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03 07
2016

主体性の剥奪

巨大な「やらされ感」と自発性

 学校から卒業して企業で働くということは、企業から押しつけられた仕事を「やらされ」、ロボットのように業務に従事することだと思っていた。

 だからできるだけ働かないこと、働くならできるだけ労働の重圧から離れ、労働から解放されることが、自分のめざすべきものだと思っていた。

 企業社会は巨大な「やらされ感」の圧力にしか思えなかったし、ニートやフリーターになる人には同じような思いがあるのではないだろうか。やりたくないことをむりやりやらされて、自分から人生や時間を奪ってゆく巨大な官僚機構。

 このような表象というのは、学校や勉強で叩きこまれ、その先の企業社会でももっと悲惨な圧力や強制として、自分の身の上に迫ってくると思われていた。

 学校の勉強によって、やらされ感とその忌避感は習い性になり、遊びや趣味は楽しいものなのに、勉強や学校はむりやりやさられる苦痛でしかない。その捉え方は企業にもひきつづき引きつがれ、いかに働かずにラクをするか、そこから逃げるかが、自分を生かす道になる。


 ■趣味の自発性

 それにたいして、趣味や遊びはやらされ感でやるものではなく、自分からやる楽しくてうれしいものである。

 わたしたちは学校から習わされるものを嫌いになり、読書を押しつけられて読書が嫌いになり、マンガや映画は自発的に楽しむ。勉強は嫌いになり、ゲームや遊びに熱中する。体育教育で体育が嫌いになり、運動が楽しい体に心地よいものだと思いもしなくなる。

 やらされるものはほとんど嫌いになり、自分から自発的にやるものを楽しくて時間を忘れ、その時間がとれることだけを楽しみにする。

 小説や学問は、マンガや映画とほとんど変わらないものである。違いは活字か、画像や映像の違いと、それから学校で勉強させられたか、すすめられなかっただけの違いである。もし学校から勉強させられなかったら、自分から自発的にマンガや映画のように楽しんでいたかもしれない。

 わたしも20歳くらいまでほとんど本を読まなかったが、自分からすすんで疑問や関心をもち、それを追究するようになったら、遊びや娯楽の次元でそれを楽しめることを知った。自発的にやれば、勉強も学問も娯楽や遊びなのである。宝探しになるのである。

 だけど、押しつけられ、やらされ感を抱いてそこから抜け出せなかった人は、ずっとその分野に近づこうとしないだろう。

 やらされ感というのは、人が教え、身につけさせようとする善意や好意とはまったく逆に、人にやらされ感と強制感を生み出し、そのスキルや知識を拒絶させるもののようだ。


企業のやらされ感

 ネットが拡大するにつれ、ブラック企業や長時間労働、社畜へのバッシングは強くなっていった。わたしたちの中には、やらされ感からの忌避感と逃避感が強く根づいているためではないだろうか。

 仕事とは喜んでやりがいや生きがいのためにおこなわれるものだと思われていない。むりやり、いやいややらされて、その引き換えに賃金をいただく我慢料と思われている。

 わたしたちは巨大な企業社会のしくみのなかで与えられ、押しつけられた仕事をするものだと思っている。やらされ感と強制のなかで、仕事をやるものだと思っている。そこには趣味や遊びのような自発性や楽しみはまったくない。

 いかに仕事から逃れ、ラクをし、手抜きをするかが、自分を生かす道になる。勉強と遊びの対比は、ずっとつづいているのである。

 わたしたちは消費や娯楽だけに楽しみを求める。そこには自発的に、自由に自分が楽しむ娯楽性とうれしさがある。

 消費者やお客のように楽しみや喜びを買える立場でずっといたいと思う。労働からはできるだけ離れ、あるいは軽減されたいと思う。それがニートやフリーターになり、ブラック企業や社畜への批判、女性では専業主婦願望になるのではないだろうか。


 ■お客さんとしてのわれわれ

 わたしたちは学校で勉強や学ぶべき課題を与えられ、お客や消費者のような立場で、知識に接する。

 そのことによって、学問や世間は他人事や自分と関係のない記号になる。お客の立場で与えられるものは、当事者のような気持ちを生まないのである。

 自発的におこなうものは、それにたいして自ら学び、もっと吸収したいと思うから、それは自分のことのように、当事者のように思うことができる。だがお客さんのように知識や学問を与えられると、それは自分と関係のない他人事・記号として、素知らぬものとなる。

 やらされ感は、他人事のお客のように、自分を世界から切り離してしまうのである。

 会社から仕事を与えられれば、それはやらされ感とともに他人事や無関心なものになり、当事者や自発者としての距離や熱さを生まない。与えられるものは、その事柄から切り離されたお客さん感を生み出してしまう。

 ゼロからつくりだすこと、みずからが自発的につくりだすものだけが当事者や自分のことのように思うことができる。自分の興味や関心から探り出された知識や映画、マンガはどこまでも自分の身の上に迫る自分事のように思える。

 だけど与えられたもの、やらされ感で動かされるものは、すべて他人事、無関心なもの、自分と関係のないことである。

 それでやらされ感で生きる毎日は楽しさからどんどん切り離されてゆき、人生はつまらないものなり、人生から疎外されているように思う。

 楽しさを与えてくれるのは週末の娯楽や遊び、消費だけである。週末の楽しみのためだけに、平日の5日間はやらされ感と他人事の仕事に埋没されるのである。


 ■やらされ感からどう抜け出すか

 やらされ感から抜け出すことはむずかしいことである。自発性を発揮すれば、反抗しているものにたいして、屈服、みずから利用されてゆくことになるからだ。

 やらされているものからの寝返りや宗派変えは容易なものではない。やらされたくないからこそ、やらされ感を抱くのである。

 それに自発性や娯楽性を見いだせるようになればいいのだが、抵抗することこそがアイデンティティになっているような人たちの改宗はかんたんなものではないだろう。

 与えられたものに入ってゆく仕組みがあまりにも大きくなりすぎた。大企業や福祉制度のしくみがますますわれわれを他人事、与えられたやらされるもの感を強めてゆくのである。

 自発性や内発的動機づけといったものは、既成の勢力に入ってゆけば発揮できにくいものかもしれない。そこでいかに自発性、自主性を取り戻せる範囲を確保できるかが大きなカギになる。

 起業や自営にはそういった自発性・自主性を大きく発揮できる要素が強い。ゼロからつくりだす、当事者として切り開いてゆくものこそ、当事者意識や自発性を見いだせるものである。ネットではそういったフロンティアを見つけやすいではないだろうか。

 自発性・自主性こそがカギである。やらされ感から抜け出すには、そういったものからはじめるのがいい。やらされ感に見えていたものでも、そのきっかけを見つけると自分事のように楽しめる道筋を見いだせる。

 好きなものを仕事にしたいという人は増えた。やらされ感ではない、自発性や自主性を発揮できるからだ。消費者として楽しめるものを仕事にすれば、そこには遊びや娯楽の要素をもちこめる。自発性を見いだせる大きな道筋である。

 そうでないばあいは、やらされ感のなかにいかに自主性の隙間を見つけてゆくかということになるだろうし、仕事から離れて休日や無所属の時間を増やしてゆくということになるだろうか。

 やらされ感で灰色に見えてまったく関心をひかないものでも、そこに自発性や自主性を見出すことができれば、それへの見方は大きく変わるかもしれない。

 自発性を見出したとき、この世界は自分のためのものになる。


このテーマってモチベーション論?

「やらされ感」から脱出して自由に働く54の方法あなたのチームがうまくいかないのは、結局、部下に「やらされ感」を植えつけているからだ。モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか (講談社+α文庫)日本企業の社員は、なぜこんなにもモチベーションが低いのか?人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

03 28
2016

主体性の剥奪

「やる気のパラドックス」――『「見せかけの勤勉」の正体』 太田 肇

4569779883「見せかけの勤勉」の正体
太田 肇
PHP研究所 2010-05-18

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 日本は巨大な「やる気のパラドックス」に囚われている。

 長時間労働が減らない、サービス残業が止まらない、なのに仕事に高い熱意を感じている日本人はわずか9%。世界でいちばんやる気がないのは日本人と、各種の調査結果がしめす。

 なぜこのやる気のパラドックスがおこるのかは、この本がスリリングに明かしてゆく。中古本1円と送料で読める本なので、多くの人に読んでもらいたい、気づいてほしい一冊である。

 これは仕事論や経営論にとどまるのではなく、日本全体の教育や消費の分野でも適用される日本の大きなパラドックスである。

 成果主義を求められても正確に測るモノサシをもてず、がんばっている、組織に犠牲を払っている姿、パフォーマンスに囚われて、しだいにがんばりややる気という成果や客の方に向かわないパフォーマンスに終始する。成果を阻害する方向が、日本組織の評価やめざすものになる日本の巨大な逆説。

 ラクしたり、効率よく仕事をこなすこと、頭に汗をかくことは、サボっていること、仕事を熱心にしないこと、熱意がないことと切り捨てられてゆく。資本主義の効率化という至上目的に、まっこうからは向かってゆく日本組織の愚かさ。

 これは社会主義になって守られればみんな働かなくなった社会主義圏の国々とおなじであり、孔子に抗して老荘が説いた無為自然のパターンと同じである。

 熱心であり、がんばりであり、他人思いの善意や教育が、どんどんと本人の自発性やおもしろさを奪ってゆき、やる気を奪い、しだいに魂を抜かれた状態になってゆく。

 太田氏はゼミの熱心な指導にぜんぜん生徒がついてこない経験があった。どんどんやる気がなくなっていくので、生徒の助言から生徒の自主性にまかせるプロジェクト企画にしたら、生徒の表情ややる気がみるみる変わってゆき、新聞にとりあげられるほどになった。やらされ感や強制で、生徒は死んでいたのである。

 日本は思いやりや善意の教育や指導が本人のためになると思っている。だけどそれは本人の自発性や自分ごとの感覚をどんどん奪ってゆくだけだ。日本はこのやらされ感の強制に人々がどんどん逃げるか、やる気の演技やパフォーマンスに日々勤しむかの競争にはげしく、どんどん世界のランキングから落ちてゆく。

 教育のおかげで人は学問や読書をしなくなり、マンガやお笑い、趣味が生きがいになる。仕事のやらされ感、強制のおかげで、人はニートやフリーターにひきこもったり、あるいはやる気や自己犠牲の演技に走る。上の熱意は、蜘蛛の子を蹴散らすように人々を逃走させるのである。

 社長が趣味や道楽に走ったり、師弟関係で便所掃除など無意味なことをさせるのは、下の者の自発性をひきだすためだという指摘がある。この肩の力を抜く、片手間に管理する、腹八文目までに抑えるといったことが、管理者や指導者にはできないのである。

 自由放任や放ったらかしで、怠けずに働き、自発的に人は伸びたり、向上したりするのかといった不安が、日本人には強いのだろう。あるいは自分が脇役になり、主役や活躍できない虚しさを抱えているのかもしれない。それによって、人の原動力の最大のもの、自発性を奪って人の魂を殺す。

 ただ効率的に大量生産品を市場にまわす工業時代は終わった。自発的におもしろいものを見つける能力が大切になる創造的な時代になった。それで日本は世界からどんどんとり残されてゆくというわけだ。

 「やる気のパラドックス」、この逆説は日本の巨大な問題である。気づいてさえいない人が大半なのかもしれない。

 自営業や自由業の人たちは、自分の仕事、自分の店だから、他人からいわれなくても自分でがんばる。やらされ感と対極にあるものだ。日本はこの自主性を育てないと甦らないと思うのだが、またしても、それを管理してやる気を失うのでしょうね。


世界でいちばんやる気がないのは日本人――成果主義が破壊した「ジャパン・アズ・No.1」 (講談社+α新書)人を伸ばす力―内発と自律のすすめ完璧志向が子どもをつぶす (ちくま新書)フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)サーバントリーダーシップ

03 31
2016

主体性の剥奪

革命が必要――『モチベーション3.0』 ダニエル・ピンク

4062816199モチベーション3.0
持続する「やる気!」をいかに引き出すか (講談社+α文庫)

ダニエル・ピンク
講談社 2015-11-20

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 世の中にはまだ社会的革命を必要とする分野があったんだなと気づかせてくれる一冊。

 外発的動機づけより、内発的動機づけを重要とするモチベーション理論をまとめた概括書にしかすぎないかもしれないが、一部の人に知られたこの理論が、ビジネス界やまた教育界にどれだけ知られ、浸透しているのかのギャップを埋める書になる。

 だれだって人の強制される仕事や勉強より、自分からすすんでおこなう遊びや趣味、仕事にどんなにおもしろみがあるか、いろんな経験で気づいていると思う。

 さらに「意欲を高めようとして安易に報酬を用いることが、もっとも意欲を失わせるときだ」といわれている。

 モチベーション2.0というのは、工業社会に必要とされた報酬と罰の体系であり、いまでも企業や教育でも一般的であるが、創造的・知識社会になっているげんざい、内発的動機づけがいたるところで必要になっているのだが、それをピンクはモチベーション3.0といった言葉で違いを際立たせた。

 報酬と罰の体系は、工業社会に有効なしくみだったかもしれないが、新しい創造が必要な知識社会には阻害させるものにしかならない。

 危機なのは、経営界のみならず、教育界でも、その認識が浸透していないことだ。

 芸術家にこんなことをいって、芸術性の高い作品が生み出されると思うのはバカげたことだ。「午前八時半きっかりに絵を描き始めなくていけない。わたしたちが選んだ人と一緒に絵を制作する必要がある。こんな感じの絵を描くべきだ。このような種類の絵を描かなくてはいけない」。

「外発的な動機づけが学生時代に低ければ低いほど、卒業して数年後および二十年後も、プロの芸術家として成功する割合が高い」

「絵画にしろ彫刻にしろ、外的な報酬ではなく活動そのものに喜びを追い求めた芸術家のほうが、社会的に認められる芸術を生み出してきた」

 理由はあきらかだ。発見や創造自体が報酬だからだ。

 人間は放っておいたら怠けて勉強も仕事もしないと思う工業社会の認識とシステムで、ずっと人を縛っている。自分自身で好奇心や自発性をみいだし、向上や成長をのぞむ存在ではないのか。

 工業社会のモチベーションのしくみは、創造社会において、人々の意欲や希望、成長をますます奪ってゆくばかりになるのではないのか。

 日本ではその2.0が成功しすぎたため工業社会には適応できたが、ますます世界経済と経済成長においておかれる結果になっている。日本は内発的モチベーションを解放・発揮できる環境づくりに成功することができるのだろうか。それが日本社会の今後のありかたを占うカギになるだろう。

 モチベーション3.0のシステムを日本の企業に持ち込むことはできるのだろうか。それより教育界に自発的モチベーションの重要性が広くいきわたっていないように見えるのが、驚異的な危機かもしれない。

 1975年にフローにかんするチクセントミハイの本が出て、ポジティブ心理学のマーティン・セリグマンの本も出て、内発的動機づけにかんするエドワード・デジの本も出た。工業社会のしくみや認識フレームはおかしいと気づきはじめた時代だったのかもしれない。大きな変革のうねりは、今後ますます必要となってゆくだろう。


ダニエル・ピンクが奨める必読の書(邦訳のみ)
フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)マインドセット「やればできる! 」の研究報酬主義をこえて 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

やりとげる力セムラーイズム最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か

04 17
2016

主体性の剥奪

自分の人生を生きられていますか――『人を伸ばす力』 エドワード・L. デシ

4788506793人を伸ばす力
―内発と自律のすすめ

エドワード・L. デシ リチャード フラスト
新曜社 1999-06-10

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 内発的動機づけについて読みたいと思っていたが、まさか「いつわりの自己」について言及されているとは思わなかった。

 わたしは労働や企業のやらされ感、強制にひじょうに抵抗感を感じていて、その反抗と逃走に人生の多くを費やしてきた気がするのだが、その意味を読み解くには、エドワード・デシの主張する内発的動機づけと外発的動機づけがひじょうに役に立つ概念だと目をつけた。

 企業のやらされ感は、自分の人生を生きている、自分らしく生きられているとは、まったく思えないのだ。どうすればこの不毛な倦怠感から逃れられるのか、内発的動機付けの第一人者にそのヒントをもらいたかった。

 エドワード・デシのいう外発的動機付けによる「いつわりの自己」は、わたしの問いの答えになるのだろうか。

 デシのいういつわりの自己は、親や世間の期待に応えるうちにしだいに自分の欲していること、望んでいることがわからなくなり、富や名声、所有のようなわかりやすい外的基準を求めるというものだった。

 このような人はなにかの成果や業績を達成するとほめられるという行為をへて、もし目標に達しなければ自分の価値はないという希薄な自尊感情をつちかうことになる。そのことによってよりいっそうの称賛を求めるように駆り立てられる。

 他者に認められることが第一になり、自分がしたいこと、のぞんでいることがなにもわからなくなる。これが、偽りの自己の完成である。

 たいして内発的動機づけによって育った人は、有能感をもって世界とかかわり、自律性をもってふるまい、大きな満足をもって人生をおくる。自律性によって自分らしさを体験し、自分の行為の主人公が自分自身であることを実感しながら人生を楽しくすごす。

 自発性、自律性を奪われた人は操り人形のように、自分の人生を自分のものでないかのように生きる。家業をついだり、家族のために身を犠牲にする妻にも、そういったいつわりの自己を生きることになる傾向が強くなる。

 エドワード・デシの内発的動機づけは、行動主義的実験による実験結果がおもな報告になる。報酬や競争、評価がいかに人のほんらいある知的好奇心、みずからが成長しようとする生命体の試みといったものを、つぶしているかを明らかにしたものである。

 本の帯には「人間観が一変する本」と書かれているが、効果的と思っている報酬がいかに逆効果にはたらくかの実験結果にあふれている。人を育てる、動かす、学ばせることの既成概念がいかにまちがってきたことか。

 子どものころに親に勉強しろといわれればやる気をなくしたし、勉強は嫌いでも遊びや趣味はどこまでも楽しめた。仕事だってやる気や残業をアピールしたりしているが、ほんとうはやる気も楽しみもなく、いやいややっていたりする。趣味や遊びは楽しめてもだ。

 人の管理方法、マネジメント、教育方法がまったくまちがっている。

 ダニエル・ピンクは報酬と罰によるマネジメントをモチベーション2.0とよび、それは工業社会に合致した方法論とした。知識創造社会とよばれる今日、そのような報酬と罰によるモチベーションは内発的動機付けを破壊する愚かな試みにしかすぎなくなっている。

 芸術家が時間通りに定時にきっちりと作品を描き始めなければならないという規則はバカげているし、報酬を目当てにするようになると、創作自体の楽しみを削いでしまう。人のモチベーションというのは柔なもので、複雑なものなのである。

 それ自体の楽しみを削ぐようなポイントをつくると、たちまちそれ自体報酬だった活動は、魅力のないものになってしまう。わたしたちは幼少のころにあったみずからの好奇心や活動欲をこうやって殺されてきたのではないだろうか。

 内発的に、自律的に、自分の人生を自分らしく、自分の望むように生きることが幸福や人生の充実に結びつくという認識が広がっている。自分の人生を所有している、支配している、思い通りに生きられているといったことが、ひじょうに大切な時代になっている。

 でもわたしたちは企業や学校で自分のやりたいことものぞむことも叶わない、生活や成績のための人生を送らされている。日本が長期的に停滞しているのはこの工業社会によるマネジメント、報酬と罰による指導方法にあるのではないかと思える。

 自分の内発的な楽しみを充実も、追究もできないし、自分の人生を支配して生きている充実感も得られない。わたしたちの人生を奪っているのは報酬と罰による人間観、指導方法ではないだろうか。



▼この本の参考文献には社会学書も多い。画像なしはラッシュ「ナルシシズムの時代」とワクテル「豊かさの貧困」です。
アメリカン・マインドの終焉―文化と教育の危機ナルシシズムの時代 (1981年)緑色革命 (1971年)「豊かさ」の貧困―消費社会を超えて新版 才能ある子のドラマ―真の自己を求めて

04 23
2016

主体性の剥奪

外発か、内発か――『学ぶ意欲の心理学』 市川 伸一

4569618359学ぶ意欲の心理学 (PHP新書)
市川 伸一
PHP研究所 2001-09

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 企業のやらされ感と自発的な生き方にたいする疑問を追究していて、モチベーション論に迷い込んだ。外発と内発はとうぜん教育分野でも大きな問題なわけで、教育心理学のこの本を手にとってみた。2001年出版だから、もう15年前の本。

 自分でもなにが問いたいのか、混沌している状況。強制されるものは嫌いになるという法則をたしかめたいのか、強制や外発が社会におよぼし、抵抗している社会の像を描きたいのか。少なくともモチベーションを上げるために読んでいるのではない。

 これは自分にとって大きな問題と思っていて、企業の強制にたいする抵抗で人生の多くを費やしてきたからだ。この反応についての客観性を手に入れたいのか。強制と自発性について読み解けるようになることは、自他にとってとても大切なことだと思っている。人を動かす、組織の中で生きることでも、このテーマは大きい。

 この本は動機づけの心理学をざっと展望していて、参考になる。それをめぐっての和田秀樹氏と刈谷剛彦氏との討論も合わさっている。

 外発と内発に、ほかの六つの細かい動機を付け加えたことも重要だと思う。充実志向、訓練志向、実用志向(外発寄り)が内発的動機にふくめられ、関係志向、自尊志向、報酬志向を外発的動機にふくめた。これはグラデーションに位置するが。

 後者になるにしたがい、内容より外的な報酬が重要になる。学習そのものを楽しむために学習する動機からより遠ざかる。知識そのものを楽しむ充実志向により近づけることが学習動機には大切なのだが、人はほかの報酬や自尊に動機をひきつけられるものだ。

 読書が好きだと思っていても、たとえば自尊志向や関係志向のようなものを動機にしていたら、充実志向のようにそのもの自体は好きではないといえるかもしれない。それによって成果や結果も変わってくるから、動機はなにがいちばんいいのだろうね。ブログでも動機がよく問われたりするしね。

 この本は2001年において自主性を尊重する日本は世界の潮流に逆行しているのかといわれているが、市川氏はいつも両論があり、和田氏は外発性に傾いていると言い張るが、市川氏は否定している。

 自ら学び、自ら考える個人は「強すぎる個人」であって、外発の方がいいという声もある。

 刈谷氏は学ぶことになんの意味があるのかという問いには否定的で、市川氏はそれこそ重要だという。小学生までにそれを問うことは酷だが、それに近いことがおこっているという。内発が重視されると、興味の追究という方法に傾くが、小学生にはきちんとした課題を与える方がいいといいう考えもある。

 学校の勉強は「基礎から積み上げることが大切」とよくいわれたが、市川氏は「基礎に降りてゆく学び」もとりいれていいのではないかと提案する。職業知識でもやっているうちにわからないところが出てきて、学習の必要性は痛感されるものだ。断片や底辺からはじめると、まったくなんのためにやっているかわからない。これはわたしも痛感することだ。

 抜き書き的なまとまらない記述になったが、内発と外発はこんがらがる。

 でもこういう学習理論やモチベーション論って、人によってはこの世に生まれたときから強制や統制の押しつけとしか思われない世界を生きてきた人もいるということが忘れられているのではないかと思う。内発なんか生まれない状況。そこで自発的なモチベーションなんて生まれるのだろうか。

 この世はすべて強制と思われる人にとって、外発や内発なんか問う意味はあるのか。ヤンキーや低学歴の発生にはそういう心情が絡んでいる気がする。ニートやひきこもりだって、そうだ。教育の上級に飛び上がっていった人にはそういう気持ちは一生わからないかもね。自分を強制して、また蔑む位置に押しつける階級社会の王座に居座る人なんだから。


自ら学ぶ意欲の心理学 --キャリア発達の視点を加えて学ぶ気・やる気を育てる技術伸びる子の法則 (PHP文庫)学ぶ意欲とスキルを育てる―いま求められる学力向上策ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

04 25
2016

主体性の剥奪

あなたはどんな動機のために学びますか?

 市川伸一の「学習動機の二要因モデル」が気になったので、ちょっと考えてみたい。


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 生徒の発達段階に応じた動機づけの手法を考える 市川伸一 ベネッセ教育総合研究所


 内発的動機づけと外発的動機づけという分け方があるが、市川伸一はそこに6つの要素をつけ加えて、タテ軸に学習内容の重要性、ヨコ軸に学習の功利性をひいて、その位置をプロットしている。

 内発の典型が充実志向であり、外発の典型が報酬志向である。

 このモデルが大事なのは、下段の報酬志向のような内容分離動機――報酬やほめられるためにおこなうなら、べつにその内容は関係ないし、上段の充実志向になると内容そのもののためにおこなうことになるということである。

 成績や試験のために学ぶなら内容は重要でないのですぐ忘れたり、自分と無関係な記号に終わるといった実感をあらわす図示になっている。


あなたの動機はなんですか


 これは勉強の学ぶ動機について考えられているが、本を読むのでも、ブログを書くのでも、仕事でも、あてはめることができるのではないだろうか。

 あなたが本を読むのはどのような動機からだろうか。

 仕事のために活かしたいなら実用志向になるし、純粋に知的好奇心なら充実志向、優越や尊敬のために読まれるなら自尊志向になる。

 よく量を誇る読書になる人がいるが、この動機なんて自尊志向や実用志向の偏りからおこっている感がする。

 ほかにブログではどうだろうか。ひところブログの承認欲求論が騒がれたが、報酬がないのにブログはなぜ書かれるのかと疑問に思われたからだろう。承認欲求なら、内容はそれでなくてもいいものに傾きがちなので、内容そのものが大事な充実志向から離れることになる。それでアクセスやバズがないと離れてゆくことになる。

 報酬が目的になると内容そのものを楽しむ充実志向が、報酬目的にすりかわり、充実志向が低減してしまうという結果におちいる。

 仕事をする動機がカネや生活のためだけにおこなわれるのなら、充実志向や仕事そのものを楽しむためにおこなわれるのではないので、どんどん内面の充実や楽しみは削がれる。

 基本的に内容そのものを楽しむ充実志向がいちばんいいと思われるのだが、ほかの動機に支えられることも大事だと市川氏はいっている。


動機を分ける意味


 この動機を分ける意味はみずからの動機を知ることにより、なにが目的とされていて、それがどんな結果に落ち着くのかを、あらかじめあらわしているからだ。

 たとえば、報酬志向なら報酬が目当てなので、内容の充実や記憶が重要でなくなり、報酬をもらえばそれは忘れられるか、打ち捨てられる。

 自尊志向や承認欲求も、内容自体が目的ではないので、内容の興味や充実をどんどん低減させていってしまうのではないだろうか。このへんは微妙で、自尊は学びと切り離す方向にすすむだけとは言い切れない気もするが。

 わたしなんて知ることを楽しむだけの知の無限循環におちいっているが、それを実用志向に活かすという方向にいま向かっている傾向がある。

 実用志向は大学が職業訓練化する必要や動きがあるが、文系からは非難されているように、あまり知そのものを身につける、楽しむ教養傾向からは離れるのだろう。内的動因を失うと、知は自分のものにならない実用志向の安っぽいものになる。知が目的ではなく、手段になるからである。


動機は結末を用意している?


 あなたはどんな動機によって知を学んでいるのだろう?

 報酬や実用のためなら知そのものを目的にせずに、知識の楽しみが削がれてゆく傾向を増してしまうかもしれない。

 自尊や関係志向、承認のためも、知そのものの充実、楽しみを目的にしないので、いずれ推進力が枯渇してゆく傾向があるのかもしれない。

 わたしも自尊志向や承認欲求のために知をもとめる傾向もありそうなので、そのへんがどのような結果におちいるか。

 学校の勉強というのは成績や受験のためにおこなわれる典型的な外発的なものであって、知そのものの充実や楽しみにおこなわれないので、自分のものにならなかったり、記憶として残らず、学生を終えればまったく知に興味が向かわない知を破壊するものに転化している最大のものだろう。

 学校って多くの人のみずから学ぶ知の楽しみ、充実を破壊する知の崩壊者にしか思えないのだが。

 内発をもたない学びは、知を道具化、手段化してゆき、知を疎遠なものに、知そのものを不要なものに転化させてゆく。

 動機というのはその結果、結末とセットと考えてよいのではないだろうか。

 内発の充実志向に動機をもっていかないと、知の推進力はどんどん枯渇してゆく。

 といっても自尊や承認を抜きにして知の充実・推進を求めるのはむずかしいばあいもあるので、はっきりと分離・切断できるわけではないのだろう。

 動機というものは、知にたいする態度とその結果をすでに用意するものではないだろうか。知を手段や道具とする動機を持っている人は、動機の訂正と内省が必要なのかもしれないね。


4569618359学ぶ意欲の心理学 (PHP新書)
市川 伸一
PHP研究所 2001-09

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04 29
2016

主体性の剥奪

がんばろうで日本沈む――『がんばると迷惑な人』 太田肇

4106105993がんばると迷惑な人 (新潮新書)
太田 肇
新潮社 2014-12-17

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 がんばることが迷惑になる時代になったことはどうやったら広く世間に伝わるのだろう?

「そこ(がんばりを評価する風土)には仕事の効率化と逆に力学が働きます。つまり仕事を効率化すると”がんばり”を示せなくなるので、ムダだとわかっていても効率化しません。それどころか逆に非効率なほうがトクなわけです」

「そもそも給料やボーナスに大きな差がつかないわが国の平等主義そのものが”がんばり病”をもたらしているという見方もできます。がんばっても給料が増えるわけではないのにがんばっているから「えらい」と評価され、さらには昇進や、昇進につながりやすい部署への異動といった形で報われるからです」



 バブル崩壊後の失われた二十五年といわれる日本の凋落の道は、こういうふうに用意されたのではないだろうか。

 工業社会のキャッチアップ型の経済成長のように、一致団結してひとつの目的に猪突猛進すれば成功するという時代ではなくなったのだ。それでもその時代のガンバリズム、成功体験で個人評価する組織が幅をきかせ、みんなで非効率なムダな努力、内輪ウケする努力だけに向かってしまう。

 機能性が必要な組織が「共同体化」してしまって、自己犠牲だけを測る組織に死に至る病に日本の企業はおかされてしまっているのである。

 それでも、「精一杯」だとか「全力」、「一丸」、「絆」といったガンバリズムのかけ声はあちこちからわき出る。シロアリみたいに日本社会の発展や進歩の土台を腐食するようなガンバリズムの言葉たち。

 がんばることの大いなる逆説、パラドックスというものが、日本人の多くの人には気づかれていないのである。

 日本企業の強制的な労働威力というのはとても強い。フリーターやニート、ひきこもりといったエスカレーター人生の乗れなかった人への風当たりも強い。ぎゃくにかつて強みだったそれが、みんなでがんばって乗り切ろう型の非効率なガンバリズムを生み出してしまう。

 脱工業社会というのは、工業社会で成功したものがことごとく逆になる、悪役になる時代だと認識を周知すべきなのだろう。

 工業社会の成功体験は、脱工業社会の成功を殺しにかかる。

 日本の労働システムや企業風土といったものはテコでも動かないような不動な硬直性をもっているように思われる。そういう中でシロアリのような昭和の成功体験やガンバリズムが、組織の機能性をどんどん食い殺しにかかっている。

 日本人の労働観や努力感が360度変わらなければならない時代の峠はとっくに超えていると思うのだが、いつまでもむかしの郷愁にしがみつく日本人。

 プロジェクトXではなくて、ガンバリズムの失敗例や弊害例をとことん啓蒙する広報活動が必要なのかもね。


日本人ビジネスマン 「見せかけの勤勉」の正体 なぜ成果主義は失敗したか組織の盛衰―何が企業の命運を決めるのか (PHP文庫)日本企業の社員は、なぜこんなにもモチベーションが低いのか?世界でいちばんやる気がないのは日本人――成果主義が破壊した「ジャパン・アズ・No.1」 (講談社+α新書)モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか (講談社+α文庫)

05 02
2016

主体性の剥奪

教えることが自発性を破壊する――『教えるな!』 戸田 忠雄

4140883510教えるな!
―できる子に育てる5つの極意 (NHK出版新書 351)

戸田 忠雄
NHK出版 2011-06-08

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 教えることはみずから学びたい意欲をつぶすことである。知りたいという飢餓状態があってはじめて、教える効果があがる。「自分を必要としないように教えるのが、よい先生」といっているように、教師は自分の役割を否定してこそ価値のある存在になる。

 外発と内発というテーマで本を探しているが、教えること、育てることにもそういうテーマはとうぜんかかわってきて、このような教育論の本も読んでみた。

 やる気を出させること、教えることが、本人から自発性、自主性を奪ってゆき、創造性を破壊してゆくパラドックスに思いを馳せないわけにはいかない。

 自発性、自主性を育てられない労働や教育はいずれその役割は失敗に終わる。すべて他人事であり、自分事でないそれは自己を疎外し、かたちだけの魂のない結果をもたらすだけである。

 学校が教えることにより、みんな学問が嫌いになり、活字本を読まなくなり、アニメやゲーム、お笑いに情熱を傾ける。強制することはいちばん学んでほしいことから人を嫌悪の感でそれらから去ることを行動づけるもののようである。ほんとうに学んでほしいことは、必要なら自分からとりにいくものではないのか。

 学校は社会や企業がその人の能力を測る「測定器」でしかないのだから、知識は本人から疎外されてゆき、受験が終われば忘れられる他人事の記号になり、本人の人生の役に立たない測定のための道具に終わる。強制された教育にもたらされた結果はそれでしかなかったのではないか。

 この本は教えるな!という割には、ラディカルな批判になっているわけではなくて、やはり予定調和な無難な教師らしい内容で止まっていると思う。やっぱり教師は教師らしい優等生のような器用な学びがいのある話はするのだが、魂には届かない気がする。

 偏りや歪み、マニアックからくる偏執的な執念がちっとも感じられない。教えられることに対する怨念的な批判がちっともない、あたりまえのことだけど。教師が書いた教えるな!という本にそれを期待するのがまちがっているのだけど。

 教えることの弊害や破壊をもっとラディカルに追究してもらいたいものだ。

「質問をしにくい雰囲気をつくるということは、学びにとってもっとも重要な行為、思考の根源にある「問うこと」を封じるということです。それは学びの自殺行為に等しい。自ら問いをもてない者は、何事にも疑問をもち自分で考えることはできないし、十分な読解力も身につきません」



 教えることはこの自発的な知識欲を破壊してゆくことだと思う。そしてお客さんのように答えだけを口を開けて待っているずっと待っている存在に変えてしまう。もう自ら学ぶことはしなくなる。

 教育がしたのはそういうことだったと思う。そもそも教育は生徒の能力の測定器だったので、知識を人生に活かす技能として教えられたわけではないのだろう。

 外発と内発というテーマで本を読んでいるが、強制がいかに知識や労働を破壊してゆくか。それを知ることにより、強制的な教育観や労働観で育ってきたわれわれがいかに自身を疎外してきたことかに気づく。そのことによってまた、つまらない、生き生きとしない社会を生み出し、人生を送らされてきたことか。

 強制された教育や労働は結果的につまらない活力のない社会を生み、どんどん衰退と退行を余儀なくさせられるのではないか。工業社会の強制的教育観、強制的労働観は、創造社会のハザマにおいて、どんどん悪弊になるのではないかと思う。


脱学校の社会 (現代社会科学叢書)上司は仕事を教えるな! (PHPビジネス新書)社員が自主的に育つスゴい仕組み独学のすすめ (ちくま文庫)独学の精神 (ちくま新書)

05 04
2016

主体性の剥奪

閉塞はそんな次元の話か――『なぜ社員はやる気をなくしているのか』 柴田 昌治

4532195365なぜ社員はやる気をなくしているのか
(日経ビジネス人文庫)

柴田 昌治
日本経済新聞出版社 2010-03-02

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 やらされ感と自発性のテーマについて考えていたから、まさにその答えを提出してくれるような本として読んでいたが、後半の実践編あたりから、まるで雲をつかもような実感のない話になっていったので驚いた。

 問題の分析と、内発的動機や主体性をひきだせという主張はまったく共感できるところだ。

 しかし実践編になるといったいどこのなにを語っているのか、さっぱり手ざわりも実感もわいてこない話ばかりになって、このズレはなんだろうと思わずにはいられなかった。

 内発性や主体性をひきだす次元は、もはやそんな次元に問題があるのではない。仕事や企業が強制ややらされ感でやらされるいやいや仕事にしか思えないから、もはや内発性や主体性など考えることも、実感もわくこともない、そんなレベルにわたしや一般社会はなっていないだろうか。

 労働や企業に強制感しか抱かず、体力や人生をはく奪するものとしか思っていない。そこに内発や主体性、自分で考える力、問題を発見する能力といいだしても、まったくのれんに腕押しに思える。

 仕事って与えられて強制されて、やれなければならない課題やルーティンを考えることもなく、命令や指示通りにこなすもの。そういった強制的・機械的労働観をもったものに、内発性や主体性、考える力といっても実感すらもわかない。

 日本企業や日本人ってこれによってつぶれたのではないか。内部崩壊や衰退の要因は、そういった強制的・外発的にやらされることばかりおこなわれて、ちっとも自分から動くこと、情熱をもってとりくむことを忘れたのではないか。

 そもそも内発的動機が生まれる、育つ環境にすらなっていないのではないか。強制・命令的労働観によって、内発や主体性など生まれる余地もない労働界にいるのがいまの日本人ではないのか。

 そういう土壌に内発や主体性といっても、ペンペン草も生えないというやつだ。

 わたしは非正規界隈をうろうろしてきた人間だから、この本で語られる主体性や考える力の次元がまったく理解できないのかもしれない。それともほかの一般的人間もこの世界が理解できるのか、実感できるのかが、いまいちわからない。

 主体的に組織を変革、改革してゆくすがたがまるで雲をつかむ世界のように実感がない。

 具体例や改善策が少なく、一般的抽象的な話だから、理解しにくいのか。具体的にはトヨタのカイゼン運動のようなものを思い浮かべればいいのか。トヨタの社員はそんなに内発的に主体的に仕事に関わってきていたのだろうか。

 形式やかたちを重んじ、問題をないものと見なす日本組織の問題点提出はまったく共感するところだ。しかし実践編となるとまるで実感をともなわない世界の話になるのか、とまどいすぎた本でした。

 なんでこんなに雲をつかむような話なのか。


なぜ会社は変われないのか―危機突破の風土改革ドラマ (日経ビジネス人文庫)考え抜く社員を増やせ! ―大転換期の「対応力」を育てる法 (日経ビジネス人文庫)柴田昌治の変革する哲学 (日経ビジネス人文庫 ブルー し 5-6)どうすれば役所は変われるのか―スコラ式風土改革現場の「知恵」が働く チームイノベーション (スコラ式風土改革)

05 07
2016

主体性の剥奪

自主性、創造性を尊重する――『子どもの能力の見つけ方・伸ばし方』 平井 信義

4569569226子どもの能力の見つけ方・伸ばし方 (PHP文庫)
平井 信義
PHP研究所 1996-08

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 おそらく強制がもたらした悪影響について知りたいと思い、内発と外発のモチベーション論に当てをさぐってみたが、いまいちつまらなく、内発、自発性なら子育てということで、こういう子どもの能力の伸ばし方の本にも手を出してみた。

 自発性や創造性を子どもの最大の目標にしている本で、それには「自発性が発達するためには、いたずら、反抗、おどけ、ふざけ、友だちやきょうだいとのけんかが必要です」

 いたずらや反抗は悪いことと思う向きもあるだろうが、自発や自立のためには子どもにとって必要不可欠なものだ。親に反抗してこそ、独自の自分をつくれる。親や他人にとって「不快なもの」こそ、本人の成長をうながすものだ。

 だけど、親のいいなりやいうとおりになる子が「いい子」という信念もまかりとおっており、自分を押し殺して成長して子どもたちが問題になる。

 子育て論や教育論のおおよその概要や変遷をてんでつかんでいないので、そういう概要書をざっとながめてみたいが、この大正8年生まれの児童心理学者、平井信義という人はどういう位置づけになっているのだろうか。

 この本は1984年に出され、96年にPHP文庫入りしている。同84年に出した『「心の基地」はおかあさん 』は140万部のベストセラーとなったそうだ。このころは校内暴力や不登校が問題になっていたころだ。

 子育て論なんてそれこそ人の数ほどありそうで、混淆玉石だと思うし、自発性や創造性を伸ばそうとする著者と正反対の考え方をする人もいるのだと思う。

 教育や労働観ではそれこそ強制と命令で鋳型にはめる人間観が、いまも世の中をおおっているのではないだろうか。工業社会では強制と鋳型の労働観や人間観は必要だったかもしれないが、創造社会とよばれるこんにち、この強制的人間観がその用途を終えていることを信じたいし、第一、人間として幸福でも、自分の人生を生きられているとはとても思えない。

 「十数年前から私は「しつけ無用論」を唱えるようになりました。叱らない教育は、四十年も唱え続けてきたものです。それは、厳しいしつけや、子どもを叱ったり叩いたりすることが、親子間の情緒的な関係を破壊して、思春期以後になってさまざまな問題を起こす子どもになることがわかったからです」

 たとえば、職場の上司に強制的・恐喝的・脅迫的な人物がいたとしたら、その人のことを心から信用できるだろうか。しつけや怒るということは、こういう人物がずっと親だったということだ。さらには親や家庭はそこから逃げることは絶対に考えられない。

 90年代にアダルト・チルドレンという言葉が流行った。親や他人のいいなりになって自分の人格を抑える、つぶすような性格のことだ。中島義道がこういう「いい子・優等生的」な人格を打ち破るために、逆噴射型自己チュー主義を『カイン』によって唱えていたが、いい子は大人になってはじめて自己をとり返さなければならなかったのである。

 たとえばいまでも就活ではみな同じリクルートスーツに身を固め、優等生的な鋳型にはまった学生が求められる。日本社会はずっと人間の自主性や創造性をまったく拒んでいる。これで創造的な文化や社会は生まれるだろうか。このへんにも日本の失われた25年の原因はおおいに絡んでいるように思われる。

 子育て論というのは、いまの人間観を反映しているし、通底しているものである。この著者が推奨しているような自発性、創造性を伸ばす人物を日本社会は許容してきただろうか。

 わたしはだいたい著者の主張を全面的に肯定している。もっとも子育て論の理想なんて、どこかにほころびや失敗がかならず生まれるものだとも思っている。理想はぎゃくにウソや偽装の人間をつくる。理想はそうなれない人への抑圧を生む。

 子育て論は自分が形成されたしくみや動因を省みることでもあると思う。このような外から見た自分の形成過程を大人になって省みることは、自分を主体にした視野の外部の視点をつけ加えてくれるので、子育て論も読んでみることはぜひオススメですね。


「心の基地」はおかあさん―やる気と思いやりを育てる親子実例集 (子育てシリーズ)子どもを伸ばす親・ダメにする親―間違いだらけの教育常識 (PHP文庫)いい子に育てると犯罪者になります (新潮新書)アダルト・チルドレンと癒し―本当の自分を取りもどすカイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ―(新潮文庫)

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