FC2ブログ

HOME   >>  書評 社会学
07 06
2019

書評 社会学

中公新書から出るとは――『悪意の心理学』 岡本 真一郎



 中公新書からこういう本が出るようになったのかの初見。

 だれでも人の悪口に悩まされると思うが、あるいは悪口とどうつきあえばいいのかとまどっているかもしれないが、本でその知見を深める機会はそうなかったのではないだろうか。悪口の本もぽつぽつと見かけるようになったが、自己啓発書のひとつのトピックくらいにしかあつかわれてこなかった問題ではなかったのか。

 この本はどちらかというと、社会心理学的な知見をならべたような雑感をもったので、具体的にはどうすればいいか、どう捉えればいいかといったハウトウや対処法にはすぐれていなかったと思う。人間の認知や偏見の知見をひろめられるくらいの本に思えた。

 副題にあるように差別的言動のヘイトスピーチという問題が出てきて、悪意や悪口の心理学はひとつの書籍としてまとめられる問題として浮上してきた感がある。

 人は悪口ばかりいう人間にはなりたくないと思ったりするのではないだろうか。でも具体的に嫌いな人や理解できない人に出会うと猛烈に批判的意識がもたげてきて、正義の正当化のもとに制裁欲が、悪口の訓戒をこえてゆく。悪口は当人にとっては、正義なのである。イジメも本人たちは正義だと思っているから、いつまでも終わることはないのだろう。

 「他者のよくない状況に思いが至らない」や「他者の不幸な立場に思いがいかない」といったトピックが本書にあるが、われわれは自分の狭い認知の枠の中に閉じこめられている。さらにそのうえに自分の立場や自尊心を守るといった防衛機能もはたらいて、他者の憎悪や制裁は燃えさかる。

 私がよく見てきたのは、状況や構造のせいにしないで、本人の性格や意志の問題に帰す責め方が多いと感じられてきた。非正規の問題でも、女性差別の問題でも、性格や個人に責任が帰せられて制度や慣習の責任にされない。私たちはそれに支配されているのに、それへの責任にされない。制度や状況の犠牲者やあやつられる者であっても、あたかも当人の意志や決定の力の大きさをあげつられたりする。社会学や経済学を学ぶ意義がここにあるというものである。

 悪意や悪口というのは、根源的に考えられる必要があるのではないかと、この本を読んで感じた。悪意というのは、自分の身を守る防衛機能でもあったりする。つつかないと、自分を守れない。こういう狭い枠から出るためには、鳥瞰的な目が必要なのである。


人はなぜ悪口を言うのか?悪口を言う人は、なぜ、悪口を言うのか (WAC BUNKO 216)〈悪口〉という文化偏見や差別はなぜ起こる?: 心理メカニズムの解明と現象の分析言語の社会心理学 - 伝えたいことは伝わるのか (中公新書)



07 02
2019

書評 社会学

暗黙のマナーを読み解け!――『儀礼としての相互行為』 アーヴィング・ゴッフマン



 ゴッフマンはわかりそうで、わからないぎりぎりの世界を描いていて、今回もかなり難航した。遠い昔に『演技と行為』を読んで、大切な本として書棚に鎮座しているが、その本がひもとかれることは少ない。

 いちばんわかりやすい表現個所は、精神病院でのナースステーションに勝手に入っていい病棟の違いとか、医者と患者の関係など具体的な例が出てくるとわかるのだが、あとは抽象的な表現の砂漠にこばまれて、理解をとどこおらせる。

 これは具体的には新人やコミュ障があたらしい職場に入って、そこで学ぶ非言語的なルールやマナー、暗黙の決まりなどをなんとか表現しようとした社会学の研究のように思える。新人は職場のそのような言葉にできないルールを知らない。経験や時間がたつうちにじょじょにそのルールになじんでゆき、その場にふさわしいふるまいを身につけてゆく。ゴッフマンはその過程の一段階にふみとどまり、そこでの自覚を言語化しようとした人のように思える。

 職場やあたらしい場にふさわしいマナーやルール、ふるまいをなんとか表現しようとしたみたいだ。たとえば、コミュ障や内向的な人間が職場や新しい環境でどうなじむかという自己啓発的な本はいつも出されているだろう。ゴッフマンはその世界を学術的な表現で昇華しようとした人に見える。そして具体例が少なく、抽象的な言葉で表現しようとしたため、迷宮のような表現になっている。

 人がたくさんいるところで、ひとり言をつぶやいたり、なにかの喚き声や奇矯な声をあげれば、精神的ななんらかの疾患があるのではないかと思われる。これはふるまいや表現のルールやコードに抵触し、健常な人ではないという線引きを逸脱してしまう行為だ。精神病といわれる人のふるまいは、このコードをことごとく破ってしまう行為をおこなってしまうので、かれらは正常人の線引きから追放されてしまう。

 この精神病のラインだけではなく、日常の人の場にはこのようなふるまいのさまざまなルールやコードがある。あたらしい場や職場においては、新参者はその中での適切なふるまいや言動を知らない。非言語的な知見を重ねて、その場にふさわしいふるまいを身につけなければならない。ゴッフマンはその言語化されないマナーやコードを、意識的に記述しようとしたのだろう。

 ところがたいへん残念なことに抽象的な表現がおおく、具体的につかみがたい言語表現がつみかさねられるために、なにをいっているのか、了解をこばむ。これはまだしも内向的な人間や神経質な人間がどう自分を活かすかという自己啓発書を読んだほうが、参考になりそうである。このような社会不安障害的なものをもっていないと、かなり理解できにくい次元をゴッフマンは記述している。ゴッフマンはいまでいうアスペ的なディスコミュニケーションに悩んだ人だったのかもしれないね。

 アスペやコミュ障に悩む人にはなじみのある世界と思われるが、表現の迷宮さは容易に近づけさせてくれない本である。


行為と演技―日常生活における自己呈示 (ゴッフマンの社会学 1)スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ集まりの構造―新しい日常行動論を求めて (ゴッフマンの社会学 4)出会い―相互行為の社会学 (ゴッフマンの社会学 2)触発するゴフマン―やりとりの秩序の社会学


05 04
2019

書評 社会学

学校に行かなければ勉強できない?――『脱学校の社会』 イヴァン・イリッチ

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)
イヴァン・イリッチ
東京創元社



 まったくもってこの本を読んでみないことには学校がもたらすものについての重要な批判が欠落してしまうことになってしまう名著である。この本を読むことによって学校や学習の見方がまずまちがいなく変わる。再読である。

 人はよく大人になってなにかを勉強するために学校に入りなおしたいとかいったりするのだが、学習は自分でやったほうがよほど身につくし、自分の骨肉になる。だけど、人は学校にいかなければ勉強できない、知識は身につかないと思っている。それこそイリイチが指摘する学校化社会の結果であって、イリイチは自主独立のほうがもっとも学習になると説くのである。むしろ学校は学習を疎外すると。

 イリイチはこれは学校だけの問題ではなく、ほかの制度もおなじであって、専門家がサービスを制度化すればするほど、個人が自主独立でおこなう技能や知識が奪われてゆき、制度に頼り切ることになると批判する。それはつまり、完成品ができるまで待っている消費者に育て上げられることであり、この世を生産者と消費者に二分する生活方式を身につけさせる訓練になるというのである。

 学校は強力な思い込みをつくるのである。自分でつくりだす学習や知識はあやしげで頼りにならないもので、学校で教師から教わったものしか価値がなく、世間的に認められないものだという強固な信念をつくってしまう。これを「ハコモノ信仰」といってもよいと思うが、卒業証書のほうが重要であって、なにを自分の血肉にしてきたかの内実がいっこうに問われないことが世間に蔓延していることでわかるだろう。

 イリイチはこういったのだが、私には過去の勉強の疎遠感がたちまちに思い出された。

「偉大な古典でさえも、個人の人生に新たな転機を引き起こすものとならないで、「大学二年生」が使用するテキストの一部になるのである。学校は、それらに教育上の道具というレッテルをはることによって、事物を日常生活から取り去ってしまう」



 学校で習った知識は点数をとるための「記号」や「道具」になってしまい、日常生活や人生の糧、自分のこととは思われなくなってしまう。学校の知識は「他人事」であり、「自分の身の上」のことではない。学校でさんざん味わった感覚なのだが、お勉強というのは私の人生の身の上の出来事ではなく、どこか遠くで起っている記号や疎遠な出来事としか思われなくなってしまうのである。

 私は自分の生活や日常の疑問や謎から哲学や社会学を読むようになったのだが、ぜんぶ独学なのだが、そうするとそれは自分の困りごとや悩みごとの延長となり、自分の身の上にふりかかる問題として感じられた。これは学校で習った知識では、ひとつも感じられなかった感覚である。イリイチは私が感じてきた感覚をみごとに言語化していたのである。

 学校でさんざん勉強してきたのにひとつも身についてないな、なにも意見も洞察もおこなえないじゃないかという人は、教師に教えられることの立派な「消費者」となったのであり、完成品をもらうまで「無知な生徒」の役割をひきうけ、「みずから進んで学習しないお客さん」に染め上げられたのである。そうして知識にいちばん必要な自ら探り出す、考えるというアクティブな行動を抹殺されて、学習や知識は完成品ができるまで口を開けて待っているだけという立派な消費者、お客さんが完成するのである。知識や学習から立派に疎外されたお客さんの完成である。しかもそれが知識という思い込みは、TVのクイズ番組などでますます信憑性がつみ重ねられるのである。

 イリイチは自主独立でおこなう能力が奪われてゆくことをいちばん懸念したのであって、それが専門家による制度化によりますます増強され、その制度は生産者と無力な消費者に二分される生活行動の基礎学習になっていると警鐘するのである。お客さんとして生きることの強力な危機感をイリイチはもっていたのである。学校はそのひとつの顕著なモデルケースにほかならない。

 またイリイチは学校は、少年や若者という無権利で守られない「子ども」という区分をつくり、憲法や慣例上の制限をうけない権力を教師にゆずりわたすのだという批判をおこなっている。この人権侵害ぶりは教会や牧師のはんちゅうを超えて、はるかに心身のうえに暴力をふるう度合いは強くなり、いつまでも解決しないイジメ問題は、この学校の無制限な権力自体を模倣したもの以外に思えなくなる。この問題の深刻さは学校自体がかかえもつ権力の無際限さに端を発しているといえる。

「一たび独学ではだめだということになると、すべての専門家でない人の活動が大丈夫かと疑われるようになる。学校においてわれわれは、価値のある学習は学校に出席した結果得られるものであり、学習の価値は教えられる量が増えるにつれて増加し、その価値は成績や証明書によって測定され、文書化され得ると教えられる。
実際には学習は他人による操作が最も必要のない活動である。学習のほとんどは必ずしも教授された結果として生じるものではない。それはむしろ他人から妨げられずに多くの意味をもった状況に参加した結果得られるものである」



 医師でも講演者であっても、あやしいいかがしい人や活動がおこるたびに、免許や免状の必要性が叫ばれる。それは私たちの判断能力をだれか権威ある人に棚上げすることであり、ますます自分自身の判断能力を失うことである。そうやって、あやしいグレーゾーンがわきあがるごとに、自分の能力を制度にゆずりわたして、ますます自分の知識は無自覚に奪われてゆくのである。免許をもった専門家は、疎外された学習をへて、ほんとうに自分の血肉とした人に担われているのだろうか。

 イリイチのこの本を読むと、生徒として学校で学習してきたわれわれが、いかに知識や学習から疎外されてきたか、走馬灯のように垣間見える。世間の思い込みも、まさに学校化のカタマリである。学校にいかなければ勉強も知識も身につかないと思っており、どこの大学を出たかで信用や保証が測られる。その内容、内実を問われることはほぼない。この学歴社会は社会に出るとその知識や学問をほぼ問われることがなく、なんだと思っていたが、学習から疎外された人たちが学校から大量に生み出されていたわけだ。

 イリイチの自発性や自主独力の危機感というのは、モチベーション論のエドワード・デシの問題とも重なっており、またそれはエドワード・ピンクが指摘したような工業社会と創造社会の違いでもあるのだろう。工業社会は他人が見いだした答えや技能手順を記憶する、習熟することが重要だったのであり、創造社会においては自発性がより多く重要になる。われわれは自発性が切り開くことがもっとも重要になる社会状況の過渡期にいるのである。

 なおこの東京創元社の社会科学叢書は、フロムやハイエクの本も出ており、イリイチも合わせて社会の根本的なことに気づかせてくれる名著がめじろ押しである。この出版社の本はほかの出版社から出ることが少なく、各社から出て多くの人の目にふれることが世の中にはもっとためになると思うのだが。


ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)再生産 〔教育・社会・文化〕 (ブルデュー・ライブラリー)冷血の教育学―だれが子供の魂を殺したか人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

03 13
2019

書評 社会学

世論や常識の自動人形――『自由からの逃走』 エーリッヒ・フロム

自由からの逃走 新版
自由からの逃走 新版
posted with amazlet at 19.03.12
エーリッヒ・フロム
東京創元社



 はじめて読んでからたぶん三十年ほどたって、読みかえした。当時は文学しか読めなくて、この本を読んだことによって学術書がこんなにおもしろいのかと思った。それから手あたりしだいに社会学や現代思想の名著といわれる本を読んでいった。この本に出会わなかったら、これまでのようにたくさん人文書を読むことはなかった本である。

 しかし今回、三十年ぶりに読みかえして驚くことに、フロムのいうことのどこに根拠があるのか、それはなぜいえるのか、ほかはいえないのかという疑念のほうが先に立って、すなおに受けとれなくなっていた。思考や考察を自由に柔軟に発想する方法に、懐疑的に私はなっていた。

 さいきんSNSの発達によって、専門家が一般人に頭オカシイと叩かれる例が増えた。フロイトの説をただいっただけの女性精神科医がボロクソに叩かれるし、フェミニスト系の社会学者がちゃんと訓練をうけた資格があるのかと、一般人に問われることが増えた。

 一般の人は学校の科学主義にまったくとりこまれているし、新聞しか読まないと「事実」しか語ってはならないと思い込んでいる。哲学書や精神分析のような思考や発想を頼りに自由に思索をくりひろげる学問に慣れておらず、それをただ妄想や自分に都合の良いつくり話だとしか思わないようだ。実証主義ではない思考の自由な発想はご法度な風土の人が、一般にはあまりにも多い。

 そういう批判を受けて、私のほうでもかれらの懐疑の目が育っていたというわけだ。竹内久美子という社会生物学に近しいジャンルを語る「エッセイスト」がいたが、事実に基づかず、自由な発想や洞察をするものは、「妄想」の垂れ流しといわれる。フロムの思想には、そういわれかねない危うさを感じた。

 でも人間や社会を語るには、実験室にそれだけを放り込んで、何度やっても同じ結果が出るような実験をおこなうことはできない。人間や社会にかんする大部分のことは、もう洞察や考察、経験を重ねて、それがいちばん事実に近いという論証をつみかさねてゆくしかない世界である。実験室で再現性をたしかめられることだけ語ってよいといわれるなら、もうなにも語れなくなる。一般人は、専門家に任せるしかないあまりにも危うい科学教の世界にいる。

 この本は、近代人の「孤独」と「無力」を主題に語られるわけだが、やはりいちばん染みるのは、世論や画一にしたがってゆき、自我を身売りしてしまった現代人への洞察である。王や貴族などの外的な権力からは解放されたが、世論やみんなといった内面の権力にますます絡みとられ、自動人形のように、自我を売り払ってしまっている。私たちはこの見えにくい内面化された権力のかたちに、自覚的であるのだろうか。

「しかしわれわれは世論とか「常識」など、匿名の権威というものの役割を見落としている。われわれは他人の期待に一致するように、深い注意を払っており、その期待にはずれることを非常に恐れているので、世論や常識の力はきわめて強力となるのである。いいかえれば、われわれは外にある力からますます自由になることに有頂天になり、内にある束縛や恐怖の事実に目をふさいでいる。しかもこの内的束縛や強制や恐怖は、自由がその伝統的な敵にたいして勝ちとった勝利の意味を、くつがえすものである」



 自分の常識や考えといったものが、社会や権力に乗っとられている。この自覚をもてる人はどれくらいいるのだろう。流行や常識、マスコミの意見といったものに、自分の意見や考えがすっかり乗っとられているのに、自分で考え、自分で思っているととらえている。まわりの人がはげしく、「みんなと同じでなければおかしい」、「みんなと違うことをいうあなたは異常だ」という強制力の中で、自分独自の発想や着眼が封じ込められようと、その圧倒的なまわりの力になぎ倒される。こういった世間や常識の力というものに、人はどれだけ疑問をもてているのだろうか。

「個人が自分自身であることをやめるのである。すなわち、かれは文化的な鋳型によってあたえられるパースナリティを、完全に受けいれる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような、また他のひとびとがかれに期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界その矛盾は消失し、それと同時に、孤独や無力を恐れる意識も消える。このメカニズムは、ある種の動物にみられる保護色と比較することができる。

個人的な自己をすてて自動人形となり、周囲の何百万というほかの自動人形と同一になった人間は、もはや孤独や不安を感ずる必要はない。しかし、かれの払う代価は高価である。すなわち自己の喪失である。

われわれの大部分は、自分の思うままに自由に考え、感じ、行為する個人であるとみなされている」



 フロムの危機感はこの自我が乗っとられたのに、自分自身で考え、独自に行為していると思う自動人形のような現代人の特徴のことをいっていたのである。私たちはどんどん社会や常識の鋳型にはめられ、鋳型のように考え、行動している。それなのに自分自身はまったく自分で考え、自分独自の気持ちをもっていると思っている。私たちは、世論や常識が押しつける、またはまわりの人が押しつける自分たちと同じにならないとおかしい、自分たちと違うことを考えるのは異常だという声に、毅然と立ち向かってゆくことができているだろうか。

「他方、子どもは早い時期に、まったく「自分のもの」でない感情をもつように教えられる。とくに他人を好むこと、無批判的に親しそうにすること、またはほほえむことを教えられる。教育がときに果たさなかったことは、普通あとになって社会的圧力によっておこなわれる。もしあなたが微笑していないならば、「感じのよいパースナリティ」をもっていないと判断される――しかも女給であれ、外交員であれ、医者であれ、自分のつとめを売ろうと望むならば、感じのよいパースナリティをもつ必要がある。ただ社会的ピラミッドの底辺にあって、自分の肉体労働しか売るもののない人間と、ピラミッドの頂上にいある人間だけが、とくに感じよくする必要がない」



 フロムはもっとも初期に抑圧される感情のひとつは敵意や嫌悪に関係するものであるといっている。そうやってみんなと同じ画一や均一化したパーソナリティをどんどん自分の中にとりこんでゆき、「いつわりの自己」ができあがる。この「いつわりの自己」はユングやケン・ウィルバーもいっていたものであり、モチベーション論のエドワード・デシもいっていたし、イリイチの教育論でもいわれていて、私は後から後からこの特徴をばらばらな方面から見いだすことになった。自発性がつぶされてゆく過程にいつも顔を出す「いつわりの自己」。

 ただこの画一に呑みこまれまいとする努力は、反権力や反同一化と結晶しても、ブランド消費や個性消費といった悲しい資本主義に呑みこまれるメカニズムもある。ブランド消費がカッコ悪くなったのは、この消費の戦略に呑みこまれているだけだという自覚にある。この過程はヒース&ポターの『反逆の神話』にくわしい。

 「いつわりの自己」をとりはずそうと試みたひとつの流れが、神秘思想家のグルジェフであって、この流れは「こちら側」「体制側」の人間にとっては、越えてはならない一線と思われることが多い。精神世界やスピリュチアルとくくられる「あちら側」である。グルジェフは、人間は条件づけられた機械となっており、それを断ち切るメソッドをつくろうとした。禅や仏教も、思考を断ち切るわけで、社会慣習をとりはずす試みのフロンティアであって、だからカウンターカルチャーとしてアメリカで流行した。認知療法のような思考の書き替えも、その内面化された仮面の自己を書き替える試みの範疇ということもできるのだが、認知療法に反体制の意図や試みは薄いと思われるが。

 私たちは自分自身であることをやめて、外部の世論や常識といったものに乗っとられた「いつわりの自己」をどんどんつちかってゆく。そしてそんな状態にあっても、自分自身がたしかにあると思い、露とは疑わない状態にある。「自由からの逃走」といった言葉は、私たちにはしっかりと伝わり、骨身に染みて恐れられている状態ではないのだ。まさか自分自身から逃走しているなどど、どこのだれの話かと思っている。現代の権力の見えにくさは、想像を絶するほど見えなく浸透しているものなのだ。

 マスコミとかニュースを見ている程度では、フロムの指摘したような自動人形の脅威といったものはなかなか自覚できないものである。本を読まなくなった文化は、フロムの危惧や警鐘もつたわらなくなってしまった時代でもある。


よりよく生きるということ反抗と自由希望の革命 改訂版破壊―人間性の解剖禅と精神分析 (現代社会科学叢書)


03 06
2019

書評 社会学

異端者、天才の自由――『自由論』 J.S. ミル

自由論 (岩波文庫)
自由論
(岩波文庫)
posted with amazlet at 19.03.06
J.S. ミル
岩波書店






 オルテガの『大衆の反逆』とおなじくらい感激した書物を、はじめて読んでから二、三十年後に読みかえした。

 「みんながしているから、おまえもしなければならない」という圧力にたいへん憤りを感じていた二十代の私は、このジョン・スチュワート・ミルの1859年の著作におおいに感銘をうけた。1859年といえば、日本ではまだ幕末であるが、工業化や都市化が進んだイギリスでは、現代に起こっているような画一化や慣習の強制力は、こんにちとなんら変わっていないことを思わせるものだった。

 『自由論』といえば、王や貴族からの封建的な権力からの解放といった図柄を思いうかべるかもしれないが、この書は一般的市民が感じるような慣習や画一化の強制力からの解放を語っているのであって、現代を生きるわれわれにもびしびしと心に刺さってくるものが語られている。

 これは私はまったく「オタクの自由」を語っているように思えたのだが、趣味やとくしゅな興味にのめりこむ異才的な才能をもつ人や、天才が育つための多様的な生き方の自由が語れているのであって、凡人や平均な暮らしに満足できない生き方を望む者にはたいそうな背中を押してくれる書物になっている。いつの世もある異端者や少数者のための書である。

 とくに日本では就職であるとか、学校であるとか、結婚、出産であるとかの生き方の基準や型にかんして、画一化や同一化をのぞむまわりの声や世間の考え方というものは、圧倒的である。生き方の型、生き方のスタイルが、日本ではどうして多様や個別な生き方が頑強に排除されて、だれしもが同じ生き方、基準を生きなければならないとされるのだろうか。だれしも同じ生き方をしなければならないという世間の圧倒的な声に憤りを感じたときには、ぜひ思い出してほしい書物である。

 読み返してみて、ずいぶん古い訳で、文章がまずは左にいって、つぎに右に曲がるような錯綜したまわりくどい書物なので、ずいぶん意味を読みとりにくいものであることを思い出したが、新しい訳もほかの出版社から出ているので、岩波文庫の古い訳はあまりおすすめできない。

 第三章の「幸福の諸要素の一つとしての個性について」の章が圧倒的におもしろくて、びしびし心につき刺さってくるのだが、ほかの章はこの章の引き立て役や脇役にしか思えない。二章では、反対意見が真理に到達する議論のためにどんなに大切かを説かれる重要なことも語っているのだが、やはりこの書の生命は、第三章である。

「何事かをなすにあたって、慣習であるが故にこれをなすという人は、何らの選択も行わない。このような人は、最も善きものを識別することにかけても、またそれを欲求することにかけても、全く訓練を得ることができない。

自分の生活の計画を(自ら選ばず)、世間または自分の属する世間の一部に選んでもらう者は、猿のような模倣の能力以外にはいかなる能力をも必要としない」



 私たちはほかの人がそうしているからとか、みんながそうしているからと、たいして考えもせず、その生き方や型をだれかや自分に押しつけてしまう。はたして私たちはそれをする理由や正当性を考えたことがあるだろうか。形骸化した固まってしまった慣習や過去からの生き方を押しつけることは、われわれの思考力や懐疑心をちっとも働かせることはないのである。猿とよばれても仕方がない。

「天才は、自由の雰囲気の中においてのみ、自由に呼吸することができる。天才ある人々は、天才であるが故に、他のいかなる人々よりも更に個性的である。――したがって、社会がその成員たちのために、各自独自の性格を形成するの労を省いてやろうとして提供する少数の鋳型に、天才ある人々が自分を適合させようとすれば、ほかの人々以上に、有害な抑圧をこうむらずにはいないのである。

もし彼らが強い性格の人物であって、その羈絆を打ち破るという場合には、彼らは、彼らを平凡化しえなかった社会の注意人物となり、「狂暴」とか「奇矯」とか、その他のいろいろな厳重な警告をもって指摘されるのである」



 慣習や画一化は、天才や才能が育ってゆく環境を殺してゆくことになるのである。この危機ゆえに、生き方の多様性や自由は、慣習や画一の型にあてはめられないことが、たいへんに重要になってくる。型にはめる社会は、天才を殺す社会である。天才は変人や狂人と紙一重といわれるが、このような人たちを抑圧することは、天才が育ってくる環境までも殺してしまうことになる。

 日本ではほんとうにまわりと違わないこと、まわりと同じことをすること、ほかと違うことを恥ずかしいと思う圧力というのは、強力で強大である。このような社会で、天才やのちの世を開いてゆくような特殊な人物はどうやって生まれ出るというのだろうか。社会がみずからの進歩や発展を殺しにかかってきているようなものである。はたして日本は先進国のキャッチアップ以外、なにものも生み出せない国としていま没落しようとしている。

「普通一般の人々は知性において平凡であるだけではなく、性向においても平凡である。彼らは、何事か異常な行為に傾いてゆくほど強い嗜好や欲求をもっていない。したがって彼らは、かような嗜好や欲求をもっている人々を理解しないし、かような人々のすべてを、彼らの平素軽蔑している粗野で放埓な人々と同類と見なしてしまうのである」



 辛辣な批判である。ふつうの人が異常な興味をもつことは、性的なものしかない。だから天才がもつような異常な興味は、かれらには性欲や性的なものしか想像できない。性的な異常視を、天才の異常な興味に重ねて、批判や異常視するのが、ふつうの人のサガである。少数者や異端者といった人たちはたえずこういう非難や攻撃にさらされるのではないだろうか。お里が知れるというやつだ。

 ミルは画一化が成功した国は中国であるといって、そのゆえに停滞した国の運命を嘆く。だが、当時の時代にあっても、フランスやイギリスにおいてどこまでも画一化や同じ型の強制がすすんでいるといって、ヨーロッパの行く末に憂慮をしめしている。社会の進歩や文明の発展には、型にはまらない多様な生き方がゆるされる土壌が必要なのである。

 はたして日本はどうだろうか。天才や才能がたっぷりと育ってゆくような多様で自由な成育環境は守られているだろうか。学校で、地域で、職場で、私たちは自分の自由や多様性を認められているといえるだろうか。社会はいつも異常や病気といったカテゴリーを用いたり、あの人は犯罪者の型や似ているといって、類型や画一にふさわしくない人を非難して、排除してきたのではないのか。ひと昔前にいたような個性あふれる、地域で迷惑と思われる人たちは、いまの町中で自由に徘徊しているだろうか。自由で多様な土壌はますます窒息していっているのではないだろうか。

 ミルの『自由論』はいつの世にも文明の発展や進歩を測るバロメーターになるのではないかと思う。


自由論【新装版】自由論の系譜―政治哲学における自由の観念孤独な群衆 上 (始まりの本)ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)天才を生んだ孤独な少年期 ―― ダ・ヴィンチからジョブズまで


02 19
2019

書評 社会学

凡庸さを押しつける人の群れ――『大衆の反逆』 オルテガ

大衆の反逆 (イデー選書)
オルテガ
白水社



 二十代のときにおおいに感銘したこの本を二、三十年ぶりに読み返すことにした。NHKの『100分de名著』でもとりあげられているし、私も五十代になり、年をとってあらためて若いころに読んだ本をもう一度読み返す機会でも設けるべきだと思っていたからだ。しばらく読み返し月間にしたいと思います。

 私が二十代のときは、みんながやるからお前もやれとか、慣習とか、世間から押しつけられるものにおおいに腹を立てていた。マスコミであったり、流行であったり、生き方であったり。哲学書とか社会学に出会わなければ、そのような憤りに説明や理由を見いだすことはできなかっただろう。私は活字本が読めるようになったのは遅かったが、それから哲学・思想書といったたぐいを貪るように読むようになった。その記念碑的な本がこの本だ。

「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗でありながら,敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆるところで押し通そうとするところにある。大衆はあらゆる非凡なもの、卓越したもの、個性的なもの、特別な才能を持ったもの、選ばれたものを巻きこんでいる。すべての人と同じでない者、すべての人と同じように考えないものは、締めだされる危険にさらされているのだ」



「つまり凡庸な人間が、自分はすぐれていて凡庸ではないと信じているのではなく、凡庸な人間が凡庸さの権利、もしくは権利としての凡庸さを宣言し、それを強引に押しつけているのである」



 あらゆる押しつけられるもの、みんながやっているから正しいこと、流行やマスコミの強制力といったものに腹を立てていた私にとってこの指摘はおおいに留飲を下げたものだった。

 ただし本書は危険なところがあって、自分も批判されているような大衆ではないと言い切れるのかという猜疑はつきまとうし、変に自分をすぐれた側におき、大衆でないと否定するのなら、根拠のない高慢さや侮蔑を生み出すだけである。それこそオルテガのいった大衆であり、賢者はたえず愚者になる恐れや自分への疑いをもっている。

 大衆というのは、真理や意見の慎重さや検証の手続きをもたず、ただ自分の意見が正しいと一方的に押しつけるもののことをいう。

「ヨーロッパにおいて初めて、相手に道理を説くことも自分が道理を持つことも望まず、ただ自分の意見を押しつけようと身構えているタイプの人間があらわれたのだ。

…道理をもたない権利、無法の道理である。私はそこに、能力のないままに社会を指導しようと決心してしまった大衆が見せる新しいあり方の、最も明らかな表明を見るのである。

…しかし大衆人は、もし討論を受けいれれば自分の負けを感じることになるので、本能的に自分の外にある最高審判を敬う義務を放棄している。

…彼らはあらゆる正常な手続きを省略し、直接的に自分の望むことを強制するのだ」




「この自己満足の結果として、彼は外部からのいっさいの働きかけに対して自己を閉ざし、他人の言葉に耳を傾けず、自分の意見を疑ってみることもなく、他人の存在を考慮しなくなる。

…だから彼は、この世には彼と彼の同類しかいないかのように振る舞うことになる。彼はあらゆることに介入し、なんらの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに、つまり「直接行動」の方式に従って、自分の低俗な意見を押しつけることになる」



 われわれは生まれたときから社会のあらゆる強制や決まりを押しつけられる。決まった型の人間、生き方をするように、あらゆるところから口うるさく指示され、命令され、忠告される。年齢にしたがった生き方であるとか、人生の型はある程度は社会の慣習や安全弁のようなものがあるかもしれないが(私はこれにもすさまじく腹を立てていたのだが)、クリスマスや流行、嗜好の強制にまでなると、さすがに弁護の余地はなくなる。

 私たちがいくらでも出会う決まった型や生き方の強制と、大衆は違うのだろうか。そういう旧来の生き方は、大衆の押しつけとは違った正当性のあるものなのだろうか。私たちはいたるところに自由な生を認めない大衆に出会い、大衆にこづき回され、私のまわりは大衆と呼ばれる人ばかりの集まりだったのだろうか。

 オルテガはこのような凡庸な大衆が生まれるようになったのは、文明の恩恵や継承を生まれたときから享受できたがゆえに、その感謝もありがたみも感じないから、つまり「満足しきったお坊ちゃん」ゆえに、その万能的な放漫さをもつにいたるになったのだといっている。

 イリイチが文明における「個人の無能力化」と呼んだものを同じようなもので、文明の技術や知識はどんどん向上していっても、その発明や創造をまったく知らずに魔法のように感じる無知な個人が増え、つまり文明の中の原始人があらわれているといったことと同じだ。専門化の弊害だ。文明の利器の責任も義務も感じず、ただ享受するだけの人間である。そこから無責任で放漫な万能感が生まれるという。

 だからオルテガは、大衆と究極にあるすぐれた人をつぎのようにいう。

「すぐれた人間は、自分の生を何か超越的なものに奉仕させないと生きた気がしないのだ。

…たまたま奉仕する対象が欠けると不安を感じ、自分を押さえつける、より困難で、より求めることの多い新しい規範を発明する。これが規律からなる生、つまり高貴な生である。高貴さの本質を示すものは、自己に課す多くの要求や義務であって、権利ではない。まさに、貴族には責任がある(ノブリス・オブリージュ)のだ」



 オルテガは少数の創造者・発明者のようなすぐれた人間が社会を率いるべきで、大衆がひきいるような民主制を否定するのだろう。ただ科学者も専門に閉じこもっているがゆえに大衆のひとりにほかならないといっているので、オルテガのいう精神の貴族に値する人はそう多くないのだろう。

 自己を律することのできる気高い精神の貴族。ギリシャやローマのあったような哲人王のような政治体制を望んでいるのだろうか。

 ただたとえば経済的にすぐれるような経営者がもし社会を支配するとするなら、民衆や国民はただその支配者に盲従し、服従するしかないのだろうか。支配者が搾取や恐怖政治、貧困をもたらさないとだれがいえるだろう。民衆や大衆はなんの権利も主張もおこなえない政治体制がよいといえるのか。オルテガはむかしの民衆はただ従うのみで、自分で思想や意見ができるとは思ってもみなかったといっている。

 オルテガのいった大衆は、民衆の画一化の恐れといったものを通してヨーロッパに広がり、トクヴィルやJ.S.ミル、ニーチェといった人にその警戒と考察をもたらした。それはエーリッヒ・フロムやデビッド・リースマンといった人たちの時代まで警戒を強くもたせた。

 こんにちでもこの1930年に書かれた書が、まるで現代のことを語っているように思えるのはなんら変わっていない。画一を押しつける人たちと、自分独自の生を生きたい人の葛藤や闘争がやむことはないのだろう。生は「私と同じ人間になれ」という強制とその葛藤と脱走の中で営まれる。


アメリカにおけるデモクラシーについて (中公クラシックス)自由論 (光文社古典新訳文庫)ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)自由からの逃走 新版孤独な群衆 上 (始まりの本)

01 25
2019

書評 社会学

ヘイトやレイシズム?――『広がるミサンドリー』 ナサンソン&ヤング

広がるミサンドリー: ポピュラーカルチャー、メディアにおける男性差別
ポール ナサンソン キャサリン・K. ヤング
彩流社



 ネット上で一部の社会学者やフェミニストが「頭がおかしい」といわれるほど、常識外れの発言をして叩かれることが多くなった。もう社会学者、フェミニスト全体が資質に問われるのではないかという風評にまで広がっている。性や男性批判にかんして、常軌を逸した心情がかもしだされているのではないか。なにか異常な憎悪感が煮えたぎっているのではないか。

 問題意識はそれほどはなかったのだが、図書館でこの450ページの大部の書をみつけて、もうすこし薄い新書あたりを読みたいと思ったが、ミサンドリー(男性憎悪、男性蔑視)と名づけられた本はこの本しかないから、読んでみることにした。

 90年代のポップカルチャーにあらわれるミサンドリーを研究した学術書だが、北米のポップカルチャー全般にくわしいわけでもないので、ついていけない議論が多かった。ストーリーを紹介してくれても、なぜか読みとりにくい。知っている映画でも、ストーリーが頭に入らない。せめて画像でも入れてくれれば、イメージはわいたかもしれない。

 文章も読みとりにくく、議論も頭に入りにくく、難解な部類ではないと思うが、議論の半分くらいしか読解できなかったかもしれない。まだミサンドリーの指摘には、距離をおいていることもあって、疑わしさも手伝ったかもしれない。

 世間は女性差別や地位の低さが糾弾される風潮があたりまえで、男性蔑視や男性憎悪が激しくなっているという目で見ることはなかなかできない。映画の『ドラゴン・タトゥーの女』はさすがにただの男性ヘイトだろ、ひどすぎるという感触をもったことはあるが、ミサンドリーの実感は私はもっていない。ただ、この本によってその指摘に警戒すること、視座をもちたいとは思った。

 この本では章ごとに男性ヘイトの激しい順にならべられているが、順番に笑われる男性、男性への見下し、無視される男性、責められる男性、男性の人間性の剥奪、男性の悪魔化と、段階づけられている。

 だんだんと知っている映画の分析も増えてきて、順番に軽いものから、ひどいものの章へとならべると次のようになる。『フライド・グリーン・ポテト』、『テルマ&ルイーズ』、『侍女の物語』、『ロング・ウォーク・ホーム』、『ミスター&ミセス・ブリッジ』、『幸せの向こう側』、『美女と野獣』、『羊たちの沈黙』、『愛がこわれるとき』、『死の接吻』、『ケープ・フィアー』とならぶ。こららの映画を、ミサンドリーという視座で見直すと、思い当たる節が出てくるかもしれない。

 私たちは女性が被害者であり、差別された弱者であるという目で見ているから、男性がバカにされていたり、悪魔化されていたとしても見過ごしてしまう。その事態がヘイトや男性レイシズムといった段階に進んでいたとしても、この登場人物はひどいやつだという個別化で流してしまうかもしれない。それほどまでにミサンドリーという視点は、私たちはもちえない。

 本書は2006年に出されて、日本で翻訳されたのは2016年だ。著者らはその後ミサンドリーの専門書を三冊ほど出して、邦訳はまだだ。ふたりは宗教学者なのだが、フェミニズムは宗教に近づいているということなのだろうか。ミサンドリーという警戒は、日本ではまだはじまってもおらず、女性の男性憎悪がひそかに煮えたぎっているのかもしれない。

 私もべつにミサンドリーに敏感だったわけでもないし、本書を読んでも読解力が足りないこともあって、強く警戒心を抱くにいたったわけではない。ミサンドリーの視座をもって、これから推移をみてみようという気持ちになった程度だ。

 一部のフェミニストたちがどうして異常ともいえる性嫌悪や性憎悪をもっているのかの疑問はもっているが、本書ではそのような解明はなかった。日本でもミサンドリーの研究や言及が増えていってほしいものだ。


男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性性表現規制の文化史マンガはなぜ規制されるのか - 「有害」をめぐる半世紀の攻防 (平凡社新書)エロマンガ表現史


12 23
2018

書評 社会学

超おすすめ――『反逆の神話』 ヒース+ポター

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか
ジョセフ・ヒース + アンドルー・ポター
エヌティティ出版 (2014-09-24)


 反権力や反権威、アナーキスト、左翼系の思想の人にはとくに、自己反省の意味で超おすすめします。

 私もカウンターカルチャーの時代に憧れて、いまの社会はどうしてこうおとなしくなり、反抗精神がなくなったのかと、ブラック企業の横暴にたいして思っていたから、反権力やアナーキーな思想にはとくに魅かれてきた。だけど、反逆や反抗がいっこうに効果をもたらすことはなく、しまいには反逆や反抗は「ファッション消費」でしかないのではないかと思うようになっていた。(「ケルアックはたんなる「ライフスタイル消費」なのか」)

 この本では見事にそのナゾを解いている。反大衆や反順応、反画一化がめざすものは、たえず差異化や優越化を志向して、けっきょくはそれは人と違う消費主義へと呑みこまれてゆくのだという逆説を、見事にあぶりだしている。反逆こそが、消費主義の原動力なのだ。

 「あんな従順で画一的なやつらにはなりたくない」という反抗心は、かれらと違う消費やライフスタイルをめざす原動力になる。大衆や画一から逃れよう逃れようとすれば、人とは違った消費スタイルを選ばざるをえなく、それこそ流行や流行り廃りをもたらす根底になるものだ。だから反抗がいっこうに世の中を変えず、ひたすら労働に呑みこまれる消費社会をつくってしまうのだ。

 ポール・ウィルスは似たようなことをいったのだが、学校社会への反抗がかれらを学歴落ちこぼれに追いこみ、だから労働者階級の固定化がおこってしまうのだといった。ポール・ウィルスは反逆に、下流化の固定をみたのだが、この本の著者のヒース+ポターは、差異化の消費主義の原動力をみた。私はこの著者の指摘のほうがよりしっくりくるのだが、カウンターカルチャーは下流化をもたらしたのか、それとも金持ち消費の上昇をもたらしたのか、どちらなのだろう?

 反逆は、抑圧の少ない異文化をもとめて、エキゾチシズムに希望をみいだす方向に流れがちで、観光や精神世界において東洋や禅が西洋に流入した理由もそこにあると著者はいう。ルソー以来の「自然の楽園」は外国にみいだされることになり、順応や画一にはなびかないオレたちはほかのやつらと違うといって、外国に優越をみいだす戦略がずっとくりひろげられることになる。医療においても代替医療や東洋医療がもとめられ、「わたしたちはやつらと違う」運動はたえずくりひろげられて、体制医療との軋轢をもたらす。

 ちょっとこの本は早口で論理が飛んだ文脈をまくしたてるのか、よくわからなくなるところもあるのだが、人間は優越や卓越をたえず競争する存在なのだと軸をしっかりとつかむべき本なのだろう。そのヒエラルキー競争こそが、終わりなき消費主義をもたらす。わたしたちはだれかの生き方やあり方を批判し、やつらのようになりたくはないといって、オルタナティブな消費をずっとくりかえすことになる。カウンターカルチャーはそうやってずっと消費の差異化の原動力になってきたのではないのか。

 あなたがなにをやろうが、自己の優越化の競争にとりこまれてしまい、消費運動のひとつの奔流として呑みこまれる宿命なのである。あんなやつらにはなりたくない、ダサい、カッコ悪い、下層だという批判が、消費や優越化の競争の発火装置になってしまうのである。あなたはなにをやっても、呑みこまれる。他人と違おうとすることが、消費社会の原動力にほかならないのだから。そうして流行や新しい技術の開発はつづいてゆく。人間たるわれわれの限界を見るようだ。

 大衆社会批判こそが、消費主義の原動力となってきたのである。下層や落ちこぼれを恐れる気持ちも、もちろん消費主義の競争に呑みこまれる原動力となってゆく。人には負けたくない、人より勝ちたい、世の中の役に立ちたいという自我の欲求は、この社会の消費システムと分かちがたくドッキングしている。そういった原初的な欲求を抜き去って、われわれは消費主義をやめることができるのだろうか。みんなが悟って、比較や競争をしなくなるような人間社会が到来することは、とうてい望めそうもない。

 この本を読み終えてできることはせいぜい、人と違おうとすることこそが消費主義をもたらすという逆説にたいしての繊細な反省をたえず思い返すくらいなのだろう。反逆や反抗がなにをもたらすのか、そのくりかえしの反省を忘れないでいることくらいしかできない。なにをやっても、優越化や地位の競争を、人間は避け得ることはできないのだ。

 あと、反抗やアナーキーの先に抑圧なき社会がたとえ訪れようとしようと、ルールや規範なき社会は、人間には可能なのかという反省を忘れてはならない気にさせられた。反抗的な人間は破壊や撤廃だけをのぞむが、そのあとに秩序ある人間社会は可能なのか。自由をもとめて女性はかえって守られるべき紐帯を打ち壊したという逆説も指摘されているが、自由はほかのなにかから守られない弱さもむき出しにしてしまうかもしれないのである。多数者や権力者に順応することは人間のなにを守ってきたのか、こちらの評価も忘れてはならない気にもさせられた。

 ある意味、保守主義的な批判や反省にもつながってくるのだが、この本は左翼への批判とも活用される本なのでしょうね。左翼の欠点や自己反省の書である。もっと類書は出てないかな。


資本主義が嫌いな人のための経済学ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)ブランドなんか、いらないヒップ アメリカにおけるかっこよさの系譜学 (P‐Vine BOOKs)


11 16
2018

書評 社会学

社会学は名著の宝庫だ――『社会学の名著30 』 竹内 洋



 むかしは新書による名著シリーズは中公新書から出ていた。私は『60冊の書物による現代社会論』や『社会学の名著』、『世界の名著』などから読みたい本を見つけて、読み漁っていた。入門書や教科書のような本がきらいで、ガイドブックのような本から当たりをつけるほうがよほど私には合っていた。

 ちくま新書から同じようなシリーズが出たときはどんな本を選んでいるのかと気になってはいたが、読まずじまいだった。このたびは図書館を使うようになって、ちょっと心にひっかかっていた本書を読みほどくことができた。

 この本のなかの名著で読んでいるのは半分くらいだが、読んでいる本はますますすばらしく感じられた。ただ読んでいない本は、何冊かは除いては、あまり読みたくはならないほうだった。

 すばらしいと感じたのは、『監獄の誕生』、『大衆の反逆』、『孤独な群衆』、『メディア論』、『消費社会の神話と構造』、『ディスタンクシオン』、『行為と演技』、『ハマータウンの野郎ども』、『脱学校の社会』などであった。社会の見方をがらりと変えたそれらの本は、解説文だけ読んでもすばらしい。

 著者の竹内洋は、近代の学歴エリートや立身出世の内容にこだわった人で社会学全般の紹介に適しているのかとは思ったけど、杞憂だった。ただ一般的な話で、紹介を導入してくれるのだが、なんかあまり共感がわかなかったな。あまりメジャーでないお世話になった先生を紹介するのも、すこしいただけない。

 私はこういう名著のガイドブックによって、その世界をひろげることができた。中公新書に、講談社現代新書では現代思想の紹介書の力にもあずからせてもらった。教科書や入門書より、よほど興味をかきたててくれるし、なにを読むべきかの自分の羅針盤をチェックすることができる。

 いま私がこのような本を手にとったのは、名著シリーズにどんなラインナップが追加されたのかということだったのかもしれない。いままでこだわっていたテーマを手放して、しばらくは興味の鉱脈を見つけるまで放牧だ。



現代社会学の名著 (中公新書)60冊の書物による現代社会論―五つの思想の系譜 (中公新書)現代思想の名著30 (ちくま新書 1259)心理学の名著30 (ちくま新書)


01 25
2017

書評 社会学

80年代の問題意識――『お金と愛情の間』 ナタリー・J. ソコロフ

158458.jpgお金と愛情の間―マルクス主義フェミニズムの展開
ナタリー・J. ソコロフ
勁草書房 1987-12

size="-2">by G-Tools


 タイトルはエッセイ風のやわらかいものだが、内容はサブタイトルのほうがふさわしいおカタくて専門的なもので、読みとるのにだいぶ苦労するレベルの本である。

 87年の古い本だが、お金が払われている関係とお金が払われない関係のあいだの転換点に興味があるわたしは思わずダメもとで注文したが、内容にかなった書物ではなかったようだ。

 お金はどうも「自発的なもの」には自分で払い、「強制的なサービス」にかんしては賃金をもらうという関係があるようである。だから好きで結婚するなら女性は家事を無償でおこなう役割になるし、おなじように好きな趣味で働くなら低賃金でもかまわないだろうとなるし、やりがいがあったり、技能実習生のように教える関係があったなら、賃金が消滅する方向にはたらく。

 自発的になることはお金を払う側にたまらなく近づくことであり、もらう側から払う側へと切り替わる瞬間に近づくことである。労働者としてお金を必要とする者にとっては、気をつけなければらない転換点であり、好きなことを仕事にしたいというさっこんの思いは、なにをもたらすのだろう。

 本書はさいしょ、地位達成の理論や二重労働市場の理論が検討されており、ここがとっつきにくい。現実を分析する一次的資料はわかりやすいのだが、それを検討する二次的資料はややこしいものになるのだという関係ない気づきを得た。教科書のような本のことね。

 初期マルクス主義フェミニズムと後期マルクス主義フェミニズムも検討されるのだが、女性はなぜ低賃金で男性支配の家父長制や資本主義に閉じ込められているのか、家事は無償なのかといった説が検討されてゆく。

 女性は男性にくらべて劣位におかれている、搾取されているとなんどもいうのだが、男も権力によって賃金奴隷の労働に搾取されているのであって、男性も権力に牛耳られているという苦しみが配慮されていないのが残念に思えた。

 内容の検討については深い興味をひきつけられたわけではないし、手にあまる内容なのでひかえるが、この書物はのこってゆくことになるのだろうか。

 さっこんは若者の恋愛離れや非婚化によって、この本が出たバブル以降に勃興したマスコミによる恋愛至上主義が終焉しようとしている状況になっている。

 女性が低賃金で働かされ、家事を無償でひきうける性別分業は、恋愛至上主義というあだ花を咲かせ、おたがい高負担コストによる恋愛結婚からの逃走や回避をもたらしたようで、あらためてこの偏った性別分業の負担や重荷について、検討しなければならない時期にいたったのだと思う。

 無償家事労働論は70年代に花咲いたようだが、それから三十年、男女は性別分業の役割の重さに耐えきれなくなっている。わたしたちはこの歪みある性別関係において、どのような関係を築いていったらいいのか、もう一度問われているのではないだろうか。



性の政治学母親業の再生産―性差別の心理・社会的基盤母性という神話 (ちくま学芸文庫)性の弁証法―女性解放革命の場合 (1972年)家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望

プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

 

twitterはこちら→ueshinzz

google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
FC2カウンター

Page Top