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01 10
2005

国家と文明の優劣論

『歴史とはなにか』 岡田 英弘


4166601555歴史とはなにか
岡田 英弘
文藝春秋 2001-02

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 ショックをうけた。そしてこういう歴史が書かれる目的を探った本こそ必要だと思った。前にもこういう本を探したこともあったが、見つからなかったのだ。

 歴史を叙述する本ではなくて、歴史を哲学する本だ。

 歴史というのはだいたい権力の正当化を主張するために書かれたり、自国の劣等感を補償するために書かれたり、または優越感を保持するために読まれたりする。そういう大前提に盲目のまま歴史を読むのは愚かである。

 日本の歴史が中国や西洋のコンプレックスから書かれたのは衆知の事実だろう。現代人が歴史に求めるものもやはり劣等感の補償であったり、優越感のとりもどしであったり、日常からの解放であったりする。

 アイデンティティの危機が歴史を必要とするのである。自尊心がほしいのである。この自覚がない歴史はヒロイズムや英雄主義に堕する。

 歴史とは自己の正当化の物語である。自分は立派でありたい――そういう欲求が歴史を必要とするのである。これは神秘家グルジェフのいう自我の機能(頭の中のおしゃべり)とまったく同じである。自我は自己の無価値さを知っているからこそ、それを必要とするのである。

 私たちは歴史のこういう卑怯さや矮小さを自覚してからこそ、はじめて「よい歴史」というものが求められることになるのだろう。自虐史観に偏りすぎるのもよくないが、英雄史観に毒されすぎるのも恥ずかしい。歴史の無意識の目的を知ってこそ、「よい歴史」は書かれるのである。

 歴史学をつき放して捉えたこの本はたいへんにおすすめの本であるが、それにしてもなぜこのような歴史学の心理学、歴史学の知識社会学といったジャンルは少ないのだろう。

 人びとが戦国武将や古代天皇、時代劇などにもとめるものの心性をもっと抉り出してほしいものだが、おそらく無意識の願望が自覚されたときから歴史はつまらないものに堕してしまうからなんだろうと思う。自分のようなちっぽけな存在ばかりの歴史はだれも読みたいとは思わないだろう。

 歴史を語る前にはまずこういう自己の補償機能と歴史史実をきっぱり切り分ける作業が必要である。


01 24
2005

国家と文明の優劣論

『歴史学ってなんだ?』 小田中 直樹


4569632696歴史学ってなんだ?
小田中 直樹
PHP研究所 2004-01

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 思いだせば、歴史の教科書って断定されたものの言い方をしていたものである。あたかも絶対的な歴史が存在するかのように思いこまされたものだ。

 歴史にかぎらず学問というのは学者の間では「あーでもない」「こーでもない」と永遠に言い合っている井戸端会議みたいなものである。それが教科書になると、「絶対的な真実はこれだ」と決めつけられている。

 そんな真理がどこにも存在していないと一般の人が気づいたときに学問や読書のたのしみははじまるのである。たぶん一般の人はいまでも教科書で習ったように絶対的な真実は偉い学者が知っているのだと思いこんでいることだろう。だから学問や読書はおこなわれないのである。

 そういう思い込みを打ち壊すにはこの本は役に立つ。私もけっこう役に立った。

 「史実は明らかにできるか」と「歴史学は社会の役に立つか」というふたつのテーマで考察されているのだが、哲学や構造主義の領域にまでふみこんで人間は真理を知ることができるかという問題を考え、いくらか知っているはずの私でさえ、これはそういうことをいっていたのかと驚かされることしきりであった。

 問題の議論を歴史の流れから解き明かしてもらったから、流れを知らない私にはたいへん役に立ったのである。ばらばらにもやもやと知っているものが、ひとつの筋として、物語として整理させられた。そういう効用がこの本にはあった。

 歴史にかぎらず学問というのはどういうことが問題とされ、考えられてきたのかということをたえず、外側から問いつづけることが必要だと改めて思ったしだいである。

 でも私は歴史の真理性や有用性を考えるより、歴史をみずからの優越や権威のために必要とする現代人の心性を解いてみたいと思うのだが。


01 30
2005

国家と文明の優劣論

『ナショナリズム』 浅羽 通明


4480061738ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門
浅羽 通明
筑摩書房 2004-05

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 ナショナリズムについてはあまり触れたくないんだな。

 戦争責任とか天皇制とか右翼とかあまりにも恐ろしすぎる。またなんでそんな化石みたいな話に大騒ぎできるのか不思議だ。だから新聞ジャーナリズムって嫌いだし、みんなにそっぽを向かれるのだと思う。

 私はナショナリズムについてはポップ・カルチャーのなかのナショナリズム、サラリーマンや企業、経済のなかのナショナリズム、一般大衆のなかのナショナリズムといったものは考えたいと思うが、戦争にかかわる問題は現代に生きる者としてはあまり関わりたくない。あまりにも後ろ向きすぎる。

 ナショナリズムを素通りしてきた私としてはこの内容の多くつまった本の評価はできない。よくわからない。

 でもこの本は郷土愛や国土、本宮ひろ志、司馬遼太郎、会社のなかのナショナリズムを探っていて、こういう問題なら私も考えてみたいと思わせる内容のものだった。

 なぜ人はGNPや国のランクづけなどに自己の価値を賭けられるのか、なぜ人は日本国の勝ち負けを自分のことのように考えることができるのか、なぜ人は国家の偉業や誇りを我がことのように見なせるのか、そういったことを私は考えてみたいと思う。

 またなぜ人はそのようなものを必要とするのだろうか。弱さや恐れ、存在価値のなさなどを埋めるためにそれはもとめられるのではないのだろうか。心理学からもナショナリズムは考えられているのだろうか。

 私は普通の人たちがもつ、あるいは大衆文化がもつ国家の優越心はなぜ必要とされるのか考えたい。


02 08
2005

国家と文明の優劣論

なぜ歴史に偉大さを探すのだろうか


 古代史の本を何冊か読んでいて気づいたのだが、王国のような強大な権力を探したり、大和より以前に大和を支配した権力者を探したりする自分の無自覚な傾向に気がついた。

 だいたい人が歴史にもとめるものは天下人や戦国武将の活躍であったり、明治維新の志士たちの動き方であったり、古くなれば強大な勢力を誇ったローマ帝国であったり、哲学者の文化を築いたギリシャ文明であったり、科学の進んだ超古代文明であったりする。

 もとめられる歴史というのは、自分たちの価値観やものさしなのである。偉大なものや強大なもの、優れているもの、勝っているもの、進んでいるものなどを歴史に見いだそうとするのである。

 歴史にもとめるものはじぶんの憧れや願望のようである。そしてたぶんそれは無自覚である。ふだんは権力や権勢をもとめたいとは思っていない私でも、歴史にはそれらを求めてしまうのである。自分の無自覚な権力志向を見せられた気がする。

 人が力あるものや強大なものをもとめてしまうのはやはりそこに生命の安定があるからだろう。しかし現代人には野放しの権力志向は抑制されているだろうし、権力崇拝や国家崇拝は禁止されているはずである。それでも歴史にもとめているものは権力ではないのだろうか。

 願望である。権力や強大なものに安全や安定をもとめる。そこには現在の自分に欠けている安心や全能感、優越心があるように感じられる。われわれは自分という個人にはまったく関係がないが、権力や強大なもの、強い国家や進んだ文明などを知識の所有によって安心しようとする。そしてそこに満足をもとめようとする。

 歴史をもとめる気もちには自分の権力志向の願望がある。そして現代では国家崇拝や権力志向は禁止されているはずである。だから歴史にはその願望があふれ出すことになる。権力や強大なものを歴史に見い出そうとする願望に歴史は彩られることになる。

 人間の権力志向の危険なところは、空想や観念が際限ないことである。国家や文明という名の下に人間が蹂躙されるようになる。空想による心の安定は危険なものをふくんでいるのである。

 歴史や物語にもとめられる権力願望というものをわれわれはどう遇したらいいのだろうか。心の中の価値観や願望自身を問われるべきではないだろうか。


02 12
2005

国家と文明の優劣論

『ナショナリズムの克服』 姜 尚中 森巣 博


4087201678ナショナリズムの克服
姜 尚中 森巣 博
集英社 2002-11

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 なぜ自国や自文化は優れたものでなければならないのだろう? なぜ自国を自慢しなければならないのだろう? 自分となんのつながりがあり、なんの関係があるというのだろう?

 自国を誇ったりすることは恥ずかしいことだと私は思う。まるで親バカのようにひとりよがりで視野狭窄におちいっている。自慢話は客観性や中立性が失われるから、したくない。

 そう思う私でも日本の経済大国神話や日本文化が優れているといわれれば、胸をくすぐられている気分になる。できればこういう無意識を問い直し、偏りをなくしたいと思っている。自慢に溺れる人はあわれなのである。

 戦争責任のかかわりではあまり考えたくない。大衆文化やポップカルチャーで育ってきた私には北朝鮮を見るような断絶があるし、自分の問題として考えることは不可能だ。現在を生きる者としてはあまりにもムダだ。私は大衆文化のナショナリズムをこそ問い直したいのである。

 90年代からネオ・ナショナリズムといったものが勃興しはじめたが、湾岸戦争や9.11事件、イラク問題、北朝鮮問題などがその背景にあるのだろう。ナショナリズムは劣等感が芽生えると生まれるらしい。

 私は自国を自慢にする偏った見方を排除したいと思うし、できれば国民や国家でくくられるようなアイデンティティはもちたくない。映画やポップカルチャーは国境など関係なく浸透しあっているし、国家という単位でなんか制限されたくない。

 ナショナリズムといえば、左翼とか右翼とかコワいタームが噴出しまくりだが、優越とか劣等の感情論をのりこえて、自国や自文化を自慢にしなければならない心性を分析したいと思う。

 この本はナショナリズムにはどういう問題が含まれているのかと概括できた、ぼちぼち参考になった対談集である。


02 20
2005

国家と文明の優劣論

『日本文化論の系譜』 大久保 喬樹


4121016963日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで
大久保 喬樹
中央公論新社 2003-05

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 日本を賛美したり称賛したりする言説はひじょうにこころよい。だけどそんなものに依存してはならない。日本というものの「実体」は境界を探しても歴史を探してもどこにも線を引けるものではないし、優越や競争、果ては戦争といった愚かな泥沼におちいることになってしまう。

 日本の軍国主義を反省するのなら、われわれがこんにちもつ国家の優越を求める心性にこそおぞましさを見いださなければならない。こんにちでもまったく払拭されていないことをあちらこちらに見るだろう。

 日本文化を語った名著とよばれるものはナショナリズムにいろどられているものである。西欧に負けない優越した日本文化があるというわけである。この劣等感の補償としての優越心こそ問われなければならないのではないだろうか。

 この本でとりあげられている18冊の本も「西欧/日本」の「優越/劣等」という構図で捉えるべきではないだろうか。風土や民族、文化、歴史のなかに日本の優越や称賛をみいだそうとする涙ぐましい、あるいは恥ずかしい構図が見てとれることだろう。

 科学とよばれる客観・中立な学説であっても、恥ずかしいくらいこの劣等感の補償という構図が埋めこまれていることに注意しなければならない。人びとに読まれた日本文化論の名著はそれゆえに人びとに大々的にうけいれられたのである。

 この本でとりあげられているのは志賀重昂『日本風景論』、新渡戸稲造『武士道』、柳田国男『遠野物語』、西田幾多郎『善の研究』、九鬼周造『「いき」の構造』、川端康成『美しい日本の私』、坂口安吾『日本文化私観』などである。

 人生と本のダイジェストであり、人生も本の内容もたいへん読ませるものになっている。著名人がどのような人生を送ってきたのか、内容はどのようなものか、感嘆しきりである。とくに出自ゆえに遊郭におぼれた九鬼周造のドラマには読ませるものがある。ひさしぶりに新書らしい新書を読んだ。

 これらの文化論の名著は西欧の真似をすればするほど独自性やアイデンティティが失われ、大昔の日本文化に帰っていかなければならなかった日本人の悲哀を見ることができる。

 若者と老人の対比みたいである。若者は西欧のカッコよさに憧れ、老人は日本古来のダサい哀しみのなかに帰ってゆくしかない。日本の独自性や優越はそこにしかないのである。しかもそれもさかのぼれば遡るほど圧倒的な朝鮮や中国の影響にしか出会えないのである。

 われわれのなかにある優越と劣等の構図こそ消却されなければならない根本ではないだろうか。たとえば個人のなかでは劣等感の解消はどのような方法がいちばんいいのだろうか。

 優越感をとりもどそうとすれば劣等感は強化されるだけだから、対立を無化しなければならないのではないだろうか。心の問題は心がつくりだすものだから心を消す必要があるわけだ。それこそ日本古来の禅や仏教に学べというものだ。


02 26
2005

国家と文明の優劣論

『韓国人の日本偽史』 野平 俊水


4094027165韓国人の日本偽史―日本人はビックリ!
野平 俊水
小学館 2002-04

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 どうでもいいや。韓国人が勝ったとか、日本人が負けたとか。

 事実だけを教えてほしいのである。しかしこの本のなかの韓国側の主張と著者がどういおうとしているのか私にはよく読みとれない部分も多くあった。

 歴史に事実なんかないのだろう。歴史には政治しかないのかもしれない。

 優越とか劣等とか、自尊心とか蔑視とかそういう目で歴史を見たくなんかない。もしそんな階列があったとしても事実どおりうけとりたいと思う。しかしそんなことを許さない人がいて、どっちが偉いだの、どっちが大きいだの、どっちが古いだの、などという比較優劣で歴史を見ようとしたり、都合のいい歴史をひっぱりだしてきたりして、歴史は自尊心と劣等感のあさましい争いの場になる。

 なんで人は民族や国家の優越心や劣等感を自分のことのように思うことができるのだろう。そんなものが私の持ち物でないのは明らかであるし、私の金で買えるわけがないし、こんなものに自己の自尊心や劣等感を賭すのは自己の範囲を拡げすぎである。せいぜいバックや車や銀行通帳までにしてほしいものである。

 国家に自己の自尊心や劣等感を賭す人があまりにも多くいすぎなのである。自分にはなにもないから国家みたいな大きなものに同一化して自分の価値を大きくしようとする。これは自分の自我を安定させるには役に立つのだろうけど、ことがらがあまりにも大きすぎるので制御できないことや不満や紛争が噴出しまくるので自我の範囲は狭くしたほうが得策である。ストア哲学や仏教みたいに外部はコントロールできないから自分にできるのは心やものの見方だけであると考えたほうが賢明というものである。

 韓国は隣国だからこそ、たいして変わりはしないからこそ、優劣は過剰なまでに競われる。歴史は偽史や捏造という言葉で揶揄される関係になる。事実なんか見い出そうとするのは不可能に思えてくる。あるのは優越と劣等を見い出そうとする歴史であり、政治としての歴史だけである。

 そもそも歴史というのは優越や自尊心を得るための存在なのだろうか。歴史が記憶される原動力はそれだけなのかもしれない。なぜ人は自分の記憶にない歴史を知らなければならないのだろう。大きく、偉く、古いものであるという自分にはない崇高なものを自分のものにしたいからではないのか。大きなものになろうとしたら、差別や蔑視を生むだけである。人間としてはあまり偉い道ではない。

 歴史を描く人にはまずはみずからの劣等感からうみだされる権勢主義というものを削ぎとった上で、事実としての歴史を究明してもらいたいものである。とうぜん私たち自身にも自分の優越感への願望という問題がつきつけられるわけだが。

 さて人間に事実としての歴史なんか描けるのだろうか。


03 10
2005

国家と文明の優劣論

『民族と国家』 松本 健一


4569620272民族と国家―グローバル時代を見据えて
松本 健一
PHP研究所 2002-05

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 イデオロギー対立の時代にはナショナリズムの問題は影を潜めていたが、こんにちその情念が噴出しだした。そのような時代の変容を知るには、多くの例や歴史が語られているカタログ的なこの本は、なかなかよかった。

 近代的なナショナリズムがはじまったのはフランス革命からだった。貴族しか軍隊のいない国に比して国民全体が軍隊になれば、その国はめっぽう強いことになる。だから国民には自由や平等や参政権や人権が与えられることになった。ナショナリズムはそれゆえに強化されたのである。

 西欧列強の植民地支配や帝国主義はそのパワーゲームのドミノ倒しだったのだろう。それが戦争による凄惨な結果をもたらしたあげく、東西イデオロギー対立が終焉すると、西欧に勝手に線引きされた各国からナショナリズムやパイトリオティズム(郷土愛)が勃興することになる。

 民族や国家とはなにか、ナショナリズムやパトリオティズムとはいったいなにか、人はどのような共同体意識や記憶をもてば安定するのか、といったことがらがいままさに問われなければならなくなっているわけである。

 私としては他国と競合したり、戦争しなければならなくなるナショナリズムやパトリオティズムはなくすことはできないかといったことなら考えたいと思うのだが、国家や国際情勢についてはあまりにも勉強不足だ。国家意識が希薄な私がナショナリズムについて問うのもむずかしい。

 私がこの本を読んだのは、なぜ人間は国家や民族に優越や偉大さを求めるのか、という問いからだった。人間はふつう身体や家や家族ていどを自分の「範囲」だと見なしているものだが、国家や民族にまで範囲を拡げ、そこに過剰な優劣感情や執着を見せることがある。

 「それはあなた自身のことではないではないか」といいたくなるのだが、人は国家のような強大なものに同一化する。そういう補償機能の意味を問うてみたいとおもったのである。

 民族や共同体や国家を自分と見なすことはひとつの病理現象ではないのか。観念や想像力による病ではないのか。大きな集団に権力を求める心性というものから、われわれは離れることができるのか。

 小さな個人の存在でありながら安定をもつことがわれわれにはできないのだろうか。そういう問いが世の中の安寧をもたらすと私は思うのだが。


03 12
2005

国家と文明の優劣論

『攘夷の韓国・開国の日本』 呉 善花


4167633019攘夷の韓国・開国の日本
呉 善花
文藝春秋 1999-09

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 金達寿の『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫)を読んでいらい、日本は韓国人がつくったという説の疑惑をずっとひきずっている。まるで日本の始まりがからっぽになった感じがする。

 この本は韓国生まれの日本在住の著者がみずからのルーツやさすらいのアイデンティティをたどりつつ、韓国人が日本をつくったという説の検証をおこなってゆく。

 日本は韓国より先に先進国家になったから、韓国では古代日本は韓国がつくったという俗説が優位主義をくすぐるものとしてふつうに受け入れられているらしい。それはアメリカとインディアン、オートスラリアとアボリジニのような差別図柄なわけである。先進国家のお手柄はわれわれが与えたのだという劣等感の補償である。歴史にはそういう政治力学があたりまえのように働く。

 著者は飛鳥や北九州、出雲などの古代史跡をたどりながら、みずからの履歴を重ねつつ、渡来人がどのように日本に定着していったのかを探る。古代史は在日韓国人としてのアイデンティティの安定として働くのである。彼女は中立的な立場をとろうとするが、ホンネとしては先進構図に喜びを感じているようである。

 ともあれ、この本を読んで私は朝鮮人が日本をつくったなどとの説にそうこだわる必要はないと思えてきた。げんざいの在日二世、三世でも、ほとんど日本に同化しているものである。ましてや古代の何世代もへた渡来人に何国人かと別ける必要もあまりない。またとくに海洋民族などは陸地による国境別けなど意味のなさないものだから、現代の国境意識からも当時を見ても仕方がないというものだろう。

 朝鮮からの渡来人は多く来て、先進文化をもたらしたが、現代の先進・後進国家のナショナリズムでこの時代を判断することはできない。たしかに多くの渡来人が来たのだが、朝鮮人が日本を支配したと考えるのも、あまりにも現代のナショナリズムで古代を見すぎである。

 そういう優劣感情でしか歴史を判断できない、語れないという自分の心持ちに、哀れさやみじめさを感じるのである。私はなぜ国家の優越を心の安定として必要とするのだろうか。私は国家と一心同体の存在ではないし、国家とは別の存在である。国家との同一化という呪縛からぜひとも解き放たれたいものである。

 さて日本は支配した地域の神を排除しようとせず、支配者の神より高く祭られることが多くおこなわれてきた。出雲や大和でもそうだった。こういう構造から日本の支配の方法が見えてくるのではないだろうか。それは海から神がくるという信仰や、海外から先進文化をとりいれる素早さ、八万よろずの神のような宗教的寛容さへつながってゆくのではないだろうか。

 なお、この本は第五回山本七平賞を受賞している。


03 12
2005

国家と文明の優劣論

私の貢献は何もないのに日本の栄光に同一化できる私


 この世の中で私が私と思っているものに同一化できるものはたいへん少ない。私の働く会社や家族や地域にわずかながらの「私」のつながりを感じる程度だ。ほかのたいていのものは「私」ではないし、私とつながりすらない。

 私は世界から隔絶され、孤立しているのではないかとおもうくらいだ。私のものといえるものは家の中にあるわずかなものだけで、この世の中にはほとんどない。

 人が私の範囲とよべるものはこのように狭いものだといえるのに、「日本国」や「日本文化」、「日本人の歴史」となったりすると、たちまちそれは「私」のものになりえる。私の範囲は孤立した状態からいっきょに巨大なものになるのである。

 身近な街を見渡してみたら、「私」とよべるものはほとんどなかったはずである。世間は同一化できないものがほとんどである。

 私はソニーの社員でもないからソニーが私であるとはいえないし、たとえば日産の車をもっていたとしても私は日産の社員であるとはいえない。でも「日本国」や「日本文化」となるとそれが許されるのだ。国家はどこかの会社員のように排他的な顔をしていない。

 私は日本のGNPが上るとうれしいと思うが、私は私が勤める小さな会社の従業員のみである。ソニーや日産のように大企業の社員でもないのに、日本国の経済繁栄をわがことのように思う。ソニーや日産の利益が上ったからといって、社員でも株主でもない私に喜ぶいわれはない。それよりもっと大きな日本規模になると「私」の喜びになるのである。

 私がソニーや日産の製品を買うと、それらの会社は「私」のことのように思うことができる。私たちは買うことによって、企業の威信や権威を身にまとうことができる。ブランド品を買うことによって私の価値が上ったように思う。

 私は日本国を買ったわけではない。税金を払っている。そのわずかな金額を出資しているから私は「日本国」に同一化できるのだろうか。より大きな出資をしている人はより「日本国」である資格があるのだろうか。

 私は日本文化にほとんど貢献したことはない。信長や秀吉みたいに歴史の舞台を駈けめぐったこともない。それでも海外で日本文化が評価されると自慢に思うし、歴史の英雄を理想化して同一化することもできる。

 私は地域の短歌や和歌をやるカルチャーセンターに通ったこともないのだが、そこの評価が高いからといって自分の鼻が高くなると思うことはない。日本文化となると、私のかかわりや貢献はかぎりなくゼロである。それでも評価される日本文化は私の自慢である。カルチャーセンターの業績を横どりしているかのようである。

 私はライブドアの社長やドンキホーテの社長となんの関係もない。地域の政治家ともいっさいかかわりがない。まったく赤の他人である。現代の偉い人たちとの関係がそうであるのに、歴史上の人物となるとなぜかわがことのように親近感が抱ける。愛着を抱くほど「私」のように感じることができる。

 同じような例として、自分の出身校だけが母校である。ほかの学校を卒業したことにすれば詐称罪に問われる。卒業していないのに、同じ地域という理由だけで応援されるのが高校野球である。「私」とはそこに住む範囲まで含まれるのか。「私」とは身体のみではなく、土地まで「私」なのだろうか。大家や家主のものではないのか。

 私はどこかのスポーツ・チームに属したこともないし、優秀な成績も収めたこともない。近所のスポーツクラブが勝利したからといって、私はうれしくもならないし、自慢にもならない。それを横取りして自分の手柄のように誇れば、そのスポーツクラブにひんしゅくを買うだろう。それがプロ野球やオリンピックになれば許されるばかりか、おおいに推奨される。私に何の関係があるのだろう?

 「私」の範囲とはおかしなものである。近くのものや同時代なものは私とまったく関わりのない隔絶された他人事であるはずなのに、「日本国」や「日本文化」、「日本歴史」となると「私」のことのようになる。

 ものすごい違和感を感じる。会員制のクラブが大きくなるごとに会員制でなくなって、だれでも入れるようになってゆくのである。できれば、私はこのおかしな感覚を大切にして、大きなものを「私」と見なす錯覚には警戒したいと思う。


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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