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03 17
2010

旅へ

『物乞う仏陀』 石井光太


物乞う仏陀 (文春文庫)
石井光太

物乞う仏陀 (文春文庫)


 東南アジアからインドまで障害者や乞食の生きざまを追ったルポタージュであり、インドのストリート・チルドレンを描いた『スラムドッグ$ミリオネア』を見て興味をおぼえたから読んだ。障害者や乞食が血の通った、ふつうの人間として生きているさまがつたわってくるルポタージュである。

 中身の感想より、この手の本やルポはまずその姿勢やメディア・リテラシーが問われなければならないと思う。世界の貧困にたいする報道に私はすっかり目をそむけているし、豊かな国になった日本は世界の貧困を映すことがすくなくなったと思う。たまに特別番組でおこなわれるとその偽善さ、欺瞞さに目をおおいたくなる。貧しい国への援助募金はすばらしくていいことだろうが、偽善を感じるし、チャリティーをおこなう人たちへのシラケや距離感はどことなく人は感じているものだと思う。

 理由をさぐってみると、世界の貧困や悲惨さは個人の手におえない。自分の問題や生活で手いっぱいなのにどうして人を救えるのか。援助やボランティアをする人は世界をコントロールし、自分の手におえるという自負や誇大自己、もしくは優越感を充満させていることがたまらなくイタく感じるのだろう。個人に手におえない、個人ができること変えられることはなにもないという無力感と現実感が彼らの努力の誇大さに身をひかせてしまうのだ。

 私はかれらの心理的要因をさぐりたくなる。どうして貧しい人、困窮した人を助けようとするのだろうか。かれらの性格類型はあるのだろうか。自分が困っているから人を助けることにより問題を棚上げしたい、名誉や評価がほしいというエゴイズム的要因により困った人を必要とする、弱者をたすける正義の味方というパターンに魅かれた人ということになるだろうか。口汚い悪口になってしまうが、慈善やボランティアにはそういう疑念がつねにつきまとう。

 だからよいことなんだろうが、人は慈善やボランティアから身をひいてしまうものだと思う。私たちはどうしようもなくエゴイズムで利己的な人間であるという了解を打ち消すために慈善は利用したくないし、世界の圧倒的な力やシステム、経済的構造に刃向かえると思う誇大自己を保持するつもりもない。先進国の豊かで満たされた生活から、劣悪で貧困な人たちを見下げ、哀れみ、引き上げるという放漫な自尊心ももちたくない。序列の最低限につき落とす人間の手をさしのべる顔は醜い優越感が光っていることだろう。

 もうひとつ世界の貧困を報道するさい、本や雑誌などの商売を媒介するがゆえにそれはどうしても商業主義や儲け主義になってしまうという問題がある。悲惨さや救いがたさを煽れば煽るほど商売は儲かってしまう。悲惨さを報道することは金儲けや報道者の名誉が付与されることなのである。報道者は透明人間でもないし、それによって利益を得る人間である。この本に乞食の売り上げをあげさせるために手足を切ったり目をつぶして憐れさの演出をするインドのマフィアが出てくるが、報道者も同じ種類の儲けや利益を得ているという冷厳な事実がある。視聴者やスラムを鑑賞しにいく旅行者も同罪である。貧困を報道する、見るということはきわめてむづかしい重い問題をふくんでいるのである。

 この著者もなぜ障害者や乞食をアジア各地にルポをしにいく旅にでなければならなかったのだろう。純粋な興味だけですましてよいものだろうか。かれは世界の悲惨さをルポしたということで名誉や評価を得られるだろうし、さらには本の売り上げや原稿や写真の依頼さえ得られるのである。かれは悲惨をルポすることにより名誉や金銭、そして世界の暗部や最低辺を知っているという優越感も得られるのだ。厳しすぎるまなざしだと思うが、この問いを棚上げして世界の悲惨さを無邪気にのぞくこともまた罪が重いのである。

 いったいどうすればいいのか私にももちろんわからない。人間が生きるためにはほかの生き物の命を奪って生きるしかないという事実と同等に考えたらいいのか、そもそもなにもできないと目をふさぎ、報道をやめ、助けることも援助もやめてしまうほうがいいというふうにはならないだろう。自分たちの罪を自覚しながら、かかわってゆくしかないのだろうか。おのれの罪を恥じながら、罪をふやさないような対応が求められるということか。このような問題を考えた人の考えや著作を知りたいと思うのだが、私には見つけられない。

 この本では障害者や乞食でも人なつっこくて親しみを感じさせて、ほほえましくなるエピーソードや著者とのかかわりが描かれていて、悲惨さや過酷さをこれでもかと思い知らせる本ではなかったのでそれはよかったかもしれない。障害者や乞食のふつうの人としてのなりや親しみやすさがつたわってきて、明るさやほほえみがもたらされた。

 アジアで著者は乞食の認識を変えた。信じられないくらい明るく活き活きとしていて、仲間と冗談やひわいなことをいって話をかわし、また次の日を前向きに生きてゆく。ベトナムでは貧しさは恥ではない。あたりまえのことなのだ。物乞いでさえ、生きるための糧を得る正当な手段であり仕事なのである。著者はアジアに人間の悲惨さを見にきたようだが、そのような面があるのはたしかだが、その一面だけではないことを知るのである。だからこの本は悲惨さより、安らかさや穏やかさが感じられる本である。


kotaizum.com
「物乞う仏陀」取材写真


神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く 絶対貧困 カラシニコフ I (朝日文庫) アフリカを食べる/アフリカで寝る (朝日文庫 ま 16-5) カラシニコフ II (朝日文庫)
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10 10
2008

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『古道』 藤森 栄一


古道―古代日本人がたどったかもしかみちをさぐる (講談社学術文庫)
藤森 栄一

古道―古代日本人がたどったかもしかみちをさぐる (講談社学術文庫)


 このところ株価大暴落から目がはなせない。緒方拳の死去、ノーベル賞の日本人受賞など大きなニュースがつづく。なにか書きたいと思うのだが、私の手には負えないことばかりなので残念である。世情とまったく連動しないで、ほかの世界に沈静するのも乙なものである。世情とかかわらないで暮らすというのも、人にとっては幸福や安寧であるための必要な知恵や技能であるかもしれない。

 また読者からそっぽを向かれても(笑)、自分の好きなことを追究するねばり強さは、趣味をきわめる王道なのだろう。すぐに一般受けをねらったり、みんなの流れるほうに流れると、なにごともなしえないのだろう。人の楽しみと、自分の楽しみが重ならなければ、仕方がないというものである。

 この本は日本の道の開拓史をたどった歴史ロマンあふれる好著であると思う。著者の体験や発見がなまなましく描かれていて、考古学のロマンというものがよくあらわれている本だと思う。

 この本の発想の原点というのは、信濃や長野の土地はどのように人が通り、道や土地は開拓されていったのかということである。それを古代のゾウやかもしか、イノシシなどが通った道をたどりながら、人類の道や土地の開拓史までを思い描いてゆくのである。

 人は信濃や長野のような険しい山あいをどのように開拓し、または開けていったのかだろうと思わないだろうか。どのような人が通り、どのようなドラマを生んだのか、夢想したり、知りたいと思ったりしないだろうか。そのようなロマンを考古学の方法で調べていったのがこの壮大な人類史である。

 読み応えもあるし、なかなかすごい本だと思うのだが、信濃や長野あたりのことがよくわかっていない人でないと、深い感慨や理解が得られない考察でもあると思う。土地勘や地理を知らないとそう理解できたり、身近にロマンを感じられない。ある程度は郷土愛的な考察であるので、その土地をよく知らない者はすこし外れた読書になるかもしれない。

 道はいろいろな人が通り、流れてゆく。かつての縄文人やそれ以前の人たちが獲物を追って通った道ができあがり、農耕の地をさがした人たちの道が開け、黒曜石や食糧や行商の道がふみかためられ、宗教の聖地をめぐる旅で通られ、仕事のために遠くに旅立つ人のための通路になったりした。そのような人たちはどのような思いをいだいたり、どのような人生を流れていったのだろう。

 道は多くの人の命が流れる道であり、そして私たちも多くの人が流れる命のうちのひとつである。かつて道を歩いた人たちを思い浮かべるということは、そのような長大な歴史の中に消えていった人たちの哀愁を感じることでもあるのだろう。道に遺跡や遺物を見つけることは、人の命の営みをそこに立ち上がらせることなのである。私たちもそのうちのひとりなのである。


かもしかみち (藤森栄一全集) 蛇―日本の蛇信仰 (講談社学術文庫) 日本の古代道路を探す―律令国家のアウトバーン (平凡社新書) 古代研究〈1〉祭りの発生 (中公クラシックス) 古代出雲 (講談社学術文庫)
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09 22
2008

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『新編みなかみ紀行』 若山 牧水


新編みなかみ紀行 (岩波文庫)
若山 牧水

新編みなかみ紀行 (岩波文庫)  若山牧水 若山牧水


 若山牧水という人はよく知らないのだが、酒と旅を好んだ歌人であったようである。明治18年に生まれ、昭和3年に43歳の若さで亡くなっている。私がこの本を読んだのは、近代の文学者が旅や景観をどのように記述したのかの興味からである。

 景観や自然というのは視覚によるものがほとんどであって、言葉や言語に刻みつけて表現するのはかんたんではないと思う。視覚によるすばらしさと、言葉の表現はまったく異なるからだ。視覚は直接に与えられるものだが、言葉はイメージであり、頭の中の想像であり、歪曲された頭のイメージである。言葉の紀行は写真に劣るし、想像のイメージははるかに写真におよばない。よく文学で自然の美しさが描写されていたとしても、見たこともない者にとってはその美しさはなかなかイメージできないものである。言葉は風景のすばらしさのなにを描けるのだろうか。

 この本に描かれた牧水の旅の地には、私はほぼ行ったことがない。どこの土地を旅しているのかさえ、おぼつかない。牧水が自然や景観の美しさをのべようとも、私はイメージするしかないのである。そしてイメージというのは自分が行って見てきた自然の景観を重ねるしかないのである。悪い本ではないし、旅の感動や歓喜はところどころにつたわってくるのだが、自分のイメージの貧困さは拭いようがない。短歌も解さないものだから、せいぜい彼の旅の足跡をたどるくらいしかできない。

 二度とこないだろうからといって寄り道をしたり、宿に泊まっていると雪が降っていたと記述するあたりなど旅情が誘われる。だいたいは大正年間に旅した紀行文なのだが、よく一ヶ月や二ヶ月の旅に出られたものだと思う。お金のない客だと見られたり、泥まみれで山間を大急ぎで歩いたり、自殺志願の若者に間違われたり、と苦労はいろいろあったようだが。

 歌人というのは近代の文学者のようにちまたに知れ渡った人たちなのだろうか。近代の文学者というのはこんちにのTVタレントや俳優のように全国に知れ渡っていたものなのだろうか。いまなら文学者は教科書で教えられる超有名人だが、とうじもそうだったのだろうか。活字がTVのような国民衆知のメディアをつくっていたかは疑問である。文学者はいまも名前や本は知られていても読まれてはいないということが多いのではないだろうか。

 若山牧水はほぼ自然の美しさをのべるだけで、歴史にはまったく肩入れしていない。歴史の記述が書かれるのは、一片だけ藩の圧政に苦しむ民衆を救った悲劇のヒーローだけである。牧水はいま見える自然の美しさだけに向かい合い、過去を見なかった。大きな政治とか、歴史の話とはほとんど断絶している。近代という新し物好きの過去を断絶した時代のためだったのか、それとも自然の美しさだけで十分であったのだろうか。


若山牧水随筆集 (講談社文芸文庫) 若山牧水歌集 (岩波文庫) せどり男爵数奇譚 (ちくま文庫) 草すべり その他の短篇 阿弥陀堂だより (文春文庫)
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09 16
2008

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『おくのほそ道(全)』 松尾芭蕉


おくのほそ道(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
角川書店

おくのほそ道(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)


 日本の文学者は旅をどのように描いたのかという興味から読む。日本の代表的な紀行文だというのに、大阪人からすれば、「なんだ、東北・北陸旅行記」かと思ってしまう(笑)。大阪からの旅行で、東北はそう近くないし、あまり興味が向かうものでもないよう気がする。東北・北陸紀行が日本の旅紀行の代表作になるというのは、江戸が過去の日本(西日本)に対する決別をもてはやしたということなのか。『野ざらし紀行』では江戸から大和や芭蕉の出身地・伊賀と回っているけど。

 私は残念ながら俳句を解せない。どこがいいのか、どんなふうにいいのか、なぜこれが佳作なのかよくわからない。味わえればよいのだが、古典伝統と断たれてしまったのが現代だと慰めにする。

 芭蕉の旅の目的は奥州平泉や松島、象潟であったようで、歌枕をめぐる旅だった。かれの旅の感興というのは仙台・多賀城石碑でのつぎのような現代訳語にあらわれている。

「古歌に詠まれた名所(歌枕)は、たくさん語り伝えられているけれども、それらを実際に調べてみると、ほとんどの場合、名所だった山は崩れ、川は流れを変え、道は改まり、石は土中に埋まって隠れ、木は老いて若木と交代している。時代が移り変わって、名所の跡がはっきりしないものばかりなのだ。なのに、この壷の碑は、まさしく千年前の記念碑である。この碑を目の前にして、碑に感動して歌を詠んだ古人の気持ちがよくわかる。これぞ、旅のご利益、長生きのおかげであって、旅の苦労も吹き飛び、感激の涙があふれ落ちそうになった。



 かれは歴史に出会う旅をしたのであり、歴史によって変わったものの中の変わらないものに出会えて感動しているのである。歴史が消してしまう中で、歴史の痕跡を見出すことに感動を感じている。時間がたっても変わらないもの、残るものに、宝物を見つけたように喜んでいるのである。

 「夏草や兵どもが夢の跡」

 有名な句であるが、芭蕉はこの句が詠まれた奥州・平泉の地を最大の目的としていようだ。奥州藤原三代の栄枯盛衰の舞台、義経が散った地である。

「……主君義経を死守したのだが、その武功も一時のこと、今や戦場の跡は草むらと化している。杜甫の詩にある「国は滅んでも山河は昔のまま、城は荒れはてても、春になれば草は緑となる」という句のとおりたど、笠を敷いて腰を下ろし、時のたつのも忘れ、悲劇を回顧しながら涙にくれた」



 芭蕉の旅というのは「歴史紀行」である。旅の目的はたいていはそうなのだが、たんなるレジャーや観光、物見遊山というばあいもある。歴史と切れた現代を見る旅、あるいは自然や「いま」しか見ない旅というのももちろんある。歴史はつまみ程度の添え物ということもありうる。日本の政治的な歴史をめぐる旅であるというのが芭蕉の旅のようである。歴史の悲劇の人物、または衰退のさまに最大の感興を感じているようだ。

 「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」

 この有名な句は、山形県山寺の立石寺で詠まれている。

「登ってみると、そこは、岩また岩が幾重にも重なりあって山をなし、松や檜などの老木が茂りあい、土も石も古色を帯びて苔がなめらかに覆っている。岩上に建てられた十二の御堂は、どれも扉を閉めきって、物音ひとつしない。
岩場のふちを回ったり、岩の上で這ったりして、ようやく本堂を拝むことができた。ひっそりと鎮まりかえった、すばらしい風景のなかで、ひたすら心が澄みゆくのを感じた」



 こういう文章のあとにその句ははさまれている。なるほど背景やそこにいたる道というのも重要な舞台装置なのである。

 日本の古典文学の代表作にこのようなオソマツな文章しか書けないが、まあ、芭蕉の旅とはどのようなものだったのか概要がわかってよしということにしよう。旅にどのようなものが求められたのか、が私のこんかいの読書の目的である。


徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) 平家物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) 万葉集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) 枕草子 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) 古事記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
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09 10
2008

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『日本十六景』 森本 哲郎


日本十六景 (PHP文庫 も 7-13)日本十六景 (PHP文庫 も 7-13)
(2008/08/01)
森本 哲郎

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 旅というのはどのような風景や美に魅かれて旅立つのだろうかと、近代の文学者あたりの紀行文を読みたくなった。近代の文学者の名著とよばれる紀行文はだれの作品があるのだろうか。とりあえず岩波文庫でざっと見てみると「うっ」と言葉につまる(笑)。古文のよう文体で読めないのである。ちょうど、いいころあいに新刊に出ていた森本哲郎のこの本を手にとる。

 この人の旅に出る発火点というのは、日本の伝統的な文学の美である。『万葉集』とか『古今集』などの古典文学である。国木田独歩の『武蔵野』、徳富蘆花の『自然と人生』が自然の美しさ、自然の暮らしの豊かさを教えてくれたという。かれが戦前、赤紙召集されてふところに抱えた書物が『蕪村俳句集』と道元の『正法眼蔵』である。古典文学に裏打ちされた教養によって日本の美しさに出会うことがかれの旅の目的である。

 私などはそのような古典の美とほぼ断絶している。『万葉集』をわかりたいと思うけどなかなか達せず、俳句や短歌の味わいは解せず、明治の文学も現代かな文字に翻訳してもらわないと理解できない。古典の教養はほぼないのである。私の自然に対する美というのは、どこからできあがっていったものだろうか。山岳や昔ながらの田園風景にたまらない郷愁を感じるのだが、こういう美を感じる心はどのような知識によって生まれたのだろうか。山間に囲まれた田園風景に美を感じるのは、『まんが日本昔ばなし』に出てきた田園風景しかないように思うのである。中国の隠遁思想や老荘思想をかじって、すこしはそういうところに感化された部分もあるが。

 こんにちの多くの人も古典の教養と断続していると思う。こんにちの人たちが旅に駆り立てられる風景というのは雑誌やガイドブックによるものであり、グルメやレジャー施設としての観光である。『万葉集』や『自然と人生』によって自然の風景を愛でる人たちがどれほどいるというのだろうか。現代はそういう教養もなしで自然を楽しめる時代でもあるが、森本哲郎は学生時代に多田道太郎や読売新聞の渡邉恒雄とかに知りあっているから、まあこの人たちは旧帝大の教養を背負った特殊な人たちだったのだろう。こんにちのガイドブック・ツアーは江戸時代の物見遊山と通ずるものがあるのだろう。

 自然の美しさや旅の紀行を書くのはものすごくむずかしいと思う。目で感じられる美や雄大なる風景を前にして、いくら言葉を尽くしても語れないし、じっさいに体験する空間を言葉におきかえることも、つたえることもできないと思う。なにを感じ、なにを思い、どのようなことに着目してものを考え、言葉として描いたのか、そのような言葉の造形を知ろうとして近代文学の紀行文を読みたいと思うのだが、古い言葉が教養のない私をはばむのである。森本哲郎の旅紀行は日本の伝統古典をもとにした着想がなされているのである。

 日本人が古来好んできた風景というのは、きわめておだやかな内海や、歌枕として知られた名所であった。そのようなイメージは中国文化からうけとったと思われる。「遠浦帰帆」、「潚相夜雨」、「煙寺晩鐘」といったイメージである。それが昭和になってがらりと変わる。壮大な山河に魅かれるようになるのである。雄壮な滝、展望の峠、大河、大洋の岬、噴煙の山獄などである。昭和はじめに出された鉄道省後援の『日本八景』では、華厳滝、上高地、狩勝峠、室戸岬、木曽川、別府温泉、雲仙岳、十和田湖が選ばれている。

 森本哲郎が選んでいる十六景は、吉野、相模・大山、華厳の滝、福岡・柳川、柳生の里、隠岐島、徳島・眉山、恐山、厳島神社などである。私はこのような風景に対して、紀行文や歴史を描く構想力というものがすごいと思う。風景に対して言葉をつむぐ、言葉を彫りこんでゆくということはひじょうにむずかしいと思うのである。私にとって風景や旅は、言葉ではなくて、視界で捉えるものだからかもしれない。

 ちなみにひじょうに印象に残ったエピソードとして、妻の死によって徳島にうつりすんだモラエスの生涯、森本哲郎が戦時中に体験した軍需工場、学徒疎開などのエピソートがぐいぐいとひきこまれた。


関連文献
自然と人生 (1949年) (岩波文庫)
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日本の景観―ふるさとの原型 (ちくま学芸文庫)
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武蔵野 (岩波文庫)万葉集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)日本八景―八大家執筆 (平凡社ライブラリー)蕪村俳句集 (岩波文庫)

09 08
2008

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『道の風土記』 共同通信社


P9080003_convert_20080908205508.jpg道の風土記 (新潮選書)
共同通信社
新潮社 1989-06

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 ツーリングに出かけたいと思うのだが、いぜんのような地方に対する好奇心が枯渇している。いぜんはハイキングに山々に登り、土地の風俗や生活、歴史、あるいは信仰する神などに興味がもてた。民俗学や古代史、歴史地理などでその好奇心を満たしたいと思っていた。しかしなかなかその好奇心を満足させてくれる知識と出会わず、基本的な好奇心が枯渇してくる事態におちいった。ということで興味をふたたび立ち上がらせてくれる本ということで、古本で見つけたこの本を手にとった。

 89年の出版で、共同通信社の担当者が数名で執筆している。いわゆる新聞社文体で、体言止や簡潔な言い回し、そっけない概要口調、がさいしょはいやに目についたが、構成のテーマが物流までカバーしていて、あんがいしっかりした本なのかなとも思った。

 道や街道というのは物流や商売の道としてかなり重要であったし、旅や遊芸、知識や情報をつたえる重要な通り道であった。地域や町の発展は、街道や物流とつながりがあった。地域や土地を全体につかみとろうとしたら、この街道やあるいは物流の海道などから見てみることが大切なのだと思う。道こそが人びとの生活や暮らし、あるいは町をつくりだすものである。

 糸魚川から松本までは塩の道があったし、若狭と京都には鯖街道があった。伊勢や熊野への道は旅の道であり、信仰の道でもあった。海の道は日本の物流を大きく支えた。道はこんにちでいう鉄道に憧れることと似ているのかもしれない。この線路が遠い土地までつながっているという思いが郷愁を誘うのである。道は遠方の地でもあったのである。道はたとえば山塊に閉じ込められた村の住人にとっては、憧れを誘うはるか彼方につながる土地でもあった。道はロマンであったのである。

 戦後に農村から都市への民族大移動がおこって、おおくの人は都市に移り住んでサラリーマンとなった。学校ではほとんどの人が都市に住んでいると教えられたように記憶するが、こんにちでも地方や田舎に住む人はたくさんいる。都市に住む人は都市の繁栄や便利さに目を奪われてまったく失念するわけだが、地方は広いし、町はまばらに存在し、あちこちに人の住む場所はひろがっている。

 都市民は都市に満足して、地方に興味を向けない。地方の人も都市の魅力に目を奪われる。そうして地域性や地方の独自性は忘れられてゆき、画一的な都市の町が日本中にできあがる。このような流れがここらで反転しはじめるのではないかとひそかに私は思っている。

 地方を舞台にしたドラマや映画は増え、それはフィルムコミョッショナーや地域振興の誘導によるところも大きいのだろうが、若い世代は地方に魅力があることを確実に刷り込まれているだろう。それに都市はいくら消費が便利であろうと魅力をいつまでももちつづけられるわけではないし、消費に倦むと都市は猥雑さの欠点を見出すようになるし、地域性や独自性もすでにない。画一性がおおった日本にとって、むかしあった地域の独自性・唯一性がぎゃくに輝きを増すのである。そんな時代がやってきそうに思うのである。

 道の歴史を探っていれば、むかしのほうが地方にロマンや郷愁がよりよくあったと感じられる。山のあなたになにがあるのだろう、海の彼方にどんな町があるのだろう、そのような夢が描けたと思う。こんにちどこにいっても画一化され、東京化された町がどこにいっても広がっているだけである。地方の独自性や地域性はかえって、魅力を感じられるように思うのである。



08 29
2008

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『幻の漂泊民・サンカ』 沖浦 和光


幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)
沖浦 和光

幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)


 昭和前期から終戦まで三角寛の猟奇的なサンカ小説がブームになった。国家統制が厳しくなってゆく世の中に、山中を自由に移動し漂泊する姿にロマンや憧憬を感じたのだろう。柳田國男も渡来系の支配者に対して先住民は山人となってその支配に抗したというロマン的な発想を描いていたようだ。

 ときたま見かける「サンカ」という文字になんなのかという一瞥を加えることはあったのだが、こんかいこの本を読んでみて、漂泊の自由に憧れる「虚像がつくりだした」ものであるという観をもった。定住民というのは時の権力者に支配されてがんじがらめになっているものである。権力に屈せず、権力の網の目からも逃れて、山中を人知れず放浪する自由な漂泊民に憧れるというのは、軍国主義化の時代においてはもっとも激しく希求されたのだろう。

 柳田のように古代からの先住民の末裔だという説もあったが、著者は江戸時代のたび重なる飢饉から逃れて山中に生計の道を探さざるをえなかった人たちがサンカの起源になったとみなしている。天明や天保の飢饉があいついで、餓死者が数多く出る荒廃した幕末期にそのような山中に活路を見出す人たちがあらわれたと考えている。部落民に関わりがあるところなど、零細的なかわいそうな印象のほうが強い思いがした。

 なんども襲ってくる幕藩体制の末期の飢饉のような終末的な状況において、なんとか川魚漁や竹細工のような細々とした商売で山中を漂泊して食っていこうとした人たちが、軍国主義下の都市民によって「犯罪集団」やもしくは「漂泊の自由の民」という手前勝手なロマンやレッテルを貼られていったのである。国家権力の強権化が定住民をはげしく縛りつけてゆくような世の中において、権力の手の中をするりと通り抜けて人知れず漂泊する自由な民に憧れを抱いてしまうというのは、定住民の悲しいサガなのであろう。

 戦後の「寅さん」の放浪であるとか山下清の放浪などのフィクション物語は人びとの憧れを誘ったものである。『砂の器』のような零落した放浪もかすかな憧憬を駆り立てる。社会の硬直化や閉塞状況が強くなるたびにそのような思いが強くなる。近代化の国家主義の時代において、賤民や部落民に近かった零細の民は、都市民の過大なる憧憬やロマンを駆り立てて、「大いなる虚像」としてつくりあげられていったのだろう。

 戦後、欧米化や高度成長期において零細的なサンカや家船のような漂泊民は姿を消してゆき、巷間にのぼることもなくなった。しかし70年代にはいると歴史民俗学や文化人類学がブームになった。「周縁」「底辺」「辺境」「漂泊」などがキーワードとなった。なぜこのようなブームがきたのかと思うが、欧米化のあとには日本回帰の流れがやってきたり、西欧のパワーダウンなどがあって、日本の土着的なものの見直しがやってきたのだろう。五木寛之の『風の王国』(85年)がサンカをとりあげ、サンカ研究書も復刊し、いまでも書店で『三角寛サンカ選集』といったいくぶん「?」的な本も民俗学の棚に見かける。

 権力に守られ、そして権力に縛りつけられなければならない市民というのはかすかにジプシーや遊牧民、あるいはヒッピー、バックパッカーのような放浪の民に憧れてしまうものなんだろう。そしてそのような集団が権力側の目から差別されたり賤民視されていようが、実像からはなれた「憧憬をもった理想」が仮託されてゆくものなんだろう。ある意味では観光のイメージのようなものである。サンカというのはわれわれの「自由を求める心」が生み出したひとつの「虚像」であるのだろう。


サンカ関連書
風の王国 第一巻 翔ぶ女サンカの民と被差別の世界―日本人のこころ中国・関東 (五木寛之こころの新書)サンカの真実 三角寛の虚構 (文春新書)サンカ社会の深層をさぐる

漂泊の民サンカを追ってサンカと三角寛(みすみかん) 消えた漂泊民をめぐる謎 (平凡社新書)山窩物語 (三角寛サンカ選集)サンカ社会の研究 (三角寛サンカ選集)

08 20
2008

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『人生を変える旅』 蔵前 仁一


人生を変える旅 (幻冬舎文庫)
蔵前 仁一

人生を変える旅 (幻冬舎文庫)


 私はべつに海外の旅が好きではない。まとまったお金をいっきょに使う気になんかならないし、旅に出られるほどの稼ぎがいいというわけではない。外国の憧れの地があるというわけでもない。

 このような海外の旅の本を読んでいるのは、下川裕治の『日本を降りる若者』を読んだからである。日本の働き蜂社会からドロップアウトする方法に海外放浪するという手段もあることを知って、にわかに可能性を探ってみたくなったからである。海外放浪する人生について知ってみたいということで海外旅行本を読んでいるが、べつに私は旅に憧れるというわけではないのである。

 この本は雑誌の読者の投稿のようなかたちをとっている。旅とはなにか、カルチャーショックをうけたことや、生活を知る、人と会う、人生は旅、などの項目でそれぞれの旅行が語られている。まあ、旅好きな人が読む本である。

 旅との対極の人生は育った町で働き、その町から一歩も出ないで人生を過ごす生き方だろう。多くの人はこのような生き方をするだろうし、観光地への旅も申し訳程度にする人がもしかして多いんじゃないかと思う。自分の町しか知らないという人もけっこういるのかもしれない。それで満足するのならべつに旅なんかしなくていいだろうし、旅のような贅沢などできなかったり、旅などしたくもないと思っているかもしれない。生活の糧が町に縛られている以上、おおくの人はその地を離れることはできないのである。ふつうの人は生産の地に縛られている。旅とはその拘束から一時的に逃れること、またはその束縛をチャラにしてしまうことだろう。

 私たち日本人は日本の国内でおこったニュース、日本の国内の情報ばかり見聞きしている。外国のことは日本の情報のように多くないのである。そうして日本の制度や規範に縛られて、その社会を外側からながめたり、相対化する目というものを喪失し勝ちである。自分たちの暮らし、行動が常識で当たり前でそのほかの方法を考えられなくもなってしまう。旅や海外を見るということは、このような違った行動規範や文化を見るということでもあり、そのことによって閉塞化した文化のゆがみや偏りを正してゆくきっかけをつかむことになるのだろう。国家という区切りは、人生の幅を狭めてしまうことである。

 海外や国や人種が違えばまったくわれわれと異なる人たちが存在すると思いがちになるが、人間の基本的な感情は変わらないだろうし、どこの国の基本的な家族や友情や、愛情、喜怒哀楽は変わることもないのだろう。なにか国や人種が異なれば、そういうことすら通じないと思いがちになるが、旅はそのようなカベを忘れさせてくれるのだろう。

 旅は憧れの地やいってみたい場所があって、旅に行きたいという気持ちがもりあがるのだと思う。そのような憧れがなければ旅に出たいとも思わないのがあたりまえのことである。もし私にそのような地があればいってみたいものである。その前に貧乏人根性の金もつかいたくないし、稼ぐために時間を奪われることが嫌いな私は、先立つものすらないのである。


世界最低最悪の旅 (幻冬舎文庫) スローな旅にしてくれ (幻冬舎文庫) 新ゴーゴー・アジア (上) 新ゴーゴー・アジア〈下巻〉 アジアの地獄―それ行け!!バックパッカーズ〈2〉 (小学館文庫)
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08 19
2008

旅へ

『行かずに死ねるか!』 石田 ゆうすけ

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行かずに死ねるか!―世界9万5000km自転車ひとり旅 (幻冬舎文庫 (い-30-1))
石田 ゆうすけ

行かずに死ねるか!―世界9万5000km自転車ひとり旅 (幻冬舎文庫 (い-30-1))


 こういうジャンルがあるなんてよく知らなかった。自転車で世界を一周するというジャンルはいったいなんなのかと思う。旅行家?、冒険家?、それとも旅雑誌や自転車雑誌のライター?、なんだかくくり方がよくわからないのである。冒険家と名乗る人にしてもどうやってメシを食っているんだと思うが、他人の冒険に支援する人というのはたくさんいるのだろうか。

 バイクで野宿するようになってはじめてこういうジャンルを探索することに興味をもったが、それまではまったく耳に入ってこない存在であった。TVではたまに「日本一周した人」があらわれてエライね~、キトクな人だね~という一種皮肉った距離感を感じてきた。旅行で日本一周や世界一周をした人がエライ人としてとりあげられることは専門雑誌では多かったのかもしれないが、マスコミではあまりなかった。世界旅行を褒め称える価値観は社会では共有されておらず、猿岩石は大人気になったにせよTVの番組であったし、一部の旅行好きな人たちのジャンルに限定されていたと思う。自転車で世界一周をした人が本を出したり、講演などの活動をするようになったのは、新しい流れではないのかと思う。

 自転車というのは町乗りに限定される乗り物であるという固定観念が強い。母親が買い物に出かけるママチャリ、子どもが遊びに出かけるチャリンコ、駅や学校、会社までの通勤にもちいる自転車。その町乗りの道具を旅行や世界一周に用いるという発想は通常はもたない。旅行には鉄道や飛行機、クルマをつかうのが常識であるからだ。

 あえて自転車をで旅をするというのは、近郊の距離感をひきのばして、世界をひとつながりの土地だと把握する認識をもたらすものである。つまり近所の感覚が日本や世界までひきのばされるのである。鉄道や飛行機があるために返って日本や世界はひとつの地つながりの世界であるという感覚を失ったのかもしれない。自転車旅行の効用はその断絶を消滅させることかもしれない。近所とは世界なのである。

 戦後の日本はひとつの家、ひとつの会社に定住して、定年まで勤めるという生産至上主義の定住民の発想で生きてきた。民族大移動がおこったのはたとえば明治の紡績業の発展による女工や職工の移動、戦後復興期における農村から都市へのサラリーマンの移動などがあり、ながらくその体制で固まってきたわけである。民族大移動は盆や正月の帰省に限られた。こんにち都市で育った子どもたちは帰る田舎をもたずに都市の定住民として帰る場所をもたない。だからアウトドアの興隆や自転車世界一周のような非生産的で漂流民の生き方が、都市民の憧れや郷愁を駆り立てるのだと思う。われわれは生産至上主義の発想や時代の曲がり角に足を踏み入れつつあるのだと思う。生産主義者の頭には理解できない事柄だと思うが。

 石田ゆうすけは7年5ヶ月もかけて世界を一周している。7年である。ほとんどサラリーマンとしてのキャリアを捨てないと、こんなことはできない。「行かずに死ねるか!」とそこまで世界を見て回る旅は、サラリーマンのキャリアより重要な価値になっているのである。自分のやりたいことや好きなことより、サラリーマンの価値と人生のほうが重要で大事であるという人はだいぶ少ないと思うが、生活やキャリアのために仕方なく仕事に従事しなければならないという人が大半であると思う。著者はあえてその天秤を旅のほうに賭けたのである。生産や生活より大事なものを見つけることが承認、容認されるような社会がくることは幸せなことだと思う。

 同じような世界一周自転車の旅は先ほど読んだ坂本達の『やった。』を思い出すのだが、くらべると坂本のほうが現地の人との親切や思いやりに出会って感動的なエピソードも多いのだが、もちろんこちらの本のほうも一気に楽しんで読める。近所を出かけるチャリンコで世界を旅して回るのである、おもしろくないわけがない。

 考えてみたらわれわれは世界は危険で強盗や殺人などひどい目に会うという固定観念に支配されている。よくアフリカや中近東などの治安の悪い国にチャリンコの無防備な装備で旅するものだと思う。世界とは、われわれから金品を奪い、強奪する強盗殺人の国だとなぜか観念している。ニュースが伝えるのは世界の悲惨な事件であるからだろう。だけど大半の人は犯罪など一生起こさない人たちが町を営まないと町など形成できるわけがないのである。日本でもTVで殺人・強盗を毎日報道するが、われわれは近所を恐ろしくて歩けないといった不安で町を歩くことはない。世界もそういうものかもしれない。

 旅行といえば、ふつうは鉄道やクルマで移動するものだと思われているが、自転車で旅をする人は増えたのだろうか。鉄道は観光地産業をつくり、商業化し、みんなが同じところにめざすという混雑とハダカの王様をつくったと思う。クルマは鉄道の固定化した線以外の道や景色の選択する自由を与えたが、目的地一直線の速さを至上とする道程・過程を楽しめる乗り物ではない。バイクはクルマに近いが、機動性や自然や季節に近い空気を感じることができる。自転車はそれらよりいっそう寄り道を楽しめる自分の身体に近い乗り物である。たとえお金があり、クルマやバイクがあろうと、人は自転車に乗り、旅をすることを好むものだろうか。カネや便利さではヒエラルキーの底辺に位置し、軽蔑される価値観を与えられるかもしれないが、チャリダーはあえてそういう価値ヒエラルキーに反逆・転倒する存在であるかもしれない。鉄道やクルマの近代化と違う道が用意されてきた感がする。

 自転車旅行というものが、近所へ出かける近郊の乗り物であるからこそ、生産の時代から非生産の人生を楽しむ、世界を見て回るといった、生活や労働のためでない人生のために生きられる社会の曲がり角・メルクマールになってほしいものである。希望はあるのだろうか。


参考URL
 チャリダー・石田ゆうすけさんの世界旅
 石田ゆうすけのエッセイ蔵
  満点バイク~自転車旅~ 女性の自転車アフリカ旅をやっている。

いちばん危険なトイレといちばんの星空―世界9万5000km自転車ひとり旅〈2〉 (世界9万5000km自転車ひとり旅 (2)) 洗面器でヤギごはん 世界9万5000km 自転車ひとり旅III やった。―4年3ヶ月の有給休暇で「自転車世界一周」をした男 (幻冬舎文庫) リヤカーマンアンデスを越える―アタカマ砂漠、アンデス山脈越え1000キロ徒歩横断 リヤカーマン アフリカを行く―歩いてアフリカ大陸横断11000キロの大冒険 (学研のノンフィクション)
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08 04
2008

旅へ

『ホテルアジアの眠れない夜』 蔵前 仁一


ホテルアジアの眠れない夜 (講談社文庫)ホテルアジアの眠れない夜 (講談社文庫)
(1994/06)
蔵前 仁一

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 旅行記には二つのタイプがあって、日記タイプとエッセイタイプがある。日記タイプは行動をえんえんと記し、エッセイタイプは一歩踏み込んで思索をくりひろげる。旅行記では日記タイプが多く、ヘミングウェイのように思考より行動に価値をおくのだが、行動にあまり価値をおかない思索型の私はやはりエッセイが好みである。エッセイはものごとや行動を時系列から解放して、要素間の編集をおこない、より思索を深めてそれは学問になる。この本はエッセイでよかった。

 人間は「いま、ここにないもの」を思考や言葉で獲得することによって、動物と異なる存在になった。過去や未来が生まれ、生と死が生まれ、文明が生まれた。行動に思考を寄りそいつづける日記タイプは、人間の特徴である思考の特異性を生かしていないのである。時系列では結びつかない、いま・ここにない要素や物事を結びつけることによって、新たな発見や収穫が得られるのである。

 私はいまアジアの旅行記を読むことが多いのだが、知りたいのは長期旅行者の生き方であったり、日本と違う働き方や人生観、社会であったりすると思う。つまり日本の「正しい」生き方のほかの選択肢を探しているのだと思う。私の探求のいぜんからの目的はこれなのだが、さいきんはアジアの仕事や暮らしにそれを見つけようと食指をのばしているわけである。私は日本の仕事や労働だけしかない人生がたいへん嫌いだから、アジアの正反対のような価値観に魅かれるのである。とくに労働のオルタナティヴはぜひとも得たいものである。

 この本はバブル期におこなわれた旅行記であるようなのだが、このころから世界中をあちこちをひとりで旅するバックパッカーのような日本人も多数存在したようである。バブル期といえば、ニュースで海外旅行の増加が、日本の経済的おごりとともに報道された時期である。団体旅行客やパックツアーのイメージも強かったが、ひとりで旅するバックパッカーも増殖をつづけていたのである。

 しかしとうぜんのことながら、長期旅行者は日本の企業社会から落ちこぼれるわけである。日本に帰っても、就職や人生が保証されているわけではない。いっぱんにイメージされる「成功」や「正しい人生」から、完全にもれてしまわないと長期旅行の決断はできないのである。日本人としての人生をやめるのか、もどるのかと、厳しい選択を迫られることになる。日本の企業は長期旅行者を受け入れるような社会ではないのである。

 日本は農耕民族として定住の人生を長らく送ってきたのだと教科書は教えるのだが、はっきりいえばこれは戦後の終身雇用制度を促進するためのイデオロギーである。ひとつの会社に長く勤め、滅私奉公することが「正しい人生だ」というイデオロギーの洗脳である。転職したり失業したり浮浪するような人間がたくさんいれば困る人がいたのだろう。たとえば税金に頼る政府だとか、勤勉な労働者をほしがった企業であるとか、安定した収入を善とした専業主婦なのであろう。

 そのような社会の風潮が、日本の歴史から、漁民や狩猟民、商人や流浪者の文化や生活を抹殺してきたのである。日本人は先祖代々の土地でずっとコメをつくりつづけてきたのだ、ほかの浮遊する存在はいなかった、だからひとつのところで働きつづけることが「正しい人生だ」と刷り込まれたのである。そのような重圧を逃れようとして、長期旅行者はアジアを漂いつづけていたのである。海外旅行は日本イデオロギーからの脱走でもあったのである。そしてイデオロギーに染まった企業に受け入られず、帰るところも失わなければならなかったのであるが。というより、おそらくそれは一部のエリートや大企業の話であって、中小企業や零細企業ではそうではなく、どこかにもぐりこんだり、しのいで生きてゆけたのだろうが。

 むかしアメリカで鉄道ができたころ「ホーボー」といって、無賃で鉄道に乗ってあちこちを旅した労働者たちがいた。季節労働や仕事を求めての旅であった。作家のジャック・ロンドンなどが、自由と悲惨さを抱えもったそのようなホーボーの体験記を『アメリカ浮浪記』に記している。その後アメリカは工業社会としての繁栄や成功を手にするのだが、60年代になり、ホーボーに憧れたジャック・ケルアックなどがヒッピーのような旅のスタイルをふたたびはじめるのである。人間は定住と放浪の狭間にいつも悩まされてきたようだ。日本でも高度成長さなか『フーテンの寅さん』が人気を博した。できれば、定住のイデオロギーに染まりきらない社会になってほしいものである。

アメリカ浮浪記 ジャック・ロンドン
アメリカ浮浪記
ホーボー アメリカの放浪者たち
ホーボー アメリカの放浪者たち
ホーボー―ホームレスの人たちの社会学 (上) (シカゴ都市社会学古典シリーズ (No.3))オン・ザ・ロード (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1)
無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))漂泊の民サンカを追って江戸の漂泊聖たち

 著者の蔵前仁一はインド旅行に行って、日本とあまりにも違うことに驚き、「正しさ」とはなんなのかと書いている。

初めて日本とは違う別の世界があることを知ったのだから、もう日本を絶対的に正しいと思うことなどできなくなったのだ。

僕は一度「正しさ」というものをなくしてしまった。……僕が学生だった頃は、よい成績をとるのが「正しい」ことだった。いうまでもなく、これは今の僕にすれば、「クソ」である。なんの役にも立たない。なぜなら成績がいいか悪いかが問題になるのは、学校という特殊な世界の中だけであり、生活していくには、そんなもの単なる「飾り物」にしかならない。

「人並み」なんていう「標準」も「正しさ」も、本当はこの世にはない。



 海外旅行者はアジアなどにいって、そのような日本の「相対化」を探しにいくのだろう。自分が縛りつられている「正しさ」や「絶対」などというものを外側からながめ、客観視し、自分を解放するために。できれば、アジアや海外にいかずに、相対化や客観視できればいちばんなのだろうが、日本という国家、社会はそれをできない、許さない社会のようである。しかし定住民のイデオロギーを壊す試みは海外旅行者などがおこなったり、あるいは学術の世界からも疑問が投げかけられ、そのような知恵を知った人たちは人生や自我を解放するすべを知るのだろう。知らない人はいつまでたっても牢獄の中だろうが。


人生を変える旅 (幻冬舎文庫)世界最低最悪の旅 (幻冬舎文庫)セルフビルド―家をつくる自由

プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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