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12 18
2016

主体性の剥奪

狂気と理性の同居――『ある神経病者の回想録』 ダニエル・パウル・シュレーバー

B016PNVMXEある神経病者の回想録 (講談社学術文庫)
ダニエル・パウル・シュレーバー
講談社 2015-10-09

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「幼児が泣いている最中、もしくは手に負えない状態にある時は、絶対に、欲求をかなえてやってはいけない。

わけもなく不機嫌になったり、ふさいだり、ふてくされたりすることが、ひじょうに悪いことだということを、子供に気づかせることは、きわめて重要であり、このことに気づいた子供は、一生、情緒の安定を保つことができるだろう。

このようなものは、見つけ次第、直ちに気分転換、もしくは直接的な抑圧手段によって、抹殺されなければならないし…」



 高名な教育学者の父が書いた教育書の一節である。そのおかげで長男は自殺、次男でこの著者のダニエルは発狂、娘はヒステリーになった。教育とその結果としての息子の症例としてこの書を読みたかったわけであるが、その因果を読み解けるほどやさしい書ではない。

 「世紀の奇書」とよべるほど異常な幻覚世界、妄想世界がえがかれる。神的な世界、奇跡にみちた啓示に撃たれた世界と本人は思っているのだが、やはり狂人の妄想・幻覚にしか思えない、ときには笑えてしまう世界観がえがかれる。

 神の神経である太陽光線が自分にやってきて語りかけ、魂の劣化であるチビ男が頭を上を無数にはい回り、まぶたの開閉をおこない、鳥たちが話しかけ、精神科医の魂が神経つながりによって押し寄せ、サソリが頭の中に入れられ、魂の官能的快楽のために身体が女性化してゆき、現実の人間は「束の間に組み立てられた男たち」と思い、いっときも止まることのないおしゃべりのために咆哮したり、罵倒しなければならない、といった異常な世界像がえがきだされる。

 このような回想録を読むと完全に頭のおかしい統合失調症に犯されていたと思うしかないのだが、付録の禁治産に対する訴状を読むと、とてつもない高度な論理力、整合性、思考性は維持されていることがじゅうぶんにわかる文章がえがきだされていて、むしろシュレーバーのこの妄想世界は現実に感じられたものではないかと思えるほどの転倒した事態にさらされる。

 いちばんほっとするのは鑑定医のヴェーバー博士により鑑定書であり、ここにきてようやく外から見た客観的なシュレーバー像が報告される。やっぱり統合失調症といえる精神病に犯されていたのだと思える。外界から遮断され、内界の世界に没入した病的なすがたはやはり精神病特有のものである。

 それでもシュレーバーの客観性、論理的構築力の維持は芯がとおっており、自分の世界像が他人には理解できないであろうことが確実に、なんどものべられる。かれの現実においては真に存在するものである。そしてかれには、どんなに論理的能力をもってしてでも、疑いようのないものなのである。

 それほどまでにかれの幻覚世界、妄想世界は真に迫ったものだったのだろう。論理的能力と幻覚世界の同居、これが統合失調症の症例なのだろう。宗教的信念におかされたひとりの男ともいえるのだが、内界に没入する異常な姿はやはり精神病者とよべるべきものなのだろう。

 狂気の世界と論理的思考性がこんなに同居する稀有な書はそうないだろう。それは統合失調者が幻覚をまったく疑わずに真に存在するものと思うすがたと同じである。統合失調者にとっては集団ストーカーや集団監視のような迫害妄想が、現実の論理性と同居して妄想されるわけだが、シュレーバーのばあいにはあまり迫害妄想が強いようには思われなかった。

 シュレーバーの幻覚世界は幼いころに父に迫害された世界を模しているのだろうか。みずからの感情や意志を徹底的に抹殺されつづけたこのひとりの男は、その迫害された世界を幻覚として立ち上げたのだろうか。

 シュレーバーは「描き出し」の能力があるといい、マッターホルンの風景や会いたい人が目の前に存在しているかのように描き出すことができたといっている。これはずっとつぶやくつづける頭の中の声に抗するための安らぎになったといい、そしてその能力が圧倒する狂気の世界をも現出させてきたのだろう。想像や幻覚がリアルに現実になる世界を、かれは体験したのである。

 600ページの長い書であり、狂気と法律的論理性にみちた書なので読み進めるのにひじょうに疲れるものであったが、狂気と理性の狭間がひじょうに揺さぶられる書であるのはまちがいない。

 フロイト、ラカン、カネッティ、ドゥルーズ&ガタリが興味をもち、分析した稀有の書であるのはうなずけるところである。フロイトはリピドー備給を神の光線に読みとったそうだが、教育学者の父との関係においてこそ、この狂気は読み解かれなければならないものだと思う。家族について言及した第三章は削除されて読めないのであるが。



冷血の教育学―だれが子供の魂を殺したか魂の殺害者―教育における愛という名の迫害シュレーバー症例論 (中公クラシックス)群衆と権力 下  叢書・ウニベルシタスアンチ・オイディプス 合本版 資本主義と分裂症 (河出文庫)


11 26
2016

主体性の剥奪

自分はどれだけつくられたものか――『なぜ、自分はこんな性格なのか?』 根本 橘夫

4569624766なぜ、自分はこんな性格なのか?
―性格形成分析入門

根本 橘夫
PHPエディターズグループ 2002-10

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 われわれは思う以上に意志や主体性を奪われて生きてきたのではないか、という疑問から毒親論、虐待論、教育論と読んできた気がする。どのように主体性のないものとして、「つくられてきたか」という捉えなおしをしてきたのだと思う。

 「なぜ、自分はこんな性格なのか?」という問いは、おそらくは同じ失敗をなんどもくりかえしたときに思い浮かぶ疑問ではないかと思う。上記のわたしの問いとはすこし異なる気がするが、性格がどのようにつくられたかと探る試みは同じようなものである。

 自分の性格に拘束されて、なぜ同じ失敗やあやまちをくりかえしてしまうのだろうと問うたとき、人は自分はどのようにかたちづくられてきたのかと問いはじめる。

 人は成人のころは自分ひとりで生きてきたように思いやすいと思うのだが、親や生育環境に適応してきた部分もかなり大きいだろう。親との対応が自分の性格だといえはしないだろうか。

 アダルトチルドレンの抑圧的な性格がひところ問題になったことがあったが、これは主体性を奪われて秩序に服従する性質を現代の多く人がつちかわれていることの気づきに相当するのではないかと思う。それは神経症的な個人だけの問題だったのだろうか。

 この本では性格類型による分析もおこなわれていて、たとえば分裂的性格とか、抑うつ的性格とか、強迫的性格とかいったおなじみのものである。クレッチュマーだったか。この分類に責任を帰すると、人の共通する行動は、その性格・気質に帰せられてしまい、社会的要因論が阻害されるように思うが。

 親の要求や願望に適応するかたちに育ったいつわりの自我を「代償的自我」と著者の根本橘夫はよんでいるが、この問題意識をもつ人は、わたしの問題意識と近いところを共有している人だと思う。エドワード・デシもモチベーション論でこだわったのは内発的自我であって、親や他人からの外発的なものは「いつわりの自己」として批判されている。

 ホルネイは不安への対応が性格をかたちづくるとしたが、この論理は身に覚えがある。「相手に好かれていれば、相手は攻撃してこないだろう」「自分を無にして相手の言うがままになっていれば、相手は攻撃しないだろう」「外界が怖いなら、外界と接しなければ安全である」「強ければ相手は攻撃してこないだろう、優秀であれば非難されないだろう」 不安から逃げてしがみつく論理って身に覚えがあるが、この目標はどこかで破たんするようなものに思える。

 自分の性格は親によってあらかたつくられたものか、それとも自分の資質にしたがって生まれたものか。その割合を問いたいのではなくて、その人からつくられた自分をどれだけ客観視できて、自分からひきはがすことができるかが、わたしの知りたいところあたりだと思う。

 人につくられた「代償的自我」を脱しながら、ほんとうの自分を見つけてゆくことが人間の成長だと思う。社会的に適応してゆくだけでは、それはまったく親のいいなりになった「いい子」と同じことで、自分の意志や主体性は抹殺されたままである。社会的適応を脱して、ほんとうの自分になってゆくこと、それこそが人生の求められる価値ではないかと思う。


「いい人に見られたい」症候群―代償的自己を生きる (文春新書)人を伸ばす力―内発と自律のすすめ自己分析「嫌いな自分」を隠そうとしてはいけない影の現象学 (講談社学術文庫)

11 20
2016

主体性の剥奪

人生の主導権をとり戻せ・読書まとめ

 自分でもなにを問いたいかわからない「主体性の剥奪」というテーマで、ジャンルをまたいで本を読んできたが、問いたいことは「人生の主導権、主体性をとり戻したい」ということではないのかとまとまってきた。

 さいしょは「やらされ感とはなにか」という重苦しい気持ちから出発してモチベーション論を読み、つづいて親子虐待などの親子関係論、そして教育論と手をのばしてきた。自分の意志や自由が奪われる関係を見出そうとしていた。

 モチベーション論では、エドワード・デシの『人を伸ばす力』において、内発的動機づけと外発的動機付けという二項が参考になった。この本においては、モチベーション論では出てくると思わなかった親やだれかの期待に添う自我の「いつわりの自己」という概念が出てきて、この問題こそ自分の問いたい核心な気がしたが、まだ明確な問いが出てこなかった。


4788506793人を伸ばす力―内発と自律のすすめ
エドワード・L. デシ リチャード フラスト
新曜社 1999-06-10

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 つづいて毒親論や虐待論あたりを読んだ。こどもの意志や主体性を徹底的に奪ってしまう親子関係、意志をたたきつぶされる親子関係について考察を深めたかったのだと思う。いぜんアダルトチルドレンの文脈としてアリス・ミラーや加藤諦三、交流分析本を読んでいたころがあったが、問いの角度はかなり違ったものだった。というか、本筋の問いからはずれることがしばしばだった。

 意志をたたきつぶして、親への服従を徹底的にたたきこむ。このような「支配-隷属関係」が、虐待や親子の精神病理を生み出すのではないだろうか。意志や主体性を奪われる子どもがどのような病理を背負うことになるか。

 このジャンルでとくに印象に残った本として、アリス・ミラーの『魂の殺人』はとうぜんとして、長谷川博一の『お母さんはしつけをしないで』『殺人者はいかに誕生したか』、高橋和巳『子は親を救うために「心の病」になる』がよかった。


478851320X魂の殺人 新装版
アリス・ミラー
新曜社 2013-01-17

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4794218044文庫 お母さんはしつけをしないで (草思社文庫)
長谷川博一
草思社 2011-02-05

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410137452X殺人者はいかに誕生したか: 「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く (新潮文庫)
長谷川 博一
新潮社 2015-03-28

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4480431586子は親を救うために「心の病」になる (ちくま文庫)
高橋 和巳
筑摩書房 2014-04-09

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 親の期待や願望に答えるうちにやがて生まれてゆく「いつわりの自己」。自分の意志や望みではないものの仮面を、親や世間の欲求にこたえるうちにしだいにかむってゆくわれわれ。われわれはどんなに自分の意志や願望でないものを自分独自なものや自分由来のものと信じて生きてゆくことか。

 そういう意味でいうなら、学校教育もまさに自分の意志をたたきつぶして、だれかの要求にこたえることだけを教え込む機関ではないだろうか。つくられてゆく「いつわりの自己」をもっと探求するなら、教育思想史も探らなければならないのだが、一般的な教養書のたぐいには少なくて、とまどっている。

 ハインツ・マレの『冷血の教育学』や泉谷閑示の『反教育論』に求めているものを見つけられたくらいだ。


4788505444冷血の教育学―だれが子供の魂を殺したか
カール‐ハインツ マレ Carl‐Heinz Mallet
新曜社 1995-12

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4062881950反教育論 猿の思考から超猿の思考へ (講談社現代新書)
泉谷 閑示
講談社 2013-02-15

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 思えば、わたしの知識探求はずっとこの支配からの解放、他者にのっとられた状態からの離脱を無意識に求めていたともいえる。

 マスコミや世間からの強制や価値観というものにたいそう腹を立てていたし、慣習や制度といったものはずっと敵視してきた。社会学や大衆社会論といったものに興味をもったのも、そういう社会からの圧力・強制から脱したかったからだ。

 岸田秀の「共同幻想論」あたりにともかく魅かれたのも、社会的慣習・規制といったものの相対化、無化をしたかったからなのだと思う。社会のルールは恣意的に決められたルールにすぎない、そう捉えることによって、それらからの解放をめざした。

 「思考を捨てる、頭を空っぽにする」というトランスパーソナル心理学や禅仏教に興味をひかれたのも、自分の考え方にプログラミングされた社会的な思考法や親などから植えつけられた思考法を、消去・除去したかったからなのだと思う。

 「やらされ感とは何か」という問いからはじまったこの問いは、親や世間から押しつけられた価値観や強制感がどのように植えつけられていったのかという形成のプロセスを垣間見るためだったともいえるかもしれない。


 われわれは生まれた時から、自分の意志や願望のかわりに、親や世間からの考え方や価値観を押しつけられて、あたかも自分が願望しているかのように思い込みされてその世界観を生きる。

 現今の社会システムに合致したかたちにわれわれはつくられてゆく。疑問や不一致、自分の願望と違ったものであったとしても、それをとうぜんのものとして納得する自分として、形成されてゆく。われわれはほんらいの自分と違った、社会に適合する「だれか」としてつくりあげられてゆくのである。

 子どものときから人は何度かの反抗期をへて、親と違った自分の意志や自分らしさというものをとり戻してゆく試みをおこないながら成長してゆく。親の要求や願望をはねかえしながら、自分独自の存在として成長する。

 親離れや親殺しは人が大人になるさいの通過儀礼である。だけど、社会から離れること、社会を殺すことは、多くの人はなかなか試みられずに、社会に殺されること、社会に適応するだけを要請されて、社会で生きてゆくのではないだろうか。

 その社会の要請や価値観を脱いだり、反抗したりすることで、自分独自の存在に戻ってゆくことが、人間の成長の課題といえないだろうか。社会からつくられた自分から、しだいに本来の自分になってゆくこと、それこそが人間の成長目標といえないだろうか。

 手塚治虫のマンガに『どろろ』という作品がある。親が悪魔と契約したために妖怪に奪われた自分の身体をとり戻してゆく百鬼丸というヒーローがえがかれていた。われわれの人生というのはまさに百鬼丸そのもので、身体のパーツをとり戻してゆくことが一生の課題ではないだろうか。代用品が自分そのものだと思う人もたくさんいるようだが。


4063737179どろろ(1) (手塚治虫文庫全集)
手塚 治虫
講談社 2009-11-11

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11 02
2016

主体性の剥奪

優越をめざす社会の落とし子――『騙しも盗みも悪くないと思っている人たち』 セイムナウ

4062098830騙しも盗みも悪くないと思っている人たち
スタントン・E. セイムナウ
Stanton E. Samenow
講談社 1999-09

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 おもしろくて、ひきこまれて読んだ。犯罪者像のちょっとした転換となると思うのだが、アメリカでは84年、日本で99年に出された本であり、この考え方の影響はどうなっているのか気になる。

 ふつう犯罪者は社会の犠牲者であり、更生されることが可能だといわれるのだが、このセイムナウは犯罪者は生まれつきだ、環境でも社会のせいでもない、本人の自己イメージと世界観がどうしようもないんだと、犯罪者への同情的な見方をいっさいかなぐり捨てる。累犯犯罪者のようなどうしようもないやつは、いくら社会の犠牲者のためのプログラムをほどこしても予算のムダたという。

 犯罪者に共通する基本的な自己イメージというのは、「自分は特別な存在だ、オレほど優秀な人間はいやしない、だから人が自分に従うのは当たり前だ」と思っている。誇大自己や優越者の尊大な自己像をもっているわけだ。そして、教師のいいなりになること、マジメに働くこと、法を守る市民を軽蔑して、捕まって刑務所に入れられても自尊心がゆらぐことはあっても、その基本的自己イメージをかかえたまま、シャバに出てまた再犯をくりかえす。

 社会の犠牲者である犯罪者像をたくみに利用して、精神障害で待遇や刑も軽くなることを織り込み済みで計算して、人を騙し支配することに快感をいだいているかれらは、ますます優越した自己像に磨きをかけるというわけである。

 犯罪者のくせに思い上がった自己像を思い描きやがってと思うかもしれないが、これはわれわれの社会の優越や勝利をめざす価値観そのものの写し絵ではないのか。個人的パーソナリティーや責任というより、男らしさ文化の勝利を突き抜けた先に、犯罪や罪を犯して人から憎まれ、ぶちこまれることに、ぜんぜん恐怖も罪の意識もいだかないオレは最強なのだ、という男らしさ文化の賜物なのではないかと思う。

 かれらは恐怖心を否定し、ふたをしているという記述を読んだとき、これはまるで男らしさ文化の競争ではないかと思い当たった。恐怖心を否定するから法を犯すような恐ろしいこともおこなってゆくし、自分にビビっていると思う弱いやつをどこまでもいびりつづける。「チキン」や「弱虫」といわれることをなによりも恐れ、自分そのような評判がすこしでもつくことそのものを、ひじょうに恐れる。

 最強の自分、みんなが恐れて従っていることにちっともオレは恐れないで反逆してやる、という自己像は、男らしさ文化の競争や勝利をめざした果てにあるものではないのか。著者のセイムナウは、この男らしさ文化への記述はおこなわず、ひたすら個人パーソナルティにせいにするのだが、この文化視点を欠如させたのはなにか理由があるのだろうか。

 優越自己や万能自己というのは、身に覚えもある方もいると思うのだが、たとえば学歴やスポーツの勝者、なにかの優勝者などは、このような思い上がった優越者の自己イメージを抱くのではないだろうか。そこにほかの者たちへの軽蔑や見下し、差別意識をいだくかどうかはわからないが、支配や征服に快感や優越感をいだくなら、他者を道具や利用価値でしか見ない冷酷な世界観が生まれるだろう。

 この社会での勝者と犯罪者は紙一重の自己像をもっており、他者を道具のように冷酷にあつかって成功者と遇されるサイコパスの経営者や政治家はこの世にたくさんいるのではないか。犯罪者も成功者も同じスーパー自己をめざしているという点では、同根なのではないだろうか。手段が合法内に収まるか、法を破ることに優越自己がますます増長するかの紙一重の違いかもしれない。

 そういう意味ではこの犯罪者像は、不都合な写し絵を社会にもたらすのではないだろうか。犯罪者には共通した優越自己像があるというより、この社会の成功者、優越者には共通した自己像があって、それが法に収まるか、収まらないかの違いにすぎないといえるからだ。

 まさに「権力への意志」である。かれらは学校で教えられることも、マジメにつまらない労働に耐えたり、つまらない日常に耐えることも、優秀で卓越した自分にはふさわしくないと思う。かれらは他者や世界が自分の思いどおりに動き、他者は支配し征服することに快感をいだく。それは犯罪者のみのパーソナリティーとだれがいえるのか。

 犯罪者像がひっくりかえったし、だから犯罪を社会や貧困のせいにして犯罪者を更生、矯正しようとしてきたプログラムは効果がなかったのだとセイムナウは説くのだけど、いまでもあいかわらず犯罪は社会や環境のせいだという声を多く聞くのだが、このセイムナウの主張はどうなったのだろう。84年に本が出ているのだけど、多く売れ、影響をあたえたという話は聞かない。

 犯罪者の優越した自己像がゆらぐときは、つぎのようなときである。人を支配できないとすれば、オレはいったいなんだろう? 命令しても誰も従わず、どんな願いも聞き入れてくれる者がいないとしたら、人生なんていったい何なのだろう?

 勝者になれそうもない、特別な栄光も手にできない、物事が自分の思い通りになれそうもない、と犯罪者が落胆するとき、かられの人生は大きな危機に見舞われる脅威なのである。

 このような危機を感じる人は大物やひとかどの者になろうとするだろう。それが世にいわれる成功者や有名人なのであって、犯罪者も同じ土壌から生まれて、手段や道筋が違うだけではないだろうか。なにが、かれらは犯罪者に仕立て上げたのか?


犯罪者になる子、ならない子―手遅れになる前に親ができること男のイメージ―男性性の創造と近代社会男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問名誉と暴力―アメリカ南部の文化と心理犯罪・非行の社会学 -- 常識をとらえなおす視座 (有斐閣ブックス)

10 29
2016

主体性の剥奪

ラッセルの洞察眼――バートランド・ラッセル『教育論』

4003364929ラッセル教育論 (岩波文庫)
バートランド・ラッセル
岩波書店 1990-05-16

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 バートランド・ラッセルは個別的な洞察や省察が鋭くて、そちらのほうに目を奪われて、全体的なことはなにをいっていたのか、つかみにくくなる哲学者であると思う。

 ずっと寄り道をしながら話していて、「で、けっきょくなにをいいたかったのか?」がわからなくなる。あまり主張がはっきりしないで、寄り道文体が目的というべきか。

 そういう洞察から気になったものをいくつか。

「なに人も服従するすべを学ぶべきではないし、なに人も命令しようと試みるべきではない」



 服従しか叩き込まれない学校、隣人がいうことの鏡にすぎない人などが、世にはあふれている。

禁欲生活の聖者は、おのれのために快楽を捨てたあとで、他人にも快楽を捨てさせようとするが、これは自分の場合よりやさしいことである。底流にはずっとねたみがあり、そのねたみにそそのかされて、苦しみは人を高貴にするものだから苦しみを加えることは正当である、と考えるようになる」



 きみのために苦しみを与えてあげるんだという恩着せがましい人には気をつけましょう。

「私たちは、インチキにみちた世界に住んでいる。インチキなしに育てられた子供は、普通尊敬に値すると考えられている多くのことがらを軽蔑するにきまっている。

私個人としては、わが子が奴隷の技能で成功することよりも、むしろ、こういう性質をもって失敗するのを見たいと思っている」



 バートランド・ラッセルのような人にこのようなことをいわれると、世俗の価値感に必死にならなくていいんだという気持ちになりますね。

「主な動機は、事柄がなんであれ、つねに事柄そのものに対する興味でなければならない」



 ほめられることが動機になってはいけないという戒めである。

「体罰はどんな場合でも正しくない、と私は信じている。きびしい形では、残酷さと残忍さを生み出す、と私は固く信じている」



 この本が書かれた1926年には、罰の理論もすっかり一変したといっている。

「退屈だなと感じられるような知識は、およそ役に立たないものに対して、熱心に吸収された知識は、永遠の所有物となる」



 自分に興味のない知識を教えつづける学校ってなんなのでしょうね。

「読書の好きな少年や、勉強がきらいでない少年は、必ずといっていいほどいじめられる。フランスでは、最も頭のよい少年たちは、高等師範学校へ行き、もはや平均的な少年とは交わらなくなる。…知力の高い子供が神経をすりへらしたり、平均的な俗物どもにおべっかを言ったりしなくも済むようになる」



 どこでもそんなものなんですね。子どものとき、読書をしなかった理由がこんなところにあるのかも。

 ちなみラッセルは幼少期に父母を失い、厳格な祖父母に育てられ、大学にいくまで家庭教師と個人教師に教えられたそうである。反戦活動によって教壇を追われたり、投獄されたりしている。

 日本の教育って個人が幸福や十全に生きるために教育されるというよりか、企業家が人材を選別するための判断機関にしかなってない気がするね。


教育学の世界名著100選―学際的教育科学への道 (1980年)教育思想の50人民主主義と教育〈上〉 (岩波文庫)教育思想史 (有斐閣Sシリーズ)教育思想のフーコー―教育を支える関係性

10 21
2016

主体性の剥奪

意志を叩きつぶして服従を教えろ――『冷血の教育学』 カール‐ハインツ マレ

4788505444冷血の教育学―だれが子供の魂を殺したか
カール‐ハインツ マレ Carl‐Heinz Mallet
新曜社 1995-12

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 アリス・ミラーの『魂の殺人』を読んだなら、もっと「闇教育」とよばれるものを読みたくなるだろう。子どもの意志を残酷に、徹底的につぶす教育の考え方。そのような子どもたちが後年、神経症や心の病にかかる。

 闇教育を詳細にしらべた本がないと思っていたら、まさしくその教育学を精査したものがこの本である。『魂の殺人』と同じ新曜社から出ており、同じ問題群の本であるといえる。

 教育の悪影響を批判的にとりあげたり、どのような悲惨な後遺症をのこすことになるのかというテーマを大々的にとりあげた本は、あまりにも目につくことが少ない。現代思想も監獄や刑罰を批判的にとらえることはあるのだが、教育の後遺症については、現代思想はとりあげていない。

 教育学は教師や学校の専門的知識になりすぎていて、医学もそうであるように、一般の人が立ち入りにくい聖域をなしているように思える。わたしは教育学の偉人といわれる人をほとんど知らないのだが、意図的に避けてきたような部分もある。教育学は教育の職務につく者のものだという思い込みがあるのだろうか。

 この本ではそのような教育学の偉人といわれる人も、徹底的に批判される。ペスタロッチも教育学の偉人にかぞえられるのだろうが、この本では失敗つづきの生徒に不人気だった人物像ばかりがとりあげられる。隷属した人間を解放したルソーだって、その巧妙な罰則の方法を暴かれる。すべての偉大な教育学者はこてんぱんに批判されるまなざしだけが、注がれる。

 批判の俎上はマルティン・ルターからはじまるのだが、ルターは肉体的な愛でかわいがってはならないといい、「温和で従順な人間」になるためには子どもたちの我意はへし折ってやらなければならないと考えていた。

 フランケは近代教育の最初の人物といわれているのだろうが、子どもたちの個人を認めないばかりか、あらゆる個性的なものは、挫かれるべき我意、排除されるべき気まぐれと見なした。

 フランケは個性的な発達を極力阻止しようと考え、自由時間や自由行動を全面的に制限する。「自分自身の好みや判断によって」何かするということが、ほとんどできなくなる。意志の剥奪、つまり画一的な服従こそが、教育の目的と考えていた。

 フランケ教育学の影響をうけて育てられた子どもにフリードリヒ大王がいて、この子どもは父親の国王から残酷な体罰や暴言をあびせかけられて育った。『アンチマキアベリ』という本まで書いて、軍国主義を批判し、ヒューマニズムをとなえるのだが、国王になったとたん、父と同じような攻撃的な軍国主義に走った。180度いっていること、やっていることが変わったこっけいな人物である。

 フィヒテもいう。「新しい教育は…意志の自由を完全に破壊することでなければならない」

 フレーベルもいう。「人間が…本当の自由を得ようと思ったら、まず第一に奴隷になることだ」

 ズルツァーもこんにちでも偉大な教育学者として影響を残しているのだろうか。

「親たちが幸運にも、自分たちの子どものわがままをごく初期のうちに、叱責や笞によって矯正することができるならば、この親たちは、従順で、柔軟で、その上に善良な子供を持つことになるだろう。

幼児期の子どもたちには、とりわけしぶといところがあるから、大人たちが手荒な矯正手段を用いても支障はない。子供たちは、幼児期に遭遇したことをすべて、年が経つにつれて忘れるものだ。もしも大人たちが、子供たちから意志を取り上げることができれば、以後それらの子供たちは、自分たちに意志があったことを二度と思い出さないだろうし、また大人たちが思わず口にするような辛辣な言葉のために、悪い結果を招くようなことも決してないだろう」



 近代の教育学者は、支配や服従の方法を教育によって手に入れたいだけであったのであり、個人の意志や嗜好、主体性といったものは、まったく尊重されなかった。これは、個人が人生を十全に生きようとする幸福を、生徒にもたらすことはけっしてないだろう。ただ奴隷や服従がほしいだけの道具的機械をそだてたいだけなのである。

 教育学の史上、最高にこっけいな姿をあらわしたのが、高名とされる教育学者のシュレーバーだろう。虐待的な教育のために長男は自殺、次男はフロイトの症例で有名な統合失調症の痕跡をのこすことになった。

「幼児が泣いている最中、もしくは手に負えない状態にある時は、絶対に、欲求をかなえてやってはいけない。

わけもなく不機嫌になったり、ふさいだり、ふてくされたりすることが、ひじょうに悪いことだということを、子供に気づかせることは、きわめて重要であり、このことに気づいた子供は、一生、情緒の安定を保つことができるだろう。

このようなものは、見つけ次第、直ちに気分転換、もしくは直接的な抑圧手段によって、抹殺されなければならないし…」



 意志や我意を徹底的に抹殺したかったシュレーバーは、子供に絶対的服従を教え、子どもたちの精神や自由を抹殺したかったのだろうか。拷問や恐怖政治をうけつづけた子どもたちははたして発狂した。

 この患者を見たフロイトでさえ、シュレーバーの教育学者としての名声をほめたたえたし、息子の症例を父の教育結果によるものだという因果を見なかった。家父長制度というのは、時代が疑うこともない絶対的なものであったのである。

 シュレーバーの「目標は、子供が親たちの望む行為をすることであり、しかも子供が、その行為を自分の意志でやっていると、思い込むことである」。笑うしかない。

 教育学者にことごとく批判的なハインツ・マレであるが、放任主義を容認するわけでもない。反権威主義的教育からは平和を愛する子どもは生まれなかったし、親たちを大切にせず、敬おうともせず、しかし尊敬できる親を求めていたという。

 この本を読み終えると教育はなにをやってきたのか、ただ親や権威に服従する意志のない人間をつくりたかったのかと暗澹たる気持ちになる。それ以上に教育思想というものがどのように正統的なものとされ、いまも尊重されているのか、ということも知りたくなる。なるほど、いまも学校や部活で殴られる子どもの数が後を絶たないということである。


魂の殺人 新装版魂の殺害者―教育における愛という名の迫害ある神経病者の回想録 (講談社学術文庫)教育思想の50人西洋現代幼児教育思想史―デューイからコルチャック


10 15
2016

主体性の剥奪

欠損を恐れる気もちに追いつめられて――『母親やめてもいいですか』 山口 かこ  にしかわ たく

4167906260娘が発達障害と診断されて…
母親やめてもいいですか (文春文庫)

山口 かこ にしかわ たく
文藝春秋 2016-05-10

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 娘の発達障害が見つかって、それによって母親がどんなに苦しんだかという物語として描かれているのだが、わたしには母親の「心のクセ」がひき起こした問題だという見え方がして仕方がなかった。

 こういえば、苦しんだ母親に向かってこれ以上責めるなという声も聞かれそうなんだが、本人自身もわからずに苦しむ「心のクセ」を本人自身が自覚することが、いちばん解放される道なんだと思う。

 母親の「心のクセ」というのは、その母との関係に垣間見えるのだが、母子家庭で育ったことの「ふつうの人」に対する負い目や恥ずかしさ、母が自分のことにかまけて、相手にしてくれなくてあきらめたこと、病気や障害にとり憑かれたように恐れて情報に憑依される状態、友だちがいないといけないと思う強迫観念、そういった「心のクセ」があるために、娘の発達障害を受容できなかったんだと思う。

 障害があっても、欠損があっても、受容して幸福に安寧に生きることもできる。でも悩んで、苦しんで、排斥する心のクセをもっているものは、その状態をゆるせず、不幸になり、その関係を壊してしまう。いわゆる「あるがまま」を許せない「心のクセ」である。

 つまりこの母親は母子家庭の欠損意識をとりのぞくことに必死になったように、子どもの発達障害をとりのぞくことに必死になる。そして受け入れられずに、不幸や自責観念にさいなまされ、家庭や娘との関係も壊してゆく。

 これは母自身の「ふつうであること」の負い目やプレッシャーに押しつぶされた話だと思うのである。

 「友だちがいなければ生きてゆけない」と思う母であることにこの問題は集約されていて、女性はとくに孤独や孤立への禁止観念が強く、友だちと遊べない娘をとくに恐れるようになるのだろう。「友だちがいない人間は失格だ、人格の欠損がある」という思い込みを学校集団は植えこんで、その絶対主義が、友だちをつくれない娘への強迫観念となって襲いかかる。母は、欠損を恐れる気持ちを娘に投影して、自爆していったのである。

 夫はひとりでいる時間がないと耐えられないという回避性の人格なのだが、依存気味の女性はなぜかこういう逃げてゆく男とはまってしまうのだな。娘も自閉気味の発達障害のように逃げてゆく、相手にしてくれないタイプだったので、この女性は相手にしてくれない相手を求めてしまうという関係にはまっているのである。母との関係の再現である。そこにプラスして欠損家族、欠損人格であってはならないという自分への恐れが、娘に投影されてゆく。

 母自身の欠損があってはならないという恐れ、責めが、娘に投影されて、その「心のクセ」が、娘や夫との関係も壊してゆくことになる。このライターさんは、娘の問題ではなくて、自分自身の問題ということに気づいたのだろうか。

 発達障害というのは、決められていたり、同じパターンだと安心するが、自由時間や放任されることにパニックをおこすというのは、定型的な知識に適応して、そこから外れる未知の状況を恐れることであり、現代の教育制度によるものかもしれないなと思う。定型的な知識や決まった答えがないと安心できないのである。未知数やわからない状況にワクワクできる、楽しめるという生育をできない人間が学校によってどんどん育てられて、子どもに発達障害や自閉症という現象として出てきているように思える。

 この話は、発達障害という概念によって、欠損を恐れる母親が、自身や娘を追いこんでゆき、家庭と娘との関係を壊してしまったという話に思える。ふつうにならなければならない、欠損を恐れるという気持ちをもった母親が、娘の発達障害という診断によって、ますますその病理を発展・深化させていった悲劇に思える。

 発達障害という概念、診断は、人を幸福にするのだろうか。それとも追いつめるだけなんだろうか。医学的知識は絶対ではないとか、社会や文化の姿によって線引きは変わってゆくあいまいなものであるという相対化ができていたら、追いつめられる人は減るのだろうか。現代社会がその都合によって排斥したいものが、医学的権威の衣を着て、強迫するものが、医学的観念ともいえるのだから。

 子どもの問題は親自身の問題であるという捉え方は、精神科医の高橋和巳の『子は親を救うために心の病になる』(ちくま文庫)のような本が参考になると思う。


子は親を救うために「心の病」になる (ちくま文庫)生きづらいと思ったら 親子で発達障害でした (メディアファクトリーのコミックエッセイ)もしかして、うちの子、発達障害かも!? (PHP文庫)まさか発達障害だったなんて (PHP新書)発達障害の子どもたち (講談社現代新書)

10 12
2016

主体性の剥奪

すばらしい本――『反教育論』 泉谷 閑示

4062881950反教育論
猿の思考から超猿の思考へ (講談社現代新書)

泉谷 閑示
講談社 2013-02-15

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 すばらしい本である。知性とはなにかを考えたい人にはぜひおすすめしたい一冊。

 考えることの基本はまず、懐疑的精神のことである。「本当にそうだろうか」と問うことである。しかし、こんにちの教育は懐疑心を徹底的につぶし、上から暗記知識を植えこむだけである。このような歪みに疑問をもつ人はぜひ読んでほしい本である。

 いままで親子論や虐待、モチベーション論などを読んできたが、なにを問いたいのかぼんやりしてわからなかったが、この本を読んだおかげで、「主体性の剥奪」を知りたかったのだということがわかった。この本にはまさしくそのことが書かれている。そうだ、これを知りたかったのだという一冊。

 教育とはほんとうに必要なのか、人間の成長に教育はほんとうに不可欠なのか。

 主体性や自発性を奪われる教育はむしろ、弊害の方が大きいのではないか。

 著者は精神科医だが、音楽を志したこともあり、英才教育のような技能だけは優れているが、魂がこもらない音楽演奏の違和感にはとくに敏感である。

 そのような音楽をやっている人が日ごろ音楽を聴いたりせず、コンサートにもいかない。先生にいわれた通りやることがなにより大切で、自分がどう思うかなんてご法度。そこには音楽などない。むしろ音楽を憎んでいることすら感じとられる。

「音楽とは、あくまでも表現者としての主体が成熟して可能になるものであるが、「ピアノ道」においてトレーニングされるのはその対極にある受動性、すなわち主体の弱体化である。そしてさらに、禁欲的自己コントロール、機械的反復を延々と行う忍耐力、先生に叱られないようにするための従順さや保守性等々の神経症的傾向までもがしっかりと養成され、主体性や創造性は徹底的に芽を摘まれてしまうことになる」



 そのような人から演奏される音楽はもはや、「音楽の死体」である。そして主体性や即興性を奪われた知識というのも、「知識の死体」というべきもので、その場その場の俊敏な知性を育てるわけではない。われわれの知性は、死体ばかりに埋め尽くされているのではないだろうか。

 われわれの教育や親のしつけというのはすべて主体性の剥奪であり、服従の植えつけではないだろうか。なるほど服従は猿マネのうまい技能の高い人間はつくりだすことができる。しかしその先にはなにもない。創造も、発展も、可能性もない。

 服従は発展のない社会には効用はおおいにあるのだろうが、創造や発展に必要なのは、懐疑的精神や主体性である。われわれの社会は服従だけを教えて、けっきょく、その先の可能性や創造を押しつぶしているだけではないのか。

 もちろん服従の教育を受けた人間もバカではない。教育を受けた学問以外のジャンルで、創造性や主体性を発揮して、けっきょくはそのジャンルの成長と拡大をうながすものである。ロックであったり、マンガであったり、ゲームであったり、お笑いであったり、教育を受けるメインカルチャーは死してゆき、サブカルチャーがどんどん育ち、有能な人間を輩出してゆくことになる。

 教育はその道を終わらせ、ほかの道に人をすすませる重石や障害みたいなものである。

 芸道ではよく「守破離」といわれるそうだが、型をひととおり教わったら、師から離れて独自なものを育て、さいごには守でも破でもない独自の境地にいたるとされる。教育でおこなわれることは守だけであり、師を殺すようなことはおこなわれない。これは創造も生まれないし、人を感動させるようなものも生み出せないし、未来は先細りしてゆくばかりである。

 教育はいつになったら、懐疑的精神の大切さをつたえられるようになるのだろう。子育てにおいても、いつになったら主体性の尊重というものはつたえられるようになるのだろう。

 音楽をやっていると演奏にもっとも支障のある身体部位に病気が出現することがあるそうである。心の反抗の声を上げられないことが、病気のかたちをとって悲鳴をあげるといわれる。主体性というのは反抗であり、懐疑であり、それこそが自我のよって立つところである。

 われわれは知性や教育という面で、まったく間違った思い込みをもっているのではないだろうか。



反抗と自由哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスンラッセル教育論 (岩波文庫)人間についての寓話 (平凡社ライブラリー)荒野のおおかみ (新潮文庫)

10 08
2016

主体性の剥奪

子どもがかわいくなるマンガ――『子育てハッピーたいむ ①』 太田知子

492525345X子育てハッピーたいむ 1 ななとひよこの楽しい毎日
太田知子
1万年堂出版 2010-11-16

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 子どもや子育てがとてもかわいくて、楽しめるマンガである。ほのぼのとした愛らしい気持ちにさせてくれる。

 親子関係のダークな側面の本を読んできたが、かわいい、いい面もしっかり見ないとね。子育てのふつうの日常や驚きが、ほのぼのと描かれていて、子育てをこれから迎える人にはいいマンガになるのだろうね。

 子どもがかわいく思える心情というのは、本能なのか、後天的なものか、習得的なものなのか。すくなくとも接触がないと感情がわからないので、子どもが生まれるまで子どもと接したことがないようなお母さんにはこのようなマンガも接触の機会をあたえるのだろうね。

 わたしがいちばんおもしろいと思ったのは、6ヶ月のひよこが、手に握ったガラガラの音に驚き、離そうとしても離れずによけいに振り回して、大きな音で泣きわめくシーンである。幼児はまだ手の神経がいきわたっていないのか。

 幼児はだれもいない空間にあたかも人がいるような行動をしめすことが、ななとひよこのふたりともおこしているのだが、これはなんでしょうね、好奇心が刺激されますね。

 お姉さんのななは食が細く、むりやり食べさせられることにうんざりしていて、妹のひよこは貪欲で、母のこさじを拒んでお椀に食らいつくような違いがある。

 ひよこはお父さんがきらいみたいで、チューしようとしたら大声で泣き叫んだり、お父さんの洋服に含んだお茶を吐きかけたり。

 かわいさやおもしろさ、愛情にあふれた子どもたちの行動日記みたいなマンガである。ほのぼのした気分になる。

 子どもがかわいく思える気持ちというのは、じっさいの接触やこのような情報によって、つちかわれる部分もあるのでしょうね。子どもに接触することの少ない大人は、子どもへの愛情も育ってこないのではないでしょうか。

 親子関係の本を読んできたが、そろそろタネが尽きてきたかな。


 ■著者のブログ「太田知子の毎日プチハッピー♪」
 ななちゃんが、中学になっておばあちゃんの家にひっこしたそうですね。かわいい子どもとの日々もあっという間。


子育てハッピーアドバイス見逃さないで!  子どもの心のSOS 思春期に がんばってる子子育てハッピーアドバイス 大好き!が伝わる ほめ方・叱り方子育てハッピーエッセンス100%りんごちゃんと、おひさまの森のなかまたち1 (よい習慣が身につく絵本)

10 02
2016

主体性の剥奪

学歴排除批判への欠如――『悲しみの子どもたち』 岡田 尊司

4087202917悲しみの子どもたち―罪と病を背負って (集英社新書)
岡田 尊司
集英社 2005-05

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 岡田尊司の非行少年論である。氏はいまはクリニックをやっているが、この本が出た2005年ころは京都医療少年院に勤務していた。

 いっていることは非行少年によりそって、とても首肯できる内容なのだが、学校で落ちこぼれて非行に走った少年が、東大や京大でまなんだ学歴エリートに同情されることに、どれだけの共感を当の本人たちは抱けるのだろうかと思うが。優等生の病理もキツイものがあるが、岡田尊司に傷ついたヒーラーの要素はあるのだろうか。

 非行少年論はいろいろ示唆されることが多くて、この心理機構を知ることは世の中の理解を助けやすいと思う。たとえば、なぜ少女が金髪に髪を染めるのかといえば、低学歴としてバカにされる屈辱や恐さを、威嚇によってとどめることができるからである。ヤンキー的属性はまわりの誹謗中傷をぴたりと止めることができるのである。攻撃は最大のディフェンスなのである。

 岡田尊司は非行理由をひたすら親子の愛情阻害に原因をもとめるのだが、非行の社会的要因や学歴排除の問題に目を向けないのは、やはり片手落ちだろう。教師や学校から排除されることになる成績劣等生は、どうやって自分の価値を高めることができるようになるだろうか。前述のように学歴エリートには痛みがわからないのだろうか。

 非行少年は親から見捨てられた、捨てられた子どもの気もちや反応がどのようなものか、際立たせて見せるものだ。メンヘラ系になる人と、非行少年になる違いは、攻撃が自分が、外に向かうかの違いにすぎないのかもしれない。

 

「お前は間違っていると否定し、非を責め立てたところで、まず逆効果しか得られない。
…それを無理やり変えようとしても、いままで大人たちが彼に加えてきた過ちを繰り返すだけである。咎められれば咎められるほど、子どもはそれを攻撃と受けとめ、心の鎧を固め、意固地になって「偽りの希望」にしがみつくことになる。自分こそが「被害者」だという気持ちを強め、放漫さと自己正当化を捨て去ろうとしない」



 この言葉にはまったく共感するのだが、学歴排除の痛みや被害がまったく見えていないような岡田尊司は、被害者意識にほんとうに寄り添うことができたのだろうか。かれらはほんとうに学歴排除の被害者ではなかったのか。

「非行の進んだ少年は、自分に悲しむことを禁じるがゆえに、無謀で冷酷な強がりへと走っている。
…周囲の仕打ちによって与えられた悲しみを、悲しみとして感じるとともに、わけのわからない怒りであったものの正体が、親や周囲の大人から得られなかった愛情や承認だったことが理解されるようになる。
…自分を捉えていた怒りとは、親を失望させたり、ダメな子になってしまった自分自身に対する怒りでもあり、それを引き受けるのが嫌で、周囲に転嫁していたことを悟るのである」



 親の承認と自己否定のメカニスムをえぐった指摘だと思うのだが、学歴排除によって与えた学校システムの批判の視点はまったく欠落しているので、社会適応の権力を見るような気もする。

 非行少年は、親に否定され、学校にも否定され、また精神科医にも否定されるのではないだろうか。学歴によって排除される自分の価値をほかの方法で見いだせず、排除されつづけ、社会はその排除の正当化をつづける。三すくみというべきものだ。

 この本を読んでいるときにはなるほど親の愛情阻害が原因や端緒なんだと納得したのだが、いちど文章で学歴排除の問題を取り上げると、もうこの本は学歴正当化の権力書にしか見えなくなったきたな。

 人間は学歴で階層づけられる価値しかないのか。それこそ、岡田氏がいうように、人はだれでも自分の価値を認めてもらいたいと願っている。学歴で排除されたものは、もう価値がないのか。べつのモノサシで評価されようとしたのが非行少年ではないのか。

 学歴序列の絶対化など、人間を測る価値のひとつにすぎない。学歴社会への反抗があったからこそ、こんにちのマンガやお笑いブームの興隆はあったのではないか。それこそ人は自分の価値を認めてもらいたいと思っている。


非行のリアリティ―「普通」の男子の生きづらさ非行の原因―家庭・学校・社会へのつながりを求めて非行・犯罪心理学――学際的視座からの犯罪理解犯罪・非行の社会学 -- 常識をとらえなおす視座 (有斐閣ブックス)非行少年の立ち直り支援―「自己疎外・家庭内疎外」と「社会的排除」からの回復

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