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02 07
2019

映画評

映画情報足りてます?――『恐怖と愛の映画102』 中野京子

恐怖と愛の映画102 (文春文庫)
中野 京子
文藝春秋



 驚くほど映画の情報が入ってこない。みなさんはTUTAYAなどのレンタル・チェーンで新作チェックができるのかもしれないが、私はレンタルショップを使わないし、一般雑誌もほぼ見ないし、TVもヒット作以外は流さなくなったのだろうか。

 私は二十代のころ、哲学とか社会学の本を読みたいがために映画鑑賞を控えてきたという事情もある。驚くほど名作を知らなかったり、動画配信で見る機会があったとしても選別の利き目をほぼもってない。

 ストーリーになっている映画やドラマのMVがえらく気に入って、それを探しているうちに痛感させられたのだが、そういうときはこういう本に名作としてまとめられたアーカイブが役にたつ。選別された映画の情報というのは、新作の情報の波にもまれて、どの映画を見たらいいかわからなくなったときの基準にも役にたつ。

 この本は3ページほどに一作を紹介した短いエッセイだが、要点や魅力をしっかりとつかまえていて、見たくなる映画の紹介としては優れていると思う。

 テーマごとにあつめられていて、「母について」「恋とは生きること」「別れることができるなら」「戦争の真実」「家をめぐる物語」などの項目であつめられている。あまりまとめたテーマ項目はひっかかりはないが。

 私はこの中で25作品くらいは見たのかな。名作といわれるもので見ていないものがあれば、もったいないと思う。

 後世にも語りつがれる映画を見ていないとしたら残念であるから、こういう本にまとめられて、選別された映画を参考にしてみるのもいいことでしょうね。

 なおこの文庫本は2009年に出ています。

淀川長治とおすぎの名作映画コレクション (講談社+α文庫)死ぬまでに観たい映画1001本 改訂新版お家で鑑賞できる 100人の映画通が選んだ本当に面白い映画。109 (スクリーン特編版)心が疲れたときに観る映画 「気分」に寄り添う映画ガイド (立東舎)みんなの映画100選


02 03
2019

映画評

名作という時代のタテ線――『女と男の名作シネマ』 立花 珠樹

女と男の名作シネマ
女と男の名作シネマ
posted with amazlet at 19.02.02
立花 珠樹
言視舎



 恋愛映画の名作と呼ばれるものをどれくらい、見たことがあるだろうか。

 私はSF映画好きで、恋愛映画はすこし軽んじているところがあって、かなりのところ欠落がある。映画は娯楽だから好きなものだけを見たらいいものだし、名作や古典とよばれるものを見ないでもなにも困ることはない。古い映画ならなおさら魅力を感じず、見たこともない。

 このような恋愛映画のガイド本を手にとることになったのは、ストーリーになっているミュージック・ビデオをいま漁っているからである。映画のストーリーを背景に感動的な音楽が流れていたら、その魅力は何倍にもなり、くりかえし見聞きしたい。自分の記憶では足りないので、こういうガイド本から探そうということになった。

 そういう映画のストーリーMVは、予告よりもっとその映画を見たくなるという逆流をもたらした。岩井俊二の『Love letter』は名前は知っていたが、そのエピソードのMVがあまりにも魅力的だったので、思わず映画を見た。『ラ・マン 愛人』はデュラスの原作を読んだかもしれないが、MVで内容を見て、じっさいに見たくなった。まだ見ぬ感動的な映画があるかもしれないと、ストーリーになっているMVを漁っているしだいだ。予告より、よほど魅惑的な効果を知った。

 学問の名著読みという方法は、かなり有意義である。教科書を読むより、名著読みしたほうがその学問の実質を知ることができる。名著をある程度読んでいたらその学問を語っていいという感じになるし、教科書ではまったく届かない深みを知れる。

 文学は、私は名作読みで進めた。名作といわれる基準があれば、羅針盤はかなりかんたんである。ただ経験知も熟年知もないうえで、世界文学に当たるのは、かなり無謀とはいえて、理解がおよばない累積になってしまう実感は残ったが。

 映画のばあいはそういう名作鑑賞という方法はあまり使わないのではないだろうか。娯楽は好き嫌いだけを羅針盤にしたらいいもので、堅苦しくて古い魅力のない名作なんてむりに見る必要もない。私はこの方法できたが、名作といわれるものの欠落がかなりあるようだし、映画情報があまり入ってこないこともあって、自分の情報欠落に唖然となる。

 名作鑑賞が義務や教養となれば、娯楽としてのやわらかさは終わりになってしまい、もうそれは学問とおなじように強制が嫌いな子どもたちの娯楽としては見向きもされない廃墟と化してゆく。強制と自発のバランスは繊細すぎて、娯楽のジャンルも強制や義務になれば、もう死んでしまう。学問や読書が死んでしまったのは、教育の強制によるものだと私は思うが、名作や古典に上げることは、そのジャンルの死ももたらすので注意が必要だ。教えることは、そのジャンルの自発性の死と同じ意味だ。

 映画というのは、音楽の流行とおなじようにかなり世代性と不可分である。ある世代はむかしの映画をまるで知らないし、年をとった世代は古い映画しかおぼえておらず、新しい映画をまるで知らないかもしれない。映画評論家の褒めたたえる映画がある時代を機に止まっていたり、あたらしい映画はすべて感動しないとかいってしまうかもしれない。映画ガイドは、ある程度はその世代性を薄めたり、交流させる役割をもつのではないだろうか。

 ふつうの人は最新映画しか情報が入ってこないという見方をしているかもしれない。名作や古典とよばれるものを遡ろうとする人はどのくらいいるのだろうか。読書は数百年前の古典とよばれるものが、いまだにひきつがれて読まれるジャンルである。映画では数十年、生まれる前まで遡られるなんて、まずはないのではないだろうか。技術の違いが、むかしの映画をまったく魅力のないものに見せたりね。映画は時代の技術や世代にかなり限定されるメディアかもしれない。

 映画の名作ガイドというのは、時代を遡ることである。前の世代が見てきた映画の評価を聞くことである。最新映画しか情報が入ってこないと、なかなか遡る機会を得ない。名作というのは、時代を遡ることであり、その中の普遍性を探す、もしくは触れることなのかもしれない。むかしの人の心情や琴線を見いだすことかもしれない。

 最新映画というヨコ線だけでは、時代性や時間というタテ線には触れることができない。時代性の厚みをもつためには、このような名作ガイドが助けになるのだろう。文学や学問の読書には、この時代性のタテ線が十分に発達している。


▼自転車で紙袋をかぶせるシーンがいいですね。MVから思わず映画を見たくなった『Love Letter』


▼ただのエロ映画と見るか、植民地差別の映画と見るか。『ラ・マン 愛人』



みんなの恋愛映画100選愛の真実と偽りをどうみわけるか―映画でみる精神分析 (講談社プラスアルファ文庫)恋愛映画小史トラウマ恋愛映画入門 (集英社文庫)


01 27
2019

映画評

選択の後悔の傑作――『ミスター・ノーバディ』

ミスター・ノーバディ [DVD]
角川書店 (2012-10-26)






 年をとると、人生の「あのとき、こうしていればよかった」とか、「あのとき、こういっていればよかった」という後悔の反芻が、はなはだ激しくなる。

 このジャコ・ヴァン・ドルマン監督の『ミスター・ノーバディ』はまさに、そのような過去の選択の後悔を、映像化したものであって、笑った。自分の果てしなくつづく、「もしあのとき、こう選択しておれば~」という頭の逡巡をみごとに見せられているようで、情けないにやにや笑いがしばらくは止まらなかった。

 難解でワケがわからないとかいわれる一方で、傑作だという評価が二分する映画のようで、私は人生で見た中で上位に食いこむ作品だと思った。ただし、二回目に見たときはちょっと冷めて見てしまって、ファースト・インプレッションが良好な映画な気がする。

 おそれることはない、映画の内容は恋愛映画である。「もしあの女性を選んでいたら、人生どうなっていただろう」という映画である。三人の女性のあいだを、老人の記憶の混濁によってゆれ動く、どれがほんとうで、どれがほんとうではないかわからなくなる映画である。

 以下は完全に鑑賞後の感想になりますので、まだ見てない人は読まないほうがいい考察になります。鑑賞後に出会いましょう。あるいはワケのわからない展開になるかもしれませんから、解釈を読んで備えて、見ることもよいかもしれませんね。

 Gyao!で無料で見られます。2019年の2月21日まで。https://gyao.yahoo.co.jp/player/00843/v10221/v1000000000000002051/


過去の選択の後悔

 人生は選択の連続である。ひとつの些細な選択が、その後の人生や世界を大きく変えてしまうかもしれない。少年だったら、その選択の重要性を判断したり、想像することもできなくて、とまどいつづける。老人になれば、過去の選択の後悔ばかりするようになり、果てしなく、ああでもない、こうでもない人生のもう選べなくなった後悔の壁に閉じこめられる。

 この映画では、老人になった主人公ニモの記憶は混濁しており、もうどの選択の人生がほんとうの人生だったのか、わからなくなっている。人生がどんづまりになれば、ほかの選択や人生に乗りかえて、もうほんとうにあった人生、現実におこった出来事がわからなくなるほど、混線している。

 老人の記憶の混濁という設定をつかって、見事に過去の選択の後悔を逡巡させ、映像化させている。ありえたかもしれない選択、もし違う人生を選んでいたならという後悔ややり直しを、見事に物語として成立させている。

 従来は、過去の選択の後悔というテーマは、タイムトラベル物語の過去に帰られるという設定をつかって、物語として成立してきた。この映画では、その後悔とやり直しを、老人の記憶の混濁という設定で、みごとにあらわしたわけである。

 だからタイムトラベルものでは、ひとつの選択がつくりだす世界は、ひとつの世界線として生み出され、それはパラレル・ワールド、並行世界として、もとあった世界から分岐していった。この映画の老人の記憶の混濁では、その世界線、パラレル・ワールドは、記憶の間違いとして、かんたんに行き来したり、乗りかえられたりする。私たちの頭にある過去の後悔に、よりいっそう近づけたことになる。

 この映画によって、タイムトラベルという道具立ては必要なくなった。頭の中ではありえた選択、おこなったかもしれない選択は、同時に並行して存在することができる。その世界を行き来したり、乗りかえたりすることもできる。つまり頭の中の選択の後悔に、つき返されたわけだ。

 「もしあのとき、こうしていれば~」という選択の後悔は、私たちの頭の出来事として、言い逃れのできない選択を迫られることになった。


未来への選択の難しさ

 この映画は、老人の選択の後悔の物語として語られるのだが、結末の種明かしでは、父と母の離婚の選択の狭間に苦悩した9歳の少年がつくりだした妄想の世界だったと、種明かしがされる。もっとも、老人の過去の後悔という読み方も開かれてよいものだと思うが。

 未来の選択に迷った少年が、選択の重みに悩み苦しんで、創り出した世界が、この映画の種明かしである。この映画のテーマはまさに「選択」である。

 ひとつの選択が、のちの人生や世界の出来事を大きく変えてしまうかもしれない。ものすごく不幸になる選択かも知れないし、悲劇にみちあふれる愚かな選択になってしまうかもしれないし、後悔にまみれる選択になってしまうかもしれない。

 要は、選択できない優柔不断な少年がつくりだした妄想の世界がこの映画だ。このいまの選択をどうするのか、この選択を選べば、その後の人生や世界はどう変わってしまうのか。選択の迷いの集大成、百科全書である。

 少年ニモの選択の迷いは、老人になって自分が死ぬまでの人生を総決算するほどとてつもなく大きなものになり、選択の重荷は無限大にひろがり、三人の女性の選択による人生の違いの吟味にまでひろがり、もうはちきれそうだ。

 少年ニモには全人生の選択の重荷がのしかかるが、いっぽうでは、バタフライ・エフェクトのような世界も提示される。蝶の羽ばたきが世界を変えるかもしれないし、風に吹き飛ばされた落ち葉の行方が、だれかの人生を大きく変えてしまうかもしれない。ニモの両親は、たった一枚の落ち葉の存在によって結ばれた関係である。

 人生は選択の連続ではなく、ただの偶然や小さな出来事のランダムな積み重ねだ。蝶や風が人生を変えてしまうかもしれないし、ほんのささいな偶然や出来事が世界を変えてしまうかもしれない。そういった世界もある。

 ラストにニモ少年が選ぶのは、父と母のどちらでもなく、ただ落ち葉を風に乗せるだけであり、偶然や出来事の積み重ねにゆだねた。選択や人生なんて、どう転ぶかわからない。

 人生の一大妄想をくりひろげて、選択の重荷に耐えかねたのだが、一枚の落ち葉に人生をたくすのである。人生は選択の集大成ではなく、蝶のはばたきのバタフライ・エフェクトだ。落ち葉の漂う先に人生をゆだねよう、ということだ。

 映画の冒頭では、鳥の実験で、鳥は選択をしたと思い込んでいるだけだとのべられる。この偶然とランダムが積み重なる世界で、私たちの選択は意味をなすのだろうか。


逆行世界

 私たちは不可逆の時間の世界に生きている。覆水盆に戻らず、流れる川はもとの水にあらず、である。過ぎ去ってしまった時間は、二度と帰ることができない。

 しかし人間の頭の後悔は数果てしなくくりかえされる。「あのときこうしていれば」、「あのときこういっていれば」という後悔が尽きることはない。そのためにせめて物語の上では、過去に帰れて後悔をやり直せるというタイムトラベル物語がつくられることになった。私たちは、果てしなく過去の選択を後悔する生き物である。

 ひとつの選択をおこなうことが、ひとつの後の世界をつくってしまう。たったひとつの選択が、その後の世界、人生を大きく変えてしまう。選択は、二度と変えられない世界を生み出してしまうということだ。選択は、時間でもある。

 選択は、分岐した時間世界をつくりだしてしまう。たったひとつの些細な選択が、大きな世界の変化を生み出してしまう。その時間は二度と戻らない。私たちはいくら後悔しても、二度と戻れない世界に閉じこめられている。

 この映画のラストで、ニモ老人が、「お前も私も存在していない」というのだが、時間の流れの中では、私たちは一瞬存在するが、次の瞬間には、もう過去の私たちは消え去っている。この連続のありようが、私たちのあり方であって、存在はあるようで、ないようなつかみがたいものである。少年の妄想の世界の中だからというセリフが後につづくのだが、老人のいくつもの選択した・選択しなかった人生も、存在していた・存在してなかったとはっきりと断言できるものだろうか。

 過去は過ぎてしまえば、もうどこにも存在しないし、未来もまだちっとも存在しない。この存在しているいまだって、あっという間に過去の奈落に消え去ってしまう。たとえ老人の回想であろうが、少年の妄想であろうが、存在しないものとしてはほぼ同等である。

 映画のラストは、宇宙の収縮による時間の逆行の理論が、現実におこる世界が描かれている。生き返ったニモ老人は、高らかに笑い飛ばす。時間の逆行とは、もう選択しないでよい世界、選択がなされた時間をたださかのぼるだけである。いっさい選択から手放されたニモ老人の解放感がわかるだろうか。老人には未来がどうなってしまうかわからない選択の迷いはいっさい不要になったのである。

 ただこの老人の逆行世界は、少年の妄想の中だけの世界だろうか。妄想から外れた現実の世界として、弾かれてしまう世界ではないだろうか。ニモ老人は実在したのだろうか。9才の少年の妄想だけでは回収できない世界の残余が残されているのではないだろうか。





 タイムトラベル物語やバタフライ・エフェクトのようなタイムSF物語には目を配っているつもりだったが、この『ミスター・ノーバティ』は不覚にも耳をはさんだことがなかった。不老世界の話と聞いてと、『トト・ザ・ヒーロ』の監督と聞いて見てみたが、とてつもない傑作だった。

 過去の後悔の果てしない自分には、人生の指折りなヒットである。まだ知らないこんな傑作にまた出会えるとは。


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12 16
2018

映画評

解釈は薄い労作――『フィクションの中の記憶喪失』 小田中 章浩



 そういえば、記憶喪失にまつわるドラマや映画が増えたなと気になっていた。『掟上今日子の備忘録』『一週間フレンズ』『50回目のファーストキス』『アイム・ホーム』『ラブリラン』『大恋愛』と、記憶にまつわる物語にあふれている。タイムリープ物語に変わる記憶ブームが来ているのかと思ったが、まあ、さかのぼれば『冬のソナタ』も『天国の階段』もあったし、記憶喪失ものはベタな「私とは何者なのか」というテーマには使いやすい道具なのかもしれない。

 ちょっとさかのぼれば、『トータル・リコール』もあったし、『野生の証明』もそうだし、『眠れる森』もあったし、『時をかける少女』もタイムリープに属するが、記憶がなくなる話である。『私の頭の中の消しゴム』や『きみに読む物語』『大恋愛』はアルツハイマーだが、愛した記憶が失われる記憶喪失の変奏ともいえる。

 マーク・ノーランズの『哲学の冒険』の『トータル・リコール』論を読んで、あらためて記憶を失うことの意味の「言語化」されたものを読みたくなった。『トータル・リコール』で問われたのは、「私」という永続化されたものは、時間の中にあるのかという問いだったのである。アリストテレスはそれはあるといったが、ヘラクレイトスは存続する自我などないといった。それで記憶喪失物語は厳密に言葉でいえば、どういう意味であり、なにが訴えられているのか、言語で明確化したくなった。

 それで見つけたのが、本書である。本書を読めば、おもに第一次大戦の戦争のトラウマ(シェル・ショック)が知られることにより、記憶喪失の物語が増えたことが知られるのだが、記憶喪失の物語はたいへんに長きにわたり、多くの作品がつくられてきたことがよくわかる。なにもさいきんになって、急に増えた物語ではないのだ。

 ベタベタにたくさんつくられてきた記憶喪失の物語だが、一冊の本にまとめた論考というのは、この本以外ほとんど見かけないのである。ぎゃくになぜ言語化されなかったのか不思議なくらいだ。ベタすぎて問われなかったのだろうか。いや、けっこう、記憶は私なのかという問いは、私たちのアイデンティティを決定づける根幹にかかわってくるものだと思うが。

 ただ本書はトーキーもふくむ20世紀の映画や小説などから記憶喪失物語を選りだした労作なのだが、それは膨大な労力を必要とした力業であったのはわかるが、なにぶん解釈や読解が少なく、期待が大きかった分、失望も感じざるを得ない著作であった。あらすじを並べただけの百科全書なら、雑誌からでも出せる。私は解釈や言語化こそを読みたかったのだが、この本では満足するものを得られず不満に終わった。記憶喪失物語のデータベース止まりである。

 どの記憶喪失物語が、時代を画したのかも強弱がはっきりせず、いったいどの作品をメルクマールとして覚えておけばいいのかも明瞭ではない。レベッカ・ウェストの『兵士の帰還』(1918)が近代を画する物語なのか。フレデリック・アイシャムの『三人の生霊』(1918)の大ヒットがエポックな作品なのか。作品にはもうフロイトの精神分析手法も用いられる。

 『独裁者』(1940)と『心の旅路』(1942)は時代を画した作品としてとりあげられる。スパイ小説やフィルム・ノワール、サイコスリラーの作品にも、記憶喪失は多くとりあげられる。

 現代では『トータル・リコール』や『ブレードランナー』の原作者であるフィリップ・K・ディックの意味が大きい。

 私はもっと解釈や言語化されたものを知りたいのである。なにを問われていたのか、なにを意味するのか。映画やドラマで情緒を揺さぶられるだけではなく、明晰に言語化されたものをつかみたい。いったいなにを問われているのか。

 いま問われている記憶のなくなる物語は、旧来から問われていたものと同じなのか、なにか変わったのか。記憶が失われる中で私とは何者かと問われるのか、あるいは恋人との思い出の位置づけなのか、ただ切ない気もちやナゾが解けてゆく解放感だけでは終わりたくない。言語化されたもので、その意味を知りたいのである。自分から進めればいいのだが、稚拙な羅列になってしまうので、踏み出せないな。

 本書の巻末には堂々たる15ページにわたる作品リストがあげられている。それほどまでに記憶喪失物語は多くつくられてきたということだ。こんなに記憶喪失物語はたくさんつくられているのに、解釈や言語化された本は、散らばっているためか、ほとんど見かけない。どうしてこんなに物語において問われてきたことが、言語化されてこなかったのでしょうね。なにを問われているのか。



時間ループ物語論時間SFの文法: 決定論/時間線の分岐/因果ループ哲学の冒険―「マトリックス」でデカルトが解る愛の真実と偽りをどうみわけるか―映画でみる精神分析 (講談社プラスアルファ文庫)トラウマ映画の心理学―映画にみる心の傷


12 10
2018

映画評

おすすめのSF映画解釈本――『哲学の冒険』 マーク・ローランズ

哲学の冒険―「マトリックス」でデカルトが解る
マーク・ローランズ
集英社インターナショナル


 だれもが見たことのあるようなSF映画で哲学で読み解く本である。

 みなさんはSF映画を見た後、言葉でテーマやメッセージを解そうとするだろうか。なんとなく感情が揺さぶられただけで言葉にするのがむずかしいと感じる人は、ぜひSF映画を言語化する魅力を味わせてくれるこの本を手にとることをおすすめします。

 この本ではシュワルツェネッガーがオートストリア生まれの大哲学者といわれているから、シュワちゃんなんかただの子供だましのドンパチだと思っている人は考えが改まるでしょう。子ども向けの童話だって、心理学者の手にかかれば深い哲学的言語をこめたものとして立ち上がってくる。物語というのは、こちらの読解力のレベルの鏡なのである。

 この本でいちばん心に響いた章は、シュワルツェネッガーの『トータル・リコール』と『シックス・デイ』を読みといた章である。著者のマーク・ローランズは、「記憶は私なのか」という哲学的な問いをふくんだ映画だとして読み解く。

 『トータル・リコール』は記憶を書き替えられる映画ですね。その書き替えられた記憶を消して、ほんとうの自分に戻ったと思ったら、それも書き替えられた自分なのだというドンデン返しが待っている。いったいほんとうの私はだれなのか、と問われているわけである。シュワちゃんはこの映画ではアリストテレス寄りに、自分には変わらない私がずっとつづいていると考えているのだが、ヘラクレイトスのように10年前の私は、いまの私と同一ではないという考えに傾いてゆく。

 つづく『シックス・デイ』では記憶がまったく同じクローンが自分とおきかえられるという映画をつくって、またその問いに向き合ったのである。記憶がまったく同じなら、それは私なのかと。シュワちゃんはしだいに、同じ私がいるわけではない、自我など存在しないというヘラクレイトス的な考えになってゆく。「今日の我々は、昨日の我々の「生き残り」、とても「よく似た生き残り」である」といった考えまでたどりつく。

 このテーマって、ドラマや映画でも恋愛物語に頻出している。『私の頭の中の消しゴム』、『きみに読む物語』、『エターナル・サンシャイン』、『一週間フレンズ』、『君と100回目の恋』、『掟上今日子の備忘録』、『50回目のファーストキス』、『大恋愛』もそうだ。記憶が失われれば、愛した関係も私も失われるのか。記憶が愛なのか。記憶が私たちの関係なのか。つまり記憶が愛という人は、自我の存続を信じるアリストテレス派なのだ。

 私は存続した自我などないというヘラクレイトス派だから、この記憶論の一連のドラマには違和感をもっている。それはひこうき雲に乗ろうとして、いつまでも機体に乗れないもがきに思える。記憶など、もうどこにも存在しないのだ。存在しないものにしがみつく関係なんて。そういう意味で過去の記憶をまったく共有しないふたりの恋愛関係を描いた『僕は明日、昨日のきみとデートする』は、「記憶=私」説をひとっ飛びに飛び越えた傑作だと思っている。

 『マトリックス』の解釈ではデカルトの「われ思うゆえにわれあり」のコギト論が解かれるのだが、私はこの映画は神秘思想にしか思えないのだけどね。この世界は人間の脳がつくった幻だ。ただ私は知覚の世界まで幻と言い切る知見をもっていないので、あくまでも私たちが捉える人間関係とか社会像といったものが幻にすぎないと、とどめるが。過去だって幻といってもいいと思う。ただ、人はそういった認識をすっ飛ばして、すぐに知覚まで幻なのかと問うてしまうから、ややこしくなってしまう。まずはこの社会像や過去が幻という認識論を俎上に乗せないと、ほんとうの意味で神秘思想の役割は解せないと思う。私たちが嘆いたり、苦しんだりする見解は存在しない、つかむことはできないということだ。

 ほかにもたくさん興味深いSF映画の哲学的読解が説かれるのだが、言語化されてはじめてこういう問題なのかと深く染み入ることができるおすすめしたい本です。言語化によってはじめてこういう問題なのか、もっと知りたいと思えるようになる。哲学というのは、言語化の上にはじめて立ち上がる疑問なのだということが、この本でよくわかる。

 『ブレードランナー』はもちろん死を問うた物語であることはだれでもわかると思うが、未来に向かう存在というハイデガー的言葉を告げられることによって、だから死が恐ろしくてつらいのだという解釈も与えられる。『フランケンシュタイン』では生を選べずに生まれてくる私たちがバケモノとして生まれたらどういう気持ちなのかという世界も教えてくれる。透明人間になる『インビジブル』ではカント的な道徳論が説かれていたとは、ちょっとそこまで頭をめぐらせなかった。

 言語化することの意味や魅力を教えてくれるおすすめの本ですね。そして、言語化した疑問や問いをすぐに忘れたりしないで、いつまでも抱えもって、考えて、また関連本を読むことによって、哲学的思索を磨くことが大切なのはいうまでもないことですね。



哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスンマトリックスの哲学哲学はランチのあとで -映画で学ぶやさしい哲学-ジブリアニメで哲学する 世界の見方が変わるヒント (PHP文庫)「本当の自分」をどうみつけるか―映画でみる精神分析 (講談社プラスアルファ文庫)


07 17
2017

映画評

この瞬間は永遠の別れ――『ぼくは明日、昨日のきみとデートする 』 七月 隆文

4800226104ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)
七月 隆文
宝島社 2014-08-06

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 映画が好きすぎてずっとこの物語空間にひたっていたくなるので、原作のほうもあじわうことにした。

 この物語のよさは、さいしょの出会いが、最後の別れであるという、いまこの瞬間が永久に帰ってこない、二度ともどらない貴重な瞬間を告げていることだからだと思う。

 この瞬間、この時間はいちど過ぎ去ってしまえば二度と戻らない。この瞬間は永久に去ってしまうのだが、人はその貴重さを忘れて、同じことのくりかえしや明日も同じことがずっとつづくと思っていたりする。きょうの出会いが永遠の別れだと思いもせずに、人は時間をまんぜんとすごす。

 この物語はパラレルワールドという設定をつかって、出会って親しくなってゆくいちばんうれしい瞬間を、彼女にとっては永遠の終わりになってゆくという悲しみを重ねたことに、消し去りがたい余韻をひきずってしまうのだと思う。

 それは自分が思っていた感情とまったく違っているものを相手や他者はもっているとかもしれないという驚きと距離を与えて、秘密を知ってからの彼女の心の動きをなんども確認したくなる感銘を与えるものになっている。

 タイム・パラドクスものは過去をひたすらやり直すことにこだわってきたのだが、この物語では時間を変えられないいまこの瞬間の大切さが説かれるターニング・ポイントとなる記念的作品になるのではないかと思う。

 原作のほうはセリフばっかりのラノベ文体で、地の文のすくなさが、映画の重みとくらべて軽すぎるように思えたのだが、地の文の多さが作品の深さと思い込むのは、わたしの偏見にしか過ぎなかったのだろうか。

 映画は克明におぼえているので、原作との違いもよく見えて、変えた場所やセリフを抜いたりしたことにどんな意味があったのか考えさせられた。

 映画では宝ヶ池で高寿が溺れたことになっていたのだが、原作では震災で愛美に助けられたことになっている。

 宝ヶ池で溺れて助けた設定のほうが、命のつながりを示唆する内容としては優れていると思う。おおむかしの人は泉や川に誕生前の命は宿っていると思われていて、だから現代でもその言い伝えが残っていて、たまに橋の下で拾われたとか親にいわれたりする。生命の誕生や再生には、かたちのないものに戻る水は、大切な象徴を担っている。

 映画ではさいしょの出会いに駅のホームで語り合うのだが、原作では宝ヶ池まで歩いてゆくことになっている。「また会える?」と聞いて、彼女は泣き、抱きつくことになっている。ほかにも原作のほうが、彼女の気持ちの深いところを表現しているね。

 宝ヶ池はパラレルワールドとの境界に位置し、その近くの施設に住人が暮らしていることになっている。

 デートの場所が、金閣や清水、銀閣寺にもいくことになっていて、映画では伏見稲荷になっているが、あの数多くの鳥居の並びが時間の象徴として適していたと監督のインタビューで聞いた。

 愛美のセリフが、小松菜奈の独特なイントネーションやクセにかぶって思い出されて、この女優は強烈な印象を残すんだなと。失うことがわかっているからこそ、愛しさは深まる。

 映画では、ラストに愛美がたどった日々をうつしだすのだが、原作ではさいしょの出会いにたどりついた場面だけである。映画でもこの愛美のたどった日々をもっと深く描いてほしいと思ったが、この秘密を知った上での彼女の心の動きがたまらなく愛しく切ないのである。

 映画から先に見て、映画で気に入ったから、原作の小説のほうは映画みたいに気に入ったわけではない。わたしのなかでは映画のほうが勝ちである。原作から先に読んだ方はどう思ったのでしょうか。

 映画が好きすぎて、余韻とこの物語空間に戻りたい気持ちがまだ沸いてきて、困ったものだ。


ぼくは明日、昨日のきみとデートする DVD通常版
東宝 (2017-06-21)
売り上げランキング: 520



07 12
2017

映画評

『ぼく明日』の京都ロケ地聖地巡礼にいってきました

 7回もくりかえし見てしまった『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』の京都聖地巡礼をしてきました。この空間から離れたくないという切なさをこの映画は残しますね。

 この映画は、男女のすれ違いがテーマだと思うのですが、さいしょの出会いが最後の別れという、二度と戻らないこの瞬間の大切さや切なさを描いているから、なんどもこの映画の空間に帰りたいのだと思います。

 タイムパラドックスものは、変えられない過去をどうやって変えるかということに四苦八苦してきましたが、この映画では過去の否定、この瞬間の大切さを説いたターニング・ポイントになる作品だと思います。

 ロケ地は公式ホームページにのっているのですが、ばくぜんと宝ヶ池と白川一本橋を見にゆきたいくらいでした。もっとちゃんと正確につめるべきだったと後悔は残りますが。


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物語の重要な舞台となる宝ヶ池。ふたりの命がつながった場所です。

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この東屋にたどりつきたいと。

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ロケ地マップにこの白川一本橋がのっているのですが、なんか渡った一本橋がすこし違うような。そう、柳はありませんでたし、この手前が夜のシーンに使われていました。

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白川一本橋はこのような雰囲気のところで、ふたりが渡った一本橋はここではありません。鳥居のある場所を見つけたかったな。

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きました。宝ヶ池は山あいのしずかな池で、ひっそりとたたずんだ雰囲気がします。向こうの東屋がロケ地ですね。

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タカトシが溺れてエミが助けた桟橋ですが、じっさいに見るとこんなに狭かったのと。

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池を一周ぐるりと回って、東屋にたどりつきました。瓦屋根だったんだと気づきました。

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ここだあ、という感慨がわきます。欄干ぎりぎりに撮ってこれで、映画のシーンはボートから撮られたのでしょうね。

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宝ヶ池のこの山が印象的に撮られていましたね。かつての日本人の信仰、人が死ぬと山に帰り、人は山から生まれてくるというディープな信仰を示唆したわけではないと思いますが。

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叡電の宝ヶ池です。ふたりがさいしょに出会って、ふたりが最期に別れた場所ですね。住宅街のひっそりした無人駅です。

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福士蒼汰と小松菜奈のサインがまだ残っていましたね。小松菜奈は人をバカにした薄ら笑いの印象しかなかったのですが、こんなに印象の違う顔を見せるのだと顔が定まりません。

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あ、さいしょの出会いの角を曲がったシーンだと思いましたが、叡電さん、雑草ぼうぼうです。


■わたしの映画感想です。
 かけがえのない今、この瞬間――『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』を読み解く

B06XG431HLぼくは明日、昨日のきみとデートする DVD豪華版
東宝 2017-06-21

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07 07
2017

映画評

かけがえのない今、この瞬間――『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』を読み解く



B06XDPFCTWぼくは明日、昨日のきみとデートする
DVD通常版

東宝 2017-06-21

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 奇しくも7月7日、七夕にこの映画の感想を書くことになったが、この物語は現代の七夕伝説といってよく、原作者の七月隆文は大阪の枚方出身なのに、交野市の七夕伝説と結びつけなかったのは惜しいと思う。テレビ放送にはぜひ七夕に放映を。

 この映画は二回見てはじめて一度見たことになるというくらい、彼女の秘密を知ってからの彼女の気持ちがわかるようになって、まるで違った様相を見せるようになる。切なさと彼女のつらさが倍増して、わかるようになる。ぜひ二度目を見てほしい。わたしはもう五度リピートしたが。

 この映画は、タイムパラドクス物語として、ターニングポイントとなる作品であると思う。

 これまでは恋人とは過去の思い出を共有することが恋人の証とされてきたが、この作品では、いま、この瞬間を大切にすることが説かれている。過去の思い出は共有できなくても、ただこの瞬間、最初で最後の瞬間を大切にする思いがこめられている。

 そういう意味でこの物語は、過去の思い出を大切にする考え方から、この瞬間、「一期一会」を大切にする思いがメッセージされている。

 まだ見ていない人にはぜひオススメしたいと思うし、感動を与えてくれたリスペクトとしてこの感想を捧げたいと思う。

 ネタバレするのでまだ見ていない人は読まないほうがいいでしょう。

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▲はじめての出会いのときに彼女は涙をこらえる


 この映画は最初はふつうの恋愛青春映画としてわりあいに順調にすすむのだが、ところどころにエミの言動に未来を見てきたような言葉があらわれたりして、不思議さを匂わす。

 ここから思い切りネタバレ全開になるが、彼女は時間を逆向きに生きるパラレル・ワールドの住人だったのである。彼女は未来に生まれ、未来から成長してゆき、タカトシが子どものころに彼女は三十代の年をとってゆく。

 彼女は、タカトシにとっての過去の思い出を共有しない。エミは未来を過去として覚えている。彼女は未来から逆向きに生きていて、タカトシにとっての明日を、エミは過去として経験している。

 そのためにタカトシにとってのはじめての出会いは、エミにとっては最後の別れの瞬間なのである。タカトシにとっての最初の手をつないだり、名前で呼び合ったり、一夜を過ごすことは、彼女にとっては、もう最後のじょじょに他人に変わってゆく、距離のおいた他人になってゆくことなのである。最初の出会いは、もう二度と会えない明日を意味する。

 タカトシにとってのこの上ない喜びであったはじめての経験は、彼女にとっては別れを意味する最後の瞬間なのである。彼女はその痛みをこらえつつ、はじめての経験に喜ぶタカトシに悟られないように自然にふるまおうとする。彼女の秘密を知って、はじめてわかるようになる彼女の痛みがとても切ない。

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▲最初の出会いは、彼女にとっては最後の別れの瞬間


 この物語は、この瞬間をおたがいにとっての最初の瞬間と最後の瞬間をぶつけることによって、この瞬間が二度とない一瞬でしかないことを思い知らせる。

 わたしたちは、過去の思い出を蓄積し、共有することこそが恋人の証であり、信認の情を深めてゆくことだと思っている。しかし、このふたりには過去の思い出の共有がない。だからこの瞬間を生きることしかふたりの時間を共有するものはない。

 精神世界の方面から、いま・ここを生きるという思想が語られるようになってきたのだが、この物語はそのエッセンスをつめた考えを呈示していることになる。

 わたしたちは、過去の思い出をとても大切にする生き方をしている。だけれど、過去は瞬間になくなってゆき、奈落の底に呑みこまれてゆくものではないのか。過去は永久にくりかえされることもなく、戻ることもない。

 わたしたちが大切にする過去というのは、もう存在しなくなった、どこにも存在しないただのスクリーンにしか過ぎないのではないか。わたしたちが大切にしているのは、マボロシや幽霊のようなものではないのか。

 わたしたちはいま、この瞬間を生きることしかできないし、過去をくりかえすことも、やりなおすこともできない。なぜ過去の思い出という存在しないマボロシを後生大事にするのだろうか。

 このいまという瞬間は最初で最後の、二度と味わえない極上の瞬間ではないのか。この物語にあるように、この瞬間は彼女にとっての最後の瞬間、永遠の別れの瞬間ではないのか。

 わたしたちは思い出や過去を大切にするあまり、この瞬間しか存在しない現在、時間というものをおろそかにしてはいないだろうか。それ以上に、過去はいったいどこに実在するというのだろう? わたしたちはまちがったものを大切に祭り上げてはいないだろうか。

 このかけがえのないいまという瞬間の大切さを、この物語は時間の逆行という設定によって、みごとに浮き彫りにしたと思う。

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▲彼にとってのふつうの時間が、彼女にとっては最初のかけがえのない瞬間


 この映画では、タカトシの最初の出会いの感激が事細かに描かれていたが、タカトシがじょじょに彼女を失ってゆくの悲しさは強く描かれていなかったと思うし、エミにとってはじめての感激や喜びの面も、強くは描かれなかった。

 タカトシの出会いの喜びと、エミの別れの悲しさがとくに強調されていた。ぎゃくにタカトシの別れ、エミの出会いの喜びは薄かった。

 エミはタカトシがそうであったように、はじめての出会いからじょじょに親密になってゆく瞬間をこの上なく喜んだはずである。そして、そのようなことを視聴者はあまり感づかないようになっていて、またタカトシや実際の人たちも、その感情というものをよくはわかっていないのかもしれない。

 わたしたちは他人の味わう気持ちや感情というものを、ほんとうのところは深くわかっていない。他人との深くて遠い気もちのミゾや距離を、この物語は味わわせてくれるからこそ、何度でも味わいたい魅力をもつのではないだろうか。

 わたしたちは他人の心をわかっていると思っていたりするのかもしれないが、永遠にわからない。自分が思っていたものとまったく違っている気持ちを、相手は味わっているかもしれないのである。

 この物語は深くて、遠い、わたしたちの心のミゾや距離も、見せてくれるのではないだろうか。出会いの喜びに満ちていたタカトシにとって、別れの悲しさを噛みしめていたエミの気持ちがまるでわかっていなかったように。

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▲最初に出会うことが彼女にとってはもう思い出とのお別れ


 ふたりはそれぞれの子どもの時期に、おたがいに大人になった相手に命を救われる。これは男女はおたがいの生を救い合うような関係であり、はしとはしをつなぎ合うひとつの命であるということである。

 男女はすれ違うかもしれない。永遠にわかりあえず、相手の気持ちもずっとわからないかもしれない。だけど、おたがいを救い合うひとつの命である。ふたりがそれぞれの子どもの時期に命を救い合うわけは、そういうメッセージが込められているのだろう。


 とてもいい映画、物語であったと思います。

 だれか大切な人と出会うとき、このふたりのタカトシとエミが最初で最後の瞬間を味わったことを思い出しながら、その人との瞬間を、二度とないこの瞬間を、生きたいと思わせますね。

 このふたりの切なさは、この瞬間しかないわたしたちの生を思い出せてくれるのかもしれませんね。

 思い出との訣別を胸にして、この最初で最後の瞬間をあまさず生きてゆきたいですね。


 ■『ぼく明日』の京都ロケ地聖地巡礼にいってきました


4800226104ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)
七月 隆文
宝島社 2014-08-06

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4800300185時間ループ物語論
浅羽 通明
洋泉社 2012-10-25

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12 25
2014

映画評

『LUCY/ルーシー』は神秘体験を映像化した映画です

 リュック・ベッソンの『RUCY/ルーシー』(2014)を見た。レビューを見てみると、これは神秘体験・悟りの映像化ということをみなさん知らないようだ。悟りや神秘体験がどのようなものか、あまりにも知られていないようだ。




LUCY/ルーシー (字幕版)
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 ルーシー(スカーレット・ヨハンソン)は新開発のドラッグによって10%しか使われていないとされる脳を100%目覚めさせる。そのことによって人を超能力のように操ったり、物を動かしたり、人の心・記憶を読んだり、しまいには時間を超越し、宇宙にまで飛んでいってしまう。

 『マトリックス』でもこの世はヴァーチャル・リアリティだと悟ると超人的な力を手に入れるわけだが、この映画では現実的な日常世界のそのような神秘体験を描いてみせたといえる。ハリウッド映画はSF映画の枠をこえて、すでに宗教が悟りといっていた世界観を描いているのである。つまりこれは宗教が悟りや神秘体験といったことがらを映像で見せた映画なのである。

 これを見た人のレビューではあまりにも神秘体験を知らないようなので、神秘体験がどのようなものか、むかし引用したことのある宗教書とかニューエイジ本とかの引用をここにふたたび載せておくことにする。

 怪しい、理解を絶する世界観である。オカルトであるw けれど仏教にせよ、悟りというのは大マジメにこのような解脱の段階をもとめていたのではないのか。むかしの宗教はそれを霊や神という概念で表現したのかもしれない。こんにちのニューエイジではそのような概念をつかわない理論を描きつつある。

 「あちら側」の世界である。わたしも言語や価値観の幻想といった次元では理解しているが、物質・物理界まで悟りは超越するのかと疑問である。物質・肉体を人間はこえることなんてできるのかといまでもわからない。霊魂とか幽体離脱のオカルトの世界である。

 とりあえず、一部の人たち、宗教者たちはこのような世界を語ってきたということで引用をおいておきます。たんなる妄想・オカルトなのか、真実の世界なのか、わたしには判断はできません。ただ一蹴する気もありません。判断の材料としておいておきます。




気がつくと、わたしは炎のような雲に包まれていた。一瞬、火事かと思った。どこか近くが大火事になっているのかと思ったのだ。ところが、つぎの瞬間、燃えているのは自分の内側であることに気づいた。その直後、えもいわれぬ知的な光明をともなった極度の高揚感、歓喜の絶頂がやってきた。そして、宇宙が死せる物質によって構成されているのではなく、一つの「生ける」存在であることを知った。単にそう考えたわけではない。わたしは自らの永遠の生命を自覚した。永遠に生きるという確信をもったのではなく、自分に永遠の生命があることを自覚したのだ。さらに、人類すべてが不死であることを知った。あらゆる物事が協力しあいながら、互いのためによかれと思って働いていること、あらゆる世界の根本原理が、いわゆる愛であること。そして、長期的に見れば、誰もが幸福になることは絶対に確実であること。宇宙の秩序とはそういうものであることを知ったのだ。――R.M.バック

4892031143無境界―自己成長のセラピー論
ケン・ウィルバー 吉福 伸逸
平河出版社 1986-06

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「この世界はわれわれ自身の心が作り出した虚妄の世界である」

「一切の現象は心のみであって、外界の対象は存在しない、そして、そのように思う心自体もまた、固有の相はなく、刹那ごとに生滅し、知覚できないと知るべきである」 

「一切の形あるものは本来、心にほかならないから、外界の物質的存在は真実には存在しない」

「一切の現象はみな心からおこるもの、すなわち心が妄りにはたらくことから生じるものである。もし、自分の心が自分の心を見ることをやめれば、そこにはいかなる相のとらえられるものとてないからである」

「心が動いて主観としてはたらくとき、真実には存在しないのに対象がそこにあらわれる。もし心が主観としてはたらくことができなければ、客観も存在しない」

「世間の一切の認識対象は、すべてこれ衆生の(根元的無知)にもとづく妄心のはたらきによって現象しているのである。それ故、一切の現象は、鏡の中に現れる影像と同じく何ら実体のあるものではなく、ただ心(が現し出している)だけで虚妄である。何となれば、心がはたらきをおこすと種々の現象が生じ、心がはたらきを止めれば、種々の現象もまた生滅するからである」

4003330811大乗起信論 (岩波文庫)
宇井 伯寿
岩波書店 1994-01-17

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 「いったん次のことを信じるのを自分に許せば――「許せば」という言葉に注意してください――次のこととは、あなたは肉体次元を超えて存在するということです」

 「肉体が殻やおおいのようなものだということに気づいていますか もしあなたに幻想の必要がなくなればあなたは肉体をもつ必要がなくなります」

 「わたしとあなたをへだてているいまこの時点での唯一の違いはあなたの五感がいま記録しつつあることをあなたが信じているということです あなたは五感の力を受け入れ、その制限を自分に課しています」

 「あなたの全意識はこの小さな肉体にはおさまりきらないのです あなたはどこかで赤ん坊が泣いているのをきいてそれが自分だとわかります そのように、゛自分″というものに同一化できるには何ヵ月も、いや何年もかかるのです」

bce6d0920ea054c7b70fd110_L__SL500_AA300__201412270846309b8.jpgエマヌエルの書
パット・ロドガスト ジュディス・スタントン
ヴォイス 1993-04

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 「あなたがたは無意識の深層レベルにおいて、並外れた慧眼、奇跡と見がまうほどの明瞭さ、そして肉体を成す個々の微細胞にそなわった意識されることのない深い叡智をもって、みずから知るところの肉体を自分自身で創造しているのです」

 「体の感覚器官は、自己の体験を物理的な知覚結果に変換するよう強制します」

 「物質的現実は、現実がまとうひとつの形態であると申しあげるほうが、おそらく意にかなっているでしょう」

 「環境はあなたが形づくるものであり、まさに文字通りあなたの延長であると言えます。つまり、あなたの意識から外に向けて拡張した、物質化した思考なのです」

 「「内なる自己」は、まさに文字通り思考や感情を、それらに対応する物質的複製へと魔法のごとく変容させて体を創り上げます。……あなたがたは原子や分子を使い、基本的構成要素を「自分自身であると称する形」に創り上げることで、自分の体を築いているのです」

 「眼鏡や補聴器が体にとって人工物であるように、内なる自己にとっての体の感覚器官は基本的に人工物なのです」

 「あなたがたは言葉を創造するのと同じほど確実に、物体を創造しているのです」

 「感情や気持ちを象徴的記号である言葉に置き換える時と同じくらい、そうと気づかず努力もなしに、みずからの肉体を形づくっていることに気づくのは、それほど容易ではないようです」

 「人類は己の息づかいと同じほど、意識することなく自動的に物質としての対象物を創り出しています」

 「すべての物質的な「現われ」を有しているものには、あなたがたには知覚できない別の形態も存在します。あなたがたには、それらが特定の「振動周波数」に達し、凝集結合のすえ物質化したと思われる、その瞬間の現実だけを知覚するのです」

 「現在あなたがたは、みずからの物質的肉体だけでなく、あなたがたが「時間」と解釈しているものの特定の振動周波数にも焦点を合せています。歴史のなかの現時代以外の諸時代も、いっせいに存在しています。……繰り返して申しあげますが、あなたがたは単にそれらの振動周波数に同調していないだけなのです」

 「基本的にあなたがたの知るところの「時間」は存在しません。そして、すべての被造物は同時に存在しています。……あなたがたの言う「過去」も「現在」も、地上における時代のすべてが存在しています。……あなたがたはただ、極めて限定された時空間座標の場に意識を絞り込んでおり、それらを現在の現実として受け入れ、他のすべての体系から己を閉ざすことを選んでいるだけなのです」

4931449034セスは語る―魂が永遠であるということ
ジェーン・ロバーツ ロバート・F・バッツ 紫上 はとる
ナチュラルスピリット 1999-06

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「神は単一の存在で、自分の手で天と地を創造し、それから人間という生物を創造したとあなたは教えられてきた。しかし、実はそれはあなただったのだ。朝の太陽も、夕刻の空も、あらゆるものの美を創造したのもあなただ」

 「あなたが生きているこの人生は、夢だ。大いなる夢、言わばうわべなのだ。それは、思考が物質と戯れている姿であり、夢見人であるあなた自身が目覚めるまで、あなたの感情をその中に拘束しておくための深遠なる現実をつくり出しているのである」

 「思考なしにはあなたの身体は存在せず、物質さえも存在することはない」「物質とは、思考を最も大きく変容させることによってつくり出される思考のレベルなのだ」

 「あなたが宿っている身体は、魂を運ぶ車であり、この物質界に生き、遊ぶことを可能にするために選ばれた、洗練された手段にすぎない。にもかかわらず、この手段でしかないものを通して、あなたは自分の本質が自分の身体だという幻影にどっぷりと漬ってきた」

 「あなたにとってこのレベルが存在しているというのは、あなたの肉体、つまり、あなたの化身にある感覚器官が、物質という、光の周波数の中で最も低いレベルを感知するようにつくられているからです」

 「限りない思考を使えば、化身や、すべての場所、すべての宇宙を超越できるのだともし知っていたら、あなたは二度と限定されることを選びはしないだろう」

 「すべてひとつである状態は、本当にわずか一瞬、ほんの一呼吸しか離れていないところにあるのです。自分の存在の内奥で、どんなものとも別の存在でありたくないと願うとき、あなたはもはやそうでなくなります。すべての思考から自分を分離してきたのは、あなたの価値観、限られた思考、そして変容をきたしてしまったアイデンティティなのです」

 「神が最も至高な形で表れたものとはいったい何だろうか。それは思考である。父なるもの、人間が自分の人生を創出する舞台、すべてのものの生命の力、そして生命物質とは、広い意味で言うと、思考である。思考こそが、過去、現在、未来を通じて存在するすべてのものの究極的な創造主だからだ。

 身体の分子構造、細胞組織を互いにつなげているのは、神の真の姿である壮大で崇高な思考だ。思考なしにはあなたの身体は存在せず、物質さえも存在することはない」

 「身体は、真の存在=自己を構成している、変動する光でできた最も複雑で高度な電気系統を宿すためにつくられた。あなたの本当の姿は身体の大きさがあるものではない。実は、ほんの小さな光の点なのだ!

 あなたが宿っている身体は、魂を運ぶ単なる車であり、この物質界に生き、遊ぶことを可能にするために選ばれた、洗練された手段にすぎない。にもかかわらず、この手段でしかないものを通して、あなたは自分の本質が自分の身体だという幻影にどっぷり浸ってきた」

 「 愛すべき主たちよ、在るものすべての美と輝きを、自分の思考過程を通して創造したのは、あなた自身なのだ。想念から光へ、光から電磁場へ、物質へ、そして形体へと、考えることで、感じることで、すべてを創造し存在させてきたのは、あなた自身なのだ。思考が光へと下りてきた存在であったあなたは、自分がなった光に思いをめぐらせ、自分自身であるその光を愛したのだ。そうすることによって、光をさらにもう一段下げて電磁場をつくり出した。神はあなたの思考過程を通じてこの電磁場になったのだ。その電磁場に思いをめぐらせたとき、あなたはそれをさらにもう一段下げて、物資体、あるいは「凝縮した思考」をつくった。

 皆が存在を初めてまず最初にしたことは、「思考から物質をつくる科学」を認識することだったのだ」

 「一般に信じられていることとは裏腹に、あなたの脳が思考をつくり出しているわけではない。脳は、意識の流れから思考がその内部に入ってくるのを許すだけなのだ」

4894560046ラムサ―真・聖なる預言
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角川春樹事務所 1996-06

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▼悟りを描いた映画。というか宗教化したSF映画。
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10 04
2014

映画評

『風立ちぬ』 自分の夢と危険なナショナリズム

 『風立ちぬ』を見た。見終わった感想としてはおもしろくなかったし、感動もなく、感想はないというしかないと思った。

 


 ただ疑問に感じるところがあった。昭和初期に軍用機をつくった主人公は、戦争反対の立場からすれば、殺戮と破壊の兵器をつくった「悪人」として断罪されてよいはずの人物である。しかしこの映画では悪役にもされず、断罪もされず、どちらかというと共感できる、好感をもてる「こちら側」の人物として描かれていることだ。

 「夢」を追うすばらしい共感できる人物として描かれている。最後のシーンに飛行機の残骸と婚約者の死が描かれるだけである。それまではずっと夢を追う、こんにちでは推奨される人物として共感されている。

 たった一シーンだけ貧しい子どもたちに食べ物をほどこして拒否されるシーンが描かれるだけである。かれは正義感の強い、人助けのする好青年なはずである。このシーンがはさまれた意味はなんだろうか。

 なぜ殺戮と破壊の兵器をつくった人物が断罪もされず、共感されているのか。

 青年が無垢に、純粋に夢を追ったことが戦争の道具として用いられ、ナショナリズムに奉仕することになり、ナショナリズムの惨劇をあじわっている。これを宮崎駿自身の人生とも重ねると、世界的評価をうけて、国民的映画監督として賞賛される宮崎駿におおいかぶされるナショナリズムとも近いともいえるのではないか。

 青年が夢中になって追った夢がナショナリズムの道具として用いられている。これではまるで戦争に奉仕した主人公、堀越二郎とおなじすがたではないのか。宮崎駿自身はインタビューでそういう意図で映画を描いたのではないといっている。ではなんのために描いたのか。宮崎自身がそういった姿をまだ相対化できていない、否定することができずに、投げ出したかたちであらわすしかなかったいまの姿をあらわしているのではないのか。

 自分の夢がナショナリズムであったのだ。戦争を反対する立場でありながら、自身の夢はナショナリズムを追うことだったのだ。そのつながりの区分けや否定をできていない。なにが悪で、なにが善だったのか、自分でも整理できていないのではないのか。

 この作品は昭和初期の『プロジェクトX』である。そしてそのプロジェクトXは戦争のナショナリズムに奉仕し、貢献することになった。戦後の昭和の経済プロジェクトはナショナリズムではなかったのか。戦争に貢献するようなナショナリズムとなにが違ったのか。戦後のわたしたちはその区分け、判別をできていない。自分たちの夢や貢献を否定できずにいる。戦争を導いたようなナショナリズムとは違うのだといった漠然とした思いを抱いている。

 「健康的」なナショナリズムがあり、「不健康」なナショナリズムがあるといった意見もある。しかしほんとうにそれを画然として分け、明確に線引きができるつながりのないものといえるのか。わたしたちの個人が描く夢自体がナショナリズムの正体そのものではないのか。

 わたしたちの夢や目標は正義であり、人はその夢に向かって励むことがこんにちの人生の理想であり、正常な人生と思われている。しかしその目標はナショナリズムに貢献し、他国を排撃し、他国を滅ぼすような価値観を最終的にもたらしてしまうナショナリズムそのものではないのか。

 しかしそういってしまえば、人はなんのために生きるのか、なにを理想にめざして生きるのかといった人生の無意味さにつき落とすことになる。ナショナリズムを否定すれば、人は人生に勝ちを求めることも否定され、偉くなること、賞賛されるような人物になることも否定されてしまうではないか。人生そのものの否定になってしまうのではないのか。

 老荘思想や仏教では、そのような人生の否定、欲望の滅却を肯定した人生観を語ってきた。それでも充足できる、あるいは安楽の境地があるといってきた。しかし世俗の人間がそういった価値観、人生観をうけいられるとはとうてい思えない。しかも欲望はこんにちの貨幣経済、資本主義の原動力である。おろかに欲望、夢に邁進することが貨幣経済の循環・流通には必要不可欠のことなのだ。

 こんにち、スポーツや経済、文化でのナショナリズムが否定されることはない。戦争へと結びつくナショナリズムは否定されるだけである。ではその違いはなんなのか。どこでどう区分けすることができるのか。夢を肯定して、危険なナショナリズムにならない線引きはどこで可能なのか。そういった問いかけをあまりにもおろそかにしすぎてきたのではないか。

 ふつうの人が人生に抱く夢、人生への希望、渇望が、人を殺戮や破壊へと導くナショナリズムとどう厳然と区分けできるのか。わたしたちがめざす人生の目標、夢自体にそういった殺戮と破壊の心根がそなわっているのではないのか。近代と資本主義の欲望、夢といったふつうに人に刻印された人生観こそ問われるものではないのか。

 トルストイは栄光と名誉にうめつくされた自分の人生を晩年に否定するようになった。その栄光や名誉をめざす人々の人生自体が数々の惨劇をもたらすのではないのか。宮崎駿はその手前で立ちすくんでいる。まあ、たいがいの人は凡庸で、無価値で、無意味な人生に耐えられないのはあたりまえのことなんだけど。


B00J2NUMVS風立ちぬ [DVD]
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社 2014-06-18

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 【テレビ放送を見ての追記】 2015/2/21

 けっきょく、主人公の堀越二郎の生き方は肯定されていたのか、否定されていたのかということがこの映画がわかるかわからないかの判断のキモになるのではないかと思う。

 主人公は少年からの夢を追いつづける人物として全体的、表面的に肯定的に描かれている。しかしところどころや外枠にこの青年にたいする批判的な面ものぞかせる。美しさをもとめる代償として犠牲になったもの、目にしなかったもの、かかわらなかったもの。菜穂子は美しさの代償として死期を早めたかもしれないし、主人公はエリートで庶民の貧しさや格差と無縁の世界に生きている。主人公のつくった飛行機によって戦場から帰還することのなかった戦闘員たちもおおぜいいる。

 宮崎駿はテレビのインタビューで「この国のおかしさは堀越二郎を描かないと出てこない」といっていた。基本的にこの物語は批判の背景に浮かんだ小春日和のような物語なのかもしれない。夢を追う少年は肯定的に描かれていた。しかしその背景、見えない多くの部分は、否定的・批判的なものに覆われている。

 この物語は前景の肯定を描きたかったのか、後景の否定を描きたかったのか、そのへんがはっきりしない。前景は夢を追う青年の肯定的な物語である。しかしその背景、後景は否定に染められている。

 わたしはやっぱり菜穂子の死が美しさを追い求めた代償であり、戦争へとつきすすんだ時代背景からも、この物語は肯定的に描かれたわけではないと考えられずにはいられない。


プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

 

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