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09 21
2019

人生論

死生観をたぐり寄せる――『日本人の死生観を読む』 島薗 進



 宗教的な死後観の本を何冊か読んだが、いっさいリアル感がなく、現代人は死にどう向かえばいいのかという点で、近現代の文学者の死生観までとらえたこの本が、読みたかった本にいちばん近い。

 「おくりびと」からはじまって、武士道の死生観、志賀直哉の観察、柳田国男と折口信夫の民俗学的死生観、岸本英夫、高見順の死の考察までとりあげている。いっしゅのガイドブックとして読んだが、やはり近現代に近づくほど、私の興味にちかづく。

 私は死について考えないようにしていたというより、死を身近に感じないために当事者意識をもてずに生きてきた。いつか考えないといけないと思ってきて、母の死をきっかけに、また私も五十をこえたので、死生観をたぐりよせたいと思うようになった。死の処置の仕方がまったくわからない。やっぱり死と有限性の実感を遠ざけてきたというほうが近い。

 仏教の死後観のみならず、柳田国男や折口信夫の描くような死生観も遠くにありて、ひたすら死を個人的出来事ととらえなければならない孤独な世界に、私は生きているといえる。

 ある意味、私は禅的・神秘思想的な言葉と思考の廃棄による安楽の境地をめざしているので、言葉でつむぎだす死の観念にふみこむ必要はない場所にはいることはいる。だけれど、言葉によって立つ場所をまるで放棄する位置にまでつきぬけていない。このふたつの両輪の探究は、ともに手をたずさえることがのぞましいのではないかと私は考える。

 岸本英夫は生死観を四つの類型に分けた。

 一、肉体的生命の存続を希求するもの
 二、死後における生命の永続を信ずるもの
 三、自己の生命を、それに代る限りなき生命に託するもの
 四、現実の生活の中に永遠の生命を感得するもの

 だいたいは二と三の混合物に生きて、三が現代人には優勢になってきているのではないか。死んだらおしまいだから、この生の充実と満喫をめざす。死後観は、現世の生き方を規定する。この人生での充実を限りなくめざす者は、しかしそれが終わるときの慰めと納得の論理を見いだせるだろうか。

 ぽっかりと抜けた死生観に、私に適任の思想に出会えるだろうか。近現代の文学者にさがしたい気持ちがこの本によって起こった。


死の淵より (講談社文芸文庫)死を見つめる心 (講談社文庫)小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)納棺夫日記 増補改訂版 (文春文庫)新版 死とどう向き合うか


09 08
2019

人生論

底の抜けた死後観――『死後の世界』 立川 武蔵



 立川武蔵は、仏教を中心に東アジアの宗教をはばひろく研究した人なのかな。空関係の本を読んだかな。

 この本では、「なぜインドには墓はないのか」といったことや、「輪廻について」、「草や木に成仏はできるのか?」、「死は終わりなのか?」といったテーマで語っていたので、興味をもった。

 インドに墓がないという話を読んでいて思ったのだが、私個人には墓や遺骨に死者が宿るという観念がまったく根づいていない。死後や極楽の世界観もリアルと感じたことはまるでないし、自分自身の死後観をしっかりと組み立てないと、ちっとも死者を弔う儀礼によりそうことができない。このラディカルすぎて、底が抜け抜けた死後観に、いったいどんなかたちを与えればいいのだろうと思う。

 地方ではなく、郊外のベッドタウンで生まれ育った人はだいたいこんな風な底の抜けた死後観をもっているのではないだろうか。先祖のつながりも途切れ、死後の魂観も抜け落ちている。死者を弔う中身がまったく欠如した状態だ。戦後の無宗教者は、いったいどんなふうに人の死に向き合えばいいというのか。

 輪廻の世界観も、物語やテレビなどでたまに見聞きすることができるが、それをどこまで信じているかも疑わしい。オカルトの扱いだし。仏陀は輪廻からの解脱をめざすと説いたのだけど、現代ではどちらかというと輪廻や生まれ変わりがあってほしいという願望だけが、宙に浮いているのではないだろうか。

 古来の仏教儀式がのこっているにせよ、サラリーマンや都市消費をおこなう人にとって、宗教や死後の世界はもう身近に感じられない世界だ。このかたちだけが残り、中身がすっかり空虚に、からっぽになってしまった死後観に、どうやって人の死や自分の死に向き合うつもりなんだろう? どちらかというと、形だけをすまして、日常の生活に戻ってゆけばいいという現実主義だけで、死に関わればいいと思っているのだろうか。死の関わりがすっかり底を抜けてしまっている。

 草木の成仏など、現代人にはまったく論外の問題だろうが、区別も境界もないワンネスの世界をどう理解したらいいのかという点からだけ、私の興味をひいた。

 現代人は、人の死を弔うことのできないところまできてしまっている。魂や死後を信じずに、どうやって墓や葬儀の気持ちをこめておこなえるというのだろうか。故人の思い出や記憶が、その座にすわることになっているのだろうが、死後の世界の欠落は、墓や葬儀の形式もどんどん落としてゆくことだろう。あまりにもこの問題を棚上げしているように思われる。


人は死んだらどこに行くのか (青春新書インテリジェンス)葬式は、要らない (幻冬舎新書)もう親を捨てるしかない 介護・葬式・遺産は、要らない (幻冬舎新書)図説 死の文化史―ひとは死をどのように生きたか


09 07
2019

人生論

現代人にはもう信じられない――『東洋における死の思想』 吉原浩人編

東洋における死の思想
吉原浩人編
春秋社



 東洋のみならず、キリスト教、イスラム教もふくめた世界の死の思想を概括できる書である。

 第一部にはそのような宗教の死の思想の概括、第二部には日本人の死の思想にしぼって説明されている。

 読後感としては、茫漠としているな。世界の死の思想を概括的に見ても、「ふうん」くらいにしか思えないし、世界の思想をならべられても頭がごちゃごちゃしてきて、しまいに各思想の違いや区別もできなくなってくる。日本人が仏教や神道の死の思想で大半をいろどられているにしても、キリスト教の思想も混入してきて、あまり区別ができないような状態にもどるだけだ。

 現代人は、そのような宗教の死生観をもてずに儀礼だけを守り、中身は形骸化している状態にある。宗教の死後の世界を信じたり、現実にあると思えるようにはなっていない。

 私たちは死後の世界を捨てるのか、そうすれば、私たちの生きている意味や価値も変わってくるし、人生の目標や目的も異なってくることだろう。死後から規定されていた人生観が、ごっそりと変わる際にわれわれは生きているのだが、そのへんをあいまいにしてまま、儀式だけを残し、われわれはこの生を生きる中途半端な状態にある。

 もうこのような宗教の死後の世界を信じられない観念の中で生きておりながら、かといって形式には頼ったままだし、思い切りをもってこの一度だけの人生を生きる覚悟も決心もつきかねる状態にある。どうするんですか状態のままである。

 ふだんはまったく宗教的世界を生きていないのに、だれかが死ねば宗教的儀礼をあいまいに利用する。死後の世界を信じているわけではないのに、墓や信仰の世界を間借りして、おざなりに死と向き合う。というよりか避けて通る。儀式は、われわれが明確に死と向き合わないための壁や障壁としてだけ利用されているのではないのか。

 この本に出てくる浄土や、天国や地獄なんて、もうわれわれはどれだけ信じることができるというのか。それだけむかしの人の死の思想・宗教は、われわれには縁が遠い状態になり果てている。死後の世界を失えば、葬送にしろ、人生観にしろ、大幅に改定しなければならないはずなのだが、われわれはあまりにもその問題から目をそむけている。

 死んだら終わりの人生観で、葬送や自己の人生の向き合い方をどうするんですか。個別にだれかの死をきっかけに、そのような問題に向き合わされ、ただ茫然と立ちつくすしかないのである。自分の番がきたときに、心構えを整えられているだろうか。



死を考える100冊の本日本人の死生観を読む 明治武士道から「おくりびと」へ (朝日選書)(116)死に逝く人は何を想うのか 遺される家族にできること (ポプラ新書)新版 死とどう向き合うか日本人の死生観 (ちくま学芸文庫)


08 25
2019

人生論

死生観の焼け跡から――『日本人は死んだらどこへ行くのか』 鎌田 東二



 「死んだらお終いだ、無になる」という死生観しかもってないと、父母や伴侶の死、またはいずれ死すべき自分の死についての安堵や安心をもてるだろうか。

 葬儀も直葬やゼロ葬、自然葬がふえて、あの世や死後の生も、信仰がガタ崩れである。「お墓に私はいません」という「千の風になって」がヒットする世相である。家族や親類とのつながりも薄れて、無縁社会が信仰なき社会を直撃する。

 この空っぽの死生観をうめるために、なにを満たすべきなのか。とりあえずは古来の日本人の死生観にその糸を求めるしかない。死んだら「どこか」という場所にいくのか、それとも無になる世界観で、どうやって慰めや安心をもつことができるのだろうか。

 この本を読む限り、私が知りたいのは庶民の死生観であって、古事記や怨霊伝説のような政治史にあらわれる死生観ではなかったようだ。この本は半ばから政治史における死生観が紙幅を満たしている。民俗学の死生観がよかった、それも現代よりの。

 私自身をなにを、どう知ったら満足するのかわかっていない。従来のような死後の世界の信仰や、墓に魂が宿る世界観が崩壊したあとに、どのような死生観がいちばんしっくりくるのか、それを庶民の考えのうえから実地に拾ってゆきたいだけかもしれない。エリアーデのようなアニミズム原始世界観に戻るのが、いちばん納得を根底から立てかけるように思えるのだが。

 心理学のグリーフケアという個人の心理面に着目した世界観だけで、われわれは死後の安心をもつことができるだろうか。やっぱり世界観の関連においての位置づけを、われわれは求めてしまうのではないだろうか。これは言葉の上でのフィクションの慰めとしかならないということは、承知のうえである。けれどもわれわれはそのフィクションの上に安寧を築くしかないのである。

 形式や儀式をそのまま受け入れて、だれかの死と立ち会うこともできる。それで自分の番がきたときに、それで納得できるだろうか。母の死をきっかけに、私自身の死生観を組み立てなければならないと思うのである。



新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)深い河 (講談社文庫)仙境異聞・勝五郎再生記聞 (岩波文庫)先祖の話 (角川ソフィア文庫)葬式は、要らない (幻冬舎新書)


08 17
2019

人生論

死を思い定めるために――『死者は生きている』 町田 宗鳳



 母の死をどう思い定めたらいいだろうかと、死についての本を読んでいる。

 基本的に私はあの世や輪廻は信じることができないし、死んだら無になるしかないと思うほかないのだが、肉親や親しい人の死に向き合うにあたって、その死生観だけでは満足がいくとは思われない。ましてや、自分が死と向き合うときにこの死生観だけで受け入れることができるのか。

 あの世や死後を寸分でも信じれる地点には私はいない。それでもフィクションであっても、マヤカシであっても、安寧や希望としての死後観をいっさいなきものとして葬り去る世界観をもつだけでいいのかという疑問もある。

 ある意味、無我と自我の補強の段階のちがいに重なるかもしれない。社会を渡るには自我の補強や肯定感が必要である。しかし安らかさや心の安定には、自我をのりこえる無我が必要となってくる。死後観もその段階に応じて摂取されるべきであって、自我の世界観に生きる人には、死後のある世界のほうが安定する。

 自我の世界には、無の世界はあまりにも慰めがないのである。それは無我の考えが染み渡った人にだけ耐えられる死後観ではないだろうか。

 この本の著者は禅の修行をおこなったあと、比較宗教学という学問に携わった人である。学問的規範をあえて破って書かれた本だが、そういう思考法に慣れていない人には、面喰ったり、眉唾と思われる思考法のオンパレードに感じられる。

 けれども、あくまでも母の死という身近な喪失をのりこえる文脈で読むつもりだったので、死後の世界の肯定をすこしでも摂取しようと思ったのだけど、いまは拒否感しか感じられなかった。私も霊魂や輪廻の話はいくらかは読んできた。いまはまったく即物的な思考法が支配的になっているから、まったく受けつけなかった。そのときの気分や心情によって、受け入れられる世界観は、自分の中でも変わってくる。

 著者は禅の世界で長らく暮らしたはずなのに、禅は言葉でつくられる世界の全否定のはずなのに、著者はずいぶんと言葉のフィクションとしての世界を信じていると、私には思える。禅の深い瞑想体験にはそういう世界が垣間見えるのだという立場のようである。私は禅や瞑想を、心理的安定の道具としての使い方しかできておらず、深い瞑想体験に達していないからだということなのだろうか。

 むかしの人の死後の世界観をたくさん摂取したいのである。信じるとか、信じないとかの判定をするためではない。私の心の安寧や安堵のために、この世界観を役立てたいという思いがある。信じなくても、なにかの折にふっと死後の世界の思いがきたせば、自分の心が慰められるかもしれない。シロクロはっきりつけない世界で、私の心を癒してくれるなら、そういう思考法もまったく役立たないわけではない。方便だって、用い方次第という立場に、身をおいてもいいと思っている。

 言葉での世界は、自我での特別視や優越視に力を貸す場面があまりにも多いと思う。あの世のかかわりや経歴に信仰がかかわってくると、自我の特別視に羽をつける場面があまりにも多いと感じられた。死後やあの世のつながりは、自我の特別視にパワーを与えつづける。ある意味、自我の補強に、あの世の物語は与しつづけるように思われさえする。禅者がこれにひっかかるのは、あまりにも禅の基本から外れすぎている。

 私は無の世界と言葉の世界にゆれ動いていて、定点を定められていないということなのだろう。無の世界を信じているが、言葉の世界の慰めも手放すにはまだ早い。まだ思い定まっていないのである。


法然・愚に還る喜び 死を超えて生きる (NHKブックス)山の霊力 改訂新版 日本人の心の故郷 信仰は山にあった死別の悲しみに向き合う─グリーフケアとは何か (講談社現代新書)悲しみに寄り添う―死別と悲哀の心理学死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)


06 04
2019

人生論

目的にするな、自分がなくなる――『「なぜか人に好かれる人」の共通点』 斎藤茂太



 私は人に好かれることなど人生の目標にしてこなかったが、いまの職場の環境がそれをゆるしてくれないようなところなので、あわてて会話術や人付き合いの本を読んでいるところだ。

 私はともかく人に合わせるとか、みんながやっているからお前もやれという圧力に反抗心をいだいた生き方をしてきた。おかげでグループや集団が嫌いになり、避けるようになり、個人としてつきあうことだけを大切にして、やはり嫌われたり、うまく距離を見いだせないこともあった。今の職場のうまい距離感や遊泳術を見いださなければならない。

 いま世間は人に好かれることより、嫌われても自分をもつ勇気のほうがベストセラーになったりする時代だ。人に合わせてばかりて、自分をもてない不幸や不遇に声をあげるような時代になったということだ。

 この本の人に好かれる人の章題をざっと見てみると、やわらかくて、水のように自由に動き、頑固に固まっておらず、ひとりでも楽しめる人といった特徴があげられている。

 この特徴は、私の自己啓発を読んで得たばらばらに入ってきた知識に、総称として似ていると思った。自己啓発では人を尊重するとか、押しつけではなく、好みで人を動かせだの、人からなにかをほしいと思えば、まずはそれを与えよといったことを、いろんな自己啓発から学んだ。こういう方法をつみかさねてゆけば、たしかにこの本に掲げられている人に好かれる人の特徴をもつようになるのだろう。

 全体的には老荘的人物に近いように思われた。知識や固さと真逆の、水のようにやわらかで、融通無碍で、流れや自然にまかせる。それは時間や過去にこだわらない、過去を水に流すといった考えも流れ込んでいて、これは禅的な考えから得られるものだ。人文の知というのは、人と衝突しない、人に好かれる方向に、人を導てゆくものだと思う。

 ちょっと前にツイッターで自分で機嫌を治せる人の大切さがタイムラインをにぎわせたことがあった。自分で機嫌が治せない人は、まわりの人に不機嫌さを治してもらおうとする。この本では書かれていないが、人に機嫌を委ねない人も好かれる人の特徴につけくわえるべきだろう。これはウェイン・ダイアーの他人に感情をゆだねて、他人の犠牲者になる人という指摘に学ぶことができた。

 斎藤茂太はこの本のさいごのほうで、「好かれることを目的にすると、自分の魅力が消えてゆく」というこの本の否定になるようなことをいっている。私もまったくそう思うから、好かれることは目的にしてはならないと思う。これを目的にすると人に合わせてばかりいて、自分ひとりで楽しみを見いだせない人になる。そういうどこにでもいるトガったところのない人は魅力も消えてゆくのである。八方美人の苦しいワナにはまる。

 友達がたくさんいる人、いつも誰かに囲まれている人をこの本ではあげているわけではなく、ぎゃくに「ひとりでも楽しめる人」をあげている。自分ひとりだけでも好奇心をもっていろんな経験をしないと、まわりと同じような話題や興味しかもてず、その人しか知らないような魅力や楽しみを開拓できないのである。友だちがいつもつるむことが目標にされがちなのだが、これでは水が淀んでゆくばかりだ。

 これまでの時代はむしろ人に好かれること、みんなに合わせることばかりを目標にしてしまって、いまは『嫌われる勇気』がベストセラーになる時代だ。人に合わせてばかりいて、自分がなく、自分の楽しみを押しつぶされて、人に好かれるより、嫌われても自分を大事にすべきだと反省する時代になった。斉藤茂太のこの本は、もう時代遅れの本になったのだろう。私も環境がそうでなかったら、こんな本は読みもしなかった。

 自己啓発や人文書をよく読んできたが、総合的に人に好かれる、嫌われない方策を、ばらばらに学んできたのだなという気づきを与えてくれる本になった。ばらばらすぎて、まとまった仕入れをできる分野ではなかったが、人としてのよい生き方も、人文書は教えてくれるものなんだなと、読書もムダではなかったと思えた。


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え人を動かす 文庫版大きく考えることの魔術―あなたには無限の可能性がある荘子 全現代語訳(上) (講談社学術文庫)どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」 (知的生きかた文庫)


05 21
2019

人生論

五十代からの人生のながめ

 私には年相応の年齢感覚がまったく育っておらず、自分が50年も生きてきたという実感がまるでない。自分がおじいちゃんといわれる年齢感覚なんて、これっぽちもない。

 結婚して子どもができて、子どもが成長してという体験を、自分でもまわりでもほぼ見聞きしていないので、ひたすら年齢感覚の欠如だけが際立っている。まわりの年齢によって、自分の年齢を知るという感覚が、孤独な人生を送ることによって、欠落している。

 いつの間にか五十代になってしまったという感覚だ。それも数字の上の感覚だけであって、それだけの年月を生きてきたという実感もとぼしい。自分が高齢者やおじいちゃんといわれる年齢層に属している自覚など、まるでない。

 ぎゃくに、自分をおじいちゃんと見なすことのほうが、人生楽になれる待遇を手に入れられるのではないかと思っている。おじいちゃんになれば、もう隠居的気分で、まわりの競争やポジションの確保につとめる必要もない。あの人、もうおじいちゃんだからという理由で、同じ土俵にのぼらなくてよい免除の資格を手にいられるのではないか。

 もともと私は会社で出世するとか、偉くなるとかの人生目標に反抗してきた生き方をしてきた。だけど、その職業的地位によって測れる人生評価にさいなまされることもあったわけで、五十代のおじいちゃんになれば、もうそういう葛藤も手放すことができる。もう終わった人だから、競争的価値で測られることもない。競争を下りてよい年代に達することができたのではないだろうか。

 おじいちゃんポジションは、若者たちがいっせいに走り出す競争的アリーナの会場から抜けていい場所なのではないだろうか。

 会社の出世的な地位や、金持ちや貧乏の評価、それから恋愛市場にさらされる男女の関係――そういったいっさいのアリーナから降りてよい年齢が、五十代ではないだろうか。ご隠居の気分で社会に対峙すると、競争的や上昇志向との距離に線を引くことができる。社会の一線からしりぞくだ。もともとしりぞいた人生しか生きてこなかったが。

 世間ではいま45歳以上のリストラが立て続けに発表されている。50代は出世やポストの競争が決定してしまい、大半の方は高給取りの会社の負担と感じる年齢と見なされるようだ。経済界はフラットな賃金体系をつくりたがっており、年功賃金の高い部分をカットしたいみたいだ。終身雇用の終わりなど宣言されるが、非正規がこんなに増えた時代になにを時代錯誤のことをいっているのかと思うが、一部の大企業関連にもまだそういった聖域が残っていたのかもしれない。

 もうどうでもよいという境地も、だいぶ増した。言葉や考え方によって、人生や価値を測るという見方も、だいぶ手放せるようになった。言葉や考え方自体が大切なものではない、もう放り出してよいものだという考えは、仏教や神秘思想で学んだものだ。言葉や考え方でなにひとつ測る必要も、ジャッジする試みも必要ない。人生の前半や多くの人はなにがしかによって人生を評価し、価値づける考え方に囚われているかもしれないが、もうそういう評価すべてを捨ててもよい境地にたゆたっていいと思っている。

 人は他人や社会からの評価を、自分の価値を測るすべてにしてしまい、そのような人生を生きるように社会からセットされる。社会からの評価がすべてであって、私の価値はそのモノサシだけにすべてを決められる。自分のやりたいこと、自分の楽しいこと、好きなことを基準に、自分の人生を評価すればいいのだ、他人のモノサシなんかどうでもよい。それ以上に人生に評価も価値づける必要もない。言葉や考え方によっていくらでも人を評価づけられるだろうが、そんなものもひとつの評価や考え方にすぎなく、また他人にとって都合のいい/悪いのモノサシでしかない。人生なんてあぶくのように消えてゆくものであって、あぶくに良いも悪いもない。

 五十代は年齢だけで組織を牛耳る人たちの年齢層に属せれる年代である。若いときはひたすら上の世代の決定や評価を恐れなければならない年齢だった。若い世代というのは、年上や目上の人の決定や評価にさらされつづけ、萎縮しなければならない年代だったのではないだろうか。そういった年齢によって萎縮しなければならない要素は、学生や若いころに自分の知らないところで重圧になっていたのだと思う。年代が上になってゆくことは、その畏れからも解放されてゆくことだ。自分はエスカレーター式でただ年齢を押し出されたにすぎないのだが。

 結婚の適齢期には子どもがかわいいという感覚はまったく育たず、そこから外れる年代になるにしたがって、子どもがかわいいという感覚がわかるようになったのは、思わぬ発見だった。女の子だけがかわいいと思うのは、やっぱり男の性分か。子どもが自分と違う存在や生き物だという感覚が芽生えた。若いころは自分はまだ子どもの成長から陸続きの感覚があったのだが、いつの間にかそれが途切れて、子どもはべつの小動物になった。やっぱりこれはおじいちゃんの感覚だ。

 恋愛市場にさらされている感覚、女性の目を気にするだとか、男としてのカッコ悪さをさらしたくないという感覚は、年代をへるごとに少なくなってゆき、三十代、四十代とへることによって、女性から評価される目も気にしなくなっていった。恋愛や性の対象や評価としての自分の目も、相手の目も、年をへるごとに失われ、また解放されたもののひとつだ。これは人によっては捉え方はだいぶ異なるのだろうが、私はだいぶこのアリーナから下りれたほうだろう。

 自分には五十代という年齢感覚はまったくないのだが、おじいちゃんというポジションには、下りた人というなかなか魅惑的なカテゴリーがあるようだ。いまの世間的には五十代はまだ出世の高いポジションにいるだとか、偉いさんがいちばん続出する年代であるかもしれないが、私の人生行路からして、隠居したおじいちゃんポジションに擬態することがいちばんメリットがありそうである。いろんな人生評価の競争アリーナから下りた場所を得られるのは、おじいちゃんポジションではないだろうか。

 競争や上昇をめざすことをまったくしなかった人生には、おじいちゃんポストは、やさしいソファを用意してくれているのでないだろうか。



隠居学 おもしろくてたまらないヒマつぶし (講談社文庫)人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)悠々として、人生を降りる <下り坂>にはこんな愉しみ方がある会社人生、五十路の壁 サラリーマンの分岐点 (PHP新書)50代にしておきたい17のこと (だいわ文庫)



11 15
2008

人生論

『自分を奮い立たせるこの名文句』 大島 正裕


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自分を奮い立たせるこの名文句―希望、勇気、自信…先賢の知恵に学べ (知的生きかた文庫)自分を奮い立たせるこの名文句―希望、勇気、自信…先賢の知恵に学べ (知的生きかた文庫)
(1997/02)
大島 正裕

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 名言集はいくらか読んできたことはあるのだが、なぜかこの本は身にしみてきた。本がよかったのか、あるいはいまの自分の身が名句に感動しやすくなっているのか判断はむずかしい。41年間生きてきて20代で読む名言集より意味がよりよくわかったこと、あるいは失業中でこれまでのこと、これからのことで自信を失っているからかもしれない。

 中年クライシスといったやつかもしれない(笑)。いままでの人生の後悔や失敗と思ったこと、過ちなどを感じたときにこの名言集は励ましになってくれるのかもしれない。なお、この本はブックオフの100円本で買ったので、もう手に入れにくいかもしれない。

 心に響いた名言を引用しよう。

「百の事を行なって一つだけが成ったとき、成らなかった九十九に目を向け力を落とすか、成った一つに目を向け希望を抱くか、成功か失敗かの分かれめがこんなところにもある」 松下幸之助

「将来を恐れる者は失敗を恐れて己の活動を制限する」 H・フォード

「それ禍の来るや、人自らこれを生ず。福の来るや、人自らこれを生ず」 『淮南子』

「「自分にできること」よりも「世の中が求めていること」に挑戦しつづけたほうが人生も楽しい」 糸川英夫

「よしっ、やってみよう! 試みのないところに、成功のあったためしは決してないのだ」 ネルソン

「いやしくも一芸に秀でようとする若者が万人の気に入るような態度をするとすれば、私はそのような若者は買わぬのである」 佐藤愛子

「成功した人は、普通の人ならその困難に打ち負かされるところを、反対に喜び勇んで体当たりしている」 松下幸之助

「人生は学校である。そこでは幸福よりも不幸のほうがよい教師である」 フリーチェ

「人生のほとんどのすべての不幸は、自分に関する事柄について、誤った考え方をするところから生じる」 スタンダール

「人生はつらく、苦しいのが当たり前、自分の苦しみは特別ではないと素直に受け入れると、苦が苦でなくなってくる」

「人は敗れたゲームから教訓を学びとるものである。私は、勝ったゲームから、まだ何も教えられたことがない」 B・ジョーンズ

「苦悩こそ人生の真の姿である。我々の最後の喜びと慰めは、苦しんだ過去の記録に他ならない」 ミュッセ

「これまでに激しい苦悩も味わわず、自我の大きな劣敗も経験しなかった、いわゆる打ち砕かれたことのない人間は何の役にも立たない」 ヒルティ

「人間のもっとも偉大な力とは、その人の一番の弱点を克服したところから生まれてくるものである」 レターマン

「大衆の先に立って一つの主義主張をとなえ、行動すれば必ず悪口をいわれる。したがって、指揮者としての資格は、たえず悪口をいわれ、批判されることにあるといってよい」 市川房枝

「自分の仕事を重要だと考える人が、より幸福になる」

「他人の価値を認めなさい。そうすればあなたも認めてもらえます」 J・マーフィー

「地位だとか法外な金だとか、他人から一目置かれた扱いだとか、そういうものがいかに泡かということは、自分が確かな深いポリシーを身につけたとき、輝かに分かる」 畑山博

「人生の目標を達成しようとする時、限界がたった一つある。それは自分が決めた限界である」 D・ウェイトリー

「弾丸はいつも臆病者に当たる」

「不断に疑問を抱くことこそ、知恵に対する最初の鍵である」 アベラルドゥス

「青春時代にさまざまな愚かさを持たなかった人間は、中年になって何らの力も持たないだろう」 コリンズ

「木は自分で動きまわることはできない 神様に与えられたその場所で
精一杯枝をはり 許された高さまで一生懸命伸びようとしている
そんな木を友だちのように思う」 星野富弘

「成功不成功は人格の上に何の価値もない。人は多くそうした標準で価値をつけるが、私はそういう標準よりも理想や趣味の標準で価値をつけるのが本当だと思う」 田山花袋

「自信とは、自分の能力や技量で物事が達成できるかどうかの見通しのことです。そして見通しを立てるのは想像力です。自信のない人に共通しているのは想像力に乏しいことです」 J・マーフィー

「おまえの足の痛みはねえ、神様がくださった試練なんだよ。感謝しなさい。神様がおまえを大きくするためにいたずらをしているんだよ」 中村清

「臆病でためらいがちな人間にとっては、いっさいが不可能である」 W・スコット

「「こんな出来事が目の前で起こったのは、私に何か気づかせよう、役に立ってやろう、利用したらいいよ、と誰かが教えてくれているのではないか」ともう一度、その出来事に問いかけるのである。何かしら答えが返ってくるはずだ」

「ことごとく書を信ずれば書なきにしかず」 孟子

 名言集というのは自分が悩んでいるときや苦しんでいるとき、失敗だった、だめだったと思うときこそ、いちばん身にしみてくる。ぎゃくに幸福なときや順風満帆のときにはなんの響きも感じない。ネットでたくさんの名言ページを見るのだが、ひどく他人事のように見える。たぶん苦しんでいる、悩んでいるという「器」を共有しないからだろう。悲しみや苦しみの「器」に満たされたとき、名言集はたくさん心にしみこんでくる。器がないときには無用の長物である。ついでに他人や会社が圧しつけてくるようなばあいに反発心が先にたち、害悪になるばかりである。

 名言集というのは他人の名言をあつめてくるから著者はラクしていると思われるだろうが、自分で名言を集めてこようと思うとどの本から一句を拾うかとか、載せるか載せないかの基準を考えるとあんがい難しいものである。テーマで選ぼうとすると、どこにあの名句があったかと探ったり、あるいは記憶を探るというのはかなり難しい作業である。敬服したいものである。

 ところでこのように本を引用するとき、片手で開いたページを押さえながらキーボードを打ちこんだり、キーボードで本を押さえながら文字を打つといった、たいへんにしんどい作業をおこなっている。下記のようなブックスタンド、ブックストッパーなどがあれば、重宝するのだろうか。


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名言集は山のように出ていますね。
世界の名言100選 (PHP文庫 か 39-6)名言の智恵 人生の智恵―古今東西の珠玉のことば語り継ぎたい世界の名言100―上司から部下へ、親から子へ3秒でハッピーになる 名言セラピー

06 17
2008

人生論

『ヘタな人生論より良寛の生きかた』 松本 市壽


ヘタな人生論より良寛の生きかた―不安や迷いを断ち切り、心穏やかに生きるヒント (河出文庫 ま 9-1)
ヘタな人生論より良寛の生きかた―不安や迷いを断ち切り、心穏やかに生きるヒント (河出文庫 ま 9-1)
松本 市壽

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 良寛というのは現代社会のヒエラルキーでいえば、いちばん最低で底辺の生き方をしたわけだが、そのような生き方に幸福や安らぎや自足を見い出したからこそ、人気があるのだと思う。いちばん最低と思われている人生にも幸福も安らぎもあるのだ、ぎゃくにそちらのほうにほんとうの幸福があるのだといわれれば、必死にカネやモノや地位を求めるわれわれにとっては、ずいぶん癒される存在になることだろう。いったらニンジンをぶら下げられてつっ走る現代人の人生を揶揄した生き方に評価が集まるのである。

 われわれは物心ついたころから学歴やら競争やら、カネやら消費やら出世やら権力を奪いとる生き方をセットインされて馬車馬のようにつっ走って生きるわけだが、そしてその生き方に疑問や懐疑も抱かず、ひたすら洗脳・教育された生き方と価値観しか知らずに墓場まで高速ジェットでつっ走るのである。背中のゼンマイを親や社会に回されて、そのまま墓場までまっしぐらである。良寛の無欲で無所有の生き方は、われわれの高速ジェット人生の強烈なアンチテーゼなのである。この人生はさしずめ山下清の人生をドラマ化した『裸の大将放浪記』に似ているといっていいかもしれない。

 といっても現代人が良寛のように乞食でホームレスで、組織に属さず、風流を愛すといっても、生きてゆけるだろうか。河川や公園にホームレスのテントがたくさん立ち並ぶが、かれらを称賛や憧憬の目で見たりすることができるだろうか。日雇い労働者の町で昼間から酒を呑んだり、道路の脇で寝ている人たちを見て、風流だ、すばらしい生き方だと評価したりできるだろうか。軽蔑や悲惨さのまなざしを向けるのがオチなのである。

 良寛となにが違うのだろうか。良寛は詩や書を書いた。それゆえに評価が今日まで残っているのだろうけど、もし良寛のような存在が前述のテント村や日雇い労働者の町に人知れず存在したとしても、われわれは正しく評価できるとは思えない。軽蔑することだろう。なにか良寛の評価や人気が絵に描いた餅に思えるのである。

 現代人は良寛のように生きられるだろうか。乞食で生計を立てて、書や詩をたしなむ。文学の評価というものがなければ、ただのホームレスである。決然と現代人の欲多き生き方はまちがっているから、良寛のように乞食に生きようといっても、現実的に生きられるものではない。良寛を好きな人も、評価する人も、たいがいはきちんと会社勤めをし、しっかりとサラリーをもらい、マイホームをもち、妻と子を食べさせ大学に行かせていたりするのである。なんかウソっぱち良寛評価であるが、世の中の現実とはこのようなものなのだろう。まあ、もちろん良寛から学ぶものはホームレスの実践ではなくて、心のもち方、欲のあり方なんだろうが。良寛好きな人でもまさか明日から財産を新興宗教に喜捨してホームレスとして生きるなんて人はいないだろう。私としては良寛を好きならそこまでやってほしいものであるが。ウソつき、欺瞞。

 もし現代の多くの人が良寛のように無所有で無欲で生きようと決意したらどのようになるだろうか。相田みつおのような詩を路上で売り、コンビニやゴミ箱の食べ物を漁り、公園や河川で寝泊りする人たちが大量に生まれたりするのだろうか。そんなことは絶対に現実にありえないところが、良寛人気の残念ながら、現実というものだろう。あくまでも良寛は理想や憧憬であって、現実の実践にはなりえない。

 日本人は西行や吉田兼好、鴨長明などの隠遁者や近くは種田山頭火や尾崎放哉に憧れてきたものである。無所有や無欲、放浪の生きかたに理想を見てきた。だけど現代はしっかりと、いや大昔からそうであったのだろうが、欲望と所有と権力をもとめる生き方をしてきたものである。そういうものを目指さないと生きてゆけない、生計が立てられない、恥ずかしいとなって、多くの人のように欲望全開の人生を全うするのである。しごく健全というものだろうか。

 良寛や隠遁者人気にはウソと欺瞞があるわけだが、それでも心のふるさとのように思えてしまうのである。いろんなものを削ぎ落とした中に人生のシンプルで力強い幸福があるという教えは、上昇中でも落下中でも私たちの心を癒してくれるからだろう。なにもないところの幸福と安らぎ。そのようなところに基本的な安らぎを見つけられるのは、ずいぶんと心強いものである。というか、こういうところに幸福やら安らぎを見つけないと、いつまでたってもわれわれの心が休まることはないのだろう。良寛と比べると、欲望のために走り回って心休まる暇のないわれわれはずいぶんと哀れな存在といわざるをえないというものである。

 現代人が欲まみれ、あるいはりっぱな人間や偉い人間になろうとするのは、他者から見捨てられることが怖いからである。他者から見下げられたり、無価値だと思われたり、無意味な存在だと思われたりするのが恐ろしいから、われわれはりっぱな人間や偉い人間になろうとする。つまり良寛のようになにもない、見下げられた存在であることに安心や幸福を見い出せないからである。つまりは「なにもない」「あるがまま」の状態に自足する、安心することができないのである。だからわれわれはこんなに価値があり、意味があり、りっぱで偉い人間であるとまわりに宣言=泣き叫びつづけなければならなくなったのである。

 良寛は強い心をもって、かんたんに欲望にひっぱられない生き方をすることによって、安心と幸福を手に入れたのである。多くの人は心が弱いからかんたんに欲望にひっぱられる。りっぱで偉い人間であると泣き叫びつづけることで人生を終える。無価値で無意味であることにとどまることができないのである。

 これは心の作用でもそうであるが、恐れや不安を抱くと人はそれを打ち消したり、否定したりしようとする。じつのところ心とは幽霊や映像のようなもので、実体あるものでも、現実にあるものでもない。それを否定しようとすると、幽霊が本当に存在するように思え、そして幽霊に抗い、逃げ続けてしまうことになってしまうのである。つまり幽霊とは自分を無価値とか無意味に思ったりする心のことである。良寛はこの心のカラクリを理解して、幽霊の恐怖に打ち克った稀有な人なんだろう。だから彼はりっぱな人間にも偉い人間にもならず、人から軽蔑されても、幸福や安心があることを知っていたのだろう。つまり心という幽霊の恐怖に追われることはなかったのだろう。このような心の恐怖に打ち克った人は良寛のような安心と幸福のシンプルな人生を送れるのだろう。


 あれっ、この本についての書評ができなかったが、まあ、良寛の詩が現代語訳で紹介されていて、ざっと読みやすい本である。ほかに多くある良寛書となにか違いがあるかといえば、たぶんよく見つからないかもしれない。


ヘタな人生論より中国の故事寓話 古代中華の英和を楽しみ味わう ヘタな人生論より葉隠 ヘタな人生論よりイソップ物語 ヘタな人生論より徒然草 良寛の書 (NHK美の壺)
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関連サイト
Vol.07 良寛の”詩”コース ぐるっと新潟観光ルート
良寛記念館
良寛のみち跡 三条市
良寛という老いの風景 食と文化の物語

05 18
2008

人生論

『人生の短さについて 他二篇』 セネカ


人生の短さについて 他二篇 (岩波文庫)
セネカ Lucius Annaeus Seneca

人生の短さについて 他二篇 (岩波文庫)


 私も40歳になり、人生のあっという間の早さや短さについて思い知らされる年齢になったので(「二十年もたったなんて信じられない」)、人生の短さについて書いたセネカの本が岩波文庫にあったと思い出し、古代ローマ時代のセネカの著を読む。 

 まあ、ほぼ感銘はない。心にしみこむ言葉もなかったし、インパクトのある文章もなかった。していえば『人生の短さについて』より、『心の平静について』のほうがよかった。翻訳は読みにくいし、意味も通りにくいところもあるのだが、まあ古代ローマ人の感覚を現代語に移すのはやはり難渋するものなのだろう。

 私の好みとしてはマルクス・アウレーリウスの『自省録』のほうが好みである。ストア哲学の心の平静についてのエッセンスが書かれているし、哲人王とよばれた人の朝起きたくない愚痴などが書かれていて好感がもてるのである。なによりこれは仏教の瞑想とひじょうに似ており、二千年前にヨーロッパとインドは思想的共鳴や同時代性を生きていたのかと驚くのである。いや、仏陀は紀元前4.5世紀に生きた人なので、インドの影響下にあったわけである。

 セネカは二千年前の前4年ころから西暦65年ころまで生きたとされる。ネロの家庭教師となり、自殺を命じられている。二千年前の著作が読めるとはすごいことであり、この二千年の間に多くの人が生まれ、死んでいき、多くの人の思いや考えはこの世に残ることはなかった。そのような時代をへて著作が残るということはすごいことだと思う。書籍という形態は、人間のメディアとしてはこれだけの長さを保つことができるのである。

 今日、古代ローマや古代ギリシャの悲劇や哲学書を手に入れることができるのだが、ヨーロッパは近代になって勃興した土地なので、この古代ローマ時代はヨーロッパ人の偉大さや伝統性を正当化するためにピックアップされた時代なのであろう。ヨーロッパは長く中国やイスラムにとっての後進国、周縁の国にすぎなかった。だからこの古代ローマ時代、あるいはルネサンス時代は近代の「偉大な」ヨーロッパを正当化づけるために、その偉大な起源がたたえられなければならないのである。優越性の根拠である。ヨーロッパのイデオロギーにだまされず、中立性のもった視野をもちたいものである。

 この本に納められた三篇から感銘した分を抜き出しておく。

 大官服をすでに何度も着た人を見ても、大広間で名声を高めている人を見ても、そんなとき君は羨んではいけない。高官や名声は、人生を犠牲にして獲得されるのだ。

 或る者は幾千の不名誉を重ねて最高の名誉によじ登ると、ふと、自分は今まで墓碑銘のために苦労してきたのか、という惨めな思いに襲われた。



 財産を持たないほうが、失うよりもどれほど苦痛が軽いか。貧乏には失う原因が少ないだけ、それだけ苦悩も少ないことを知らなければならぬ。



 災いを厭うべきものとするよりは、むしろ軽いように心掛ければ、どんな種類の生活のなかにも、楽しみも慰めも喜びも見付けられるだろう。



 賢者はまた、運命を恐れる理由をもっていない。なぜというに、賢者は自分の奴隷や財産や地位のみならず、自分の体や眼や手や、およそ人間に生活を愛着させるものはなんでも、いや、自分自身をも、すべては許されて仮に与えられたもののうちに数えているからであり、自分は自分に貸し与えられたものであり、返してくれと求められれば、嘆き悲しむことなくお返しする、というように生活しているからである。それゆえにまた、賢者は自分を無価値なものとは思わず――というのは自分は自分のものではないことを知っているから――



 われわれに課せられている務めは、死すべき運命に堪え、われわれの力では避けられない出来事に、心を乱されないことに他ならない




マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫) 森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫) 自省録 (岩波文庫) フランクリン自伝 (岩波文庫) 普及版 モリー先生との火曜日
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Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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