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03 03
2005

映画評

優秀さを競うために人は殺される


  azu1.jpg 平和のために人を殺す『あずみ』

 きのう上戸彩主演の『あずみ』という映画を見た。人が大量に殺され、いかに鮮やかに殺されるか、いかに強く殺すことができるか、いかに華麗に殺されるか、といったシーンばかり見せつけられて、この映画はいったいなんなんだと悶絶した。

 強さに価値をおくのはわかる。だけど殺人や殺戮シーンに美学を見いだすような価値観にはついていけない。人が鮮やかに殺されるシーンが額縁に飾られるような見せ方というのはいったいなんなのだろう?

 われわれは人を殺す物語をしじゅう見ている。マンガや特撮番組からはじまってサスペンスやドラマや映画にいたるまで、人が殺されるシーンばかり見ている。

 人が殺されるのは勧善懲悪やなんらかの殺すべき理由があったり、倫理観にかなった殺人が描かれるのがふつうである。意味や理由もなく殺される物語もたくさんあるけど、つうじょうは倫理的な要請から殺害がおこなわれる。

 でもほんとうは倫理的な正当化なんてタテマエにすぎないのだろう。人が殺されるシーンを人は見たがっているのだ。

 なんで殺人という人間社会にとって最大のタブーが、人間社会の虚構物語に多く描かれるのだろう。人はそれだけ毎日毎日だれかや人を殺したいと念じつづけているからだろうか。

 腹の立つ上司や教師や、ムカつく家族、道ですれちがったうっとうしい人、いいがかりをつけてきた人、金持ち、自分より優れた人、政治家、差別されている人、みんなみんな人はしじゅう殺したいと思っているのだろうか。

 精神分析家なら殺人シーンというのは、自分の内なる悪や凶暴性を丸め込めるための方法論だというだろう。つまりじっさいの人を殺しているのではなく、われわれの心の内部では、それら殺される人はみずからの悪や凶暴性が象徴されたものだというのである。だから徹底的に丸め込める残虐さが必要だというのである。

 人が殺されるのではない。私の中のその人のような部分が殺されるのである。そういった正統的な理由なら殺人シーンも無益なものではないだろう。童話が残酷なのはその意味で必要なのである。

 われわれは子どものころからマンガや特撮映画などで人を殺すシーンばかり見てきた。悪役も人間と見なすのなら、人間が殺される物語ばかり見てきたことになる。まさかこの社会は殺人を奨励する社会であるはずがないだろう。

 人が殺されるのは相手が悪や敵であったり、または主人公の優越や勝利を得るためだったりする。そのためには人は殺されても仕方がないというか、奨励されることなのである。

 主人公が優れたり、勝ったりするためには相手を負かさなければならない。そういう競争的価値観のなかで主人公は人を殺す。優越や勝利の目印として人は殺されるのである。主人公はそこで勝利や金メダルを得たことになるのである。殺害とは主人公が優秀であることの承認である。

 優れることや正しいことはわれわれの社会の多くの人がめざす価値観である。その至上価値をめざして、人は闘い、人を倒し、そして殺す。優秀さや正義に向かって人は争い、そのために人は殺されるのである。

 人が殺されるくらいなら優秀さや正義を競うことをやめさせるべきだろうが、自分が優れている、正しいと思いたい人がこの地上から消え去ることは決してないだろう。そして物語の中で人は殺されなければならないのである、私の優秀さや正義のために。

 子どもの物語では自分の優秀さが競われる話ばかりたたきこまれる。私は優れなければならない、称賛されなければならない、勝たなければならない、――そうでないと私の人生には意味がない。そうして私の優秀さの犠牲として人は殺されてゆくのである。

 優秀さに駆り立てられる病というものが現代を殺戮映画だらけにしているのだろう。偽善者ぶって殺人シーンを規制したってはじまらない。残酷シーンを規制しようとする正義漢や優秀さのアピールこそが問題なのである。


 ■参考文献 
 『老子・荘子』 世界の名著 中公バックス
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 「もしわれわれが賢者に力をもたせることをやめるならば、人民のあいだの競争はなくなるだろう」――老子


03 19
2005

映画評

『グラディエイター』――大衆政治は正しいのか?


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 ローマ帝国五賢帝の180年ごろを描いたリドリー・スコットの作品である。絢爛豪華なローマ時代、迫力ある剣闘士を描いており、西欧の原初的自慢話、男らしさの迫力をたたえるといった前触れだけで見る気をなくしたが、きのうTVでやっていたのでスペクタル大作としては楽しめると思い見た。

 最後の五賢帝マルクス・アウレーリウスが出ていたのは、「おおーっ」と思った。アウレーリウス『自省録』はいまでも手に入り、私の愛読書でもあるからだ。名誉心を戒める内容やストア哲学の心のコントロール法は一読の価値があると思う。

 皇帝の時代から共和制(民主制)がほめたたえられる時代を背景としていたが、古代の知識人はあまり民主制は評価していなかった。パンとサーカスで代表される衆愚政治におちいるとされていたし、寡頭政治をまねくともいわれていたからだ。かれらは比較の視点をもっていたのである。学校の教科書ではこういうことは習ったのだろうか。

 民主制をほめたたえるテーマがあり、アメリカのプロパガンダ映画になっていたわけである。イラク戦争の自由と民主制の大義名分がメッセージされていたわけだ。この映画を見て何の疑いももたずに民主政治を最高だとみんなはみなすのだろうか。この映画は民主性がはじまる時代の期待感を描いていただけである。大衆政治がなぜすばらしいのか語っていない。

 それにしてもアメリカ人自身もほんとうに民主政治を最高の制度だと本気で思っているのだろうか。その国にいるからこそ欠点も汚濁も見えると思うのだが、よくこんな映画を恥ずかしげもなくつくれるものだと思う。宗教信者も自集団の教説をなんの疑念もなく説けるわけだから、両者は似ているのかもしれない。

 この作品の中では「大衆」という言葉がひんぱんに出ていた。大衆の心をつかむことが、たとえ奴隷の剣闘士のように笑いものになる存在であっても、権力をもつ皇帝より力をもつことができるのだというメッセージを発していた。

 それは政治評と見ることもできたし、映画評とも見ることができた。どちらかといえば、映画の影響力は政治の権力より強いというリドリー・スコットのメッセージが強いように思われた。たしかにベルリンの壁はメディアによって壊されたというように影響力は圧倒的なものがある。でも大衆に支持されるものがいつでも正しいとはまったく思えないのだが。

 大衆が政治に力をおよぼすのはいいことだされるが、私たち大衆がいちばんかかわり、生存の道を握っているのは企業である。なぜ政治ばかり語られて、企業の政治や権力は目をつぶらされるのかいつも不思議に思う。国家や政治が問題にされるより、企業が問題にされなければならないといつも思うのだが、政治ってわれわれのパンとサーカスなのか。

 この映画は民主制ははるか二千年前西洋から始まっていたという西洋の大自慢話なのであるが、われわれはたんじゅんに賛同する見方をするだけはよくないと思う。たとえばその後のローマ帝国の政治経緯を跡づけたり、民主制を検討する本を読んだりして、民主政治の欠点と長所を見極めるためのはじまりにしてほしいものである。

 私たちも学校で民主政治はすばらしく、江戸時代までの民衆は虐げられた暗黒の時代だったと教えられるのだが、それはいまの政府のプロパガンダにすぎないのである。明治からの政府は長州や薩摩からの地方志士たちの革命政府なのであって、前の政府のほうがよかったといわれては困る。だから子どもには前の時代を徹底的に悪かったと教えられなければならないのである。

 「歴史とは都合のよい現在」であることを覚えておいてほしい。


05 19
2005

映画評

『ジェイコブス・ラダー』


B00005FXISジェイコブス・ラダー
エリザベス・ペーニャ ティム・ロビンス エイドリアン・ライン
ジェネオン エンタテインメント 1999-12-10

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 きのうサンテレビでやっていたのでまた観た。『ジェイコブス・ラダー』は私の好きな作品である、というか、じわじわと衝撃を与えた作品である。

 ベトナムから還ってきた元アメリカ兵が戦闘のすまさじさを何度もフラッシュバックしながら日常を送る物語で、すべては衝撃のラストに収斂する作品だ。アメリカに還ってきていたと思っていたが、これらはすべてベトナムで見た死の直前の白昼夢だったわけである。

 不可思議で不気味な雰囲気がいい。謎だらけの雰囲気が私には惹きつけるものがある。ただ退屈に感じる人もいるだろうけど。

 アメリカの日常が死の直前の白昼夢にしか過ぎなかったというラストが衝撃なのは、これはわれわれの時間の感じ方をも表わしているからだと思う。終わったことや過ぎ去ったことは、もはや記憶や思い出としか思い出せない。それは空想とか、存在したか存在したかもわからなくなるレベルのものである。

 われわれの死の直前にも、人生はもはや空想とか想起でしかない。存在したかも存在しなかったかもあやふやになる。おそらく死ぬときの人生の感じ方とはそのようなものだと思う。だから宗教では想いとか心、思い出にしがみつくなといっているのである。この『ジェイコブス・ラダー』が衝撃なのは、われわれの人生のそのようなはかない砂のような感じ方を表わしているからだ。

 新しい恋人や離婚した家庭、交通事故で死んだ子どもと生きているときに出会ったりするのはなぜなんだろう。人生の後悔や悔恨がそれらの想起を思い出させたのだろうか。

 ベトナムで攻撃性を誘発させる幻覚剤がつかわれ、仲間同士で殺しあったというストーリーも出てくるが、これは戦争の本質を表わしているのだろうか。

 なお、『ジェイコブス・ラダー』というのは『旧約聖書 創世記』に出てくる「ヤコブのはしご」のことで、雲の切れ間から射す光のことをいい、ふだんでもよく見かける神々しい光のことである。天の門と考えられている。日韓ふたつのドラマ名にもなった『天国の階段』のことである。

06 03
2005

映画評

『戦国自衛隊』の思い出


B00005HKPS戦国自衛隊
千葉真一 夏八木勲 渡瀬恒彦
角川エンタテインメント 2000-08-25

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 リバイバルされるそうなので、むかしの『戦国自衛隊』についてひとこと。

 79年に公開されたこの映画は好きだったなぁ。私は12才で、この年代に見る映画というのは、原体験になるくらい身体に染み込むものである。TVでやるたびに何度も飽きずに見た。

 なによりもほとんどの登場人物が死んでいってしまうことにそうとうの衝撃をうけた。いさましい千葉真一や反逆的な渡瀬恒彦、弱虫の男とか、それぞれ個性がきわだっていて愛着がわくから、みんな殺されるのはそうとうショックである。

 時代は彼らをどこにつれてゆくのか、どういう展開になってゆくのかまったくわからないから、ひじょうに引きつけられて見た映画だった。

 彼らは現代的な兵器をもっているがゆえに戦国時代の天下をとれると踏むのだが、戦国時代の圧倒的な兵力の前に彼らは敗退する。そして景虎の裏切りにより彼ら全員は殺されてしまう。生き残ったのは当時の女性と生きようとした男だけだ。

 タイムスリップものというのは、時間の中にはかなく消えてゆく人間の生を浮き彫りにするのである。だからものすごく悲しい余韻を人の中に残してゆくのである。歴史の塵となってゆく人生を如実につきつけるわけである。

 絶望的な物語であるが、だからこそ悔いのない人生を生きようというメッセージになりうるのである。

 ひさびさにリバイバル映画を見に映画館に足を運びたくなったが、『猿の惑星』のリバイバル映画はなんの良さもなかったので、どうしましょうか。

 ▼リンク
 Yahoo!動画 - 戦国自衛隊
 当時の予告編が無料で、本編は380円で視聴できます。


02 17
2010

映画評

映画『スラムドッグ$ミリオネア』と「悲惨鑑賞」の消費



 おそまきながら映画『スラムドッグ$ミリオネア』をみた。いまさらながらであるが、感想を書いて思ったことをまとめないではいられない。アカデミー賞8部門など数々の賞を総ナメにした社会派の感動傑作である。




スラムドッグ$ミリオネア (字幕版)
(2013-05-15)
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ぼくと1ルピーの神様 こちらは原作です。


 インド、ムンバイのスラム街で育ち、イスラム教迫害で母を殺され、孤児になったジャマールと兄サリム、そしてその逃走中に知り合った少女ラティカが軸になって、インドのスラムやストリート・チルドレンの生き方が描かれてゆく。

 ストリート・チルドレンのジャマールの生き様は衝撃的であり、また生命力にあふれ、感動的である。いい映画だし、感動傑作だし、愛すべき映画だと思う。ただ、インド版『クイズ$ミリオネア』で賞金を得ることがサクセス・ストーリーなのかという疑問がはじめからずっとつきまとっていたし、クイズ番組で賞金を得ることはあぶく銭でどうせ一銭も身につかないと思っているから、なにか商売やビジネスで成功するという話であったら説得力があったと思う。それにしても、みのもんたの番組とまったく同じで、イギリスからの輸入物とは知らなかった。

 クイズ問題からジャマールの少年時代のエピソードがよみがえり、その経験から答えを知るという構成になっているが、答えがすべて少年時代のエピソードにつながっているというのはあまりにもご都合主義だと思うかもしれないが、その悲惨で凄惨な経験はすべて価値のあるものだったという賛美がおくられた寓話なのだと考えることができるだろう。スラム街やストリート・チルドレンで生きた凄惨な経験も価値があり、意味があったのだという賞賛だ。それがカネに換算されるといえば、あまりにも身もふたもないが。

 これは純愛物語であって、スラム街のドキュメンタリーのみではないところが物語のエンターテイメント性を損なっていないのだと思う。ジャマールはラティカへの想いを、たとえ物乞い育成集団にとらえられていようと、兄のサリムやギャング集団のボスの愛人にとらえられていようと、失うことがない。この純愛は兄サリムがスラム街の凄惨な生活からギャング集団に仲間入りした生き方の対比として、イノセンス(純真さ、正直さ)を失わずにいてほしいという願いのメッセージなのだろうか。どんなに悲惨な生活でも屈折しないで生きてほしいという想いがこの映画の純愛を支えているのだろうか。

 孤児になったジャマールらはゴミ山で暮らしていたが、子どもたちをおおぜい集め、無料で食べ物をほどこしてくれる「聖人君子」のような集団にひきとられる。しかしそこは子どもの目をつぶしたりして「哀れな子供」をつくりだし、物乞いで稼がせる集団であった。インドでは物乞いがおおいと聞くが、子どもの悲惨さを身体上にわざとつくりだし、物乞いの演出を高めるビジネス集団がほんとうにあるのだろうか。

 この集団の恐ろしさに視聴者は身をひくわけだが、じつはこの映画を鑑賞し、評価するわれわれの姿もかれらと同じではないかという厳しい見方もできる。スラム街で生き、ストリート・チルドレンとして生きなければならない少年の物語を、われわれは生きるために働かないですむ時間を確保しながら娯楽として、かれらの悲惨で凄惨な物語を消費している。物語は哀れで、悲惨であればあるほど、観客は深い感動をおぼえ、満足し、感傷にひたる。悲惨を「見せもの」として楽しみ、評価するわれわれと、また映画をつくる人たちも悲惨さの過剰をもっと欲す。じつのところ子どもの目をつぶした集団はわれわれが欲するニーズをとらえたことでの行為といえるのである。

 ジャマール少年らは観光ガイドで食べていけることを知り、スラム街の現実を見たいという西欧人をガイドするが、その間にクルマのタイヤやパーツをスラムの少年たちに盗みとられ、疑われたジャマールは警察に袋だだきにされる。「これがインドの現実です」。西欧人は豊かで金持ちの生活からかれらの悲惨な生活を高みから見物しようとし、悦に入る。豊かさで先進的な日本人も西欧人と同じである。生活を確保した人間が哀れさや悲惨さをみようと、スラム街を他人事の視点から見下ろす。このような映画はその視点からの危険があるのである。もしこの「悲惨鑑賞ビジネス」が儲かるからといっておおくの西欧人が群がれば、身体に欠損をつくりだす集団はもっと増殖するだろう。

 人は自分たちの悲惨さや悲しみが「見せもの」になんかされたくないだろう。スラム街で生きる人たちも同じ人間ならそう思うだろう。自分が悲しい、恥ずかしいと思っていることを、だれが「見せもの」にされたいと思うだろうか。ショービジネスや報道というのは悲惨な人を映し出すとき、かならずそういう倫理が問題になる。阪神大震災では報道者はカメラを向けるのをためらったという。家族が死んだり、家がつぶれた人たちにカメラを向けることは、かれらの悲しみを公共にさらけ出す二重の責め苦のようなところがある。かつて明治や大正のころ、日本でも貧民窟、スラム街探訪といったジャーナリズムがにぎわしたことがある。「われわれとかれら」は違うという意識が厳然としてあったのである。映画のヒットにより旅行企画としてとうぜんインド・スラム探訪といった企画が組まれることだろう。メディアの悲惨鑑賞はいかに危ういかということである。

 悲惨さは「売れる」のである。スラム街で生きることは商売になるのである。貧困や悲惨さは「見せもの」として消費されるのである。豊かで先進国の日本人は優越感と安全圏の中から、動物園の哀れな見せ物のようにかれらを見下す。「私はかれらのようでなくてよかった」「自分の生活は不満だらけだがかれらと比べるとめぐまれている」「私よりもっと不幸で悲惨な人間がいるのだ」とわれわれは自分の安全や豊かさに安堵する。そういう装置にかれらは利用されるのである。好奇な目やのぞきのようなまなざしでかれらを射抜き、かれらの貧困や悲惨さを他人事の不幸として消費する。悲惨な境遇の物語は、もしかれらの痛みを配慮する平等な関係ならそうかんたんにはとりあげられないテーマなのである。

 人の痛みや羞恥を暴きだして、われわれは感動やカタルシスを味わったとして満足する。人の痛みがわかるのなら、できれば好奇の目で見たり、つぎつぎとかれらの実情を暴き立てるなんてことはできないだろう。ただもしそれらの興味をかきたてられるとしたら、鑑賞の満足や消費だけでとどまらせないで、たえず解決や救いをめざしたまなざしや態度で見るのが倫理的態度というものだろう。好奇心や消費満足だけで見るのなら、かれらの状態が改善することも向上することもないだろう。悲惨なものを暴き立ててみるのなら、倫理的態度として改善や解決をめざした態度でそれは見られるべきだ。人の悲惨さをのぞき見るのなら、最低限はそのような態度で挑むべきだと私は思うのである。消費や興味本位で見ることはただかれらを傷つけ、永遠の貧困にとどめるだけだろう。せめてそれくらいの態度で人との痛みにむきあうのが人としてのマナーだろう。娯楽や消費としての態度だけで鑑賞することを恥じるべきだと思うのである。それがかれらの悲惨さをまなざした者としての責任というものである。


インド・スラム・レポート絶対貧困物乞う仏陀 (文春文庫)

なぜ貧困はなくならないのか―開発経済学入門貧困の克服―アジア発展の鍵は何か (集英社新書)

10 13
2010

映画評

『エルム街の悪夢』と現実

 眠ると夢の中で殺人鬼に殺されるという『エルム街の悪魔』というホラー映画があった。現実の中では殺されないで夢の中に入ると現実に殺されるのである。夢は現実に存在しないものを夢見るものだから、夢の中で殺されるわけがない。この映画ではどうして夢で殺されたのだろう。

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 夢の不思議や眠ることの不安を殺人鬼の恐怖と結びつけた映画だが、わたしはこれを「現実」のあり方の比喩だと捉えたい。

 夢は現実に存在しないものだが、人はその存在しない夢を現実だと思い、その現実に殺されるのではないかという比喩をたくみに語ったという解釈を提供したい。

 わたしたちが「現実」と思っているものは夢なのだ。

 どういうことかというと、わたしたちが頭で思い浮かぶ現実というのは想像やイメージであったり、言葉の構築や思考の編み物であったりする。これをじっさいにある、目の前に起こっていることだとわたしたちは思うのだけど、それは頭のイメージと同じである。現実というのは言葉や想像でイメージされた仮構にしかすぎない。

 時間で区切ればわかりやすいだろう。時間というのは現実に存在するのはいまだけである。過去はもう存在しない。未来もまだ存在しない。いましか現実に存在しないのだが、そのいますら一瞬に過去にすべり落ちている。はたしてわれわれは次々と時間が去る中でいまという現実にふれることはできるのだろうか。わたしたちがふれることができるものはほとんど「夢」なのだ。

 人は「地図」にすぎないものをじっさいの「大地」と勘違いするといったのはケン・ウィルバーだ。頭で思い浮かべるのは「地図」にすぎないのに人はそれを「大地」と勘違いする。そしてその「地図」のリアリティーは半端ではないのである。

 わたしたちが悩んだり、苦しんだり、悲しんだりすることはほぼ過去のイメージや思考の構築物である。未来の不安や恐れである。そして時間が現在しか存在できないなら、それらはすべて現実に存在しないもの――すでにないもの、あるいはいまだにないものである。わたしたちは夢の中で悩んだり、苦しんだりするのである。

 まさに「夢に殺されている」のである。

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 わたしたちはなぜ「夢」の比重がこんなに大きくなり、「夢」から覚めなくなったのか。言葉の想像やイメージにすぎないものを現実と思ったり、あるいは考えるわたしこそが「わたし」であるという強い思い込みによるところもあるのだろう。思考や想像こそが社会生活を送る上で必要な資質であり、頭の使い方である。これを「夢」であると思い込むのはむづかしいだろう。しだいに「地図」を「大地」と思うようになるのだ。

 「夢」を去らせるのはかんたんではない。それは社会生活の核であり、わたしの意識をつちかう支えとなるものだからだ。わたしたちが夢で殺されないためにはひたすら思考をなくしたり、頭を空っぽにする瞑想の中でしか気づけない、得られないものであるかもしれない。

 夢はいまも思考や言葉、イメージによってタコの墨のように煙幕を張りつづける。夢はどんどんいまもつくられている。思考も言葉もイメージもない、澄んだ、空っぽの意識の中にしか夢からの覚醒はないのだろう。フレディはいま目の前にいま生成されているのである。



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10 15
2010

映画評

『マトリックス』と知覚世界の幻影

 前回『エルム街の悪夢』と現実について書いたので、『マトリックス』の世界観についてものべておこう。

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 『マトリックス』では人は培養管の中に生き、コンピューターの仮想現実をリアルな世界として生きている。これは仏教や神秘思想でいわれたきた世界観と重なり、現実の世界は幻想にすぎないという世界観をSF映画にみごとにうつしかえた作品だといえるだろう。

 われわれは自分たちが生きているこの世界を幻想や幻と思うことは不可能である。こんなにリアルで生々しく、現実感にあふれており、これ以外に世界はないと考えるのはあたりまえである。

 では仏教僧はどうしてこの世を幻だというのか。

 『エルム街の悪夢』では意識や自我の幻想性をえぐり出していた。概念やイメージにすぎないものを現実に存在するもの、実体あるものという勘違いに人は惑わされている。これは人が社会生活を送るうえで記憶や概念、計画する自己呈示が重要になったからだろう。頭の概念、イメージが重要になってこれが存在しない頭の仮構であることにすっかり気づけなくなるのである。

 知覚・視覚世界は幻想なのか。この問いの答えは出せないが、生物の環境世界という考えにヒントがあると思っている。生物は環境で生きるために外界の現象を察知するための触覚や視覚などの外部センサーを生み出したが、この外界の知覚はあくまでも脳内でつくられる脳内映像や地図にすぎないと考えることができる。

 自我の過ちと同じようにイメージにすぎないものを現実と思っているのである。知覚センターの脳内ビジュアルである。それは「物自体」ではない。センサー装置に映る映像はわれわれはリアルな世界だと勘違いしているのではないだろうか。

 たとえばコウモリは超音波の反響によって環境の外形を知る。人間の視覚だって光の反射をとりいれて像を結んでいるにすぎないのではないか。視覚とは光の反射の脳内イメージでできた地図である。翻訳されたものである。耳は空間をつたわる振動やゆれを「音」という察知される知覚に変換されたものではないのか。振動の増幅装置が耳という器官だ。爬虫類や魚は振動をちょくせつからだに感じることができるからさほど耳を必要としない。

 視覚であれ、聴覚であれ、変換され、翻訳されたセンサー装置の映像を「現実」だと思い込んでいるのではないだろうか。それはあくまでも機器の映像であって、現実でも「それ」自体でもない。

 写真やテレビのモニターの自然の風景を見て、それが現実の自然風景だと思うことはない。しかし人は知覚においてこの過ちを犯しつづけているのではないか。知覚されるものとは脳内で変換された図像にすぎない。

 では人はこの知覚世界の囚われた世界から離れられるか。わたしたちが知覚器官でしか世界を知りえない生物だとするのならこの世界のほかを知ることはできない。もっともセンサー機器の発達で紫外線や赤外線で見た像を見ることはできるだろうが。

 仏教や神秘思想では肉体や意識を離れた存在であることを追及する知識もあるが、今日の科学観ではもちろん受け入れがたい知識である。臨死体験や幽体離脱でおこるような肉体知覚と異なった知覚をわれわれはもつことはできるのだろうか。それを設定しないことには意識や肉体からの脱同一化は図れないのであるが。

 たとえばわれわれは眠っているとき、意識や肉体感覚はどこにいっているのだろう。意識や肉体感覚がないとき、この世界は消滅しているのだろうか。もちろん他者の観察によってこの世界は滅んでいないし、自分も眠りから覚めることによってこの世界が存続することは常識になっている。眠りは死とひじょうに近い。わたしたちは眠っているとき、死んだ状態と同じになっているが、違いは目をふたたび覚ますことだ。

 神秘思想では境界のない世界、わたしと対象、あるいは内部と外部のないひとつながりの世界を体験することが悟りあるいは変性意識状態だといってきた。肉体と外界を区切ることによって世界を分断しているが、この世界は区切りのないひとつながりの世界だという。

 これ以上は迷宮になってしまうのでこのへんでやめておこう。ただ視覚・知覚世界は脳内の映像にすぎない幻であるという気づきは銘記しておきたいことにする。外に出れば、自分の肉体の外部に世界が広がっているという常識感覚、リアルな感覚はくつがえすほどもできないほどあたりまえの感覚になっている。せめてこの知覚世界を幻影だと思う知識は忘れないでおきたいと思う。


関連文献
生物から見た世界 (岩波文庫)動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない (ちくま学芸文庫)瞑想の心理学―大乗起信論の理論と実践唯識のすすめ―仏教の深層心理学入門 (NHKライブラリー)無境界―自己成長のセラピー論

大乗起信論 (岩波文庫)

03 04
2012

映画評

「人がだれも信じられなくなった」時代のバトル・ゲーム的物語群について

 『LIAR GAME』(2010)とか『インシテミル』(2010)のようなゲーム的な映画が多くなったと思わないだろうか。

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 『LIAR GAME』では巨額の報酬をめぐっての疑心暗鬼にかかるゲームの中で、だれを信じられるかといったゲームがずっとくりひろげられる。『インシテミル』もだれを信じていいかわからない中で殺し合いがひっそりとおこなわれてゆく物語である。いずれも頭脳戦・心理戦といったものが特徴である。

 どうしてこういうゲーム的な物語がつくられるのだろうか。

 『DEATH NOTE』(2006)も殺人をめぐる頭脳戦・心理戦である。宇野常寛はこれらの想像力を「バトル・ロワイアル型」や「サヴァイヴ系」と命名している。こういった物語群を一群のまとまりとしてみたら、そういう物語群がたくさんつくられていることがわかる。

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 映画『バトル・ロワイアル』は2000年に映画でつくられた。とうじは少年の凶悪事件が世情をさわがせていたことがあって、その流れから生み出されたと思われる。だけど、だれも信じられない中で殺し合いのゲームがおこなわれてゆくモチーフは先の物語群にうけつがれてゆく。

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「信認」といったものがこれらの物語の中核のテーマを担っているようだ。

 映画『あずみ』(2003)も仲間同士で殺し合って生き残ることが物語として埋め込まれている。殺し合って、勝ち抜いてゆくことがこれらの物語にじつに多い。

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 こういうバトル・ゲーム的な物語といえば、『カイジ』(2009)だろう。借金を背負ったことにより命の保証もないギャンブルをくりひろげてゆく。下流や非正規に落ちた心情の一発逆転物語のように思える。

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 これらの物語群を時代に即して考えてみると、もう社会のだれも信じられなくなった、頭脳や心理戦で闘って生き抜いてゆくといった信条が浮かび上がる。

 世の中の状況をながめてみると若者は社会に出ると非正規や長時間労働で搾取か酷使されるかの選択しかないし、社会から拒まれてニートやひきこもりになってこじらせるとさらに生きにくい。

 大人や高齢世代の下敷きや人柱のように搾取されている気分になるだろうし、年金ももらえる額が払った額が少なくなると計算されているし、破綻してしまうかもしれない。

 よい子として勉強していい大学に入れば、生涯安泰といった夢や計画を裏切られたかっこうになっている。「だれも信じられない、裏切られた」という気分でいっぱいなのだろう。

 物語のゲームでだまされ、だれを信じていいかわからないといった思いは若者の心象風景そのものだろうし、殺されるかもしれない、殺し合いだという物語は若者のそこまで追いつめられた心象風景が垣間見えるようだ。

 「もうだれも信じられない」、「やられる前にやりかえせ」といった心のうめき声が物語にわきあがっているかのようだ。物語は時代の絶望を写しとっている。

 これは若者の気分だけの問題ではなくて、恩恵をうけれなかった人たち、こぼれてしまった人たちは中高世代にもとうぜんたくさんいる。「裏切られた、だれも信じられない」といった絶望は、若者だけのものではない。

 内戦状態といわれるみずから命を絶ってしまうたくさんの人たちのなかにも「人を信じられない」「裏切られた」といった気持ちでこの世を去ってゆく人もたくさんいるのだろう。「やられるか、やるか」の殺し合いの物語はなにも虚構だけの話ではないのだろう。

 「バトル・ゲーム」「サヴァイヴ系」の物語にはそこまでの人々の絶望が刻印されていると考えるべきだろう。

 この「人が信じられない」といった絶望は社会にどのような亀裂を生んでゆくのだろうか。

 仕事につければ社会保障はしっかりと与えられる社会であったが、職からこぼれると金や地域の縁からも切られた「無縁社会」「人情砂漠」の地域社会がひろがっており、非正規になれば企業や国家から保障されていた社会保障からも縁を切られる。

 職が見つからないと企業からも国家からも見捨てられ、人のつながりや金の縁も切り捨てられる。「だれも信じられない」「「裏切られた」といった世界はこのような隙間にひろがっているのではないだろうか。

 もう「やられる前にやってしまえ」と物語では殺人がおこなわれるレベルにメンタル象徴的な世界につきすすんでいるのではないだろうか。それが逆向きに向かえば自死にいたるのではないのか。

 身ぐるみはがされるような強欲な金融の世界を描いた物語も増えていた。『ナニワ金融道』(テレビドラマ1996)や『ミナミの帝王』(1992)といった物語はえげつない金融の世界をえがいて、人々にだまされないための人の疑い方や非信認のありかたを教えた。「もうだれも信じられない」。

B000CFWOOSナニワ金融道 1 [DVD]
青木雄二
フジテレビ 2006-01-27

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B001NMR4Y4難波金融伝 ミナミの帝王 DVD COLLECTION Vol.1
ジーダス 2009-02-27

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『クロサギ』(2006)といった物語や、『銭ゲバ』(2009)といった物語もドラマ化されている。もう「だましたれや」や「追い込んでやる」といった世界なのである。「オレオレ詐欺」というのは人を信じられなくなった、裏切られたという思いの噴出ではないのか。

B000FDK9OOクロサギ DVD-BOX
黒丸
TCエンタテインメント 2006-09-22

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B001VKVXIQ銭ゲバDVD-BOX
VAP,INC(VAP)(D) 2009-05-22

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 人が信じられなくなったという心情のあとに生まれてくる社会のありようとはどのようなものだろうか。私たちは企業や国家を信じていた、信じられていた時代の臨終に向かいつつあるのではないか。それが外の人に向かっても、内の自分に向かってもたいそう悲惨な結果が待っていることだろう。

 社会の紐帯をむすんでいた信頼という絆がほどけてゆこうとしているこの社会はどこに向かってしまうのか危機感を強くしたほうがいいのだろう。バトル・ゲーム的な想像力の連鎖創出はそういう危機を抱かせるのである。

 「もう、だれも信じられない世の中」。

10 07
2012

映画評

成熟は世間のいいなりになることか―『映画は父を殺すためにある』 島田 裕巳

4480429409映画は父を殺すためにある: 通過儀礼という見方 (ちくま文庫)
島田 裕巳
筑摩書房 2012-05-09

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 映画を通過儀礼として読むという本だが、鋭い分析を見せてくれる本ではなかったな。あの映画のこういう場面はこう読むという解釈をのべてくれる点ではおもしろいのだが、「おお!」という感嘆するレベルにはとどかなかったな。もっともいっているわたしがそれより鋭い見方を提示できるわけではないのだけどw

 いちばん興味深い章はⅣの「アメリカ映画は父殺しを描く」と、Ⅶの「寅さんが教えてくれる日本的通過儀礼」あたりかな。それまでの『ローマの休日』、『スタンド・バイ・ミー』、『魔女の宅急便』の解釈はずいぶんあたりさわりがないような。

 父殺しというのは父のいいなりになって死す(自立できない)か、父をのりこえるかという選択を青春期に迫られることになる。ケビン・コスナーの『フィールド・オブ・ドリームス』で描かれるのは、メジャーリーグの夢が破れたさえない父への反抗と侮蔑だけだったが、父のいきいきした若いころに接して、和解をもたらすという話である。

 父はすでに敗残者のような姿を見せていたのだが、その時点で父殺しはなされていたので、「和解」が必要だったのである。

 60年代、若者たちは既存の価値観に反抗をつきつけたが、これも集団的な「父殺し」だったという解釈も可能である。『スター・ウォーズ』でもダース・ベイダーという父とルークにそういう「和解」が描かれているのではないかということである。

 『愛と青春の旅立ち』の解釈は興味深かった。父のいいなりになって自分の希望を押し通すことのできなかった友人は死んでしまう。ロビン・ウィリアムスの『いまを生きる』にも自分の希望より父の要望を押し通して死んでしまう友人が描かれる。試練を避ければ死んでしまうのである。

 『愛と青春の旅立ち』のザック(リチャード・ギア)は下仕官どまりで女性の心をふみにじった父と同じ人間にならないように父をのりこえなければならない。それで退学をせまられたとき、しごきに耐えていた彼が「いやだ。やめない。ぼくには行くところがない」と子どものように泣くのである。卒業した彼は上官の上の立場になり、かれは通過儀礼をはたすのである。わたしはこの映画はなにを描いているのかもやもやしていたので、よく解釈がわかった。

 父殺しというのは自立のことである。自分の意志や親の加護からの独立である。それが精神的な面では父殺しとして表象される、あるいは表現される。

 対して日本の父殺しは寅さんや漱石の作品にあらわれるように衝突が避けられる。

 寅さんは失恋などの問題にぶつかったとき、その場所から逃げてしまうため、試練としてうけとめ、克服してゆく努力をしない。

 漱石の主人公たちも大学を出ても働かないわがままな者たちが多く描かれる。

「寅さんは、「どうせ俺はこの家じゃ勘定に入れてもらえねぇ人間だからな」というが、漱石作品の主人公たちは、誰もが自らをそういった境遇に追い込んでしまっているように見える。彼らは、地道に働いて家庭を築き、社会に受けいれられて当たり前に暮らすことにどこか白々しさを感じ、わざと「勘定に入れてもらえねぇ人間」になろうとしているのだ」



 漱石の主人公や寅さんは、じつは日本人の男性のひとつの典型を示していると島田裕己はいう。

 わたしとしては日本の人たちは世間の求める人生コースやサラリーマンコースを躊躇なく選んでいるように見えるのだが、日本で愛されるのはそういう選択から逃れた寅さんや漱石の主人公たちである。できないことの願望なのだろうか。

 こう見るとアメリカのように父殺しをはたして自立する若者はいっけん自立しているようにみえるが、既成の社会に居場所をみいだすという点で、「父なる」社会に適合してゆくということではないだろうか。日本ではいっけん成熟や成長もはたさない若者たちが物語上で愛されるが、社会という父のいいなりになることを拒むことであるともいえるかもしれない。どちらのほうがほんとうに成熟したといえるのでしょうね。

 ヤンキーなんかは学校には反抗するが、社会や家庭の保守的な価値観にはすんなり順応する。自立って親からの独立ではたせるのか、それとも社会や世間の価値観からも独立することではたされるのか。寅さんや漱石主人公は成熟できていないのか、それとも世間からの独立をめざしているのだろうか。社会で成熟しないものは、社会「から」の成熟をつぎにのぞんでいるのかもしれませんね。














愛と青春の旅だち 製作25周年記念 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]第1作 男はつらいよ HDリマスター版 [DVD]フィールド・オブ・ドリームス(復刻版)(初回限定生産) [DVD]いまを生きる [DVD]坊っちゃん (新潮文庫)

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02 01
2013

映画評

さいきん見た映画の備忘録 「ライフ・オブ・パイ」「ルーパー」「クラウド・アトラス」等

 さいきん見た映画を備忘録のために残しておきます。

B00B59RDH8ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日 映画パンフレット 監督:アン・リー 原作:ヤン・マーテル出演スラージ・シャルマ、イルファン・カーン、ジェラール・ドパルデュー
東宝

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襲われるトラと漂流した話というだけで楽しめますね。内容はひじょうに宗教的な部分もふくまれていて、ほかの生き物の命を奪って食べるという贖罪がテーマになっているのかもしれませんね。トラの名前は「チャーリー・パーカー」ですが、これはじっさいにあった漂流事故の食肉事件の被害者の名前だとか。



B005LAII8KLooper/ルーパー[英字幕のみ]


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ラストにすべての謎は解けたという状態になりますが、わたしには解けない疑問が残ったなあ。これは未来を守るより、過去をやりなおすという選択をおこなったことになりますかね。しかしオイディプスの物語が含まれているとはね。



B009Z9WOXIクラウド アトラス(トム・ハンクス、ハル・ベリー出演) [DVD]


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「マトリックス」の監督の新作ですね。輪廻の物語であり、いくつもの同時並行する物語のつながりがあるのかないのか、一回ではつかめなかったな。輪廻の因果はつながっているのか。



B002ZTEMKS見わたすかぎり人生 [DVD]
パオロ・ヴィルツィ
オンリー・ハーツ 2010-02-26

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これは意外に秀作のイタリア映画。就職難の哲学科卒業生と自己啓発的企業の物語。歌って踊る企業のうさんくささ、ウソをいって売ったり、成績が悪いとすぐにクビになる営業のつらさがにじみ出てきます。Gyao!で見ました。



B005KOK5XIダブルフェイス 秘めた女 [DVD]
マリナ・ドゥ・ヴァン
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2011-11-25

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ソフィ・マルソーめあてで見ましたが、とちゅうからソフィー・マルソーがすり替わって自我像が混線するあたり、なにがなんだかわからない迷宮世界でしたね。ワケがわかると鮮やかな世界でしたね。Gyao!で見ました。



B00A9OS96ETIME/タイム [DVD]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2013-02-06

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通貨の代わりに人生の時間が売り買いされるという設定はそれだけで秀逸で強烈な皮肉ですね。内容はいまいちぱっとしなかったかもしれませんが、この設定だけはスゴイ。



B0083RQHOA猿の惑星:創世記(ジェネシス) [DVD]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (FOXDP) 2012-07-18

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人生の初期に「猿の惑星」に強烈なくさびを打ち込まれたわたしとしては見ないわけにはいきません。だいぶ前に見たので忘れたw



B009NPC70Oプロメテウス [DVD]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2013-01-09

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「エイリアン」の原点だということですが、だいぶ前に見たのでこれも忘れたw



B00005MINZ時計じかけのオレンジ [DVD]
スタンリー・キューブリック
ワーナー・ホーム・ビデオ 2001-08-23

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名作としてタイトルはずっと知っていたのですが、はじめて見て凶悪な犯罪場面には不快感でいっぱいになりましたね。



B0078YI11Qステキな金縛り スタンダード・エディション [DVD]
東宝 2012-05-25

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落ち武者の幽霊が裁判に出たら楽しいだろうなという発想だけの映画でしょうね。まあ、そのプロセスを楽しめたらいいのでしょうね。



B008RW9Z2Wミッドナイト・イン・パリ [DVD]
角川書店 2012-11-16

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ウディ・アレンのパリの20年代にタイムスリップできたらという憧憬からできた映画でしょうね。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ガートルード・スタインなどが出てきます。でもいつの時代も過去の栄光の時代は郷愁されるものだという説教もありますね。

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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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