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02 21
2013

書評 哲学・現代思想

保守はジジイのむかしへの情緒的愛着ではないよ―『日本人として読んでおきたい保守の名著』 潮 匡人

4569800076日本人として読んでおきたい保守の名著 (PHP新書)
潮 匡人
PHP研究所 2011-08-12

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 イメージでしか保守を知らなかったとき、時代の変化についていけないジジイの情緒的愛着くらいしか意味がないと思っていたけど、保守にも論理的批判力のあるバックボーンがあると知って見方がだいぶ変わった。

 わたしはハイエクの説くような経済的自由には賛同している。でも右翼の伝統とか全体主義につながるような保守には近づきたくないと思っている。わたしは個人主義礼賛で、集団主義や全体主義には批判的だ。保守思想はこれをどう結びつけているのだろう。

 ただアーレントは全体主義はアトム化や民主主義からはじまるといっている。ナチズムは民主主義からはじまったといわれるし、右翼の強権的な政治が自由をもたらすようにはとても思えない。いったい全体主義につながらない個人の自由はどこにあるのだろう。

 わたしはフランス思想の影響を吸収したのでどうも進歩思想的な考えにそまるところがあったのだが、心理学的にはこれは現状を批判するというネガティブ・シンキングに傾きがちになるので、現状を肯定するという意味ではポジティブ・シンキングに近い保守思想に耳を傾けたほうがいいのではないかとも思うようになった。批判ばかりなら人生を不幸に落とし込んでしまうからね。

 保守思想にかんしてはハイエクの『隷従の道』の「知性の限界」とか「知性の万能主義批判」ということにひじょうに学ばせてもらった。人間の知性は万能ではなくて、貨幣のような大きなものには自然のメカニズムに任せるしか、人間の独裁や権力をふせぐ方法はないのだという考えにはひじょうに納得する。

 中川八洋の『正統の思想、異端の思想』にも目からうろこが落ちるような思想の系譜をまなんだ。ただこの人の右翼的思想とか感情的罵倒、たまにもれる電波な意見とかは一ミリも共感できないのだけど。わたしは右翼的思想、国家主義的な思想には不快感を感じるだけである。

 だからこの本の著者の基本姿勢は右翼的なにおいを感じるのでそこは拒絶の気持ちがはたらく。わたしはマーケットに任せろという保守の考え方には共感をおぼえるが、右翼や国家主義的な考えにはまったく共感できない。ハイエクやフリードマンを保守の系譜から外せば、保守思想にはあまり共鳴するものがないのかな。

 この本では保守思想家がならべられて紹介されているのだが、中川八洋の『正統の思想、異端の思想』のような感銘もうけなかったし、思想家の人となりに紹介も多く割かれていて、まあ思想の深みにはあまりふみこんでいない内容といえるのではないかな。経済的自由からの保守のアプローチと国家主義的な保守のアプローチでは違うものを感じる。「日本人として読んでおきたい」といタイトルもひじょうに強制的でいやなタイトルだね。

 ざっとこの本から感銘した言葉をひきうつす。

「自分の先祖を振り返って見ようとしない徒輩は、決して自分の後裔にも目を向けないだろう」



 保守思想の祖エドマンド・バークの言葉である。バークはフランス革命に批判的だったわけだが、国家の前に裸に投げ出されるかたちになる民主主義国家の先にナチズムや社会主義国家を見ていたのかもしれませんね。わたしたちの国は民主主義に疑問をいだくことはすくないのだけど。

「私は商業の習性ほど革命の習性に対立するものを他に知らない」



 トクヴィルの言葉。トクヴィルの「多数者の専制」という言葉にひじょうに鋭い警句を感じてきたのだが、トクヴィルはフランス革命で家族、親戚など多くのものを失ったことをこの書で知った。

「それ(平等)は人間を互いに孤立させ、誰もが自分のことしか考えないようにさせる。それはまた人々の心を度外なほど物質的享楽に向かわせる。宗教の最大の利点はこれと正反対の本能を吹きこむところにある」



 平等は日本では絶対的な正義や善に思われることが多いのだが、トクヴィルや保守思想家は平等の危険性や招来するものにとくに警戒していた。平等に対立するものは貴族や高貴さであって、保守思想はこの思想に力点があると思うのだが、ニーチェやオルテガ、J・S・ミルなどの大衆批判はこの点から立ち上がっている。

「人間を正気に保ってきたものは何であるのか。神秘主義なのである。心に神秘を持っているかぎり、人間は健康であることができる。平常平凡な人間がいつでも正気であったのは、平常平凡な人間がいつでも神秘家であったためである」



 チェスタトンの言葉である。意外な気がするのだが、神秘のないニヒリズムは狂気に向かうのだろうか。

「民主主義の信条とは、もっとも重要な物事は是非とも平凡人自身に任せろというにつきる」



 危うさを感じるチェスタトンの言葉である。

「単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の放漫な寡頭政治以外何物でもない」



 チェスタトンはそれゆえに伝統を重視する。死者の民主主義というわけだ。

「無実の人々が蒙った前代未聞の危難の見本を示すことによって、不可侵の人権などというものは単なるお喋りに過ぎず、民主主義諸国の抗議は偽善でしかないことを、実際に証明することにも成功したからである」



 アーレントはアウシュビッツを指しているのだろうが、のちのナチスに加担することになるハイデガーと不倫関係にあったとは皮肉なことである。でも戦後、公職から追い出されたハイデガーを公に擁護したということだが。


▼この本にとりあげられた保守の名著
新訳 フランス革命の省察―「保守主義の父」かく語りきアメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)正統とは何か全体主義の起原 1 反ユダヤ主義

開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】道徳的人間と非道徳的社会 (イデー選書)

▼保守思想を学ぶ本
正統の哲学 異端の思想―「人権」「平等」「民主」の禍毒悪魔の思想―「進歩的文化人」という名の国賊12人思想の英雄たち―保守の源流をたずねて (角川春樹事務所 ハルキ文庫)ハイエク―マルクス主義を殺した哲人アメリカの保守とリベラル (講談社学術文庫)


08 04
2012

書評 哲学・現代思想

「世界は消え続けてきた!」―『人生に生きる価値はない』 中島 義道

4101467307人生に生きる価値はない (新潮文庫)
中島 義道
新潮社 2011-09-28

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 コラム・エッセイをあつめたもので、中島義道の人となりが知れてよかった。フーコーやレヴィナスのような流行の思想家は読めないこと、ニーチェは還暦をすぎたことからわかりだしてきたことなど意外。「みんな一緒主義」とか「仲良し主義」への批判はあいかわらず同感する。

 中島義道は人は顔色をうかがってばかりいる人や空気に縛られて窮屈だと思っている人、みんなといつも一緒だとか友だち主義に気疲れを感じている人にはおすすめの哲学者である。

 このコラム集のなかでいちばん感銘したのは「世界は消え続けてきた!」という時間論にかんする章である。近来ないほどの思考の転換があったということだ。

「「未来はない」ということを明晰かつ判明に腹の底から確信した。

…断じて「まだない」のではない。それについて語ることさえできない絶対無なのだ。

…「未来に起こると想定したあるもの」は、未来に起こることではなく、現在そう考えていることだけのことである」



 「未来はただの想像にすぎない」といったことや、「未来は存在しない」と言葉でいっても、それを腹の底から実感として感じることはまたべつである。想像や言葉の「実在感」をばりばりに感じてきた人こそ、その消滅の衝撃につき落とされる。

「世界は絶えず消えていく。

…広大なシベリアは刻々と消えていくのだ。いや、地球も、太陽系も、銀河系宇宙も、まるごと崩壊していくのだ。

…私が数時間前にそこから飛び立った成田空港はいまはまるごと消えてしまって「ない」。そして、やがて私が到着するであろうシュベヒャート空港もまったく「ない」。私はいま無と無のあいだを飛んでいるのだ」



 人は未来も過去もある、確実にあると思い込んでいるものだが、じっくりと観察してみると未来と過去の事物はまったく存在しないか、消滅してしまったものである。わたしたちは存在しない事物をいかに「創造」しているかということである。

「この世界は確固としたものだという錯覚に陥るのは、言葉のせいである。

…言葉が刻々と変化し続けるものを、時間が経過しても変化しない「一つの物」とみなす錯覚に導くのである」



 われわれは言葉や創造による事物の「創造」をいかにおこなっているかということだ。そしてそれは「存在しない」のである。

「客観的時間とは、たぶん壮大な錯覚なのだ。じつは存在しないのに、あたかも存在するかのようなものにすぎないのだ。

客観的世界信仰から脱すべきだと思う。そこに「私の存在」が書き込まれていない、いや原理的に書き込めない世界が、なんで実在世界でありえよう?」



 わたしの「外側」に客観的世界があると思い込んでいるわけだが、はたしてわたしという認識主体をなくして世界は存在しえるだろうか。わたしがなくなれば、この世界もなくなるのではないのか。

                    *

 中島義道は徹底的に考えてきた人である。言葉と論理で確証するために考えること、悩むことを手放さなかった人である。

 じつは上記のようなことははるか二千年前から仏教がいってきたことであり、仏教の教えを受け入れていたら、中島は苦しんだり、悩むこともなく、それを手放す知恵を手に入れられるのにどうして言葉と悩みの方法を選んでしまうのだろうと疑問に思ってきた。中島はたぶん自分が言葉で理解するまで、自分の実感として理解するまで、安易な解決方法を拒否してきたのだろう。西欧哲学は仏教をうけいれてはいない。

 中島が時間や客観世界の「無」を実感する道筋にたどりついたのは、たぶん死にたいする恐れが強烈に強かったからだろう。時間の「無」、客観的世界の「無」を悟ることは、死の恐怖を立ち上がらせる思考の根源を断つことである。

 なぜなら人は死を客観的には体験できず、死を体験するときはすでに意識がないからであり、自分の死の恐怖は未来の想像にすぎないからである。これらが言葉や想像による「無」であるなら、なんら恐れることはない。恐れていた死はただの「想像」であったのである。中島は死の恐怖の克服のために、ずっと哲学してきたことといえるだろう。

 タイトルの『人生に生きる価値はない』という言葉も、死の恐怖を和らげるための言葉である。死が恐れられるのは、生きることに価値をおいているからである。生きていることの消滅はその価値ある生の消滅である。だから人生に価値がないと思うことによって、その人生の消滅もなんら大きな価値も意味ももたないことになる。

 中島は死に対する恐れを克服するために哲学をしてきて、西欧哲学を経由した上で、仏教や東洋思想が語ってきた思想に接近したのである。東洋思想に安易に接近しなかったのは、遅れた東洋や俗習である宗教という偏見でもあったのだろうか。

 だから中島は意地でも言葉と論理によって理解しようとした。苦しみや悩みが大きいとしても、その問いを手放さなかった。なんで中島は手軽な解決法が東洋思想に提供されているのに、その方法を使わないのかと思ってきた。だけど文庫版あとがきで「回心」のようなことが書かれていて、安心した。

「還暦をすぎるころから、私は「無が一番いいのだ」という漠然とした直感を抱くようになった。空間も、時間も、物質も、意識も、文字通り何もないとすれば、どんなにラクであろう。われわれは悩むことも悲しむこともない。死を恐れることも後悔にむせぶこともなく、他人と比較してわが身の不運や愚かさを嘆くこともない」



 中島は哲学することによって悩むことや苦しみことをみずから選び、そういった道を放棄したふつうの考えない人たちの人生を非難してきた人だ。そこまで極端にやらないで、ときには安易な方法を選んでいいのではないかと思ってきた。だけど論理と哲学のすえにようやく安心の境地を中島は見いだしたようだ。自分自身がその道を通らないと絶対に納得しない哲学者の魂をずっともってきたのだろう。



カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ (新潮文庫) 私の嫌いな10の人びと (新潮文庫) ひとを“嫌う”ということ (角川文庫) 孤独について―生きるのが困難な人々へ (文春文庫) どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか? (角川文庫)
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07 21
2012

書評 哲学・現代思想

「真理や客観などない」―『「自分」を生きるための思想入門』 竹田 青嗣

4480421750「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫)
竹田 青嗣
筑摩書房 2005-12

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 竹田青嗣は現代思想を勉強するさい、今村仁司とともに参考にさせてもらった。内田樹はそのあとに出てきた哲学者なのでブログはよく読んだが、書籍では読む機会を逸した。

 竹田青嗣の紹介でいちばん知りたかったことは、客観や真理が現代思想ではすでにそんなものはないと宣言されていたことだ。「言語ゲーム」や「ルールの網の目」でしかないというポストモダンの思想をいちばん確認したかった。

 でも学校や世間ではどうも「正解」や「真理」がある、わかるという前提で了解されているようで、この思想と常識のギャップってなんなんでしょうね。学校って「近代」までのもので、ポスト近代になったら学校というところでものを教えられないのでしょうか。

 この「真理なんてない」という考え方を確認したくて、思想のいろいろな本を漁った。やはりこの点で宣言したのは岸田秀の「唯幻論」であり、リオタールの『ポストモダンの条件』であり、ニーチェの『権力への意志』であった。ウィトゲンシュタインはこむづかしそうで、とっつけなかなった。フッサールもはじめから客観世界をあきらめているのですね。

 真理なんてないという宣言は大きな転回をもたらすものであるが、なぜか世間でそういう言葉を聞かないこともあって、わたしは確認作業に念を入れなければならなかった。なぜそんなに確認作業が必要だったかというと、自分たちのもつ「自明性」「常識」「世界観」の強固さ、頑丈さをゆるがせるのがいかにむづかしったかということだ。

「人間が持つ自=他関係の物語は、単なる理解ではなく、必ず彼のこう生きたい(ありうる)を指し示すものだからです。

「関係」が欲望を作るという言い方は、正確には、人が自分と世界をどういう関係として理解しているかが彼の欲望の内実(=形)を作る、と言い直すのが適切です。

欲望そのものがその人が何であるかを決めるのではなく、欲望に対する自己理解が、その人の態度や精神その人の人間が何であるかを決めるわけです」



 「世界観=その人の生き方・欲望」という考え方は理解するのがむづかしかったですね。世界観と欲望は別個のもの、ぜんぜん関係ない切り離されたものと捉えられるからだ。しかし世界観はそのまま欲望を指し示すものなのである。欲望の水路のあり方を切り開くといったらいいか。

 その社会の共通了解の無根拠性を確認したあとに、わたしはトランスパーソナル心理学や仏教の思考の虚構性や幻想性について読み漁ることになった。社会のつぎに思考や意識の幻想性を確認しなければならなかった。わたしたちは「頭で考えること」の根拠や絶対性をいかに頑なに信じているかということだ。現代思想はこの領域にはつっこんでいないのだけどね。

 この本は欲望やエロスについて語られているが、ひさしぶりに再読してみて、欲望を肯定しているのか、欲望をめざすことがいい生き方なのか、ちょっと憮然とした気もちをひきずったままだった。

 わたしはできることなら欲望を肯定する生き方より、欲望を削減する生き方のほうが好みだった。脱俗とか隠遁の思想には共鳴することが多い。だからこの本はちょっとね、と感じる部分も多かった。竹田青嗣は欲望を肯定しているの?、ロマン的な高い欲望は肯定するの?

 竹田青嗣は仏教や東洋哲学の理解がないようで、その面からのまなざしがあったらもっと展望が広がると思うのだけど、西洋哲学だけに頑ななのね。

 竹田青嗣はこの本もふくめて3,4冊は読ませてもらった。そのあとヘーゲルだとかフッサールの読み方を教えた哲学研究者っぽい基本書を出すことが多いようね。今村仁司みたいに思想家も精読しながら、自身も現実と格闘しながら思想を紡ぎだすというタイプではないのね。


▼真理と客観の終了宣言
ものぐさ精神分析 (中公文庫)ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)自我の終焉―絶対自由への道

▼竹田青嗣の著作
竹田教授の哲学講義21講―21世紀を読み解く完全解読 フッサール『現象学の理念』 (講談社選書メチエ)超解読! はじめてのカント『純粋理性批判』 (講談社現代新書)中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書)現象学は思考の原理である (ちくま新書)

人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義 (ちくま新書)言語的思考へ- 脱構築と現象学自分探しの哲学―「ほんとうの自分」と「生きる意味」恋愛論 (ちくま学芸文庫)よみがえれ、哲学 (NHKブックス)

07 05
2012

書評 哲学・現代思想

レヴィ=ストロースの方法論をさかのぼると―『はじめての構造主義』 橋爪 大三郎

はじめての構造主義 (講談社現代新書)
講談社 (2014-02-21)
売り上げランキング: 10,701


 構造主義にはフーコー、アルチュセール、バルト、ラカンといった人たちがいるのだが、この本はそれらの人を紹介したというより、レヴィ=ストロースの「構造主義」という方法論はどのようなものかをひたすら説明した本である。だれかカタログ的に魅力的な思想を語った人はいないかと探る本ではない。

 構造主義に属する人たちは1900年代から20年代に生まれている。レヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』を発表して構造主義が流行り出したのは1955年であり、フーコーも60-70年代に主著を発表している。もうだいぶ前の思想潮流なのだが、日本では現代思想として通用するし、しっかりかみくだかれたかは、はなはだ頼りない。

 わたしはレヴィ=ストロースの本は一冊も読んでない。みすず書房とか高いし、未開民族のことをそこまで興味をもてなかった。人文学の知が西洋文明の優越感や正当化にどのように貢献してきたかという問題意識でそのジャンルを漁ったことはあるが、レヴィ=ストロースはその網にはかかってこなかった。

 フーコーは何冊か読んだり、アルチュセール、バルトの本は一冊くらい読んだ。ラカンは難解という評判からか手を出せなかった。もうポスト構造主義の時代になっており、ドゥルーズやデリダの時代になり、いまは新しい思想潮流はどうなっているのだろう。日本では「ニューアカデミズム」という名前で80年代に流行ったそうである。

 この本ではレヴィ=ストロースの構造主義とよばれるものはどのような方法を使っており、その方法はどんな思想家のどんな考え方が適用されているのか説明されている。構造主義はその方法論、思想の流れを知れば、わかるということである。

 ソシュールにさかのぼって、ヤコブソンの方法が紹介される。親族の基本構造に言語学の考え方が応用されたのである。遠近法や現代数学なんか出てきて、数学が苦手なわたしはかなりの頭のアクロバット状態になる。そういう思想的な潮流から流れてきた方法論が構造主義の基礎をなしているということである。

「われわれはつい、言語と無関係に、世界ははじめから個々の事物に(言語の指示対象)に区分されているもの、と思いがちだ。ところが、そんなことはないので、言語が異なれば、世界の区切り方も当然異なるのだ。

ある言葉が指すものは、世界のなかにある実物ではない。その言語が世界から勝手に切り取ったものである。また、言葉がなにを指すかも、社会的・文化的に決まっているだけである」



 ソシュールの言語学は言葉の恣意性や関係性を暴いて、今日の思想界に多大な影響をのこしたのだが、まあ「さいしょに言葉ありき」の世界観をつきつけたわけだ。母語が違えば世界が異なる。人間は言葉の世界を世界と思っているのではないか。

 ヤコブソンの音韻論やモースの贈与論を通って、未開民族のありようにたどりつく。

「”価値あるものだから交換される”のではない。その反対に”交換されるから価値がある”のである。

社会(人びとのつながり)とは要するに、交換することなのであって、誰もかれもが交換に巻きこまれていく。交換されるものに、「価値」がそなわっているとしか見えなくなる。こうしたことが、社会的事実(個々人の意思を離れ、社会全体で成立してしまう事柄)として生じていることを、指摘したのだ」



 結婚とは女性の交換であるということを、言語学の発見によって導かれる。人間のありかたとは言葉によって規定・決定されているのではないか。「社会関係とは言語なのである」といいそうだ。

 構造主義は真理を制度だと考える。人間が勝手にこしらえたものを真理とよぶ制度のなかにわれわれは生きている。この構造主義のメッセージはずいぶんインパクトがあるもので、わたしはこの主張をしっかりと理解するために「共同幻想論」というジャンルの本をたくさん読まなければならなかった。

 構造主義は「主体」という言葉がキーワードになるようだが、構造主義は「主体を超えた無意識的・集合的な現象が重要だ」という考えが根本にあるようである。人間を主体的に考えているようでは人間のことなど理解できない、と構造主義は考えるようである。

 この構造主義の考え方が出てきた思想的背景を数学や遠近法に求める説明がこの本の後半をなしていて、これは数学を苦手とするわたしの頭にはかなりキツイ部分である。その果てに真理は制度といったことや主体の疑問などが導かれるわけだが、結論はこういうことだ。

「オーストラリアの原住民の結婚のルールは、抽象代数学の、群れの構造とまったく同じものなのだ!

先端的な現代数学の成果とみえたものが、なんのことはない、「未開」と見下していた人びとの思考に、先回りされていたのだ」



 レヴィ=ストロースは西洋進歩史観にくさびを打ちこんだと受容されたようだ。もう帝国主義や植民地支配、西欧中心主義、理性万能主義の終わりにヨーロッパの人たちが気づきだしたころ、レヴィ=ストロースはその思いをしっかりとかたちにしたのである。ほかの構造主義の思想家たちも西欧中心主義の批判や懐疑を深く抱えもっているといえるのだろう。

 こういう解説書にあらわれる構造主義と、本人たちの書いた書物にあたるとそういう主張に出会わないことが多い。その語られる内容にどっぷりつかっていて、包括的な視野での批判というものが見えにくい。いや~、解説書にはっきりとうたわれていたことが読み込めないなあ、ということによくぶち当たる。

 またぎゃくに、原著のほうがわかりやすいばあいもあるのだが、その本には解説的見地を読み込めないこともよくある。まあ、解説書というのは原著の印象と異なるものである。興味をもたれたら、本人たちの書を読もう。


親族の基本構造構造人類学野生の思考悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)生のものと火を通したもの (神話論理 1)

ソシュール一般言語学講義―コンスタンタンのノート監獄の誕生―監視と処罰再生産について 上 イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー)エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)エクリ 1

06 30
2012

書評 哲学・現代思想

現代思想の憧憬をドライブする本―『現代思想のキイ・ワード』 今村 仁司

4480422129増補 現代思想のキイ・ワード (ちくま文庫)
今村 仁司
筑摩書房 2006-05

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 現代思想をとても魅力的に紹介した本で、わたしは二十年前にこの本を参考に思想家の本を、知の頂点にふれられる期待や楽しみに駆られながら、読めるかなあと書店を回っていたものだ。現代思想家の印象はだいたいこの本から与えられた。

 85年に講談社現代新書から出された本で、いまはちくま文庫に入っている。浅田彰の『構造と力』が10万部のベストセラーとなり、「ニューアカデミズム」と騒がれた時代があった。栗本慎一郎や中沢新一、上野千鶴子とかが踊っていた。

 世はバブル、ファッションの記号的消費やワンランクアップの消費の流れの上に、知の所有や自尊心の優越に流れた部分もあったのだろう。「おしゃれ」や「カッコよさ」としての知の所有。デザイナーがヨージ・ヤマモトとかレイ・カワクボ、ジャン・ポール・ゴルチェなどの記号として所有された時代だ。現代思想家もその流れの一員だったかもしれない。まあ、それは大きな流れとならなくて、みんなマンガとか音楽で平気な時代だったので、教養のクソ強制の時代にならなくてよかった。

 現代思想家をスゴイとか、すさまじいことを語っていると外側から憧憬するようなミーハーな面ももっている本である。日本の西洋輸入品の受容のしかたというものはそういうものだろう。「西洋=進んでいる=カッコいい」という信仰はBMWとかベンツの記号とおなじようにずっとつづいているのでしょうね。

 今村仁司の興奮した語り方はまるでアイドルにたいしての熱中のように感情で語られている。でもそういう感情や興奮で語られた本であるからこそ、魅力をつたえたのでしょうね。現代思想もミーハーの一種。高尚で高級なものだって、受容の仕方はアイドルや俳優のミーハーな熱中と変わらない。

             *

 この本は現代思想の課題や問題をキイワードとしてとりあげた本で、現代思想家にたいする期待や熱中があつく語られている。たぶんに今村仁司という人の熱中と情熱がなかったら、その温度はつたわらなかっただろう。

 冒頭にはドゥルーズのノマドロジーやリゾームがとりあげられている。わたしも本屋で見かける『アンチ・オイディプス』や『ミル・プラトー』の高くてぶあつい本を手にとってながめては、読めるかなあと何度も値踏みしたものだ。文庫本になった『アンチ・オイディプス』をさっそく読んでみたが、詩とか文学みたいな内容に超絶不理解だった。権威や評価をさし引いたら、支離滅裂な妄想ともいえなくないか。

アンチ・オイディプス千のプラトー―資本主義と分裂症 →文庫化 アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)


 アドルノやホルクハイマーのフランクフルト学派のドイツ思想にも今村はずいぶんと高らかに期待を語っていた。ベンヤミンの思想はそのあとにたくさん翻訳されましたね。啓蒙や理性といった近代的知性がどうして圧制や暴力などの野蛮を生んでしまうのか、フランクフルト学派はそういった問いと向き合い、フランスのフーコーはその業績を知らずに独力でその道を切り開いたということだ。

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)否定弁証法ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)


 フーコーは脱中心化というキイワードで語られている。今日はフーコーの翻訳はすさまじい数が翻訳されていますね。それだけフーコーの知識と権力の不穏な関係はインパクトがあるのでしょうね。わたしはフーコーの写真集をもっていますね(笑)。

監獄の誕生―監視と処罰狂気の歴史―古典主義時代における知への意志 (性の歴史)611gRwXpHKL__SL500_AA300_.jpg


 バタイユも破門された思想家としてとりあげられている。バタイユは栗本慎一郎が魅力的なかたちで紹介していますね。マルクスはもう経済学としてスルーされていたと思うのだけど、今村はマルクスをかなりもちあげている。アルチュセールの思想を読み込む人だから、マルクスは重要な思想家だったのだろうね。ん? 85年にはソ連の崩壊もベルリンの壁の崩壊もまだだったか。

 デリダは世界で大流行して、アメリカではおもに文学研究としてとりいれられたそうだ。わたしは『グラマトロジー』という本を読んだが、ほとんどわからなかったな。言葉では形而上学の土台をゆるがして、うんぬんというのだが、なんのことをいっているのかさっぱり。

 スピノザもずいぶんもちあげているのだが、『エチカ』を力ないし政治の存在論として読めという。『エチカ』という書物は数学の証明のようにものごとを語っており、真理の証明や確実性が揺らいでいる時代だったんだな、くらいの印象しかない。

 スピノザを読みこんだアントニオ・ネグリの迫力がすさまじいといっていたが、のちに00年代あたりになってぶあつい書物が何冊も翻訳されていたな。ネグリはアウトノミアのアンチ労働について知りたいと思ったが、どの書に語られているのかよくわからずじまい。

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か資本論を読む〈上〉 (ちくま学芸文庫)再生産について 上 イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー)

グラマトロジーについて 上エクリチュールと差異 上 (叢書・ウニベルシタス)文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)野生のアノマリー――スピノザにおける力能と権力構成的権力―近代のオルタナティブ<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性


 群集も問題としてとりあげられている。オルテガの懸念したような画一化・均質化する大衆ですね。カネッティの『群集と権力』、モスコヴィシ『群集の時代』がくわしいようですね。わたしはトフラーの『第三の波』で工業化の規格化にその理由を多く見えた気がするが。

 そして今村は暴力をとりあげる。今村は暴力について考えつづけた思想家であったかもしれない。ベンヤミンの『暴力批判論』、アレントの『暴力について』といったものを経由して「神話的暴力」について語る。

 ノイズ、儀礼について語り、全体主義に言及する。ハクスレーの『ガザに盲いて』、アレントの『全体主義の起源』、そしてトーマス・マンの『魔の山』。「社会改良の総合計画を持つ政府は、拷問をやる政府なのである」。

群衆と権力〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)世論と群集群衆心理 (講談社学術文庫)第三の波 (中公文庫 M 178-3)暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)現代世界文学全集〈第19〉ガザに盲いて (1955年)全体主義の起原 1 新装版魔の山 (上巻) (新潮文庫)


 ユートピアについては20世紀は社会主義という夢にとりつかれたのだから、この思想的問題を考えるのは思想家としてとうぜんのことだろう。わたしはハイエクに「知性万能主義」の誤りということを学んだ気がするが。今村は中里介山の『大菩薩峠』を題材にえんえんとユートピアの型について語るのだが、この作品って大長編なのでつりつく島がないという感じだな。

 自由の項ではアイザイア・バーリンの『自由論』から、「積極的自由」と「消極的自由」について語る。わたしは企業や労働からの自由を考えたかったのだが、思想家でそういうことを考える人が少ないのだな。今村仁司は『近代の労働観』とか『労働のオントロギー』で労働も思想的課題として考えていたのだが。

 オートノミー(自律性)についてはカストリアディスをとりあげる。わたしは自分が興味ある共同幻想についてカストリアディスが『社会の想像的創出』という本で語っているかと思ったのだけど、そういうのはリオタールの『ポストモダンの条件』や竹田青嗣の著作に語られていたようだけど。

 希望の項ではレヴィナスの思想がとりあげられるのだが、フランクフルト学派の問題意識――暴力の発現を抑制する倫理的基準を探求するという課題を継承したものとしてあげられている。内田樹なんかはレヴィナスのファンらしいのだが、わたしはあまり興味をもてないというか、なにを語っているのかわからない。

希望の原理 第1巻ザ・大菩薩峠―『大菩薩峠』全編全一冊自由論近代の労働観 (岩波新書)

想念が社会を創る―社会的想念と制度 (叢書・ウニベルシタス)ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))全体性と無限 (上) (岩波文庫)


 この本でたくさんの思想家を知り、たくさんの思想の内容を知った。なにを問題にしていて、なにを乗り越える課題としてきたのか。

 でもわたしの関心事と思想家の問題意識がすべて重なるわけでもないし、なにを語っているのかちんぷんかんぷんの思想家もとうぜんいた。なぜそういうことを問題にしているのかわからない思想家もいた。

 わたしのおもに考えたいことは労働からの自由であり、共同幻想や思考の虚構性といったものをいちばん知りたいと思っていた。知りたいときというのはなにを問題にして、なにを知りたいのかもわからなくて、ただ漠然とそのテーマについて知りたいと思うものだ。そういう辿り方をして自分の知りたいことと出会ってゆくのではないだろうか。

 出会ってよかった本だと思っている。この本と出合わなかったら、思想家への熱中も生み出せたかわからない。ただ思想はわたしの実際的生活、お金を稼ぐことや仕事に熟するといった知恵はてんでさずけてくれなかったのだけど、まあ知識をむさぼり、あさる楽しみを与えてくれた。感謝の一冊である。


▼今村仁司の仕事
抗争する人間(ホモ・ポレミクス) (講談社選書メチエ)近代性の構造 (講談社選書メチエ (1))交易する人間(ホモ・コムニカンス) (講談社選書メチエ)群衆―モンスターの誕生 (ちくま新書)貨幣とは何だろうか (ちくま新書)

親鸞と学的精神近代の思想構造―世界像・時間意識・労働現代思想を読む事典 (講談社現代新書)アルチュセール全哲学 (講談社学術文庫)ベンヤミンの「問い」―「目覚め」の歴史哲学 (講談社選書メチエ)

暴力のオントロギー現代思想の基礎理論 (講談社学術文庫)マルクス入門 (ちくま新書)

06 09
2012

書評 哲学・現代思想

わたしの人生の羅針盤だったかも―『幸福について』 ショーペンハウアー

4102033017幸福について―人生論 (新潮文庫)
ショーペンハウアー
新潮社 1958-10

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 二十歳すぎに読み、人生に大きな影響を与えたこの本を約二十年ぶりに読み返してみた。

 ショーペンハウアーは社交する人間を低級なものとしておとしめ、精神的・哲学的な生活を最高なものとして孤独な生き方をすすめた。社交する人間には精神的な能力がないために他人や社交に頼るしかないのだと批判した。

 われわれはぎゃくに学校生活で友だちがいない人間は仲間外れで、嫌われ者、のけ者にされたものとして嫌悪や不快の感情をいだくように訓育されてきた。それ以外の考え方や捉え方はできないような状態のなかで、友だちづきあいに至上な価値をおいた生活をおくってきた。

 だからショーペンハウアーのその価値を転倒させた考えにはひじょうにカウンターパンチを喰らった。わたしはもうべたべたして友だちづきあいとか、集団生活とかから距離をおきたいと思っていた。ひとりになりたかった。

 ショーペンハウアーは孤独を好むことを推奨し、群れる人たちに軽蔑をあたえる考え方をさずけてくれて、友だちや集団でないといけないという縛りから解放してくれた。でも人や集団から距離をおこうという考えは、その後の集団との関わりにいくたもの困難もさずけてくれたのだが。ひとりになりたいけど、つながっていないと居場所やそこに存在してはならないという意識も強烈に感じざるをえなかった。

「他の人たちに見られるような、単に実際面だけの生活、単に一身の安寧をめざしただけの生活、深みの進歩がなく単に延長的な進歩しかなしえない生活は、この知的な生活に較べれば悲惨な対照をなすものだけれども、彼にとっては単なる手段にすぎぬこうした生活を、世の常の人は、先に述べたように、それをそのまま目的と認めざるをえないのである」



 精神的な欲望をもたないで生活のためだけに生きる人をショーペンハウアーは強烈に批判した。

「ところが普通の人間は、事、人生の享楽となると、自己の外部にある事物を頼みとしている。財産や位階を頼みにし、妻子・友人・社交界などを頼みにしている。…このような人間の重心は外部に落ちる」



 これに対して精神的な欲望をもつ人をショーペンハウアーは褒めたたえる。

「だからこの種の人間にかぎって、何ものにも妨げられずに自己を相手とし、自己の思想と作品を事とすることが痛切な欲求となり、孤独を歓迎し、自由な余暇を無上な財産とし、それ以外のいっさいはむしろ無用なもの、あればかえって荷厄介なことが多いとものと考えるわけである。したがってこういう人間こそ、重心が全く自分自身の内に落ちているということができる」



 世間で教えられること、信仰されていることはこの考えとまったく逆だろう。友だちや華やかな交友がたくさんあるほうがうらやましく、孤独は悲惨でかわいそうだと思われている。ショーペンハウアーはその考え方をまったく逆転し、孤独に生きられない人をぎゃくにみずから精神的な欲望をもてないかわいそうな人だとしておとしめた。

「すべて社交界というものはまず第一に必然的に、人間が互いに順応しあい抑制しあうことを欲求する。全く自分自身のあり方に生きていて差し支えないのは、独りでいる間だけである。だから孤独を愛さない者は、自由も愛さない者というべきだ。人は独りでいる間だけ自由だからである」



 友だちや集団というのはみんなと同じであることを要求する。違ったことをすれば、それは内なる集団やわたしたちに向けての批判になるからだ。だからみんなといっしょにいるとみんなとおなじ行動をし、格好をし、趣味も同じにならならければならない。自分をもった人がこんな集団に適合することに価値はあるだろうか。

「むしろ他人との調和を重んじて、萎縮したり、さらにははなはなだしきはおのれを枉げたりすることを余儀なくされるのである。機知に溢れる弁舌や着想は、機知に溢れる人たちを前にしたとき以外は控えるがよい。すなわち普通の社交界で人の気に入るのは、どうしても平凡で頭の悪い人間であることが必要なのだ。だからこうした社交界では、われわれはほかの人たちと似たり寄ったりの人間になるために、大いに自己を否認し、自己の四分の三を捨てなければならない」




「他人と共同関係を結ぶためには、それに必要な多大の犠牲を払ったり、ましてや明らかに自己を否認してまでも他人との共同関係を求めようとしたりすることは、価値を豊かさとも内に具えた人ならば、思いとどまるであろうが、それを思いとどまらせるのは、いわば自己に対する満足感なのである。普通の人間は、これとは反対の気もちから、いかにも社交的、順応的になる。自分自身に耐えるより、他人に耐えるほうが楽だからである。人間が社交的になるのは、孤独に耐えられず、孤独のなかで自分自身に耐えられないからである」



 ショーペンハウアーの孤独を至上におく考え方の真髄はここに出ている。孤独にたえられない、自分自身に耐えられない人が社交や人とのつながりに慰めを求めるのである。社交や集団に価値をおく人たちはこういう反省をすこしでもしたことがあるだろうか。

「知性や分別によって憎しみや怨みをかき立てられるのが、絶対多数の人間である。人は話の相手となる人間が大いに精神的に優れていることに気づき、それを感ずる場合、相手もまたそれだけ自分の劣等で低級なことに気づき、それを感じているだろうという推論を、明瞭に意識しなくても、心中ひそかにくだすのである。知性や分別を見せるのは、すべての人に向かって間接にその無能と愚鈍を非難することになる」



 ショーペンハウアーのこの警句にはわたしは敏感に反応した。まわりの人たちのあいだで思想とか学問の話はしないようになった。こういう話をすると人の学歴コンプレックスとか知性の劣等感を傷つけるということがわかったので、なるべくこの話はもちださないようにした。わたしといっしょに働いたことのある人がわたしが人文書好きなことはたぶんだれも知らないだろう。

「人間は終始一貫、他人の意見、他人の思惑の奴隷となっているのである」



「われわれが他人の思惑を重視し、それに絶えず気に病んでいることは、通常、どんな目的活動にもまず類を見ないほどはなはだしく、いわば世間一般に波及したというよりはむしろ人間生来の偏執だと見てもよさそうなくらいである。すべての言動に当って、まずいちばん先と言ってよいくらいに気にするのが、他人の思惑である。われわれが今までのしたことのある気兼ねや心配のほとんど半分までが、他人の思惑に対する配慮から生じたことがわかるだろう」



 「人がどう思っているか、人にどうあつかわれたか」ということをずっと頭のなかに反芻するのが人間というものである。グルジェフはこれこそが自己の価値を保つための「自我」の存在理由だといったが、これは引き下げるか、消すかの選択をしたほうがいいのだろう。

「この名誉欲という動機を理性的に見て妥当と肯かれる程度まで抑制し引き下げること、すなわち不断に責めさいなむこの棘をわれわれの生身から抜き取るのがいちばんよいことは明らかである」



 人から認められたい、承認されたいという欲求は人間にはいちじるしく高くそなわっているものだが、この空しさや無益さを悟って、引き下げるなり、押さえ込むことがだ妥当である。この欲求をすこしでも押さえることができたなら、平静と平安はより身近になるだろう。


 ショーペンハウアーのこの処世訓は約二十年まえに読んで、わたしの生き方に関する影響を強くあたえた。とくに上に引用した、孤独と社交の価値逆転、精神的な優越が人を傷つけること、名誉欲を引き下げることの三項目はわたしの柱となってきた気がする。

 ショーペンハウアーだけではなくてほかの思想家などの似たような思想を読んで考えを形成した部分もかなりあるのだが、やっぱりショーペンハウアーの影響力は大きかった。ショーペンハウアーの注釈、くわしくわかるための解説としてそのほかの思想家が役立ったという面もある。

 出会った当初は皮肉っぽいなーとか、ここまで極端に考えたくないと思ったのだけど、月日を重ねるうちに自分の考えと違和感があまりないほどに自分の考えにもなっていた。

 やっぱりこの本でのいちばんのインパクトは社交や群れる人の低級さや愚鈍さである。ふつう一般では孤独のほうが非難され、社交に価値がおかれる。そういった価値観のなかでは孤独な人は自己を責めたり、他者から責めたりされがちだろう。

 だけどショーペンハウアーはまったくそうではないという。思想家、精神の価値を至上におく者にとってはまったく逆の価値観がひらけているのである。世間一般の価値観に従って生きるか、ショーペンハウアーの価値観に従って生きるか。

 それは人生の価値や目的をなににおくかで変わってくるのだろう。ショーペンハウアーの本を読むような人は精神的な価値をおく人生を選ぶほうがいいのかもしれない。


意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)孤独と人生 (白水uブックス)読書について 他二篇 (岩波文庫)存在と苦悩 (白水uブックス)

知性について 他四篇 (岩波文庫)自殺について 他四篇 (岩波文庫)随感録笑うショーペンハウアー



03 21
2012

書評 哲学・現代思想

ハイレベルな映画解釈―『映画の構造分析』 内田 樹

4167801256映画の構造分析―ハリウッド映画で学べる現代思想 (文春文庫)
内田 樹
文藝春秋 2011-04-08

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 内田樹はブログにとてもお世話になってきたのだが、本を読むのははじめて。2001年に『ためらいの倫理学』でデビューしたらしいが、わたしは90年代に現代思想の入門書を今村仁司や竹田青嗣に学んだので、いまいち内田樹の本を読む必要に駆られなかった。

 この本はとてもおもしろかった。知的にもハイレベルの好奇心を駆り立ててくれるし、この映画はこんな見方もあるのかと新しい見方を提示してもらえる。この見方は「おお」と感嘆できるレベル。

 現代思想は「わかる」ことより、すこし上の「わからないかもしれない」のすれすれをいくことがおもしろい。自分の知的レベルで読解できない能力の上を呈示されることは知的好奇心を駆り立てる。

 ただしキレキレの映画読解はすべてほかの思想家の借り物ではないのかという疑惑をきたしたが。まえがきやあとがきでも断られているとおり、この読解はジジェクやラカン、バルト、ミシェル・シオンという思想家たちの借り物がほとんど。

 独創やオリジナルがないではないかと思うけど、日本の思想家を読むということはすでに翻訳の思想家をあれこれ読む苦労をはぶくことを期待しているわけで、この本は内田樹なりのそれらの思想を編集してもらったもの+内田のオリジナルも入っていると考えたほうがいいかもしれない。

 それにこの本は現代思想を学ぶ本なので、借り物であることはあたりまえ。まあ、それほどまでに内田樹は自分のことばで咀嚼しているのだと思う、オリジナルかどうか疑うほど。

 『エイリアン』をこんなに性的解釈で読むものとは思わなかった。わたしは『エイリアン』は企業批判だと読んでいて、リプリーたちは企業の利益のためにエイリアンの宿主にされかかるのだし、傭兵たちも「時間給ではないんだぞ」とハッパをかけられる。

 人造人間のアッシュは「白い液体」をまき散らし、リプリーは鼻血を出し、口に丸めた雑誌を押しこめられる。性的な暗喩がこめられているとはなるほどの解釈。男性の暴力に屈しない自立した女性がこの映画からハリウッド映画につぎつぎにつくられてゆくことになる。

 『大脱走』もフロイト的な「汎性論」で語られてゆくのだが、さすがにこの映画にはその解釈は飛びすぎに感じた。無意識の検閲や社会の象徴秩序からの脱出(父殺し)というテーマを読むのは納得するが。

 フロイト研究の第一人者といわれた小此木啓吾の『映画で見る精神分析』という本を読んだことがあるが、ちゃんと社会的水準で心理的問題を語られていて、汎性論というものは頻出しなかった覚えがある。ベッテルハイムもフロイト派といわれるが、おとぎ話の分析にはそこまで性的解釈をもちこまなかった覚えがある。

 人間はどんなふうに隠すのかを探ったアラン・ポウの『盗まれた手紙』と『北北西に進路を取れ』はすこし読み込むのがむづかしかった。

 カメラの目線はだれから見られた視点かと問うヒッチコックの『裏窓』を分析する章はスリリング。わたしたちは自分が見たくない記憶はだれかほかの遠くから見ている視線として思い出すことができる。記憶はツラさをやわらげる視点をもつことができるのだ。この映画のカメラはだれの視点から見られているのかと問えば、映画の巧妙なつくりに感嘆できるかも。

 この章はシジェクとミシェル・シオンの翻訳作業から生まれたものなので、内田樹の独創ではない。読み方が鋭すぎるから内田は自分ひとりでここまで思いついたのかという疑いを抱いた。

 最後の章はハリウッド映画の女嫌い(ミソジニー)が語られていて、マイケル・ダグラスの映画に出てくる女性はほとんど抹殺されるそうだ。わたしはそんなことは感じたことがなかったが、開拓時代に女性はあまりにも稀少だったので、「非モテ」の鎮魂が男の団結に必要になったのだと内田樹は解釈してみせる。わたしは『タイタニック』のような女性の人生賛歌を思い出すのだが。

 田嶋陽子も『ヒロインは殺される』という本を書いていたな。この本は自立と依存をえがいた『存在の耐えられない軽さ』の解釈がいちばん記憶に残っているだけだが。

 まあ、映画を見るとき、人が死んだり、殺されたりするとき、こんな生き方をしていれば殺される、いけないというメッセージがこめられていると見たほうがいいのだろう。

 ハイレベルな映画解釈が読める本である。現代思想家の思想が学べるというより、映画の新しい解釈に目覚めさせれる本だな。読んで損なしの本。おもしろかったよ。

「あらゆる批評の要諦は、「批評を読み終わったあとに、猛然と実物を見たく(読みたく)なるということだと僕は信じています」。…「まだ見ていない映画」が見たくてたまらなくなり、TUTAYAに走り、あるいはamazonでの「大人買い」衝動に駆られるといった事態になることを心より祈念しております」。

 なったよ。にやりと笑うあとがき。映画より映画の思想本のほうを読みたくなったが。


ヒッチコック×ジジェク斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ汝の症候を楽しめ―ハリウッドvsラカン映像の修辞学 (ちくま学芸文庫)物語の構造分析

現代映画思想論の行方―ベンヤミン、ジョイスから黒澤明、宮崎駿まで愛の真実と偽りをどうみわけるか―映画でみる精神分析 (講談社プラスアルファ文庫)「本当の自分」をどうみつけるか―映画でみる精神分析 (講談社プラスアルファ文庫)映画と精神分析―想像的シニフィアン「死にたい」気持ちをほぐしてくれるシネマセラピー上映中―精神科医がおススメ 自殺予防のための10本の映画

シネマのなかの臨床心理学 (有斐閣ブックス)トラウマ映画の心理学―映画にみる心の傷ヒロインは、なぜ殺されるのか (講談社プラスアルファ文庫)昔話の魔力シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)

04 12
2011

書評 哲学・現代思想

『不幸論』 中島義道

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4569624596不幸論 (PHP新書)
中島 義道
PHP研究所 2002-10

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 わたしは中島義道のようにとことんネガティブをつきつめる考え方には価値があると思っている。底まで掘らないと見えてこない事柄はたくさんあると思う。ネガティブをとことんつきつめたいのに許されないことが多すぎて、かえって不幸になっている人もたくさんいると思う。

 しかしわたしはどうしてそれを思考実験や探索にとどめて、さっさと思考を捨てれば不幸に陥らないという禅や仏教の方法を使わないのかふしぎに思ってきた。それは観念や思考の病にすぎない。捨てればその不幸はなくなるという思想の教えは東洋にたんまり伝承されてきたのに、どうして中島義道はそこから抜け出そうとしないのだろう。

 この本のなかでそれらを提唱したアランやマルクス・アウレーリウスの幸福論もとりあげられているから、中島義道も十分に知っているはずである。三島由紀夫がそれに気づいた文章も引用している。しかし中島義道は浮上してくることはないのである。安易に妥協することが許されないらしい。さっさと安易な思考消去の方法にとりすがったわたしのような凡夫にはなりたくないようである。だけど思考や観念が幻想や虚構であるということも重い真実だと思うのだが。

 中島義道は「幸福教」にさっさと改宗しないために「幸福教」の暴力や欺瞞を知り尽くしている。ネガティブをつきつめる効用はここにあると思う。人がどうして安易な幸福や楽観に悔い改めないかというと、この「幸福教」の暴力や強制にウソや欺瞞をうすうす感じているからだろう。不幸や悲観の真実をじっくりと見ることのできない剥奪に人は抵抗しているのだろう。


「そのとき「みんな」とは感受性のマジョリティである。その感受性をもつことのみが、唯一幸福であるはずだ、という怠惰な思い込みである」

「社会通念とのズレがあっては幸福はないだろうという図式をあてがって、執拗に個人の心情を「社会化」しようと努力するのだ」

「みんな、真実を正確に表現することが、いかに平和を乱すかを知っている」

「この国では、相手に対する「おもいやり」からほんとうのことを知らせなくてもあまり非難されないのに、真実だからという理由でほんとうのことを知らせると、徹底的に攻撃される」

「じつはあなたが平穏無事なあなたの世界をかき乱されたくないからなのだ」

「「幸福であると思い込みたい」欲望、「幸福であると思われたい」欲望は、「真実を見たくない」といういっそう強烈な欲望に支えられている」



 ネガティブを徹底的につきつめないと見えてこない風景である。そして人はそういう風景をしっかりと見極めたうえで人生を歩きたいと思っているのではないだろうか。安易な方法で幸福や妥協をもとめられると、社会通念や鋳型におしこめられた判で押した人間ができあがる。他人と同じように反応して、同じことしかできない人間に。

 不幸やネガティブをつきつめることはその風景を見たうえで自分の足で歩くことである。人は他人がつくった道路や電車のうえにすぐに乗ってしまって、自分の足で、自分の感覚で歩くことをやめてしまうのである。そして「寅さん」のように真実をいえば成長したかもしれない人間に真実を告げず、いつまでも同じ間違いをずっと犯しつづけるのである。

 真実を見ないことによって「幸福の楽園」は保ちつづけられるのである。「幸福教」の信者たちはとりわけその攻撃と排撃の衝動が強い。善意や思いやりが、真実やネガティブをたちまち根絶やしにするのである。

 そして欺瞞とウソの楽園ができあがる。中島義道はこのウソの楽園に闘いを挑んだのだろう。そして日本のマジョリティと同じ道をいかない若者たちもこの闘いに挑んでいる最中なのだろう。

 中島義道がやっていることは価値あることだと思うし、学ぶこともたくさんある。中島義道の見る風景から、自分が感じる不満やいらだちに明確な輪郭や言葉をあたえられることはたくさんあった。

 しかしわたしはその深さにもぐらないでさっさと地上に浮上した。禅や仏教で思考を捨てれば、それは虚構や幻想にすぎないと知ったからだ。中島義道はこの不幸やネガティブをけっして手放さない。とりわけ死の不幸や恐怖を手放さない。わたしは子どものときにこの恐怖をさっさと手放した。観念や言葉を手放すことのほうが真実を見ることだとわたしは思うのだが。

 逃げているのではなくて、それが人間の認識の性質だと思うのだが。不幸もネガティブもまたたんなる「つくりごと」である。


孤独について―生きるのが困難な人々へ (文春文庫) 「人間嫌い」のルール (PHP新書) カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ (新潮文庫) 悪について (岩波新書) 「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)


03 03
2011

書評 哲学・現代思想

「共同幻想論」を知るためのブックガイド

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 社会は言葉でつくった幻想の世界を共同で信じ、それを実体のものと思いながら暮らしている。この考え方を「共同幻想論」というが、この言葉の編み込んだ世界を「世界そのもの」と思い込む勘違いから抜け出すのはなかなかむづかしい。相対化、客観化がむづかしいのである。

 その認識を理解するためのブックガイドを13年前、97年につくった。もう一度、再録したいと思う。共同幻想論を理解するための一助になればいいと思う。




4622023474自己と他者
レイン
みすず書房 1975-01

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 著者はイギリスの反精神医学者であるが、この本は「分裂病」という診断が、いかにまわりの人たちの「悪意」によって下されるか、ということを描いた、まわりの人たちの見解や評価といったものがどんなに恐ろしいものなのか、まざまざと思い知らせてくれる本である。

 緊密に結びついた家族や集団は、空想的体系によって「現実」を捉えており、それがかれらの世界「そのもの」、世界の「事実」となっているのだが、そこから脱出しようとする者、あるいは違った空想の体験をもつ者には、たわけ者、悪者、狂者としてのレッテルを貼られると、レインはいうのである。

 ここではじめて、わたしは社会や集団の「認識」や「世界観」といったものが、「空想」ではないのかという見解をあたえられたのだが、わたしはこのことがものすごく頭にひっかかり、だが、この本の中ではそれ以上の考察はおこなわれておらず、わたしはこのことをもっと理解しようと、多くの書物を探し回らなければならなかったのである。


4122025184ものぐさ精神分析 (中公文庫)
岸田 秀
中央公論社 1996-01

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 「共同幻想論」といえば、この人で、すべては幻想であるという「唯幻論」、あるいは「史的唯幻論」を唱えている。

 わたしの理解するところでは、科学や知識、世界観、自己や経験、過去、家族、血縁や国家、ニュースや現実といったものはすべて「幻想」によって創造されており、それをもとにわれわれは社会的行為や人間関係をおこなうという考えが、「共同幻想」である。

 つまりわれわれは言葉によって世界を構築し、その幻想をみんなで演じている、というのが、共同幻想のありかたなのだ。

 われわれが捉えている現実、出来事、ニュースといったものはみな幻想であり、事実かそうでないかは関係ない。

 事実なんか存在しないと言い切ってもよいかもしれない。

 人間という価値判断の基準をもつフィルターを通す以上、事実なんて存在しない。

 価値判断がはさまれるということは、すでに好悪や優劣の判断が入り込んでおり、それは純粋無垢の事実ではない。

 その幻想が社会基準として、使用されるに値するかしないかといったことが、問題なのである。

 われわれが真実や事実だと思い込んでいたものは、じつは、共同幻想という、われわれの社会が承認したひとつの世界の捉え方、社会のルールでしかないのである。

 (これはあくまでも筆者のわたしの捉え方であって、岸田秀自身もこのとおりのことを言っているのか、筆者のわたしにはおぼつかない)


4061595660幻想の未来―唯幻論序説 (講談社学術文庫)
岸田 秀
講談社 2002-10

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 自我は支えや外部の根拠を必要としており、歴史的にどのような支えがもちいられてきたか、考察されている。

 神や世間、他人といったものの承認や、「真の自己」や「欲望」を支えとしてきたことが、どのように破綻してきたか、歴史的にのべられている。

 たとえば、日本では「対人恐怖症」が多いのは、自我を他人の承認によって支えているからであり、非合理に他人を怖れることになるのだが、欧米では神による自我の支えをもちいてきたから、神にたいする非合理な恐怖をもつというのである。

 現代人はたえず自我の自律性を願うのだが、それはかならず自我の支えを根こそぎ、もぎとろうとすることになり、激しい葛藤をひきおこすことになる。

 日本人は自律した強い自我をもとうとしたが、他人の承認によって自我を支えている以上、そこをつき崩そうとするのだから、自我は不安定とならざるをえない。

 しかしその不安定要因は、それを解消しようとして、文明は「進歩」するのである。

 ヨーロッパの神経症というのは、外界に客観的な事物が存在すると思い込むことに端を発しており、だからこそ、外界の改善や進歩は行われるのである。

 それはまた、外界を変えることができなかったり、外界にふり回されたりして、苦しみの多い道でもある。


4480421750「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫)
竹田 青嗣
筑摩書房 2005-12

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 世界像とは、言葉によって編み上げられたルールにしかすぎないと、ウィトゲンシュタインやフッサール、ニーチェの理論をひじょうにやさしく、かみくだいて説明した、頭の中をすっきりとまとめてくれる良著である。

 われわれはふつう、世界の真理や客観というものは、われわれの外側にあって、言葉によってそれを「写しとる」ことができるのだと思っているが、じつはそうではなく、世界像というのは、多くの人たちの意見の調整によって生み出され、それはわれわれの生きる上での社会のルールになるのである。

 このようなことは哲学の専門の人たちには常識のようになっているらしいのだが、専門的教育をうけたことのないわたしにとっては、このような見解に出会うまでに、ひじょうに紆余曲折をへて、この捉え方を確認しなければならかったのである。

 われわれのもっている世界観は、絶対的なものではなく、ある社会での、世界についての捉え方が多くの人によって承認されたものにすぎない、という見解は、わたしの心を深くつかみ、その確認を意地でもしたいと思わせたのである。


4480080066現代思想の冒険 (ちくま学芸文庫)
竹田 青嗣
筑摩書房 1992-06

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 現代思想の問題が、ニーチェやデリダ、ドゥルーズとあげられてゆき、その問題を近代思想からのとらえ返しとして、デカルト、カント、フッサール、キルケゴール、ハイデッガー、バタイユらの説が検討されている。

 現代思想ならびに近代思想のおおよその流れを理解するには、このようにわかりやすく説明してくれた本はほかにあまりないと思う。

 この本のメイン・テーマは、「現実」というのは人間の理性によって正しく認識されるか、ということになると思うのだが、それを否といったポストモダンは、これからどこに行くのか、といったことがのべられていたと思う。

 かなり前に読んだので、不明瞭な解説で申しわけないが、この本は現代思想に興味をもっていた当時のわたしには、ドゥルーズやデリダといった先端の思想家たちの理論がやさしく紹介されていたので、とても興味をひきつけられて読んだ記憶があるが、ポストモダンの解決が、エロスによって与えられたのはなんだか抽象的で、不満だったように覚えている。

 でも正直なところ、よく憶えていない(理解していない?)のである。


448008083Xニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)
フリードリッヒ ニーチェ Friedrich Nietzsche
筑摩書房 1993-12

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 真の世界というのは、虚構によって、でっちあげられ、権力と安全の感情をもっとも与えられるもの――つまり権力への意志を満足させられるものが、真と表示されるとニーチェはいう。

 精神も理性も思考も、意識も真理もすべて、役に立たない虚構であり、主体も原因も事物も、そんなものはありはしないのだ、とあいかわらず息咳きった口調で語られる。

 ものすごいことを言っているようなのだが、アフォリズムという形式は、すべてを一から十まで説明してくれるというわけではないし、いくつかはわたしの頭では理解できないところがあり、残念である。

 かつてわたしは全集を何冊か読んだりして、ニーチェのどこに共同幻想について書かれてあるのかと探し回ったが、この書のなかにいちばん収められているのではないかと思う。

 仏教思想の認識論あたりを読んだあと、この書を読み返してみたら、いくらか似ている部分があり、理解しやすいように感じられた。

 ニーチェは仏教思想をどれだけ読み、どれほど影響されたのだろうか。


4891761598ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))
ジャン=フランソワ・リオタール 小林 康夫
水声社 1989-06

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 真理や科学といった近代のあらゆる<大きな物語>を解体しつくしたポストモダン思想の真骨頂。

 われわれのもっている真理や常識、科学、世界観といったものが、どんなに権威や言語ゲームといったものによって正当化されているか、あっさりと白日のもとにさらけ出してくれる本である。

 神話や民衆の伝承といった「物語的知」が、それを正当化する権威を必要とせず、ただ伝達のみによってみずからを信任することができるといったことや、プラトンやデカルトの科学というのは、「物語知」といったものに依拠しないと、正当化することはできないということ、科学的知は、科学固有の言表ゲームをおこない、そのなかでの論証と証拠により正当化されるのだ、といったことなどがのべられている。

 つまりわれわれの知が、いかにわれわれによって正当化されているのか、ということを、「絶対」と思いつめてきた知にたいして、その公認のされ方を、恥ずかしくなるほど、さらけ出すのである。

 真理や科学に縛られ、そのために多くの問題や暴力に苦しめられてきたのなら、このような正当性の剥奪は、おおいにその力を発揮するだろう。


4314003529文化とコミュニケーション―構造人類学入門 (文化人類学叢書)
エドマンド・リーチ 青木 保
紀伊國屋書店 1981-01

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 人類学というのは、あまり未開民族に興味をもてないのでよく知らないが、この本は記号論的考察をしており、出色である。

 人間の社会や世界というのは、すべて言語によって文節化され、それによって意味や価値が付与されるのだが、この記号やシンボルはふつう無意識になる。

 その無意識の枠組みをとり出されれば、だれだって驚くだろう。

 わたしは当時、このような分析を現代社会にこそ――われわれのまわりの日常やふだんの世界に対して適用したかったのだが、残念ながら、そのような本はみつからなかった。

 アルチュセールのような国家や企業、学校、まわりの町や警官、店や店員、にたいしてこのような分析がおこなわれてほしかったのである。

 このような記号論的分析こそ、日ごろ無自覚に生きているために、社会や人間関係にふりまわされたり、悲惨な目にあったりすることを避けるために、その意味や価値を知り、客観視するために、必要なのではないだろうか。  

4061590731言語・思考・現実 (講談社学術文庫)
L・ベンジャミン・ウォーフ 池上 嘉彦
講談社 1993-04-28

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 われわれの世界が、他国のどこのだれとも同じであるわけではない、という新しい知識を開けてくれる、ひじょうにおもしろい本である。

 著者のウォーフという人は、「言語は世界観を規定する」といった、「サピア=ウォーフの仮説」の本人であるが、この本はその思想を、ひじょうに具体的な、日常的な表現をとりあげて説明している。

 われわれは言葉にたいして自覚的になるのはひじょうにむづかしいと思うのだが、その自然に流してしまう「言葉」といったものが、この本を読みすすむにつれ、どんどんひっかかり、ぶつかってきて、意識せずにはいられなくなるだろう。

 ウォーフが言語的分析をするようになった経緯もおもしろい。

 火災保険会社で火災や爆発の分析をしているうちに、どうも「言葉」がその原因をつくりだしていることに気づいたそうだ。

 この考えでだいじなことは、われわれの世界というものがかなりの程度、言語によって拘束されており、この外に出たり、外の世界をのぞき見たりすることは、できないのか、ということになるだろうか。

 われわれは知らず知らずのうちに、ことばによって縛りつけられている。

 ことばというのは、人工的で、人為的なもの――つまり「人工臓器」のようなものだ。

 われわれはこの人工臓器をとりはずして、「ありのまま」の世界を見ることはできないのだろうか。

 これらヨーロッパの言語学で残念なことは、言葉に感情や気分が付随していることを見逃している、あるいはとりあつかえないことだ。

 言葉に怒りや悲しみなどの感情はつながっている。

 このことをないがしろにすると、怒りや悲しみは直接、外部や物事からやってきて、われわれを振り回すと思い込んでしまう。

 言葉こそがわれわれに価値観や意味、感情をつくりだすのである。

 ヨーロッパの心理学では、認知療法や論理療法などが、このことに気づいているのだろうか。


4140013303意味の世界―現代言語学から視る (NHKブックス 330)
池上 嘉彦
NHK出版 1978-01

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 おもしろい本である。

 前述のウォーフの本のように、言葉のズレや奇妙なところ、変なところ、といったものを日常のふつうの言葉からとりあげて、その違和感や奇異さをあぶり出している。

 たとえば日本語の青と英語のブルーの領域のちがいや、「富士山(フジサン)」を、日本語をちょっと知っている外国人が、「山田サン」などの敬称ととり違えていることや、だれでも覚えがあると思うが、「コブラガエリ」がヘビを連想させることなど、さまざまな言葉の奇妙なところがとりあげられている。

 この本の多くの例から、いかに人間がこの世界を区切り、みょうなところに線をひき、それを「実体化」しているかということがわかると思う。

 われわれはこの言葉の分類による世界がじっさいに存在していると思っているが、じつは、ほかの言葉や分類をつかう人たちには、そのような世界は存在しないのである。

 もしわれわれも世界観の下絵や背景がまったく違っていたり、まったく異なる言語を使っていたのなら、いまの世界とまったく違った世界に暮らしていたかもしれないのである。

 この本は日常的な言葉使いから、そのような世界を垣間見させてくれる。


4004202582記号論への招待 (岩波新書)
池上 嘉彦
岩波書店 1984-03-21

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4061591371文化記号論 (講談社学術文庫)
池上 嘉彦 山中 桂一 唐須 教光
講談社 1994-08-04

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 上記の作者の手による本であり、記号論についてのべられた本ということで紹介させてもらうが、記号論というのはわたしの手にはおえない。

 もうすこし文化的な分析がおこなわれていれば、おもしろかったと思うのだが、『文化記号論』にわずかばかり、「日常的な記号世界」の分析が行われているだけで、残念である。


4061488716言葉と無意識 (講談社現代新書)
丸山 圭三郎
講談社 1987-10-19

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4061598414言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの (講談社学術文庫)
丸山 圭三郎
講談社 2007-10-11

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432615134X文化のフェティシズム
丸山 圭三郎
勁草書房 1984-10-15

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 丸山圭三郎という人は言語学者のソシュールの研究からはじめて、文化論へと広がっていったものすごい人であり、そのことはわかっても、うえにあげた三冊の本をひさしぶりに読み返しても、その言いたいことがよくわからなかった。

 竹田青嗣の説明によると(『現代思想・入門Ⅱ』別冊宝島52)、言葉の世界による実体化を転覆させようともくろんでいたようである。

 つまり言葉の世界が「虚構」であるという、仏教でもいわれていることを、ヨーロッパの言語学や現代思想から、独自に導き出したのである。

 上記の三冊のいずれにも、仏教の唯識やアーラヤ識という語が出てくる理由もこれで納得できる。

 ただすぐに仏教思想にとびつかずに、ひたすらヨーロッパ思想――フロイトやラカンなどの理論を駆使して、考え抜いたところはものすごいと思う。

 しかし言語学やラカンの理論はやたらむずかしい。


4061591681記号論の思想 (講談社学術文庫)
宇波 彰
講談社 1995-03

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 記号論から現代思想――ドゥルーズやガタリ、ジャック・ラカン、ボードリヤール、バシュラール、ニーチェ、サルトル、フロイトなどを読みといた本であり、現代思想の状況がよくわかるのではないだろうか。

 しかしわたしにはいまぱらぱらと読み返してみても、なにが書かれていたのかよく覚えていないし、ということは、あまり感銘をうけなかったのではないかと思う。


4788503727現代言語論―ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン (ワードマップ)
立川 健二 山田 広昭
新曜社 1990-06-15

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 項目別に現代言語学の学者の思想や問題がならべられていて、現代言語学を知るにはひじょうにわかりやすく説明されているのではないかと思う。

 ソシュール、バルト、ウィトゲンシュタイン、あと著名な言語学者が何名かあげられている。

 言語学というのは現代思想にとって重要な問題であると思うが、ちょっとわたしには難解であり、社会の共同幻想を知りたいわたしにとっては、あまりにも煩瑣すぎるのである。

 ただこの本は現代言語学を知るには、マンガがとりあげられていたり、思想家たちの写真が多用されていたり、ブックガイドが充実していたりと、手軽な入門書として、あるいは辞書がわりとして、ひじょうによくできているのではないかと思う。


 山口昌男監修『解き語り記号論』 国文社 ポリロゴス叢書 2060円

 記号論が、日常や儀礼、舞踏、映画、商品(消費社会)、建築、都市とひじょうに大きな広がりをもって読み込まれている本である。

 期待をもって読んだと思うのだが、おそらくいくつもの論文が収録されているため、一編一編はあまり深い追究はおこなわれてなかったのではないかと思う。


4094081496マンウォッチング〔文庫〕 (小学館文庫)
デズモンド・モリス 藤田 統
小学館 2007-03-07

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 この本も記号論のカテゴリーに入れることができるのだろうか。

 デズモンド・モリスは動物行動学者であるが、この本の中で、人間のなにげないジェスチャーやディスプレイ、サインや信号、行動などに「意味」や「メッセージ」を読みとっている。

 日ごろ、無意識におこなっているこれらの行動がさまざまな意味やメッセージを含んでいることには、やっている本人が気づかないからこそ、驚きである。

 われわれはこのような文化的に規定づけられた行動を通して、自分の意志を無意識のうちに表明しているのである。

 これらも「共同幻想」が演じられたものだと呼ぶことができるだろうか。


4796617701わかりたいあなたのための現代思想・入門 (宝島社文庫)
小阪 修平 志賀 隆生 竹田 青嗣
宝島社 2000-03

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 現代思想を知るのにひじょうにお世話になった本であり、この本によっていっきょに、現代思想の展望が開けるようになった。

 このなかにソシュールの記号論がなぜ現代思想にとって大きな問題となったのかということがのべられており、ひじょうに理解しやすく説明されている。

 現代思想を理解するにはもってこいの本であり、わたしはこの本がとても好きである。

 おそらく現代思想家を「ヒーロー」あつかいしており、「ロック・アーチスト」や「俳優」「文化人」などに憧れてきたわれわれにとっては、なじみやすいのではないだろうか。


4041501016共同幻想論 (角川文庫ソフィア)
吉本 隆明
角川書店 1982-01

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 「共同幻想」そのものずばりの本だが、残念ながら、わたしはこの本の中から、なにかを学んだとは言いがたい。(読みこめなかった?)

 現代社会の分析ではなく、民族学的なものであったからだと思う。

 あえてインパクトを与えたところを抜き出すと、表紙に書かれている

 「国家も共同の幻想である。風俗や宗教も法もまた共同の幻想である。

 ……さまざまな共同の幻想は、宗教的な習俗や倫理的な習俗として存在しながら、ひとつの中心に凝集していったにちがいない」というところである。


4121003063情報行動 (中公新書 306)
加藤 秀俊
中央公論新社 1972-11

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 著者は社会学者であるが、「つくりものの世界」や「想像力のかなた」といった項目からこの書こそ、わたしの知りたい共同幻想について書かれているかもしれないと思ったが、かなりの程度はそうだと思うのだが、かなりやさしく書かれているために深みや重みがなかったのが残念である。

 人間はシンボルの世界によって実在の世界から乖離してしまっている、

 このシンボルの世界とはどのように構成され、構築されているのか、そしてその世界は、「空想」や「絵空事」のカテゴリーに入るのか、おそらくわたしはこのようなことを解きたかったのではないかと思う。


4061587641近代科学を超えて (講談社学術文庫)
村上 陽一郎
講談社 1986-11-05

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4476010733科学・哲学・信仰 (レグルス文庫 73)
村上 陽一郎
第三文明社 1977-01

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 科学もひとつの「共同幻想」にほかならないのではないかと思って読んだ本。

 科学というのはどんどん新しい発見がなされ、新しい世界観に書き換えられてゆくのだが、昔の人たちはその間違った科学観による世界像を「事実」のもの・「真実」として、その像を「世界そのもの」と思い込んできたのではないだろうか。

 現代のわれわれが信じている科学観や世界像も、のちの時代にはうち棄てられて、まったく用をなさなくなっているかもしれないのに、それは「世界そのもの」、「世界の事実」として信じ込まれているのではないだろうか。

 キリスト教の世界観もそうであり、仏教の世界観、イスラム教の世界観、社会主義の世界観、あるいは現代のマスコミによる世界観も、それらを信じている者には、世界「そのもの」になっているのではないだろうか。

 われわれの固く信じている世界像というのも、このように「共同幻想」にほかならないのではないだろうか。

 このようなことを考えるさい、これらの科学史の本は参考になると思う。


4061582887近代科学の誕生 上 (講談社学術文庫 288)
ハーバート・バターフィールド 渡辺 正雄
講談社 1978-11

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 近代科学の歴史がコペルニクス、ガリレオ、ニュートン、ダーウィン前夜まであげられている。

 科学学説誕生のドラマが、物語のように読める。

 だいぶ前に読んだのでよく覚えていないが、読んでいるときにはなかなかおもしろかったのではないかと思う。

 上下巻とも薄っぺらい本で、読みやすい。


4121009223現代科学論の名著 (中公新書)
村上 陽一郎
中央公論社 1989-05

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 ホワイトヘッド、クーン、ファイヤアーベントなど科学論の名著が紹介されている。

 この中公新書の「名著シリーズ」は、ほかに「世界の名著」や「社会学の名著」などがあって、どんな本を読めばよいかわからない者にとっては、ひじょうに重宝する。

 著者のかんたんな経歴や著書の位置づけなどが触れられているのがいい。

 「名著」とよばれるものなら、とりあえず読んでみても、ハズレはないかも?


4061589989世界の共同主観的存在構造 (講談社学術文庫 (998))
廣松 渉
講談社 1991-11-05

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 たぶん、「共同幻想」に近いことをいっている本だと思うのだが、おそらく、「物象化」という言葉を使っていたりして、もしかして、わたしの知りたいことや関心領域とひじょうに近いのではないかと思うのだが、熟語が難解すぎて、なにを言っているのかよくわからない。

 あまりこういう熟語にひっかからないで、前後の脈絡から読めば、意外とわかりそうなのだが、いつか読み返そうと思いながら、それが果たせないうちに、わたしの関心はほかのものに移ってしまっていた。

 わたしにとって、「惜しい」本である。


4837973612脳の冒険―解剖学者の好奇心の玉手箱 (知的生きかた文庫)
養老 孟司
三笠書房 2003-09

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4334061044脳・心・言葉 なぜ、私たちは人間なのか (カッパ・サイエンス―栗本慎一郎「自由大学」講義録)
栗本 慎一郎 養老 孟司 澤口 俊之 立川 健二
光文社 1995-11

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 著者はNHKなどにたまに出ているしゃべり方のシブイ人だが、共同幻想にかかわる「脳化社会」については、後にあげたカッパ・サイエンスの本がくわしい。

 都市や社会は、自然にたいし、予測や制御をおこなうとする脳のはたらきが、外部化されたものであるといい、それを「脳化社会」とよんでいる。

 つまりわれわれのまわりの都市や社会というのは、すべて脳によって創造されたものであり、もともとは「虚構」であったものが、現実に出現させられたものであり、われわれはその脳のなかの「虚構」の世界に住んでいるといえる。

 これは都市や建築だけにあてはまるのではなく、国家や企業、学校、病院や店舗、あるいは社会人や学生、店員や顧客、親や子ども、警官や市民、などの社会の役割にもすべてにあてはまるものだ。

 われわれは予測や制御のできる世界だけにとり囲まれて安全に暮らそうとし、江戸時代以降、制御不能の自然を排除してきたと著者はいう。

 この自然はわれわれの身体自身もそうであり、そのために裸や死体、病気などがわれわれの目の触れないところに隠されてきたという。

 著者はまた、数字や国家、神、またはカマキリの一種など、それを信じたり、知っている人以外には、存在しないといっている。

 つまり、言葉がその実在性をつちかっているのだと指摘しているわけだ。

 このようなことは、わたしの関心とぴったり一致するのだが、この人の著作は日常のいろいろなことのコラムやエッセーが多く、ひじょうにおもしろいものの見方や指摘をして愉快なのだが、「脳化」をテーマにもっと深く掘り下げてほしいと思う。

02 22
2011

書評 哲学・現代思想

『ギリシア哲学と現代』 藤沢 令夫

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ギリシア哲学と現代―世界観のありかた (岩波新書 黄版 126)ギリシア哲学と現代―世界観のありかた (岩波新書 黄版 126)
(1980/07/21)
藤澤 令夫

商品詳細を見る


 十数年前に読んで感銘したおぼえがある。物質的な世界観を問い直したい気持ちから再読した。

 どうして世界のあり方と人間の生き方の知識は乖離してしまったのか。人間の根本的な知覚や言語の勘違いをさぐっていってプラトンやアリストテレスのギリシャ哲学にさかのぼって再検討する本。

 物質的な世界観を追求することによって技術や科学は進歩したわけだが、効率や合理化に追われて心のやすらぎや人としての生き方がおろそかになっている。根本的な世界観に過ちがあるのではないか。

 世界を物や機械のあつまりのように表象し、世界には感覚も価値も目的もない世界として捉えられる。そのような機械論的世界観をうみだした考え方はなにか。

 それは「主語・述語=実体・属性」の捉え方にあるという。主語となる物があって、それに依存して述語や形容詞的な属性があると捉えられる。物というのは知覚によってどんどん変わるのだが、物そのものが変わると考えれば収拾がつかなくなる。だから人は同一の物があると生存の有益性から捉える。

 物の色・におい・味はそれ自身にあるのではなく、人間の感覚器官がひきおこすものである。しかしその感覚知覚を抜きにした物なんてあるか。それは不変の原子があるという原子論にいくつく。物的な実体の解体と解消がめざさなければならないという。場の描写的な記述が必要だという。ここに物があるではなくて、ここに物が見えるである。ややこしいが、人間のふつうの知覚のなかに世界の二元論をひきおこす認識があるということだ。

 この短い説明の仕方でいいのか心もとないが、理解することと説明できることには開きがあるようだ。市川浩のコト分けとモノ分けの世界観に近い気もするが、著者はそんな単純な二元論ではないと否定する。

 これを読んでいて思ったのはギリシャ哲学を経由するより、言語学を用いたほうがいいのではないかということだ。母国語が世界観を規定するといった「サピア=ウォーフの仮説」のような言葉のあり方を問うほうが近道ではないかという気もした。フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機』もこれと似たようなことをいっていたと思うが、違いがどこにあるのかわからない。

 こういう基底的な哲学を読んでいると人間の認識の根本をえぐっている気がするのだが、技術・科学の物質的世界観はこれらの哲学をぶつけてもいますぐに変わるというわけではない。即効性のない根本的な哲学の空しさを感じる現実主義な目をだいぶわたしはもつようになった。

 どうすればいますぐ効率・合理主義の人間の生を無価値化、収奪する世界観を変えられるのか。哲学はいますぐわれわれの貧困で効率化された人生から救ってくれるのか。そう考えれば根本的な認識を問う哲学はひじょうに迂遠で、まわりくどい記述に思えた。がりがりの現実主義で、即効薬がほしい非ロマンチストになったなあ。

 わたしはかなり心理主義的なものの見方をもつのだが、物質主義的な世界観でものや人を捉える人が多くいたり、そちらのほうが安らげると思ったり、心理主義的な考えは精神論や根性論として排斥したい人もいるようだ。機械論的な物質観で世界を捉えるほうが心地よい、あるいは正当だと思う人のほうが多いのかもしれない。物質主義に還元する世界観をどうして選択したいのかわたしにはわからない。けれど物質主義的な生死感は確実にもっているのだが。


〈身〉の構造 身体論を超えて (講談社学術文庫)言語・思考・現実 (講談社学術文庫)言語―ことばの研究序説 (岩波文庫)ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)偶然と必然―現代生物学の思想的な問いかけ

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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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