『友だち地獄』 土井 隆義
友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書 710)
土井 隆義

友だち関係や集団関係の維持には私もたいそう悩まされてきた。私は中学のころから友だち関係の維持がめんどくさいと思いはじめ、ひとりになりたがる傾向が強くなった。二十歳以降は文学や現代思想、社会学を好み、画一化・規格化される集団というものを嫌い、集団から外れる方向ばかりに走ってきたと思う。そのような私にとって、この本はずいぶん自分の感じてきた問題と重なるものがえぐられていたと思う。
「今このグループでうまくいかないと、自分は終わりだ」と思ってしまう。
仲間内の人間関係の維持はあまりにもエネルギーを要するものであるため、その関係の中身を吟味したり確認し合ったりする余裕はなく、互いにつながっている時間をひたすら費やしていくだけで精いっぱいである。しかし、そのために何かにいっしょにコミットしていなければいけない。そうしなければ、つながっている時間を保つことすらできない。……いわば物理的につながっているしか術がない。
「優しい関係」は、強迫神経症のように過同調を互いに煽りあった結果として成立しているので、コミュニケーションへ没入していない人間が一人でもいると、その関係がじつは砂上の楼閣にすぎないことを白日の下に晒してしまう。王様が裸であることには皆が気づいているが、それを指摘するようなシラけた態度を誰も示してしならない。
「今は中学生はもちろん小学校高学年ごろから群れていないと不安で、そこにしか生きる世界がないんです。行動規範は仲のいい友だちグループだけで決まっちゃって、そこから弾き出されたら生きていけない」
「あたしの身体にはなにひとつ傷がないのだけど、ただっぴろい教室の中みんなはグループで固まり独りぽつんと机に向かうあたしに刺すような視線を送ってくるし友達には裏切られてしまっているし、何より独りでいることをハブられていることを見られるのが嫌で、そんなあたしをみんながどう思っているのかと考えると恐怖だった」
いまの時代というのは小集団の維持がますます至上目的となっているようである。ひとりになると居場所がなくなるから、いつも群れていなければならず、かといって群れつづけることは不快で不自由であるし、自由でもない。おまけに集団というのは画一化を要求するものである。似ている者、好きな者同士は同じことや同じ物を好むものである。みんなおそろいになって気持ち悪いと思っても、そこから降りることは集団への批判や脱落と直結してしまう。仕方なく、この欺瞞とウソっぱちの仲よしゴッコをつづけてゆかなければならないのである。こういう状態が私の時代よりもっと深く重く進行しているようである。
歴史的に眺めれば、このような現象は民主政治がはじまったころから起こりだしたと考えるのが妥当なのだろうか。トクヴィルが『アメリカの民主政治』という本を書いたころにアメリカ人の画一化に脅威しているし、フランス革命に反対したエドマンド・バーク、そしてキルケゴールも画一化・水平化の恐れを表明している。ニーチェは「畜群化」と罵り、J・S・ミルは天才の生まれない画一化の自由の消滅を嘆き、エーリッヒ・フロムやオルテガ・イ・ガセット、デヴィッド・リースマンなどが画一化してゆく民衆を精緻に分析した。いわゆる「大衆社会論」というジャンルでその脅威は論じられた。平等で民主的な理想の社会は、私たちの小さな小集団や友だちのグループの中で、精神や自由や個性を抹殺してゆく動きが深く進行しているようである。
私たちの社会というのは、友だちや集団によって承認されることがこの社会で生きる根本の規範となっているようである。仲間外れや孤立は、社会からの承認を得られていないことを意味する。これはほとんど生物学的な脅威というか、条件のような気がする。動物的な規範である。集団の承認が得られないことは、動物的に生存の条件を喪失してしまうことである。だから教室や集団の中ではそのようなイスとりゲームが壮絶な試練となって、うずまいている。いじめや不登校、ひきこもりはこのような人間関係の厳しさから生まれているのだろう。教室の内部が「動物的」になっているのである。
私は集団の維持というものが嫌いである。ウソっぽい演技、白々しいムードや雰囲気づくり、肯定しあったり承認しあったりする関係のダルさ、おもしろもなくうれしくもないのに群れてしゃべらなければならない不快さ、私はそういうもろもろの鎖や監獄にたいそういやになって、ひとりになることをずっと希求してきた。中島義道もそういう集団での雰囲気が大嫌いだそうで、著作の中でも懸命にそれに対する不快感を表明している。でもだからといって、集団からの孤立、脱落はその場での居場所や存在の意義を認めらなく、排斥や攻撃の標的になってしまうのである。「属しても属さなくとも地獄」というやつである。仲間や集団から距離をおきたくなるというものである。
この「友だち地獄」という集団関係はどうにか解消できないものかと思う。集団の維持と孤立がすべての動物的ルールとなるような、人間の知性や知能、才能をすべて抹殺するような同調的集団を改善できないものかと思う。集団に属することだけがなによりもの人生の生存目標となるようでは、人間の成長も進歩も向上も見込めない、どころか、抹殺する方向にすすむだけだ。もし民主政治と平等主義がそのような窒息しそうな動物的社会をつくっているとするのなら、私たちはその思想的解体に手をつけなければならないのかもしれない。民主政治の理想とは、こんにちの教室の友だち地獄、いじめやひきこもりを生み出すようなら、その根本的病理にメスを入れなければならないのだろう。私たち人間は民主的・平等的につくられた生物学的存在ではないのかもしれない。
友だち関係の維持は承認のありかたにもかかわってくる。私たちはだれかに承認されて自己評価を維持したり、あるいは自分の存在を認められる充足感を感じる。もしなにものからも承認されないと、自我の深い消沈を味わう。
ひきこもりの青年たちは、「優しい関係」に付随する自己欺瞞に耐えられず、純粋な自分を守ろうとして他人とのコミュニケーション回路を切断しているのかもしれない。しかしその結果、今度は他人からの承認という支えを失って、その純粋な自分の肯定感を維持しづらくなっているようにも見受けられる。
かつての青年たちが「私を見ないで」と叫んでいたとすれば、現在の青年たちは「私を見つめて」と叫んでいる。かつての青年の主要のテーマの一つは、親をはじめとする周囲の人間のまなざしからいかに逃げるかだった。自分が「見られているかもしれない」うっとうしさ、その「不満」からいかに解放されるだった。ところが近年は、自分が「見られていないかもしれない」ことによる寄る辺なさ、その「不安」のほうが強まっている。周囲のまなざしから解放されることによってではなく、むしろそれを心ゆくまで浴びることによって、自分の存在を確認したいという欲求のほうが強くなっている。
自殺した生徒たちを嘆き苦しみ、その短い人生を悼む周囲の人びとのすがたを目の当たりにして、ここに自己の究極の自己承認があると誤解してしまった側面もあるのではないだろうか。
私たちは承認をやみくもに求めてしまう悲しい生き物である。いろんな蓼食う虫な承認を求めてしまうらしい。承認のためなら自殺してしまうことだってありうるし、人を殺してマスコミにマイナスの面での承認を得ようとするかたちすらある。多くの人は群れて仲間をつくり、しじゅうケータイで連絡をとりあって承認を得ようとする。それがいやになれば、関係を断ったりひきこもる。趣味やネットに承認を求めるばあいだってある。親や大人の承認をいやがって、仲間の承認だけを求めることもある。承認は私の満足や意気消沈をもたらす。ある意味、鎧や依って立つ地盤のようなものである。その承認が仲間内や属する狭い集団からしか得られないとするのなら、私たちの社会は退化して動物化しているといわざるをえないだろう。
こんにちの集団の強迫維持関係は病理化していると見なしたほうがいいだろう。画一化・同一化の強制は集団が親密で一体化しやいものであったら、なおそらその圧力や同調力は強くなる。その友だちや仲間に承認されているという目印を得るために、私たちは多くの大切なものを失うのである。このような動物的な原則や規範は知性をもつ人間としてはふさわしくないものである。「空気に流される」とは動物的に生きることである。集団や友だちの維持と承認だけに生きる人生はあまりにも狭く、低く、不自由であると思うのである。もちろんこれと闘うことは動物的な攻撃や勢力とぶつかることを意味するのだが。
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集団の序列争いと権力闘争
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『雑談力』 川上 善郎
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雑談やおしゃべりといったものをなめちゃいかんと思う。学校でおしゃべりはいつも注意されるし、近所のおばちゃんの雑談はムカつくし、仕事中のほかのやつの雑談はどうにかしたくれといったように、他人の雑談は不快である。
それは集団や群れというものが脅威であり、自分を排斥したり、評価したり、仲間はずれにしたりといった「権力」や「暴力」が雑談に付与されるからである。この権力の読み方や対処の仕方をまちがうととんでもない目に会う。人間は雑談によって「仲間」をつくり、そして「権力」をもつのである。
この「承認」と「不承認」のパワーゲームを読みとらないことには、人生苦労がついてまわることになる。「空気を読まない」とひところ騒がれたが、雑談による権力のゲームをしっかりと読み解かないと、雑談の「悪口」に追い立てられることになるだろう。
雑談は「権力論」として読み解いてほしいのだが、この本はそういう点からいえば、すごく甘い。おしゃべりを「不穏な権力」として読み込んでいない。おしゃべりを夫と妻の会話時間のような軽いデータに還元したりしているのだが、陰口や悪口や仲間外れといった目に会った人なら、この雑談やおしゃべりの輪の「権力性」「制裁力」といったものの暴力を思い知っていることだろう。なぜ雑談の暴力や権力、あるいは序列といった不穏なものから読み解こうとしないのだろうか。
人がおしゃべりする動機は、孤独でないことの確認や、つまり仲間であるということや、自分を他人に理解させるための手段や、思いやりや支配を示す方法、儀礼としておこなわれるという。仲間に拒否されていないことをメッセージするために雑談はおこなわれたりして、つながりや同盟が誇示される動機がおしゃべりにはある。
おしゃべりの目標には、社会的な関係を深める、社会的なリアリティを作り上げる、お互いの体面を尊重する、共通の課題を達成する、お互いに楽しむ、といったものがあげられている。仲間とやつらの境界がつくられ、仲間内での解釈がつくられてゆく。場所の気まずさやシラケたムードが緩和されるために雑談が強要されるときもある。
雑談は類人猿でいう「毛づくろい(グルーミング)」なのであるが、言葉のある人間は雑談によってつながりを維持し、ときには仲間であることの承認や不承認をあらわし、敵と味方の境界がつくられてゆくのである。極端にいえば、雑談は「戦争になるか、ならないか」の分岐点をつくる土台なのである。
悪口の社会的効用があげられている。集団は制裁やジャッジの力をみずからにもつものである。悪口はルール作りの道具になったり、ホンネの新人教育の道具になったり、悪口によって派閥が形成されたり、情報通貨としての効用をもったりする。否定できず同調を強制される悪口によって派閥という仲間は形成され、集団のルールや規範はかたちづくられ、そして情報は駆けめぐる。悪口はいろいろな「踏み絵」を踏ませて、仲間と敵のふりわけや、解釈や評価のメディアが集団内でつくられ、そしてルールや規範も練り上げられてゆく。つまるところ悪口や雑談は社会のルールや仲間と敵をつくってゆくのである。
雑談の権力性、仲間意識のウチとソトを甘く見ているようでは、人間社会は渡ってゆけない。



会社の私語と権勢ゲーム
会社の中には朝から晩まで沈黙して、ひと言もしゃべってはならないような雰囲気の会社もある。ぎゃくにみんなが談笑して、会話の輪に入らなければならない職場もある。
私語禁止の職場もあるし、なんとなくそういう雰囲気になっている職場もあるし、私語し放題で、ムカついている隣の人もいるし、話さなければ孤立を恐れて話しつづける人もいるし、部署ごとに対立が生み出される職場もある。
職場の苛立つ私語 発言小町
話さなくていい職場 発言小町
私語厳禁の職場の方いらっしゃいますか。 発言小町
集団や空間をどう捉えて、場所や関係をどう維持してゆくかというルールが拮抗しあっているのである。満員電車やエレベーターでは私語を慎むのが基本的なマナーである。そのような沈黙の場所でとなりの人を無視した大きな会話は迷惑である。なぜかというとそれは他者の無視であり、尊重の否定であり、じつはそれは「なわばり行動」の威嚇でもあるのである。だから公共の場所での沈黙が求められるのである。
私語・会話というのはプライベートなつながりを表示し、権力や権勢をあらわすことでもあり、グループや集団の「内と外」の区分を指し示し、「敵/味方」「われわれ/やつら」という敵対図式を生み出すことでもある。
学生時代は友達と仲良くすることが「仕事」や「業務」であったため、他者やまわりに影響をおよぼすことに無自覚であったことが多いだろう。「われわれ」の仲良くうまくやることが重要で、まわりの人たちの心や感じ方には無自覚、関係ないといった状態がふつうであったと思われる。隔絶された「自集団」を形成していたのである。教室のおしゃべり・私語は自分たちの「空間」の御し方であって、教室という空間の教師やほかのクラスメートは「空間外」のことであったので、かれらの配慮は問題外であったのである。
公共の場所や職場というのは、自集団だけではなくて、その空間や職場の処し方も考慮に入れなければならなくなる。空間全体の御し方も意識に入れなければならないのである。その空間はひとつの「全体」をなすようになる。全体を考慮に入れた配慮が必要になってくるのである。
会社というのは満員電車やエレベーターのような公共空間のふるまいを要求される場所でもある。同時にプライベートの学校や友だちの仲よし集団の形成される私的空間でもありうる。業務や機能主義に徹する冷徹さが求められる場所でもあるし、あるいは楽しさや談笑やつながりが望まれる場所でもある。人それぞれの認識や好み、期待は異なり、また職場の人間関係・集団に求められる規律やルールも違っていて、認識と対処の仕方は人によってかなり異なってくるのである。そこに拮抗やきしみが生まれる。
会社でみんなが仲良く楽しく連携しておこなわれる仕事が重要だと考える人や集団、またはそんなものは仕事の邪魔で、機能や業務が最優先され、私語は禁物だと見なす人や集団もあるだろう。それらのルールが明確でない職場の場合、それぞれの人が見なす職場の規律が拮抗しあってしまうのである。
職場で仲良く楽しくやりたいと思う人は、自集団の権力威嚇や内と外の対立に無自覚である。仲良くやりたいだけと主観的には思うのだろうが、職場においては他業務、他部署に属するものが必ずいて、かれらの「仲よしゴッコ」はまわりに「なわばり行動」や自集団の権力威嚇という恐れをまきちらしているのである。私語の多いもの、群れたがる人というのは、無意識にこの戦略を用いている。群れるという数の権勢ゲームで自分の地位や業務を安泰にしたがっているのである。
そしてその集団に属しない者に「仲間外れ」の恐れを抱かせて、地位を自分より下におこうとしているのである。私語の多い楽しい職場というのはこの「権勢ゲーム」が病のようにひそかに進行しているものである。かれはみんなとわいわい楽しくやりたいと思っているだけだろうが、権勢ゲームでの地位の安定と獲得を狙っているのである。
この権勢ゲームは集団の内と外の出入が厳しいのだろう。権勢チームのインとアウトこそが権力の源泉なら、かんたんにその力を手放さないだろう。派閥というのは会話で成立するもので、かれにとって私語の交流を欠かさないことはひじょうに重要な仕事になってくる。
仲のよい集団というのは、外側の人間にたいしてはひじょうに冷酷で、残酷なものである。新参者はかなり腰を低く下げて入っていかなければならない。また交流の関係も複雑で、会話の流れも隠語のように外部のものには入りにくく、よせつけない。だからこそその集団は権勢を保てるのである。そのような犠牲者を生み出せるから、その集団は強さを誇示もできるのである。
私はこのような「できあがった」集団の輪に入ってゆくのがかなり苦手であった。だから学生時代、会社での人間関係をうまくやっていけるだろうかと不安だった。就職が恐いというのはこのような規範を恐れてのことだったのだろう。集団での一体感を強制される職場を避けてきたように思う。集団のインとアウトの権勢ゲームにさいしょから尻込みしていたのだろう。といっても無自覚であったが、私なりの権勢ゲームの方法ももっていないわけではなかったのだろうが。
私はさいしょは人と談笑することを好むが、仕事の負担が増えてきたり、仕事の自覚が増してくると、黙ってすることを好むようになり、私語をムダと思うようなり、他人の私語にムカついてきて、対抗としてますます沈黙することになるから、人と対立したり、嫌われたりするパターンが多い気がする。無視を怒りのメッセージとして用いることが多いから、それとあいまって、無視されたり、嫌われていると思う人が出てきて、結果私は嫌われたり、対立を生み出したりするのである。仕事が増えてきたら私語が嫌いになり、結果つながりや交流を失ってきた私は力をもてないのである。私とのつながりによって権勢をもってきた人にはやはり嫌われるし。
無視は人の自尊心をかなり傷つけるようだし、嫌われているのではないかという恐れをもよわせる。しかし仕事において業務が忙しくなれば、暇な他人などにかまっておれなくなるから仕方がないものである。沈黙の職場というのはこのような恐れを潜在的にたえず味わわせるものである。沈黙の職場は寂しさも感じさせるものである。寂しさは他人の談笑や会話によってよけいに煽られるから、沈黙の職場はますます私語の禁止という規範をその空間に重石のようにのっけるのである。
沈黙の職場は私語の権勢ゲームのひとつの牽制策でもありうる。私語の多い職場では業務とはべつの権勢ゲームが発動して、会話や交流が仕事の大きな業務になり、仕事に集中できなくなる。孤立を恐れるイスとりゲームに多くの業務量がとられるのである。沈黙の職場はそのようなゲームの抑制策になりうるのだが、同時に寂しさや恐れも味わわせるものである。あまり人間らしいとはいえず、沈黙は負担であるし、このような空間の支配力に人は抵抗したくなるものであるが、空間の沈黙力にはねかえされるのがオチである。
職場というのは人間のパワーゲームの場所でもある。業務をめぐっての、または会話や交流をめぐっての静かな対立がくりひろげられる。そこでのなにが起こっているのか見極めることが大切である。もうすこし考察を深めたいと思うのだが、次回の機会にゆずろう。
『「しきり」の心理学』 林 理
![]() | 「しきり」の心理学―公式のリーダーと非公式のリーダー (1998/05) 林 理 商品詳細を見る |
古本屋でたまたま見つけて、「非公式のリーダー」という存在がおもしろいかなと思って読んでみたのだが、あまり参考になる知見がくわわったわけではない。
私の職場でも公式のリーダーは現場のスタッフたちに比べると権力がよわく、傀儡といった感じがしないでもない。現場の作業の実権を握っている者が、公式のリーダーの情報量や技能よりどうしても勝ってしまうのである。だから非公式のリーダーという存在に目をひかれたのである。公式のリーダーというのは対外的なリーダーであるようである。集団というものはじっさいは非公式のリーダーがとり「しきる」ものなのである。
非公式のリーダーとは「まあまあ型」や「ゴリ押し型」、「おれだよ型」、「小学校の遠足型」の4分類に分けられるとされる。専制タイプと民主的タイプの両極端がなるわけである。
集団のとりきめというのはたいがいは「自分には利害のないどうでもいいこと」である。そしてそういうとりきめはほとんどが好みの問題である。好みを決める際に非公式のリーダーがしきることになる。好みの問題は非公式のリーダーの専横になりやすく、それで派閥ができたり、陰湿なものになりやすいのである。ながく積み重なった社内の慣行や蓄積を知っているものに新参者はたちうちできない。非公式のリーダーの権力の源泉をしっかり見極めることが社内遊泳には大切なものなのである。
それにしても集団論や組織論でこれがいいという本にはなかなか出会えない。会社に長くいると対立や抗争ばかりが起きる。私の性格が悪いのか、職場とはこういう人間関係の戦争の場なのか。ついこないだも上司にケンカ腰で殴られそうになり、辞めようか、労働基準局に相談しに行こうかと悩んでいる最中である(泣)。私はうまく人にとりいるとか、おべっかができなく、いちど許せないと思ったら頑なになるところなんかが抗争に放り込まれる原因になったりするのかなと思う。自分では穏やかな人間だと思っているんですが(悲)。。ま、この上司はいつもケンカ腰なのでとっくに相手しなかったからキレられたのですけど。。
▼いままでそういう集団抗争や権力闘争で参考になった本の私の書評をあげておきます。ほんとに役に立つ本は少ないのが残念です。
『権力(パワー)に翻弄されないための48の法則〈上〉』 ロバート・グリーン
権謀術数を生きるには最高の本。
『チンパンジーの政治学』 フランス・ドゥ ヴァール
まるで人間のボス争い、派閥闘争そのもの。
『女の子どうしって、ややこしい!』 レイチェル・シモンズ
裏攻撃やいじめ、仲間外れ、女性の集団も同じことである。
『子ども社会の心理学』 マイケル トンプソン
グループのオキテを泳いできた子ども時代とはなんだったのか。
マキアヴェリ 『君主論」
やっぱりマキャベリズムで生きなければならないのかも。
悶絶!の「ランチメイト症候群」の考察
職場の昼飯というのはむずかしい。とくにみんなで固まって食べなければならない職場は苦痛である。会話がないと気まずいし、会話に入れないと苦痛はいっそうひどい。嫌ったり、仲良くなったりする流動的な関係にしがみついてゆかなければならなかったりする。
私は基本的にひとりランチである。ひとりで外食にいったり、どこか昼寝の場所を見つける。だれかと食べる関係は気まずかったり、関係の波間にほんろうされて、苦痛である。だから私は関係を断つ。男でよかったと思う。
「ひとりランチ」で検索すると、読売新聞の発言小町に女性たちによる「ランチメイト症候群」関係の悩みや相談がよくひっかかってくる。身につまされる思いで読む。
男も女性と同じような感覚はもつのだが、女性ほど群れやグループの強制力は強くない。それでも除け者や嫌われ者、孤立者と思われないための予防策は張らなければならないのは基本的に男も女も変わらない。
「ランチ時間の孤独」
「仕事より疲れるランチタイム 」
「お昼休みの憂鬱」
「ランチ 誰かとつるまないといやですか?」
「職場で一人ランチ 」
「職場でのお昼ごはんは、1人で食べたい 」
何件かのランチ時間の苦痛や悶絶の発言を抜書きしよう。
■全く理解できない人種の女の子たち(常に文句・愚痴・人の陰口のオンパレード)といやいやランチをともにしてる私です。
じゃあ一人で食べればいーじゃんとも思うのですが、そうもできないので。
ほんとこの子達と話すの嫌・・って思ってたら顔に出ていたらしく、今では完全無視されてます。
■その時話す事といえば、会社の人の悪口・昨日見たトレンディドラマの感想(見てないと仲間はずれ、、、なので見たくもないのにみてました)その内昼休みが来るのがいやで、3年後出社拒否症になってしまいました。
■今回の職場は買いに行くのも皆一緒、食べるのも1つの机を囲んで皆一緒(食べる直前に一人がトイレにいけば帰って来るまで皆食べずに待っています)というような状況。。ここでは何となく一人行動が出来ない空気なのでこの2ヶ月、修行だと思ってお昼は彼女達と共に過ごしてきましたが、大抵が聞いた事もないバンドの話やかなりオタク系なアニメ、漫画の話で盛り上がるので全く付いていけずもう限界です。この職場は仕事内容等は気に入っているので辞めたくはありません。
■いつも4人で食べているのですが、たまに3人の時なんか私の存在は無視かい??と感じるほどずーっとあとの2人(AさんBさん)で喋っていて、時折私にはわからない話をされ、こちらから無理くり会話に入っていかないと参加できないみたいな状況。
■ちなみに私も最近はほとんど会話に参加することなく、もくもくと食べています。当然私以外の5人はお喋りに夢中なので食べるのも遅く、食べ終わった後の時間が更に苦痛でしょうがありません。その子達のオタク話やドラマ話をBGMにぐるっと辺りを見回すと、隣の部署の男性が自分の席でグウグウ昼寝してるのを見えるので心の底から羨ましく思います。
一度皆が食べている途中に「銀行に行って来ます」と席を立ったことがありましたが、その瞬間、場の空気が一変したので、それ以来その手は使っていません。
あぁ、この「何でも一緒集団」から早く抜け出したいです。
■私を含め5人で一緒にランチをとっているのですが、他の4人が私のわからない話ばっかりするんです。
(たぶん意図的)
あとは会社の人の悪口。毎日よくネタがあると思います。
最初はわからないなりに質問や相槌を打つなどして
なんとか話に加わろうと努力していたのですが、
私が話に加わろうとするといきなり話題を変えられたりすることもあり、
ランチの間一言も話さない事が増えました。
さすがに私も頭にきて、銀行に行くとか近くの会社で働いてる友達と食べるから
など理由をつけて別行動をとるようにしました。
■5人で食べていたのですが、アニメやドラマの話ばかりで全然話がつまらない。
一人で席で食べるとなぜか苦情がくる・・・
■女って、「あの人はつるむ相手がいない」「嫌われてる?」と見られるのを極端に怖れますね。群れないと安心しない。私は寂しい女じゃないわ!ほら、周りに仲間もいるでしょ!って。
その考えに囚われてると、一人ランチは、異端児かあぶれ者のする事でしょう。楽だろうけど、自分は勇気ないな・・・って。
■男性3人女性(私)1人、計4人。昼はみんな事務所で食べています。テレビはNHK。仲が悪いわけではないけど、特に喋る人もいません。し〜んとした中テレビの音と、くちゃくちゃ食べる音。お茶をゴクンと飲み込む音。
不快でたまりません。昼休みは特に嫌です。時々車の中で食べます。
■お弁当持参でも社食で食べなければならず、同僚と必ずテーブルが一緒になります。
それはそれでものすごく辛いです。
一人で静かにその時間くらい過ごしたいですよ。
■1時間の昼休みが3時間くらいに感じ、午後仕事をスタートする時にはもうグッタリですよね・・・
女性がいつも群れて、同一行動を終始おこなわなければならないのは、嫌いや対立を極力避けるからだろう。好きな者同士は同じ行動やファッションをおこなったりする。姿勢反響や同調行為とよばれものだ。違う行動は嫌いや対立の表明である。だからひたすら同調行動がおこなわれ――強制されるのである。
これはアメリカの市民社会を分析した社会学の本でもかなり多くの例が観察されている。アメリカの市民のとなり近所のグループにひたらす同調化・画一化してゆく様子が考察されているのである。嫌うことや対立、衝突がひたすら避けられる社会というのは、どこまでも画一化・同調化してゆかざるをえない。女性たちはこの波に呑みこまれて、身動きがとれないのである。
職場というのはこんにちの多くの家にあるような個室がない。大部屋やひとつの部屋に複数の集団で同一時間を過ごさなければならない。対立や衝突は業務上あってはならず、そのためにひたすら同調と、集団やグループでのかたまりが強制されるのである。集団として管理されているのである。
集団から外れることは、集団で業務や仕事をこなすさいの支障になる。孤立はチームワークの失敗の目印、連携の支障の目印である。だからひたすら集団のかたまりと同一行動が要求される。
でも人間は機械でもないし、集団や幾人かでいるとかならず齟齬をきたしたり、感情的対立やいがみあいをもたらすものである。業務上の集団での要請は人間への過剰な要求である。嫌ったり、きまずい関係でも、同じ部屋で同じ時間を過ごさなければならない。
そうしてえんえんとあなたを嫌ってませんよ、集団を嫌ってませんというメッセージである会話がつづけられなければならないのである。でもこの会話は通じない人や合わない人も発生させる。沈黙がつづくと、「あなたを嫌っている」という無視の往還になってしまうのである。沈黙とは、「無視」の側面ももち、敵意や攻撃の一面ももつ。そして同一行動内での会話の「戦争」がおこるのである。
会話の流通権の戦争が起こる。会話から疎外された者は無視や除け者という屈辱や攻撃をうける。意図ではなく、会話が合わなかったり、内向的であるばあいにもそれがおこり、心を痛めつけられる思いがするものである。おそらくははじめは攻撃の気持ちなどみじんもないものが、会話が合わないということで、敵対的関係になることもあるだろう。
このような会話の惨劇にならないために沈黙を賢明にも選びとる集団もある。みんなもくもくとTVを見ながら、食事をとるといった職場である。またこれも苦痛なものである。気まずいし、食事の音ばかりが耳に響き、不快になる。集団というのは、しゃべろうが、沈黙しようが、どちらに転ぼうが、苦痛を発生させるものである。
集団でいることは苦痛であろうとも、孤立や仲間外れと見なされないためには、人は集団やグループに意地でもしがみつかなければならない。人から「嫌われ者」や「除け者」と見られることを、人は極端に恐れる。あるいは、学校教育などで「教育」されるのだろう。
とくに教育や知識のウェイトが落ちたさっこんでは、学校で生き残る術はこのグループに属することのみになっている。ために「ランチメイト症候群」と命名されたひとりランチのできない若者が生まれることになる。これは病気でもなんでもない。「生存条件」といってよいレベルのものである。「嫌われ者」や「除け者」になったら、職場でも学校でも、「居場所」はないのである。私たちはこの苦痛をより強く「刷り込まれ」ている。
孤立やひとりランチは「嫌われ者」や「除け者」の目印なのである。人格的に欠点のある人物なのである。それはただ集団に同調できるか、画一化できるかという条件の内でしかないのだが、いまはその基準が猛威を振るうようになっている。個人主義や自由はこの社会の中ではお笑い種だ。なぜここまで極端になったかと考えると平和で安定した社会の、対立や衝突をひたすら避けてきた社会の帰結なんだろう。
このような集団の力学を利用した管理方法というのは、思想教育よりよほど人々の自由な人権を剥奪するのに強力な武器になってきたのだと思う。言葉や思想が育つ前から、集団の除け者を恐れる感情的な気持ちが個人の自由や個人主義を奪いとってゆくからだ。
私たちの時代というのはこの集団で群居しなければならないという要請に多くの魂を殺されていることだろう。仲良しグループや集団に承認されなければならないという罰則規定に、多くの人たちが轢き殺されていることだろう。
こういう状況で孤立やひとりランチをみずから選びとることはかんたんではないだろう。ある意味ではみずから「嫌われ者」、「除け者」のレッテルや役割を買って出るようなものだからだ。それは相手に対しての「嫌い」や「対立」をメッセージするばあいも時にあり、集団全体に攻撃を仕かけていると見なされることもあるだろう。
しかしこの集団同調行動はあまりにも不自然であり、苦痛である。はやく「一抜けた」ほうが賢明というものである。対立や嫌いを避けた苦痛の代償は、身の安定を得られる代わりに、自身の自由や個人主義の抹殺をもたらすことになるだろう。あるいは「居場所」の確保できない犠牲者を多く増やすことになるだろう。ゆるやかに離れた、個人でも存在することのできる社会にもってゆくほうが、多くの人のためになるのだろう。またそういうことが理解できる、群れを離れることの寛容度の高い社会になる必要もあるのだろう。
『彼女がイジワルなのはなぜ?』 菅 佐和子編著
彼女がイジワルなのはなぜ?―女どうしのトラブルを心理学で分析!
菅 佐和子編著 小坂 和子 服部 孝子

私たちが心理学に求めるものというのは、日常のいざこざやもめごと、トラブルなどの対処法ではないかと思う。それなのに心理学は心の深層や理論などをあつかう。なんか違うなと思いつつ、心理学の森をさまよう。「HOW TO」が必要なことは忘れるべきではないと思う。
この本では女同士のどこにでもあるトラブルや確執が14例とりあげられていて、カウンセラーが答えるかたちになっている。分析もたしかに大事だけど、もっと対処法や解決法をはっきりと知りたいと思うものである。ときにはその方法だけが必要なほうが多いのかもしれない。間違った迷路にはまってはならない。
トラブルの内容というのは、女子高の仲間に入れてあげた子がぎゃくの立場になると自分を仲間外れにしたといったことや、育児を手伝ってくれ手が離れたときの母の怒り、管理職に登用された女性社員が後進の女性の抜擢をはばんだり、女子大のゼミで教授にひいきにされたために仲間外れにされたり、個人アクセサリーショップに雇ったパート主婦の嫉妬、セクハラを訴えたら同じ被害にあった女性たちに仲間外れにされた、姉のものを奪わなければ気がすまない妹、職場は色男の元恋人だらけといった相談が寄せられている。
私たちは日常のこういった人の行動や人間関係に面喰い、心理学にその分析や解決を求めるのではないか。イタみや悲しみを癒し、対処や解決を知りたいからである。そしてこのように求めた解決法を心理学の森の中からかんたんにひきだすことができないのである。途方に暮れるしかないのである。
ヒドイことをされた、理解できないことをされた――そうして私たちは人はなぜこのような行動や心理メカニズムをもつのか、失望とともに人間性のありようを探ろうとする。そしてその理解できないものとは嫉妬や競争のような公式には悪いこととされていること、社会に表立って表わしてはいけないとされる否定的な感情などであったりするのである。倫理の紙からつき出た人間の悪感情のメカニズムに私はまだまだ子どもであったと悟り、知識の欠落をおぎなおうとするのである。
人間というのは、私にとってヒドかったり、残虐であったり、冷酷であったりする。人はふつう倫理や道徳から私を守るべきだ、傷つけるべきではないというルールがあるはずだ、私はそういう思考の前提で生きている。だからこそ、人とのいざこざやもめごとに面喰う。人間は私にとって残酷や非道であるのがあたりまえだという思考の前提に書き替えないと、私たちは人間関係の波を渡ってゆけないのかもしれない。
嫉妬ややっかみ、競争心というのは、当人にとってはふつうに道に歩いていて、いきなり道端で因縁をつけられるようなものだ。「は? 私がなにかした?」と面喰うのだが、ふつうに歩いているだけでも人の怒りや恨みを買ってしまうのが人間というものの難しさ、奇怪さである。そしてなにも悪気も意図もなかった自分の行動や言動に制限を加えなければならなくなるのである。
人に嫌われたり、恨まれたり、トラブルに巻き込まれないための人間性の洞察が、この本から得られるかもしれない。私たちは道端の群集(世間)にヤジや非難を与えられないために、人の心の奥底にうごめく嫉妬や競争心というものにしっかりと気を配らなければならないのである。
『すぐカッとなる人びと』 クリスチャン・ザジック
![]() | すぐカッとなる人びと―日常生活のなかの攻撃性 クリスチャン・ザジック(2002/03) 大月書店 この商品の詳細を見る |
これは失敗。さまざまな学問的知見を寄せ集めただけのほとんど心に響いてくるもののない本だった。読んでムダ。
あまりにもそっけないので、ふたことほど引用。
「君が傷ついたのは、むしろ、「この男が私を傷つけたのだ」という君の意見なのである」 エピクテートス
「嫉妬はしばしば、恋愛に持ち込まれた、専制へのやみがたい欲求にすぎない」 マルセル・プルースト
『マフィア流 交渉の極意』 丸山 隆三
マフィア流 交渉の極意
丸山 隆三

日本社会は穏やかで信頼できる社会と思われている。しかし一度暴力や憎悪や策略にみちた集団のなかに放り込まれたら、あなたはうまく立ち回れる自信があるだろうか。マフィアはそういった世界を日常として生きているから、そのことについては学ぶものがある。
この本は意外に読ませた。なにより著者の人生がすごい。アメリカで高級ディーラーとして成功するのだが、麻薬取引に手を染めたため、重犯罪刑務所レベル4に9年間も放り込まれることになったのである。凶悪犯の巣窟で生き残るために著者はかつて聞いたマフィアの生き残り方法を実践してそこで生き残らなければならなかったのである。
世界とはこのような凶悪さや謀略にみちた世の中がふつうである。それにくらべて日本人はお人よしすぎるし、人を信じすぎるのである。他国に侵略されたり蹂躙された歴史をもつ人たちのなかを功利的に立ち回ってきた人たちのなかに放り込まれたら、はたして日本人はかれらと互角に闘えるだろうか。たちまちカモやいいようにこき使われるか、消されるかだけだろう。私たちはこのような極限の世界を生きてきた人たちと互角に闘えるわけなどないのだ。
暴力や策略を土台として生きたマフィアは交渉や駆け引きのプロである。そした私たちの日常も、マフィアのレベルになることはないが、怒りや憎しみの関係になると、このような一面をむき出しにするものである。そのようなときにマフィアの生き方には学ぶべきものがあるというしだいである。
これはどんな人でもいつかは人間のこのような面と何度か向き合うときがあると思う。人間の凶暴さや非情さに立ち向かわなければならなくなったとき、私たちは人間のマフィア性を見ることになるのだろう。
「ここでは、力の強い者、資産を持っている者、便宜を図る権限のある者が、強者として生きる権利を獲得するのだ」
「法ではなく、掟が支配する閉じた社会。そこでものを言うのは、力と金と権力だけ。抗争や殺戮と隣り合って生活する日々」
「中でも、もっとも役立ったのは、権力の構造を見抜き、その大本を掌握するやり方である」
「あなたの身になって、あなたが望むようなものを与えてくれる相手など、世の中に一人もいないのだ」
「法は金持ちのためにあり、絞首台は貧乏人のためにあり、正義は愚か者のためにある」――シチリアの格言。
重犯罪刑務所レベル4とマフィアが生き抜かなければならなかった社会は人間の同じような凶暴さや非情さをあらわしている。そしてそれは私たちの日常や社会も一皮向けばそのような相貌をあらわすものなのである。このような人間の一面と出合わなければならない環境に巻き込まれたとき、この本の知恵は役に立つことになるのだろう。
この凶暴さは人間の普遍的なものなのである。けっして重犯罪刑務所やマフィアだけの世界ではない。あなたはこのような世界で非情さや凶暴さの仮面をかぶれるだろうか。
『ヤクザに学べ! 男の出世学』 山平 重樹
![]() | ヤクザに学べ!男の出世学 山平 重樹 (2003/08) 筑摩書房 この商品の詳細を見る |
お断りしておくが、私はヤクザに一度も憧れたことはないし、尊敬することもない。私が学びたかったのは、集団内で憎しみや争いが勃発したとき、どのように関係を渡っていったらいいかということだ。勝つためには、あるいはやられつづけないためにヤクザになにか学べないかとやみくもに、ヤクザの処世術の本に手を出しただけである。
ヤクザとて人間の集団であり、組織である。なるほどビジネスマンもヤクザに学ぶことはあるだろう。ヤクザのほうが人間の集団や構造をよりよく表わしていると考えられる部分もある。あの緊張感や脅しやハッタリ、その対極といえる思いやりや気配り、義理や人情といったものは、なまはんかな企業組織にはとうぜんないものである。
ヤクザはサラリーマンとちがって、自分でシノギを見つけてこなければならない。フリーランスや自営業と近い。そしてお客はカタギの人間である。だから一方では脅し恐がれつつも、営業マンのような穏やかで信頼される商人像も必要なのである。組織内においても義理や信頼がものをいう。オオカミの顔をもち、その獣性をかぎりなく従順な飼い犬のように飼いならす技能も必要なのである。ヤクザは恐怖を元手にした商人ともいえるのである。
この本から私の感銘したところをかいつまんで。ヤクザも真面目じゃなければだめである。新聞に書かれるようなヤクザは決してヤクザではない。抗争事件が起こって、若いヤツが捕まるが、親分が命令を出したのではない。命令されなきゃ若い衆が動かないようでは組織はつぶれるのである。成功は他人に譲り、失敗の責任は自分で負えとビジネスでは言われるが、ヤクザでは組のために働いても見捨てられることがあるのがシビアなところである。
ヤクザもカタギに高圧的にしゃべると怒られるが、なめられてはならない。ヤクザも武闘派と頭脳派の両輪が必要である。おいしい仕事は子分に花を持たせてやると恩を返してくれる。ヤクザの上下関係の厳しさは軍隊と同じだが、この厳しさが組織の強化につながっている。非情さのない人間はリーダーになるな。
ヤクザなんて事件やニュースで知る限りではたいへん恐ろしい連中ばかりだと思うものである。しかし本を読んだりして内実を知るにつれ、ただの人間や集団にすぎないのだというイメージもできてくる。そりゃあ、しょっちゅう、ケンカや抗争を組織内部でくりかえすようでは組織自体がもたないし、命がいくらあってもたりないし、稼ぎもない。自重する部分と脅しのイメージがうまく重なり合ったところにヤクザの成功があるのだろう。
『現代ヤクザに学ぶ最強交渉・処世術』 夏原 武
現代ヤクザに学ぶ最強交渉・処世術 (宝島社文庫)
夏原 武

交渉や処世によって人と駆け引きしたり取り引きしたりする知恵や技術というのはたいせつだと思うが、先を読んだり結果を見極めたりする能力はまたかんたんに身につくものではないと思う。チェスや将棋のように駆け引きの先手まで読めるものなんだろうか。どうも私は駆け引きの先が読めないようである。
ヤクザというのはこのような駆け引きにおいて、功利的にエゴイスティックに自己利益を最優先して動きそうである。ずる賢さや抜け目なさにおいて、私はヤクザなら学べると思った。
この本では交渉や取り込む・ハメる、おだてる・謝る、開き直る、借りる・逃げる、といったさいの交渉術や処世術が事例をもとに説かれている。心理学よりよほど役に立つ心理操作のテクニックが書かれている。だけどこのような技術はどうやったら身につくのだろうと、こういうことにニガテな私は思うのである。人を操作したり追い込んだりすることは功利的であり純朴でないと思ってきた私はどうもその技能が身についていないのである。この本についてはあまり感想が書けないな。
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『ヤクザの実戦心理術』 向谷 匡史
ヤクザの実戦心理術―なぜ彼らの言いなりになってしまうのか (ワニ文庫)
向谷 匡史

なるほどかれらは心理操作のプロフェッショナルなのである。恐がらせて、怖れさせて、実をとる。実戦心理学のツワモノといえる。そういう「ダマし」ともいえるテクニックはこの業界に身をおくことによって身につくのだろう。
ヤクザも依頼者がいなければ商売にならない。かれらの商売というのは人と人とのあいだの利害調整――仲介がおもな仕事である。債権の取立て、地上げ、用心棒、トラブル解決――これらの仕事は依頼からはじまるから、ヤクザも人気稼業といえるのである。
自己演出、イメージが大事だから、金がなくても金があるように見せる。オイシイ話は国産の中古車に乗った男より、ベンツに乗った男にもってゆく。だから高価な服や装飾品を身につけ、財布にはたっぷりと現金をつめこみ、銀座を一巡して羽振りよさをアピールしたり、一晩の大判振る舞いを見せつけたりする。
恐怖や脅しのイメージ戦略を操作する。恐く見られてナンボの世界である。ときには仲間とグルになって劇団まがいの演出をおこなって、カタギをだましたりする。恐怖を元手に人をだます詐欺師のようなものである。
脅すだけではダメである。そんなことをすれば警察に訴えられてムショ行きである。だからお金ですんでよかった、と思わせなければだめである。感謝されなければならないのである。
ヤクザは恐くなくてもいい。恐く見られ、表社会に恐れられればそれで目的は達せられるのである。
かれらの儲け話の操作テクニックや、うまい話の追い込み方は、三段論法のように鮮やかである。感心するのだが、こんなふうに追い込まれるカタギの当事者はたまったものではないと思うのである。
かれらはある特殊なビジネスのプロといえる。人を操作したり、だましたりするビジネスのプロである。心理戦術の技巧や戦略をこらしたテクニシャンなのである。ふつうの人のビジネスや世渡りにもそういう面が必要なのはいうまでもないことだから、かれらの技術には学ぶべきことがあるといえる。しかし脅しや恐怖を与えるような商売はもちろんしたくないものであるが。
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『マキアヴェッリ語録』 塩野 七生
マキアヴェッリ語録
塩野 七生

しみてきた。『君主論』の原著のほうは先に読んだのだが、こちらの塩野七生による抜粋は肝心なところだけが抜き出されているので、心によくしみこんだ。
『君主論』は当時の歴史的状況もながながと記述されていて迷宮入りしてしまうし、こちらのほうは『政略論』や『フィレンツェ史』、『手紙』などの抜粋も、少ないけどあって、まったく損失ということにはならない。
マキアヴェッリは人間性のダークサイドからの処世術を説いたのだろう。善や思いやりで世の中を渡ってゆくこともたしかにできる。しかしそれが権力の場や争乱の場となってしまうと、たちまちそんな生ぬるい処世術は一発で蹴飛ばされてしまう。人間性のずる賢さや残虐さが発揮される場での処世術をマキアヴェッリは説いたのである。
国王の話だからといって、私たちと無関係な話だとは思ってはならない。すこし悪い関係になってしまうと、われわれの属する家族や友人、集団や組織はたちまちそんなずる賢くて残酷な場所になってしまうものである。だからこそ国王なき民主制の時代になってもマキアヴェッリの古典は残りつづけているのである。
「わたしは、愛されるよりも怖がられるほうが、君主にとっては安全な選択であると言いたい。
なぜなら、人間には、怖れている者よりも愛している者のほうを、容赦なく傷つけるという性向があるからだ。
このひと言にマキアヴェッリの人間性の洞察と出発点があるように思う。信頼は裏切られる。しかも信頼されているほうがなおさら欺かれやすいのである。君主には、あるいは人間にはずる賢さや権謀術数が必要というわけである。
しかし、われわれの経験は、信義を守ることなど気にしなかった君主のほうが、偉大な事業を為しとげていることを教えてくれる。
それどころか、人々の頭脳をあやつることを熟知していた君主のほうが、人間を信じた君主よりも、結果から見れば越えた事業を成功させている」
「謙譲の美徳をもってすれば相手の尊大さに勝てると信ずる者は、誤りを犯すはめにおちいる」
けっきょくのところ、人間は尊敬や信頼も大事であるが、最終的に勝つのは力や恐怖をあたえたものなのである。とくに君主や組織のリーダーなどの力の争いの場となりやすいポジションではそうなのである。たぶんにこれが人間性の正しい理解なのだろう。平等や対話などと甘っちょろいことをいってられるのは、そこが権力に守られた場だからだろう。権力に守られていない場所ではひたすら権力におもねるしかないことを人は学んできたはずである。
「人間というものは、必要に迫られなければ善を行わないようにできている」
善をおこなうのは利益があるからである。親切や思いやりを返してくれるし、まずは攻撃や暴力をうけないと思われるからだ。攻撃の防御なのである。しかしもし攻撃されたとき、善や親切には闘うすべがない。ただやられっ放しになる弱さから出た処世術である。
人間に大事なのは力である。権力である。そして権謀術数である。そんなあからさまな指摘がマキアヴェッリのいったシンプルなことだろう。残念ながら私もそう思う。そして権力が隠された生っちょろい理想なんか信じたくない。だからマキアヴェッリのいった処世術は私は助けてくれる知恵になると思うのである。
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『韓非子』
韓非子―ビギナーズ・クラシックス中国の古典
西川 靖二

中国のマキャヴェリズムと称される韓非子。冷酷非情な知恵を学ぼうとしたのだけど、どうも私の目的とちがうことが語られているようだ。
このビギナーズ・クラシックでは君主に知識を説く方法や支配の技術、人間観などがとりあげられている。この本はまだ私の心の琴線にふれない。
非情で冷酷な知恵や態度はどうやったら身につけられるのか。私はこの技術が不足しているために権謀術数の世界で蹴とばされる。あるいは暴力的な環境にいやおうもなく巻き込まれたときにまったく自分を守るすべをもたないのである。非情で冷酷な人間になりたいというわけではなくて、そういう知恵や戦略も人間界では必要だという事実に私もようやく目覚めつつある。
ニヒルで厭世的な世界観を説いた思想家といえば、ショーペンハウアーやニーチェ、マキャヴェッリなどが思い浮かぶが、実践的な非情な方法論を説いた思想家はいるのだろうか。
「いいひと」や親切だけで世の中を渡ってゆけるのがいちばんいい、ほんわかとした人生である。しかし人はいやおうなしに争いや暴力の関係に巻き込まれることがあるだろう。そういうときに非情さや冷酷さの技術をもっていれば、身を助けられるかもしれない。どんな人も一度はそう思ったことはないだろうか。
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『君主論』 マキアヴェリ
君主論
マキアヴェリ Niccol`o Machiavelli

集団の中で生きるわれわれはいつかマキアヴェリに学ばなければならないときがくると思う。集団というのは知らずにすますこともできるが、いわゆる権謀術数や権力闘争といった陰の面がうずまいているものである。
よく聞く女性のグループでの陰口や陰湿さ、男性では派閥闘争や出世争いなどの闘争がとうぜんあるが、またグループでの趣味や行動の同調化も権力闘争の一端といえるのである。この争いを打って出るにせよ、うまく渡るにせよ、権謀術数や策略の知識を得ないことにはパワーゲームの実体すらつかみ切れないというものである。
「いいひと」や思いやり、親切だけでは集団を渡っていけないと感じたとき、マキャベリズムとよばれるものに学ぶ必要が出てくるというわけである。非情さや冷酷さ、権謀術数といった面を身につけたいと思ったとき、マキアヴェリは手にとりたいと思わせる古典なのである。
マキアヴェリのいうように「何ごとにつけても善い行いをすると広言する人間は、よからぬ多数の人々の中にあって、破滅せざるを得ない。したがって、自分の身を守ろうとする君主は、よくない人間にもなれることを習い覚える必要がある」ということだ。
一読してみて私にはいまいちインパクトが弱いように感じられたのだが、文章を再読してみたら、けっこう非道なことが書かれていたことに気づく。私に必要な知識とは、人はいかにしたら冷酷さや残酷さを身につけられるかということだ。この「いいひと」ヅラの仮面がぬぐえないために、どうも私は権謀術数のゲームの中で蹴とばされすいのである。蹴とばされないために非情なキックも必要だということである。多くの人は小学生や中学生で学んで人を平気で蹴とばす人になっていると思うのだが、私は愚かな理想論で人間の現実を見誤ったのかもしれない。
「民衆というものは頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならない。というのは、人はささいな侮辱には仕返ししようとするが、大いなる侮辱にたいしては報復しえないのである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないようにやらなければならない」
「君主たる者は、自分の領民を結束させ、忠誠を誓わすためには、冷酷などの悪評をなんら気にかけるべきではない。あまりにも憐れみぶかくて、混乱をまねき、やがては殺戮や略奪をほしいままにする君主にくらべれば、冷酷な君主のほうは、ごくたまの残酷さを示すだけで、ずっと憐れみぶかい人物になるからだ」
「人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるものである。その理由は、人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害がからむ機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。ところが、恐れている人については、処刑の恐怖がつきまとうから、あなたは見放されることがない」
「現代の経験の教えるところでは、信義などほとんど気にかけず、奸策をめぐらして、人々の頭を混乱させた君主のほうが、むしろ大きな事業(戦争)をやりとげている。けっきょくは彼らのほうが、信義に基づく君主を圧倒していることが分かる」
「人間は邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものでもないから、あなたのほうも他人に信義を守る必要もない」
「なぜなら、人はやむをえない状況から善人になっているわけで、そうでもなければ、きまってあなたにたいして邪になるものだ」
かなりニヒリスティックな人間観であるが、人間は親切や思いやりにあふれた一面を示す反面、いっぽうでは争いや戦いの局面にさしかかると、冷酷非道な面をあらわすものである。この事実に目をふさぐべきはない。これが人間の冷徹な現実というものである。




【追記】ブログ作成中にまたもや「有効期限切れ」をおこして文章を消失させてしまいました。FC2ブログ・ユーザーのみなさん、期限切れの設定変更を知っていましたら、哀れな私に教えてやってください。
『権力に翻弄されないための48の法則〈下〉』 ロバート グリーン
権力(パワー)に翻弄されないための48の法則〈下〉
ロバート グリーン ユースト エルファーズ Robert Greene

権力指南の本はそうないと思う。人に好かれたり、人間関係をうまく渡る方法は自己啓発として多く出されているが、権力獲得のためのハゥトゥー本はあまり見かけない。この本はあからさまな権力獲得の方法が指南されていて、たいへん貴重な本であると思う。
角川から出された単行本、文庫本ともども早くも絶版になっており、下巻を手に入れるためにブックオフを何軒も回らなければならなかった。このようなすぐれた本がすぐ絶版になる理由があるとしたら、歴史から事例をひく内容量があまりにも多いため、敬遠されたのかなと思う。
権力を得る方法が書かれた本はそうない。あからさまな権力志向は私たちの社会ではタブーだろう。サクセスや趣味の本はたくさんある。しかし権力志向は非難されるべき、慎むべき態度とされている。
だが、本当のところは多くの人が権力を志向しているものである。権力という装いをできるだけ隠すのが人間社会のルールとされているから、このような知識が出回ることはそうないのだろうが、だまされてはならない。善や人気を志向していようとそれは権力志向にほかならないのである。権力獲得の行動の中に人間の真実の姿がたくさん垣間見える。
例によって感銘した文章を引用したい。
「われわれは自分の臆病さを、人を傷つけたくないとか怒らせたくないといった他人への思いやりの感情に見せかけることがあるが、事実はその反対で、本当は自己中心的で他人が自分をどう評価するかを心配しているだけなのだ」
「たいていの人が現在の時点にとらわれるあまり、先を見越して計画を立てられない。したがって、目前の危険や楽しみを無視できることがパワーとなる」
「弓を教えてやった者たちはみな、最後には私を的にしようとする」
「みずからの意志と選択によって負った怪我やその他のあらゆる損害は、結局は他人に負わされたものよりも痛みが少ない」――ニッコロ・マキアヴェッリ
「恥ずかしがり屋はちやほやしてもらいたくてしかたがない」
「不安を抱える人は何かによって社会に認めてもらいたがっている」
「王は自分を尊敬することによって、それと同じ感情を他人にも起こさせる。自分の力を信じ、王のように振る舞うことによって、王冠をかぶるべき人間であるように思わせることだ……たとえ自分を欺くようなものだとわかっていても、王のように振る舞え」
「小さい問題に目を向ければ、それが本当の問題になる。敵に注目すれば、それは強大な敵になる。小さな過ちを修正しようとすれば、さらにひどくなり、さらに目立つようになる。ときには放っておくことが最善の策である。欲しいのに手に入らないものがあれば、軽蔑してみせるのが一番だ。関心を隠せば隠すほど、すぐれた人物と思われる」
「「人を尊敬しない者は尊敬される」、イタリアのうまい諺にある通り、無視は尊敬にまさるのである」――アルトゥール・ショーペンハウアー
「重要に見えることの多くが、無視してみると、重要でないことがわかる。……多くの場合、治療自体が病気の原因である」――バルタサル・グラシアン
「考えるときは少数派、語るときは多数派であれ。流れに逆らって泳ごうとすれば、あっさりと危機に瀕してしまう。……意見が相違すれば、侮辱したと見なされる。他人の意見を非難したことになるからだ」
「癇癪はパワーではない。無力の印である」
「友人がほしい者は、自分の所有物を愛してはならない。適切な贈り物をすることで友人を得なければならない」
「先駆者であることは大きな強みであり、その仕事において傑出した才能があればそれは倍増する」
「パワーをめぐる争いにおいては、孤立は死を意味する」
「パワー・ゲームではまわりにいる人びとにはこちらを助ける理由などまったくない。あるとすれば、それは彼らの利益になるときだけだ」
この本は多くの哲人などの引用があるが、とくにバルタサル・グラシアンの引用が多かった。ニーチェやショーペンハウアーはとうぜんとしても、注目したいと思う。




いじめを権力闘争として読む
なぜ人は人を傷つけるのだろう、どうして弱い者いじめをするのだろう、人の嫌がることをなせわざとするのか。
このような疑問の根底には人はやさしく、親切で、親和的であるはずだ、そうでなければならないという前提がある。
しかし人間の人生の最大目的は人との友好や親和にあるのではない。それより優先するのは権力の拡大や増大にあるのではないのか。もし後者が前者より優先されるとするのなら、友好さはうち捨てられ、暴力やいじめ、冷酷で非情な行為はおこなわれる。親和より自己の権力増大が重要なのである。
権力は限られた資源を分配するときに有益な指標となる。オオカミや類人猿などの社会性動物において食糧は権力の順にわりふられ、メスもその順位にしたがってわけあたえられる。その場その場の争いを避けるために順位はあり、権力はその指標となる。
人間ももちろん生まれたときから権力闘争をおこなう。鳥の場合なら遅れた生まれた兄弟をつついて殺すこともあるし、犬なら乳首からたえず遠ざけられる子供は餓死するだろう。こんな極端な例ではないが、人間も同じようなふるまいをおこなうのだろう。兄弟ゲンカは権力闘争の端緒だと考えてよいだろう。
学校に上れば、子どもたちは級友たちと権力争いや順位競争をはじめるだろう。権力を握れば大きな自由や支配力が行使できるし、ぎゃくに序列が低ければ多くの面で割を食う。それは子供のときから大人になるまで人が一生のあいだおこなうことであり、終生終わることがない。
私たちはこのような権力闘争に目をふせる。あたかも人間の一生にはこのような闘争や競争は存在しないという思い込みで一生を送ろうとする。友好的で親和的な関係が人間の集団だと思い込みたがる。それはそう思い込むことで人の友好性をひきだしたり、平和な日常を送れるはずだという願望があるのだろう。まるで権力闘争を目隠しすれば、あたかもそれに出会わないかのように思い込むのである。
このような人間観からすれば、人をいじめたり、冷酷で非情な行為をおこなう人間は理解できないだろう。そんな人間は存在しないはずだ、いたとしてもなんらかの不幸や回線の間違った人間が生まれてきたのだと思い込める。そして私たちは日常にひどい行いや冷酷な行為に出会って面食らい、世の中には理解できないことがたくさんあると嘆くのである。
世の中は権力闘争と思ったほうが見え方がはるかに明瞭になるだろう。親和や友好より、権力の増大のほうが優先順位が高いのである。そして私たち自身が目隠ししていた自らの権力獲得の闘争の行為や方法にうっすらと気づくようになるだろう。私たちがほしいもの、したいこと、それは権力獲得のための闘争ではないのか。
われわれはさまざまなもので権力の増大を謀る。それは一般的なものでは、金持ちになったり、高い地位をめざしたり、優れた知識や技能をめざしたり、友をたくさんもったりといった、ふつうの欲求でさえ、これらは権力獲得のための一手段と見なせるのである。いや、そのような目で見るべきなのである。
権力は私の安全を守る。権力は私の自由を守る。権力は私の支配力や制御力、欲求を満足させる。もし私が何らかの権力をもたなければ、だれかからいじめられたり、虐げられたり、押しのけられるかわからないし、どこから叩かれたり、押し飛ばされたり、自由を制限されるかわからない。人間界のあらゆる怖れから身を守るためには私にはなんらかの、どこかの権力が必要なのである。
学校集団においてもとうぜんのごとくこの権力力学がはたらく。狭い場所の中にむきだしの人間がつめこめられるのである。資源をめぐっての――ここでは自由や支配力、テリトリーなどの目に見えない資源が闘争されるのである。
集団のなかでは権力闘争や序列競争がくりひろげられる。友だちをつくり、仲のよい関係を長く維持するということも、外部に対する勢力や権力誇示になる。ぎゃくに孤立してしまうと、いじめの格好のターゲットになることから、友だちという勢力がいかに身を守る砦になるかわかるというものだ。
いじめられる者は人から自由に扱われる。自分の恥辱や怖れが手玉のように自由に操られる。行動や恥辱の自由権が他人に奪われるのである。このような行為はいじめる側にとって他人の行動権の奪取を誇示することになり、かれは権力や序列の階段をひとつ上にのぼることになるだろう。いわば人の自由権の獲得という権力である。かれは人間の尊厳を奪うという権力をもてるという権力を誇示しているのである。
このような人の自由権や行動権の獲得ゲームはあらゆるところでおこなわれているものである。いちばんの要因は経済的なものによるが、小学校や中学校においてはケンカや気の強い弱いによって決まるのだろう。このような獲得ゲームをとおして、子どもたちはみずからの社会での立場や地位のポジションを教育・修得してゆくのだろう。権力闘争は学校において無縁であるわけがないし、おそらくは少年-青年期のほうが未知数のものを多く含むので、競争が激化するのは避けられないのだろう。
いじめをやめなさいという。しかし権力獲得をやめなさいと人はいえるだろうか。それ以前に人は自分の権力闘争の行為や方法すらよくつかみ切れないだろう。私は権力闘争などおこなっていないと思っているからだ。そして自分のほしいもの、したいことが権力闘争と結びついていることすら思いもいたらないのである。
問うべきことはいじめはなぜなくならないかではない。人は権力闘争をやめることができるのかと問い直すべきではないのか。あるいは権力闘争の制御の方法を探るべきなのである。国際政治では超大国があることによってようやくパワーバランスが保たれ、個々人のあいだにおいては無数の権力増大の手段や方法がこころみられている。この権力闘争がバランスをとることなんてできるのだろうか。教室においても同じ力学がはたらいているのである。まずは権力闘争の真実を見るべきではないのだろうか。
『ワルに学ぶ「実戦心理術」』 ライフビジョン21
ワルに学ぶ「実戦心理術」
ライフビジョン21

まあ、わざわざ書評を書くまでもない本である。あまりワルと思えない記述がたくさん出てくる。ずる賢くもないし、悪賢くもない。商談とかが出てくるふつうの心理テクニックの本である。これくらいの本は手ぬるいと思う私はどこをめざすのでしょうか。。
いぜんに『ワルの知恵本』という本がよく売れたと思う。そのときにつくられた本だと思う。たしかに世の中、お人よしで、やさしいだけではやっていけない場面に出会うことが多々あると思う。ワルや悪に学びたい時もあるものである。「よい人」の皮をかぶった人はいつかそう思うときもあるのだろう。
とりあえず私はマキアヴェリと韓非子あたりに目星をつけて読もうと思っている(amazonリストマニア 権謀術数)。そういえば戦国武将の話というのはこういうずる賢さを身につけるための本だったのかといまさらながらわかったような気がするのである。人でなしにはなりたくないが、ワルの知恵が取捨選択できるような知識のプールはほしいなと思っている。
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『権力(パワー)に翻弄されないための48の法則〈上〉』 ロバート・グリーン

![]() | 権力(パワー)に翻弄されないための48の法則〈上〉 ロバート グリーン ユースト エルファーズ Robert Greene 角川書店 2001-11 by G-Tools |
最高傑作である――世の中、権謀術数とパワーゲームだと気づいた人には。しばらく手元に置き、頭にたたきこむまで何度でもめくってみたい私のバイブルになりそうである。
しかし「いいひと」になりたい人、親切や思いやりが世の中ではいちばん大事だと思う人は間違ってもこの本を開いてはならない。壁に投げつけたくなるだろう。
ずる賢く、利巧に、如才なく世の中を渡ってゆきたいと思う人にはバイブルになり得る本である。だけど世の中の真実とはこのようなものなのである。純粋でヨゴレがなく澄んだ心の持ち主は気づかないだけなのだろう。世の中このようなパワーゲームで動いており、ただ気づかなかっただけなのである。この本を読んで私は積年のパワーゲームの謎がすこしは解けてきたように思えた。
邦題はまちがっている。権力に「翻弄されないための」ではなくて、権力を「得る」ための法則が書かれている。パワーゲームの法則が書かれている。世の中の権力のしくみと、そして権力を操り、権力に押しつぶされないための処世術が描かれている。最高傑作だと思う。
しかしこの本は99年に角川書店から単行本で売り出され、01年に角川文庫に入ったのだが、もう絶版になっている。角川書店は書籍を週刊誌なみにあつかう。上巻はブックオフで手に入れたが、下巻が近くのブックオフを駆け回っても一冊も見つからない。つづきを読みたくてたまらない本なのにくやしい。
おおくを引用したいのだが、一部だけを抜粋しよう。
「つねに善人であろうとする者は、善人でない多くの人びとのなかで破滅さぜるをえない」 ニッコロ・マキアヴェッリ
「パワー・ゲームに意識的に加わるのは反社会的な悪いことであり、そんなものは過去の遺物だと感じている人もいる。そして、自分がパワーとはかかわりをもたないようにしていれば、このゲームから離れていられると思っている。こういう人には用心しなければならない。口ではそう言っておきながら、実はたいへんなゲーム巧者である場合が少なくないからだ」
「多くの人びとが、正直にして開けっぴろげでいれば人々の心をつかめ、自分のよさをわかってもらえると信じている。これはたいへんな勘違いである。正直でいれば、人を傷つけると思っていい」
「沈黙は相手を不安にさせる。……必要以上のことを語らなければ、重要人物、有力人物だという雰囲気をかもしだせる」
「名声は、パワーの礎である。名声を通じてのみ、人は他人を威嚇し、勝利を得ることができる」
「人は謎に魅了される。謎はつねに解釈をうながし、人びとを飽きさせることがないからである。謎めいた人物は理解しえない。そして、はてしなくとらえどころのないものは、パワーを生みだすのだ」
「過去は知識と知恵の巨大な倉庫である。アイザック・ニュートンは、これを「巨人の肩の上に乗る」と称している。……ぜひとも過去の知識を利用するすべを身につけよ。たとえ実際は単なる抜け目のない剽窃者にすぎないとしても、世間は天才と見てくれる」
「パワーの究極のかたちは、自主独立であるという、多くの人がおかしている考えちがいをしてはならない。パワーはしょせん人間関係なしに語れない」
「愛や友情のように微妙で移ろいやすい感情に頼れば、自分の立場が不安定になるだけである。一緒にいるときの楽しさからよりも、失ったときの恐怖から頼らせるほうが確実である」
「自分の必要性を相手の必要性と混同しないことである。大方の人間はここで失敗する。自分の願望や要求に、すっかりとらわれているからだ。そういう人間は、相手が私利私欲を抜きにして自分を助けてくれると決めてかかっている。……だが、たいてい相手はその必要性をなんとも思っていない」
「なんでも流通すれば値段は下がる。それと同じく、あちこちで姿が見られ、声が聞かれる人間は、ありふれたつまらない人物と思われる」
「誰しも自分が隣の人物より愚かだとは思いたくないものだ。ならばカモには頭がいいと思わせてやれ。ただ頭がいいだけではない。こちらより頭がいいと思わせるのだ」
こういうずる賢く、功利的で、権謀数術をはりめぐらすことは、悪くて陰険でいやらしいことに思えるものである。とうぜんである。だれだって親切で思いやりのある「いいひと」になりたいだろう。だけど世の中はこのような権力ゲームでなりたっており、うかうかとしておれば、このパワーゲームにはじきとばされ、いいように弄ばれるだけである。
これが世の中の真実というものである。人は真理を隠して、人にやさしくて「弱いひと」になってもらい、自分だけはぬけぬけと権力を得ようと画策しているかもしれないのである。
この権力闘争というものは知らず知らずのうちに人が身につけ、無意識におこなっているものである。純粋無垢の聖者のような顔をした人も無意識に行使するパワーと無縁ではありえないのである。
たとえこのようなパワーゲームに加わらないと誓うにしろ、世の中の力のからくりを知っておくのはなによりもたいせつな知恵だいえるだろう。人は集団の中でこのようなパワーゲーム、権謀数術をはりめぐらしているものなのである、気づくにしろ、気づかないにせよ。。。
『嫉妬の世界史』 山内 昌之
嫉妬の世界史
山内 昌之

私はあまり嫉妬を感じないらしい。人を羨むということがあまりない、たぶん。はじめから競争や比較を避けるのか。人のことが気にならないのか。自分の楽しみのほうが大事である。
のほほんと暮らしていても人の嫉妬に無関係ではありえない。人の嫉妬や憎悪について考慮できるようにならなければ、世の中渡ってゆけない。
思い出せば弟に母に買ってもらったおもちゃをストーブで焼かれたときには嫉妬を感じないわけにはいかなかったし、友だちとの悪さに加わらないことで難を逃れたことに対する友だちの嫉妬心も忘れられない。なにか私が優秀で優れた成績や業績をのこして嫉妬されたということは、そういう優秀さに無縁の私には経験したことがないのである(笑)。
嫉妬心というのは子どもっぽい心である。正義や道徳に反するはずである。あからさまに表明することは恥ずかしいことではないのかと思うのだが、どうも人間は正義や道徳が行動の第一基準ではないようだ。自分の快や権力の増大が第一義で、道徳や羞恥は放っておかれると考えたほうがいいのかもしれない。
私はこの本を嫉妬心の解明から読んだと

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