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03 30
2019

書評 哲学・現代思想

ルソーとフランス革命は全体主義国家――『正統の哲学 異端の思想』 中川 八洋



 衝撃をもって読んだ本の再読である。

 保守思想からの平等や進歩、民主制にたいする思想史的批判の書である。ソ連の社会主義の批判のみならず、ルソーやフランス革命の思想的批判におよんでいるから、かなり根本的な思想を問い直されることになる。

 いま読んでみてだいぶ納得したほうなのだが、やっぱり反論や批判は読みたいし、ほかの人はどう評価しているのかがひたすら気になる本である。

 だいいち高貴や道徳を説く保守の人であるはずが、「狂人」だと「狂信」だとか、「悪魔」とか汚い罵倒語をやたらつらねるので、それだけで信用をうしなってしまう。保守の人は谷沢永一もそうであったが、「狂っている」とか「悪魔」とかの罵倒語がやたら好きである。もうちょっと冷静に議論や批判すれば品があるのに、どうして品位を落として信用をうしなう語を吐くのか。

 こんにち民主制とか平等にたいする称賛や正義の感覚はひろくいきわたっているので、ルソーやフランス革命にたいする鋭い批判はあまり聞くこともなく、それにふれたことがなければないほど衝撃である。ルソーにそんな全体主義国家の萌芽というか、論理自体がひそんでいた、というのは目をむく。

 人によっては違うだろうが、進歩や平等、民主制が正義であるとか正しいという価値観をもつことが多いと思われるが、この価値観や思想自体がどんなに毒や劇物をふくんだ思想やロジックをもっているか、ということにこの本で出会うことができる。

 基本的にわれわれが善とみなす思想というのは、人間の知性や知能をかぎりなく信頼した思想をもとに組み立てられている。人間の知性をもってすれば、社会や国家、人間の生をこのうえなくよりよいものにできるという知能への信頼である。デカルト、ヴォルテール、ディドロ、コンドルセ、ヘーゲル、ベンサムやコントといった思想家の系譜はすべてその無限の知能の信頼にみちているという。それがソ連の社会主義革命に結実してゆくと。

 全知全能の知性をもって社会や国家を改革すれば、理想の世界をうちたてることができるのだという信頼が、ソ連のみならず、ルソーやフランス革命の思想に流れていたのだと。その知性の信頼のうえに理想が望まれるなら、悪い制度や過去、思想や人間は一掃しなければならないとなる。ここにこそ知能主義の最大の凶器、異常さがたちあがることになる。理想ですばらしい制度や国家のためにそれらを一掃、抹殺しなければならない。かくして人間の生命、血はなんらの価値も権利も認められずに、抹殺されることになる。

 進歩のためには過去のまちがった古い制度や人間は一掃しなければならないし、まちがった過去や歴史はなんの価値もないから抹殺しなければならないし、人々の理想である平等のためには、突出した、または逸脱した人間はすべて抹消しなければならない。民主政治のためには平等をさまたげる高貴さや崇高性、優秀さをもった者は許されないし、低すぎるものもまた同じである。これはソ連の社会主義国家によって花開いたのではなくて、すでにルソーやフランス革命の思想の中にあり、またこんにちの進歩思想・平等主義的な考えの中にすべてふくまれているのだと、保守思想は指摘するのである。

 私は現代思想を、とくにフランスなどを好んで読んできたので、進歩史観や知性万能主義というものを知らず知らずのうちに吸収している。知性の信頼があるからこそ、思想や知識を好む。その全能感や一刀両断できるという知性こそが、全体主義国家のような悪夢の歴史をうみだしてきた根源であるという指摘には、ずいぶんとうならされる。知性の信頼や崇拝こそがより危険なものをふくみ、育ててしまうのだ。この本は政治思想批判であるが、知性の万能感への深い懐疑がふくまれているわけである。

 現代思想などを読んでいると進歩思想や平等主義の本に出会うこともあるし、大衆批判のように保守思想に属するような思想に出会うこともあるし、進歩思想の欺瞞をあばいた本に出会うこともある。立場はいろんな地点に立ち、相矛盾する考えだって拮抗せずに同居していたりする。中川八洋はそれを図式的に保守やリベラルの図式を、はっきりと切り分けて見せる理論家なのだろう。

 世の中には左翼と右翼とわけて、その党派からものをいいたがる人が多いのだが、私はどちらの思想も混入しすぎていて、どちらからものをいっているのか、よくわからないところがある。こっちの言い分もわかるし、あっちの言い分もわかるし、このばあいはこう思うしといったふうに、左右どちらかの立場になんてかんたんに切り分けられない。いろんなものが混入しすぎていて、図式的に理解する知識がいちばん欠けていたりする。ぎゃくに党派からものをいえる人はどうしてそんなにかんたんに割り切れるのかと思う。

 私はオルテガやニーチェの大衆批判にえらくうなずいてきたし、ハイエクやフリードマンのロジックに納得するし、老荘の立場は知性の信頼をたしなめた保守の思想に近いと思ったりする。進歩史観や平等正義の価値観が強い中で、それらを批判する保守思想を吸収していって、保守的立場に近いようになってきたかもしれないというあたりである。

 この本での進歩思想、平等思想への批判はだいぶ納得するところがある。だが中川八洋が依拠するところの保守思想、あるいは伝統主義的な価値観はどのようなものかといった展開はほぼなしていない。批判だけの書であって、自分のよって立つ思想、主義の主張、啓蒙をしているわけではない。中川八洋のほかの本はとても読む気にはなれないし、興味もないので、よって立つところはだいぶ違うのだと思う。批判はわかるが、あちらの地点にはとても立てないところにいそうだ。

 この本はわれわれが理想や正義とする民主制や平等、進歩の思想が、どのように全体主義国家とつながっており、いかにそれに転嫁しやすいしやすい性質をもったものか、執拗に暴き出される書である。こういう正義感しかもってない人は、ぜひこの角度からの批判や指摘にも耳を傾けてみるべきだと思う。この類書を読みたくなるが、なかなかそのような本に出会わない。



▼98年にさいしょに読んだときの感想がホームページに残っています。
 「「理想社会」というパラドックス――中川八洋『正統の哲学 異端の思想』私感


フランス革命についての省察ほか〈1〉 (中公クラシックス)歴史の意味 (イデー選書)世界史的考察 (ちくま学芸文庫)思想の英雄たち―保守の源流をたずねて (角川春樹事務所 ハルキ文庫)保守主義の哲学―知の巨星たちは何を語ったか


03 22
2019

書評 哲学・現代思想

酷薄な強者の哲学――『善悪の彼岸』 ニーチェ

善悪の彼岸 (新潮文庫)
ニーチェ
新潮社



 小説しか読めなかった私がはじめて読んだ哲学書で、約三十年ぶりに読みかえした。哲学が読めて、こんなにおもしろいものかとその後、哲学書や社会学を読むようになった決定打になった本だ。

 短いアフォリズムだし、いっていることがところどころわからなくても読める本だ。ニーチェは批判的、反逆的な精神をもっている者にはとてもひきつけるものがある。現代思想・ポストモダン思想の源流ともいわれるし。

 ちかごろニーチェの哲学が自己啓発風に切りとられた本がベストセラーになったが、大衆を「畜群」と毒をもって罵ったニーチェのイメージをもっているものには、ポジティブ・シンキング風のニーチェには閉口した。その本はぱらぱらめくった程度で読んでないが、ほんとうにニーチェはこんなに前向きなことを語っていたのかと信じられなかった。

 この本は道徳批判なのだが、同情とか平等のような思いやりのある道徳が、天才や優秀な者たちの足かせになると、激しく批判した本である。読んだ当時は善きものと思われていた道徳感情をひっくりかえす本として衝撃をもって読んだのだが、いまはこれは強者をもっと強くしようとした保守思想の範疇に入るものに思えた。ニーチェを保守思想家という声はあまり聞こえないのだが。

「いまや、畜群的本能が一歩一歩とその帰結を示している。…公共に対して危険なものが多いか少ないか、平等を脅かすものがあるかないか――が、いまや道徳的規準である。ここでもまた恐怖が道徳の母である。

孤立した孤高の精神性・独り立たんとする意志・大いなる理性すらが、危険と感ぜられる。かくして、個人を畜群以上に引き上げ隣人に恐怖を与えるいっさいのものが、悪といわれ、反対に、控え目に卑しく服従しておのれを他とひとしく置く性情が、欲求の中庸が、道徳の名と誉れを僭するにいたる」



 ニーチェは道徳的な平等化が、天才や強者のような社会の進歩や未来をひっぱるような人種を滅ぼし、杭を打つことになるのだとはげしく批判した。J.S.ミルやオルテガが警鐘を鳴らしたこととまったく同じことをいっている。

 ニーチェは道徳批判をしたから、平等や画一化の危険を感じとった保守思想家とちょっと異なるようにとらえられているかもしれないが、私には保守思想家に思えた。道徳の中にこそ平等化や標準化の人間を低く抑えていゆく力があるといったのは、ニーチェの慧眼だろうが。

「これらの人間は、この貴族制のために、不完全な人間・奴隷・道具にまで圧迫され制限されなくてはならぬ。真の貴族制の根本信条は、社会は社会自身のためには存在すべからず、というにあるべきであり、社会の存在理由は、ただ選ばれた種族がより高き存在とまで向上するための土台であり足場である、ということにあらねばならぬ。

生命そのものが本質的に獲得であり、加害であり、他者弱者の圧服であり、酷薄であり、おのれの形式を他に強制することであり、同化であり、すくなくとも、またもっともおだやかにいって搾取である。

それは有機的な根本機能として、生ける物の本性に属する。それは、まさに生命の意志たる、力への意志そのものの生んだ結果である」



 ニーチェは民主的・平等が理想や善とされる社会への強烈な批判や非難を投げかけたのであり、こんにちの社会からはもはや危険とさえいえる思想を掲げた。奴隷道徳や同情によって画一化・平均化してゆく一般の人間をはげしく痛罵した。保守思想の強者や天才がもっと引き上げられ、伸ばしてゆく社会の先鋭化したかたちを望んだ。凡庸で平均的なものは、圧迫され、切り捨てられるような社会がほんとうによい社会なのだろうか。

 この奴隷道徳は『道徳の系譜』によってもっと細かくくわしく分析されている。

 もうひとつ『道徳の善悪』ではまだ萌芽的にしか語れていないが、『権力への意志』で全面的に語られる認識の虚構性や作為性も、ニーチェの重要な思想だ。

「「物それ自体」の中には因果の絆はまったくないし、「必然性」も「心理的不自由」もない、ここでは、「因が果を生む」こともなく、いかなる法則も支配していない。ただわれわれ人間が、原因・継起・相対・強制・数・法則・自由・根拠・目的などをつくりだしたのである。われわれはかかる記号世界を「物それ自体」として事物の中に嵌めこみ混ぜこんでいるのであるから、われわれの行っていることと同じく、ここでもまた神話的である。

空間・時間・形態・運動、これらをひきくるめてこの世界は虚妄として示されていると感じる者は、ついにいっさいの思考自体に対して疑惑することを学ぶべき、よき機会をもつわけである。

おそらくその逆が真なのではないか、「考える」が装飾するものであり「われ」が装飾されたものではないか。「われ」は「考えること」によって作られる総合体なのではないか」



 言語でつくられた世界自体、世界全体を疑うことはまだそう多くは語れていない。その後、『権力への意志』でおおいに語られることになるテーマはまだ初歩的なものだ。インドのヴェーダンダ哲学にもニーチェは触れているから、それに学ぶことは多かったのだろう。言語でつくられた世界の疑惑はその後にひきつがれてゆく。

 それにしても、ニーチェの強者だけがなぎ倒してゆく思想は、ニーチェの記憶はあったけれど、どんどん道徳的・平等的な考え方になっていた私にはどのくらい受け入れるべきか迷うところである。私自身がどんどん弱く、強く生きられないことを知っていったからなおさらだ。


道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)ニーチェ全集〈14〉偶像の黄昏 反キリスト者 (ちくま学芸文庫)この人を見よ (光文社古典新訳文庫)ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)


01 16
2019

書評 哲学・現代思想

「私」とは他者のことか――『私はどうして私なのか』 大庭 健



 私は、「私とは誰なのか」という疑問はあまり抱かなかった。この疑問というのは、「私」の感覚に違和感や息苦しさを感じるようなところから生まれるのだろうか。

 だけど物語の記憶喪失には、深い興味をおぼえてきた。だだぼんやりとした疑問だ。それを言葉にした文を読むことによって、「私とは誰なのか」と問われていることを知る。「記憶がなくなれば、私は私でなくなるのか」、記憶喪失物語はそう問うている。記憶喪失物語はよく恋愛ものに頻出するから、「愛とは記憶、思い出なのか」、と問われることが多いのだが。

 ちょっとこのフックでは、疑問の継続はすこしむずかしいのだが、自分が自分自身であることの違和感や齟齬を強く感じることによる問いや疑問というのは、知識にとって欠かさざる原動力となるものだ。その違和感を強く持つ人は、自然に哲学者になる。

 この本は「私」意識とはどのように生まれていったのかということから解明されてゆくから、ひじょうに興味深い。岩波現代文庫で出ているが、もとは講談社現代新書から出ていたもので、そう考えるなら、やさしい一般向けに書かれた親切な本であることがわかるだろう。謎解きのようにスリリングな展開を読める。

 自分の意識というのは、他人に見られていることを意識するようになって生まれるものだ、という指摘にははっとさせられる。ぼーっとしていて、はっと「われに返る」のは、他人がどう見ているかと意識してからだ。ポール・リクールには『他者のような自己自身』という著作があるが、まだ未読なのだが、自己意識とはほんとうは他者意識の反射ではないだろうかと思う。自己というのは、すでに他者、あるいは想定された他者意識なのではないのか。

 三浦雅士の『漱石――母に愛されなかった子』にも同様の、自己は他者や母の目によって生まれたという指摘がある。私たちの自己というのは、他者の目を想定した意識なのか。

 そういう他者に見られていることに気づいて、自己意識は生まれてゆくが、まだそれだけでは「私」という言葉は使えない。たとえば「健ちゃんは」という言葉から、「私は」という言葉を使うには、飛躍が必要だ。健ちゃんという言葉はそうでない者にはつかえないが、私という言葉はほかのだれもが口にできる言葉だ。そういう自己意識が他人にもあること、この世界に自分のような自己意識は自分だけではなく、ほかにもあることに気づいて、はじめて「私」という言葉は使える。自分も世界の中のいくつもの「私」のひとつにすぎない、そういう意識をもてて、はじめて「私」という言葉は使えるようになるのである。

 「私」という言葉は、見られていることの意識と、世界のほかにも自己意識があることを知って、はじめて使えるようになる言葉なのである。

 そしてそういう自己意識の発達には、「ないものを表せる」言葉の発達と不可欠である。だから、この本では言語哲学や分析哲学の言語的解釈がずっと使われる。

 私はこの「ないものを表せる言語」ということにずっととどまりたい気持ちにさせられるのだが、この「ないこと」の感覚の維持ほど、言語にまみれた私たちには必要な感覚はないと思っている。過去や未来は「ない」のに、言葉によって目の前にあるかのように扱われる。それが当たり前になるのが私たちの社会だ。ここでひっかかってほしい。「ないこと」の感覚を磨いてほしい。私たちは、「ないこと」の上に言語の幻を組み立てつづけるのである。

 過去はもうなくなっているし、この瞬間もつぎつぎと消え去ってゆく。それなのに、過去は思い出せばあると思われるし、さっきの私はもうなくなったのに、継続した「私」はあると思っている。この存在がつぎつぎと消滅してゆく世界に私たちは住んでいるのだ、この感覚をずっと維持しないと、この世界のマヤカシを生きることになってしまう。神秘思想や禅は、このことをいっているのだが、一般社会ではこの消滅することにはいっさい目をふさぐ。そこで、私たちは誤った目標や望みを抱いてしまうことになるのである。

 また、「ないこと」の重要性に気づいたなら、哲学も読めるようになるという逆説もある。言語を駆使した哲学はぎゃくにそれをまったくいわないのだけどね。底が抜けた奈落性を、この世界はふくんでいる。そういうのを教えてくれるのが哲学がオカルトめいて遠ざける神秘思想だというのは、皮肉なことである。

 で、この本が私とは誰かと問うた必要性は、ただ生きていることに価値がおかれず、取り柄に価値がおかれる転倒について疑問を発したかったからだという結論めいたことがいわれている。生命や身体を自分の所有物のように思い込む過ちの根源をたどりだしたのだということなのだそう。三浦雅士が、人が自殺できるのは、自己意識が他者の目によって生まれたといったことと同じだ。


漱石―母に愛されなかった子 (岩波新書)私という迷宮所有という神話―市場経済の倫理学他者のような自己自身 (叢書・ウニベルシタス 530)自我の終焉―絶対自由への道


12 12
2018

書評 哲学・現代思想

入門書不向き――『現代イタリアの思想をよむ』 上村 忠男



 ネグリやアガンベンが注目されているから、入門書のつもりで読んだが、そういう扱いには適さない本格的な本だった。

 とりあげられている思想家は、クローチェ、モスカ、マッツイーニ、デ・マルティーノ、ギンズブルグ、ボッビオ、アガンベン、ネグリ、グラムシといった人たち。どちらかというと、名前さえ聞いたこともない思想家も多いので、歯が立たなかった。

 思想とか哲学といえば、フランスやドイツが中心で、イタリアの思想なんてこれまでほとんど聞いたことがなかった。本書ではイタリア移民の話が出てくるが、映画でイタリアン・マフィアのことをちょっと思い出せる程度だ。

 440ページにおよぶ大著であるから、やはりほかの新書の入門書をあたるべきだった。読んでいるうちに興味ある思想に出会えるかなという期待も込めたのだが、残念ながらそういう興味の穂先もつかめなかった。

 ネグリとかアガンベンのイタリア思想はなぜいま注目されるようになったんだろうね。


イタリア現代思想への招待 (講談社選書メチエ)裸性 (イタリア現代思想)NO FUTURE―イタリア・アウトノミア運動史光はトリノより―イタリア現代精神史知識人と権力――歴史的‐地政学的考察 (みすずライブラリー)


12 01
2018

書評 哲学・現代思想

人生のいちばん重要な問いかもね――『私の生きた証はどこにあるのか』 H.S.クシュナー



 タイトルがよいので、本屋で見かけたときから読みたいと思っていたが、図書館でみつけた。手元においておいて、赤線をたっぷり引いて残しておきたい本だったが、図書館で借りて読んでしまった。

 著者はアメリカ人のユダヤ教ラビで、この本はユダヤ教のかなり人生への懐疑的な見方をつきつける『コヘレトの書』を導きの書にしながら、話がすすむ。

 3章の「自分の利益だけを追い求める人間の孤独」は、現代人への疑問をじゅうぶんにつきつける章で、成功だけを追い求めて孤独に生きるわれわれへの人生の深い問いをつきつける。自分の成功だけを求める人生でいいのかという懐疑は、現代人にいつもきざすのではないだろうか。そういうシステムの中でしか現代は生きられない。

 かといって、著者のクシュナー、ならびにコヘレトは、宗教的な他者への犠牲だけに生きる人生も疑問にさらす。

 クシュナーはうまいことをいうのだが、アメリカ人は「アテネとエルサレムの双方の申し子」といって、快楽のギリシャと禁欲のユダヤ教キリスト教の双方に引き裂かれているという。クシュナーはユダヤ教のみの見方をもつのではなく、アメリカ人らしい欲望と禁欲の両方に目配りもできる感覚ももつ。

 クシュナーは痛みを避けるためにまったく痛みに不感症となるような生き方ではなく、痛みも感じることが愛や喜びをも感じられる生き方だと説く。私はこれには反対派であって、感情のない平安の境地をいちばんによしとする。感情をもたらす思考や認識というのは、ひとつの幻想や虚構であり、私はそんなメロドラマに身をゆだねるなという立場だ。だけど、感情主義な生き方はこんにちのいちばん共感をもって迎えられている価値観だとは思いますけどね。

 この章で、私も中学のころに好きだったサイモン&ガーファンクルの「アイ・アム・ア・ロック」に言及される。「僕はただの島、ただの岩。……岩なら傷つきはしない。島なら泣くことはないさ」。クシュナーはこのような生き方には否定的である。

 クシュナーは、宗教を疑問に思う人がいちばん疑問にもつ、神への服従がよい生き方なのかという疑問も俎上にのせる。ピアジェの『児童の道徳的判断』という本を手がかりに、親に全面的に服従していた子供時代と、権威に反抗したくなる青年の心理に言及する。クシュナーは宗教的服従をのりこえ、自分自身の高い規範に生きることを理想とする生き方をすすめる。

 コヘレトはさまざまな人生を懐疑にさらしたうえで、人生は無意味かもしれないが、それをうけいれ、つかの間の消えゆく喜びのなかに意味と目的を見いだせと説く。わずかな瞬間だとしても、味わい楽しめ。そういったささいな喜びをすすめるのである。

 9章でクシュナーは「私が死を恐れない理由」を説明するさいに、私は人から頼られてきた、ベストセラーも生み出したようなことをいっているのだが、これはあまりにもなんの成果もなしとげていない者には突き放しすぎだと思ったけどね。

 全般的にとてもよい本だと思います。私たちは人生が終わってしまえば、この世にはなにも残らない、なにか残さないと価値がないと思いつめるのだが、それにも失敗するかもしれないし、だいいちいつまでも消えない生きた証しはこの世に残せるものなのだろうか。

 マルクス・アウレーリウスを読むと、そういう名声の空しさを嘆く言葉に出会う。私は人生になんの価値も評価もみいださないで、それに嘆いたり、空しいと思う気持ちさえ捨てて生きるのが、いい生き方だと思っている。人生を人間の評価やモノサシで測る必要なんてない。言葉のない次元でただたんたんと生きる。それだけでいいと思う。



伝道の書―コヘレトの言葉 (TeTコンパクト聖書注解)なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)恐れを超えて生きるモーセに学ぶ 失意を克服する生き方ユダヤ人の生き方:ラビが語る「知恵の民」の世界


11 18
2018

書評 哲学・現代思想

医学の横暴ではないのか――『“生政治”の哲学』 金森 修

“生政治”の哲学
“生政治”の哲学
posted with amazlet at 18.11.18
金森 修
ミネルヴァ書房


 図書館を使うようになって、かつて高すぎてあきらめていたハードカバーの本も読めるようになった。ネグリやアガンベンなどの現代思想の動向を横目でながめつつも、手が出せる内容なのか、小手調べのために読む。

 フーコーの規律・訓練型権力には衝撃をうけたクチだが、生哲学の内容についてはあまり知らなかった。この本ではフーコーの講義録をていねいにたどりながらフーコーが問おうとしていたことや、ネグリやアガンベン、アレントの思想などが紹介されている。

 アガンベンの「むき出しの生」というのは、ナチスやアウシュヴィッツで露わになったように、国家にとっての生命の価値をめぐる知のあり方のように思える。この本で思想的にかなり迂遠に語られてる気がするのだが、そう難しいものには思えないのだが。

 ちかごろでは、禁煙運動や障碍者殺傷事件に現われているように、国家にとっての命の価値は、たえずうきあがってくる。それも権力側からの強制ではなく、市井のものからのボトムアップや首を絞めるかたちでわきあがってくるのが不気味である。

 『精神医学とナチズム』(小俣和一郎)という本では、命を守るために火傷を負った足を切断する必要があるように、国家にとっても不要なものは排除しなければならないという思想が、医学からとなえられた。優生学や近接科学などから上がった声である。生政治とはこのようなことをいっているのだろうか。

 近年でも、自分への肺ガン物質の汚染を防ぐために禁煙運動が公の部分にまで力がおよぶようになったが、自分の害や不快感を防ぐことが公共にも求められる。しだいにそれは「国家」や「社会」への損害を防ぐというような太宰メソッドのようにすりかわり、しまいには国家や公共にとっての損害となるものを排除しろという正当化の声にふくれあがってゆく。

 ナチズムで求められたのは、公共の「医学」であって、われわれはナチスの残酷な結果しか見ないのだが、その導入部で正当化されたものは医学的見地ではなかったのかと思う。生政治とは医学の国家化のようなものではないのかと思うのだが、その生哲学ではあまりはっきりいわれない。医学の脅威や不気味さをしっかりと啓蒙すべきだと思うのだが、制限の声をあまり聞かないのはナゾである。

 自分の不快なものを公共の名にすりかえて、その排除の正当化がおこなわれる。それはたえず市井の声から上がってくるものではないのか。そして人の自由や勝手は奪われてゆく。その担い手がふつうの人たちなのである。フーコー的な権力の網の目というものなのか。

 この本でネグリやアガンベンの本を、自分の問題のように考えるにはいたらなかった。本を読むかもまだわからない。なお2010年に出されたこの本は絶版である。



ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人“帝国”―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性精神医学とナチズム―裁かれるユング、ハイデガー (講談社現代新書)健康帝国ナチス (草思社文庫)


11 08
2018

書評 哲学・現代思想

意味不明――『権力の心的な生』 ジュディス・バトラー



 「主体化=服従化」という図式を説明してくれると思って読んでみたが、ある程度ジュディス・バトラーは難解だと聞いていたが、たしかに意味がつかみにくて、煙に巻かれたような読後感しか残らない。

 文章の流れや文法はしっかりしているのだが、意味のフックがどんどん剥がされてゆく感じで、どこにもたどりつけない。服従論、権力など興味をもって摂取したいのだが、残念な結果である。さいきん、現代思想を読んでいないこともあって、現代思想はそういうものであることを、忘れそうになっていた。

 一行でわからなかったといえばおしまいの書評にならざるをえない。なにも語れない。

 語っている内容は、フーコー、ニーチェのやましい良心、アルチュセール、フロイトなどだが、この人たちの著作はわかっているつもりでも、バトラーを通せばなにいっていたかわからなくなる。

 まあ、自分にとって意味の分からない書物は役に立たない書物であって、切り捨ててゆくしかない。用なしの書物である。たとえ世間で評価してようが、わからないものをひきずっても、なんの役にも立たない。この本、ほんとにほかの人も読めているの?



ジェンダー・トラブル 新装版 ―フェミニズムとアイデンティティの攪乱―自己への配慮 (性の歴史)ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)再生産について 上 イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー)自我論集 (ちくま学芸文庫)


02 21
2013

書評 哲学・現代思想

保守はジジイのむかしへの情緒的愛着ではないよ―『日本人として読んでおきたい保守の名著』 潮 匡人

4569800076日本人として読んでおきたい保守の名著 (PHP新書)
潮 匡人
PHP研究所 2011-08-12

by G-Tools


 イメージでしか保守を知らなかったとき、時代の変化についていけないジジイの情緒的愛着くらいしか意味がないと思っていたけど、保守にも論理的批判力のあるバックボーンがあると知って見方がだいぶ変わった。

 わたしはハイエクの説くような経済的自由には賛同している。でも右翼の伝統とか全体主義につながるような保守には近づきたくないと思っている。わたしは個人主義礼賛で、集団主義や全体主義には批判的だ。保守思想はこれをどう結びつけているのだろう。

 ただアーレントは全体主義はアトム化や民主主義からはじまるといっている。ナチズムは民主主義からはじまったといわれるし、右翼の強権的な政治が自由をもたらすようにはとても思えない。いったい全体主義につながらない個人の自由はどこにあるのだろう。

 わたしはフランス思想の影響を吸収したのでどうも進歩思想的な考えにそまるところがあったのだが、心理学的にはこれは現状を批判するというネガティブ・シンキングに傾きがちになるので、現状を肯定するという意味ではポジティブ・シンキングに近い保守思想に耳を傾けたほうがいいのではないかとも思うようになった。批判ばかりなら人生を不幸に落とし込んでしまうからね。

 保守思想にかんしてはハイエクの『隷従の道』の「知性の限界」とか「知性の万能主義批判」ということにひじょうに学ばせてもらった。人間の知性は万能ではなくて、貨幣のような大きなものには自然のメカニズムに任せるしか、人間の独裁や権力をふせぐ方法はないのだという考えにはひじょうに納得する。

 中川八洋の『正統の思想、異端の思想』にも目からうろこが落ちるような思想の系譜をまなんだ。ただこの人の右翼的思想とか感情的罵倒、たまにもれる電波な意見とかは一ミリも共感できないのだけど。わたしは右翼的思想、国家主義的な思想には不快感を感じるだけである。

 だからこの本の著者の基本姿勢は右翼的なにおいを感じるのでそこは拒絶の気持ちがはたらく。わたしはマーケットに任せろという保守の考え方には共感をおぼえるが、右翼や国家主義的な考えにはまったく共感できない。ハイエクやフリードマンを保守の系譜から外せば、保守思想にはあまり共鳴するものがないのかな。

 この本では保守思想家がならべられて紹介されているのだが、中川八洋の『正統の思想、異端の思想』のような感銘もうけなかったし、思想家の人となりに紹介も多く割かれていて、まあ思想の深みにはあまりふみこんでいない内容といえるのではないかな。経済的自由からの保守のアプローチと国家主義的な保守のアプローチでは違うものを感じる。「日本人として読んでおきたい」といタイトルもひじょうに強制的でいやなタイトルだね。

 ざっとこの本から感銘した言葉をひきうつす。

「自分の先祖を振り返って見ようとしない徒輩は、決して自分の後裔にも目を向けないだろう」



 保守思想の祖エドマンド・バークの言葉である。バークはフランス革命に批判的だったわけだが、国家の前に裸に投げ出されるかたちになる民主主義国家の先にナチズムや社会主義国家を見ていたのかもしれませんね。わたしたちの国は民主主義に疑問をいだくことはすくないのだけど。

「私は商業の習性ほど革命の習性に対立するものを他に知らない」



 トクヴィルの言葉。トクヴィルの「多数者の専制」という言葉にひじょうに鋭い警句を感じてきたのだが、トクヴィルはフランス革命で家族、親戚など多くのものを失ったことをこの書で知った。

「それ(平等)は人間を互いに孤立させ、誰もが自分のことしか考えないようにさせる。それはまた人々の心を度外なほど物質的享楽に向かわせる。宗教の最大の利点はこれと正反対の本能を吹きこむところにある」



 平等は日本では絶対的な正義や善に思われることが多いのだが、トクヴィルや保守思想家は平等の危険性や招来するものにとくに警戒していた。平等に対立するものは貴族や高貴さであって、保守思想はこの思想に力点があると思うのだが、ニーチェやオルテガ、J・S・ミルなどの大衆批判はこの点から立ち上がっている。

「人間を正気に保ってきたものは何であるのか。神秘主義なのである。心に神秘を持っているかぎり、人間は健康であることができる。平常平凡な人間がいつでも正気であったのは、平常平凡な人間がいつでも神秘家であったためである」



 チェスタトンの言葉である。意外な気がするのだが、神秘のないニヒリズムは狂気に向かうのだろうか。

「民主主義の信条とは、もっとも重要な物事は是非とも平凡人自身に任せろというにつきる」



 危うさを感じるチェスタトンの言葉である。

「単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の放漫な寡頭政治以外何物でもない」



 チェスタトンはそれゆえに伝統を重視する。死者の民主主義というわけだ。

「無実の人々が蒙った前代未聞の危難の見本を示すことによって、不可侵の人権などというものは単なるお喋りに過ぎず、民主主義諸国の抗議は偽善でしかないことを、実際に証明することにも成功したからである」



 アーレントはアウシュビッツを指しているのだろうが、のちのナチスに加担することになるハイデガーと不倫関係にあったとは皮肉なことである。でも戦後、公職から追い出されたハイデガーを公に擁護したということだが。


▼この本にとりあげられた保守の名著
新訳 フランス革命の省察―「保守主義の父」かく語りきアメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)正統とは何か全体主義の起原 1 反ユダヤ主義

開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】道徳的人間と非道徳的社会 (イデー選書)

▼保守思想を学ぶ本
正統の哲学 異端の思想―「人権」「平等」「民主」の禍毒悪魔の思想―「進歩的文化人」という名の国賊12人思想の英雄たち―保守の源流をたずねて (角川春樹事務所 ハルキ文庫)ハイエク―マルクス主義を殺した哲人アメリカの保守とリベラル (講談社学術文庫)


08 04
2012

書評 哲学・現代思想

「世界は消え続けてきた!」―『人生に生きる価値はない』 中島 義道

4101467307人生に生きる価値はない (新潮文庫)
中島 義道
新潮社 2011-09-28

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 コラム・エッセイをあつめたもので、中島義道の人となりが知れてよかった。フーコーやレヴィナスのような流行の思想家は読めないこと、ニーチェは還暦をすぎたことからわかりだしてきたことなど意外。「みんな一緒主義」とか「仲良し主義」への批判はあいかわらず同感する。

 中島義道は人は顔色をうかがってばかりいる人や空気に縛られて窮屈だと思っている人、みんなといつも一緒だとか友だち主義に気疲れを感じている人にはおすすめの哲学者である。

 このコラム集のなかでいちばん感銘したのは「世界は消え続けてきた!」という時間論にかんする章である。近来ないほどの思考の転換があったということだ。

「「未来はない」ということを明晰かつ判明に腹の底から確信した。

…断じて「まだない」のではない。それについて語ることさえできない絶対無なのだ。

…「未来に起こると想定したあるもの」は、未来に起こることではなく、現在そう考えていることだけのことである」



 「未来はただの想像にすぎない」といったことや、「未来は存在しない」と言葉でいっても、それを腹の底から実感として感じることはまたべつである。想像や言葉の「実在感」をばりばりに感じてきた人こそ、その消滅の衝撃につき落とされる。

「世界は絶えず消えていく。

…広大なシベリアは刻々と消えていくのだ。いや、地球も、太陽系も、銀河系宇宙も、まるごと崩壊していくのだ。

…私が数時間前にそこから飛び立った成田空港はいまはまるごと消えてしまって「ない」。そして、やがて私が到着するであろうシュベヒャート空港もまったく「ない」。私はいま無と無のあいだを飛んでいるのだ」



 人は未来も過去もある、確実にあると思い込んでいるものだが、じっくりと観察してみると未来と過去の事物はまったく存在しないか、消滅してしまったものである。わたしたちは存在しない事物をいかに「創造」しているかということである。

「この世界は確固としたものだという錯覚に陥るのは、言葉のせいである。

…言葉が刻々と変化し続けるものを、時間が経過しても変化しない「一つの物」とみなす錯覚に導くのである」



 われわれは言葉や創造による事物の「創造」をいかにおこなっているかということだ。そしてそれは「存在しない」のである。

「客観的時間とは、たぶん壮大な錯覚なのだ。じつは存在しないのに、あたかも存在するかのようなものにすぎないのだ。

客観的世界信仰から脱すべきだと思う。そこに「私の存在」が書き込まれていない、いや原理的に書き込めない世界が、なんで実在世界でありえよう?」



 わたしの「外側」に客観的世界があると思い込んでいるわけだが、はたしてわたしという認識主体をなくして世界は存在しえるだろうか。わたしがなくなれば、この世界もなくなるのではないのか。

                    *

 中島義道は徹底的に考えてきた人である。言葉と論理で確証するために考えること、悩むことを手放さなかった人である。

 じつは上記のようなことははるか二千年前から仏教がいってきたことであり、仏教の教えを受け入れていたら、中島は苦しんだり、悩むこともなく、それを手放す知恵を手に入れられるのにどうして言葉と悩みの方法を選んでしまうのだろうと疑問に思ってきた。中島はたぶん自分が言葉で理解するまで、自分の実感として理解するまで、安易な解決方法を拒否してきたのだろう。西欧哲学は仏教をうけいれてはいない。

 中島が時間や客観世界の「無」を実感する道筋にたどりついたのは、たぶん死にたいする恐れが強烈に強かったからだろう。時間の「無」、客観的世界の「無」を悟ることは、死の恐怖を立ち上がらせる思考の根源を断つことである。

 なぜなら人は死を客観的には体験できず、死を体験するときはすでに意識がないからであり、自分の死の恐怖は未来の想像にすぎないからである。これらが言葉や想像による「無」であるなら、なんら恐れることはない。恐れていた死はただの「想像」であったのである。中島は死の恐怖の克服のために、ずっと哲学してきたことといえるだろう。

 タイトルの『人生に生きる価値はない』という言葉も、死の恐怖を和らげるための言葉である。死が恐れられるのは、生きることに価値をおいているからである。生きていることの消滅はその価値ある生の消滅である。だから人生に価値がないと思うことによって、その人生の消滅もなんら大きな価値も意味ももたないことになる。

 中島は死に対する恐れを克服するために哲学をしてきて、西欧哲学を経由した上で、仏教や東洋思想が語ってきた思想に接近したのである。東洋思想に安易に接近しなかったのは、遅れた東洋や俗習である宗教という偏見でもあったのだろうか。

 だから中島は意地でも言葉と論理によって理解しようとした。苦しみや悩みが大きいとしても、その問いを手放さなかった。なんで中島は手軽な解決法が東洋思想に提供されているのに、その方法を使わないのかと思ってきた。だけど文庫版あとがきで「回心」のようなことが書かれていて、安心した。

「還暦をすぎるころから、私は「無が一番いいのだ」という漠然とした直感を抱くようになった。空間も、時間も、物質も、意識も、文字通り何もないとすれば、どんなにラクであろう。われわれは悩むことも悲しむこともない。死を恐れることも後悔にむせぶこともなく、他人と比較してわが身の不運や愚かさを嘆くこともない」



 中島は哲学することによって悩むことや苦しみことをみずから選び、そういった道を放棄したふつうの考えない人たちの人生を非難してきた人だ。そこまで極端にやらないで、ときには安易な方法を選んでいいのではないかと思ってきた。だけど論理と哲学のすえにようやく安心の境地を中島は見いだしたようだ。自分自身がその道を通らないと絶対に納得しない哲学者の魂をずっともってきたのだろう。



カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ (新潮文庫) 私の嫌いな10の人びと (新潮文庫) ひとを“嫌う”ということ (角川文庫) 孤独について―生きるのが困難な人々へ (文春文庫) どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか? (角川文庫)
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07 21
2012

書評 哲学・現代思想

「真理や客観などない」―『「自分」を生きるための思想入門』 竹田 青嗣

4480421750「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫)
竹田 青嗣
筑摩書房 2005-12

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 竹田青嗣は現代思想を勉強するさい、今村仁司とともに参考にさせてもらった。内田樹はそのあとに出てきた哲学者なのでブログはよく読んだが、書籍では読む機会を逸した。

 竹田青嗣の紹介でいちばん知りたかったことは、客観や真理が現代思想ではすでにそんなものはないと宣言されていたことだ。「言語ゲーム」や「ルールの網の目」でしかないというポストモダンの思想をいちばん確認したかった。

 でも学校や世間ではどうも「正解」や「真理」がある、わかるという前提で了解されているようで、この思想と常識のギャップってなんなんでしょうね。学校って「近代」までのもので、ポスト近代になったら学校というところでものを教えられないのでしょうか。

 この「真理なんてない」という考え方を確認したくて、思想のいろいろな本を漁った。やはりこの点で宣言したのは岸田秀の「唯幻論」であり、リオタールの『ポストモダンの条件』であり、ニーチェの『権力への意志』であった。ウィトゲンシュタインはこむづかしそうで、とっつけなかなった。フッサールもはじめから客観世界をあきらめているのですね。

 真理なんてないという宣言は大きな転回をもたらすものであるが、なぜか世間でそういう言葉を聞かないこともあって、わたしは確認作業に念を入れなければならなかった。なぜそんなに確認作業が必要だったかというと、自分たちのもつ「自明性」「常識」「世界観」の強固さ、頑丈さをゆるがせるのがいかにむづかしったかということだ。

「人間が持つ自=他関係の物語は、単なる理解ではなく、必ず彼のこう生きたい(ありうる)を指し示すものだからです。

「関係」が欲望を作るという言い方は、正確には、人が自分と世界をどういう関係として理解しているかが彼の欲望の内実(=形)を作る、と言い直すのが適切です。

欲望そのものがその人が何であるかを決めるのではなく、欲望に対する自己理解が、その人の態度や精神その人の人間が何であるかを決めるわけです」



 「世界観=その人の生き方・欲望」という考え方は理解するのがむづかしかったですね。世界観と欲望は別個のもの、ぜんぜん関係ない切り離されたものと捉えられるからだ。しかし世界観はそのまま欲望を指し示すものなのである。欲望の水路のあり方を切り開くといったらいいか。

 その社会の共通了解の無根拠性を確認したあとに、わたしはトランスパーソナル心理学や仏教の思考の虚構性や幻想性について読み漁ることになった。社会のつぎに思考や意識の幻想性を確認しなければならなかった。わたしたちは「頭で考えること」の根拠や絶対性をいかに頑なに信じているかということだ。現代思想はこの領域にはつっこんでいないのだけどね。

 この本は欲望やエロスについて語られているが、ひさしぶりに再読してみて、欲望を肯定しているのか、欲望をめざすことがいい生き方なのか、ちょっと憮然とした気もちをひきずったままだった。

 わたしはできることなら欲望を肯定する生き方より、欲望を削減する生き方のほうが好みだった。脱俗とか隠遁の思想には共鳴することが多い。だからこの本はちょっとね、と感じる部分も多かった。竹田青嗣は欲望を肯定しているの?、ロマン的な高い欲望は肯定するの?

 竹田青嗣は仏教や東洋哲学の理解がないようで、その面からのまなざしがあったらもっと展望が広がると思うのだけど、西洋哲学だけに頑ななのね。

 竹田青嗣はこの本もふくめて3,4冊は読ませてもらった。そのあとヘーゲルだとかフッサールの読み方を教えた哲学研究者っぽい基本書を出すことが多いようね。今村仁司みたいに思想家も精読しながら、自身も現実と格闘しながら思想を紡ぎだすというタイプではないのね。


▼真理と客観の終了宣言
ものぐさ精神分析 (中公文庫)ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)自我の終焉―絶対自由への道

▼竹田青嗣の著作
竹田教授の哲学講義21講―21世紀を読み解く完全解読 フッサール『現象学の理念』 (講談社選書メチエ)超解読! はじめてのカント『純粋理性批判』 (講談社現代新書)中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書)現象学は思考の原理である (ちくま新書)

人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義 (ちくま新書)言語的思考へ- 脱構築と現象学自分探しの哲学―「ほんとうの自分」と「生きる意味」恋愛論 (ちくま学芸文庫)よみがえれ、哲学 (NHKブックス)

プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

 

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