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11 17
2012

書評 歴史

江戸三十景―『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』 田中 優子

4098250845江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか? 落語でひもとくニッポンのしきたり (小学館101新書)
田中 優子
小学館 2010-06-01

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 タイトルは「宵越しの銭」となっているが、これは一章だけのテーマでほかは江戸の生活や文化、習慣などがとりあげられている。そのままタイトルにするとおカタくなってしまうので、ワン・テーマだけに絞ったタイトルを出すのが流行りなのだろうか。

 落語から江戸の話をひろげているのだが、落語は枕にしかすぎず、落語を知らない人でもほとんど支障はない。

 江戸っ子の宵越しの銭はもたないというのは幕末に出現した美意識らしい。落語で財布を落として返されてもつっぱねる話があるのだが、江戸っ子は腕がたしかで人間関係をきっちりしていたら仕事には困ることはなかった。他人のためにお金をつかったらめぐりめぐって自分に帰ってくる。宵越しの銭はもたないは自分のために贅沢するという意味ではなかったのである。

 江戸には「棒手(ぼて)振り」という天秤棒に多用な品物をかついだ売り子が家の近くまで売りにくることが多くあった。仕事に困ればとりあえずはじめられるので、お金に困ることはなかった。現代の人はスーパーやコンビニに買いにいくようになったのだが、ネットショップで品物が客先まで送り届けられる逆流がおこるのだろうか。

 江戸時代の人はお金のためにではなくて、世間のために働き、あるいは人と仕事をシェアしたという。自分の私財・私欲のためだけでなく、世間の助け合いという目的のために働けば、人のつながりというセーフティネットに助けられたかもしれない。

 江戸時代の結婚は生きるためにいっしょに暮らしたのであり、恋愛だけで結婚することは「浮気な結婚」といわれた。さもないと生きてゆけなかったのである。現代の恋愛結婚は経済成長時代のひとつの僥倖だったのだろう。

 修理の仕事もたくさんあって、なべや釜の穴をふさぐためにふいごで火をおこして金属をとかして穴をふさぐ商売も町にやってきていた。茶碗を継ぐ仕事もあり、提灯や傘もひきとって紙をはりかえて竹をつけかえた。循環リサイクル社会なのであって、そういう商売は昭和まであったはずである。「もったいない」文化というのは祖母の代まではあった。わらは雨具の蓑やわらじ、雪靴、家の屋根となんでも再利用された。

 江戸時代は水路がたくさんつくられ、米や味噌、泥棒までも船が移動して、河岸は活気に満ち、河岸にいきさえすれば仕事があった。河川に文化と活気があった時代って風流ですね。

 京都は教養主義で、高度な中国文化を好み、ヨーロッパ文化を下に見る傾向があった。たいして江戸はヨーロッパの文物、望遠鏡、眼鏡、蘭学でもうけいれた。高級文化と大衆文化はこのような構造になっていたのであり、ある意味、こんにちの新聞・教養文化とオタク文化のような対比かもしれない。けっきょくは低くて幼稚なものがのちの世を席巻し、高級なものは廃れてゆくのだ。

 江戸は明治以降の日本とまったく違った社会だったのか、それとも似たよう社会だったのか。憧れや幻想で脚色されたり、または近代化によって暗黒の時代とされることもある時代であるが、土台や基底部分はおなじものであったと考えるほうが実情に近いのではないかと思うのである。江戸の文化を研究する人ってやっぱり憧れや好みがあるのでしょうね。


江戸の想像力―18世紀のメディアと表徴 (ちくま学芸文庫)春画のからくり (ちくま文庫)江戸百夢 近世図像学の楽しみ (ちくま文庫)江戸を歩く (集英社新書ヴィジュアル版)カムイ伝講義

05 15
2012

書評 歴史

清貧の思想が知識社会のすがたなのか―『素朴と無垢の精神史』 ピーター・ミルワード

06149179.jpg素朴と無垢の精神史―ヨーロッパの心を求めて (講談社現代新書)
ピーター・ミルワード 中山 理 Peter Milward
講談社 1993-12

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 堺屋太一の『知価革命』を読み返すと、「暗黒の中世」とよばれた時代を知識社会としての目で見直したくなる。そういう研究書ってないのでしょうかね。

 このピーター・ミルワードの『素朴と無垢の精神史』は中世ヨーロッパの「清貧」の系譜を見直した本である。93年の出版で、おそらく92年にベストセラーとなった中野孝次の『清貧の思想』に啓発されてヨーロッパの清貧の系譜を紹介した本だろう。

 世はバブル。ブランドや高級品が飛ぶように売れて、株や不動産のマネーゲームに酔いしれていたころ。だからモノをもたない、心の豊かさをめざすメッセージが叫ばれたのだろう。

 物質主義や環境破壊をもたらすものに対しての批判の書である。わたしは中世を知識社会の時代として見直す意味で、再読してみた。本の意図はたぶん物質主義批判だから、知識主義の時代としての中世をのべているのではない。

 しかし清貧の思想というのは、知識主義のひとつのかたちとしてみることはできる。物質や目に見えるものの欲望に囚われていては神の道にいたれないというのは、知識至上の考え方にも似ている。だからこれからの知識社会とよばれる時代にはそのような価値のヒエラルキーが進行するかもしれないのだ。

 この本はキリスト教からギリシャの哲学者、中世の聖フランチェスコ、エックハルトなどの神秘主義、近代の哲学者、ワーズワースなどの詩人、C.S.ルイスやJ.R.R.トールキンなどの中世的な想像力までじつの幅広い年代のことをとりあげていて、それいでいてそう分厚くはない本である。

 いまいちわたしには意図が読みにくい本だが、西洋の思想はどこでまちがったのかと古代まで遡って問われているのかもしれない。


「イエスのねらいは、人々に新しい目で貧しさを見つめ直してもらうことにある。

 貧しいがゆえに、この世ではいっさいを奪われ一文無し同然に見える。けれども、自分の心眼を開いて真理を見さえすれば、すべてを持っているという真実を悟ることができるのだ。

 万物を深く味わい、万物を与えてくださった神に心から感謝しさえすれば、大地も、水も、取り巻く空気も、太陽も、月も、夜空の星もすべて自分たちのものである」



 わたしたちはこれを宗教の言葉として斥けがちである。だけど、たんじゅんに心理的な心の作用と考えると、モノをもっともっとほしい、いつも足りないという気持ちで見ていると、不足しか見えずに、いま恵まれたものに囲まれているということが見えなくなるという基本的なことをいっていることがわかるだろう。

 この本はそのような西洋の言葉からはじまり、「自然へ帰れ」といったギリシャ哲学者のディオゲネスやストア哲学の系譜をたどりなおしてゆく。

 ギリシャのヘシオドス、ローマのヴェリギリウスのような詩人も「黄金時代」をたたえ、その黄金というのは「心の中の黄金」をいい、田園での質素な生活、純朴であたたかい人情のある時代に焦がれた。中国でも陶淵明や詩人などがたえず田園に隠遁する生活を憧憬してきたが、西洋にもしっかりとこの思想は根づいてたのである。

 中世は暗黒時代とよばれるのだが、それは物質主義を基準において考えから見えるもので、もし「清貧の貴婦人」のようなものが評価される目でながめてみると中世は「黄金の時代」として見えるかもしれないのだ。

 聖フランチェスコや修道僧が多く活躍した時代である。究極の清貧の思想が実現した時代といえるかもしれないのだ。もっとも物質的にも食料的にも、そして権力的にも貧困な時代だったから、こんにちの物質主義の目で悲惨な時代だったと目に映るのである。

 本は中世の神秘思想家エックハルトや聖書につぐ大ベストセラー、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』を言及し、神秘思想は禅仏教の無とひじょうに似ているという。

シェイクスピアはいった。「無になれば、何もかもが自分のものになる」




「知らぬところにたどり着くには、無知という道を通って行かなければならない。持たぬものを持つには、持つものをやめるという道によらねばならぬ。自分でないものにたどり着くには、自分でない道を通らねばならぬ。知らぬことが唯一の知ることであり、持つものが持たぬものであり、今いる場所がいない場所である」 T.S.エリオット『四つの四重奏』



 近代になると新世界の原住民と出会うことになり、「自然状態」が高貴な人なのか、野蛮人なのか問われることになる。ホッブスは自然状態は戦争状態にあるといい、ロックは自由で平等な高貴な人であると考えた。

 工業化、産業化がすすむとブレイクやワーズワースのような田園に焦がれる思想はたえず出てくる。街や都会の喧騒から逃げ出し、子どものころに親しんだ自然の風景のなかにもう一度もどり、湖水地方のような自然豊かな土地に住みたいとねがう。


「かつて牧場も、森も、流れも、大地も、そしてありふれた光景がすべて私の眼には天上の光をまとい、夢の輝きと鮮やかさに包まれて見えた」 ワーズワース『不死のオード』



 こんにちC.S.ルイスの『ナルニア国物語』やJ.R.R.トールキンの『指輪物語』が映画化されているが、かれらは中世学者であり、キリスト教的中世に創造力の源泉を求めているのである。

 こんにちの際限ない物質主義、環境破壊がはじまったのは、17世紀初頭の聖書の解釈にあったのではないかとミルワードはいう。


「『創世記』には、神がアダムとエバとを祝福し、人が地をすべて「支配」するのを許したと記されている。だが、この一節を解釈するとき、「支配」という言葉を「際限なく資源を開発すること」という意味に取ってしまったのである」



 この清貧の系譜のなかに知識社会のヒントは隠されているのだろうか。清貧の思想というもの自体が、知識社会、知識を至上におく時代の表れそのものなのだろうか。

 物質主義の世紀が終わると、われわれはずいぶんと価値や目的の違った風変わりな時代と社会を生きているのかもしれない。もっともそれは物質主義と工業化に毒された価値観と目から見た常識と捉え方にすぎないのだけど。



▼西洋中世を知識社会として読み直せるか(中世書はあまりにも多くて)
中世の知識と権力 (叢書・ウニベルシタス)ヨーロッパの知的覚醒―中世知識人群像中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ中世の人間―ヨーロッパ人の精神構造と創造力 (叢書・ウニベルシタス)中世の狂気―十一‐十三世紀

中世ヨーロッパの農村の生活 (講談社学術文庫)ヨーロッパの中世美術―大聖堂から写本まで (中公新書)ヨーロッパ中世の宇宙観 (講談社学術文庫 (999))ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)賭博・暴力・社交―遊びからみる中世ヨーロッパ (講談社選書メチエ)

中世ヨーロッパの教会と俗世 (YAMAKAWA LECTURES)西欧中世の社会と教会―教会史から中世を読む欧州百鬼夜行抄―「幻想」と「理性」のはざまの中世ヨーロッパヨーロッパの中世―芸術と社会中世ヨーロッパの書物―修道院出版の九〇〇年

05 08
2012

書評 歴史

事実か、虚構か/ 『その日ぐらし―江戸っ子人生のすすめ』 高橋 克彦  杉浦 日向子

1-13458-c200.jpgその日ぐらし―江戸っ子人生のすすめ (PHP文庫)
高橋 克彦 杉浦 日向子
PHP研究所 1994-04

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 げんざい、「再読強化月間」に入っております。いちばんの理由は金欠ゆえだが、むかし読んだ本はあまりにもすっかり忘れていることが多くて、気になる本はもう一度頭に叩き込む必要を感じるからでもある。

 この本は91年に出版された本で、もういまから二十年も前の本だ。

 江戸のその日ぐらしの気楽さが喧伝された本で、おおいに自由に焦がれた本だが、そんなうまい話ばっかりだったのかといまはかなり警戒的になっている。

 この本が出た時代はバブルの盛りで、豊かになってアメリカから「エコノミック・アニマル」と批判されたこともあって、もっと気楽に自由に生きてもいいのではないかと気運がもりあがり、自由な生き方としてフリーターが注目されていたころだ。そのあと、格差社会や非正規の悲惨さが喧伝されるような世になって、自由や気楽さでその日ぐらしが見れないようになった。

 この本で江戸っ子の実働労働は四時間くらいで、朝十時ごろ、おかみさんに「おひつがカラッポだよ」と尻をひっぱかたかれて稼ぎに出て、午後二時には帰ってきてしまうということが紹介されている。「宵越しの銭はもたねえ」だ。

 月に七日働けば家族四人くらいはなんとかなったといわれている。ただ商人は盆暮れ以外は毎日働いていたが。

 江戸の男の八割は生涯独身だったとか。武士や裕福な町人が妾を何人も囲って、下々まで女性がいきわたらない。だから女性はめぐまれていたといえるし、洗濯や掃除はほかの人に請け負ってもらえばいいし、おかずも売りにきた。

 武士は週休五日。朝は早いが、午後二時には帰る。

 江戸時代は飢饉がしょっちゅうおこったように思われているが、五十年か六十年に一度くらいしかおこっていない。歴史はエポック・メーキングなことだけ残るから農民の暮らしがとても苦しかったと思われることになるが、それは特殊な出来事の寄せ集めだからである。

 また明治政府は革命国家であるから、前権力や前社会を悪くいわなければこんにちの権力の正統性を主張できない。きのうより今日が、今日よりも明日のほうがいい生活をしているという進歩史観も、江戸時代を暗いものにしているのだろう。

 江戸人は人生は楽しむためにあるといった人生を生きていた。イタリア人みたいなノリ。庶民の性もとても解放されていて、ほとんど腹がすいたからメシを食うレベルのもの。武士だけが厳しい儒教に縛られていた。

 この本は怨念のように暗くイメージされる江戸を救うために軽くて明るい江戸時代だけをひきだしてきた本だと思われるので、その一面性がちょっと信憑性を失わせるのだが。

 ほんとうのところはどうだったのかと、石川英輔の『大江戸生活事情』という本も参考になった。性の奔放さはもちろん赤松啓介の『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』がぶったまげるほど参考になる。江戸の実像というのはネガ・ポジ、どちらのほうがより実情に近かったのだろうか。

4062634317大江戸生活事情 (講談社文庫)
石川 英輔
講談社 1997-01-13

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4480088644夜這いの民俗学・夜這いの性愛論
赤松 啓介
筑摩書房 2004-06-10

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 江戸の絵師たちの儲け方がこれからの「評価経済社会」とよばれる時代に参考になるのではないかと思った。北斎は金を出してくれる人がいれば自由に絵を描ける。歌麿は大出版社に丸抱えされる少女漫画家のようなもの。広重はだれにも世話にならず自分の好きな絵を描く。読者と直接つながっていた。

 稿料で食えない絵師たちは「席画会」という催しをおこなっていた。ファンの集いであり、与えられたテーマで絵を描き、檀那衆に買い上げてもらっていた。イベントで生活を支えていたわけだ。北斎はキャラクター商品といえる「北斎グッズ」の販売にも熱心だった。まるで情報がフリーになる時代の稼ぎ方だ。

 江戸っ子というのはほんとうに「宵越しの銭はもたねえ」とタンカを切れるほどその日ぐらしの気楽な生き方をしていたのだろうか。この本はその江戸っ子の気楽で自由なところばかりすくっていて、そんな人生ほんとうに可能だったのかと疑ってしまう。

 しかしわれわれは物質と勤勉の価値観でしか生活を捉えられないようになっているだけであって、もしこの拘束や束縛を解いたら、その日ぐらしの江戸っ子のような人生はすぐそこに可能なのかもしれない。わたしたちはカネとモノがなければ生きてゆけないと思っているが、この鎖はあんがいかんたんにほどけるのかもしれない。

 モノにたくさん囲まれた生活があたりまえだとか、しあわせと思う価値観や常識がなくなれば、あっさりと江戸っ子のように気楽で自由な生活がひろがっているのかもしれない。そうしないと生きていけないと思う常識こそが「見えない鎖」の正体なのかもしれない。

 物質が豊かな時代は勤勉と労働に多くの時間を奪われて、人生は楽しむためにあるといった生き方をとても送ることはできないのである。これでしあわせなんだろうか。

 といっても自由と気楽さにふみはずせば、物質とカネの価値観でヒサンだーとかカワイソーだという非難も終わることはない世の中なのである。


うつくしく、やさしく、おろかなり―私の惚れた「江戸」 (ちくま文庫) お江戸風流さんぽ道 (小学館文庫) 江戸へようこそ (ちくま文庫) 江戸アルキ帖 (新潮文庫) 杉浦日向子の江戸塾 (PHP文庫)
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12 24
2011

書評 歴史

『西行 魂の旅路』 西澤 美仁 編

4044072124西行 魂の旅路 ビギナーズ・クラシックス日本の古典 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 日本の古典)
西澤 美仁
角川学芸出版 2010-02-25

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 西行は旅や隠遁に生きた人としてあこがれがあったが、西行が後世に名を残したのは仏教の業績ではなく和歌によってである。でもわたしには和歌を味わう素養がないので、この角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックスで理解を助けようとした。現代語訳や解説がびっしりと書き込まれている。

 でもどうやらわたしには和歌を理解することはできないようだ。現代語訳の補助輪なしには前にすすめないようだ。手放しで理解できるようになればいいと思ったのだが。

 いくつか気に入った言葉をのせることにする。もちろん現代語訳つきで。それとわたしが撮ってきた西行ゆかりの地の写真も。

 身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ

 (身を捨てて出家する人は本当に自分の身を捨てているのだろうか。いやむしろ、出家しないで身を捨てていない人の方が自分の身を捨てているのだ)

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西行が愛した吉野の桜。標識が残念な写真ですが。

 世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり

 (出家をして世の中を捨てはしたけれど、まだ捨て切れていない気がする。修行の旅にも出ないで、いつまでも都から離れられない私なのである)

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山の斜面一面に乱れ咲く吉野の桜。

 枝折せでんほ山深く分け入らん 憂きこと聞かぬ所ありやと

 (枝折しないで、戻る道を絶ちながらもっと山深く分け入ろう。この世のつらいことが聞こえてこないような場所があるかもしれないから)

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蔵王堂を中心とした吉野の全景

 深き山に澄みける月を見ざりせば 思ひ出もなき我が身ならまし

 (大峯山中、深仙の宿で澄んだ月を見る。聖域の中でも最も深遠な神秘の地で、この神聖な光に触れることがなかったら、私にはこの世の思い出など何もないと言っていいくらいだ)

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西行終焉の地、葛城山ふもとの弘川寺の西行堂

 山深くさこそ心は通ふとも 住まであはれを知らんものかは

 (山の奥深くにどんなに心通わせようととも、実際に住んでみないで山の魅力を知ることなど決してできないのである)

良寛  旅と人生  ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 日本の古典) 梁塵秘抄  ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫) 万葉集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) 謡曲・狂言  ビギナーズ・クラシックス日本の古典 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 日本の古典) 新古今和歌集 (角川ソフィア文庫 88 ビギナーズ・クラシックス)

06 04
2011

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『世直し』 佐々木 潤之介

13752059_mb.jpg世直し (岩波新書 黄版 90)
佐々木 潤之介
岩波書店 1979-07-20

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 再読である。世は世直しを必要としている状況に近づきつつあるが、幕末の世直しはどのようなものだったのか。参考にしようとして再読してみたが、わかりやすい本だといいがたい。幕末になんで騒動や打ちこわしがおこったのか、この本から読み込めない。もうすこし現代からみてわかるような本を読むべき。

 日本はずいぶんおとなしい国になったが、わずか150年ほど前は暴動や打ちこわしが全国各地でひんぱんにおこっていた時代があったのである。豪農や豪商、商店などが打ち壊しの対象となった。

 物価が値上がりし、米価も沸騰をし、庶民は生活がなりたたなくなり、座して餓死を待つよりは富商や村役人に押しかけ、思いをとげるという考えがあったようである。米・塩・油などの安売りを要求し、小作料の半減や年貢の減免、借金の帳消しなどをもとめた。村役人や官庁にたいする腐敗への怒りも向けられていた。

 江戸期において貧しいものが困窮すれば、高利貸しや商人、豪農は蓄財をふるまうのが道徳としてあり、それをおこなわないものは不徳の輩として制裁を加えられてしかるべきだという社会的了解があったようである。貧しいものを助けるのは豪商や豪農としての役割があったようなのである。こんにちでは困窮者を助けるのはひとり政府だけの責任となっているが。こうして人民の困窮をかえりみず自分だけ富するものは制裁をうけたのだろう。

 しかしながらこの本はほんとうに読みとりにくい。どうして庶民たちが暴動をおこすほど追いつめられたのか、なにがそんなに不満だったのか、どうして暴動や打ちこわしといった暴力で訴えるしか手段がなかったのかといったわたしの疑問を解いてくれる本ではなかった。

 まえに読んだ藤谷俊雄の『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』のほうがよほどわかりやすかった。

 世直しを必要とされている状況に近づきつつある現在、幕末・明治期の世直しを読み解くことは大事なことだと思うのだが。


幕末の世直し万人の戦争状態 (歴史文化ライブラリー)世直し大江戸学 (NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・歴史再発見)一揆 (岩波新書)「おかげまいり」と「ええじゃないか」 (1968年) (岩波新書)

07 09
2010

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『明治維新と現代』 遠山 茂樹

明治維新と現代 (1969年) (岩波新書)明治維新と現代 (1968年) (岩波新書)
(1969)
遠山 茂樹

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 これはむづかしかった。いろいろな学説を紹介していたということもあるが、1968年刊の42年前の古い本だから時代感覚が合わなかったということもあるかもしれない。またこのころの新書はひじょうにレベルが高くて一般読者に紹介するという気持ちがすくなかったのだろうか。

 しかし入門書すぎるのも問題である。初心者にむけてバカにしたような本を書くし、教科書でもそうだが、あたかもたったひとつの「事実」があったかのように書く。いろいろな考え方ができるうちのひとつにすぎないという考えを提出してくれないと信用できないのである。でもそうするとレベルが高くなってむづかしくなるのだが。

 明治維新本を読みたくなったのはNHKで山内昌之が現在と幕末維新をくらべていたからだ。たしかに現在は首相がころころ変わったり、政治がいきづまった時代である。幕末維新に近いかもしれない。現代は維新に学べるだろうか。ブックオフで百円の維新本を見つけたが、これは参考にならなかったというしかない。

 わたしは明治維新をよく知らないし、漠然としたイメージしかもっていない。龍馬とかのドラマをやっていても興味がないので見ない。英雄史観や歴史人物ドラマはどうも好みではない。抽象的な法則のようなものを好んで、個別的な人物・歴史に興味をもてないのだ。わたしは歴史は経済史や産業史あるいは民衆史からでないと興味をもてないようだ。人物が歴史を動かしたなどとウソっぱちだと思っている。

 明治維新がおこったのは1868年であり、つまりおおよそ140年前である。おおむかしととらえるか、そんなむかしではないと考えるか。わたしは1967年生まれだから江戸最後の年から百年後に生まれた。漱石が生まれた百年後だ。維新史は利害関係者の気がねなしに書けないということが官学アカデミスムの研究者にあったらしいからリアルな現代感は近くまでのこっていたのだろう。

 68年のこの本ではマルクス的な階級闘争とかプロレタリアートとかの史観が色濃くこめられていて、ひとつの歴史の枠組みをつくっていたのだと思う。それから今日の歴史はとうぜん明治政府、現政権に肩入れしなければならないわけで、江戸時代は暗黒に塗りつぶされなければならない。江戸時代は悪者にならないと現政権の正当化はおこなわれないのである。また西洋化の推進のためには歴史は土着的な後進性をもたなければならない。わたしたちが知る歴史というのは現代の価値観によってゆがめられた像を見ているにすぎないと知っておくべきだろう。

 幕末、新政権樹立後も民衆はさかんに一揆や打ちこわしをおこなっていた。もうほとんど暴動だらけの国であり、今日他国の暴動や内乱をみてとんでもない国だと思うのだが、日本もわずか百年前は内乱国家だったわけだ。今日のおとなしい市民からみて、人間の質が総入れ替えされたかと思うほど現代日本人はおとなしくなったものだ。地租改正や学校制度、兵役などで民衆の怒りが暴発していた。

 廃藩置県で藩主や大名は先をあらそうように天皇に土地と人民をかえしたそうだ。この権力者たちはなんだろうと思うが、江戸時代にも将軍が代わるごとに所領を返していたそうで、まあ返す先が将軍から天皇に代わったにすぎなかったのである。大名は転封によって先祖代々の土地からゆかりのない土地にうつしかえられることがあったので、すっかり牙抜きをされていたのだろう。

 まあ、この維新史から読みとりたかったことは現代にいかに生かせるかということだったが、残念ながらそういう読み方はほぼできなかった。堺屋太一なんか歴史から現代を読み解くという手法がとてもうまくて感嘆させられた覚えがあるが、そういう読み方を自力でおこなうにはどうしたらいいのだろう。本を読むということはその手法も身につけることがためになる読書というもので、わたしはそれを怠ってきたのだろう。問いはどのような方法でそれを身につけたのかということだったのだろう。



幕末維新に学ぶ現在歴史の使い方 (日経ビジネス人文庫 グリーン さ 3-6)明治維新 1858-1881 (講談社現代新書)未完の明治維新 (ちくま新書)近代日本の国家構想―1871‐1936 (岩波現代文庫)

明治維新 (講談社学術文庫)志士と官僚 (講談社学術文庫)幕臣たちの明治維新 (講談社現代新書)幕末維新 消された歴史明治維新 (岩波現代文庫)

06 20
2010

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『謎の渡来人 秦氏』 水谷 千秋

謎の渡来人 秦氏 (文春新書)謎の渡来人 秦氏 (文春新書)
(2009/12)
水谷 千秋

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 秦氏が注目されるのはユダヤの失われた十支族やキリスト教徒だったという説があるからだ。古代仏教が伝来した時代にユダヤ教やキリスト教は伝来していたのだろうか。8世紀には中国で景教という名前で認められていたから、日本でも伝来していなかったとはいえないだろう。

 この本はもちろん学術プロパーの本で、そんな言葉は本文にはひとこともでてこなくてあとがきにすこしのべられているだけだ。ユダヤ、キリスト教説のトンデモでないプロパーの本を読んでみようということで読んだけど、やっぱりちっともおもしろくない。キリスト教伝来のような深い謎や神秘がないのだから、探求の原動力がはたらかない。学者はよくもこんな探求をできるなと思うが、学問をやっている人はふつうの人の浅さとは比べられない興味をもっているものだ。

 私としては数冊、日ユ同祖論を読んでみて、じっさいに秦氏の本拠地太秦(うずまさ)の広隆寺、木嶋神社、蛇塚古墳をめぐってみたが、キリスト教の痕跡など見つけることなど不可能で、なえてしまった。

 日ユ同祖論の古典といわれるマックレオドの『天皇家とイスラエル十支族の謎』を読んでみたけど、聖書の痕跡を見つけようとする強引なこじつけ宗教的熱情が生み出した本で、考慮にあたいする本でないと思った。ほかのユダヤ、キリスト教古代渡来説も読んでみたけど、すこしの信憑性はあるが、白人コンプレックスの裏返しを見ているようだし、トンデモ系にイッている人もいて、もうまじめに追求したら信用されなくなると思ってやめた。でもまだ興味がのこっているようで、学術プロパーのこの本を手にとったというしだいだ。

 ユダヤ教やキリスト教は古代日本に伝来していたのだろうか。古代日本は仏教や中国の影響しか受けなかった原始的な国であったといわれているが、仏教もインドからの伝来でそれくらいの距離の文明の影響を受けているのだから、西アジアで生まれたキリスト教がつたわっていてもおかしくないし、シルクロードの伝播も多くのこっているのである。

 古代の日本は中国や朝鮮からの渡来人がなんども押し寄せているし、海での航海や交易は古代からも世界中をかけまわっていたと思う。こんにちの歴史観では日本は中国文化圏だけに属していたことになっているが、世界じゅうの影響や伝播をうけていたと思う。神話や民話が世界中で似ている例はいくらでもあり、日本は太陽信仰がさかんな国であったが、太陽信仰はエジプトやマヤなど世界中で信仰されていた共通した世界観なのである。

 ぎゃくにどうして日本はこんにちアジアだけの影響をうけたとされる狭い世界観に閉じこもってしまったのか疑問に思う。古代の日本はどうして仏教と神道の世界観だけに閉じこもってしまったのだろう。イデオロギー的な分析が必要なのだろうか。

 ユダヤ、キリスト教渡来説はロマンがあるが、これもこんにちの西洋先進観に毒されたイデオロギーが求めるものなのだろう。文明や歴史というのは価値序列がつくりだす勝ち負けや優劣が色濃くこめられた自尊心なのだろうと思う。


広隆寺 太子殿 仏教以外の痕跡を見つけるのはムリ。

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木嶋神社 三柱鳥居 奇異な三柱鳥居ですが、町の鎮守といった趣でした。

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蛇塚古墳 石塚におどろいたというよりか、まわりのせりだしてくる住宅地のほうにおどろきました。つぶすか、のこすか、はっきりしろという感じでしたね。

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松尾大社 三輪山のように神体山や磐座がのこされた古い神社であることを知りました。

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「阿修羅像」の真実 (文春新書) 金融恐慌とユダヤ・キリスト教 (文春新書) 謎の豪族 蘇我氏 (文春新書) 失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎 (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス) 海民と日本社会 (新人物文庫 あ 3-1)
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06 16
2010

書評 歴史

『なぜ夢殿は八角形か』 宮崎 興二

なぜ夢殿は八角形か―数にこだわる日本史の謎 (ノン・ポシェット)なぜ夢殿は八角形か―数にこだわる日本史の謎 (ノン・ポシェット)
(1995/12)
宮崎 興二

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 不可思議でナゾの多い数やかたちの世界観や哲学を読み解いてゆく、あまりない本なので参考になることが多い。数には深い哲学や、想いをこめられた世界観や宗教に近い信仰があったんだなとわかる。

 わたしは「八咫(やた)からす」ってなにかとか、丸や四角の石を重ねた五輪塔とかなんだろうと思っていたので、そういう謎がこの本である程度解けた。

 数には宗教的信仰に近いものがこめられており、ツキや迷信のような想いがたくされていたんだなと知る。数に対する深い想いをもたないわたしには思いもしなかった世界観が数にこめられており、それが宗教や建築などにたくされていて、わたしたちの神秘感や不可思議感を増すのである。

 「八」という数字はわが国で最高位を占める数字のようで、八百万の神や江戸の八百八町、大阪の八百八橋、八重桜、八十神、八十国、八千代、八百屋とやたらと八が使われる。スサノオも頭と尾が八つある八伎のおろちを退治するし、神武天皇も八のつく曲玉、鏡、剣を手に東方へ遠征するのである。聖徳太子の堂も八角形が多い。すもうも「八卦よい」である。八紘一宇は宇宙のかたちであるし、宇宙には八極や八柱があるといわれる。もっと大きい数なら九や十があるのだが、わが国では八なのである。

 四角や三角の五輪塔はなにかというと、宇宙を構成する要素をあらわしているという。下から立方体の地輪、球の水輪、三角形の火輪、半球の風輪、宝珠形の空輪をつみかさねているらしい。エジプトで地水火風とそれらを統一する原理の五要素で宇宙はできていると考えられていたそうだが、プラトンの哲学を経由したかわからないがインドの倶舎論などの影響をうけて空海が考案したらしい。五輪塔って意味がわからないと思っていたが、宇宙の構成要素をあらわしたというが、だからといってなんになるのだろうとまたわからなくなった。

 五角形のしるしはダビデの星とかけっこう不気味でナゾの多いマークであるが、安部清明なんかはよく使っている。悪魔を退散させるしるしだったようで、ザルや竹かごは星型の五角形で編まれたから強力な魔よけの武器となると江戸の町などでも掲げられていたそうである。

 日本人は三の数字が大好きで、三種の神器とか三人寄れば文殊の知恵とか多用する。といっても幽霊の頭の四半とよばれる三角形の布もあるが。道教では赤い三角の山や岩が都の南に天国と交信するために必要と考えられていたようで、三角錐の山がもとめられたそうだ。三は三途の川がある。

 大きい数でいえば九という数字は最後で永遠で無限と考えられることが多く、ノストラダムスの予言など1999年だった。香港がイギリスに貸し出されたのはいつまでもという意味で99年間だった。キリストの弟子は12人だった。キリスト教で13は不吉な数字である。釈迦の弟子は10人だった。干支は12支であり、法事は干支がひとまわりした13回忌におこなわれる。

 まあ、数というのはありとあらゆる意味や印象がこめられ、それは運やツキのような言霊、呪術に近い意味合いももってくることになる。7はラッキーだといってパチンコなどでは777で大当たりだし、666はダミアンの悪魔のしるしだったし、自分だけのラッキーナンバーとか、数にこめる気もちはそれこそ数かぎなくあり、それは宗教や祈念だとか、呪術や呪いに近い怨念もこもることもあるのだろう。

 数には少ない文字であるからこそ無限の世界観や宇宙観がこめられ、そしてそれをはたから見ていると意味がわからなく不可思議でナゾめいているから、もっと神秘性やオカルティズムを秘めているように感じられてくる。つまりはジャーゴン(隠語)だ。隠語、ナゾであるからひきつけられ、神秘性が付される。数字にこめた暗号にひきつけられるから神秘性は秘められ、そして宗教的信仰心や魅惑というものは増してゆくものなのかもしれない。

 ナゾや不可思議さに人はひきつけられるものである。もっとナゾで、不可思議で、秘教めいたものであるほうがいい。人はその箱を開けたくて近寄ってくる。しまいにはその箱にはナゾがいくつもしまわれているから離れられなくなる。宗教や建築のこめられた数字というものにはそういうカラクリがあるのかもしれないと思った。

 数のナゾを探ることで宗教や歴史のナゾのいくつかがときほぐれるかもしれないと思わせる本であった。数字というのは宇宙であり、世界観であり、哲学であり、そしてわれわれの信念や願いなのかもしれない。世にあふれた数字には迷信や宗教心をいちばん多くのこしているのかもしれない。


ねじれた伊勢神宮―「かたち」が支配する日本史の謎 (ノン・ポシェット) 江戸の“かたち”を歩く―八百八町に秘められた○△□とは? (祥伝社黄金文庫) 「かたち」の謎解き物語―日本文化を○△□で読む 伊勢神宮の謎―なぜ日本文化の故郷(ふるさと)なのか (ノン・ポシェット―日本史の旅)

05 17
2010

書評 歴史

『隠された聖書の国・日本』 ケン・ジョセフ シニア&ジュニア

隠された聖書の国・日本 (5次元文庫)隠された聖書の国・日本 (5次元文庫)
(2008/04)
ケン・ジョセフ シニア&ジュニア

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 にわかに聖徳太子はキリスト教をとりいれた創作だったという説を証明したくなった。馬小屋で生まれただなんてあきらかにキリスト教の焼き直しだろう。大和朝廷は中近東や中国でブームになっている聖人を自分たちにとりいれたかったのだ。

 こんにち日本人は仏教を信仰していることになっているし、日本の歴史と伝統は仏教と神道だけだということになっており、キリスト教伝来は16世紀のザビエル以降ということになっている。仏教や神道にはキリスト教の影響などいっさい入っていないと思い込まれている。

 なぜ日本はキリスト教の影響を抹殺したかったのだろう。近代以降日本は先進のヨーロッパから学ぶためにヨーロッパよりはるかに遅れたアジアの国であり、悪しき後進国中国の影響をうけてきたのだという差別的な啓蒙思想を浸透させたかったのかもしれない。またヨーロッパや技術の進歩史観をうけいれるために日本の古代や中世は遅れており、閉ざされており、世界から隔絶していたという過去の後進性を強調しなければならない。つまりむかしの日本はダメだったという歴史否定が近代ヨーロッパから学ぶために必要だったわけだ。かくして「ド田舎ジャパン」という歴史は日本人に啓蒙・教育されてすっかり徹底されたのだろう。

 古代の国際性や文化伝播は抹殺されなければならない。先進のヨーロッパに学ぶためにド田舎ジャパンはおとしめられなければならなかったし、こんにちの推進役となる先進性や優越感はえられない。アジアと仏教のジャパンは劣等と伝統のまゆのなかに切り離されたのである。そして日本固有の文化や単一民族説という神話がナショナリズムに変転強調されていった。先進や優越を煽る思想は不安や差別をもよわせるから、立ち返る安らぎの表象が必要なわけだった。

 ユダヤ人やキリストが日本にきたという説はいつもオカルトや陰謀説まがいやトンデモ言説に思われてしまう。日本は古代ド田舎だったという思い込みと、劣等古代ジャパンが先進であっては困るのだ。古代の国際性はド田舎ジャパンの安らぎを破壊してしまうのだ。優越感の回復という物語をさげずんで相手にもしない。

 著者によるとキリスト教は景教とよばれ、唐では635年から皇帝の保護を二世紀うけたことになっている。朝鮮半島に661年にトルコ人(突蕨)が攻めてきたと『日本書紀』にも書かれているのだ。日本につたわらないわけがないし、キリストの弟子たちは西暦5、60年代にインドや中国に入っていたらしいから日本にもその年代に入っていたとも考えられる。

 しかしキリスト教の痕跡はみごとに仏教の影に隠されているのはなぜなんだろう。古代の渡来豪族の秦氏は景教の信仰をもっていたりユダヤ人だったという話がたびたび出されるが、仏教一色にそまっている。秦氏の太秦は「イシュ・マシャ」(イエス・キリスト)、「だいうす町」はデウス(神)、蚕の社にはめずらしい三柱鳥居があるがキリスト教の三位一体説をあらわしているといわれる。こんにち景教やキリスト教の言葉や情報がいっさいない。国教としての仏教の弾圧があったり、仏教の文化的影響が強すぎたのだろうか。あるいは仏教のなんでもかんでも自分のものにする包摂の力が強すぎたのか。

 著書によると仏僧もキリスト教の影響をおおきくうけたことになっている。親鸞は仏教にない仏の名をとなえれば救われるという説をといたがこれは「主の御名を呼び求めるものは救われる」とおなじだし、空海は『マタイの福音書』をもちかえったといい、高野山の坊さんも景教の影響をみとめているという。まあ、たしかに仏教が進歩や飛躍するとしたら他宗教の思想をとりいれたときだといえるし。光明皇后は悲田院や施薬院、療病院をたてたが、こういう福祉や慈善はキリスト教であって、仏教はこんなことをしないだろう。『法華経』は聖書の焼き直しだといわれている。

 稲荷神社は「INRI」(ユダヤの王ナザレのイエス)からきたというし、八幡神社はイスラエルの神「ヤハウェ」ににているといえるし、ユダヤ教やキリスト教は日本におおきく影響をあたえてきたと考えられる。こじつけっぽい語呂合わせみたいだし、こういうのはほかの朝鮮語のことでもいわれることだが、わたしは古代の文化伝播の大きさを思うから影響はあったと考えるのが妥当だとみなす。

 わたしがこういう説にかたむくのは日本の古代レイラインを知らべてゆくとどうも太陽信仰というのはペルシャであったり、エジプトであったり、世界中で共有されていた世界観だと知ったからだ。太陽が死んでよみがえったり、神や王(天皇)が性交して世界や太陽を生むという神話は世界中で共有されていた。古代から世界観がおなじであったら、文化伝播というのは思いのほか大きなものだったと思わざるをえないというものだ。

 ユダヤ人やキリスト教が古代から日本に入っていたという説は「トンデモ」あつかいされるものであるが、ぎゃくに古代日本の後進性や隔絶を信じる気持ちのほうを問わなければならないと思う。人間はこんにち急に世界とつながったわけではないし、古代から外国や世界の知識や情報をかかんに求めてきたものだと思う。こんにち急に技術の進歩によってとつぜん世界を知ったわけではなく、古代から人間は世界を知りたがっていたのだと思う。常識的に考えればふつうのことだと思うが、こんにちの先進性と優越性を推進力にしたい人は古代は「ド田舎ジャパン」とバカにしなければわたしの自尊心や努力は救われないということである。

 「日本は島国で世界からとりのこされていた」というだれもが口にする日本の思い込みこそ、なんのために信じられ、なにに利するのか考えたほうがいいだろう。


『大和民族はユダヤ人だった』 ヨセフ・アイデルバーグ

でもやっぱりトンデモ臭がするなあ。。(笑)
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05 15
2010

書評 歴史

『人類が消えた世界』  アラン・ワイズマン

人類が消えた世界 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)人類が消えた世界 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
(2009/07/05)
アラン・ワイズマン

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 自然科学の本を読むのはひさしぶりである。読みたいと思っているのだが、社会系の本を読むほど益はないと思って読む時間をつくれない。社会系の本だけでは人間社会だけの世界に偏って視野が狭まってしまうという危機感はつねにあるのだが。

 この本は率直にいってあまりおもしろくなかったので読む時間がとどこおった。すこし苦痛だった。やはり社会系の本にしか益がないという考えに毒されているのか。おもしろみにどんどんひっぱられるという本ではなかった。もちろんわたしのほうに偏りがあるからだろうが。

 この本はどちらかというと人類が滅んだあとの世界というよりか、現在のほうに焦点があたっている。現在の人間の技術の管理や人類の生態破壊などがおもに語られていて、想像力が未来までなかなか及んでいかないという感じがした。

 人類が滅んだあと、原子炉やプラスティック、石油、ダムなどはどうなっていてゆくのかといった心配がされている。人類は滅んだあともこの地球に永久に害をのこしてゆくのだろうか、そんな懸念がのぞかせている。まあ、自然は人類が滅ぼうが滅ぶまいが、旺盛な回復力や繁殖力で人類の存在などおかまいなしに世界をおおってゆくのだろう。

 人は人類が滅んだあとの世界やこの先進の文明が滅んだ世界を描くことが好きである。現代の支配力や権力の復讐をくわだてていたり、警鐘を鳴らしているのである。「おまえたちは役に立っていないのだ」、「滅んでしまってざまぁみろ!」ということである。そういう快感を味わいたくて、わたしたちは廃墟や人類滅亡後の世界にひかれるのではないだろうか。もちろん人類滅亡後の実存的興味もあるだろうが。

 めげずに自然科学の本は時間をつくって読みたいと思っている。『眼の誕生』という本は読みたい本の筆頭リストかもしれない。生命が外界を察知するという機能は客観的に見られるようになりたいものだ。人間社会の狭い視野だけにこもりたくないものである。想像力を世界や宇宙にもひろげたいものである。


アフターマン 人類滅亡後の地球を支配する動物世界フューチャー・イズ・ワイルドフューチャー・イズ・ワイルド コミック版―驚異の進化を遂げた2億年後の生命世界フューチャー・イズ・ワイルド完全図解ーーThe WILD WORLD of the FUTURE眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く

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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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