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01 01
2013

集団の序列争いと権力闘争

はじめて「スクール・カースト」の名を冠した研究書ですね―『教室内(スクール)カースト』 鈴木 翔

4334037194教室内(スクール)カースト (光文社新書)
鈴木 翔
光文社 2012-12-14

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 ネットではふつうに語られる「スクール・カースト」という言葉だけど、研究書としてはまだ出されていなかったので、はじめてその名を冠した本を読んでみた。

 「ブラック企業」でもそうだったけど、従来のマスコミだけでは掬えない言葉や事象がネットから生まれたことはネットの力を感じさせるね。

 この本はアンケートやインタビューの集計結果の発表のようなかたちになっている。深い考察や問題意識をえぐられるような指摘が乏しく感じられたのはそのせいだろうか。

 まあ、でも言葉にされるだけでも、うわさをされたり、ほのかに認識されていたけど、明確でないスクール・カーストというものがだいぶ姿を現したのではないかと思う。

 スクール・カーストの解明はいじめ解決の直接的アプローチではないが、その土壌から生まれてくるものであるから、学校内階層を解明することはいじめの解決に向けてのステップになるとはなるほど。

 わたしはこのようなスクール・カーストは人間の本性のようなものだから変えられないものだと思っていたが、なんとなく下に思われていたり、引け目や気後れを感じたり、のびのび自由にふるまえない空間を変えるべきだ、根絶するべきだと思っているのは意外に思えた。そのような人間関係などありうるのだろうかと思ってしまうのだが。

 でもこういう学校空間が自己主張や自己表現がヘタで、引っ込み思案の人間を多くつくりだしているとするのなら、教育問題としてこの教室内のスクール・カーストを早く改善すべきではないのか。スクール・カーストは学習や発表の阻害や障害をつくりだす原因そのものではないのか。

 存在を認識されながらもなかなか言語化されなかったり、研究や改善の対象にならなかったスクール・カーストというものは、おそらくだれもがその中の一プレイヤーや駒にすぎなかったからだろう。その人間関係の荒波の中で、権力のオリの中を泳ぎながら、人はこの日々を渡ってゆかなければならない。この知識の有無はその勝敗すら決したかもしれない。秘密や個人機密、秘法のような性質ももっていたのかもしれない。

 スクール・カーストの上位というのは固定して教室で騒ぐ権利を与えられているようなもので、これは「場の運営権」や「場の発言権」に近いものではないかと思った。場所の雰囲気やムードを決定する裁量権を上位グループはもつのである。いわゆる「空気」というやつですね。下位のグループにはおとなしくて、そういう権利が与えられない。

「「下」には、騒ぐとか、楽しくする権利が与えられていないので、「下」のくせに廊下で笑ったりはしてはいけないんです。「ちっ、邪魔だよ。あいつわかってねぇな、不快だ」ってなります。「上」のやつが廊下で騒いでいる分には、「あ、楽しそうに騒いでいらっしゃいますね」みたいな…。「下」にはそういった異議を言う権利は与えられていないので。それ言っちゃたら治安がなくなってしまうし、クラスのポジションが大変なことになっちゃうんですよ」



 スクール・カーストの下位者には騒ぐとか楽しむ、発言するという権利さえ奪われのである。下位のグループがいかに窮屈で、自由を奪われたポジションに甘んじなければらないか。

 だけどカースト上位者も場の雰囲気やムードを決定し、生み出す義務や責務も与えられていて、みんな黙っているときに冗談をいったり、よどんだ空気を一掃したり、教師に冗談をいう手合いも求められる。それで疲れた上位者は学校をやめた生徒もいたということだ。上位者もなにがしかに拘束されるのである。

 スクール・カーストは個人がきょうから急にキャラを変えたからといって順位が変わるわけではなくて、かなり固定的なようなものらしい。

 クラスの上位たちが仲良く結束しすぎると不明瞭だった階層も固定化されて、統一されて支配される勢力に強くさらされることになるから、クラスの結束はある程度ゆるいほうがよかったという生徒もいる。一枚岩の空気はコワいでしょうね。

 生徒たちはこのスクールカーストを「権力」だと捉えていたが、教師たちはどう捉えていたかというと、それを生徒の「能力」の差だと捉えていたらしい。生徒の中には教師は上位グループの権力にすり寄って、かれらから権力を分けてもらうのだと見えていたようだ。まあ、わたしたちも生徒の権力とのつながりに失敗して、なめられたり、相手にされなかった教師をたくさん見てきたのではないだろうか。

 教師のカースト下位者にたいするインタビューの視線がひどいものがのっていて、

「(弱い系のメリット)自己決定しなくて済む。決断力がない人間は、ついていけば済むから楽かな。言われるがままにやってればいいから。だから何も考えなくていい、のほほんとしていればいい」



「(下位のグループにいる生徒は)100%将来使えない。…今年就職活動とかやってるんだけど、結局落ちてきているのはそういう弱いほうだよ。部活もやっていないオタクで、気も弱い感じのほうだよ。…基本的にその強い系のやつらは、うまいから、生き方が。だから、いざというときはゴマすりとかできるから、だからたぶん生きていけるだろうって思う」



 教師にしてはずいぶん他人事の発言すぎる気がするが、この教師がいっていることは「コミュニケーション力」や「世渡り術」といったものはカースト上位者は長けていて、下位者にはそれがない、といっている。人とうまくやる能力、コミュニケーションする能力が、カーストの上位に位置するようなことをにおわせている。そうかもしれませんね。ただこの教師、進路や将来の責任をまったく投げているとしか思えないのですけど。


 人間はなぜカーストのような序列をつくるのかといったテーマは、わたしもいぜん考えたことがある。アメリカの本でもスクール・カーストのような階層も報告されている。イヌとかチンパンジーの動物行動学に示唆されることがいちばん多かったかなと思う。デズモンド・モリスとかね。人間の序列ってノンバーバル・コミュニケーション(非言語的コミュニケーション)とかボディ・ランゲージのほうにより多く表されてきたのじゃないかなと思う。趣味の階層といったものは、ピエール・ブルデューなんかがやっているね。

 動物の序列というのは、限られた資源を順当に配当するための順番性のようなものかもしれない。序列がはっきりしないと争いばかりになる。序列を決め、守ることで、限られた資源の配分を順番に温和に配当することができる。教室の序列というのは、教室の運営権や発言権、決定権という限られたリソースをめぐっての序列じゃないのかなと思う。

 スクール・カーストは根絶や改善できるものという視点に立つことができると、教育や成長の阻害となっていた原因を多くとりのぞけるかもしれないね。いじめ解決のアプローチにも違った面から切り込めるね。この秘密や機密にされていたような人間の一側面が新しく解明されれば、わたしたちはより生きやすい社会に住まうことができるようになっているかもね。


▼スクール・カーストについての参考本
底辺女子高生 (幻冬舎文庫)桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)花とみつばち(1) (ヤンマガKC (864))女子高生 1 新装版 (アクションコミックス)12人の悩める中学生 (角川文庫)

女の子って、どうして傷つけあうの?―娘を守るために親ができること女の子どうしって、ややこしい!女子の国はいつも内戦 (14歳の世渡り術)マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫)チンパンジーの政治学―猿の権力と性 (産経新聞社の本)


09 01
2012

集団の序列争いと権力闘争

『いじめの構造』 森口 朗

4106102196いじめの構造 (新潮新書)
森口 朗
新潮社 2007-06

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 なんだか自信満々で語られており、この本でハイレベルな議論になる、世のいじめ本の九割は妄言だというわりにはたしいて鋭い分析には出会わない本だった。内藤朝雄とか森田洋司、藤田英典の紹介におおく割かれていて、この人たちは妄言ではない一割の人たちなのか。

 スクール・カーストの帯で興味をひかれたのだけど、その記述もべつにたいしてくわしく分析されているわけでもない。だれかスクール・カーストの詳細な分析本を出さないかな。

 いじめの問題は、校内で犯罪がおこなわれており、それがいじめの名の下に犯罪として扱われていないことがいちばんの問題というのは明確な定義。犯罪でありながら、子どもであるとか学校下であるために犯罪としてあつかわれないのは異常なことである。

 わたしも中学のころは校内暴力・暴力階層の吹き荒れる学校時代をすごしたので、二度とあんなところには戻りたくないと思っているのだが、「犯罪」を放置する学校の姿勢のせいだったと思う。暴力者をあっさりと警察につきだしていたら、わたしの中学時代はどんなに穏やかにすごせたか。

 文部省のいじめの統計によると平成17年度のばあい、いじめられた児童の数は全国平均で1000人あたりに1.5人。99.85%の人がいじめのあわなかったことになる。これがつづくと、12年間で一度もいじめの会わない確率は98%強になる。そんなことはありえないだろう。

 学校にいじめの隠蔽体質があるわけではないと著者はいう。外部から隠蔽体質と見えるだけだという。統計調査にいじめありと認めたがらないし、日常的にいじめ主張につきあわされて鈍感になっている、職員室に低次元のいじめがおこっている、危機対応の能力の欠如などでそう見えるだけという。加害者に罪を告白しなさいといっているようなものだと。

 いじめ自殺がおこれば、親は民事訴訟をおこなう。損害賠償義務を負うか否かは、学校がいじめを認識していたか、認識が可能だったか、対処をおこなったかにかかっている。それで「いじめはなかった」といわざるをえないということである。

 出席停止は最後の手段といわれることが多いのだが、学校教育法にはあっさりとほかの生徒に苦痛や損害を与える者、授業の実施を妨げる行為をした者は出席停止になると書かれている。最後の手段ではないのである。

 やっぱり内藤朝雄のいうように学校にあっさりと警察を入れるべきである。市民社会で暴行や恐喝がおこなわれていたら警察に通報するのはあたりまえである。でも学校ではできない。治外法権や警察のない国が学校内にあるのは異常すぎる。


いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)教室の悪魔―見えない「いじめ」を解決するために (ポプラ文庫)いじめとは何か―教室の問題、社会の問題 (中公新書)なぜ、人は平気で「いじめ」をするのか?―透明な暴力と向き合うために (どう考える?ニッポンの教育問題)いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

いじめに立ち向かうワークブック―考え方とどうすべきかを学ぶ 小学校高学年・中学生以上用入門 いじめ対策―小・中・高のいじめ事例から自殺予防までいじめ 予防と対応Q&A73いじめの光景 (集英社文庫)いじめ自殺―12人の親の証言 (岩波現代文庫)

04 18
2010

集団の序列争いと権力闘争

『教育をぶっとばせ』 岩本 茂樹


教育をぶっとばせ―反学校文化の輩たち (文春新書)教育をぶっとばせ―反学校文化の輩たち (文春新書)
(2009/05)
岩本 茂樹

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 これはよかった。すばらしい。わたしの知りたいことがここに書かれていると思った。逐一、隠された情報をもらさないように慎重に読み進めなければならなかった。わたしの「GREAT BOOKS」に選出しようかどうか迷ったが、あまりこの系列の本がないということで選出しておこう。

 関西の夜間定時制高校に通うワルたちの関係や抗争の日常をえがいた教師のルポタージュであるが、フィールドワークをおこなっているといえるか。わたしの知りたいことというのはワルや不良たちが教師や学校となにを抗争しているのかといったことや、強さや力、権力が日常の中でどう誇示され、競われ、呈示されるかといったことだ。まさしくずばりのことがこの本に書かれている。

 このジャンルのことをなんというのだろうか。わたしはいろんなジャンルからこの情報を読みとこうと努力してきた。たとえばデズモンド・モリスの『マン・ウォッチング』やフランス・ドゥ・ヴァールの『チンパンジーの政治学』、あるいはポール・ウィルスの『ハマータウンの野郎ども』といった本や、ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』も合わせていいか。人間が日常の関係の中で力や序列、優越や劣等といった序列をどうあらわし、どのような要素を武器に序列をつくり、ディスプレイし、抗争や認識をおこなっているのかといったことだ。ボディ・ランゲージや非言語コミニケーションにあらわされる権力や序列の関係だ。

 そのものずばりの本がなくて社会学でやっていないかと思うのだが、しかたなく動物行動学の本で探さざるをえないし、ウィルスやブルデューのような本はほかにないかと探してきた。アーヴィング・ゴフマンの権力版・政治版はないかということだ。

 この本の著者は中学の教師を十二年、全日と定時の高校を五年と十二年やってきて、関学の社会学部で教えている。内田樹に本の内容を語り、推薦文が帯に書かれているから神戸女学院にも教えにいっていたのか。内田樹は「教育崩壊」や「戦況報告書」といったワードを重ねているが、人間の権力序列や政治をフィールドワークした本だといえるだろう。人間のボス山争いを言語化した本や試みはそうそうないのである。だれもが日常のなかでくりひろげておきながら、言語化せず、認識もしないジャンルだ。無意識や前意識のなかでひじょうな闘争をおこなっているものなのだが。

 著者は定時制高校に赴任した初日、いきなり呼び捨てで生徒から「おい、岩本。百円やるさかい、ジュース買うて来い」といわれる。この教師の力が上か下か、ヘタレか強いか試しているわけである。無視すればヘタレ(弱い)と見なされ、生徒にいいようにあしらわれる一年間を用意してしまう。著者は「二百円やったら行くけどなぁ」とかわす。著者は評価されたと思っているらしいが、どなったり、怒ったりするほうがおのれの強さや威厳を示せたのではないかと思うが、自分のキャラに合った方法を選ぶのがいちばんなのだろう。

 定時制にかよう生徒はワルや不良や、あるいは不登校や経済的事情で来たりする。昼間働いており、ほとんどオトナのようなものであり、まだ中学の反抗や暴力的傾向をおびていたりする。教師もナマミの人間としての強さや弱さで測られ、生徒たちの序列のなかに組み込まれてゆく。中学からそうで、肉体的な力をもった中学生に人間としての強さ弱さで測られ、ヘタレと値踏みされた教師はずっと生徒にナメられ、まともに授業をうけてもらえなくなる。そういう抗争や闘争――動物としてのハダカの強さ弱さの序列が学校にはあるのだが、実社会よりそうとう厳しい暴力序列があるのだが、まちがって成績のよい高学歴のヘタレ教師が入ってしまったら最悪だ。ほかの民間企業のほうがよほど暴力的序列は弱いといえるのに。わたしの長年の疑問として中学はどうして暴力的序列がはびこる場所になってしまったのかという問いがある。

 この本は教師をなぐっても父親が怒鳴り込んできて退学にできなかった真木という生徒と、中学でワルとして名の通っていた星川のふたりの関係を中心に反学校文化の内実が語られてゆく。星川は著者に絡んでくる人物であるのだが、クラスをひっぱってゆく人物として著者は判断する。ボスや序列を教師は読んで、関係を結んでゆかなければならないのである。定時の高校生は昼間働いており、喫煙や飲酒がいっしゅ公然として許される社会に一歩ふみいれており、しかし高校では許されないふたつの社会を行き来している。その合間をうまく立ち回ることに「抵抗のエクスタシー」があるのだと著者は読む。ほかに生徒のいたずらは退屈な日常と変化の乏しい日常生活にドラマやカーニヴァルをあたえてくれるプレゼントだと見なしている。

 定時にかよう女生徒は昼間の生徒からさげずんだようなことばで「テイジ」といわれ、すごく落ち込むのだが、不良の格好をすることが屈辱的な思いをさせた女たちに暴力ではなく黙らせることのできる武器であることを悟り、金髪とミニスカートいう不良の格好であらわれるのである。もはや教師の権力に近い力が付与されたことを知るのである。高校の制服というのは序列化された学校間格差のシンボルである。生徒たちは制服や頭髪に変形をくわえることによって抵抗というアイデンティティを手に入れるのだが、制服が自由化されればそのアイデンティティがなくなってしまうので、ワルたちはあわてて制服への復帰を願うのはこっけいであった。

 第五章の「蟻地獄」の章で著者、岩本の胸ぐらをつかんだ生徒の処分をめぐる騒動が書かれている。けっきょく非があるのは岩本のほうであるという生徒の証言を教師たちが肩をもったことで、処分に白黒がつけられない結果に終わってしまった。著者は教師同士はおたがい守りあうという信頼を打ち砕かれる。教師のつながりより、生徒とのつながりが教師には大事なのである。教師は上から権威として投下されるのではなく、生徒の序列と関係のなかでつながりを維持していかなければならないのである。著者には事件のそのとき無関係な質問をしてきたある女生徒の物事を消し去ろうとした行為にあとからながら敬服するのである。

 第六章の「分かち合えない関係」では「殺すぞ」と脅した生徒と教師間の処分の交渉が描かれている。岩本はまたしても教師と生徒たちのタッグに歯がゆい思いや幻滅を感じる結果に終わるのだが、自分の心の傷と無念さが語られている。著者は親密さをもとうとした生徒に冷たい拒絶をうけて消沈の心を謝罪で回復しようとしたのだが、はかの教師との親密さをあてつけられてしまう。この章で著者は親しさの拒絶に「泣いている」と思われるのだが、この生徒は教師の親しさの接近を警戒して、拒絶したのではないかと思う。教師にとりこまれたくなかったのだろう。距離感の失敗である。親しい人からの拒絶ほどショックなことはないのだが、著者はその心の回復を処分という教師の特権で計ろうとしたので、負けてしまったのだと思う。

 七章では赤点を変えろという親との交渉がえがかれている。根底には生徒たちの能力を常日頃からバカにする教師との確執があって、生徒は抗議や改善を要求していたのだが、その私憤を教師が赤点をつけることによって晴らしたという疑念があった。モースの『贈与論』が出てくるのだが、とうとつという感じがする。八章ではすっかりおとなしい生徒として偽装した生徒がじつは暴走族のヘッドだったという話が出てくる。どうやって学校文化にとけこんでゆくのかはらはらしながら読んだ。

 長くなってしまったが、この本には強さやパワーゲームの言外の意味や記号を読みとく情報がたくさんつまっていると思う。交渉やパワーゲームの宝庫や発掘所だ。どうやって序列が測られ、どうやって序列づけられてゆくのか、序列の優劣はどこでなにによって位置づけられてゆくのか、そういった記号や意味がたくさんつまっている。その記号をたくさんのこしておくためにはルポタージュのような関係の記述がいちばん適しているのを著者は知っているのだろう。

 この本はまさに「サル山のボス争い、権力闘争」が描かれた本だと思う。人はなぜかその現実を記述化、言語化してこなかった。手の内を見せられないということか。あるいは日常のパワーゲームや権力、序列といったものはタブーであり、人に見せるものではなかったのだろうか。われわれはだれしもがこのパワーの網の中をくぐって大人にならなければならないのに、学問はこの言語化、知識化を拒んできたのである。この本はその風景を言語化、意識化しようとした試みになるだろう。反学校文化を記述しようとした試みなのであるが、われわれの日常の権力序列のありかたも曝し出すゆたかな本になっている。こういう記述って教育関係の本にたくさんあるのかな。巻末に参考文献をあげてほしかった。


人間の権力序列
マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫)チンパンジーの政治学―猿の権力と性ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー儀礼としての相互行為―対面行動の社会学 (叢書・ウニベルシタス)

04 09
2010

集団の序列争いと権力闘争

映画『グラン・トリノ』にみる男の名誉と侮辱


B001V9KBSAグラン・トリノ [DVD]
ワーナー・ホーム・ビデオ 2009-09-16

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チキンな少年に教えるアメリカの男

 クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』をみた。男らしさとはなにかと教えようとした映画だったと思う。

 そして男らしさを身につけることはどこの国の少年にとっても普遍的な通過儀礼だ。日本でも大なり小なりこの映画のような経験をして大人になってゆく。ワルやケンカの関係をやりすごしながら、自分のポジションをつくってゆくものだ。

 男として生まれたからには男らしさや男としての強さが求められる。けなされたり、からかわれたりしない強い男の評判を男はつちかわなければならない。男としての名誉やプライドは自分で守らなければならない。いちどヘタレやチキンだと思われてしまうと、ずっとパシリやいじめのような目に会ってしまう。男らしさや強さは自分で守り、維持してゆかなければならないのである。

 この映画に出てくるアジア系の少年タオはほかの白人グループからからかわれたり、侮辱されても、反撃もしないし顔もあげないチキン(腰抜け)な少年だ。ワル仲間にむりやり誘われて、となりのウォルト(イーストウッド)のグラン・トリノというクラシック・カーを盗もうとしてしくじってしまう。ワル仲間の誘いをウォルトが助けたためにアジア系のコミュニティからウォルトは英雄あつかいされ、食事がたくさん運ばれてくる。ウォルトがこのチキン少年に男らしさや強さを教えることになる。

 かつてフォードで栄えた自動車のデトロイトの町もアジア系の移民たちにあふれかえっている。人種差別者のウォルトは苦虫をかいみつぶすように嘆き、つばを吐く。さまざまな人種がいりみだれて、男の強さや名誉が競われ、維持される。黒人のグループにからまれたアジア系の少女をつれた白人少年は手を出せず、ウォルトが助けることになる。白人少年は黒人にくらべたらチキンであり、ウォルトが息子たちとうまくいかないのもこんなところにあるのかもしれない。へなちょこな頭でっかちの童貞男の牧師はとうぜん相手にしない。

アメリカの男の名誉と暴力

 この町はアメリカの北西部に位置するのだが、南部の男たちは男の名誉を傷つけられるのなら暴力も辞さない、たとえ命を失うことになっても名誉を守ることが大切だと思っている。いちどなめられたら、男としての名誉やプライドが保てないと思っている。映画をみてひっかかることがあったので中央図書館でみつけたニスベットとコーエンの『名誉と暴力――アメリカ南部の文化と心理』にはアメリカ南部の男たちがいかに名誉を大事にするかの話がたくさん出てきて、まるで『グラン・トリノ』の解説をされているようだった。北部はそうではないようなのだが。

4762826731名誉と暴力―アメリカ南部の文化と心理
Richard E. Nisbett
北大路書房 2009-04

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 この本では南部のルーツである牧畜文化の男たちは弱さを見せると家畜を盗まれたり家族に危害がおよぶかもしれないから男としての強さや名誉を保つ文化が発達したのだという。また警察力が弱い土地ではみずからが強さを発揮して家畜や家族を守らなければならない。だから男としての強さや名誉は命とひきかえにするほど大切なものになったのだといっている。男としての名誉や自尊心は命とひきかえにしても守らなければならないものなのだ。ウォルトは南部の男たちの男らしさをひきついだアメリカの男なのかもしれない。『ダーティ・ハリー2』では自分たちで悪人を殺してゆく自警団が生み出されていたし。男が名誉や自尊心を守ろうとするのは警察や規範が届かない関係の中で勝ったり、フェアな関係をきずくために必要な顔パスなのである。

B002UVJQU2ダーティハリー2 [DVD]
ワーナー・ホーム・ビデオ 2009-11-18

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■『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に語られた男の名誉とチキン

 この映画とだいぶ遠い気もするのだが、85年大ヒット作の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティーもビフ二代にからまれ、「チキン」といわれれば逆上して失敗してしまう典型的なアメリカ的男らしさをもった少年だった。マーティーのお父さんジョージはビフ父にいじめられ、からかわれる典型的なチキン男だった。マーティーは侮辱の挑発にかんたんに乗せられる文化圏の男だったのだ。男の名誉ゲームの克服がこの映画のテーマだった。父ジョージはチキンだったから男らしさの獲得が課せられ、のちの母となる女性の獲得が命題であった。この映画の大ヒットから人がいかに名誉や男らしさに敏感に反応するかよくわかるというものである。重要な社会技術なのである。

B0026P1KL0バック・トゥ・ザ・フューチャー 【プレミアム・ベスト・コレクション1800円】 [DVD]
ジェネオン・ユニバーサル 2009-07-08

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▼チキンで愛しきジョージ・マクフライ



 アメリカでは黒人のあいだでダズンズというゲームがある。母を侮辱していいかえせなかったり、怒ったら負け。名誉や自尊心を守ったり、あるいは侮辱されても負けない精神力がめざされるのだろう。差別されてきた黒人である、男らしさや名誉、自尊心の制御やコントロールははやくから訓練されてきたのだろう。日本でおこなわれのはせいぜいにらめっこか、「おまえの母さん、出ベソ~」くらいである。顔をつぶすような自尊心の訓練はおこなわれず、いじめのようなかたちで顔を恒常的につぶされることになる。

男らしさと挑発と際限ない強さのゲーム

 少年タオにウォルトが男らしさを教えるシーンがある。ウォルトが散髪屋に「このイタ公」といえば、散髪屋は負けずに「このポーランド野郎」とやり返す。侮辱や攻撃のことばを吐いても信頼があると言う関係をちゃんと築いているわけだ。男たちには侮辱の言葉には負けない強さがあるという自負をつちかっているというおたがいの認識があるわけだ。これが鍛えられた男だという手本を示すのである。

 しかしウォルトはミスをしてしまう。挑発にのってしまう。タオにやった工具がつぶされ、ワル仲間の一人にヤキをいれてしまう。ギャングたちは納まるわけがなく、報復に家を襲撃し、姉のスーの顔面をつぶしてしまう。とうぜんウォルトもタオも復讐心に駆られ、怒りに燃える。ウォルトがとった行動は復讐心に燃えるタオを地下に閉じこめ、みずから挑発のワナにかれらをかけ、殺人という警察の手にかかる法を選んだのだ。さいごにウォルトは報復を封じ込めるという上手の方法でかれらに勝ったのである、みずからの命とひきかえに。

  怒りや報復の連鎖というものはすくなからずの人が経験するものである。怒っていて相手をどうにかしたいと思っていたり、相手から怒られたり、目をつけられたり、怒りや報復の関係がどこまでもつづき、とめどもない関係におちいることがある。紛争解決のスキルというのはなかなか人の知恵ではもてないものである。こういうときに人はどう解決するんだろうと思う。怒りは挑発や呼び水をよび、怒りの感情の止め方を双方はわからない。怒りの感情にまかせて暴力に身を任せてしまえば、負けかもしれない。ただし学生のときには暴力をふるったくらいで警察が介入はしないので暴力は際限なく怒りの激情にのみこまれるかもしれない。いじめの連鎖や際限のなさはこれと似たところがあるのかもしれない。名誉ゲームはどこまでもエスカレートし、とめどもない関係におちいる危険と隣り合わせである。ヨーロッパでは名誉を守るために決闘がおこなわれたということだし。

日本の男の名誉といじめ

 日本でも男の名誉と侮辱のポジショニング闘争はとうぜんおこなわれる。だれでも男同士で競ったことやケンカ、またワルや男として粋がること、自分の顔を守るということをやってきたと思う。男の名誉の文化は日本の中にもとうぜんある。わたしの経験では中学のころがワルや暴力で男の名誉がいちばん競われたころだと思う。それはひどい暴力や冷酷さ、残酷さが支配する名誉と侮辱のゲームであったと思う。そこで少年は男としての名誉や強さを獲得してゆくのである。道徳的にこの闘争を嫌ったわたしはとうぜんに負け男であった。道徳や思いやりを重視し、男らしさの獲得に距離をおきたいタイプであった。チキンで弱虫であったわけだ。

 男の名誉の闘争ゲームはとうぜんに敗者や負け犬を生み出す。学校で問題になるいじめや不登校、ひきこもりなどはこの残酷で暴力的な名誉ゲームから生み出されるものだろう。学校で名誉闘争がしじゅうくりひろげられるとしたら、レスリングやケンカがしじゅうおこなわれる環境であったら、とうぜん敗退や撤退したい者たちがあらわれるだろう。いじめは男の名誉や顔を恒常的につぶす関係が継続するものである。かれの男の名誉、強さ、誇りやポジションは徹底的にひき剥がされるのである。

 動物としての闘争に教育者や保護者は手を出せない。われわれのだれもが名誉闘争をおこなう当事者であり、日々、名誉闘争をおこなうプレイヤーであるからだ。すべての人間がゲーム参加者であり、当事者である。ジャッジメントや遠くから、高みからチェスの駒を動かす神の立場にだれもなれないのである。かれこそが最前線に立つプレイヤーだからこそである。かれもゲームに勝ち、負けたり、チキンになってはならないのである。権力の闘争ゲームは教育者の組織や集団で日々競われているものだ。だれもが安寧や絶対的な安定したポジションには座っていないのである。とくに権威者や高いポジションにいる人間ほど闘争は激しいものなのである。

アメリカの男の継承

 男は男らしさや名誉をいつまでも保持し、維持してゆかなければならない存在である。クリント・イーストウッドの西部劇やダーティ・ハリーなどを見るとクリント・イーストウッドはずっと男の強さ、名誉にこだわってきたことがうかがわれるというものだ。男のカッコよさが追求されてきた。ただしイーストウッドはシュワルツェネッガーやスタローンのようなマッチョな強さを求めるタイプではなかった。やせていたから、知性やインテリさを感じさせる強引さや無茶をおこなうカッコよさを追求したと思う。

 イーストウッドはアメリカの男の名誉を『グラン・トリノ』でアジア系移民であるチキンな少年に教えた。からかわれるだけの存在ではなく、人種差別的ことばを信頼やジョークをふくんだうえで発する関係をつくることを教えた。けっしてワルとしての強さではなく、労働をおこなうアメリカの男の名誉を教えた。アメリカの男の名誉での強くなることは求めたが、さいごに挑発や一方的に勝つだけではない負ける、一歩ひく男の強さを教えた。アメリカの男の名誉はアジア系移民の少年にグラン・トリノや勲章をゆずるというかたちで継承されたのである。





名誉、男らしさで検索してみました。(わたしはワル集団やギャングの名誉やプライドを知りたいのですけど)
名誉と順応―サムライ精神の歴史社会学 (叢書「世界認識の最前線」)華族誕生―名誉と体面の明治 (中公文庫)武士道その名誉の掟 (江戸東京ライブラリー)中世の紋章―名誉と威信の継承 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)

図説 決闘全書決闘の話男の歴史―市民社会と「男らしさ」の神話 (パルマケイア叢書)「男らしさ」の神話―変貌する「ハードボイルド」 (講談社選書メチエ)

男性のジェンダー形成―〈男らしさ〉の揺らぎのなかで男性史〈3〉「男らしさ」の現代史「男らしさ」の心理学―熟年離婚と少年犯罪の背景 (ポピュラーサイエンス)非行のリアリティ―「普通」の男子の生きづらさ

「男らしさ」の人類学
「男らしさ」の人類学

決闘の社会文化史―ヨーロッパ貴族とノブレス・オブリジェ
4590009064


11 14
2009

集団の序列争いと権力闘争

『男には七人の敵がいる』 川北義則


男には七人の敵がいる (PHP新書)
川北義則

男には七人の敵がいる (PHP新書)


 だれでも人と仲良くしたり、人から好かれたいものである。だけど人から嫌われるのを恐れすぎたり、敵をぜったいにつくらないという「いい人」をめざしすぎるのも問題である。というか不可能だし、自分を殺しすぎたら自分の人生も生きられない。

 敵はできてしまうのだし、性格や考えがちがうだけで敵になるし、また偉くなったり勝とうとするだけで恨みや嫉妬を買って敵は生まれる。なにをしたって敵は生まれてしまうものだと覚悟や前提をもたないと、つきおとされたり、不可能な試みに人生に疲労困憊してしまうことになる。自分らしく生きるためには敵をつくってしまうしかないのである。

 嫌われる、人から嫌われていると思われることを恐れるために、評判ばかり気にする人がおおいようだが、けっきょくそういう人生は評判のかわりに自分の人生も生きられないし、勝つことも偉くなることもほしいものも得られない人生を生きるだけだ。ほしいものを得ようとしたら敵が生まれ、嫌われる、その覚悟は必要だ。敵をつくってもほしいものを得る、そういった人生観も必要かもしれない。

 さっこんではいい人に思われようとする人がだいぶふえて、アダルト・チルドレンという名称で呼ばれたりするが、学校集団や職場集団でそういう規律をつよく刷り込まれてしまうのだろう。そういう訓育された生き方は生命の生きる力を去勢された不自然な生だ。平和でゆたかな社会がつづいたせいで、エネルギーのない生き方が善になってしまったが、流動や変化のある時代にはおしのけられて、殺されてしまうだろう。

 「草食系」ともよばれたりするが、ある意味、老荘的な生き方は達観した生き方だが、これからベクトルはエネルギーのあるほうに向けたほうがいいだろう。中島義道は『カイン』などで、あえてこういう時代に自己中心、自分勝手な生き方を提唱したが、生命力が殺されているという危機感は感じたほうがいいのだろう。マキアベリ的な生き方も必要ということである。

 この本ではどんなに身近で親しい仲でも敵や裏切りに会ってしまうのだという警告をあたえてくれる。親や子、信頼した友も敵に転嫁する。身内の存在だからこそ、強烈な敵になるのだと自覚したほうがいいだろう。妻はべつの可能性を奪ったがゆえに潜在敵になり、親子の愛憎劇は根本的なものだと考えるべきである。夫婦や男女関係はおたがい利益を共有する関係だから衝突もおこりやすいだろう。自分でさえ敵になる。

 敵というのは宿命的に存在して、それとどうつきあうかが人生というものかもしれない。勝つだけでは敵だらけになるし、負けを先どりしすぎても人生を生きられない。かねあいをよく考えるべきだ。敵を回避しすぎる生き方は考えものだろう。

 人間というものは生まれたときから動物的な序列競争や階層闘争をしているものだ。そのために友という勢力や防壁が必要だったり、趣味や遊びがあり、ゲームやスポーツがある。それらは敵をめぐっての攻防といえるかもしれない。人間という種の食料や資源をめぐっての序列闘争が根本にある。勝たなければ、強くなければ、人とうまくやらなければ、序列の下におしつけられて満足な食糧も資源も得られない。だから序列秩序があるのである。敵は必然である。資源が有限である以上、奪い合いは避けられず、それが生命の限界というものである。敵との関係は生存の戦略と考えるべきなのかもしれない。

 いぜん私は職場で集団の対立や闘争という荒れ果てた環境に落ち込んでしまい、つくづく人間の闘争や対立という関係について考えなけらばならなかった。人とうまくやりたいけど闘争や対立、嫌われること、敵は生まれてしまうのだと思わざるをえなかった。

 ブログのカテゴリにある「集団の序列争いと権力闘争」というテーマでなんでこうなってしまうのだろうと考えた。人間はそういう存在で、その闘争の中で生きるしかないのだと思わざるをえなかった。集団の中でいじめや闘争はどうしても生まれてしまう。回避だけでは生きられない、闘わなければならないものが人間という動物かもしれない。敵とのつきあい方が人生の質を決めてしまうのかもしれない。


敵と闘うための本
カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ (新潮文庫) 権力(パワー)に翻弄されないための48の法則〈上〉 (角川文庫) チンパンジーの政治学―猿の権力と性


1分で大切なことを伝える技術 (PHP新書) 接待は3分 (PHP新書) 一流の男、二流の男―どこが、どう違うのか 逆境を愉しむ身軽な生き方 回復力~失敗からの復活 (講談社現代新書)
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09 30
2009

集団の序列争いと権力闘争

『職場はなぜ壊れるのか』 荒井千暁


職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理 (ちくま新書)
荒井千暁

職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理 (ちくま新書)


 ああ、二重の後悔。この本は二年前に読んでいたこと、そして書き終えた書評が消えてしまった。あらためて書き直す。

 この本はタイトルには惹かれるのだが、内容のほうはほとんど印象に残らない。だから読んだことすら忘れて再購入してしまうような本だった。まあ、なんにも語っていない。

 私は「職場はなぜ壊れるのか」ではなくて、「職場の人間関係はなぜ悪くなるのか」のほうを問いたかった。悪意や憎しみ、怒りなどが職場でなぜ生まれ、うずまくのか、そういう理由のほうを知りたかった。

 ブラック企業の事例をならべて、なぜこのようなブラックな職場や人間関係になったのかと分析するような本がよかったかもしれない。そこには業務面からの理由や、人間的要素からの理由などいろいろな面があるだろう。私はできればブラック予防の方法を知りたいのである。ブラックな環境の中での賢明な世渡り、対処法を知りたいというわけだ。

 この本はおもに成果主義の功罪のようなものが書かれているが、素描やエッセイのようなもので心に響かない。やっぱり職場の人間関係の根本的な問題を探ってほしかった。

 産業医によって書かれた本だが、産業医はなんらかの有益な仕事ができるのか疑問に思えてくる。ただ状況を語ったり、分析するだけではブラックな職場は改善されないし、けっきょく問題は個人の治療で終わりになりそうだし、職場の環境は変わらないままだという気がする。産業医は社会心理的な解決の方法をうちたてられるのだろうか。


関連書評
 二年前の書評。こんかいと変わらないことを思っています。
 『不機嫌な職場 なぜ社員同士で協力できないのか』 高橋克徳・河合 太介ほか
ブラック企業の闇―それでもあなたは働きますか?』 ムネカタ スミト

こんな上司が部下を追いつめる―産業医のファイルから こんな上司が部下を追いつめる―産業医のファイルから (文春文庫) 職場いじめ―あなたの上司はなぜキレる (平凡社新書) 成果主義とメンタルヘルス 勝手に絶望する若者たち (幻冬舎新書)
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11 25
2008

集団の序列争いと権力闘争

『マンガでわかる売れる営業マン売れない営業マン』馬渕 哲+南條恵


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マンガでわかる売れる営業マン 売れない営業マン―ちょっと「できないフリ」がお客の心をつかむ (PHP文庫)
馬渕 哲+南條恵

マンガでわかる売れる営業マン 売れない営業マン―ちょっと「できないフリ」がお客の心をつかむ (PHP文庫)


 ぷっとんだ。こんなことをいっていいのか、ここまであからさまにいっていいものか、驚いた。

 この本でいわれていることは「できない営業マンのススメ」である。つまり「劣位」、「劣った人」のススメである。営業マンは「できない」からこそ、客に安心されて仕事を頼まれるというのである。営業マンはできないことによって客に好かれるのが仕事だというのである。

 たしかにふつうの人間関係でも、「できない」「劣った」人に安心したり、親しみを感じたり、つきあいたいと思うものである。しかし「劣位」を戦略にしたり、商売にしたりしていいものだろうかという気もするし、なによりも人が知らず知らずのうちに用いている「劣位の戦略」をこんなにもあからさまに明文化したことに少々のやましさを感じてしまう。劣位であることは意図や工作であることに気づいた瞬間にその純朴さを失ってしまうものである。

 われわれの社会というのは優秀なスキのない人より、できない、劣位の人に気を許したり親近感を抱くものである。それはけっして意図的でも戦略的でもないと思われている。ほんとにバカだとか愚かだとか思われている。だからその人から傷つけられることがない。自分が劣位にならないからだ。社会というのは優位な人より劣位の人によって回っているといったほうがいいだろう。しかしこの劣位さをけっして目標にしたり、戦略にしたりしているわけではない。劣位であることによって人に好かれるという行為は、意図的におこなわれているとはわれわれは思っていない。だから彼は安心して、好かれるのである。これを戦略にしたり、目標にすることは、彼の劣位に裏切られてしまうことになってしまう。

 ニーチェはキリスト教的な道徳、つまり善を志向することは、人間のレベルをひきおろすことだ、畜群になることだと激しく罵ったが、われわれの人間関係において、劣位になることによって人に好かれる、人とうまくやるという行為がごくあたりまえにおこなわれるものである。つまり善人、人から好かれる人になるということは劣位の人間になることなのである。だから超人や優秀な人間を理想としたニーチェははげしく善を呪ったのである。劣位の人間になることを目標にしていいものだろうかという気がする。たしかに人間関係では劣位の人間が好かれ、いい人だ、親しみやすい人だと思われるものである。しかしそれは優秀さや優位の破壊でもあるのである。

 道徳の系譜 (岩波文庫)善悪の彼岸 (岩波文庫)

 人間というものは人とのつきあいのなかでたえず自分が相手より優位か劣位かと測っているものである。勝ち負けの感覚は私たちの根底にあるものである。できる営業マンは優秀であるがゆえに大半ができない客を傷つけてしまって客に好まれないとこの本はいう。対して劣位であるできない営業マンは客に安心感をもたれたり好かれたりするので、仕事を多く頼まれることになるというのである。まったく鋭い、人間関係の妙を鋭くえぐりとった観察なのであるが、しかしこれは言語化・意識化されていいいものだろうかという危惧も感じる。劣位はずぶのままに劣位であるからこそ安心されるのだが、それが戦略や意図になれば、真の劣位さは保ちえないわけだからだ。

 この本は恐れ入った。人間の優位と劣位の断面で、社会や人間関係を切りとる観察というものはそうないものだからだ。私たちは人間関係を生きるうえで賢明に優位と劣位の序列秩序を学び、知らず知らずのうちに優位と劣位のディスプレイをおこなっているものである。しかしそれはほとんど意識化されないというか、無意識におこなってしまうものである。身体は知っているのだが、意識は気づかない、そういった優位と劣位のディスプレイをおこなっているものである。よくこの本はそんな鋭い観察眼でこの真実を切りとったものだと思う。へたしたら、人類学、社会学レベルのかなり卓越した業績ともいえるのではないかと思ったりする。

 このような優位と劣位のディスプレイを深く観察した書物として、デズモンド・モリスの『マン・ウォッチング』という本があった。どのような姿勢が優位のディスプレイになるのかとか、劣位はどのように表されるのか、気に入ったもの同士の姿勢反響など、人間の身体やなわばりが表す記号やメッセージを読みとった稀有の書物であったと思う。これはみなさんに一度は目を通してほしい書物である。人間が動物としてどのようにメッセージを表わしているのか鋭く洞察したのである。

 マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫)

 この本は優位アクションと劣位アクションという断面で、デズモンド・モリスの観察眼を超えたというか、詳細を極めた本として瞠目の書物であると私には思える。ビジネス・ハゥトゥ書だから私の「GREAT BOOKS」にしようかどうか迷ったが、インパクトと洞察眼は一級のものと見なしていいだろうと思う。

 恐るべし本である。私は自分に問い直したくなった。ふだん私は優位アクションをおこなっているか、それとも劣位アクションをおこなっているか。そして私の人間関係の戦略として、優劣どちらのアクションやかかわりタイプをもっているのだろうか。私はどちらかというと劣位アクションのほうが多い、ふだんひんぱんに失敗や情けないことの表出をおこなってきた気がする。そうすることが無意識に人から好かれたり、安心されたりすることを知っているからだろう。そしてそういう行動枠が自分の「できる人」や「優秀である」という目標を抑え、自分をできない、失敗する人に抑えこんできた気もしないわけではない。交流分析でいうところの「人生脚本」というやつである。

 人に好かれることの劣位性という問題は複雑でなかなか難しいものなのである。人間というものは優位と劣位どちらをめざしたほうが生きやすいのだろうか。ふつう人間は優位をめざせ、権力や地位などの優位性が目標だと思われているが、けっこう劣位を目標にした、劣位であることに快適で人間社会を渡ったりするすべを身につけているものである。劣位の効用や役割も忘れてはならないのである。


著者のかつて読んだ本の書評
マンガでわかる良い店悪い店の法則』 馬渕 哲 南条 恵

マンガでわかる お客様が感動するサービス (日経ビジネス人文庫) ひと晩で儲かるお店に変える接客力! (PHPビジネス選書) マンガでわかる良い店悪い店の法則 (日経ビジネス人文庫) 営業マンこれだけ心得帖 「A4一枚」仕事術
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08 18
2008

集団の序列争いと権力闘争

『友だち地獄』 土井 隆義

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友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書 710)
土井 隆義

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書 710)


 友だち関係や集団関係の維持には私もたいそう悩まされてきた。私は中学のころから友だち関係の維持がめんどくさいと思いはじめ、ひとりになりたがる傾向が強くなった。二十歳以降は文学や現代思想、社会学を好み、画一化・規格化される集団というものを嫌い、集団から外れる方向ばかりに走ってきたと思う。そのような私にとって、この本はずいぶん自分の感じてきた問題と重なるものがえぐられていたと思う。

「今このグループでうまくいかないと、自分は終わりだ」と思ってしまう。

仲間内の人間関係の維持はあまりにもエネルギーを要するものであるため、その関係の中身を吟味したり確認し合ったりする余裕はなく、互いにつながっている時間をひたすら費やしていくだけで精いっぱいである。しかし、そのために何かにいっしょにコミットしていなければいけない。そうしなければ、つながっている時間を保つことすらできない。……いわば物理的につながっているしか術がない。

「優しい関係」は、強迫神経症のように過同調を互いに煽りあった結果として成立しているので、コミュニケーションへ没入していない人間が一人でもいると、その関係がじつは砂上の楼閣にすぎないことを白日の下に晒してしまう。王様が裸であることには皆が気づいているが、それを指摘するようなシラけた態度を誰も示してしならない。

「今は中学生はもちろん小学校高学年ごろから群れていないと不安で、そこにしか生きる世界がないんです。行動規範は仲のいい友だちグループだけで決まっちゃって、そこから弾き出されたら生きていけない」

「あたしの身体にはなにひとつ傷がないのだけど、ただっぴろい教室の中みんなはグループで固まり独りぽつんと机に向かうあたしに刺すような視線を送ってくるし友達には裏切られてしまっているし、何より独りでいることをハブられていることを見られるのが嫌で、そんなあたしをみんながどう思っているのかと考えると恐怖だった」



 いまの時代というのは小集団の維持がますます至上目的となっているようである。ひとりになると居場所がなくなるから、いつも群れていなければならず、かといって群れつづけることは不快で不自由であるし、自由でもない。おまけに集団というのは画一化を要求するものである。似ている者、好きな者同士は同じことや同じ物を好むものである。みんなおそろいになって気持ち悪いと思っても、そこから降りることは集団への批判や脱落と直結してしまう。仕方なく、この欺瞞とウソっぱちの仲よしゴッコをつづけてゆかなければならないのである。こういう状態が私の時代よりもっと深く重く進行しているようである。

 歴史的に眺めれば、このような現象は民主政治がはじまったころから起こりだしたと考えるのが妥当なのだろうか。トクヴィルが『アメリカの民主政治』という本を書いたころにアメリカ人の画一化に脅威しているし、フランス革命に反対したエドマンド・バーク、そしてキルケゴールも画一化・水平化の恐れを表明している。ニーチェは「畜群化」と罵り、J・S・ミルは天才の生まれない画一化の自由の消滅を嘆き、エーリッヒ・フロムやオルテガ・イ・ガセット、デヴィッド・リースマンなどが画一化してゆく民衆を精緻に分析した。いわゆる「大衆社会論」というジャンルでその脅威は論じられた。平等で民主的な理想の社会は、私たちの小さな小集団や友だちのグループの中で、精神や自由や個性を抹殺してゆく動きが深く進行しているようである。

 私たちの社会というのは、友だちや集団によって承認されることがこの社会で生きる根本の規範となっているようである。仲間外れや孤立は、社会からの承認を得られていないことを意味する。これはほとんど生物学的な脅威というか、条件のような気がする。動物的な規範である。集団の承認が得られないことは、動物的に生存の条件を喪失してしまうことである。だから教室や集団の中ではそのようなイスとりゲームが壮絶な試練となって、うずまいている。いじめや不登校、ひきこもりはこのような人間関係の厳しさから生まれているのだろう。教室の内部が「動物的」になっているのである。

 私は集団の維持というものが嫌いである。ウソっぽい演技、白々しいムードや雰囲気づくり、肯定しあったり承認しあったりする関係のダルさ、おもしろもなくうれしくもないのに群れてしゃべらなければならない不快さ、私はそういうもろもろの鎖や監獄にたいそういやになって、ひとりになることをずっと希求してきた。中島義道もそういう集団での雰囲気が大嫌いだそうで、著作の中でも懸命にそれに対する不快感を表明している。でもだからといって、集団からの孤立、脱落はその場での居場所や存在の意義を認めらなく、排斥や攻撃の標的になってしまうのである。「属しても属さなくとも地獄」というやつである。仲間や集団から距離をおきたくなるというものである。

 この「友だち地獄」という集団関係はどうにか解消できないものかと思う。集団の維持と孤立がすべての動物的ルールとなるような、人間の知性や知能、才能をすべて抹殺するような同調的集団を改善できないものかと思う。集団に属することだけがなによりもの人生の生存目標となるようでは、人間の成長も進歩も向上も見込めない、どころか、抹殺する方向にすすむだけだ。もし民主政治と平等主義がそのような窒息しそうな動物的社会をつくっているとするのなら、私たちはその思想的解体に手をつけなければならないのかもしれない。民主政治の理想とは、こんにちの教室の友だち地獄、いじめやひきこもりを生み出すようなら、その根本的病理にメスを入れなければならないのだろう。私たち人間は民主的・平等的につくられた生物学的存在ではないのかもしれない。

 友だち関係の維持は承認のありかたにもかかわってくる。私たちはだれかに承認されて自己評価を維持したり、あるいは自分の存在を認められる充足感を感じる。もしなにものからも承認されないと、自我の深い消沈を味わう。

ひきこもりの青年たちは、「優しい関係」に付随する自己欺瞞に耐えられず、純粋な自分を守ろうとして他人とのコミュニケーション回路を切断しているのかもしれない。しかしその結果、今度は他人からの承認という支えを失って、その純粋な自分の肯定感を維持しづらくなっているようにも見受けられる。

かつての青年たちが「私を見ないで」と叫んでいたとすれば、現在の青年たちは「私を見つめて」と叫んでいる。かつての青年の主要のテーマの一つは、親をはじめとする周囲の人間のまなざしからいかに逃げるかだった。自分が「見られているかもしれない」うっとうしさ、その「不満」からいかに解放されるだった。ところが近年は、自分が「見られていないかもしれない」ことによる寄る辺なさ、その「不安」のほうが強まっている。周囲のまなざしから解放されることによってではなく、むしろそれを心ゆくまで浴びることによって、自分の存在を確認したいという欲求のほうが強くなっている。

自殺した生徒たちを嘆き苦しみ、その短い人生を悼む周囲の人びとのすがたを目の当たりにして、ここに自己の究極の自己承認があると誤解してしまった側面もあるのではないだろうか。



 私たちは承認をやみくもに求めてしまう悲しい生き物である。いろんな蓼食う虫な承認を求めてしまうらしい。承認のためなら自殺してしまうことだってありうるし、人を殺してマスコミにマイナスの面での承認を得ようとするかたちすらある。多くの人は群れて仲間をつくり、しじゅうケータイで連絡をとりあって承認を得ようとする。それがいやになれば、関係を断ったりひきこもる。趣味やネットに承認を求めるばあいだってある。親や大人の承認をいやがって、仲間の承認だけを求めることもある。承認は私の満足や意気消沈をもたらす。ある意味、鎧や依って立つ地盤のようなものである。その承認が仲間内や属する狭い集団からしか得られないとするのなら、私たちの社会は退化して動物化しているといわざるをえないだろう。

 こんにちの集団の強迫維持関係は病理化していると見なしたほうがいいだろう。画一化・同一化の強制は集団が親密で一体化しやいものであったら、なおそらその圧力や同調力は強くなる。その友だちや仲間に承認されているという目印を得るために、私たちは多くの大切なものを失うのである。このような動物的な原則や規範は知性をもつ人間としてはふさわしくないものである。「空気に流される」とは動物的に生きることである。集団や友だちの維持と承認だけに生きる人生はあまりにも狭く、低く、不自由であると思うのである。もちろんこれと闘うことは動物的な攻撃や勢力とぶつかることを意味するのだが。


関連カテゴリ
 集団の序列争いと権力闘争


友だち幻想―人と人の〈つながり〉を考える (ちくまプリマー新書 (079)) 「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット) ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書 74) 若者論を疑え! (宝島社新書 265) (宝島社新書 (265)) 「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち
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08 07
2008

集団の序列争いと権力闘争

『雑談力』 川上 善郎


雑談力 おしゃべり・雑談のおそるべき効果 [マイコミ新書] (マイコミ新書)雑談力 おしゃべり・雑談のおそるべき効果 [マイコミ新書] (マイコミ新書)
(2008/07/23)
川上 善郎

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 雑談やおしゃべりといったものをなめちゃいかんと思う。学校でおしゃべりはいつも注意されるし、近所のおばちゃんの雑談はムカつくし、仕事中のほかのやつの雑談はどうにかしたくれといったように、他人の雑談は不快である。

 それは集団や群れというものが脅威であり、自分を排斥したり、評価したり、仲間はずれにしたりといった「権力」や「暴力」が雑談に付与されるからである。この権力の読み方や対処の仕方をまちがうととんでもない目に会う。人間は雑談によって「仲間」をつくり、そして「権力」をもつのである。

 この「承認」と「不承認」のパワーゲームを読みとらないことには、人生苦労がついてまわることになる。「空気を読まない」とひところ騒がれたが、雑談による権力のゲームをしっかりと読み解かないと、雑談の「悪口」に追い立てられることになるだろう。

 雑談は「権力論」として読み解いてほしいのだが、この本はそういう点からいえば、すごく甘い。おしゃべりを「不穏な権力」として読み込んでいない。おしゃべりを夫と妻の会話時間のような軽いデータに還元したりしているのだが、陰口や悪口や仲間外れといった目に会った人なら、この雑談やおしゃべりの輪の「権力性」「制裁力」といったものの暴力を思い知っていることだろう。なぜ雑談の暴力や権力、あるいは序列といった不穏なものから読み解こうとしないのだろうか。

 人がおしゃべりする動機は、孤独でないことの確認や、つまり仲間であるということや、自分を他人に理解させるための手段や、思いやりや支配を示す方法、儀礼としておこなわれるという。仲間に拒否されていないことをメッセージするために雑談はおこなわれたりして、つながりや同盟が誇示される動機がおしゃべりにはある。

 おしゃべりの目標には、社会的な関係を深める、社会的なリアリティを作り上げる、お互いの体面を尊重する、共通の課題を達成する、お互いに楽しむ、といったものがあげられている。仲間とやつらの境界がつくられ、仲間内での解釈がつくられてゆく。場所の気まずさやシラケたムードが緩和されるために雑談が強要されるときもある。

 雑談は類人猿でいう「毛づくろい(グルーミング)」なのであるが、言葉のある人間は雑談によってつながりを維持し、ときには仲間であることの承認や不承認をあらわし、敵と味方の境界がつくられてゆくのである。極端にいえば、雑談は「戦争になるか、ならないか」の分岐点をつくる土台なのである。

 悪口の社会的効用があげられている。集団は制裁やジャッジの力をみずからにもつものである。悪口はルール作りの道具になったり、ホンネの新人教育の道具になったり、悪口によって派閥が形成されたり、情報通貨としての効用をもったりする。否定できず同調を強制される悪口によって派閥という仲間は形成され、集団のルールや規範はかたちづくられ、そして情報は駆けめぐる。悪口はいろいろな「踏み絵」を踏ませて、仲間と敵のふりわけや、解釈や評価のメディアが集団内でつくられ、そしてルールや規範も練り上げられてゆく。つまるところ悪口や雑談は社会のルールや仲間と敵をつくってゆくのである。

 雑談の権力性、仲間意識のウチとソトを甘く見ているようでは、人間社会は渡ってゆけない。


話すチカラをつくる本―この一冊で想いが通じる! (知的生きかた文庫 や 25-1)なぜか、いつも会話がはずまない人へウケまくる!技術


03 16
2008

集団の序列争いと権力闘争

会社の私語と権勢ゲーム

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 会社の中には朝から晩まで沈黙して、ひと言もしゃべってはならないような雰囲気の会社もある。ぎゃくにみんなが談笑して、会話の輪に入らなければならない職場もある。

 私語禁止の職場もあるし、なんとなくそういう雰囲気になっている職場もあるし、私語し放題で、ムカついている隣の人もいるし、話さなければ孤立を恐れて話しつづける人もいるし、部署ごとに対立が生み出される職場もある。

 職場の苛立つ私語 発言小町
 話さなくていい職場 発言小町
 私語厳禁の職場の方いらっしゃいますか。 発言小町

 集団や空間をどう捉えて、場所や関係をどう維持してゆくかというルールが拮抗しあっているのである。満員電車やエレベーターでは私語を慎むのが基本的なマナーである。そのような沈黙の場所でとなりの人を無視した大きな会話は迷惑である。なぜかというとそれは他者の無視であり、尊重の否定であり、じつはそれは「なわばり行動」の威嚇でもあるのである。だから公共の場所での沈黙が求められるのである。

 私語・会話というのはプライベートなつながりを表示し、権力や権勢をあらわすことでもあり、グループや集団の「内と外」の区分を指し示し、「敵/味方」「われわれ/やつら」という敵対図式を生み出すことでもある。

 学生時代は友達と仲良くすることが「仕事」や「業務」であったため、他者やまわりに影響をおよぼすことに無自覚であったことが多いだろう。「われわれ」の仲良くうまくやることが重要で、まわりの人たちの心や感じ方には無自覚、関係ないといった状態がふつうであったと思われる。隔絶された「自集団」を形成していたのである。教室のおしゃべり・私語は自分たちの「空間」の御し方であって、教室という空間の教師やほかのクラスメートは「空間外」のことであったので、かれらの配慮は問題外であったのである。

 公共の場所や職場というのは、自集団だけではなくて、その空間や職場の処し方も考慮に入れなければならなくなる。空間全体の御し方も意識に入れなければならないのである。その空間はひとつの「全体」をなすようになる。全体を考慮に入れた配慮が必要になってくるのである。

 会社というのは満員電車やエレベーターのような公共空間のふるまいを要求される場所でもある。同時にプライベートの学校や友だちの仲よし集団の形成される私的空間でもありうる。業務や機能主義に徹する冷徹さが求められる場所でもあるし、あるいは楽しさや談笑やつながりが望まれる場所でもある。人それぞれの認識や好み、期待は異なり、また職場の人間関係・集団に求められる規律やルールも違っていて、認識と対処の仕方は人によってかなり異なってくるのである。そこに拮抗やきしみが生まれる。

 会社でみんなが仲良く楽しく連携しておこなわれる仕事が重要だと考える人や集団、またはそんなものは仕事の邪魔で、機能や業務が最優先され、私語は禁物だと見なす人や集団もあるだろう。それらのルールが明確でない職場の場合、それぞれの人が見なす職場の規律が拮抗しあってしまうのである。

 職場で仲良く楽しくやりたいと思う人は、自集団の権力威嚇や内と外の対立に無自覚である。仲良くやりたいだけと主観的には思うのだろうが、職場においては他業務、他部署に属するものが必ずいて、かれらの「仲よしゴッコ」はまわりに「なわばり行動」や自集団の権力威嚇という恐れをまきちらしているのである。私語の多いもの、群れたがる人というのは、無意識にこの戦略を用いている。群れるという数の権勢ゲームで自分の地位や業務を安泰にしたがっているのである。

 そしてその集団に属しない者に「仲間外れ」の恐れを抱かせて、地位を自分より下におこうとしているのである。私語の多い楽しい職場というのはこの「権勢ゲーム」が病のようにひそかに進行しているものである。かれはみんなとわいわい楽しくやりたいと思っているだけだろうが、権勢ゲームでの地位の安定と獲得を狙っているのである。

 この権勢ゲームは集団の内と外の出入が厳しいのだろう。権勢チームのインとアウトこそが権力の源泉なら、かんたんにその力を手放さないだろう。派閥というのは会話で成立するもので、かれにとって私語の交流を欠かさないことはひじょうに重要な仕事になってくる。

 仲のよい集団というのは、外側の人間にたいしてはひじょうに冷酷で、残酷なものである。新参者はかなり腰を低く下げて入っていかなければならない。また交流の関係も複雑で、会話の流れも隠語のように外部のものには入りにくく、よせつけない。だからこそその集団は権勢を保てるのである。そのような犠牲者を生み出せるから、その集団は強さを誇示もできるのである。

 私はこのような「できあがった」集団の輪に入ってゆくのがかなり苦手であった。だから学生時代、会社での人間関係をうまくやっていけるだろうかと不安だった。就職が恐いというのはこのような規範を恐れてのことだったのだろう。集団での一体感を強制される職場を避けてきたように思う。集団のインとアウトの権勢ゲームにさいしょから尻込みしていたのだろう。といっても無自覚であったが、私なりの権勢ゲームの方法ももっていないわけではなかったのだろうが。

 私はさいしょは人と談笑することを好むが、仕事の負担が増えてきたり、仕事の自覚が増してくると、黙ってすることを好むようになり、私語をムダと思うようなり、他人の私語にムカついてきて、対抗としてますます沈黙することになるから、人と対立したり、嫌われたりするパターンが多い気がする。無視を怒りのメッセージとして用いることが多いから、それとあいまって、無視されたり、嫌われていると思う人が出てきて、結果私は嫌われたり、対立を生み出したりするのである。仕事が増えてきたら私語が嫌いになり、結果つながりや交流を失ってきた私は力をもてないのである。私とのつながりによって権勢をもってきた人にはやはり嫌われるし。
 
 無視は人の自尊心をかなり傷つけるようだし、嫌われているのではないかという恐れをもよわせる。しかし仕事において業務が忙しくなれば、暇な他人などにかまっておれなくなるから仕方がないものである。沈黙の職場というのはこのような恐れを潜在的にたえず味わわせるものである。沈黙の職場は寂しさも感じさせるものである。寂しさは他人の談笑や会話によってよけいに煽られるから、沈黙の職場はますます私語の禁止という規範をその空間に重石のようにのっけるのである。

 沈黙の職場は私語の権勢ゲームのひとつの牽制策でもありうる。私語の多い職場では業務とはべつの権勢ゲームが発動して、会話や交流が仕事の大きな業務になり、仕事に集中できなくなる。孤立を恐れるイスとりゲームに多くの業務量がとられるのである。沈黙の職場はそのようなゲームの抑制策になりうるのだが、同時に寂しさや恐れも味わわせるものである。あまり人間らしいとはいえず、沈黙は負担であるし、このような空間の支配力に人は抵抗したくなるものであるが、空間の沈黙力にはねかえされるのがオチである。
 
 職場というのは人間のパワーゲームの場所でもある。業務をめぐっての、または会話や交流をめぐっての静かな対立がくりひろげられる。そこでのなにが起こっているのか見極めることが大切である。もうすこし考察を深めたいと思うのだが、次回の機会にゆずろう。


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Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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