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05 25
2004

書評 マンガ論、サブカル論

『美少女の現代史』を読んで


 まんが・アニメの美少女像の変遷をえがいたササキバラ・ゴウの『<美少女>の現代史』(講談社現代新書)を読んだ。そうだよな、なぜ現代の男たちはこれほどまでにまんが・アニメの美少女に魅かれてきたのだろうかと考えたら特異なことである。

 男の本能や性であるのはまちがいないのだが、まんが(以下アニメも含む)への美少女への熱狂や熱中は尋常ならざるものがあるというか、一種独特のものがある。現実の、なま身の女性を凌駕する、あるいはまったく異なった種類の愛慕ができあがってしまっている。

 男たちはなぜこうもまんがの美少女に魅かれてきたのか。ササキバラはこの本の中で、70年代前半に男たちは生きる目標や価値を見失い、最後に残った唯一の価値が女性への愛だったからだといっている。命がけで守るものが女性だけになってしまったのである。

 70年代前半に男たちは政治や国家、会社などの大きな希望や物語が崩壊する危機に立たされた。その代入に女性を選んだのである。この指摘にはなるほどなと思ったし、国家や会社の命がけの後釜が女性とはがっくりときたものだ。たしかに『愛と誠』では「きみのためなら死ねる」とギャグみたいなセリフをシリアスに吐いているし、『デビルマン』もガードフレンドを守るために闘い続けていた。いいのか、こんなことでと私は思った。

 きたる80年代、たしかにバカみたいなアイドル・ブームがやってきて中学生だった私はずいぶんなさけない思いをしたものだが、前哨史としてそういう歴史があったとは再確認した気分だ。男たちは国家や会社という大きな希望を捨てて、アイドルや美少女という「大きな物語」に鞍替え、あるいは急転落したのである。

 男たちは果たして女性たちに大きな物語をたくしのたか。やっぱりそうではないと思う。オタクに見られるようになま身の女性よりアニメの女性を愛好する傾向が見られるからだ。個人としての女性ではなく、アニメやTVアイドルといったみんなの「共通項」に男たちは大きな物語をたくしたのである。男たちはみんなで同じ「神輿」をかつぎたかったのだ。個人としての女性にそれほどの価値があるとは男たちも信じてはいないだろう。みんなで同じものを――かつての国家や会社のように――かつげるからアニメやTVアイドルに男たちは熱狂したのである。

 美少女は『ルバン三世』の峰不二子のような豊満な肉体を誇示する女性ではなく、性的要素を排除したかわいらしさ=ロリータ顔として描かれる。少年たちはかつてのオヤジたちのエロ男むきだしの欲望や女との関係性を排除したかったのだ。顔はいきおいロリコンになる。男たちはそこに恋愛の要素や女性の側に立つという思いをたくしたつもりなのである。しかし女性は性的対象であることをまぬがれないから、ロリコン顔と性的身体の合成物ができあがってきたとササキバラはいう。

 私も中学のころまではまんがを熱狂的に愛好した。しかししまいにかわいい子やエッチなほうばかりに引かれてゆく嗜好に嫌気がさして見なくなっていったように思う。エロしか興味のないようなオヤジにはなりたくなかったのだろう。いまでもやっぱり恋愛や交友にしか頼るものがない人間にはなりたくないという気持ちはもっているし。

 かわいい顔は少女がよく連発する「かわいい」という価値観を共有することによる男の女性への歩み寄りのつもりである。ここにはエロ・オヤジ的な性的女性への強奪がない。エロ・オヤジの性的感受性とは肉体も顔もハードな劇画で描かれるようなポルノである。美少女まんがはそういう関係性への拒否である。といっても首から下はどんどんエロティックに立体的に写実的になっているが。

 私もまんがを読んでいるころはたしかにまんがの美少女に萌えてきた。『カリオスロの城』のクラリスはかわいかったと思うし、『マクロス』も見たし、『みゆき』も『タッチ』も愛読してきた。弓月光『エリート狂想曲』には恋愛や女性をいとおしむことを学んだと思う。でもたぶんまんがやTVアイドルを熱狂的に崇拝する姿勢や態度はとれなかった。なぜかはわからないが、たぶんエロ・オヤジ的になるのがいやだったのだろう。女やエロばっかりになるのは避けたかったのだと思う。

 中学のころまでは私はまんが好きを自認していたと思うのだが、なぜか『ガンダム』も『うる星やつら』もほとんど好きになれなかった。なぜなんだろう。『ガンダム』はあんな軟弱で卑屈な主人公に感情移入する気にはなれなかったし、『うる星やつら』はあんなパロディみたいな話を見るなんて時間のむだに近いと思っていたのかもしれない。宮崎駿はかなりロリコンっぽい視線があると思うのだが、どうして国民的人気になったり、子供に不滅の人気をたもつのか、私には少々不思議である。

 時間の関係であまり考えをまとめることもできずに感想を書いたが、このササキバラ・ゴウの『<美少女>の現代史』はまんがを読んできた人や美少女に萌えたことのある人には一見の価値はある本だと思う。350万部も売れたという養老孟司の『バカの壁』よりよっぽど価値があると思う。


〈美少女〉の現代史――「萌え」とキャラクター〈美少女〉の現代史――「萌え」とキャラクター
ササキバラ ゴウ

教養としての〈まんが・アニメ〉 講談社現代新書 「おたく」の精神史 一九八〇年代論 萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造 動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 二次元美少女論―オタクの女神創造史

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05 30
2004

書評 マンガ論、サブカル論

『美少女の現代史』 ササキバラ ゴウ


〈美少女〉の現代史――「萌え」とキャラクター
ササキバラ ゴウ

〈美少女〉の現代史――「萌え」とキャラクター

 魅力的な本である。子供のころまんがやアニメの美少女に萌えてきたわれわれにとっては放っておけない題材である。

 吾妻ひでお、『カリオストロの城』のクラリス、ラムちゃん、本宮ひろ志の描く女の子たち、タッチの朝倉南、宮崎駿の描く女の子たち、などなどが本書に登場する。

 男たちは70年代前半に国家や会社という大きな物語の崩壊の後、その代入として「美少女」を選んだのである。「国家や会社のために死ねる」が「美少女のために死ねる」となったのである。さらにいえばまんがやアニメ、もしくはTVのアイドルのためにである。しかしこれは転落というか、堕落だな。男たるものもっと大きなものに理想を捧げるべきではないのか。でもかわいい子に魅かれる男の本性というものはどうしようもないが。

 女の子がロリコンっぽくかわいくなったのは、それまでのエロ・オヤジ的コードの排斥であったということだ。オヤジのべろべろエロエロ関係から抜け出したかったわけだ。それがロリコン顔として、または女性の内面を性的肉体のみではなく理解しようとしているという意味で女性の顔は幼くなったらしい。でも身体のほうだけはやたらリアルに質感的になってゆくのだが。

 まあ、このようなまんがの歴史や変遷を分析した本はかなり待望していたものである。私にとってそのような良い本は宮台真司ほかの『サブカルチャー神話解体』くらいしかなかった。まんがの目が剥くような分析本をぜひとも読みたいものである。


教養としての〈まんが・アニメ〉 講談社現代新書 萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造 動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 「おたく」の精神史 一九八〇年代論 二次元美少女論―オタクの女神創造史
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05 30
2004

書評 マンガ論、サブカル論

『マンガで読む「涙」の構造』 米沢 嘉博


マンガで読む「涙」の構造
米沢 嘉博

マンガで読む「涙」の構造

 人はお金を払ってでも悲しみを味わおうとする。わざわざ泣ける物語を見ようとする。悲しみや涙が娯楽とはふしぎなものである。

 マンガでの悲しみはヒーローが死んだり、主人公のつぎつぎと襲いかかる不幸であったり、少女の学校での友達との関係であったり、貧乏や障害であったりした。この本ではそういう悲しみをいささかカタログ的に読ませてくれる。


マンガと著作権―パロディと引用と同人誌と 藤子不二雄論―FとAの方程式 戦後野球マンガ史―手塚治虫のいない風景 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在
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05 30
2004

書評 マンガ論、サブカル論

『「おたく」の精神史』 大塚 英志


「おたく」の精神史 一九八〇年代論
大塚 英志

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

 タイトルの割には自分のことを語りすぎだと思った。「自伝的」とか銘打たなければ、個人的な話を読まされるのは納得できない。

 この本で感慨がふくらんだのは、おたくとは「新人類」と対比としての消費者の劣位であるということだ。おたくが軽蔑されたのは消費社会の落ちこぼれだからだ。消費社会に踊られて悦に入るよりマシだろう。でもおたくへの性的な嫌悪感があるのはなぜなんだろう。


物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」 教養としての〈まんが・アニメ〉 講談社現代新書 動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 オタク学入門 定本 物語消費論
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05 30
2004

書評 マンガ論、サブカル論

『ポスト・ヒューマン・ボディーズ』 遠藤 徹


ポスト・ヒューマン・ボディーズ
遠藤 徹
4787231502

 『ターミネーター』や『ハウリング』、『巨人の星』などのさまざまな映画やマンガからの引用があるなかなか魅惑的な本である。ただなんの本であるかよくわからない。やっぱり身体について語っているのだろうけど。

 いちばん感銘したのは第3章の「鬼婆論」で、女は見世物からある年齢を越えると鑑賞にたえない怪物になってしまうというところである。老婆のビキニ姿は怪物的なものなのである。それに対して男の老化は長老とか古老とか観念に解脱してゆく。なにか女が年をとるということにひじょうに心に残るものがあった。


07 11
2004

書評 マンガ論、サブカル論

『哈日族』 酒井 亨


哈日族 -なぜ日本が好きなのか
酒井 亨

哈日族 -なぜ日本が好きなのか

 台湾の日本のポップカルチャー好きな若者たちを「ハーリーズ」と呼ぶそうだ。日本のドラマや音楽やファッションが、かつてのアメリカ大衆文化のように東南アジアの人たちのライフスタイルに浸透しようとしている。

 これはわれわれもアメリカ文化で経験済みだから、ある程度はどのようなものかわかると思う。アメリカの何でもかんでもがむしょうにカッコよく、同じモノをもちたいと思うものである。金持ち文化のカッコよさは理不尽に思うことがある。

 日本はアメリカ文化のような存在になり、どの程度アジアの生活に影響を与えてゆくことになるのだろうか。ただ日本にいると東南アジアの人気というがわからないのがふしぎなものである。人間でもそうだろうけど、憧れる人はよく見るけど、憧れられる人にはあまり興味がわかないものなんだろう。


台湾海峡から見たニッポン 知っていそうで知らない台湾―日本を嫌わない隣人たち 哈日杏子のニッポン中毒―日本にハマッた台湾人 トーキョー熱烈滞在記 台湾―変容し躊躇するアイデンティティ 台湾人と日本精神(リップンチェンシン)―日本人よ胸をはりなさい
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02 14
2005

書評 マンガ論、サブカル論

『「宮崎アニメ」 秘められたメッセージ』 佐々木 隆


miya1.jpg「宮崎アニメ」秘められたメッセージ―『風の谷のナウシカ』から『ハウルの動く城』まで
佐々木 隆
ベストセラーズ 2005-01

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 宮崎駿のアニメってテーマはわりとわかりやすいほうじゃないのかと私は思っていた。文明と自然の対立とか、欲望の寓話だとか、解釈下手の私もなんとかわかると思っていた。

 でもテーマやメッセージの読み方というのは一冊の本ができるほど、探れば探るほど深みがあるものだと、この本を読んでいて思った。考えることを手放したら、もうそれ以上の深みはないのである。

 物語の謎解き本というのはおもしろいと思う。自分ではまったく気づかない読み方や解釈を見せてくれるから、それはまるで手品の種明かしみたいなものに思える。

 「そんな意味が込められていたのか」だとか、「こういうメッセージが込められていたのか」と、ぼんやり見終わっただけでは思いもつかない種明かしを見せてもらえるのである。物語というのはやはりこんなところまで理解したいものである。

 この本ではハウルやトトロ、千尋、ナウシカ、もののけ姫の5作が解釈されているが、私には千尋の解釈がいちばんよかったのではないかと思う。「千を尋ねる」という名前の意味とそれが忘れられること、カオナシがどういう人物を象徴しているか、それから千尋はなにを学んだのかということなど、ファンタジーだから謎解きの題材はもりだくさんである。私には社会で働くことの意味を教えられる映画だと思うのだが、子どものころにこんな映画に出会えた人は幸せだと思う。

 宮崎作品のなかではスケールの大きい『もののけ姫』がいちばん好きだが、解決がどのようにつけられたのか、はじめてこの本に教えてもらった気がする。

 しかしこの本はいったい何歳くらいの読者に向かって書かれたのだろう。かなり大人向きの感じがするし、ちょっと知的レベルが高くないと読み通せないのではないかと思う。小学生とか中学生で理解できるのかな。子どものほうがもっと宮崎作品の解釈を知りたいと思うのだが。


02 28
2005

書評 マンガ論、サブカル論

『マンガは哲学する』 永井 均


4062568721マンガは哲学する
永井 均
講談社 2004-08

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 マンガはここまで哲学的だったのかとわかる本である。マンガを読んで疑問や違和感を感じたとしても、それを言語化するのはけっこう壁がある。その疑問や違和感を言語化するのが哲学というものだと思う。

 人はマンガを読んでじゅうぶん哲学しているのだけど、それを言葉にはできないのである。思いや気もちのままでとどめてしまうのである。それを見事に言葉にできる人というのが哲学者なのだと思う。

 吉田戦車や藤子・F・不二雄に「意味と無意味」というテーマを見い出し、萩尾望都や吉野朔美に「私とは誰か?」というテーマを、「夢」というテーマで佐々木淳子、諸星大二郎を読み解き、「時間の謎」を『ドラえもん』や手塚治虫から読みとり、「人生の意味」を『天才バカボン』や業田良家にもとめている。ほうほう、そういうことを語っていたのかと感嘆させられることしきりである。

 マンガは思いっきり絵空事を描けるから、哲学的たりうるのだと思った。小説や映画の場合、より現実に近い分、哲学的にはなりえないのである。マンガは現実から離れるための思考の仕掛けのようなものである。より抽象的、想像的な言語操作のことこそ哲学というものである。

 ただこの永井均の本を読んで虚構相手にここまで考えなければならないのかと思った。それほどまでにしぶとく永井均という人は純粋に哲学している。だけど私にはずっとここまで考えるかという思いが強かったから、私の思考は哲学よりもっと現実的、機械的な思考に近づいているのだと思われた。思考のしぶとさにちょっといらだちを感じたくらいなのだから。

 永井均は大学の教員をしていて、哲学の学習が哲学的感度を殺す例を毎年見ているといっている。いつしか哲学界の問題とされている哲学をこねくりまわすだけの人になってしまっているという。そうなのだと思う、枠組みや鋳型にはめられてゆくのである。読書や学習から離れたところで考えるのはむずかしいことだけど、たぶんそこにこそ、はじめ自分が考えたかった哲学の問題があるのだと思う。そういう感性はたいせつにのこしておきたいものである。


10 22
2007

書評 マンガ論、サブカル論

SFから遠く隔たって――。

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 NHKのETV特集で『21世紀を夢見た日々~日本SFの50年』という番組をみた。日本のマンガやSFは世界に注目されているが、日本のSF草創期をたどるという番組であった。黄金の60年代とよばれ、だいたいは夢を見れた高度成長期と重なるわけだが、SFというのは当時のまさしく技術文明の夢や希望を体現したものであったと思う。

 私も十代のころはSFマンガを片っぱしから読み、SF映画ばかりを見ていた。7,80年代のことである。手塚治虫と『猿の惑星』や『火星年代記』、『ブレードランナー』、『エイリアン』がとりわけ好きだった。異空間や「ここでないどこか」にひたるのが好きだったのだと思う。(SF映画は深い!)

 いまはすっかりSFから遠ざかった。40歳になって新しいものに目がむかなくなったということもあるだろうし、フィクションものはだいぶ興味を失ったし、興味は人文書のほうになったし、だいたい仕事で遅くなってそこまで手を回している暇もなくなった。はっきりいって、「夢も希望もなくなった」ともいえなくない(笑)。

 SFというのは技術文明にたいする夢や希望であると思う。もちろん描かれるのは批判や絶望であったり、今日の社会の矛盾や批判であり、手放しの技術礼賛なんかではない。未来や発達技術を背景にしたり小道具に使われているが、テーマや語られていることは恐ろしく今日のバタくさい問題であったりする。

 それでもSFには夢や希望の底辺がある。技術文明の期待や希望の夢がある。未来の先進文明への期待がある。そういうSFに興味をもてなくなった私は、「夢も希望もない」と思えるのである。

 黄金の60年代が夢見た21世紀にわれわれは住んでいるのだが、もちろんきらきらした科学文明の先端にいるという気分はないと思う。バタくさい、泥くさい世の中にあいかわらず住んでいると思う。技術が進歩したって、人間の社会はたいして変わりはしない。同じ人間の問題や悩みが存在するだけである。本質的なことは60年代となにひとつ変わっていないのだと思う。

 私がSFから遠くへだったいちばんの理由は時間がないということだろう。社会に出るとほとんどの時間を労働に奪われる。学生のときのように3、4時に帰ってきて、あとは自由に読書やTVを楽しめるわけではない。8時や9時に仕事から帰ってきて、疲れて、さあSFをたっぷり楽しもうということにはなれない。社会人になると労働におおくの時間を奪われて、学生のような有閑階級のようなことはしてられないのである。したがって、「夢や希望も失った」のである。

 人生の夢や希望は学生のときにはおおくもてたのだろう。未知数の未来を希望するように、自分の未来も未知数を楽しめたのだろう。それが社会人になり、現実の壁にぶちあたり、閉塞状況に押し込められる中で、私の興味はSFから、より日常的な社会学や思想のほうに興味が向かった。現実の中を生きてゆくことが――そして現実の社会を探ることが、SFよりいっそう重要になったのである。SFの未知数の希望や夢はもてなくなった。

 まさしく私にとってのSF離れは、夢や希望からの墜落だといえるだろう。

 日本のアニメやSFは世界中から憧れられているということである。未来への夢や希望はほかの地域に譲り渡されてゆく。そういう未来への希望がもてる地域に、とりわけ受容されてゆくのだろう。アメリカが戦後、資本主義の夢と希望を振りまいたように、日本も振りまいてゆくことになるのだろうか。当の日本といえば、夢や希望はかつての黄金のSF60年代のように、あるいは高度成長期のようにもてているのだろうか。

 SFは技術文明や消費社会の夢や期待の原動力となってきたと思う。かつての人たちにとって社会主義や民主政治が夢や希望となって社会のエネルギーの原動力となったように、SFは文明の燃料庫だったのだろう。われわれの社会はそこに放り込むなにかをこれからも見い出しつづけられるのだろうか。


猿の惑星 BOX SET火星年代記 メモリアル・エディションブレードランナー 最終版 ― ディレクターズカットエイリアン





08 23
2008

書評 マンガ論、サブカル論

『日本型ヒーローが世界を救う!』 増田 悦佐


日本型ヒーローが世界を救う!
増田 悦佐

日本型ヒーローが世界を救う!


 読後、「う~んんん」とうなったのだが、ネットで調べてるみると案の定、「トンデモ本大賞2007年」にエントリーしていた(笑)。いちばん最悪なのはアメリカン・コミックが『スーパーマン』のような勧善懲悪型のストーリーしかないと切り捨てて、だから日本のマンガはすばらしいとほめたたえるところだ。前提をろくに調べもしないで当方が優れているといわれても信用されない。

 骨子としては日本は大衆によるミーハー低俗文化が花開き、欧米のように知的エリートが大衆をひっぱるような文化にならず、凡人のための大衆芸術が人類のネオテニー(幼児成熟)のつぎの段階を開き、プラトンの哲人国家が恐れる幼児のような遊戯国家が欧米を打ち倒す、といった内容である。

 知的エリートにより大衆を先導する社会より、凡人によるミーハー低俗文化が大衆にとってはよかったのだという内容はそういう見方もありかなと思ったのだが、アメリカや欧米より優れているという点にアメコミの偏見による独断と、日本のマンガだけが正義や善悪の相対化の視点を手に入れたとか、ネオテニーにその論拠を求めるあたりにトンデモ臭がただよってくる。解釈や判断がいくらでも可能なものに独断や即断が下され、マンガ的発想の跳躍があったりして、なんとなく「……」、「でもなぁ」という不信感がつきまとう本でもあった。でも私はネットでトンデモ大賞本という記事を見るまで気づかなかったのだが、やっぱり書評を書く前には調べられずにはいられない本であった。

 ただし細かい論考やデータをもとにした考察はおもしろいわけではない。著者はニューヨークの大学教授をへた証券アナリストである。それにしてもマンガ的な発想の跳躍や独断は気になるのだが(笑)。こういうマンガ評論というのは実証や確認をおこなわないでもできる自由な評論であるけれども、実証や常識からあまりにもかけ離れた跳躍した発想や独断がときたま飛び出したりして、「?」と首を傾げざるを得ない論考もたしかにあった。そういう実証主義のなさが「トンデモ本」になるのだろう。

 著者はマンガが好きでよく読んでいるのだろうし、マンガ評論もそうとう読んでいる。ただその評論のつなぎ合わせやデータの寄せ集めから、日本のマンガがアメリカン・コミックに勝っている、だからアメリカより日本文明が優れているという物語りに仕上げるさいに、トンデモない独断と偏見と思考の跳躍による物語ができあがったのだと思われる。なんだか鉄骨とゴムでできあがったつきはぎの建造物みたいである。骨子の部分がぐにゃっとなるゴムであった。アメリカに勝ちたいという一心で日本の優越点がゴムの山のようにつみあげられたのだろう。

 細かい論考はそういう見方もありなのかという驚きをもたらすものでもあったが。エリートによる大衆文化ではなく、大衆の大衆のためによる低俗ミーハー文化が優れているのだ、知識人統率社会より優れている、といった内容なのだが、ミーハー大衆文化を肯定する見方もあったのか、でも欧米ってそんなに知的エリートが大衆を先導する社会なのかという前提の疑問も残る。なんだか前提の世界の実証がいっているそばからあいまいにほどけてゆく気がする。。(笑)。

 マンガをほとんど読まなくなった私であるが、文章の中にはさまれたマンガの絵を見ると、鋭い論考が展開されていないのかと期待してしまうのだが、この本はふいに見かけた古本屋でほかの本を清算する前に手にとってしまったのだが、もうすこし内容を検討してみるべきだったのかもしれない。まったくムダだったとは思わないけど。私の好きなマンガ評論がいまだにつぎの二冊であるというのは残念であるというか、まだ優れたマンガ評論はそんなに多くないのだろうか。

私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち (朝日文庫 ふ 26-1)恋愛は少女マンガで教わった (集英社文庫)

高度経済成長は復活できる (文春新書) 日本の数字―データが語るこの国のゆたかさ 国家破綻はありえない 科学技術者のみた日本・経済の夢 日本文明・世界最強の秘密
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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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