FC2ブログ

HOME   >>  幻想現実論再読
07 08
2019

幻想現実論再読

無知の罰――『愛とは、怖れを手ばなすこと』 ジェラルド・G・ジャンポルスキー

愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)
ジェラルド・G・ジャンポルスキー
サンマーク出版



 もちろんこの本は前の翻訳本で読んでいる。大きな影響を受けた本だが、本田健が訳しているのを読みたいと思って、やっと機会を得た。

 この本は認識論の転換の本だ。外界からダイレクトに感情をうけとるのではなく、われわれが判断や主観によって感情を生み出している。この根本的な一点を知らないばかりに、われわれは外界や他人にふりまわされつづけ、他人のせいにしつづける。唯物論から、唯心論の転換の本である。

 自己啓発やスピリチュアルを嫌う人や、このような知識がまるで耳に入らない人は、どうやって外界におこる問題に対処しているんだろうと思う。外界に問題がおこるたびに打ちのめされ、内心での安堵や対処法をまるで知らないではないか。過去の私もそうであったから、なおさらかれらは外界とどう対峙しているのかと心配になる。

 この本のふたつの要点は、感情は自分の考え方や解釈が生み出しており、外界や他人によってひきおこされているわけではないということと、ゆるしによって過去の傷つけられた思いやだれかを傷つけてしまったという罪悪感を断ち切る方法が説かれている。これはつまり、心の主体を外界から自分の考えを主体にとりもどすことであり、過去の断ち切りである。

 われわれは外界や他人になにかされたり、傷つけられると、それを何度も思い出しては、相手に仕返しや報復、心に申し訳ない気もちや罪悪感を植えつけようとやっきになる。これらの従来のわれわれの行動基準を、まるごと断ち切れといっているわけだ。私たちはこの方法しか知らないばかりに、いつまでも過去の痛みをひきずる。報復が終わるまで、それは終わらないというわけだ。

 もう一つこの本で大事なことは、攻撃している人はだれよりも恐れている人だということである。恐れているからこそ、攻撃する。これからそのような人を見るたびに、哀れでかわいそうな目で見ることができる。そうすれば、攻撃的な人の心を溶かすことができる。われわれは攻撃に攻撃で向かおうとするから、かれらの恐れに共鳴することができないのである。これを見抜けば、かれの恐れの心に手を伸ばすことができるようになるだろう。

 やたらと愛、愛ばかり説き、私はこの点の違和感はすこし拭えないのだが、この本は愛やゆるし、恐れといった感情面からのアプローチが多いが、唯心論への転換をいろいろな角度から説こうとしている本だということがよくわかる。この認識の転換というのは、わからない、気づかない人にはさっぱりわからない世界である。気づかないときにはなんのことか、ぜんぜんぴんとこない。ために角度を変えたり、アプローチを変えたりして、それを伝えようとしている。

 自己啓発書のウェイン・ダイアーの『どう生きるか、自分の人生』という本も、外界の犠牲者という言葉で、この本と同じ内容のことを説こうとしている。他人から被害をうけた、だから仕返ししなければならないという考えは、みずから自分を犠牲者にしてしまう考えなのである。私たちはこの唯心論的転換を知らないと、ずっと他人のせいにして、自分を傷めつづける。このカラクリを知らないと、自分で殴っておいて、他人が殴った殴ったといいつづけることになるのである。

「他人から受けていると感じている攻撃が、実は自分の心の中で生まれたものだということに、なんとか気づかないようにしているのです。

私は自分の目に映る世界の犠牲者ではない」



 自分の解釈や考えが私を傷つけている。それなのに、私たちは他人が傷つけたのだと思いつづける。もしその解釈を変えたり、傷つけたと思わなかったり、それをゆるすのなら、私たちは安らぎや平安の気持ちをもつことができるだろう、たったいまこの瞬間から。それを知らないばかりにいつまでも他人の犠牲者だと思いつづけて、痛みを自分でもちつづけることになるのである。

 そしてこのような唯心論的転換は、自己啓発やスピリチュアルという怪しくて、近づいてはならない領域の知識として遠ざけられていて、私たちはこの心の安らぎや平安を手に入れることができない。唯物論、つまり科学の世界観では、心や考えで世界が変わるという考えは宗教であり、精神主義というアンタッチャブルなものであり、一般人はそんな非科学的な迷妄に近づいてはならないと柵を張られている。

 おかげでいつまでも他人が悪い悪いといいつのり、自分で殴りながら他人が殴った殴ったと、だれかの犠牲者になりつづけるのである。この考え方のメリットは、物質主義や道徳の規範を守らせる社会規則の基盤になることができる。だから血や涙を見ながらも、この制度を手ばなすことはできないのである。犠牲者の愚かさに気づいた人は、部分的にでも唯心論を取り戻すべきだと私は思う。もうあのような苦労はこりごりです。


愛と怖れ―愛は怖れをサバ折りにする。どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)ゆるすということ―もう、過去にはとらわれない (サンマーク文庫)ゆるしのレッスン―もう、すべてを手放せる (サンマーク文庫)愛と癒し―ジャンポルスキーの「生き方を変える癒しの12の原則」


11 28
2018

幻想現実論再読

過去の悔恨――『還らぬ時と郷愁』 ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ


還らぬ時と郷愁 (ポリロゴス叢書)
ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ
国文社


 残念ながらほぼ読みとれなくて、さいごまで読み通すのが苦行でしかない本だった。難しい言葉は使ってないと思うのだが、詩学や美学というのか、あいまいな表現のためか、ほぼ読みとれない。

 タイトルがよいので、還らぬ時にたいする郷愁の気持ちを呼び覚ますような具体的な表現でも読めると思ったのだが、まったく違ったようだ。時間の不可逆性や逆行できないものといったものを主題にしているのだが、言葉が曖昧蒙古として霧のように消えてゆく。

 私は、時間が瞬間ごとにつぎつぎと奈落の底に呑みこまれてゆく実感を強化したいと思っている。時間の前後は、たえず無だ。底なし沼のような無を実感することにより、思い出や過去を実在化するような心の習慣を断ち切りたい。私たちはこのような瞬間に無になってゆくような存在や世界のあり方から遠ざかることにより、記憶や思考の苦悩の責め苦を背負うのではないのか。

 タイムリープ物語のように、過去をやり直すことや過去の後悔を塗りなおす物語を、私たちは好むのではないだろうか。失っては二度と戻らない過去を、なんとかやり直したい、書き替えたい。それが恋や失われた愛なら、なおさら心魅かれる。そういう物語を山のように浴びて、また日常の生活においても、過去の想起をなんどもくりかえすのが、われわれではないだろうか。

 私たちはこのような自然の傾向こそを、断ち切らなければならない。過去の反芻は、私たちを後悔や悔恨、憂鬱や懺悔の気持ちへと落とし込む。それが精神の安定を保てる軽度のものなら、支障はないかもしれない。だが、たいていは度を過ぎて、うつ病や憂鬱から離れられないといった病理におちこむのが関の山というものではないだろうか。そして、私たちはこういう習慣に歯止めをかける知恵をもたず、際限なく底なし沼におちいってゆく。

 過去が瞬間になくなってゆく世界観と、過去はいつまでも終わらず、実在のように立ち上がる世界観。私たちは後者の過去がいまも現実のように存在する世界観のなかで暮らしているのではないだろうか。そしてうつ病や憂鬱の感情の病から抜け出せない。

 マインドフルネスや瞑想のブームは、過去の想起や思考の反復をやめさせる習慣を、私たちにようやくもたらしてくれる。私たちは過去をシャットアウトする知恵を、まったくもたないできたのである。

 それは過去のおこないや言動を銘記しておかなければならない社会制度の必要や要請からではないだろうか。過去がまったく実在しない無という社会では、過去の犯罪も行為も裁かれない。責任も負えない。それで過去の銘記や想起は重要な習慣になった。だけど、うつ病におちいるようなら、はたしてその習慣は、私たちに平安をもたらすだろうか。

 ジャンケレヴィッチの本から離れたことを書いたが、私はこういうことを考えたいと思っていた。ジャンケレヴィッチは『死』という本が有名なのかな。ベルクソンに強い影響をうけたフランスの哲学者だ。ちょっとつかみがたい文章を書く。


死道は開ける 文庫版時間ループ物語論時は流れず生き生きした過去: 大森荘蔵の時間論、その批判的解読


10 31
2018

幻想現実論再読

在るやいなや無くなる存在――『ハイデガー=存在神秘の哲学』 古東 哲明



 この本はこの一点だけがわかればいいと思う。

「つまりハイデガー哲学の根っこ。難解そうに見えるかれ独特の議論はすべて、この「存在と無は同一」という簡単なテーゼをベースに、編みあげられている。だから、このテーゼさえわかれば、ハイデガー哲学はすこしもむずかしくない。いわば秘密の扉を開く鍵。」



 ハイデガーの『存在と時間』は私も読んだことがあるが、氷の上をつるつるすべるように意味に到達できなかった。それを読み解くカギが「存在は無」であるということ。

 自分があるということが、不思議に思ったことはあるだろうか。この世界が存在することは不思議だなあと思ったことがあるだろうか。その感覚を延長していけば、ハイデガー哲学を説くカギにぶちあたる。この存在があることの不思議を思うことを、「タウマゼイン(存在驚愕)」とよぶ。この言葉や感覚は、ひじょうに大事だと思う。この世界を解くカギだ。

 ハイデガーはいった。「現存在は不断に死んでいる」。「刻一刻のわたしの現存在は、現事実としてはいつもすでに死んでいる」。「ひとは生存中に死を死んでいる」。「生の存在は同時に死だ。死が同時に生だ」

「現前するもの(存在者)は、刻一刻に宿るにすぎぬ。つまり存在者は、現れ出ることと立ち去りの内に刹那に宿るだけである。ここでいう刹那の宿りとは、到来から立ち去りへのうつろいである。だから現前するものとは、刻一刻そのつどの刹那だけ宿るもの。現前するものは、不在となることによって現前する」



 ハイデガーは、時間がこの瞬間にしかなく、その瞬間もつぎつぎと消滅してゆくことに、この存在のあり方を見ている。この世界のありようは、われわれの生、存在そのものだ。一瞬存在し、一瞬ごとに消滅してゆく時間と、存在。これが私たちのあり方とするのなら、私たちは存在しているといえるのか、生きているといえるのか。つぎの瞬間に、私たちはもうない。この世界も奈落の底だ。

 古東哲明は、わかりやすくそれを音のあり方に説明している。長いので、はし折る。

「音はふしぎだ。在るやいなや、すでに無いからである。
…音は現れては消え、消えては現れる。
…音は在るのに無い。まるで時の構造といっしょだ」



 音はこの瞬間にあり、つぎの瞬間にはなくなる。そして二度と現れることはない。私たちの世界のありようを、音は現す。そして私たちの生も、存在もこのようなものではないのか。刹那に現われて消える。

 私たちはこのような世界のありようを忘れて、ずっと恒常的に物体的に存在する世界にあたかも住んでいるように錯覚している。ハイデガーがいった「ダスマン(一般的な人々)」がそのような意味でいったかはっきりしないが、私たちは刹那ごとに消えてゆく存在とは露とは思ってもみない。

 社会の存在は、制度上の要請から、過去や言葉の実在を信じて生きるようになる。なぜなら過去の行為や言動になんの責任もとらないような社会は、秩序がなりたたなくなるからだ。私たちは恒常的に生きている存在になり、存在しなくなった過去は存在していないとは思われなくなった。私たちはこの制度の要請を生きているので、消滅や崩落の世界に目をふさぐのである。そして「仮構」の世界に生きてゆくことになり、目を醒ますことはない。

 私にはまるで、ハイデガーが神秘思想家に見える。『存在と時間』が神秘思想の書物とは聞いたことがないのだが、そういう目で見ると読めるようになるのかもしれない。言葉と時間の実在を信じている者には、読めない書物なのだ。

 私たちはいずれ死すべき存在として、この生の無意味さや無価値さを言葉で嘆く。サルトルの『嘔吐』は、人生の意味も価値もないむきだしの世界に嘔吐をもよおす書物である。しかしハイデガーは、生が無価値であるからこそ、豊穣さや充満が満ちあふれているという手紙を、サルトルに送ろうとしたようだ。未投函だったらしいが。ハイデガーは無であることに、存在の肯定性を見たのだ。神秘思想とは、無であることにニヒリズムになるのではなく、肯定と充実を見る。

 古東哲明は、後にこの瞬間が永遠であることを論理的に説くのだが、私には実感できなくて惜しい思いがした。

 ほかにこの本は、世界劇場や惑星帝国といった洞察も説くのだが、この存在と無の同一性というテーゼがいちばん大事である。私たちは恒常的に言葉も時間も実在していると信じる世界に住んでいる。そのためにこの瞬間以外は底なし沼のような無であることを見抜けなくなってしまう。そして仮構の、空想の世界に生きることになる。この世界のほんとうの法則に戻れ、ハイデガーや数々の神秘思想家はそう説いたのではないだろうか。


〈在る〉ことの不思議瞬間を生きる哲学 <今ここ>に佇む技法 (筑摩選書)存在と時間1 (光文社古典新訳文庫)存在と無 上巻宗教論―宗教を軽んずる教養人への講話 (筑摩叢書)

10 29
2018

幻想現実論再読

マインドフルネスはうつに効くのか――『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』 大田 健次郎



 マインドフルネスがうつ病に効くといっているのかとたしかめるために、そういう本を探した。

 図書館でマインドフルネスを検索すると、ことごとく貸し出し中で、図書館ではマインドフルネスがしずかにブームらしい。ジョブス、GoogleなどのIT企業からのすすめが効いているのか。源流のヴィパッサナー瞑想も上座部仏教も活況を呈していて、医学から入ってきた流れの強さをうかがわせる。

 たんじゅんにいって、感情は思考によってもたらされるのだから、その思考をなくせば感情もなくなる。ごくかんたんな原理だ。しかしその原理さえもいきわたっていないのが、一般の社会ではないのか。感情の原因は他者や出来事そのものだ。この感情と思考の因果は、認知療法がいってきたので、マインドフルネスを合体させた認知療法も唱えられるようになっている。

 この本は自分でできるワークブックになっている。セッションや課題がぶちぶちに分かれていて、わたしにはまとまった、整理できた知識がまったく入ってこないように思えた。途中で、自分がなにをやっているのかまるでわからなそうに思えた。わかりやすく、細切れに、ていねいに順番をつけているのだが、ぎゃくにそれが仇になっているように思えた。

 人がさいしょに知りたいのは、このマインドフルネスという方法が効くのか、なぜそれは効くのか、思考や感情の因果をしっかりと知ることでないのか。その原理や説明をしっかりとつかまないまま、セッションに入っていっても、なんだこれ?しか思わないのではないだろうか。

 著者は自身でうつ病を直した経験により、定年退職後に仏教学をあらたに学びなおして、93年ころから支援活動をおこなってきた人である。こういう医療系でない人は信頼できるのかという思いもあるだろうし、ぎゃくに自分で治した経験をもつ人のほうが信頼できるという向きもあるだろう。選択は、自分の知識がためされることになる。

 わたし自身の経験からいっても、瞑想は鬱的な感情の霧を晴らす効果をもたらしたので、これは効くと思うのだが、これまではうつ病に使うには注意が必要だという但し書きをよく見てきた。うつ病的な人は、完璧主義者なので、思考を流せない、思考を消せないといってよけいにうつをこじらせるのだという注意だ。

 それには思考と感情の原理や、思考といったものがなんなのかという原理面での理解がまずさいしょに必要になる。だからいきなり瞑想やマインドフルネスの実践に放りこむのではなく、ちゃんとした前説明が大事になる。原理面での理解がないのに、瞑想やマインドフルネスにいきなり放り込んでも、これはなんだ?くらいしか思わないのではないのか。

 現代人は、思考の価値を固く信じている人たちである。思考を手放すことの意味などまるで知らない。ぎゃくに思考や記憶をなくすことは痴呆や無知、馬鹿になることだと脅されている。だからこそ、うつ病に陥る。その原理を知らないで、思考を捨てよといっても、まるで効果がない。さいしょに必要なのは、思考がなにを見せているのかという理解と、思考を手放せない理由を知ることである。


うつのためのマインドフルネス実践 慢性的な不幸感からの解放マインドフルネス認知療法ワークブック: うつと感情的苦痛から自由になる8週間プログラムマインドフルネス認知療法:うつを予防する新しいアプローチマインドフルネスで不安と向き合ううつと不安のマインドフルネス・セルフヘルプブック―人生を積極的に生きるためのDBT(弁証法的行動療法)入門―



10 25
2018

幻想現実論再読

早すぎた神秘主義者――『嘔吐』 J‐P・サルトル

嘔吐
嘔吐
posted with amazlet at 18.10.25
J‐P・サルトル
人文書院

嘔吐 新訳
嘔吐 新訳
posted with amazlet at 18.10.25
J‐P・サルトル
人文書院


 マロニエの根の話はあちこちで聞くから、ずっと前から読みたかった書物であるが、中島義道の絶賛を聞いてますます読みたくなって、これまで容易に見つけることのできなかった古本祭りで見つけて、ようやく読むことができた。たぶん、むかし読んでも理解できなかったと思う。

「本当に『嘔吐』は何度読んでも泣きたくなるほどすばらしい作品です。「現在だけしか存在しない」こと、過去は「自分の思想(<こころ>)の中にさえも存在しない」こと、この驚くべき発見を日常的な場面でえぐるように描写することにかけて、サルトルの右に出る者はいない。」  中島義道『哲学の教科書』



 サルトルは実存主義だから、ネットの読書レビューを読むと、みなさん実存主義的な読み方をしようとしているが、前半から半ばにかけて、この本は過去や時間のことばかり語っているのである、執拗なまでに。そして主人公のロカンタンは、歴史学者である。

「私は自分の現在をもって、追憶を作りあげる。現在から逃れようとして現在の中に投げもどされ、現在の中に棄てられる。過去に合体しようとして私は失敗する。私は現在から逃れることができない」



「彼らはすべてを保存した。過去とは所有者の贅沢である。
 どこに私の過去を蔵っておこうか。過去はポケットの中にいれられない。過去を整頓しておくためには一軒の家を持つことが必要である。私は自分のからだしか持たない。まったく孤独で自分のからだだけより他になはなにひとつ持たない男に、思い出をとどめておくことはできない。思い出はこの男を斜めに通り抜ける。私は不平をいうべきではなかっただろう。なぜなら自由であることだけを私は欲したのだから」



「幸いにも彼らは子どもを作ったので、子どもたちに自分の経験をその場で消費させるのだ。彼らの過去は失われてはいず、思い出は凝結して、ふっくらと<英知>に変わっていると、私たちに信じこませたがっている」



 これは見事に過去を語った時間論であり、執拗に過去のあり方にこだわる。まるで「時間と存在」論かのようである。そして嘔吐感のナゾを解き明かす展開にみちびかれる。時間論の結論はつぎのようなものだろう。

「そして現在でないものはすべて存在しなかった。過去は存在しなかった。少しも存在しなかった。事物の中にも私の思想の中にさえもそれは存在しなかった。しかしいままで、過去は私の手の届かないところに引込んだだけだと信じていたのである。私にとって過去は退職したものにすぎなかった。それは存在の別の仕方であり、休暇の状態、活動停止の状態であった。……だがいま、私は知った。事物はまったくそれがそうらしく見えるもの、それだけのものであり、――そしてその<背後>には……なにもないことを。」



 人は過去は、どこかに実在しているかのごとくに思い出し、だれかと話し、過去の後悔ややり直しを考えたりする。しかし、ロカンタンは、過去がまったく存在しない底なし沼の無であることを、悟ったのだろう。言葉で構築していた安定した世界が、ひび割れてしまう。そして、事物そのものの世界に、ロカンタンはとつぜん向き合ってしまうのである。これが有名なマロニエの根での体験である。

「ことばは消え失せ、ことばとともに事物の意味もその使用法も、また事物の上に人間が記した弱い符合もみな消え去った」



 これは神秘思想や仏教がめざした言葉が解体した世界に、とつぜん放り出されたということなのだろう。神秘思想や仏教では、言葉を解体させることが目標である。しかしサルトルが描くところのロカンタンは、意図せずにそのむきだしの世界に出会い、嘔吐を感じる。

「事物の多様性、その個性は単なる仮象、単なる漆にすぎなかった。その漆が溶けた。そして怪物染みた軟い無秩序の塊が――怖ろしい淫靡な裸形の塊だけが残った」



 このマロニエの根の体験は、まるで神秘体験、事物そのものに出会った体験の記述に思えたのだが、わたしにはこの体験の最中に語られる思想が、まるでわからなかった。なんとなく言語と知覚の世界の混合に思えたのだが、私は禅の見性体験とかを聞いていると、どうも悟りというのは言語世界の崩壊だけであって、知覚は何ひとつ変わらないのではないかと思うようになった。神秘主義者は知覚世界が融合するかのような体験を語るのだけど、たんに言語世界のマヤカシや幻にもう騙されないということではないのか。

 知覚世界の融合や崩壊を語るのは、禅でいう魔境や、病理的で幻想的な体験にしかすぎないのではないのか。メスカリンとかLSDでの神秘体験が語られていたりするのだが、禅者やほかの覚者は、たんにふつうに生活する者になるにすぎない。あくまでも言語や心象の世界にもう巻き込まれたり、騙されたりしないということではないのか。

 そういう意味ではサルトルは早すぎた神秘主義者であって、早すぎたラム・ダスやオルダス・ハックスリーであったのかもしれない。

 サルトルは実存主義者であり、みんなそういう風に読むのだが、私にはこの本は神秘思想や仏教の本に思えた。実存主義の語る言葉は、私には実感がこもらなくてさっぱりつかめないのだが、言語や過去が無であることを悟ろうとする神秘思想や仏教の文脈なら、この本を理解することができる。

 ただ西洋哲学者は、東洋哲学のように言葉に不信をもったり、言葉を捨てようとはしない。言葉がなくなる世界は不快で、嘔吐すべき状況である。神秘主義であることを、拒否したいのである。言葉で構築される世界を、手放そうとはしない。

 意図せず神秘思想書や仏教書に達してしまったが、サルトルは東洋的な神秘主義がめざしたものには向かわなかったのだろう。西洋哲学者は、言葉で構築される世界にアイデンティティを賭ける。

 神秘主義者であった井筒俊彦もいっている。仏教者もこれは仏教書だと声をあげなかったのだろうか。

「もともと言語脱落とか本質脱落とかいうこと自体が、深層意識的事態なのであって、それだからこそ「存在」が無分節のままに顕現するのだ。しかしサルトルあるいは『嘔吐』の主人公は、深層意識の次元に身を据えてはいない。そこから、その立場から、存在世界の実相を観るということは彼にはできない。それだけの準備ができていないのである。だから絶対無分節の「存在」の前に突然立たされて、彼は狼狽する。」 井筒俊彦『意識と本質』





存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)知覚の扉 (平凡社ライブラリー)覚醒への糧 心の探求の道しるべ意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)哲学の教科書 (講談社学術文庫)


10 21
2018

幻想現実論再読

言語ゲーム論の外――『「心」はあるのか』 橋爪大三郎



 この本が出された2003年ころは、少年犯罪ブームのころであり、「心心」ばかり叫ばれていた時期であったから、社会学者の橋爪大三郎は、もっと社会学的に考えてみなければならないという意味で、この話をしたのだと思う。この本は講座録である。

 豊かになったのだから物質ばかり追っていてはダメだ、もっと心の豊かさという声が叫ばれ、「心の時代」ということになり、なぜか少年犯罪の心理学が勃興してしまった時期である。

 心理至上主義は、なにもかも心や個人のせいにしてしまい、社会や政治が悪いと叫ばれない社会に追いこむ。他人や社会のせいにできないのである。心の時代は皮肉なことに、自分の心や個人の責任が問われる時代である。70年代みたいに政治や経済が悪いとは攻められない時代である。そして、少年は世の期待に応えるかのように犯罪を犯すことによって、心理学的洞察が求められるという皮肉な心の時代になった。

 橋爪大三郎は、「言語ゲーム論」をもちだしてきて、おそらくは、心理学至上主義の時代に、一矢を報いようとしたのだろう。もっと社会や政治が悪いと叫ぼうとしたのではなくて、社会というのは、言葉によってつくられたルールであり、心心ばかり叫ぶのはやめよう、ということなのだろうか。

 わたしはこの「心はあるのか」という疑問を、神秘思想や仏教の文脈で活かせないかという意図で読んだ。仏教は無我を主張するし。

 言語ゲーム論は、言葉で社会や現実のルールをつくりだし、それが社会に実在しているように思われていると指摘するわけだが、これは「社会構成主義」の主張とほぼ同じである。

 貨幣はただの紙切れにしかすぎないのに、言語ゲームの中ではそれは価値をもち、実在化しはじめる。神や仏も言語ゲームに巻きこまれると、価値が実在しはじめ、実体化してくる。これはまったく共同幻想論である。

 そして物事や感情は、自分の考え方次第といったのが自己啓発であるが、これは戦前、日本が戦時中に精神主義は現実をこえられるという思想を押しつけたために、戦後の日本ではたいへん嫌われている思想である。科学や唯物論では、精神でものごとを変えられるという思想をたいへん嫌う。

 科学は精神の実在を証明できないのだから、行動主義心理学や実験心理学が正当な科学的な学問とされ、心はないものとして扱われた。そういう唯物論がながらく支配した学問界であったが、臨床心理学や認知療法、または言語ゲーム論やポストモダン思想が、唯物論の牙城をしずかに侵しつづけている。

 仏教や神秘思想は、この言語ゲーム論や、現実は社会の成員の考え方によって構築されるという社会構成主義的な考え方をもっていた。それを迷妄として斥けさせようとしたのが、仏教である。どちらかというと、社会の結束としての「自我」に問題を絞ったわけであるが。

 この言語ゲームという社会の制度を手放してしまえば、人間でいられなくなるのではないかと、とうぜんに疑問に思う。社会の制度やルールは言葉によって組み立てられ、現実も言葉によって構成されている。橋爪大三郎はどこに出るのか、はっきり主張しないポストモダンはないといっている。鈴木大拙も、言葉をなくすなら本能のままに生きてしまうのではないかと疑問を提出しているのだが、覚者はその無心と有心は使い分けれるのだと答えている。

 「制度としての心」からどう抜けだせばいいのか、ポストモダンはそういうところにいきついたのだろう。しかし仏教や神秘思想ははるかむかしから、その問題には取り組んできたはずである。無心になれば、社会制度はどのように維持されるのか。残念ながら、わたしの浅学ではそのような見解を多くを見いだしていない。


はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)仏教の言説戦略(サンガ文庫)言語ゲームとしての宗教言語ゲームが世界を創る―人類学と科学― (世界思想ゼミナール) (SEKAISHISO SEMINAR)現実はいつも対話から生まれる


10 20
2018

幻想現実論再読

比較宗教学として――『神秘主義』 ジェフリー・パリンダー

神秘主義 (講談社学術文庫)
ジェフリー パリンダー
講談社


 比較宗教学者によって書かれた、世界の幅広い神秘主義について語られた本である。95年出版であるから、6、70年代のカウンターカルチャーの時代のものではない。

 客観的・歴史的に書かれた宗教学の本というのは、たいがいは内実や主観がうまく伝えられなくて、なにも学べないと個人的には思うことが多い。歴史や思想のちがいを語られても、理解したい内実の世界とは、ちがうのである。この本はだいぶ主観的な思想に迫っているほうだが、これをもっと深く知りたいとか、この本を読みたいという導き手にはならなかった。

 神秘思想の理解には、アン・バンクロフトの『20世紀の神秘思想家たち』がとても優れた入門書になるだろう。この人たちの思想や本をもっと知りたいと思わせる紹介に満ちあふれている。本書はそういう本の部類ではなかった。

 神秘主義的一元論と、神秘主義的有神論に、章を分けたのはいいと思う。神秘主義者の中には神を説かない人たちも多くいたが、仏教などは無神論だし、老荘もタオ・道を説いている。ブラフマンは神なのか。もっとも神とか、他の名でよぶにしても、境界は侵犯されることが多く、あいまいになりがちで、どっちなのかと混乱することが多い。

 この神秘主義を紹介した本で、神道やシャーマンも入れたのは、違和感があった。神道はアニミズムや自然汎神論なのであって、神秘主義的な合一をめざした宗教だったのだろうか。自然汎神論には章をもうけているが、エリアーデのアニミズムにくわしいわけではない。シャーマンは合一というより、憑依ではなかったのか。ムハンマドはシャーマン的宗教である。

 イギリスの比較宗教の本だから、東洋宗教やインド哲学に多くウェイトがおかれることにとうぜんなる。キリスト教では、エックハルトなどの神秘思想家もいたのだが、キリスト教では神秘的合一は異端であることが主流なのであって、神や唯一者との合一という思想は、ほかからの知見を頼むことになる。それが東洋宗教である。

 神秘主義という言葉は、不可知論や蒙昧という意味でつかわれることが多い。主知主義の西欧からすれば、ぞっとするものである。だが、根底にはあるものは、言語の否定と不信であり、言語が幻想の世界をつくってしまうことの警戒がある。その前提を理解しない神秘主義への無理解があまりにも多いのである。この言語不信という大前提をおかない理解には、無神論者、有神論者ともに、信頼にあたいするものをもたないだろう。


20世紀の神秘思想家たち―アイデンティティの探求 (Mind books)神秘主義 (文庫クセジュ 252)神秘主義と論理意識の進化と神秘主義神秘主義事典


10 17
2018

幻想現実論再読

マインドフルネスの源流――『無常の教え』 アーチャン・チャー

無常の教え
無常の教え
posted with amazlet at 18.10.17
アーチャン・チャー
サンガ


 テーラワーダ仏教を読む第三弾――スマナサーラ、ティク・ナット・ハンと読みすすめてきて、アーチャン・チャーを読む。

 アーチャン・チャーはタイの仏僧で、アメリカでヴィパッサナー瞑想をひろめたジャック・コンフィールドが教えをうけたことで、その源流が開発されるようなかたちで、いま輸入されているのだろう。

 つまり、マインドフルネスの原点を輸入するかたちで、テーラワーダ仏教が注目され、いまテーラワーダ仏教の日本での興隆がおこっているのだろう。

 読了感としては、なにかいままでと違うことをいっているか、なにか目新しいことをいっているのかということのほうが疑問だったのだが、マインドフルネスとかの医学的な知見から仏教に入ってきた人には、新鮮に映るのかもしれない。

 わたしはトランスパーソナル心理学で神秘思想や仏教を知り、そのいぜんにはさらにアメリカの自己啓発だったから、日本におおむかしからある伝統仏教はぜんぜん相手にされず、舶来や外来としか吸収されなくなっているのだろう。

 ほんと、日本の伝統仏教はお説教くさい一般道徳を説いていて、アホくさくてとっつきにくいのだが、大乗仏教や重要な経典にさかのぼろうとしても、たいへん苦労する。わたしも系統だった仏教の勉強がぜんぜんできず、ほんと偏った仏教理解しかできていないだろう。神秘思想も大乗も上座部もごっちゃになっていて、いちいち違いもよく見分けられない。

 そういう目で見ても、このアーチャン・チャーは、べつになにか違ったことを語ったのかと疑問に思うほど、ふつうのことを語っている。「無常・苦・無我」という覚えやすい要点で、仏教を語ったことは、理解を近づけると思うが。

 無常というのは、日本ではなにか悲しげな情感をもって見られているが、この世界の時間論を語ったものとすれば、理解しやすいとわたしは考えている。この瞬間はあっという間に過去になり、過去はこの地球上のどこにも存在しなくなる。わたしたちは、もうつぎの瞬間には存在しないものになり、存在はこの瞬間だけをつぎつぎとわたってゆく。この瞬間だけに存在する法則に、感情や心を沿えてゆけば、苦悩を継続することはない。時間論からこの世界のありようを理解することは、とても大切だと思う。

 テーラワーダ仏教の三人を読んで、スマナサーラは日本の伝統仏教に近い俗っぽいお説教仏教に近づいており、ティク・ナット・ハンは内省的でわたしはまた読みたいと思わせたし、アーチャン・チャーはべつに特筆するものもないように思われた。

 マインドフルネスは1979年にジョン・カバット・ジンが提唱したとされるが、この流れが医学界を席巻し、その源流たるテーラワーダ仏教、上座部仏教が、この日本でも注目されるという流れになっているようだ。わたしは97年にリチャード・カールソンに出会って、仏教の価値を知ったのだけどね。


[増補版]手放す生き方【サンガ文庫】アチャン・チャー法話集 第二巻 マインドフルネスの原点ビーイング・ダルマ (上)― 自由に生きるためのブッダの教えマインドフルネスのはじめ方―今この瞬間とあなたの人生を取り戻すためにマインドフルネスストレス低減法


10 16
2018

幻想現実論再読

虚無主義に笑うしかない――『ルバイヤート』 オマル・ハイヤーム

ルバイヤート (岩波文庫 赤 783-1)
オマル・ハイヤーム
岩波書店


ルバイヤート
ルバイヤート
posted with amazlet at 18.10.16
(2012-09-27)


 たまたま古本祭りで、「なんの本なんだろう」と手にとったら、最高ですね。

 人生の無意味さ、虚無主義を、直接に、あけすけに語っていて、もう笑うしかない。宇宙的スケールでの人生の無意味さ、はかなさ、ムダに帰す嘆きがずっとつづられていて、短い詩だけど、ここまで語った人がいたのかと感服。

 もっともオマル・ハイヤームは11世紀のペルシアの詩人であって、わたしが知らなかっただけ。

 ヨーロッパでもエドワード・フィッツジェラルドが自費出版で出版したが、売れず、ようやくラファエル前派の詩人たちによって注目されたというエピソードが、まえがきに書かれている。このフィッツジェラルドは、あのアメリカのスコット・フィッツジェラルドではない。

もともと無理やりつれ出された世界なんだ
生きてなやみのほか得るところがあったか?
今は、何のために来たり住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!

自分が来て宇宙になんの益があったか?
また行けばとて格別変化があったか?
いったい何のためにこうして来たり去るのか、
この耳に説きあかしてくれた人があったか?



 ただ、この世界につれ出されて、意味もわからず、またそのままでこの世界を去る。人生の無意味さ、わからなさが、短い詩だけど、語られていて、共感の思いにつつまれる。

 母から生まれなかったほうがよかったとも嘆く。どうせなにも残せないなら。なぜ連れて来たのか、それすらもだれも答えてくれない。

 この世の真相もわからず、影のような人生も、水の泡のようにあっという間だ。オマル・ハイヤームは学者であったというから、真相を究明しようとした人生の焦燥もふくまれるのだろう。

九重の空のひろがりは虚無だ!
地の上の形もすべて虚無だ!
たのしもうよ、生滅の宿にいる身だ、
ああ、一瞬のこの命とて虚無だ!

戸惑うわれらをのせてはめぐる宇宙は、
たとえてみれば幻の走馬燈だ。
日の燈火を中にしてめぐるは空の舞台
われらはその上を走りすぎる影絵だ



 短い詩だから、このような引用に出会うより、本書で直接にあたってほしいので、引用は少なめにしたほうがいいのだろう。

 ただただ、人生の無意味さ、わからなさ、はかなさに共感するしかないのだが、このような嘆きを読むことにどんな効用があるのだろうと思う。

 「メメント・モリ」――死を思えのような効用があるのだろうか。オマル・ハイヤームは酒をのんでたのしめと、これは酒の広告なのかと思うほど、酒をすすめるし、一瞬を生きろともいう。刹那主義や享楽主義に傾いている。

 現世を否定して、宗教に望みを託せというわけでもなく、地獄や天国から帰ってきた人はひとりでもいるのかと問う。ひじょうに唯物論的であって、現代人の感覚に近いといえる。唯物論では、この人生のはかなさを嘆くしかないのである。

 この自虐的な嘆きに笑うしかないのだが、これが効用かもしれないなと思う。言葉や思念で嘆くことの無意味さに、また連れ出してくれる。もう嘆いても仕方がない。思っても、考えても仕方がない。そういう境地に運んでくれるのではないかと思う。

 それは瞑想の境地に近いものだ。言葉や思念の力を信用せず、いっさい捨てさせる。ただ「あるがまま」に身を添えるように、たんたんと過ごしてゆく。嘆きは嘆きを継続させるのではなく、嘆きを浄化させる。言葉や思念の消えたところに、もはや嘆きも悲しみもない。この『ルバイヤート』はそういう境地に連れていってくれるのかもしれない。


ルバーイヤート (平凡社ライブラリー679)ルバイヤートの謎 ペルシア詩が誘う考古の世界 (集英社新書)アラブ飲酒詩選 (岩波文庫)サマルカンド年代記―『ルバイヤート』秘本を求めて (ちくま学芸文庫)ルバイヤート集成


10 12
2018

幻想現実論再読

過去とはなにか――『大森荘蔵セレクション 』



 大森荘蔵は、「過去の制作」や「過去の想起」、「時は流れず」といった時間論に興味あったのだが、大半は認識論や心身論といったもので、難解で頭に入ってこず、ほとんどつかめたとはいいがたい。

 自著の電子書籍化に手こずって、読書がおろそかになったこともあるけど、そうでなくても、むずかしいのだろうな。文章の流れはいいし、論理文脈はたどりやすいほうだと思うが、なにか頭に入ってこない話になりやすいんだな。哲学の認識論の主流的なことを語っていると思うのだけど、私にはこのジャンルはニガテ。

 わたしは自分の時間論は自分なりに固まっており、拙著『思考を捨てる安らかさ』にも書いたのだが、自分の論を検証するために読んだようなところがあったが、ぎゃくに跳ね返されたな。

 大森壮蔵は、過去は制作されるものであり、過去の想起には、日付や消印のようなものがついておらず、どうやって何年前とかその心象から気づけるのかといっているし、「時は流れる」という観念自体が、人類の大きな錯誤だと確信を得るにいたったとか、いっている。

 つまり、わたしたちが空間的に捉えるような過去や時間はない、ということだ。なにかわたしたちが捉える時間というのは、いくつもの壁を重ねて、それが順送りに継続しているように思われているが、過去というのは、知覚と異なった新たな虚想のようなものだと。

 わたしは、過去はその瞬間に消滅し、過去はもうフィクションや想像の次元になるものだと思っている。存在しなくなったという意味では、過去はもうこの地球上のどこにも存在しなくなるのだから、「絵空事」の次元になってしまう。

 わたしたちは過去の実在を強く信じているのだが、それはどのように存在しているのだろうか。現実にはなく、心象や記憶としか実在しないのなら、それはもうフィクションと想像の次元と変わりない。このあり方は、映画や小説のあり方と似ていて、フィクションはまったく実在しないものなのに、まるで実在しているかのように泣き笑いできる。われわれの認識とは、たいがいはフィクションの次元に零落するもので、構成されている。

 過去がこんな陽炎で、幻のような存在であることに気づければ、わたしたちを悩ます過去の後悔や悲しみ、恐れといったものも、手放すのが容易になる。それが、わたしの追究したい時間論なのである。

 大森荘蔵はこれと似たようなことを語っていて、検証するために本書を手にとったのだが、大半はむずかしい哲学論理のベールにへだてられて、届かなかった。


時は流れず時間と自我天地有情の哲学―大森荘蔵と森有正 (ちくま学芸文庫)生き生きした過去: 大森荘蔵の時間論、その批判的解読思考を捨てる安らかさ

プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

 

twitterはこちら→ueshinzz

google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
FC2カウンター

Page Top