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02 03
2007

集団の序列争いと権力闘争

会話と仲間の制空権


 私の職場の問題である。私の職場には三つの担当部署と集団がある。しかも会社が違う。だいたいひとつの集団はひとつの集団で仲良くなろうとする。そうとすると仲間で固まろうとする力は、外の集団に対する排斥となってあらわれる。

 ふたつの集団で対立が深まると、会話の断絶がおこる。口も聞きたくないとなる。同じひとつの空間で仕事をするとなったら、仲のよいもの同士だけの会話がおこなわれる。その場で排斥され、仲間はずれにされた者は不満をつのらせ、疎外感を抱きつづける。怒りは対立する相手に感づかれるものとなり、相手はいやがらせまがいの会話や騒々しさをくり広げることになる。沈黙と会話の「制空権」といったらいいのだろうか。

 私の職場では三つの集団が同居するため、このトラブルがずっとつづき、ある集団の結束が強くなり、楽しそうになると、ほかの集団は疎外感や不満をつのらせるようになっている。そして「あいつらはひまだ、仕事をしていない」となって、仲のよい集団への攻撃が仕事面や人間関係面での非難としておこなわれ、そうなるとその集団は騒々しさと楽しさのいやがらせへと転嫁する場合もあるのである。私の職場はこの問題が私の入る前からずっとつづいているのである。

 私の職場は現場だからそうとうときには場を移すという解決もあるのだが、このトラブルが噴出するのは事務所で三つの集団の数人がともに仕事をするときである。「あいつを黙らせろ、仕事がないんじゃないか」と沈黙者はいい、非難された会話者は楽しさと騒々しさのいやがらせに買って出るというわけである。これは会話の「仲間外れゲーム」とよんでもいいだろう。

 一同が同じ場・空間に同居するオフィスではこういう問題はどうなのかなと思う。仲の良い者だけがしゃべり、仲良くないものは黙る。会話に加われないものは疎外感や仲間外れ感を強く味わう。しまいにはそれが怒りとなると、まわりも自重して静かに仕事をしてくれればいいのだが、ぎゃくに怒りを買って仲間外れゲームを発動させる場合もあるだろう。オフィスはこういう逃げ場のない息苦しさが苦手である。会話の制空権はどのようになっているのかと思う。

 私は個人での会話は苦手ではないのだが、数人でしゃべっているところへ後から入ること――いわゆる「仲間の輪」に入るということがかなり苦手である。「お呼び」でない感覚に対する恐れが強いし、後から仲間に入ろうとするのは卑小に思えるし、または集団主義やその演技性が嫌いである。その退き方に失敗すると、集団への敵意や非難に捉えかねられないこともあり、私は仲間外れゲームの餌食になったこともある。だから私は仲間集団より、個人での会話やフォローを大切にするのである。

 いくつもの集団が同居する空間はむずかしい。ひとつの集団は暗黙にほかの人に対する仲間外れや疎外感を強制してしまうものである。それが黙って仕事している人やひとりで仕事しなければならない者にはよりいっそう骨身に答える。その防護策として仲間との会話が必要なのだが、仕事ではそれがままならない場合もある。学校ではだから仲間集団をつくらなければやっていけなかったのである。うまくほかの集団の脅威をスルーできればいいのだが、それに失敗すると仲間外れ感は怒りとなり、反感を買った相手集団の会話と仲間の疎外攻撃を受けてしまうことになる。

 私たちは仲間外れや孤立感をたいへん恐れるように観念している。たぶんそれは言葉や定義によるくくり方に根源があるのだと思う。「嫌われ者は恐ろしい、みじめだ、あわれだ」という定義、「仲間はこうでなければならない」という定義。そういう言葉のくくり方が私たちに仲間外れの恐ろしさを強く観念させ、その感情を発動させるのだろう。こういう定義の書き替えや観念の払拭をおこなえば、私たちはだいぶ平気になれると思うのだが。でもたいがいの人にはムリな注文であるが。

 私の職場の問題に解決策はあるのだろうか。そしてどこの集団にもこういう問題はつきまとうものだと思う。仲間に入れるか、仲間外れにされるか、仲のいい集団の会話と排斥される者の疎外感や怒り、そして頑なな沈黙と仲間外れゲームとしての会話と騒々しさのいやがらせ。会話の制空権はずっと争われつづけるのだろうか。うまい解決策とふるまいはないものだろうか。この問題にたいする達観した方法論と知恵がほしいものである。


02 03
2007

集団の序列争いと権力闘争

『人はなぜいじめるのか』 ピーター・E. ランドール

人はなぜいじめるのか―地域・職場のいじめと子ども時代の体験
人はなぜいじめるのか―地域・職場のいじめと子ども時代の体験
ピーター・E. ランドール Peter E. Randall 新井 郁男

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 原題は「ADULT BULLYING」――「大人のいじめ」である。いじめは子どもには見られるかもしれないが、大人になればもう起こられないと思われがちであるが、まったく間違っている。子どものいじめホットラインには電話をかけてくる人の三分の一が大人の相談者であるということがこの本の発端となったそうである。この本もビジネス書や社会問題の棚ではなく、教育関係の棚にあった。

 アメリカでは1993年度に職場の殺人は1000件を超え、強迫は600万、暴行は200万を上回っている。毎週15件の殺人がおこなわれていることになる。日本でもたまに職場の殺人がおこったりすると、ここまできたかという感をもよわせる。

 この本は心理学者による分析の本である。いつも分析の本を読んで思うことは、私は対策や実践の本を読みたいということである。「なぜなのか」ではなくて、「どうしたらいいのか」を問いたいときに、誤って分析の本を読んでしまうのである。心理学はドツボである。心理学の迷宮におちいった人には対策がほしいのではないかと問う必要があると思うしだいである。

 この本では「大人のいじめ」、「いじめの正の強化」、「地域の独裁者」、「職場のいじめ」、「いじめ人格、被害者人格の形成」、「職場のいじめの防止と解決」という章から成り立っている。実践ではなく、分析を知りたい人にはなにがしかの貢献があるだろう。私には回り道の本になっただけである。

 私の見聞からして、職場の人たちはかねがね親和的である。学校の無防備でだれからも守られていないという気分はないし、暴力的で脅迫的な力を競合するような場ではない。学校よりマシだろう。ただし、仕事面や業績面での正当化を得たようないじめはあるだろうし、集団でのいさかいやいがみ合いはけっこう深刻にエスカレートしたりする。私はだから集団での関係をうまくまとめたり、操作する知識がほしいのである。

 いじめのストラテジーを紹介しておこう。

 自己主張訓練
 ・積極的傾聴/反省スキル 加害者の言葉を跳ね返して反省をせまる。
 ・断続的言及による説得スキル ポイントを反復することによってそのポイントに戻しつづける。
 ・批判の操縦 批判者に対して批判を受け入れ、「さて、それはあなたの見方にしれませんね」とコメントを返す。また否定面の尋問として、どこが否定されるべきかもっと教えてほしいと要求する方法である。根拠のない言い訳をしなければならなくなる。
 ・フィードバックを与えること受けること 加害者は困惑した情緒的反応を期待しているのだが、スルーしてかわす。
 ・非言語コミュニケーション 身体的・心情的な苦痛の明白のサインを出して、目的どおりの恐怖を与えていると思われてはならない。

 いじめ加害者との対決
 1 対決が有効であることを理解する 対決は加害者に驚くほどの外傷を与えることができる。
 2 時間と場所を選ぶ 対決はプライベートに。
 3 比喩的に言わずに行動を特定する 加害者に自分流の解釈を与えてしまうため。
 4 単純さを維持する 動機の解剖を対決の場でするべきではない。
 5 影響について言う 被害者がひとりではないという事実を喚起させる。
 6 メッセージを強化する 加害者はいじめにより意志が強くタフであると人から見られると思うのだが、人からはみみっちい、心が狭い、無知、侮辱的であると見られるだけという悪評を知らせる。
 7 代案を示す いじめではなく、ほかに生産的な仕方もあることを示す。
 8 サポートを得る
 9 人事/人的資源部の役割 組織内のハラスメント対策を多くの人は信用せず、いじめは辞めてから発覚する。
 10 最上層に訴える 加害者が社内で評価されていれば不利になることがある。
 11 注意深い記録をとる

 いじめの対策はだれもが知っておくべき知識である。この本の事例にもあるが、エリート社員でも51歳のときに人員整理や組織再編のためにいじめの対象になってしまうこともある。自尊心がおとしめられ、うつになったり、職場外傷(ワークプレイス・トラウマ)をひきずってしまうようでは、人生の損害と損失である。またいじめや集団抗争がおこったりすれば、企業の経済的損害が膨大なものになるのはいうまでもない。

 私たちはいじめのストラテジーを身につけることが必要である。そして正義と道徳の感覚をしっかりと保持し、行き過ぎを警戒すること、またみずからの自戒も慎重に保持しなければならないと思う。人間同士が傷つけ合ったり、おたがいを壮絶な痛みや怖れにさらすような関係はぜひ拒絶したいものである。


02 06
2007

集団の序列争いと権力闘争

『子ども社会の心理学』 マイケル トンプソン

4422120344子ども社会の心理学―親友・悪友・いじめっ子
マイケル トンプソン ローレンス J. コーエン キャサリン・オニール グレース
創元社 2003-09

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 学校時代の友だち関係やクラスメートの関係っていったいなんだったのだろうと思う。どうして階層序列やグループ分けができたり、仲間外れやいじめがおきたり、ある人と友だちになったり分かれたりしたのか、校内暴力や残酷さが闊歩したのかと、謎だらけの集団を泳いできたものである。

 いまだによくわからない。あのとき私はなぜあの集団の位置づけにいたのだろう、あの友だちはなぜグループ外の友だちとよくしゃべっていたのだろう、中学校の男女の口の聞かない関係はなんだったのだろう、荒れた中学ではなにが競われたりこのような暴力的な環境になったのだろう――学校の集団関係というのはその中にいながらなにが起こっているのかよくわからないものであった。

 この本はそのような友達・集団関係の変遷をみごとに追体験させてくれる本である。なにが起こっていたのかを多くの成長期にある少年少女たちの世界を垣間見させてくれる。友情の芽生えや特性、グループの掟や残酷さ、そして人気戦争や権力欲求、男女の避けあった関係から恋愛の目覚めなどが描かれている。

 なによりもグループやクリーク(徒党集団)の掟や残酷さに翻弄されなければならなかった経験に注目すべきだろう。仲間のために友情を裏切ったり、掟のために陰口や残酷さを発揮しなければならなかったり、ときには恐ろしい集団行動の暴走に巻き込まれたりと。グループやクリークとよばれるものは破壊的で残酷な力を発揮するものである。看守と囚人の実験で起こったようにグループや役割は人を残酷な存在に変えてしまうのである。

 グループの掟には次のようなものがある。仲間と同じであれ――同調圧力であり、その圧力から逃れられるのは不可能とまでいわれている。グループに属すべしという掟――それは仲間外の人たちの軽蔑の念を生むものである。入れ、さもなくば、出ていけ――同じ人を嫌いになる排他的な力である。身分をわきまえよという掟、役割を果たせという掟――ときにはモラルを踏みにじる残酷な役割もこの掟から発生するのである。

 グループはルール違反をする子に社会的制裁をはたらかせる。悪口や排斥、イジメやシゴキといったものである。グループはこのような制裁の役割や正義の役割の仮面をかぶりだすと、最大の残酷さを発揮するものである。集団はみずからがルールや制裁の執行集団となるがゆえに歯止めなき残酷性や横暴さを発揮するのかもしれない。制裁集団の正当化がイジメや排斥を歯止めなきものにしてしまうのだろう。

 私にとってこのグループや集団の関係やルールというのは、長年の知りたいけど解けない問題でもあった。グループや集団関係でつまづいたり、痛い目にあったり、退散の憂き目にあったこともあり、そういう知識やスキルがほしいとずっと思っておきながら、いまだにその賢明なスキルを得られていない。もう集団から逃げ腰である。

 どのジャンルやどの本にそのスキルや知識があるのかわからなかったのである。けっこうイジメ分析やグループ分析の本にそのような知識があるのかもしれない。はやく長年の懸念が溶けるようにしたいものである。いや、あるいは人間にとっては解けもしない永続的な問題でありつづけるものなんだろうか。


02 10
2007

集団の序列争いと権力闘争

制裁集団の抑制が必要である


 ちょっと試論で申し訳ない。深く考えつめたわけではないので、助走のために書かせていただく。

 グループや集団というのは、制裁機能をもつ。ルールや掟、または不快感を感じさせるものに抵触すると、社会的制裁を加えようとする。

 グループというのは裁判官の役割をもち、また警察の役目も、刑罰執行人の権力も合わせ持っている。つまりは政治や司法であるような三権分立の権力抑制の機能をもたない。独裁権力であり、専制君主である。グループの歯止めなき行動や暴走はこのへんにあるのではないか。

 人は個々人の人間関係において、なんの制裁機能もルールもない世界に住んでいる。アナーキーで自由なふるまいが許される世界である。そういうところに人が不快感や怒りをもよわせる行動やあり方を示せば、個々人は表情やふるまいによって、不快感や怒りをメッセージする。効き目がなければ、ほかの人に悪口をいったり、協調したりして、数の力を頼みとする。それが集団になればいじめになり、刑罰執行人の役割暴走がおきる。

 集団のいじめというのは刑の執行人なのである。正義やルール、掟の遵守者のつもりでいる。制裁機能の固定化したものが、いじめ集団である。かれらは制裁集団となって、不快感の結果より先にターゲットを狩り出す存在と化す。制裁機能のグループ暴走がおきるのである。はじめに制裁ありきの存在になるのである。

 制裁集団に正義観や道徳観がそなわっているとはとても思えない。制裁がもともと暴力的機能であり、制裁集団は正義や道徳をぶち壊す存在である。数で威圧する集団であり、道徳や正義はそこでたちまち無効になる。警察や政治権力が法の遵守者でありながら、一面では法外な暴力威圧集団であることと同じである。制裁集団は権力や力の感覚を楽しみ満足させるものになれば、正義や道徳は転倒し、暴走した権力のふるまいをおこすようになる。

 制裁集団がかくだんに認識能力や道徳観念に優れている個人で構成されているとはとても思えない。かれらは暴力的であり、冷酷で残酷であるから、その集団に属しているとしか思えない。だから歯止めなきいじめや暴走はとどまるところを知らないのである。裁判官でも弁護士でもない、刑罰執行人のみの存在である。いったら頭の歯止めのない身体・言語暴力だけの存在である。集団の内部で作動する威圧力やエスカレート機能のみではらたく存在である。

 ただ社会的制裁をすべて否定することはできないだろう。集団の制裁は個々人で対処、改善できないときにはたらかなければならないものだろう。警察や裁判のない世界は不可能である。個々人の人間関係ではそのチェック機能は集団が担うのである。

 しかし集団の制裁機能においてはたらくものは、悪いものを裁くというよりか、弱者や劣者であることのほうが多いように思う。学校のいじめは社会的価値を如実に反映するかのように貧困や不潔や劣者を叩くのである。マイナスのものをプラスにひき上げるのではなく、ただマイナスのものを排斥したり、なきものにしてしまう働きしかなしていない。これはいまの社会のマイナスのものにたいする考え方や方法そのものであり、あるいは動物的価値観の強者弱者の動態そのものである。

 制裁集団が道徳違反者を叩くのではなく、弱者や劣者を叩くのは、悲しいことだというしかない。われわれは社会の中にある制裁集団というものの機能や役割を考えなければならないのだと思う。この集団に対する抑制やチェック機能というものをわれわれの社会はもっていない。ひとり威圧的で強権的な独裁集団と化して、無法をふるまうってしまうのである。こういうものは密室的で、ほかの人に知られないかたちで、暴徒と化してしまうのである。

 この集団から守られないかぎり、われわれは社会から守られて、安心に暮らせるという感覚をもちえないだろう。中学生のいじめ自殺などはこの問題の無力さを強力に露見しているのだと思う。私も荒んだ中学の暴力集団からだれからも守られていないと思ったものである。集団の制裁権というものが抑制される必要がある。警察の犯罪の一歩手前に制裁集団を抑制する組織が必要なのではないかと思う。


02 11
2007

集団の序列争いと権力闘争

『「いじめ世界」の子どもたち』 深谷和子


 『「いじめ世界」の子どもたち―教室の深淵』 深谷和子
 金子書房 1996/4 2300e

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 この本には77例のいじめ体験のレポートがのせられているが、本人たちがなにがおこり、なにがなされていたのか、いちばん知っているみたいだ。わかっておきながら、集団の力や流れを自分で止めることも抗うこともできないのである。

 集団の力学というものをだれひとりとして制御できないのである。いうなれば集団は無意識の薄明にとどまり、いまだ理性の光は当てられていないのである。

 かつては「弱い者いじめ」は人としてすべきではない軽蔑されたものであったが、大人でも弱い者いじめがまかり通り、「女の子、小さい子、弱い奴をいじめるのは恥」というルールが失われてしまったのである。この文章を読んで私もはっとしたが、そういう最低限のプライドやルールさえも忘れられる世の中になってしまったのである。

 たしかに日本では自分の人権を守ろうとしたり他人の人権を尊重しようとする意識がほぼ欠如しているといっていいだろう。また自己主張をしないことが集団への適応の仕方であったのなら、ほぼ絶望的に理不尽ないじめがはびこる世の中になる。子どもに起こるいじめとはこの日本社会の集団制御の不可能性をそのままあらわしているのである。いわば、いじめは日本の権力構造をそのままなぞっていることになる。

 いじめられる因子として四つあげられていて、「おとなしい、暗い、無口」などの「弱者因子」、「理屈っぽい、威張っている」などの「目障り因子」、「勉強ができない、不潔、貧乏」などの「劣等因子」、身体欠損や顔が変などの「ハンディキャップ因子」である。

 これらはすべて社会が暗黙にもつ価値観やヒエラルキーをあらわしており、子どもたちは無意識にそのヒエラルキー攻撃をおこなうのである。いったら、公認の排斥対象である。消費社会や政治構造が暗黙に底辺に排斥するものをターゲットにするのである。正義や道徳が失われて、ヒエラルキーだけがのさばっているこの社会を見事に露呈しているといっていいだろう。

 担任の八割はいじめに気づいていて、「あの子がいじめられるのは仕方がない」と思っていじめを肯定していると勢いづけたり、教師や学校という存在自体が価値序列やヒエラルキーを叩き込み、矯正する存在であるのだから、子どもたちはその正義の代行をおこなっているのだと正当化するし、いじめを傍観するほかの生徒たちは暗黙に支持していることになる。いじめは「非公認の矯正装置」なのだと認められているようなものである。

 私の学生時代ははるか二十年前に遠ざかり、記憶もかすかになってきたが、小学校は楽しく無邪気に暮らし、中学ではすさまじい不良集団や暴力競争に巻き込まれて、孤立を恐れ、集団にしがみつかなければならなかったいやな経験から、私はすっかり集団でのつきあいを厭うようになった。いまはようやく孤独でひとりで楽しめる生活に帰れたと言ってもいいか。もう二度とあんな中学には戻りたくないと思う。

 登校拒否は昭和三十年代後半からおこりはじめ、いじめ問題は1983年にNHKでとりあげられてから大きな社会問題として浮上することとなった。それから三十年、いじめ自殺や精神的後遺症を多くの人に残しながら、いじめはまったく解決されてこなかった。かつてより陰湿で残酷になったという風評を聞いたりもする。そんな環境下で暮らさなければならない子どもたちが悲惨である。

 大人になれば、子どものような残酷で暴力的な集団はなくなる。いや、方法は洗練されるだけかもしれない。しかしつくづく集団でいることは難しいことだ。日本の集団はあまりにも無意識である。そしてたぶん集団を分析した知識があまりにも少ない。私たちは日本的集団を制御・コントロールする知識や技法が早急に必要なのである。


02 12
2007

集団の序列争いと権力闘争

仲間の承認と暴力と、自由


 学校その他の場所において仲間をつくることは死活問題である。もし仲間ができなければそこにいてはならないような気持ちになる。いわゆる「居場所」がないというものである。人は仲間の承認なしにその場にいてはならないというルールをもつようである。

 まずもって人がその場にいるためにはだれかの承認が必要である。場所というものは仲間がその存在を「許す」ものなのである。人にはこの怖れがまずある。したがって仲間から承認を失うことを怖れる。仲間は存在の生殺与奪の権限をもつのである。

 仲間の承認はおもに会話のつながりや行動の同調によって与えられる。人はこの仲間の承認を得ようとして、仲間のもつ権力に翻弄されたり、服従を誓わされたり、支配されたりすることになるのである。人はこのボートから放り出されることを怖れるために、残酷なことをしたり、友人を裏切ったり、人としてのルールをふみ外したり、ときには行為が犯罪にエスカレートしたり、自分を危険にさらすことだってあるのである。仲間のルールや規範が暴走をはじめるのである。個人のモラルはかんたんに仲間の規範にふきとばされる。

 仲間の承認というものはひじょうに気まぐれである。ほかに友達ができたり、魅力ある友達やグループがいればそちらにいつ移ってしまうかもしれないし、嫌いになったり、趣味が合わなくなったり、または仲違いしたりして、いつ仲間のボートは波間に消えてしまうかもしれない。さまざまな努力や無理が必要になる。ファッションや行動は同一化し、画一化し、趣味のインとアウトはグループによって決められ、人とのつきあいや会話だって決められるのである。

 おまけに学校などの集団には権力闘争や階層競争、人気競争などがある。序列を争そって人は趣味やスポーツなどによる優劣が競われ、ときには人や集団を傘下においたり、人をおとしめることによって序列の上位や優越感をディスプレイしたりする。趣味やスポーツ・成績などに優れたところがないと、暴力や力によって序列の上位に上ろうとする。

 肉体的な力による序列誇示は中学のころに最高潮に達する。暴力で人を抑えつけたり、人を自由に操ることによって力を誇示したり、または教師に反抗して対等な力の誇示を見せつけたりして、暴力的なヒエラルキーの上位をめざすのである。肉体的な力の誇示により中学は大荒れである。この優越競争に参加すれば、彼は残酷で冷酷で、暴力的な人間になることだろう。彼は優越や承認を得ようとしてたくさんの人たちに恐怖や迷惑をおよぼし、犠牲を強いて自尊心をようやく手に入れるのである。そしてこの暴力のヒエラルキーが実社会でふたたび返り咲くということはなく、かれが社会のヒエラルキーで上位に立ち上がることはほとんどないだろう。

 学校の集団ではさまざまなヒエラルキーがもちいれられる。私は小学校時代、たんじゅんに「スポーツができる/できない」のヒエラルキーや、「気が強い/気が弱い」のヒエラルキーでグループの順位づけができあがると認識していた。私が後者のグループにいたのはいうまでもない。中学校時代は不良集団が学年のリーダーにのしあがり、男女はきっぱりと交流を失い、荒んだ暴力ヒエラルキーの社会になったが、2年3年と時間がたつにつれ落ち着き、一部の人間の話になっていったように思う。

 仲間はそのような外の暴風雨から守られるためのシェルターのようなものであった。孤立や仲間がいないことは、仲間から見捨てられた、嫌われたという目印であり、人をいじめることによって上位を誇示したり優越感を得るための格好のサメの餌食になる。孤立無援の守られない海にひとり放り出されるのである。

 そのような恐ろしさは仲間集団の中にも共有されるのは当たり前のことで、だから仲間集団の規範やルールはその内部の人間の心も襲い、はげしく締めつけるのである。友達や仲間から嫌われたり、仲間外れにされたら、たいへんだということで、激しく友だちにつがみつくことになる。友だちに同調し、趣味や行動・ファッションをそろえ同調し、規範以外のそれらや友人・恋人を選べなくなるのである。自由や個人のありのままを犠牲にして、仲間集団の安心や安全は得られるのである。社交地獄や友だち地獄と一面ではいってもいい状態になるのである。

 これは会社にいっても同じようなものである。仲間として受け入れられなければ、いじめやいやがらせ、攻撃などの格好のターゲットになる。暴力がふるわれることは少ないし、学生時代よりもっと穏便であるが、仲間の規範は激しくその成員を締めつけるのである。学校も社会も変わらない。同じ集団のルールに支配されている。

 個人はモラルや思いやりをもつやさしい人だと認識できる。しかしそれがひとたび集団の力学や規範に捉えられると、残酷さや残忍さを発揮するようになる。集団というものは加害者にとっても個を脅かす存在なのである。したがって、かれは集団の威を借りた人でなしとなってしまうのである。

 私たちはあまりにも集団というものの性質やあり方を知らない。社会学や心理学、哲学などに目を見はるような集団についての学問研究の業績もない。驚いたことである。私たちがこんなに集団に翻弄され、支配され、苦しめられているというのにである。30年も問題視されてきた学校のいじめが解決しないのもこのような理由があるのだろう。集団の力学がちっとも研究されていないのである。いったいなぜなんだろう。

 私たちはまずもって仲間の承認がないとその場にいてはならないというルールをくつがえすこと、疑問視することが必要である。そして仲間がいないことは嫌われ者でもやっかい者の目印でもないという考えをつちかうこと、自由であり、自立しており、集団の権力から自由であるという褒章が必要なのだろう。この根本の怖れを見直さないかぎり、われわれは集団の権力や暴走からは逃れることができないだろう。


02 16
2007

集団の序列争いと権力闘争

『女の子って、どうして傷つけあうの?』 ロザリンド ワイズマン


453558429X女の子って、どうして傷つけあうの?―娘を守るために親ができること
ロザリンド ワイズマン Rosalind Wiseman 小林 紀子
日本評論社 2005-10

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 なんでこの本は親に向かって書かれたのだろう。思春期の仲間関係でいじめられたり、無視されたり、いやがらせされたりする当の本人は娘のほうである。この解決策や対処法をいちばん知りたいのはその本人自身ではないのか。本人向けに書かれた本であってほしかった。

 紹介したり、まとめるのがむずかしい本だ。なんだか私の頭の中でまとめにくい。それから仲間や集団の中をうまくわたる技術を教えてくれそうな本に思えたのだが、読み終わってもなんだか懸命な知恵がついたという読後感もない。コマ切れな雑誌を読んだような感じかな。

 思春期の少女たちは派閥や権力争い、美人コンテストや意地悪な女の子たちに囲まれながら、その救命ボートにしがみついて、生き残ってゆかなければならない。それらの暴力から身を守る術を教えるNPOのエンパワー・プログラムをおこなっているのが著者である。少女たちはどのような世界に足を踏み入れているのかの解説はよくわかるのだが、どうも解決策を得たような気にならない。

 女の子たちは仲良しグループに入り、その派閥の中でいじめられたり、傷つけられたり、たいへんな関係の中をすごさなければならなくなる。これは集団の中で生きなければならない人間の宿命だ。女の子たちに特徴的なことは陰で悪口をいったり、うわさ話をしたり、やきもちをやいたり、競争心が強く、友だちを選ばせたり、裏切ったりすることだとされている。

 著者は派閥にはそれぞれのポジションがあると説明している。女王蜂にナンバー2、銀行家、浮動層、板ばさみの傍観者、おべっか使い・とりまき・メッセンジャー、ターゲットである。この社会的地位を維持するために少女たちは自分を犠牲にし、派閥に属するために自分の思い通りにできなくなり、弱い立場の味方をするようにと教えられた少女たちも残酷で冷酷なおこないをするようになるのである。派閥というのは救命ボートであり、援助が来るまで何年かそこで過ごさなければならないほかの選択肢がないものなのである。

 救命ボートはゆり動かされ、いつだれかをいじめや仲間外れのターゲットに絞りこむかわからない。のけ者にされたり、だれからも相手にされないようにならないよう、この派閥という救命ボートにしっかりしがみついていなければならない。たとえ友だちが自分を傷つけたり、みじめにする存在であってもである。そうやって派閥の地位や序列は維持されてゆくのである。

 これは少女のみならず、すべての人間に共通する集団や仲間関係でおこる事柄だろう。男でも女でも同じことだ。ただ女性は陰湿で内輪もめが多いと伝え聞いたりする。集団で生きることは人間にとっていつまでも終わらない難問でありつづけるのだろう。そして傷つけあい、おたがいをおとしめあい、もちろんときには楽しみや救いも多くもたらすものであるが。

 この本は期待は大きかったのだが、いまいち満足できるものではなかったが、ぜひこのような本やプログラムはもっとたくさん出てほしいものである。集団の中でのいじめや傷つけ合う関係というのは、一刻でも早く脱出したいものである。その解決策があるのなら、ぜひ教えていただきたい。私たち人間は集団の中で、茫然としながら、人を傷つけたり、あるいは暴力の中に巻きこまれたりと、のっぴきならない日々を送っている。「Help Me!」である。あなたは集団の中でうまくやりつづけられる自信とテクニックはありますか。


02 17
2007

集団の序列争いと権力闘争

『職場はなぜ壊れるのか』 荒井 千暁


職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理
荒井 千暁

職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理

 崩壊した職場をいくつも見てきた私としては、産業医のものの見方はどのようなものか知りたいと思ってきた。人間関係が荒んでいたり、集団でのいじめが発生していたり、クビクビとしょっちゅうのたまわる上司、上司同士の争いごとがおこったりと、そういうひどい職場での解決策はないものかと思ってきたものである。

 この本は「職場はなぜ壊れるのか」というタイトルずばりの本ではあるが、残念ながら私にはあまり読む価値ないものであった。私はHOW TOを読みたいのであって、エッセイではない。

 この本ではおもに成果主義の弊害がとりあげられているのだが、私は職場でのもっとベタな人間関係や集団関係のことを知りたかった。職場の人間関係というのはひじょうに泥臭いものでなりたっているように私には感じられる。だれかれが好きで嫌いだとか、あいつは気に食わないだとか、仲間になじめないだとか、会話にうまくとけこめないだとか、ランチにひとりでいけないだとかの、もうほんとに動物なみの人間関係がメインにあるように思う。そういう問題の解決策はないものなのかと長年私は思ってきたものである。この本はそういう期待に応える本ではない。

 職場での個人的な問題は集団の闘争に発展しやすい。もうあきれかえるというものである。いろんな人の私情や思惑をはさみながら、大きく職場全体に波及してゆくものである。なんとか止める方法はないのか、防ぐ手立てはないのか、職場の複雑の人間関係はどうやったらうまく良好に保つことができるのか、むずかしいことだらけである。そういうことにぴったりの本ってないものなのかな。そういう問題の処方箋は産業医でもかんたんには解くことができないものかもしれない。


この国の未来へ―持続可能で「豊か」な社会 労働ダンピング―雇用の多様化の果てに つっこみ力 自己プレゼンの文章術 こんな上司が部下を追いつめる―産業医のファイルから
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02 22
2007

集団の序列争いと権力闘争

『いじめ―教室の病い』 森田 洋司/清永 賢二


いじめ―教室の病い
森田 洋司/清永 賢二

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 86年に初版が出されたかなり本格的ないじめ研究書である。さまざまな角度からいじめが分析されていて、内容はとても充実している。多くの考えさせられる考察を読むことができた。けれどもいじめの災禍がいまでも終わってないのはいうまでもない。

 いじめの原因はさまざまにとりあげられているが、私はこの本から考えるに、最大の原因は成績下位として烙印を押された落ちこぼれたちが自身の自尊心回復のために非行や校内暴力に走ったことと同じ構造がはたらいていると見る。つまりは異議申し立てが教師や学校へと向かった校内暴力から、ほかの者の自尊心をこなごなに打ち砕くいじめに変わったのではないかと思うのだ。知識のヒエラルキーの転覆が、他者の自尊心破壊へと走らせるのである。

 いじめっ子は成績下位が四割を占めていて、いじめられっ子の成績下位は三割、上位は二割である。いじめっ子といじめられっ子は同じ負の刻印を打たれた者同士であることがいじめ問題の本質であると著者はいう。上位が二割を占めているのは基準の下でも上でもすこしでも外れると叩かれるように現在ではなっているのである。優れていることもターゲットである。

 いじめ問題が騒がれるのはそれだけ現代社会にも共通した問題があるからこそ、人々の関心をひきつける。日本社会は「集団圧力」というものにまったく無防備であり、なんの守る術も手立てもないことをあらわしている。仲間に属すれば画一化、均質化の縛りはかなりきつく、外にはみ出せば、集団防衛の手立てがとれず、集団いじめや集団圧力の犠牲になる。つまりは日本人は集団というものからまったく守られていないがために集団の荒波に呑みこまれるか、集団からいじめや暴行を受けるしかないのである。そういう集団の無法状態が巣食う社会にいじめは蔓延しつづけるのである。

 日本人はほんとうに集団から守られる知恵も技法もない。集団が暴君であり、専制君主であり、最大権力でありながら、そこから守られる技法をひとつも開発してこなかったのである。かつては「弱い者いじめは恥だ」という感覚や、「集団で力を得ることは卑怯だ」という観念があったはずである。その感覚や倫理観がいつのまにか消滅してしまった。そのような歯止めのなさが集団権力の暴走を生むのである。

 いじめには加害者と被害者、それにまわりでおもしろがって見ている「観衆」と、見て見ぬふりをする「傍観者」の四層でなりたっている。いじめ被害の多さは、傍観者の人数と高い相関関係を示すという。いじめはそのようなまわりの者たちからの暗黙的支持や積極的是認からなりたっているのである。集団のハリケーンはもはやだれも止めようともしないのである。いや、止めようがないのである。

 日本人は暴走し出した集団をコントロールすることがまったくできない。それは大人社会で「場の空気」や「雰囲気」を読めという諭しによってもうかがわれる。場の空気や集団が歯止めなき「神」になってしまっているのである。日本人はこの集団というものの危険性や害悪を鋭く警戒視してこなかったために、さまざまな悪弊をもたらしてきたのである。集団が暴君となり、圧力となり、暴走し出したとき、外部や内部の人間はそれをどうやって止めたらいいのか。この無力さがいじめをどこまでも野放しにしてしまうのである。

 学校というのは知の権力によってヒエラルキーや序列が決められてしまう制度である。自分がそのようなヒエラルキーの劣位に押し込められた子どもたちは、肉体的・暴力的な成長力を自覚し始めたときに、自尊心回復のために教師や学校に反抗や抵抗をこころみる。それが校内暴力となって80年代前半に公権力に押さえ込まれたとき以来、ほかの生徒たちの自尊心を自分たちと同じようにこなごなに打ち砕く快楽へと変わっていった。それはほかの者を思いのまま操ったり、自尊心を破壊できる自分の力の誇示であり、自信回復のこころみなのである。

 いじめにふたつの大きな問題がふくまれている。日本人の集団無法状態と、知のヒエラルキーというモノサシの問題である。知識産業への反逆と、集団暴走の歯止めなさが合わさったとき、いじめは暴走しつづけるのである。日本人はこのふたつの大きな日本問題にどのような解決を見い出そうとするのだろうか。


いじめ問題の発生・展開と今後の課題―25年を総括する いじめ・いじめられる青少年の心―発達臨床心理学的考察 いじめ問題ハンドブック―学校に子どもの人権を 日本のいじめ―予防・対応に生かすデータ集 いじめ現象の再検討―日常社会規範と集団の視点
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02 26
2007

集団の序列争いと権力闘争

『女の子どうしって、ややこしい!』 レイチェル・シモンズ


女の子どうしって、ややこしい!
レイチェル・シモンズ 鈴木 淑美

女の子どうしって、ややこしい!

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 これはまちがいなく私が何年も前から読みたいと思っていた本だ。グレート・ブックスに選ばれるべきものだ。

 女の子どうしのいじめやいやがらせ、無視などをとりあげた本なのであるが、私もつくづく集団のむずかしさというものを思い知らされてきた。個人はいい人であっても、集団となると人間はまったく「別の生き物」になる。暴虐性や残酷性を発揮して、人びとを呑みこみ、手のつけられない状態になる。集団の力学に捉えられると、集団は「妖怪」になるといいたいくらいだ。

 だれもが経験したと思う。学校でのいじめや仲間外れの怖さ、そして仲間との不安定な関係やいつ切れるかもしれない友だちとの危うい関係。私はいつしかもうそんな集団との関わりはできるだけ避けたいと思うようになっていた。そしてどうやったら集団とうまくつきあえるのか、答えを探りたいと思うようになっていたのだが、驚くことに心理学や社会学では集団での関係がまったく研究されていないのだ。

 個人の心理学はたくさん研究されていたり、群集心理などはいくらか研究されているのだが、この仲間集団の研究というものがまったくなされていないのである。人間というのは個人が孤立して存在する心理的存在というものではまったくなく、ハナから集団人といってよい存在である。仲間や集団によって人間は変わり、動かされ、パーソナリティも決まる。それなのに集団が研究されていないというのは恐ろしいことである。

 この本では女の子の陰湿ないじめの手法を「裏攻撃」と名づけ、怒りや衝突を避けるために女の子は独特な遠まわしのいじめをおこなうとされ、直接的なけんかや対立をいとなわない男の子と違うとされているが、男だってそんなに変わらないと思う。非行や暴力的なものが禁止されればされれるほど、男のいじめも女性に似てくるのではないかと思う。

 女の子でとくに目立つのがひとりを怖がり、とにかく群れることだろう。「休み時間にひとりで歩くのはいやです」「ホームルームやランチの時間、廊下を歩く時にひとりきりにならないためなら――なんでもするだろう」「それはつまり、まわりから孤立しているということ。何か変なところがある、ということなんです」「「完璧な女の子」は「完璧な人間関係」とセットだと知っている」「人間関係の不安定さが女の子の日常を黒雲のようにおおっているために、孤立の脅威はいつも重くのしかかっている」「人間関係の技術が女の子の社会的アイデンティティを決めるとすれば、孤独は最悪の不幸である」

 女の子は友だちとうまくやることが期待されており、孤立することはその失敗の烙印なのである。女の子はそれが恐怖である。だからいじめやいやがらせがおこなわれるとき、徒党や同盟を組んで集団で無視されたり、いやがらせをされたりするのである。女の子の最大の恐怖が利用されるわけである。「関係性による暴力」という策略がもちいられるのである。

 このダメージやトラウマを背負った女の子たちは何十年たっても鮮明にその恐ろしさを覚えているというし、自分を虐待する友達であってもその仲間関係から離れられないのである。女の子のいじめは仲良しグループの内部で外に見えないかたちでおこなわれるのである。これはまさしく男女間で生み出されるドメスティック・バイオレンスの原型をとなるものである。女の子にいわせれば、それも「ひとりぽっちになるのにくらべれば、なんでもまし」なのである。

 「失敗の烙印」を押されたくないがために女の子たちはだれかをその血祭りにあげる。恐怖はだれかの贖いによって埋められるのである。これは男でも、どんな集団関係においても働いている基盤となるルールだろう。そしてその恐怖はその集団内において上や下にはみ出るものたちの縛りや同調化をうながし、人びとの自由や信条を奪い去ってゆくものなのである。

 私たちはこの集団というものの恐怖をどうやったら制御できるのだろうか。集団に支配されるのではなく、集団を支配すること。そしてどうやったら集団とうまくつき合え、集団の凶暴性やいじめの同調化に巻き込まれずに抗することができるのか、そのような知恵と技法がぜひ必要なのである。われわれはあまりにも集団というものを知らなさ過ぎるのである。

 著者のレイチェル・シモンズは女の子の攻撃性が社会的に認められていないため、このような水面下でのいじめがおこるといい、女性の攻撃性が認められる社会になることが必要だといっている。仲間とうまくやることが重視され過ぎる社会はぎゃくに孤立やいじめを生むのである。仲良しごっこは孤立という落とし穴を前提として成り立つ。仲良しは対立や外部が元からセットなのである。しかし攻撃性を表に出しすぎるのもな~と思わなくもないが。まあ、内なる攻撃性を認識するのが大切だということである。

 白人中流階級とは対照的に黒人やヒスパニックでは怒りや不満は口に出す。相手と対決することは母から教えられるという。人間関係を最優先して「いい子」になるのは危険なのである。他人との衝突を避けると「クズ」の烙印を押され、もっとひどい暴力を受けるそうである。なんかこの話を聞いていて、すかっとした。

 私たちは集団やグループというものをあまりにも知らなさ過ぎる。だれもが学校や職場、家庭などで経験しているものなのに、研究の光が当てられることもない。そして集団の荒波の中をやみくもに泳いでゆかなければならないのである。この本はそのような集団の力学に光を当てた優れた本である。集団というものがどんなに凶暴で残酷なのか、白日の下にさらすだけでも大きな価値があるというものである。


女の子って、どうして傷つけあうの?―娘を守るために親ができること 母親が知らない娘の本音がわかる本―小中学生の危険なサインの見抜き方・向きあい方 女の子はいつも秘密語でしゃべってる 自分をまもる本―いじめ、もうがまんしない いじめ14歳のMessage
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