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11 17
2019

幻想現実論再読

群を抜いた明晰な書――『悟りを生きる』 スコット・キロビー

悟りを生きる ― 非二元へのシンプルなガイド ―(覚醒ブックス)
スコット・キロビー
ナチュラルスピリット (2018-07-13)



 あまりにも感銘したので、いちど読了後、間髪入れずに再読したほどの好著。さいしょの気づきという重要部分が私にはどうもつかみかねて。

 スコット・キロビーはネットでも評判にもほとんどなっていないようだし、聞いたこともないし、YouTubeの動画でもたいして再生されていないようだが、この本のように明瞭で明確な説明能力は、ほかの本には見いだせない明晰さを感じた。

 非二元や神秘思想に興味ある方はぜひ手にとっていただきたい。ただアプローチとしては、瞑想を重視しない方向なので、抽象的でつかみにくいタイプをさいしょからつきつけられる書物となるかもしれない。

 私としてはいちばん知りたい重要なことは、物体が独立してべつべつに存在しているという認識をくつがえす説明をいちばん理解したいと思った。キロビーは物体は、思考や概念にほからないと喝破する。その説明もひどくやさしいのだが、う~ん、それでも私はしっかりと実感できたとはいいがたい。

「ところが思考がなければ、そこには独立した物体は存在しません。そもそも、あなたがあなたの目で見ていると信じている物体はすべて概念なのです。部屋の中の色、光、影、形などの基本的な要素でさえも、概念や印象です。…思考がある時にだけそれぞれのもの(それに関する説明的特徴をまとった)が個別に現れるのです」



 同様に他から独立して存在する「私」などいないとなんども説明されるのだが、このような自己の中心があるような思い込みをつくるのは、思考にほからないという。思考が言葉のラベルを貼ることによって、個別にべつべつに切り離された物体や身体があるように思いこむようになるというのが、キロビーの主張である。

 キロビーはさまざまな現われ=思考、感情、感覚、状態、体験に思考のラベルを貼ることによって独立したものが存在するかのような思い込みが生まれることを見いださせてゆくのだが、この人は言語学的なアプローチが強いのだと気づかせた。

 遠いむかしに、藤沢令夫の『ギリシア哲学と現代』という本に、言葉には主語と述語の文法があるために、述語にはあたかも主語という「実体」があるように見せかけるのだという批判に感銘したことがある。藤沢はこのような二元論的下絵が科学的認識にはあると批判するのだが、非二元というのはまさに二元論批判だ。この本を思い出せるほどキロビーは言語学的アプローチが強いことをうかがわせる。

 それと大事なのは、この世を現われては消える一時的な現われの世界だと見なすことである。キロビーはこの刹那的時間論をしっかりと実感しているからこそ、思考であれ、感情であれ、ひどい体験であれ、現われは消える現われに、拘泥しなくてすむ態度をもてるはずである。この一事をしっかりと実感できないと、キロビーの方法はかなり弱いものになると思う。

 私たちは自己の中心が独立してあって、思考や感情、体験や状態を、変えたり、無力化したり、管理したり、思い通りにしたり、取り除いたり、逃げたりしようとする。あるがままやそのままであることを肯定も受容もできない。その否定や拒否こそが、自己が独立してあるという存在感を強めるはたらきである。これはあらゆることに顔を出す基本的なことであって、思考や自我のこのはたらきを見抜けないと、私たちは自己の物語や幻想から抜け出すことはできない。

 キロビーは明確に時間の抵抗が、自我をつくりだしていることを表明している。過去の抵抗が後悔や不満をつくり、未来の抵抗が不安のない世界を夢想し、現在の抵抗がいま起きていることの否定をもたらすという指摘をしている。われわれは否定し、抵抗することによって、思考や自我を強化し、その流れや物語をえんえんとくりかえす。ものごとから切り離され、コントロールする主体は、そうやって生み出され、教化されつづける。あるがままの抵抗こそが、自我や思考の正体である。

 振り子運動の指摘もなかなか刺さったのだが、私たちは悟りやめざすものを安らかで、やわらいだ至福な状態だと見なしがちである。それを選別し、選びとるのも、思考のはたらきにほからないのであって、またしても思考のワナにはめられていることを気づかせる。良い気分、悪い気分を選別し、選びとるのも、思考なのであって、私たちは悟りや安らかな心をめざして、またしても思考に絡み取られている。良い・悪いの言葉のラベルを貼らずに、それも現れて消える一時的な思考にほかならないことに気づく。キロビーは、思考のない気づきの状態をそのように見なす。

 同じようにクリシュナムルティもよく受動的な態度をすすめたのだが、思考や意志をたいせつにしてきた私たちはこれがいちばんむずかしい。勢い瞑想でむりに思考を取り除いたり、なくそうとする。これこそが、またしても思考のはたらきにほからないのだが、キロビーもさいしょからそのような同じ姿勢をすすめるので、たいそうむずかしい。しかしこれこそが、独立した私が存在すると思いこむ原初なのであって、これを見抜かなければ同じ思考の過ちに囚われつづけるのだろう。

 キロビーはさまざまなものに、「変えたり、取り除こうとしたり、思い通りにしようとする」という言葉をくりかえし使う。まさにこのコントロールし、抵抗する主体こそが、私の中心という存在をつくりだしてゆく運動そのものにほかならないわけだ。あるがままを抵抗することによってこそ、「自我」は永続的な存在を強化でき、「私の物語、幻想」はつづいてゆくのだ。この自覚や、見抜くことこそ、私たちが解放され、自由になる根本であるのだろう。

 もっと的確で正確な言葉を選りだしたいのだが、私にはまだまだ足りない気持ちが残る。みなさんにはぜひスコット・キロビーの著作にじかに当たっていただきたい。これほどまでに明晰、明瞭な本はほかに出会ったことがない。



▼動画はたくさんあります(日本語訳はありません)



ギリシア哲学と現代―世界観のありかた (岩波新書 黄版 126)夢へと目覚める(覚醒ブックス)今、永遠であること(覚醒ブックス)すでに目覚めている(覚醒ブックス)言語が違えば、世界も違って見えるわけ


10 30
2019

幻想現実論再読

五本の指に入る神秘思想家――『覚醒の炎―プンジャジの教え』

覚醒の炎―プンジャジの教え

ナチュラルスピリット



 私が読んできた神秘思想家のなかで五本の指に入る評価をあたえたい人だと捉えたい。クリシュナムルティ、ラジニーシ、ケン・ウィルバー、ニサルガダッタ・マハラジにつづき。ラマナ・マハラシの弟子ではあるが、私的にはこの師匠にはあまり学べなかった。

 この人の言葉ではなく、フランス女性の手紙だが、悟りの状態をこのように記述している(文章の前後をかなり割愛するが)。

「…いたるところで、すべての物事の中に同じ存在の本質が、今、たった今、はじまりも終わりもなく、形も色もないものでありながら、単一で、真実の、考えうるすべてのものの基盤として存在しているのです。

…私は名前も、形も、色も、姿も、動きもない存在の本質でありながら、「私」という意識の中に現われるすべてに名前や形や、色や、姿を与えるのです。
突然、私は疑いの翳りもなく、私がバラを生長させ、鳥を歌わせ、森の水を流れさせる唯一の本質であり、それが自然に何千もの色彩を与えていることを感じ取ったのでした。

…私は存在の本質、原初から根源にある本質、「私」という本質以外の何ものでもありません。私はすべてに満ち、いたるところに存在しています。私はすべてであり、すべてが私なのです。そこにはそれ以外何も存在せず、距離さえもありません」



 禅では悟りの先の状態を語らないのだが、この文章では語られている。これは心霊=神自体というものなのか。禅とか仏教はほんとうにこういうものを目指しているのか。チャネリングのラムサやエマヌエルなどの本でも読んだことのある状態だ(「仏教、ニューエイジ思想の認識論、世界観」)。

 もうひとつ感銘して、ぜひとも理解したいと思ったのが、身体への誤った同一化である。

「「私は身体ではない。私は気づきだ」という正しい自己認識が確立されれば、それ以外のすべては消え去るだろう。それはただ崩壊するのだ。
この偽りの自己同一化は途方もない苦しみをもたらす。「私は身体だ」という概念があなたの想念と行為の基盤となるとともに世界は現れ、世界が存在する間は、それがあなたにとっての実在となる。そしてそこには地獄が、天国が、神々や宗教が存在するだろう。自分を身体と考えるかぎり、あなたにとってはこれらすべてが実在となるのだ。
…それはスクリーンの上に投影された画像との自己同一化であって、画像が映しだされているスクリーンとの自己同一化ではない」



 人間はとうぜんのごとく、私は身体だと思っている。「私はあれをした。私はこれをしている」――すべて身体の活動を意味している。これ以外のありようを、私たちは考えることができない。プンジャジや神秘思想家は、気づきや意識がすべてであって、心や思考、身体に同一化するのは誤った投影だと口々にのべる。この言説がどうにも納得しがたいのである。

 身体は画像である。その背後にあるスクリーンこそが、われわれの正体であるという。気づきや意識といわれるもの、「見ているもの」がそれであるという。私の見ている世界は、この身体にともなって世界を見せるし、感覚はこの身体にあるのみである。どうすれば、その背景や「見ているもの」に同一化し、その他すべてのものが同等に、「私だ」と捉えられるというのだろう?

 思考の脱同一の意味は、私にもだいぶわかるようになった。だが、身体の脱同一化はまだまだ納得しがたい。私は身体ではないという捉え方は、どうすれば自分に納得できるものになるのだろう?

 ほかに「あなたはすでにそれなのだ」ということはよくいわれるが、プンジャジでもなんどもいわれる。いわく「真我は呼吸より身近にある」。努力さえ必要ない。「すでにそれなのだから」。たいがいの人は、努力や理解でそれを手に入れようとする。

 それは「努力して、この存在から走り去りなさい、非存在になってみなさい」と、いわれているようなものだとプンジャジはいう。「拒否してみなさい、避けてみなさい。この存在から出てみなさい」とプンジャジはいう。あなたは常に存在の中にいる。逆説療法のような巧みな方法にも感嘆した。

 ただ、「あなたはすでにそれだ」といわれても、ふつうの人はなにもしないでいると無知のままから抜け出せない。努力や理解しようとすることが、悟りから遠ざける方法だとたしなめられるのだが、ジレンマである。

 理解しようとすることは、対象物と分離という作用をもたらすものなのである。即座に主体と客体が生み出される。しかもその対象物は過去に属するものである。知性や想念は、それ自体がこの世界からの分離と離脱をもたらすものなのである。われわれはだから、この世界から切り離され状態を生きることになるのである。

 このプンジャジによって、神秘思想の新たな知見が加えられたと思う。だけど迷いと混迷はよけいに深まった感じがするのもたしかである。記憶と銘記によって、この新たな知見をつみかさねればよいのか。しかしすべてを忘れなさい、努力や理解もめざしてはならないといわれるジレンマ。段階を踏めばいいのか、しかしそれも即座にわかることだといわれるし。

 私はまた愚かにも、外側にまた知見をさがしにいって、いつまでも「源」にたどりつけないようだ。いつも「源」の中にはいるといわれるのだけどね。なんなのでしょうね?、この間隙。



 ▼プンジャジはラマナ・マハラシの身体同一化の否定を継承しているのね。私にはあまりにも理解できないので、忘れていた。
 「肉体は私ではない」とはどういうことなのだろう?


ポケットの中のダイヤモンド―あなたの真の輝きを発見する不滅の意識 ― ラマナ・マハルシとの会話アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話絶対なるものの息―ムージとの対話 見えるものと見えざるものは一つ(覚醒ブックス)意識は語る―ラメッシ・バルセカールとの対話


10 22
2019

幻想現実論再読

思考の実在を解く方法――苦しみからの究極の解放

 思考の実在を解くのはほんとうにむづかしい。

 たいていの人はそんなあり方も可能なのかとみじんも思ってみることもなく、きょうも言葉や思考が思い描いた物事に苦しめられている。思考の実在を解いたとき、さまざまな重荷をようやく降ろすことができるだろう。


なぜ思考を手放せないのか

 たいていの人は、自分の思ったこと、考えたことが現実「そのもの」であり、そのとおりに「現実がある」と思いこんでいる。だから、自分の思ったこと、考えたことに脅かされ、怒り、悲しみ、苦難をなめることになる。

 まずは思考以外の認識のありかたを知らない。というか、思考をすることのみ現実は捉えられ、生活や人格は改善され向上され、思考を手放すことは白痴か、盲従だという非難がある。この下には落ちてはならない網があるために、思考しつづけなければならない機構がある。まずはそれを恐れることより、うつや悲観から離れるために、このタブーを手放なすのが先決だと考えたほうがいい。

 もうひとつは、思考こそが「私」であり、思考が「私の中心だ」という思い込みがある。この思考を失えば、自分がなくなると思っている。思考を失うことは恐れなのである。

 だいじょうぶ、思考を捨てたところで、あなたは残る。賢明で思慮深いあなたは失われるわけではない。要所要所に、思考を用いることのできるあなたは残る。思考の「脱同一化」がなされたとき、あなたは感情に振り回されないしずかな自己を手に入れられるはずだ。

 あなたは思考こそが自己の中心であり、大切なものという思いをつちかってきたために、なにをするにも思考のスパークを携えている。何事がおこっても思考はめまぐるしく駆け回り、飛翔し、頭の中は思考でぐるぐるだ。


思考の手放し方

 まずはこの心の習慣を手放さなければならない。そのチェーンのようになった思考の連鎖が断ち切られると、思考もしだいに弱まってくる。それはこれまでの思い込みによる習慣の構築にほかならない。習慣を手放せば、弱まる性質のものである。

 ここからは瞑想やマインドフルネスのテクニックになる。思考を、雲をながめるように判断も捨てる試みもおこなわず、ただ傍観的にながめることが推奨される。その思考に飛び乗らなければ、心象は広がらず、去ってゆくものである。たいていの人はその思考に飛び乗って、その思考から広がるビジョンや心象に支配され、ますます思考の炎に薪をくべる。

 私はこの思考の傍観がなかなかできない人には、むりやり思考を捨てる方法もよいと思っている。強烈に思考の連鎖がおこる人には、傍観などの態度はとれない。思考と心象の連鎖に呑みこまれる。

 むりやり「思考を捨てる」、「思考を止める」、「頭は空っぽだ」と唱えつづけてもいい。ひとつの言葉を唱えつづければ、ほかの思考が入りこむ隙はない。眠るときに羊の数を数えるような頭の熱をしずめる効果もある。私はこの強制策を使うことが多くあった。それで思考は静かになる。


あなたの現実はただひとつの絶対のものか

 私たちは、自分が思ったこと、考えたことが「唯一の現実」だと思うようになっている。自分の思ったこと、感じたことは、なによりも尊重されなければならないと思いこんでいる。それはひとつの考え方や解釈にすぎない、べつの考え方も捉え方もできるという考えが思いもつかない。自分の思いは、自分独自に思ったがゆえに、ほかの解釈はありえないという選択をすることになる。

 自分が思いついた考えや思いは、「絶対的な事実」であり、「揺るがしがたい真実」であり、「覆せない真実」なのだろうか。

 「私はあいつに腹を立てた」、「私は彼の言葉にそうとう傷つけられた」、「彼は私の陰口をいったに違いない」。私はこのように思って、自分のこれからの態度や行動を決める。ちょっと待ってほしい、その「事実」はほんとうに「覆せない真理」なのか、ほかの考え方もできるのではないか、もっといえば判定も判断もしない立場ももてるのではないのか。そうすれば、その後におこる諍いや争いも避けることができるではないか。

 私たちの考えを決める基準は、なにによってもたらされたのか。判断や判定をする基準はどこにあったのか。それは無色透明な中立の立場ではなく、たとえば「私は傷つけられるべきではない」といった基準や、「私は他人からちゃんとした扱いを受けるべきだ」という暗黙の前提が構えていたりする。

 この「人としての最低限の待遇」を求めるがゆえに、私たちはさまざまなことに不満や怒りをもよおすのではないのか。その基準というのも、「ひとつの考え方」にすぎないのではないか。これをもし取り去ったのなら、私は不満や怒りを立ち上げるだろうか。

 まるで奴隷の立場を容認するのかといわれそうだが、これは自我を守ろうとするためにおこる思考や感情のありかたを傍観することにつながる。自我を守ろうとするために、さまざまな思考の連鎖と飛翔はおこる。思考はそうやって、「頭の中の自己」を守るために思考の林立や連鎖によって、言葉で立ち上げられた自我を守ろうとするのである。


思考は空想ではないのか

 思い切って、言葉や思考は、「空想」や「想像」でしかないと考えてみるのも、思考の実在を解くのに役に立つ。考えや解釈はただの空想ではないのか。ひとつの考え方や捉え方でしかない。

 それは物体のように外界に存在するわけではない。考えや思考は、頭の中にどのように存在するというのだろう? 私たちはこの実体をいちども見たこともないものを、どうして「現実にある」と思いこめるのだろう? すべて「幻」や「幻想」とよべるべきものではないのか。なぜこれを「動かしがたい現実」と思いこめるのだろう? 私たちが気にするのは、「それは事実か、そうでないか」だけであって、「それ空想じゃない?」といったことや、「それ実在するの?」と疑問に抱くことはない。


過去の実在を疑う

 思考の実在を解く強烈なひとつの方法は、時間が過ぎ去ってしまえば、どこにも存在しなくなるという事実を見ることである。過去は終わってしまえば、どこに行くのだろう? あなたは過去の自分を見たことはあるだろうか、過去のだれかの行いをもう一度見ることはできただろうか? ただの一度も過去を二度と見ることはできない。過去はこの地上から永久に奈落の底に消え去った。

 過去が深淵の底に呑みこまれた様子を実感することが大切である。この実感なくして、思考の実在感を解くことはできない。過去が地上のまったくどこにも存在しなくなったのに、私たちは当たり前のように過去にあったこと、過去の人のおこないを話し合っている。それは地上のどこにも存在しなくなったものなのに、あたかも「目の前にあるかのよう」に私たちは話すことができる。これが大きな誤謬ではないだろうか。私たちは存在しなくなったものを、現実にあるかのように思うことができるのである。

 つまりは、言葉は存在しないものをあたかも実在するかのように思える想像力の道具なのである。「空想」を実在と思える道具なのである。私たちは言葉のこの性質をまったく省みずに、言葉で話したことがあくまでも現実に、目の前にあるかのように捉えている。しまいには、過去の実在が疑われることはなくなる。過去は話せば、思い出せば、現実にあると思われている。過去は永久にこの世界から消え去ったのではないのか?

 過去が存在しなくなったことを思い浮かべれば、言葉で話すことも、現実にはまったく存在しないことが露呈する。言葉は、存在しないものを表す空想の道具なのである。その存在しないものが言葉で表されることによって、現実に存在していると思われるものが山のように存在しているのが、われわれ人間の認識の正体である。このことがわかれば、われわれはどんなに空想の現実にひたされているか、よくわかるようになるだろう。


過去が苦しみの源

 私たちの悩みや問題はたいていは過去から発する。「あの人がこんなことをした、いった」、「昨日、こんないやなことやつらいことがあった」、「昨日の困難を明日までに解決しなければならない」。しかし過去は地球上のどこからも消え去ったのではないのか? この問題を継続されているものは、私たちの記憶や言葉ではないのか。記憶は過去を継続させる。だが、その過去自体は永久に去り、二度とこの世界に立ち現れることはない。それなのに、なぜわれわれは記憶の傷心や困難にきょうも煩わされるのか? 過去が現実のようにある、現在もつづいているようにわれわれは思いこんでいる。

 われわれは記憶や言葉が現実にある、いまも現出していると思いこんでいるだけなのである。過去は奈落の底である。しかし記憶や言葉は、いまも現実のようにあると思いこめる。そのおかげで、過去の傷心や困難はいつまでも終わることはなく、今日も明日の私も煩わせることになるのである。過去は永久に消滅したのに、なぜ現在もそれはあると思いこめるのか? 記憶や言葉が現在もあると思いこめる私たちの性質があるためだというほかない。

 ここから瞑想やマインドフルネスのテクニックが結びつくことになる。記憶の想起や思考の逡巡を断つのが、瞑想のテクニックである。思い出さなければ、考えなければ、それが存在することはない。過去や問題は、思考や過去の回想でしかない。これがなくなれば、問題はなにひとつない。

 この反論として、考えないことは現実逃避や問題から逃げることでしかないという考え方がある。これは社会の問題と、個人の心の問題を切り分けて考えてほしい。社会の問題としては過去の継続は必要かもしれない。だが、困難や悩みをずっと抱えつづける心の習慣をもつ人は心安らげる時間はあるだろうか。思考を手放せば、その困難はない。

 批判のとおりにしじゅう思考を使っておれば、その悩みと感情の責め苦をずっと背負うことになる。思考さえ捨てれば、その苦しみはないのである。批判に忠実なたいていの人は感情的な苦しみをいつまでもひきずっているのが、現状なのである。


私たちの大いなる錯誤

 私たちは物事が起こった結果、悲しんだり、怒ったり、不幸がひきおこされると考えている。だが、現実は自分たちの考え方がそれに悲哀や怒りの感情をもよわせるのである。なんの意味づけも判断もしないものに、私たちは悲しむことも怒ることもできない。

 私たちが出来事に意味や判断をほどこすがゆえに、それは悲哀や憤懣になる。それはひとつの「創作」や「フィクション」といえるものである。私たちは物事にたいして「創作」しているという自覚をもたない。思いや考えは、私の意志とは無関係に去来すると思っているからだ。創作の意図がないものは、自然なものであり、創られたものではないと思う。

 自然に考えが降ってくるから、それはただひとつの現実とよべるのか。その考えというのは、過去の私の考え方であったり、親や世間から与えられたり、だれかから教わった思考方法かもしれない。そうやって過去に学んだ思考法が、出来事に由来して、降ってくるように思われているだけだ。創作は過去になされた。そのようなフィクションを絶対の現実だとわれわれは思いこんでいるのである。

 そして、フィクションは現実に存在するものだろうか? 小説や映画を思い出してほしい。現実には存在しない物語に、われわれは泣いたり、怒ったり、あたかも現実にあるかのように反応することができる。物語は、現実には強烈に実在しないことを、しっかりと思い描いてみてほしい。物語は、現実には空っぽである。

 われわれの現実や日常も、あたかもフィクションのように現実を捉えているだけなのである。考え方や捉え方というのは、あくまでもひとつの認識方法であって、どこにも「実在」するものではない。考え方なんてどこにも「存在」しない。

 過去は奈落の底のように消滅してしまうことを思い出してほしい。考え方や思いというものも、その奈落の底のように「実在」しないものである。ぽっかりと開いた大きな穴のように、なにも存在しない。考え方や思いなんて、この地上のどこにも実在したことがないのである。私たちがそれを「現実にある」と思いこんでいるだけなのである。そしてその現実に苦しんだり、悩んだりするのが、私たちの人生のありかたなのである。


実在しないものをあたかも実在のごとく

 われわれの人生は、現実に存在しないものをあたかも実在するかのごとくに思いこむ誤謬に満ちあふれている。

 言葉や思考を使うようになって、その性能や可能性に夢中になるあまり、それが現実に存在するのか、実在するのかという次元を忘れてしまうのである。そして言葉でつくられた「実在しない」フィクションや考え方に、人生の業火に焼かれるのである。

 おまけに思考は、自分の意志とかかわりなく始終幕なしに頭の中に噴出し、駆け巡る。もはや幕が下りることはないフィクションをずっと見つづけているのである。フィクションは頭の中でずっと創られつづける。創作者は脳の自動機能であって、思考は勝手に噴出するがゆえに、もはや自分が考え方の創作者である自覚をもてない。そうして思考のフィクションが現実にあるとずっと思いこみつづける人生を送るのである。

 言葉や思考がなければ、私たちはほとんど悩み苦しむ事はない。過去は強烈に奈落の底に落ちこんでしまい、二度と現れることはない。それは今もこの瞬間、過去は奈落の底に呑みこまれてゆき、つぎつぎと過去の深淵に崩れ去ってゆく。一瞬も時がとどまることはない。そのことを忘れて、言葉は、記憶は、過去を再生しようとするのだが、現実の過去は猛烈に「無」に帰してしまった。われわれが言葉や記憶で、過去はあると思いこんでいるだけなのである。

 私たちは、言葉によって、記憶によって、想像力によって、現実には実在しない世界を創りつづける。そしてその仮構の世界で悩み苦しみ、嘆き哀れむ。じっさいにはそんな世界はまったく実在しない無、空虚、巨大な深淵である。空っぽの底なし沼、無である。

 それを理解したとき、私たちは思考が実在しないという理解で、もう一度自分の身の回りのことを見回すことができるのである。あれもこれも実在しないものだった。実在しないものに振り回され、嘆き苦しんでいたことを理解するのである。私たちは日常に巨大な穴を、のっぺらぼうの深淵を抱えこんでいる。その巨大な穴に気づいたとき、私たちの悲しみは、嘆きは、苦しみは、すべてその穴に呑みこまれて、消えてなくなるのである。

 私たちは考えること、思考することがよいことだという常識や考えに慣れ親しんできた。しかしその弊害や害悪もしっかりと把握したうえで、言葉とのつきあい方を考えるべきなのだろう。思考をいったんお預けしたうえで、安らぎや安寧をとり戻したほうがよさそうだ。思考が不幸の製造機械になりすぎているのである。



▼もっと深く知りたい方には、自著をごらんください。



10 17
2019

幻想現実論再読

三十代の軽いノリには――『これのこと』 ジョーイ・ロット

これのこと
これのこと
posted with amazlet at 19.10.17
ジョーイ・ロット
ブイツーソリューション (2015-04-05)



 36歳の著者が軽い文体で、単純なこと、これがあるだけと、原点に戻るようなことをうながす書である。

 ただ私にはひげをはやしたような年老いたグルなら信頼したかもしれないが、著者はあまりにも若すぎる。軽く語るので、よけいに重みを失う。こういった偏見や抵抗もあるので、すなおに摂取できにくい書であった。

 よいこと、しっかりした内容のことを語っているのかもしれない。だが、著者のいうような理解や探究をめざして誤った高台に乗り上げたと指摘されるような五十代の私には、やはり抵抗を拭い去ることができない。

 著者は、強迫観念や恐怖症になやまされた経験をもつ。共同幻想という社会の共有幻想をするどくえぐり出した岸田秀も強迫観念に悩まされた経験をもつ。思考に切羽詰まった体験に追いつめられる強迫観念は、幻想をそぎ落とすには好都合な窮状を導くのかもしれない。

 非二元は、三十代の著者も駆り出されるような老成したような人物がまだ豊穣でない分野なのだろうか。この本で言及される人たちは、たとえばラマナ・マハラシやニサルガダッタ・マハラジ、エックハルト・トールといった人たちである。クリシュナムルティやラジニーシ、ケン・ウェルバーといったトランスパーソナル心理学にふくまれたような人物たちは、この系統に入れられていないのだろうか。

 非二元は、だれもいないといったことや、分離された個人はいないということを強調する。この著者は瞑想や理解しようとする探究もいらないという。思考の静けさや観照と、あることの単純さはいっさいどんな関係もないという。私には、現代人は思考を自己や中心にしてしまうから、マインドフルネスの方向は大事だと思うのだが。

 五十代でまだ、「これのこと」がわからない私は三十代の軽いノリには抵抗を感じざるをえなかった。



▼ジョーイ・ロットの動画(日本語訳なし。チャンネルをもっているよう)



アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話ラマナ・マハルシとの対話 第1巻さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる最初で最後の自由(覚醒ブックス)存在の詩 和尚 OSHO


10 14
2019

幻想現実論再読

踏みこんだ表現――『ホームには誰もいない』 ヤン・ケルスショット





 ヤン・ケルスショットという著者は名前も評判も聞いたことはなかったのだが、だいぶわかりやすいよい書であったと思う。

 非二元のムーヴメントがどのような流れになっているのかよく理解していないが、禅に近い感触がある。トニー・パーソンズなどある程度把握して読まないと、まったくとんちんかんの禅問答に聞こえる。

 禅は、言葉や概念の罠にひっかからないように言葉のまわりを迂遠しようとして、よけいにわからなくなるのだが、この著者ヤン・ケルスショットはそれを客観的な言葉で記述しようとする。

 言葉ですがたをあらわしてみれば、それは心霊主義や霊魂主義の個別・分離のない全体ヴァージョンに近いのではないかとさえ思える。「意識」や「気づき」だけがあり、われわれが常識に思う身体にその意識は収まっていないという考え方である。

 うん? 唯心論であって、身体はその外部にあるのではなく、内部にあるイメージにすぎない? 禅や神秘思想がめざしているものは、われわれの常識である身体=世界観が葬り去られる「意識主義」なのか?

「それは、意識を持つ生きとし生けるものすべてが共有している唯一の存在です。別の言い方をすると、一人の見る者がすべての生命体の中にいるということです。禅の百丈懐海は言いました。「私たちは目をもって見るのではなく、仏性をもって見るのだ」

どうすれば本性が見えるだろうか?
その見るという行為を行っているものこそ、私たちの本性である。
――百丈懐海



「気づきを向けているその主体すら手放すことができれば、そこに残るのは存在そのもののみです。生命はただ私たちを通してそれ自体が生きており、私たちはその目撃者であり、存在の中に溶け込み、同じ無限のこの場所、時間のない今の中ですべてを観察しています。この存在が「見えている」間、スペースや時間という概念はすべて消え去り、目撃者と存在は一つになります」



「…私たちが本性を発見すると、私たちは身体そのものではなく、身体の中にいるわけでもなく、身体が「私たち」の中にいることも見えてきます。これは注目すべき点です。読んで理解するのではなく、それを私たち自身で発見すると、まるで宇宙の最遠まで手が届いたような感覚に包まれます」



 禅とか神秘思想はそれがどんなものなのかまで語らないのだが、このヤン・ケルスショットはその状態をもっと客観的に語る。ほかの人は語らないからこそ、わからずに五里霧中の中に放っておかれる気がするのだが、この著者はそれを客観的に記述する。語らないのはそれを一般の人はまた言語と概念の認識でとらえてしまうからだろう。この方法では、またしてもわれわれは言葉のレールの上で虚構の天を駆けてしまうのだろうか。

 言葉で探す探究者はそれの発見者になれない。発見者という分離・個人が消えてなくならないと、それを見ることはできないのである。つまりは言葉や思考、それによって構築される自我にハナからつかめない。言葉に収斂されないものそのものであって、言葉さえ使わなければ、私たちは常日頃からその状態にあるというのが古来からいわれていることである。私たちはすでに悟っているといわれるやつである。

 言葉や思考は分断し、われわれがふだん見慣れている個体と分離の世界に住まわせる。身体の中に意識があり、身体の外に世界があるという常識的な思い込みである。これすらも言葉や概念による思いこみかもしれない。幼児のときには、自分の身体すら把握できずに、ただ感覚だけが通り過ぎる世界を体験していた。身体が私ではないという感覚を、私たちは幼児のときに経験していたのだろうか。

 私たちは大人になるにつれ、「自己中心的だ」とか「憂鬱だ」とかの人格のレッテルに同一化するようになる。ヤン・ケルスショットは、この人格は移りゆくイメージのひとつにすぎないというのだが、私には目が覚める思いがした。人格のレッテルは一瞬のイメージでしかない。それを固定的・永続的にとらえて、自分のイメージとして釘づける私たちのエゴの形成の仕方。言葉が永続的な自己をつくりだすのである。

 この本ではダグラス・ハーディングの実験的手法で、目もない、顔もない状態、こちらがのっぺらぼうで、なにもない透明なスペースであることを理解させようとするのだが、私にはちょっとつかみがたかった。これすらも第三者的な目で見た記憶であったり、思考のレッテルや貼りつけにすぎないのだろうか。私たちは自分の目や顔を直接見ることはできない。記憶や概念でおぎなう。

 もしヤン・ケルスショットにいうように、「こちら側」になにもないとするのなら、「般若心経」の一節が符合することになる。「ここにて形は空虚であり、空虚もまた形である。ここにて目はない、鼻も口も舌もなく、これらの器官の機能もない」。

 いや、第三者が見たらそこにあるのは確実というだろうが、私の感覚はそれをいま、つかむことはできない。私にあるのは感覚や視覚の対象だけである。私たちは、後追いの記憶やだれかの言及、言葉を、この感覚だけの世界にレッテルを貼る。私たちはこの後追いのレッテル貼りをべたべたと世界に貼りつけて、この感覚の世界から疎外されている。

 私たちはとにかく思考を私の中心におき、思考から見える世界をこの世界のすべてだと見なすようになる。私たちはなんにでも同一化できる。言葉や概念でつかむものに、変身できるのだ。通常は身体や思考だけにすんでいるとわれわれは思うだろうが、バッグやクツ、銀行通帳、国家とかいったキテレツなものにも同一化している。概念はなんにでも自己を仮託できるのである。イメージにすぎない「人格」に同一化したように、私たちはとにかく思考行為そのものを「自己そのもの」と思うようになる。身体の分断さえその一種といえるかもしれない。

 私たちは見ている者であり、観察者であり、観照者であり、判断も行為もおこなわない非人格的な透明なスペースである、ヤン・ケルスショットはいう。身体の中にそれはあるのではなく、その中にイメージとしてあるのが身体であるという。感覚が生じる前からそれは存在していたという。

 この世界観を、禅や神秘思想が表立って語ってきたわけではない。もしそれが語られていたのなら、世界論や認識論の論争として立ち上がっていただろう。身体と物質の世界以外の世界観を、われわれはあまり語り聞くことはない。そもそも禅や神秘思想は、世界観や認識論が違う世界をめざしていたのか。言葉や思考を使う世界に呑みこまれれば、たちまち干上がってしまう世界ゆえに語られなかった世界。

 しかしすでに悟っているといわれても、そのままではなにも変わらないのだから、せめて言葉で何がまちがっているのか、なにが認識を遮るのか、教えてくれないと、変わらずに無明のままである。ヤン・ケルスショットはその言葉での表現にぎりぎりにまで、踏みこんだ人だといえるだろう。


▼ヤン・ケルスショット・インタビュー(日本語字幕あり)



存在し、存在しない、それが答えだ(覚醒ブックス) (- To Be and not to be, that is the answer - (覚醒ブックス))すでに目覚めている(覚醒ブックス)心眼を得る (シリーズ・サイコ)つかめないもの(覚醒ブックス)Journey into Now 「今この瞬間」への旅―スピリチュアルな目覚めへのクリアー・ガイダンス


10 03
2019

幻想現実論再読

禅問答?――『何でもないものが あらゆるものである』 トニー・パーソンズ



 書評の順番がぎゃくになってしまったが、いちばん最初に読んだ非二元の本である。読んでいるうちにどんどんわからなくなり、まるで禅問答を読んでいる気分になった。

 読み終えて一、二週間後にぱらぱらめくるとすこしはわかる気がするようになっていた。この間にルパート・スパイラ、グレッグ・ドットの本を読んだからだろうか。一回読んでわからないからと投げ出すのではなく、二度三度読みかえすと、じょじょに感覚をつかめてくる類の本かもしれない。

 この本の内容の説明はむずかしい。「分離された個人」や「だれもいない」ということが何度もいわれて、選択や行為や意志をはたらかせる個人やあなたはいなくて、ただ存在だけがあるという。しかしそれは、思い描くこともできないし、描写することもできないし、知ることもできないという。

 肉体はただ肉体精神機構であって、自己意志もなく、操り人形にすぎないという。脚本もなく、計画もなく、運命もない。永遠の存在が起きるように見えるなにかとして現われているだけだという。

 人が死んだらそれに再統合されるのですねと聞かれると、さいしょから分離もなく、ただ存在だけがあり、元の状態だけが残るというのである。分離されていないのだから、再統合する必要もない。

 老荘の無為自然の世界に似ているといえるだろうか。ただ「あるだけ」の世界であり、選択や行為もなく、分離された個人も私もいない。私たち人間の思い込みや世界観をぜんぶとっぱらい、ただ「あるだけ」であり、おこることはおこり、あることはある、といったなにもない世界に戻ることを奨励されているかのようだ。

 こんな世界観はただ禅問答を聞いているようなもので、さっぱりわからない。ただなんどもフレーズを聞いているうちに、そういう世界観がなじんでいって、なんとなくは定着はできないわけではなさそうだ。もっとも、言葉で把握できるような状態になることは、「それ」ではないのだろうが。

 クリシュナムルティも、おこることはおこり、あることはあるといった行為や主体のない世界のことをよく語っていた。トニー・パーソンズはこのフレーズの世界観を強調して語っているようだ。

 私たちは個人や身体としてこの世界で意志や選択をはたらかせて、主体的に生きる自己だと思っている。この世界は物質や物体の世界であり、その世界のなかで身体や物体としての他者に出会い、他者と交流し、物質を操作や制作する世界に暮らしていると思っている。この常識の世界を否定することは、禅問答にしか聞こえないのは当たり前だ。

 トニー・パーソンズは面喰いすぎる。ラジニーシやクリシュナムルティもさいしょに出会ったときは、そうだったが。この世界観になじむまでは時間がかかりそうだ。もっとも言葉でなじむことと、ワンネスの世界であることは違うのだろうが。



オープン・シークレット(覚醒ブックス)わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったことあなたの世界の終わり―「目覚め」とその“あと自由への道―スピリチュアルな悟りへの実践ガイド(覚醒ブックス)ポケットの中のダイヤモンド―あなたの真の輝きを発見する


10 02
2019

幻想現実論再読

感覚の実験――『ダイレクトパス』 グレッグ・グッド

ダイレクトパス(覚醒ブックス)
グレッグ・グッド
ナチュラルスピリット (2016-06-21)



 順番的には非二元の教えをある程度つかんだ後に、この実験的手法で確認してゆく本を読まれることをおすすめする。

 私はまだ非二元の教えがどういうものか、つかめていない。自分の感覚をたよりに実験的にたしかめてゆくこの本はまだ時期尚早だった。

 スピリチュアリストの本というより、論理の精緻さにつれだされる哲学者の手による書物のようだ。西洋哲学の認識論のうえに、アドヴァイダ・ヴェーダーンタや大乗仏教の知見がくわえられた哲学書寄りの本である。

 図書館で借りた本なので、休みの二日間に急ぎ足で読んだために、読後数日ではて?、なにを学んだかな?というほど身につかなかった。自分の感覚をたよりに実験するというより、著者のガイドを当てにするという読み方をしてしまった。

 非二元というのは、知覚主体や分離された自己といったものはなく、心や身体を自分と思うのは誤った同一化であって、本質は「気づき」であるという立場だ。

 われわれはとうぜんのごとく、身体を私だと思っているし、思考を私だと思っている。それらの常識を排除して、「気づき」だけがわれわれの本質だという。禅でもエックハルトも、見える対象は自分ではないといったことや、目に見えるものは対象と目は分離しておらず、ひとつであることをいっていたが、非二元はそれをもっと具体的に説明する思想のようである。

 気づきだけが本質であるという考え方がどうにもわからない。その背景には霊魂観や霊的な世界観があるというのだろうか。気づきというのは、なにを想定して、どのようなイメージで捉えれば近いのだろうか。対象と私は分離されておらず、対象は即私である。

 西洋哲学はまずわれわれの身体の外界にモノが独立に客観的に存在していて、それを知覚器官がそっくりうつしだすという素朴実在論を根底にもっている。写像理論だ。これは必然的に、見ている「私」や聞いている「私」という知覚主体を生み出すのだが、この実験的書物ではたえずその「知覚主体」がどこにもないことを、確かめてゆく。

 これはまるでサピア=ウォーフの仮説を見ているようで、言語の網が「主体」や「私」、「外界」と「内側」という分断や境界の網を、打ち立ててゆく様が垣間見るかのようだ。それは視覚による輪郭の力もおおいに与っているのだろう。私たちはまずは言語による分断という線引きを、溶かしてゆく方向にこの世界に向き合わないといけないようだ。

 読後数日たって、早くもあいまいな物言いしかできなくなっている。非二元の教えが根づくまでにはまだ私には早すぎるのだ。読書中はなるほどなという思いがしたものだが、読み終わるとその体験は早くもミゾをつくってしまったようだ。

 まだ非二元の理論的書物に当たるべきだと思うが、思えばケン・ウィルバーもかなり二元論や境界の克服をめざしていたと思い出された。ケン・ウィルバーは境界の克服である。現在の非二元の流れは、ウィルバーを参照にしているのだろうか。



気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?―ダイレクトパスの基本と対話(覚醒ブックス)今、永遠であること(覚醒ブックス)アシュターヴァクラ・ギーター頭がない男 ― ダグラス・ハーディングの人生と哲学(覚醒ブックス)無境界―自己成長のセラピー論


09 29
2019

幻想現実論再読

身体の内と外の過ち――『プレゼンス』 ルパート・スパイラ

プレゼンス―第1巻 安らぎと幸福の技術(覚醒ブックス)
ルパート・スパイラ
ナチュラルスピリット



プレゼンス―第2巻 あらゆる体験の親密さ(覚醒ブックス)
ルパート・スパイラ
ナチュラルスピリット (2016-07-21)



 非二元やアドヴァイダといった流れがいつ生まれ、どのように広がったのかの概括を知らない。ナチュラル・スピリットという出版社が「覚醒ブックス」というレーベルで単一的に出しているだけなのか。

 トニー・パーソンズやダグラス・ハーディング、デヴィッド・ホーキンズといった人が著名なのか。

 このルパート・スパイラのこの本はネットでもあまり評価を見ることはできないのだけど、この『プレゼンス』という本は私がとても興味深いと思っているテーマを語っているのだが、残念ながら、かなり理解がおよばない。

 すなわち「身体の内側の私」と「身体の外側にひろがる物質の世界」という常識的な認識・思い込みを溶かそうとする内容にみちた本である。これは理解したいと思って読みすすめるのだが、いろいろ角度を変えて語ってくれても、頭の中に霞がかかったような、目にやにがついたような不分明な状態になる。

 非二元はこのような二元論的な認識を溶かす試みなのか。だとしたら、とても知りたい内容だ。

 「身体の、頭の中の内側にいる私」という思い込みはとても強い。これ以外のどんな認識があるのかと思えるほど強固だ。ルパート・スパイラは、これは思考がラベルを貼ることによる誤った認識であって、じっさいには「気づき」しかないのだという。「体験」だけが存在する中に、言葉や思考が、身体と外側というラベル・二元論を貼りつける。そのことによって、身体に同一化したわれわれは苦悩や悲嘆というおなじみの思考のはたらきにさいなまれることになるという。

 わたしたちは、「心や身体ではない」というのである。「気づき」というものにとって、心や身体は外界とおなじように「対象」である。思考が誤ってそれに同一化してしまい、それが人生の習い性になる。しかし「気づき」というものに、主体をおく考え方がどうもなじめない。言葉が分割する以前にはたしかに、分離されないひとつの感覚や気づきがあるだけだ。これはヒュームも語っている。感覚も対象だ。ただ気づきだけが残る。

 ルパート・スパイラは、禅やエックハルトが語っていたような「見るもの」と「見られるもの」は分離されておらず、一つであるという言葉を、かなり平明でやさしい言葉で語る。禅やエックハルトはそれについて語っても言葉を費やさない。しかしルパート・スパイラは言葉は尽くして語ってくれるので理解が届くと期待するのだが、霞がかかったように手が届かない。

 これはほかの人の語り口や文脈を必要とすると思う。ある人が語ってもわからないことが、ほかの人の言葉や指摘によってようやくつかめたりする。ルパート・スパイラは、私の腑に落ちる言葉や文脈で語ってくれる人ではないのだろう。

 ルパート・スパイラはウスペンスキーやクリシュナムルティ、ラマナ・マハラシ、ニサルガダッタ・マハラジといった精神世界の著名人に学んだ人だ。身体の内側の私と、外側の物質の世界という認識を集中的に語る人はそういなく、手つかずの分野だから、このルパート・スパイラには期待したのだけどね。ケン・ウィルバーだって、境界の消滅を探索した人だけど。

 「分離された自己」や「身体の内と外」というテーマを非二元が多く語っているとしたら、私の強くひかれるところだ。ただこのテーマには思考の癒しが弱い部分がある。身体の同一化が弱まれば、誤った思考の悲嘆も弱まるというようなことをいっているのだが、どうなのだろう。

 この本は図書館で借りたけど、理解はおよばなかったが、手元にはおいておいて、いつか再チャレンジの機会がほしい本と見なせる。


今、永遠であること(覚醒ブックス)悟りを生きる ― 非二元へのシンプルなガイド ―(覚醒ブックス)存在し、存在しない、それが答えだ(覚醒ブックス) (- To Be and not to be, that is the answer - (覚醒ブックス))<わたし> ―真実と主観性(覚醒ブックス)ダイレクトパス(覚醒ブックス)


09 14
2019

幻想現実論再読

ふつうの人の悟り――『わかっちゃった人たち』 サリー・ボンジャース 編

わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと
サリー・ボンジャース 編
ブイツーソリューション



 神秘思想の探究は一時停止しているが、この本は気になっていたので図書館で借りた。

 ふつうの人が悟りをどう語っているのかという興味だ。7人の人たちの話が紹介されている。いずれも精神世界、神秘思想の探究はおこなっていて、なにも知らずにいきなり悟ったという話はない。幾人かの師にも会った人が多く、トニー・パーソンズに会った人が多い界隈のようだ。

 だいたいは私もわかる話をしているのだが、いくらかは私にはわからない話もあった。私は知的・概念的に理解している部分が多く、感覚的に悟ったという経験はしていない。そういうぼこっと脱落するような経験をするものなのかな。

「分離という中心的な思い込みの本質がいちどでも見抜かれれば、それで全部です。いちど見抜かれたら、それは見抜かれたということなんです。それでおしまいです」



「もしその頭の中のイメージが消えたら、ここにはほんとうは誰もいないんだということがわかります。僕の場合、まさに文字どおり身体が消えたんです」



「なんてこった!今までなんで気づかなかったんだろう? 何をどうしたらこのつまらないちっぽけな奴と同一化して、ずっともがき続けてこられたんだろう?」

 

 分離とか、だれもいない、身体もないということを、私は理解しているわけではない。このへんの認識が私にはまだ足りないようだ。

 言葉や思考がつくりだす幻想や非実在性ということには、だいぶ理解を増したと思う。過去が存在しないという実感もちゃんともっている。だいたいはこのふたつの認識の誤りを克服することで、悟りには近づけたとは思うんだけど、上記の部分では実感をしっかりもてているわけではない。

 人は言葉と思考というシステムで、この世界の認識のほとんどをまかなってしまう。この思い込みをひきはがすことが、神秘思想のまず最初のステップになる。しかしこの思い込みの強固さと、ほかにオルタナティブがあるという視野の欠落は強固である。この部分をのりこえることが、たいがいの人には思いもしない世界なんだろうと思う。これはそうとう難しい最初のステップだと、つねづね思う。

 ちょっと日常のトラブルとかあって、思考の脱落を願う場面があって、また神秘思想の探究にもどりたい気持ちになってきた。非二元とかアドヴァイダとか最近の動向を追ってみたい気持ちがわいている。トニー・パーソンズ、ダグラス・ハーディング、アジャシャンティティとかいった人たちだろうか。

 神秘思想のさいしょのきっかけの本に出会ってもう二十年になる。リチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』なんだけどね。


オープン・シークレット(覚醒ブックス)悟りを生きる ― 非二元へのシンプルなガイド ―(覚醒ブックス)何でもないものが あらゆるものである - 無、存在、すべて -(覚醒ブックス)存在し、存在しない、それが答えだ(覚醒ブックス) (- To Be and not to be, that is the answer - (覚醒ブックス))ポケットの中のダイヤモンド―あなたの真の輝きを発見する


07 08
2019

幻想現実論再読

無知の罰――『愛とは、怖れを手ばなすこと』 ジェラルド・G・ジャンポルスキー

愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)
ジェラルド・G・ジャンポルスキー
サンマーク出版



 もちろんこの本は前の翻訳本で読んでいる。大きな影響を受けた本だが、本田健が訳しているのを読みたいと思って、やっと機会を得た。

 この本は認識論の転換の本だ。外界からダイレクトに感情をうけとるのではなく、われわれが判断や主観によって感情を生み出している。この根本的な一点を知らないばかりに、われわれは外界や他人にふりまわされつづけ、他人のせいにしつづける。唯物論から、唯心論の転換の本である。

 自己啓発やスピリチュアルを嫌う人や、このような知識がまるで耳に入らない人は、どうやって外界におこる問題に対処しているんだろうと思う。外界に問題がおこるたびに打ちのめされ、内心での安堵や対処法をまるで知らないではないか。過去の私もそうであったから、なおさらかれらは外界とどう対峙しているのかと心配になる。

 この本のふたつの要点は、感情は自分の考え方や解釈が生み出しており、外界や他人によってひきおこされているわけではないということと、ゆるしによって過去の傷つけられた思いやだれかを傷つけてしまったという罪悪感を断ち切る方法が説かれている。これはつまり、心の主体を外界から自分の考えを主体にとりもどすことであり、過去の断ち切りである。

 われわれは外界や他人になにかされたり、傷つけられると、それを何度も思い出しては、相手に仕返しや報復、心に申し訳ない気もちや罪悪感を植えつけようとやっきになる。これらの従来のわれわれの行動基準を、まるごと断ち切れといっているわけだ。私たちはこの方法しか知らないばかりに、いつまでも過去の痛みをひきずる。報復が終わるまで、それは終わらないというわけだ。

 もう一つこの本で大事なことは、攻撃している人はだれよりも恐れている人だということである。恐れているからこそ、攻撃する。これからそのような人を見るたびに、哀れでかわいそうな目で見ることができる。そうすれば、攻撃的な人の心を溶かすことができる。われわれは攻撃に攻撃で向かおうとするから、かれらの恐れに共鳴することができないのである。これを見抜けば、かれの恐れの心に手を伸ばすことができるようになるだろう。

 やたらと愛、愛ばかり説き、私はこの点の違和感はすこし拭えないのだが、この本は愛やゆるし、恐れといった感情面からのアプローチが多いが、唯心論への転換をいろいろな角度から説こうとしている本だということがよくわかる。この認識の転換というのは、わからない、気づかない人にはさっぱりわからない世界である。気づかないときにはなんのことか、ぜんぜんぴんとこない。ために角度を変えたり、アプローチを変えたりして、それを伝えようとしている。

 自己啓発書のウェイン・ダイアーの『どう生きるか、自分の人生』という本も、外界の犠牲者という言葉で、この本と同じ内容のことを説こうとしている。他人から被害をうけた、だから仕返ししなければならないという考えは、みずから自分を犠牲者にしてしまう考えなのである。私たちはこの唯心論的転換を知らないと、ずっと他人のせいにして、自分を傷めつづける。このカラクリを知らないと、自分で殴っておいて、他人が殴った殴ったといいつづけることになるのである。

「他人から受けていると感じている攻撃が、実は自分の心の中で生まれたものだということに、なんとか気づかないようにしているのです。

私は自分の目に映る世界の犠牲者ではない」



 自分の解釈や考えが私を傷つけている。それなのに、私たちは他人が傷つけたのだと思いつづける。もしその解釈を変えたり、傷つけたと思わなかったり、それをゆるすのなら、私たちは安らぎや平安の気持ちをもつことができるだろう、たったいまこの瞬間から。それを知らないばかりにいつまでも他人の犠牲者だと思いつづけて、痛みを自分でもちつづけることになるのである。

 そしてこのような唯心論的転換は、自己啓発やスピリチュアルという怪しくて、近づいてはならない領域の知識として遠ざけられていて、私たちはこの心の安らぎや平安を手に入れることができない。唯物論、つまり科学の世界観では、心や考えで世界が変わるという考えは宗教であり、精神主義というアンタッチャブルなものであり、一般人はそんな非科学的な迷妄に近づいてはならないと柵を張られている。

 おかげでいつまでも他人が悪い悪いといいつのり、自分で殴りながら他人が殴った殴ったと、だれかの犠牲者になりつづけるのである。この考え方のメリットは、物質主義や道徳の規範を守らせる社会規則の基盤になることができる。だから血や涙を見ながらも、この制度を手ばなすことはできないのである。犠牲者の愚かさに気づいた人は、部分的にでも唯心論を取り戻すべきだと私は思う。もうあのような苦労はこりごりです。


愛と怖れ―愛は怖れをサバ折りにする。どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)ゆるすということ―もう、過去にはとらわれない (サンマーク文庫)ゆるしのレッスン―もう、すべてを手放せる (サンマーク文庫)愛と癒し―ジャンポルスキーの「生き方を変える癒しの12の原則」


プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

 

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