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03 14
2020

セラピー・自己啓発

誰かのせいにするな――『史上最強の人生戦略マニュアル』 フィリップ・マグロー

  

 「だれかのせいにするな、人生の責任は自分にある」の主張はおおいに同感。

 「回避せずに手遅れになる前に行動しろ、人生は行動だけに見返りをあたえる」という意見には耳が痛い。

 「事実なんてない、あるのは認識だけ」は、これをつかまないと、人生おおいに誤る。

 基本的にほしいものを勝ちとれ、勝者になれという人生指針なので、私はその点は受け入れがたい。意味や目的をもとめる人生は、神秘思想からは誤った認識だと捉えられている。

 私がこの本を読みたくなったのは、「だれかのせいにするな、人生の責任は自分にある」の章である。マグロ―も「他人を責めるのが人間の本質であることだ」と認めているのだが、私たちはだれかのせいや他人を責める人生をたいがいは生きている。

 他人のせいにしておれば、自分の人生の責任を負わなくてすむ。けれども自分の責任をもって、自分の人生を生きられることはない。他人のせいにするということは、他人の犠牲者になり、自分で人生も感情もコントロールしようとすることもないのである。

 このカラクリは、ウェイン・ダイアーに学んだのだが、身近なまわりの人は他人のせいにして、他人を責める人でいっぱいだし、それが自分の損失になっていることや、自分から犠牲者になることに仕向けていることに気づかない。この他人のせいにする思考のカラクリには、ぜひ気づいてほしいものだ。

 経済的な自己責任論とは分けて考えてほしいのだが、経済や政治では人を助け、困窮者を守るという意味では、だれかの責任を問うことは大切だと思う。だが、自己の感情や人生にたいしては、他人を責める習慣に染まるべきではない。みずからを他人の支配下におき、他人の犠牲者に捧げることにほかならないからだ。

 「問題を認めないと悪化してゆく」という主張は、「認識は選べる」という主張と拮抗して、後者を尊重すると問題すらも消散してしまうと考えることもできる。「そうしてなにも求めず、なにも得ることはできないのだ」というマグロ―の言葉はつき刺さるのだが、私は認識の解釈論を採用しすぎて、人生の回避障害に傾きすぎているのかもしれない。

 「事実なんてない。あるのは認識だけ」という主張は、フランクルやストア哲学がとなえている「考え方が世界のとらえかたを決め、感情もそれによって生まれる」という考え方である。私たちはその考え方をすっとばして、あたかも「事実」だけを見ているのだと捉えがちである。「考え方」「解釈」があるからこそ、私たちは物事をとらえることができて、感情を生むのである。これを知らないと、私たちの考えや解釈は、自分に見えない凶器になり、私たちを殴りつづけ、見えない暴君に支配されることになる。

 「万人に共通する10の特徴リスト」では、人を理解する上での大切な基本条件が捉えられている。「すべての人がいちばん恐れているのは拒絶されることである、いちばん必要としているのは受け入れられることである、相手の自尊心を傷つけない、くすぐることだ、人は自分にとって個人的に大事なことを話したがる」などの大切な特徴があげられている。この基本要件をよく理解したうえで、人と接したいものである。

 マグロ―のこの本はこれらの人生の原則を捉えそこなうと、人生におおいに痛手を負うものだし、知らないとあちこちにぶつかりつづける困難な人生をたどってしまうかもしれない示唆に満ちた内容になっている。知らないと人生の損害を大きくしてしまうものだし、知っている者には確認をすることができる。まわりの人はそうは教えてくれないだろうから、このような本で学ぶことはひじょうに大切である。





03 04
2020

セラピー・自己啓発

人生を変える名著がある――『世界の自己啓発 50の名著』 T・バトラー=ボードン

 

 この本の中で選ばれた名著の中で、文字通り私の人生を変えた本が何冊もある。

 あげられている著者のタイトルが違うものがあるが、リチャード・カールソン『楽天主義セラピー』、ウェイン・ダイアー『どう生きるか、自分の人生』、ノーマン・ピール『積極的考え方の力』、そしてマルクス・アウレーリウス『自省録』だ。

 これらの本で語れていることは、思考が感情をつくり、思考が自分の認識する世界をつくりだしているということだ。事実や出来事は自分の外側にあると思っていたが、まさしく自分の思考や考え方がつくりだすという認識の転換をしてくれた。

 そのおかげで、私は自分の認識する世界をコントロールするすべを身につけることができるようになったし、そのことは感情のコントロールも身につけられることを意味する。私は自己啓発の本によって、感情のコントロールや平安な心のもちかたを学ぶことができたのである。

 客観的な科学や学術にくらべれば、自己啓発なんてまやかしの安っぽいおもちゃのように思われる向きもあると思う。しかし科学や学術は、うつや悲観に沈み込む気持ちをもちあげる方法を教えてくれなかったのである。

 自己啓発の中には「願えば叶う」式の欲望成就的な成功哲学もむろんたくさんある。ジョセフ・マーフィーはそのような願望成就的な自己啓発の中に、気持ちを明るく維持する方法もふくませている。こんにちではそれは「引き寄せの法則」といわれるものだが、お手軽な願望成就のハウトゥも、ポジティブ心理学や心理セラピーを潜ませているのである。

 自己啓発というのは、客観的な科学が全盛の時代に、唯心論的な流れをとりもどす試みといっていいかもしれない。科学は自分の外側に世界があり、他人や外界を変えないと幸福にならないと考えることになる。他人のせいや政府が悪いといって、四六時中腹を立てる生活を送ることになる。

 自己啓発は考えや解釈をつくりだしたのは自分であり、その選択は自分でできるのであり、それゆえに自分の感情も気分も選択できるのだといった。この考えからすると、ずっと他人が悪いといって腹を立てつづける姿勢は、みずからが犠牲者となって、感情の罰を自分に課していることになる。唯心論は、他人のせいにする科学の愚かさを見せるのである。

 この本の中では比較的に学術的だといわれるマーティン・セリグマンやデビッド・バーンズなどの認知療法の本もあげられている。認知療法はまさしく自己啓発が語っていたことであり、学術の流れも唯心論のほうに傾き出しているのである。この本は2003年に出されており、もう少し後に出ていたなら、マインドフルネスの流れも入れられていたことだろう。

 老子やブッダ、『バガヴァッド・ギーター』もこの本におさめられている。東洋的な宗教、思想が自己啓発にあたえた影響は大きく、いまもつづいているのだろう。

 『聖書』もあげられているのだが、自己啓発に近いという意味では中世のベストセラー、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』がふさわしかったと思わなくもない。

 デビッド・シュワルツの『大きく考えることの魔術』もぜひ入れてほしかった。アラン・ド・ボトンは違うタイトルがあげられているが、私は『もうひとつの愛を哲学する』が承認欲をとりあげていて、自己啓発からたしかに外れるが、この名著を忘れないでほしい。

 自己啓発は安っぽくて、お手軽な願望成就をうたい、詐欺みたいなものだと思いこむ向きはたしかにある。科学や学術にくらべれば、安っぽさを否めない。だけど私的はいちばん救われ、人生に役立ったと思っている。疑わしいと思えるのなら、使える知識と使えない知識を判別すればいいだけのことである。ハナから頭から信じることなんかしなければいいだけのことである。科学や学術で学んだ賢明な諸氏なら、そのくらいの選択はできるだろう。

 私はこの自己啓発の唯心論的な流れが、認知療法やマインドフルネスの学術的な流れと重なって、どこに行くのかだれか研究書を出してくれないかと思うのだけどね。禅や神秘思想がこれに加われば、言葉や思考によるわれわれの認識自体がひっくり返されるような転換がおこるかもしれない。学術より、自己啓発や神秘思想が先行していると私は思うのだけどね。






01 18
2020

セラピー・自己啓発

憎しみの自己正当化――『2日で人生が変わる「箱」の法則』  アービンジャー・インスティチュート

 

 この本は自己啓発のジャンルなのだろうか。ときに政治思想ではないかと思う節もふくんでいる。

 前作で疑問に思っていたことが、この続編ではその理由がよく説明されている。すなわち自分にそむいたときに、他人の過ちが急にふくれあがるのか、自己正当化はなぜそのときに必要になるのかということだ。

 「箱」というのは、他人を責めて自己正当化をおこなう立場の象徴のことである。他人を責める人は、「相手がまちがっていて、自分が絶対に正しい」という箱の外から出ることはない。私たちの言い争いやいさかいは、たいがいにこの箱の中に完結する。

 ある意味、普遍的な争いの関係を簡潔にのべた本なのだが、ジャンル的に軽いと思われる自己啓発なので、この箱という表現がどこまでちまたに通用するのか残念に思える。

 心が敵対的なとき、他人の過ちを誇張しがちになる。自分を正当化してくれるものを過大に重要視し、いちじるしく重要なものになる。

 箱に入り、人を物と見るようになれば、自分を正当化するために自分がこうむった不幸性やひどい扱いと苦しみにこだわるようになる。さもないと、自己正当化はその成果を達成できない。

「敵対的な心は、それを正当化するために敵を必要とする。平和より敵と虐待を必要とするのです」



 人はいかにこの「被害者」の人間関係パターンにはまりこむことか。じつに多くの身近な例を、あなたも見たり、体験したことが思いつくだろう。

 しかもこの被害者は自分がひどい扱いをうけていると確信すればするほど、他人をひどく扱っていることに気づきにくくなる。被害者が不正をなくそうとして、「迫害者」として立ち上がることになる。

 この本の中にも例があげられているが、DVの夫を憎むあまり、自殺に追い込むことまで画策していた女性が、箱から外に出て、夫を人と見るようになれば、彼から離れることができるようになった例がある。

 愛していないことを正当化する必要がなくなったために、彼の弱さも見れて、苦々しさの重荷も背負わずに離れることができるようになったのである。箱の中は人間を憎悪や残酷さの極みにまでもちあげるほどの自己正当化の箱と化すのである。

 争いやいさかいの最中には、人がいかにこのような箱に入ることになるか、身近な例を散見しないわけにはいかないだろう。憎しみや憎悪に囚われている人は、まずまちがいなく、いかに自分がひどい目にあったかの証拠をかき集めようとするだろう。

 「現実の虐待に苦しんでいる人が虐待者を憎むのはまちがいというのか?」という疑問もこの本で答えられているが、箱の外に出て人と見るようになると、かれの弱いところや世界の見え方が変わるといっている。自己正当化の憑き物が落ちるのである。

 私たちはじつにこの他人がいかにひどくて、自分が正しいかの自己正当化のパターンにハマることだろう。そういう憎しみや恨みの最中にはまってしまっているのなら、この本を思い出すべきである。たんなる客観視が、自分の見方を大きく変えることもある。予防策としても、この本の知識は頭の片隅においておきたいものである。






12 28
2019

セラピー・自己啓発

自己啓発にほかならない――『幸福論』 アラン

  

 はじめてこの本を読んだのは、私が二十代のころ。現代思想や社会学を好み、考えることばかりくり返していた私が、思索ではなく、行動や体操をすすめる哲学者にいぶかしさと当惑を感じたものだった。哲学者のくせに外道とさえ思った。思考を手放すなんて考えもしなかった。

 それから二、三十年後にこの本を読みかえすと、この本はまったく自己啓発を語っていたのだとわかる。アランの本を読んだあと、私はアランとは関係なく、自己啓発やストア哲学の本を読み漁ることになり、ついにはその延長として神秘思想や仏教に学ぶようになった。

 アランは心は他人や出来事の結果ではなく、みずからこそが「創造しているのだ」と転換させた。自己啓発とは、心が創造する原因であり、出来事は結果ではないとひっくりかえした発想をもつハウトゥ本である。ノーマン・ピールやジョセフ・マーフィー、ウェイン・ダイアー、リチャード・カールソン、あるいはナポレポン・ヒルなどが、ときには即席な願望成就を謳いながら、心の発想法をひっくりかえした。

 私たちのたいていは他人が悪い、なにかが悪いと外側に問題と原因を探しつづける。だが、自分の心、言葉こそがそのような考え方を創造していると考えるなら、みずからが怒りや悲しみ、憤懣などを囲っていることになる。私たちはみずからの「心の創造者」であることを忘れて、あるいは知らずに、みずからを煉獄に落とし込むのである。

「不平不満は、地獄への堂々めぐりだ。しかし、その地獄のなかで悪魔であるのはわたしであり、情け容赦なく追い立てているのもわたしなのだ」



「なにかまた不満の種でもあると、夜ばかりか昼も、暇さえあれば、その問題に立ち返る。自分自身の話を、まるで机の上に開いたままにしたひどく暗い小説ででもあるかのように、ふたたび取り上げる。こうして、自分の悲しみのなかにひたりこむ。そして、悲しみを楽しんでいる。忘れることを忘れて、そこにたちもどる。予想しうるかぎりのあらゆる不幸を点検する。要するに、自分の不幸をひっかいているようなものだ。間抜けな人間のやり方だ」



「思考することによって、たちまち人間は自分の不幸や欠乏を倍加する。不安と期待とで身をさいなむ。そのため、肉体は、想像力のいたずらに応じて、ひっきりなしに緊張したり、動揺したり、突進したり、思いとどまったりする」



 心こそが創造者であり、原因であると発想をぎゃくにしないと、われわれは「他人が悪い、あいつをどうにしなければ、報復してやらなければ」と、不快や憤懣の思考をめぐりつづけるはずである。その間に、感情が最悪になり、胃腸や心臓を毒していようが、まったくおかまいなしである。発想をぎゃくにしないと、われわれはこの愚かしい人間の過ちにはずっと気づかないのである。

「それは、想像力にだまされているだけのことなのだ。自分自身をひっかきむしっている人間には、それほど心の深淵もありもしないし、苦悩への嗜癖などもけっしてありはしない。むしろ、原因を知らないために、動揺と焦燥とが互いにからみ合っているのだ。

まずは第一に、できるだけ満ち足りた気持ちでいることが必要だ。第二には、自分の身体そのものを対象とした心配、生命のすべての機能を確実に乱す結果となるような心配を、追い払うことが必要だ」



 アランのこの本が出たのは1925年。それからノーマン・ピールの『積極的考えの力』が出たのが、1952年。こんにちの私たちはアランのいくぶん入り組んだ思考のすじ道より、もっとかんたんで単純な自己啓発のハウトゥ本を手に入れることができる。アランは考察であり、自己啓発は方法である。アランのいわんとしたことは、お手軽に学べるのだ。

 だが、たいていの人は他人が悪い、外界が悪いと追求しつづけて、みずからを苦しみのるつぼに放りこんでおきながら、ほかの方法を知らない。心が創造しているという発想は、科学や客観主義がもっとも嫌う「精神主義」や「うさんくさい自己啓発」なのであって、心のハンドルを知らない人たちはあちこちにクルマをぶつけて、壁が悪い悪いと罵っているのだ。

 私はこのことを知って、三十のときにリチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』に出会い、思考を捨てる方法を模索しつづけた。ポジティブ・シンキングの書き換えで足りない、自分のどうしようもなくネガティブや悪い方向に落ちる思考に抗しえなかったのだ。そうして、思考を捨てることを教えつづけてきた思想は、仏教にほかならなかったわけで、ようやく仏教や神秘思想の必要がわかったというしだいである。

 私たちは自然に育つと、外界の出来事や人が悪いから変えなければならないという発想に育つ。その見解や意見を、自分の心が創造しているという面を見いだせないのである。そのまま思考の自家中毒におちいり、みずからさいなんでいても、その思考と感情の最悪な状態から脱しえないのである。心や思考を、距離をおいてながめることはできないのである。

 だが、いまは自己啓発がその転換の方法をテクニックとしてたくさん教えている。自分の心の愚かしい行為に気づいた人は、発想の転換をおこなうことができるようになるだろう。

 しかし現代人は、心が創造しているという考えをたいへんに嫌って、遠ざける。それは宗教や前近代的な因習的思考だと考えている。科学にいる側は、あちらにいってはならないという禁止ロープがはりめぐらされている。おかげで私はたいへんに辛酸をなめる愚かしい生活を三十ころまで過ごしたと思っているのだが。







12 22
2019

セラピー・自己啓発

相手を責める間違い――『自分の小さな「箱」から脱出する方法』 アービンジャー・インスティチュート

  

 評判を聞くことがあったので、読んでみた。

 なるほどね、箱に入るというのは、自己正当化と他人を責める立場になることをいうのね。「自分が正しくて、相手がまちがっている」だ。私たちはたいていは無意識にこの前提や立場に立っていて、箱の外に出ることはない。

 ただこの本は物語形式でなかなか核心に迫らず、謎解きのようなスタイルになっているので、ぎゃくに結果からいってくれたほうがわりやすく、話も広がったと思うのだが。それと参考文献や類書もあげてくれれば、この視点の徹底化には役立つと思うのだけど。

 相手を責めはじめると、相手がいかに責めるに値する人物かと自分を正当化する理由がもっと必要になる。相手に失望し、責めるに足りる人間であることの必要性がますます高まる。「犠牲者」になることが、もっとも自己正当化の機会を手に入れられる。相手だって、人から責められれば、相手もひどいやつだという証拠を手に入れられるので、相手にたいしてもっとひどくて、はらわたが煮えくり返るような態度を返すことになる。おたがいが被害者と正当化の「共謀」や「共犯」の関係になる。

 こういう関係は親子関係や非行少年の関係にもおこるし、議論の応酬でおこることだし、会社では社長や従業員、また部門別対立や同僚同士などでおこってしまう。どこにでも転がっている「相手を責める」という関係が、人を箱に入らせ、ますます対立が激化してゆくという最悪な関係になってゆく。

 相手を変えようとしても、離れようとしても、また自分を変えようとしても、箱の外には出られないという。相手も、自分と同様に尊重されるべきニーズや希望や心配をもったひとりに人間と見はじめた瞬間に、箱の外に出られるという。

 この自己正当化と相手を責めるという人間関係のパターンは、どういうジャンルの知識から出てきたのかと、私には気になった。

 交流分析のゲーム分析と似たものを感じるし、非行少年のレッテル貼りがさらにその非行行為を増長させてしまうという関係に同じような指摘を見たこともある。交流分析の「人生脚本」のように「お前はこういう人物だ」といわれれば、その人生脚本のまま人生を演じてしまうといったことに近い。これは自己啓発にもいわれている。箱に入るとは、おたがいが「被害者と加害者」のゲームで、責め合う関係といってもいいか。

 スピリチュアルでは、ハリー・ベンジャミンという人が、自我の存在理由を「自己正当化と自己賛美キャンペーン」だといった指摘には、私はえらく感銘したことがある。「想像上のそれ」は、自己の価値を感じられないと存在する理由がないのだ。かくして、「頭の中のおしゃべり」でたえず、自己正当化と自己賛美のキャンペーンがくりかえされることになる。この愚かしさを外側から見れれば、すこしは自己正当化の恥ずかしさを感じられるようになるだろう。

 ジャンポルスキーは、攻撃的な人はだれよりも恐れている人といった。恐れが攻撃を生むのである。攻撃はディフェンスであり、防衛である。箱に入る人は、自己正当化の欠損や存亡を恐れていて、防衛しているのである。

 ウェイン・ダイアーは他人を変えようとする人は、みずから犠牲者になっているのだといった。肩をすくめて忘れれば、その腹立たしい人が自分をさいなますことはない。だのに、いつまでも他人が変わることを期待し、強要し、変わらない他人に腹を立てつづける。他人の考え方を変えることは自分の力にも自分の仕事でもないといったのは、ストア哲学やアドラーである。切り離し、あきらめることによって、心の平安をうる、楽しみを追求する、そちらの人生のほうがめざす方向なのだ。

 他人を変えようとする人は、物質主義や科学の犠牲者である。自分の考えや見方を創造するのは、自分である。しかし物質主義は、自分の心は外界や他人の「結果」でしかないと考える。素朴な臆見である。そのために他人を変えようとして、変わらない他人や外界にさいなまされつづける。見解や意見を創り出せるのは、自分の心だけであって、他人のものではない。ならば、統治できるのは自分の心のみであって、統治できない外界にわずらわれるのは、自分の限界をこえた試みである。物質主義によって、私たちはこの犠牲者になっているのだ。

 私たちは他人を責めれば、他人を悪くいえば、他人を変えられると思いこんでいる。しかし、自分が当の責められる立場になれば、責める相手の言い分をすなおにうけいれるだろうか。まずは反発や怒りを感じ、相手のまちがいや自分の正しさを証明したくなる。断じて、「自分は悪くないし、自分は正しい」。責められることは防衛や反発を、まずは起こさせるものである。なのに、他人に意見すれば、かんたんに他人が変わると思っているのだろうか。まずは、自分を守ることが頭にのぼるものではないのか。

 本書の自分の小さな箱は、そのような知識の片りんはすこしも触れていない。この一書だけで独立している。ために私はこの書をどこに位置づけてよいかわからない。この知識を深く掘り下げるためには、つぎはどの知識を参考にすればいいのだろうか。本書はどこに行こうとしているのだろうか。

 でも本書は、だれもが当たり前に陥る「自分が正しくて、相手が悪い、責める」という行動パターンのまちがいを指摘した大切な書であると思う。私たちはこのパターンの陥穽に注意深くあるべきなのである。だれもがその落とし穴にはまり、自分の小さな箱に入っている。まずはそのパターンに気づくことだ。





10 06
2019

セラピー・自己啓発

パニック障害と西洋的自我の失敗

 twitterのトレンド上位になるほど、パニック障害の認知度や経験者は増えているらしい。芸能人やスポーツ選手でも告白する人が多く、とりわけプレッシャーや不安が強い業種に多く見られる病気になっているようだ。

 私はこのパニック障害は、だれにでも見られる恐怖の向き合い方の失敗だと思っている。もっとわかりやすくいうと、人前で発表するときの緊張を抑えるさいの態度に近いものがあると思っている。多くの人は緊張を必死に抑えよう、隠そうとする。それが逆効果にはたらき、緊張がますます増すことはよくあると思う。パニック障害はこの失敗と似たようなものだと思っている。

 とつぜん動悸や呼吸困難の発作のようなものがおこり、それを防ごうとしたために、閉じ込められた電車のような空間が恐くなってしまう。恐怖から逃れようとした反応が、閉じこめられる空間を恐がるのである。つまり恐怖から逃れられない場所が恐くなる。

 この失敗は、恐怖を抑えよう、止めようとすることから起こると思われる。私たちは人目を強く気にする自意識をもつようになっていて、自分の恐怖や異常事態を隠そうとする衝動をもち勝ちである。そのためにその恐怖や症状を放っておけず、よけいにそのパニックを強くしてしまう皮肉な相乗効果におちいる。

 恐怖というのは、ほかの感情とおなじく、いちど起こってしまったのものは抑えるのがむずかしい。しぜんになくなる、消滅するのを待つしかないものである。もしくはさいしょの発生源を断つしかない。けれど、人は恐怖をあとから止めよう、なくそうといらぬ努力をしてしまう。その注目や心配がますます症状を大きなものにする皮肉な効果が、私たちにはある。

 恐怖や感情を、「実体」のようにある、と私たちは思いすぎなのである。それを物体のように動かしたり、なくすることができるというような考えをわれわれはもちすぎなのである。

 パニック障害の治療法に暴露療法という方法があるが、わざと症状を出させようとしたり、ひどくさせようとする試みがある。恐怖は逃げればますます恐くなり、向かっていけば、その恐怖に実体がないことが実感できる。恐がる人にはかなり難易度が高い方法だが、恐怖には実体がないこと、幻想であることに気づけることが、パニック障害の治療に大きな前進になる。

 森田療法は神経症の治療法としてだいぶ前からあるが、あるがままや不安があっても同居しながら行動するという療法である。この療法の実感はなかなかつかみがたいものだが、現代人は自我の強化やコントロール力を強く願うことにその要因があると思われる。放っておくこと、傍観するという態度をもちにくく、意識でなんでもコントールしようとする。

 私もこの森田療法のいっていることがつかみがたいなと思ってきたのだが、神秘思想やスピリュチアルを読むようになって、図式的な理解ができるようになった。こんな怪しいジャンルになぜ療法があるのかと思われるだろうが、自我はない、無我であるといったむかしからの考え方が、この障害の療法のキーポイントとして浮き上がる。仏教も無我を伝統的にいってきた。

 自我というのは、頭のなかで思い浮かべる自己像である。概念や言葉によってくみ上げられて、私たちの行動や考え方の基準や基盤になる。現代人はこの「頭の中のわたし」をとても大切に育て上げてゆくことを人生の目標にするのだが、神秘思想などではそんなものは幻想であり、虚構であり、ほんとうの自己ではないという考え方をもつ。

 この考え方がパニック障害とどう関わってくるかというと、恐怖をコントロールしたり、抑える「もうひとりの私」はいないということになるからだ。自我を育て上げる西洋では恐怖をコントロールしようとする。それに対して神秘思想の東洋では、無我――自分はいないのだから、感情をコントロールしたり、抑える「私」はいない。

 パニック障害の原因は、恐怖を抑えたり、コントロールすることにあると私はいった。恐怖は放っておき、手をつけずにおけば、しぜんに収まってゆくものである。しかしそれに対して逃げようとしたり、抑えようとすれば、注目と興奮によってますますその恐怖を昂進させてしまう。つまりこの症状は、自我――もうひとりの私が、身体の状態にたいして手を加えようとした失敗のためにおこる。

 私たちは、頭の中の私――自我を強化し、大切に育てる文化の中で暮らしている。自我のコントロール力、支配力を強めようとする文化のなかにいる。神秘思想の考えでは、それは「身体の私」と「もうひとりの私」に分裂してしまうことになり、身体だけで終わる活動が完結させられずに、もうひとりの私がその活動を昂進させるマズい効果をおよぼしてしまう。

 西洋的自我の影響下にある私たちは、自我を「実体」のあるようなものに考え、同じように恐怖や感情も「実体」のあるようにとらえる。それを「モノ」のような「実体」あるものととらえ、モノのように動かしたり、なくしたりしなければならないと考える。身体の中にふたつの指揮系統ができてしまい、身体の活動を抑えようとする試みが、その活動の昂進にエネルギーをますます注ぎ込むという皮肉な結果におちいる。

 恐怖がおこれば、それをどうにかしようと思わないことだ。それは来ては去ってゆく自然な現象だ。さらには実体のない幻想である。それを抑えよう、なくそうとしたときに、恐怖の連鎖回路がつくりあげられてしまい、パニック障害の連鎖がはじまってしまう。

 私たちは手放せない。放っておけない。自然の状態をあるがままに任せられない。気にしない、悔恨しないという心の放下の態度をもつことができない。なにもかも手を加えようとする。そしてパニック障害の恐怖の連鎖の回路をつくってしまう。よく聞くことのある「あるがまま」というのは、このような態度のことなのである。

 パニック障害というのは、頭の中の私という自我を「実体」のあるものととらえる文化が必然的に陥る過ちのように思える。頭の中の私が、恐怖をなんとかしようと手を加えた結果、よけいにそれを大きなものにしてしまうループにハマってしまうのである。

 西洋的自我では解けない問題である。しかしわれわれが怪しいと拒絶してしまう神秘思想やスピリチュアルにその解決策を見いだそうとすることは、なかなかむずかしいことに思える。西洋文化を手放せますかと迫っているような狭間の障害が、パニック障害だといえる。



パニック障害の治し方 まとめ

(1) 開き直る。受け入れる。
(2) わざと苦しくする。わざと恐怖を起こす。
(3) 治そうとしない。避けようとしない。
(4) 不安はあってもよいものだと受け入れる。不安は当たり前のもの。
(5) 不安を避けるからますます不安になる。
(6) 不安を受け入れたとき完治。
(7) 不安に動揺しない。深刻に受け止めない。不安を問題視しない。
(8) 恐怖を味わいつくす。踏みとどまる。


06 17
2016

セラピー・自己啓発

他人の犠牲者にならないための「唯心論」のススメ

 ふつう人は自分の外側に人やモノ、景色があり、外側の世界は自分の意志で動かせることがむずかしいので、怒りや被害をうけるものと思っている。これは科学的世界観の根本であり、自分の外側のモノは自分と無関係と思っている。

 しかしこの無意識の思い込みは、いろいろと被害をもたらすものである。

 この世はすべて自分の心だ、この世界にあらわれる人・外界・ものごとはすべて自分の心がつくりだしたものと思ったほうが、はるかに健康に、外界に煩わされることが少なく生きられる。

 自分の外側に世界や客観的世界があると思い込んでいると、自分はいつも「被害者」のように「他人のせい」や「他人の責任」に押しつけてしまい、他人が変わったり、謝るまで、いつまでも怒りや苦痛を抱えていなければならなくなる。

 反対に唯心論は、外界の出来事や人もすべて自分の考え方、捉え方の問題と考える。あるいは考えない、忘れる、捨てるという最大の心の武器を身につけることもできる。

 人がどうあろうが、外界がどうあろうが、心の在り方を変えることによって、自分の心的環境を心地よいもの、快適なものに変えるのである。

 唯心論の反対の立場、唯物論なら、外界や他人が変わるまで自分の心が晴れることはない。だけど唯心論の立場では、外界や他人がどうあろうが、自分の心を快適に、過ごしやすいものに変える。そのためにいつまでも外界の被害者にならずにすむというわけである。

 唯心論は心に入れるものを、食べ物のように考えるとわかりやすい。食べ物で毒のあるもの、まずいもの、食べたくないものをわざわざ口にする人はいない。考えたり、思ったりすることが体内に入れる食べ物なのであって、体内環境である。

 外界のせいにする唯物論は、好んで自分の食べなくないもの、嫌いなもの、恐れるものを、口にするのである。どちらかというと、そういう汚い食べ物を口に入れつづけるのが習い性になるのが、唯物論的臆見はふつうである。

 他人やものごとはすべて自分の外側にあり、自分の心ではない。そうすると外界のひどいこと、つらいこと、いやなことは間断なく自分の心のなかに入ってくる。さらに外界に怒りを感じ、悪循環をくりかえすことになってしまう。汚い、まずい食べ物をむりやり口に入れつづける人になってしまう。

 外界に思うことの心の選択権をまるでもたないのである。唯心論なら外界のあらわれもすべて自分の心だから、きれいなもの、汚いものを選択して、自分の心に入れるものを選択排除することができる。それは自分の体に入る食べ物を選択する立場のことである。ふつう食べ物の好みを選択することはあたりまえなのに、心の食べ物に気をつかう人は少ないのである。

 これは無意識につちかわれる外界は自分とは関係ないと思い込む素朴な世界観によってひきおこされる。

 他人や外界が自分の心だ、心に思っていることのあらわれだと気づくことはなかなかむずかしい。

 「あなただ、あなただと思っていたが、わたしだった」という言葉を、たしかケン・ウィルバーかだれかが語っていたが、他人もわたしなのである。

 むろん視覚的には他人である。ただ、その他人に思うこと、感じることは、自分の心内に属することである。そしてそれを選択・操作する力は、自分にそなわっている。唯物論的立場は、その選択権をもたないゆえに、外界の犠牲者になりつづけると思うのだが、たんに自分の心の選択権をもたない、知らないだけなのである。

 唯心論は、自分の心の中に入れるものを選択することである。きれいなもの、うれしいもの、楽しいこと、すばらしいものを率先して、心や体内の中に入れる。

 反対に唯物論的立場では、自分のそういう選択権を知らない。外界にいやなこと、不快なこと、つらいことがあっても、即座に心にとりいれ、ぎゃくにそういう不快になるものにより多く反応し、多くとりいれる。不快なことコレクション、まずいものを率先して食べるマゾヒストのような外観を呈するにいたる。

 それは無知に由来するというしかない。たんに外界や他人は自分の心ではない、そこに選択権もないし、自分の心を不快に毒するものにしているという自覚がない。

 外界や他人は自分の心のあらわれと思わないだけで、人はいくたものの不幸や惨劇を背負うのである。無意識な世界観をもつだけで、人は外界の被害者になりつづけるのである。

 この世界感の違いだけで、人はずいぶんと違う世界と人生を生きることになる。自分の不幸の原因はこの世界感の違いにあると気づかないことがいかにいることか。

 この世界はすべて自分の心のあらわれにすぎない、そういった考えはなかなか根づかせるのはむずかしいかもしれない。でも、その違いを知らないと、外界にふり回され、他人に奴隷のように翻弄され、自分を犠牲者と思いつづける。

 犠牲者にしているのは、自分の心に入れる選択権というものをもたない自分の無知なのである。


▼まずはダイアーとマーフィーから。
483795572Xどう生きるか、自分の人生!―実は、人生はこんなに簡単なもの
ウエイン・W. ダイアー Wayne W. Dyer
三笠書房 1999-09

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4837909523マーフィー 人生は思うように変えられる―ここで無理と考えるか、考えないかで… (知的生きかた文庫)
ジョセフ マーフィー Joseph Murphy
三笠書房 1998-03

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05 08
2016

セラピー・自己啓発

GW明けに鬱にならないための根本的な頭の切り替え方

 楽しくて、自由な日々だったGWも今日で終わり。

 今日で連休が終わりだ、明日から仕事だと思い出して、じょじょに憂鬱度が増している方もいるのではないでしょうか?

 わたしもそういう魔境にすっかり陥りそうになるので、できるだけそういう思いや思考を捨てるようにしています。


 GW明けに鬱や五月病になる人は、瞑想を知っているわたしから見れば、憂鬱になることでなにかが解決すると思う「信仰」をもっているとさえ思えます。

 いやな気持ち、憂鬱な気持ちになれば、この気持ちやいやなことから解放される、そんな風に思っているにさえ見えます。

 「感情信仰」という風しかないものに陥っていると思えます。

 憂鬱になれば、いやな気持になれば、憂鬱な気持ちやいやな仕事から解放されるでしょうか?

 そういう気持ちになれば、いやな義務的な仕事や学校は、消えてなくなるのでしょうか?

 憂鬱な気持ちになれば、なにかから解放される、解決されるという「信仰」をもっているように思えます。


 感情というのは、「魔術」だとわたしは思っています。

 感情的に思いっきりなにかを思うことによって、それがなくなったり、解決すると思う「魔術」のような信仰です。

 でも感情って、なにも解決もしませんし、解消もしません。

 感情は自分をいやな憂鬱な気分に陥らせるだけで、なにひとつ外界は変わらない「魔術的試み」(byサルトル)だと思います。


 このような感情に魔術的な信仰をもつにいたったのは、対人関係においては一定の効果をもったからだと思います。

 自分が怒っていたり、悲しんでいると、他人が行いや言動を改めてくれたり、心配や気にかけてくれて、他人は変わってくれたからだと思います。

 でもそれは他人が変わってくれるだけで、その他の物事がいっさい変わることはありません。

 感情というのは自分が怒ったり、悲しんだりする「広告塔」や「メッセージ板」となることによって他人にメッセージを示して、他人が変わってくれるための自分自身をメッセージの道具にすることです。

 人間以外のものごとに対して、いっさい効果も影響もない自分のメッセージ化、情報化でしかありません。

 いわば自分を感情の炎に焼かせて、自分が苦しんでいることを他人にメッセージして、他人を変えさせるための伝達手段です。

 他人や外界が変わらなければ、自分を感情的な業火に焼かせる自己罰則や自虐にしかなりません。

 感情は自分を苦しめて、ぎりぎり自分を感情の炎に焼かせて、他人を変えようとする魔術的試みです。

 変わらない外界のものごとにたいしてそれを用いることは、抗議の声を電信柱に向かって訴えているようなものです。


 感情って「おバカな」試みなんです。わかっていただけたでしょうか。

 ならばそのような魔術的な無益な試みをしないようにする方法は、どのようなものでしょうか。

 それが瞑想という方法です。

 思考を捨てることです。考えないことです。頭を空っぽにすることです。

 そのことについて考えないようにすればいいのです。

 感情というのはものごとを考えることによって、思考によって、言葉によって生まれます。

 あなたがなにも考えなければ、頭の中で言葉や回想をしなければ、感情は生まれません。

 だから思考は捨てる、流す、相手にしないという方法が、憂鬱な気分を吹き飛ばすのには有効なのです。

 自分を憂鬱にさせて、外界を変えようとする無益なおこないをやめさせたいのなら、思考を捨てることです。

 
 でもことはかんたんに運びません。

 思考を捨てると気軽に思っても、思考の襲来というのはそれこそ「魔術的」です。

 あなたは考えまい、憂鬱に陥らないと思って、思考をシャットアウトしようとしても、ぎゃくにますます思ったり、考えたりすることの襲撃に悩まされることでしょう。

 思考というのは、自分の意志や思いと関係なく、自動的、継続的に頭の中に沸いてくる「永遠の泉」のようなものです。

 そこで瞑想の訓練――思考を流す、相手にしない、客観的にながめるという訓練がいつまでも必要になるというわけです。

 でも感情はバカらしい、自分を痛めつける愚かな試みだと腑に落ちた方は、瞑想が必要な理由がしっかりと理解できたと思います。


 GW明けにいくら憂鬱な気持ちになったとしても、仕事や学校がなくなったり、いやな気持が解消されるということはありません。

 感情の業火に身を焼かせても、外界のものごとはテコでも動きません。

 変えられないものは感情的に憂鬱やいやな気持ちになっても、なにひとつ変えられません。

 ならば感情的にいっさいならずに、たんたんとそのとき、その時間を過ごすしかありません。

 憂鬱になってもなにひとつ変わらないなら、感情の効果なんていっさいないことを知って、ムダな試みを断つしかありません。

 仕事にロジックな不満や不快感をもっているなら、それはロジックな対策を考えるべきです。ただ感情的に不快な気持ちをもったとしても、それを相手にすることは電信柱に対するような無益なことです。

 頭を空っぽにして、感情的な憂鬱に陥らないように、GW明けの日々をたんたんと過ごしたいものですね。



 ▼以上のようなことをもっと知りたい方はつぎの二冊をおススメします。

4393710312リチャード・カールソンの楽天主義セラピー
リチャード カールソン
春秋社 1998-12

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483795572Xどう生きるか、自分の人生!―実は、人生はこんなに簡単なもの
ウエイン・W. ダイアー
三笠書房 1999-09

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04 13
2016

セラピー・自己啓発

「世界を変えるのではなく、自分の心を変える」転換点の時代

 ウルグアイの世界一貧しい大統領といわれたホセ・ムヒカ前大統領が来日して、話題になっている。


 自分が幸せじゃないのを他人や環境のせいにするな - ムヒカ大統領のスピーチから


 この人の考え方は、ミニマリストであり、清貧の思想であり、隠遁の思想につながるものである。物質消費社会への批判を真正面にかかげている。

 科学と物質消費の拡大と成長によって幸福になるという考え方への批判である。

 日本はながらくこの思想に疑問をいだくことなく、疑ってはならないという社会で生きてきた。こういう考え方は明らかに「宗教」として排斥されてきた考え方である。

 25年以上の長期没落、停滞のうえに、若者の消費欲や恋愛欲の低下、また非正規雇用やニートの増加により、物質消費に望みをたくす生き方の疑問が深く芽生えてきた。

 同時に「世界を変えることはできなくても、自分の考え方を変えることはできる」という思潮の流れは、社会の中にもどんどん浸透してきた。


自己啓発からはじまった?


 このような世界ではなく、自分の心を変えて幸福になるという思想は、科学ではなく、自己啓発とよばれるジャンルで山のように訴えかけられてきていた。

 自己啓発の古典とされるノーマン・ヴィンセント・ピールの『積極的考え方の力』は1952年の発売である。

 願望を潜在意識にうえつければ願いが実現すると説いたジョセフ・マーフィーの著作が発表されたのは1960年代後半から70年代初頭にかけてである。

 全世界で3000万部売れたとされるウェイン・W・ダイアーの『自分のための人生』は1976年である。

 手堅い心理学方面からのベストセラー、マーティン・セリグマンの『オプティミストはなぜ成功するのか』が発売されたのは1990年である。

 日本でプラス志向がうたわれた春山茂雄の『脳内革命』のベストセラーが発売されたのは1995年である。

 禅の教えをとりいれたリチャード・カールソンの『小さなことにくよくよするな!』が日本でベストセラーになったのは、1998年のことである。

 そして消費生活をミニマム化するミニマリストが人々の口にのぼるようになったのは2010年代になってからのことである。

 これらはすべて、「世界を変えるのではなく、心を変えることで幸福になる」考え方を説く思潮の流れである。


ヒッピー・カウンターカルチャーの源流


 この自己啓発の流れの源流にあるのは、60年代から70年代にかけてのヒッピー・ムーヴメント、カウンターカルチャーの流れが源流になっている。

 物質文明の否定や、日本の禅をとりいれた意識革命のムーヴメントが、アメリカでブームになった。

 鈴木大拙や鈴木俊隆とかといった禅者がアメリカでもてはやされた。

 オルダス・ハクスリー、ラム・ダス、ジョン・リリーといったヒーローを生み出し、その流れはニューエイジやトランスパーソナル心理学にうけつがれていった。

 ケン・ウィルバー、スタニスラフ・グロフといったトランスパーソナル心理学者、グルジェフ、クリシュナムルティ、和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)といった神秘主義者の著作も紹介された。

 これらは宗教でいう悟りや変性意識状態をめざしたもので、自己啓発者の次元とは異なっている。だが、心の考え方を変えるムーヴメントの中核や中心である。


消費社会の幸福と科学


 これまでのわれわれの時代というのは、モノをたくさん買い込めば幸福になれるという科学とミックスされた一枚岩の世界観を疑ってはならない時代であった。

 これ以外の考え方をさしはさむことは、宗教だといって断罪された。

 宗教は神に服従するという政治面だけをピックアップされて批判され、心理学やセラピーとしての効用をまったく無視されて悪魔あつかいされてきた。

 物質消費社会と科学世界のスクラムでは、心の幸福を説くなんて、俗信者の説く悪魔のささやきでしかなかった。

 しかしわれわれの社会を見渡すと、じょじょに宗教思想にふくまれてもおかしくない思想は、自己啓発という軽チャーのかたちを借りて、社会の知識の中にどんどん浸透していたのである。

 世界を変えるのではなく、心の考え方を変えて幸福を手に入れるという考え方はもはや宗教領域なのだが、われわれの時代はその静かな移り変わりさえ意識されない時代のなかにいる。

 科学の世界というのは物質だけを見て、心を無視する時代である。モノを得ることが幸福の近道であった。そのために心の存在、考え方がなにをもたらすのかに目をふさいできた。それによってモノの幸福を、モノにふりまわされる心情をダイレクトに手に入れられるからだ。

 客観的世界というのは、主観や自分の心を無視する、存在をないものとする見方のことである。おかげで、われわれの心はモノのあるなしだけで幸福を測ることができる。

 そのためにわれわれは外界の奴隷となり、考え方というフィルターの存在に気づかない哀れな心の奴隷となったのである。


モノに価値をおかない時代の到来?


 心の主観の幸福が重視される時代は、唯物論から唯心論への時代の転換といえる。

 唯心論、心の幸福がますます求められる時代になってゆくのだろう。

 自己啓発や心理学といったジャンルから、深く広くその世界観は浸透しようとしている。

 モノや科学に幸福をゆだねていた時代から、ずいぶんと風変りでおかしな社会に転換してゆく過渡期にわれわれは立たされているのだろう。

 文明では物質に価値をおく時代と、質素で素朴な心の幸福に価値をおく時代は、交互にやってくるもののようだ。

 物質をたくさん貯め込んだ次の世代はもう物質の幸福に希望を見いだせない。そうして心の幸福はいっそう希求され、物質の望みは低く位置づけられてゆくことになるのだろう。

 これまでの正義と悪がひっくり返るような時代に、世代間ではまったく理解し合えない転倒した時代が、これからやってくるのかもしれない。



【新訳】積極的考え方の力マーフィー 人生は思うように変えられる―ここで無理と考えるか、考えないかで… (知的生きかた文庫)自分のための人生 (知的生きかた文庫)オプティミストはなぜ成功するか [新装版] (フェニックスシリーズ)

脳内革命―脳から出るホルモンが生き方を変える小さいことにくよくよするな!―しょせん、すべては小さなこと (サンマーク文庫)知覚の扉 (平凡社ライブラリー)ビー・ヒア・ナウ―心の扉をひらく本 (mind books)

無境界―自己成長のセラピー論深層からの回帰―意識のトランスパーソナル・パラダイム生は「私が存在し」て初めて真実となる最初で最後の自由(覚醒ブックス)

存在の詩 和尚 OSHO知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる (PHP文庫)

04 05
2016

セラピー・自己啓発

空想に情熱と命を賭けられるのが人間、わたしたちの人生・日常も

 マンガやアニメに情熱や命を賭けるほど熱中する人が多くなった。人生のなにより大切で、優先順位におかれるのが、マンガやアニメという人もたくさんいる。

 アニメの登場人物に恋して、物語や物語の情景を愛してとどまることを欲して、物語のゆくえをだれよりも気にかけている。

 でも一歩引いて、冷静にながめてみると、アニメやマンガというのは、この世のどこにも存在しない空想である。

 この世界のどこにも実在や、実体として存在しない空想が、アニメやマンガ。

 映画にしても、ドラマ、小説にしても同じである。

 この世界のどこにも存在しない、実在しない空想である。

 だけど、リアルの世界よりだれよりも愛し、重要になり、人生の情熱や命を賭ける大切なものになっている。それはどこにも存在しない空想なのにである。

 だからといってアニメやマンガに価値がない、意味がないというわけではない。

 人間は現実に存在しない空想を、現実のように恋したり、愛したり、人生のなにより大切な、情熱の賭けるものになりうるといいたいのである。

 その空想にこそ、人生の多くを賭けるのが人間であるといいたいのである。


人間の認識自体が空想


 この認識でいちばん大事なのは、わたしたちがあんなに情熱を賭けているマンガやアニメがじつは現実には存在しない空想、空っぽ、この世のどこにもないというギャップ、断絶である。

 情熱や命を賭けているものが、空っぽ。どこにも存在しないこと。

 じつは、われわれ人間の認識自体がこういう空っぽのものを実在のものと勘違いする世界のなかで生きている。

 われわれの認識自体が、空想なのである。空っぽなのである。

 この世界はこういうもので、こういう事件があった、わたしはこういう人物でこういうことがあった、あいつがこういうことをしてムカついた、あいつがわたしを侮辱したから仕返しをしてやろう、といった日常で思い、考えつくすべてのことは、空想である。

 そんなものはどこにも存在しない。頭の中の空想や思考として存在するだけである。どこにも実在しない。

 アニメやマンガが空っぽ、どこにも存在しないという実感を思い出してほしい。われわれの日常の思い、考えというのも、この断絶と同じように、この世にまったく存在しないものなのである。

 空っぽ。どこにも存在しない。どこにも実在しない空想。

 それが人間の認識、わたしたちのふつうの捉え方、心というものなのである。


悲嘆や苦悩も空想だということ


 この認識は、落ち込んだり、なにか感情的なトラブルや、鬱な気持ちからなかなか抜け出せないというときに思い出してほしい知恵になる。

 あなたが思い悩んだり、感情的に落ち込んでいるときの世界や思考というのは、この世にまったく存在しない、実在しない空想であるということを。

 すべて空っぽである。この世のどこにも存在しない。あなたが頭の中でつくりだした空想にすぎないのである。

 そんなものは空想として捨てることができる。相手にしないことができる。どこにも存在しない絵空事して、スルーすることができる。

 マンガやアニメの空想の情熱を賭け、実在のように愛し、熱中するからこそ、それが空っぽであり、実在しない絵空事であるとわかる断絶やギャップがあるからこそ、その認識は役に立つ。

 空想に実在を賭けたからこそ、実在の不在がきわだつ。熱中したものはどこにもなかった、それを知ることによって、われわれは空想の世界であることを思いっきり実感できることができる。

 空想の実が熟したからこそ、実はその重さでぽっとりと落ちるのである。


悩みなんてどこにもありません

 
 これが仏教や禅、キリスト教の神秘思想でいわれた悟りというものである。

 私たちが認識しているこの世界は、どこにも実在しないのである。

 あなたがあんなに大事にしていたものごと、ことがらは、どこにも存在しないのである。空っぽである。実在しないのである。

 人間の認識はそういうものとしか認識できないということを知ることが、宗教でいう悟りのことなのである。

 わたしたちに必要なのは自分を責め立てる思考に出会ったり、自分を追いつめる感情に出会ったときに、この知恵、認識を思い出すことである。

 そんなものはどこにも存在しない空想である。絵空事である。この世のどこにも実在しない。

 あなたを悩ましていたものは、この地球上のどこにもありません。手放していいのですよ。というより、そもそもはじめから存在しません。



グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門リチャード・カールソンの楽天主義セラピー人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)存在の詩 和尚 OSHO自我の終焉―絶対自由への道

プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

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