HOME   >>  市場経済
11 05
2008

市場経済

市場主義が非正規を生んだのではなくて



 アメリカの金融危機によって80年代のレーガンいらいの市場主義が崩壊したのだと宣言されている。日本でも格差社会や非正規、ワーキングプアが増えたのは市場主義や小泉改革のせいだとされるが、市場主義は原因ではないだろう。

 格差社会や貧困が増えたのは経済が右肩下がりになったり、経済全体が収縮してしまったからだろう。つまり長期不況が原因なのであって、市場主義が格差を生んだのではない。

 市場主義というのは政府が手を加えない自由放任主義や競争社会をさすのであって、保護や分配、規制をなるべく課さない状態のことをいう。政府が手を加えない自然状態のほうが経済はうまくいくといった考えで、市場主義には政府がよけいな手を加えるから市場はゆがみ、好景気はやってこないのだと考える。

 一時期、ムダな公共工事や地方ばらまきがずいぶん叩かれたことがあった。そういう公共工事を地方でおこなって仕事の少ない地域や人々の雇用を救い、経済をうるおすといったケインズ的な考えが人々の批判の対象になったことがある。貧しくて競争力のない人を救う公共工事は国の赤字を増やして、日本の競争力を奪うのだと考えられた。つまり政府のやることは失敗だと考えられたのである。

 市場主義は市場に任せておれば、競争力のある産業がのび、衰退産業は淘汰されるという考えである。公共工事やリベラルな保護政策は、市場のそういう自浄作用、均衡の動きを阻害してしまうと考える。政府が弱いものや貧しい者を助けようとすると、財政赤字がふくらむばかりであり、景気はよくならない、日本経済はたちあがらないと考える。
 
 リベラルな政策は安く値段の落ちた商品を保護で高くしてしまい、ますます売れなくなってしまうと市場主義は考える。雇用が非正規に満ちてしまったのは、成長期に雇用が守られたり、社会保障を手厚くし、最低賃金が課されたからだという考えがある。労働コストが高くなっても、下げることもできず、解雇できないしくみをつくったのである。経済の上昇期が終わってしまうと、そのうまくいっていたしくみはたちまち足かせとなる。だから企業は非正規で値段を下げ、社会保障をはずし、身軽な労働コストをめざした。

 バブルが崩壊すると、重い雇用コストはたちまち企業の足かせとなった。年功賃金や終身雇用のしくみが、先細りの未来にものすごい重荷に感じられたのである。企業は社会保障のない、流動性のある非正規に切り替えていった。政府や企業がおこなってきた高度な社会保障のしくみが、右肩下がりの時代ではたちまち公共工事のようにムダで重荷になるものになったのである。非正規の増加は市場主義がもたらしたのではなくて、小泉改革がもたらしたのでもなくて、経済が大きく転がり落ちたことによるものである。

 問題は社会保障である。日本では安定雇用の社会保障の得られる仕事をふつうの仕事だと見なしてきた。しかし90年代から企業はそのような雇用形態を捨ててきた。賃金はどんどん安くなり、短期雇用で解雇は容易になり、貧困や社会保障のない労働者が増加した。需要や価値の少ない労働は貧困に転がり落ちる労賃しか得られないのであれば、日本の社会保障の約束は底辺から破棄されているのである。経済情勢と、国や社会の社会保障の考えはまっこうからぶつかっているのであるが、その矛盾を大々的に問うことはない。

 まとめると、社会保障の重荷が社会保障のない人たちを生み出したということである。市場主義がそのような人たちを生み出したのではなくて、守られた雇用が保障のない人たちを生み出したのである。保障のある正社員と保障のない非正社員に分断されてしまった。企業のやり方と政府の考えの違いが、この雇用形態の矛盾にあらわれているのである。政府が守ろうとしてることを企業はさっさと捨ててしまっている。日本は社会保障を守るのか、さっぱり捨ててしまうのか、その態度をはっきりしないことには、雇用のダブル・スタンダード(二枚舌)は解決されないまま、ずっとつづくことになるのだろう。

 なにをいいたいのか自分でもまとめられなくなってきたが、小泉改革や市場主義がこんにちの非正規雇用やワーキングプアを増やしたのではない。経済が右肩下がりや下落してしまっているからだということだ。そのために企業は労働コストを下げるために賃金や社会保障をずっと下げつづけている。企業が右肩下がり経済のために社会保障を守られなくなっているのである。市場主義の結果ではない。

 貧困や社会的困窮に政府は手をさしのべるべきだと思う。非正規雇用やワーキングプアの問題には憤りを感じるし、政府はなんとか早急にすべきだと思う。しかし保証されることにより失業が増えたり、新たな雇用が抑えられるといったこともおこる。社会保障によって勤勉さやまじめさが失われることもある。政府のおこなうことは市場の均衡を打ち壊してしまうという危惧もある。市場と保障の関係は一筋縄でいかなくて、貧しくて困った人をただ助けらればいいというわけではなくて、そういう弱いところに金をそそいでばかりいると財政は悪化し、政府自体に金がなくなって助けるどころではなくなる。弱い人は助けられるべきだという考えはあくまでもカネのある豊かな団体だけにいえるのであって、なぜ助けられなければならないのかという正当性の問題もある。

 貧しい人や困った人を助けられない市場主義はけっして擁護すべきものではないように思える。ただこの世は市場原理が貫徹しており、市場原理を無視しては現実を把握することも、対策を考えることもできないのは確実だ。カネがないのに貧しい人は助けられないし、守られた人たちは市場によってもっとひどい目に合うかもしれない。市場主義を擁護するのではなくて、この世は市場原理によって貫徹されており、その原理やメカニズムを無視して、道徳や正義だけで市場を制御することはできないのである。売れないものを政府の手によって高くしてもますます売れなくなるという市場原理をしっかりとこの世の常識として理解することが大切なのだと思う。市場原理を理解したうえで、貧しい人や困った人は助けられるべきなのである。市場主義はこれから風当たりがますます強くなると思うからこそ、慈善や福祉の前に市場はどのようなものか忘れてはならないと思うのである。


市場を理解するために
不道徳教育選択の自由―自立社会への挑戦 (日経ビジネス人文庫)隷従への道―全体主義と自由

10 10
2008

市場経済

青ざめた金持ち連中と大恐慌再来の悲観論



 世界的な株価の大暴落がとまらない。一日に千円とか千ドルとかの大暴落がつづく。1929年の世界大恐慌の再来の恐れにも火がつき、底なしの様相を呈している。

 いったいどうなるのかとニュースや新聞をネットやTVではらはらしながら見ているのだが、私はたいしたことを書けない。経済や株はいまだにわからない。実感がわかない。通りいっぺんのことを書いても、なんにもならない。

 いっぱんの人たちにとっていちばん重要なことは、景気の悪化がどれくらいわれわれの生活に襲ってくるかということだ。株価の下落による資産や資金繰りの悪化により倒産する企業が増えたり、リストラや人員整理が数多くおこなわれるかもしれない。不動産業の倒産はすでにあいついでおこっており、失業者もそうとうに増えてきていることだろう。われわれにおよぶ景気の悪化はぬぐえないものになるだろう。私なんかいまは失業中だから、危うい転職活動になりそうだ(悲)。

 株というのはだいたい金持ちや資産家、企業の資産運用などに投資されるものだろう。金持ちが膨大な資産を運用させてもっと資産をふくらませようとして投資するものではないのか。青ざめているのはしこたま金を貯めこんだ金持ちや資産家だとするのなら、貧乏人からするといい気味だということになる。証券会社や銀行をどうして税金で救わなければならないのかとアメリカの市民は憤っていたが、まあ、しこたま暴利をむさぶった金持ち連中が暴落することは知ったこっちゃない。しかしその金持ち連中の投資や融資が企業活動をささえ、経済活動の血液や血流をささえているのはたしかである。金持ち連中の血流がなくなれば、たちまちま経済はストップしてしまう。

 アメリカの金持ち連中はしこたま金を貯めこんだ。鉄鋼であるとか自動車であるとか鉄道であるとか前世紀に儲けた連中たちの金が余り、株や証券、銀行融資に流れてもっと多くの資産を得ようとした。ソ連や東欧の崩壊により世界の資産家の金がアメリカに流れることがより多くなった。アメリカはITバブル崩壊という金のなる木を失ったあと、証券化や金融化によって土地バブルによる資産運用をこころみた。金融工学によるリスクの補償や低減という詐欺まがいの金融商品が世界中にばらまかれ、サブプライムローンという借金を土地の値上がりによる返済をあてにした際どい証券化により、富を増やした。デリバティヴなど幾何学的な儲けを手に入れたそうだ。富がそのように虚像のように膨れ上がると、その分だけ損失の額も大きく膨らむ。アメリカの富はその儲けた分だけ、いま泡と化しているのかもしれない。

 株がどんどん暴落して各国の政府は銀行保護や公的資金投入、利下げなどさまざまな手を売っている。それが世界的に波及した1929年の世界大恐慌と違うことだろう。このときの恐れが世界各国のさまざまな金融政策としておこなわれ、経済の底が抜けてしまうことをなんとしてでも防ごうとしている。大恐慌との時代とは違うのである。しかし政府の政策に市場はほとんど反応せず、連日の大暴落をつづけている。

 経済はクラッシュしてしまうのだろうか。大恐慌の再来論はビジネス書のドル箱的存在らしく、毎年毎年大恐慌がやってくると煽ってきた。私がビジネス書をよく読んだのはこのような恐慌再来論に恐れをなしてからだが、このジャンルは魑魅魍魎が跋扈していると捉えたほうがいいのだろう。スピリチュアルな世界にまでおよぶ。ただ、しかし、この恐れは経済界のおおくの人を捉えてきたのであるし、そこからの回避が経済界の至上命令であったようなところもある。こんかいの世界的な金融危機によってその恐れが現実にものになりつつあるといっていいだろう。

 そういう連中の一人、藤原直哉はインターネット放送局で、終戦直後のような「買出し」が日本に起こるだろうとまでいっている。経済機能が麻痺してしまうと、食糧やモノがあっても、運送する機能も麻痺してしまう。だから食糧は産地にまで直接買い付けに行かなければならなかったわけだ。そんな経済機能麻痺の予測まで飛び出して、われわれの不安を煽る。確信犯というべきか。いくらなんでもそこまでいかないだろうと思うのだが、この人たちは徹底的に悲観的予測をおこなうのが正攻法なのだろう。不安を煽ることがしっかりと自分にしがみつく人たちを生み出すことを知っているのだろう。

 「政府も止められない暴落」 ウィンドウズ・メディア・プレイヤーでダウンロード。

 金持ち連中の金が大きな損失をこうむると、経済の血液たる貨幣の流通がとどこおる。投資や融資がひきあげられ、各企業の資産や資金繰りが枯渇する。企業というものは株や銀行融資によってふくらみ、かろうじてなりたっているようなところがあるようなので、そこからの血流ストップはたちまち信用不信や倒産をもたらす。金持ちとともにふくらんだ金はさっと企業からぬきとられてしまうのである。企業は生き残りをかけて、事業縮小やリストラ、人員整理をおこなう。ちまたに失業者がふえる。消費はますます悪化し、景気はさらに悪くなる。このような波が早晩われわれの日常生活におよんでくることだろう。

 いったいこの株価大暴落はどこまでいってしまうのだろう。世界中にどのような影響をもらたし、どのような災害を世界に残してゆくことになるのだろうか。恐慌は銀行のとりつけ騒ぎからおこったとされるから、銀行の保護はしっかりとおこなわれるだろう。政府や各国は大恐慌や経済の機能麻痺をなんとしてでも防ごうとするだろう。ただ、国家が財政赤字による破産とかの事態がひきおこされると、世界はどこまでもちこたえられるだろうか。株の運用によってささえられてきた世界の年金などは大損失をこうむり、年金の危機やこれまでの老後計画がいっさい狂ってしまい、福祉国家や社会保障の骨組み自体がゆるんでしまうような社会システムの転換期がやってくるかもしれない。金持ち老人の老後の金あまり資金が投資バブルや恐慌を生み出しているように思えてならない。

 これまでの大暴落によってかなりの損害が世界中に確定してしまったわけだが、被害や損害がこれ以上大きく世界に波及しないことを願いたいものである。世界は大きく変わるのだろうか。2008年がひとつの分水嶺、歴史の大きな曲がり角にあるのは、たしかなんだろう。人びとがずっと怖れてきた経済のハルマゲドンがこないことだけを祈りたいものである。人間は予言成就が好きだが、なんとしてでも食い止めてもらいたいものである。


悲観論にひきつけられてしまいますね。 (リセット願望、支配層破滅願望が強いのでしょうね)

恐慌前夜ソロスは警告する 超バブル崩壊=悪夢のシナリオ大暴落1929 (NIKKEI BP CLASSICS) (NIKKEI BP CLASSICS)ウォール街の崩壊―ドキュメント世界恐慌・1929年〈上〉 (講談社学術文庫)

2010年資本主義大爆裂!―緊急!近未来10の予測繰り返す世界同時株大暴落―自民崩壊・生活壊滅の時代中国発世界恐慌は来るのか? (角川SSC新書 44)世界金融危機 (岩波ブックレット NO. 740)

カジノ資本主義の克服―サブプライムローン危機が教えるものサブプライム危機 終わりなき悪夢 アメリカがヤバい!投資銀行バブルの終焉 サブプライム問題のメカニズムビッグ・クランチ―大収縮の時代 サブプライム危機はアメリカの自爆テロだ! (ベストセレクト)

自家金融危機の私は一冊でもこれらの本を買えるだろうか。ブックオフ頼みではビジネス最新刊は読めないかも。

09 30
2008

市場経済

アメリカ経済壊滅と衰退の坂道



 さいきんビジネス書を読まないこともあって、経済について考える頭になっていない。私はテーマごとに本を読む好みがあって、そういう最中はほかのジャンルの思考力が極端に鈍る、というよりか興味をなくす。粘着力がないためにアメリカ金融危機についてねばりついて掘り下げることはできないのだが、ニュースやTVではアメリカの経済動向には注意している。

 きょうニュースをみると「世界恐慌突入か」のような見出しが躍っている。ブッシュの出した金融安定化法案が下院で否決され、777ドルも株を下げた。アメリカは公的資金投入に猛反対する人が多く、なんで政府が民間企業を救済しなければならないのかと怒り心頭になっており、全体の危機を考えない自由主義の気骨を感じるけど、危うい人たちが多いと感じるのは日本的なのだろうか。

 【米金融危機】NY株、777ドルの過去最大の下げ - MSN産経ニュース
 米下院:世界金融恐慌に発展の懸念 安定化法案否決で - 毎日jp(毎日新聞)
 米国発金融危機:欧州にも「飛び火」 B&B、デクシア…

 こんかいの金融危機はサブプライムローンから端を発したわけだが、どうして日本がニ十年前ほどに犯した過ちと同じことをくりかえしてしまったのだろうと思う。不良債権の大きさがじょじょに知られ、証券大手や銀行大手がつぎつぎと経営危機をささやかれ、倒れてゆく。日本が目の前にブッ倒れていても、アメリカも同じブッ倒れ方をするのである。アメリカはたぶんに破滅願望のようなものが頭にもたげてきたのかもしれない。倒れたほうがラクだと思うような、世界のけん引役や警察の役割に疲れてきたのかもしれない。

 サブプライムとか住宅・不動産のバブルというのは、製造業や工業での儲けが見込めなくなったとき、金余りが向かってしまう資産の運用先なのだろう。あまり儲けがなくなったきたから、土地や不動産、住宅ローンで儲けようということになるのだろうが、実体の経済の上昇はすでにその時点で終わっているのだろう。土地バブルというのはすでに好景気や実体経済の終焉時期なのだろう。

 証券や銀行の業務というのはよくわからないというか、実感がない。業務や投資にかかわっていないと、いったいどういう仕組みや理由で儲かるのかすら、つかみづらい業界だと思う。株が上った下がった、円が上ったドルが下がったなど、頭で理解しても、現場でかかわっていないとよくわからないというのが私の実感である。

 証券や銀行などの金融は製造業や商業、農業などの実体経済の霞や上澄みをすくうような業務であると思う。製造業や商業で余った金が運用先をもとめて、それらの上澄みや儲けをいくらかいただく。実体経済もそれらの投資や融資などに恩恵をこうむるわけだが、けっきょくは実体経済が離れてどんどん宙を舞ってゆくように感じられる。金融経済自体がもともとバブルという感じがする。製造や商業などの足のついた経済ではないのである。

 サブプライムの証券化もひどいもので、ほかの金融商品に福袋のように組み込まれて、優良商品のような装いをほどこされて世界中にばらまかれた。リーマンが破綻したのに、危機がささやかれた保険大手のAIGが救済されたのは、ローンの保障保険(CDS)をおこなったからだとされる。ローンが焦げついても保障しますよとリスクの低減がおこなわれたため、世界中に絡まり絡まって、連鎖危機がおこる可能性があるからだといわれる。こんなリスク回避の保障はモラル・ハザードをひきおこすのではないかと思うのだが、サブプライムにしろ、今回の金融危機は常識的感覚の転倒が随所に見うけられる。焦げつく可能性のある融資やローンもすべて安心のあるリスクのない商品として売られるのである。それは不良品を優良品として売るようなものである。こんなモラル・ハザードの金融商品が世界じゅうにばらまかれたら、危機は深刻というものである。詐欺や犯罪と考えたほうがいいのではないだろうか。

 1929年の世界大恐慌の恐怖というのものは世界に根強く、今世紀の経済というのはたえずこの恐怖の回避に向けられてきたと思う。アメリカの金融機関がおおく倒れようと、ヨーロッパやアジアの金融に飛び火しても、世界的な危機感の共有によって回避されるものだと思う。アメリカの公的資金投入の否決にはおどろいたが、危機の深刻さから投入せざるをえない事態に追い込まれるのだろう。

 日本では91年のバブル崩壊から何年かもって97年に証券や銀行の大手が倒れた。失業者やホームレスがめだって増えたのはその後である。アメリカや世界の金融危機はのちにじわじわと世界を襲うだろう。世界的な不況は銀行という経済の血液を巻き込むことによって、ひきおこされてしまう。実体経済に影響が及ぶのは後々になるのだろうが、深刻な影響を目に見える形に残してゆくのだと思われる。

 イランの大統領なんかは「米帝国の終わりは近い」などと宣告している。「資本主義の終わり」だという人もいる。まちがっても社会主義体制になんかならないだろうし、いまの福祉国家や市場主義社会であっても、ほとんど区別ができないくらい似たようなシステムになっている。現代の資本主義の代替策なんかほかにないのである。この制度がつづいてゆくしかないのである。

 アメリカの覇権の終わりやドル覇権の終わりだともいわれる。世界の覇権はアメリカの前はイギリス、その前はオランダ、その前はポルトガル、スペインと100年周期でうつりかわっている。アメリカの落日が迫っていることは確実なのだろうが、日本はアメリカともに沈みそうな国であるし、中国もつぎの覇権をになうような近代国家にははなりえていないだろう。覇権の空白期にはいろいろな問題がおこるだろうし、世界は転落したり出口のない暗闇をさまような時期を迎えてしまうかもしれない。

 なにより鉄道や車、家電製品のような近代科学技術のつぎにくるものがよく見えていない。それらが一巡してしまったら、つぎにめざすものがない。近代科学技術の踊り場を迎えているのであって、そのために世界はますます暗夜模索のようになってしまう。世界的な衰退期に入っていると見なしていいのだろう。これまでは近代の上昇の時期がながくつづいてきたわけであるが、長い停滞や衰退の時期に入ったと考えるべきなのだろう。先進国の出生率低下はその兆候なのだろう。衰退の坂道に生きる知恵、生き方、考え方、システムを備える必要があるのだと思う。衰退する社会であっても、生きられるよう社会を考えるべきなのだろう。栄華をほこった国や文明もいつかは衰えるときがくる。アメリカの衰退はなにをもたらすのだろうか。


読みたいけど金はなし。(オオカミ少年の予測は現実のものとなるのか)。
2009年世界バブル大崩壊 落ち目の米国、虚飾の中国に、食いつくされる日本恐慌前夜サブプライム危機はこうして始まった 決定版 アメリカからの最新リポートビッグ・クランチ―大収縮の時代 サブプライム危機はアメリカの自爆テロだ! (ベストセレクト)

バブルの歴史―チューリップ恐慌からインターネット投機へ株価大暴落が大恐慌を引き起こしたのか―1929~33年アメリカのドラマ熱狂、恐慌、崩壊―金融恐慌の歴史すべての経済はバブルに通じる (光文社新書 363) (光文社新書 363)

01 19
2008

市場経済

『問屋と商社が復活する日』 松岡 真宏


問屋と商社が復活する日
松岡 真宏

問屋と商社が復活する日


 問屋や商社なんか不要だというメディアと世間の常識をまるごと否定した本で、私はけっこうおもしろかったし、目からうろこの部分も多かったのだが、amazonの書評では「トンデモ本」とか「買って後悔した」などの酷評がめだつ。それだけ堅く「中抜き論」は信仰されているということか。

 戦後ずっと中間流通業者を排除し、製造業と小売業を直結すれば、物価が安くなると信じられてきたし、世間の常識でもある。この常識は1962年の林周二『流通革命』から生まれたらしい。欧米にはない問屋や商社を排して中間マージンをカットすれば、遅れた欧米に追いつくと唱えられた。ダイエーの中内功やディスカウントストアはそのような考えをずっと実践してきたわけだ。

 この本はメディアのウソ、世間の常識を暴いた本である。だから楽しい。メディアや世間で信じられている常識を吹き飛ばすときほど快感のときはないし、目からうろこの瞬間もない。これこそ読書の醍醐味というものだし、世間の常識や自明性は疑ってかかるべきだという教訓も得られる。世の中の「絶対」は信じないほうがいい。いったら「空気」に流されるなということである。

 メディアというのはいつも欧米と比べて日本は劣等だ、遅れていると喧伝したきたものである。生産性が低い、人件費が高い、物価が高い、と日本を批判してきた。欧米というロール・モデルが絶対であるというパラダイムをバカのひとつ憶えのように戦後日本はずっと信仰してきた。たぶんいまの日本人にもこのパラダイムが深く染み込んでいるのだろう。この本はそのような常識、メディアの喧伝をひっくり返す本である。

 アメリカと比べると日本の人件費は高いとされるが、家賃やエネルギー、上下水道のコストと比べるとかなり安い。したがって利益率をあげるには設備費をおさえて人を使ったほうが安上がりなのである。アメリカの大手チェーンにならえという論調はあたりまえのように信仰されているが、独占や寡占がすすむと物価が高くなるのはそのシェア独占の相関図からもわかる。発達した問屋システムが中小・零細小売の存在を助けることによって価格競争はすすむのである。

 日本の物価が上昇しつづけたのは人口が増加傾向にあったからである。人口が減少すれば物価は落ちる。日本経済の停滞は金融の引き締めによるマネーサプライの縮小のためである。欧米と比べて物価が高いといわれるが、物価が落ちると内外価格差は拡大し、上れば縮小している。つまりは円安にならないかぎり内外価格差は解消しないのである。価格差というのは円ドルレートのマジックのようなものである。

 これらは流通革命が必要な前提をことこどく否定したものである。欧米に比べて日本は遅れている、劣っているというステレオタイプで流通をみていると、経済の事実なんかひとつもつかみきれないということである。そのうえで多品種少量生産を助けたり、小売の競争を促進したり、在庫リスクを負担したり、あるいは物流のコストもかねる問屋の存在を正しく認識すべきであるということである。

 私もいぜん拙い頭で問屋はなぜ必要なのかと考えたことがあるが、これは空間の「編集」の役割を果たしているのではないかと考えみたことがある。製造業と小売は全国あちこちにちらばっている。どこに製造業があり、どこにいけば目当ての品を買えるかと探すのはたいへんである。問屋はその「編集」の役割を果たしているのではないかと。零細の小売がこんなことをするのは不可能である。空間と情報の編集は問屋が担うしかない。

 私がこの本を読んだのは人材の多重派遣や業務の多重請負などの中間マージンの発生理由を探るためである。あえて問屋有用論を読んだのは、その存在理由がわかるだろうと思ったからだ。なぜ中間業者は必要なのか。IT革命が喧伝されたとき、中間業者は不必要になるとよく囃し立てられたものである。世の中変わったという話はあまり聞かない。仕事とカネはあいかわらず人と業者のあいだを転がされつづけているようである。う~ん、よくわからないというしかありませんな。


「稼ぐ」仕組み 卸売業のロジスティクス戦略―サプライチェーン時代の新たな中間流通の方向性 逆説の日本企業論―欧米の後追いに未来はない
by G-Tools


09 09
2006

市場経済

安くなったメガネに驚いた。


 CIMG000215.jpg

 私はかなり視力が悪いから、メガネは安いレンズが買えずにいつもメガネには5万円くらいかかっていた。それが今回、スリープライス・ショップで買ったら、たったの一万三千円でメガネ一式が買えて、驚いた。いままでのバカ高い価格はなんだったのかということになる。スリープライスショップというのは五千、七千、九千円のセット価格でメガネが買えるという店だ。

 韓国のメガネが異様に安いことはちらほら聞いていた。7千円くらいでできたそうだ。日本のスリープライスショップの安さの理由は、フレームを中国でつくり、レンズを韓国でつくるからだそうだ。サングラスで千円で売っているのだから、安くできないわけがない。

 いままでメガネ屋は暴利をむさぼっているのだろうか。いままでの店の言い分によると、メガネは医療品だから繊細な技術や経験が必要だとか、職人技が必要だとか宣言している。だけどスリープライスショップの安さの前ではまったく説得性をもたない。ファーストフード方式でできるものだったのである。

 私はモノは安ければ安いほどいい。モノに価値があるとは思えない。自分の貴重な労働の時間を捧げているのである。それに勝るモノなどないと思う。モノの価格によるグレードなんてちっとも信じていない。高ければ自分の価値が高まったとか、まわりが尊重してくれるだのの広告神話なんてアホらしい。モノは私の社会的価値をあらわすのではなくて、あくまでも「機能的な」モノであればいいのである。だからアホらしくて高いものなんて買わない。というかお金がないから買えない(笑)。

 ユニクロもファッションの価格破壊をもたらしたが、たぶんに服に価値はないという宣言をふくんでいるのだと思う。スーパーよりそこそこのセンスがあればいい、ファッションに自分の価値は投影されないということで私はユニクロの安い服を買う。

 メガネはファションであるべきだと前々から思っていた。こんな私でも十代のころは流行にこっていた「ポパイ少年」だったころもあり、メガネは流行を意識してかけてきた。80年代にはセルフレームの丸っぽいボストンタイプや黒ブチの四角いメガネが流行った。90年代にはまん丸や楕円のロイドタイプやオーバルタイプが主流になった。いまは横に細長いメタルフレームが人気だ。TVを見ていると、だいたい流行りのメガネを多くの人がかけているのがわかる。私は老眼鏡のようなメガネをかけたかったので、近いのが見つかってよかった。

 スリープライスショップはメガネのファッション化をもたらすだろう。というか、いままでの高いメガネ屋の値段はなんだったんだと憤慨する。たぶんに日本の円が高くなり、中国などの生産工場が安い価格で急速に発展してきたからだろう。高い値段にあぐらをかいてきた日本のメガネ業界は後進国に衝撃を受けるのである。私たちはこのような中国ショックというものに消費者として恩恵を受け、労働者として打撃を受ける。まちがっても生産者を守る世の中ではなくて、かれらがほかの業種に移りやすい世の中を緊急につくりだすべきであると思う。

 ところで目が悪くなるのは、近くばかり見ているために眼筋が固まってしまったからだと思う。眼球をひっぱる筋肉が硬直して固定してしまったのだ。腕や足の筋肉が緊張したままの状態に近いと思う。だから上下左右の眼球のストレッチが初期には効くと思う。ただし近眼が強くなると、眼球はフットボールのようにふくらんだままで網膜も薄くなっているので、網膜はく離の危険もあるので、慎重さが必要なのがむずかしいところだ。

 ど近眼のおかげで私は18くらいのころから飛蚊症(ひぶんしょう)と長いつきあいになる。視界に蚊が飛んでいるような黒いものが見える症状のことである。これは仏教のこの世の幻をたとえるのにも使われていた由緒正しい?病気である。だいたいは年をとってから起こる。本を読むにも黒い塊がじゃまになったりする。だいたい視界が暗いとき、つまり気持ちが落ち込んでいたりするときには増えたかなと思う。空や光を直視すると、その多さにへきえきする。

 でもいまではだいぶ気にしないことも覚えたし、網膜はく離の恐れもあると医者に脅されて医者に行ったこともあるが、20年くらいたってもなんともならないのでいまはほとんど心配していない。不便なものなので、みなさんは目の健康に気をつけましょう。


08 09
2006

市場経済

お金とは利他行為の強制か


 こないだから漠然と考えてきて、ちっとも考えがまとまらないのだが、お金の利他的側面とはなんなのだろうなと思う。

 私たちは生活してゆくために他人にサービスをしなければならない。パンをつくったり、服をつくったり、あるいはモノを売ったりと。われわれは他人にサービスをおこなわないと、生活をしてゆくことができない。つまりお金は他人への利他的行為の強制があるわけだ。

 アダム・スミスの説明なんかでは個人は私益を追究すれば、神の見えざる手が働いて経済がうまく回るのだと説明されたりするが、私たちは私益よりか、まずは利他的行為をおこなわなければ私益は手に入らないようになっている。他人に食事をつくったり、服を繕ったり、家をつくったりして、はじめて私たちは自分たちの私益に使えるお金を稼げる。他人のために何かをしなければ、私益なんか追求できないようになっている。

 お金はそういうふうに社会の構成員を利他行為に駆り立てる。他人のためになにかサービスをしたり、貢献しないと、この社会では生きてゆけないのである。私がだれかから新鮮な野菜やおいしい米を手に入れるためには、他人の服をつくったり、パンを焼いたり、または家電製品を組み立てたりしなければならない。そのお返しとして、私たちははじめて他人のサービスを手に入れる権利をもてるのである。お金とは利他行為の強制なのである。

 私たちはお金というしくみがなければ、このように他人のためにサービスをしたり、モノをつくったりしただろうか。一日中他人のためになにかのモノをつくったり、サービスをしつづけるようなことはおこなっただろうか。こんなに疲れる、尋常でない行為に人びとは駆り立てられただろうか。

 私たちはほんとうのところ他人のためにサービスや仕事をしたい存在なのだろうか。人の役に立ったり、人のためになにかをしたいと思うような資質をふんだんにもっているものだろうか。人の喜ぶ顔が見たい、人の喜びが自分の喜びだと思えるような善人ばかりで構成された社会なのだろうか。あるいは分業が進みすぎた社会では、自分の仕事によって人の喜ぶ顔がちょくせつ見れるような仕事もずいぶん減った。

 お金とは他人のために生きる人生を余儀なくさせる装置のようなものである。私はこの社会で生きてゆくために他人のサービスにほとんどの時間を費やす。利他行為ばかりおこなう人生である。こんな人生っていったいなんなのだろうと思う。

 もちろん人の役に立ったり、人のためにおこなう行為はすばらしいものである。お金がなければ、この社会の住人は利他行為にあふれた奇蹟のような人たちの集まりに見えただろう。

 私は思ってきた、仕事ばかりの人生や会社に拘束される人生なんていやだ、自分のために生きたい、自分のための時間がもっとほしいと思ってきた。お金や仕事を利他行為とみる側面から見ると、こういう考え方はずいぶん利己主義である。私は利他行為なんてまっぴらだと思っている、非情で薄情で、利己主義な人間なのだろうか。

 他人のために社会のために生きる人生はすばらしいものなんだろうか。自分のために自分の人生を生きるのは、利己的で、冷酷な生き方なのだろうか。私たちは自分のために、自分の喜びのために、他人のサービスに人生をとられるような生き方から降りることは、人間らしくない生き方なのだろうか。

 お金を利他行為だと捉えるのなら、自分のために生きる人生はずいぶん利己的で分が悪い。まるで自分のことばかり、利益ばかり考えている人間に思える。そうなのだろうか。

 お金はすばらしいものだと捉える人はそう多くはないだろう。お金は汚く、下品で、低俗なものと考える人のほうが多いのではないだろうか。お金を社会の利他行為だけで捉えるのは単純化しすぎているし、ほかの側面を排斥しすぎである。お金はむかしから私益や利益をむさぼる意地汚いものだと思われてきた。利他行為の側面から見られることは少なかったように思う。利他行為から見るのは片手落ちというものである。

 お金を利他行為と捉えるのなら、私はずいぶんと利己主義的な人間なのだろう。人のためになにかをしたい、人の喜ぶ顔を見たいといって、仕事にいそしむ人間でない。すこしでも仕事を減らして、自分のための人生、自分のための時間を増やしたいと思っている。私はあまりにも利己主義的な人間なのだろうか。

 人の役に立ちたいといって、他人のサービスにほとんどの時間を捧げつくすような人生がほんとうに良い人生なのだろうか。そう思えることがすぱらしいことなのだろうか。お金を利他行為の強制だと捉える視点からそういう疑問がわいてきたのであった。


07 10
2006

市場経済

金儲けと利己主義


 こないだから散発的に考えている金儲けについてだが、まったく考えがまとまらないばかりか、どのような問いをしたいのかも自分でよくわからない。そういうときにはむやみに書くしかない。

 「金儲け」という言葉はたいてい非難するときにつかわれる。自己の利益のみを追求して、他者の迷惑や損害にまったく考慮がおよんでいないという非難だ。それは儲かっている人や金持ちに向けられる。

 いっぽうでは、われわれは金儲けをしなければ生きてゆけない世の中に住んでいる。家を追い出されても、食べ物を買うお金がポケットに数十円しかなくても、私は断固として金儲けのような汚いことはしないと断行できる人間は存在しないだろう。

 私たちは金儲けをしょっちゅう非難しておきながら、毎日金儲けの活動に費やしているし、内心ではすこしでも多くの金を稼ぎたいと思っているし、いつも心の中で高級品や贅沢品をもっとほしいと思っている。思いっきり矛盾である。ケッペキな私は人を金儲けで批判するのなら、自分自身は金儲けをやめられるのかといいたくなる。

 世間というのは利己的な人間をいくらでもたたいてよいという不文律がある。金をたくさん儲ける人は自分の利益しか追求しない、他者への配慮が欠如した人間だと思われている。だから金儲けという言葉はそれだけで非難の言葉になる。

 金儲けは人から奪ったり、功利的にだましたり、自分のためだけにおこなわれるものだと思われている。しかし他者の利益や喜びに奉仕しないサービスや商品をいくら売っても、金儲けで成功するわけがない。コンビニでも、百円ショップやドンキホーテ、または車やIT産業はわれわれに便利さや喜び・楽しみを与えるから、多く儲かるのである。金儲けというのは「利他主義」でしか儲からないものなのである。

 金持ちが利己的や貪欲だと罵られるのは、自分だけが多く儲けていると思われているからだろう。一度手に入ったお金はその人の自由になるし、他者の利益ではなく自己の利益につかわれることになる。金儲けの最初は利他行為であるが、お金が蓄財されると、こんどは利己主義につかわれるのみになる。

 日本では金持ちが慈善事業に寄付したという話はあまり聞かない。イメージとしては豪邸に住み、高級車を乗り回し、高級品を数多く所有しているといったものだ。これは世間がバッシングしてよい免罪符となる利己主義だ。金持ちは人を助けることのできるお金をたくさん所有しているのだから、その分社会にお返ししなければならないと思われている。それをいまは政府がかれらから累進課税でこっぴどく高額な税金をとるから、つまり政府が手柄を横取りするから、かれらは社会に還元しようという気持ちをなくすのかもしれない。

 金持ちは社会に多くの利他行為の喜びを与えたからかれは金持ちになる。お金は利他行為を与えたことにより、自分に与えられる利己主義に使ってよいクーポンである。利他行為の貢献量である。あまり裕福ではないサラリーマンは市場によって効用のある利他行為を与えたと見なされないから、収入が少ない。おまけに会社ではポストのある者の裁量により恣意的に給料は分配される。もちろん売り上げがゼロだったからその月は給料が支払われないという危機はないのだが。

 金儲けを非難する者は、かれがもし誠実な人間だったら、かれは金儲けを自重するだろう。じつのところ、非難の強い者ほど、その非難が自分にいちばんあてはまるというのが事実なのだが。いったら、かれは利己主義者だから、人の利己主義に目が向き、叩きたくなるものである。人は自分にあるものしか見えない。かれは金儲けの与える面より、奪う面ばかりに目が奪われるから、かれは金儲けを非難して、そして自分の仕事でも与える面を見ない。かれは自分を守り、奪うことしか考えないのだろう。金儲けを非難する人は自分の利己的傾向に反省する必要があるのかもしれない。

 金儲けを嫌う人は自分の仕事でもお客に与えるサービスや会社への貢献より、自分の取り分や利益のことばかり考えてしまう人間なのだろう。かれは自分を守り、自分の得になるように考えているだけである。しかしかれは金儲けを利己主義のしくみだと考えたばかりに、かれが社会に与える利他行為は少なくなるばかりである。かれは利他行為を減らしたほうが自分の利益になると考えてしまうからである。

 この貨幣社会では多く与えた者ほど多く得ることができるしくみになっていると気づいたときに、かれは自分の貧乏な理由を悟ることができるのだろう。金儲けとは利他主義のことなのである。


03 25
2006

市場経済

権利や正義という「悪徳」

 モノは売れなくなれば値段を下げざるを得ない。それによって私たち消費者は安い商品を手に入れられる。百円ショップの登場によって私たちはずいぶん恩恵をうけた。土地はバブル崩壊以後下がりつづけているが、私のマンションの家賃はすえおかれたままだ。

 不況も15年もつづけば、労働の消費者たる会社は労働者の値段を下げたいとおもうだろう。しかしモノはかんたんに値下げをできるが、労働者となるとかんたんではない。

 解雇は困難だし、労働争議の歴史があるし、政府や世論は人間の権利や道徳をもちだしてくる。よって既正社員はすえおき、これから労働市場に参入する若者や女性の賃金を下げたり、非正規雇用で対応することになる。つまりは賃下げできない保護された既正社員が犠牲者を産出中なのである。

 市場でモノの値段が下がったからといって、モノ自身は文句はいわないし、保障や保護と叫ぶこともない。人間はそうではない。保障や保護を人間の権利や道徳として要求する。労働力もまたひとつの市場の商品だという覚悟がない。福祉を期待された国家は値段の機能がはたらかない。

 ウォルター・ブロックの『不道徳教育』のなかに「学問の自由」を叫ぶ大学教授の話が出てくる。それは顧客の意向を無視して、自分のやりたいことをする自由のことである。もし「配管の自由」というものがあれば、水道管を好き勝手につなげてよい権利になるし、タクシーやウェイターの自由があれば、客はどこに運ばれるか、なにを飲まされるか、不明だという恐ろしいことになる(笑)。

 人間というのはなにかに特権や権利を認めて、それを市場原理から例外的にはずして、供給者がエラい、守らなければならない、尊厳だと主張する向きがあるようである。ぱっと思い浮かぶのでも出版文化を守るための定価制とか、医療や教育の神聖化などがある。

 それは「お客様は神様ではなくて、オレたちにひれふせろ」というわけである。「オレたちはエラいことをやっているのだから、客はオレたちのいうことを聞いて、オレたちのいいなりになるべきだ」ということなのである。配管やタクシー、ウェイターの自由まで主張されるようになると、客はおちおち他人のサービスを受けられなくなる。自由原理を理想とする経済学者はこういう供給者のギルド化にいつも阻まれたきたわけである。

 客を守るより、供給者はいつの世も政治的に強く、市場原理をぶっつぶしてきた。犠牲はたとえば労働市場からしめだされた若者や女性というかたちをとったり、売れない本なのに文化的という理由で高い値段で買わされたり、医療や教育において私たちののぞまないサービスをうけさせられたり、エラそーにされたりと、代償はどこかで高く支払わなければならないのである。

 基本的に衰退産業や落ち目なものほど政治的に守られる。市場で食えないからこそ、政治力が必要になるのだ。落ち目な芸能人が政治的に守られて毎日つまらないテレビを見せられるのはたまらないだろう。衰退した自動車メーカーのポンコツ車に乗らなければならなのは苦痛だろう。政治的に守られた飛行機に乗るなんてもっとヤバイだろう。老人は労働市場で食えないから年金が用立てられるのである。

 神聖な職業や人間の尊厳は守られなければならないと人はいうだろう。しかし政治に守られたものはどこかに犠牲をしわよせし、腐敗した態度と見当違いのサービスを無鉄砲に生み出すようになる。市場は退場や値下げのしくみがあるからこそ、うまく働くのである。守られたものはほんらいなら安い値段だったものが高価格になり、どこかで犠牲をせっせと生み出しているのである。

 人間の権利や尊厳、福祉といったものはクセモノである。正義や道徳といったものは、どこかでまちがったものを生み出す。社会主義は道徳的であったが、権力者の独裁を生んだ。正義や道徳ってどうも正義でも道徳でもないなぁ。なんでだろう?

06 26
2004

市場経済

女性の低賃金は差別か、利益か


 女性の賃金は安い。パートをのぞく正社員の男女差は男性が100だとすると女性は65.3だ。86年には59.7だった。パートをふくめたら51.2というデータもあるが、私の実感ではもっと安い気がする。

 さっこんのパートにしろアルバイトにしろ正社員の仕事とたいして差のないことが多いように思う。それなのにこの賃金の安さはなんなのだろうかと思う。女性のパートや学生のアルバイト、フリーターの給料の安さはなぜ正当化されるのだろうかとおかしく思う。

 パートやアルバイトは正社員の補助的作業だから安くできるという理由が漠然とあるように思う。でも補助的作業とはなんだろう。職場で働く以上、雇用者はフルに働かざるをえない環境にあるだろうし、努力もするだろう。補助か中心かはあいまいであるし、仕事にそんな分け方ができるのか。

 女性はいずれ男性に扶養されることになる身だから安くできるという理由もあっただろう。夫の家計補助のためだからパートの給料を安くできる。でも勤続年数の長いパートの働きを見ていると、その安さの正当化はとてもできないように見えるのだが。

 そもそも給料というのは身分や立場で決めることができるものなんだろうか。家庭の家計補助だから、いずれ男性に扶養される身だから、といって給料を安く決めてよいものなんだろうか。仕事の成果や結果自体で決められるものではないのか。立場で決められるのか。それなら独身女性や離婚した女性はぐんと給料を上げなければならないではないか。

 この給料の安さを男女差別だと見なして世の女性方は差別の撤廃をもとめてきたわけだが、この男女格差は不利益ばかりではなく、陰ならぬ利益があったことも忘れはならない。差別が損失ばかりだと見なすのは甘いというものだ。

 男性に扶養される身である女性は自立して生計をたてる責任から解放されていたし、労働の責め苦やプレッシャーからも身を守られていたし、出産・育児のときには扶養者に頼ることができたし、夫の稼ぎを自由時間に消費してよかったし、会社内では責任や義務からある程度はずされていたのでその分お気楽にレジャーや消費を楽しむことができた。女性の差別にはちゃんと利益があったのだ。不利益や損失ばかりだと見なすと、これまでの女性の差別されていたための利益を失う恐れがある。

 女性は男性に扶養されるという利益があり、この利益を手放さないで一方的に男女格差を差別だと主張するのは卑怯すぎる。専業主婦や男性におごってもらうという低地位だからこそ享受できる特権があるのに、不利益だけを主張するのはおかしい。女性はほんとうに扶養される利益を捨てれるのか。多くの女性はその利益を手放そうとはしていないみたいだが。その利益と決別してはじめて差別を批判してほしいものだ。

 低地位や低賃金というのは損失ばかりではない。カネではないべつの利益がある。高賃金や高待遇をめざした男性の働き方は会社人間や企業中心主義、長時間労働といったありかたをうみだした。高い給料には高い見返りを返さなければならない。男性たちは高待遇のかわりに会社に人生の多くを捧げる毎日を選択しなければならなかったわけだ。

 若者たちはそういう会社お抱えの人生を嫌ってフリーターの利益をのぞむ。低賃金や不安定の利益を欲しているわけだ。フリーターの低賃金を差別だと怒る動きがあらわれてこないのは、やはり享受する利益があるからだろう。ただデメリットが大きいのはたしかだが。

 高い給料や高い地位にはそれなりの見返りを返さなければならない。会社でのそれを欲そうとすれば、人生の多くを会社に捧げなければならない。高い給料をもとめれば、われわれは人生の多くの自由をあきらめざるをえない会社人間にならなければならない。給料が多いための不利益を世の人たちはもっとのぞむのか。男女ともども総会社人間化の世の中がいいというのか。

 カネの利益ばかり見ていると、ほかの利益が見えなくなる。利益が得られるのはそれなりの高い犠牲を払っているからだ。女性たちは高い犠牲を払って男性のような働き方をのぞむのか。男女平等や高賃金をのぞむとはそういうことではないのか。

 差別や低地位というのは不利益ばかりだとはかぎらない。利益の部分をちゃんと見つめるべきだ。新聞やマスコミはカネや地位の不利益ばかりを主張するが、その利益を手放したくない者たちはかれらの煽動には距離をおいて見るべきだ。会社に多くを奪われる人生がほんとうに利益なのだろうか。高い賃金をのぞむということはますます会社主義化してゆく世の中をのぞむということだ。二兎は得られない。


google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top