体の実在、誕生や死も打ち消されてゆくのが神秘思想である。このへんになると私の理解を超えている。

 言葉や観念、概念、思考の世界から離れてゆくことが、神秘思想の企図したことだ。神や一なるものとの一体化も説かれるのだが、その手前には私たちが離れられない言葉の幻想の死滅も、意図されている。そこに現代的な利用価値がある。


01 03
2020

幻想現実論再読

太古から語られているもの――『世界の名著 バラモン教典』

 2020年、あけましておめでとうございます。
 本記事が2020年のさいしょの投稿になります。




 非二元・アドヴァイダを読んでいると、これはブラフマンやアートマンのバラモン教やヒンドゥー教ではないのかと気づいた。非二元の探究でつぎに読むものが見いだせず、とりあえずは『ウパニシャッド』や『バガヴァッド・ギーター』を読みかえすことにした。


 『ウパニシャッド』

 『ウパニシャッド』は仏教がおこった年代とおなじくらいから成立し(紀元前五世紀)、紀元前二世紀には現在のかたちになったとされる。仏教と同時代なので、ものすごく古いというわけではない。

 ブラフマンやアートマンで語られる言葉が、禅と共通しているところが見受けられたりする。引用することくらいしか、この書には語れないな。

「見ることの背後にある見る主体を、あなたは見ることはできない。聞くことの背後にある聞く主体を、あなたは聞くことはできない。思考の背後にある思考者を、あなたは思考することができない。認識の背後にある認識者を、あなたは認識することができない。この(見・聞・思考・認識の主体としての)あなたのアートマンが万物に内在しているのである」



 見る者を見ることはできない。対象は私ではない。禅や神秘思想でも聞かれる言葉が、バラモン教典でも聞かれる。

「この身体内の洞窟に潜む、アートマンを見出し、確認した人は、万物の創造者。――彼はいっさいをつくり出すから。世界は彼のものである。否、彼は世界そのものである。

…それを知る人々は不死となり、他の者はまさしく苦に至る。

…この世において何物も、多様に存在しないとは、ただの思考力によってのみ、考察されるべきである。
この世において、(万物を)、多様であるかにみなす者、彼は死から死に至る。
この滅びることのない恒久のものは、
全一的にのみ観察されるべきである」



 身体の内奥にひそむものが全世界にあまねくいきわたっており、あなたはそれであるというブラフマンの決まり文句がここでも語られる。バラモン教、ヒンドゥー教は外側に向けるのだが、仏教は外に向けることはない。

「聡明な者(アートマン)は生まれもせず、また死にもしない。これはいずこから来たのでもなく、まただれかになったこともない。この太古以来のものは、不生、恒常、永遠であって、たとえ身体が傷つけられても傷つけられはしない。…これは殺しもせず殺されもしない。

…原子よりもさらに小さく、大きいものよりもさらに大きいアートマンは、この世の被造物の胸奥におかれている。

…(アートマンは)すわっていながら遠くにおもむき、臥していながらあらゆるところに至る。歓喜でも非歓喜でもあるその神を、わたし以外のだれが知ることができようか。

身体のなかにあって身体なく、不安定なもののなかにあって安定している。

このアートマンは教えによって得られない。知性によっても、聖典をひろく学ぶことによっても。これ(アートマン、すなわち神)が選ぶ人によってのみ、それは得られる」



 ブラフマンのつかみがたい性質を語った節である。言葉ではつかめない、超越している。道・タオと通じる考え方である。

「独立自存の神は外側に向けて孔(感覚器官)をあけた。したがって、人は外部に向かって見るが、内部のアートマンを見ない。ある賢者は、不死を求めて、眼を(外界から)ひるがえし、(外界とは)反対の方向にアートマンを観察した。
愚かな人々は外に向かうさまざまな欲望のあとを追う。

…人が、形・味・香り・音・触感、そしてまた性愛を知るのは、そのよすが(であるアートマン)によってこそなのである。(アートマンが身体から抜け出したときには、)この世に何が残されよう。これこそまさしくそれである」



 身体の内部になにがあるのだろう。「私」は身体の中にいるのだろうか。ヒュームが語ったのは、感覚の束や思考といったもののみである。さらにはラジニーシにはなにもないじゃないか、無しかないではないかという。無が偏在していようと、私はなにをつかめるというのだろうか。


 『バガヴァッド・ギーター』

 『バガヴァッド・ギーター』は叙事詩『マハーバーラタ』全十八巻のうちの第六巻の一部を抜粋したものである。紀元一世紀に原形が成立したとされる。ここでもブラフマン(聖バガヴァッド・クリシュナ)のありようがかなり示されている。

 この中公バックスに訳されているものは、戦闘や冗長な部分は省かれているから、だいぶ小さなかたちになっている。

「非顕現の形相をもつわたしによって、この世界は満たされている。一切万物はわたしのなかに内在するが、わたしはそれらのなかには存在しない。
かといって、万物はわたしのなかに内在しない。…わたしの本体は万物を支え、万物の創造者であるが、本来、万物のなかには存在しない。
あたかもいたるところに吹く強力な風が、つねに虚空のなかに存在するように、一切万物はわたしのなかに内在すると知れ」



 万物はわたしのなかに内在し、わたしはそれらのなかには存在しないという。またわたしのなかには内在しないと矛盾したことをいう。言葉で言い表されて、その言葉がまた否定される。ブラフマンは語ろうとして、語れない状態である。

「はじめがなく、中間がなく、終わりがなく、無限の力をもち、無限の腕をもつ、日月を眼とし、火炎をあげる祭火を口とし、自己の光明をもってこの世界を熱するおん身を、わたしは見ます。
なぜなら、天と地のあいだのこの空間、およびあらゆる方角は、おん身によって満たされていますから」



 時間と空間を超越し、あらゆるものに満たされて遍在されているもの。それはどういう状態なのだろうか、どういうことなのだろうか。

「知られるべきもの、すなわちそれを知れば不死を得ることのできるものを、わたしは述べよう。それははじめがなく、最高のブラフマンであり、有とも無ともよばれないものである。
それ(知られるべきもの、ブラフマン)は、あらゆる方向に手を足をもち、あらゆる方向に眼と頭と口をもち、あらゆる方向に耳をもち、あらゆる方向に耳をもち、またすべてを包んで、この世界に存在している。
それは、すべての感覚器官の性質をもつかにみえて、しかもすべての感覚器官をもたず、執着を離れ、すべてを保持し、成分をもたず、しかも成分を享受する。
それは万物の外にあり、また内にあり、不動であり、また(身体と結合して)動く。微細であるために認識されず、遠方にあると同時にまた近くにある」



 この万物にひろがったものが、身体の内奥にもあるというのがブラフマン=アートマンなのであって、それを知ろうとするのがバラモン教である。しかしそれを見ることも、知ることもできないともいわれる。まことに形容されるものは、近づくことのできないものである。これを求めたインドや宗教のなしがたさがこんにちにも残されている。




 このほか中公バックスには、『ヨーガ根本聖典』とシャンカラの『不二一元論』も訳されている。とりたてて大きな感銘も、銘記することも感じられなかった。シャンカラは『識別の宝玉』がいちばんブラフマンのことを語っていると思う。

 その他にもバラモン教典がいくつか訳されているのだが、あまり得ることがなかったので、今回は再読せず。






12 19
2019

幻想現実論再読

その先の世界は怪しくて――『エマヌエルの書』 パット・ロドガスト+ジュディス・スタントン



 非二元は「一なるもの」を語る。仏教は「それ」以降のことを語らず、その展望を与えてくれるのは、この本のようなチャネリングやヒンドゥー教なので、久方ぶりに本書を再読することにした。

 このチャネリングの存在であるエマヌエルによると、一なるものに回帰しようとする魂の進化の過程において、自分が何者かを思い出すためにこの意識のレベルに立ち止まった、転生してきたというようなことをいう。

 肉体は宇宙服のようなものであって、この惑星に転生してきたといった話は精神世界界隈で、ひとつのジャンルをかたちづくっているほどの怪しい一群の話がある。まあ、この怪しさはおいておいて、ブラフマンや神秘思想と共通するようなことも語られているので、そのあたりを選別して参照するくらいが、私のスタンスだ。

「象徴としての”堕落”の意味は
われわれが個別化したおおもとの目的を忘れ
魂の意図したことを忘れて
多様性の中に道を見失うことです。
ひとがどうして神を離れることができましょう
ひとはすなわち神であるのに」



 アートマンはブラフマンであるといったことと同じ内容が語られている。われわれは個別性や個体といったものを当たり前に見なす知覚・認識をもっているために、「一なるもの」「ブラフマン」と一体であるという説明や宣言を受け入れることができない。この世界をどうやってスープやバターのような「ひとつのもの」と見なせるようになるというのだろうか。

「あなたの全意識は
この小さな肉体にはおさまりきらないのです
あなたはどこかで赤ん坊が泣いているのをきいて
それが自分だとわかります
そのように、”自分”というものに同一化できるには
何か月も、いや何年もかかるのです」



 はたして、われわれはこのチャネリングの存在がいうような広大無辺な存在なのだろうか。だとしたら、どうしてこの肉体と感覚でしか世界を感じられないのだろう? この肉体と感覚を抜け出すことは、われわれにはできない。霊の存在を信じることができれば、そのような展望が広がるというのだろうか?

「怖れの強さは
あなたがそれを避けようとする強さと同じです
怖れを見ることに抵抗すればするほど
受けいれて抱擁することに対抗すればするほど
あなたがたは怖れに大きな力を
与えてしまいます」



 これは恐怖は幻影にすぎないのに、抵抗すれば、それが実在しているかのように思えてしまうことをいっている。人はたいがいは感情を「物体」のように捉えて、それを力づくでなくしたり、消そうとする。そのことによって、その「実在」を強く固く信じる過ちの泥沼にはまってしまうのである。これは心理学では教えてくれず、精神世界でないと手に入らない知恵である。

「いまこの時点での唯一の違いは
あなたの五感がいま記録しつつあることを
あなたが信じているということです
あなたは五感の力を受け入れ、
その制限を自分に課しています
あなたがその信念を超えて、身をのばすとき
あなたは自由、あなたは故郷にいるのです」



 チャネリングの存在は外部からこのように語ることができる。人間は人間の知覚と五感を超えた世界を知ることはできない。人間である私はこのようなことはほんとうなのかと疑うことしかできない。

「あなたは痛んだり叫んだりする
物資的肉体をもっています
自分を引き裂くような感情をもっています
そうした苦悩のおりには、ぜひ
それを経験しているのはだれかと
みずからにたずねなさい
経験していることを感じながら
その中にのみこまれず
観察している者がいます
それが”光”をもたらす者になるでしょう」



 神秘思想や禅におなじみの、見ているもの、聞いているものはだれなのか、という同じ問いが語られている。チャネリングは神秘思想と共通のことを語っているのである。

 まあ、仏教はこの次元まで語らない。手前で沈黙する。文字にされれば、このような「怪しい霊的物語」が描かれてしまう。仏教もこのような「怪しい世界」をめざしていたのでしょうか。まあ、こういう世界観もあるのだという参照するくらいしかない。

 ちなみのこの本はVOICEから出版されていて、透明なプラスチック・カバーの凝ったつくりだったのだが、おおよそ25年くらいの月日のうちにぱりぱりと破れてしまった。この世のはかない物質の世界をあきらめて、永遠のものを求めなさいといわれそうだ。





12 15
2019

幻想現実論再読

学びのある書――『バーソロミュー 』

 

 約17年ぶりに読みかえした。版元は上記の本とちがうところだが。

 非二元を読んでいると「一なるもの」への言及が多く、それを語っているのはチャネリングやヒンドゥー教のウパニシャッドやギータ―だったなと、この本を思い出して読みかえしたくなった。仏教は「それ」以降のことはあまり語らないが、「それ」以降のことを多く語るのは、ヒンドゥーやチャネリングである。

 この本は大いなる一への回帰も説くのだが、感情的問題の対処もすぐれたところがあるのを銘記しておきたい。たとえ否定的感情であっても、抵抗せずに愛をもって受け入れろと説く。

 心理学ではポジティブに考えろ、あるいは合理的な思考に書き替えろが最新なのだが、このチャネリングの存在はどんな悪感情もとりのぞこうとせずに受け入れろという。ちょっと愛だとか感情的なオブラートにつつみこみすぎている気もするのだが、それを受け入れるということは、それが実在しない幻影であるという達観につながる。

 感情は抵抗するからこそ、実在するものと思われてしまう。だが、受け入れれば、いつしか自然にやんで、消えてなくなる。実在しなくなってしまう。感情のコントロールはこちらのほうが正解だと私は実感している。それをダメなことだと判断して、抵抗するからこそ、実在の感を強めてしまう。この知恵とさいしょに出会ったのは、たしかこのチャネリングの本がはじめてであったと思う。

 自分がとらえる現実やものの見方も、自分が創っているということを教えてくれたのも、本書であった。これはストア哲学やピール、ダイアーなどの自己啓発やニューソートといっていることは同じだと思う。現実は自分がつくっており、それを自分で書き替えることができる。これを知ることができないと、いつまでもだれかが悪い、変えなければならないとなって、自分を永久の犠牲者につき落してしまう。見解の創造に気づかないと、人はいつまでも外界の惨劇に翻弄されたままになる。

 人は問題解決が重要だと思いこんでいるから、いつまでも悩みや苦しみを手にかかえることになる。問題などなにもなかった、実在しなかったということに気づいてくださいとバーソロミューは説く。問題を創造するのは自分なのであって、創造しなくなったそれは存在しなくなるのは、とうぜんの理である。

 人生はこれ以上よくならないという事実を受け入れることが最大のギフトだとバーソロミューはいう。何かほかのものを見つけなければならない、なにか必要なものがあるはずだと探しつづけることによって、明日やいつかという時間を生み出してしまう。それによって、完璧ないまの一瞬は取り逃されてしまう。われわれはなにかが足りない、欠けていると思うことによって、この現在の祝福をとり逃してしまう。それこそがエゴの抵抗であり、エゴの存在理由である。

 大いなる一については、こういわれている。

「あなたの存在も同じくらい広大なのですが、あなたはそれを忘れてしまっています。あなたは自分のことを、このちっぽけな惑星の上を歩いている、ちっぽけな人間だと思っています。でも、本当はそうではありません。あなたの頭も星のあいだにあり、あなたの脚も濃紺の宇宙空間のかなたまで下りています。それほどあなたは広大無辺です。

あなたは自分の本当の姿を忘れてしまっているのです。目を覚ましてください。…自分の真の姿を思いだしてください。自分の精神がただよう星の海と、宇宙にのびる脚のパワーを思い出してください」



 これはブラフマンとアートマンの同一や、霊的存在は神の一部であるという説と同様のことをいっているのだろう。

 われわれは肉体の知覚器官でしか世界を見れないのだから、そんなことは不可能と思うのがあたりまえである。しかしウパニシャッドやギータ―の古代からどうして、霊と神の同一が説かれてきたのだろう。

 チャネリングのいうところでは、霊的存在が物質的存在をまとった姿が、現在の人間であるという説明をする。現代の知性ではまったく拒否したくなる見解である。ただ物質や固体というわれわれの知覚器官によって見える世界が、絶対でも唯一のものでもないという見解を、古代から神秘思想が説いてきたのは、事実である。物質や固体の知覚観を、われわれは脱することができるのだろうか。

 感情や心理面ではひじょうに学びのある書である。ただ霊的存在が物質的世界をまとっているという説明になると、現代的知性は拒絶観しかもよわさないだろう。どこまで受け入れることができるだろうか。

 感情や思考面では、実在しないという方向に探究してゆくと、この周辺の問題は解けてきた。物質や固体も実在しないという方向に探究をすすめると、その実在のくびきは解かれてゆくのだろうか。ただ、ブラフマンや大いなる一のありかたを、科学的方面からまったく探究してこなかったのかと疑問に思うが。





12 07
2019

幻想現実論再読

実験の奇書――『存在し、存在しない、それが答えだ』 ダグラス・E・ハーディング

 

 神秘思想界隈であまりダグラス・ハーディングの名前を聞いた覚えがなかったのだが、1909年のイギリス生まれの哲学者・神秘家である。非二元のジャンルにふれるようになって、その実験的方法をはじめて聞くようになった。

 読後感としては、もどかしさが残った。理解できないもどかしさである。

 図解や実験で、即物的に、実用的に「それ」を理解させようとする稀有な書物である。しかしその実験がまったくぴんとこず、なにをいっているのか、実感としてつかめない。体感としては、私にはまったく失敗だ。

 翻訳がかなりまずく、レビューでも指摘されているが、流れが不自然すぎて、意味がつかみかねる文章が多すぎる。それ以前に、ダグラス・ハーディングの語っている文章や意図がつかみにくい困難も想像できるのだが。

 ダグラス・ハーディングの「それ」は、ヒンドゥー教やウパニシャッドの「ブラフマン」とかなり似ているといえる。虚空のなにもないところに、「見ているもの」があり、それが全世界にエーテルのように充満しており、人間はその枝分かれのように分岐しているといったような世界観である。ハーディングはいう。

「私たちは皆大元につながれているのである。私たち一人ひとりは、多かれ少なかれ、うまく設備を配管され、瞬間瞬間に私たちが受け入れることができるだけの心理的情報を流し込むバルブがついている。

それは実際、過去に存在し、そして未来にも存在するであろう厳密に分割できないたった一つの心なのである。しかし、私たちがさらに、あなたの心全体は唯一の心の全体であるため、あなたは、まさに神のすべての思考を入手できる能力を享受できるかもしれないと言うとき、あなたはそのことを疑い、ショックを受けるかもしれない」



 ダグラス・ハーディングは「それ」を見るための方法をシンプルな実験で提示する。人はながめる対象を見ることには得意だが、反対になにからながめているかと向きを変えることには不得意であるという。

 穴のくりぬいた紙に顔をあてはめて、鏡からながめたり、紙の筒に顔をはめて鏡を見かえしたり、私たちには下半身や上半身は見えるが、その上から見えないものはだれが見ているのかと問う。私にはこの実験がさっぱり実感をともなうものにならず、なにもつかめなかった。ながめている対象がX地点であり、ながめているものがY地点である。

「X地点からY地点へオリンピック以上の飛躍をしたあなたよ、今、見てみよう。自分が何から見ているのか、何がこれらの印刷された言葉を取り込んでいるのか、再び見てみよう。Y地点であなたは、それ自身をユニークで単一であると見て、広い世界より広く、世界を破壊したり再創造したりする聖なるパワーに恵まれている目を開いたのである」



 ハーディングは、単眼の目からながめており、もっと大きなひとつの目からながめているという。あなたは、一つ目巨人だという。

「私たちは集団妄想の無意識の犠牲者である。特に止めるのが困難なものは、人はここ中心において向こうでそう見える姿だという基本的妄想である」



 対象ははっきりとした物体や境界をまとった世界である。しかし私たちは見ているものを見たことはない。鏡や写真などで見たことはある。だが、自分たちの実際の目で見たことは一度もないのはたしかである。私たちは視覚のバルブに絞りこめられた像を信じ込んでいるだけで、このバルブを外すとき、つまり生物学的な狭窄器官を外すとき、もっと違った世界があるのだろうか。

 ハーディングが根拠としてあげるのは、私たちはこのどんな広がりや宇宙とも切り離して、一分でも生きられないという論拠である。

「四肢を切断されても、あなたは何十年も生き延びることができるが、しかし自分の太陽を切断されたら、どれくらい生き延びられるだろうか? 今の自分があるために何が必要かを自分自身で尋ね、その見積もりから、どの天文学的、地球的、人間的、人間以下のレベルを省くことができるか私に教えてほしい。

…本当の体はそういった宇宙以外の何だろうか? 宇宙以下では役に立たないだろう。あなたがここですべてであり、物事の全体であり、あなた自身のまさに身体である一つの絶対に分割できない肉体であるまで、あなたは正常ではない」



 ハーディングの世界観は、ひじょうにブラフマン的な宗教観である。だが聖なるものや道徳的な宗教を説かずに、実験的・即物的な神の体験方法を呈示する。まるで「不思議な国のアリス」のような書物である。

 私は面喰って、この書物の実験も説得も、まるで実感も理解できるものにはならなかった。理論や言葉として、そのような世界観を呈示していることの理解にとどまった。見ているものは「それ」であるという実感もともなうことはなかった。ただの情報が上すべりしただけである。

 こんな奇書が、こんなことを語る人がいたのだという驚きとあっけらかんさに置き去りにされた気分だけである。ハーディングはどんな世界を見ていたのだろう?



▼ハーディングの生涯を紹介した34分の動画。解説者リチャード・ラングには、ハーディングの実験を紹介した動画もある。






11 30
2019

幻想現実論再読

あなたの悩みは、何時間前に起こったことですか?

 だれかにいやな言葉を吐きかけられたり、だれかに傷つける言葉をいわなかったかなと後悔したり、私たちは何時間も前、何日も前に起こった事柄をなんども思い出しては、不快になったり、不安になったり、後悔したりしている。

 心には時間がない。きのうの出来事でも、何年前の出来事でも、思い出せば、目の前にあるかのように後悔したり、腹立たしい気分になったり、いま目の前で起こっている事柄のように思い出すことができる。

 過去は永久にこの世から去ってしまった。二度とその出来事、事柄がこの地上にあらわれることはないのに、私たちはそれを思い出しては、激しい感情の動揺を経験する。私たちの悩みのたいていは、そのような過去に起こったことではないのか。

 なぜ過去の終わったことを、私たちの心は、いま目の前にあるかのように思い出すことができるのか。

 思考や言葉は、記憶を頼りにいつまでも過去のことを思い出すことができる。思い出せば、目の前に存在するかのごとく、感情をもよおすことができる。私たちはたいていは、このような思考と記憶の囚人になっている。

 有名な禅僧の川を渡る話があって、女人にふれることが禁止された禅僧が、川を渡れないで困っている女人を背負って、川を渡ったことがある。何時間も歩いた後に、もうひとりの禅僧が悩みつづけて、ついに女人の禁制のことを口に出した。問われた禅僧は女人をとっくに降ろしたのに、おまえはまだ女人を背負っていたのか、といった。

 禅のいま・ここにというのは、過去を背負わないことである。出来事はその出来事とともに終わらせる。しかし私たちは、過去や出来事を反芻し、反省するのがよいことだと思っている。過去に終わってしまった出来事をいつまでも背負いつづける。

 「覆水盆に戻らず」や「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉は、過去は永遠に終わり、二度とこの世に姿をあらわすことはないというこの世界の時間の絶対の法則をいった言葉である。

 私たちはこの時間の絶対の法則を破る。思考や記憶は、時間の絶対の法則を侵犯しつづける試みである。ハナからそのような侵犯することが存在理由だ。

 もう存在しなくなったものを、もう一度心で再生するのが、思考や記憶だ。いわば、ハナから存在しない、実在しないものなのだ。私たちは、その実在しない「仮構」にいつも悩み苦しんでいるのだ。つまり、思考や記憶はもう「亡霊」や「幽霊」のようなものだ。

 終わった過去を反省、反芻することが、成長や精神によいといった考えもあるのだろう。しかし思考や記憶は、私の意志とかかわりなく、勝手に繁盛してゆくものである。それを断ち切ればよいという考えも、禅以外にはあまり耳にすることもない。そして過去の憂鬱や後悔にずっと囚われて、うつ状態までまっしぐらだ。

 その愚かな状態を断ち切るには、過去がこの地上から永久に消えてしまった、奈落の底に呑みこまれたという図を、強くもつことである。過去は強烈にこの瞬間に消滅していってしまう。無になり、二度とこの世に甦ることはない。この図を頭の中に刻印しないかぎり、思考や記憶はなんども頭の中に過去のリピートや想起をくりかえすものである。それこそが、私たちの心の機構というしかない。

 人間にとって過去の反芻こそが「自然」な状態である。過去をまったく断ち切ることは、ぎゃくに「人為」や「気づき」である。その行為が愚かであることに気づかないと、過去の反芻と感情の最悪な隘路は避け得られない。無知であることは、過去の後悔や罪悪感の囚人になることである。

 私たちは思考することがとてもよいことだ、成長に欠かせないという文化の中で生きている。ためにいつまでも過去の後悔や反省から抜け出すことができない。でも長年人間をやっていると、過去を思い出すことがどんなに苦しいことか、数百回、数千回経験したことがあるだろう。このツラい気もちをいつまでも抱えこむことがほんとうに人間の成長につながるのか。なぜ精神の穏やかなこと、のびのびしていることを、成長の土台と見なすことができないのだろうか。

 起こった出来事はいつでもその瞬間に手放してもよい。それはこの世のどこにも存在しない幻、絵空事にこの瞬間になってゆく存在である。そして、私たちはその実在しない「絵空事」に悩まされることがスタンダードになった愚かな存在である。

 私たちはだれひとりとして、この世界の時間の法則から逃れることはできない。過去は猛烈に、過去を奈落の底に呑みこんでゆく。起こった出来事をこの世界に再生することは二度とできないし、死んだ人をよみがえらせることも、起こってしまった出来事をくつがえすこともできない。

 ただ記憶と思考だけがそれをできると信じている。二度とくつがえらないのに、いつまでもくつがえるかのように、過去を頭の中で転がしつづける。過去は二度と帰らないのに、不快と後悔の気分だけをくりかえす。なんのために? 未来の教訓やこれから起こることへの対処としてはわかるだろう。しかし悔恨と後悔のためだけにするのでは、なんの益にもならない。

 過去は永遠に奈落の底に呑みこまれてしまった。過去は二度とよみがえることはない。思考は、この時間の絶対の法則にならうべきなのである。そもそももう変えようのない出来事であり、永久に凍土の中に閉じこめられてしまった。

 過去は永久に手放してよいものである。そのように生きるとき、精神はいまよりもっと身軽に、さっそうと前を向いて歩いてゆくことだろう。この世は、女人を背負った人、家財一式、家までも背負ったような人たちがあふれる世の中である。それで身軽に歩けるのだろうか。思考こそがその重いお荷物である。



プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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