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11 22
2017

幻想現実論再読

ことばは仮想現実である

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▲河面にうつった空と雲


 仮想現実というのは、じっさいに体験しているように思えても現実にはないものを意味するので、これはわれわれの意識やことばにひじょうにあてはまるので、モデルや比喩としてとらえてみるのが有効な手段だと思う。

 ことばも、仮想現実である。じっさいにあると思っていたり、現実に体験しているかのように思えるが、現実には存在しない、ないものである。ことばというのは、視覚に見えるものでもないし、頭の中にあるだけであって、じっさいに存在するものではない。

 わたしたちは、ことばはあるあると思って毎日を暮らしているのだが、ことばをちょっと省みてみると、その実在の怪しさにはかんたんに思い至ることができるだろう。

 仮想現実がモデルとして優れているのは、それが現実には存在しない「無」であるということである。われわれは、この「無」、「実在しない」という方向に思考を巡らせないから、大いなる錯誤におちいる。

 仮想現実は、無なのである。まったくどこにも存在しない虚無である。しかし、われわれは機械や装置の力を借りて、それがあたかも現実に体験しているかのように感じることができる。

 ことばもそうなのである。ことばも頭で描いたものは、現実に目の前にあるかのように思うことができる。しかし、それは現実には存在しない無なのである。わたしたちは、この無の方向に思いをいたさないばかりに、壮大な過ちにおちいる。

 こういう方向に頭をめぐらせると、日常意識だって、仮想現実であり、その基盤は無であるということができる。

 わたしたちは、ことばで現実を捉えて、あれこれ思案をめぐらせる。しかし、それが現実に存在しない無だとしたら、われわれはいったいなにを見ているのだろう? まさしく、「夢を見ている」という状態でしかないではないか。

 わたしたちの頭の中の大半は、過去を思い出したり、過去を反芻することで成り立っている。しかし、過去というのはもう存在しなくなったもの、この地球上のどこにもなくなったもの、跡形もなく深淵に呑みこまれたものではないのか。

 では、過去を思い出すとは、どういう状況なのか。たんにもう存在しなくなった心象や記憶を、「いまにおいて」思い出しているだけのことではないだろうか。つまり、まったく存在しなくなった「無」を、あたかも現実にあるかのごとくに思っている仮想現実とまったく変わりはないではないか。

 しかも、その過去は言葉という価値づけや意味づけの装置をほどこされて、われわれに情感的な景色として感情をゆり動かされる。過去は、まったくなくなってしまった。でも感情は立ち上がる。われわれはいったい、存在しない何に感情をゆり動かされるのか。それは存在しなくなった過去の心象や記憶という、もう「ないもの」ではないのか。

 われわれは、存在しないことばや心象によって、感情をゆり動かされているのである。じっさいにあるあると思っているものは、まったく存在しないもの、無である。その無の方向に頭をめぐらさないばかりに、わたしたちは存在しない心象や言葉に、感情をゆさぶらされる。

 このありかたというのは、映画やマンガを鑑賞する態度とひじょうに似通っているのである。わたしたちがフィクションという絵空事に泣いたり、笑ったりできるのは、それが過去を体験するありかたと、まったく同じだからである。つまり、もう存在しなくなったものを、あたかも目の前にあるかのごとくに思える能力があるからこそ、フィクションを体験できる。

 わたしたちは絵空事を感情することができるのである。まったく存在しない無であるフィクションを。そして、その認識のありかたは、まったく過去の体験と同じなのである。

 わたしたちは、存在しない無を、あたかも現実に目の前にあるかのごとくに体験できるのである。この体験は、仮想現実という装置そのものと同じ構造である。

 わたしたちの感情や苦悩は、この存在しない仮想空間のスキマから生まれてくる。もしこのスキマがなければ、わたしたちは苦悩することはなくなるし、悩みや悲しみも実在するものに基づいているわけではないということにならないだろうか。

 わたしたちは、目の前にあること以外のことを膨大なことばや映像という仮想現実でおぎなっている。その仮想現実を現実にあるかのように思うことが習い性になり、それがじっさいにあるように思えてしまう。そして、そのスキマから苦悩や悲哀が生まれる。

 しかし、このような理解を得たところで、人は苦悩から解放されない。思考というのは、自分の意志とかかわりなく、勝手にわきあがり、その思考や心象に乗ってしまうと、「われを忘れて」、それが現実に目の前にあるかのごとく感情をもよおすことができるからである。

 ことばや思考は、ひとたびその脈絡に乗りこむと、目の前に現実にあるかのように思えてしまう「実在化の作用」をもっている。そのために、それが目の前に存在しない無であることを忘れて、すっかり思考の現実化に人は呑みこまれる。

 わたしたちはこの思考の呑みこまれによって、いつもわれを忘れてしまうので、それが仮想現実や、じっさいにはない無であるということを忘れてしまう。こうして、われわれの日常は、夢を見ているのに夢を見ていることを忘れる状態に置き去りにされる。

 現代はことばや思考に価値がおかれる状態である。思考をめぐらせ、あちこちの角度から検討し、反省し、分析することをよしとする社会である。そうして、過去も未来もなんども考えては、その存在しない絵空事の現実化に打ちのめされて、われわれは苦悩の波間に溺れることになる。

 とりわけ、過去の反芻は、人に苦悩や羞恥、悔恨の地獄におちいらせる大きな要因だと思う。デール・カーネギーは「鉄の扉で過去を閉ざせ」といったのだが、それほどの過去の苦悩はさえぎりがたく、われわれの目の前を苦悩のカーテンに覆うのだが、それが実在しない無であると理解できれば、われわれの苦悩はかなりのところ軽減できるのではないだろうか。

 鉄の扉で遮る必要などない。そんなものは、もともと存在しない絵空事だったのだから。仮想現実のモデルは、われわれのこのような認識のあり方を、よく見せてくれるのではないだろうか。

 思考の噴出というのは、機械や習慣のようなものである。それをよきもの、賢明なものと思っているかぎり、思考はつぎつぎに噴出する。また、思考こそがわたしであり、考えるゆえにわれありといった考えをもっていると、思考の切れはしを片時も手放さなくなるだろう。そうして、苦悩の囚人になるのである。そこには、もはや仮想現実の無であるという発想はおよびもしない。

 ことばは仮想現実であるといういい方は、ほかに心にもあてはめることができるだろう。心というのはあるあると思っているが、沈黙しているとき、熱中しているときには、その存在を忘れている。それは思考しているときにはありありとあらわれ、なにかほかのことに捕らわれているとき、存在しなくなっている。心はところどころに無の様相を見せるのである。

 ことばや思考というのは、確実にあるように見えて、じつは存在しない仮想現実であるという面をもつ。わたしたちは実在のほうばかりに目が行ってしまい、それが実在しない無であるというほうには目を向けなくなってしまう。映画やドラマを鑑賞しているときと同じ状態のおちいるのである。それがどこにも存在しない絵空事であることを忘れてしまう。まさにわれわれの認識自体がこのような性質をもっているからである。

 わたしたちは無のなにもない虚無から、言葉や思考によって現実を生み出す。そしてその仮想現実が目の前にあるかのごとくに感情する毎日に翻弄される。わたしたちは存在しない仮想現実を生きる無である、と捉えることが、その仮想現実のカベを打ち壊す捉え方になるのではないだろうか。

 わたしたちは、無から仮象や仮構を生み出す存在である。そして、その基盤にはなにもない無がひろがっている。この無、ことばや思考という仮象がない世界にこそ、わたしたちの実在の秘密や本態はあるのではないだろうか。


11 15
2017

幻想現実論再読

永遠の名著――『世界の名著〈4〉 老子・荘子』  中公バックス版

rousisousi.png世界の名著〈4〉 老子・荘子
1978年  (中公バックス)

中央公論社 1978-07

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 老荘はいちどは読まれることを、絶対におすすめしますね。

 天地のスケールでものごとを見て、人間の狭い価値観を抜け出る。人より勝ったり、優れたり、欲望を満たすことしか教えられない社会で、逆説的にその愚かさを教えてくれる人なんて、めったにいないからね。

 この中公バックス版は、老子と荘子双方読めるお得版なのだが、絶版のようなので、残念。

 わたしはとくに荘子のほうが役にたつと思うのだが、老子は思想を語るには短すぎるし、荘子は専門用語や難しい言葉をほとんど使わず、たとえ話で終始言い聞かせようとしていて、わかりやすいのである。しかも、これが紀元前の教えなんだよね。

 老荘は、言葉や人間の限界を知って、天地のスケールから見た人間の価値の狭さを説く。知識や財貨、名声だって、批判の対象になる。人間は人間の小さく狭い立場を守って、運命をうけいれるべきだ。ある意味、無力や悲観にも見えるかもしれないが、人間の天分をわきまえない抵抗のほうが愚かだ。

 わたしは荘子の斉物論篇がいちばん好きだ。老荘の真骨頂はここにあると思う。そして、仏教でわからない部分も、荘子によって補われると思う。

 

「これらの対立差別は、人間の知恵がつくり出したものであり、自然の道からみれば、すべて一つなのである。
この自然の道の立場からみれば、分散し消滅することは、そのまま生成することであり、生成することは、またそのまま死滅することでもある。すべてのものは、生成と死滅との差別なく、すべて一つである。
ただ道に達したものだけが、すべてが通じて一であることを知る。だから達人は分別の知恵を用いないで、すべてを自然のはたらきのままにまかせるのである」



 天のスケールから見て、人間の違いや優劣、価値観などなんになろう? われわれはいつも、人間の小さなスケールでしか物事を見ないことに気づく。

「およそ、道というものは、最初から限界のないもの、限定できないものである。ところが、これをいいあらわすことばというものは、対立差別のあいだを往来して、絶えずゆれ動くものである。このために、ことばによって表現されるものには、限界があり、対立差別があることになる」



 言葉の限界を知ることもひじょうに重要だと思う。言葉や知性の可能性や優秀性ばかり教えられ、われわれはその限界や過ちを聞くこともない。老荘や仏教は、この愚かさや間違いをずっと説いてきたのである。

 また、人間の優越や世情の批判も、しっかりと聞いておきたいところだ。

「徳は名誉心に向かって流れやすく、知は競争心から生まれ出るものだ。名誉欲はたがいを傷つけあるもとになるものであり、知恵は争いの道具になるものだ。だから、この二つのものは凶器である。人間の行いを完成させるようなものでは決してない」



 優れたり、認めらられたりといった欲求が人間にはとりわけ大きいが、荘子はそれも戒める。

「富をよしとして追求するものは、自分の財産を人にゆずることができず、高い地位にあることをよしとするものは、人に名誉をゆずることができず、権力を愛するものは、人に権力の座を与えることができない。これらのものを手にしているときは、失うことを恐れて震えおののき、反対にこれを失えば嘆き悲しむ。しかも、このあわれむべき状態を反省することもなく、休むひまもない営みに目を奪われているものは、天から刑罰を受けてとらわれの身になっている人間だというほかない」



 いい言葉がたくさんありすぎて引用ばかりになって、とりとめもなくなるので、ぜひみなさんも老荘の書物に当たってほしいと思う。そのすばらしさを、短い文章であますことなく、つたえることはできない。

「「虚心のままに静かであること、無欲で心安らかであること、虚無のうちに無為を守ることこそ、天地の平安の道にかない、道徳の本心を得たものである」

無心にいこえば、心は安らかに楽しく、安らかに楽しければ、虚心のままに静かとなる。心安らかに楽しく、虚心のままに静かであれば、憂患も心にはいることができず、邪気もはいりこむすぎがないであろう」



 老荘はなんども読みかえす書物であると思うが、なんどかは部分を拾い読みはしてきたが、通読はひさしぶりだ。こんかいは、運命随順の考えがとくに目についた。いぜんは、優秀さや名声、知などの処世訓が目についたのだが、運命に逆らう気持ちが増していたのだろうか。

 人によっては、いろいろな部分が心にひっかかり、刺さってくると思う。人によって違いがあり、また時をへて、刺さるところも変わってくるだろう。

 老荘はぜひ読まれることをおすすめします。天地の視点で、人間や自分を省みる機会は、ほんと老荘の書物以外にほとんど見あたらない。


▼解説書ではなくて、原典に。わかりやすいですよ。
老子 (岩波文庫)荘子 全現代語訳 上下巻合本版 (講談社学術文庫)荘子〈1〉 (中公クラシックス)荘子 内篇 (ちくま学芸文庫)老子 (ちくま学芸文庫)



11 09
2017

幻想現実論再読

幻想の二つのベクトル、科学と芸術――『幻想論』 アンドレ・モーロワ

51DMFSFAoxL__SX218_BO1,204,203,200_QL40_幻想論 (1971年) (新潮選書)
アンドレ・モーロワ
新潮社 1971

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 西洋の幻想論には期待していないのだが、東洋のほかの知見から知ることがないかと読んでみる。

 東洋ははるか先、言語や思考の幻想や非実在性にふみこんでいるのだが、西洋は言語の幻想性すら問題にしない。西洋にとって言語は絶対堅固な岩盤なのであるが、東洋では砂上の楼閣にしかすぎない。

 言語はそれが構築した世界の実在性を信じさせるのだが、東洋ではそんなものはない、実在しないといってきて、それを人間の迷妄やマーヤー・幻想といってきた。言葉の非実在性を説くことは、人の悩みや悲しみも実在しないということなので、それを苦悩の解放だと捉えてきた。東洋は苦悩はマーヤーだといってきたのだが、言語に疑問をふさない西洋には、そんな考えは及びもしない。

 アンドレ・モーロワという人は、文学者や評論家であり、アランに影響をうけた人のようだ。

 本書は、人間のふたつの幻想を並列して、科学は幻想をそぎ落す方向をめざしているのに、文学や芸術では幻想をもっと創り出すのはなぜか、といった問いをしている。ふたつの相反する幻想の方向を、どうして人は望むのか。

 科学というのは新しい発見がもたらされれば、それまで真実と思われていた世界観はとつぜん偽や幻想になる。科学はこういった訂正と修正のくりかえしなのであって、われわれがいま信じている世界観も、いっときの真実と信じられている幻想にしかすぎない。

「われわれの脳髄は、そのようなことを企てるために作られているのではなく、自分の生活空間という限られた範囲内で、各個人に有益な世界の映像を与えるために作られているのである。われわれはこの宇宙のなかで、極微な場所を占有しているにすぎないので、想像もつかない全体性について語るのは向こう見ずなことなのだ」



 つづく芸術論では、科学とまったく逆のこと、幻想をそぎ落すのではなく、幻想こそがなぜ求められるのかということが問われる。

「モネ、シスレー、ピサロたちは、文字通り、マルヌ河やセーヌ河の美しさを、ユトリロはパリ郊外の白い家々の美しさを<創造>したのだ。「ただ芸術によってのみ、われわれは自己から抜け出し、自分の世界とは同じではないこの世界を、他人がどう見るかを知ることができる」」



 西洋であれ、日本であれ、幻想や創造の力を信じすぎていると思われる。だから言語や思考を最大限活用することばかりに気を奪われ、その害悪や欠陥に目をふさぎたい。そのために思考がつくりだす苦悩に閉じ込めれている人もたくさんいるというのに。そして、なぜか苦悩の幻想を解消する方法は、神という創作を信じる宗教のカテゴリにあるのである。

「苦しい情念の最大の原因、精神の平和の最大の敵は、想像力であるからだ。われわれが、考える対象もなく休息をはじめるとすぐに、われわれの想像力は「未来とか過去のなかを」さまようのだ。未来の場合には、想像力はさまざまな危険、病気、愛や、職業や、友情などの挫折を見せてくれる。過去の場合には、想像力が過ちを探し出して修正しようとする。…

想像力をなだめるにはどうすればいいのだろうか? われわれの注意を、想像力が変容できない見世物の上に固定することである」



 この先のはるか先にいったのが東洋であって、思考が見せる苦悩を幻想やイリュージョンとしてしりぞける方法を、思考を断つ瞑想という手段でおこなってきた。苦悩をつくるのは思考や言語であって、それは幻想にほかならないとその根っこから断とうとしたのである。

 西洋がこの段階にふみとどまろうとするのは、たとえ苦悩が大きくても、物質主義の貢献や恩恵をつよく信じるからだろう。言語の実在視は固定化された世界観を導き、固定化された物質の世界で改善や検討がくりかえされるからだろう。

 そういう世界観の中では、個人個人の苦悩は、交通事故の犠牲者くらいにしか思われていないのだろう。


唯幻論大全錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった目に見える世界は幻想か?~物理学の思考法~ (光文社新書)「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫)リチャード・カールソンの楽天主義セラピー


11 03
2017

幻想現実論再読

原典にふれることの大切さ――『世界の名著 2  大乗仏典』  中公バックス版

4124006128世界の名著 2  大乗仏典 (中公バックス)
長尾 雅人
中央公論新社 1978-05

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 仏教は人によってはイメージがいろいろ違うだろうが、たいがいは原典を読まずにできたものではないだろうか。原典を読むと、難解でその高度な知識に面喰うだろうし、たぶんまったく知らない人にはなにいっているかわからないと思う。

 われわれは科学と宗教の対立で、宗教は古くさく誤った迷信や土俗であり、顧みる必要もないものと思われている。そういう印象も加わって、現代人がはじめて仏教原典にふれると、まったく理解は届かないものとなるだろう。

 現代人が仏教にはじめて触れるポイントとしては、言語や思考の否定である。こんにちでは言語は絶対的な正義となっているが、そこに悪や弊害、害悪を見られるようになると、仏教の必要性がわかる。さらに言語や心象の実在というワナや過ちに気づくと、仏教がなんら誤謬にみちた迷信を語っているわけではないことがようやくわかる。科学というのは、言語の疑惑や嫌疑をまったく抱えていないのである。

 大乗仏典の主要な成立は、だいたいは紀元前一~紀元後三世紀のあいだのインドでおこっている。『般若経』、『法華経』、『華厳経』、『維摩経』、『宝積経』はこの時代に成立している。もうこの時代に頂点に達しているのである。この中公バックスでは、『金剛般若経』、『維摩経』、『宝積経』が収録されている。

 のちの仏教は論証や論理学になり、他学派や宗派との論争になり、とりわけこの論理がむずかしい。中国で、言語を否定しつづけた禅が興隆した理由を見るかのようだ。

 この中公バックス版では、じゅうらいの漢文訳をいっさい排除して、サンスクリット語訳、チベット訳の現代語訳に徹している。漢文を並列した仏教書は、なにをいっているさっぱり読めない。ムダである。漢文のお経なんか聞かされるわれわれは、さらに無意味である。読めない言語を聞かされて、バカにされているのかさえ思える。

 『維摩経』はいささか神格化されたエピソードが現代的にはそぐわないのだが、空性の説明はもう完成の域に達しているのではないだろうか。

「すべての存在は生じては滅してとどまることがなく、幻のような、雲のような、雷光のようなものです。あらゆる存在は、(他を)待ちもせず、一刹那すらも停止することはありません。あらゆる存在は夢や幻影のようであり、真実が見えているものではありません。あらゆる存在は水に映った月や、(鏡に映った)像のようであり、心の(妄想)分別によって生じたものです」



 『宝積経』はもう空性の頂点に達しているように思われ、空性の観念に固執することも戒められる。

「もしある人々が空性という観念をつくり、その空性に帰依するならば、カーシヤパよ、わたくしは彼らをこの教えにそむき、破壊する者であるとよぼう。実に、カーシヤパよ、慢心のある者が空性という観念(空見)によって(自分の思想)を飾りたてているよりは、スメール山ほどにも大きな個我の観念(我見)によっているほうが、まだましである」



 空性というのも、観念から離れさせるための「方便」である。また空性という「観念」にしがみつくのなら、空性の教えはなんの役にも立たない。

「心は形をもたないもの、見られないもの、認知されないもの、基底のないもの、名づけられないものである。カーシヤパよ、心はいかなる仏陀によっても見られなかったし、現在も見られていないし、将来も見られないだろう」



 『宝積経』はもう、ひとつの頂点をなしていると思う。

 つぎにナーガルジュナの『論争の超越』が収録されているが、ナーガルジュナは『中論』も論理学であって、わたしには極めて難解。

 パーヴァーヴィヴェーカの『知恵のともしび』は、言語の止滅が心の止滅であるといっており、ことばの止滅の大切さが説かれる。

 ヴァスバンドゥの『存在の分析』は、感覚器官の詳細な分析になっており、ほとんど役に立たない意味のない分析に思える。おなじくヴァスバンドゥの『唯識二十論』は、世界は観念や表象であるといった興味深い経典であるが、短い。

 モークシャーカラ・グプタの『認識と論理』は、他学派の論証などに費やされて、かなり難しいところがある。十二世紀からの各学派のまとめのようなところもあるが、そうたいして学びはないかも。

 仏教は、外側の印象でイメージをつくっている人が多いと思われるが、原典を読むことの大切さを痛感する。多くの偏見は、原典を知らないことからくる浅い印象でしかない。難解な論争や高度な知性に、面喰うことになる。

 仏教は、基本は言語の否定と実在論の過ちを指摘することにあると思う。現代では、この基本中の基本をおこなわない言語の信頼と無条件の礼賛があるから、仏教も顧みられない。

 言語と思考の非実在性を悟らないから、現代人は言語と思考の苦悩や苦痛の世界に閉じ込められている。そして、そのトリックやマヤカシにまったく気づかずに、人生の苦悩や苦痛に打ちひしがれている。現代人は、言語と思考の礼賛と信頼に毒されていて、仏教の必要性にまったく近づこうともしないのである。

 中公バックスはげんざいは古本でしか手に入らず、中公文庫で長大な大乗仏典が出されているようなので、こちらも手にしたいところである。わけのわからない漢文で読まされるのではなく、原典の現代語訳で読めるのでは、まったく意味も理解も違ってくる。

 仏教は、心理セラピーや言語学としても、こんにちでもまったく通用可能であり、その部分を救い出すべきであると思う。


大乗仏典入門経典ガイドブック大乗仏典〈8〉十地経 (中公文庫)大乗仏典〈10〉 三昧王経I (1) (中公文庫)大乗仏典〈15〉世親論集 (中公文庫)


10 27
2017

幻想現実論再読

ブラフマンとの共通点――『神を観ることについて』 ニコラウス・クザーヌス

4003382315神を観ることについて 他二篇 (岩波文庫)
ニコラウス・クザーヌス
Nicolaus Cusanus
岩波書店 2001-07-16

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 神秘思想は世界共通のことを語っていたのだと思う。文化や表現のしかたによって、あらわれ方が異なっている。そういう立場をとったのは、ケン・ウィルバーや井筒俊彦だろう。

 キリスト教というのは、人格神を前面に押し出しており、仏教とはまた異なる表出の仕方をしている。仏教は空や幻想を説き、虚妄から離れることを説くのだが、キリスト教は神への信仰や帰依をおもに説くようになっている。仏教からすれば、虚妄を説くことの難しさをあきらめて、信仰から悟りへと近づかさせる手段をとったように思えるのだが。

 神秘的詩人としてのシレジウスの瞑想詩集は、神や愛などの表現が、仏教言説とかなり異なるのだが、比喩がちがうだけで、同じようなことを語っているのだという読み方ができる。

 このクザーヌスもそういう読み方を期待してためし読みしてみたのだが、かなりのところ、撃沈である。

 神の無限性や表現のできない性質は、インドのブラフマン概念とおなじことを語っていると思うのだが、この論理性をかみくだいて理解するのは、かなり難しい。ソーカル事件のように、それらしき言説をならべたレトリックとさえ疑いがもたげるほどだ。

「私が極めて高く引き上げられる時には、私はあなたを無限性として観ます。それゆえに私はあなたを、近づくことができず、理解できず、名付けることができず、多重化できず、観ることができないものとして観るのです。

知性がどうして無限性であるあなたを把握できるでしょうか。知性は、自分が無知であることと、無限性であるあなたが把握されることは不可能であることを知っています。

なぜならば、知られえないものが知られ、観られえないものが観られ、近づきえないものが近づかれる場合のみ、あなたが知られうるものであるということを、知性は知っているからです」



 インドの宗教書『バガヴァット・ギーター』に書かれたようなブラフマン神と、共通のことを語っている。キリスト教の神秘思想が、インドの宗教神とウロボロスのようにつながっているのである。

 しかし、ここに書かれていることの論理性はかなり把握がむずかしく、わたしの手には負えなかった読後感がのこった。


 あと小編が二編収録されているのだが、『オリヴェト山修道院での説教』は、あたらしく修道院に入った若者に規律をしめす説教であるが、上長への従順が説かれており、自我の放下としては理にかなっているのだろうが、それが集団や組織に奉仕させられるときは、危険な教えだと思った。

 この説教を聞かされた若者は、弱さによって鞭打たれて天国の旅立ったことになっている。これを美談に回収してしまうところが、恐ろしい。


バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)シレジウス瞑想詩集〈上〉 (岩波文庫)霊操 (岩波文庫)エックハルト説教集 (岩波文庫)学識ある無知について (平凡社ライブラリー)

10 20
2017

幻想現実論再読

禅のラディカルさ――『世界の名著 18  禅語録』  柳田 聖山 編集

41M-FKHn-nL__SX331_BO1,204,203,200_世界の名著 18  禅語録 (中公バックス)
柳田 聖山 責任編集
中央公論新社 1978-08

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 禅というのは、いちばんラディカルである。

 言葉や観念、概念を否定する急先鋒である。さらにはみずからの言説、理論さえ蹴とばしてしまうのだから、支離滅裂、どなる、なぐるのパワハラ道場になってしまって、大半はわからない。

 たまにマジメに理論的に語る言説によって理解をようやく手にするのだが、それすらも蹴とばさなければならない。

 禅の古典というのは、現代人はどれだけ知っているのだろう。岩波文庫で『臨済録』や『無門関』が出ているのだから、これくらいか。あと、道元の『正法眼蔵』とか。

 中公バックスは禅の古典を現代語訳でまとめてくれているのだから、ありがたい。ここで収められているのは、『菩提達磨無心論』、『六祖壇経』、『臨済録』、『洞山録』、『祖堂集』である。

 『菩提達磨無心論』は、ただ心がないということをいっていて、意外にあっさりしたものだった。でもこれこそが人が捉えがたいものであり、見過ごしてしまうものだからね。

 『臨済録』はワケのわからない禅問答が多くて、どなる、なぐるのパワハラ道場のオンパレードなのだけど、大マジメに理論を説く章は、たいへんに感銘させられるものであった。でも、この理論も蹴とばさなければならないのだけどね。

「世間でも出世間でも、いっさいの存在は、実体もなければ、また生ずることもない。すべて空しい名称にすぎず、名称もまた空しい。君たちは、そんなつまらぬ名称を固定化して実在だと考えこむ。とんでもない心得違いだ」



 これが基本の基本であって、これをつかまないと、禅の意味はつかめない。

「仏が語った十二種の経典は、すべて表むきの説明にすぎないのに、学生たちは知らないで、表むきの名目について分別を起す。いずれも仮りものにすぎず、因果関係におちこんで、三つの迷いの世界に生まれたり死んだりすることを避けられない。

三つの方便や十二種の経典にしたところで、すべて糞ふき紙にすぎぬ。仏は幻想であり、祖師はおいぼれ坊主である。君たちは、いったい母の胎から生まれたのか。君たちが仏を探すなら、すぐに仏という魔につかまってしまう。君たちが祖師を探すなら、すぐに祖師という魔のとりこになる。君たちは何かものを探すなら、すべて苦しい」



 禅は、聖なる経典や権威ある知識さえも、蹴とばしてしまう。おとしめる。理論の固定化が、また真実にふれることを妨げるからである。禅は、理論を立てては、その積み木を崩さなければ、真実に出会えない。だから、つぎのような宗教や権威とはまさに逆の、過激な言葉が生まれる。惚れ惚れする。

「仏に出会ったら仏を斬りすて、祖師に出会ったら祖師を斬りすて、羅漢に出会ったら羅漢を斬りすて、父母に出会ったら父母を斬りすて、親族に出会ったら親族を斬りすてて、君ははじめて解放される」



 わたしたちの学校や権威の社会では、権威や教師を蹴とばせという言葉を聞くことはほぼないのではないだろうか。禅をつかむには、権威の固定化につかまらないことが、基本の基本なのである。

「真の仏は姿がなく、真の存在は特徴をもたない。君たちは、幻想のまわりに恰好をつけてばかりいるが、たとえ何かを捉えても、すべて老狐の精にすぎぬ。断じて真の仏ではない。外道の考えにほかならぬ。およし真実に道を学ぶものは、けっして仏をもちあげないし、ボサツや羅漢をもちあげない。三つの迷いの世界の中の功徳をもちあげることもない。

あらゆる存在は固形の形をもたず、動いているときは存在するが、動かないときは何も無い、三つの迷いの世界は単なる心の変化にすぎず、あらゆる存在は単なる意識にほからなぬからである。『夢と幻覚のあだ花を、何でわざわざつかめることがあろう』」



 禅は、言語や概念の無化をいちばんラディカルにつきつめた流れだろう。権威や理論さえ、おとしめる。言語の固形化をそこまで警戒して、言葉の積木はゆるされない。

 しかし、禅問答はなにをいっているか、とんとわからない。さいしょは言葉と理論によって説かないと、なにもつかめない。なにもつかめないまま、ひたすら言葉の否定をされても、なにもつかめないと思うのだが。理論である程度、高いところに行かないと、禅の効用なんてないのではないか、とわたしは思うのだけどね。

 『祖堂集』は禅僧の列伝で、釈迦も説かれているのだが、神格化がはなはだしく、臨済のような仏を斬り捨てろという立場ほどラディカルではない。ここに出てくる禅僧は、だいたいは6世紀から9世紀にかけての人が多いのだが、禅はそんなむかしから、ずいぶんとラディカルなことをいっていたんだなと思う。

 そのラディカルさが途絶えて、現代の世の中は言語と理論のもちあげが最上級にいたっており、迷妄の世界にまたはまってしまっているのは、どういうことか。


臨済録 (岩波文庫)無門関 (岩波文庫)碧巌録〈上〉 (岩波文庫)禅と日本文化 (岩波新書)六祖壇経 (タチバナ教養文庫)


10 14
2017

幻想現実論再読

無と恐れ――『般若心経』 バグワン・シュリ・ラジニーシ

4839700079般若心経
―バグワン・シュリ・ラジニーシ、色即是空を語る

バグワン・シュリ・ラジニーシ
めるくまーる 1993-08

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 ラジニーシは段階的にしかわからないのだと思う。

 わたしのばあい、さいしょ読んだときは西洋哲学ばかり読んでいる中で手を伸ばして、ほとんどいっていることをつかめなかったと思う。つぎに思考の弊害や害悪に気づいて、思考を捨てることの知識に熱中した。

 こんかい、この本を再読するにあたって、「無」という言葉がいちばん響いてきた。

 思考を捨てるということはまだ思考の力が強く、抵抗しなければ抗せない状態である。しかし、いまは思考の虚構性や非実在性をより実感している。そういう中では、無が実在であるという言葉がいちばん刺さってくる。

「われわれは無から出現し
われわれは無であり
われわれは無の中に消え去ってゆく」



 人間が無であるというのは、なかなかつかみがたい。しかし言葉や思考は「あること」、「実在」の世界の夢の中に生きている。頭の中で描いたに過ぎない思考や心象を、実在のものと思い込んでいる。しかし、そんなものは「実在しない」のだ。それを実感できれば、われわれは無であるという宣言が、胸に迫ってくる。

 人はふつう、なんで肉体や物体が満ちあふれたこの世の中や自分が、どうして無なのかと思うだろう。「あること」「有」がとうぜんで、確実だと思う世界に生きている。わたしたちはこの思い込みをどうしても落とせない。

 時間や過去を見れば、いちばんよくわかるかもしれない。過去は瞬間ごとに消え去ってゆき、この地球上のどこにも存在しなくなる。しかし、わたしたちは過去を思い出しては、目の前にあるかのごとく、嘆いたり、悲しんだりできる。存在しないものに、感情するという状態は、いったいどういうことなんだろう?

 われわれは、実在しないもの、無のうえで、仮構の心象や思いによって感情を立ち上がらせているだけではないのか。それが幻影や幻想といっていいものなら、わたしたちは無のうえに立っているのではないのか。

 眠っているときも、われわれは無に帰す。あると思っていた心や言葉も、無のうえに立てられた幻想ではないのか。われわれはずいぶんと無に親しい。

「この<無>こそまさに中核、ハートだ
あなたの実存のハートそのものなのだ

死とはあなたがそれでできているまさにその実体だ
<無>こそまさにあなたの実存なのだ」



 わたしたちは死を恐れる。自分に無に帰してしまうことを恐れる。自分の一生がなんの価値も証ものこさずに、無に帰すことを恐れる。そうして、価値や意味を打ち立てようとする。

 しかし、その価値や意味は、言葉や思考で打ち立てられた幻想ではなかったのか。わたしたちは、幻想で人生の価値を打ち立てようとして、そして無から遠ざかり、目をそむけようとするのではないのか。

 これは、恐怖症のメカニズムと同じである。恐ろしいから目をそむけ、回避し、逃れようとする。そうすれば、もっと恐くなり、しまいにはあらゆることを恐れるようになって、家からも出られなくなる。

 回避が恐ろしさをつくる。だから、認知行動療法や暴露療法では、恐さに直接向かってゆき、恐怖が幻想であることの実感をつかまなければならない。

 だけど、当の本人にとっては、恐怖は実体のありありとある現実である。恐怖なんか逃れようがないと思って、恐怖を避けつづける。身体が恐がること、回路づけられた恐怖を回避することに夢中になってしまって、その体験がピークを越えるとしぜんに収まってゆく体内活動であることに思いもいたらない。

 われわれは無を恐れて、言語や思考で幻想の回避をしつづける存在ではないのだろうか。無を回避したいから、言葉や思考の煙幕で無をふさいだつもりになっている。有しか見ない。幻想や無であることに目をつぶりたい。

 われわれは、「実在論者」になることによって、この世の無から目をそむけたい。実在論者になることによって、恐怖や感情の実在を信じ、その牢獄から逃れられない。感情や心象が実在しないという実態から、目をそむけたいのである。

 そうして、われわれは感情のジェットコースターやメロドラマの白昼夢にひたりつづけ、幻想の中で生きることになる。

 人間は認識の錯覚におちいっていると思う。正視したくないのは、無を恐れるからだ。人生の価値や有意義を打ち立てたい人は、とうぜんにこの無の教えを嫌悪するだろう。無は人生の虚無であり、空しさなのである。


 ラジニーシはたくさんの本が出ていて、どれが代表作や主著とよべるのか、わたしにはよくわからない。『存在の詩』がさいしょに紹介された著名な書物になっている以外、どれがおすすめされているのか、わからない。

 だいたいは、経典や人物に的を絞った講和集が出されている。そのとりあげた題材の重要度にしたがえば、いいのだろうか。

 ラジニーシはたとえが多く、話は長く、冗長である。簡潔に簡明にというわけにはいかない。やさしい言葉で語りかけているとはいえる。

 この人はどうして簡明で体系的な著作を書かなかったのだろう。禅のような生や人物同士のライブこそが実在という思想があるからなのだろうか。主著や代表作とよばれるものがあれば、的をしぼって読みやすかったのにね。


存在の詩 和尚 OSHOTAO―老子の道〈上〉隠された神秘究極の旅―和尚、禅の十牛図を語る覚醒の深みへ―和尚 講話録 (タントラ秘法の書)


10 07
2017

幻想現実論再読

実在性のベクトルが違うのかもね――『実在と現実』 山本 幾生

4873544149実在と現実
―リアリティの消尽点へ向けて

山本 幾生
関西大学出版部 2005-04

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 わたしとしては、実在しないことの感覚をもっとつかみたい。そのことによって、思考や感情、存在の威力がなくなってゆき、安らぎの境地に入れると思うからだ。

 東洋哲学がこのような考えをたくさんもっているのだが、西洋哲学の精緻で論理的な思考が、その理解をもっと助けることがある。

 わたしたちは言葉や思考、感情が実在していて、リアルであるという感覚を当たり前のものとして日々を暮らしていると思う。それらが実在しているのかと、いっときも疑問に思うことがない。そのことによって、東洋哲学では、偽りで虚偽の苦悩や苦痛を抱えることになっていると告げる。

 わたしたちの現実というのは、心象や言葉、思考によって組み立てられている。しかし、言葉や思考が頭の外にあるのを見たことがないし、それらは頭の外には出ない。頭の中に存在しているのは、霞のような心象や言葉ではないのか。物体として存在するわけではないし、ほかのことに気をとられると存在しなくなっているし、意識するまでは存在しない。

 わたしたちは、その言葉や思考で捉える現実というものを、リアルに厳然と存在していると信じ込んでいるのだが、じつはもっとはかない、危うい存在を実在していると信じ込んでいるだけではないのか。

 そういった考えの確証をめざしているのだが、この本は西洋哲学の流れによって、実在と現実の問題について論じる。おもにショーペンハウアー、ディルタイ、シェーラー、ハイデガーといった哲学者の思索をなぞりながら、問題の検証をおこなってゆく。

 難解すぎて、わたしには服の上からかゆみをかいているようなもどかしさをずっと感じつづける読書になったのだが、どうも西洋哲学はこの世は幻想であっては困る、意地でも実在の確証を求めたいかのようで、わたしのような非実在の確証を得たい者とは、ベクトルが違うようだ。

 処世訓のファンであるショーペンハウアーのこんな言説は、なにをいっているのか、さっぱりわからない。

 「物質は、意志が単に可視的になった姿である」。「意志が客体的表象という形式を取るかぎり」、「物質は意志そのものである」

 意志というのは、たんに意識や思考の意向のことではないのか。それが物質だとかいいだす。意志というのは、物体の確実性から遠く離れたものに思えるのだが、ショーペンハウアーは意志を確実なものと見なしたいようだ。

 「もし世界が表象にすぎないのであれば、世界は空虚な夢や幽霊の幻影のようにわれわれの傍らを次々に移り行くものにすぎず、考察に値しないことになる」

 世界が表象なら考察しないという態度は、なんなのだろう。

 デカルトの思考が存在の証明のような言説すら、東洋哲学の常識から考えて、どうやって打ち立てられたのかまったくわからない。とにかく、西洋哲学は思考であれ、意識であれ、実在していることの確実性を打ち立てた世界をお望みのようである。

 そういった意味で、思考や心象が実在しないと見る立場のわたしには、この西洋哲学の主流の考えが、どうも土台から違っているとして、感覚をつかめるものにならない。数学のように存在しないものの概念の証明を、西洋哲学は架空の空でやっているような感じがする。

 ということで、つづくディルタイやハイデガーの思想も、わたしのつかめるところにならなかった。

 わたしは、思考や心象が実在しない感覚をつかみたい。西洋哲学は実在している世界の確証を得たい。わたしはこの世界が幻影やマボロシであるほうが、安らかさを手に入れられると思っている。

 強化と破壊では、ベクトルが違いすぎる。そのことによって、理解は離れてゆくのではないかと思う。


現実と落着―無のリアリティへ向けて君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか―哲学的懐疑論の意義 (現代哲学への招待Great Works)現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった2つの違い実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)実在論と理性


10 01
2017

幻想現実論再読

ありえた過去=思考の囚人――『時間ループ物語論』 浅羽 通明

4800300185時間ループ物語論
浅羽 通明
洋泉社 2012-10-25

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 わたしたちはなぜタイムリープ物語や時間ループ物語が好きなんでしょうかね。

 発売されたときから気になっていた本で、2012年に出されているが、ようやく読む機会を得た。

 ここで時間ループ物語というのは、同じ時間をくりかえす『恋はデジャ・ブ』や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』や『涼宮ハルヒの憂鬱 エンドレスエイト』、『リプレイ』などの作品で、過去に帰る物語として、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『ターミネーター』、『時をかける少女』、『戦国自衛隊』などは対象ではない。

 ありとあらゆる時間ループ物語がとりあげられていて、見てない読んでない作品もたくさんあると思うので、あらすじを読むだけでは楽しめますよね。

 この考察が出色なのは、さいきんの作品だけではなく、同じ過去をループした物語の起源や古典を探ったことだと思う。『ファウスト』や輪廻転生、民話や浦島太郎、シジフォスの神話まで考察をひろげて、同じような思考の類型をもとめてゆく。

 最後の章のほうに、漱石の高等遊民論が出てくるので、同じ時間がえいえいとくりかえされるのは、直線的に成長してきた時間が終わり、成長も目的もなくなった「終わりなき日常」のような円環的時間に閉じ込められている気持ちがひろがってきたからだと見る。

 これはモラトリアム論やニート、ひきこもりのような近代的成長の拒否や逃避だという結論がみちびきだされたのだろうね。漱石の主人公たちは、恋が成就して生産や責任の重荷から逃避しようとしている。近代的成熟の拒否や逃避が、時間リープ物語に希求されているのかもね。

 わたしとしては、思考や回想はいくらでも過去に帰られるが、この世界は時間の一方向の流れから逃れられない、思考のあがきに思えるのだが。過去は頭のなかではいくらでもああでもない、こうでもないと可能性やありえた選択を思考できる。しかしこの世界の時間性からは絶対に逃れられない。思考は永遠に後悔や悔恨をループしつづけるが、現実の世界は時間性から絶対に逃れられない。わたしたちは、思考の牢獄に閉じ込められているだけなのかもしれない。

 「デス博士の島その他の物語」というジーン・ウルフの作品のなかで、デス博士は主人公にこういう。「だけど、本を最初から読み始めれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも獣人も」「きみだってそうなんだ。タッキー。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」

 物語は、読みかえすたびに、現在に生起する。これは過去だって、そうではないでしょうか。過去は思い出すごとに現在に甦り、わたしたちにあたかも現前にくりかえされているごとくに、悲しんだり、嘆いたりする。過去は、現在に生起する。

 しかし、それは現実にあるかのように見えて、過去の終わったことである。わたしたちは、幻やイリュージョンを現在あるかのごとく捉えて、感情することができる。過去のこのような認識のありかたは、そのまま物語の読解能力と重なる。

 つまりは、存在しない過去=創作物語を、現実に存在するかのように感情することができる。わたしたちは、こうやって存在しないものを現実に目の前にあるかのごとく思う認識能力をもっていて、そんなものはどこにも存在しないのではないでしょうか。

 わたしたちは過去の後悔や悔恨をかかえて、いくらでも過去を思い出し、くりかえし再現できることができる。でもほんとうは、そんなものは、もうどこにも存在しないのではないでしょうか。

 わたしたちは、存在しないものをいくらでも現在に生起させて、身悶えしているだけではないでしょうか。わたしたちは、存在しない思考というものの可能性や想像力の牢獄に閉じ込められているだけではないでしょうか。

 禅や神秘思想のように、無思考、無思量という選択肢を、われわれはとりえない。そのことによって、思考の無限ループにわれわれは囚われているのではないでしょうか。


▼著者が参考にしたサイトです。
 古今東西時間ループもの一覧 サイコドクターぶらり旅

恋はデジャ・ブ (字幕版)うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー [DVD]リプレイ (新潮文庫)涼宮ハルヒの憂鬱(2009年放送版)秋の牢獄 (角川ホラー文庫)宵山万華鏡 (集英社文庫)ファウスト〈1〉 (新潮文庫)それから・門 (文春文庫)時間の比較社会学 (岩波現代文庫)


09 24
2017

幻想現実論再読

学びはなかった――『スーフィー』 イドリース・シャー

4336042659スーフィー
―西欧と極東にかくされたイスラームの神秘

イドリース・シャー
Idries Shah
国書刊行会 2000-08-01

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 500ページほどの大部の著で、6264円もするがっしりとした単行本で、図書館で借りなければとても読めた本ではなかったが、わたし的には思想や内容を語った本ではなく、歴史や経緯の外側ばかり語っていて、ほとんど知りたい思想が読めた本ではなかった。

 スーフィーの歴史を語った本といったらいいのか、思想ではない。ゆえに内容については、ほぼ学べず、わたし的には役に立たない本で、ムダな読書の部類に属する。

 難解な本ではないと思うのだが、別にそういう話を聞きたいわけでもない話がずっとつづく感じ。なにを語っていたのか、外側ばかりで思想の内実をちっとも提示してくれない。

 ここでは、ナスルッディーンやアッタール、ルーミー、イブン・アラビー、ガザーリー、果てはアッシジの聖フレンチェスコまで語られるのだが、思想の内容ではない。

 アン・バンクロフトの『20世紀の神秘思想家たち』という本は、思想の内容をしっかりと語ってくれて、読みたい神秘家を指南してくれる本だったが、この本はまったくそうではなかった。虚仮脅しの本である。

 神秘思想を読むのに、日本には禅や仏教があるわけだが、日本のばあいは古くさい言葉や道徳を説かれている気がして、つい敬遠してしまう。だから、説明が現代的で詳細な世界の神秘思想に学びを求めたくなる。世界の神秘思想は、ぜんぶ同じ悟りや意識状態を語っていたと、わたしは思っている。

 六千円もかけて読もうかと迷っている人は、考えてほしい書物である。装丁ががっしりしていて、大部で、書棚の飾りにはなる書物ではあるが。



スーフィーの物語―ダルヴィーシュの伝承 (mind books)イスラムの神秘主義―スーフィズム入門 (平凡社ライブラリー)ラスト・バリア―スーフィーの教えイスラーム神秘主義聖者列伝20世紀の神秘思想家たち―アイデンティティの探求 (Mind books)


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