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01 17
2006

芸術と創作と生計

知識が金で流通するということ


 本を書くということは、社会になにかメッセージを発したいはずである。しかし金で買われないとそれは知られることはないし、金でしか流通しない。かれがメッセージしたいものは、このような方法でしか流通しえないものなんだろうか。(ネットの話はひとまずおいておくとして。)

 しかもメッセージがおおくの人に届いたことの意味より、売れたことの価値のほうが大きくなる。メッセージが届いたかより、売れたことのほうを喜ぶのである。(音楽でも映画でも同様だと考えてほしい)

 本を書くのならメッセージをおおくの人に届けたいと思うだろう。本は知識を全国に流通するには最適なものであるが、しかしそれは金の扉に閉ざされている。金を出して買われなければ、知識が開かれることはない。

 知識はなぜこのような金に阻まれる、閉鎖的なものになったのだろう? かれは自分の書いたこと、調べたことを価値あるものと思い、おおくの人に読んでもらいたいと願う。金は知識を流通してくれるが、到達点で金によって阻まれるのである。

 本はメッセージの流通を助けるよいしくみだが、同時に流通を阻むのである。メッセージしたい知識は流通を助ける金によってふたたび拒絶されるのである。かれの知識は金を払う者にしか届かない。かれのメッセージはおおくの者に閉ざされるのである。知識は金によって閉ざされる。

 かれは売れたことを喜ぶ。金の扉に閉ざされた知識を、金によって開かれたことを喜ぶのである。メッセージがおおくの人に届くことより、売れたことのほうを喜ぶ。地中に埋められたメッセージが発掘されるのを喜ぶのである。

 金と労働は知識の伝達を阻む。ほんらいは知識に金の価値なんかなく、伝えたい、知らせたい、教えたいものがあるのみであったはずである。金によって阻まれるものではなく、人々の口を通して伝えられるものであったはずだ。本は、あるいは金や労働は、知識を阻むものにしたのである。

 本に対してテレビやラジオは無料で知識が伝えられるふしぎなものである。他企業が広告することによって、知識や音楽は無料で伝えられる。雑誌も広告がおおく載せられるが、無料ではない。本はなぜ広告を載せて、無料にならなかったのだろう。

 知識は金で売られるものになって、生計や職業としてなりたつものとなった。知識が職業としてなりたつ以前には、知識は演説や遊説として運ばれたのだろう。学校は教室という閉鎖的な空間をつくることによって、知識を金で買われるものとした。そして本というパッケージ化は、職業著述家を生み出したのである。

 伝えたい知識が有料であり、金で買う者にしか伝えられない本というしくみはいったいなんなのだろう。知識の伝達はそれによって拒まれるのである。知識は人びとの共有財産にも知恵の蓄積にもならない。

 ネットはいまのところおおくは無料で情報がつたえられる。有料や職業としてなりたつまでにいたっていない。電話という情報の中身が有料であるわけがないように、おおくの人が発信できるメディアは知識を無料のものにした。空間や商品として阻まれることがないがゆえに、ネットの知識は無料のままである。新聞ですら無料である。ネットは人びとの可能性なのか、あるいは知識生産者としては金のならないものにありつづけるのだろうか。

 ▼知識の歴史(私は未読ですが、読んでみたい本)
知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか47948021531.jpg本の歴史999homeros141.jpg

09 14
2006

芸術と創作と生計

人はお金のために創作するのではない。


 YouTubeにリンクを貼っていた音楽が著作権違反でどんどん削除されている。私はYouTubeにリンクを貼ることによって、自分の好きな曲や聴いてほしい曲をみんなに知らせることができて、とても楽しい気持ちがしたものだ。かつてない経験であり、たぶんこれまでは自分の選択した曲をみんなに聴かせることができたのはTVやラジオの音楽番組担当者だけだっただろう。

 ふつうは自分の好きな曲を口頭や言葉で知らせることくらいしかできない。友人間ならCDの貸し借りなどができるだろう。でもいっしょに聴けるという機会はそうそうない。YouTubeは私の選択でいますぐみんなに曲を聴かせることができるのである。こんなに便利ですばらしいしくみはこれまでなかった。

 友人間で音楽や書物などの著作物を貸し借りする場合、お金をとる人なんてまず皆無だろう。いい音楽や有益な本などがあれば、人は喜んで友人にそれを貸すだろう。

 音楽や知識というのはもともとはこういう性質のものだ。いいものがあれば、人は喜んでそれを人に与える。知識や音楽はそうやって人のあいだを流通するものである。

 しかしわれわれの社会は貨幣社会である。音楽や書物はお金によって流通する。お金がなければ、流通や製造、販売の手段をもたないのである。友人に貸し借りするような流通手段だけでは、私は生活するためのお金を稼げない。もし音楽や書物を無料で創作・流通していたら、かれはほかに生活の糧を得なければならなくなるだろう。

 だけど音楽や知識というのはいいものがあればみんなと共有したいものであり、もし彼がよいものを創作すれば多くの人に知らせたり聴かせたりして、喜んでもらったり、認めてもらいたいと思うだろう。音楽や書物の創作者はもともとはこういう気持ちから創作していると思う。彼は自分の創作物に喜んでもらったり、認めてもらいたいと思っているのである。知識や情報にしても、人類の多くが有益な知識を知らないでいることも大いなる損失である。

 お金というのはそういう流れを遮断したり、拒否したりするものである。いっぽうでは創作物のなくてはならない流通手段になるのだが、いっぽうではお金のない人を拒絶したり、お金の払わない人には届かないしくみになっている。もし台風情報や津波注意報が有料でお金を払う人にしか得られなかったら、どうなるだろう。げんざいの知識や音楽の流通はこのようなしくみによって遮られているのである。お金は人類の共有財産を隔離したり破壊したりするのである。

 しかしインターネットはお金をかけなくても著作物の流通を可能にした。著作物はいっさい無料でも流通できるようになったのである。パッケージ化や物流、販売などの手間がいっさいなくなり、そしてその障壁のための金銭の支払がいっさい必要でなくなってしまった。著作物にお金を払う障壁がいっさいなくなってしまったのである。

 創作者はほんらいの人に喜んでもらったり、認められたいと思う気持ちに出会うことができるだろう。しかしそれでメシを食う音楽業界や出版業界はたまったものではない。それによって一銭も稼ぐことができなくなるからだ。創作者だって同じことである。

 音楽や知識はインターネットによってみんなで去有されるしくみがつくられた。もともと音楽や知識はみんなの共有財産として存在すべきものである。とくに知識なんて多くの人と共有しないことには人類の損失であり、流通を助けるお金がいっぽうでは遮断する役割も果たすというのは流通手段の失敗である。

 お金は分業と協同の社会をつくった。みんながそれぞれの分担業務をおこなうことによって、すばらしい高度な分業社会をつくった。しかしお金は最高の協同システムを築けるというわけではない。ほんらいは人類が共有すべき知識や情報を遮断、分断している。お金はみんなが共有すべき知識や情報の流通に適さないようである。

 インターネットは知識の共有にはもっとも適したかたちだろう。だけどすべてが無料になるのなら、創作者にはお金が回ってこない。しかし知識や情報はタダで回るようになったのである。私たちはお金による知識の分断から解放されたすばらしいシステムをもったのである。これは知識の革命である。

 しかし著作物関係者はお金を稼ぐができない。私たちはお金という流通、協同社会をどうにかできないものだろうか。それともせっかくの知識や情報の共有を手放してでも、お金による知識の遮断・分断をめざすべきなのだろうか。協同社会のあたらしい流通手段はないものだろうかと考える時期にきているのかもしれない。


02 05
2008

芸術と創作と生計

『貧乏するにも程がある』 長山 靖生


貧乏するにも程がある  芸術とお金の“不幸貧乏するにも程がある 芸術とお金の"不幸"な関係
(2008/01/17)
長山 靖生

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 おしい。テーマはものすごく興味が魅かれた。芸術家や作家はどうやってメシを食ってきたかという話だ。しかしいちばん届いてほしいところに届いていないといった感じがした。

 自分でもそれをうまくまとめられないのだが、芸術や創作に興味が魅かれた者はどうやったら自分の時間を確保したり生計を立てられるのかといったことなのか、あるいは自分の趣味や自分の時間をしっかりと生きたい若者は他人へのサービスや会社の仕事に人生を奪われなければならない社会でどうやって生きていけばいいのかといったことなのかだったのかと迷う。

 つまりは自分のために生きたい者は、この会社や他人のサービスに人生を奪われる社会で、どうやって自分のために生きたらいいのかということだったと思う。

 芸術家や作家は自分のために生きようとした。しかし食わなければならない。稼がなければならない。家族を養わなければならない。一般の人に受け、売れなければならない。かれらはそのバランスをどうとって、生存戦略をくりひろげたのだろうか。

 こういうテーマはこんにちの若者にとってはかなり一般的ではないかと思う。いまの若者はやはり創作であったり音楽であったりマンガであったり、なにかクリエイティヴなもので自分を表現したいと思っている。マスコミでそのように表現する者が成功者であり、人生の充実はそこにあると教えられ、目指してきたからである。自分の価値はそのように表現・創作することによって決められると若者は思い込んでいると思う。

 しかしこの世は他人のサービスや企業への奉仕活動でしか生きてゆけない、生計を立てられない。そして仕事がつまらない、人生がつまらないと、他人と企業への奉仕に人生を奪われるのである。強烈なジレンマである。

 私は創作や創造によって自分を表現したい。できなければ自分の価値はない。われわれはマスコミや創作物を幼少のころからたくさん吸収してきて、成功や幸福はそこにあると思い込むようになっている。あるいは刷り込まれるのか。有名になったり、多くの人に評価され、賞賛されることが成功であり、人生の目標であると思い込むようになっている。しかしたいがいの人にそのようなチャンスはなく、地の底をはうような他人へのサービスや部分的な業務に毎日を奪われる人生しかないのである。私たちはこのような苦悩の時代を生きているのではないかと思う。人は自我の世界の拡張を願っているものなのである。

 おそらく著者もこのようなテーマをもってこの書を書いたのだと思う。しかし核心をついていないと思う。お堀をぐるぐる回っているだけの気がした。もちろんそこには興味が魅かれるもの、楽しいことはたくさん書かれていた。だが私たちがおかれている状況への普遍化には届いていなかったと思うのである。そこが私の惜しいと思ったところであり、物足りない、いちばん核心に迫ってほしい部分だったのである。

 この書は経済書であったり、社会の階層論であったらよかったのかもしれない。いや、哲学書か、社会学書か。他人へのサービスや企業の奉仕に生きなければならない社会でどうやったら自分のために生きられるか、そのテーマに絞ってくれれば、満足のゆく本になっていたかもしれない。このサービス分業社会において、芸術や創作のような自我の拡張が見込めるような生き方は可能なのか、そのことをもっと探ってほしかったと思う。私たちは自分の創造を表現できるような生き方をしたいと思っているのである。それは私たちの社会がインフラ的な仕事に価値をおくよりか、創造的・芸術的な価値に至上性をおく社会でもあるからだろう。

 自分のために生きられないものだろうか。創作や創造、音楽やマンガや創作、または学問などに生きられないものだろうか。しかし一方ではカネや企業の規模、ステータス、または階層の優劣などが跋扈する社会でのイスとりゲームも重要である。このカネ・世俗価値でのヒエラルキーの底辺にも落ちたくない。しかし自分らしく生きたい。でもそれを選びとれば、カネと地位の底辺でまわりから蔑んでみられるのもいやだ。だから芸術と貧乏に生きた芸術家を描いたこの本は期待するものがあったのである。

 この本はおもに近代の作家が主役である。夏目漱石や石川啄木、葛西善蔵、森鴎外や芥川龍之介などの芸術とお金の関係がとりあげられている。かれらは現代では文豪であるが、さいしょから作家で食えたわけではないし、鴎外はほかに本業があったし、漱石も新聞社の雇われ作家になったし、啄木は生前認められずメシは食えなかったし、葛西は妻子を養えなかった。作家にとって食えないのが本道であり、純文学には売れないほうが価値が高いといった評価もある。作家とか創作は経済活動から外れてしまうものなのだろう。職業作家としてエンターティメントとして食えるようなったとしても、はたして自分のために創作ができているといえるのか、自分の楽しみとして創作できているのだろうか。

 こんにちの私たちはますすま創作や創造に価値をおく人生と社会に生きている。しかし世の中はインフラ的な仕事でないとメシを食い、安定した生活を送ることはなかなかできないのである。そこで強烈なジレンマに陥る。自分の人生が生きられないとなる。

 なぜこのようなギャップが生まれるのだろうか。この社会の経済構造はこのギャップを埋めることができるのだろうか。自我を生かすのか、自我を押しつぶすのか。なんとか創造に時間を割けるような社会の方向になってほしいものである。ネットも登場したことだし、私たちの社会そのような方向へ舵取りをするべきなのである。私たちの満足はそちらのほうにあるのではないだろうか。


▼長山靖生の著書の書評
 『人間嫌いの言い分』 
 『漱石のご利益』 すいません。4列目です。

「人間嫌い」の言い分 (光文社新書)若者はなぜ「決められない」か (ちくま新書)不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か (光文社新書)「日本の私」をやり直す (中公新書ラクレ)

02 09
2008

芸術と創作と生計

アマチュア創作者の飛躍とジレンマ



 90年ころに文芸誌は読者より、新人賞の応募者のほうが多いといわれた。80年に梅棹忠夫はだれも読まない、書くことに価値があるという文学が増えてきているのだといった。俳句や和歌の雑誌を読むのは本人と選者だけだ。だれも読まなくても書くことに価値があり、人生のはりあいが増すと感じられたのである。自分のためにおこなう活動が増え、読者や評価は二の次なのである。

 90年ころにはパンクミュージャンをめざす若者がたくさんいたものである。いまはストリート・ミュージシャンが街角で歌う。あるいはおおくの人たちが音楽を聴くだけでは満足せずにカラオケで歌を唄う。ネットが96年ころに登場して、われわれはますます自分で創作するさまざまな創作物を発表する機会が爆発的に増えた。一億総クリエイターの時代と称される流れである。

 工業社会の時代、われわれは一方的な受け手だった。企業やメーカーなどの作り手が家電や車、商品をつくり、われわれは一方的にそれを享受する立場におかれてきた。マスコミにおいても同じで、少数の出版社やテレビ局、音楽業界が一方的な送り手で、われわれ一般大衆はもの言わぬ沈黙の塊として一方的な受け手、服従者、被支配者として存在してきたのである。

 われわれは音楽や文学、創作において一方的な受け手、服従者として、少数の天才と大多数の凡人という構造を、そのマスコミの形態において受け入れるしかなかったのである。ミュージシャンはほんの一握りである。ほかの大多数の人は意見も思いも感情もない大多数の受け手、沈黙の民でしかなった。まるで意識や感情があるのはマスコミにあらわれる少数の選ばれた者にしか存在しないといわれつづけているかのようだった。

 だからわれわれはカラオケで歌った。自分で小説を書いた。マンガを描いた。街でギターを弾いた。私たちひとりひとりに感情や思いもあるのだと告げたかったのだろう。私たちは選ばれた意識ある民になりたかったのである。マスコミで評価されるような有名人のように意識と意見、感情を自分たちも伝達したいと思ったのである。

 情報や知識を伝達する方法が、放送局やラジオ局、出版社にかぎられ、それらには大規模な資金と設備が必要だった。もてない者には情報を伝達する方法をもちえなかった。だから大多数のものは一方的な受け手、視聴者、被支配者として存在するしかなかったのである。情報の少数者独占という形態はこのような情報伝達の機能が発達していなかったことによる。

 少数者独占のマスコミ形態はもてない者の憧憬を誘った。小説やマンガ、音楽はじつは安い資金でそれを創作することができる。紙とペン、ギターがあればだれでもつくれるものである。ただ伝達やマーケットに出す手段と方法が、一部の製造者にしかなかったわけである。おおくの者が厳しいマーケットに乗らないと自分の夢をあきらめたことだろう。私たちは一方的な受け手・享受者として存在するしかなかったのである。

 いつの時代でもそうであるが、私たちは「認められたい」。人から評価され、認められ、対等の者として扱われたり、優越者として賞賛されたい。かつては家電や車をもつステータスや企業での地位や業務に自己の満足を求めることができたのだろう。しかしインフラ的な拡大や成長が頭打ちの現代、私たちは文化・芸術面においてより自己評価を求めるようになったのだろう。評価・称賛のフェーズがより内面的なものに向かったのである。

 だから人々は自分を表現する小説を新人賞に応募し、街角でギターを弾いて歌い、カラオケで自分のために歌ったのである。認知(承認)の構造が地域的・企業的なものから、マスコミ的なもの、不特定多数に評価される方向に転換したのである。アイドルやミュージシャン、タレントを憧れる構造が私たちの承認方向を変えたのである。情報の伝達方法が、私たちの認知の構造を地域や企業内から、より大きなものに変えたのである。

 小説の認知方法は文字の読解という少々評価者を限定するものであった。しかしラジオはそれをもっと広げたし、TVという視覚に訴える装置はますますわれわれを不特定多数の評価という認知構造に変えていったのだろう。私たちは不得意多数の人に評価されたい。憧れられる人はマスコミに現われる人である。そして小説を新人賞に応募し、街角で知らない人に歌声を聞いてもらったのである。

 ネットは私たちのこのような欲求をもっと拡大し、身近なものにした。だれもが創作し、自分の作品を発表でき、人に見せることができる。評価される。あるいは称賛を期待することができる。私たちは創作者になり、そして自分の思いを、感情を、気持ちを伝えたがっているのである。私たちはもの言わぬ沈黙の民、キャーキャーいう観客、一方的に対象化され、モノ視されるような客体ではない。意識も思いもある主観、伝えるべき、認知されるような意識をもった主体であると訴えたいのである。マスコミは意識とその不在という関係を送り手と受け手に与えてしまうから、私たちはその深い欠落感や認知の欠損感情を跳ね返したいと思ってきたのではないだろうか。

 創作者としての認知構造は工業社会の認知構造と合致しない。つまりビジネスや企業でおこなわれている認知構造とそれにもとづく階層構造とそぐわないのである。創作で認められたいことと、ビジネスや企業で認められることは違う。創作に価値をおいた者はそれらのビジネスの価値観がつまらないものに思えてしまう。ビジネスの価値なんてなんの魅力もない。しかしそれでも創作者は生活の糧を得なければならない。創作者は時間がほしい。参考にする資料や文化蓄積を吸収し、享受する時間がほしい。しかしビジネスは違う論理で動いており、私たちの多くの時間を必要とし、奪いとろうとする。創作者はと生計の時間におおくを割かねばならず、自分の時間を確保できないのである。

 では創作をマーケットに適合させればいいじゃないかとなるが、これはひじょうに難しい狭き門であるわけで、自分のために創作する目的も異なってくる。マーケットもないかもしれないし、そもそもマーケットで売れない、評価されないかもしれない。ということで創作者はこの社会で深いジレンマと欠落感を味わいながら、ビジネス社会の論理に呑込まれてくのである。

02 13
2008

芸術と創作と生計

売れなくてもなぜ人は芸術家をめざすのか



 芸術関係でプロになるのはとくに難しい。しかし志望者はあとをたたない。作家志望に画家志望、ミュージシャン志望、タレント志望、または評論家志望、学者志望。

 多くの人が夢見るのだが、多くの人が断念せざるをえない芸術というもの。このマーケットは需要より、供給希望者のほうが多いらしい。需要がどれだけあるのか考えられずに、多くの人がむやみやたらに供給したがる。ニーズも注文もなしに、やたらと生産したがるものが芸術というものらしい。

 それはある意味、人間社会の評価や称賛もそのようなバランスのもとに成り立っているといえるかもしれない。多くの人が評価や称賛をのぞむが、それらの喝采を受ける人はほんのわずか。それでも人は評価や称賛をのぞまざるをえない生き物であるというしかない。

 基本的に芸術の分野において需要や市場はどれほどあるのかと考えられないのだろう。駅前にスーパーは何軒あったらいいとか、美容院とか歯科医は何軒あったら多すぎだとかの感覚がはたらかないのだろう。私はいいもの、価値あるものをもっているとか、つくりたいという気持ちのもとに芸術店は出店されるのである。そして客はこない。そもそも芸術の多くはお客のためにつくられるというよりか、自分のためにつくられるからだろう。客のニーズではないのである。

 憧れがある。称賛がある。あの人のようになりたいと思う。そのような憧れられる対象というものが、不幸なことに少年少女にとっては学校で習う文学者や芸術家であったり、マスコミでひんぱんにあらわれるミュージシャンや俳優であったりするのである。残念なことにうちの父や母ではないし、町の工場で働く人でもないし、サラリーマンでもないし、ショップの店員でもない。

 かんたんになれるものに憧れずに、かんたんになれないものに憧れる。ここから夢や希望は、需要と供給を無視したまったく破天荒な夢物語と化す。つまりは狭き門におおぜいの者が殺到する構図はここからはじまっているのである。憧れはごく少数のものにしか得られないのだが、おおぜいの者がそこをめざしてしまうのである。需要やニーズは無視されて、ただ供給だけが増加するというわけである。

 芸術というものは画家だったら紙と画材、音楽家だったら楽器、作家だったら紙とペンがあればすぐにできるという手軽なものである。すぐに創作はできるものである。芸術は万人に開かれているものである。そして評価や称賛も万人に開かれているものである。だけど芸術家として食っていけたり、評価されるのはごくわずかである。人口なら数万にも届かないのだろう、一億分のである。それでも人は芸術家志望にひかれるのである。

 一般の仕事とくらべてみたらわかるが、企業での仕事というのは組織や集団でおこなわれるもので、個人の名前でおこなわれるのではない。大量生産のなかでだれがやろうが同じものがつくられる。たとえ個人の力量や才能がおおく発揮されようが、個人の名前でその仕事がなされるわけではない。没個性、没集団、没組織に埋没することが求められる。そして私の人となりが評価されたり、売られたりするわけではなくて、あくまでも商品やサービスが売られるだけである。個人性や独自性、顔やその人の唯一性といったものが抹殺されるのである。

 だからこのような時代ではひたすら個人の名前が冠される栄誉が芸術にもとめられるのだろう。つまりたったひとりのかけがえのない存在になりたいのである。世の大半の人々の功績は企業名の下に隠れる。しかし芸術家のみは個人の人となりが評価され、称賛される。私たちがそのような栄誉に向かってつきすすんでしまうのは、個人が評価されない時代の裏返しなのだろう。大量生産、大量規格、大量消費の時代には私たちの生もそれらと同じような大量の生のひとつにしか過ぎないのである。

 私たちはたったひとりのかけがえのない存在、人となりを評価されたい。そしてひとりひとりの個性が際立ったミュージシャンや俳優、画家や作家、科学者や学者になりたいと思うのである。大量の無名の人たちのなかに埋もれたくないのである。

 私たちは無名の中の没個性の集団のなかで、なんとか自分の顔や才能を際たださせようとするのだが、芸術家のマーケットというのはひじょうに小さく、また大きく評価される人は少数であり、多くの人が評価されようと芸術の道をめざしても、才能を発掘したり、先買いしたり、見い出したりしようとする人はさらに少ない。基本的に人はすでに評価され、人気ある芸術家の作品を買い、見たり聴いたりしたいものである。だから星の数ほどの志望者は流れ星のようにはかなく夜空を落ちてゆくのである。

 芸術のマーケットはひじょうに小さい。そして多くの人がそのマーケットにつめかけ、評価され、売れたいと願う。多くの人がマーケットで食えず、マーケットにすら入れず、そして芸術の夢だけを抱きつづける。

 30歳の区切りまで芸術家をめざそうとする若者は多いだろう。マーケットで食えるようになるのが目標であるが、私たちの社会は金や経済の価値で優劣が測られる社会である。単一的に金や経済で評価される社会である。芸術の価値観も金やセールスで評価される世の中である。芸術は売れなければ、買われなければ、価値はないのである。創造する喜びや創作する楽しさで評価される社会ではない。

 しかし私たちの時代は創造に価値をおく風潮が増しつつある。マーケットで売れなかろうが、つくる楽しみ、創造する喜びに価値を見い出す時代になりつつある。芸術志望者はお金やセールスではなく、創造自体に喜びを見い出すのである。

 金やセールスではなく、自分の喜びや楽しみに評価が得られる社会はこないものだろうか。金や売り上げでしか測られない人たちには永久に理解できないだろうが、創造にはそれらでは得がたい魅力があるものである。そのようなはりあいを見つけたとしても、私たちの社会はなんでも金で評価が測られる社会である。

 創作至上主義、芸術至上主義の価値観で、堂々と生きられないものだろうか。マーケットで金を得られなくとも、創造に至上の価値をおく生き方が貫かれないものだろうか。金と売り上げでしか評価されない社会は、私たちの生も金銭結果主義でしか測れない卑小で矮小化された人生しか生きられないと思うのである。私たちは金で評価されるより、それらを度外視した芸術至上主義で生きられないものだろうかと思う。私たちは没個性で稼いだ金より、個性ある人格として認められる人生のほうが価値があると思うようになっているのではないだろうか。


02 17
2008

芸術と創作と生計

『作家の誕生』 猪瀬 直樹

4022731486作家の誕生 (朝日新書48)
猪瀬 直樹
朝日新聞社 2007-06-13

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 かなりよかった。猪瀬直樹といえば、道路公団民営化の不機嫌な口ぶりや東京都副知事の政治的な顔が思い浮かぶが、この本ではもうひとつのライフワークとよべる文学論をおこなっている。この本は2001年にNHK人間講座でやっていたテキストを大幅加筆したものである。

 猪瀬直樹はこの本で作家という職業の成立史を書きたかったのだといっている。作家を神聖視する文学史ではなく、市場や経済に生きる戦略家・商売者としての文学者を描こうとしたのである。私もこの試みにはまったく興味を魅かれる。

 商業として作家を読みとくことによって、かれらのセールス・プロモーション、つまり作家の脱神話化が見えてくるからだ。文学者は作品だけではなく、人生をも「作品」として世間の話題にのぼる宣伝材料として供さなければならなかった。こんにちのワイドショーのようなものである。この戦略から作家の人生を読みとくべきなのである。

 もうひとつの試みとして猪瀬直樹はなぜ自分は作家になったのかという尽きせぬ問いかけのためにこの本を書いたといっているが、政治家として安定してきたかのような猪瀬直樹が「自分探し」のテーマをいまだにもっているとは意外に思えた。かつての文学青年が食わなければならなかった悪戦苦闘が鮮明に見えるという猪瀬直樹は、こんにちのフリーターや自分探しの若者のアイデンティティを共有しているのである。

 これは文学という認知方法が発生した近代の社会史である。なぜ文学のような承認の方法が文学青年、さらには近代の日本に発生したのかという問いかけでもある。つまり彼らとこんにちのわれわれはなぜ文学のような認知の方法が必要になったのかという探究でもある。猪瀬直樹はそれを近代の文学史を商業的に読み解くことによってなそうとするのだが、どこか舌足らずで、メッセージが語られないところがあるのだが、それはたぶん社会学や心理学の読解方法をもたないからではないかと思った。学問的な分析がなされずに材料だけがぽんぽんと供されるのである。それはすこし残念なところであるが。

 筆は明治34年の雑誌の投稿女学生からはじまり、漱石の弟子・森田草平と女子大の高級官僚の娘・平塚らいてうの心中未遂事件が各紙を賑わせたあたりを語ってゆく。こんにちの芸能界のスキャンダルのようなものが発生していたのである。

 菊池寛が『真珠夫人』を発表し、舞台化され、読者の熱狂をひきおこした。島田清次郎『地上』、賀川豊彦『死線を越えて』のベストセラーが生まれる。菊池や芥川の時代には雑誌の原稿料を糧にする作家、島清や賀川のような巨額な印税を手にする者もあらわれた。菊池寛は『文藝春秋』などの新雑誌をつきつぎと創刊、不安定な文筆業の経済的基盤を確保しようとしたのである。

 井伏鱒二は東京には文士志望の文学青年が二万人いると見積もっていた。川端康成や大宅壮一はそういうなかの投稿少年であった。大正十年に新潮社から『世界文学全集』が刊行され、ゾラの『ナナ』は百版を越す売れ行きだった。『社会問題講座』が五万もの予約をうけた。改造社は『現代日本文学全集』を出し、25万の予約読者を獲得した。全集の刊行により貧しかった作家たちは高額所得者になるチャンスを自覚するのである。出版市場の拡大により仲間内の評判より売れ行きが文士の評価の基準となった。

 芥川龍之介は全集売り込みの講演のため各地に駆り出され、広告塔の役割をにない、過労を昂じていた。そんな芥川に憧れた太宰治は心中未遂事件をなんどもくり返しながら、文学ではなく文壇での執念を燃やし、玉川上水心中事件で『人間失格』と『斜陽』が大ベストセラーとなるのである。ちなみに太宰は「若いモンが将来の年金がどうのこうのと話をするのが、僕は不愉快だ。年金なんて考えるな。生きていたら儲けものなんだからくらいの気持ちになればよいのに」と語っている。情けない。

 三島由紀夫はもち込みを再三おこなった編集者から「作品をろくに書いていないのに本ばかり出したがる。文壇に早く出たい下心なんだな」と思われる。『仮面の告白』は半年間泣かず飛ばずだったが、年末の読売新聞の文学ベストスリーに選ばれて世に知られるようになった。三島はメディアの寵児となり、当代一の流行作家となった。そして自己演出の極限に命を絶った。

 この本でとりあげられているのは、文学青年だった作家はいかに売れるか、文学青年はいかに文壇や世間に認知されるかという戦略論や商業史でもある。主役はマーケットであり、そして世間の認知市場でもある。作家は雑誌や単行本という媒体をつかって、マーケットや世間の認知をもとめたのである。

 作家というものはプロとアマの境界をさまよっているようなものだ。アマチュアである文学青年はいかに文壇や世間に認められるかを画策しなければならないし、作家として本を出しても売れたり評価されるとは限らないし、メシが確実に食えるわけでもない。フリーターや浪人のような、あるいはたえず自分が評価され、注目を浴びなければならないという重責をも背負う。つねに自分とは何者であるか、世間からどのような自己像が期待されているか模索しなければならない。つまり人生そのものが「労働商品」なのである。

 このような偶像に憧れた文学青年たちは作家の人生往路を模倣するのである。かれらは人生そのものがマスコミの「商品」であり、「広告」である。こんにちのワイドショーのスキャンダルのような「商品」になったこともあった。世間の若者たちはこのような文士に憧れ、そして文士をめざし文学青年になったり、世間をさまよった。こんにちの若者の「自分探し」や「夢追いフリーター」として生きなければならなかったのである。

 私たちはなぜこのようなマスコミの主役たちに憧れる心性をつくりだしてしまうのだろう。あるいはマスコミに憧れをつくってしまう社会の構造とはなんなのかと問うたほうがいいのかもしれない。若者はマスコミのリーダーに憧れ、自分探しにさまよう。かれらの承認や評価のかたちを模索して、さまよってしまうのである。私たちの憧れる人というのは、マーケットのたんなる踊り子ではないのか。称賛される者はたんにマーケットのピエロ、道化者ではないのか。作家の商業史を読み解くというのは、このような懐疑があるからではないのかと思う。

 文学の商業史というのは人間の自己演出の戦略を醜く暴くことでもある。他人に見せる像というものの自覚や意図を白日にさらすことでもある。自己演出は策略や戦略として悟られたなら、興ざめや愛想をつかされたりする。本心からの行為がもとめられる。作家というのはその神聖化によって本心からの思いや行為がつたえられていると思われているのかもしれないが、人間というものは本心すらも作為をおこなえると考えてよいのではないかと思う。

 私たちはこのむじゃ気に信じられている自己演出、マスコミに演出される「理想の自己像」というものを相対化する必要があるのではないかと思う。そのような崇拝像をもとめて、私たちはふらふらと彷徨せざるをえないのである。マスコミに演出された理想像を脱骨化することが私たちのひきよせられる「自分探し」のひとつの解答を見せるのではないかと私は思うのである。そもそも他人に操られ、踊らされた人生なんて送りたくないだろう。



空気と戦争 (文春新書 583) ピカレスク―太宰治伝 (文春文庫 い 17-13) 二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?―人口減少社会の成長戦略 (文春文庫 い 17-14) マガジン青春譜―川端康成と大宅壮一 (文春文庫) 日本人はなぜ戦争をしたか―昭和16年夏の敗戦 (日本の近代 猪瀬直樹著作集)
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02 20
2008

芸術と創作と生計

『パトロン物語』 海野 弘


パトロン物語―アートとマネーの不可思議な関係 (角川oneテーマ21)
海野 弘

パトロン物語―アートとマネーの不可思議な関係 (角川oneテーマ21)


 私はまったく絵を理解しないし、鑑賞の趣味もない。ただ、芸術家はどうやって生計を立ててきたかという興味からこの本を読んだ。すこし美術史を勉強したくなった。

 こんにちの社会は「一億総クリエイターの時代」といわれるように芸術家志向の時代である。「芸術化社会」や「アーティスト時代」といっていいかもしれない。若者はそのような未来を夢見るのだが、多くの若者は夢をあきらめ、金と経済の社会に入ってゆかざるを得ず、そして不幸になる。

 こんにちこの価値観を逆転しなければならないのではないか。カネより、「芸術至上主義」の価値観に転倒したほうがわれわれは幸せになれるのではないか。あるいは「創作至上主義」もしくは「趣味至上主義」である。フリーターやニートも経済的基準からだけ測られるが、もしこのような「芸術・趣味」至上主義の観点からみれば、違った様相が見えてくるのではないか。

 そういう意味で芸術家がどうやって生計を立ててきたかを調べることは、将来の道しるべになるかもしれない。まあ、だいたいはこういう目論見のもとにアートとマネーの関係をのべたこの本を手にとった。

 前述のとおり私はまったく美術史の教養をもたないものだからこの本の多くを理解できたわけではない。貴族や宮廷のパトロンの時代から、近代美術のパトロンやアメリカの富豪のパトロンの時代などがおもに語られている。

 宮廷から放り出された芸術家は市場の中で生きざるを得ず、画商や蒐集家や富豪の世話にならなければならなくなる。モダンアートはアメリカのビッグファイブとよばれる富豪――モーガン、カーネギー、フリック、メロン、ロックフェラーといった人たちに美術館とももに育てられる。貴族階級が没落し、金に均された社会になると、ブルジョアジーは美術品を収集することで貴族的な価値観や尊重を手に入れようとしたのである。こんにちは企業がメセナといった名で美術パトロンになろうとしている。

 パトロンというのは、いうならばお客の大「お得意」さんである。消費者である。あまりにも大量に飼い付ける客さんであるが。私は芸術家の生計のほうに興味があったのでこの本は違う面を語っているわけだが、まあそういう書はそうないのでいたしかたがない。

 私の美術史の知識といえば、文学でかじった話――ヘミングウェイが1920年代のパリでガートルード・スタインの世話になった話とか、サマセット・モームのゴーギャンがモデルになった『月と六ペンス』くらいしか知らない。ガートルード・スタインってヘンな存在だと思っていたら、この本では文学と美術のパトロンのような存在であったと書かれていて、つながった。『月と六ペンス』は世俗――妻や家庭を捨てて芸術に憑かれる話で私は好きだ。

 芸術というのは創作者だけではなく、買う者、所持する者がいなければ成り立たない。しかも美術は資産や投機の対象としても用いられるフシギな存在である。カネか芸術かの紛争もかなり壮絶である。カネでしか測れない金持ちの手で生きざるを得ない芸術家もそうとうに苦しいものがあると思う。しかし芸術家も霞を食って生きるわけにはゆかないし、多くの芸術志望者はそのために夢をあきらめてカネと経済の企業に入ってゆかなければならない。「一億総クリエイター」の時代とはこのような苦悶が多くの人に共有される時代かもしれないのである。芸術のパトロンを知ることはこれからの時代を占うことであるかもしれないのである。


金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか 芸術の売り方――劇場を満員にするマーケティング 芸術立国論 (集英社新書) 芸術起業論 進化するアートマネージメント
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02 24
2008

芸術と創作と生計

『高学歴ワーキングプア』 水月 昭道


高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)
水月 昭道

高学歴ワーキングプア  「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)


 大学院にいっても教員になれず、30歳や40歳になるまで非常勤講師や塾の講師、コンビニのバイトや肉体労働で食いつなぐ高学歴エリートが増えているという告発本であるが、ちょっと厳しめのことをいうと、これはわかり切ったことではなかったのかと思う。

 大学なんて世間にはそう多くないし、さらに教員の道は狭まるし、少子化で大学は減ることがいぜんから予想されていたし、研究や学問の(とくに人文の)一般的な需要・客層がそう多くあるとは思えない。若者の就職難と文部科学省の旗振りと大学院増加があいまって、厳しい就職前線を逃れた若者が大学院に流入したかもしれないが、ここはハナからパイの少ない場所であり、さらに過酷な柵に逃れてしまったというしかない。

 文部科学省と大学の陰謀のような恨み節が聞かれるのだが、たしかに学校は就職先のあっせんを約束するものでなければならないだろうが、資格講座やある種の職業専門学校のようなところに絶対的な就職の約束を期待することができないように、かれらの商業的な利益を考えると就職先がなくてもそれを伏せて募集するのが学校というものであり、世間というものだろう。世の中をもっと疑ってかかるべきだったのだろう。

 もちろんこのような未来をかんたんに予測できた文科省と大学の責任は問われるべきだろうし、詐欺まがいのことをおこなった彼らにはなんらかの政策をおこなうことが求められてしかるべきだろう。「大学院に行っても食いブチはありませんよ」というメッセージをはっきりとつたえるべきだろう。文学青年ならぬ「学問青年崩れ」になってもそれでも希望にかけたい人は「いらっしゃい~」という道に限定すべきなのである。

 私はこのような大学院生のバイトに出会ったことがないから、まだむかしのどこにでもいたパンク青年フリーターのようにはちまたにはあふれていないのだろう。塾講師に関わりのある人はよく見かける話なのかもしれないが。それにしても30歳ほどまで授業料を払って大学院にいつづけられる恵まれた経済環境にいることが羨ましいというか、世間の常識では信じられないことだろう。親の金がないから高校や大学を出たら早く働かなければならないというのがだいたいは世間の常識というものではないのか。

 研究や学問の人生は羨ましいものかもしれない。もしかして作家の競争なみに厳しい確率かもしれないな。というか、客も需要もないだろう。学問の(とくに人文系の)知識が商売として求められることは、一般の世間ではないと思う。学歴資格を得るためだけの興味のない学生を大学に囲って聞かせるか、出版で世間の好事家に読ませるくらいしか需要はないと思う。

 学問というのはひじょうに需要の少ない、どちらかといえば道楽や趣味に属するものではないのかと思う。商業的にあまり成り立つ商売ではない。これは金をもらってというよりか、払ってするものではないかと思うのである。学問が現代に求められたのは、学歴が企業社会に入るためのパスポートになってしまったから、たまたまサラリーマン予備軍が知識の証書を必要としただけであって、学問がほんとうにほしい人というのは少数のごくわずかな奇特な人しかいないのではないかと思う。世間のたいていの人にとっては学問や知識はたんなる通過口のパスポートにしかすぎない。そのような世間の需要を理解しないで、学問をめざしても食いブチは稼げないだろう。

 ちなみに私はどうやら学問が好きらしいと気づいたのは20歳を過ぎてからで、したがって大学教授になりたいとか大学院にいこうなどと大それた夢をもったことがない。フリーターや肉体労働をしているうちに「もう趣味でいいや」と思うようになっており、これは明らかに自分の趣味や趣向であって人が聞きたくなくとも要望しなくてもいいと感じているし、自分が楽しくて知りたいだけなのでそれでいいと思っている。

 ただし、生計を立てるためにつまらない仕事に時間と人生を奪われることは堪えがたく、自分の好きなことでなんらかの稼ぎを得られないかとしじゅう策をめぐらすのだが、世間の標準的な働き方に呑みこまれるしかない人生の焦燥にムチ打たれつづけている。

 さて話をもとにもどして大学院でそうとうに高度な学問の修練や訓練をくぐりぬけたエリートたちをワーキングプアやフリーターとして世間に放置したままであるのは社会の損失だろう。なんらかの道はないものだろうか。カルチャーセンターのようなところで学問塾を開くとか、マーケット調査会社を開くとか、その道の専門を生かせないものだろうと思う。この著者は民間に就職するなどという発想はハナからなかったようだが、高度な修養を得た人たちはたとえ世間に放っぽり出されてもなんらかの才能や独創を発揮させて道を開いてゆくと期待できるのではないかと私は思ったりするのだが。


リンク 当事者とおぼしき書評と「ポスドク問題」の検索上位からランダムに。
 ネットにはさすがに当事者の声やポスドク問題のページが多くありますね。

 極端大仏率 Returns!
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 事象の地平線
 The Master of Cosmic Mirage!
 Ogishima Blog
 テンプテーション Weblog Side

 高齢ポスドク ウィキペディア
 ポスドク妻のなげき 発言小町
 ポスドク(博士研究員)の悲哀
 大学院教育 その恐るべき実態
 ポスドク問題とは何か



最高学府はバカだらけ―全入時代の大学「崖っぷち」事情 (光文社新書 318) 現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書 (659)) 下流社会 第2章  なぜ男は女に“負けた 崖っぷち弱小大学物語 (中公新書ラクレ) 新しい階級社会  新しい階級闘争    [格差]ですまされない現実
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02 28
2008

芸術と創作と生計

『売文生活』 日垣 隆


4480062238売文生活 (ちくま新書)
日垣 隆
筑摩書房 2005-03-08

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 作家やライターがどのくらいの収入を得いていたのかを赤裸々に開陳した本で、興味深々で読めた。ただしそこから考察や洞察の深みに導いてくれるような本ではなくて、「他人の給料はいくらか」のようなのぞき見的な本にとどまるように思う。それと違和感がひとつ残ったのは漱石などの文豪とこんにちのライターの原稿料をいっしょに並べていることで、なにかいまひとつしっくりこなかった。並列できないものがある気がした。

 文筆業というのは受注産業であって、注文がなければいっさい仕事も収入も断たれる。雑誌や出版社、または読者の要望・注文ひとつにかかっている。もしそれがとだえたら、生活してゆくことはできない。文筆業はひじょうに危うい綱渡りの仕事なのであるが、次のような文章を読むと、私も一山当てたいと色めきたってしまう。

「たとえば1500円の単行本の場合、最多の印税率10%を適用しますと、1万部で印税150万円、100万部なら1億5000万円です。……その直後(村上龍が芥川賞を受賞後)、『限りなく透明に近いブルー』は130万部、印税にして1億5600万円前後が銀行口座に振り込まれました」



 たった一本の筆でこんな莫大な金を稼げるのなら、作家業というのはすごい魔力をもつ博打・ギャンブルといってしまいたくなる。もちろんものすごく低い確率のギャンブルなわけであるが。

 漱石の時代は作家では食えず、大学の職を辞するには朝日新聞に同等の年棒を約束されないと作家業に専念することができなかった。漱石が亡くなったとき、まわりの者は遺族を心配したものだが、死後漱石の本は売れ出したのである。

 その後円本ブームや婦人雑誌の発展にともない、流行作家の収入は暴騰した。作家という漢字は「家」を「作る」のであって、「成金」のようなその人気ぶりの代名詞だったのだろう。

 壇一雄は『火宅の人』のなかで収入を月収5、60万から120、130万といっている。警官や公務員の初任給が6000円から9000円のあいだの時代に、作家はひと月にこんなにも稼いでいたのである。家を四軒も持っていて、まさしく作家稼業は「家作り」だったのである。こんにち作家がこんな破格な収入を得ているとは思われず、たぶんにメジャリーガーの年棒やハリウッドの俳優、プロゴルファーの賞金王みたいな稼ぎっぷりだったのだろう。ラジオやTVができる前、活字メディアがその人気と金のすべてをかっさらていたのである。

 時代は下り、世の物価は上るのに原稿料は上らず、筒井康隆と立花隆の台所事情が紹介されているのだが、立花隆のこんな言葉に複雑な気持ちになった。

「大変なんですよ、今、ほんとに。去年の暮れに出した『インターネットはグローバル・ブレイン』も、カミさんに「今、うち、ほんとにたいへんなのよ」って言われて、突貫工事で一ヶ月ぐらいで作って出したんですよ」



 私もこの本はよく本屋で見たものだが、そういう台所事情から書かれていたと思ったら、著者にとってはこの本のカバーはまさしくマンガみたいに「$$$\\\\」って見えていたんだろうなと思う。金のために書かれた本はその欲が透けて見える気がするのだが、これに生活がかかっている者にとってはそんなことはいってられないのである。注文商品に生計をゆだねるということはそういうことなのである。立花隆は猫ビルの所有権を手放したそうである。

 作家の吉村昭は原稿依頼がとだえ、妻も作家であるから家計費のために少女小説を描き、自分の小説を描けないことにいらだっていた。したかなく勤めに出るのだが、妻の直木賞受賞を機にようやく務めから解放されるのである。

 島田雅彦は日本文芸家協会3000人弱の会員がいるが、生活できる作家は5%に満たないだろうといっている。作家は年間500人ほど誕生するのだが、生き残るのは3人から5人といわれる。厳しい世界なのである。

 一本いくらの原稿料から作品や文章を見ていると、その質や内容と違ったありようが見えてくる。お金の計算と家計と、金への欲望が塗り込められているように思えたりする。できれば作品とそのようなカネの計算と切り離して考えたくなるものだが、不可分なものなのだろう。生活がかかっているのである。作品と生計費を切り離して考えるのは、書かれたものを美化しすぎというものだろう。う~ん、深く考えられないな~。


どっからでもかかって来い!―売文生活日記 知的ストレッチ入門―すいすい読める書けるアイデアが出る 世間のウソ (新潮新書) いい加減にしろよ〈笑〉 現代日本の問題集 (講談社現代新書)
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03 04
2008

芸術と創作と生計

『巨匠に教わる絵画の見かた』 視覚デザイン研究所


巨匠に教わる絵画の見かた
視覚デザイン研究所

巨匠に教わる絵画の見かた


 芸術家の人生って経済的モノサシを度外視したところがあると思う。こんにちの格差社会や下流社会といわれるすべて金銭的モノサシに収斂される風潮とまったく別世界に生きていると思う。サラリーマンや社会保障や年金、社会的地位といったものと違った価値観で生きていると思う。

 自分らしく生きようとすると「下流」だといわれる今日、芸術家の人生に学ぶことはないだろうか。カネと企業だけの価値観になってしまったこの世の中に芸術家のような価値観で生きることはできないだろうか。カネでしか測れなくなった世の中は芸術家の人生観こそを学ぶべきではないのか。

 こんにちの若者は自分の趣味やクリエイティヴなことで生きたいと思っている。しかし企業や経済というのは他人や社会へのサービスや労働で生きなければならない社会である。自分のために生きることができない。私たちはそこで人生の焦燥感や空虚感を味わう。自分のために、自分の創作のために、自分の時間を生きようとした芸術家こそ、われわれがめざしたいと思っている生き方ではないのか。

 というようなテーマをもって、芸術家の人生に学びたいと私は思っているのだが、その前に芸術家たちはどのような作品を描いてきたのかひととおり知っておかないと芸術家の人生はなかなか理解しがたい。ということで、年代別に各画家の見方を教えてくれるカラー絵画がたっぷり載せられたこの本を手にとった。

 絵画というのはよくわからない。こんちにはTVや写真や映画があるわけだから、絵画以外の魅力的な媒体に触れることが多いから、なおさら絵画の魅力というのはわかりにくい。高値でとりひきされたり、芸術的に評価されたり、世界的に称賛を得ていたりしても、なんかピンとこない。どうして絵画ひとつにこんな評価が集まったり、高く売れたり、また価値があるのか、私はよくわからない。芸術的と評される絵画がどうしてよいのか、という見え方も私のセンスとまったく別のところにあるようである。はっきりいえば、芸術的な評価というのは、私のまったく手の届かないところにある。

 私がざっと見るレベルでは「なんとなくこの絵はいいなあ」とか「なんとなく好きだなあ」とか「あんまり好きでないな」くらいである。まあ、それでもよいだろう。そういう見方でいいと開き直って見るほうが健全というものだろう。

 画家といえば、まったくの門外漢でも聞こえてくる画家というのはダ・ヴィンチやモネやゴッホ、ピカソやダリといった名前である。名前や絵はよく聞いたり見たりするのだけど、それがなぜ芸術的に評価されたり、いい絵といわれたりするのか、よくわからないといった感がするものである。芸術という「額縁」はどこか遠くにありそうである。

 この本ではルネサンスやバロック、ロココ、ロマン主義、印象主義、象徴主義などの年代別・画家別に紹介されているのだが、まあ、私が思ったのは「いいなあ」とか「あんまり好きでないなあ」ていどである。私の好みのほうの絵としてはリアリズムのほうが好きだが、現代美術というのはどんどん抽象化してまったく意味のわからない方向に進んでいるみたいだ。写真や動画が出てきたのだからリアリズムが追究できなくなったのかもしれないが、そこまでひねくれることはないだろうというほど、意味のわからない絵画になっているのは残念である。難解な現代思想みたいなものである。

 あまり書評してもろくな言葉が出てこないのでこのへんで打ち止めにしておこう(笑)。なお、なんとなく気に入ったなあという画を四枚ほど載せておこう。期せずして女性の裸体が多くなったが、まあこれも「ゲイジュツ」というものである。


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モネ 印象、日の出――印象主義のこのようにあわく塗りたくった絵っていいですね。

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フェルメール 青衣の女――かすかな淡さが浸透するような魅力をもっていますね。

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ワイエス クリスティーナの世界 大草原に置き去りにされて、我が家に焦がれるといった悲しさがにじみでていますね。しかしこれはどういう状況を語っているのでしょうね。

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ブーシェ ディアナの水浴――ふくよかさがいいですね。

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ルノワール 大水浴図――裸婦の美しさや艶やかさに魅入られますね。

 ただのオヤジかよ。


名画に教わる名画の見かた 鑑賞のための西洋美術史入門 ヴィーナスの片思い―神話の名シーン集 マリアのウィンク―聖書の名シーン集 カラー版 西洋美術史
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