HOME   >>  幻想現実論再読
02 10
2018

幻想現実論再読

相性が合いません――『現代唯名論の構築』 中山 康雄

4393323289現代唯名論の構築
―歴史の哲学への応用 (現代哲学への招待)

中山 康雄
春秋社 2009-07

by G-Tools


 唯名論とか実在論といった普遍論争がどのようなものをいわれていたのか、興味をもって手にとってみたが、あまり得ることがなかったなあ。

 わたしは神秘主義や禅仏教のような言語の非実在性を感じる立場である。唯名論には近いと思うが、記号論的であり、共同幻想的といったほうがいい。だから概念の実在論のようなものはまったく理解できない立場なのだが、西洋哲学は言語の実体性を幻想のように捉える立場にはまったく落ちないのだと思う。

 言語の非実在性は、心理セラピーに活用できるのだが、西洋哲学は神秘思想の流れにはまったく手を伸ばさないのだな。意地でも言語は絶対的に存在するという土台からは降りようとしない。

 第二部では歴史叙述を語るのだが、大森壮蔵や野家啓一の物語論も語り出す。わたしは野家啓一の物語論のような反実在論的歴史観のような歴史は創作された物語であり、実在にはどこまでも近づかないという立場には近いのだが、この本ではそれらを興味深く描いているというわけではない。

 神秘思想や禅仏教のような言語の非実在性をとなえる立場はまったく出てこない本であって、わたしには食指を動かされる本ではなかった。分析哲学あたりは興味ある分野を語っていそうで、不毛な議論に思えて、どうも相性が合わないな。


現代普遍論争入門 (現代哲学への招待 Great Works)普遍論争 近代の源流としての物語の哲学 (岩波現代文庫)歴史を哲学する――七日間の集中講義 (岩波現代文庫)有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論


02 05
2018

幻想現実論再読

直接体験だけの言語――『ピダハン』 ダニエル・L・エヴェレット

4622076535ピダハン
―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ダニエル・L・エヴェレット
みすず書房 2012-03-23

by G-Tools


 魅力的な本である。著者が三十年にわたって、アマゾンの未開地に家族とともに放り出されて、文明から引き離されて生きることの冒険譚として大半をたのしめ、読後にYou Tubeで映像を見ると、まるで旧友に出会うかのようなうれしさがこみあげてきた。

 飛行機でピダハンの村までピンポイントで運ばれてきたのだが、妻と子どもがマラリアにかかったとき、町の医者にかかるまでの何日もの船での川をさかのぼる記録にも一章が割かれていて、この伝道師一家の災難とゆくえはどうなったのかと気になるのだが、その三十年後にはダニエルが信仰を捨てたことにより、家族は崩壊、子どもたちは苦しんでいるという映像を見て、ひじょうに残念に思う。

 この本は言語学の権威チョムスキーの「普遍本能」や、ピンカーの「言語本能」というこんにちの定説と衝突するから、注目されているといわれているが、反物質的なニューエイジの人生を生きているともいえるので、そちらの方面からも注目されるのだろうね。

 ピダハンたちは、視界から消えて、視界から見えることに大喜びする。飛行機がきたり、川の向こうから人がきたりするとき、かれらが注目するのはその人物ではなくて、視界から消えるか見えるかなのである。ピダハンの言語は、直接体験だけを言葉にする。

 まるで赤ん坊の「いないいないばあ」なのだが、大人になるとその驚きを忘れて、目に見えなくなる人や景色の驚きをなくして、定常的にまた会える、または想像で満たすことになんの疑問ももたなくなる。存在しなくなることと存在することの境界を、現代人はかんたんに見失うのである。

 この直接体験を超えてはならないという言語の制約をもつために、ピダハンは心配や恐れをもたず、たいへん幸福に生きることができる。恐れや心配というのは、過剰な想像力のことであり、それをつくるのは言語である。この言語を断つことにより、ピダハンはたいへんに幸福に生きられているといえる。まさにニューエイジや禅の生活の実践言語である。

 数の概念ももたないというが、数というのは抽象語である。抽象に人の頭がさまよいだすと、よけいな心配や不安を抱え込むことになる。神の概念もないし、創世神話もない。目に見える人の話しか信じず、直接体験をこえる事柄は、闇に消えてゆく。ただし、悪霊はかれらには現実に見えるものであって、この整合性は欠けているが。

 ピダハンは、ニューエイジや禅の「いま・ここ」だけの生活を、言語面から制約しているといえる。それをあらわす言葉がなければ、それは存在しない。過剰な心配や恐れをあらわす語がなければ、それだけその恐れは抑制される。現代人はたくさんの伝聞情報を真にうけて、膨大な情報の実在に恐れや不安を抱かされているのだが、目の前の人の話しか信用しないピダハンは、そういう恐れをさいしょからシャットアウトしているといえる。

 ピダハンは断固として実用性に踏みとどまる人で、天国も地獄も信じない。大義も認めない。正義も神聖も罪もない世界である。自分たちが知らないことは心配しないし、心配できるとも考えず、未知のことをすべて知りたいとも思わない。伝道師だったダニエルはこういったピダハンの中で暮らすうちに、神の不在になんの抵抗もなくなった。ただし、それを告げるのは二十年もかかったというし、家族は信仰問題で崩壊したといえるので、家族にとって信仰とは強固すぎる世界であったのだ。

 ここまで書けば、ピダハンはなんの悪意も敵意ももたない平和で純朴な民族と思うかもしれないが、ダニエルの家族は三回ほど、ピダハンの人たちに殺されかかっている。本に書かれていることは、ピダハンの妻たちに頼まれた禁酒の願いを、夫たちに逆恨みされて、交易業者にもそそのかされたこともあって、ダニエル一家を殺すということになった。おれたちに指図するなという話によって収まったようだが。

 性も乱交的である。伝道師の道徳観とどんなに抵触したことか。人の生き死ににも、自分の困難に立ち向かえないものには冷酷であって、難産をむかえた女性はみんなに放っておかれて命を落としたこともあったし、母を亡くした幼児にも情け容赦はない。自然の過酷さは、かられのルールでもある。ただ、あるがままを受け入れるしかない。マラリアにかかった家族を町の医者までつれてゆけるダニエルのような文明の伝手はないのである。

 第二部になるとかなり専門的な言語学の話にがらりと変わるが、冒険譚を期待している人にはちょっとついていけないかも。

 ピダハンには派手な創世神話や大げさな儀式がなく、注目を浴びることのないひっそりとしたアマゾンの原住民であるはずであった。でも時代がなにももたないことをよしとする反物質文化、ニューエイジの方向に向かっていることから、注目を浴びることになった。かれらは未来を生きているのでしょうか。



▼読み終わったあとに見ると、旧友に出会えたような感激を味わえます。
地球ドラマチック 2014年 『 "ピダハン" 〜謎の言語を操るアマゾンの民〜 』 43分



もし「右」や「左」がなかったら―言語人類学への招待 (ドルフィン・ブックス)言語が違えば、世界も違って見えるわけ言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)生成文法の企て (岩波現代文庫)言語・思考・現実 (講談社学術文庫)



02 03
2018

幻想現実論再読

撃沈です――『モノたちの宇宙』 スティーヴン・シャヴィロ

4309247652モノたちの宇宙:
思弁的実在論とは何か

スティーヴン・シャヴィロ Steven Shaviro
河出書房新社 2016-06-28

by G-Tools


 かなりのところ撃沈である。あらかたの概念の操作がなにをいっているか捉えられないという屈辱の読書をした。

 思弁的実在論について語った本であるが、わたしは言語・概念の非実在性をとなえる立場なので、概念の対象は実在すると主張するとされる思弁的実在論はなにをワカランことを語っているのかと、反発を感じていた。そこでどのような論理でこの立場が主張できるのかと読んでみたのだが、その概念までには届かなかった。

 思弁的実在論の入門書として読めばイタイ目に会いますね。この本はこれまでの思弁的実在論の整理をしているような本で、ホワイトヘッドの思想の再評価ももくろんでいる本である。たくさんの思想家や哲学者が出てきて、この思想の交通整理をしているような本なので、入門書としてはほど遠い。

 第五章の「汎心論がもたらす緒帰結」という章で、岩には精神があるという考え方の検討がなされているが、ゆいいつこの章だけはわかるほうだった。

 科学の時代には、生物と無生物が厳然と分けられているのだが、古代の人はあらゆるものに精神の存在を見いだしていた。岩や泉に精霊が宿るというのは、汎心論である。精神と物質に分けると、対象としての物質でしかない動物は機械や意識のない反射行動体になるし、自分以外の他者は物質でしかないわけだから、独我論的な利用や道具としての関係を築いてしまう。世界のあらゆるところに精神を見いだしたほうが、人にも地球にもやさしいのである。

 どうもこの本では、カントの主観は「物自体」を語ることはできないというテーゼに反論を挑んでいるような本で、20世紀に入っての言語論的転回や記号論的な思想を、「相関主義」という言葉でくくって、その立場を崩そうとしているらしい。わたしは言語や概念の虚無性、非実在性からもっと舞い上がろうとする立場なので、ほんとにこの立場と相いれない。

 わたしはまだ神秘思想的な探求をおこなっている。言語やこの世界のマーヤー・幻想を語る立場である。だから実在論とかの立場とは論敵だと思うのだが、むかしの実在論や唯名論といった思想の展開もくわしくは知らないので、ちょっとこのような本にも手を出してみた。

 マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』も売れているようなので、反発を感じる潮流がどうなってゆくのか、動向にすこしは目を配りたい。


有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)人新世の哲学: 思弁的実在論以後の「人間の条件」ホワイトヘッド著作集 第12巻 観念の冒険ホワイトヘッド著作集 第10巻 過程と実在 (上)


01 28
2018

幻想現実論再読

想像力の実在を信じた文明の悲劇

 言語は、「いま・ここ」にないものを言葉にして、そこにないものを実在のものと思わせる作用をもつ。

 たとえば、目の前にいない人のことをしゃべったり、終わった過去のことを話しているとき、いずれもその対象はもう存在しない。存在しないにもかかわらず、それがあたかも実在しているかのように、人は捉えることができる。

 このような実在しないものを現実にあるかのように捉える能力は、映画やマンガなどのフィクション視聴にも活かされて、現実には存在しない物語に、われわれは一喜一憂できるようになる。いっておくが、これは現実にどこにも実在しないものなのにである。

 マスコミでよく言われる言葉に、空想と現実の区別がつかないから犯罪を犯したといわれるのだが、空想と現実のあいだはそうなまやさしいものではない。言葉で話していることは、現実に存在していることより、空想や想像とよばれる範疇のほうが多いのではないのか。

 文明のビルや道路といったものも、物体として現実にあるのは、たしかである。しかしそれはもともとは、人の頭の中にあった想像や設計が、現実に建造されたものである。

 目の前にビルや道路があるのは、現実である。しかし、さいしょは存在しない想像や設計として頭の中にあるだけの状態があって、現実の世界につくりだされた。それの空想と現実のあいだは、どこにあるのだろう?

 養老孟司は、このような脳の中の創造が、現実に創出された状態を、「脳化社会」とよんだ。脳の中で空想されたものが、現実に生み出されるのが、われわれの文明である。

 ディズニーランドは、空想のアニメから生み出された現実のレジャーランドである。物体として存在するものはもちろん現実である。しかし、空想のアニメと現実の創作物はどこで区分けされるのだろう。

 これは言語が、目の前や過去に存在しないものを、あたかも現実に存在するかのように思う状態に似てはいないだろうか。頭で思う空想や想像であっても、現実の実在と区別や線引きもされない状態も、われわれには多いのである。

 たとえば、夫の浮気を疑う妻の疑惑は、ただの空想と思っているのか、もはや現実の事実と思われているのか。たとえば、だれかが自分の悪口をいっているように聞こえて、自分は嫌われているのではないかという思いは、現実なのか、空想なのか。空想と現実の区別は、思いのほか、われわれには明瞭に線引きをされているわけではない。

 この社会に、国家や会社や学校があるのは、あたりまえと思われている。しかし、その国家や会社、学校は建物の中にあるのか、外側にあるのか、壁にあるのか、ある一室にあるのかと問われると、焦点を定められない。こういった国家や会社といったものは、われわれがその機能や役割をおこなう場所という約束があるから、われわれにはそれが国家や会社と思われているだけではないのか。犬やネコに国家も会社もない。これらは空想なのか、現実にあるものなのか。

 われわれは思う以上に、空想と実在の区別をつけていない。空想の世界を実在の世界の中に生み出し、どんどん増殖させて、それを文明の発展や人類の進歩だと思いたがっているようである。そして、空想と現実の区別もあいまいになってゆく。

 空想を現実に現出させ、現実と区別をつけないようになってゆくと、人は実在しない恐れや不安、苦悩といった災厄も、つけくわえるようになった。わたしたちの悩みや苦悩は、現実には存在しない空想された仮構のほうが多いのではないのか。けれども、創造と現実の区別がつなかくなっているわれわれは、その想像上の苦悩に囚われたままである。

 われわれの社会は、空想や想像の価値をひじょうに高くおく。文明や技術の創造と発展の力を生み出したのは、それらの能力である。そして、同時にそれと同じほどの大きな恐れや苦悩も生み出したのではないのか。

 想像と現実の区別はついているのだろうか。たとえば、過去を思い出して、泣いたり、苦しんだりする人が、いないことなんてないだろう。しかし、それはもはやこの地球上のどこにも存在しない。わかっていても、苦しむ。未来を不安に思ったり、将来かならずやってくる自分の死にたいして恐れない人はいないだろう。でも、それってほんとうは、実在しない、まだ来ない空想ではないのか? 空想を脅えているにすぎないのではないのか。想像にすぎないと思っても、不安に押しつぶされる。

 いずれ、無に帰してしまう人間は、自分の一個の生をこの世に刻印しようとして、生きた証しを残しておこうとする。言語は記録を残しておこうとする。文明はビルや建造物をつくり、後世に残しておこうとする。人は有名になって後世にまで名を残しておきたいと思う。それらは、想像力の巨大な建造物ではないのか。そして、想像というのは、実在しない空想ではないのか。虚無や無ではないのか。

 時間の流れは、川の流れのように一時もとどまることはない。わたしたちの一瞬一瞬は過去になってゆき、いずれわたしたちの生命は終わり、文明もがれきや砂に帰すだろう。わたしたちは時間の流れの中で、一時も時間も事物もとどめておけない世界に住んでいるのではないのか。問答無用で、命も文明も時間のかなたに吹き飛ばされる。

 しかし、わたしたちの言語は違う。過去も未来も、あたかも現実に存在するかのようにふらふらと時間の無常からさまよいだす。ビルや建造物、文字や文書、写真や映像に残せば、あたかも時間を超越できるように思う。しかし、いずれは悠久の時の流れには、太刀打ちできずに、塵芥と化すだろう。

 わたしたちは、想像力の文明の飛躍と、想像力の巨大な恐怖や苦悩も知ってしまったのである。想像力がなければ知らなかった死の恐怖や、想像力の恐怖を知ってしまった。そしてまた想像力の助けを借りて、その恐れを埋めようとする。言語や文明はそれを助けてきたのではないのか。そして、流れ去る時間になんとか抵抗しようとする。

 人は想像力を手に入れた時から、とてつもない恐怖も同時に抱え込んだのである。自分の命の終わりという想像を。そして、時間を打ち消せるような回想であったり、文明であったり、記憶に、みずからの生命の永続を頼るようになったのではないのか。

 もし、その想像がまったく無いものだとしたら、まったく存在しないものだとしたら、われわれは巨大な苦悩も背負わず、また文明や創造もおこなわなかったかもしれない。

 想像力がまったく存在しない虚無だとわかったとき、われわれはただ流れてゆく時間の中で、苦悩も創出ももたない安らぎの中で暮らせるのだろうか。



4480084398唯脳論 (ちくま学芸文庫)
養老 孟司
筑摩書房 1998-10-01

by G-Tools


4588099116シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)
ジャン ボードリヤール Jean Baudrillard
法政大学出版局 2008-06-01

by G-Tools


4839700079般若心経―バグワン・シュリ・ラジニーシ、色即是空を語る
バグワン・シュリ・ラジニーシ スワミ・プレム・プラブッダ
めるくまーる 1993-08

by G-Tools



01 27
2018

幻想現実論再読

認知システムに当てはまるかたちで――『神はなぜいるのか?』  パスカル・ボイヤー

4757101740神はなぜいるのか?
パスカル・ボイヤー Pascal Boyer
NTT出版 (叢書コムニス 6)
2008-03

by G-Tools


 言語が創作するフィクションとしての宗教にはわたしは信をおかないのだが、言語を否定した神秘思想や禅も宗教としてくくられるのだから、言語で創作された宗教にも手を伸ばさないわけにはいかない。

 そういうことで、人類学者が書いた認知科学と進化心理学を応用した2001年のこの本を読んでみた。人類学者だから、キリスト教のような世界宗教だけではなく、未開民族の悪霊や祖先信仰のような宗教も、ここではたくさんふくまれている。

 宗教は従来、説明を与える、安らぎを与える、社会に秩序を与える、認知的錯覚だとかいわれてきた。その通説にたいして反論や疑問を呈するのが本書である。

 宗教は安らぎを与えるだとかいわれてきたのだが、霊や神は恐れや不安をもよわせるばあいも多い。

 本文428ページで、二段組みの多い文量であるが、論証の手際の鮮やかにすらすらと読ませる書物であると思うが、わたしには議論が錯綜してきて、森の中のラビリンスにあちこち巡らされたうえに、元来た道がわからないといった、最後に結論はなんだったんだ?となる書である。

 まあ、人間には存在カテゴリや推論システムといった心の認知システムがあって、このシステムに適合するかたちに宗教的説明があてはまり、宗教はその形態に寄生するのだといった説明のようである。

 霊や神は、見えない恐れである捕食者に似ているのではないかという説が出てきているが、見えない捕食者を「過剰検出」する認知の構造が人間にあって、その形態に宗教はあてはまるのではないかと。

 また、神や霊との関係には道徳的応酬の関係があるが、ほかの推論システムと統合されておらず、そのスキマに一見荒唐無稽な宗教説明であったとしても、あてはまるとかいわれている。

 人類がこの世界で生き残るために発達させてきた推論システムや認知システム、道徳的関係、集団関係などの要因が重なって、宗教説明がその認知構造にあてはまってきた、ということではないかと思う。

 いや、前述のとおり、よく把握できていないので、興味をもたれた方は本書にあたるのがいいでしょう。

 わたしの関心興味は、言語の非実在性のほうにあるので、この本のテーマは現在のわたしには強い関心をひかれるテーマではなかった。

 宗教は、神秘思想や禅のように言語を否定し、その非実在性を剥がしてゆく行為も中核にあったわけで、言語で創出してゆく神や霊概念がどうしてひとつの宗教としてくくられてきたのか、そちらのほうにわたしには関心がある。

 なんで言語創出と言語否定の行為が、神や霊という概念で結びつけられたのでしょうね?



宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰解明される宗教 進化論的アプローチヒトはなぜ神を信じるのか―信仰する本能神は妄想である―宗教との決別21世紀の宗教研究: 脳科学・進化生物学と宗教学の接点


01 21
2018

幻想現実論再読

「中論」と「霊操」の比較――『禅仏教とキリスト教神秘主義』 門脇 佳吉

4000287869禅仏教とキリスト教神秘主義
(岩波人文書セレクション)

門脇 佳吉
岩波書店 2014-10-16

by G-Tools


 わたしは禅が言語とその実在を否定した教えであるにたいし、キリスト教は言語とその実在を信じたうえでの言語上でのセラピーだと見なしている。

 言語の否定と肯定はほんらいは同居できないはずなのだが、言語の実在を肯定したキリスト教にしろ浄土宗にしろ、同じ宗教として括られるのはずいぶん疑問である。

 言語の実在を肯定したキリスト教では、言語否定をおこなう禅や神秘思想と、同じ地点にたどりつけるのだろうか。言語表象は、無や空をとなえた地点と、過程はあまりにも違うが、同じ神秘体験にたどりつけるのだろうか。

 著者はカトリック教の修行や学問をへて、禅の修行や学問もおこなった東西宗教の境界に立てる人であり、比較宗教をおこなっている。主観的で内的な体験もへたうえでの比較宗教であるから、かなり貴重な人だといえるのではないだろうか。

 エックハルトの研究もそうだし、ナーガルジュナの『中論』と、イグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』の共通点と相違点を比較する視点はすごいと思う。

 最終章にこの著者がキリスト教と禅をへた自叙を書いているのだが、これはいったいだれの理解力に向けて書かれているのかと思うほど、言語に込めた意味のひとりよがり度もなかなかのものである。イグナチオ的霊的自己とか、アリストテレス的表層意識なんてだれが理解するのだろう。

 まあ、難解なこともあるが、ナーガルジュナとロヨラの修行の過程には興味あリ、もう一度熟読しないと理解に達せられないと思うのだが、まあ、いまのわたしにはこういう険しい山の向こうになにかを見つけたいわけではない。


 なお、同じような本として、鈴木大拙の『神秘主義 キリスト教と仏教』という本も読んだのだが、得るものがあまりにもなかったので、割愛させていただく。エックハルトや輪廻について語ったり、妙好人について詩を載せているのだが、感銘させられるものがほぼなかった。鈴木大拙のリスペクトがないというわけではないのだけど。

4000233904神秘主義 ーキリスト教と仏教ー
鈴木 大拙 坂東 性純 訳
岩波書店 2004-02-27

by G-Tools



中論「改訂版」霊操 (岩波文庫)ある巡礼者の物語 (岩波文庫)哲学コレクション〈4〉非神秘主義―禅とエックハルト (岩波現代文庫)自己認識への道―禅とキリスト教


01 16
2018

幻想現実論再読

言語上でのセラピー――『ある巡礼者の物語』 イグナチオ デ・ロヨラ

4003382021ある巡礼者の物語 (岩波文庫)
イグナチオ デ・ロヨラ Ignacio de Loyola
岩波書店 2000-02-16

by G-Tools


 わたしは言語をそぎ落として、フィクションをはいでゆくのが、宗教の原点だと思っているのだが、キリスト教においては、その言語フィクションを可能なかぎり活用しているので、これが言語否定の代わりになるのかという興味がある。

 宗教学者は、それを「覚りの宗教」と「救いの宗教」に分けているのだが、たとえ言語がフィクションをつくるとしても、その言語上でたしかに安心や癒しをもたらすこともある。死を恐れていたらあの世があることの安心感や、自己を責めつづける人が自己を神に委ねる安らかさとか、たしかに言語上でのセラピーはあるわけだ。ただ、これが言語ゼロの「覚りの宗教」のどこまで代用品になるかだ。

 このイグナチオ・デ・ロヨラの自叙伝を一読しての感想は、宗教的熱情に犯された酔狂の人という印象をもった。日常的解釈も、信仰によって歪んでおり、しかしけれども、われわれの日常的解釈だって、ずいぶん歪んでいないとはだれがいえよう。

 ロヨラの神秘体験にも興味をもって見てみたのだが、幼児のイエスを抱いたマリアを見たり、鍵盤のかたちで三位一体を見たり、幻視的な特徴があるようだ。

 偉大な神秘体験とよばれるものは本人いわく照明体験といい、多くの事柄をいっきょに理解し、生涯をとおしての知見はこの照らしにはおよばなかったといっているように、神秘思想家のいう神秘体験に通じるところがある。言語上でのセラピーでも、この地点までたどりつけるのか。

 ロヨラは『霊操』を読んだことはあるのだが、いまいちピンとこなかった。この人は日本にキリスト教をもたらしたイエズス会(イエスの友の会)の創始者であり、日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルの学生のころに出会った記述がある。ほんの一行だけである。

 ロヨラは物乞いをしながらのエルサレム巡礼やパリの大学への行程をへており、布教活動も独自なものであったので、とうじの権力であったドミニコ会の宗教裁判や審問をよく受けている。キリスト教というのは、公式な教義から外れることを、ずいぶんと統制していたようで、権力というのは見解の相違すら許さないものという感想をもった。

 言語上でのフィクションでのセラピーを受けるより、言語をそぎ落とすことによるセラピーのほうがよほど優れているとわたしは思うのだけどね。


霊操 (岩波文庫)イグナチオとイエズス会 (講談社学術文庫)キリストにならいて (岩波文庫)告白 上 (岩波文庫 青 805-1)キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫)



01 12
2018

幻想現実論再読

仏教のカンチガイの山――『誤解された仏教』 秋月 龍珉

4061597787誤解された仏教
(講談社学術文庫)

秋月 龍珉
講談社 2006-09-08

by G-Tools


 いい本である。仏教書を読んでいたら、あるいはまったく読まなかったら、仏教は入り乱れてほんとうにいったことが区別できなくなる。そのような区別をはっきりつけようとしたのが、本書である。

 仏教書を読まない人だったら、死後の霊を祭る葬式仏教しか思いうかばないだろうが、この書では仏教は、無霊魂説だとはっきり否定する。インドでは信じられていた輪廻説も否定する。

 仏教は無神論と著者はいうのだから、はたして仏教は宗教なのかとわたしはいいたいところだが、著者はそういうことはいわない。

 わたしはインド・ヒンドゥーのブラフマンや梵我一如説、絶対的実在者との合一を説く神秘思想とおなじではないかと思っていたのだが、著者はそれも違うという。ブラフマンのような「大我」になるのではなく、仏教が説くのはあくまでも「無我」であるから、違うといっている。わたしにはブラフマンは実在しない名づけられないものといっているのだから、無境界であり、無我と変わりはないと思えるのだが。

 著者は「覚りの宗教」と「救いの宗教」に分けているのだが、この区別のなさこそ、宗教を混乱させる大きなものと思う。「覚りの宗教」は禅のように言語フィクションをゼロにしてゆく教えであって、「救いの宗教」は言語フィクションに開き直って、その実在を言語上に委ねてしまう教えであると思う。

 そもそも宗教の核である神秘思想は、言語の否定をおもに出発点としている。でも宗教になるとまったくひっくり返って、言語で創作された世界を実在のものと思い込むのである。禅を信奉する立場からすれば許せないといいそうなのだが、著者はそういった浄土宗や親鸞の教えには寛容である。わたしはそれをやったら、言語フィクションの地獄に落ちるだけだと思うのだけどね。

 言語というのは、それ自体が創造・創出してゆくものである。そして、人はたちまちその実在を信じてしまう。「ないもの」を、あたかも「ある」かのように思い込む作用が、言語である。覚者というのは、この言語の性質をはっきり否定したはずである。でもそういった説明はあまりにも伝達がむずかしく、言語上でのセラピーとなるフィクションの世界観をひろめたというしかない。

 言語のない癒しではなく、言語のうえでの癒しである。この分岐点はあまりにも大きい、罪深いとさえ思えるのだが、現代人ならこの宗教崇拝の奥に隠された言語否定の思想くらい、理解は難しくないと思えるのだが。



徹底討議 無心と神の国―宗教における「自然」親鸞とパウロ―徹底討議絶対無と場所白隠禅師: 仏を求めて仏に迷い (河出文庫)仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 (中公新書)

01 06
2018

幻想現実論再読

読みとりにくい大部の書――『意識の起源史』 エーリッヒ・ノイマン

4314010126意識の起源史
エーリッヒ・ノイマン Erich Neumann
紀伊國屋書店 2006-10-01

by G-Tools


 2018年の初記事です。本年もよろしくお願いします。

 600ページの大部で、がっしりした本で、とても権威を感じる本なのだが、残念ながらわたしには読みとりにくい書物であって、苦行に近いあまり得ることのない読書になってしまった。

 人類の無意識状態から自我を生まれる過程を、神話の太母や竜の状態から英雄神話によって自我が形成されてゆく様をたどった壮大な研究といえるのだが、なんかひじょうに捉えにくい書物なんだな。文章が難解というわけではないのだが、シンボルやイメージを捉えるといった象徴を読みとる作業が、自分の中ではよく働かなかったのかな。

 神話はおもにエジプトやメソポタミア、ギリシャの神話をあつかっているのだが、わたしは太陽信仰や豊穣神話、死と再生の世界観に興味をもっていたので、この角度からも神話を読みとりたい気持ちがあった。いま追求している神秘思想からも、自我の形成史には興味がある。だけど、有意なつながりをうまく見いだせなかった。

 太古の無意識状態を、ウロボロスやプレローマという言葉であらわすのだが、この言葉でケン・ウィルバーの『意識のスペクトル』、『無境界』を思い出したのだが、ウィルバーはきっとこのノイマンの本を念頭においていたのでしょうね。

 英雄というのは太母や竜を殺して、無意識的な状態から自我を生み出し、呑みこもうとする母を殺し、文化規範としての象徴としての父を殺し、自我を打ち立ててゆく。人類の自我の形成史は、そのまま個人の自我の発達史も重なる。

 エリアーデの神話解釈によると、古代神話は冬の死と春の再生をかたどった物語となるのだろうけど、ノイマンは死と再生のテーマを、自我の発達史にどう読みとったのか、わたしの読解力ではよくわからなかった。

 神秘思想は、自我を形成した後にふたたび母性的な無意識に戻ることを意図する思想だと思うのだが、ノイマンはその発達をよしとしたのだろうか。そういった無意識的全体性は、集団や国家ファシズムに呑みこまれて、危険な歴史をなんども見せてきたのだが、その呑みこまれを神秘思想は、回避する道を見いだしてきたのだろうか。まあ、残念ながらこの本からわたしは読みとれない。

 意識の起源史として、似たような本としてジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』とカップリングで読む形になったのだが、おもしろみという点では、だんぜん『神々の沈黙』に軍配が上がる。まだ『意識の起源史』を読まれていない方はご注意を。

 なお、この本は5,700円もする高い本なので、読むことをためらってきたのだが、図書館で無料で読めたので図書館様々である。本棚のハクづけには残しておきたい書物なのだが、そんな効用は自分の養分にはひとつもならない。


芸術と創造的無意識 (ユング心理学選書 (6))深層心理学と新しい倫理―悪を超える試みユング自伝 1―思い出・夢・思想神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡無境界―自己成長のセラピー論


12 29
2017

幻想現実論再読

自我以前の主体はだれ?――『神々の沈黙』 ジュリアン・ジェインズ

4314009780神々の沈黙
―意識の誕生と文明の興亡

ジュリアン・ジェインズ Julian Jaynes
紀伊國屋書店 2005-04-01

by G-Tools


 古代の人間には意識がなく、神々の信託をだれもが聴く右脳中心の二分心をもっていて、その証拠を古代文明に跡づけようとした驚嘆の書であって、謎解きのスリリングさに600ページの大部を忘れさせる快作である。

 意識がないわけがないだろう、神の信託を聞いていたなんてほんとうなのかという懐疑と疑問が押し寄せてくるから、著者のいう証拠や論証をもっと早く見せろいう気持ちで読み進めさせられることになる。語り口も魅力的であって、論証の手さばきも見事である。

 意識がなく神の声を聴いていたという文明論はトンデモ文明論にすぎないと片づけることもできると思うのだが、意識研究のデネットやダマシオなんて人の評価も聞かれるのだから、かんたんには斬り捨てることのできない内容はもっていると評価されているらしい。

 意識がなければ神の声を聴くというのなら、動物も意識の確度が弱いなら神の声を聴いているのかとなるのかと論拠を疑いたくなるのだが、この奇想な書は意識のほかの焦点や光を当てたという点で、尽きせぬ泉を見つけた意義があるのかもしれない。

 意識がない状態がどうしても解せないと思っていたのだが、読後にアマゾンのレヴューで見つけたのが、「この著者がいう「意識」とは「言語を利用して、周囲の事物、人間を認識し、その相対として自己を認識している状態」をいいます」という指摘である。言語が育む自己意識という意味らしく、われわれが素朴に思うような意識ではないらしい。

 これはまったく「自我」のことをいうのではないかと気づいたのだが、この著作にはほとんど「自我」という言葉が出てこない。「自我」概念の欠落を知ると、この書をはじめから全部読みかえさなければならない気持ちに駆られた。動物行動学から出発した著者は、「自我」というあいまいではっきりしない心理学的概念を嫌ったのだろうか。自我概念の欠落はあまりにも大きい。

 自我概念を完全に無視したうえで、著者が定義した「意識の特徴」も興味深い。空間化、抜粋、アナログの「私」、比喩の「自分」、物語化、整合化、といった特徴をあげている。言語は比喩としか成立しないといったことや、心の空間化、時間の空間化といった洞察は、意識への違う目を啓かせるので、こういう捉え方はもっと洞察を深めたい気持ちとして残しておきたい。

 『イーリアス』や『オデュッセイア』のあいだの、神の声に従う二分心のあいだと、個人自我が芽生えた後の形跡をこの書にたしかめたくなる。『イーリアス』のころはほんとうに神の声に従い、個人意識はまったくなかったのだろうか。

 いや、これはたんなるシャーマンが権力をもった時代のことをいっているだけで、意識がなかったとはいえないと思ったり、また個我意識の発生経緯について思いを馳せたりしたくなる。

 よく心はどこにあるのかという問いに心臓をあげる答えに、現代人は頭とあげることが多く、奇異に思うわけだが、本書では古代の人々が心的な概念をつくりあげる前には、臓器や物質の概念で心の状態を捉えていた変遷がたどられているのを読むことができて、現代人は心を頭に切り離し、臓器環境を末端に抑え込んだ様がよくわかるようになっている。頭の心的概念こそが「私」になっているのである。

 トランスパーソナル心理学や神秘思想では、自我というのは想像上の観念であるといわれるのだが、本書はその自我が創作される前の意識状態を浮き上がらせようとした試みといえるかもしれない。頭の中の想像上の小人をつくりあげる前に、人間の意識状態はどのようなものだったのだろう。

 言葉や概念で捉えない環境が広がっていたわけで、自我が構想される前には、なにが、だれが意志や指示を出していたのだろう。著者がいう意識がないというのは、このような意思決定者としての自我がない以前はどのような状態だったのだろうかということではないだろうか。だれが意志や指示をおこなっていたのかと問うと、神の声という主体を想定するしかない状態を思うしかないということだろうか。

 この書は、自我という概念を失った動物行動学が、主体を失った人間が何によって意志や指示をおこなっていたのかという主体の喪失をあぶり出した書ともいえるかもしれない。そこに神の声という主体がすっぽりと収まった。

 わたしは、神々を信じた時代というのは、言語の実体化にはじめて出会った人類が、頭でつくりだす概念の想像以上の実在化の力に圧倒されてしまった時代ではなかったのではなかろうか、と思うのだけどね。言葉や想像力の圧倒的な力に、人類はころっとひれ伏してしまった。

 この書は自我がない以前には意識状態はどのようなものだったのか、主体がなかった時代にだれが意志や指示を出していたのかという問題を考えた書ではないかと思う。自我という言葉をまったく使わないために、なんとも混乱した書になっているが、自我以前の意識状態を考えた書ではないだろうか。自我ができる以前の意識状態、意志の主体者はだれだったのかという問いを発した書ではないだろうか。


心の先史時代ユーザーイリュージョン―意識という幻想心はどこにあるのか (ちくま学芸文庫)デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

イリアス〈上〉 (岩波文庫)ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)神統記 (岩波文庫 赤 107-1)ヘーシオドス 仕事と日 (岩波文庫)


google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top