HOME   >>  右傾化再考
12 02
2013

右傾化再考

明治の世代論が読みたくなったね――『欧化と国粋』 ケネス.B・パイル

406292174X欧化と国粋――明治新世代と日本のかたち (講談社学術文庫)
ケネス.B・パイル
講談社 2013-06-11

by G-Tools


 明治の西洋文化摂取によってこれまでの日本文化を否定されたとき、明治の新青年は日本の誇りをどう見つけようとしたのかといった軌跡をたどった研究書である。アメリカの研究者が明治の日本にこんなにくわしいとはね。1969年の出版。

 わたしとしては戦後のアメリカ文化の享受者として日本の誇りや自尊心を否定されたという気持ちをちっとももったことはないので、そういう問いにはあまり共感をみいだすことができなかった。

 べつに国の誇りや自尊心なんて個人と生きるわたしにはちっとも関係ないと思っているから、そこにアイデンティティを見出すことなんてできないと思っているからね。基本的にわたしにはどうでもいい次元の話。

 関心がひかれたとすれば、明治の世代論をもっとわかりやすいかたちでとり出された本があればいいのにと思ったことだ。たとえば明治の指導者たちがほとんど生まれたとされる「天保の老人たち」(1830年~44年まで)といった世代論のような切り口だね。

 戦後昭和にかけての世代論はたとえば団塊の世代とか新人類世代、就職難世代といったくくりがされているのだが、明治のころにはこのような名づけられた世代論なんかないものだろうか。雑誌的なものならありそうなのだが、研究書や教養書としてはのこっていないのだろうか。

 わたしがこの本を読んだのは、「80年周期論」を検証するためである。日本は80年周期で40年の上昇と下降のパターンをもつという説がある。それを明治から昭和の時代にかけての社会精神の変遷にあとづけることができないかということが、近現代史の検証にわたしを向かわせている。それは周期上では2025年に今周期の壊滅期がくるといわれていることの備えにならないかという試みのためである。

 1880年代には明治時代の指導者たちの改革熱はすでに衰えはじめていたという。革命的な計画をすでに実施し、支配者集団たちはもう五十代になろうとしていた。

 中江兆民は1887年に明治政府の指導者たちはもはや若い世代の心を捉えることができなくなっていると指摘した。

 1870年代には日本の青年を欧化主義で魅了していた福沢諭吉でさえ、もはやかつての青年の精神的指導者ではあり得なかったようだといわれている。福沢諭吉自身が若い世代の性急さや無鉄砲ぶり、年長者にたいする無礼さにもう「近ごろの若者は…」といった老人の嘆き節を発するようになっている。

 指導者のエネルギーは使い果たされ、変革の二十年間に生まれた勢いが衰えつつあったときに、徳富蘇峰が新世代の青年たちに熱狂的な反応をよびおこした。正宗白鳥も「蘇峰の本を暗記するくらい読んでいた。田舎でもそうですよ。あのころの進歩的青年は蘇峰に傾倒していた」と語っている。山路愛山も雑誌に目がくらむ思いがして、あたりの景色が見えなくなるほどだったといっている。

 徳富の欧化主義にたいして志賀重昂や三宅雪嶺、陸羯南といった人たちは日本の誇りや自尊心をとりもどそうとした保守的な人たちだった。志賀重昂の『日本風景論』は明治時代の後半に学生のあいだにもっとも広く読まれた本といわれている。日本の田園への愛情や山岳の美は、青年の愛国心や誇りをとりもどしたとされる。その精読本を読んだことがあるが、ほとんど印象に残るものなしだったけどね。

 欧化主義をとなえた徳富蘇峰は国家的誇りとは軍事的勝利、領土の獲得、軍事的諸価値の復活と捉えるようになっていた。岡倉天心は文明が戦争の勝利に勝ちとられるとするのなら、野蛮人に甘んじようといっていたのだけどね。国民も傷つけられた国家的誇りを戦争の勝利によって勝ちとるという方向にすすんでいったのだろうね。

 世紀の転換後、多くの数の青年が国家的問題にかんする関心をうしない、自分自身の生活の私的な関心にひきこもるようになったといわれている。日露戦争のころにとりわけ顕著だったというのは意外だった。「一等国」の仲間入りを世界から認められたと日本が喜んでいた時期とされていたと思っていたのだけど。おおくの青年は国家主義的信仰に大あくびするようになっていたと。

 石川啄木は戦争の勝った負けたより、壮士芝居の評判に多く心を動かしつつあるといっている。そのアパシーは旧道徳、旧習慣のすべてに反抗を試みた同じ理由だと啄木は感じていたとされる。政治では青年は上にいけない、目立てない壁ができあがっていたのだろうね。

 世紀の転換ころには、青年たちは社会改革についての楽観主義の多くを失っていた。社会秩序はすでに不変なものとして青年のまえに立ちはだかっていた。「我々青年を囲繞する空気は、今や少しも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行きわたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している」と啄木は書いている。

 実験や改革の進歩の精神は啄木の生きた時代にはすっかり動かし難い、流動性のない、すっかり保守的な完成品になってしまっていたのだろうね。社会はすっかり窒息していたのだろうね。

 啄木は1886年に生まれて日露戦争に勝った1906年に成人しているのだが、ピークの時代に社会はもうその成長とイノベーションの歩みをすっかり止めたものとして青年に写ったのだろうね。明治初年の1868年からちょうど40年目のことである。

 このパターンは戦後昭和にもあてはまって昭和のバブルのころの若者たちにも無気力やアパシーが襲い、ひきこもりやフリーターといった流れが生まれつつあった。戦後40年のちょうどピークのころで、80年周期説はここで符合してくるのである。

 この本の中心課題は西洋化にともなう日本否定に明治の新世代はどう思想的に対処したかという話である。そういうことに関心のある人は現代にも通じる国家のアイデンティティと誇りという問題の対処法を見出すことができるだろうね。

 わたしの課題は80年周期の上昇と下降の社会精神を読みとることだった。石川啄木のころの閉塞状況に戦後昭和のピークにたどった現代の気運や精神とひじょうに似たものを見出すことができるね。

 社会精神が興隆・衰亡した40年のアップダウンを明治・大正・昭和にたどることができるのなら、今期の壊滅期といわれる2025年破滅論も信憑性もおびてくるね。2025年に戦後日本を既定してきた体制や精神目標は終焉・壊滅するのだろうか。だとするのなら、どのような新時代、新体制がやってくるのだろうか。


4003105451時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇 (岩波文庫)
石川 啄木
岩波書店 1978-09-18

by G-Tools


4003311213日本風景論 (岩波文庫)
志賀 重昂 近藤 信行
岩波書店 1995-09-28

by G-Tools



 
12 19
2013

右傾化再考

西洋コンプレックスと人種差別の自明すぎる説明――『なぜ太平洋戦争になったのか』 北原 惇

4484012227なぜ太平洋戦争になったのか
―西洋のエゴイズムに翻弄された日本の悲劇

北原 惇
阪急コミュニケーションズ 2001-12

by G-Tools


 「なぜ太平洋戦争になったのか」というような問いはわたしにはあまり興味ない。うしろ向きすぎだし、もうこういう問いを発してなんの意味があるのかという情緒をもっている。80年周期の検証というテーマでこの本を読んだだけである。

 この本は少しおどろいたというか、違和感をもったのだが、西洋コンプレックスとか西洋による人種差別とかが原因として語られているのが、これを一から十まで順番に説明してもらわないと理解できない人などいるのかという首をかしげるていねいな説明がおおかった。

 どちらかというと西洋コンプレックスや人種差別は常識的で、自明のことであると思われているのではないのか。それが秀吉の奴隷貿易の時代までさかのぼってひとつひとつ語られるのだが、これってこんな検証と説明を要するほど理解しない人なんているのか。そういう違和感とこのていねいな説明はなんだという印象をずっと読書中にもった。自明すぎる説明にあきれる章もあった。

 この著者はずっとアメリカで教鞭をとり、スウェーデンの研究所所長にまでなった「国際人」である。日本ではあまり知られている人ではないね。海外で生活する人の奇特なトンデモ本を読んだことはあるが、この本にはその気配はまったくないが、自明すぎる説明には違和感を感じざるをえなかった。

 著者は「心理反発論」として太平洋戦争に陥った道を説明するのだが、要約はこうなっている。

「(1)欧米の日本人に対する人種主義に日本が反発し、日本式の人種主義が形成され、これが、十九世紀半ば以来の西洋の威嚇と脅迫に対応するために形成された日本の軍国主義と組み合わされたこと、 (2)この反欧米の人種主義のと軍国主義の組み合わせがしだいに日本の実験を握るようになり、全体主義が日本を支配するようになったこと、そして、(3)西洋の意見と行動に極端にまで敏感であった日本人の心理が反転され、欧米の言うことはすべて無視する態度になったこと、の三つの理由が考えられる」



 要は西洋列強の脅威におびえて列強に同一視して仲間入りをめざしたが、人種主義で拒否されることを知るにおよんで、反西洋になり、日本人の優秀性を信じるようになったということである。

 恐れが憧れと同一視をよびおこし、同一視が拒否されるにおよんで、まったくぎゃくに無視と抵抗という暴発におちいったということだ。

 これは誘拐された女性が犯人に同一視するという「ストックホルム症候群」を念頭においているというわけかな。

 西洋コンプレックスとか白人による人種差別って、説明を要するほど日本人って感覚的に知らないものなのか。こんな自明な感覚を近代の歴史でていねいに検証されても、はて? 知らない人などいるのかという疑問をもたざるをえない。

 西洋コンプレックスとは日本人に言葉によるていねいな説明を必要とするものなのか。もし西洋コンプレックスの心理を知らないとしたら、海外で育った人とか、海外で長く生活した人になるのだろうか。ぎゃくに海外ではより強くそれを印象づけられるように思うのだが。

 外国の人にはこのような対象化された心理的説明をほどこさないと日本人の西洋コンプレックスの感覚は理解できないかもね。この本は外国人向けに書かれたのものなのか?


黄禍論とは何か―その不安の正体 (中公文庫)黄禍論: 日本・中国の覚醒人種差別の世界史―白人性とは何か? (刀水歴史全書)容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別 (平凡社ライブラリー)近代日本における人種・民族ステレオタイプと偏見の形成過程


12 30
2013

右傾化再考

アジアの独立運動周辺――『日本近現代史の「裏の主役」たち』 田原 総一朗

4569760570日本近現代史の「裏の主役」たち (PHP文庫)
田原 総一朗
PHP研究所 2013-08-03

by G-Tools


 近現代史をテーマに本を読んでいるから、たまたま見つけたこの本に手をのばしてみたが、まったくわたしの興味内に入ってくる本ではなかった。

 この本では西洋列強にたいしてゆいいつ白人に勝ったアジアの国として、日本がアジアの独立運動家の理想や渡来先として選ばれ、かれらを助けようとした日本人の人物を中心にとりあげられている。孫文なんか日本に来日しているから、その周辺の話である。

 日本がロシアに勝って、アジアに独立運動がつぎつぎとおこるきっかけになった。ロシアは国内のロシア革命のために戦いをやめたのであって、敗北感はなかったのだけどね。

 エジプト、ペルシャ、トルコ、アフガニスタン、アラビアに独立運動がおこり、インド人もならった。アジアの独立運動家は日本を希望の国、独立運動の拠点の国としてやってきて、日本のアジア主義者たちが政府に抗して面倒をみた。その核となる人物が頭山満であった。

 その頭山満、大川周明、松井石根、北一輝といった人たちがとりあげられたのが本書である。わたしはまだまだ勉強不足で、このひとたちがどのように重要だったのか、興味をあまりもてずにいる。北一輝の名前はよく知っているのだけどね。

 大川周明は資本主義の腐敗は日本を破滅に追い込み、そのカネの腐敗からもっとも遠くにいるのが軍人であると考えたそうだ。軍人が中心になれば、腐敗を一掃できて、透明で平等で健全な国家になると考えた。こういう考えもあったのね。

 大川周明が中学生活をおくった明治三十年代は成功や金儲けの秘訣を書いた書物が氾濫し、海外留学がもてはやされるなど、世俗的な成功熱が高まるいっぽうで、人生論的煩悶が問題化した時代であったという。「人生とは何ぞやという「内観的煩悶時代」へとうつりかわりつつあった。これは国家的目標が内面から揺らぎはじめていた傾向を示しているのだろうね。

 首相暗殺をくわだてた青年将校というのは、資本主義の腐敗や搾取を嘆いており、その批判が軍部の暴走へとつながっていったのは、いまの時代とも共通する基盤や陥穽かもしれないね。

 北一輝の人生は23歳で『国体論及び純正社会主義』を書いて世に出たのはすごいね。そして『日本改造法案大綱』を書き、2.26事件の主導者として処刑される。壮絶な人生だね。

 まあ、わたしにはこの本は時期尚早か、縁のない本だったかもしれない。わたしは国家目標の結集と崩壊の精神パターンを近代にさぐりたいだけなのでね。


大川周明の大アジア主義大川周明  ある復古革新主義者の思想 (講談社学術文庫)北一輝論 (講談社学術文庫)革命家・北一輝―「日本改造法案大綱」と昭和維新 (講談社文庫)人ありて―頭山満と玄洋社


01 11
2014

右傾化再考

列強の利権争いのコマとしての日本――『黄禍論と日本人』 飯倉 章

4121022106黄禍論と日本人
- 欧米は何を嘲笑し、恐れたのか (中公新書)

飯倉 章
中央公論新社 2013-03-22

by G-Tools


 これは黄色人種をおそれた黄渦論というより、近現代の日本は世界から感情的にどう捉えられてきたかということがよくわかる本だろうね。近現代史を理解したかったら、かなり参考になる。

 世界に躍り出た日本人は西洋列強にどのような目で見られていたか、あるいはどのように扱われていたか。ひとことでいえば、西欧の利権争いのコマとして利用されていたということがよくわかるね。

 日清戦争勃発の前夜、ドイツの風刺画では蜂の巣「朝鮮」をイギリスとロシアが木の枝で刺激している。「やってられねえよ」とちょんまげ姿の日本人と辮髪姿の中国人が逃げ出している。「最後にハチミツをせしめるのは誰?」といわれたように、英露のどちらかが朝鮮を横取りして支配しようとしていたようだ。

 イギリスの風刺画もにわとりである清国と日本が争っているが、木の陰からよだれをたらして見守っているクマ・ロシアは「ハハ、どちらが勝ったって、オレ様の晩飯になる見通しだ」といっている。

 イギリスとロシアがテーブルをひっぱりあいする上で、「朝鮮」としるされた料理を食べているのは日本人軍人という画もある。朝鮮も中国も西洋列強の利権のテーブルの上にあったわけだね。

 けっきょくこの日清戦争の勝利は三国干渉によって遼東半島の返還がおこなわれ、ロシアにたいするつぎの戦争につながってゆく。

 ちょんまげ姿の日本人猟師からのがれたうさぎ・清国が逃げ隠れた場所は木の隠れ家という風刺画がある。そこにはふくろう(ドイツ)、蛇(ロシア)、キツネ(フランス)がいて、難をのがれた清がさらなる餌食になることを暗示していた。清国に恩を売った三国は借款を与えるとともに清国の分割にのりだすのである。

 日本はロシアとイギリスの極東地域での利権争いで、イギリスに後押しされるという構図があったようだね。

 「おいで、そして殺されなさい」という風刺画では鴨の中国が湖にのがれていて、ナイフをもった太った婦人が湖岸に立っている。つぎはぎだらけの服にはイギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、ロシア、日本を象徴する図柄がプリントされている。

 日露戦争勃発時、アメリカが日本を支持していたのは門戸開放政策のために戦っていると思われていたからだ。しかし満州利権の独占はアメリカへの裏切りに思えた。それが太平洋戦争の遠因になってゆくのである。

 日露戦争の勝利後、アジアの独立運動を活発にさせて日本に学びにくるアジア人が多くやってきたが、白人がおそれるようなアジア人の結託と独立を日本はめざさなくて、西洋との協調路線をえらんだ。

 文明国とみとめられるのは軍事化であるということを日本はしめした。技術力や科学力ではなくてね。

 日露戦争に勝利し、一等国入りしたと思っていた日本人にとって、サンフランシスコでの日本人移民の学童差別問題は日本にも飛び火して、大きな問題となった。東洋人学校にまとめて入れられるのも日本人の屈辱心をえらく刺激したようだ。この黄色人種にたいする差別感が、日本をアメリカとの戦争に駆り立ててゆくのだろうか。

 第一次世界大戦に参戦した日本にたいしてミカドにひれふす西洋人たちがえがかれている。イギリス、フランス、ロシアの三国である。いやらしい顔をした小さな日本軍人にフランス女性が助けを懇願する風刺画もえがかれている。その背景にはフランスの偉大な軍人たちがえがかれているのだけどね。

 第一次世界大戦は日本や中国が連合国と三国連盟のどちらにつくかのかけひきで、得をしたり損をしたりといった違いがかなり巧妙にあったようだね。勝利側にいた日本は人種差別の項目を主張するのだが、うけいれられるものではなかった。アメリカとの戦争は白人対黄色人種の文明の戦いという要素もあったのかもね。

 風刺画は国際政治のかけひきの感情面、ホンネの部分がよくわかるようになっているね。近現代史を理解したい人には風刺画の歴史をながめるとよりいっそうの理解が深まるかもね。


▼ネットで拾い物した風刺画
prev15.jpg
ビゴーの風刺画だね。ロシアと戦う腰の引けた日本軍人をイギリスが後押している。

imgaa3bfeccdki4uo.jpg
朝鮮とかかれた食事の上に立つ日本人が挑んでいるのは、ロシア軍人か。

o0420029511763923042.jpg
巨大なロシアに立ち向かう子どものような、人形のような日本人をイギリス人が抱きかかえている。

20111224153321711.jpg
シロクマ・ロシアに立ち向かう明治天皇。腹や足には朝鮮や満州の字か。西欧列強が観戦しているね。

32a7b070cc54cab9a9fb87f64897c44f_400.jpg
朝鮮を足蹴にする日本人と中国人をとおくで見守っているのが利権がほしいロシアだね。

o0374026411754431440.gif
危うい綱渡りでシロクマ・ロシアと戦う芸者姿の日本。


風刺漫画で日本近代史がわかる本風刺画にみる日露戦争広告・ビラ・風刺マンガでまなぶ日本近現代史ビゴーが見た日本人 (講談社学術文庫 (1499))幕末維新の風刺画 (歴史文化ライブラリー)

江戸の風刺画 (歴史文化ライブラリー)日露戦争諷刺画大全〈上〉日露戦争を世界はどう報じたか日露戦争と新聞 「世界の中の日本」をどう論じたか (講談社選書メチエ)

01 26
2014

右傾化再考

投資家や貿易業者の私的利益のための――『帝国主義論』 ホブスン

ede5b3c483fd613f464dc18b06665dae.jpg帝国主義論 上巻 (岩波文庫 白 133-1)
ホブスン
岩波書店 1951-08-05

by G-Tools


902d3a83f8e50cc5609cde5e0c844d51.jpg帝国主義論 下巻 (岩波文庫 白 133-2)
ホブスン
岩波書店 1952-06-25

by G-Tools


 先の戦争はなぜおこなわれたのかと問われることはあっても、なぜヨーロッパは植民地支配を世界にひろげたのかと問われることは少ないね。それが開国を要求されて明治維新のきっかけにもなったのにね。

 ホブスンの『帝国主義論』はその原因を民族とか国家の威信とか優越心にもとめずに、投資家や貿易業者たちの私的利益のためだったという経済的要因にもとめた。勇ましい民族的自尊心のためではなくて、国内の一部の業者のカネ儲けのために帝国主義は世界への支配へとすすんだというのである。

 この本は岩波文庫の1952年版の古本で読んだのだが、げんざいはつかわれていない漢字が多数使用されていて、ひじょうに難渋した。文脈のなかでなんとか用語はつかめたほうだけど。また文章も長く、一文で四行とかあったりする主語がつかみにくい屈折文体なので、読み終えるのにひじょうに骨が折れた本だった。

 初版は1902年にイギリスで出されている。1948年の第四版まで改訂がおこなわれた。1902年といえば、日本では日露戦争の1905年の前で、のちの1914年の第一次世界大戦まえの期間となる。1937年から日中戦争がはじまるわけだが、この本はそれにいたるまでの歴史的な国際情勢をリアルタイムで証言していた歴史の証言本のような読み方もできる。

 上巻の第一篇では「帝国主義の経済学」があつかわれ、下巻の第二篇「帝国主義の政治学」のほうがよほど容量が大きい。

 「経済学」では「人口のはけ口としての帝国主義」、「帝国主義の経済的寄生者」といった章タイトルでいわんとしていることがわかるね。「政治学」では「道徳的および道徳的要因」や「帝国主義と劣等人種」、「アジアにおける帝国主義」といった章で論じている。ホブスンは徹底的に帝国主義に批判と反対を加えた人であった。

「以上によってわれわれは、帝国主義とは、国内で販売もしくは使用することの出来ない商品および資本を取り去るために外国市場および外国投資を求め、それによって彼らの余剰の富の流れのために水路を広げようとするところの、産業の大管理者達の努力であるという結論に達する」とまとめられている。投資家、資本家、貿易業者、開発業者といった一部の業者の私的利益のためであって、国家全体の利益ではないといわれている。

 植民地支配はいわゆる「文明の使命感」という大義や善意によっておしすすめられたとイギリスのおおくの人たちは思っていた。異教の人たちにキリスト教をひろめ、不幸な国の人たちに残虐や苦痛を軽減するという人道的使命感をもっていた。「先進国」の自負心や優越心は、他国や他民族を劣等人種だとみなす「科学的知識」にも助けられて、西洋人は「侵略」を正当化していたのである。

 ホブスンは学校によって少年たちが愛国心をうえこまれ、好戦的な野蛮性を培養され、虚偽の理想による偽英雄の賛美的歴史や、尊大な民族の自尊心を養うといった教育のあり方に憤っている。

 初期の帝国主義は「財貨」の欲と奴隷貿易というふたつの動機をもったとされる。金銀、ダイヤモンド、ルビーといったもの。奴隷貿易は世界でのいちばん古い起源をもつ貿易だともいわれる。奴隷労働は古くから多くもとめられた。近代の植民地は熱帯地方が多く、当地の人たちは食糧をさして働かずにも手に入れられたので、働く欲望を強くもたなかった。欲望をうえつけるか、さもなくば絶滅させられる民族も生まれた。

 「アジアにおける帝国主義」では利権の争奪戦にさらされる中国のことが当時の目で語られていて、1902年の時点で日本がロシアや中国と戦争がおこなわれることが予想できたか、またアメリカと一戦を交えるとか予想できたのだろうか。

 ホブソンは日本人は西洋技術や科学を完全にとりいれ、頭脳労働に適し、公共奉仕の精神に富むといっている。

 いがいだったのは中国人の秩序、民度をえらく高く評価していることだ。文学や精神性に高い尊敬と普及がひろがっており、学者と農夫が軍人より高い位置におかれることはどの西洋民族にもないといっている。ただ個性発揮の余地はほとんどないといっているが。

 中国は自治の、平等な精神の小さな自由村落共同体の巣だと指摘されている。家族がもっとも安価な統治形態であり、それによって警察もいらないといわれている。中国人は勤勉、正直、秩序ある態度、学問にたいする高い尊敬といった特徴があるとされる。わたしは中国は民度が低く、秩序が乱れていると思っていたのだが、これは後進国的な偏見だったのか、あるいは時間をへて変わってしまったのか。

 まあ、この本は読み解くのに難渋したし、ひどく骨の折れる読書であった。帝国主義を民族とか国家の要因で見るのではなくて、経済やカネの利益に見たのは意義ある書物だと思うのだけどね。


イギリス帝国と帝国主義帝国主義 (ヨーロッパ史入門)帝国主義―資本主義の最高の段階としての (岩波文庫 白 134-1)全体主義の起原 2 ――帝国主義帝国意識の解剖学 (SEKAISHISO SEMINAR)


02 02
2014

右傾化再考

明治の思想家はなにを語ったか――『明治精神の構造』 松本 三之介

4006002599明治精神の構造 (岩波現代文庫)
松本 三之介
岩波書店 2012-01-18

by G-Tools


 明治の思想家なんてぜんぜん知らなかったのでたのしめた。哲学や現代思想から入った人間は普遍に価値をおくので、終ってしまった時局を追うことになんの価値があるのかと思っていたからね。

 この本は78年の「NHK大学講座」に加筆されたもの。福沢諭吉、植木枝盛、中江兆民、徳富蘇峰、陸羯南、内村鑑三、幸徳秋水といった人たちの思想や動向が紹介されている。これらの人の当時の出版物は国会図書館の「近代デジタル・ライブラリー」で検索すれば、読みにくいものも多いけど見れるかもね。

 福沢諭吉はアメリカに渡ったとき、ワシントンの子孫のことを聞けばアメリカ人はさっぱり知らなかった。日本でいえば源頼朝、徳川家康の子孫のことを知らないわけがない。生まれや家柄が人間の価値を測る徳川身分社会を知っている福沢にとって、行為や業績で測られる近代社会の違いがわかるエピソードである。

 福沢諭吉は拝金教だと揶揄されたようだが、福沢は金の価値をことさら強調した。「人欲」は「文明開化の元素」であり、「私利は公益の基」と説いた。『蜂の寓話』のマンデヴィルのことをいうような人だった。

 植木枝盛という人はさっぱり知らなかったのだけど、自由民権運動で活躍した人のようだね。だけどこの運動は政治的価値を個人の利益や市民的価値より上におき、「官尊民卑」、「立身出世主義」の風潮をつくりだした。中江兆民も政治をなにか高貴なものと考える青年たちを妄念として批判した。政治的価値の優越は現代にまで尾をひく問題である。

 植木枝盛は民衆の政治的無関心を批判するいっぽう、政府は悪で、強者の恣意を貫徹する強制装置であり、自己本位を旨とする考えも表明しているのだが、どちらがいいのかわからない。

 坪内逍遥の『当世書生気質』(近デジ・リンク/明治18年)は「それまで政治以外に青雲の道が無いように思っていた天下の青年はこの新しい世界を発見し、にわかに目覚めたように忽然として皆文学に奔った」(内田魯庵)そうだ。政治という行動的価値のほかに内面的・思索的価値を見つけたのだろうね。

 明治20年代には徳富蘇峰が青年の心をとらえて、福沢諭吉の天保生まれ世代からの価値転換がおこったようだね(『新日本之青年』明治18年)。蘇峰の『将来之日本』という本では、「武備社会」と「生産社会」の区別を立ててスペンサー流の社会進化論をとなえた。(スペンサー『社会学原理』近デジ・リンク読めんw)

 蘇峰の刊行雑誌「『国民之友』(近デジ・リンク)は新思想の雑誌として学生必読であった。徳富蘇峰および民友社一派に対するわれわれの崇敬と愛慕は殆ど絶対であった」(堺利彦)。でもとうじの雑誌の発行部数は五、六百部、せいぜい千部どまりであり、この雑誌は一万四千部にたっしたということだが、この小さな数字にぎゃくに驚くね。

 蘇峰は三国干渉の裏切りのショックによって欧化主義から『大日本膨張論』のような本をとなえるようになるのだが、内村鑑三は「絶対的非戦論者」であった。

 でも内村鑑三は「祖国は宇宙の中心であり、世界の羨望の的だ」といい、キリスト教入信後には異教国日本は世界から抹殺されてもだれも困らないといい、アメリカで生活するうちに「祖国こそは、高遠な目的と高貴な野心とをもって世界と人類のために存在する神聖な実在である」と振幅のはげしい優越と侮蔑のきょくたんな感情論を発するのだが、誇大妄想的な世界だねw

 明治は藤村躁の「思想の為の自殺」のような華厳の滝での死(明治36年5月)によって、青年たちには「煩悶」や「懐疑」の風潮がきざすようになる。岩波茂雄は「発揚的な校風主義」から「沈静的な個人主義」、あるいは「憤慨悲憤派」から「瞑想懐疑派」に転じたといっている。

 私的世界への沈潜はもはや日露戦争の勝利によっても、国家的関心の世界によびもどすことも不可能であったといわれている。条約改正という維新いらいの国家的課題の達成はその後の大きな空白を生みだした。

 「日露戦争の終局に当たりて、一種の悲哀、煩悶、不満、失望を感ぜざりし者幾人かある」と徳富蘆花は「勝利の悲哀」を嘆いた(明治39年)。

 石川啄木は明治43年に「時代閉塞の現状」という論文を書くのだが、その二年後の明治45年に天皇の死によって明治は終わるのである。

 「日本崩壊80年周期」というテーマを検証するためにこれらの一連の近現代史を読んでいるのだが、国家目標の達成とその後の崩壊という時代推移は昭和、平成の時代においてもくりかえされていると見えて、その社会精神の反復は、反省と改善の材料とされなければならないと思う。


欧化と国粋――明治新世代と日本のかたち (講談社学術文庫)明治思想家論 (近代日本の思想・再考)明治思想史―近代国家の創設から個の覚醒まで (ロンド叢書)明治思想における伝統と近代和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本 上 (平凡社ライブラリー)


02 11
2014

右傾化再考

右傾化と経済的優越心の凋落について

 アメリカでも日本の右傾化の心配の声が聞かれるようになって、街ではヘイトスピーチのようなレイシストのがなり声が聞こえるような時代になった。

 なぜ右傾化が台頭するようになったのだろうかと右翼的心情をさっぱり理解できないわたしでも問わざるをえない。

 わたしは新聞の戦争責任とか慰安婦問題とか、南京事件のトピックにまったく興味もないし、避けたいと思ってきたので、なぜマスコミの人たちがとり憑かれたようにこのトピックに喰らいつくのかわからない。右傾化の台頭は、わたしの心情の理解からはかけなはれたところにある。


経済的自尊心の凋落と経済ナショナリズム


 右傾化の傾向はこの二十年来の経済凋落と貧困化によるところが大きいのだろう。かつてはナショナリストたちは日本の経済大国化に優越心と自尊心を満足させられることができた。この経済ナショナリズムの優越感が満足できなくなったところに、民族主義的でレイシズム的な右傾化が台頭してきたのだろう。

 いままで右傾化してなかったのではなくて、経済的ナショナリズムという平和的な方法がおこなわれてきただけだ。この経済ナショナリズムは危険でも、脅威をもたらすものでもなかったから、平和な方法で人びとは国家的自尊心を満足させることができた。

 右傾化というのはいま盛り上がってきたのではなくて、経済主義によって日本では大々的におこなわれてきたものであって、それによって満足させられなくなった人たちが民族主義的な自尊心の台頭にむかってしまったのがげんざいのあらわれではないのか。民族主義的な自尊心は差別的・排他的な言動や攻撃性となってあらわれ、他国の脅威をよびおこしやすい。

 個人主義的なわたしから見ると日本はずいぶん全体主義的な会社主義、労働主義を強制するじゅうぶんナショナリズムの国であったと思う。右翼的な心情をもっていながら、それが武力や軍隊にむかわなかったから右翼的とおもわれなかっただけで、経済主義、会社中心主義は国家のナショナリズムに奉仕するじゅうぶん右翼的な団体ではなかったのか。

 体育会系の支配する会社体制やブラック企業といったものは、日本の右翼的・全体主義的な体制をささえてきたのではないのか。企業や経済団体が一丸となって世界経済と競争する経済ナショナリズムの亢進が戦後日本の体制ではなかったのか。右翼的な体質は穏和的な企業活動、商業活動の仮面にかくされてきただけだ。

 経済ナショナリズムが成功したのは90年ころまであって、バブル経済の絶頂期にその目的の到達と消滅という転換をむかえた。その後は二十年の経済的凋落と停滞をむかえて、日本の経済的自尊心は落ちるいっぽうで、ナショナリスト的な人たちの自尊心を満足させるものではなくなっていった。落ちるいっぽうの国家的自尊心の代償として、民族的差別による自尊心が台頭するしかなかったのがこんにちの流れではないのか。

 経済的自尊心の満足と自負心が得られなくなって、ナショナリズム傾向のつよい人たちはほかのなにかで自尊心・自負心をいそいで探さなければならない。わたしの自尊心は壊滅的で、劣等感と絶望感でいっぱいである。国家的な優越心・自負心を経済のほかに探す探索がこれからも活発に動き出すのではないか。


なぜ国家に同一化できるのか


 個人的な幸福と自由をもとめたいわたしには、この国家に自尊心や自負心をかさねる心情がどうも理解しがたい。国家や集団がどう見ても疎遠なもので、自分との同一化なんてとても不可能である。どうして国家や集団に自分が同一化できるのか。なぜ自分の自尊心や優越感を満足させられるというのか。

 わたしは日本を代表する大企業の社員でもないし、日本文化におおきな業績や貢献をのこしたわけでもない。なんの貢献もつながりもないのにどうして日本のほこりや偉業に同一化できるのか。他人の業績や偉業を横どりし、盗みとり、タダ乗りできるのが「日本人のほこり」といわれるものの正体でしかないのではないか。それを個人的なほこりや自尊心とできるというのは、あまりにも「横領的な個人」が推奨されているだけといえないか。

 他人のモノを盗めば犯罪なのに、他人の著作物を勝手に使用すれば犯罪なのに、他人の土地を勝手に使用すれば逮捕されるのに、なぜ「日本人のほこり」の共有と私有は推奨されるのか。

 国家との同一化はニュースでもスポーツでもずいぶん推奨されるし、自明のものとされている。わたしは日本の躍進や活躍に胸躍らされ、鼻高々になる。応援するチーム、わたしの属する企業が日本の躍進をたすければ、わたしの自尊心と自負心はずいぶん満足させられる。

 だけどいちばんだいじで、先にこなければいけないのは個人的な自尊心や満足ではないのか。個人の空虚さ、劣等感をみたすために国家や大きなものに頼るべきではない。国家や集団の大きなものの犠牲やいけにえとなった上での大きな集団や国家の繁栄やほこりなどまちがっている。自分の家をたてて、自分の家を守れないよううえで、国家の繁栄とほこりに頼っているようでは、巨大なものによってわたしの家はすぐつぶされて、倒される。

 日本のナショナリズムは個人的幸福や自尊心をつちかったうえでのナショナリズムではなくて、犠牲的・無私的なナショナリズムを強制されるのではないのか。空虚で自尊心のない個人の犠牲と奉仕のうえに築かれるナショナリズムは、どうように他者の尊厳も権利もまもられずに蹂躙される。自分自身がまもられていないから他者に暴虐や差別がおこなわれるのがとうぜんになるし、個人の自尊心や自負心が空虚なナショナリズムは全体主義的な犠牲と虐待をみちびくだけではないのか。

 個人の空虚や劣等感をみたすために国家の同一化やナショナリズムがもとめられても、はたしてわたしの満足や幸福はもたらされるだろうか。個人の人生さえままならないのに、他国との軋轢や競争の中でもまれるもっと大きな集団、国家が満足や幸福をもたらしてくれると思うのはさらに不可能なこころみではないのか。


ヘイトスピーチの差別と優越感


 ヘイトスピーチのような民族差別的な言説というのは、他者をおとしめれば自分の優越感や自尊心が満足させられるというまちがった思い込みから発しているのだろう。他者が落ちたから、自分が上になったように思う。だけど残虐な心、人を蔑視すること、軽蔑や憎悪のじゅうまんした心がはたしてわたしの幸福や満足をもたらしてくれるのか。わたしが人よりすぐれた優越感を満足させられるのは、正当なルールで、正攻法的な方法で目標を達成した場合だけではないのか。

 民族的な差別というのはどうも文明の「先進」と「後進」という図式にずいぶん負うところが大きいらしい。先進の国は「優越」しており、「優秀」であり、遅れた国は「劣等」で、「無知蒙昧」であることを堂々ということが正当化されると考えられるようだ。

 しかし優越したものはなぜわざわざ劣等者を侮辱して、みずからの優越性を証明しなければならないのか。それは自分の優越性をだれも証明してくれないからであり、また自分自身でうたがわしいとおもっているから他者の劣等性を言上げして、わざわざ自分の優越性をもちあげているだけではないのか。そもそもあなたはなぜ優越し、勝たなければならないのか。

 人種や国家で差別をいうような人はそれらと同一化しているのだが、その人はなぜ人種や国家と一体化して、個人として、国家と個人のすき間や、いくらでも間隔のある自分でない集団や団体をいくつもこえて、国家にぴったりと膜のない一体感をつちかわれるのだろう。あなたはなぜほかの人より、ある人種を代表して、国家なのだろう。あなたはなぜその人種であり、国家なのか。だれかが選んでくれたから人種や国家の代表であり、それらに委託されて、人種的・国家的差別をまくしたてる権限をあたえられたのだろうか。

 あなたはなぜ自民族、自国家の優秀性を代弁する権利をえて、ほかのものを差別したり劣等とののしる弁護人の資格をえたのだろうか。それはあなた個人が優秀であり、その団体を代表する権利があり、ほかの国民や人種に委譲されたから権利があるのだろうか。あなたはわたしたちの代表や弁護人としてだれかを差別・攻撃する権利をどこから得たのか。

 ヘイトスピーチを街中で堂々と宣誓するような人たちをゆるす国はひじょうに恥ずかしいことで、ときには犯罪的、国際的非難をうけるべきたぐいのものだと思う。このような人たちが身近にいたことがひじょうに残念だと思う。どうしてかれらのような考えに落ち込み、なぜかれらを助けられないのか愚考を問うしかないのだろう。


 まとまらない考えをただ書きつづったが、日本の右傾化というのは経済大国化として推進されてきた国家的事業であったというのがわたしの考えである。経済的自尊心の没落によって満たされない自尊心が、禁止されてきたナショナリズム的方法によって充填されようとする噴出がいたるところにあらわれてきたのが、こんにちの右傾化ではないかとわたしは思う。

 経済的自尊心を満たされなくなった人たちがどのような方法で――民族的、人種的、あるいは武力的にもおよぶかもしれない――それをとりもどそうとするか、さまざまなかたちで噴出するのかがこれからかもしれない。

 わたしはただ、個人的自尊心、努力や向上を放棄した集団的自尊心、優越感なんてちっとも成り立たないと思うのだけどね。まずは個人のほこりと満足を充填するほうが人生の課題だと思う、国家とか民族なんて借り物の「トラのパンツ」でなくてね。


週刊ニューズウィーク日本版 2013年 2/12号 [雑誌]ネトウヨ化する日本 (角川EPUB選書)ネット右翼の矛盾 憂国が招く「亡国」 (宝島社新書)ヘイト・スピーチとは何か (岩波新書)ヘイトスピーチとたたかう!――日本版排外主義批判


03 08
2014

右傾化再考

集団の武器とつなげるイデオロギー――『民族という名の宗教』 なだ いなだ

4004302048民族という名の宗教
―人をまとめる原理・排除する原理 (岩波新書)

なだ いなだ
岩波書店 1992-01-21

by G-Tools


 右傾化や嫌韓嫌中、ヘイトスピーチといった現象によってその心理的な側面を問われなければならない時代になった。サブタイトルの「人をまとめる原理・排除する原理」がまさに問われなければならなくなったのだろうね。

 この本は92年に出されていて、ブックオフでよく見かける本だが、このころは社会主義の崩壊やユーゴの内戦などがあってそのことを書かれていると想像していたのだが、ちゃんと原理的なことを考えている本だった。ただし、対話篇は思索を薄めると思うのだけどね。

「人間は数が重要だと知って、どうやって大きな集団を作るか、ずっと工夫し続けて来たような気がするよ。歴史なんて、人間がどのような集団を作ってきたかの記録だといえないこともない」



 「人間は集団を武器とした」という章のタイトルがより本質をついているのだろうね。わたしなんて個になろう、なるたけ集団から離れようという方向で生きてきたのだけど、数の力をたのみに人間の歴史は発展してきたのだろうね。

 数の力をたのみにするのって、「寅の威を借りる」とか「集団の陰に隠れる」といった卑怯で抑圧的なイメージをもってきたのだが、この方向性は人間の正義や向かうべき未来なのだろうか。

 思想や哲学では「全体主義」、「ファシズム」、「群集や大衆」といったものに批判的で、個になろうとする流れではなかったのか。それらは「文明」や「理性」に対抗する「野蛮」や「感情」の侮蔑語だった。戦後の日本も軍国主義の反省から、国家主義には批判的だった。数にまとまる原理は人類にとって「善」なのか。

 人間の集団が大きくなったのは、人間の敵が人間になったからであって、より大きな集団をつくることが勝利につながることになったと、なだいなだはいっている。そこで血のつながり、部族の宗教、あるいはそれらを超える宗教やイデオロギーが必要になったという。「帝国と世界宗教は紙の表と裏」ということである。

 イスラム教が世界宗教になったのは、祖先代々の血をうけつぐものという団結より、アラビア語を話すものという団結で大きくなったという。排除や差別の感情をもたらすイデオロギーより、より大きな同一性で結びつけるもの、それが大きな集団をつくりあげる接着剤になる。

 なだいなだは民俗学の柳田國男の言葉を引いて、民俗学をおこなう理由を近代化によって失われる民俗の記憶をのこしておくという主張に肯定的ないい方をしているのだが、柳田の民俗学はぎゃくに国家のイデオロギーとして機能してきたのではないのか。柳田は民族のイデオロギーを守って国家のイデオロギーに批判的だったのではなくて、国家イデオロギーの原郷をつくったのではないのか。

 ユダヤ人の歴史ではユダヤ人で団結しすぎるのはやめて、ドイツに同化しようとしたものたちが大きく業績をのこした。ハイネ、マルクス、フロイト、アインシュタイン、ベルクソン、モディリアニ。。

 しかしドイツ人をゲルマン民族だといいかえる国民=民族というフィクションが人種差別の原因になった。寛容な、同化をゆるすフランスでもドレフュス事件がおこった。東ヨーロッパ、ロシア帝国でおこったポグロムというユダヤ人虐殺があったのはあまり知らなかった、アウシュビッツではなくて。

 なだいなだは子どもの素朴な質問に前提となる考え方を問題にした。「同じ日本人なのになぜ自民党や社会党とかあるのか」という問いは、「違う考えをもつものは日本人ではない」という前提や雰囲気があるからこそ、成立する問いではないのかと。

 単一化や画一化は、労働力の規格品や大量生産のマーケットを生み出すために必要なカーペットづくりである。国家や階層といった障壁があるとそれらは広がらない。だから経済力の問題からも、規格化・画一化はおしすすめられる。わたしは思想を読んできた人間なのでこの流れには反対のほうである。ただ、平等で差別のない社会には均一化の流れは適している。

「人間は抵抗のために、まとまることができる。危機感がまとまらせるのだ。危機を前にした純粋な連帯感が、普段は意見の違う人間たちを、とりあえず集合させる」



 この本を読んでいたらまるで数で集まる論理を正義にいっているように思えるのだが、もちろん違うだろう。

 この本の近年に崩壊した社会主義は宗教より、国家を超える人を結集させる肯定的なイデオロギーの役割があったのだといっているのだが、社会主義はおおくの虐殺や強制収容所送りといった凄惨な歴史も生み出している。

 人間は集まる原理・イデオロギーをもったほうがいいのか、ばらばらな個人が自由に次善に生きられる方法はないのか。こういう原理的な本を読むとあんがい、かんたんに結集のためのイデオロギーのバランスシートが書けるように思うのだが、人はイデオロギーを現実のものとして信仰するほうがいいのか、それともイデオロギーの長所・欠点を客観的に知った上でそれを採用したほうがいいのかといった選択も残されるね。

 人をまとめる論理、排除する原理といったものは人類に壮絶な虐殺や戦争の汚点を残してきた。これにたいする理性的な解決法がもっと早く模索されるべきなのだろうね。


権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36)定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)民族とナショナリズムネイションとエスニシティ―歴史社会学的考察民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)


03 23
2014

右傾化再考

「頭からっぽ論」にずっこけた――『近代日本の右翼思想』  片山 杜秀

4062583968近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)
片山 杜秀
講談社 2007-09-11

by G-Tools


 わたしはまったく個人主義的な人間なので、右傾化の心性がまったくわからないということで、右翼思想家の論理とはどのようなものかと批判の姿勢でこの本を手にとる。

 近代の右翼思想家をまったく知らないので謙虚に学べる本であるが、とちゅうからたんじゅんな「頭からっぽ論」に収斂される構成にずっこけそうになった。

「もう思考が止まっていたというほかない。
…うまくいかないなら、保留する。決定的なことは天皇に預けて考えないようにする。もう、ありのままに任せて、考えるのをやめる。考えなくなれば、頭が要らなくなる。
…頭がなくなると、残るのは首から下である。からだである。実際、「中今」状況下の右翼思想は、身体論にはまっていったように思われる」



 宗教批判によく用いられる「思考停止=盲従」の論理こそは、わたしは疑わしいと思っている。考えるからこそパターン的に恐怖に支配されて服従するのが、「こちら側」の服従の実態ではないかと思う。考えたらオリジナル的に批判的になって、服従や盲従をもたらさないといえるのか。考えることは類型的な恐怖に条件づけられることではないのか。

 本のなかばに安岡正篤が大きくとりあげられるのだが、この人の現代の捉えられ方は「歴代首相の指南番」たる東洋的自己啓発家といったところである。この本での役回りは社会改革より、人格陶冶にむかったターニングポイントとして捉えられている。過激な革命家、北一輝や石原莞爾のような社会改革の挫折としての。

 大正末期からはじまった「原理日本社」の思想はまるでこんにちのニューエイジ思想のようである。現代の解決法って、近代の歴史にもおなじように見つけることができて、こっ恥ずかしくなることが多々ある。

「生きて流動してとらえがたいものを、理屈や概念を持ちだして、さもとらえたように錯覚する思想である。
生きて複雑な世界を、ブルジョワジーとかプロレタリアートとか、もっともらしい概念を弄んで、異様なまでに単純化してしまう。そういう思想の害悪が、ありのままを感じる力を曇らせ、日本を殺すというわけである」



 わたしもニューエイジやトランスパーソナル心理学でこのような考えにもふれていたので、この説は納得するのだが、それが右翼思想だとか天皇支持にまわる理論がよくわからない。つまり社会思想まで敷衍しない。

「天皇の存在する日本は何もせずともそのままでよい国のはずで、どこが悪いからいじろうとか、体制を変革しようとか、余計なことを考える必要はないということである」



 著者の片山杜秀はこのような現状肯定の姿勢に、社会変革の挫折と滅亡をみているということだろう。批判的改善の消滅と現状肯定の思想だけがのこる契機をもたらした思想として。これはこんにちでは、自虐史観と自由主義史観という対比で、批判から肯定のすりかわりに同じような類型を見ることができるかもね。

 「いま」「現在」だけを肯定する思想はこんにちでも広範にあらわれる思想になっており、著者は近代にもあらわれたそれを「中今」というタームで、近代思想の流れに追っている。

 老子に影響をうけた伊福部隆彦、禅を哲学理論化した西田幾多郎、そして「俗流西田主義」としての山田孝雄、「事実主義」としての高山岩男といった流れに跡づけている。つまり現在肯定だけがめざされた思想がおおったということである、社会批判、社会改善の欠落をともなった。

 そして「頭からっぽ」論として夢野久作の『ドグラ・マグラ』がとりあげられ、「手のひら療治」や佐藤通次の『身体論』が「脳人間の」の対比としてとりあげられて終章。

 この本は過激な社会改革から現状肯定の思想へ、そして頭からっぽ、身体重視の流れとして近代右翼思想をとらえたかったようである。

 しかし、これはあまりにもたんじゅんな通史ではないかと、そんな「頭脳と身体」というたんじゅんな図式で批判できるものかという思いは、この本の意図がわかってから、完全にとらえられるようになったね。本体が見えて、ずっこけるほどの単純的な批判にむしろ驚いた。

 近代右翼思想をまったく知らない身としては学べることもおおいのだが、この本の骨子、「頭からっぽ」だから危険な隘路におちこんだ近代というストーリーはまるでワイドショー的批判であり、このたんじゅんな理論で満足していいのかと思う本であった。


人生は自ら創る (PHP文庫)天子論及官吏論 安岡正篤新版 合本 三太郎の日記 (角川選書)現代史への試み 喪失の時代 - 唐木順三コレクションI (中公選書)ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)



04 01
2014

右傾化再考

ネット空間を「日陰者」と表象すること――『ネット右翼の逆襲』 古谷経衡

4862860702ネット右翼の逆襲--「嫌韓」思想と新保守論
古谷経衡
総和社 2013-04-25

by G-Tools


 「ネトウヨ」は底辺でも年収二百万でも非モテでもないと名誉回復をはかった本であるが、とちゅう、かなりどうでもいい心境になったw 当事者ではないとそういう名誉回復なんて興味ないw 

 雑誌・時事レベルの題材がおおすぎて、もうすこし時間をこえた本の題材レベルにたっしてないというのもあったかな。

 ただ、ネトウヨが底辺とイメージされる現象というのは、ほかのネット空間の動きにもすべてあてはまるのであって、実社会で底辺でいたり、鬱屈を抱えた人が欲求不満をぶちまける場所であり、いずれそこを卒業する場所と表象されていることは、マスメディアやリアル社会が抑えておきたい新興の権力層がたどる共通の運命かもしれないね。

 ネット空間は底辺であるという表象を、ネトウヨにかぎらず、マスメディアやリアル社会はもちたがっているのではないかという知識社会学的な知見としては傾聴にあたいするかもね。「人はどう考えているか」ではなくて、「人々がそう考えるのはなぜか」と考えるのが、知識社会学。

 ネットでは社畜批判や企業批判もひとつの大きな勢力をなしているのだが、公的なマスメディアがそれらをあまりとりあげない、もしくは個人の声がマスメディアにぜんぜん届いていなかったというあり方は、ネトウヨもマスメディアでとりあげられない話題をネットに求めたという点で共通しているかもしれない。

 つまりマスメディアに欠落していることを、ネットに求めている。

 ある人たちがマスメディアで欠落を感じているものをネット空間に求める、そしてそういう人たちを「底辺」や「日陰者」、「非モテ」と表象する。

 ネトウヨに「現実逃避」や「底辺」の連中というレッテルを貼りつけたということは、マスメディアやいっぱんの人たちがネット空間に抱こうとしているイメージもしくは願望と捉えることもできるかもしれない。

 つまりネット空間は「底辺」で「日陰者」の鬱屈と鬱憤を晴らす場所にすぎなく、「下層」の場所であるという認識を、ある人たちやマスメディアはもちたがっているのではないか。「ネトウヨ」の底辺というイメージはその無意識的願望が合流したものではないかと考えることができる。

 マスメディアでこれまで欠落してきたものと、ネットでおぎなおうとする声と勢力が拮抗しており、ネトウヨは底辺で日陰者という表象は、マスメディアやいっぱんの人たちが新興の勢力を抑えておきたいがために表象する慰安物ではないのかと考えることもできる。

 この本ではネトウヨが「オタク」や「底辺」と表象されていった契機を段階的にあげているが、「麻生人気と秋葉」の契機があり、『電車男』でネット空間は逃避と卒業する対象とされたこと、などがいわれている。秋葉のオタク表象と麻生人気の愛国表象がネトウヨに結びついていった過程。オタクの粉末がネトウヨにふりかけられているのである。

 ネトウヨはオタクや底辺のしいたげられた、めぐまれない人たちが欲求不満やルサンチマンを抱えた先に飛び込む国家主義の自尊心という表象は、「物語」としては「あってほしい」「納得されそう」な論理をもっているが、はたしてこういう表象で実相をとらえられるのか。

 部外者が安心しているあいだに大きな無視しがたい勢力となって、といった手遅れ感をもたらす「うかつ」で「メルヘン」な暗幕になってしまうかもしれない。

 「ネトウヨ」というのはマスメディアとネットメディアの対抗というふたつの勢力のせめぎあいが生み出した表象であるという側面を注意するほうが、これらの周辺にひそんでいる実相をとらえるために必要なのかもね。

 底辺で日陰者という蔑視で人々が笑ってなぐさめているあいだに、違うところで右傾化というものはもくもくと育ってゆくのかもね。この表象はマスメディアとネットの抗争だけを捉えているのかもね。



ヘイトスピーチとネット右翼なぜ、いまヘイト・スピーチなのか ―差別、暴力、脅迫、迫害―ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)「在日特権」の虚構 : ネット空間が生み出したヘイト・スピーチネットvsマスコミ!大戦争の真実―不祥事続きのマスコミへno!ネットの逆襲 (OAK MOOK 142 撃論ムック)


google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top