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10 20
2017

幻想現実論再読

禅のラディカルさ――『世界の名著 18  禅語録』  柳田 聖山 編集

41M-FKHn-nL__SX331_BO1,204,203,200_世界の名著 18  禅語録 (中公バックス)
柳田 聖山 責任編集
中央公論新社 1978-08

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 禅というのは、いちばんラディカルである。

 言葉や観念、概念を否定する急先鋒である。さらにはみずからの言説、理論さえ蹴とばしてしまうのだから、支離滅裂、どなる、なぐるのパワハラ道場になってしまって、大半はわからない。

 たまにマジメに理論的に語る言説によって理解をようやく手にするのだが、それすらも蹴とばさなければならない。

 禅の古典というのは、現代人はどれだけ知っているのだろう。岩波文庫で『臨済録』や『無門関』が出ているのだから、これくらいか。あと、道元の『正法眼蔵』とか。

 中公バックスは禅の古典を現代語訳でまとめてくれているのだから、ありがたい。ここで収められているのは、『菩提達磨無神論』、『六祖壇経』、『臨済録』、『洞山録』、『祖堂集』である。

 『菩提達磨無神論』は、ただ心がないということをいっていて、意外にあっさりしたものだった。でもこれこそが人が捉えがたいものであり、見過ごしてしまうものだからね。

 『臨済録』はワケのわからない禅問答が多くて、どなる、なぐるのパワハラ道場のオンパレードなのだけど、大マジメに理論を説く章は、たいへんに感銘させられるものであった。でも、この理論も蹴とばさなければならないのだけどね。

「世間でも出世間でも、いっさいの存在は、実体もなければ、また生ずることもない。すべて空しい名称にすぎず、名称もまた空しい。君たちは、そんなつまらぬ名称を固定化して実在だと考えこむ。とんでもない心得違いだ」



 これが基本の基本であって、これをつかまないと、禅の意味はつかめない。

「仏が語った十二種の経典は、すべて表むきの説明にすぎないのに、学生たちは知らないで、表むきの名目について分別を起す。いずれも仮りものにすぎず、因果関係におちこんで、三つの迷いの世界に生まれたり死んだりすることを避けられない。

三つの方便や十二種の経典にしたところで、すべて糞ふき紙にすぎぬ。仏は幻想であり、祖師はおいぼれ坊主である。君たちは、いったい母の胎から生まれたのか。君たちが仏を探すなら、すぐに仏という魔につかまってしまう。君たちが祖師を探すなら、すぐに祖師という魔のとりこになる。君たちは何かものを探すなら、すべて苦しい」



 禅は、聖なる経典や権威ある知識さえも、蹴とばしてしまう。おとしめる。理論の固定化が、また真実にふれることを妨げるからである。禅は、理論を立てては、その積み木を崩さなければ、真実に出会えない。だから、つぎのような宗教や権威とはまさに逆の、過激な言葉が生まれる。惚れ惚れする。

「仏に出会ったら仏を斬りすて、祖師に出会ったら祖師を斬りすて、羅漢に出会ったら羅漢を斬りすて、父母に出会ったら父母を斬りすて、親族に出会ったら親族を斬りすてて、君ははじめて解放される」



 わたしたちの学校や権威の社会では、権威や教師を蹴とばせという言葉を聞くことはほぼないのではないだろうか。禅をつかむには、権威の固定化につかまらないことが、基本の基本なのである。

「真の仏は姿がなく、真の存在は特徴をもたない。君たちは、幻想のまわりに恰好をつけてばかりいるが、たとえ何かを捉えても、すべて老狐の精にすぎぬ。断じて真の仏ではない。外道の考えにほかならぬ。およし真実に道を学ぶものは、けっして仏をもちあげないし、ボサツや羅漢をもちあげない。三つの迷いの世界の中の功徳をもちあげることもない。

あらゆる存在は固形の形をもたず、動いているときは存在するが、動かないときは何も無い、三つの迷いの世界は単なる心の変化にすぎず、あらゆる存在は単なる意識にほからなぬからである。『夢と幻覚のあだ花を、何でわざわざつかめることがあろう』」



 禅は、言語や概念の無化をいちばんラディカルにつきつめた流れだろう。権威や理論さえ、おとしめる。言語の固形化をそこまで警戒して、言葉の積木はゆるされない。

 しかし、禅問答はなにをいっているか、とんとわからない。さいしょは言葉と理論によって説かないと、なにもつかめない。なにもつかめないまま、ひたすら言葉の否定をされても、なにもつかめないと思うのだが。理論である程度、高いところに行かないと、禅の効用なんてないのではないか、とわたしは思うのだけどね。

 『祖堂集』は禅僧の列伝で、釈迦も説かれているのだが、神格化がはなはだしく、臨済のような仏を斬り捨てろという立場ほどラディカルではない。ここに出てくる禅僧は、だいたいは6世紀から9世紀にかけての人が多いのだが、禅はそんなむかしから、ずいぶんとラディカルなことをいっていたんだなと思う。

 そのラディカルさが途絶えて、現代の世の中は言語と理論のもちあげが最上級にいたっており、迷妄の世界にまたはまってしまっているのは、どういうことか。


臨済録 (岩波文庫)無門関 (岩波文庫)碧巌録〈上〉 (岩波文庫)禅と日本文化 (岩波新書)六祖壇経 (タチバナ教養文庫)


10 14
2017

幻想現実論再読

無と恐れ――『般若心経』 バグワン・シュリ・ラジニーシ

4839700079般若心経
―バグワン・シュリ・ラジニーシ、色即是空を語る

バグワン・シュリ・ラジニーシ
めるくまーる 1993-08

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 ラジニーシは段階的にしかわからないのだと思う。

 わたしのばあい、さいしょ読んだときは西洋哲学ばかり読んでいる中で手を伸ばして、ほとんどいっていることをつかめなかったと思う。つぎに思考の弊害や害悪に気づいて、思考を捨てることの知識に熱中した。

 こんかい、この本を再読するにあたって、「無」という言葉がいちばん響いてきた。

 思考を捨てるということはまだ思考の力が強く、抵抗しなければ抗せない状態である。しかし、いまは思考の虚構性や非実在性をより実感している。そういう中では、無が実在であるという言葉がいちばん刺さってくる。

「われわれは無から出現し
われわれは無であり
われわれは無の中に消え去ってゆく」



 人間が無であるというのは、なかなかつかみがたい。しかし言葉や思考は「あること」、「実在」の世界の夢の中に生きている。頭の中で描いたに過ぎない思考や心象を、実在のものと思い込んでいる。しかし、そんなものは「実在しない」のだ。それを実感できれば、われわれは無であるという宣言が、胸に迫ってくる。

 人はふつう、なんで肉体や物体が満ちあふれたこの世の中や自分が、どうして無なのかと思うだろう。「あること」「有」がとうぜんで、確実だと思う世界に生きている。わたしたちはこの思い込みをどうしても落とせない。

 時間や過去を見れば、いちばんよくわかるかもしれない。過去は瞬間ごとに消え去ってゆき、この地球上のどこにも存在しなくなる。しかし、わたしたちは過去を思い出しては、目の前にあるかのごとく、嘆いたり、悲しんだりできる。存在しないものに、感情するという状態は、いったいどういうことなんだろう?

 われわれは、実在しないもの、無のうえで、仮構の心象や思いによって感情を立ち上がらせているだけではないのか。それが幻影や幻想といっていいものなら、わたしたちは無のうえに立っているのではないのか。

 眠っているときも、われわれは無に帰す。あると思っていた心や言葉も、無のうえに立てられた幻想ではないのか。われわれはずいぶんと無に親しい。

「この<無>こそまさに中核、ハートだ
あなたの実存のハートそのものなのだ

死とはあなたがそれでできているまさにその実体だ
<無>こそまさにあなたの実存なのだ」



 わたしたちは死を恐れる。自分に無に帰してしまうことを恐れる。自分の一生がなんの価値も証ものこさずに、無に帰すことを恐れる。そうして、価値や意味を打ち立てようとする。

 しかし、その価値や意味は、言葉や思考で打ち立てられた幻想ではなかったのか。わたしたちは、幻想で人生の価値を打ち立てようとして、そして無から遠ざかり、目をそむけようとするのではないのか。

 これは、恐怖症のメカニズムと同じである。恐ろしいから目をそむけ、回避し、逃れようとする。そうすれば、もっと恐くなり、しまいにはあらゆることを恐れるようになって、家からも出られなくなる。

 回避が恐ろしさをつくる。だから、認知行動療法や暴露療法では、恐さに直接向かってゆき、恐怖が幻想であることの実感をつかまなければならない。

 だけど、当の本人にとっては、恐怖は実体のありありとある現実である。恐怖なんか逃れようがないと思って、恐怖を避けつづける。身体が恐がること、回路づけられた恐怖を回避することに夢中になってしまって、その体験がピークを越えるとしぜんに収まってゆく体内活動であることに思いもいたらない。

 われわれは無を恐れて、言語や思考で幻想の回避をしつづける存在ではないのだろうか。無を回避したいから、言葉や思考の煙幕で無をふさいだつもりになっている。有しか見ない。幻想や無であることに目をつぶりたい。

 われわれは、「実在論者」になることによって、この世の無から目をそむけたい。実在論者になることによって、恐怖や感情の実在を信じ、その牢獄から逃れられない。感情や心象が実在しないという実態から、目をそむけたいのである。

 そうして、われわれは感情のジェットコースターやメロドラマの白昼夢にひたりつづけ、幻想の中で生きることになる。

 人間は認識の錯覚におちいっていると思う。正視したくないのは、無を恐れるからだ。人生の価値や有意義を打ち立てたい人は、とうぜんにこの無の教えを嫌悪するだろう。無は人生の虚無であり、空しさなのである。


 ラジニーシはたくさんの本が出ていて、どれが代表作や主著とよべるのか、わたしにはよくわからない。『存在の詩』がさいしょに紹介された著名な書物になっている以外、どれがおすすめされているのか、わからない。

 だいたいは、経典や人物に的を絞った講和集が出されている。そのとりあげた題材の重要度にしたがえば、いいのだろうか。

 ラジニーシはたとえが多く、話は長く、冗長である。簡潔に簡明にというわけにはいかない。やさしい言葉で語りかけているとはいえる。

 この人はどうして簡明で体系的な著作を書かなかったのだろう。禅のような生や人物同士のライブこそが実在という思想があるからなのだろうか。主著や代表作とよばれるものがあれば、的をしぼって読みやすかったのにね。


存在の詩 和尚 OSHOTAO―老子の道〈上〉隠された神秘究極の旅―和尚、禅の十牛図を語る覚醒の深みへ―和尚 講話録 (タントラ秘法の書)


10 07
2017

幻想現実論再読

実在性のベクトルが違うのかもね――『実在と現実』 山本 幾生

4873544149実在と現実
―リアリティの消尽点へ向けて

山本 幾生
関西大学出版部 2005-04

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 わたしとしては、実在しないことの感覚をもっとつかみたい。そのことによって、思考や感情、存在の威力がなくなってゆき、安らぎの境地に入れると思うからだ。

 東洋哲学がこのような考えをたくさんもっているのだが、西洋哲学の精緻で論理的な思考が、その理解をもっと助けることがある。

 わたしたちは言葉や思考、感情が実在していて、リアルであるという感覚を当たり前のものとして日々を暮らしていると思う。それらが実在しているのかと、いっときも疑問に思うことがない。そのことによって、東洋哲学では、偽りで虚偽の苦悩や苦痛を抱えることになっていると告げる。

 わたしたちの現実というのは、心象や言葉、思考によって組み立てられている。しかし、言葉や思考が頭の外にあるのを見たことがないし、それらは頭の外には出ない。頭の中に存在しているのは、霞のような心象や言葉ではないのか。物体として存在するわけではないし、ほかのことに気をとられると存在しなくなっているし、意識するまでは存在しない。

 わたしたちは、その言葉や思考で捉える現実というものを、リアルに厳然と存在していると信じ込んでいるのだが、じつはもっとはかない、危うい存在を実在していると信じ込んでいるだけではないのか。

 そういった考えの確証をめざしているのだが、この本は西洋哲学の流れによって、実在と現実の問題について論じる。おもにショーペンハウアー、ディルタイ、シェーラー、ハイデガーといった哲学者の思索をなぞりながら、問題の検証をおこなってゆく。

 難解すぎて、わたしには服の上からかゆみをかいているようなもどかしさをずっと感じつづける読書になったのだが、どうも西洋哲学はこの世は幻想であっては困る、意地でも実在の確証を求めたいかのようで、わたしのような非実在の確証を得たい者とは、ベクトルが違うようだ。

 処世訓のファンであるショーペンハウアーのこんな言説は、なにをいっているのか、さっぱりわからない。

 「物質は、意志が単に可視的になった姿である」。「意志が客体的表象という形式を取るかぎり」、「物質は意志そのものである」

 意志というのは、たんに意識や思考の意向のことではないのか。それが物質だとかいいだす。意志というのは、物体の確実性から遠く離れたものに思えるのだが、ショーペンハウアーは意志を確実なものと見なしたいようだ。

 「もし世界が表象にすぎないのであれば、世界は空虚な夢や幽霊の幻影のようにわれわれの傍らを次々に移り行くものにすぎず、考察に値しないことになる」

 世界が表象なら考察しないという態度は、なんなのだろう。

 デカルトの思考が存在の証明のような言説すら、東洋哲学の常識から考えて、どうやって打ち立てられたのかまったくわからない。とにかく、西洋哲学は思考であれ、意識であれ、実在していることの確実性を打ち立てた世界をお望みのようである。

 そういった意味で、思考や心象が実在しないと見る立場のわたしには、この西洋哲学の主流の考えが、どうも土台から違っているとして、感覚をつかめるものにならない。数学のように存在しないものの概念の証明を、西洋哲学は架空の空でやっているような感じがする。

 ということで、つづくディルタイやハイデガーの思想も、わたしのつかめるところにならなかった。

 わたしは、思考や心象が実在しない感覚をつかみたい。西洋哲学は実在している世界の確証を得たい。わたしはこの世界が幻影やマボロシであるほうが、安らかさを手に入れられると思っている。

 強化と破壊では、ベクトルが違いすぎる。そのことによって、理解は離れてゆくのではないかと思う。


現実と落着―無のリアリティへ向けて君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか―哲学的懐疑論の意義 (現代哲学への招待Great Works)現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった2つの違い実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)実在論と理性


10 01
2017

幻想現実論再読

ありえた過去=思考の囚人――『時間ループ物語論』 浅羽 通明

4800300185時間ループ物語論
浅羽 通明
洋泉社 2012-10-25

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 わたしたちはなぜタイムリープ物語や時間ループ物語が好きなんでしょうかね。

 発売されたときから気になっていた本で、2012年に出されているが、ようやく読む機会を得た。

 ここで時間ループ物語というのは、同じ時間をくりかえす『恋はデジャ・ブ』や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』や『涼宮ハルヒの憂鬱 エンドレスエイト』、『リプレイ』などの作品で、過去に帰る物語として、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『ターミネーター』、『時をかける少女』、『戦国自衛隊』などは対象ではない。

 ありとあらゆる時間ループ物語がとりあげられていて、見てない読んでない作品もたくさんあると思うので、あらすじを読むだけでは楽しめますよね。

 この考察が出色なのは、さいきんの作品だけではなく、同じ過去をループした物語の起源や古典を探ったことだと思う。『ファウスト』や輪廻転生、民話や浦島太郎、シジフォスの神話まで考察をひろげて、同じような思考の類型をもとめてゆく。

 最後の章のほうに、漱石の高等遊民論が出てくるので、同じ時間がえいえいとくりかえされるのは、直線的に成長してきた時間が終わり、成長も目的もなくなった「終わりなき日常」のような円環的時間に閉じ込められている気持ちがひろがってきたからだと見る。

 これはモラトリアム論やニート、ひきこもりのような近代的成長の拒否や逃避だという結論がみちびきだされたのだろうね。漱石の主人公たちは、恋が成就して生産や責任の重荷から逃避しようとしている。近代的成熟の拒否や逃避が、時間リープ物語に希求されているのかもね。

 わたしとしては、思考や回想はいくらでも過去に帰られるが、この世界は時間の一方向の流れから逃れられない、思考のあがきに思えるのだが。過去は頭のなかではいくらでもああでもない、こうでもないと可能性やありえた選択を思考できる。しかしこの世界の時間性からは絶対に逃れられない。思考は永遠に後悔や悔恨をループしつづけるが、現実の世界は時間性から絶対に逃れられない。わたしたちは、思考の牢獄に閉じ込められているだけなのかもしれない。

 「デス博士の島その他の物語」というジーン・ウルフの作品のなかで、デス博士は主人公にこういう。「だけど、本を最初から読み始めれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも獣人も」「きみだってそうなんだ。タッキー。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」

 物語は、読みかえすたびに、現在に生起する。これは過去だって、そうではないでしょうか。過去は思い出すごとに現在に甦り、わたしたちにあたかも現前にくりかえされているごとくに、悲しんだり、嘆いたりする。過去は、現在に生起する。

 しかし、それは現実にあるかのように見えて、過去の終わったことである。わたしたちは、幻やイリュージョンを現在あるかのごとく捉えて、感情することができる。過去のこのような認識のありかたは、そのまま物語の読解能力と重なる。

 つまりは、存在しない過去=創作物語を、現実に存在するかのように感情することができる。わたしたちは、こうやって存在しないものを現実に目の前にあるかのごとく思う認識能力をもっていて、そんなものはどこにも存在しないのではないでしょうか。

 わたしたちは過去の後悔や悔恨をかかえて、いくらでも過去を思い出し、くりかえし再現できることができる。でもほんとうは、そんなものは、もうどこにも存在しないのではないでしょうか。

 わたしたちは、存在しないものをいくらでも現在に生起させて、身悶えしているだけではないでしょうか。わたしたちは、存在しない思考というものの可能性や想像力の牢獄に閉じ込められているだけではないでしょうか。

 禅や神秘思想のように、無思考、無思量という選択肢を、われわれはとりえない。そのことによって、思考の無限ループにわれわれは囚われているのではないでしょうか。


▼著者が参考にしたサイトです。
 古今東西時間ループもの一覧 サイコドクターぶらり旅

恋はデジャ・ブ (字幕版)うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー [DVD]リプレイ (新潮文庫)涼宮ハルヒの憂鬱(2009年放送版)秋の牢獄 (角川ホラー文庫)宵山万華鏡 (集英社文庫)ファウスト〈1〉 (新潮文庫)それから・門 (文春文庫)時間の比較社会学 (岩波現代文庫)


09 24
2017

幻想現実論再読

学びはなかった――『スーフィー』 イドリース・シャー

4336042659スーフィー
―西欧と極東にかくされたイスラームの神秘

イドリース・シャー
Idries Shah
国書刊行会 2000-08-01

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 500ページほどの大部の著で、6264円もするがっしりとした単行本で、図書館で借りなければとても読めた本ではなかったが、わたし的には思想や内容を語った本ではなく、歴史や経緯の外側ばかり語っていて、ほとんど知りたい思想が読めた本ではなかった。

 スーフィーの歴史を語った本といったらいいのか、思想ではない。ゆえに内容については、ほぼ学べず、わたし的には役に立たない本で、ムダな読書の部類に属する。

 難解な本ではないと思うのだが、別にそういう話を聞きたいわけでもない話がずっとつづく感じ。なにを語っていたのか、外側ばかりで思想の内実をちっとも提示してくれない。

 ここでは、ナスルッディーンやアッタール、ルーミー、イブン・アラビー、ガザーリー、果てはアッシジの聖フレンチェスコまで語られるのだが、思想の内容ではない。

 アン・バンクロフトの『20世紀の神秘思想家たち』という本は、思想の内容をしっかりと語ってくれて、読みたい神秘家を指南してくれる本だったが、この本はまったくそうではなかった。虚仮脅しの本である。

 神秘思想を読むのに、日本には禅や仏教があるわけだが、日本のばあいは古くさい言葉や道徳を説かれている気がして、つい敬遠してしまう。だから、説明が現代的で詳細な世界の神秘思想に学びを求めたくなる。世界の神秘思想は、ぜんぶ同じ悟りや意識状態を語っていたと、わたしは思っている。

 六千円もかけて読もうかと迷っている人は、考えてほしい書物である。装丁ががっしりしていて、大部で、書棚の飾りにはなる書物ではあるが。



スーフィーの物語―ダルヴィーシュの伝承 (mind books)イスラムの神秘主義―スーフィズム入門 (平凡社ライブラリー)ラスト・バリア―スーフィーの教えイスラーム神秘主義聖者列伝20世紀の神秘思想家たち―アイデンティティの探求 (Mind books)


09 19
2017

幻想現実論再読

頭に入ってこなかった――『世界はなぜ「ある」のか?』 ジム・ホルト

4150504806世界はなぜ「ある」のか?
:「究極のなぜ?」を追う哲学の旅
(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ジム・ ホルト
早川書房 2016-11-22

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 膜を張ったように頭に入ってこなかったのだが、宇宙論や物理学に傾いた探求だったからだろうか。したがって、この本の内容については言及できない。

 哲学者の議論もないわけではないが、問いたいことはそんなことじゃないのか、あるいは思考が働かないのか、頭に入ってこない。

 わたしは神秘主義的な探求の中でこの本を手にとり、どちらかというと言語や観念が実在しないことの実感を強めるために、読みたかった。そういう要請から読んだので、ひたらす外しつづけたのかもしれない。

 「この世界はなぜあるのか?」と疑問に思ったことはあるだろうか。わたしは、夕方に昼寝がめざめたりしたら、「この世界があるのが不思議だなあ」と思うことがある。昼か夜かわからない準拠枠が壊れたとき、そういった思いにとらわれやすい。

 「世界はなぜあるのか」という問いは、あるていど、自分の価値や存在意義が揺らぎ、それをたしかめたいときに問われるのではないだろうか。心理学的・価値論的な問いではないだろうか。

 「わたしの生きている価値はなんなのか」、「生きている証をのこしたい」といった自分の存在の価値を問うための疑問に思える。世界が存在する問いは、自分が存在することの価値への疑問である。そういった意味で、この問いは心理学的回答が求められるべきではないだろうか。

 宇宙がどのようにしてできあがったのか、宇宙はどのように存在しているのかを知りたいのではない。

 しかし宗教のような生きている意義が与えられるのも、また違うように思う。それはあまりにも人間的、人工的な回答に陥りがちだからである。生きている意義を問うと、人間の存在の意義の枠にはまってしまう。そして、またつっ返される。

 この問いは無とはなにかといった問いもふくんでおり、それは死ぬとはどういうことかという問いになるのだが、死を問えば、また違った問題をめぐることになる。

 人の頭ではこの世界が存在することの謎は理解できないのだろうか。まあ、この件に関してはわたしの頭が働かない。


▼wikipediaの説明がひじょうに詳細です。ライプニッツ、カント、ベルクソン。。
 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか


この世はなぜあるのか - 哲学の科学? (MyISBN - デザインエッグ社)〈在る〉ことの不思議私の生きた証はどこにあるのか――大人のための人生論 (岩波現代文庫)どこでもないところからの眺め考えることを考える〈上〉

09 14
2017

幻想現実論再読

心は実在しないと見なしたほうが、人生ラクになれる

 心は実在しないという見方は、たいがいの人にはありえない話だと思えるのだろうが、心が鎮まってゆくと、おおくの悩みや苦痛も薄れてゆく。なぜそんな喧騒を好んでいたのか笑えるくらい、遠くに退く。

 わたしたちは泣いたり、笑ったり、感動したり、心を波乱万丈にはためかせることを、すばらしい人生やよい人生だと思っている。

 ぎゃくに心が静かになり、なにも感情的に思わないことは、ロボットのような人生だ、非人間的な人生だと思っている。

 そのために、悲しんだり、苦しんだりする人生をも、追加的に味わうようになってしまっている。

 思考を捨てたり、心や自我を捨てることを仏教や禅は説くのだが、まずはこの人生観の違いから、思考を捨てることの忌避感がつきまとう。

 思考を捨てることは、ロボットのように権力に服従することであり、ケモノのように野蛮になることであり、おおよそ創造的に開花的に生きる人生からかけ離れることだと、われわれの文明からは教えられる。

 そのことによって、われわれの頭からしじゅう考えつづける思考の連鎖は止まることはないし、悲しみや恐れのジェットコースターのような波乱万丈の感情噴出を味わうし、ときには悲観やうつ感情から離れられないうつ病に落ち込むことだってありうる。

 わたしたちの社会は、思考や感情の賛美をしすぎて、その悪弊や欠陥に目を向けない。そうして、ひとりひとりうつ病のエアポケットに落ちてゆく。

 わたしたちの社会は思考や心の実在を信じる一派であり、仏教や禅が説いてきたことは、思考や心が実在しないことを信じてきた一派である。

 心というのは、身体もそうであるように、意識したら存在しているように思われて、意識していないときは身体の感覚はまったくなくなっている。意識がその存在を創出する。心もそのような性質をもっていて、言葉や思考の力を信じる現代社会は、ずっと思考や心の実在を感じる立場にあることになる。

 心や思考というのは、考えたり、思い出したりすると、現実にあるかのように現出するのだが、それを考えていないときは、どこにも存在しない。心というのは、考えないときには存在していないのである。

 だから、わたしたちが悩んだり、過去を思い出して苦しんだりしているとき、心の創出機能を使って、自ら苦しむ機会をつくりだしていることになる。

 わざわざ自分から苦しむ機会をつくりだしているのだが、心や思考の実在を信じる立場の人は、心の不在の時期を知らない。そのことによって、いつまでも、四六時中、考えることによって苦しみをつくる。心が実在しないと思えない人には、考えた対象はずっと存在することになっているからだ。

 思考や回想というのは、自分の意志とかかわりなく、自分の頭の中に噴出しつづけるものである。わたしたちは、思考を捨てるという選択肢を知らないために、その思考や回想にとび乗りつづける。そして苦しみや不安、悲しみを味わいつづけることになってしまう。

 禅や仏教の瞑想が教えることは、この思考にとび乗る習慣の鎖を断ち切ることである。自動的に習慣的になっている思考の噴出や飛び乗りから距離をおいて、それを流れるままにする訓練である。それが習慣になると、思考は収まってゆく。

 しかしそんなメソッドを知らない人は、頭が湧き出しつづける思考や回想の波に乗りつづけて、その悲観や苦痛のヴィジョンにずっと翻弄されつづけるのである。思考を賛美するわれわれの社会は、この心のカラクリを知らない。そして、多くの人が心の暴走によって、心の自虐装置に痛められてゆく。

 言葉や思考というのは、実在しないものを実在すると見なすひとつの考え方である。思ったり、考えたことが実在すると見なしたほうが、社会機能上には便利に適応できる。

 しかし、言葉というのは、自分の頭の外のどこに存在するのだろうか。あなたが考えたり、思ったりすることは、頭の外のどこに存在するのだろうか。一度だって、実体を見たことがあるだろうか。

 言葉というのは、目の前にないものを、あたかも目の前にあるかのように錯覚させる想像力の道具である。言葉は目の前にないものをあらわす単なる想像力である。そして、想像力は現実には存在しない。

 いちばん大事な根本の原理を忘れて、言葉で話したことが、現実に目の前に存在するかのように思い込む能力に長けたのが、わたしたちである。

 そして、同じように過去も、この地球上から永久に消え去ってしまった。だけど、わたしたちは過去を思い出して、現実に目の前にあるかのように泣いたり、悔いたり、悲しんだりできる。それは、いまどこにいったのか。いま、存在するのか。もはやどこにも存在しなくなった、ただの心象、心のイメージにすぎないのではないか。どこに実体として存在するというのだろう?

 わたしたちは、過去や言葉、思考が実在するという思いにどっぷりと浸かっている。それがどこにも実在しないではないか、という疑惑をひとつもはさまずに、存在しないものの白日夢、夢に浸りきっている。

 しかも時間はこの瞬間ごとに過ぎ去ってゆく、このいまの瞬間も永遠の奈落の底に消え去ってゆく。わたしたちの実在は、この一瞬だけであり、その一瞬でさえ、この瞬間に消え去ってゆく。わたしたちは、ほんとうに実在しているといえるのだろうか。

 わたしたちは、ずいぶんと実在しない世界に片足をつっこんでいる。そして、それを補うための言葉や記憶といったものが、実在する現実にあるものと錯覚して暮らしている。

 心や思考が実在すると思い込むと、思ったり考えりしたことの苦痛や恐れ、不安などをたっぷりと味わうことになる。しかし、それが実在しないと見なすようになると、思考や回想のヴィジョンは、強い力をもちえない。なぜなら、それはどこにも実在しない架空や絵空事だと知っているからだ。

 わたしたちは、夢を見ている。実在しないものを現実に実在すると見なす言葉や記憶力によって、実在しない幻に泣いたり、笑ったりする感情の荒波のあいだを泳いでいる。

 心が実在しないと見なすことは、これら心が出してきた思考や回想に乗らないことである。現実に存在しないと見なすことである。現実に存在しないものになぜ泣いたり、悲しんだり、恐れたりするのだろう?

 実在しないものに感情を煩わされる必要はないし、心が実在しないと見なすと思考の噴出もおとなしくなってゆく。相手にすれば思考は増長し、相手にしなければ収まって、静かになってゆく。心のそんなカラクリさえ、わたしたちは知らない。

 どうでしょうか? 心を実在しないと見なしたほうが、人生の苦痛や不安から解放されると思いませんか? 心を実在すると見なすと、われわれは人生の両手いっぱいの不幸や苦痛をもたされることになります。

 わたしたちは、なにを苦しんできたのでしょうかね。


09 09
2017

幻想現実論再読

「ミクロの尺取虫」――『非神秘主義』 上田 閑照

4006001827哲学コレクション〈4〉非神秘主義
―禅とエックハルト (岩波現代文庫)

上田 閑照
岩波書店 2008-04-16

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 上田閑照という人は、まえに一冊読んでわからないなという読後がのこったのだが、こんかい読んでみて、まあ、わたしには深くつきあう気はない人だという評価に落ちつきそうだ。

 細かくて、繊細で、微細な世界をえんえんと何ページにもわたって語りつづけて、もういい加減倦む。

 「ミクロの決死圏」というか、「ミクロの尺取虫」みたいな話がえんえんとつづく。

 京大のえらい人なのか、「一、二行でまとめてみよ」とだれからもいってもらえなかったのか、冗長な、なにが異なるかわからない話をえいえいと選り分けてゆくのだが、もうつきあう気をなくす。

 道元のテクスト解釈なんかその最たるもので、なにが重要かわからないテクストの違いを語りつづけて読み飛ばしたが、この人は禅者ではなくて、重箱の隅をつつくような学者なのだろうね。

 禅問答の「達磨はなぜ中国からきたか」という僧の問いに対して、師の「庭さきの柏の樹」という答えにさいして、無の境地がわかるようになるためだのようなことをいった解釈は参照になるのだが、いかんせん長すぎる。

 「非神秘主義」というのは、神秘主義というのは神との合一にとどまるのだが、禅はその地点から日常の世界にもどってくるから、非神秘主義だといいたいらしいのだが、長すぎてつきあう気が失せる。

 「ことばの実存」というタイトルの本を出していて、ずいぶん気になるタイトルだが、この人にはつきあいきれないかもしれないな。

 岩波現代文庫から哲学コレクションが出ているが、いっぱんの読者にわかりやすく、伝わるように書こうと努力していないような本は読まれるのだろうか。心が汚れるような文句ばっかりいって、ごめんね。


ことばの実存―禅と文学私とは何か (岩波新書 新赤版 (664))哲学コレクション〈3〉言葉 (岩波現代文庫)哲学コレクション〈2〉経験と場所 (岩波現代文庫)神の慰めの書 (講談社学術文庫)


09 07
2017

幻想現実論再読

まずは言語的懐疑から――『コスモスとアンチコスモス』 井筒俊彦

4766420799コスモスとアンチコスモス
一九八五年 ― 一九八九年(講演音声CD付き)
(井筒俊彦全集 第九巻)

井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会 2015-02-17

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 神秘思想をイスラームなどの世界的視野で読み込み、学問的水準で読み解き、また言語的フィルターに懐疑のまなざしを向けつづけた人は井筒俊彦しかいないと思って、拾うように全集も読もうかと思っているのだが、言葉使いがむずかしいこともあって、あまり得るところがなかったかな。

 この人はこんにち的な文脈でいえば、スピリチュアリストとよばれてもおかしくない神秘主義者なのであるが、岩波文庫に『意識と本質』が収録されているように、学問的にも認められているようである。

 岩波文庫は世界の宗教書や、禅の西洋的解釈の西田幾多郎の本も収録しているように、宗教にかんしては、寛容のようである。学校やテレビのように、科学対宗教のたんじゅんな二元論に落とし込まない。

 神秘思想は、神や超越者との合一を説くのだが、その以前に言語的懐疑が貫いている。言語というフィルターを外した世界はどのようなものか、また言語がつくりだす人間の苦悩といったものが実在しないのではないかといった人間の根源のありかたを問う。

 われわれは言語というフィルター、道具を無自覚に使うために、さまざまな苦悩をわざわざ「創作」して、それを「実在」のものとカンチガイしているだけではないのか。

 そういった言語使用の過ちや錯誤を指摘しているのは、神秘思想だけである。神との合一といった怪しげなものは、脇においておくほど、神秘思想は重要な人間の根源的なありかたを問うているのだと思う。

 この本に収録されている論文の中でいちばん気になったのは、「創造不断」という章だが、ちょっと言葉がむずかしすぎて、深くつかめたとはいいがたいのがおしい。

「いつでも、永遠不断に、時は「現在」として熟成し、その度ごとに存在が新しく生起していくのだ。瞬間ごとに新しく生起する存在の連鎖は、切れ目のない時間の連続体を構成しない。一つの現在が次の瞬間に、一つの存在生起が次の存在生起に移る、その移り目に、すべては、一度、無に没落しなければならないからだ。たとい、その無の間隙が、目にもとまらぬ速度で起るとしても、である。このような存在・時間の脈動するつながりを、イブヌ・ル・アラビーは「新しい創造」(「創造不断」)と呼ぶのである」



 存在が一瞬ごとに無になり、その無の中から一瞬にして新しく生成してくる。このような世界観、時間論を、井筒俊彦はイブヌ・ル・アラビー、道元の言葉を借りて、語るのである。わたしにはとうてい、つかみがたい。

 「コスモスとアンチコスモス」という論文は、1987年ころの現代思想のブームをとりこんだような言説で、丸山圭三郎の世界観と近いことを語っている。言語的秩序とその解体が現代思想的ブームの渦中にあった。

 ほかにサルトル哲学との出会いや、エリアーデ追悼の文などが興味をひいた。イスマイル派の暗殺団については当時の時事的状況だと思って、読み飛ばした。

 わたしは学問的探求より、この世界や自己のありようをもっとセラピー的な要素でくみとりたいので、たまに井筒俊彦の問題意識と重ならないなあと思うけど、図書館で全集を読めることもあって、つぎはどの本に手を伸ばそうか。


スーフィー―西欧と極東にかくされたイスラームの神秘ルーミー 愛の詩言葉とは何か (ちくま学芸文庫)存在認識の道―存在と本質について (1978年) (イスラーム古典叢書)井筒俊彦 (言語の根源と哲学の発生 増補新版)


09 04
2017

幻想現実論再読

実在しない世界のしっぺ返し――『不滅の意識』 ラマナ・マハルシ

4931449468不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話
ポール ブラントン  ムナガラ ヴェンカタラミア 記録
ナチュラルスピリット 2004-09-01

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 ニサルガダッタ・マハラジになんどか言及されていたので、二冊目のラマハ・マハルシ。

 悟った人にたいして、わたしは多くを理解できているわけではなく、おこがましいのだが、ラマナ・マハルシにたいしてはすこし物足りなさを感じる。切れ味や緻密さには欠けると思うのである。

 クリシュナムルティのような論理性、ケン・ウィルバーのようなどこまでも説明しようとする意志、ラジニーシのような広い知識、といったものと比べるとすこし遜色を感じる。まあ、悟っていない人間がなにいっているのかと思うが。

 ラマナ・マハルシは、言葉や想念の非実在性に気づきなさい、となんどもいう。これは、わたしもわかってきたことだ。人は頭で考えて、創作したことを実在のものと見なし、その「夢」の中で苦悩する。

「それ自体としては、われわれが「心」と呼ぶことのできる実体は存在しない。想念が生ずるがゆえに、われわれはそれから想念が生じてきた何ものかがあると想定し、そしてそれを心と名づける。それが何であるかを知ろうとわれわれが探るとき、そこには何もないことを発見する。心がそのように消え失せたあとに、永遠の平和が残る」



 われわれは、ずいぶんと騙されている。言葉や思考で考えたことが実在するものと思い込む。そして、目の前にないもの、過去として消滅したことを、現実に目の前に存在しているかのように、泣いたり、悲しんだりできる。でもそれは、どこにも実在しない。架空の、虚構の、フィクションの世界に騙されているのである。

 ラマナ・マハルシはそれを映画にたとえるが、言葉や観念はほんとうに映画だ。

「真我を実現した人は、あたかも普通の人びとが劇場でのスクリーン上のシーンや登場人物が架空のものであり、現実の生活の中に存在するものではないことを知っているように、世界の中での対象物や身体(人びと)が架空の外観であることを知りながら生活し仕事をする」



 この文章は、言葉や思考の世界と、知覚世界の混同をきたしそうだが、わたしが理解するところでは、言葉や思考の世界は実在しないといっているだけで、知覚世界にかんしての実在性は、わたしにはまだ解けない。言葉や観念の非実在性はわかる。だけど知覚世界の非実在性には、自信をもてない。

 「わたしは身体ではない」という言葉の意味ももうひとつわからない。

「誤りは、「私」は何かであるとか、「私」はそうではないと考えることの中にあるのです」



 われわれが意識する身体自身がすでに、想念や観念をふくむもの、観念で表象されたものであり、ゆえに実在しないものであるということなのだろうか。

 ラマナ・マハラシは努力や達成するものはなにもないと説く。

「何か達成されなければならないものは、実在ではなく、真実ではない。われわれはすでに実在であり、真実である。本当に得るべきものは何も存在しない。それは今、ここにある」



「あなたは誤った「私」を除去する必要はありません。どのようにして「私」が自分自身を除去することができるでしょうか。あなたがする必要のあるすべてのことは、その起源を見つけだし、そこにとどまることです。それはあなたの努力の及ぶことのできるところまでです。そうすれば、その先は、それ自身が面倒を見るでしょう」



 多くの人が陥っているのは、言葉や観念、わたしや感情が、物体のように実在すると思い、それをむりやり排除したり、除去しようとすることである。緊張を止めようとしたり、恐怖を止めようとしてもっと恐怖に追いつめられたり、われわれは非実在のものを実在すると思い込むがゆえに、幻想の除去で、よけいに自分を追いつめるのである。この経験は身に覚えがありませんか。

 われわれはあまりにも、非実在性という性質に思いをいたさせないために、言葉や観念を実在するものと思い込み、この世界の性質からしっぺ返しを食らっているとしかいいようがない。

 世界の実在性、あるいは非実在性の区別をつけられるようになったとき、わたしたちには安心の境地が広がるのではないだろうか。

 それにしても、この本は章ごとにラマナ・マハルシの腰布一着のハダカばかり写されているのだが、無一文や無所有を象徴するのかもしれないが、それは強調されることかと思うw



ラマナ・マハルシとの対話 第1巻あるがままに―ラマナ・マハルシの教えラマナ・マハルシの言葉アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話


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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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