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09 03
2006

セラピー・自己啓発

『マーフィー 眠りながら巨富を得る』 ジョセフ マーフィー


マーフィー 眠りながら巨富を得る―あなたをどんどん豊かにする「お金と心の法則」
ジョセフ マーフィー Joseph Murphy 大島 淳一

マーフィー 眠りながら巨富を得る―あなたをどんどん豊かにする「お金と心の法則」

 眠りながら巨富を得るというのは、成功や富を実現したように潜在意識に思い込ませれば、その成功が現実に実現するということである。棚からぼた餅的な発想でないわけではないが、努力や勤勉がすっとばされているような気もするが、まあこの心の法則は真実でもあるのだろう。

 私たちは自分の考えていることが現実になるという心の性質をもっている。心理学の交流分析では人生脚本といって、親からおまえはこんな人間だといわれると、一生そのような人間を演じるのだという考えがある。マーフィーはこのはたらきを成功や富のために用いようとしているのである。

 あたかも実現したように潜在意識に刻み込むと、そのような現実が後からやってくるのである。成功や富や幸福にそのような心の法則を用いない方法はないだろう。

 ぎゃくに否定や批判ばかり考えていたらそのような現実をつくることになるし、欠乏や貧困を思い浮かべてばかりしたら、じっさいに欠乏や貧困をひきよせることになってしまう。あなたの日ごろ考えていることがあなたの現実なのである。

 考えるということは、すでにしてこの世界の現実である。あなたの世界の中では、その世界しか存在しないのである。すでにあなたはそのような世界を現に生きているのである。現実にひきよせるのは時間の問題だろう。心理学では予言成就という言葉があり、まさにこのことである。聖書では、「私がおおいに怖れていたことが私にふりかかった」(ヨブ記)といっている。否定や欠乏ばかり思い浮かべるのではなく、成功や幸福を思い浮かべない手はないというものである。

 私たちは考えが現実をつくるという法則を知らずに、よういに否定や批判、欠乏ばかりに目を向けがちになる。それが現実になるという結末を知らないからだろう。または批判していると自分が偉い人間になった思い込むもできるし、楽しいことより不平不満に目を向けることのほうがラクだからだろう。ニュースはそのような面ばかり見せる。そして自分の現実をそのような否定的なものにつくりあげてしまうのである。

 この心のカラクリを知ったのなら、私たちの考えかたというものにもっと注意深くなることに気を使うようになるだろう。私たちは心に関して、車のハンドルの存在を知らずに、アクセルを踏みつづけるようなことをしているのである。ハンドルというのは考えることの内容や種類のことである。

 なお、マーフィーはキリスト教である。神に祈る言葉がしょっちゅう出てくる。しかしキリスト教的な本というよりか、自己啓発がメインであるから、神かがり的な言葉は気にする必要もないだろう。というか、宗教というのは、いつでもわれわれに自己啓発、または心の有効な用いかたを教えてきたのだろう。宗教は無条件の服従をきらった近代の政治的人間がその側面を嫌悪しているだけなのである。心の利用法まで排斥するのは、医者に服従するのはいやだから医者を排斥するのに似ている。


マーフィーあなたも金持ちになれる―必要なお金がすぐに手に入る不思議な心理法則 マーフィー 自分に奇跡を起こす心の法則―潜在能力は、それを信じる人には無限の富と成功を約束する! マーフィー100の成功法則 マーフィー 人生は思うように変えられる―ここで無理と考えるか、考えないかで… マーフィー あなたは、何をやってもうまくいく!―この黄金ルールを守れ!
01 22
2009

セラピー・自己啓発

『積極的考え方の力』 ノーマン・V・ピール


積極的考え方の力―ポジティブ思考が人生を変える (Life & business series)
Norman Vincent Peale  ノーマン・V・ピール

積極的考え方の力―ポジティブ思考が人生を変える (Life & business series)


 落ち込んだときや不安になったとき、書棚からとり出してたまに読み返すことがある本のうちの一冊である。楽観的な言葉や前向きな言葉に慰められる。そういう言葉を読み返すだけで気持ちがほっとするのは、映画やドラマのように虚構の物語で泣いたり、喜んだりすることと同じである。虚構の言葉によってわれわれは感情をゆり動かされる。そのような効用をうたったのがこの本である。

 ノーマン・V・ピールのこの本は1952年にアメリカで発売され、世界41ヶ国に翻訳され、2000万部のベストセラーとなった。自己啓発やニューソートの元祖とよべるべき本で、カーネギーの『道は開ける』やウェイン・ダイアー『自分のための人生』などと自己啓発の古典となっている。牧師の著であるからキリスト教や聖書の薦めなどは日本人にはちょっと近寄りがたい部分も多いが、キリスト教を素直に信仰してよい国というのはときにうらやましくも思ったりする。

 たまに読み返して慰められる言葉を引用したいと思う。言葉をくりかえすだけで気持ちが慰められたり、ほっとしたりする効用を期待して、私はたまに目を通したりする。

「もし私たちが、起きるかもしれない恐ろしい事件の不吉な予感に常に注意を集めているとすれば、その結果は、いつでも不安を感じながら生活するということになる。そして、さらにもっと重大なことは、思考の力によって、私たちは恐れている状態そのものを創造する傾向があるということである」

「目標を立て、常に最善を期待しなさい。けっして最悪を思ってはいけない。最悪はあなたの頭から捨てなさい。最悪が起きるという考えを脳裡に入れてはいけない。最悪の概念を抱かないようにしなさい。なぜなら、あなたが心のなかに入れたものはなんでもそこで成長しはじめるからである。それゆえ、最善を心に入れなさい。ただそれだけを入れなさい。それを養成しなさい。集中しなさい。強調しなさい。心にありありと思い浮かべなさい。……」

「人々が幸福になろうと決心すれば、それだけ幸福なのだと言っている。あなたがもし不幸になろうと欲すれば不幸になることができる。……自分自身にこう言いなさい。「うまく運んでいる。生活は快適だ。私は幸福を選ぶ」と。そうすれば、あなたは自分の選択したものを得ることができる」

「幸福であることを私は習慣にしているのです」

「悩んでいる者の日々はことごとくつらく、心の楽しい人は常に宴会をもつ」

「幸福な考えのリストを作って、日に数回それをあなたの心に思い浮かべるのである。もし不幸の考えがあなたの心に入ってくるようなことがあれば、即座にやめて、それを意識的に追い出しなさい。そして、幸福の考えと入れ替えなさい。毎朝起きる前に、寝床にのびのびと横たわり、落ち着いて、幸福の考えをあなたの心のなかに送り込みなさい。あなたがその日にもつだろうと思う幸福の経験の図を、あれこれと心に描いてごらんなさい。この想像のよろこびを味わいなさい。……」

「幸福への道。憎悪をあなたの心から、悩みを脳裡から追放せよ。簡単に生活せよ。期待することは少なく、与えることを多くせよ。生活に愛をもって満たせ。陽光をまきちらせ。自分を忘れて、他者を思い、あなたがなされたときのように、なせ。これを一週間試みよ。そうすれば、あなたは驚くだろう」

「人に好かれるということは、人を好くということの一面にすぎないのである」

「心を空しくすることを少なくとも一日に二回、必要があればもっとたびたび実行することをおすすめする。憂慮、憎悪、不安、無念、有罪感などの心を空にすることをしっかりと実行しなさい。……あなたは信頼できるだれかに、胸に重くのしかかっていた煩わしいことを吐露することができたとき、解放感を味わった経験がおありと思うが、牧師としての私は、心の悩みを信頼して話すことのできる人をもつことに非常に重要な意義があるとしばしば気づかされる」

「無理に解決を得ようとはしてはいけない。解決策が自然に出てきて、明確になるように、気持ちをくつろがせなさい」

「私たちの幸福を奪おうとする外部からの問題がありあまるほどあるのに、さらに自分自身の心のなかで不幸を製造していくなんて、なんと馬鹿げたことだろう」

「心を入れ変えて、自分が住んでいる世界は今までと同じ世界だろうかと驚き怪しむほどの幸福を、あなた自身の内側からつくりなさい。……あなたが変化するとき、あなたの世界もまた変化するのである」

 ノーマン・ピールなどの自己啓発はわれわれの不幸や悲しみが環境や現実によってひきおこされるのではなくて、われわれの考え方や捉え方によってひきおこされると教えた。思考や考え方というフィルターやクッションが、私たちの幸福も不幸もつくりだすと教えたのである。われわれは環境や現実によって苦しんだり、悩んだりしているのではない、それは自分の考え方や捉え方がひきおこすものだと教えたのである。

 心理学においてもこのような考え方は認知療法や論理療法といった方法においてとり入れられるようになっている。自己啓発あるいは宗教といったものはなんの根拠もなくこの説をとなえてきたわけではないのである。

 私がこの本をはじめて読んだのは十年前くらいだろうか。そのころは落ち込みが激しくて片っぱしから自己啓発書を読んで希望や幸福がもたらされるような言葉の数々を読んだのだが、月日がたつうちにそのような前向きな効用は薄れてゆき、忘れられてゆき、以前のような悩んだり、不安になったりする心の習慣にもどってゆくものだ。そういうときにこの本を書棚からとりだして、慰めてもらうことになる。できればこの本のすべてを自分のものにしたいのだが、忘れてしまう私はたびたびこの本にお世話になることになる。幸福の習慣を自分のものにしたいものである。


積極的に考える―自信と勇気が出てくる12の法則 人生が驚くほど逆転する思考法―夢をかなえる人・あきらめる人 (知的生きかた文庫) 信念の魔術 新装版 やりとげる力 信念をつらぬく 新装版
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01 31
2009

セラピー・自己啓発

『道は開ける』 デール カーネギー

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新訳 道は開ける 角川文庫
D.カーネギー
KADOKAWA / 角川書店 (2014-12-10)



道は開ける 新装版
道は開ける 新装版
(1999/10)
デール カーネギー、Dale Carnegie

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 悩みを解決する方法をおもちだろうか。学校で教えてくれることはないし、マスコミで教えてくれることもない。各自自分で方法を見つけ出したり、模索するのがふつうであるが、自分ひとりでは限界がある。カーネギーのこの本は悩みの解決法をいくつも教えてくれて1944年にアメリカで出版されていまなお世界でベストセラーとなっているのはとうぜんのことである。

 一度は目を通したり、一家に一冊あってもいいと思うほどの本である。ただこの本は文書量が多くて、事例を多く読まなければならないので、要約や折に触れて重要箇所だけ読み返すというのがむずかしいのでそこが難だと思うが。

 ざっくばらんに私の感銘したところを引用したいと思う。

「諸君の生活のあらゆる部分で鉄の扉が過去――息絶えた昨日――を閉め出してゆく音が聞こえるでしょう。またもう一つのボタンを押して鉄のカーテンを動かし、未来――まだ生まれていない明日――を閉め出すのです。そうしてこそ、諸君は今日一日安泰です。過去と縁を切ることです。息絶えた過去など、死者の手にゆだねましょう……愚か者たちを不名誉な死へと導いた昨日など閉め出すべきです……昨日の重荷に加えて、明日の重荷まで今日のうちに背負うとしたら、どんな強い人でもつまずいてしまうでしょう」

「それゆえ、あすのことを考えるな。あすのことはあす自身が考えるだろう。一日の苦労はその一日だけで十分だ」

「自分の荷物がどんなに重くても、日暮れまでなら、だれでも運ぶことができる。自分の仕事がどんなにつらくても、一日なら、だれでもできる。太陽が没するまでなら、だれでも快活に、辛抱強く、親切に、貞淑に生きられる。そして、これこそが人生の秘訣そのものだ」

「悩みが健康という名の法外な代償を払っていることを肝に銘じること。
「悩みに対する戦略を知らないものは若死にする」」

「惨めな気持ちになる秘訣は、自分が幸福であるか否かについて考える暇を持つことだ」

戦時中、機雷船の攻撃に15時間さらされ、死の恐怖にさらされつづけた男の話。「私の過去の生活が、もう一度目の前で繰り返された。長い勤務時間や、安い給料、昇進の見込みがないことをクヨクヨ思い悩んでいた。自分の家を持つことができず、新車を買うことができず、女房に美しい服を買ってやれないことも悩みの種だった。……数年前には、この種のことが何と大きな悩みの種だったことか! けれども、爆雷に吹っ飛ばされはしないかと冷汗をかいていると、そんなことは実に馬鹿げたものに思えてきた。私はそのときに自分自身にこう誓った。もし再び太陽や星を拝むことができたら、もう決して、決して悩んだりはすまいと」

「人生は短すぎる。小事にこだわってはいられない」

「私たちはしばしば、忘れてもかまわない小さなことがらのために、自分自身を台無しにする……私たちが地球上に生きられるのは、わずか数十年にすぎない。それなのに、一年もすれば忘れられてしまう不平不満を悩みながら、かけがえのない多くの時間を無駄にする。もう、ごめんだ。私たちの人生を、価値ある活動、感覚、偉大な思想、真実の愛、永久の事業のために捧げよう。とにかく、小事にこだわるには人生はあまりにも短すぎる」

「悩みや不幸の大部分は想像の産物であり、現実のものではないと言われている」

「盲目であることが悲惨なのではなくて、盲目状態に耐えられないことが悲惨であるだけだ」

「すべてこの世の病には
治す手だてがあるか、なし
手だてがあるなら見つけよう
手だてがないなら忘れよう」

「ノコギリでオガクズを挽いたことのある人は何人いるだろうか?……過去についても、これと同じことが言えましょう。すでに終わったことについてクヨクヨと悩むのは、ちょうどオガクズを挽こうとしているだけなのです」

「愉快な考え方をすれば、私たちは愉快になるだろう。惨めなことを考え始めたら、惨めになる一方であろう。恐ろしいことを思い浮かべれば、恐ろしくてたまらなくなるはずだ。病的なことを考えれば、病気になるに違いない。失敗するのを気にしたら、間違いなく失敗してしまう」

「父は一分間といえども、自分の好まない人間のことを考えながら無駄な時間を過ごしたことはありません」

仲間たちと二十一日間救命ボードで太平洋を漂流した男。「あの体験から学んだ最大の教訓は、飲みたいときに飲める新鮮な水と食べたいときに食べられる食料さえあったら、それ以上に文句を言うべきではないということさ」

「われわれは自分に備わっているものをほとんど顧慮せずに、いつも欠けているものについて考える」

「あらゆる出来事の最も良い面に目を向ける習慣は、年間一千ポンドの所得より価値がある」

「他人に善を行なうのは義務ではない、歓喜である。それを行なう者の健康と幸福を増進する」

「不当な非難は、しばしば擬装された賛辞であることを忘れてはならない。死んだ犬を蹴飛ばすものはいないことを思い出そう」

「覚えておいてほしい。今日は、昨日のあなたが思いわずらっていた明日なのだ。自問してみよう。今悩んでいることが間違いなく起こるという保証はどこにあるのか?と」

 カーネギーの本は多くの実際例を読みながら悩みの解決法を悟ることに意味があると思うのだが、とりあえずは私がむかし読んだときに線を引いた箇所や角折りをした箇所から引用してみた。悩みや落ち込みが激しいときにふたたび全編を読み返したいものである。


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02 03
2009

セラピー・自己啓発

『リチャード・カールソンの楽天主義セラピー』


リチャード・カールソンの楽天主義セラピー
Richard Carlson

リチャード・カールソンの楽天主義セラピー


 私にとって心の革命をおこした衝撃の本である。心にたいする感じ方や捉え方を180度変えてしまった本である。この本を知らないばかりに私はそれまでどんなに被害を与える心の扱い方をしてきたことか。

 リチャード・カールソンはつぎの著である『小さいことにくよくよするな!』という本がベストセラーになり、このシリーズは世界100ヶ国に翻訳され、4000万部売れたそうだ。しかし私はこちらの『楽天主義セラピー』のほうが心の原理・原則を教えているという点でよほど名著だと思うのだが、世間の評価はそうでないらしく、いまこの本は絶版になっているようだ。こんな名著が古本でしか手に入らないというのがどういうことなんだろうと思うが。新潮文庫とか三笠文庫に入れてほしいものである。

 カールソンはどちらかというと大衆受けするやさしい本を出している。私はこの本によって視界が一挙に開け、仏教や禅のいっている意味が理解できて、片っぱしから読みあさった。宗教とか怪しいとか時代遅れといった先入観を抜きにトランスパーソナル心理学やニューエイジといった領域にも手をのばせた。「心はまぼろし」であるという認識を確認したかったのである。学問的にも学術的にも探究できる領域であると思うのだが、カールソンは自己啓発の軽い領域にとどまってしまったのはなぜかと思う。

 この本の基本的なことは落ち込みや悲しみに襲われたらそれについて考えたり改善をおこなおうとするのではなくて、無視して相手にしないという方法をおこなえということである。いままでの精神療法や世間一般のやり方ではどこまでもその問題について考えつづけろといった方法だったのであるが、そのやり方では落ち込みやつらさの感情は無視されたままになる。どこまでもひどい悪感情にさらされつづけなければならなくなる。そんな思考や問題は相手にするな、無視するなと正面切って反対をとなえたのが本書である。

 そういう方法の根底には思考や心というものが、たんなる「まぼろし」や「虚構」といった見解がある。こういう知恵を教えつづけてきたのが宗教や仏教であったのだが、だから私はそのような認識を確認するためにこれらのジャンルを読みあさった。「思考を捨てろ」といってきたのは仏教や禅であり、それを西洋に現代的にとりこんだのがトランパーソナル心理学やニューエイジ、または自己啓発であったわけである。このような「思考は害悪」だという考え方が、近代科学知識の勃興によって忘れ去られていったのである。「思考は善」になり、みんな「うつ病」の危機にさらされることになったのである。

 感銘した文章を抜き書きしたいと思う。

「いくら現実的に思えても、思考は思考にすぎません。このことを忘れるたびに、あなたの思考は悪夢のように現実味を帯びてくるでしょう」

「不幸せな人や落ちこんでいる人は、自分の思考を正しく見ることができず、それを鵜呑みにし、それが現実であると思いこみ、絶えることのない苦痛を自分に与えます」

「もし、ほんとうに幸せな人の心の中に入っていけたなら、あなたは、その人が必ずしもポジティヴ・シンキングをしているわけではないことに気づくでしょう。むしろその人は、ものごとについてあまり考えないのです」

「「何かがうまくいっていないからといって、それにもっと集中してみても、何の役にも立たない」。落ちこんでいるときには、どんな発想も役に立ちません。そもそもあなたの気分を沈ませたのは、あなたの思考なのですから、同じことを繰り返しても事態は悪化するだけなのです」

「落ちこんでいるとき、あなたが自分に対してできることの中でまさに最悪なのは、考えつづけること」

「否定的な気持ちの下にはいつでも穏やかで明るい気持ちが存在していると心底わかっているなら、憂うつから解放された、もっといい気分がそこまできているという希望と自信が取り戻せます。……あなたを不幸な状態に引きとめている唯一の要素は、あなた自身の考えです」

「自分がいかにひどい気分であるかということに焦点を合わすなら、それは否定的な感情をさらに悪化させることにしかならないからです」

「思考を流れ去るままにしておくという能力は、思考それ自体にはあなたを傷つける力がないという理解と表裏一体です。思考はあなたの頭の中のイメージにすぎません。そのイメージを捨て去りたいと思ったら、それはいつでも可能なのです」

「いちばん幸福に感じられるのは、自分について考えることがいちばん少ないときだ、ということもわかってきます」

「精神的健康への道が最終的にあなたに要求するのは、悩みや問題を手放すことなのです」

「もし問題にまつわる思考に意識を集中させるなら、あなたの体験する人生はおもに問題から成り立ったものになるでしょう」

「精神的健康というごく単純な体験こそ、人生における最大の幸福なのです」

「自分を不幸から解放するには、ほかでもない自分の否定的な思考が、否定的な気分の原因であることを理解しなければなりません。否定的な思考さえなければ、あなたをいやな気分にするものは何もないのです」

「不愉快な気持ちのときに必ず否定的思考が生じてくるということがわかれば、砂漠で蜃気楼を無視するように、あなたも自分の考えていることを疑い、無視できるようになります」

「人は沈んでいるときにはいつも、自分がそのように感じるのはもっともであり必要なことだと思うからです。そんなときには切迫感を感じ、ひとりよがりになり、自分の考えていることを信じたくてたまらなくなります。そこから抜け出す道は、沈んでいるときの自分の考えや気持ちを信じることが愚の骨頂であると理解し、そんな状態になったら必ず自分の思考を無視しようと固く決意することなのです」

「気分が沈んでいると、思考は否定的で、不安定で、悲観的になります。人生およびそれに含まれる一切が悪く見えはじめます。そうなるとあなたは、なぜこんなに気分が悪いのかを説明するたくさんの理由や、自分のみじめさを正当化するための理論を必ず見つけてくるでしょう。……理由がなければ、低調な気分は自然に去っていくものです。……低調な気分のときに抱いた否定的な思考を無視することは、否認ではありませんし、危険なことでも無責任なことでもありません」

「沈んでいるときに頭に浮かぶことには一切注意を払うのをやめ、そのときの思考や感情を無視しはじめると、気分は良くなりはじめるのです」

「人生は、沈んでいるときにはいつも、深刻で、せっぱ詰まり、問題だらけにみえることを理解しなければいけません。……落ちこみや、長期にわたる低調な気分を克服するコツは、意気消沈した状態は、放っておいて何もしなければやがて去っていくと信じて、リラックスすることです。……重要なのは、沸いてくる思考やせっぱ詰まった感じを無視することです」

「遅れてそこに着いたときに起るだろう嫌なことを思いめぐらしたとしても、目的地に着くのが早くなるわけではありません」

「過去の失敗を見直したり将来について心配したりしなければ、人生がどれほどすばらしいものになるか、自分に何度も言い聞かせてください」

「人は自分の考えることをなんでも信じる傾向があるのです。真の自由は、思考がつくりあげたものの見方を、あなたがほんの少しでも疑いはじめたときに訪れます」

「自分が今どれほど不愉快であるかを考えたり、その感情に意識の焦点を合わせているとき、あなたはそうした感情をもっと求めているのです。……考えを捨て去り、頭を空っぽにして、リラックスすることです。……おかしいと思うことを分析すると、ものごとは悪化するだけです」

「何かを忘れる、捨て去るという意味は、頭の中にそれが存在しなくなるということです。頭の中に存在しないものは、現実に存在せず、影響力をもちません」

「今この瞬間には、空想の出来事も、実際に起った出来事も、これから起こるかもしれない出来事も、頭の中の考えにすぎません」

「思考の内容が問題になるのは、思考は思考にすぎないということを忘れたときなのです」

「その思考がどんなに強力で、つらく、説得力のあるものでも、それをたんなる思考として見ることができるのです」

「あなたの意識が、苦痛を消し去りたいとということに向けられたなら、意識は苦痛に向かいます」

「あなたが現在感じているように感じるのは、あなた自身が抱いている考えのせいだ」

「不幸せな人は、思考はたんに思考でしかないとみなすことができず、それを真実として、重要なものとして受け取ります」

「どんな気持ちであっても、それを成長させるのはあなたの注目であることを思い出してください」

「人生でうまくいっていることをまず探してみてください。うまくいっていることに目を向ける癖がつくまで、あきらめずに探しつづけましょう」




 私たちは知らず知らずのうちに心の最悪の使い方をしているのである。悩みに悩みを重ね、苦しみに苦しみを重ね、不幸に不幸を重ねる。それは思考というものが連想ゲームや数珠繋ぎのように同じ発想のものを連れてくるからである。そしてヤケドしつづけるのである、みずからの意志でもって。

 心というものは焦点を合わせると強くなる。最悪に焦点を合わせると最悪になり、不幸に焦点を合わせるともっと不幸になるといった具合だ。心を、思考を無視したり、手放すといった方法を知らずに、私たちはどこまでもその最悪で不幸な思考にしがみつづけるのである。もうひとつの選択肢があるということを知らずに。

 私たちのもうひとつの愚かな点は思考は思考に過ぎないことを知らないことである。思考は頭の中のイメージであり、想像であり、空想であり、虚構である。どこにも実体としてないものであり、存在しないものである。しかし私たちはその思考にリアリティーや実体感、現実感というものをもちつづける。それは過去にも、未来にも、現在にも存在しないものである。この存在しないリアリティある「悪夢」にうなされつづけるのが私たちの日常だといえるのである。禅や瞑想などの方法はこの思考のリアリティを打ち消す方法だといえるのである。

 カールソンに教わった心の知識や操縦法を自分のものにしたいものである。せっぱ詰まった、緊急事態になった私たちの人生は、心に対する深い理解を手にすると、なにも恐れることはなかったのだという安堵感を得ることができるようになるだろう。

 悲しみや恐れ、不安などの感情は無視して、通りすぎるままにしておくこと。焦点を合わしたり、考えつづけてはならない。そうすると私たちの人生は不安で悲しみ多く、不幸な人生を歩むことになってしまう。その選択はいま私が不幸な思考を選ぶか、あるいは手放すかのただ一点にかかっているのである。こんな人生の重要な知恵を知らないままで過ごすのは、あまりにも損害が大きいというものである。


あくせくするなゆっくり生きよう!―人生に不満を持たない生き方 (角川文庫) You Can Be Happy No Matter What: Five Principles for Keeping Life in Perspective お金のことでくよくよするな!―心配しないと、うまくいく (サンマーク文庫) You Can Feel Good Again: Common-Sense Therapy for Releasing Depression and Changing Your Life 小さいことにくよくよするな!愛情編 (サンマーク文庫)
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02 05
2009

セラピー・自己啓発

心に対する間違った捉え方



 先ほどリチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』という私の随一のおすすめ本を紹介したが、「思考を捨てるのは逃げです」というコメントをいただいた。やっぱり心に対する捉え方の間違いがあるのだと思った。

 ふつうの人の心の理解というのは、心は外界の出来事の結果おこるのが自明だという捉え方がある。なにか外界に悲しいことやつらいことが起こったから、私は悲しんだり、つらくなったりするのだと理解する。ふつうの人はこういう心の捉え方をとうぜん自明なものとして育むものである。

 しかしこれは間違いであり、素朴な思い込みによる過ちである。私たちは心というフィルターやクッションを忘れてしまうのである。悲しみやつらさは心のフィルターが、それは悲しみやつらさと判断するから悲しみやつらさとしての感情として味わうのである。世の中の現象や出来事に悲しみやつらさがあるのではなくて、世の中の出来事や現象に意味も価値もなにもない。私たちが悲しいことやつらいことだという価値判断をするから、それは悲しいことやつらいことになるのである。心が色づけする。

 リチャード・カールソンやその他の自己啓発書――たとえばデール・カーネギーやノーマン・ピール、ウェイン・ダイヤーの自己啓発者はそういう自明な心に対する捉え方に「コペルニクス的転回」をあたえる。「コペルニクス的転回」とは太陽が地球のまわりを回っているのではなくて、地球が太陽のまわりを回っているという認識の転回のことである。心についてもそのようなコペルニクス的転回が必要なのである。

 感情は外界の出来事の結果おこるのではなくて、私たちがあらたにつくりだすものなのである。心は「結果」ではなくて、「原因」である。私たちの悲しみや苦しみはみずからがつくりだすのであり、外界の出来事によってそのまま与えられるのではない。出来事を悲しいとか苦しいとか判断する基準や前提をもってしまうから、私たちは苦しむのである。私たちはそういう心が価値づけしている意味、フィルターというものをないもの、当たり前のものとして使っているために、その存在をすっかり忘れてしまっているのである。

 心のコペルニクス的転回が必要なのは、私たちは外界の犠牲者になるのではなくて、心の支配者になれるからである。もし外界の出来事がそのまま悲しみや苦しみを与えるのなら、私たちは外界の出来事の犠牲者になりつづける。しかし心が悲しみや苦しみをつくりだす「原因」と捉えるのなら、私たちは心をコントロールする術を身につけることができる。外界や心の犠牲者にならなくてすむのである。

 心の手綱というのは思考を捨てたり、無視するといったことによって手にできる。思考をたんなる頭の中の出来事、空想やまぼろしと捉えることにより、思考を無視する、捨てる。そのことによって私たちは心の手綱を手にすることができる。心の奴隷にならなくてすむものである。

 心が原因だと捉えるようになると、牛や猿が暴れまわって手綱をひっぱりまわされていた状態から、牛や猿の手綱を手にすることができるようになる。それまでは牛や猿にふりまわされていたのだが、かれらを無視できるようになり、または存在しない幻や虚構だと捉えられるようにもなる。心の正しい理解を手にするということはそういうことなのである。

 禅僧や仏教僧がひたすら瞑想したり、座禅を組んで頭を空っぽにしてきたのは、自動的な機械となってしまった思考の流れをとめたり、無視する訓練をしてきたからである。私たちの思考の流れというのは強固な機械のように自動噴出をやめない。ある思考パターンや思考の回路をつくってしまうと、その思考回路を頭の中に流しつづける。悲観や悩みや苦しみにおちいる思考の流れをずっと頭の中にリピートしつづけるのである。

 もしそれを頭の中の思考とか、たんなる絵空事と捉える心の習慣をもたないと、その悲観や苦しみは私たちにリアルな現実、実体のある悪夢として認識されつづける。強烈な現実、ウソまがいのない現実だと捉えられてしまうのである。その習慣を断ち切るのはそれはたんなる頭の中の思考に過ぎないと捉えたり、思考を捨てる訓練をしないと断ち切ることはできない。

 あまり難しい説明にならないようにしたかったのだが、やっぱり心に対する理解というのは難しいものなのかもしれない。心というのは実体のないものであり、あやふやなものであり、透明で存在に気づきにくいものであるからだろう。まずは心のありようとか習慣というものを「言葉化」するということもふだんおこなわないもので、よけいに理解を阻むのだろう。どうすれば、心のコペルニクス的転回はかんたんに説明できるのだろうか。

 ともかく悲しみや苦しみは外界の出来事からそのままやってくるのではない。私たちが心でつくりだすものである。外界の結果おこるものではないのである。自分たちがみずからつくり、みずから苦しみ、みずからで痛めつづけるのである。心というのは自動機械のようにある出来事の解釈や感情を私たちの頭の中に流すものである。それによって恐れたり、悲しんだりする。

 だから心に対する正しい理解をもっている人はその考えを無視する、捨てる。相手にせずに放っておく。まぼろしや絵空事はそのまま去ってゆき、私を苦しめることがない。心の解釈を相手にしないのである。そのことによって私たちは心の平穏を手に入れられる。といってもこういう私も悩みや苦しみを完璧に捨てられてきたわけなどまるでない。まだまだ道半ばで、苦しい目にあう。むかしの牛や猿にふりまわされたころより、だいぶマシになったとだけはいえるが。

 心のコペルニクス的転回をぜひとも理解してほしいものである。


思考を捨てるブックガイド
リチャード・カールソンの楽天主義セラピー愛と怖れ―愛は怖れをサバ折りにする。どう生きるか、自分の人生!―実は、人生はこんなに簡単なもの
自我の終焉―絶対自由への道無境界―自己成長のセラピー論グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門

02 07
2009

セラピー・自己啓発

心を制御する方法



 たとえばふつう腹の立つ人がいたとしたら、私の腹立ちは彼のせいであり、彼の行動や態度がどうにかならないと問題は解決しないと考えるだろう。たとえば悲しい出来事があったとしたら、問題が解決しないかぎり悲しみは去らないと考えるだろう。恐れや不安があったとしたら、それらの根本的解決が図られないかぎり、それらは去らないと思うだろう。

 私はそれら外界の犠牲者になりつづける。しかし心は制御できるという考え方に立つと、外界にいかなることがおころうと、私は外界の犠牲者にはならなくなるということができる。私たちは心を制御するという考えをあまりにもおろそかにしすぎたり、あるいは知らなかったりした。

 心は制御できる、制御するものだという考えにあらためたほうがいいに決まっているというものだろう。ふつうの人は頭が考えることを放ったらかしにしたまま、つまり庭や林が草ぼうぼうになろうが、荒れ放題になろうが、なるままにまかせてきたのが心の扱い方だったといえるだろう。

 心は自然のままに放っておかれた。心は放っておかれると、悲しみや苦しみ、つらいことばかりに目が向くようになっているようだ。それはおそらく危険や不安な出来事を解決しなければ、生命として危うくなるという優先順位のせいだろう。しかしそのような悲しみや苦しみばかり頭の中で考える習慣をつづけると落ち込みがいつまでもつづいたり、うつ病になったりするだろう。また問題は解決するまで考えつづけるのが善だという社会の姿勢もある。おかげで私たちは思考の悪の巣のなかで一生を過ごさなければならなくなったのである。

 心は制御できるものであり、制御しようと努力したほうがよほど人生は幸福に生きられるというものである。心の制御というのは基本的には思考を捨てる、無視する、流れるままにする、といった思考を手放すことによっておこなえる。放ったらかしの心というのは頭が考え出した言葉や思考のままにどこまでも考えをめぐらすことである。そうして悲観はますます悲観的になり、不安はますます恐れを高めるといった悪循環におちいる。そのような思考の流れを捨てたり、無視したりして、心の軌跡を選択することによって心は制御できるのである。

 心というのは考えることによって現実味やリアルさを増す。もし思考を手放せばその場で消えてしまう考えは、考え続けることによりますますリアルさや緊迫感を増すものであり、私たちを追い込む。思考というのは考えなければどこにも存在しないものとなるのだが、どこまでも考えつづけると、悪夢のように現実味を帯びてきて、逃れられないような脅威を与えることになってしまう。もしそこで思考を捨てていれば、そんな脅威はたちまち霧のように消え去ってしまうものであったのが、どこまでも私を追い込む恐れや不安になってしまうのである。

 心というものは想像によってなりたっている。すべて想像や絵空事である。頭の中で考えるものは現実にどこにも存在しないものである。実体のないものである。私たちは想像することによって、現実に恐れたり、不安になったりする。つまり絵空事に脅えたり、悲しんだりする。現実におこったことによって不安になったり悲しんだりするのだという反論が思い浮かぶと思うが、そのときほかのことを考えたり、ほかの用事で忘れたりすると、それはどこへいったというのだろう。一時の思考にすぎないのである。

 思考が現実に存在しないものだという検証は時間について考えてみるとよく理解できる。過去に現実におこったことがらに私は怒ったり、悲しんだりするとする。しかし現在それは外界のどこにもなく、頭の中にしか存在しない。もう実体としてどこにも存在しないものである。それでも頭の中で現在考え出すとまるで目の前の現在にあたかも存在しはじめたかのように怒ったり、悲しんだりすることができる。考えないとそれはどこにも存在しない。未来や将来の不安も現在どこにも存在しないものであり、想像や頭の中の出来事でしかない。たんなる想像であり、考えるのをやめるとその不安はどこにも存在しなくなってしまう。将来の不安に脅える人は、存在しない想像のために現在を苦しめるのである。現在の気分を傷めているだけである。

 心というものは存在しない幻のようなものである。考え出すと明確な不安や悲しみとなって現われるが、考えないとそれはどこにも存在しない。たんなる想像であり、思考であり、絵空事である。思考を捨てれば存在しなくなる。頭の中の絵空事である。

 しかし心というのは真空を嫌うかのごときに思考をつぎつぎと頭の中に生み出すものである。いっときも静かにしておくことができない。つぎつぎと現われる思考に私たちは思考を重ねて、我を忘れて思考の波に乗って思考に思考を重ねる。そしてその想像上のまぼろしに恐れたり、悲しんだり、苦しんだりする。想像のオンパレードに私たちの日常はひたされつづける。それは心臓が勝手に脈打ったり、血液が流れ続けるような身体の自然な活動なのだろう。そして不安や悲しみの劇場に私たちの日常はうちのめされることになる。

 思考を捨てることである。無視することである。放っておくことである。思考の流れに乗らないことである。そうやって心の制御力を心につちかうことができる。もちろん禅僧や仏教僧が何年もかけて座禅や瞑想でもなかなか心の汚れがとれないように思考の習慣を断ち切るのは容易ではない。かなりの訓練や注意が必要なのだろう。「思考を捨てる」とか「頭を空っぽにする」といった言葉をくりかえしたり、暗示をかけることが必要なのだろう。無思考の頭の中をつくりだすのは容易ではない。

 思考を無視したり、流れるままにまかせ、捨てつづけ、そして心はまぼろしや存在しないもの、想像や実体のないものという理解とともに、心の制御力はゆっくりと身についてゆくものだろう。そうして私たちを苦しめてきた思考や考えが希薄なものになり、恐れさせるものでなくなっていき、脅かすものでなくなってゆく。

 もちろん私たちは思考の実体化やリアリティというものをかんたんに捨てられるものではないし、その恐れから完全に解放されることはかなり難しいことだと思われるし、容易にこの習慣から完全に断たれることはないと思う。私たちはずっと思考の現実化というものに悩まされつづけるものだと思う。しかしこのような心の制御法を知ることによって、追われつづけていた思考の病からはすこしは解放されることができるだろう。以前よりはずっとマシな穏やかで平穏な日々が送れるはずである。思考を捨てることによって私たちは心の制御力を手に入れられるのである。そして無意味な脅えや不安の毎日からも解放されることになるのだろう。


02 11
2009

セラピー・自己啓発

思考を「想像力」として消し去る



 頭の中というのは終始ひとりでおしゃべりしつづける。「あーでもない、こーでもない」と思いついたことを始終頭の中でささやきつづける。その頭から出されるままの思考に乗ってしまうと――たとえば否定的な思考や悲観的な思考に乗ってしまうと、私の日常は悲しみや恐れに乗っとられてしまう。

 うつや落ち込みに陥らないためにはそれらの思考を捨てることが必要である。無視したり、手放したりして思考を選択しないと、悲観や否定の思考は数珠つなぎのように私の気分を最悪なものにしてしまう。出される思考をそのまま食べつづけていると、思考の奴隷となり、囚人となる。

 だから思考を捨てたり、選択したりすることが肝要なのである。そのような意志をもってはじめて私は思考の主体となり、奴隷のくびきから解放されるのである。たいていの人は思考はコントロールできるという知識さえ知らずにどこまでも思考の奴隷になり、猿や牛のように飛び回る思考の犠牲者になりつづける。

 思考というのはたんなる「想像力」にすぎないと知ることが思考を捨てる知恵に結びつくと思う。私たちは頭で考えることは、「事実」やリアリティをもった「現実」だと思い込む。しかしそれをたんなる「想像」にすぎないと見なすと、思考はもっとコントロールしやすいものになるだろう。私たちは想像力に過ぎないものを、「事実」や「現実」として脅えつづけるのである。

 人間というものはものごとを「想像力」でしか捉えられないのではないかと思う。言葉や思考は想像力でしかないのではないか。事実や現実は想像力で捉えたひとつの想像でしか過ぎないのではないか。

 たとえば将来の不安にしても将来はいまだ存在しないのだから、現時点では想像でしかない。過去の悔恨や悲しみはとっくに終わっていることだから、想像や記憶としか捉えられない。現在おこっていることも一瞬にして過去になってゆくし、言葉や思考で捉えるものは想像でしかないのではないか。

 私たちは事実というものが私たちの頭や身体を超えて存在していると思う。しかし事実というのは私たちの頭の中でしか捉えられないし、頭で捉えた事実も頭から忘れればそれは存在しないし、刻一刻と状況は変化してゆく。事実というのは私たちが頭で捉えた想像でしかないのではないか。たとえばマスコミで報道される事実も、私たちが目で確かめたことではないし、伝聞される情報というのは頭の中の想像力によって知られるものではないのか。

 人間にとってやっかいなことはその想像力にすぎないものが、私たちの感情をつくり、そして身体を恐れや不安につき落とすことだ。想像力が私たちの現実や事実を決定してしまい、身体はそれについて付随筋のように反応してしまう。頭の中で想像したものが気分や感情となって私たちの身体を環境づけてしまうのである。

 私たちは不安や恐れにつき落とされるとき、身体はそのままの反応をしてしまう。恐れや不安の身体の反応は太古の人類がそうであったように身体を守る働きをする。たとえば腹を固くしたり、息をつめたり、逃げるためや出血を防ぐための血管の収縮をおこなう。つまりは想像の不安にすぎないものが、身体の防御反応をつくりだしてしまい、その身体環境によってぎゃくに不安や恐れがますます昂進されるということになる。恐れの根拠が身体の恐れに求められてしまう。身体が恐れているのはなにか理由があるのだ、それには根拠があるに違いないと恐れの理由を探し、恐れの身体防御はますます昂進されることになる。

 現代人は太古の人類のように恐れは外敵から逃れればそれで終わるということにならない。想像力による恐れや不安はずっとつづき、身体もその恐れに反応しつづける。怒りも、悲しみもそうである。想像力によってそのような感情を抱きつづけると、身体もそのように反応しつづける。つまり身体も怒りや恐れ、悲しみの身体防御の姿勢をずっとつづけるのである。固定された身体はますますその想像力の種類を連想ゲームのようにくりだし、身体も思考もますますその種類の想像力に固定されてゆく。緊急事態の身体が継続されたまま、思考もそれにならない、いっとも休まるときがないのである。

 身体は鎧のように緊急事態にそなえた姿勢のまま固定してしまう。身体の鎧というのは腕や足のような随意筋ではなくて、自分の思考や感情に直結する不随意筋である。恐れや怒りの感情に直結して筋肉は硬直し、身体の感情環境をつくりだす。私たちは恐れや不安の感情を抱くと、自分からなかなかその身体環境、筋肉の強ばり、収縮といったものを解くことはできないのである。そのような身体環境が健康にいいわけがなく、病気を生み出す原因となってゆくし、ぎゃくに感情や気分の決定要因ともなってゆく。

 このような身体環境をコントロールするには元になる思考をコントロールしなければならないのである。思考を選択し、制御し、あるいは捨てたり、無視しなければならない。私の「現実」や「事実」を選ぶことによって、私は自分の身体をやすらかにおだやかに保ったり、あるいは緊急事態のように恐れたり不安にすることもできる。それには思考の制御が必要なのである。思考の制御こそが私たちの身体環境をつくりだす。

 そして私たちのそのような身体反応をつくりだすのは、たんなる「想像」にしかすぎないのである。「想像」したものが私たちの「事実」や「現実」となる。もしその「事実」を捨てたり、思考を無視したり、選択すると、その事実は霧のように消えてしまう。思考で捉える「事実」というのは、想像でしかないからである。私たちはものごとを想像でしか捉えられない。

 そして想像というものがどんなにあやふやなものであり、あいまいなものであり、根拠の薄いものであるか思い出してほしい。それは考えないと存在しないものであり、無視すれば跡形もなくなくなってしまうものであり、忘れてしまうとどこにも存在しなくなるものである。私たちはこんなあやふやなものである想像力によって恐れたり不安になったり悲しんだりする毎日を送っているのである。それは「まぼろし」や「絵空事」の悪夢の劇場でのたうちまわっていることとなんら変わらない。霧のように消失してしまった想像力や思考から解放されると、私たちはやすらかでおだやかな毎日を送れることになるのだろう。

 しかし思考は想像や幻でしかないという認識を忘れると、たちまち事実やリアリティある現実となって私たちの日常に襲ってくるものである。思考を捨てたり、あるいは思考は想像や幻でしかないと自分に長く言い聞かせないと、思考の悪夢はいつでも襲ってくるのである。想像力の幻を捨てよ。



02 12
2009

セラピー・自己啓発

『ボディートーク入門』 増田 明

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ボディートーク入門―体が弾めば心も弾む
増田 明

ボディートーク入門―体が弾めば心も弾む

 心をどうとりあつかうかといった本や心理学の本はたくさん出ているのだが、感情と体の関係、心に悲しみや怒りの感情があらわれるときに身体はどうなっているのかという知識や本はあまり見かけない。

 身体と感情の関係を無視したからこそ西洋医学は発達したといえるのだから、西洋医学は心身の関係をタブーにしてきたのだろうか。心身症についての探究はおこなわれているのだが、身体の病は心や感情からおこると前面にとりあげることはいまだに医学にとって二の足をふむ言説なのだろうか。

 心を癒したり、心を支配するだけではなく、身体も制御し、身体から心も癒したい。身体こそが私たちの心であり、感情なのではないか。身体こそが私たちの感情をつくり、感情そのものではないのか。

 この本はそのような心と身体の関係をあらわしていて、ほかにそのような詳細をつづった本は私はあまり知らないから貴重な本であると思う。

 たとえば怒ったとき、背骨の胸椎八番に筋肉のかたまり、しこりをつくる。猫が怒ったとき背中を立てるように人間も背中のいちばん上を立てるのである。そして胃も硬く収縮させ立ち上る。

 失恋したとき、胸椎三番を固める。肩甲骨と肩甲骨のあいだをぎゅっと詰めるのである。別れとか絶望したときにもそこをつめる。心臓の腰の部分があり、ここをしめつけるために胸をしめつけられる思いがするのである。息もつめて、きゅうくつになる。

 借金の悩みは首のつけ根や頚椎七番を硬くする。「借金で首が回らなくなる」のである。借金のために首をすぼめるような気持ちになってしまうのだろう。

 あせると肩甲骨の中央部を硬くする。忘れ物に気づくと頭から血が引く。血があがりっぱなしになっている人は「石頭」である。つぎに胃が縮む。胃の上部が硬くなるのはいらだちであり、下部はくよくよくである。

 人と会って緊張するとき、腕のつけ根と胸の間の一点を緊張させる。動物がふいに人と会って警戒するとき、同じようにこの部分である。つまり人間も動物と同じような体の反応をするのである。

 外敵と闘ったり、逃げたりする反応がこんにちの私たちの感情とその身体のあらわれとなるといっていいのかもしれない。敵と戦おうとすると肩をいからせたり、腕に力をこめる。上半身に力が入り、筋肉は固まり、息をつめる。反対に敵から逃げよう、守ろうとすると下半身に力が入り、下半身を固めて守ろうとする。血の流れを防ぐために心臓の動きも収縮するだろう。

 このような反応が私たちの感情の起源だと思われるのだが、私たちは身体の反応というものを知らないし、気づかなくなっている。恐れや不安や、怒りに襲われたとき、身体や内部がどのようになっているのか知らない。やっかいなことに人間は心のイメージでこれらの身体反応をつくってしまうから、それが長期継続的なものになったり、感情や身体をゆるめる方法も知らないでいつまでもその体勢を持続させて感情が固定的になったり、病気になったりするのである。

 心を制御したいと思ったら、身体のこのような反応や結果も知り、そして身体こそ制御する必要があるのではないかと思う。そういう身体と感情の関係、そして身体のコントロールの方法を私たちは知らないのである。なぜか、おろそかにしているのである。そして心のイメージと身体の反応の牢獄のオリに私たちは閉じ込められるのである。なぜこの知識の追究が深く強くおこなわれて、衆知されないのだろうかと私など思うのだが。

 身体のかたまりやしこりを解く方法がこの本ではいろいろ紹介されている。胴ぶるいや美貌ゆすり、ガンコほぐし、馬の背ゆらし、など体をゆるめたり、ほぐしたりする方法がとくに多い。体を固めるのではなくて、ふにゃふにゃにやわらかく、柔軟にほぐそうとするのである。硬いしこりのような身体からゆるゆるのやわらかな、しこりのない体に戻そうとする。これこそが硬くなった身体や感情のほぐし方、コツなのだろう。

 私たちはなにか困ったことや感情的に優れないとき、いろいろなストレス発散法をもっていることだろう。しかし身体のストレスを発散させる方法というのをよく知らない。感情が身体にそのまま現われているということも気にしない。身体は放っておかれたままである。たぶんに西洋医学の心身二元論のような心と身体をはっきりと分けてしまう習慣にながくとらわれているのだろう。それこそが近代医学や科学と思われているのではないか。

 ストレスや感情を溜め込んだままの身体や筋肉はますます硬くなり、動物的反応のまま放っておかれ、そして感情はいつまでも去らず、ついには体の痛みや不具合、病気となって襲いかかってくる。身体を感情そのものだと見なす捉え方がはやく必要なのではないかと思う。体をほぐしたり、ゆるめたりして、感情や心のこわばりをとり去るふだんの知恵というものが求められるのだと思う。


著者のサイト
 ボディートーク協会

整体 楽になる技術 (ちくま新書) イメージだけで「らくな体」をつくる本 感じるカラダ。 鏡の魔法で自分まるごと好きになる―幸運体質をつくる愛され美人トレーニング 整体から見る気と身体 (ちくま文庫)
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02 16
2009

セラピー・自己啓発

「肉体は私ではない」とはどういうことなのだろう?



 このブログの読者の中には精神世界がお嫌いな人もいると思う。私もたびたび非現実的だなとかアヤシイ、現実的な文脈で口にすべきではないとは思っているのだが、知の愛好家としては追究しなければならない課題だとは思っている。

 思考はまぼろしにすぎない、そのまぼろしに人間は苦しめられていると私は考えているし、心の癒しもこのジャンルに多くつまっていると思う。神とか宗教の信者ではないのだが、かれらの言説はほんとうなのかと追究したいと思っている。お嫌いな方にはしばしば、おいとまをいただきたいと思う。

 こんかい考えたいと思うのは、というよりかほとんど抜書きで疑問を提出するだけのかたちになるが、肉体は自己ではないという考え方である。ちかごろ自己啓発書とかセラピー書にまた帰ってきたので、ぱらぱらとアン・バンクロフトの『20世紀の神秘思想家たち』という本をめくっていたら、ラマナ・マハリシの言葉がひっかかってきた。

20世紀の神秘思想家たち20世紀の神秘思想家たち―アイデンティティの探求 (Mind books)
アン・パンクロフト
平河出版社 1984-01

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「肉体が自己であると思うがゆえに、世界がそれぞれ別個の自己をもつ多種多様の肉体で構成されていると思ってしまう。外見のみに注意をはらい、惑わされて、名前と形態からなる宇宙に思考を支配されてしまうのである。

ヒンドゥー教は、世界を支える想像力が名前でも形態でもなく、意識そのものだと教えている。われわれひとりひとりがこの意識を体験するには、あらゆる意識の対象、つまり肉体中心の世界と自分を同一視することをやめればいいのである。

ヨーガの修行の目的は「私は自分の肉体である」という感覚に終止符を打つことである」

「「私は行った」「私は存在する」「私はする」といったように、われわれの感覚はつねに「私」という言葉を使って表現される。多くの場合このような感覚は、「私は庭の手入れをした」「私は本を読んだ」というように、肉体およびその活動に関連している。そして肉体そのものを「私」ととらえるようになり、肉体のあらゆる機能や活動と自分を同一視し、「私のもの」と呼ぶのである。しかし、「私」という感覚は、それが生じてくる器としての肉体よりずっと広大かつ深遠なものだ」

「肉体とその機能は「私」ではない。より深いところでも、心とその機能は「私」ではない」

「心が「私」でないならば、「私」とはいったい何であろう? ……よく観察すれば、思考と感情が意志とは無関係に生じてくることがわかる。これは交感神経のはたらきと似ている。われわれが食物を消化するときには、「私」はまったく関与しない。意志の力がはたらかなくとも血液は循環する。それと同様に、心と記憶は「私」という感覚とはほとんど無関係に、自然な自主性をもっているようである」

「外に目を向けて、自分とは異なったものを見ることに慣れてしまっている。その結果、見ている人、見ている対象、見る行為がすべて同じひとつの意識の顕われであることを信じることができない」

「行為者としての自己がないという感覚は、みごとな解放感をもたらしてくれる。不必要な重荷を捨て去った感覚だ。潮には干潮があり、風は吹く。だがその原因は私ではない。それと同様に足は運ばれ、本は読まれる。しかし、そこには自己は関係していない」

「いまあなたは自分を独立した個人だと思っている。自分の外には宇宙があり、宇宙の彼方には神がいる。しかし、そこには分離という観念がある。この観念を消し去らなければならない。神はあなたや宇宙と分離してはいないからだ」

「「私」という思考が生じて、初めて心のなかに「あなた」や「彼」や「それ」という思考が入ってくる。それらは「私」という最初の思考がなければ存在しえない。……だから、「私は誰か?」という問いをとおしてその源を探れば、心は静まるのである」


 肉体が私ではないというのはどういうことなのだろう? 通常、私たちは肉体が「私」だと思っているし、さらには思考だけが「自分」だと思っている。肉体は忘れられていることが多い。

 分離の観念も重要である。私の肉体の外に世界が広がっているととうぜんのように私たちは把握する。視界は私の目を離れて見ることができないし、私の移動につれて私の見える世界も移動する。私は肉体であり、世界は私と隔絶して存在すると思い込むのは自明の理である。どうすれば、私と世界は分離しておらず、一体であると感じることができるというのだろうか。

 ラマナ・マハリシのような神秘思想家はどうして肉体は私ではないといえるのだろうか。当たり前で自明で、疑うこともない「私=肉体」という捉え方に神秘思想家はひとつの疑問を投げかけるのである。考えてもとうてい、この自明の理である考えを転倒させるのはむずかしい。

 ラマナ・マハリシは「意志として」の私の非在を説くのだろうか。思考は勝手に考えられて、肉体は勝手に活動し、行為は勝手におこなわれる。「私」など存在しないといいたいのだろうか。

 考えてもわからない。こんかいの目的は、「肉体は私ではない」という考え方の銘記や、疑問の提出にとどめるだけでもいいだろう。こういう考えを頭の中に沈殿させるだけでも、すこしの萌芽をもたらすと考えることにしよう。いやはや、肉体が私ではないとはいったいどういうことなのだろう?


 ▼ラマナ・マハリシは一冊読んだことはあるのですが、いまいちぴんときませんでした。
ラマナ・マハリシの教え沈黙の聖者―ラマナ・マハリシ-その生涯と教え (スピリチュアルシリーズ)不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話ラマナ・マハルシの伝記―賢者の軌跡静寂の瞬間(とき)―ラマナ・マハルシとともに

02 17
2009

セラピー・自己啓発

『人生が楽になる 超シンプルなさとり方』 エックハルト・トール

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人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)
エックハルト・トール

人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)  logo1111.gif

 心を癒したいと思っている人にはかなりわかりやすい、おすすめの本ですね。とくに思考を捨てるとか、思考とはなにか、なぜ「私」を捨てなければならないのか、といったことに疑問を抱いている人にはかなりわかりやすい書となることだと思う。

「偏りのない心で聞いていると、「自分には、ひとり言をする『声』があって、さらに、それを聞き、観察している『ほんとうの自分』がいる」ということがだんだんわかるようになってきます」

「感情は、心とからだの接点から発せられています。つまり、思考の状態に応じた、からだの反応なのです。思考の状態が、からだに対して、鏡のように映し出されたもの、と言えばわかりやすいでしょうか」

「思考をアイデンティテイ(自分らしさ)から切りはなしてしまえば、自分が正しいかどうかはどうでもよくなり、負けたからといって、アイデンティティがゆらいだりすることもありません」

「「いま、この瞬間」以外は存在しないのだという事実を、心の底からさとることです。

時間は幻にすぎないからです。

「思考とひとつになる」ことは、「時間のわなにはまる」ことなのです。そうすると、ほぼ自動的に「記憶」「期待」「不安」だけを糧にして、人生を送るようになります。過去と未来にばかり没頭し、「いま、この瞬間」というもを貴ばず、ありのままを受け入れようともしません」

 私たちの苦しみや恐れというのは過去や未来からやってくるものである。そして過去や未来というのは存在しないイメージや幻想、記憶でしかない。つまりは「まぼろし」や「絵空事」なのである。私たちはその存在しない絵空事に脅かされつづけるのである。

「これまであなたは、「いま」以外の時に、なにかを経験したり、おこなったり、考えたり、感じたりしたことが、あったでしょうか?

過去には、なにひとつ起こっていません。
起こったのは、「いま」なのです。

未来には、なにひとつ起こりません。
すべては「いま」、起こるのです」

 現在以外はすべてまぼろしであり、そんなものに脅かされる不安を排するということである。

「あなたはいま、「なんて、わたしは不幸なんだろう」と感じているかもしれません。でも、あなたがほんとうに「いまに在る」なら、不幸でいることなど不可能です。

「人生の状況」は、時間の中に存在します。

あなたの人生は、「いま」です。

「人生の状況」は、「思考の産物」です。

しかし、「いま、この瞬間」に、なにか問題がありますか?
明日ではなく、十分後でもなく、たった「いま」、なにか「いま」問題がありますか?」

 私たちは存在しない、未来や過去の恐れや悩みに脅かされつづけている。思考が恐れや不安をつくりだすのである。思考の信頼や、思考にみずからをゆだねる愚かさに気づかなければならないということである。

「すべての問題は、思考がつくりだす幻想」

「過去の出来事が、思考活動の大半を占めていませんか?
ポジティヴなことにしろ、ネガティヴなことにしろ、過去について頻繁に話したり、考えたりしていませんか?

すべての瞬間に、過去を捨て去りましょう。わたしたちには、過去など必要ありません。現在に解決しなければならないことがあって、どうしても過去を参考にしなければならないときにだけ、そうしてください」

 過去や思考にはまってしまうと、幻想の不安や恐れに追い立てられることになってしまう。悪夢の中で逃れられなくなってしまうのである。それがまぼろしや存在しない幻想であることを忘れてしまう。それゆえに過去や思考を捨てろというのである。

「思考がつくる「不幸なわたし」は、時間があるから生きられるのです。「不幸なわたし」は、わたしたちが「いまに在る」と消えてしまうことを知っているために、「いま、この瞬間」を、とても恐れています」

 思考というのは過去であり、未来である。つまり存在しないということである。存在しない思考がひとり言をつぶやいたり、問題を解決したり、行為の発端をになうようになると、いつの間にか思考が「私」になってしまう。思考に私たちは同一化してしまうのである。そして私たちは思考の悪夢や不安にさいなまされる日々を送ってしまうことになるのである。思考をまぼろしとして時間とともに葬り去ってしまわなければならない。いつわりの「私」とともに。

「からだを意識することは、すなわち「いまに在る」ことなのです。からだを意識していれば、「いま」にいかりをおろすことができます」

「意識を、インナーボディに向けてください。

からだ全体をくまなくおおい、すべての臓器、すべての細胞に生命力を与えている、かすかなエネルギー場を感じることができますか?

あなたの中には、万物に広がっている「在る」という感覚だけが残ります。

「在る」という感覚と、ひとつになってください」

 私はいまいちこのインナーボディというものがわからない。この感じ方を体験してみたいのだが、いまいち「在る」という感覚がわからない。

「思考からパワーを奪回すれば、思考は強迫的な性質を失ってしまいます。思考の強迫的な性質というのは、「決めつけ」をせずにはなられないことです」

 思考というのはまったく強迫的なものだと思う。なにか問題や不安、困難や不満をつくりださずにはいられないのである。

「エゴは、ネガティヴ性をつくれば、現実をコントロールでき、欲しいものを手に入れられる、と信じています。ネガティヴ性が、望ましい状況を引きよせる、または好ましくない状況を一掃する、と思いこんでいるのです」

 そして感情はこの思考のイメージによってひきおこされるから、感情は最悪なものになりつづけるのである。おまけに思考は連想ゲームのように最悪なイメージと最悪な感情をくりかえしつづけて、私の気分は最悪、最低のものに思えてしまう。思考が「変えよう」とした時点で、問題や不満が生まれ、私の人生は不幸で最悪なものになってしまうのである。思考は排するべきなのである。

「「いま、自分がいる状態」以外の状態を、探してはなりません。そうすると、無意識のうちに、軋轢や抵抗を、心につくりだすことになります。平和の境地にいない自分を、あるがままに受け入れましょう」

 これは難しいと思うが、変えよう、治そうとした時点で、また「思考のわな」にかかってしまうことを覚えておくべきなのだろう。思考がありのままに抵抗しようとするからだ。また問題や困難がそこからあらたにつくりだされてしまうのである。

「「いま」には、なんの問題も存在できないように、病気も存在できません。あなたの症状に誰かが貼りつけるレッテルを信じる気持ちが、その症状にパワーを与え、その症状を維持させているのです」


 エックハルト・トールはドイツ生まれ、イギリスで学び、カナダやアメリカで『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(ザ・パワー・オブ・ナウ)』がベストセラーとなり、現在はカナダ在住だそうである。ニューエイジや精神世界の流れを受けた人なのだろう。

 思考や時間の問題に焦点をあてて、その過ちやまちがいを教えているようだ。そういう問題を論点にした人にクリシュナムルティがいるが、彼の用語はかなり難解である。エックハルト・トールの言葉はやさしく、わかりやすい。時間や思考のあやまちを、「いま」に集中することで解こうとする方法をおもに教えているようだ。

 私がおすすめのリチャード・カールソン『楽天主義セラピー』は思考とマイナス感情のつながりで、そのあやまちを説いているのだが。エックハルト・トールは感情や気分の問題にはあまり触れていない。思考の過ちについて多くの人が気づければいいのだが。

 それにしてもこの精神世界のジャンルは、あいかわらず正統的な心理学と一線を画すようだ。癒しやセラピーの要素としてはバツグンだと思うのだが、心理学は思考は幻という見解を受け入れないのだろうか。そこまでいってしまうと、宗教や精神世界になってしまうというのか。どうしてこの世界には壁があるのだろう。私としては役に立つ知識や効果がある知識なら、怪しかろうが、いかがわしかろうが、必要な用途だけ使えばいいと思うのだが。


ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる- 世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え 永遠という名の一瞬―だからぼくたちはいまここにいる (5次元文庫) さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる 5次元世界への超扉―イベントホライゾン2012 (5次元文庫)
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Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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