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03 17
2010

旅へ

『物乞う仏陀』 石井光太


物乞う仏陀 (文春文庫)
石井光太

物乞う仏陀 (文春文庫)


 東南アジアからインドまで障害者や乞食の生きざまを追ったルポタージュであり、インドのストリート・チルドレンを描いた『スラムドッグ$ミリオネア』を見て興味をおぼえたから読んだ。障害者や乞食が血の通った、ふつうの人間として生きているさまがつたわってくるルポタージュである。

 中身の感想より、この手の本やルポはまずその姿勢やメディア・リテラシーが問われなければならないと思う。世界の貧困にたいする報道に私はすっかり目をそむけているし、豊かな国になった日本は世界の貧困を映すことがすくなくなったと思う。たまに特別番組でおこなわれるとその偽善さ、欺瞞さに目をおおいたくなる。貧しい国への援助募金はすばらしくていいことだろうが、偽善を感じるし、チャリティーをおこなう人たちへのシラケや距離感はどことなく人は感じているものだと思う。

 理由をさぐってみると、世界の貧困や悲惨さは個人の手におえない。自分の問題や生活で手いっぱいなのにどうして人を救えるのか。援助やボランティアをする人は世界をコントロールし、自分の手におえるという自負や誇大自己、もしくは優越感を充満させていることがたまらなくイタく感じるのだろう。個人に手におえない、個人ができること変えられることはなにもないという無力感と現実感が彼らの努力の誇大さに身をひかせてしまうのだ。

 私はかれらの心理的要因をさぐりたくなる。どうして貧しい人、困窮した人を助けようとするのだろうか。かれらの性格類型はあるのだろうか。自分が困っているから人を助けることにより問題を棚上げしたい、名誉や評価がほしいというエゴイズム的要因により困った人を必要とする、弱者をたすける正義の味方というパターンに魅かれた人ということになるだろうか。口汚い悪口になってしまうが、慈善やボランティアにはそういう疑念がつねにつきまとう。

 だからよいことなんだろうが、人は慈善やボランティアから身をひいてしまうものだと思う。私たちはどうしようもなくエゴイズムで利己的な人間であるという了解を打ち消すために慈善は利用したくないし、世界の圧倒的な力やシステム、経済的構造に刃向かえると思う誇大自己を保持するつもりもない。先進国の豊かで満たされた生活から、劣悪で貧困な人たちを見下げ、哀れみ、引き上げるという放漫な自尊心ももちたくない。序列の最低限につき落とす人間の手をさしのべる顔は醜い優越感が光っていることだろう。

 もうひとつ世界の貧困を報道するさい、本や雑誌などの商売を媒介するがゆえにそれはどうしても商業主義や儲け主義になってしまうという問題がある。悲惨さや救いがたさを煽れば煽るほど商売は儲かってしまう。悲惨さを報道することは金儲けや報道者の名誉が付与されることなのである。報道者は透明人間でもないし、それによって利益を得る人間である。この本に乞食の売り上げをあげさせるために手足を切ったり目をつぶして憐れさの演出をするインドのマフィアが出てくるが、報道者も同じ種類の儲けや利益を得ているという冷厳な事実がある。視聴者やスラムを鑑賞しにいく旅行者も同罪である。貧困を報道する、見るということはきわめてむづかしい重い問題をふくんでいるのである。

 この著者もなぜ障害者や乞食をアジア各地にルポをしにいく旅にでなければならなかったのだろう。純粋な興味だけですましてよいものだろうか。かれは世界の悲惨さをルポしたということで名誉や評価を得られるだろうし、さらには本の売り上げや原稿や写真の依頼さえ得られるのである。かれは悲惨をルポすることにより名誉や金銭、そして世界の暗部や最低辺を知っているという優越感も得られるのだ。厳しすぎるまなざしだと思うが、この問いを棚上げして世界の悲惨さを無邪気にのぞくこともまた罪が重いのである。

 いったいどうすればいいのか私にももちろんわからない。人間が生きるためにはほかの生き物の命を奪って生きるしかないという事実と同等に考えたらいいのか、そもそもなにもできないと目をふさぎ、報道をやめ、助けることも援助もやめてしまうほうがいいというふうにはならないだろう。自分たちの罪を自覚しながら、かかわってゆくしかないのだろうか。おのれの罪を恥じながら、罪をふやさないような対応が求められるということか。このような問題を考えた人の考えや著作を知りたいと思うのだが、私には見つけられない。

 この本では障害者や乞食でも人なつっこくて親しみを感じさせて、ほほえましくなるエピーソードや著者とのかかわりが描かれていて、悲惨さや過酷さをこれでもかと思い知らせる本ではなかったのでそれはよかったかもしれない。障害者や乞食のふつうの人としてのなりや親しみやすさがつたわってきて、明るさやほほえみがもたらされた。

 アジアで著者は乞食の認識を変えた。信じられないくらい明るく活き活きとしていて、仲間と冗談やひわいなことをいって話をかわし、また次の日を前向きに生きてゆく。ベトナムでは貧しさは恥ではない。あたりまえのことなのだ。物乞いでさえ、生きるための糧を得る正当な手段であり仕事なのである。著者はアジアに人間の悲惨さを見にきたようだが、そのような面があるのはたしかだが、その一面だけではないことを知るのである。だからこの本は悲惨さより、安らかさや穏やかさが感じられる本である。


kotaizum.com
「物乞う仏陀」取材写真


神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く 絶対貧困 カラシニコフ I (朝日文庫) アフリカを食べる/アフリカで寝る (朝日文庫 ま 16-5) カラシニコフ II (朝日文庫)
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10 14
2008

旅へ

『荒野へ』 ジョン・クラカワー

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荒野へ (集英社文庫 ク 15-1)
ジョン・クラカワー

荒野へ (集英社文庫 ク 15-1)


 あまり憧憬やロマンを感じられる本ではなかった。実在の人物、クリス・マッカンドレスはアラスカの荒野をひとりで狩猟・採集生活で生きてゆこうとするのだが最後には餓死しているし、この本のノンフィクションの体裁はまわりくどくなかなか核心に近づかないので、数ページの要点だけを読めばすむものだという気がした。

 この荒野で原始生活をしながら生きてゆこうとした青年を消費社会や物質文明の反逆者としてヒーローに祭り上げることもできるだろうが、いまいち反逆や批判の声は聞こえてこなかったと思うのである。

 アメリカを無賃乗車で放浪したジャック・ロンドンや季節労働でアメリカじゅうを移動した1800年代のホーボー、同じくアメリカを放浪したフラワームーヴメントのジャック・ケルアック、文明生活を拒否した『森の生活』のヘンリー・ソーロー、カウンター・カルチャーの『イージー・ライダー』の系譜に位置づけることもできるかもしれない。日本では五木寛之の『青年は荒野をめざす』とか沢木耕太郎の『深夜特急』とかがあるだろう。こんにちでもバックハッカーや自転車世界旅行する青年などたくさんいる。

 私はこの青年のアメリカ放浪やアラスカ原始生活のこころみが、いまいち憧れられるようなものに思えない。アラスカの荒野で餓死したという圧倒的な悲惨な事実が、憧憬を拒むのかもしれない。社会での決められたコースやくりかえしの日常に反逆した点ではおおいに共感を誘うのだが、このノンフィクションはなかなかその精神に深く肉薄しようとしない。クリスに出会ったいろいろな人からの証言や中立的な事実を尊重しようとするあまり、核心があまりにもぼんやりとした本になってしまっているように思える。

 クリス・マッカンドレスは知りあった老人に手紙でこう書いている。

「多くの人は恵まれない環境で暮らし、いまだにその状況を自ら率先して変えようとしていません。彼らは安全で、画一的で、保守的な生活に慣らされているからです。それらは唯一無二の心の安らぎであるかのように見えるかもしれませんが、実際、安全な将来ほど男の冒険心に有害なものはないのです。男の生きる気力の中心にあるのは冒険への情熱です。生きる喜びはあらたな体験との出会いから生まれます。したがって、たえず変化してやまない水平線をわが物にしているほど大きな喜びはありません」



 クリスに似ているとされる荒野に消えたエヴァレット・ルースの手紙のほうがもっとかれの気持ちを代弁しているように思える。

「ぼくはこれからもずっと荒野の孤独な放浪者でいようという思いをますます強くしています。ああ、荒野の道がいかに魅惑的であることか、ぼくには抗したがたいのそ魅力が、きみにはわかってもらえないだろう。なんといっても、孤独な荒野の道は最高です……ぼくは放浪をやめる気などこれっぽっちもありません。死ぬときがくれば、そこがいちばん野性的で、孤独で、寂しい場所ということになるだろう。

この美しい地方はぼくの一部になっている。ぼくは世間からますます離れていき、どういうわけか、心おだやかになったような気がしています。

おおぜいの人々が楽しんできた人生に、ぼくはずっと不満を感じてきました。つねにもっと情熱的で強烈な生き方をしたいと思っていたのです」



 決められた人生のコースやサラリーマンのくりかえしの毎日、そういったものから逃れたいと思う気持ちはだれにでも抗しがたいほどあるものだと思う。若者たちは世界じゅうを旅したり、国内を放浪したりして、なんとかほかの生き方、道を探そうとする。貨幣社会のオルタナティヴを探す旅でもあるのだろう。そのような試みが社会の主流やマスコミから評価されたり、もちあげられすることはそう多くない。人知れず、世間の知られないところで、若者は寡黙に、ひっそりと主流の生き方ではないほかの道を探している。そのような試みのひとつにこのクリス青年は位置づけられるものだと思う。餓死をしなければ、われわれに人生のオルタナティヴを呈示くれたことだろうか。なお、クリス青年は1968年生まれで、私よりひとつ年下だった。94年の夏、24歳で亡くなっている。

 いまはちょうどショーン・ペン監督でこのノンフィクションの映画化された作品が公開されている。アラスカ荒野の大自然の風景を見てみたいから、映画館にでも見にいこうか。


映画『イントゥ・ザ・ワイルド』予告編



クリス・マッカンドレスと餓死したバスのリアルな映像
Chris McCandless - Alexander Supertramp 荒野での狩猟生活の写真も写っている。
Arriving @ the Bus クリスが餓死したバスまでいく。


カウンター・カルチャーのバイブルおよびアラスカ紀行
オリジナル・サウンドトラック“イントゥ・ザ・ワイルド”ジャック・ロンドン放浪記 (地球人ライブラリー (014))路上 (河出文庫 505A)

ホーボー アメリカの放浪者たち (晶文社セレクション)
ホーボー アメリカの放浪者たち (晶文社セレクション)

森の生活―ウォールデン (講談社学術文庫)イージー★ライダー青年は荒野をめざす 新装版 (文春文庫 い 1-34)深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

アラスカ 風のような物語 (小学館文庫)イニュニック 生命―アラスカの原野を旅する (新潮文庫)ユーコン漂流 (文春文庫)

10 11
2008

旅へ

『日本の川を旅する』 野田 知佑


日本の川を旅する―カヌー単独行 (新潮文庫)
野田 知佑

日本の川を旅する―カヌー単独行 (新潮文庫)


 野田知佑が日本じゅうの川をカヌーでくだったエッセイであるが、まるでいっしょにカヌーでくだったような体験をできるのがありがたい。私はとくに野宿ツーリングに挫折したクチなので、自然の河川にキャンプを張る野田知佑のたくましさがうらやましい。川をくだって、そこの釣り人や農民や出会う人たちの交流も楽しい。なによりも川とそこに暮らす人たちの生活をリアルにまなざしていて、なまなましい地方の人たちの暮らしがたちあがってくるようで、郷愁を誘う。

 野田知佑という人は世界中をカヌーでいく冒険家やアウトドア・エッセイストという位置づけをされていると思うのだが、都市生活や文明生活によって自然の暮らしや生き方からあまりにも離れすぎた人間の生き方に警鐘を鳴らしている文明批評家とみたほうがいいのではないかと思う。冒険家やアウトドアという健康的な名称に隠されると、そういう毒の部分が脱色されすぎてしまう。野田知佑の言葉を読んでいると、自然の中で生きられなくなった現代人に対する強烈な批判や侮蔑が語られているように思う。都市から自然に帰ることの自尊心、都会人が見向きもしなくなった自然を独占できることの優越感が感じられる。すばらしく豊穣な自然から離れていった文明人を哀れんでいるのだと思う。

 野田知佑は自然回帰をうたったヒッピーの血をひきついでいるのかもしれない。世間一般のアウトドア活動にしても、無色脱色されているが、ヒッピーのような文明批判の精神は息づいているのだと思う。文明の豊かさに見失われた自然の豊穣さを満喫しようという思いがある。あるいはヒッピーの自然回帰の流れが商業化されてしまったと見るべきか。

 野田知佑の『旅へ 新・放浪記Ⅰ』(文春文庫)という本はひそかに私のバイブルである。就職を拒んで世界中を旅した野田青年の憤懣や苦悩が描かれていて、私のとても好きな本だ。彼の都市生活への批判はカヌーで世界中を旅するという自然回帰の方向に帰結していったのだろう。自分の好きな生き方を見つけられたということで、すばらしい人生を生きているのだと思う。

男は常に身一つで生きるべし
「無くて済むもの」がいかに多いことか。
――おれの理想は、持物はすべてバックパックの中に入るだけにして、風のように自由に移動して生きることだ。……家も机も女も、みんな小さく折りたたんで、邪魔になったら惜しげもなくポイと捨てなければいけない。男は常に身一つで生きるべきである。
「財産が多いと男は不自由になる。あんたは荷物が多過ぎる」



 野田知佑はさまざまな青春彷徨を経た末にカヌーイストという自由な自分らしい生き方を見つけたのだろう。でもそういう生き方には堅実なサラリーマン的生き方をする人の無理解や差別があったりするのがひとつの事実でもあるのだろう。野田みたいに恵まれて生きられない自然志向・放浪志向の人たちは差別や無理解の中で生きてゆかざるをえないというものである。

 この本は82年に出版されているが、秋田の雄物川の橋の下でひとりのルンペンと出会っている。冬は鹿児島で過ごし、夏は東北にいく。そのような人たちの多くは旅の生活に見切りをつけて生活保護をもらうようになったといっていた。自由な生活はこのような生活と紙一重なのである。

 感銘した部分を抜き書きしてみる。中年の農婦は百姓は毎年同じ作業のくりかえしで死ぬほど単純だと思っている。仕事の内容は一生変わらない、せめて夫婦で仕事ができることが救いだといっている。農家の嫁不足はむかしずいぶんと話題になったものだが、農村の車は若い者の車ほどりっぱで、エラいさんはぎゃくに自転車やバイクである。鬱屈度がそこにあらわれていると野田は見る。

 カヌーで出会う人は転覆したら溺死すると怖れているが、いつから日本人は川をこんなに怖れるようになったのだろうといぶかっている。子ども時代には台風の増水には飛び込んで遊んだものだと野田は憤る。日本の農家には他人が遊んでいるときに働くのは気持ちいいという考えがあり、農休日は日本に根づかなかったそうだ。

 野田知佑は旅で会った人からどうして川くだりをしているのかと聞かれ、「遊び」や「おもしろいから」といっても理解してもらえなかった。経済行為や世のタメになることをしていないと理解してもらえないのである。ここに野田知佑がカヌーにこだわるワケが見えてくるような気がする。ムダで、無意味なことに価値があるのだ、と日本人に訴えたいのだろう。金儲けや目的主義に凝り固まった日本人にこの野田のメッセージが伝わるのはいつのことになるのだろう。



▼『旅へ』のかつて書いた書評というか、抜書き。

旅へ―新・放浪記〈1〉 (文春文庫)

 『旅へ』はバックパッカーやフリーター、プータローとして生きる人たちの「バイブル」になりえる本だと思う。カヌーイスト野田知佑の自伝的著作である。就職を拒んだ野田青年の憤りやみじめさが現われていて、私としてはとてつもなく共感し、感動した著作である。

 「大人たちはたいていぼくの顔を見ると、「早く就職してマジメになれ」と説教した。馬鹿メ、とぼくは心から彼らを軽蔑した。マジメに生きたいと思っているから就職しないで頑張っているのではないか。不マジメならいい加減に妥協してとっくにそのあたりの会社に就職している」

 「あの下らない、愚かしい大人たちのいう「人生」とかいうものに食われて堪るか。俺はあいつらのすすめる退屈な、どんよりと淀んだ人生には決して入らないぞ。そんな反抗心だけが唯一の支えである。――あの俗世にまみれた、手垢だらけの志の低い輩ども。俺を非難し、白い目で見、得意な顔をして説教を垂れた馬鹿な大人たち。俺はただ「自由」でいたかっただけなのだ」 

 「ヨーロッパはいいぜ。あそこは大人の国だから、君がどんな生き方をしても、文句はいわない」 日本で会ったアメリカのヒッピーの青年がいった言葉が、外国に出るきっかけになったのだ」

 「北欧の人たちは「青年期とは滅茶苦茶な、狂乱の時期である」ことを判っているようだった。――「俺も若い時に世界を放浪したよ。そうやってもがいているうちに自分にぴったりの穴の中に落ちつくものだ。グッドラック」


なつかしい川、ふるさとの流れ (新潮文庫) ユーコン漂流 (文春文庫) カヌー犬・ガクの生涯―ともにさすらいてあり (文春文庫) 雲よ (文春文庫) 全国シーカヤッキング55マップ (Outdoor)
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10 10
2008

旅へ

『古道』 藤森 栄一


古道―古代日本人がたどったかもしかみちをさぐる (講談社学術文庫)
藤森 栄一

古道―古代日本人がたどったかもしかみちをさぐる (講談社学術文庫)


 このところ株価大暴落から目がはなせない。緒方拳の死去、ノーベル賞の日本人受賞など大きなニュースがつづく。なにか書きたいと思うのだが、私の手には負えないことばかりなので残念である。世情とまったく連動しないで、ほかの世界に沈静するのも乙なものである。世情とかかわらないで暮らすというのも、人にとっては幸福や安寧であるための必要な知恵や技能であるかもしれない。

 また読者からそっぽを向かれても(笑)、自分の好きなことを追究するねばり強さは、趣味をきわめる王道なのだろう。すぐに一般受けをねらったり、みんなの流れるほうに流れると、なにごともなしえないのだろう。人の楽しみと、自分の楽しみが重ならなければ、仕方がないというものである。

 この本は日本の道の開拓史をたどった歴史ロマンあふれる好著であると思う。著者の体験や発見がなまなましく描かれていて、考古学のロマンというものがよくあらわれている本だと思う。

 この本の発想の原点というのは、信濃や長野の土地はどのように人が通り、道や土地は開拓されていったのかということである。それを古代のゾウやかもしか、イノシシなどが通った道をたどりながら、人類の道や土地の開拓史までを思い描いてゆくのである。

 人は信濃や長野のような険しい山あいをどのように開拓し、または開けていったのかだろうと思わないだろうか。どのような人が通り、どのようなドラマを生んだのか、夢想したり、知りたいと思ったりしないだろうか。そのようなロマンを考古学の方法で調べていったのがこの壮大な人類史である。

 読み応えもあるし、なかなかすごい本だと思うのだが、信濃や長野あたりのことがよくわかっていない人でないと、深い感慨や理解が得られない考察でもあると思う。土地勘や地理を知らないとそう理解できたり、身近にロマンを感じられない。ある程度は郷土愛的な考察であるので、その土地をよく知らない者はすこし外れた読書になるかもしれない。

 道はいろいろな人が通り、流れてゆく。かつての縄文人やそれ以前の人たちが獲物を追って通った道ができあがり、農耕の地をさがした人たちの道が開け、黒曜石や食糧や行商の道がふみかためられ、宗教の聖地をめぐる旅で通られ、仕事のために遠くに旅立つ人のための通路になったりした。そのような人たちはどのような思いをいだいたり、どのような人生を流れていったのだろう。

 道は多くの人の命が流れる道であり、そして私たちも多くの人が流れる命のうちのひとつである。かつて道を歩いた人たちを思い浮かべるということは、そのような長大な歴史の中に消えていった人たちの哀愁を感じることでもあるのだろう。道に遺跡や遺物を見つけることは、人の命の営みをそこに立ち上がらせることなのである。私たちもそのうちのひとりなのである。


かもしかみち (藤森栄一全集) 蛇―日本の蛇信仰 (講談社学術文庫) 日本の古代道路を探す―律令国家のアウトバーン (平凡社新書) 古代研究〈1〉祭りの発生 (中公クラシックス) 古代出雲 (講談社学術文庫)
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09 22
2008

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『新編みなかみ紀行』 若山 牧水


新編みなかみ紀行 (岩波文庫)
若山 牧水

新編みなかみ紀行 (岩波文庫)  若山牧水 若山牧水


 若山牧水という人はよく知らないのだが、酒と旅を好んだ歌人であったようである。明治18年に生まれ、昭和3年に43歳の若さで亡くなっている。私がこの本を読んだのは、近代の文学者が旅や景観をどのように記述したのかの興味からである。

 景観や自然というのは視覚によるものがほとんどであって、言葉や言語に刻みつけて表現するのはかんたんではないと思う。視覚によるすばらしさと、言葉の表現はまったく異なるからだ。視覚は直接に与えられるものだが、言葉はイメージであり、頭の中の想像であり、歪曲された頭のイメージである。言葉の紀行は写真に劣るし、想像のイメージははるかに写真におよばない。よく文学で自然の美しさが描写されていたとしても、見たこともない者にとってはその美しさはなかなかイメージできないものである。言葉は風景のすばらしさのなにを描けるのだろうか。

 この本に描かれた牧水の旅の地には、私はほぼ行ったことがない。どこの土地を旅しているのかさえ、おぼつかない。牧水が自然や景観の美しさをのべようとも、私はイメージするしかないのである。そしてイメージというのは自分が行って見てきた自然の景観を重ねるしかないのである。悪い本ではないし、旅の感動や歓喜はところどころにつたわってくるのだが、自分のイメージの貧困さは拭いようがない。短歌も解さないものだから、せいぜい彼の旅の足跡をたどるくらいしかできない。

 二度とこないだろうからといって寄り道をしたり、宿に泊まっていると雪が降っていたと記述するあたりなど旅情が誘われる。だいたいは大正年間に旅した紀行文なのだが、よく一ヶ月や二ヶ月の旅に出られたものだと思う。お金のない客だと見られたり、泥まみれで山間を大急ぎで歩いたり、自殺志願の若者に間違われたり、と苦労はいろいろあったようだが。

 歌人というのは近代の文学者のようにちまたに知れ渡った人たちなのだろうか。近代の文学者というのはこんちにのTVタレントや俳優のように全国に知れ渡っていたものなのだろうか。いまなら文学者は教科書で教えられる超有名人だが、とうじもそうだったのだろうか。活字がTVのような国民衆知のメディアをつくっていたかは疑問である。文学者はいまも名前や本は知られていても読まれてはいないということが多いのではないだろうか。

 若山牧水はほぼ自然の美しさをのべるだけで、歴史にはまったく肩入れしていない。歴史の記述が書かれるのは、一片だけ藩の圧政に苦しむ民衆を救った悲劇のヒーローだけである。牧水はいま見える自然の美しさだけに向かい合い、過去を見なかった。大きな政治とか、歴史の話とはほとんど断絶している。近代という新し物好きの過去を断絶した時代のためだったのか、それとも自然の美しさだけで十分であったのだろうか。


若山牧水随筆集 (講談社文芸文庫) 若山牧水歌集 (岩波文庫) せどり男爵数奇譚 (ちくま文庫) 草すべり その他の短篇 阿弥陀堂だより (文春文庫)
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09 16
2008

旅へ

『おくのほそ道(全)』 松尾芭蕉


おくのほそ道(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
角川書店

おくのほそ道(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)


 日本の文学者は旅をどのように描いたのかという興味から読む。日本の代表的な紀行文だというのに、大阪人からすれば、「なんだ、東北・北陸旅行記」かと思ってしまう(笑)。大阪からの旅行で、東北はそう近くないし、あまり興味が向かうものでもないよう気がする。東北・北陸紀行が日本の旅紀行の代表作になるというのは、江戸が過去の日本(西日本)に対する決別をもてはやしたということなのか。『野ざらし紀行』では江戸から大和や芭蕉の出身地・伊賀と回っているけど。

 私は残念ながら俳句を解せない。どこがいいのか、どんなふうにいいのか、なぜこれが佳作なのかよくわからない。味わえればよいのだが、古典伝統と断たれてしまったのが現代だと慰めにする。

 芭蕉の旅の目的は奥州平泉や松島、象潟であったようで、歌枕をめぐる旅だった。かれの旅の感興というのは仙台・多賀城石碑でのつぎのような現代訳語にあらわれている。

「古歌に詠まれた名所(歌枕)は、たくさん語り伝えられているけれども、それらを実際に調べてみると、ほとんどの場合、名所だった山は崩れ、川は流れを変え、道は改まり、石は土中に埋まって隠れ、木は老いて若木と交代している。時代が移り変わって、名所の跡がはっきりしないものばかりなのだ。なのに、この壷の碑は、まさしく千年前の記念碑である。この碑を目の前にして、碑に感動して歌を詠んだ古人の気持ちがよくわかる。これぞ、旅のご利益、長生きのおかげであって、旅の苦労も吹き飛び、感激の涙があふれ落ちそうになった。



 かれは歴史に出会う旅をしたのであり、歴史によって変わったものの中の変わらないものに出会えて感動しているのである。歴史が消してしまう中で、歴史の痕跡を見出すことに感動を感じている。時間がたっても変わらないもの、残るものに、宝物を見つけたように喜んでいるのである。

 「夏草や兵どもが夢の跡」

 有名な句であるが、芭蕉はこの句が詠まれた奥州・平泉の地を最大の目的としていようだ。奥州藤原三代の栄枯盛衰の舞台、義経が散った地である。

「……主君義経を死守したのだが、その武功も一時のこと、今や戦場の跡は草むらと化している。杜甫の詩にある「国は滅んでも山河は昔のまま、城は荒れはてても、春になれば草は緑となる」という句のとおりたど、笠を敷いて腰を下ろし、時のたつのも忘れ、悲劇を回顧しながら涙にくれた」



 芭蕉の旅というのは「歴史紀行」である。旅の目的はたいていはそうなのだが、たんなるレジャーや観光、物見遊山というばあいもある。歴史と切れた現代を見る旅、あるいは自然や「いま」しか見ない旅というのももちろんある。歴史はつまみ程度の添え物ということもありうる。日本の政治的な歴史をめぐる旅であるというのが芭蕉の旅のようである。歴史の悲劇の人物、または衰退のさまに最大の感興を感じているようだ。

 「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」

 この有名な句は、山形県山寺の立石寺で詠まれている。

「登ってみると、そこは、岩また岩が幾重にも重なりあって山をなし、松や檜などの老木が茂りあい、土も石も古色を帯びて苔がなめらかに覆っている。岩上に建てられた十二の御堂は、どれも扉を閉めきって、物音ひとつしない。
岩場のふちを回ったり、岩の上で這ったりして、ようやく本堂を拝むことができた。ひっそりと鎮まりかえった、すばらしい風景のなかで、ひたすら心が澄みゆくのを感じた」



 こういう文章のあとにその句ははさまれている。なるほど背景やそこにいたる道というのも重要な舞台装置なのである。

 日本の古典文学の代表作にこのようなオソマツな文章しか書けないが、まあ、芭蕉の旅とはどのようなものだったのか概要がわかってよしということにしよう。旅にどのようなものが求められたのか、が私のこんかいの読書の目的である。


徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) 平家物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) 万葉集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) 枕草子 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) 古事記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
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09 12
2008

旅へ

『エグザイルス(放浪者たち)』 ロバート・ハリス

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エグザイルス(放浪者たち)―すべての旅は自分へとつながっている (講談社プラスアルファ文庫)
ロバート ハリス

エグザイルス(放浪者たち)―すべての旅は自分へとつながっている (講談社プラスアルファ文庫)


 圧倒的な書物、というか人生である。1948年生まれの団塊世代のヒッピーの放浪人生がどのようなものだったのか、追体験できる書物になっている。といってもロバート・ハリスは祖父が英国人、祖母が日本人のあいだに生まれた父と、日本人の母のあいだに生まれていて、ハーフなのか、日本人といっていいのかあいまいに思えたが。

小さいうちはこの「楽しく生きる」ということが楽にできた。だが、成長すればするほど、それは難しいものになっていった。大変な労力と反逆精神と強い意志が必要になっていった。それは社会というものが、「楽しい」を基準にしていないからだった。「楽しい」の代わりに、「生産」、「発展」、「義務」、そんなコンセプトが幅を利かせていた。
僕はたまらなくなり、日本を飛び出した。今逃げないと、自分が潰されてしまうと思ったのだ。

どこへ行こうが、くだらない奴に媚びたり、敷かれたレールの上を往復するような人生は送りたくない、そう思っていた。



 ロバート・ハリスはヒッピーの典型のように東南アジアを放浪し、旅をライフスタイルとして生きられることを実感し、さまざまなヒッピーや放浪者と出会い、オーストラリアで画廊書店を経営し、文化人の集う場所をつくっていった。まさしくサラリーマンの決められたレールの人生を拒否して、反逆的な放浪の人生を送ったのである。ある人たちの憧れであり、または憧れてもできない人生であり、多くの人はレールの上の人生を歩む。それしか生き方がない、またはほかの生き方を知らないといった理由から大半の人はサラリーマンの人生を歩むのだが、ロバート・ハリスはドロップアウトの典型的な生き方をここに開示してくれるのである。

 こんにちでもそのような旅に生きる人はいないわけではない。むかしのように反逆的でも反体制的でもなく、しずかに旅に立ち、ブームもおこさず、ひっそりと旅好きな人やバックパッカーという薄められた旅が趣味な人というカテゴリーで世界を放浪するようである。ひそかに反逆や抵抗の精神はあるのだろうが、社会はそのような生き方に注目したりゆり動かされることは少なくなった。われわれは反体制や反逆が渦巻いていた時代よりはるかにおとなしくて、しずかな、体制に呑み込まれるしかない時代を生きているといえる。

 私もこのようなつまらない社会から逃れようとして、アメリカのヒッピー世代やビート世代の反逆精神を学ぼうと、その時代の書物をよく読んだものである。ロバート・ハリスが読んだり、カルトとしてきた書物はじつに私もよく読んできた。カウンター・カルチャー(対抗文化)の精神はこんにちでも通用するのか、どうしてこんにちこんなしずかな、おとなしい社会になってしまったかという思いをこめながら。

 ハリスはジャック・ケルアックの『ダルマ行者たち』で人生観が変わってしまったという。そしてケルアックの『オン・ザ・ロード』、『ロンサム・トラベラー』、ゲイリー・スナイダーの詩集、ギンズバーグの詩集、ポール・ボウルズ、ウィリアム・バロウズを読んだという。ヘルマン・ヘッセはヒッピー世代には他の作家より評価が高かったようだ。東洋探究と自己発見の旅の要素が強かったからである。カザンザキス、ヘンリー・ミラー。ハリスはこのようなカウンターカルチャーの精神をもろに影響を受けたようである。たぶんそのころの世代の若者もおおく読み、影響を受けたのだろうが、多くの若者はふつうにサラリーマン社会に呑みこまれていった。

 かれの定義によるとボヘミアンは社会のメインストリームに反発する、貧乏である、変なところに住んでいる、イデオロギーや議論をよくし、よく話をする、創作活動に人生を賭ける、ということになる。芸術的な人生を歩みたいという思いがあるようである。でもこれだって、こんにちではしっかりと商業主義に呑み込まれて、世俗的成功や世俗的承認をもとめる一般人とちっとも変わらないのだが、なぜかこんにちでも芸術と世俗は違うと分けられるようだ。創作至上主義と世俗の軽蔑っていったいなんなのだろうと思う。

 オーストラリアに出るころにかれは自己嫌悪の蟻地獄に落ちこみ、起きているあいだ、一秒も楽しいと思える時間がなかったという鬱状態におちいる。クリシュナムルティ、カスタネダ、ヘッセ、ラムダスなどの精神世界の本を読み、LSDやヤクはよくやり、弟の精神的変調のためにフロイトやレイン(?)、グロフ、パールズなどの心理療法の本を読んでいる。私もこれらの本を山のように読んだのだが、とうじのカウンターカルチャーの精神世界はこんにちまで見事にひきつがれているということになる。私はこれらの知識の利用価値は、悟りをめざすのではなくて、心のコントロール法にあると思っている。社会は心の操縦法を教えないから、精神の袋小路に落ち込んだものはその抜け出し方を知らない。そこでこの技能的知識が役に立つというものであると思う。

「不安も恐怖もあなたの意識が創っているものです。自分が創ったものと自分が戦うなんて意味のないことです。静かに見つめることです。そうすればいつか去っていきます」
「哲学なんておならのようなものです。宗教もおならです。神もおなら。概念はみな頭のするおならです」



 この意味がわかるだろうか。私たちがものを考えたり、なにかの感情や気分に満たされているとき、いつの間にか「考えさせられている」、「思わされている」といった状態になっている。思考や感情の受動態になっている。ニューエイジが教えるのはそれは自分がつくりだしたもの、あるいは習慣やこれまでのパターン化された思考だと教える。つまり自分でつくりだしてものであるのに、受動態のように受け入れ、ときには責めさいなまされる。この思考に乗り入れないために思考を雲のようにながめろといったり、そんなものは価値がない、思考や言葉の「虚構」にすぎないとさとすのである。いちど感情に乗り入れると、その感情はリアルな実体感あるものとして迫ってくる。自分の頭が勝手に生み出す思考の波に乗り込まなかったら、私たちは自分の思考のコントロール法を手に入れることになるのである。

 ハリスは80年代に増えてきた海外へ旅する日本の若者を見て違和感を抱く。背中を丸めて黙々とマンガや週刊誌を読み、日本のビデオを見ている。暗くて、消極的で、元気がないとかれは思う。逃走者や敗北者とかれら自身も捉えている。「オレがいた頃より、日本は元気のない国になったんだな」――ハリスは思うわけだが、まさしくそうであると思う。ハリスは多くの人と語らい、議論し、つながりをもとうとするのだが、こんにちの日本の若者は黙々とひとりでマンガを読んだりゲームをしたりすることを好む。こういう者から見ると、ハリスの社交人生は圧倒的である。スウェーデンの若者はことごとく生気がないとハリスは放浪人生のはじめに思うわけだが、福祉国家がそのように若者の反逆や情熱を奪うのかと推察している。

 この本というか、この人の人生というのは、人はこんなに自由に生きられるんだ、好きなように、楽しんで生きる方法もあるんだと教えてくれる。まあ、たいがいの人は現実的な反応しかしないものであるが、メシはどうやって食う、カネはどうやって稼ぐ、いまの時代なら年金や健康保険はどうなるといって、ますます老人のような死んだような人生を余儀なくされる。福祉国家は若者を殺すようである。安定し、保障された人生は、情熱や生気を殺す。人が貧困に突き落とされ、守られない格差社会も悲惨だが、安定した福祉国家ももうひとつの魂の殺人である。安定して生きられるというのは罪なものである。ハリスのような放浪の人生はわれわれの生き方からどんどん奪われてゆくのだろうか。


カウンターカルチャーのカルトな書物
ザ・ダルマ・バムズ (講談社文芸文庫)オン・ザ・ロード (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1)孤独な旅人 (河出文庫)
ギンズバーグ詩集荒野のおおかみ (新潮文庫)デミアン (新潮文庫)
南回帰線 (講談社文芸文庫)ビー・ヒア・ナウ―心の扉をひらく本 (mind books)未知の次元―呪術師ドン・ファンとの対話 (講談社学術文庫)自我の終焉―絶対自由への道

ロバート・ハリスの著作
ワイルドサイドを歩け (講談社プラスアルファ文庫) 人生の100のリスト 幻の島を求めて―終わりなき旅路 エーゲ海編 (終わりなき旅路 (エーゲ海編)) 人生の100のリスト (講談社+アルファ文庫 A 42-3) MOROCCO ON THE ROAD 終わりなき旅路 モロッコ編 (終わりなき旅路 (モロッコ編))
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09 10
2008

旅へ

『日本十六景』 森本 哲郎


日本十六景 (PHP文庫 も 7-13)日本十六景 (PHP文庫 も 7-13)
(2008/08/01)
森本 哲郎

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 旅というのはどのような風景や美に魅かれて旅立つのだろうかと、近代の文学者あたりの紀行文を読みたくなった。近代の文学者の名著とよばれる紀行文はだれの作品があるのだろうか。とりあえず岩波文庫でざっと見てみると「うっ」と言葉につまる(笑)。古文のよう文体で読めないのである。ちょうど、いいころあいに新刊に出ていた森本哲郎のこの本を手にとる。

 この人の旅に出る発火点というのは、日本の伝統的な文学の美である。『万葉集』とか『古今集』などの古典文学である。国木田独歩の『武蔵野』、徳富蘆花の『自然と人生』が自然の美しさ、自然の暮らしの豊かさを教えてくれたという。かれが戦前、赤紙召集されてふところに抱えた書物が『蕪村俳句集』と道元の『正法眼蔵』である。古典文学に裏打ちされた教養によって日本の美しさに出会うことがかれの旅の目的である。

 私などはそのような古典の美とほぼ断絶している。『万葉集』をわかりたいと思うけどなかなか達せず、俳句や短歌の味わいは解せず、明治の文学も現代かな文字に翻訳してもらわないと理解できない。古典の教養はほぼないのである。私の自然に対する美というのは、どこからできあがっていったものだろうか。山岳や昔ながらの田園風景にたまらない郷愁を感じるのだが、こういう美を感じる心はどのような知識によって生まれたのだろうか。山間に囲まれた田園風景に美を感じるのは、『まんが日本昔ばなし』に出てきた田園風景しかないように思うのである。中国の隠遁思想や老荘思想をかじって、すこしはそういうところに感化された部分もあるが。

 こんにちの多くの人も古典の教養と断続していると思う。こんにちの人たちが旅に駆り立てられる風景というのは雑誌やガイドブックによるものであり、グルメやレジャー施設としての観光である。『万葉集』や『自然と人生』によって自然の風景を愛でる人たちがどれほどいるというのだろうか。現代はそういう教養もなしで自然を楽しめる時代でもあるが、森本哲郎は学生時代に多田道太郎や読売新聞の渡邉恒雄とかに知りあっているから、まあこの人たちは旧帝大の教養を背負った特殊な人たちだったのだろう。こんにちのガイドブック・ツアーは江戸時代の物見遊山と通ずるものがあるのだろう。

 自然の美しさや旅の紀行を書くのはものすごくむずかしいと思う。目で感じられる美や雄大なる風景を前にして、いくら言葉を尽くしても語れないし、じっさいに体験する空間を言葉におきかえることも、つたえることもできないと思う。なにを感じ、なにを思い、どのようなことに着目してものを考え、言葉として描いたのか、そのような言葉の造形を知ろうとして近代文学の紀行文を読みたいと思うのだが、古い言葉が教養のない私をはばむのである。森本哲郎の旅紀行は日本の伝統古典をもとにした着想がなされているのである。

 日本人が古来好んできた風景というのは、きわめておだやかな内海や、歌枕として知られた名所であった。そのようなイメージは中国文化からうけとったと思われる。「遠浦帰帆」、「潚相夜雨」、「煙寺晩鐘」といったイメージである。それが昭和になってがらりと変わる。壮大な山河に魅かれるようになるのである。雄壮な滝、展望の峠、大河、大洋の岬、噴煙の山獄などである。昭和はじめに出された鉄道省後援の『日本八景』では、華厳滝、上高地、狩勝峠、室戸岬、木曽川、別府温泉、雲仙岳、十和田湖が選ばれている。

 森本哲郎が選んでいる十六景は、吉野、相模・大山、華厳の滝、福岡・柳川、柳生の里、隠岐島、徳島・眉山、恐山、厳島神社などである。私はこのような風景に対して、紀行文や歴史を描く構想力というものがすごいと思う。風景に対して言葉をつむぐ、言葉を彫りこんでゆくということはひじょうにむずかしいと思うのである。私にとって風景や旅は、言葉ではなくて、視界で捉えるものだからかもしれない。

 ちなみにひじょうに印象に残ったエピソードとして、妻の死によって徳島にうつりすんだモラエスの生涯、森本哲郎が戦時中に体験した軍需工場、学徒疎開などのエピソートがぐいぐいとひきこまれた。


関連文献
自然と人生 (1949年) (岩波文庫)
自然と人生 (1949年) (岩波文庫)
日本の景観―ふるさとの原型 (ちくま学芸文庫)
日本の景観―ふるさとの原型 (ちくま学芸文庫)
武蔵野 (岩波文庫)万葉集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)日本八景―八大家執筆 (平凡社ライブラリー)蕪村俳句集 (岩波文庫)

09 08
2008

旅へ

『道の風土記』 共同通信社


P9080003_convert_20080908205508.jpg道の風土記 (新潮選書)
共同通信社
新潮社 1989-06

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 ツーリングに出かけたいと思うのだが、いぜんのような地方に対する好奇心が枯渇している。いぜんはハイキングに山々に登り、土地の風俗や生活、歴史、あるいは信仰する神などに興味がもてた。民俗学や古代史、歴史地理などでその好奇心を満たしたいと思っていた。しかしなかなかその好奇心を満足させてくれる知識と出会わず、基本的な好奇心が枯渇してくる事態におちいった。ということで興味をふたたび立ち上がらせてくれる本ということで、古本で見つけたこの本を手にとった。

 89年の出版で、共同通信社の担当者が数名で執筆している。いわゆる新聞社文体で、体言止や簡潔な言い回し、そっけない概要口調、がさいしょはいやに目についたが、構成のテーマが物流までカバーしていて、あんがいしっかりした本なのかなとも思った。

 道や街道というのは物流や商売の道としてかなり重要であったし、旅や遊芸、知識や情報をつたえる重要な通り道であった。地域や町の発展は、街道や物流とつながりがあった。地域や土地を全体につかみとろうとしたら、この街道やあるいは物流の海道などから見てみることが大切なのだと思う。道こそが人びとの生活や暮らし、あるいは町をつくりだすものである。

 糸魚川から松本までは塩の道があったし、若狭と京都には鯖街道があった。伊勢や熊野への道は旅の道であり、信仰の道でもあった。海の道は日本の物流を大きく支えた。道はこんにちでいう鉄道に憧れることと似ているのかもしれない。この線路が遠い土地までつながっているという思いが郷愁を誘うのである。道は遠方の地でもあったのである。道はたとえば山塊に閉じ込められた村の住人にとっては、憧れを誘うはるか彼方につながる土地でもあった。道はロマンであったのである。

 戦後に農村から都市への民族大移動がおこって、おおくの人は都市に移り住んでサラリーマンとなった。学校ではほとんどの人が都市に住んでいると教えられたように記憶するが、こんにちでも地方や田舎に住む人はたくさんいる。都市に住む人は都市の繁栄や便利さに目を奪われてまったく失念するわけだが、地方は広いし、町はまばらに存在し、あちこちに人の住む場所はひろがっている。

 都市民は都市に満足して、地方に興味を向けない。地方の人も都市の魅力に目を奪われる。そうして地域性や地方の独自性は忘れられてゆき、画一的な都市の町が日本中にできあがる。このような流れがここらで反転しはじめるのではないかとひそかに私は思っている。

 地方を舞台にしたドラマや映画は増え、それはフィルムコミョッショナーや地域振興の誘導によるところも大きいのだろうが、若い世代は地方に魅力があることを確実に刷り込まれているだろう。それに都市はいくら消費が便利であろうと魅力をいつまでももちつづけられるわけではないし、消費に倦むと都市は猥雑さの欠点を見出すようになるし、地域性や独自性もすでにない。画一性がおおった日本にとって、むかしあった地域の独自性・唯一性がぎゃくに輝きを増すのである。そんな時代がやってきそうに思うのである。

 道の歴史を探っていれば、むかしのほうが地方にロマンや郷愁がよりよくあったと感じられる。山のあなたになにがあるのだろう、海の彼方にどんな町があるのだろう、そのような夢が描けたと思う。こんにちどこにいっても画一化され、東京化された町がどこにいっても広がっているだけである。地方の独自性や地域性はかえって、魅力を感じられるように思うのである。



08 29
2008

旅へ

『幻の漂泊民・サンカ』 沖浦 和光


幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)
沖浦 和光

幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)


 昭和前期から終戦まで三角寛の猟奇的なサンカ小説がブームになった。国家統制が厳しくなってゆく世の中に、山中を自由に移動し漂泊する姿にロマンや憧憬を感じたのだろう。柳田國男も渡来系の支配者に対して先住民は山人となってその支配に抗したというロマン的な発想を描いていたようだ。

 ときたま見かける「サンカ」という文字になんなのかという一瞥を加えることはあったのだが、こんかいこの本を読んでみて、漂泊の自由に憧れる「虚像がつくりだした」ものであるという観をもった。定住民というのは時の権力者に支配されてがんじがらめになっているものである。権力に屈せず、権力の網の目からも逃れて、山中を人知れず放浪する自由な漂泊民に憧れるというのは、軍国主義化の時代においてはもっとも激しく希求されたのだろう。

 柳田のように古代からの先住民の末裔だという説もあったが、著者は江戸時代のたび重なる飢饉から逃れて山中に生計の道を探さざるをえなかった人たちがサンカの起源になったとみなしている。天明や天保の飢饉があいついで、餓死者が数多く出る荒廃した幕末期にそのような山中に活路を見出す人たちがあらわれたと考えている。部落民に関わりがあるところなど、零細的なかわいそうな印象のほうが強い思いがした。

 なんども襲ってくる幕藩体制の末期の飢饉のような終末的な状況において、なんとか川魚漁や竹細工のような細々とした商売で山中を漂泊して食っていこうとした人たちが、軍国主義下の都市民によって「犯罪集団」やもしくは「漂泊の自由の民」という手前勝手なロマンやレッテルを貼られていったのである。国家権力の強権化が定住民をはげしく縛りつけてゆくような世の中において、権力の手の中をするりと通り抜けて人知れず漂泊する自由な民に憧れを抱いてしまうというのは、定住民の悲しいサガなのであろう。

 戦後の「寅さん」の放浪であるとか山下清の放浪などのフィクション物語は人びとの憧れを誘ったものである。『砂の器』のような零落した放浪もかすかな憧憬を駆り立てる。社会の硬直化や閉塞状況が強くなるたびにそのような思いが強くなる。近代化の国家主義の時代において、賤民や部落民に近かった零細の民は、都市民の過大なる憧憬やロマンを駆り立てて、「大いなる虚像」としてつくりあげられていったのだろう。

 戦後、欧米化や高度成長期において零細的なサンカや家船のような漂泊民は姿を消してゆき、巷間にのぼることもなくなった。しかし70年代にはいると歴史民俗学や文化人類学がブームになった。「周縁」「底辺」「辺境」「漂泊」などがキーワードとなった。なぜこのようなブームがきたのかと思うが、欧米化のあとには日本回帰の流れがやってきたり、西欧のパワーダウンなどがあって、日本の土着的なものの見直しがやってきたのだろう。五木寛之の『風の王国』(85年)がサンカをとりあげ、サンカ研究書も復刊し、いまでも書店で『三角寛サンカ選集』といったいくぶん「?」的な本も民俗学の棚に見かける。

 権力に守られ、そして権力に縛りつけられなければならない市民というのはかすかにジプシーや遊牧民、あるいはヒッピー、バックパッカーのような放浪の民に憧れてしまうものなんだろう。そしてそのような集団が権力側の目から差別されたり賤民視されていようが、実像からはなれた「憧憬をもった理想」が仮託されてゆくものなんだろう。ある意味では観光のイメージのようなものである。サンカというのはわれわれの「自由を求める心」が生み出したひとつの「虚像」であるのだろう。


サンカ関連書
風の王国 第一巻 翔ぶ女サンカの民と被差別の世界―日本人のこころ中国・関東 (五木寛之こころの新書)サンカの真実 三角寛の虚構 (文春新書)サンカ社会の深層をさぐる

漂泊の民サンカを追ってサンカと三角寛(みすみかん) 消えた漂泊民をめぐる謎 (平凡社新書)山窩物語 (三角寛サンカ選集)サンカ社会の研究 (三角寛サンカ選集)

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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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