『「狂い」のすすめ』 ひろ さちや
「狂い」のすすめ (集英社新書 377C)
ひろ さちや

けっこう売れていたり、評価する人がいたので、遅まきながら読む。
ひろさちやは世間の奴隷になっている人を批判するからいい。現代の日本人って奴隷度はかなり高いのだが、それをまじめだとか「シカタガナイ」とかいって奴隷街道まっしぐらである。変えようとか抜け出そうとかの前向きな意識がほぼ芽生えない。「いい子ちゃん」でやるしかない人にはひろさちやの批判の言葉は「まじめな生き方」の見方をひっくり返してくれるだろう。
セラピーだと思う。癒しである。狂えだとか人生は無意味、ついでに生きる、生き甲斐は不要、希望を持つな、未来の権利放棄、目的意識を持つな、など「前向き」「まじめ」な生き方の欺瞞や自虐性をみごとにひっぱがしてくれる。希望や生き甲斐が私を責め、私の重荷になり、私を苦しめるのである。そういう「虚構」の重量をすっかりどけてくれるのが、ひろさちやの考え方というものである。
まじめな生き方や希望をもった生き方の重荷をとりのぞいてくれるのは、哲学者の中島義道も同じである。中島義道は対人的な「まじめ」から、対人的な「悪人」や「不快な人」になるススメを説いている。なぜならまじめで押しつぶされそうになっている人というのは対人面で萎縮しまくっているからである。そのような他人から責められている人はぎゃくに開き直って、獣のように嫌われ者になれ、それが心を癒す方法だと中島義道は教えてくれるのである。ひろさちや同様、中島義道は一冊くらいは読んでおいたほうがいいと思う。『カイン』(新潮文庫)がいちばんオススメ。
それにしてもこのふたりはひとりは仏教者で、ひとりは哲学者である。こういう癒しやセラピーは心理学者の仕事であるはずなのだが、こちらの人たちの本のほうがいいというのはどういうことなんだろう。心理学というのは個人のセラピーに向けられていると思いがちだが、一方では私を「病者」や「病んでいる」とジャッジし、責め立てる存在でもある。じつは心理学は個人や私の内面を責め立て、病者にするという一面の性質がひじょうに強い学問でもある。だから心理学以外の学問のほうが自分を責めずにすんだり、世間の怒りやいらだちを正当化し、脱臼させ、癒してくれる確率が高いのである。心理学のワナにはまるな。
優等生や世間受けするような人には、ひろさちやの本を一冊でも読んでおくべきなのだろう。まじめで、まわりや世間から評判のいい人というのは、「世間の奴隷」や「希望や目的の奴隷」となっている可能性がある。それがものすごく「重い荷物」であり、自分を押しつぶしていたと気づかせてくれるきっかけになるのだと思う。世間受けする人にはそんなことすら気づかないのだろう。人に受けるというのは迎合していた面もかならずあるはずであり、この角度からの視線が欠けていたからこそ一般受けを無邪気に求めてしまうものである。自由というものは人から嫌われて、憎まれて、見捨てられて、はじめて得られるものなのかもしれない。
▼私の書評
『デタラメ思考で幸せになる!』 ひろさちや
『カイン――自分の弱さに悩むきみへ』 中島義道




『びっくり先進国ドイツ』 熊谷 徹
びっくり先進国ドイツ (新潮文庫)
熊谷 徹

先ほど読んだ高尾慶子の感情的な『イギリス人はおかしい』とどうしても比べてしまうが、こちらの本はジャーナリストっぽいいかにも感情抜きのドイツ概括書になっている。間が抜けていて、原稿用紙のマスがすかすかで、マスを埋めるためだけの文章といった感がしてならなかった。教科書的におもしろくないのである。
イラストがおおくはさまれていて、ドイツ語が書かれているのでおやと思ったら著者のイラストであり、ほかの人に注文すると図中にドイツ語なんか書けないだろう。著者は文章よりイラストを書きたかった人なのかなと思う。
ドイツはどんな国だろうかというと、イメージでは日本人に近い勤勉な国というものがあると思う。第二次世界大戦では日本と同じような隣国への犯罪的な侵略をおこない、歴史的にも似ている。
私とすれば、好きなニーチェの国であり、ゲーテやカント、ヘーゲル、ハイデガーを生んだ流れがあるのですこしは憧憬がある。カントやヘーゲルあたりにはヨーロッパの精神的中心になったと思われるのだが、戦後はサルトルやカミュのフランスに思想の中心はうつった。伝統的な教養をもったドイツのような国がヒトラーのような犯罪的存在を生み出した、または支持した、ということでドイツの哲学的教養はヨーロッパから見放されていったのだろう。アドルノやホルクハイマーのフランクフルト学派は興味深いのだが。
ドイツでは一日十時間以上働かせたり、週末労働をさせると、多額の罰金を課せられたり、人事部長が「逮捕!」されたりするそうである。弱い立場の労働者はそこまでして徹底して守られないとならない存在だと思うのだが、日本の労働状況は犯罪がまかり通る権力者天国の「無法地帯」である。有給休暇にしても三十日は休むようになっており、「休暇のために働く」人生が公認されており、それでいて一人当たりの生産性は高い。日本という国の愚かさ、犯罪性を、この国と比べると目の当たりにする感がする。
私としてはこのような本を読んだのは他国の労働観や生活はどうなっているのかという興味が中心にあり、そういうところを学びたいと思っている。働き蜂一本やりでやってきて、それ以降の価値観が見つけられない踊り場にきている日本人にとって、労働と人生について教えてくれるような国との出会いは大切であると思うのである。
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『イギリス人はおかしい』 高尾 慶子
イギリス人はおかしい―日本人ハウスキーパーが見た階級社会の素顔 (文春文庫)
高尾 慶子

かなりおもしろいし、みなさんにもおすすめの一冊。
イギリスがげんざいも先進国や大国であるという思い込みを抱いている人には、現地在住の日本人の目から見たイギリスの荒みぶりをしっかりと読んでもらいたいものである。
ほとんどの化粧品や、有名デザイナーの洋服のタグには、「ロンドン」、「パリ」、「ニューヨーク」と印刷されていて、この三つの都市が世界最高、あるいは最大のようなイメージを与えている。……なぜ、ロンドンが世界三大都市のひとつに入っているのだろう。二十五年たったいまも、私には理解できない。ほかの二つの都市に比べ、ロンドンは物の数も少なく、揃ってもいず、時代遅れで、そして、貧しい。
英国人は待つ。彼らの人生とは待つことなのだ。彼らは考えない。改善、改良、生み出すということは想像外のことなのだ。
日本人は行列が好きだ。……ロンドンには、もっと、行列好きな羊がいます。日本の羊はいら立っているが、英国のそれは待って当たり前。待たずにバスが来たり、列車が動くと動転するのだ。郵便局、銀行、デパートや映画館のトイレ、スーパーはむろんのこと、劇場のチケット売り場……、そして病院は最悪。
ナイジェリアの病院だって、こんなに待たせないわよ!
この分だと、いくら近代的なテクノロジーが発明されたり設置されても、この国じゃ使われなくて捨てられるんだ。この国に進歩はないね。
あんたは日本人か? 日本人はあんな機械(切符販売機)なんか、すぐ使い方を覚えたろ。これで英国人がどんなにバカであるかわかるだろう?
イギリスは「イギリス病」や「没落」などのイメージはもっていたのだが、本書に描かれた72年からイギリスに在住の著者のなまなましい生活体験はよりいっそうのイギリスの凋落ぶりをうかがい知ることができる。というか、のろまでぼんやりしている、著者がいう「北極の白熊さん」はその愚鈍が笑えて、愛嬌があるように思えてくる。
社会システムが機能していないのである。バスや電車の到着時刻を守るのは労働者であり、企業や機構であり、そして客や社会であるのだろうが、イギリス人はとっくにそのような「文明の約束」を果そうとしないようである。日本ではご承知のとおり一分二分の交通機関の遅れで目くじらをたて、過密スケジュールにおおくの死傷者が出したことは記憶に新しいことだし、機械や機能はどんどん改良されて新しくなってゆく。
文明とか社会機能というのは、そこを構成する人の「気概」や「道義心」のようなものが支えているものだと思う。もし社会の人の「まあ、いいか」とか「そんなにきっちりする必要なんかないじゃないか」とか、「しゃかりきになる必要はない」というムードが社会的に共有されるようになると、文明や社会機能はどんどん遅れ出し、約束は守られず、仕事はなされず、そして停滞してゆくのだろう。文明を支えているのは、文明の夢や希望、願望にほかならないのである。もしそのマインドに翳りが見えれば、たちまち文明はその自転車操業をやめてしまうのだと思う。イギリスは産業革命や大英帝国の時代をへて、文明の上り坂を下りはじめたのかもしれない。日本人が盛りを過ぎたといえ、必死に勤勉に働くのはまだ「文明の夢」あるいは「アトムの夢」をいまだにもっているからだろう。
欧米では会社の利益、あるいは、持ち主の利益が優先で、労働者を、鼻をかむチリ紙かハンカチぐらいにしか考えていない。雇用主に愛されていないと知っている労働者は、気に入らないとただちにストライキをする。職場をやめたいときも、会社の都合なんか考えない。やめたければその日にすぐやめる。
英国の労働者階級のいいかげんさは、働いても報われないという不満に由来しているのである。
社会とか会社というのはやさしさをもつか、冷酷心で対応するかで、その性能を大きく変えるものだと思う。日本が平等で仲間意識がつよい社会だとすると、英国では上下の敵対心や階級闘争がその社会機能を正常に機能させていないといえると思う。しかしやさしさをもつ支配者層はぎゃくに恐ろしいものである。どこまでも忠誠心や勤勉の奉仕を期待できるがゆえに際限がない働きすぎ社会をつくってしまう。やさしい支配者層は労働者の無限の奉仕を手に入れられるのだが、労働者の人生は失われたもどうぜんである。厳しくも見捨てられた社会のほうが、自分の人生を生きられるという点でマシではないかと思うのである。イギリスやヨーロッパの人たちが何週間ものバカンスをとれるのは、そのような「冷たい社会」があるからではないかと思うのである。
イギリスは1947年に世界で最初の福祉国家になり、とうじは医療費が無料であり、失業すれば失業手当をたっぷりもらえた。そしてビートルズやパンクにより働かない若者があらわれ、73年にオイルショックをへて、ストライキばかりする甘やかされた労働者に嫌気をさし、福祉や教育を削るこんにちの市場主義改革のサッチャー女史が世界に先駆けてあらわれたのである。ブレア首相は未婚の母に働いて自分の収入を得てくださいと演説したが、英国の未婚の母のおおくは頭から働くことなど考えないそうである。福祉とは恐ろしいものである。
この著書のウリは映画監督のリドリースコット(『ブレードランナー』、『ブラックレイン』)のハウス・キーパーを務めたことにあるように描かれているのだが、たしかにリドリー・スコットの私生活を知ることは期待できるのだが、そんなウリとは関係なしにイギリス社会・文化論としてじゅうぶんに楽しめる書物である。なにより上から目線のイギリス概要ではなくて、在住者の目線による日常のイギリスが描かれているから、もっとイギリスが理解できる。著者本人も感情的にイギリス人につっかかっていて恐ろしい(笑)女性であるが、彼女の人生遍歴も興味深いし、社会の洞察眼もひじょうに鋭いと思う。ただ本人は物欲主義者と自認しているようにこの立場は私とは相容れないのだが、げんざいの日本を支えているのは表立っていわれないが、大半が物欲主義者だから、こんにちの日本の勤勉・消費社会は成り立っているといえ、私たちの社会はまだこの段階にいるのだなと思う。読んで損のない本である。
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『人生を変える旅』 蔵前 仁一
人生を変える旅 (幻冬舎文庫)
蔵前 仁一

私はべつに海外の旅が好きではない。まとまったお金をいっきょに使う気になんかならないし、旅に出られるほどの稼ぎがいいというわけではない。外国の憧れの地があるというわけでもない。
このような海外の旅の本を読んでいるのは、下川裕治の『日本を降りる若者』を読んだからである。日本の働き蜂社会からドロップアウトする方法に海外放浪するという手段もあることを知って、にわかに可能性を探ってみたくなったからである。海外放浪する人生について知ってみたいということで海外旅行本を読んでいるが、べつに私は旅に憧れるというわけではないのである。
この本は雑誌の読者の投稿のようなかたちをとっている。旅とはなにか、カルチャーショックをうけたことや、生活を知る、人と会う、人生は旅、などの項目でそれぞれの旅行が語られている。まあ、旅好きな人が読む本である。
旅との対極の人生は育った町で働き、その町から一歩も出ないで人生を過ごす生き方だろう。多くの人はこのような生き方をするだろうし、観光地への旅も申し訳程度にする人がもしかして多いんじゃないかと思う。自分の町しか知らないという人もけっこういるのかもしれない。それで満足するのならべつに旅なんかしなくていいだろうし、旅のような贅沢などできなかったり、旅などしたくもないと思っているかもしれない。生活の糧が町に縛られている以上、おおくの人はその地を離れることはできないのである。ふつうの人は生産の地に縛られている。旅とはその拘束から一時的に逃れること、またはその束縛をチャラにしてしまうことだろう。
私たち日本人は日本の国内でおこったニュース、日本の国内の情報ばかり見聞きしている。外国のことは日本の情報のように多くないのである。そうして日本の制度や規範に縛られて、その社会を外側からながめたり、相対化する目というものを喪失し勝ちである。自分たちの暮らし、行動が常識で当たり前でそのほかの方法を考えられなくもなってしまう。旅や海外を見るということは、このような違った行動規範や文化を見るということでもあり、そのことによって閉塞化した文化のゆがみや偏りを正してゆくきっかけをつかむことになるのだろう。国家という区切りは、人生の幅を狭めてしまうことである。
海外や国や人種が違えばまったくわれわれと異なる人たちが存在すると思いがちになるが、人間の基本的な感情は変わらないだろうし、どこの国の基本的な家族や友情や、愛情、喜怒哀楽は変わることもないのだろう。なにか国や人種が異なれば、そういうことすら通じないと思いがちになるが、旅はそのようなカベを忘れさせてくれるのだろう。
旅は憧れの地やいってみたい場所があって、旅に行きたいという気持ちがもりあがるのだと思う。そのような憧れがなければ旅に出たいとも思わないのがあたりまえのことである。もし私にそのような地があればいってみたいものである。その前に貧乏人根性の金もつかいたくないし、稼ぐために時間を奪われることが嫌いな私は、先立つものすらないのである。
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『行かずに死ねるか!』 石田 ゆうすけ
行かずに死ねるか!―世界9万5000km自転車ひとり旅 (幻冬舎文庫 (い-30-1))
石田 ゆうすけ

こういうジャンルがあるなんてよく知らなかった。自転車で世界を一周するというジャンルはいったいなんなのかと思う。旅行家?、冒険家?、それとも旅雑誌や自転車雑誌のライター?、なんだかくくり方がよくわからないのである。冒険家と名乗る人にしてもどうやってメシを食っているんだと思うが、他人の冒険に支援する人というのはたくさんいるのだろうか。
バイクで野宿するようになってはじめてこういうジャンルを探索することに興味をもったが、それまではまったく耳に入ってこない存在であった。TVではたまに「日本一周した人」があらわれてエライね〜、キトクな人だね〜という一種皮肉った距離感を感じてきた。旅行で日本一周や世界一周をした人がエライ人としてとりあげられることは専門雑誌では多かったのかもしれないが、マスコミではあまりなかった。世界旅行を褒め称える価値観は社会では共有されておらず、猿岩石は大人気になったにせよTVの番組であったし、一部の旅行好きな人たちのジャンルに限定されていたと思う。自転車で世界一周をした人が本を出したり、講演などの活動をするようになったのは、新しい流れではないのかと思う。
自転車というのは町乗りに限定される乗り物であるという固定観念が強い。母親が買い物に出かけるママチャリ、子どもが遊びに出かけるチャリンコ、駅や学校、会社までの通勤にもちいる自転車。その町乗りの道具を旅行や世界一周に用いるという発想は通常はもたない。旅行には鉄道や飛行機、クルマをつかうのが常識であるからだ。
あえて自転車をで旅をするというのは、近郊の距離感をひきのばして、世界をひとつながりの土地だと把握する認識をもたらすものである。つまり近所の感覚が日本や世界までひきのばされるのである。鉄道や飛行機があるために返って日本や世界はひとつの地つながりの世界であるという感覚を失ったのかもしれない。自転車旅行の効用はその断絶を消滅させることかもしれない。近所とは世界なのである。
戦後の日本はひとつの家、ひとつの会社に定住して、定年まで勤めるという生産至上主義の定住民の発想で生きてきた。民族大移動がおこったのはたとえば明治の紡績業の発展による女工や職工の移動、戦後復興期における農村から都市へのサラリーマンの移動などがあり、ながらくその体制で固まってきたわけである。民族大移動は盆や正月の帰省に限られた。こんにち都市で育った子どもたちは帰る田舎をもたずに都市の定住民として帰る場所をもたない。だからアウトドアの興隆や自転車世界一周のような非生産的で漂流民の生き方が、都市民の憧れや郷愁を駆り立てるのだと思う。われわれは生産至上主義の発想や時代の曲がり角に足を踏み入れつつあるのだと思う。生産主義者の頭には理解できない事柄だと思うが。
石田ゆうすけは7年5ヶ月もかけて世界を一周している。7年である。ほとんどサラリーマンとしてのキャリアを捨てないと、こんなことはできない。「行かずに死ねるか!」とそこまで世界を見て回る旅は、サラリーマンのキャリアより重要な価値になっているのである。自分のやりたいことや好きなことより、サラリーマンの価値と人生のほうが重要で大事であるという人はだいぶ少ないと思うが、生活やキャリアのために仕方なく仕事に従事しなければならないという人が大半であると思う。著者はあえてその天秤を旅のほうに賭けたのである。生産や生活より大事なものを見つけることが承認、容認されるような社会がくることは幸せなことだと思う。
同じような世界一周自転車の旅は先ほど読んだ坂本達の『やった。』を思い出すのだが、くらべると坂本のほうが現地の人との親切や思いやりに出会って感動的なエピソードも多いのだが、もちろんこちらの本のほうも一気に楽しんで読める。近所を出かけるチャリンコで世界を旅して回るのである、おもしろくないわけがない。
考えてみたらわれわれは世界は危険で強盗や殺人などひどい目に会うという固定観念に支配されている。よくアフリカや中近東などの治安の悪い国にチャリンコの無防備な装備で旅するものだと思う。世界とは、われわれから金品を奪い、強奪する強盗殺人の国だとなぜか観念している。ニュースが伝えるのは世界の悲惨な事件であるからだろう。だけど大半の人は犯罪など一生起こさない人たちが町を営まないと町など形成できるわけがないのである。日本でもTVで殺人・強盗を毎日報道するが、われわれは近所を恐ろしくて歩けないといった不安で町を歩くことはない。世界もそういうものかもしれない。
旅行といえば、ふつうは鉄道やクルマで移動するものだと思われているが、自転車で旅をする人は増えたのだろうか。鉄道は観光地産業をつくり、商業化し、みんなが同じところにめざすという混雑とハダカの王様をつくったと思う。クルマは鉄道の固定化した線以外の道や景色の選択する自由を与えたが、目的地一直線の速さを至上とする道程・過程を楽しめる乗り物ではない。バイクはクルマに近いが、機動性や自然や季節に近い空気を感じることができる。自転車はそれらよりいっそう寄り道を楽しめる自分の身体に近い乗り物である。たとえお金があり、クルマやバイクがあろうと、人は自転車に乗り、旅をすることを好むものだろうか。カネや便利さではヒエラルキーの底辺に位置し、軽蔑される価値観を与えられるかもしれないが、チャリダーはあえてそういう価値ヒエラルキーに反逆・転倒する存在であるかもしれない。鉄道やクルマの近代化と違う道が用意されてきた感がする。
自転車旅行というものが、近所へ出かける近郊の乗り物であるからこそ、生産の時代から非生産の人生を楽しむ、世界を見て回るといった、生活や労働のためでない人生のために生きられる社会の曲がり角・メルクマールになってほしいものである。希望はあるのだろうか。
▼参考URL
チャリダー・石田ゆうすけさんの世界旅
石田ゆうすけのエッセイ蔵
満点バイク〜自転車旅〜 女性の自転車アフリカ旅をやっている。
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『お金より名誉のモチベーション論』 太田 肇
お金より名誉のモチベーション論 <承認欲求>を刺激して人を動かす
太田 肇

承認欲や名誉欲は私の興味のもっているテーマなのだが、この本はそのテーマについて語って本であるが、なにかいまいち心に訴えかけてくるものがないのはなぜかと考えてみると、私の知りたいテーマと違うからではないかと思いいたった。
私の追究したいテーマは、みずからの承認欲はなぜ満たされないのかということだ。私は自分が働かなければならない職業や企業にちっとも満足せずに、そのような社会の片隅で機械や部品のような仕事をしていることに欠損感や空虚感をものすごく抱いてきた。職業に承認欲を求められないのである。自分の承認欲はいったいなんなのだろう、なぜ満足しないのかという懐疑を解決したいという気持ちから承認欲に興味をもってきた。だから心理学の観点のようなものを期待しているから、太田肇のこの本はどちらかというと経営組織論であり、私の個人的興味と重ならなかったのだと思う。
この本は組織論というか、日本社会論である。突出的に偉くなったり、名誉を認められるより、憎まれたり、嫌われたり、警戒されたりしないことを善とする「裏承認」が厳しい社会だと分析している。『太陽にほえろ!』のような刑事ドラマは石原裕次郎さえ係長だったし、全員ヒラである。偉くなって外部に認められるより、仲間や組織に認められることが時代の要請であったのである。世間で認められた人は職場で小さくなっていたり、嫌われているといったことがよくあるそうである。大量生産の画一化社会ではそれが必要だったのだが、ポスト工業社会のこれからは突出した承認欲を満たすことが必要だということである。
たしかに日本人の自己評価は低い。地位や名誉が得たいという人も少なくなった。偉くなったり、名誉を得たいという欲求を表に出すことが嫌われ、つぶされ、萎縮させる空気があったのだろう。戦後の社会がめざしたものは「一億総中流」といったような社会主義的な平等社会であったから、とりわけ突出した存在はまわりから叩かれ、嫌われる風土がつくられたのだろう。仲間や集団をまとめるのも、同質的・画一的であったほうが一体感や親密感を醸成しやすい。そうして偉くなったり、名誉を求めたいという気持ちを叩きつぶしてきて、自己評価の損傷をもたらし、裏承認のような仲良しゴッコを人生の主目的とするような社会や組織をつくってしまったのだろう。日本社会や組織のつまらなさ、閉塞感もこんなところに求められるかもしれない。
社会福祉的な平等社会から、市場で競争する市場主義の世の中に舵はとられつつあるが、表承認、裏承認という面から見ると、落ちる人や格下げされた人から「恨み節」や「怨恨」が聞かれる理由が読みとれる気がする。突出したり、落ちこぼれる人が出てこない平等社会を理想としていたのに、約束を破って、突出や落下を善とし、そのような社会を目標とするというのである。いままで抑えて抑えて卒なくこなしてきた約束はなんだったのかということになる。日本の市場主義化はどちらかというと突出した存在を伸ばそうという方向よりか、ぎゃくに落ちこぼれるも人も突出した存在もいけない、平等な社会にもどれという保守的なムードがより強くなった気がする。日本人の原動力は「世間並み」や「対等願望」のみだったのだろうか。そのような横並びしか求めないのなら、この市場改革は成功しないのだろう。
バブル期に「個性消費」や「ブランド消費」といった優越願望が突出した時期があったのだが、バブル崩壊ののちに狂騒的な雰囲気は沈静化し、まるでその時代の再燃を忌避するかのように不況と閉塞状況はつづいた。裏承認のように出る杭があらわれないように、優越願望が叩かれ、つぶされたみたいだ。こんな首の絞めあいのような組織のまま、日本人は楽しんだり、好きなことをして生きられるというのだろうか。この集団のルール・規範をどうにかしないと、日本人の活力も生も枯渇してしまうだろう。
この本は経営管理論として読まれるより、日本社会論と読まれるべきなのだろう。承認欲や名誉欲を叩きつぶしてしまう日本の精神風土というものにたいする警戒や批判として活用するべきだと思う。裏承認というのはとにかく目立たないように、外れないように、人と違ってしまわないように、杭を打たれないようにと、規格品や横並びの恐れをつくるばかりである。日本人に対人恐怖が多いとされるのもマイナスの承認ばかりされる他者にべっとり不安や恐怖がまとわりついてしまうからだろう。恐怖をもよわせる世間になってしまうのである。他者が杭を叩く存在ばかりでは、健全な承認欲は育まれない。この精神風土、心的拘束の解放が必要なんだろう。
この本では企業や組織で認められる方法がいろいろ考えられているのだが、企業や組織での承認をちっとも魅力的に思わない私としては、それがモチベーションになるかなあと思う。われわれはマスコミの時代に生きてきて、年少のあいだ、マスコミにどっぷりつかり、マスコミにヒーローを教えてもらい、マスコミのヒーローに憧れてきた。だから企業や組織に憧れることはなかったし、それらにはヒーローなどいなかった。だから黒い影のような企業や組織に認めてもらいたいとも思わないのである。それらは廃墟のように魅力のない存在に映る。企業や組織にヒーローを生み出さなければならないんだと思う。企業や組織に認められるのはその後でないと効果がないのだろう。企業や組織はマスコミのヒーローに攻し切れるようなヒーローを生み出せるのだろうか。
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『お金がなくても平気なフランス人 お金があっても不安な日本人』 吉村 葉子
お金がなくても平気なフランス人 お金があっても不安な日本人 (講談社文庫)
吉村 葉子

タイトルはいいのだが、完全にタイトル負けしている。なぜフランス人はお金がなくても平気なのか、なぜ日本人はお金があっても不安なのか、そういう疑問への切り込みがほぼない。なぜそうなったのか、どうすればいいのかといったつぎの疑問に答えてくれない。このタイトルはその答えを表わすべきタイトルではないのか。
まあ、フランスで20年間生活した著者のフランス人の行動、生活は、日本の常識を相対化してくれて参考になる。比較の材料を与えてくれるのはいいが、つぎに読書は対策や改善の方法を求めるものではないのか。なぜこうなのか、変えられないのか、そのような答え、とはいわないでもヒントくらい与えてくれてもいいではないか。おフランスはこうだから――つまり「西欧の先進国はこうだから劣者は見慣らえ」だけではもうあまり通用しない時代になったのではないのか。
日本人はお金があってもほんとうに不安である。なんで何百万か貯まったら仕事なんかやめてバカンスにいくだとか、のんびりするだなと考えたりしないのだろう。老後は不安だといっていつまでもハードな仕事をやめられない。いったいくらあったら安心するというのだろう。際限がないのではないか。サービスについても際限なく便利さや要求を高くしていき、フランスのように店員が無愛想で長蛇の列をつくるお国とはえらい違いである。サービスとお金の高度化はどこまでいってもとまらないから、どこで線を引くとか、ある一線からは無責任になるといった根性や放漫さが日本人には必要なのかもしれない。夜中のコンビニやスーパーの店員の人生を壊したり、1分や2分の電車の遅れに多くの人を事故に巻き込んだり、急ぎもしない宅配便のために宅配マンの休養を奪うことなどを、客はどこまでも要求すべきなのか。
経済やサービスにおいて日本人はどこまでも要求することがよいことだ、サービスや経済の上昇化や拡大化が至上目的になっているかもしれないが、はたして労働者の首を締め上げることが私たちの進歩やよいことであったりしていいものだろうか。お金があったら、労働者にどんなことでも要求できるというのだろうか。不便さや不満さを容認しないと、われわれはますます首を絞めつづけられることになるかもしれない。金の権力の驕りに日本人はとり憑かれているのではないか。
お金もいくらあっても不安である。なぜ江戸時代の町人やアジアの国のように今日食べられるお金があればいいという発想にならないのだろうか。お金とサービスの高度化をめざしてきたがゆえに、お金以外信頼したり頼るものを失ってしまったから、恐怖はどこまでも去らないためか。サラリーマンの転職が容易でなかったり、厚生年金に釣られて、失業や無職の転落の不安をもっているために金はどこまでも稼がなければならない、仕事を拡大しつづければならない、となったのだろうか。老齢年金も老後の生活を計画する人生をつくってしまったがゆえに、ぎゃくに日本人を不安の底にたたきこんだともいえなくはない。お金のあり方や社会の方向性を今一度考え直さないと、日本人の金欠の恐怖は終わらないのだろう。
フランス人はお金がなくても創意工夫で生活や人生を楽しむ方法を知っているようである。豊かになった達観の上にそのようなお金とのかかわりをもつようになったのかもしれないが、どちらかといえば、経済の成長やサービスの拡大が見込めなくなったらから、そうなったと考えられなくもない。日本人はお金が稼げなくなったりサービスの高度化が見込めなくなったら、ガツガツお金やサービスの過密化に期待しなくなるのかもしれない。はやく覚悟を決めてゆとりある国民になってほしいものである。犠牲にするものが大きすぎる。
▼著者のURL
吉村葉子 日記
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『ホテルアジアの眠れない夜』 蔵前 仁一
![]() | ホテルアジアの眠れない夜 (講談社文庫) (1994/06) 蔵前 仁一 商品詳細を見る |
旅行記には二つのタイプがあって、日記タイプとエッセイタイプがある。日記タイプは行動をえんえんと記し、エッセイタイプは一歩踏み込んで思索をくりひろげる。旅行記では日記タイプが多く、ヘミングウェイのように思考より行動に価値をおくのだが、行動にあまり価値をおかない思索型の私はやはりエッセイが好みである。エッセイはものごとや行動を時系列から解放して、要素間の編集をおこない、より思索を深めてそれは学問になる。この本はエッセイでよかった。
人間は「いま、ここにないもの」を思考や言葉で獲得することによって、動物と異なる存在になった。過去や未来が生まれ、生と死が生まれ、文明が生まれた。行動に思考を寄りそいつづける日記タイプは、人間の特徴である思考の特異性を生かしていないのである。時系列では結びつかない、いま・ここにない要素や物事を結びつけることによって、新たな発見や収穫が得られるのである。
私はいまアジアの旅行記を読むことが多いのだが、知りたいのは長期旅行者の生き方であったり、日本と違う働き方や人生観、社会であったりすると思う。つまり日本の「正しい」生き方のほかの選択肢を探しているのだと思う。私の探求のいぜんからの目的はこれなのだが、さいきんはアジアの仕事や暮らしにそれを見つけようと食指をのばしているわけである。私は日本の仕事や労働だけしかない人生がたいへん嫌いだから、アジアの正反対のような価値観に魅かれるのである。とくに労働のオルタナティヴはぜひとも得たいものである。
この本はバブル期におこなわれた旅行記であるようなのだが、このころから世界中をあちこちをひとりで旅するバックパッカーのような日本人も多数存在したようである。バブル期といえば、ニュースで海外旅行の増加が、日本の経済的おごりとともに報道された時期である。団体旅行客やパックツアーのイメージも強かったが、ひとりで旅するバックパッカーも増殖をつづけていたのである。
しかしとうぜんのことながら、長期旅行者は日本の企業社会から落ちこぼれるわけである。日本に帰っても、就職や人生が保証されているわけではない。いっぱんにイメージされる「成功」や「正しい人生」から、完全にもれてしまわないと長期旅行の決断はできないのである。日本人としての人生をやめるのか、もどるのかと、厳しい選択を迫られることになる。日本の企業は長期旅行者を受け入れるような社会ではないのである。
日本は農耕民族として定住の人生を長らく送ってきたのだと教科書は教えるのだが、はっきりいえばこれは戦後の終身雇用制度を促進するためのイデオロギーである。ひとつの会社に長く勤め、滅私奉公することが「正しい人生だ」というイデオロギーの洗脳である。転職したり失業したり浮浪するような人間がたくさんいれば困る人がいたのだろう。たとえば税金に頼る政府だとか、勤勉な労働者をほしがった企業であるとか、安定した収入を善とした専業主婦なのであろう。
そのような社会の風潮が、日本の歴史から、漁民や狩猟民、商人や流浪者の文化や生活を抹殺してきたのである。日本人は先祖代々の土地でずっとコメをつくりつづけてきたのだ、ほかの浮遊する存在はいなかった、だからひとつのところで働きつづけることが「正しい人生だ」と刷り込まれたのである。そのような重圧を逃れようとして、長期旅行者はアジアを漂いつづけていたのである。海外旅行は日本イデオロギーからの脱走でもあったのである。そしてイデオロギーに染まった企業に受け入られず、帰るところも失わなければならなかったのであるが。というより、おそらくそれは一部のエリートや大企業の話であって、中小企業や零細企業ではそうではなく、どこかにもぐりこんだり、しのいで生きてゆけたのだろうが。
むかしアメリカで鉄道ができたころ「ホーボー」といって、無賃で鉄道に乗ってあちこちを旅した労働者たちがいた。季節労働や仕事を求めての旅であった。作家のジャック・ロンドンなどが、自由と悲惨さを抱えもったそのようなホーボーの体験記を『アメリカ浮浪記』に記している。その後アメリカは工業社会としての繁栄や成功を手にするのだが、60年代になり、ホーボーに憧れたジャック・ケルアックなどがヒッピーのような旅のスタイルをふたたびはじめるのである。人間は定住と放浪の狭間にいつも悩まされてきたようだ。日本でも高度成長さなか『フーテンの寅さん』が人気を博した。できれば、定住のイデオロギーに染まりきらない社会になってほしいものである。
アメリカ浮浪記 ジャック・ロンドン

ホーボー アメリカの放浪者たち






著者の蔵前仁一はインド旅行に行って、日本とあまりにも違うことに驚き、「正しさ」とはなんなのかと書いている。
初めて日本とは違う別の世界があることを知ったのだから、もう日本を絶対的に正しいと思うことなどできなくなったのだ。
僕は一度「正しさ」というものをなくしてしまった。……僕が学生だった頃は、よい成績をとるのが「正しい」ことだった。いうまでもなく、これは今の僕にすれば、「クソ」である。なんの役にも立たない。なぜなら成績がいいか悪いかが問題になるのは、学校という特殊な世界の中だけであり、生活していくには、そんなもの単なる「飾り物」にしかならない。
「人並み」なんていう「標準」も「正しさ」も、本当はこの世にはない。
海外旅行者はアジアなどにいって、そのような日本の「相対化」を探しにいくのだろう。自分が縛りつられている「正しさ」や「絶対」などというものを外側からながめ、客観視し、自分を解放するために。できれば、アジアや海外にいかずに、相対化や客観視できればいちばんなのだろうが、日本という国家、社会はそれをできない、許さない社会のようである。しかし定住民のイデオロギーを壊す試みは海外旅行者などがおこなったり、あるいは学術の世界からも疑問が投げかけられ、そのような知恵を知った人たちは人生や自我を解放するすべを知るのだろう。知らない人はいつまでたっても牢獄の中だろうが。



『求む、仕事人! さよなら、組織人』 太田 肇
求む、仕事人! さよなら、組織人 (日経ビジネス人文庫)
太田 肇

大田肇は名誉欲や承認欲求について追究しているから読みたいと思っていた。意外にこの欲求についての研究は、散文は多いにしても体系的な研究は少ないため、期待している。
たとえば、『承認欲求』や『お金より名誉のモチベーション論』、『認められたい!』といった本を出している。人間の欲求はこのような認められたい気持ちや名誉、尊敬をめざすことに多くのウェイトをおいていると思うのだが、あんがい、この欲求は軽視されている。自分の恥部をさらけ出すようで、あるいは承認の欲求を認めたくないのか、本格的な著作を見かけないのである。



私がそのような著作で目の引く論述に出会ったのは、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』の優越願望や対等願望であったり、勢古浩爾の『わたしを認めよ!』であったり、アラン・ド・ボトンの『もうひとつの愛を哲学する』といったあたりだろうか。ほんとうに少ないのである。
歴史の終わり〈上〉 (知的生きかた文庫)




『求む、仕事人! さよなら、組織人』を読んだのは、そういう承認欲求の著述を読みたかったのだが、金欠のため安い古本でみつけた太田肇の著作を先に読んでみたいというわけである。こちらのほうはじつにありきたりの本でべつに読んでも大しておもしろくもなく、得るものはなかった。
「組織人」が組織に一体感を抱き、組織からの報酬を目的にするに対して、「仕事人」は仕事に対して一体化し、仕事をとおして目的を追求するということである。組織の窮屈で市場価値のないこれまでのサラリーマンの生き方ではなく、仕事に忠実な仕事人になろうということで、べつにこのことにかんしてはなんの感銘もわかない。ありきたりすぎるし、希望や期待を抱かせるものでもない。オダブツ。やっぱり読みたいテーマの本を読まないとなということでした。
ということで、古本屋でみつけた『お金より名誉のモチベーション論』を500円で買った。しかしこの承認欲求を会社の労務管理につかわれるようになると、あまりにもヤバイんじゃないかと思ったりする。ますます魂まで会社に売り払わなければならず、魂の逃げ場所がなくなるじゃないかと危惧したりする。
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『やった。』 坂本 達
やった。―4年3ヶ月の有給休暇で「自転車世界一周」をした男 (幻冬舎文庫)
坂本 達

おもしろいので一気に読み終えた。とくに人種も民族も違う人たちに食事をもらったり、宿にとめてもらう親切をうけたことなど、思わず涙がにじんでくるほど感動的。アフリカでマラリアと赤痢になり、治療してくれた医師ががんとしてお金をうけとらなかったり、アラスカの酷寒のなかで無料のキャビンが用意されているところなど、見返りを期待しない人間の親切ほど人を感動させるものはない。またどんな国や人種にあってもそういう無料で食事をおごってくれたり、親切に宿を提供してくれるなどのやさしさを受けると、国や人種になんの隔たりもないことを思い知らされる。
こういう旅はサイクリングの世界一周だからこそ、得られた貴重な体験であると思う。電車やタクシー、ホテルなどに泊まっていると、こういう体験にも出会わないだろう。クルマに乗れと誘われたり、ウチに泊まってけといわれたり、チャイをすすめられたり、食事をすすめられたりと、世界各国で人の親切ややさしさに出会っている。このような見返りのない親切というものは、都会の中で暮らしているといっさい出会わなかったり、通り過ぎたりするものだから、この著者は世界中で貴重なすばらしい体験をしてきたのだと思う。都会の寒々しい関係しか知らない人は、この旅のやさしさや親切を一度読んでみたほうがいいかもしれない。
同じようなユーラシア大陸ヒッチハイク横断をした猿岩石が香港を出発したのは96年4月。著者はイギリスを95年9月に旅立っているから、猿岩石より早い。「電波少年猿岩石1」YouTube。猿岩石はこのような親切を受けなかったように思う、というか、自虐的なハプニングがウリだったから、そのような親切は印象が薄くなっただけかもしれない。
旅行の中でとくに印象深かったふたつの経験を引用したい。見返りのない親切が感極まる。
昼時になると、高床式住居の下の日陰から、「キンカオ!(ご飯食べな!)」と声がかかるので、寄らせてもらう。
とくに田舎は質素な生活をしていて、みんなほとんど靴を履いておらず、ごく限られた身の回りの品だけで、つまくし暮らしている。日本にくらべれば、足りないものばかりなのに、ラオスの人たちはなんでも人にあげたがり、心が満たされているんだと思った。近代的な発展だけが幸せでないことを、痛感させられる。
「ナダヒニ・リゾート」。これはサイクリスト、スキーヤー、そしてハイカーに無料で利用してもらおうと、ある善意の人が建て、メンテナンスまでしている小屋だ。
この厳しい寒さと、向こう何十キロと何もない吹きっさらしの土地に、まさに天国を見つけた思いだった。
「ここにたどり着けたことが、どれだけ幸せだったか! このキャビンは、人間を幸せにするために、いかに少ない物でこと足りるか、ということを教えてくれた」
自転車旅行というのはそうとうの体力やタフさがいる。いまは距離のある移動だと電車やバス、クルマに乗るのが当たり前である。あえて自転車という自分の体力だけが頼りの旅に出ると、寒さや熱さ、疲労をもろに受けて、見えるもの、体験すること、そのどれもが違ってくるのだろう。電車やクルマはとちゅうのこのような情景や経験をすべてぶっ飛ばしてしまう。それらで出会えるのは商業化された、ビジネスの人たちだけである。自転車旅行は生活や暮らしを体験できる移動手段なのかもしれない。
なお著者はミキハウスの有給休暇を利用して4年3ヶ月の世界一周の旅に出ている。会社の業務に関係あるのか、企業にこんな要求をしていいものかすこし心配になったが、ミキハウスはこれで宣伝になるのだろうか。著者はいま人事部に属して、講演やギニアの井戸掘りプロジェクトをおこなったりしている。自分探しの若者の中にはボランティア的自己実現をめざす人がけっこういるが、そういう方向にいこうとしているのだろうか。
▼著者のサイト
TATSU SAKAMOTO'S BIKE TRIP AROUND THE WORLD
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『アジアを歩く』 灰谷 健次郎 石川文洋
![]() | 灰谷さんアジアを歩く (えい文庫 156) (2007/11/10) 灰谷 健次郎 商品詳細を見る |
旅行記は写真がたくさんあるほうがいい。写真はダイレクトに情報をつたえてくれる。文章は知らない国についての満足な視界を与えてくれない。
この本は写真が多い。とくにアジア人の顔、子ども、女性たちの表情がゆたかにいきいきと捉えられている。下町や庶民の人たちの表情が多く捉えられていて、アジア人の魅力や活気はこのようなところにあるのだと思う。
アジア紀行の順番としてタイ、ベトナム、フィリピン、ミャンマー、ラオス、ネパール、中国、インド、パラオと捉えられているのだが、アジア人の顔の特徴やつくりがそれぞれ個性的で、そのような顔はどのように変遷・拡大していったのか、やっぱり日本人にいちばん近い顔やどこから日本人はやってきたのかという関心も抱かざるを得なかった。
ときに私は日本人の顔の特徴を忘れるときがある。街中で見ていて、日本人とくくるよりか、アジア人の顔とくくったほうがいいと思うときがある。縄文顔、弥生顔と分けられるときがあるが、縄文顔のほうが多いように思ったりする。日本人のルーツは中国雲南省あたりと聞いたことがあるが、ラオスの女の子の顔は日本の子どもの顔にそっくりだ。カゴを背負って仕事の手伝いをする髪の毛がぼさぼさの女の子たちを見ていると、むかしの日本人の子どもたちもこんなふうだったんだなと思う。フィリピンといえばマリーンというジャズ・シンガーの顔のように瞳が大きくて鼻が広がっているのが特徴だな。ベトナムは透けるアオザイが魅力的である。ネパールやインドにくるとアジア人というよりか、トルコ人やヨーロッパ人の顔つきになる。このようなアジアの並びの中で中国は冷えた、つまらない社会に思えてしまう。
灰谷健次郎はいくどかアジアに旅したそうだが、魅かれる理由としては貧しさとたたかう姿や泥臭さ、人間臭さ、そしてかつて貧しかった日本の姿に重ねられるからだと分析している。貧しさには同時に活気や熱気もある。豊かになるとそのような熱気も失われ、死んだような、冷めた国になる。おそらく市場や屋台にあふれる人の姿が建物の中に隠されてゆくからだと思ったりする。喧騒や猥雑さは日本の働く場から失われ、せいぜい繁華街やターミナルで見かけられるていどだ。社会がそのような活気を失った傷跡は大きいといわざるをえない。
灰谷健次郎は2006年に11月に亡くなっており、この本は追悼書のような体裁も合わせ持っている。
▼灰谷健次郎の著作



▼日本人はどこから来たのか










日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く (NHKブックス)

日本人の起源(ルーツ)を探る―あなたは縄文系?それとも弥生系? (新潮OH!文庫)

『ASIAN JAPANESE〈2〉』 小林 紀晴
ASIAN JAPANESE―アジアン・ジャパニーズ〈2〉 (新潮文庫)
小林 紀晴

「いい大学へ入っていい会社に入って」といった人生観やサラリーマン人生にたまらない閉塞感を感じはじめていた90年代、若者たちはアジアやヨーロッパにほかの人生を探しにいった。はるか昔にはモラトリアムやアパシーとよばれた若者の閉塞感は、00年代にひきこもりやニートとなり、若者の高失業率や非正規雇用と加速し、閉塞感の深刻度はいっこうに解消されないように見える。
著者の小林紀晴は68年生まれのだいたいバブル入社世代である。サラリーマン社会の閉塞感から脱出し、ほかの人生を探るアジアの旅に三年の新聞社勤務の後に出た。自分と同じように何者かになろうとする「途中の人たち」をアジアに探しにいったのである。
この巻ではヴェトナムとパリのアジアン・ジャパニーズが取材されている。ヴェトナムとパリの対比といえば、もちろん先進国と発展途上国の位階秩序である。ヴェトナムが混濁した若いパワーをもつ国だとすれば、パリは熟成した成長を通り越した国になるのだろう。熱い国と寒い国、または赤い焼けた土と、石の街という対比がいえるだろう。あるいは汗をかいて走っている姿と、体温を失ってしまったように映る街とも表現されている。小林自身はトレッキングシューズと底の厚い靴という対比や、汚れたザックと金属のスーツケースという違いをそれぞれの国に感じている。
日本が凝り固まった石の街、システマティックな経済マシーンと化してしまったとするのなら、パリはその先にある街であり、ヴェトナムはまだここにこない熱い国になるだろう。青年期と老年期のようなものである。そしてわざわざ日本の国を飛び出した若者たちはそれぞれの発展段階になにを見て、なにを託してきたのだろうか。日本の閉塞状況の突破口のヒントは老年期と青年期の国に見つけられるのだろうか。
書店の文庫本の棚をみると、アジア旅行記の本が何冊も見つかる。若者たちの視線は熱いアジアに向かっているのである。それはシステマティックなこり固まった社会になってしまった日本の、失われてしまったパワーやハングリーさ、活力や生といったものをとりもどすための旅に思える。高度成長を担う前のハングリーさやパワフルさを味わいたいがために、アジアに向かっているように思える。昭和30年代ブームの背景にも同じ志向が流れているのだろう。
新聞やマスコミの目がいつもヨーロッパやアメリカの先進国に向かっていたとすれば、若者たちは東南アジアの後進国や発展途上国に向かっていたのである。小林紀晴のこの本はその流れの先陣をつけた。若者たちは死んで固まった日本ではなく、若者がそうであるように東南アジアのパワフルさやエネルギーに同調していったのであろう。
東南アジアのエネルギーの源を探索する旅だったのかもしれない。日本はなぜ閉塞し、冷え込み、死んでしまったのだろうか――東南アジアの旅にはそのような問いがこめられている気がする。高度成長を沸騰させたエネルギーや活力の源はなんなのか、日本にそのような磁力をとりもどせないのか――アジアの旅にはそのような問いが潜んでいるように思える。エネルギーやパワーへの巡礼の旅といっていいかもしれない。
死んでしまった国を蘇らせる――若者の東南アジアの旅にはそのような動機があるように思える。われわれの国はなぜ死んでしまったのか。国家や社会の若返り、あるいは成熟の継続はどのようにしたら得ることができるのだろうか。アジアや昭和30年代への熱い視線はその答えが得られるまでつづくのかもしれない。「ジャパン・デス」からの再生が求められているということである。
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『5万4千円でアジア大横断』 下川 裕治
5万4千円でアジア大横断 (新潮文庫 (し-57-1))
下川 裕治

5万4千円でアジアが横断できるのかと読んでみたが、ひたらすバスに乗りつづける自虐的な旅は、猿岩石の無銭旅行を思い出させたが、そこまでおもしろいものではない。ひたすらバスの行程が描かれるだけで、すこしの期待を抱いては読めるが、それ以上でも以下でもない。まあ、そういう本であり、ほかにいうこともない。
一軒の食堂に入り、注文に戸惑う僕らに露骨といっていいような嫌な顔をされると、中国社会で生きていくことの厳しさのようなものを痛切に感じてしまう。
ところがボーダーを越え、時差の調整のために時計の針を一時間遅らせるベトナム社会では、急に人と人のあたりが柔らかくなる。日々の暮らしには笑顔があり、遠慮とか謙譲といった空気が流れてくる。タイやカンボジア、ラオスといった小乗仏教ともいわれる上座部仏教の国からやってくると、ベトナム人のきつい国民性にたじたじとなることは多いが、中国からやってくると、すべてを包みこんでくれるような優しさが際立つのだ」
旅行でこういう比較文化的な視野がひろがるのっていいなと思う。中国から東南アジア、インド、イスラム圏と来れば、かなり人種や風合いも変わってくるだろうし、違いも明瞭なものがあると思う。そういう視野が手に入るのなら、アジア旅行の醍醐味があるというものだろう。
「イスラム圏には大家族が残っている国が多い。子どもはすべて神の子だからだ。それは、少子化に悩む先進国に比べると、出生率が高く人口増加が維持できることを意味していた。いまの世界を、イスラム教対キリスト教といった対抗軸で語る人が多いが、その一方で、その勝敗はすでに決しているという見方もある。出生率を眺めると、キリスト教のなかでもプロテスタント圏、そして仏教圏が軒並み低下しているというのだ」
人口増加の数でいえば、イスラムとかインド、アフリカなどが勝っていて、先進国はもう先がないといえる。人口が増える国に新しい文化や文明が生まれ、世界の中心になってゆくのだろうか。そしてこんにちの先進国は世界の遅れた、片田舎になってゆくのかもしれない。それにしてもキリスト教や仏教のような禁欲を説く宗教が先進国をおおい、人口数を減らすような宗教が受け入れられたりしたのだろうか。ヘンな話である。
アジア旅行に出かける人が多くなったり、アジア旅行記の本がたくさん出ているが、アジアに興味が向かうと、なぜかヨーロッパに興味が向かわなくなる。ヨーロッパは高級ホテルで、アジアは大衆ホテルといった感じがして、ヨーロッパの敷居は高くなる。アジアに魅かれる人は若干の先進国の優越感をもって、アジアの後進性に自負心を満足させるのだろう。「先進/後進」のヒエラルキーが旅行者を満足させる。
旅行者はアジアの後進性を笑うために向かうのだろうか。いいや、後進性のスローさや猥雑さ、そして飾らなさ、そういったもののアジアに魅かれるのだと思う。アジアの旅行者は日本が失ったむかしのよさを思い出すためにアジアに向かうのかもしれない。昭和30年代ブームと近いものなのだろうか。
旅行というのは比較文化的、比較文明論的な視点を養うものなのだろう。そして井の中の蛙の人生や常識にゆさぶりをかける。人間というのほかの人の生き方や考え方、技術などをたくさん学ぶことによって、進歩したり、あるいはよりよい生き方、人生を選びとってきたのだろう。選択の幅をひろげるということである。たったひとつの人生しかないと思い込んでいた井の中の蛙の日本人は、たくさんの蛙がいることを知って、はじめて自分はなんて狭い井の中に住んでいたのかと悟ることになるのだろう。
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『アジア定住』 野村 進
アジア定住 (講談社プラスアルファ文庫)
野村 進

私は海外旅行にいきたいだとか、海外に定住したいという夢などちっともたなくて、アジア各国に定住する日本人をインタビューしたこの本はべつに魅力的ではなかったし、憧れを駆り立てられるということもなかった。
ただアジアは日本を相対化してくれると思う。西洋化、経済化しすぎて閉塞状況に陥っている日本の行きづまりになんらかの打開策をもたらしてくれるのではないかと思うのである。日本はヨーロッパやアメリカのほうばかり目を向けているのだが、近代化される前のアジアに日本は改めて学べることが多くあるのではないかと思う。私たちの社会というのは経済化されすぎた社会になったためにたまらなく息苦しく、生きづらい世の中になっているのではないかと思う。アジアの古き佳き時代、スローな生活というものに学べないものだろうか。日本人はそういう時代に還りたいと思っていないだろうか。
「タイに長く住む日本人研究者に言わせると、日本に帰るたびに日本の若者がタイの若者に近づいていることに気づかされるという。
「いい意味で"脱力"していますよね。出世しようとか金持ちになろうとか力まないで、その日その日を楽しく快適に過ごせばいいと考えるようになっている。日本の若い人は、すぐにしゃがむでしょう。ああいう姿勢なんか、タイ人にそっくりだと思いますね」
日本は西洋化・経済化の150年をつっ走ってきたわけだが、ここいらで疲れてきた、もういいや、という気持ちになってきているのではないだろうか。「生産マシーンの日本人」をやることにへとへとになってきたのだろう。またのんびりしたスローペースのアジア人、むかしの日本人に帰りたがっているのではないだろうか。日本人はそろそろ目標を西洋からそらして、タイとかアジアに定めるほうが、日本の民衆はじつは心の底から願っていることはではないだろうか。「軍隊=経済化」しなくても、日本は生きてゆけるのだろうし、日本の新しい世代はもうそんなことをのぞんでいないだろう。日本人はまだ「軍服」を脱いでいないといえる、経済という名の国家軍事である。
「日本にいると先のことを考えないといけないでしょう。バリの人は、その日その日のことしか考えないんです。きょう食べる分があればいいという考え方。……ここの人たちは飢えることがなかったし、暑いからこごえる心配もありません。先のことを考えなくても生きていけるんです。がんばらなくてもいいというのは、とても楽ですよ(笑)」
いまの日本人には足りないのはまさにこのような考え方だろう。日本人は学生のころから年金や生涯の安定のことを考えて生きるように設計されている。その有利な席を確保するための学歴競争や出世競争で人生を終える。一生を先のことを先のことを考えて暮らし、老後の不安や心配ばかりに今日を生きるのである。幸せなわけなどないのである。日本もかつては豊潤なアジア的な生態系に満たされて明日のことなど心配しない生活を送ってきたのではないだろうか。明日の心配をとりのぞくことがまったくムリだとしても、もっと身近な設定までで打ち止めにできるような人生のほうが、日本人を豊かにできるのではないかと思う。こういう意味で日本は悲愴なまでに「貧しい」といえるだろう。
「マレーシアを含めて東南アジアの民族や民衆は、日本人のように組織とか国に仕えるという気持ちはこれっぽっちもない」
「(中国人は)愛社精神とか会社への帰属精神なんてありません。……技術者のプライドというのはありません。給料の少しでもいいほうにいいほうにと転々と職を変えていきます」
日本人は組織とか国家への忠誠心がいぜんとして高いといえるだろう。年金とか社会保障だとか、年功賃金だとか退職金、転職の不利さなどから、組織や国家にしがみつかざるをえない仕組みがあるからだろうが、日本の閉塞状況、あるいは民衆の豊かさ、自由さを生み出すという意味ではあえてこの組織依存のメリットを破壊してゆかなければならないと思う。このメリットのせいで日本人はとてつもなく縛られた監獄の人生を送らなければならなくなっている。これは生涯保障という捨てられない安心なのだが、生理的に耐えられるものではない。だからアジアのスタンダードのように組織や国家にそっぽを向いたような人生のほうが、日本人をラクにできると思うのである。
ただアジアには悲惨や学ぶべきではないものもたくさんある。アジアに手放しで学べるなんて思いはだれももたないと思うが。
「実は日本以外のアジアの大半は、「カーストなきカースト社会」と言ってもいいほどの階層社会なのだ。人々は、民族、宗教、職業、居住地、貧富、それに男女の差などによる階層で、幾重にも厳しく分断されている。
階層が違えば人を人とも思わぬメンタリティーを、少なくとも戦後これまでの日本人が否定してきたことの尊さを強調したい」
日本は西洋からの相対化の目よりか、アジアからの相対化の目をとりいれる必要があるのではないかと思う。西洋は進んでいて優れていて、アジアは遅れていて劣っているというモノサシだけではたぶん日本人は幸福になれないだろうし、今日の日本の閉塞感は突破できないだろう。西洋一辺倒が私たちの今日の忙しい、息苦しい人生と生活を提供してしまったのではないだろうか。アジアの先進国という優越感をもつより、すなおに人間らしい生き方、ゆとりのあるラクな生き方を教えてもらうという意味で、アジアはもっと大きな懐をもっているのではないだろうか。
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『アジアン・ジャパニーズ〈1〉』 小林 紀晴
ASIAN JAPANESE―アジアン・ジャパニーズ〈1〉 (新潮文庫)
小林 紀晴

先ほど読んだ下川裕治『日本を降りる若者たち』。旅行ってお決まりの観光地をめぐる引率パッケージ・ツアーの呆けたイメージしかなかったのだが、この本を読んで旅行に日本のオルタナティヴを探す、あるいは日本を降りるという動機があるのを知って、がぜん旅の可能性に啓かれた気がした。
日本以外のほかの生き方はないのか、ほかの国でそのような可能性が見つかるかもしれない。日本ではサラリーマンになって年金や退職金のために定年までがんばるといった人生しかないのだが、他の国の人たちはもっと自由に多様な生き方をしているかもしれない。とくに先の本の中でタイにハマる若者は現地の気楽な労働観にふれて、「沈没(その国に長期間滞在)」してしまうことが多いそうである。平日の昼間からぶらぶらしていても後ろ指をさされない「ゆるさ」にハマってしまうらしい。アジアはそういった労働観においては「ゆるゆる」のものをもっているらしく、私もそういう実情を探るべく旅行本を物色中にこの小林紀晴の本を見つけた。小林紀晴の本を読むのは十年ぶりくらいだ。
小林紀晴は三年勤めた新聞社のカメラマンを辞めてアジアの旅に出た。同じようになにかを求めてアジアを旅する若者に、旅する意味や旅から得たものを問うた。写真を撮り、インタビューすることにより、みずからの迷いや問いの答えを見い出そうとしたのである。日本のサラリーマン人生の閉塞感や空虚感のオルタナティヴを見つけようとして。
アジアの旅に出たからといって、帰ってきても日本は変わっているわけではない。同じ退屈な終わりなき日常、先の見えたサラリーマン人生が待っているだけである。この本が出たのは95年だから、それから十年たち、日本の閉塞感や就職氷河期、若者の混迷は深度を深め、とうとうアジアに沈没し、長期滞在する若者もかなり増えたことだろう。日本は経済マシーンや労働マシーンと化してしまったのだが、そこまで到らない貧しいアジアはぎゃくにゆるやかで穏やかな人生が広がっているのかもしれない。アジアを旅する若者はそのような「ほかの生き方もできる」という人生観を啓かせて帰ってくるのかもしれない。
日本に暮らしていれば、知ることは日本のことばかりである。海外の国や社会のことをほとんど知ることはない。日本人という画一化・均質化したステレオ・タイプの人生コース、人生観を叩き込まれるばかりである。アジアを旅するということはさまざまな人生観や社会、労働観にふれ、実感として味わってくることではないだろうか。そのことによって、こういう人生しかないとか、「正しい人生コースから落ちたら生きてゆく道がない」といった思い込みからの脱出と寛容の意識が芽生えるかのかもしれない。
「人間はどんな風に生きてもいいんだ」
「会社を辞めて旅している人たちに何人か出会ったんだ。五年くらい就いた仕事が向いてなくて、もう一度やり直そうと旅に出ている人たちに。……僕は一回就職したら、そのまま一生やらなくてはとずっと思っていたんだけど、そんなに固く考えなくていいんだな、考えすぎなんだと気づいたんだ。すごく気が楽になった」
「貧しい、遅れていると言われていた世界で実は、四角い空ばかり眺め、満員電車に乗っていた僕などより、幸せを感じている人間がいた。しかし、それはけっして幸せだけではない。悲惨さも、醜さも、卑怯さも、滑稽さも、生も、死も、あからさまだった。リアルであった」
「日本人は大変ね。だって休みとれないでしょ。フィンランドでは四、五ヵ月くらい休みとって旅行とか行くの当たり前だから。日本は一ヵ月の休みをとろうとすると、会社を辞めなければとれないなんてナンセンス。厳しすぎるよ」
アジアを旅する若者たちは日本と異なった人生観や労働観を見ることによって、人生の多様性や自由を垣間見てくるのだろう。そして日本でのオルタナティヴを切り開いていったり、あるいは人々の意識を変えていったり、または日本の労働マシーンにただ呑みこまれてゆくだけかもしれない。でも知っていることと知らないことの差は大きいだろう。さまざまな生を知っておれば、一流コースから落ちれば終わりだみたいな人生観のアホらしさに気づくだろうし、責めさいなまされることもないだろう。
労働マシーンの日本にとってアジアは「癒し」なのである。多くの日本人にこの強迫的な労働マシーン以外にほかの可能性や生き方もあるのだと知らしめることが、アジア旅行の重要な役割なのかもしれない。日本人は北朝鮮を笑えないって。アジアの人たちも日本のマシーン国家を憐れんでいるのかもしれない。アジアに滞在する日本人も同じような目線で日本人たちをまなざしているのだろうか。
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『自分探しが止まらない』 速水 健朗
自分探しが止まらない (ソフトバンク新書 64)
速水 健朗

自分探しの系譜や歴史をまとめてくれてかなり興味魅かれたというか、驚かされることしきりの本であったが、自分探しを「カルト」や「詐欺ビジネス」として捉えるまなざしにはかなり否定的に思った。
読後感がかなりもやもやしていて、個別の自分探しの項目には興味を魅かれたのだが、全体的にこの流れをどのように捉えたらいいのかよくわからない。肯定的に捉えるべきなのか、否定的に捉えるべきなのか、宿命的に捉えるべきなのか、あるいは自分探しをすべきなのか、すべきではないのか、私の中でもその態度がはっきりしない。いや、肯定的なのだろう。
われわれは拭いがたく自分探しの旅に出なければならないのだと思う。自分探しというよりか、生き方探しや自分の居場所探し、最高の人生とはなにか、と迷いながら生きてゆくしか仕方がないのだと思う。かつてはサラリーマンになって出世して定年退職してみたいな人生観があったのだが、今日のわれわれがそのような人生だけで満足できるとは思えない。そういうもやもやもした不満足感、欠損感が私たちをやみがたく自分探しに向かわしめるのだと思う。
なかなか居場所が定まらないからといって、「一所」懸命の人生が絶対的にすばらしい人生だと思える時代はもう去ったのだと思う。むしろ定まらない人生のほうに評価をおく時代になったほうが、私たちはより自分の人生の可能性や展望を開かせるのではないかと思う。ひとつの会社、ひとつの場所にとどまりつづけることが最高の人生だという考えのほうが卑小で、つまらないことに思える。私は一生自分探しをつづけて、とり返しのつかない人生になろうが、そのほうが人間らしく生きたのではないかと思う。彷徨しない人生のほうが私には不気味で卑小に思える。若者が自分探しに彷徨うのはサラリーマン的人生の枠組みを外れた生き方をしたいという欲求の蓄積なのだろう。
この本でとりあげられている自分探しの事例というのがサッカー選手の中田英寿の世界を旅したり(私は知らなかった(笑))、格闘技の須藤元気のバックパッカーの旅であったり(だれ?(笑))、『あいのり』、イラク人質事件の自分探し、自己啓発本、ニューソート思想、高橋歩、『起動戦士ガンダム』、藤原新也、『深夜特急』、小林紀晴、フリーター、『俺たちの旅』、猿岩石、やりたいこと、自分探しビジネス、などなどと、こんなにも自分探しの系譜と歴史は多くて種類が多かったのかと驚嘆と興味がかき立てられた。こういうくくり方で系譜を知らせる知識はそうないので、これも自分探しのひとつの流れなのかと驚かされるのである。ある社会現象を自分探しの相でながめることはそうないのである。
この本がもやもやとした読後感を残すのは、このような数々の自分探しの現象をたくさん並べるだけで、分類化や全体的な俯瞰や分析がおこなわれていないからだろう。個別の分析や言葉には驚かされる文章があるのだが、全体的な展望や分析がどうも得にくい。
個別の事例ではこんな文章は銘記しておきたいと思う。まあ、自分探しと関係のない言葉が多いのだが。
「『あいのり』では、参加者の年収や学歴が決定的な評価軸になることはほんどとない」
「自分探しに海外に行き見つけた答えが、もう日本ではまっとうに生活できない自分の経歴だったというのでは、あまりにも酷だ」
「マスメディアの動向によって簡単に左右される女性をわらうための言葉が、この「スイーツ(笑)」である(デザートの言い換え)」
「団塊ジュニアの女性は、「消費主義」に走る男が「みっともない」ものにしか映らない」。……「イタい」とか「キモい」と言われてしまう」
自分探しがよくないとされるのは、基本的にこの社会はサラリーマン社会に合致するような人生を送らなければならないからだろう。履歴書の空白や転職回数の多さが嫌われたり、仕事以外、あるいはひとつの会社に長く勤務しないことを嫌う傾向があるからだろう。つまりサラリーマン、職業人、労働者でないことは、われわれの社会のご法度なのである。そのような人生の条件が私たちの社会をたいへん息苦しいものとしているし、人生の幅や深みを狭めているし、たぶん








