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01 11
2016

芸術と創作と生計

ブロガーは霞を食って生きる「坊さん」になるしかないのか

「芸術VS商業」の図式

 はてなー界隈ではブログのマネタイズをすすめるイケダハヤト氏叩きに熱心である。

 わたしはこのバッシングにはすこし懐疑的である。好きなことやブログで飯を食えることはひとつの理想に思えるし、組織で働く窮屈さから逃れたくてたまらないからだ。

 これはイケダハヤト氏にたいする憎しみというより、構図的にはずいぶんかんたんな「芸術VS商業」の図式を語っているだけに思える。

 真に芸術的なものはマーケットにならない、深く芸術的なものは金銭には代えられない、金銭的儲けをめざすことは賤しいことである、金儲けに芸術は生まれないという、古来信じられて議論されてきた図式を踏襲するにすぎないに思える。

 金儲けなどちっともめざさず、ただ芸術的価値だけをめざす、それこそが芸術であるという図式は、純文学VS大衆文学でも語られてきたことだし、ポップミュージックでも同じことが語られてきた。

 同じことがネットでもおこなわれているだけだ。ただブログにはマネタイズする方法が確立されておらず、アマチュアリズムに永久に閉じ込められるジレンマしかない悲劇がある。


無償のお友だち経済であるブログ

 ブログは無償で情報や知識を発信し、消費者として金銭を介さない無償経済圏であるべきだという信条が根強い。ブログは無償で情報を発信すべきだという信念は、生産者の一方的情報をおしつけるマスコミにたいするわれわれ消費者のためのインターネットという図式で、その成長のエンジンになってきた。

 わたしたちはただみんなに読まれ、みんなに議論され、無償で話題にされる記事を生み出すためにがんばってきた。それだけがモチベーションになりえたし、ブックマークされて多くの人に読まれることは、ずいぶんな承認欲を満足させた。

 だけどいくらみんなに読まれ、話題になり、価値になる知識を提供しても、われわれには一銭の報酬にもならないのだ。なにかおかしくはないだろうか。

 テレビやマスコミではみんなに読まれ、有名になり、話題になることは膨大な報酬や金銭を得る成功を意味した。しかしネットやブログではそういうことがいっさいない。ネットで成功して、有名になっても、一銭も金銭が転がり込まない。わずかな収入としてアフィリエイトが申し訳なさそうにあるだけである。

 われわれは映画やドラマ、音楽が無料で聴けるインターネットに無償経済に巻き込まれているのである。かつて価値があり、膨大な収入をもたらすはずだったコンテンツによる成功がまったく無効になる無償経済に巻き込まれている。

 だから、はてなー界隈では「承認欲求論」がなんども取り沙汰されなければならなかったわけだ。カネや稼ぐことを目的にしないのに、なぜわれわれはこんなにもてる能力や知識を総動員して、ブログに丹精込めて魂をそそぎこむのか。

 それはきっと承認欲求という飢えた欲求がわれわれをつき動かしているにちがいないというわけだ。

 それはたんに有名になれば膨大な収入を得られるという成功譚が、ネットの無料経済によって無効になったから、金儲けというモチベーションを失ったための動因探しにほかならないということになる。

 われわれはなんで収入やキャッシュバックにつながらない無償奉仕をこんなに必死におこなっているのだろう……?


昼間、なにで生計を立てていますか

 イケハヤ氏を叩くわれわれだって、昼間をなにかの仕事をおこなって金儲けやマーティングに励んでいるはずである。この世にはなにも売らないで生計を立てられる人はそういないだろう。

 金儲けを批判しても、われわれは何らかの仕事でなにかを売り、生計費を得なければならない。われわれが昼間ついている仕事にはちっとも金儲けの要素はなく、カネカネカネの活動をしていないといえるだろうか。営業員や販売員の最前線なら数字に追われる毎日があたりまえである。

 そういう人がネットやブログでマネタイズをすすめる人を両手をあげて批判できるだろうか。

 モノを売っている人なら、情報や知識はタダだと思えるかもしれない。友人知人の情報ならいくらでもタダである。しかし情報や知識を売っている人は、ネットのマネタイズを批判できるだろうか。メシのタネなのである。

 イケハヤ氏は広告マーケティングやソーシャルマーケティングの世界からやってきた人にすぎない。情報や知識を売る商売ではあたりまえの思考方式をもっているにすぎないのではないか。

 イケハヤ氏を批判する人は、昼間の商売にかんしても儲けやマーケティングをまったく意識しないずぶのしろうと商売をおこなっているというのだろうか。

 昼間モノを売っている人が、夜ネットでは情報や知識は売り物ではないと怒る。たんにあつかっている商品が違うだけではないのか。


ネット清貧の思想

 「芸術VS商業」の図式というのは、「私利私欲の欲望VS無私の社会奉仕」にいくつく。無私で社会貢献をおこなう私利私欲をなくした人は「聖人君子」というわけである。

 芸術というのは、私利私欲の欲望を払しょくした聖人君子のような坊さんを褒めたたえる図式につき動かされている。カネカネ、名誉栄達をめざさない無私の社会貢献が清くてすばらしいというわけだ。

 坊さんは自己利益の欲望を払しょくしたから、世間に尊敬されるとされる。対して、世間の人はカネや名誉につき動かされたゲスで意地汚い欲望の亡者というわけである。

 芸術には世俗の欲望を断った聖人君子のような清い人が尊敬される。商業主義や金儲けの対極に立った人ということで尊敬される。

 ネットのブロガーも、こういう方向にいっているように思われる。金儲けやカネの欲望がない聖人君子のような無私の人が尊敬されるというわけだ。その動因に「承認欲求」という言葉があてはめられる。


有名なブロガーも一銭の価値もないのか?

 はたしてブロガーというのはこういう清貧の思想、聖人君子のような欲望の滅却をめざしているのだろうか。

 有名や称賛されるだけで一銭の報酬もならないブログ書きで満足できるのだろうか。

 やっぱり自分の好きなことや関心あることでお金を儲けたり、生計を立てられる夢を見たりはしないだろうか。

 ブロガーはべつに清貧の思想や無私無欲の坊さんをめざしているわけではないだろう。

 自分たちの承認欲求、称賛欲のめざした先にはお金にならない、マネタイズされない無償経済のネットが広がっていただけだろう。もしそれがお金になることであったら、お金を儲かることを喜んでいたのではないだろうか。

 ブロガーは無私無欲の聖人君子をめざしているわけなんかじゃありませんよね? 清貧の思想で世俗を超えた称賛をめざしているわけではありませんよね? 

 だいいち、金儲けやマネタイズを否定した世の中でどうやってメシを食い、生計を立てられるというのでしょう?

 多くの人に読まれ、話題になったブロガーの記事やコンテンツにお金の価値も、報酬の価値もないままでいいのでしょうか?



▼「芸術VS商業」の図式を鮮やかに読み解いた本です。

4903341003金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか
ハンス アビング 山本和弘
grambooks 2007-01-01

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▼イケハヤ氏が籍をおいた企業の社長の著作です。ゲラも手伝ったとか。

4048685619キズナのマーケティング ソーシャルメディアが切り拓くマーケティング新時代 (アスキー新書)
池田 紀行
アスキー・メディアワークス 2010-04-09

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05 15
2008

芸術と創作と生計

『クリエイティブ資本論』 リチャード・フロリダ


クリエイティブ資本論―新たな経済階級の台頭
リチャード・フロリダ

クリエイティブ資本論―新たな経済階級の台頭


 アルヴィン・トフラーが「第三の波」とよび、ダニエル・ベルが「脱工業社会」とよび、ピーター・ドラッカーが「知識労働者」とよび、堺屋太一が「知価革命」とよび、ロバート・ライシュが「シンボリック・アナリスト」とよんだものを、新しい著者は「クリエイティブ・クラス」とよぶ。

 リチャード・フロリダのクリエイティブ本はよく読まれたようであるが、先に翻訳された『クリエイティブ・クラスの世紀』(2007)はビジネス書によくあるようにもう書店では手に入らず、新しく翻訳されたこの本のほうを読んでみた。

 このクラスは先進国の三割を占めるようになり、おもにそれは科学者、技術者、建築家、デザイナー、作家、芸術家などをさすそうだ。都市経済学を専門とする著者はなぜある都市にはクリエイティブ・クラスが集まり、ある都市は没落してゆくのかを考察し、クリエイティブ・クラスに魅力的な都市の要素を抽出してゆく。ボヘミアンのような変人・奇人のたぐいでも寛容な都市にクリエイティビィティは集まるという。

 私はこの手の本は否定的というか、警戒的に読む。トフラーやドラッカー、堺屋太一らが予測したような知識社会とよばれものはたしかにやってきて、このようなブログやインターネットは現実に現出したわけだが、この手の本はまるで「ライフスタイル消費」や「階層消費」、「クリエイティブ消費」といった広告・宣伝を煽っているしか思えないのである。

 「クリエイティブな消費をしろ」「クリエイティブな人格になれ」と消費を煽られているにしか思えないのである。そして「クリエイティブな服」を買って、「クリエイティブな行動」をして、「クリエイティブなライフスタイル」を展開するのである。まるで広告・宣伝に釣られているだけに思えてしまう。

 クリエイティブさを煽られる私は、または知識社会に乗り遅れないようにとあせる私は、現実の職業社会にそのようなものを脅迫的に追い求めるわけだが、もしこのクラスが三割としたらあとの七割はそのような要素とまったく無縁の労働につかなければならない。日常の用途や生活を充足させる仕事が大半であるし、おそらくこれからも大半の人がそのような仕事につかなければならないだろう。

 「クリエイティブ幻想」、あるいは「クリエイティブな青い鳥」を強迫的に求めてといった状態になるのである。そしてここにも、どこにもクリエイティブはないと転職をくりかえし、青い鳥は見つからず、不平不満を若者はかこちつづけるのである。現実にはクリエイティブさは日常にない。クリエイティブは日常では発揮されない。日常の用途や生活を満たす仕事が大半である。

 クリエイティブさに煽られると、高級品やブランドばかり買わされ、豪奢な消費におぼれ、そして仕事はつまらない、輝きや精彩がないと転職ローリングへと転がってゆくのである。「ノーウェア・ランド(どこにもない国」をさまよいつづける夢遊病にかかってしまうのである。

 この手の本は社会経済の分析というよりか、クリエイティブ消費の宣伝広告、クリエイティブさへの煽りや強迫となってしまって、芸術家を夢見て、作家で一山当てることをめざして、音楽で大成功をおさめることを願って、日常や労務がつまらなくて、精彩を欠き、廃墟に見える心象をつくりだしてしまうだけではないのかと思うのである。

 とどのつまり、私もそういうクリエイティブさをもとめ、日常の自分のつける仕事のつまらなさ、くだらなさにながく悶絶してきたからそう思うのである。クリエイティブな仕事につける人は問題ないだろうが、大半の人はそうでない仕事につかなければならないだろう。そうなれば、このクリエイティブ志向は私を責め、苦しめ、いたぶりつづけることになる。クリエイティブさは私を「拷問」する「責め道具」になるわけである。「知識労働」という概念もそうである。

 どうもさいきんの若者もそういう「病」にかかって転職をくりかえすそうだから、「クリエイティブ災禍」とよべそうである。今日はクリエイティブさという「青い鳥」をもとめてさまよい、またクリエイティブな「裸の王様」がたくさんいるようである。もちろん青い鳥は私になにかの力や機会を与えるかもしれない。しかし地雷を踏みつづけたり、落とし穴に落ち込みつづけるようなら、災厄である。

 クリエイティブの「シーシュポスの神話」、またはハムスターのクリエイティブな滑車を永久に走りつづけないために、私たちはこの「クリエイティブ幻想」というものに要注意しなければならないようである。クリエイティブさは私たちの求めてやまないものかもしれないが、同時に「責め苦」でもあるようである。クリエイティブ幻想には距離と醒めた目と、現実感覚が必要なようである。「渇!」


知識労働を予測した本

第三の波 (中公文庫 M 178-3) アルヴィン・トフラー
第三の波 (中公文庫 M 178-3)
脱工業社会の到来 上―社会予測の一つの試み (1) ダニエル・ベル
脱工業社会の到来 上―社会予測の一つの試み (1)
ドラッカー名著集8 ポスト資本主義社会 (ドラッカー名著集 8)
ドラッカー名著集8 ポスト資本主義社会 (ドラッカー名著集 8)知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる (PHP文庫)ザ・ワーク・オブ・ネーションズ―21世紀資本主義のイメージ

クリエイティブ・クラスの世紀 Who's Your City?: How the Creative Economy Is Making Where to Live the Most Important Decision of Your Life 未来をつくる資本主義 世界の難問をビジネスは解決できるか [DIPシリーズ] 価値を創る都市へ―文化戦略と創造都市 東京、きのう今日あした (NTT出版ライブラリーレゾナント (043))
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04 20
2008

芸術と創作と生計

『芸術家伝説』 エルンスト・クリス/オットー・クルツ


芸術家伝説芸術家伝説
(1989/06)
エルンスト・クリス、オットー・クルツ 他

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 私が今回、芸術家をテーマにしているのはおそらく市場や金に縛られない、それらに抗した存在としての芸術家に生き方を学びたかったからかもしれない。市場や労働だけで人生を終わらせたくないという気持ちから芸術家の人生に期待を寄せたのかもしれない。貧困でも評価がなくても、自分の創造したいものだけを描きつづけた芸術家のような人生をわれわれも生きられないものだろうか。

 ということで、この芸術家の人生の神話をさぐった本はかならずしも私の期待を満足させるものではない。芸術家とは何者かというテーマは、私の深い興味をひき寄せるわけではない。

 芸術家の人生はさまざまなエピソードが伝え語られているわけだが、それらの類型をまとめてゆくと神や英雄伝説、あるいは魔術師のすがたが写しとられているのではないかということが浮き彫りにされてゆくのが本書である。

 この本は1934年ウィーンで出版され、1979年に再販され、欧米で広く読書を得ることになった。89年にぺりかん社から出たこの本はすでに絶版で、アマゾンの古本では一万円近くの値がついているが、町の古本屋でみつけると千円引きか半額で買えるだろう。アマゾンで高くなった本は町の古本屋ではふつうに安い値段で売られているものである。

 芸術家の幼少期は羊飼いであったとか、親に捨てられた子が羊飼いに育てられ、才能を見い出されるエピソードがよく語られたりする。それは英雄伝説や貴種流浪譚にも同じエピソートが語られるものである。芸術家は英雄伝説が重ねられていることもあるわけだ。

 「隠れた才能を見い出す」というテーマはこんにちのマンガでもよく語られていて、思い出せば『明日のジョー』や『エースをねらえ!』などのマンガにも出てくる。「流され王」や「捨てられた王家の子」という英雄譚が下敷きになっているのかもしれない。そのような物語は私たちの幼な心を駆り立てたものである。

 芸術家の創造には激情と狂気に駆られて創造するというイメージがあるが、あるいは神仏がのり移って描かせたというエピソードも事欠かないが、芸術家には神に操られて創作をおこなう、つまり神の力を借りて創造するということをあらわすわけだが、それはつまり芸術家には神のイメージが擬せられているけである。

 また芸術家の描いた絵にはほんものの生き物と見間違われて生き物がよって来たり、あるいは夜中に絵からはいだしたり、作物を荒らすといった物語が語られることがあるが、芸術家にはそのような魔術的なイメージも重ねられるのである。

 このような芸術家の人生の類型を抽出したのが本書である。われわれは芸術家に人間界の英雄や魔術師、あるいは神に近い存在のイメージを見い出すのである。そしてそのようなイメージがじっさいの芸術家の人生を歪めたり、あるいは事実をねじまげた神話が語られる土台をつくりだすのである。われわれは芸術家に超人や神に近づいた存在としての英雄を見い出すのである。

 さて芸術が語られるなかで、私が追究しているテーマ――金や労働に縛られない人生といったものはとうぜん多くはテーマにはならないわけだが、芸術家の人生には隠遁者や奇人であったり、貧困や金にこだわらないイメージが重ねられていたりする。私たちの願望もとうぜん織り込まれている。私はそこに引きひきつけられたわけだが、とうぜんそれは芸術家イメージのメインストリームではない。ということで芸術家に市場や労働からの脱却という願望を満たしてくれる像を見い出す試みは座礁せざるをえないのかもしれない。ああ、つまらない労働から解放される道しるべはないものか。


参考に(芸術に魂を売った話、あるいは市民社会からの脱走)
 ゴーギャン伝説の誘惑? 十河 進

月と六ペンス (岩波文庫)フランダースの犬 (岩波少年文庫 (114))車輪の下で (光文社古典新訳文庫 Aヘ 3-1)

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫) トーマス・マン
ノア・ノア―タヒチ紀行 (岩波文庫) ポール・ゴーキャン


04 13
2008

芸術と創作と生計

『名画に教わる名画の見かた』 早坂 優子 視覚デザイン研究所



名画に教わる名画の見かた
早坂 優子 視覚デザイン研究所

名画に教わる名画の見かた


 私はまったくの絵の初心者なので、たんじゅんに多くの絵をたくさん見れるこの本はありがたい。色の洪水や豊潤さがうれしい。ついでに絵の解釈や読み方、なにをメッセージしているのか理解できるようになればもっとありがたい。

 しかしこの本はなんとなくちがうような。画中画とよばれる絵の中に書かれた絵の作品が多くとりあげられているのである。読んでいるあいだはたんじゅんに新しく知る絵を楽しみたいとだけ思っていたが、どうもこの本の主題は「絵とはなにか」、「絵を描くとはどういうことか」というテーマの下にそれらに該当する作品があつめられているようなのである。

 初心者がいきなり「絵を描くとはどういうことなのか」というテーマにそうは興味をもてない。初心者はまず絵を楽しんだり、テーマやメッセージを読み解きたい。絵の世界を広げたい。おおくのテーマの作品を見たい。「絵とはなにか」というテーマは初心者が絵を楽しむ段階にうかぶ問いではない。もう何段落あとにくる懐疑や疑問から発する問いであって、無邪気に楽しみたい初心書ははじめからそういう問いを投げかけない。初心者の私としては順番をまちがったかもしれない。

 章立てとしては、「アトリエに置かれた絵画」「説明を加えるための絵画」「自画像の中の絵画」「オマージュとしての絵画」などとなっており、「絵とはなにか」が問われている。おいおい、私はたんじゅんに絵画の世界を広げたいだけと思っていたのに。そういう問いを発せれるほど、私は多くの絵画を見たわけではないのに。これは「名画の見かた」というよりか、「絵を描くとはなにか」といったタイトルのほうがよかったのではないかと思う。

 これは初心者の見る本ではないな。たくさんの絵画がのせられているのはうれしいのだけど。


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レンブラント アトリエの自画像 1629年頃

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フェルメール 画家のアトリエ 1660年代

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クールベ 画家のアトリエ 1855年頃

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ドニ セザンヌ礼賛 1900年


巨匠に教わる絵画の見かた ヴィーナスの片思い―神話の名シーン集 一冊でわかる絵画の楽しみ方ガイド―印象派、写実主義から抽象絵画、シュルレアリスムまで 悪魔のダンス―絵の中から誘う悪魔 鑑賞のための西洋美術史入門
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04 06
2008

芸術と創作と生計

サービスはどこからお金になるのか



 私はなぜかモノを左から右に運ぶ責任のない仕事を好んできた。それはたぶん私の仕事に対してお金をもらう自信がないということなのだろう。たとえば創造的な仕事をするとしたら、自分の仕事はお金をもらう価値に値するのか、そのような不安がつきまとう。商品としての価値はあるのか。だから責任をダイレクトにかむる仕事を避けてきたように思うのである。

 さいきん部屋のエアコンがつぶれて、大家にいって新しいエアコンに換えてもらった。お年を召した二人の方が手際よくエアコンをとりかえてくれたが、このサービスにいくらかかるのか知らないが、私にもできなくもない作業にお金はしっかりととられる。

 家を建てたり、車をつくったり、家電をつくったりすることは、しろうとにはかんたんにはできない。時間も材料のとりよせも熟練も必要だし、ふつうはモノに対してお金を払うのには抵抗がない。モノを買うことに対して、どこからお金を払わなければならないのかという疑問はそうわかない。

 農作物は一年あるいはある一定の時間と工夫と手間をかけなければ育たないし、しっかりとしたモノであるから、お金を払うことに納得する。しかし農作物を荒らす動物にとっては、私有と自然のものとの区別はない。「これは私のものだ」といわれても、動物には「私有」の概念がないのだから、土に生える食べ物を食べてどこが悪いのかとなる。

 私たちは栽培と輸送にお金を払っているのであって、農作物が自然に育つことにはお金を払っているわけではないし、そのことにお金がとれるわけがない。農作物は極端なことをいえば、「これは私のものだ」と主張し柵で囲えば、自分のものとなり、お金がとれるものになるといえるものである。

 土地もおかしなものである。私も賃貸マンションに二十年近くも住んでいるが、こんなに長く住みつづけて家賃も払いつづけているのに、ずっと私の持ち物にならない。ひじょうにヘンで、不公平な感じがする。なぜ土地は「だれかのもの」であるのだろうか。土地はなぜ「買われる」ものなのか。たんに強奪とか私有権とか、先住権とかそんな強者の権力で押しつけられている気がする。弱者は強者の権力のうえで借りたり、住んだりしなければならないのである。

 お金を払うことにひじょうに際どい商売といえば、習いものの教室なんかそうである。ピアノとかそろばんとか、習字とか子どものころに習ったりしたのだが、こういう教える商売というのはひじょうにお金の発生が微妙な部分がある。お金を払う価値はどこから発生するのか。たとえば知り合いにピアノのうまい人がいて、かれからタダで教えてもらうのとどこに違いがあるのか。塾で講師に教えてもらうのと、親や知人親戚の頭のいい人にタダで教えてもらうのとなにが違うのか。近くにそのような人がいなかったり、時間がなかったりして、塾の講師に私たちは依頼する。タダで教えてもらうことと、お金を払って教えてもらうことは、紙一重である。

 カウンセリングや精神診療なんてもっと微妙である。ただ話を聞くだけである。専門知識があるからといっても、ふつうに人と話していることになんの違いもない。お金を払うことに価値があるのか、ひじょうに際どい商売である。私なんて精神科医の知識なんて本でわかるのにと思うのだが、人はこの本で理解しようとする手間をなんだかカットしたがるというか、知識のアクセスを知らないだけという気がする。

 占い師なんてもっとヤバイだろう。教師や医者は権威ある専門知識を習得したというお墨付きを文部省なり厚生労働省からいただいているはずたという安心がある。占い師はなんの権威もない、疑わしい知識を売る。マユツバものもたくさん混じっているだろう。もし私が知識をもっていたとしても、とてもそんなことにお金をとる自信はない。まずは知識があったとしても、私にはパフォーマンスや演技、自信あるふるまいといったものが、こなせないだろう。

 商売やサービスというのは、お金を払う根拠や区別がひじょうに微妙なものでなりたっているものである。どこから商品の価値があるのか。どこからお金を払う根拠が発生するのか。もちろんお客がこんなのにお金を払う価値がないと思えばサービスにかからなければいいだけだが、私たちは慣習や前例もしくは商売だからといってお金を払ってしまうということがふつうなのではないか。

 お金を払うことに微妙なものといえば、文学やマンガ、音楽もそうなのである。つうじょうは本やCDというパッケージで売られているため、抵抗なくお金を払える。モノであれば仕方がない。しかしたとえばマンガの立ち読みなんかお金を払わずに一冊まるごと読めるし、音楽もただで街中やラジオ、TVで聴くことができる。情報や知識に対しては、お金の発生はひじょうに微妙なのである。ある意味、空気や水と同じようなものである。むかし芸能の民は囲いや劇場で演ることによってお金を払わない人を閉め出してお金をとれたのである。

 作り手側から見れば、どこから文学や音楽は商品になるのか、お金をとれるのか、その区別はひじょうにあいまいである。出版社や雑誌、音楽業界が判断し、これは商品であると厳選評価してくれたから、商品であるということになるのだろう。しかしインターネットが出現してから、またそのような境界がひじょうにあいまいになった。しろうとでも文学、マンガ、音楽はいくらでも発表できるようになったし、著作物の文章のコピーや音楽のダウンロードもタダでかなり可能になった。占い師やカウンセリング、習い事のようなお金の境界の危うい世界になったのである。もとからこの情報産業というものは境界がかなり危ういものであったのだが。

 商品か、商品でないか、その区別はかなり危ういものなった。コピーやダウンロードも容易なため、お金を払わずにタダで著作物を手に入れられることも多くなった。出版社や音楽業界があったためやパッケージ化のおかげで助かっていた境界が、またもやこんどは大きくふくらんであいまいな区別のひきにくいものになったのである。文学や音楽は宣伝で無料に知らせる必要もあるわけで、そのおかげもあって、もっと境界はあやふやなものになった。

 お金をとれるか、とれないか。私たちはお金を払う気になるか、それとも払わないでいたいか。それは強者や著作権者の都合で決まるものなのか、それともお客の払いたいという気持ちから決まってゆくものだろうか。もちろん人間の歴史をみればわかるように強者や強奪者、権力者の論理で決まってきたものであり、お客は払う価値がないと思うものにブーイングを鳴らしたり、二度とくるかと抵抗してきたものである。サービスの基本はまずは「義を売って利は後から」といわれるが、このあいまいな業界もいつか門戸が閉じられるときがくるのだろう。

 私は自分のサービスや仕事に対してなかなか自信をもてない。お客に払う価値のあるサービスを提供できるか心もとなくたまらない。医者のように生死にかかわる仕事なんて責任が重くてとてもできないと思ったりする。自分は書くことが好きで、そのような仕事にかかわりたいとつねづね思ってきたのだが、自分の書くものがお金を払われる価値のあるものなのか、評価できるものなのか、商品として成立するのかいつも自信がなかった。商品としての基準はどこからなのだろうか。

 たぶん商売の基本はお客に喜んでもらってお金を払う価値があったと思わせることなのだろうから、そのような目を養うということが必要なんだろう。そのような目を自分でもちえないということは、とりもなおさず、自分の創作物にそのような基準がない、そのような目で見えていないということを意味するので、私の創作物は残念ながらお客に提供する価値のあるものというよりか、趣味や娯楽の創作物にしか達していないということなのだろう。おそまつ。

04 05
2008

芸術と創作と生計

クリエイターはなぜサービス残業だらけなのか



 漫画家のさかもと未明が産経ニュースでこういっていた。【めざましカフェ】「漫画家・さかもと未明 勤勉さが世界を席巻」 2008/3/26

 だって漫画って、信じられないくらいもうからない商売なんですよ。1ページにあれだけの絵をいれますから、とにかく時間がかかる。その時間に世間で当然の対価を払っていたら出版社も漫画家も経営が破綻(はたん)しますから、私たちの業界の人たちはみな、驚くくらい劣悪な条件で働くのが当たり前です。公務員の方が先日サービス残業うんぬんとおっしゃっていましたが、私たちは生活全部がサービス残業。当然、普通には暮らせません。富をなすのは一部の人で、ほとんどの漫画家はアパート住まいで一生を終えます。結婚する余裕のない場合も多い。それでも私たちは何度も編集者とやりとりをし、日の目をみない原稿を山ほどかき、命を削って原稿をかくわけです。



 サービス残業や長時間労働、薄給というのは、漫画家やクリエイティヴな業界、アニメーターなどで聞かれることである。クリエイティヴな世界は華々しい反面、労働基準的にはかなりハードというか、壮絶な労働が多いようである。

 なぜかを考えてみる。まずは基本に企業に雇用される労働とちがって、漫画や絵画、音楽などは契約的な労働からはじまるというよりか、趣味や娯楽の延長としてある。賃金の対価としての労働を提供する関係というよりか、趣味や好きなことをして対価を得るという関係になっている。したがって長時間労働とかサービス残業の観念があまりない。

 売られるのは創作品である。労働時間をいくらかけようが、精魂込めてつくろうが、軽くラフにつくろうが、値段が同じこともありうる。たいして企業に雇用される場合はだいたいは労働時間が売られる。労働者は商品としての対価を得るのではなくて、労働時間を売る。労働者はできあがった商品を売るのではなくて、その時間にできうる仕事を売る。時間内はまるごと人間が買われるわけだが、クリエイターは時間内の労働を売るのではなくて、できあがった作品を売る。したがって時間内においてはなにをしようが自由である。時間と場所に拘束される感が雇用者よりはゆるいのである。

 漫画家のようなクリエイターはできあがった商品を要求される。習熟への期間は、企業においては教習される時間も収入が得られるのに対し、クリエイターはぜんぶ自分もちである。しかも習熟の度合いの測られ方は一定ではないし、熟練度はいくらでも切りがないし、またどんなに習熟しようと評価が絶対になされるとは限らない。人気やマーケットの評価の変化にも翻弄される。かれはマーケットにはじめから完成品を要求されるのだが、企業のようにだれかが教えてくれるというわけではない。自分で学ばなければならないのである。

 趣味や好きなことの延長としての商品であるから、たとえプロになれなくても、プロになって売れなくても、採算度外視の奉仕がおこなわれる。企業の雇用のようにある時間拘束されれば絶対的に給与が支払わなければならないという契約がおこなわれない。どんなに多くの時間を費やそうが、どんなに精魂込めてつくられようが、ボツになって対価が支払われないということも多くある。まったくの無賃労働、報われない奉仕のみの場合もおおいのである。

 それが企業との雇用契約におこなわれれば、労働違反、賃金不払いとして罰則の対象になる。しかしクリエイターの作品は賃金が支払われないばかりか、まったく買い手がつかない場合もある。支払われるアテのない対価にたいして創作労働がおこなわれる場合も多々あるのである。

 ゆえにふつうの企業なら、サービス残業、長時間残業、薄給もしくは賃金不払いの違法労働となることがあたりまえにまかり通ることになるわけだ。できあがった商品に対してのみ対価が支払われ、労働時間や拘束時間に対価が支払われるわけではない。したがって労働条件はどこまで劣悪になる。そもそも時間で換算し、契約された時間と法律で決められた時間を守らなければならない、その時間をはみ出すと残業代や法律違反だという規律をつくることもできない。対価が支払われるのは作品のみに対してだからである。

 時間で拘束される雇用者に対して、クリエイターは時間拘束でない分、自由である。なにをしていようが、いつからやり出そうが、自由である。しかし作品ができなければ、あるいは売れなければ、まったく対価が発生することはない。拘束時間で対価が支払われないということは自由であるが、ぎゃくにいえば、完成するまでどこまで時間に縛られることも意味する。生活全部がサービス残業だというのはそういうことである。雇用者のように勤務時間を過ぎれば、残業規制がかかり、割り増し残業代がつくというわけではないのである。

 近代の社会は工場勤務によって時間単位を売る労働形態が主流になった。出来高制で雇用されることもあったが、おおくは時間給制である。いくらつくったからとか、質のよい作品をつくったから、といって対価が支払われるわけではないのである。時間を売ることによって、近代人はたいへんに拘束の多い不自由な人生を送ることになった。自由になるのは勤務外時間と休日だけである。

 対してクリエイターは作品のみを売るために時間や規則からは自由だが、時間制勤務から見るとサービス残業や規制違反の労働条件がまかり通ることになる。そのような概念がない代わりに、時間に対価が支払われず、時間拘束はぎゃくに無法なものになってしまうのである。

 どのような労働形態、商品形態を売るかによって、われわれの社会の行動規則や支配される思考形態というのも異なってくる。近代雇用者は時間を売ることによって自分の時間を失い、そして時間外を守られるが、事実上はないのごとしになった。売られた時間に自由はないし、人生の大半もそのような状態になり、あるいは感じられる。

 作品を売るクリエイターは時間に拘束されない分、自由であるが、ぎゃくに時間は無法に奉仕させられる。作品に生活が拘束される労働形態に収斂するのである。時間規則労働から見れば、無法状態がまかり通るのである。そして費やした労働時間に時間給が支払われるわけではないし、どれだけ多くの時間をつぎ込もうが、まったくの無収入もありうるのである。クリエイターの作品に時間の労働対価は支払われないのである。

 時間を売ってそれ以外は自由の雇用者と、作品を売って時間は自由だが、時間の対価は支払われないクリエイター。時間の観念や発想の根本も変わってくるだろう。時間を売る労働者は、クリエイターの労働状態を不幸と見るか、幸せと見るか。好きなこと、趣味の延長で仕事ができていいなと見るか、それとも好きなこと・趣味の奴隷・犠牲者だと見るか。時間労働者は労働時間から切り離された「なにもでもない」自由な時間――わずかばかりなものであるが――にささやかな安らぎを見るか。クリエイターは好きなもののために生活と時間と、ほかの労働者のような時間で得られる対価を失い、法定労働時間をはるかに超えてしまうのである。好きなことはもしかして「労働」の観念から抜け出し、そして違法労働という観念もなくなり、かれは幸せなのだろうか。


さかもと未明の著作
他力本願美容道―ほんとうは誰にも教えたくない!恋する虎の巻 (幻冬舎文庫)さかもと未明が教える 女のキモチ―レディコミにみる女のエッチ・男のエッチ殿方、しっかりなさいませ!

04 02
2008

芸術と創作と生計

『画家と自画像』 田中 英道


画家と自画像―描かれた西洋の精神 (講談社学術文庫)
田中 英道

画家と自画像―描かれた西洋の精神 (講談社学術文庫)


 期待していなかったが、意外におもしろかった。自画像とはたんに自分の顔を描くだけだと思っていたが、さまざまな感情や思想をこめることができる。この本を読んでいると自画像ひとつにそこまで深い情報をこめられるのかと少々驚いて楽しめた。類書があればまた読んでみたいと思わせたし、再読に値する本かもしれない。

 画といえばむかしは宗教画が多かったのだが、画家はその聖なる瞬間に群衆のひとりや観衆のひとりとして描かれていたりした。脇でこちらをひとり見つめていたり、群衆にまぎれてひとり目線がこちらを向いていたりした。客観的・批判的な目でそれらを眺める視点を画家をもっていたのである。

 しかしキリストや聖者の顔に自分の顔をしのばせるような、ときには聖者の集まりに自分を登場させたりして、画家は聖者と同一化するような時代もあらわれたのである。

 自画像の中にはりっばな、高貴で、威厳のある哲学者・宗教者のような風貌が描かれることが多いが、じっさいはむさくるしく、醜かったという例もあるようである。ダ・ヴィンチとかデューラーなんかはりっぱな自画像がよく見られるが、ほかのデッサンをみるとじっさいはもうちょっと体裁の上らない風貌をしていたようなこともあったようである。

 自画像を多く描いた画家といえば、レンブラントであるが、じつに表情豊かな、驚く、笑える自画像をたくさん描いている。結婚したてに描いた「幸福な夫妻」、「乞食姿の自画像」、「叫ぶ自画像」、妻ににらまれて脅える「サスキアと一緒の自画像」、破算で心労した自画像、そして狡猾でえげつない顔をした「笑う自画像」。じつにヴァラエティー豊かな人生の変遷をそのときの自画像で描いているのである。「笑う自画像」についてこう書かれている。

 03rembrant2.jpg 「笑う自画像」 レンブラント


「この姿ほど、私たちを打つものはない。……死に近い老人が、苦しむその自分を認知する自己を保持していること、それがわれわれを打つのである。ここには、「神」のもとに行くという確信による心の平穏さもない。ただこうして生きてきた自分を笑う精神があるだけである。

その自己を笑う精神こそ、自己を救うものである。それは肉体即精神、という現代人の考え方、生き方を批判するものである。自己の他人に対する権力を望み、自分の力をふるうことを生き甲斐とする近代人たちの、「自由」の名を借りた権力欲に対し、それが滑稽なものであり何の意味もない、と語る精神のありかを教える。ここでは敗残者は、むしろ現実の破産者ではない。そうした自己を認識できない人間こそ、敗残者となるのである」



 「自己の他人に対する権力を望み、自分の力をふるうことを生き甲斐とする近代人たち」――この言葉はひじょうに深い。そう、われわれは暗黙には他人への権力欲を人生の最大の目標としているかもしれないのである。それを「自由」という名のもとで。このような自己を笑う客観性を保つことこそが、現代人に課せられた人生をよりよく生きるための課題なのかもしれない。

 かつての西洋人は神とともにあり、威厳や安定をもてたが、現代はただ「個人」として、不安な存在として、ひとり世界に対峙している。現代の画家はそのよう「個人」としての自分を描くしかなくなったのである。

 いや、意外におもしろい本だった。自画像から西洋の精神をここまでくみとれるとは思わなかった。願わくば、もうすこし単純に類型化したかたちでその精神の流れを理解しやすかったらよかったのにと思う。自分を見つめるという行為は多くのことを私たちに教えるのである。


自画像の美術史 500の自画像
by G-Tools

03 30
2008

芸術と創作と生計

『月と六ペンス』 サマセット・モーム


月と六ペンス (新潮文庫)月と六ペンス (新潮文庫)
(1959/09)
サマセット・モーム、中野 好夫 他

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 サマセット・モームは私の好きな作家である。『月と六ペンス』の世俗の批判と、『人間の絆』の青春漂流にはえらく勉強させてもらった。だいたい20年ぶりにこの本を再読した。

 さいきん芸術と世俗のようなテーマで本を読んでいるので、ちょうどモームのこの本がぴったりだと思い、読みかえした。世俗への小気味よい批判はあいかわらず胸のすく思いがしたし、芸術や創造にとり憑かれた男の狂気には読ませるものがあった。モームは読ませるのがうまいのである。『人間の絆』もかなり長いが、飽きさせないのである。人間洞察の鋭さを自慢げに出しているところなんかはちょっとかな、と思ったりするが、20年前の私はこのような洞察に私の哲学好きな心が目覚めさせられたのである。

 周知の事だと思うが、この作品はポール・ゴーギャンの人生に啓発して書かれたものである。じっさいのゴーギャンと作品のストリックランドがどれほど同じで違うのかよく知らないが(こちらのページなど参考に)、この作品では徹底的に他人に対して冷酷な人間像が描かれている。創造に憑かれた人間は世俗の価値に拘泥しないためにそのような人間に見えることをモームは描いたのだと思う。人間の友好や愛に価値をおかない人間にはそのように見えるのである。

「なんてけちな了簡なんだろうねえ、女ってやつは! 愛だ。朝から晩まで愛だ。男が行ってしまえば、それはほかの女が欲しいからだと、そうとしか考えられないんだからねえ。いったい今度のようなことをだよ、たかが女のためにやるなんて、僕をそんな馬鹿な人間だと、君、考えてるのかね?」



「女というやつは、恋愛する以外なに一つ能がない。だからこそ、やつらは、恋愛というものを、途方もない高みに祭り上げてしまう。まるで人生のすべてであるようかのように言いやがる。事実は、なに鼻糞ほどの一部分にしかすぎないのだ。……だが、恋愛というのは、あれは病気さ。女というやつは、僕の快楽の道具にしきゃすぎないんだ。それが、やれ協力者だの、半身だの、人生の伴侶だのと言い出すから、僕は我慢ができないんだ」



「つまり、彼女こそは、女というものは他人の金で生きるもの、そんなことは当たり前だという、いわば奥様階級まるだしの本能を具えた女だったのだ」



 じつに男が出て行ったらほかに女をつくったのに違いないのだと疑う世間の下劣さをモームは小気味良くあげつらっていて、私もえらく共鳴する。女や家庭や安定が第一のような価値観なんて、つまらないのである。私もそれが最高の価値なんて思ってやしないし、個人としての女や人間にそんなに楽しみがあると思わない。どうも世間ではそのような「宗教」がいちばんだと思っているようだが。安部公房の『砂の女』にもそのような批判がこめられていて、おかげで私は家庭をもたない人生を歩んでいるわけだが、公房の『砂の女』は砂に閉じ込められた人生に満足を覚えてゆくのである。

「僕は言ってるじゃないか、描かないじゃいられないんだと。自分でもどうにもならなんだ。水に落ちた人間は、泳ぎが巧かろうと拙かろうと、そんなこと言っておられるか。なんとかして助からなければ、溺れ死ぬばかりだ」



「普通、生活の楽しみだとか、美しさだとか呼ばれる事物に対して、彼はいっさい無頓着だったのだ。金銭にはてんで興味がないし、名声にもまたそうだ。たいていの人間ならば、まず好い加減のところで世間と妥協してしまうのだが、その妥協の誘惑にさえ、彼は厳として打ち勝った。……彼の場合は、てんではじめからそういった誘惑がない。妥協の可能性などということは、最初から彼の頭には浮かんでこないのだ」



「……やっぱり馬鹿なことをしたもんだと言いたいねえ。自分の一生をこんなふうに台なしにしてしまうなんて、意味ないよ、君」
だが、果してエイブラハムは一生を台なしにしてしまったろうか? 本当に自分のしたいことをするということ、自分自身に満足し、自分でもいちばん幸福だと思う生活をおくること、それが果たして一生を台なしにすることだろうか? それとも一万ポンドの年収と美人の細君とをもち、一流の外科医になること、それが成功なのだろうか? 思うにそれは、彼が果して人生の意味をなんと考えるか、あるいはまた社会といい、個人というものの要求をどう考えるか、それらによって決まるのではあるまいか?」



「あのストリックランドを捉えていた情熱は、いわば美の創造という情熱だった。それは彼に一刻の平安を与えない。絶えまなくあちこち揺すぶりつづけていたのだ。いわば神のようなノスタルジアに付き纏われた、永遠の巡礼者だったとでもいおうか。彼の内なる美の鬼は、冷酷無比だった」



 芸術や創造にとり憑かれた男と、女や家庭との見事な対比が描かれていて、この世間の価値観に拘泥しなかった、見事にその価値観を無視しつづけた男の生涯が、私たちに当たり前の人生コースに再考をうながせるのである。男だったら、世間の価値観なんか捨ててしまいたいとは一度は思うんじゃないだろうか。世間のモノサシなんてどうでもいいと思う瞬間が訪れる男は、幸運なのかもしれない。そこまで賭けられる人生の大切なものを見つけられたからである。このように考えると世間のモノサシや価値観で測られる成功や階層なんてクソみたいなものである。ストリックランドは生涯を賭けた作品すら最期に燃やしてしまうのである。


ポール・ゴーギャンの作品(私にはそのよさがよくわからないんですけど(笑))

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サマセット・モームの作品 『人間の絆』はおすすめですね。
人間の絆〈上〉 (岩波文庫)読書案内―世界文学 (岩波文庫)サミング・アップ (岩波文庫 赤 254-10)劇場 (新潮文庫)

03 23
2008

芸術と創作と生計

売れない画家に学ぶこと



  inadakouji.jpg ストリート・アーティストの絵
 

 いつものことだが、私はひとつのテーマを考察するさい、問いが明確ではなく自分でもなにを問うているのかわからなくなり、問いも拡散する。

 こんかいは「芸術と創作と生計」という周辺あたりをテーマにしているらしいのだが、私の考察はいま手に入る書籍に依存することがおおく、こんにちそのテーマが考えられていることは少なく、こんかい早くもテーマが終息しそうな予感が出てきた。

 一本の明確なテーマはおそらく、「売れなくても創作しつづける根性を学ぶ」あたりかもなのしれない。生活のためにつまらない仕事に時間や人生を奪われる私にとって、売れなくとも芸術至上に生きた芸術家の人生に学びたいということなのである。安定や保障が大事な世の中にあって、そんな基準を逆さまにして、自分の創作のほうを優先順位にした芸術家に学ぶことはないのか、というあたりなんだと思う。生活のために不本意な仕事につくことは私の真意ではない、ということなのである。

 一方の道には企業に就職しての安定の道がある。一方の道には自分の才能に賭けて売れない画家の人生を選ぶ道もある。後者の選択をした人たちにその根性を私はいただきたいと思うのである。

 芸術というのは、評価のひじょうに危うい世界だと思う。芸術の評価の明確な基準や範囲といったものはないと思う。ゴッホやピカソやゴーギャンのような過去のだいたい評価が定まった大画家とちがって、こんにち売り出そうとする若手画家に評価が定まることはない。海千山千のものに高い評価を与えられることは少なく、というか選択眼をもった人に出会うことも少ないだろうし、売れることも少ないだろう。売り物になるかすらの基準さえ怪しいのではないだろうか。たとえば路上でテキヤのように絵が売られていたとしても、だれが高い評価を与えたり、高い値段で買ったりするだろうか。

 そもそもこんにち家に絵を飾る趣味をもった人たちはどのくらいいるというのだろう。かなり顧客やマーケットが少ない気がする。ゴッホやピカソなら芸術に興味のない投資目的の売買人が現われて、億単位の値段で買いとってくれるかもしれない。しかし路上のテキヤで売られる絵にそのような値がつくことはないし、売れることもかなり難しいだろう。

 芸術というのは店自体がちゃんとあるかさえ怪しい世界である。コンビニやスーパーとちがって、町のどこにでもいる人たちが顧客になってくれるというわけではない。ひじょうに少ない人だけが顧客になってくれる。また売り物と売り物ではないものの境界はひじょうにあやふやで、それこそ小学生の絵すら同列に並べられる世界である。コンビニに並べられる商品とちがって、商品かそうかでないかの基準はかなり侵食的なものなのである。売り物にならない広大なしろうとの絵も同列にならんでしまう危うい商売の世界が芸術というものなのである。

 企業と商品のような市場世界とちがって、アマとプロ、売り物と売り物ではない境界がひじょうに不明確である。同じ沼地にどろどろしているのが芸術というものである。だからこそこの線引きがひじょうにむづかしい世界に、生産者と消費者という明確な区分のつけにくい世界に、生産より趣味や創作に生きたい私としては学ぶことがあるのではないかと思っているのである。

 画家というのはプロとアマの境界を生きた人たちなのである。さらにいえば、生前ほとんど絵が売れず、プロではなくてアマチュアとして生涯を終わった画家もいることだろう。それでも画家は創作をつづけた。これはこんにちの受け手より送り手になりたがっているこんにちのわれわれの人生のモデル・ケースになるものではないかと思うのである。

 ネットでブログや小説や映像や音楽を発表する人。マンガの同人誌に書いたり、ストリート・ミュージシャンとして街角で歌う人、あるいはカラオケで歌う人。われわれはマスコミの一方的な受け手として戦後の50年ほどを生きてきたのだが、受け手ばかりではなく、送り手になりたくて仕方がなかったのではないかと思う。創作者として世間に評価されたい、知られたい、人生をそのように生きたいと思う人がかなりいたのではないか。ネットは技術が整ったために生まれたのではなくて、われわれの需要や欲望がまさにそのような仕組みを呼び寄せたのである。

 だがわれわれの社会というのは企業社会であり、生産者の社会であり、多くの時間を生産や労働に捧げなければならない社会である。創作や趣味に時間をかける人生は許されていない。世間の評価も、金や所有や社会保障で人生が測られる時代である。金のない人生は「負け組」であり、「負け犬」なのである。

 売れない芸術家はそのような価値観にNOをつきつけるだろう。富や所有や保障よりか、創作や芸術のほうが大事なのである。売れたり、富をおおくもつことはもちろん願うだろうが、そのために犠牲を多く払うのなら、かれは負け犬や貧乏を選びとるだろう。

 受け手から送り手の時代の転換期に、売れない芸術家の人生はモデル・ケースになるのではないかという考察が、おそらくは私のこんかいのテーマであると思う。芸術至上主義、創作至上主義のような価値観で生きられないか、富や所有のために労働に人生を奪われるなんていやだ、といったあたりがテーマであるように思う。社会の、私の価値観をひっくり返せないかをひそかにもくろんでいるわけだ。売れなくても、創作をつづけた芸術家に学びたいというわけである。

 アマチュアの時代、価値観を切り開く必要があるのではないかということで、その先人としての売れない芸術家に学ぶことはないかといったことが今回のテーマであるが、芸術関係の書棚を見てもこんにちそのような問いがおおく発せられているわけではない。ということで文献の数に依存する私の考察は早くも暗礁にのりあげる可能性も出てきた。まあ、それでもいいだろう。未解決の問題がのこるのなら、私の考察の楽しみもまたひきのばされたということなのだから。


03 22
2008

芸術と創作と生計

芸術家と聖職者的禁欲



 芸術は宗教に似ているといわれる。宗教や王権が去ったのち、芸術家がその衣鉢をついだといわれる。聖性や崇高なものは、こんにちの芸術家にもとめられる。

 世間は芸術家に聖職者的禁欲をもとめる。聖職者のように禁欲的で修業僧的な態度から、偉大な芸術作品が生まれるとみなされている。聖職者が世俗から隔絶した修道院で禁欲的に修行したように、芸術家はそのような態度によって魂に触れた創作や神へといたる芸術が生み出されるといわれる。芸術はかつての宗教的特性をひきついでいるのである。

 なぜ芸術は聖職者的な禁欲をもとめられるのだろうか。かれは神への悟りや宗教的世界への接近をめざしているのではない。あくまでも芸術作品を創作するのである。しかしその態度には芸術を至上とした、禁欲的で修業的な態度がもとめられるのである。魂に触れたり、偉大な創作をなすには、神へと至る道に通底した修業的態度が求められるのである。

 禁欲や無私の態度がもとめられるのは芸術家や宗教者にかぎったものではない。政治家や支配階級、教師や医者にもそのような態度がもとめられる。かれらは禁欲的で自己犠牲的で、無私の奉仕的態度でないと、世間から叩かれ、尊敬や崇拝の念がえられないのである。利己的で、貪欲で、エゴまる出しの「聖職者」たちは、世間から徹底的に忌み嫌われるのである。まるで通常の人間ではない崇高な精神をもっていないと、かれらはそのような地位につくことを許されないのである。

 欲望や利己主義を捨て去った禁欲的態度、自己犠牲的態度がもとめられるのが芸術というものであり、こんにちの政治家や医者や教師である。もしかれらが利己的・欲望的なふるまいを表出すれば、たちまちその座からひきずり降ろされる。社会の上層に位置するものたちは、宗教的態度をもとめられるのである。

 宗教者は奇異なほどまでに自己犠牲、自己滅却の生活や修行をおこなうものである。世俗から隔絶し、家族をもたず、禁欲的に修行に明け暮れる。それはまるで生物の本能からいえば、自殺にひとしい行為とさえいえる。欲望や利己主義を断ち切ることが修行にもとめられるものである。それはわれわれが聖職者的な職業や上層階級にもとめる禁欲的・自己犠牲的態度で同じようなものである。宗教と上層階級は、その禁欲的・無私的態度により、われわれの尊敬や服従の地位を手に入れるのである。もし貪欲な利己主義的態度をかれらがもっているのが露見すれば、たちまちその座からひきずり降ろされる。禁欲的・修行的態度というのはそれらの特権を手に入れるための回路・約束ともいえるのだろうか。

 芸術は欲望的なものであってはならない。大衆迎合的なものは芸術とは見なされない。売れるものは芸術ではない。マーケットの受けを狙ったものやマーケティングによる創作物は芸術的なものとは見なされない。芸術はあくまでも大衆から隔絶した、禁欲的で魂の内奥から生み出されたものでないとならない。それは欲望的・利己的・大衆的なものであってはならないのである。無私や自己滅却、禁欲のなかにそれはあるとされるのである。そしてその中から生み出されたものが好評を博し、芸術的といわれ、高額な値段でとりひきされたり、売れたりするのである。欲望的ではなく、非欲望的なものをへて、創作物は評価され、売れるのである。

 芸術家にはそのような禁欲的・修業的態度がもとめられるのである。無私や自己犠牲、奉仕的な精神を得たところに崇高な芸術作品は生み出されるとされる。社会の支配階級にもそのような態度が求められ、自己犠牲的な態度で社会に貢献することがもとめられる。われわれから奪ったり、はきどったり、盗むような態度の上層階級はたちまち信頼を失ってしまうのである。そのような禁欲的態度はかつては聖職者や修行僧が宗教集団として示していたが、こんにちでは芸術家や教師、医者などにもとめられている。芸術のための自己犠牲・禁欲的態度が、上層階級にもとめられる態度と通底し、あるいはその態度としての「芸術商品」が市場で売られ、買われるのかもしれない。

 宗教者は社会的自殺といえる行為をおこなう。世間から隔絶し、家族を拒否し、欲望と自我を滅却しようとする。そのことにより神へと至る道に近づき、社会の尊敬と上層的地位を得る。利己的で貪欲な上層階級は社会から拒絶される。自己犠牲的で、禁欲的な上層階級がもとめられるのである。宗教がそのような信認を失いだしたころ、芸術家が禁欲的、無私的な態度の後株を担うようなかたちになった。つまり禁欲的・自己犠牲的な精神が、芸術品として購入できるようになったのである。社会で尊敬される禁欲的態度も、われわれの時代においては「商品」として購入されるのである。


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Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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