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12 16
2006

書評 哲学・現代思想

『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』 ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ

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 もうだめである(笑)。ほぼわからないながらも最後まで読み切ろうとしたが、下巻の半ばで時間のムダとしてさじを投げることにした。なにをいっているのさっぱりわからない(笑)。まるで詩のようである。

 「欲望機械」とか「器官なき身体」、「大地機械」、「専制君主機械」、「資本主義機械」とかの概念は魅力的である。しかし意味がまったくわからないのなら、電話帳のように読むだけムダである。そもそも私はフロイトのオイディプス・コンプレックスなんて信用していない。なのに「アンチ・オイディプス」なんて読むべきではなかったのかもしれない。

 私の理解できなかった哲学書の一冊として「殿堂入り」に加わることになる。ハイデガーの『存在と時間』、ヘーゲルの『小論理学』、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』などの理解不可能の一冊にならびました(笑)。

 このドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は現代思想の頂点として必読の書とされていた。私は六千円ほどする、偉く威容をほこった単行本をながめては高すぎて買えないなとか、理解できないかもしれないし、興味をもてないかもしれないしと読むのを見送ってきた。こんかい、河出文庫となって出版されたのを衝撃に思って思わず書店で目にしたその日に購入した。しかしやっぱり私には縁遠い本であった。そもそもさいきんは現代思想を読まなくなっていたし、興味もほかのテーマにかかりきりだった。

▼手にとってため息をついていた豪華本。分厚さと手ざわりが忘れられない。
アンチ・オイディプス千のプラトー―資本主義と分裂症

 内容のほうは「自己同一性批判」らしいが、そのような文脈は詩のような文章からまったく読みとれなかった。独特の詩のなかにぽっと理解できる文章が出てきて、いくらかは赤ラインをひいたのだが、またまた砂漠のような詩の中に埋もれてわからなくなってしまうのである。ただひとつこれはと思ったのはつぎの箇所である。

 「母と妹とは、彼女らが配偶者として禁止される前には存在しないのだ。……これらの名前は、彼らを性的パートナーにすることを禁じる禁制と切り離せないからである」

 ドゥルーズは生涯を閉じるにあたって、病気を苦にアパルトマンから飛び降りたそうである。現代の哲学者は人生の幸福や悟りとは違うテーマを追究して久しい。フランス哲学やドイツ哲学がふつうの人に理解できることはまずないだろう。現代の哲学者がわれわれふつうの人たちの幸福や安心を与えてくれることは、もうないのだろうか。


アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 フーコー・コレクション〈6〉生政治・統治 フーコー・コレクション〈5〉性・真理 シネマ〈2〉時間イメージ フーコー・コレクション〈3〉言説・表象
01 24
2007

書評 哲学・現代思想

『輸入学問の功罪』 鈴木 直


4480063420輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか?
鈴木 直
筑摩書房 2007-01

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 題材は魅力的であったが、つまらなかった。むずかしいというか、わかりづらいというか、近代の思想史につきあわされたくないと思った。いっぱんの読者にもわかりやすい翻訳をという著者がこんなアカデミックな理解しにくい本を書くとは皮肉なことである。

 私も哲学や思想の難解さにはへきえきしてきた。理解できないもの、興味のないものは、自分自身にとっては読んでもムダというふうに切り捨てるようになった。ふつうの人は自分の無知さや勉強不足を嘆いたりするものだろうか。それが翻訳のせいだとしたら、だいぶ救われる話なのであるが。

 やはり哲学の翻訳本は訳者自身が自分で翻訳しておきながら意味がわからないことがあるみたいである。なおさら読者には難解であろうと言い放つ。学生によくあるように辞書の単語をつなげていって、日本語の体裁をなさない文章をつくって、自分でも意味が理解できない。アカデミズムは原文の構文がくずれないこと、一語一語対応、一文一文対応の原則を守るあまり、読者にわかるような日本語を二の次にするのである。

 この本は商業主義からはなれていって、アカデミズムに閉じこもる過程をドイツと日本の近代史に探るわけだが、私にはこの近代史がつまらなかった。どうでもいい話に長々とつきあわされる気がして、かなり倦んだ気持ちになった。

 翻訳本に泣かされてきた経験は多くの人がもったであろうから、魅力的な題材であるから残念なことである。近代史につっこむより、こんにちの翻訳の誤訳やトンデモ訳などをあげつらって、アカデミズムを笑ってくれれば、もっと楽しかったかもしれない。

 哲学書や思想書がわからないのは翻訳のせいだと悪者呼ばわりしてくれれば、だいぶ溜飲が下げられると思うのだが、思想が難解になるのはヨーロッパでもそうであり、たぶんに仏教の経典がいまだに外国語で読み上げられるように権威主義と専門主義のハクがつけられやすいからだろう。

 商業主義からアカデミズムを笑うこと、批判することは大切な視点だと思う。哲学や思想は多くの人にとっての人生の糧となるはずなのに、難解さの上にさらに意味のなさない翻訳を読まされるのはおおくの人にとっての損失である。学校という社会保障がさらに商業主義をはばむ。まともな日本語で、お金を払う人にたいする責任を果たしてもらいたいものである。読書のわれわれも翻訳書は国に守られ、まずいコーヒー、冷めたラーメンを食べさせられる国営食堂だったという自覚が必要であるということである。


01 28
2007

書評 哲学・現代思想

『人体 失敗の進化史』 遠藤 秀紀

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人体 失敗の進化史
遠藤 秀紀

人体 失敗の進化史

 この本に興味が魅かれたのは、いまあるものをないものと見なす哲学的発想があるからだ。われわれの身体に当たり前にある心臓や肺、耳や骨というのは、進化のはじめの生き物にはなかったものである。それがどのようにつくられていったのか、いったらありあわせのパーツで設計がどのように変更されていったのかを探るのがこの本である。歴史のパースペクティヴでみれば、ふだん気づかない身体の機能や用途がよくわかるというものである。

 たとえば有名な話では、足のなかった魚にどのように足がつくられていったかということである。水中で器用な動きをするためにひれに骨が入れられ、そのさいしょの用途から離れてそのひれは陸に上るための足に変更されてゆくのである。

 心臓もむかしの生き物にはなかった。ナメクジウオでは血管の壁に心臓の筋肉がばらばらに存在するだけである。肺ももちろんなかった。水中ではえらが酸素をとり入れるはたらきをしていたから、うきぶくろが陸で息をするための役割をになってゆくのである。

 耳も太古から当たり前にあったように思いがちだが、振動は水中を伝わるのでその振動を集めればよかった。ワニも地面の振動を集めればいいから、耳がない。地上に立った者は空気の振動を拾うためにてこの原理で振動を増幅させる耳をつくったのである。この骨はありあわせの蝶番の骨から拝借し、その代用を側頭骨と歯骨で間に合わせたのである。生命の進化というのはいかにありあわせの材料でその場をしのぐかという、設計変更がくりかえされるいきあたりばったりなものであったのである。

 われわれが知る身体の役割や機能というのは、いまあるものだけを対象にしている。そのためになぜその機能が必要になったのか、用途や役割を深く問うことがおろかそになる。身体のパーツの進化史をひもとけば、それが必要になった理由や、どのように身体に変更を加えていったのかが明瞭になってくる。

 なによりもわれわれの身体にあるほとんどのものはむかしの生命にはなかったことが驚きである。賢固に当たり前にあるわれわれの身体も、さいしょに「無」であったことを知ることは、知識の常識というものをあっけなく捨て去るものである。これこそ知の根本的な役割というものである。

 それにしてものこる疑問は、いったいこのような身体の設計変更や製造工程はどこのなにが施すものなんだろうかということである。身体に関しては「意識」あるいは「私」というものはいっさい関与しないし、できない。意識というのはその身体に間借りしているものであり、この設計製造にいっさい関われない。生命はどのように環境に有利になるような機能をつくりだしてゆくのだろうか。身体自身が知識をもっているいうのだろうか。あるいは細胞自身が。意識はその知識と関われないのである。それが当たり前の世界に住んでいながらである。だから人間は言葉でその世界を再構築しなければならないのである。


解剖男 眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く 昆虫―驚異の微小脳 人類進化の700万年―書き換えられる「ヒトの起源」 クマムシ?!―小さな怪物
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04 08
2007

書評 哲学・現代思想

『啓蒙の弁証法』 ホルクハイマー、アドルノ


啓蒙の弁証法―哲学的断想 啓蒙の弁証法―哲学的断想
ホルクハイマー、アドルノ 他 (2007/01)
岩波書店
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 もう十五年ほど前になるか、現代思想に興味をもっていたときにフロムやホルクハイマー、アドルノなどの社会心理学系の思想家にひじょうに興味をもっていた。

 フロムの『自由からの逃走』や『人間における自由』に大きな影響をうけ、オルテガやリースマンなどの大衆社会論を貪るように読んでいた。そんなときにホルクハイマーやアドルノ、ハーバーマスなどのフランクフルト学派にはとうぜん興味をもった。とりわけ資本主義批判や文化産業批判などを読みたいと思った。

 『啓蒙の弁証法』は書店で見つけては読めるかなと検討してみたのだが、読まずじまいだった。その本がさいきん岩波文庫に入ることになった。47年に出版された本が古典の名著ばかり出す岩波文庫に収録されたことはこの本がもう古典と見なされたことなのだろうか。

 まあ、難解である。文章が読みづらい。あまり意味の通りが理解できる文章ではなかったし、いま私はほかの興味にかかりきりになっているので、なおさら深い理解はできなかった。

 現代的な社会を分析した論考として「文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙」にとりわけ興味をもっていたのだが、あまり心に響くものがなかったといっていいだろう。まあ、いまの私にとっては読みとばす本でしかなかった。

自由からの逃走 新版Escape from Freedom大衆の反逆gunshu.gif


09 12
2007

書評 哲学・現代思想

『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』 中島 義道

カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ―(新潮文庫)
新潮社 (2015-01-02)
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 生きにくさや弱さ、繊細さで苦しんでいる人にはとても救いになる本だろう。中島義道はそれは「いい子」や「善人」であることに原因をもとめ、その破壊策や脱出法を教えてくれる。中島義道自身は逆噴射しすぎだと思うが(笑)。

「「いい子」とは、大人たちが結託して作ってきた一つの犠牲者なんだ」



 このからくりがわからないと、「いい子」は一生親や世間の犠牲者になり、生きにくさやつらさを抱えて生きることになるだろう。つまりは「いい子」というのは他人の都合や利己主義に徹底的に迎合するように編み出された親や他人の合成物なのである。ぜんぶ他人の欲望の都合や親の世間体などの欲望でできあがっている。

「きみは自然にしていると、いたるところで他人と対立してしまうことを知っている。だが、きみは他人と対立することが怖い。だから、自分を押し殺してまでも他人に合わせようとする。自分が傷つかないように」

「善良な市民は「ひとに迷惑をかけるな」という言葉が大好きだ。~だから、先の言葉は、おまえはみんなに迷惑をかけるなという意味であり、みんながおまえにかける迷惑は我慢せよ、いや迷惑ではないと思え、という意味なのだ」



 「いい子」というのは他人が不快になったり傷つかないようにするために、サンドバックのように自我を押しつぶされた人間のことである。だからこそ、「いい子」なのである。まあこの「いい子」というのは力の強い大人や他人に囲まれている場合には仕方がない生育方法なのだろう。力の強いものには迎合し、顔色をうかがい、かれに迷惑をかけないように生きるしかない。

 それを心理学では「アダルト・チルドレン」とよぶ。中島義道はこの克服法を徹底的に自分の自我や力を表出する方向にもとめる。つまり人に迷惑をかけ、怒りまくり、自己チューに徹するというかたちである。

 その方法がすさまじい(笑)。「親を捨てる」「なるべくひとの期待にそむく」「怒る技術を体得する」「ひとに「迷惑をかける」訓練をする」「自己中心主義を磨きあげる」「幸福を求めることを断念する」――などなど、いい子脱出法の必殺技噴出である。

 他人のエゴイズムの犠牲になっていた自分から、徹底的にエゴイスティックな人間の変貌をおこなうのである。自分の身体に縛りつけられていた鎖を、外側の他人に振り回そうというわけである。これはたしかにひとつの解であるが、ほんとうにそれを実践・体得してしまう中島義道の強さや強引さはすさまじい(笑)。あっぱれというか、思わず伏せて拝みたくなるのだが、身近には関わりたくないものである(笑)。

 アダルト・チルドレンの克服法で加藤諦三の本をよく読んだことがある。親の行動や言動をひとつひとつ憎みつづけるという方法で、たしかにアダルト・チルドレンに育ててしまったのは親であるけれども、大人になった者が何十年も前のことを恨みつづけるのは違うと私は思うようになった。これに比べれば、中島義道の方法のほうが正解だろう。

 「やられていたことをやり返す」というわけだが、行き過ぎも児童虐待の連鎖のように危うさも潜んでいないとは思えないのだけれど。まあ、私は自分を縛っていたものがなんなのか、迷惑をかけたりエゴイスティックになっていいと知るだけでも、だいぶ自分を解放するものだと思うのだが。

 中島義道の悩みつづける著作について疑問に思っていたことがひとつあるのだが、どうして禅や仏教のように悩みや思考を捨てる方法を獲ようとしなかったのかということがあった。師は仏教に接近したといえる大森荘蔵がいるし、哲学者でもマルクス・アウレーリウスやエピクテトス、アランなどは悩みや思考を捨てる方法を説いているのだ。なぜこの叡智を活用しようとしなかったのだろう。

「外形的にも、当時のぼくにとって四〇歳を過ぎた男たちの醜さは限りがなかった。それは、社会に順応してしまった醜さであった。悩まない者の醜さ、悩みをうまくコントロールしてしまった者の醜さであった」



 そして悩んでいる若者を美しく感動的だという。なるほど中島義道は悩みを克服することをやめ、思索や哲学することを徹底的につきつめ、至上におくことを誓ったんだなとわかった。これはイバラの道であると思うが。

 さいごにもう一度いい子についての言葉を引こう。

「「いい子」は生物体としての息の根を止められた犠牲者だ。
きみのまわりのみんなが一致団結してきみの体内からそうした動物としての本能を駆逐してきたからさ。
自分の中に潜む健全な闘争本能を呼び起こそう。場合によっては他人を傷つけてでも、自分を自分の大切なものを守るという動物としての本能だ。
きみは生きなければならない。とすると、闘争しなければならないんだよ」



ひとを“嫌う”ということ (角川文庫) 働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫) 悪について (岩波新書) 孤独について―生きるのが困難な人々へ (文春新書) 人生を“半分”降りる―哲学的生き方のすすめ (新潮OH!文庫)
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09 16
2007

書評 哲学・現代思想

『怒る技術』 中島 義道


怒る技術 (角川文庫)
中島 義道

怒る技術 (角川文庫)


 中島義道は怒る、怒る。教室で怒鳴る。電車のなかで怒る。レストランで怒る。洋服店で執拗に怒る。商店街で怒る。マンションの騒音問題で怒る。それも少年時代にはまったく怒れなかったそうで、だからこそどうやって怒れるようになったのかと実体験から聞きたくなるものである。

 かくいう私も怒れない。必要なときに怒りや憎しみを表わせないで後悔することも増えてきた。どうやったら怒れるようになるか教えてほしい。私が怒れないのは怒る人の恐さや恐ろしさに出会ってきて、あんな他人の気持ちを感じられない行為をおこなったり人になりたくないという思いにもとづいていると思う。というか、自分の弱さだと思うが。

「怒ることができない人、とくに怒りを相手に伝えられない人は、何を恐れているかと言えば、相手から仕返しを受けることも当然ながら、それによってさまざまな不愉快な思いをしなければならないこと。
いったん相手にはっきり怒りをぶつけてしまうと、それからは相手からの執拗な怒りを覚悟しなければならない。そうでなくても、いたるところで相手の冷たい態度とつきあわなければならない」



 けっきょくのところ、関係がこじれたり、嫌われたり、怒られたりする関係が恐いのである。だからひたすら怒らない人間をまわりに演出するのである。

 対立や憎しみあう関係をひたすら日本社会は避ける。悪いことだとされる。あってはならないことだされる。日本社会はとくに現代になって顕著になってきたと思われるのだが、街中でケンカを見かけることはかなりなくなってきた。対立や憎しみをひたすら隠蔽する社会が完成しかかっているようだ。

 中島義道が怒る理由がよくわかる気がする。対立や反対がなければ、意見や独自の哲学や思想は生まれない。対立を避けていれば、ひとつも意見も哲学も育たない。議論や哲学のない社会はよういに多数者の専制や少数意見の抹殺にかかる。これでは社会に自由はないし、画一化や同一化の強制や暴力は激しくなる一方だし、「みんないっしょ主義」や「仲間・友だち主義」がはびこる理由もわかるというものである。

 つまりは対立や憎しみを避ける社会というのは、いっけん平和で安全でしあわせそうに見える社会なのだが、一皮剥けば、人々の精神に同調化や画一化を強制する恐ろしき社会なのである。こういうのを「ファシズム社会」というのだが、いっけん穏やかな対立や反対意見のない社会だからこそ、病理や症状は深刻といわざるをえない。

 私たちは対立や怒りをひき受けるしかないのだろう。意見や議論や哲学が育つ風土というのは、たくさんの対立や反対意見が言い表される社会である。それが評価され、承認される社会のことである。だから哲学や少数意見に価値をもつ中島義道はひたすら怒るのだろう。

 だけどこの本残念ながらほとんど怒りの技術の話からはじまる。なぜ怒れるのか、どうやったら怒ることのやましさや抑制を解除できるのか、どうやったら人からひどい、残酷と思われることにたえられるようになるのかという基本的な前提を教えてくれない。私はまずこの抑制部分をとっ払う正当化の理論がほしいのである。そこがなければ、怒りの習得にはかんたんに飛びつけない。私は人から嫌われたり恐れられたりする人間になってよいものだろうか。

「わが国では、「~をするな」とか「~が厭だ」とか「~をやめてくれ」という言葉を正確に発するだけでも、たいそう反感を買い、その場を一瞬ぐらりと揺さぶります」

「怒鳴ること以前に、厭なことをされたら「やめろ(やめて)!」とはっきり言って拒否すること、これは、人間が生命・身体・名誉・財産を守るうえで基本的な能力だと思うのですが、どうもある種の人はこれさえうまくできない。~こういう場面になっても、とっさに叫べない人は、人間として、いや生物体として、自己保存能力が欠如してしまっている。善い悪いの判断以前に、まともに生きてはいけません」

「われわれが、自分の快楽のためにやすやすとひとを苦しめることは、人類の歴史をちらりと眺めてみただけで、あるいは文学作品をちょっと開いてみれば、あるいは能でも歌舞伎でもオペラでも枚挙にいとまないほどの事例によって証明されます。ただし、だからといってそれが「善い」ことだとは教育されなかったことも事実です。
この区別をしなければならない。人間にとって自然であることと善いこととは別なのです」



 対立や憎しみのない社会は平和に見えるけれども、これほど危険な社会もないといえる。ケンカや争いがしょっちゅうあったり、危険思想だといって思想家が監獄に入られたり、ストが弾圧されたりする時代のほうがまだまともだったのかもしれない。自分の意見や考え、思想をもつことができたからである。

 対立や反対意見がない社会というのはそれさえ禁じられる。友だちや仲間集団において「ダサい趣味」やグループと違う行動をすると徹底的にバカにされたり排斥されたりする力学が全社会をおおってしまっているのである。この深くて深刻な病に危機感や警戒心を抱かなくてどうするんだと思う。


ひとを“嫌う”ということ (角川文庫) カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ (新潮文庫) 悪について (岩波新書) 働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫) 私の嫌いな10の言葉 (新潮文庫)
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09 30
2007

書評 哲学・現代思想

次の思想家はこの人たち?


 ドゥルーズやデリダ、フーコー以降の新しい思想家を私はよく知りません。次にくる思想家の評価はまだ固まっていないからでしょうか。いちおうこの人たちかなと目星をつけて書籍を集めてみました。

 思想家というのは私にとっては難解で、理解が届かない代物がおおく、興味が重ならない部分も多々あるのですが、思想の頂点ということで、興味がないことはありません。いちど、なんらかの機会に挑戦してみるのも悪くないと思っています。


ジョルジョ・アガンベン ウィキペディア YouTube検索結果
ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生中味のない人間開かれ―人間と動物
アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人人権の彼方に―政治哲学ノートバートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』

スラヴォイ・ジジェク ウィキペディア YouTube検索結果
イデオロギーの崇高な対象否定的なもののもとへの滞留    ちくま学芸文庫幻想の感染
厄介なる主体1―政治的存在論の空虚な中心ジジェク自身によるジジェク快楽の転移

ポール・ヴィリリオ ウィキペディア YouTube検索結果
戦争と映画―知覚の兵站術 (平凡社ライブラリー)パニック都市―メトロポリティクスとテロリズム速度と政治―地政学から時政学へ (平凡社ライブラリー (400))
情報化爆弾情報エネルギー化社会―現実空間の解体と速度が作り出す空間ネガティヴ・ホライズン―速度と知覚の変容

ベルナール・スティグレール ウィキペディア YouTube検索結果(なし)
象徴の貧困〈1〉ハイパーインダストリアル時代現勢化―哲学という使命愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を

ジグムント・バウマン ウィキペディア YouTube検索結果
リキッド・モダニティ―液状化する社会アイデンティティ政治の発見
近代とホロコースト
廃棄された生―モダニティとその追放者
廃棄された生―モダニティとその追放者

社会学の考え方―日常生活の成り立ちを探る
社会学の考え方―日常生活の成り立ちを探る


スコット・ラッシュ ウィキペディア YouTube(なし)
情報批判論  情報社会における批判理論は可能かポスト・モダニティの社会学
再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理
再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理


リチャード セネット ウィキペディア(なし) YouTube(なし)
それでも新資本主義についていくか―アメリカ型経営と個人の衝突
公共性の喪失
公共性の喪失

無秩序の活用―都市コミュニティの理論 (1975年)
無秩序の活用―都市コミュニティの理論 (1975年)

権威への反逆
権威への反逆


ノルベルト・ボルツ 
意味に餓える社会グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス)世界コミュニケーション
批判理論の系譜学―両大戦間の哲学的過激主義 (叢書・ウニベルシタス)カオスとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)

ジュディス・バトラー ウィキペディア YouTube検索結果
ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱触発する言葉―言語・権力・行為体アンティゴネーの主張―問い直される親族関係
生のあやうさ―哀悼と暴力の政治学偶発性・ヘゲモニー・普遍性―新しい対抗政治への対話

まあ、こんなところでしょうか。彼らの鋭い分析や洞察にあやかりたいものです。でも意味がわかんねぇ~からね(笑)。みなさんもその難解さ・難渋さに後悔しないように。

04 21
2008

書評 哲学・現代思想

『なぜ意識は実在しないのか』 永井 均


なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)
永井 均

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)


 こりゃ、だめだ。私はほとんど理解できなかった(笑)。この人は論理学というか、論証というか、言葉の証明ばかりえんえんとやっていて、私なんかそんなことはどうでもいいから、「意識は実在」しないという主張を説明してくれと思った。証明なんかどうでもいいんだ(笑)。意識が実在しないという根拠を説明してくれと思った。

 永井均という人はウィトゲンシュタインやニーチェ、西田幾多郎などの本を書いている。ウィトゲンシュタイン(ウィキペディア)の『論理哲学論考』のような証明論みたいなものに影響をうけたのか、こういう論にとんとうとい私はほとんど歯がたたなかった。私は意識が実在しないとい説明を読みたかったのである。

 大森荘蔵もこういうことをいっていて、私は『時は流れず』(青土社)という著作にかなり感銘をうけた。しかし読んでからだいぶ月日がたってしまって、内容すらも思い出せないほどになっている。だから記憶を補強する意味でこの本を読んだのだが、大森荘蔵のようなわかりやすさはまったく期待できなかった。もう一度、大森荘蔵の本を読みかえすべきか。

 意識は実在しないとはどういうことなんだろう。私は心や思考は「実体のないもの」という感覚は理解しているつもりだ。私たちは心や思考は実体のあるもの、リアリティのあるもの、真に迫ったものとして経験しているのだが、じつは心や思考の経験というのは、いっしゅの虚構だと見なしたほうがいいと思っている。

 ほかのことを考えればそれはなくなっているし、思考や言葉というものは「実体としての存在」はこの世のどこにもない。考えたり、思ったりすることで、「実体性」や「リアリティ」を獲得するのだが、考えなければそんなものは一切なくなる。心や思考というのは雲や霧や煙のようにじつに希薄な存在なのである。

 このような捉え方というのは、癒しや感情のコントロール法にじつによく効く。私はこのような心の理解によって、自分の悩みや恐れ、悲しみといった感情の重みや執着性から、かなり離れることができるようになったと思うのである。セラピーとしての効用が、思考の虚構性にそなわっているわけだ。

 私はこのようなアプローチから思考や心の非実在性や非実体性というものを理解してきたのだが、大森荘蔵がいうには時間も同じように存在しない「仮構」だというのである。意識もそうである。それから先の理解が、読後からだいぶ時間がたってしまって、忘れてしまっているのである。だからこの本に興味をもって読んだのだが、言葉の証明論のようなものに煙に巻かれてしまった。大森荘蔵の本を読むか。


流れとよどみ―哲学断章時は流れず 物と心 物と心時間と自我
時間と自我

宇宙を哲学する (双書哲学塾) パラドックスの扉(双書 哲学塾) 「わたし」を探険する (双書哲学塾) ここにも神々はいます (双書哲学塾) 「死」を哲学する (双書哲学塾)
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03 02
2009

書評 哲学・現代思想

『クマのプーさんの「のんびり」タオ』 ベンジャミン ホフ 


クマのプーさんの「のんびり」タオ (講談社プラスアルファ文庫)クマのプーさんの「のんびり」タオ (講談社プラスアルファ文庫)
(1998/07)
ベンジャミン ホフ E.H. シェパード

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 おおらかでのんびりした気持ちにされてくれるかなと思って読んだ。老荘思想はたしかに絵本のクマのプーさんと相性がいいかもしれない。「あるがままに」や「内なる静けさ」、「なんにもしない、のんびりすること」といった主張は絵本の世界で開花できるかもしれない。

 だけど老荘思想は現代語訳の原書を読んだほうが私には得るところや理解できるところがあったように思う。とくに「荘子」のほうは理論的に多く、深く説明していて、短い「老子」よりか私の好みである。

 老荘思想はいちどは読んだほうがいいと思う名著である。こんな発想を、この書を読まなければたぶん得ることかできなかっただろう考え方に触れることができる。中国四千年の稀有の書といっていいのだろう。みなさんにも現代語訳の老子と荘子はぜひ読んでもらいたいと思う。

 それにしても老荘はどんな分野や物事にたいして「タオ(道)」を主張したのかなと思う。無為自然や万物斉同などの主張は文明や政治に対してのメッセージなのか、人間の行動基準や心のありかたについてのべたのだろうか。知の否定や文明の否定、人為の否定さえ含まれるそのメッセージはなにを目的に語られたのかと思う。

「必要なのは、<内なる自然>を認め、<あるがままのもの>とともにやっていくことだ」

「「次の角をまがったら、次の階段を上ったら」なんていいつづける生き方は、ものごとの自然の秩序に逆らい、心楽しく満足して生きることをひどくむずかしいものにしてしまう」

「からっぽの心は、目の前にあるものを見ることができるから、珠やしっぽのようなものを見つけるのにとても役に立つ。中身が詰まりすぎた心ではそうはいかない」

「自分のからだと感覚を忘れ、すべてのできごとも知識も忘れ去りました。無のただなかにあってわたしは万物の源と一体になっています」

 老荘というのは徹底的に人為や人智の否定をおこなう。まちがいや問題の根源はそこにあると説く。人間の叡智や努力のおおくを否定するのである。老荘の前では人間の賢さや偉さはいっぺんにふっ飛んでしまう。そこに偉大な知恵がひそんでいるというものなのだろう。


老子・荘子 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)老子 (岩波文庫)荘子 第1冊 内篇 (1) (岩波文庫 青 206-1)タオ―老子 (ちくま文庫)


11 06
2009

書評 哲学・現代思想

一般ピープルにとってのレヴィ=ストロース、現代思想追悼記



 フランスの思想家、文化人類学者のレヴィ=ストロースが2009年11月1日に亡くなられた。100才の大往生だった。1908年に生まれて20世紀をほぼ生きたことになる。

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 レヴィ=ストロースは構造主義をうちたて、とうじ流行っていたサルトルの実存主義を批判し、現代思想の立役者となった、そうである。文化人類学が現代思想の表舞台にのりこんできたことに違和感があるが、構造主義という流れは方法論としてくくられるのだろうか。

 構造主義の思想家にはほかにミシェル・フーコー、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカン、ロラン・バルトがあげられる。構造主義はなんでも無意識の構造に人間は支配されているということで、意識されない無意識のシステムを暴くことに知的興奮があった。ミシェル・フーコーなんて監獄や権力、狂気、性などの不穏な無意識の歴史を暴き立てて、不気味な知的興奮をさそったものである。アルチュセールも国家のイデオロギー構造を暴いた。

 日本では80年代に浅田彰が『構造と力』というフランス思想紹介本を書き、10万部のベストセラーになり、ニューアカデミズム・ブームというのがおこったそうだ。栗本慎一郎、中沢新一、上野千鶴子、丸山圭三郎、山口昌男、今村仁司などが踊った。もうポスト構造主義とよばれていて、ドゥルーズやデリダもセットでついてきていた。

 私は90年代からひそかにこのブームに遅れて乗った。フランスの現代思想家がカッコよくて、なにか深遠な知を垣間見せてくれそうな、知の極限を見せてくれるようで、紹介本を片手にかたっぱしから思想家の書物をあさったものである。思想家の名前から入り、大家であるとか、権威であるとか、評価が高いといった思想家を自分の興味とかさなる部分から読んでいった。現代思想家にあこがれて、深遠な思想にめぐりあいたいという強い吸引力、情熱につきうごされたものだった。

 こんにち思想がおおくの人に読まれるということはないし、世間の話題になるということもない。むかしはマルクスやサルトル、カミュなどが流行り、学生のあいだでは読んでいないことが恥ずかしいというときがあったそうだが、いまはそういう教養の強迫観念は絶滅した。マンガを読んでいればOKだし、ミュージシャンや映画を知っていればじゅうぶんだ。

 思想なんか読んでいて友だちと話ができるわけでもないし、同好の友や仲間ができるわけでもない。現代思想なんてまったく孤立無援の嗜癖であって、読んでいなくても知らなくてもまったく問題がない。精神世界のブームもあったのだが、オウム真理教の無差別テロへと帰結していった。心理学のブームがあったが、自己責任、個人攻撃化の風潮をつくり、犯罪少年を躍らせて終焉したという感じだ。知識とはひねくれて終わるものだろうか。

 現代思想の知の情熱に駆られて、何冊もの難解な思想書を読んできたのだが、一般ピープルにとって思想ってなんの意味があったのかと思う。知的興奮は得られるのだが、それでメシが食えるというわけでもないし、人生訓とか思想はもう教えてくれないわけだから賢明な人間になれるというわけでもないし、友や仲間ができたり、ほかの人との話題で語れるものでもない。なんだか知の情熱だけが天空に跳んでしまって、地上ではなんの役にもたたないといった感じだ。ただひとりだけ極上のワインをあじわっても、そこは北極のだれもいない地であったというオチがつきそうだ。知の情熱は足がつかない空回りだけしているという感じがする。

 思想および学問というものは、ほんらいはこの世界や人間を知り、見極めるという自然な探究心から発するものである。人間はこの世界に生まれてこの世界とは何なのだろうという好奇心につきうごかされて生きるものである。学問というのは素朴な疑問が出発点で、子ども心に発した疑問の延長上にあるものである。だれもが抱く探究心というものである。

 日本では学問が学校によって何年も教えられる高学歴社会なわけだが、おかげで学問は「他人事」になってしまう。言葉はただの「記号」になり、探究心が学問と切り離され、人の好奇心は映画やマンガ、ゲームなどにふりむけられる。学問というのは他人が持っていて、他人が教えてくれるもので、必要になればどこかで買えばいいという、自分でするものでなくなった。自分で探したり、答えを見つけようしないから楽しい娯楽でなくなったのである。学校というのは学問を外で買う買い物にしてしまったために学問を殺してしまったというのは皮肉なものだ。

 レヴィ=ストロースの追悼を書こうと思ったのだが、私にとっての現代思想の意味を考えるという文になってしまった。まあ、私は現代思想はいくらか読んできたのだが、レヴィ=ストロースはとうとう一冊も読まずじまいだ。構造主義の中心にいるといっても文化人類学で、親族の婚姻構造やパンセ・ソバージュ(野生の思考)、神話論理といったものはなかなか興味をもてるというものでもない。

 おまけに出版もとのみすず書房は三千、四千と高い本がおおいので、おいそれと興味がかさならない本を読むというわけにもいかない。未開民族のフィールドワークに興味をもてるだろうか、西洋中心主義あるいは西洋優越主義というもんだいに未開民族の優越性を対置したといわれているが、そういう本はエドワード・サイードや文明の使命というイデオロギーの研究のほうが得るものがあったように思う。レヴィ=ストロースの文化人類学は現代思想の中心の問題なのかという疑念のほうが強かったということだ。

 構造主義やポスト構造主義の思想家の大物はほとんどこの世からいなくなってしまった。ドゥルーズはアパルトマンから飛び降り、デリダも亡くなり、フーコーも早くに亡くなっており、ニューアカの思想家はぜんぶ地上から姿を消して、歴史上の存在となってしまった。フッサールとかハイデガーはすでにそういう歴史上の存在になってしまっていたわけだが、これから構造主義者も歴史上の存在としてどのような変容をとげてゆくのだろうか。かれらはデカルトやカント、ヘーゲル、マルクスと連なる存在になってゆくのか、それとも忘れられた思想家としてこの世から消えてゆく運命になるのか、それは歴史が決めてゆくことだろう。


レヴィ=ストロースの著作
悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)レヴィ=ストロース講義 (平凡社ライブラリー)野生の思考

神話と意味 (みすずライブラリー)パロール・ドネ (講談社選書メチエ)レヴィ=ストロースの庭

生のものと火を通したもの (神話論理 1)構造人類学構造・神話・労働 (新装版)―クロード・レヴィ=ストロース日本講演集

親族の基本構造今日のトーテミスム (みすずライブラリー)

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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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