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09 24
2017

幻想現実論再読

学びはなかった――『スーフィー』 イドリース・シャー

4336042659スーフィー
―西欧と極東にかくされたイスラームの神秘

イドリース・シャー
Idries Shah
国書刊行会 2000-08-01

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 500ページほどの大部の著で、6264円もするがっしりとした単行本で、図書館で借りなければとても読めた本ではなかったが、わたし的には思想や内容を語った本ではなく、歴史や経緯の外側ばかり語っていて、ほとんど知りたい思想が読めた本ではなかった。

 スーフィーの歴史を語った本といったらいいのか、思想ではない。ゆえに内容については、ほぼ学べず、わたし的には役に立たない本で、ムダな読書の部類に属する。

 難解な本ではないと思うのだが、別にそういう話を聞きたいわけでもない話がずっとつづく感じ。なにを語っていたのか、外側ばかりで思想の内実をちっとも提示してくれない。

 ここでは、ナスルッディーンやアッタール、ルーミー、イブン・アラビー、ガザーリー、果てはアッシジの聖フレンチェスコまで語られるのだが、思想の内容ではない。

 アン・バンクロフトの『20世紀の神秘思想家たち』という本は、思想の内容をしっかりと語ってくれて、読みたい神秘家を指南してくれる本だったが、この本はまったくそうではなかった。虚仮脅しの本である。

 神秘思想を読むのに、日本には禅や仏教があるわけだが、日本のばあいは古くさい言葉や道徳を説かれている気がして、つい敬遠してしまう。だから、説明が現代的で詳細な世界の神秘思想に学びを求めたくなる。世界の神秘思想は、ぜんぶ同じ悟りや意識状態を語っていたと、わたしは思っている。

 六千円もかけて読もうかと迷っている人は、考えてほしい書物である。装丁ががっしりしていて、大部で、書棚の飾りにはなる書物ではあるが。



スーフィーの物語―ダルヴィーシュの伝承 (mind books)イスラムの神秘主義―スーフィズム入門 (平凡社ライブラリー)ラスト・バリア―スーフィーの教えイスラーム神秘主義聖者列伝20世紀の神秘思想家たち―アイデンティティの探求 (Mind books)


09 19
2017

幻想現実論再読

頭に入ってこなかった――『世界はなぜ「ある」のか?』 ジム・ホルト

4150504806世界はなぜ「ある」のか?
:「究極のなぜ?」を追う哲学の旅
(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ジム・ ホルト
早川書房 2016-11-22

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 膜を張ったように頭に入ってこなかったのだが、宇宙論や物理学に傾いた探求だったからだろうか。したがって、この本の内容については言及できない。

 哲学者の議論もないわけではないが、問いたいことはそんなことじゃないのか、あるいは思考が働かないのか、頭に入ってこない。

 わたしは神秘主義的な探求の中でこの本を手にとり、どちらかというと言語や観念が実在しないことの実感を強めるために、読みたかった。そういう要請から読んだので、ひたらす外しつづけたのかもしれない。

 「この世界はなぜあるのか?」と疑問に思ったことはあるだろうか。わたしは、夕方に昼寝がめざめたりしたら、「この世界があるのが不思議だなあ」と思うことがある。昼か夜かわからない準拠枠が壊れたとき、そういった思いにとらわれやすい。

 「世界はなぜあるのか」という問いは、あるていど、自分の価値や存在意義が揺らぎ、それをたしかめたいときに問われるのではないだろうか。心理学的・価値論的な問いではないだろうか。

 「わたしの生きている価値はなんなのか」、「生きている証をのこしたい」といった自分の存在の価値を問うための疑問に思える。世界が存在する問いは、自分が存在することの価値への疑問である。そういった意味で、この問いは心理学的回答が求められるべきではないだろうか。

 宇宙がどのようにしてできあがったのか、宇宙はどのように存在しているのかを知りたいのではない。

 しかし宗教のような生きている意義が与えられるのも、また違うように思う。それはあまりにも人間的、人工的な回答に陥りがちだからである。生きている意義を問うと、人間の存在の意義の枠にはまってしまう。そして、またつっ返される。

 この問いは無とはなにかといった問いもふくんでおり、それは死ぬとはどういうことかという問いになるのだが、死を問えば、また違った問題をめぐることになる。

 人の頭ではこの世界が存在することの謎は理解できないのだろうか。まあ、この件に関してはわたしの頭が働かない。


▼wikipediaの説明がひじょうに詳細です。ライプニッツ、カント、ベルクソン。。
 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか


この世はなぜあるのか - 哲学の科学? (MyISBN - デザインエッグ社)〈在る〉ことの不思議私の生きた証はどこにあるのか――大人のための人生論 (岩波現代文庫)どこでもないところからの眺め考えることを考える〈上〉

09 14
2017

幻想現実論再読

心は実在しないと見なしたほうが、人生ラクになれる

 心は実在しないという見方は、たいがいの人にはありえない話だと思えるのだろうが、心が鎮まってゆくと、おおくの悩みや苦痛も薄れてゆく。なぜそんな喧騒を好んでいたのか笑えるくらい、遠くに退く。

 わたしたちは泣いたり、笑ったり、感動したり、心を波乱万丈にはためかせることを、すばらしい人生やよい人生だと思っている。

 ぎゃくに心が静かになり、なにも感情的に思わないことは、ロボットのような人生だ、非人間的な人生だと思っている。

 そのために、悲しんだり、苦しんだりする人生をも、追加的に味わうようになってしまっている。

 思考を捨てたり、心や自我を捨てることを仏教や禅は説くのだが、まずはこの人生観の違いから、思考を捨てることの忌避感がつきまとう。

 思考を捨てることは、ロボットのように権力に服従することであり、ケモノのように野蛮になることであり、おおよそ創造的に開花的に生きる人生からかけ離れることだと、われわれの文明からは教えられる。

 そのことによって、われわれの頭からしじゅう考えつづける思考の連鎖は止まることはないし、悲しみや恐れのジェットコースターのような波乱万丈の感情噴出を味わうし、ときには悲観やうつ感情から離れられないうつ病に落ち込むことだってありうる。

 わたしたちの社会は、思考や感情の賛美をしすぎて、その悪弊や欠陥に目を向けない。そうして、ひとりひとりうつ病のエアポケットに落ちてゆく。

 わたしたちの社会は思考や心の実在を信じる一派であり、仏教や禅が説いてきたことは、思考や心が実在しないことを信じてきた一派である。

 心というのは、身体もそうであるように、意識したら存在しているように思われて、意識していないときは身体の感覚はまったくなくなっている。意識がその存在を創出する。心もそのような性質をもっていて、言葉や思考の力を信じる現代社会は、ずっと思考や心の実在を感じる立場にあることになる。

 心や思考というのは、考えたり、思い出したりすると、現実にあるかのように現出するのだが、それを考えていないときは、どこにも存在しない。心というのは、考えないときには存在していないのである。

 だから、わたしたちが悩んだり、過去を思い出して苦しんだりしているとき、心の創出機能を使って、自ら苦しむ機会をつくりだしていることになる。

 わざわざ自分から苦しむ機会をつくりだしているのだが、心や思考の実在を信じる立場の人は、心の不在の時期を知らない。そのことによって、いつまでも、四六時中、考えることによって苦しみをつくる。心が実在しないと思えない人には、考えた対象はずっと存在することになっているからだ。

 思考や回想というのは、自分の意志とかかわりなく、自分の頭の中に噴出しつづけるものである。わたしたちは、思考を捨てるという選択肢を知らないために、その思考や回想にとび乗りつづける。そして苦しみや不安、悲しみを味わいつづけることになってしまう。

 禅や仏教の瞑想が教えることは、この思考にとび乗る習慣の鎖を断ち切ることである。自動的に習慣的になっている思考の噴出や飛び乗りから距離をおいて、それを流れるままにする訓練である。それが習慣になると、思考は収まってゆく。

 しかしそんなメソッドを知らない人は、頭が湧き出しつづける思考や回想の波に乗りつづけて、その悲観や苦痛のヴィジョンにずっと翻弄されつづけるのである。思考を賛美するわれわれの社会は、この心のカラクリを知らない。そして、多くの人が心の暴走によって、心の自虐装置に痛められてゆく。

 言葉や思考というのは、実在しないものを実在すると見なすひとつの考え方である。思ったり、考えたことが実在すると見なしたほうが、社会機能上には便利に適応できる。

 しかし、言葉というのは、自分の頭の外のどこに存在するのだろうか。あなたが考えたり、思ったりすることは、頭の外のどこに存在するのだろうか。一度だって、実体を見たことがあるだろうか。

 言葉というのは、目の前にないものを、あたかも目の前にあるかのように錯覚させる想像力の道具である。言葉は目の前にないものをあらわす単なる想像力である。そして、想像力は現実には存在しない。

 いちばん大事な根本の原理を忘れて、言葉で話したことが、現実に目の前に存在するかのように思い込む能力に長けたのが、わたしたちである。

 そして、同じように過去も、この地球上から永久に消え去ってしまった。だけど、わたしたちは過去を思い出して、現実に目の前にあるかのように泣いたり、悔いたり、悲しんだりできる。それは、いまどこにいったのか。いま、存在するのか。もはやどこにも存在しなくなった、ただの心象、心のイメージにすぎないのではないか。どこに実体として存在するというのだろう?

 わたしたちは、過去や言葉、思考が実在するという思いにどっぷりと浸かっている。それがどこにも実在しないではないか、という疑惑をひとつもはさまずに、存在しないものの白日夢、夢に浸りきっている。

 しかも時間はこの瞬間ごとに過ぎ去ってゆく、このいまの瞬間も永遠の奈落の底に消え去ってゆく。わたしたちの実在は、この一瞬だけであり、その一瞬でさえ、この瞬間に消え去ってゆく。わたしたちは、ほんとうに実在しているといえるのだろうか。

 わたしたちは、ずいぶんと実在しない世界に片足をつっこんでいる。そして、それを補うための言葉や記憶といったものが、実在する現実にあるものと錯覚して暮らしている。

 心や思考が実在すると思い込むと、思ったり考えりしたことの苦痛や恐れ、不安などをたっぷりと味わうことになる。しかし、それが実在しないと見なすようになると、思考や回想のヴィジョンは、強い力をもちえない。なぜなら、それはどこにも実在しない架空や絵空事だと知っているからだ。

 わたしたちは、夢を見ている。実在しないものを現実に実在すると見なす言葉や記憶力によって、実在しない幻に泣いたり、笑ったりする感情の荒波のあいだを泳いでいる。

 心が実在しないと見なすことは、これら心が出してきた思考や回想に乗らないことである。現実に存在しないと見なすことである。現実に存在しないものになぜ泣いたり、悲しんだり、恐れたりするのだろう?

 実在しないものに感情を煩わされる必要はないし、心が実在しないと見なすと思考の噴出もおとなしくなってゆく。相手にすれば思考は増長し、相手にしなければ収まって、静かになってゆく。心のそんなカラクリさえ、わたしたちは知らない。

 どうでしょうか? 心を実在しないと見なしたほうが、人生の苦痛や不安から解放されると思いませんか? 心を実在すると見なすと、われわれは人生の両手いっぱいの不幸や苦痛をもたされることになります。

 わたしたちは、なにを苦しんできたのでしょうかね。


09 09
2017

幻想現実論再読

「ミクロの尺取虫」――『非神秘主義』 上田 閑照

4006001827哲学コレクション〈4〉非神秘主義
―禅とエックハルト (岩波現代文庫)

上田 閑照
岩波書店 2008-04-16

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 上田閑照という人は、まえに一冊読んでわからないなという読後がのこったのだが、こんかい読んでみて、まあ、わたしには深くつきあう気はない人だという評価に落ちつきそうだ。

 細かくて、繊細で、微細な世界をえんえんと何ページにもわたって語りつづけて、もういい加減倦む。

 「ミクロの決死圏」というか、「ミクロの尺取虫」みたいな話がえんえんとつづく。

 京大のえらい人なのか、「一、二行でまとめてみよ」とだれからもいってもらえなかったのか、冗長な、なにが異なるかわからない話をえいえいと選り分けてゆくのだが、もうつきあう気をなくす。

 道元のテクスト解釈なんかその最たるもので、なにが重要かわからないテクストの違いを語りつづけて読み飛ばしたが、この人は禅者ではなくて、重箱の隅をつつくような学者なのだろうね。

 禅問答の「達磨はなぜ中国からきたか」という僧の問いに対して、師の「庭さきの柏の樹」という答えにさいして、無の境地がわかるようになるためだのようなことをいった解釈は参照になるのだが、いかんせん長すぎる。

 「非神秘主義」というのは、神秘主義というのは神との合一にとどまるのだが、禅はその地点から日常の世界にもどってくるから、非神秘主義だといいたいらしいのだが、長すぎてつきあう気が失せる。

 「ことばの実存」というタイトルの本を出していて、ずいぶん気になるタイトルだが、この人にはつきあいきれないかもしれないな。

 岩波現代文庫から哲学コレクションが出ているが、いっぱんの読者にわかりやすく、伝わるように書こうと努力していないような本は読まれるのだろうか。心が汚れるような文句ばっかりいって、ごめんね。


ことばの実存―禅と文学私とは何か (岩波新書 新赤版 (664))哲学コレクション〈3〉言葉 (岩波現代文庫)哲学コレクション〈2〉経験と場所 (岩波現代文庫)神の慰めの書 (講談社学術文庫)


09 07
2017

幻想現実論再読

まずは言語的懐疑から――『コスモスとアンチコスモス』 井筒俊彦

4766420799コスモスとアンチコスモス
一九八五年 ― 一九八九年(講演音声CD付き)
(井筒俊彦全集 第九巻)

井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会 2015-02-17

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 神秘思想をイスラームなどの世界的視野で読み込み、学問的水準で読み解き、また言語的フィルターに懐疑のまなざしを向けつづけた人は井筒俊彦しかいないと思って、拾うように全集も読もうかと思っているのだが、言葉使いがむずかしいこともあって、あまり得るところがなかったかな。

 この人はこんにち的な文脈でいえば、スピリチュアリストとよばれてもおかしくない神秘主義者なのであるが、岩波文庫に『意識と本質』が収録されているように、学問的にも認められているようである。

 岩波文庫は世界の宗教書や、禅の西洋的解釈の西田幾多郎の本も収録しているように、宗教にかんしては、寛容のようである。学校やテレビのように、科学対宗教のたんじゅんな二元論に落とし込まない。

 神秘思想は、神や超越者との合一を説くのだが、その以前に言語的懐疑が貫いている。言語というフィルターを外した世界はどのようなものか、また言語がつくりだす人間の苦悩といったものが実在しないのではないかといった人間の根源のありかたを問う。

 われわれは言語というフィルター、道具を無自覚に使うために、さまざまな苦悩をわざわざ「創作」して、それを「実在」のものとカンチガイしているだけではないのか。

 そういった言語使用の過ちや錯誤を指摘しているのは、神秘思想だけである。神との合一といった怪しげなものは、脇においておくほど、神秘思想は重要な人間の根源的なありかたを問うているのだと思う。

 この本に収録されている論文の中でいちばん気になったのは、「創造不断」という章だが、ちょっと言葉がむずかしすぎて、深くつかめたとはいいがたいのがおしい。

「いつでも、永遠不断に、時は「現在」として熟成し、その度ごとに存在が新しく生起していくのだ。瞬間ごとに新しく生起する存在の連鎖は、切れ目のない時間の連続体を構成しない。一つの現在が次の瞬間に、一つの存在生起が次の存在生起に移る、その移り目に、すべては、一度、無に没落しなければならないからだ。たとい、その無の間隙が、目にもとまらぬ速度で起るとしても、である。このような存在・時間の脈動するつながりを、イブヌ・ル・アラビーは「新しい創造」(「創造不断」)と呼ぶのである」



 存在が一瞬ごとに無になり、その無の中から一瞬にして新しく生成してくる。このような世界観、時間論を、井筒俊彦はイブヌ・ル・アラビー、道元の言葉を借りて、語るのである。わたしにはとうてい、つかみがたい。

 「コスモスとアンチコスモス」という論文は、1987年ころの現代思想のブームをとりこんだような言説で、丸山圭三郎の世界観と近いことを語っている。言語的秩序とその解体が現代思想的ブームの渦中にあった。

 ほかにサルトル哲学との出会いや、エリアーデ追悼の文などが興味をひいた。イスマイル派の暗殺団については当時の時事的状況だと思って、読み飛ばした。

 わたしは学問的探求より、この世界や自己のありようをもっとセラピー的な要素でくみとりたいので、たまに井筒俊彦の問題意識と重ならないなあと思うけど、図書館で全集を読めることもあって、つぎはどの本に手を伸ばそうか。


スーフィー―西欧と極東にかくされたイスラームの神秘ルーミー 愛の詩言葉とは何か (ちくま学芸文庫)存在認識の道―存在と本質について (1978年) (イスラーム古典叢書)井筒俊彦 (言語の根源と哲学の発生 増補新版)


09 04
2017

幻想現実論再読

実在しない世界のしっぺ返し――『不滅の意識』 ラマナ・マハルシ

4931449468不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話
ポール ブラントン  ムナガラ ヴェンカタラミア 記録
ナチュラルスピリット 2004-09-01

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 ニサルガダッタ・マハラジになんどか言及されていたので、二冊目のラマハ・マハルシ。

 悟った人にたいして、わたしは多くを理解できているわけではなく、おこがましいのだが、ラマナ・マハルシにたいしてはすこし物足りなさを感じる。切れ味や緻密さには欠けると思うのである。

 クリシュナムルティのような論理性、ケン・ウィルバーのようなどこまでも説明しようとする意志、ラジニーシのような広い知識、といったものと比べるとすこし遜色を感じる。まあ、悟っていない人間がなにいっているのかと思うが。

 ラマナ・マハルシは、言葉や想念の非実在性に気づきなさい、となんどもいう。これは、わたしもわかってきたことだ。人は頭で考えて、創作したことを実在のものと見なし、その「夢」の中で苦悩する。

「それ自体としては、われわれが「心」と呼ぶことのできる実体は存在しない。想念が生ずるがゆえに、われわれはそれから想念が生じてきた何ものかがあると想定し、そしてそれを心と名づける。それが何であるかを知ろうとわれわれが探るとき、そこには何もないことを発見する。心がそのように消え失せたあとに、永遠の平和が残る」



 われわれは、ずいぶんと騙されている。言葉や思考で考えたことが実在するものと思い込む。そして、目の前にないもの、過去として消滅したことを、現実に目の前に存在しているかのように、泣いたり、悲しんだりできる。でもそれは、どこにも実在しない。架空の、虚構の、フィクションの世界に騙されているのである。

 ラマナ・マハルシはそれを映画にたとえるが、言葉や観念はほんとうに映画だ。

「真我を実現した人は、あたかも普通の人びとが劇場でのスクリーン上のシーンや登場人物が架空のものであり、現実の生活の中に存在するものではないことを知っているように、世界の中での対象物や身体(人びと)が架空の外観であることを知りながら生活し仕事をする」



 この文章は、言葉や思考の世界と、知覚世界の混同をきたしそうだが、わたしが理解するところでは、言葉や思考の世界は実在しないといっているだけで、知覚世界にかんしての実在性は、わたしにはまだ解けない。言葉や観念の非実在性はわかる。だけど知覚世界の非実在性には、自信をもてない。

 「わたしは身体ではない」という言葉の意味ももうひとつわからない。

「誤りは、「私」は何かであるとか、「私」はそうではないと考えることの中にあるのです」



 われわれが意識する身体自身がすでに、想念や観念をふくむもの、観念で表象されたものであり、ゆえに実在しないものであるということなのだろうか。

 ラマナ・マハラシは努力や達成するものはなにもないと説く。

「何か達成されなければならないものは、実在ではなく、真実ではない。われわれはすでに実在であり、真実である。本当に得るべきものは何も存在しない。それは今、ここにある」



「あなたは誤った「私」を除去する必要はありません。どのようにして「私」が自分自身を除去することができるでしょうか。あなたがする必要のあるすべてのことは、その起源を見つけだし、そこにとどまることです。それはあなたの努力の及ぶことのできるところまでです。そうすれば、その先は、それ自身が面倒を見るでしょう」



 多くの人が陥っているのは、言葉や観念、わたしや感情が、物体のように実在すると思い、それをむりやり排除したり、除去しようとすることである。緊張を止めようとしたり、恐怖を止めようとしてもっと恐怖に追いつめられたり、われわれは非実在のものを実在すると思い込むがゆえに、幻想の除去で、よけいに自分を追いつめるのである。この経験は身に覚えがありませんか。

 われわれはあまりにも、非実在性という性質に思いをいたさせないために、言葉や観念を実在するものと思い込み、この世界の性質からしっぺ返しを食らっているとしかいいようがない。

 世界の実在性、あるいは非実在性の区別をつけられるようになったとき、わたしたちには安心の境地が広がるのではないだろうか。

 それにしても、この本は章ごとにラマナ・マハルシの腰布一着のハダカばかり写されているのだが、無一文や無所有を象徴するのかもしれないが、それは強調されることかと思うw



ラマナ・マハルシとの対話 第1巻あるがままに―ラマナ・マハルシの教えラマナ・マハルシの言葉アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話


08 30
2017

幻想現実論再読

時間を逃れる言葉――『「無常」の哲学』 谷貞志

4393131010「無常」の哲学」
―ダルマキールティと刹那滅

谷 貞志
春秋社 1996-06

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「およそ存在するものは瞬間的である。例えば、雨雲のように」
        ――ジュニャーナシュリーミトラ『瞬間的消滅論』



 時間を見れば、われわれがどんなに無や非実在の世界にのみこまれてゆく存在であるかわかる。過去は刹那ごとに、奈落の底のようにのみこまれてゆく。しかし、われわれは過去を思い出しては、目の前に存在するかのように泣いたり、悲しんだりできる。それはほんとうに実在しているのか。

 われわれは瞬間、刹那ごとに消滅してゆく存在ではないのか。そのような世界の法則を知ることによって、われわれはこの世界の実相を知るのではないのか。

 本書はなんとなく刹那滅という言葉にひかれて読んでみたが、ダルマキールティの言説もあまり知らなかったのだが、警戒していた仏教論理学の教説だと知って、返り討ちにあった。論理学ほど、わたしの苦手とするものはない。中間あたりから、ほとんどなにをいっているかわからない。

 導入部の著者の死の恐怖からの語り口は、じゅうぶんに興味あるものだったし、時間論にかんしてはもっと学びたいと思うのだが、いかんせん仏教論理学の壁は、わたくしには突破しがたい。ほんと、難解。

 だいたい、この本であげられているディグナーガ(480年–540年)や、ダルマキールティ(600年–660年)といった人は、6世紀や7世紀の人である。日本では、古墳時代や飛鳥時代なのであって、むかしの人は原始人のような頭をしていたという進歩史観がまったくあてはまらないことを思い知らされるのである。

 ひとつ感銘した文としては、言葉というものは存在から時間性を奪ってしまうということである。「私」という言葉も、いついかなるときも「私」なのであって、あの時の私も、この時の私もずっと同じ存在として、抽出されてしまう。しかし、この世の存在に時間の法則をのがれた存在はあるだろうか。

 言葉は、時間から切り離された超存在というべきものを、はじめから打ち立ててしまう。時間を越えた永久に存在するかのような存在を、言葉ははじめから含んでしまう。そして、人は時間性からのがれられないこの世界から、時間をこえた永遠の存在を望んでしまうのではないのか。

 つまり、言葉自体がすでに時間をこえた永遠の世界をもたらしてしまうのである。

 人は後世にのこるものとして、恒常的な石に名前や言葉を刻んでおこうとする。それは言葉自体がもっていた時間の超越性ゆえであって、この世に時間性を逃れ得る存在などなにひとつない。言葉は、われわれから劣化や変化や、消滅からの超越を夢想させてしまうのである。

 われわれは刹那や瞬間ごとに消え去ってゆく時間の中に生きる存在である。いかなる存在といえど、時間性から逃れられない。しかし、言葉は違う。言葉はそれ自身のはじめから、時間性を超越している。それゆえ、われわれは、時間をこえた迷妄や虚妄にさいしょから迷い込まされるのではないだろうか。

 だけど本書は論理学が難解すぎて、なかなか吸収するのがむずかして、論理学というのは、もっとわかりやすく語ってくれたらね、と思うのだけどね。


刹那滅の研究認識論と論理学 (シリーズ大乗仏教)東洋の論理 空と因明岩波講座 東洋思想〈8〉インド仏教 1


08 28
2017

幻想現実論再読

ほぼ感銘なし――『空の思想史』 立川 武蔵

4061596004空の思想史
原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)

立川 武蔵
講談社 2003-06-11

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 ほとんど感銘をうける文章がなかったばかりか、理解できていたかすらおぼつかない読後感しか残らなかったのだが、どうしてここまで自分にとってピンとこない本となったのだろう。

 思想史となれば外側から見る概括史になりがちだし、事実や対象を語るのではなくて、ほかの学派や宗派の相違や区別を語るために論理学や論証にちかづく。

 論理学や論証はわたくしのたいへん苦手とするところだが、ナーガルジュナの『中論』なんてものは論理学の書物で手痛い目に会ったのだが、仏教の中核には論理学があって、論理学はなにをいっているかほぼつかめない。言葉をハナから否定する禅が勃興したゆえんかもしれない。でも言葉を否定ばかりしても、なにもつかめない。

 悟っているとされる仏教者においても、学派や宗派によって考え方がぜんぜん違ったりするのだから、悟りといわれる一般的な真理なんて存在するのだろうかという気になる。

 この本ではヒンドゥー哲学から原始仏教、チベット仏教、中国仏教、日本仏教における空が、総括的に語られている。

 そして、なにも得ることがなかった空であった。備忘録としてだけ残しておく。


空と無我 仏教の言語観 (講談社現代新書)空と中観 (シリーズ大乗仏教)空の論理「中観」―仏教の思想〈3〉 (角川文庫―角川文庫ソフィア)縁起と空―如来蔵思想批判無の探求「中国禅」―仏教の思想〈7〉 (角川文庫―角川文庫ソフィア)



08 22
2017

幻想現実論再読

われわれはすでに悟っている――『存在することのシンプルな感覚』 ケン・ウィルバー

4393321022存在することのシンプルな感覚
ケン・ウィルバー
Ken Wilber
春秋社 2005-11

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 リスペクトしてやまないケン・ウィルバーだが、ひさしぶりに読んだこの本はあまり刺さるところがなかったなあ。

 過去の著作のアンソロジーであって、一本調子でさいしょからひとつのテーマを語る著作とは違うからだろうか。

 ケン・ウィルバーは90年代後半くらいに集中的に探索していた。言葉や思考が悪者という考えのリチャード・カールソンに出会い、思考を捨てるという知識と格闘していたころだ。西洋科学や西洋哲学には、言葉を悪者にする思想はあまりない。

 ケン・ウィルバーは、言葉や思考を否定する東洋思想の懸け橋となってくれる立場にいた。

 いまは大型書店でもあまりケン・ウィルバーの著作もそろっていないようだが、わたしも一定の著作を読むと遠ざかっていて、その後『万物の歴史』がベストセラーとなっていたときは、遠回しにいて読むこともなかった。

 初期のころの『無境界』や『意識のスペクトル』という著作にものすごく感銘をうけて、あとは『アートマン・プロジェクト』や『眼には眼を』、『空像としてのパラダイム』を読んだくらいだ。その後に出た著作は読んでいなかった。

 ケン・ウィルバーやトランス・パーソナル心理学はいまどのような位置にいて、一般的にはどのように受容されているのだろうか。

 出版元の春秋社の本は手に入りにくくなることが多く、ケン・ウィルバーの著作は西洋と東洋の統合として読まれるべき古典として残っていったほしいものだ。

 あと、ケン・ウィルバーは日本の禅から理解するよりか、ヒンドゥー教のブラフマン概念の一体性から理解するアプローチも必要なのだと思う。ケン・ウィルバーの全体性は、ブラフマン概念である。

 このアンソロジーの中で、刺さったものとしては、すでにわれわれは悟っているというさいごのほうの章である。わたしの既読の本の抜粋もあるのだが、読んだことは忘れていて、あらためて読むとその文章に感銘するというしだいだ。

 わたしたちは悟りや変性意識状態がどこか自分から離れたところ、遠くや明日にあるように思ったりする。しかし、この世界が一体であり、全体であるというのなら、わたしたちはすでにそのものであって、どこか外側に見つけられるものではない。

 探究者はこのワナにかかってしまうのである。そして、それは言葉や想像によってつくられる世界が実在のものと思ってしまうわたしたちの認識の過ちそのものではないだろうか。

 神秘思想やスピリチュアルというのは、究極的には、この一点――言葉と想像力でつちかった虚妄の世界を省けということをいっているのではないのか。想像力を実在のもの、現実のものと思った時点で、いまここの悟りの一体性から、逃走や回避してしまうのである。わたしたちは探求や捕獲しようとして、けっきょくは逃げてしまうのである。

「しかし明日発見する「心」というものは、時間のなかで始まり、時間のなかで消えていくものである。なぜならそれは、今日ではなくて、明日始まるものだからである。厳密に言えば、「永遠」というものに入ることはできない。なぜなら「永遠」というのは、常に現前する「今」だからである」



「エリウゲナが言ったように、「神とは、彼自身が何者であるかを知らない。なぜなら、彼は何か、何者か、ではないからである。ある意味で、彼は自分自身すらとらえがたい。またあらゆる知性によってもとらえられない」



 われわれは知性によってそれを捉えられるのではない。知性は、まさに逃走すること、回避することなのである。回避とは、言葉や想像力で捉えること、知ろうとすること、確保しようとすることではないのだろうか。

 とはいっても、言葉で把握しないことには無知なままである。言葉はつかまれ、いずれ手放さなければならない。言葉こそがそれを阻むものとなっているのである。



無境界―自己成長のセラピー論316n1KylMBL__SL500_BO1,204,203,200_アートマン・プロジェクト―精神発達のトランスパーソナル理論眼には眼を万物の理論-ビジネス・政治・科学からスピリチュアリティまで-

統合心理学への道―「知」の眼から「観想」の眼へグレース&グリット―愛と魂の軌跡〈上〉ワン・テイスト―ケン・ウィルバーの日記〈上〉インテグラル・スピリチュアリティ実践インテグラル・ライフ―自己成長の設計図


08 16
2017

幻想現実論再読

人はなぜ無を恐れて、言葉や虚構を創作するのか

 言葉はどこにも実在しない。しかしあたかもそれが現実に目に前にあるかのように思うことができる。

 過去も瞬間ごとに消え去ってゆくのなら、過去はもはやどこにも実在しない。しかしそれを思い出すと、あたかも目の前に現実に存在するかのように泣いたり、悲しんだりすることができる。

 人は奇妙な現実には存在しない物事にとり憑かれている。そのありさまは、まったく映画やマンガのようなフィクションを楽しんだり、悲しんだり、人生の一大事に思うようなあり方と、まったく同じである。

 つまりわれわれは現実と思うものを、フィクションのようにしか捉えられない。

 フィクションなら、それは現実には存在しない虚構だという約束事が根本的には知られている。しかしわれわれが現実と思う言葉や過去が存在しない「無」であること、「幻想」であることに思い至る人はめったにいない。

 言葉や過去がわれわれを魅了してやまない出来事としても、それが現実には存在しない「無」や「幻想」であるという根本を捉えないと、われわれは大きな過ちを犯す。

 言葉や過去は無なのであるが、言葉を語ったり、過去を思い出すことによって、存在しないそれはあたかも現実に存在するかのように現出しはじめる。

 人間の認識というのは、意識しなければ存在しないが、意識しはじめると存在しはじめるという性質をもっている。身体の感覚だってふだんは意識しないが、意識しはじめると存在しはじめる。なにかの出来事だって意識しはじめると、そこになかったものが存在しはじめる。意識は、創出の性能をもっている。

 われわれの悩みや苦しみだって、出来事や世界の結果によっておこるものだと思っているが、意識しはじめたり、考えたりしはじめると、そこにはなかったものが存在しはじめるものである。

 意識や悩みというのは、そこになにもなかったものを「創作」する性質をもっている。出来事の結果だと思っているのが、それは意識したり考える前はどこにも存在しなかったのだから、意識や思考は「創作」の次元をもっている。

 意識や思考は、なにも存在しない無から、なにかを「創作」するのである。それが悩みや苦しみであったら、われわれはみずから苦悩や苦痛を、みずから「創作」して、「自作自演」していることになる。

 意識しはじめることは、なにもなかったものから、なにかを「創造」させる性質をもつものである。われわれは悩みを思うことによって、みずからを苦しみの渦中に放り込むのである。自分の意識や思考が、創作しているという性質に気づかないからである。


 言葉はなにもないところから、なにか「有るもの」をつくりだす「創作」の性質をもっている。過去は瞬間ごとになくなってゆくのなら、思い出すことは過去をいま現在に「創作」することである。

 そして、人はそれが現実には存在しない、「無」や「幻想」であるという根本性質にまったく気づかない。存在しないフィクションの世界にもりもり呑みこまれてゆくことと同じである。

 人は存在しないこと、非実在なことのほうには目を向けない。有ること、創られたこと、目を奪われるものばかりに関心を向ける。それが実在しない無であるという一事にまったく目を向けなくなる。

 言葉や知識は、創造しないことにはなにも気づけない。言葉は巧みな洞察力や観察力を駆使して、賢明で堅実な知恵を蓄積させるように仕向ける。しだいにそれが実在するのか、実在しないかの境界をこえて、ずっと存在しているかのように思うようになる。

 人は脳内にある存在しないものを、現実の地上に存在させることがずいぶん好きである。たとえば、マンガや映画の虚構でしかなかったディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンのような虚構のアトラクションを現実化させて、おおいに喜ぶ。

 都市や建物だって、さいしょは人間の脳内にしかなかった想像や計画でしかなく、その頭の中にあった現実に存在しないものをこの地上にたくさんつくりだすことを、文明の進歩だと信じて都市や建物をつくってきた。

 人間は想像と現実の区別をつけない。想像されたものを現実に創出させることがずいぶん好みである。存在しない想像を現実に存在させることがずいぶん好みである。

 それはわれわれの認識構造が、想像したものを現実のように見なす認識の根本構造と同じだからではないのか。

 われわれは存在しないものより、存在するものに目を奪われる。創作された豪華で絢爛たる創作物に目を奪われ、おおいに喜ぶ。

 存在しないものより、存在するものである。そうして、現実には存在しないものを創出しては喜び、それが現実には存在しないという境界性をどんどんなぎ倒してゆく。

 虚構の城の下は、「無」であり、「非実在」である。フィクションが現実にあるかのように見えて、それはまった存在しない虚構であるように、われわれの創出したものは、無や幻想を足場に、地下に抱えている。

 神なんてという人格神も、宗教の根本である神秘思想では存在しない無であったり、非二元性や、言葉であらわせないものを表現するものであったはずである。それが現実に存在するあたかも人間の衣をまとったような存在として「創作」されるようになっている。

 われわれは「ないこと」より、「有ること」のほうがずいぶん好きなようである。創造された創作された豪華な建物に目を奪われる。そして、それがまったく存在しない「無」や「幻想」であることをすっかり忘れてしまう。

 じつは、存在しない無や幻想であることに気づくことが、大いなる安らぎや非二元性や、大いなる一体感を感じさせるベクトルに向かうほうではないのか。無や幻想であるベクトルに向かうほうが、安らぎである。

 しかし人は「有」や「創出」されたベクトルばかりに向かう。そうしてどんどん現実の世界から離れ、刹那の瞬間しか存在しないこの世界に、永遠に残る創作や幻想をもとめて、われわれは幻滅や苦悩におちいる。

 われわれは創出や創作のベクトルに向かい、この世界の現実原則、消滅しては消え去ってゆく世界に抗おうするのではないのか。その結果、存在しない世界の幻滅と破滅に襲われる。

 フィクションの世界に魅了されて、その世界に憩い、永遠に抜け出したくないと誓う子どものようである。

 われわれは映画やマンガはフィクションであり、現実には存在しないとわかっているから、虚構から離れられる。しかし、われわれの認識能力は、この現実世界すらも虚構の世界で捉える性質をもっているのではないのか。

 虚構の豪華な建物、ないものよりあるものに目を奪われるわれわれの性質、そして存在しないものに存在させられる意識の能力をもつがゆえに、われわれは虚構のフィクションの世界にずっと捕えられたままではないのか。

 そもそも、言葉や過去が存在しない虚構であるという性質さえ人は気づかない。過去は実在すると思い込む人は後をたたないわけだし、言葉がどこにも実在しないものではないのかといった疑問さえ抱く人もいない。

 われわれは無や非実在であることを、人生の無価値や無意味だと恐れるのだろうね。言葉で出来事で人生の価値と意味をつかみとりたい。さもないと人生の意味はまったく無意味だ。

 そうして、言葉と想像によって、存在しない人生の価値や業績を追い求めるようになる。言葉や想像が、喜びをつくると同時に幻滅やいつわりをつくりだすというもう一方の悪の性質に気づかずに、虚構の建物を追い求めようとするからなのだろうね。

 人は、存在しない虚構の建物という人生の業績や価値を打ち立てようとする。それは意識や思考、言葉でもおこっており、われわれはきょうも存在しない幻想に価値を追い求めようとするのだろうね。

 無や非実在に気づくことは、人の必死な業績を残そうとするあがきに笑えるようになることであり、安らぎに憩えることではないのだろうか。もしそれが無意味や無価値を思わせるなら、まだ言葉や意識の「フィクション性」や「幻想性」に気づいていないということだ。

 われわれは、過去が奈落の底に瞬間に落ちてゆく世界に暮らしている。言語や過去の想起が、現実にはどこにも存在しない世界に生きている。安らぎのベクトルは、この世界の法則に抗う方向にあるのだろうか。


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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