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03 29
2017

幻想現実論再読

人生を変える本NO.1――『楽天主義セラピー』 リチャード・カールソン

4393710312楽天主義セラピー
リチャード・カールソン Richard Carlson
春秋社 1998-12

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 この本を知らずして、どうやって心の健康を保てるのかと疑問に思えるほど、すばらしい内容の本なのだが、絶版状態のまま文庫本にも回収されないのがナゾに思えて仕方がない。

 二十年ほど前にうつ病寸前のわたしはこの本を読んで心の革命を経験して、自分がしてきたことの愚かさをようやくわかった。それまで自己啓発のウェイン・ダイアーやノーマン・ピールの「思考は現実ではない」という意味の理解をなんとか自分のものにしようとしていたが、この本こそまさに求めていた本そのものだと思った。

 その後、リチャード・カールソンの『小さいことにくよくよするな!』は全米で500万部のベストセラーとなり、日本でも98年に170万部のベストセラーとなった。だが、この本の薄さ、軽さは、この思考の原理について説明した『楽天主義セラピー』にはとうてい及ばないもので、こちらこそロングセラーとなるべき本だと思うのに、軽い自己啓発のコラムニストとして消費されて終わってしまったのかもしれない。カールソンの45歳というとつぜんの早逝が惜しまれる。

 カールソンは思考が感情をつくっており、悲観的な気分のときに考えるとますます悲観的な思考をよびだして、よりいっそうみじめな気分になるということを、論理的に詳細に説明してくれた。われわれはこの原理さえ知らず、いや思考があることすら忘れているのではないのか。

「彼は、自分が思考を生み出していること、そしてその思考が不幸の源であることに気づいていませんでした。彼は、思考は自分の中からではなく、まわりの出来事から生まれると感じていました」



 われわれの社会は、手放しの思考を推奨する社会であり、思考しないことは痴呆であり、隷従だと教えられる社会である。思考は賢明であり、知性を付け足すものであり、すべてのものごとや過去は思考の検討をおこなわなければならない。そのことによって、思考が感情や気分を生み出すことを知らないわたしたちは、否定的で悲観的な感情をずっと自分に浴びせつづけることになるのである。

 思考と感情のつながりを知らないばかりに、わたしたちは世界の犠牲者のように思い、自分の思考が自分を傷つけていることを知らずに、他人や世界の責任にしつづける。思考と感情の因果を知らないことは目隠しをされて、自分で自分をつついているようなものだ。

「重要な点は、想像によって再現された喧嘩は、あなたが現に生きている今では、たんなる思考であり、頭の中で創られた出来事にすぎないということです。

思考は現実ではないということ、つまり、思考はたんなる思考でしかなく、思考そのものが自分を傷つけることはないのだとわかってくると、あなたの人生は今日から変わりはじめます」



 わたしたちは思考にすぎないものを、現実やリアルに迫るもの、真実や実体あるものとして経験している。この実体視をはがして、思考は思考にすぎない、たんなる考えや想像にすぎないと心の底から実感するには、ずいぶんとこの考え方をなじませるまでに骨を折らなければならないほど、思考のリアリティの世界で生きている。

 わたしはこの「思考は思考にすぎない、たんなる想像にすぎない」ということを実感するために、その後トランスパーソナル心理学や禅・仏教などの書物を漁らなければならなかったのだが、それだけ思考の実体化という習慣にどっぷり首まで浸かっていたわけだ。この思い込みに気づかないまま、一生を送る人だってたくさんいることだろう。

 この本は仏教でいう「悟り」をどこまでも言葉と論理で説明しきった本といっていいかもしれない。わたしたちは思考の現実視という過ちから、かんたんには抜け出せないのである。

 思考は思考にすぎない、たんなる想像にすぎないということから、落ち込んでいるときにその問題や解決をはかるために思考をもちいれば、よりいっそう火に薪をくべるようなことになるという原理も、カールソンは教えてくれる。「悟りの説明書」のようなものである。

 そのような歴史的な重要書と思われるものが、いまでは絶版になって文庫本ですら手に入らない。どういうことなんだろうと思う。

 できれば、小学校のころから思考と感情の因果、思考が見せる現実はじっさいには存在しないことを教えられていたら、わたしのその後の苦悩多き思考好きな人生はいくらか救われたものになっていたかもしれない。

 大多数の人は思考の現実視とそのリアリティの苦悩の世界に閉じ込められているのではないのか。感情は他人や出来事からやってきて、自分の思考がそれをつくりだしているということを知らないし、気づかない。苦悩の泥沼に閉じ込められたままだ。

 われわれの社会は思考しないことは痴呆であり、隷従と脅される社会である。そうやって自分を責めさいなます思考の世界のとりこになって、思考の実体化に囚われて、苦悩の泥沼におちいる。

 思考を捨てることは、自己啓発や新興宗教のアブナイ教義である。「思考こそがわたし」、あるいは「感情こそが自分のアイデンティティの核をつくる」と信じている社会である。カールソンが指摘するような思考と感情の過ちのループに閉じ込められたままだ。

 科学や物質消費社会というのは、思考の存在を忘れて、外界や物質の改善にしあわせを求める社会である。モノを買ったり、物質の改善をおこなうことが人類がしあわせになる唯一の道である。そうやって思考がもたらす苦悩については等閑に付される。

 われわれはハンドルのないクルマに乗せられているようなもので、あちこちにクルマをぶつけて、おまえが悪い、おまえが変わるまでわたしの心は晴れないといっている。こういった過ちに陥らないためには、思考と感情の原理というものをしっかりと知っておかなければならないのである。

 この本ほど人生を変える本はないと思う。


最初で最後の自由(覚醒ブックス)愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)存在の詩 和尚 OSHO人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)

03 24
2017

幻想現実論再読

インディアンの共同幻想論「トナール」――『気流の鳴る音』 真木 悠介

4480087494気流の鳴る音
―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

真木 悠介
筑摩書房 2003-03

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 考えることに価値をおいてきて、「付け足すこと」ばかりに向かってきた人には、はじめて出会う「そぎ落とす」ことの衝撃に出会える本だろう。

 メキシコ・インディアンの呪術師ドン・ファンから教えをうけた人類学のカスタネダが著述したものを、社会学者の真木悠介が要約した本になっている。

 これは「共同幻想」や「個人幻想」の解除の仕方をまなんだのであり、メキシコの呪術師はどこでそんな知識を獲得したのだろう。そういう人間の虚構世界の構築を、「トナール」という言葉で表現している。

「人は世界はこういうものだぞ、とおまえに教えてきたことさ。わかるか、人はわしらが生まれた時から、世界はこうこうこういうものだと言いつづける。だから自然に教えられた世界以外の世界を見ようなぞという選択の余地はなくなっちまうんだ。

いったんこのような「世界」のあり方が確立されると、われわれはそれを死ぬ日までくりかえし再生しつづける。たえまないことばの流れによって。

「わしらは自分のなかのおしゃべりでわしらの世界を守っておるのだ。わしらはそれを新生させ、生命でもえたたせ、心のなかのおしゃべりで支えているんだ」」



 みごとな共同幻想の構築の仕方を語っている。その「トナール」はインディオの守護霊であり、特定の動物に結びつけられているのだが、われわれの拘束されている世界像以外のなにものでもない。

 このような共同幻想にとりこまれていると、人は現在の充実より、時間ののちの成果や目的にとり憑かれるようになる。そうして人生の意味や明晰にこだわるようになり、「ナマの現実」からずっと疎外されてゆくことになる。トナールの対比として、「ナワール」という言葉がつかわれる。

 虚構世界はわれわれに感情をもたらし、後悔や悔恨、羞恥や悲しみをいつももよわせ、そうして人生の悲劇や苦労ばかり味わうようになる。

「わしには履歴などないのさ。履歴を消してちまうことがベストだ。そうすれば他人のわずらわしい考えから自由になれるからな」



 われわれは過去を思い出し、過去を反芻し、他人が自分にいったこと、自分がおこなったこと、いやな気分や不快になった出来事ばかりしょっちゅう思い出している。そのために人生は辛酸や陰惨な出来事で満たされる。これもトナールとよばれる個人幻想なのであって、時間機制という共同幻想が、われわれをいたぶるのである。

 カスタネダは「だれが、そんな望みをもつの?」と叫ぶ。かれは自分の履歴に愛着を感じていて、家系の源は深く、「わたしの人生の連続性も目的もなくなってしまう」と嘆く。それこそが、トナールのもたらす世界なのである。

「おまえは生活の意味をさがそうとする。戦士は意味などを問題にしない。

生活はそれ自体として充全だ。みちたりていて、説明など必要とせん」



 わたしたちは言葉や意味の世界にとらわれている。そのほかの世界も思いもよらなくなっている。トナールの世界から一歩も抜け出れなくなってしまうのである。

 禅や仏教も、この「トナール」からの脱出をもくろんでいるのであって、一般人にはそれが届かないようになっている。仏教は道徳による服従を教えられるものであり、政治的に服従する民なのだという見方で、遠ざけられる。まあ、トナールから抜け出すのはいかにむずかしく、人はどこにいてもトナールの囚人ということだね。


ドン・ファンの教え (新装版)力の話(新装・新訳版)イクストランへの旅(新装版)分離したリアリティ (新装版)未知の次元―呪術師ドン・ファンとの対話 (講談社学術文庫)


03 22
2017

幻想現実論再読

人は存在しないものに泣いたり、悲しんだり、苦しんだりしている

 想像は存在しないものという実感が強くなると、過去を思い出して泣いている人は、存在していないものに泣いていると見えて驚いた。

 過去の思い出なんて、現在はどこにも存在しないものである。しかしわれわれは現実にあるかのように、目の前にあるかのように過去を思い出して、悲しみに襲われてしまう。われわれのごく一般の反応である。

 われわれは思い出に浸ることを甘美なことであり、よいことだという思い込みに生きている。過去はわれわれにひんぱんに思い出されて、過去は喜びや悲しみをもよおす身近なものである。

 しかし、時間を見てみると過去は瞬間ごとになくなっていき、この地球上から永久に去ってしまう。奈落の底に呑みこまれるように存在しなくなってしまう。

 われわれの過去はもはやどこにも存在しないものである。

 わたしたちが思い出している過去とはなんだろう。もはや心象や回想や、記憶でしかない。そしてそれはどこにも実体や現実のものとしては、存在しなくなったものである。

 人は心象というものを介在させているが、もはやどこにも存在しなくなったものに、泣いたり、悲しんだり、苦しんだりしている。

 われわれは過去を思い出したり、過去を反芻し反省したり、改善することをよいこと、奨励される社会に暮らしている。そして、存在しなくなった過去を現実のように、実体のように思い出しながら、過去をいつまでも再現させる。

 しかしそれはどこにも存在しなくなったものである。まったくの無であり、空っぽであり、どこにもないものである。

 われわれはたいそう映画やマンガなどの物語が好きである。しかしこれも虚構の物語であり、どこにも存在しないものである。

 虚構は虚構とわかりながら、それを楽しんでいる。だけれど、われわれはそれで泣いたり、悲しんだり、人生を揺さぶられるほどの感動を味わったりする。この世のどこにも実体としては、存在しないものなのにである。

 もし映写されたものが見えずスクリーンの板しか見えない映画館を見たら、人々はただ板に向かって泣いたり、笑ったりしているさまが見えるだろう。本にしても、紙の箱にたいして、笑ったり、泣いたりしているさまが見えるだけである。

 われわれは存在しないものにたいして、虚空なものにたいして、ずいぶんと感情を揺さぶられる生き物なのである。

 そして時間が瞬間ごとに去ってゆくのなら、現実というものも瞬間に存在しなくなるものであり、われわれが捉えている現実というのは、もはやどこにも存在しなくなったものである。それはなんだろうか。過去の心象であり、記憶であり、想像された、頭の中にしか存在しないものである。

 われわれの現実というものこそが、虚構であり、想像であり、どこにも存在しないもの、無や虚空ではないだろうか。

 われわれは過去を思い出したり、考えたり、思ったりすることを、現実に存在しない絵空事とは捉えない。現実に存在しているリアルなものと思って暮らしている。

 人はだれかに過去にしてもらったこと、過去に言われたこと、過去の約束などを、人と守りながら、この社会で暮らしている。過去は「実在」しているものである。だからこそ、われわれ自身も過去の実体性を再現しながら、社会のルールを生きている。

 われわれは存在しない記憶や過去、考えたり、思ったことを「実在化」しなければならない社会に生きている。それがこの社会のルールである。

 しかしそのことによって過去の実体化は、われわれに何度も悲しみや恐れを無限に再現される苦しみになったりする。過去はもはや終わり、どこにも存在しなくなったものに、それは際限なくわれわれを追いつめるものになった。

 過去はいつまでも終わってはならないものになった。過去は目の前に、現実にある物体のようにリアルに存在するものになった。

 われわれは解除しなければならないのかもしれない。それが悲しみや苦しみをいつまでも引き起こすなら、それがまったく存在しない空っぽなものであることを、ときには思い出さないといけないのかもしれない。

 人に思ったり、考えたり、世の中について思うこと、捉えるということもすべて、「実体」としてはどこにも存在しないものである。それは想像や空想や、観念として頭のなかにあるだけである。地球上のどこにも存在しない。

 われわれはずいぶんと想像にすぎないものを現実に存在するものとして暮らしている。それを存在しないものとしてつねに心に刻むようにすれば、われわれはずいぶんと観念に追い込まれるものから解放されるのではないだろうか。

 われわれは存在しないものに泣いたり、悲しんだり、苦しんだりしている。それはなにもない空っぽで、奈落の底のように存在しないものなのである。


03 20
2017

幻想現実論再読

人類の壮大なフィクションが存在しないこと

 映画やマンガは存在しないフィクションであるが、泣いたり、感動したりして感情移入の度合いが深いのだが、それがまったくどこにも存在しない虚構であることには、深く思い入ることもない。

 あんなに感動した物語を、まったくぽっかりと穴の開いたような存在しないものと思いたくない。われわれの人生や世界もそのままである。ぽっかりと穴の開いた虚空だと思いたくない。

 人類は壮大なフィクションをはりめぐらせていて、それを存在しないものと思いもしなくなっている。

 人類の壮大なフィクションの仮構四大物として、「会話」、「思考」、「時間」、「自我」をあげたい。

 会話というのは、だいたいは目の前に存在しないものにたいして交わされるものである。「あの人がどうだった」「きのう、なにがあった」だの、存在しないものをおもにとりあつかう。もはや存在しないものを、あたかも「現実に」、「目の前にあるがごとく」思い込む能力が、人間の会話にあらわれる。そしてそれを「存在しないもの」ともはや思いもしなくなっている。

 「思考」もそうである。存在しない想像力である。しかしあたかも現実にあるかのように、真に迫ったものとして、われわれには認識されるようになっている。思ったり、感じたりしただけのものなのに、それが「絶対の真実」や「ほかに選択肢のない判断」のように受けとるようになっている。

 「過去」も、もはや瞬間瞬間に飛び去ってゆくものなので、われわれが捉えるときにはすでに過去になり、もはや「存在しない」ものになっている。それなのに、過去は「現実にあるもの」、あたかも「目の前にあるもの」のように捉えられる。

 われわれは、存在しないものを現実にあるかのように思い込む認識に覆いつくされているのであって、このような認識のありかたが人間の特徴であるからこそ、映画やマンガの虚構を現実のように感動したり、泣いたり、思い入れができるのである。

 つまりは過去というもはや存在しないものを認識することが人間の認識能力だからこそ、映画や物語のフィクションは現実のように感情移入ができるのである。過去がフィクションであるからこそ、われわれは虚構に入れ込むことができる。現実といわれるものが、フィクションとしか認識できないからこそ、映画やフィクションはふつうのように楽しめるのである。

 われわれは、「過去はある」と思って暮らしている。しかし、もはや時間は去っていき、過去はどこにも存在しなくなっている。記憶や回想によってそれは捉えなおされるのだが、もはやそれは存在しなくなっている。フィクションとしか、人間は過去を認識できないのである。

 われわれの社会は、思考というものをとても大切にする。能力や才能や、功績をもたらすものは思考なのだから、もっともっと考えることを奨励される。しかし、思考というのもどこにも存在しないもので、頭の中にしか存在しないものであることは忘れられる。

 思考に集中し、過去をなんども思い出し、反省したり、検討したり、改善したりしようとすることが習い性になっている。そのうちに、思考すること、考えることが、自分という存在であると思い込むようになり、思考以外にわたしはありえないと思い込むようになる。しかし思考というのはどこにも存在しないもので、頭の中にしか存在しないものではなかったのか。

 考えるわたしは、過去に人が自分をどうあつかったか、どのような言動をしたか、わたしはなにをいったかばかり過去を反芻するようになり、羞恥や後悔や、屈辱にまみれてゆく。そういう過去の反芻や思考でのイメージによって、「わたしとはこのような人物」であるというイメージがつくられてゆく。これが「自我」や「わたし」といわれるものである。

 しかし思考やイメージというのは、存在しないものであり、頭の中以外にどこも存在しないものではなかったのか。思考にどっぷりに染まった人間にはもはやそれが存在しないイメージであるということを忘れ、それ以外に自分はありえないと思い込むようになる。

 「イメージ」というのは、わたしなのだろうか。わたしは身体をまとった存在であり、頭の中のわたしとは、このわたしの全部を代表する存在なのだろうか。それは地図を現実の土地のように思い込むまちがいではないのか。さらには、思考やイメージといったものは、頭の中以外にどこにも存在しない。

 私たちは、頭の中で思い描いたものにすぎないものを、現実と思うカンチガイにはまってゆく。宇宙を想像しても、それは現実の宇宙ではない。われわれは宇宙そのものを地球から出て見ることはできない。映像や写真は伝達されるが、それはイメージでしかないもので、現実ではない。

 こうやって、われわれは存在しない壮大なフィクションの世界にどっぷり浸かってゆく。思考や過去など存在しないものが現実であると思い込む世界にどっぷりと浸かる。思い描かれた存在しないものが、現実に存在するものという思い込みにはまってゆくのである。

 虚構の劇場が問題になるのは、それが壊れた機械のように、つらいこと、いやなこと、悲しいことばかり再演するばあいだろう。人は問題や危機となることを再検討するようにできている。問題から逃れることが生物としては大切だからである。そうするとつらいこと、いやなことばかり再現する壊れた機械になってしまう。

 時間は永遠に去ってもはやどこにも存在しないのに、回想や思考はそればかりをくりかえし見るようになる。存在しない悪夢はいつでも再演可能である。虚構の劇場から出れなくなったわれわれは、それが存在しない想像であることに思いもよらなくなっている。

 存在しない想像であることに気づくことは大切なことなのである。

 人間の仮構四大物に加えて、もうひとつ大切なことを忘れていた。人間は外界を変えることでしか幸福になれないという思い込みが現代ではずいぶん強くなったということである。

 その前に思考や判断という自分の考えが自分を傷めつけていることに思いもよらずに、外界が変わらないとその痛みは去らないと思っている。思考は選択できるという知識をもたないと、外界からいつまでも傷めつけられる哀れな外界の犠牲者になってしまう。

 「外界」という仮構物、あるいは初歩的な思い込みによって、われわれはたいそう世界から傷めつけられる存在になった。気をつけたいところである。

 われわれはフィクションにまみれた世界に暮らしている。それが存在しないもの、想像にすぎないことに思いもよらないものになっている。フィクションの中で、悲しんだり、苦しんだり、嘆いたりしている。

 その虚構世界が現実には存在しないこと、ただの想像力にすぎないことに気づいたら、わたしたちはずいぶん苦しみから解放されるのではないだろうか。

 それは存在しない。それは想像にすぎない。しかしわれわれはあまりにも存在しない想像にすぎないものを現実に、リアルに存在すると思い込む世界観に浸かっているために、虚構の劇場の悲劇からは逃れられないのである。


03 19
2017

幻想現実論再読

自我の情けなさ――『グルジェフとクリシュナムルティ』 ハリー ベンジャミン

4795223661グルジェフとクリシュナムルティ
―エソテリック心理学入門

ハリー ベンジャミン Harry Benjamin
コスモスライブラリー 2000-09

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 禅やキリスト教などでよく「自己を落とせ」といわれるのだが、なんのことかよくわからないと思う。この本を読めば、自我の情けなさがあぶり出されていて、自我にしがみつくのはやめようと思える本である。

 この本はおもにグルジェフの思想を紹介したものであり、正確にはその研究であるモーリス・ニコルの『グルジェフとウスペンスキーの教えに関する心理学的注解』から得られたものが主になっているが、翻訳はされていない。

「われわれが自分自身と呼んでいるものは、単に想像上の存在または錯覚にしかすぎない。それはなんら存在しないのである」



 グルジェフはいくつもの「わたし」がぶつかりあっていて、それをなんとか統合して同一のものとしてあつかっているのが、われわれの自己像なのだという。そしてそれは社会的に条件づけられた「機械」にしかすぎず、われわれはこの条件付けをくりかえし反応する機械でしかないという。ほかの覚者がいうような「眠っている、夢見ている状態」のことである。

 それを思考したり、言葉でものごとを捉えたり、過去を思い出したりして反芻していることと捉えていいかもしれない。頭の中の「わたし」はそうやって意識の中心をしめ、人にどう思われているか、あのときにあの人の反応とかを思い出しながら、そういう思考する意識を「わたし」だと思って暮らしている。

 その自我の仕事や存在理由はなにかというと、ハリー・ベンジャミンはこうのべる。

「人間は――どれほど他人によって否認されても――自分が何をしようと、言おうと、あるいは考えようと自分は正しいと自分自身の内部で確認しつつ、暮らしていくのである。

自己正当化の明白な目的は、われわれの士気――われわれが自分だと思っているパーソナリティ=人格の士気――にとって不可欠の、われわれ自身のプライドとわれわれ自身への信念を強めることである。

それは自身に何らの真の価値をもたず、そして基本的にそのことを知っているので、まったく錯覚に基づいた自分自身の価値感覚なしには生きることができないのである」



 そしてその自我がやることといえば、まるで人の頭をのぞいたのかと思えるほどの「頭の中のおしゃべり」というものの内容があからさまにされる。

「われわれは非常にしばしば、他人について、またかれらがわれわれを扱う、またはわれわれを軽んずる、またはわれわれを避けるなどなどの恥ずべきやり方について、しゃべっている。

例えば、われわれは、一定のこと――他人からの敬意など――はわれわれに帰せられる、他の人々はわれわれを好きになるべきだ、われわれは常に幸福であるべきだ、われわれは楽しい仕事、快適な家庭生活、等々を持つべきだ、外部のものごとがわれわれの安楽や楽しみを妨げるべきではない、などなどと思うかもしれない。

内なるおしゃべりの基盤は、どんな形でわれわれに来るにせよ、まさに内なる不平不満なのである。

要するに、内なるおしゃべりを通じて、われわれは自己正当化と自己賛美キャンペーンをおこない、それによって自分自身を最高度の自己評価価値に保つのである」



 頭の中のおしゃべりに覚えはないだろうか。自我というのはじつに情けないことをしている。しかもそれは想像上の産物にしかすぎない。わたしたちはこういう思考や自我をわたし自身だと思い込み、同一化しているのだが、それによって自我に翻弄され、自我の悲哀や悲嘆にくれることになる。この過ちから離れることが、わたしたちに心の安楽をもたらすのである。

 このような自我や思考の働き方を奥でながめている「真のわたし」がいるとベンジャミンやグルジェフはいうわけだが、そうなると宗教的段階になるわけだが、こういう自我からの離脱が、心の平安をもたらすのはまちがいない。

 この本は自我の情けなさから、自我の離脱をめざせるようになるだけで、じゅうぶんに価値ある本だと思うが、ちょっとほかの点でエソテリズム=秘教的すぎたり、グルジェフの独特の宇宙観がのべられていたり、研究書なむずかしさもある。

 人の頭をのぞいたのかと思うほどの情けない自我のありようを記述されるだけで、大きな収穫である。こういう「頭の中のわたし」の同一化はもう避けたいと思えるようになる。それが「自己を捨てる」ということではないだろうか。

 「自己を捨てろ」とあちこちでいわれることがわからないなと思う人は、この本に答えがあったといえるかもしれない。


生は「私が存在し」て初めて真実となるグルジェフ・ワーク―生涯と思想 (mind books)グルジェフから40年―ワーク実践のためのガイドグルジェフ・ワークの実際―性格に対するスピリチュアル・アプローチベルゼバブの孫への話―人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判

03 15
2017

幻想現実論再読

時間の幻想性に気づけ――『人生が楽になる 超シンプルなさとり方』 エックハルト・トール

4199060030人生が楽になる 超シンプルなさとり方
(5次元文庫)

エックハルト・トール
徳間書店 2007-11-09

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 エックハルト・トールのこの本ほど悟りについてわかりやすく書かれた本はないと思う。悟りというか、人間が陥る認識の誤りだと思うのだけどね。

 それには時間の幻想性についてたしかめてみるのがいちばんだ。よく「いま、ここ」に注目しろといわれるが、それには時間の幻想性を知らないとなかなかわかりにくいのではないかと思う。

「これまであなたは、「いま」以外の時に、なにかを経験したり、おこなったり、考えたり、感じたりしたことがあったでしょうか?
「いま」以外の時に、なにかが起きたり、存在したりすることは可能でしょうか?

過去には、なにひとつ起こっていません。
起こったのは、「いま」なのです。

未来には、なにひとつ起こりません。
すべては「いま」、起こるのです」



 時間というのは奈落の底に呑みこまれるように、瞬間瞬間、終わってゆく。それなのに過去の想起や思考がいつまでも過去を終わらせない。そのことによっていつまでも過去の後悔や羞恥や屈辱にさいなまされる。もはや永遠に存在しなくなった幻想の過去をいつまでもむしかえすのが思考である。

 しだいに人は「思考はわたしである」と思い込むようになる。「思考こそがわたし」「思考こそがすべて」「思考のないわたしは存在しない」「思考のない者は奴隷か、痴呆だ」と思い込むようになる。

 しかし思考というのは、もはや永久に失ってしまった過去の後悔や悩みをいつまでも存在させるものである。そのことによって、われわれの苦悩や苦痛はしじゅう再演されるようになる。人間の苦悩の構造は、思考による過去の再演や時間の想起にあるのである。

 エックハルト・トールを読むと、われわれの社会や学校がいかに思考を奨励し、思考を崇拝させる社会か、思い起こさせる。考えたり、計画したり、反省したり、改善するために思考を使いなさいと教えられる社会である。

 思考に悪を見たり、害悪を見ることは禁止されるか、もしくは思いもよらない社会になっている。そのために思考に自分のアイデンティティを重ねた人は、思考による苦悩、苦痛から逃れられなくなり、思考による病のうつ病になっても、その原因や解消策に気づけない。もはや思考が感情やうつ感情を生み出していることに思いもよらない社会になっている。

 あなたが苦痛や苦悩にまみれていまの状況や現実にさいなまされているときに、エックハルト・トールはたずねる。

「しかし、「いま、この瞬間」に、なにか問題がありますか?」



 わたしたちは思考や時間の幻想性にまったく気づけずに、思考や時間のフィクションにずっと苦悩を背負い込まされているのである。

 そして、思考がわたし、自分自身になった人には、思考が害悪をもたらしているとは思いもよらなくなっている。

 ほかに、「大いなる存在」の一体感については、わたしはわからない。「インナーボディ」という存在にも気づけない。

 エックハルト・トールは、感情の痛みを「ペインボディ」という言葉で表現しているのだが、これは「たとえ」であって、まちがって「実体化」して捉えてしまわないかと危惧する。エックハルト・トールがいっているのは、外界を自分の外側だと捉えたために、自分の思考の被害者になっている状態に気づけないことだと思う。これはウェイン・ダイアーやジャンポルスキーのほうがわかりやすい。

 人間は時間はあると思い、思考に自分を重ねている。そのことによって永久に去ってしまった過去をいつまでも再現し、苦悩し、悲観に暮れる。だが、そんなものは時間とともに永久に去ってしまったのだ。思考や想起の能力があるために、人は永遠の苦悩をいつまでも「呼び出し可能」になった。時間を見ると、そういうたんじゅんな認識のあやまちがわかりやすくなる。

 思考というのは、それ自体が幻想であり、存在しないものである。しかし人は思考を使いつづけて、それが「現実」や「実体」としてあるように思うようになる。思考こそがわたしであり、それ以外の認識形態はないように思うようになる。苦悩はいつでも再現可能の地獄を見るようになるのだ。

 たんに大脳新皮質の思考する・想像する能力による過ちに思える。これを現実化、実体化してしまった人間の悲劇を、われわれ自身が治せなくなっている。でもそうすることが「宗教」だといわれてしまうのだから、われわれの社会は、認識のあやまりや思考に同一化することに意地でもしがみたい社会らしい。メリットが大きすぎて、害悪を見ないのである。

 宗教ではなくて、たんに認識の誤りであると受け入れられるようになるのはいつのことだろう。


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03 13
2017

幻想現実論再読

思考を捨てる安らかさ――『自省録』 マルクス・アウレーリウス

4003361016自省録 (岩波文庫)
マルクス・アウレーリウス 神谷 美恵子
岩波書店 2007-02-16

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4061597493マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)
M. アウレリウス 鈴木 照雄
講談社 2006-02-11

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 マルクス・アウレーリウスは考えや思考が悩みをつくり、それを捨てればなんの悩みもないと自分に言い聞かせつづけたローマ2世紀の皇帝だった哲人。

 1800年前のむかしの人が思考の消去を説いていたのに、こんにちのわたしたちに届かず、ずっと思考によってもたらされる悩みや苦痛にとらわれているままなんて、どういうことなんだろうと思う。

 このストア哲学はインドの精神文化とどう関わりがあり、どう影響し合ったのかと思うが、日本にも同じような考えは仏教や禅として伝わり、日本人の心となったはずだが、こんにちではこのような考え方を聞くこともなくなった。

 『自省録』はほかに死後の名声への渇望を戒めたり、死をやすらかに受けいれるための心構えがなんども説かれていて、これも宇宙スケールで諭されていて、年をとればとるほど味わい深くなってゆく著作かもね。

「「自分は損害を受けた」という意見を取り除くがいい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。「自分は損害を受けた」という感じを取り除くがいい。そうすればその損害も取り除かれてしまう」

「君の想念を抹殺してしまえ。「いま自分の考え一つでこの魂の中に悪意も色情も、心を乱すものは一切存在しないようにすることができるのだ」

「今日私はあらゆる煩労から抜け出した。というよりむしろあらゆる煩労を外へ放り出したのだ。なぜならそれは外部にはなく、内部に、私の主観の中にあったのである」

「すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。したがって君の意のままに主観を除去するがよい。するとあたかも岬をまわった船のごとく眼前にあらわれるのは、見よ、凪と、まったく静けさと、波もなき入り江」



 みごとに思考を捨てることの安らかさと因果が説かれている。これを知らずに思考や感情にまみれ、苦痛にのたうちまわっている人はなかなか受け入れがたい考えかもしれない。わたしもこの考えを定着させるためにはずいぶん骨を折った。

 ストア哲学では心労を排斥するための思考の除去が説かれているのだが、仏教になると悟りやこの世界から解脱するための瞑想などとなって、とうしょの心理的安らかの目的があまりいわれなくなる。そのことによって、思考を捨てる知恵は一般人から縁遠くなるという因果もあったのだろうか。

 「思考=感情=苦痛」という図式が崩れ、感情や苦痛をなくすためには外部の人やモノを変えなければならないという時代に、われわれは生まれた。そのことによって、苦痛の原因・起源である思考という図式を知らないまま育つ人も多くなった。感情の原因や他人や外界になり、みずからの思考が自分を傷めつづけているという因果が見えなくなったのである。

 ハンドルの存在を知らないままクルマに乗っているようなもので、あちこちにぶつけて文句をいっている。われわれは外界を変えなければ幸せになれないという物質主義の時代の犠牲者なのである。


世界の名著 (14) キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス (中公バックス)ストイックという思想どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)リチャード・カールソンの楽天主義セラピー

03 10
2017

幻想現実論再読

ストア哲学を知らないのは人生の損失――『要録』 エピクテトス

4121601726語録 要録 (中公クラシックス)
エピクテトス 鹿野 治助訳
中央公論新社 2017-03-08

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▲さいきん出ましたが、画像ありませんね。

4124006241世界の名著 (14) キケロ エピクテトス マルクス・アウレリウス (中公バックス)
キケロ 鹿野 治助訳
中央公論新社 1980-11

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▲アウレーリウスの『自省録』も入っていて、オトク。


 ストア哲学の心理原理を知らないのは、人生の損失だと思う。過去を後悔し、悩みを考えつづけ、だれかや世界を責めつづけ、不幸やうつ病になってしまう。

「人々を不安にするのものは、事柄ではなくて、事柄についての思惑だ」



 この心理原理を知らないと、わたしは世界や他人に翻弄されつづけ、外界の犠牲者となりつづけるだろう。ただ、考え方のみが自分を苦しめ、傷つけると気づけないだけで、人生の両手いっぱいの不幸を受けとってしまうことになる。

 わたしもこの心理原理を知らないばかりに、二十代まで悲嘆や苦悩を背負いつづけた。だれかが教えてくれていたら変わっていたと思うが、ぎゃくに苦痛を感じつづけていたからこそ、よけいにその大切さや原理に迫ることができた。

 現代ではそういう原理を教えてくれるのは、自己啓発であったりする。ウソっぽい、詐欺師みたいな精神主義だと軽蔑しておれば自己啓発にはまったく近づくことなく、心理原理を知ることはないだろう。

 ウェイン・ダイアーやノーマン・ピール、またはアランやヒルティ、ジョセフ・マーフィー、リチャード・カールソンといった人たちにそれはのべられているのだが、自己啓発を嫌う人は、こういった知恵に気づくこともないのだろう。

「記憶しておくがいい、きみを侮辱するものは、きみを罵ったり、なぐったりする者ではなく、これらの人から侮辱されていると思うその思惑なのだ。それでだれかがきみを怒らすならば、きみの考えがきみを怒らせたのだと知るがいい」



 わたしたちは考えが自分を傷つけていることに気づけずに、他人や世界が自分を傷つけたと考える。それによって他人や外界を物質的に改善しようとして、変わらなければ激昂や屈辱をずっと背負いつづけるのである。ただ思考がそうしているのだと気づけずに。

 エピクテトスが生きたのは一世紀から二世紀にかけてのローマ、ギリシャだといわれている。1800年前の知恵が、わたしたちにまったく届かずに、わたしたちは外界に殴られつづけていると思い込んでいるのだ。

 それには外界の物質的改善にのりだした近代西欧の征服力の力があずかっているだろうし、心内のコントロールだけで幸福をめざした社会は、おそらくは中世西欧やインドのような物質的発展途上国の汚名をかぶせられるのだ。

 物質改善と心内の幸福はシーソーのように、物質の発展と心内の幸福のどちらかを選ぶように迫るのだろう。物質の発展をねがうと、外界の犠牲者になりつづける関係とバーターである。ただ、考えを変えるだけで幸福を説くなら、物質の改善はおろそかになる。われわれは物質の改善の時代に生まれて、心内の不幸を背負うめぐりあわせの時代に生まれたのである。

「出来事が、きみの好きなように起こることを求めぬがいい、むしろ出来事が起こるように起こることを望みたまえ。そうすれば、きみは落ち着いて暮らせるだろう」



 ストア哲学はインドの仏教とどうつながっていたのか、わからない。ただストア哲学をつきすすめた先には、心内の幸福や悟りをめざしたインドの精神文化があるだろうし、日本はその仏教の影響を近代までに強く受けた世界だったのである。

 わたしたちは両方の世界の欠点と長所も知っているのだから、うまくバランスをとって、この世界観の橋渡しを考える必要があるのかもしれない。

 なお『要録』はしごく短いもので、『語録』のほうは一般的な処世訓になっている。


自省録 (岩波文庫)どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)幸福論 (第1部) (岩波文庫)【新訳】積極的考え方の力リチャード・カールソンの楽天主義セラピー


03 08
2017

幻想現実論再読

知の正当化の方法論――『ポスト・モダンの条件』 ジャン=フランソワ・リオタール

4891761598ポスト・モダンの条件
―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

ジャン=フランソワ・リオタール
水声社 1989-06

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 共同幻想をひきはがすためにむかし読んだ本の再読がつづきます。

 共同幻想論を知ることの大切は、自分たちの社会で「事実や絶対」と思われていることの相対化ができることである。

 わたしたちは北朝鮮や新興宗教の盲従者たちを批判して笑うことはできる。だけど自分たちも同じような権力構造にのみこまれて、隷従や服従をくみこまれているのではないか、だとしたらどのような支配構造をくみこまれているのか、外観的に見ることができるようになる。自分たちがいっさいの権力構造から逃れられていることなんて、おめでたすぎるのである。

 リオタールの『ポストモダンの条件』は「知はどのように正当化されるのか」といった問いを、言語ゲームという戦略をもちいて分析した本であり、かならずしも知の権力にのみこまれる様を批判した書ではないと思う。ただ知の正当化のコンセンサスを客観的に見るという立場を与える書であると思う。自分たちの社会を斜め上から見ることは、自集団の真理や絶対から逃れることでもある。

 この本は150ページほどの薄い本であり、難解な現代思想の中では比較的読みやすい部類に入るのではないかと思う。でもわたしにはけっしてすべての文脈はかみ砕けるまでには理解をすすめられたというわけではないけどね。ぽつぽつと重要な指摘が浮き上がるという感じだ。

「物語知はその正当化という問題に価値を認めないことということ、すなわち、それは、論証にも証拠の提出にも訴えることなく、伝達という言語行為によってみずからを信任する、ということを指摘した。

科学的知は、もうひとつの知、つまり科学的知にとっては非知にほかならない物語的知に依拠しない限りは、みずからが真なる知であることを知ることも知らせることもできない」



 本書はこのように物語知や科学的知はどのようなものであり、どのように正当化されコンセンサスを得られるのかを垣間見せる本である。それは同時に政治権力のあり方でもある。こういった手続きをへないと正当化されないものが、われわれの社会の真というものである。

 リオタールは「大きな物語の終焉」という言葉で紹介されることが多いと思うが、ここでは人間の解放という物語や、富の発展などとしてさらりと触れられているだけで、そう大きなテーマにはなっていない。

 知が商業や富にのみこまれる様も指摘している。

「お金がなければ、証拠はなく、言表の確認もできず、そして真理もない。科学の言説ゲームは富める者のゲームとなる。

問われる問いは、もはや「これは真であるか」ではなく、「これは何に役立つか」なのである。知の商業化の文脈においては、この最後の問いはしばしば「これは売れるか」を意味している」



 わたしたちは自集団や時代の絶対や真実を信じて生きるが、そこには隷従や支配の構造がくみこまれている。それにぴったりと合致して生きることも可能であるが、そういう形態にしがみつこうとすれば、さまざまは苦痛や悲劇を背負うことになる。

 その社会においてなにが重んじられ、なにに価値をおかれるかはそれぞれ異なっている。それゆえに人生からとりこぼされるものは多くなるし、自分を十全に生きられないという思いも蓄積してゆく。だからこそ、共同幻想論のような自集団の相対化と脱却が必要となるのである。

 自分たちを縛りつけているものはなにか、その多くはこの社会の世界像であったり、常識であったり、当たり前の中にひそんでいるのではないだろうか。自集団の相対化は、自分を縛りつけていたものから自由になることである。


こどもたちに語るポストモダン (ちくま学芸文庫)ポストモダンの50人 -思想家からアーティスト、建築家まで相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)知識人の終焉 (叢書・ウニベルシタス)言説、形象(ディスクール、フィギュール) (叢書・ウニベルシタス)

03 05
2017

幻想現実論再読

自分の思考こそが加害者――『どう生きるか、自分の人生!』 ウエイン・W. ダイアー

4837907857どう生きるか、自分の人生!
―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)

ウエイン・W. ダイアー Wayne W. Dyer
三笠書房 1995-12

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483795572Xどう生きるか、自分の人生!
―実は、人生はこんなに簡単なもの

ウエイン・W. ダイアー Wayne W. Dyer
三笠書房 1999-09

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 この本をはじめて読んだのはもう二十年前ほどになるだろうか。つぎのような一節を理解して、腑に落ちるまで納得させるのにどんなに苦労したことか。思想や考えることが好きで、過去の反芻ばかりして、頭の中のことを「事実化」、「現実化」していたわたしにとって。

「あなたが自分の考えと現実が同一のものだという確信のものに生活するとしたら、自分に課した倉庫いっぱいの苦悩を受け入れるはめになる。

人間の頭の中以外には、恐ろしいことはない。

あなたの考えがあなたのためだけに、それをいやなものにするのである」



 頭で考えたこと、思ったことを即「事実」や「ゆいいつの現実」だと思っていたとうじのわたしにとって、この思い込みをはがすのはいかにむづかしかったか。こういうストア的な思想を知らない人はいまでも多くいると思うのだが、気づけば、いかに自分が愚かな心の習慣にはまっていたか、嘆かわしいほどである。

 ウェイン・ダイアーの『自分のための人生』がベストセラーになったのは1976年であり、いまでは全世界で3000万部売れたことになっている。ストア哲学や唯心論的転回はこのころからはじまっており、そして知らない人は知らないままの思想かもしれない。『どう生きるか、自分の人生』は1995年の出版。

 科学と唯心論はシーソーの関係のようになっており、世界や他人を変えないと幸福になれないと説く科学は、思考や心を変えることによって安寧を説く唯心論が増長すると、物質的改善や物質消費に慰めを求める求心力が減退してしまう。

 科学というのは自分の外側に外界があり、他人や世界が不快なことをしたから、ちょくせつ自分が不快になったのだと思う素朴な思い込みから発している。唯心論のように他人や世界に思うことは自分の心であり、その現実を選択しないと、不幸を背負うことになるといった考えは、だれかから教えてもらわないと、科学的世界観のなかで、伝わることは少ないのかもしれない。

 他人や世界からちょくせつ感情がやってきて、それらを変えないと幸福になれないと科学は教える。唯心論を知ると、自分から不幸や不快な感情をみずからひきうけているように見えるようになる。

 この本ではそのような「現実」を選べないばかりに世界や他人から不幸をうけとってしまうことを「被害者」というキーワードで如実に見せてくれる。思考を選べば、わたしたちは外界の犠牲者にならずに、みずからの安寧や幸福を選択できるのである。

 でもその選択ができることを知らないばかりに、外界から被害をうけつづけると信じる被害者を生んでしまうのである。まさしく自分の思考こそが加害者なのに、世界や他人が加害者だと思いつづけるのである。

 ただ、この本ではウェイン・ダイアーは腹のたつことがあったら肩をすくめて忘れなさいといっている一方、あなたはどんなに被害者になっているかとムカムカした気分を植えつけ、他人やとくに店員にたいして自分の言い分を聞かせるまでがんとゆずらないクレーマーのすすめも説いていて、それこそあなたの説く「被害者」の役割ではないのかといいたくなるが。

 この本を読んでいるとずいぶん自分が被害者なのかと自覚させられ、ムカムカした気分をかもしだされる。この本を読んだ当時、職場で怒り出した拙い思い出が甦る。読みかえしたいまも、イライラが醸成されるなと感じて、鏡のようにイライラした人や出来事を見つけやすくなってしまう。

「過ぎ去ったこと、どうしようもないことは、悲しんでもどうにもならないことである。

なおらないものは、気にすべきではない。やってしまったことをやってしまったことだ」



 わたしたちは思考や想像力のおかげで、ああすればよかった、こうすればよかった、もしああしていたら、もし、もし、と永遠に変えられないことに思考を費やすようにできている。時間や空間を飛び越えられる思考や想像力のおかげである。でもその想像力にすぎないものを「実体化」してしまい、その「現実」に自分を追い込んでしまうことになる。ストア哲学や仏教は二千年前から人間の愚かな想像力の戒めを説いてきたのだけどね。

「「なんでまたあんなことがいえるのだろう!」「私をこんなにかっかさせる権利など彼にはない!」「非常識人に出会うと気分が悪くなる」などということによって、自分自身を他人の行動で犠牲にしてしまう。これはあなたの感情の糸を、あなたが嫌っている人間に操作させているのと同じことである」



 どうだろう? こういう怒りに身に覚えのない人はいないだろう。だけど、唯心論を知るとみずからが犠牲者になっていることを知れるのであり、さらに愚かなことにそういうかっかとした怒りをもたらす思考を選択しているものは自分自身にほかならず、自分自身が加害者だったのだと気づくようになるだろう。

 われわれは思考や想像力の戒めを知らないばかりに、自分で殴っておきながら、他人が殴ったと自分で思いつづけるのである。

 もちろんこの態度には敗北主義や退却のような批判もできるだろう。外界を変えようとしてどれだけ不幸を積み重ねてきたかの違いによって、態度を決めることもできるのだろう。


自分のための人生 (知的生きかた文庫)老子が教える 実践 道の哲学ザ・シフトグルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)


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