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01 18
2004

恋愛・性・結婚

男らしさが女性を傷つけている

なぜ彼は本気で恋愛してくれないのか
ハーブ ゴールドバーグ 角 敦子

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 ハーブ・ゴールドバーグ『なぜ彼は本気で恋愛してくれないのか』(KKベストセラーズ ワニ文庫)は男と女の違いをまるで手品のように明快に見せていて、どうしてここまで明確にわかるのかと感銘した。

 とくに子どものころから少年に要求される「男らしさ」が、のちに女性に冷たさや無神経さにとられるという指摘は、目の醒める思いがした。男らしさの条件づけがよくありがちなカップルの争いの原因になっているとは驚きだ。覚えておきたい言葉をいくつか引用する。

 「少年のころは、身近な人に頼らない男らしさを見せると好感をもたれました。とくに喜ばれほめられた気質は、自立心旺盛、意欲的、野心的、目標志向、ワンパクさ、責任感の強さ、活発さ、といったところでした。――ところが皮肉なことに、彼を「男らしく」見せていた気質が、将来「無神経」で女性に横暴にふるまう男に彼をしたてあげてしまうのです」

 「男は冷たい「論理」を使い、女は気持ちで「熱く」なる。これが争いのなかでどんどん極端になってゆくジレンマの一部です」

 「男性は傷つきやすさを弱くて女々しい欠点だと考えます。そのため、男らしい男性は冷たく非情にみえます」

 「私生活でのストレスを感じると、男は自分の殻に閉じこもってしまいます。それとは反対に、ストレス状態の女性は、自分から積極的に話をしようとします」

 「男性がしてほしいことを知らせず、困ったときにふさぎこむ傾向があるのは、弱く、依存的で、傷つきやすくなるのがとても怖いからです」

 「成功を可能にする気質がわざわいして、近しい人が遠ざかり、彼の成功を嘆くようになるというのがわかっていない」

 「男性にとって親密でべったりとしたつきあい方は、あまり心地よくなくて、楽でもありません。――妻が、安心するための抱擁、キス、その他の愛情表現を求めてプレッシャーをかけてくると気まずい思いをするのは、愛情を態度で示すのが彼のスタイルではないからです」

 「彼女には、どんなに君だけを愛しているよといっても、じゅうぶんじゃないんだ。一言でも『まちがったこと』『無神経なこと』をいってごらん。1000回いったいいことや安心させる言葉も意味がなくなってしまう」

 「いわゆる恋愛関係には重大なまやかしがあるね。最初はものすごくもち上げられるのに、最後には人間のクズみたいにいわれる」

 「浮気した夫と別れる、別れないにしても、将来裏切らないという約束をとりつける、といった解決法は的外れ。浮気は二人のバランスが崩れていることからあらわれたものだから、そこを変えないと、いつまでたっても同じことのくり返しになる。――パートナーのことばかり気にかかる女性は、セックスにとりつかれた男性と同じように、パートナーを逃げ出させる」

 「彼の論理的で冷静で控えめな態度は、感情が乏しくて冷ややかで、親密になるのを恐れているように感じられる。決断力があり、さっそうと先頭に立つ姿勢は、パートナーを支配したいという高圧的な欲求に変質する。パートナーの気持ちをないがしろにするようになるんだ。彼の自立心旺盛で人に頼らない姿勢は、よそよそしくそっけない態度に変わり、それをパートナーは拒否されて必要とされなくなったように感じる。野心的な目的至上主義と競争心は、関係が進むにつれて、彼をわがままで攻撃的で冷たい男にする」

 「男性は感情を見せまいとするので、冷たく思いやりがない印象を与えます。それだけに、彼女が感情的になると「わけがわからん」と過剰反応を示すのです」

 「あなたはいつだって一人になりたがるのよ。
  君はいつだっていっしょにいたがる。

 あなたってつねに黙っているよね。しゃべりたいと思わないんじゃない?
 君はつねにしゃべっているよ! ぼくに考え事をさせたくないんじゃないか?」

 「論理一点張りの態度を、彼女がよそよそしく拒絶的だと感じているのには気づかない。彼の本心にふれたい、二人がより親密になるために彼にもっと気にかけてほしい、という一心で、彼女はさらに感情的になる」

 この本を読んで驚いたことはやっぱり男らしさとしてほめられる、理性的なことや自立心が、女性には冷酷さや拒絶だと捉えられることだ。無意識にめざしていた男らしさが、女性を悲しませたり怒らさせたりしていたのである。

 男はほんとうに論理的になって感情を排斥しようとするし、会話もムダだと思うようになる。女性は感情を通わせようとしてますます感情的になるし、つながりを欲してますますおしゃべりになる。まるで正反対のことをめざしているバカもの同士である。

 男女の基本的な違いは理解したとしても、さまざまなケースにおいて男と女が心を通じ合わせることは絶望に近いほど途方もないことに思えてくる。しかしがんばるしかないでしょう。感情と論理はどうやったら結ばれるのでしょうね。


だから、彼女は愛される―男がずっと一緒にいたい女 好きな彼に言ってはいけない50のことば―“恋”を育てる会話のマナー 「やすらぎを与える女性」50のルール―“ずっと一緒にいたい”と思わせる魅力 ジョン・グレイ博士の「愛される女」になれる本 男が「大切にしたい」と思う女性50のルール―男はこう考え、女の「ここ」を見ている!
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02 16
2004

恋愛・性・結婚

男にとって女性の描いたものとは


 さいきん、女性の描いたものばかり読んでいる、マンガに小説と。まあ、女性の心を内面から知りたいと思ったからだ。なにかが理解できるとか達成できるとかは思わないが、近づける程度にはなるとしよう。

 女性に近づけものとは思ったら、まずは恋愛小説よりマンガのほうが現代の女性の感覚に近づけると思った。よりリアルではないかと思ったのである。でも男の私にとって少女マンガしている世界はやはり拒絶感がある。入り込めもしない。書店の少女マンガコーナーに立つのも恥かしい。

 なぜなんだろう、マンガはどうして男モノと女モノがきっぱりと分かれて寄せつけないのだろう。マンガも更衣室や公衆トイレ、銭湯のように隠蔽しなければならない秘密の女体でもあるのだろうか。女が養成されるところだろうか。ほんとうは理解され合わなければならないのに隠さなければならないとは残念なことである。

 少女マンガはやはり恋愛ものばかりで男は戦闘ものばかりである。女は人とつながることばかりに熱中し、男は人と闘うことばかりに気がとられる。女モノに戦闘ものが登場したりして両者の関係は融合しつつあるのだろうけど。

 少女マンガにとって気になったテーマは少女からオトナの女に脱皮するのはむずかしいだろうということだ。少女のからだから男にじろじろとながめまわされる性の対象になることはたいそう驚きや苦痛の体験になることだろうと思う。女性はそういう関係性をうけいれていかなければならない。性をはげしく嫌悪すれば、大人の女になることはたいそうむずかしいことだろう。

 私が読んだ女性のマンガはやはりエッチもしっかりと描かれている大人のマンガになった。南Q太、桜沢エリカ、やまだないと、安野モヨコなどだ。いずれもあまり少女マンガっぽい絵柄をしていないからすんなり入れた。

 物語から遠ざかって理論や分析ばかりに熱中してきた私としては物語になにを求めるのだろうかという前提がぐらついている。共感? 教育? 経験を補うこと? 喜びや楽しさ? 想像力や空想力の訓練? いやはや、物語を読むのにこういう問いはあまり似合わない。

 南Q太は恋愛の成就としてのセックスではなく、肌淋しさをおぼえた女のセックスが描けるマンガ家として歓迎されたそうだ。でもあまりめぐまれた恋愛物語ではない。桜沢エリカはおしゃれなマンガを描き、かわいい女の子が出てきてセックスもさらりと描かれており、理想や憧れを絵にしようとしているのではないかと思う。

 やまだないとはかわいい女の子も出ているが、恋愛より欲望としてのセックスに女性がめざめたさまが描かれており、ちょっとオソロシイ。安野モヨコは恋愛狂の女性が共感をもって描かれていて、その酔狂ぶりを客観視できるきっかけをあたえたのだろう。

 大人向けのマンガがたくさん出てきたといってもマンガは幼稚っぽい印象やまだまだ子供向けというイメージはぬぐえない。おそらくそれは絵のようなダイレクトに視覚に訴える媒体より、活字のように記号だけでよりゆたかな想像力を必要とする能力が評価されるからだろう。マンガは手続きがかんたんすぎるのだ。

 女性の描く恋愛小説をいまは片っぱしから読んでいる。現代の感覚に近い女性作家をなるべく選びたい。江國香織、山本文緒、唯川恵、村山由佳、藤堂志津子など。

 いぜん私は純文学とか世界の名作だけを奉じるような偏屈な読書をしていたことがあったが、その網からはぼろぼろと漏れていたふつうの小説である。恋愛や女性について知りたいと思ったらこういう世界がひろがっていた。女性が読む女性のための小説だ。だから男の私は読まなかった。

 斎藤美奈子はこれらの女性作家群を「L文学」と名づけた。『赤毛のアン』やコバルト文庫で育ったあらたな作り手と読み手が生まれているそうだ。少女マンガやポップミュージック、トレンディドラマ、女性雑誌などの女性マーケットが小説の世界にもようやくおよんだということである。

 私としては唯川恵の小説が等身大のOLを主人公にしていていちばんよかったかなと思う。身近にもありそうな恋愛の話だし、恋愛のいろいろな感情を味わえるのがよい。山本文緒は冷静さと客観性をもちすぎていてあまりロマンティックではないのがよくないかな。

 といってもほとんど一二作しか読んでいないので、てんで全体的なことはいえないけど。村山由佳はよくできすぎたあまりにも当たり前の物語を描くのに人気があるとはどうも理解ができがたい。藤堂志津子はいろいろな恋愛バリエーションの宝庫みたいな作品を描いているが、文章がカタくていまいち今っぽくないかもしれない。桜井亜美はたぶん主観から描かれたというよりか、客観的に描かれたものだと思うので、主観的な気持ちを信用していいのかなと思う。

 現在の感覚に近い女性作家を私は読みたいから、林真理子とか内館牧子とかは除外するべきなのだろうか。まあ、私は現代のふつうの女性の世界を主観から知りたいと思っているわけである。

 物語を読めば、現代の女性の主観や世界を理解できるものなのだろうか。女性の思いや考え、気持ちなどを女性の身の上のように知ることができるだろうか。女性は現代の物語を読むことによって女性としてかたちづくられるのだろうか。それとも女性としてのかたちづくられた素質が、女性の物語を読ませるのだろうか。まあ、男の私はせいぜい物語の読書体験を共有できるくらいだろう。

12 25
2004

恋愛・性・結婚

なぜ聖夜が「性夜」になったのかについての考察

げんざいの見解はこちらの傾いていますね。

 クリスマスが「性なる」夜になった理由
 クリスマスと性交と太陽の再生


 クリスマス・イブがカップルのセックスの夜になったのは大いなる皮肉というほかない。そもそもキリスト教は性を激しく禁止した宗教だ。キリストは童貞であり、母マリアは処女懐妊といわれたように性にまつわる話は徹底的に削除されている。修道院も女性を断った。

 そんなキリスト教のクリスマスが日本に根づくようになると、なぜカップルやセックスの日になったのだろうか。

 そもそもクリスマス・イブはケーキを食べる夜だったように記憶する。ケーキ業界はおおいに儲かった。そのうちにプレゼント業界やレストラン業界、ホテル業界などがクリスマス商戦に参入し、TVや音楽業界がイメージ戦略をすすめることによって、若者のなかにすっかり定着することになった。もっと上を目指すステップ・アップ消費、高級化で個性を主張しなければならない時代の流れである。音楽業界のイメージ煽情も強い。産業が必要としたのであり、そして若者や男女の関係で必要とされていったのだろう。

 イブがロマンティックな夜になったのはとりあえずキリスト教はイメージだけ移植したわけである。教義や戒律がまったく根づいていないのは、イブがセックスの夜になったのと同様、いうまでもないことである。

 キリストの生誕する前の夜がロマンティックなセックスの夜になったのは、キリスト教が愛を説く宗教であるからわからないでもない。しかし禁欲を説くキリスト教がセックスを奨めるとは思われない。日本では宗教を受容する頭が空っぽだったから、下半身だけが受容・需要したわけである。

 キリスト教の教義はちっとも受容されずにクリスマスという慣習だけが受容されたのはなぜなんだろうか。

 日本人はともかく形だけを採り入れるのが好きである。内実が空っぽのほうがより大勢に受容される。キリスト教国家は金持ち国家であり、先進国家である。日本は近代国家になったときから国策として金持ち追っかけをすすめた。ともかく金持ちはカッコイイ、金持ちのなんでもかんでも猿真似をしようという国になった。禁欲や抑制は美徳ではなくなった。

 解放された金持ち憧憬が、キリスト教教義ではなくて、クリスマス慣習だけを受容した。宗教や思想を受容したのではなくて、金持ちの生活スタイルを真似ただけであるから、スタイルは下半身だけに受容されたのである。

 クリスマス・イブというのは金持ちイメージの真似だけである。だから中身は空っぽでいいのである。ともかく金持ちの真似をして、金持ちと同じことをしていれば、満足なのである。社交やカップルの文化が興隆すれば、多くのマーケット、業界が潤えばいいのであって、キリスト教教義はどうでもいいのである。

 キリスト教、もしくは西洋国家からは一夫一婦制の規範もとりいれた。それ以前の日本は庶民において性の規範はもっとゆるく、稲の豊穣を祈る意味でも性交が隠微なものになることは少なかった。近代国家はそれを日本の後進性や恥だと思い、一夫一婦制や厳格な性道徳を根づかせようと努力した。

 処女や貞操の価値が高まった。これらの価値が高まるということは、それらが商品や市場に組み込まれるということである。性が禁止されるということは、性が有料になるということであり、お金を使わなければ性関係や婚姻関係が得られないという関係になることである。市場に組み込まれた性は抑制されて、強力なマーケットをかたちづくってゆくことになったのである。

 禁止されたもの――有料になった性は多大なお金やサービスをかけて手に入れなければならないものになった。戦後の終身雇用慣行もてつだって、女性の性は終身契約になり、生涯をかけてでも支払わなければならない資産級になったのである。

 クリスマスはそのような男女の関係に組み込まれた新たなマーケットだといえるだろう。厳しく抑制された性関係はぎゃくに有効なマーケットになるのである。

 いじょう、長くなってしまったが、禁止された性関係がぎゃくに聖夜を性夜にしたと私は考えてみる。キビシイ性関係が性のマーケットを広げる、そのからくりがクリスマスにあらわれているのではないかという私の一考察である。



12 31
2005

恋愛・性・結婚

性愛関係とは市場経済である。


 まったく考えがまとまっていないのだが、いちおう書きだすことにしよう。

 近代からの性規範というのは、セックスを生殖のためのものと快楽のためのものにきっぱり分けた。というか、セックスを生殖のためにするものだとして、それを一夫一婦制のなかに閉じ込めた。

 そのために抑圧された性は、売春やポルノ産業、AV産業などの巨大な市場をうみだすのである。つまりは人間の性は生殖に限定されるのではなく、快楽のためにおこなわれるということだ。厳しい性抑圧が、巨大なマーケットを必要とするのである。

 いわば闇市場と同じで、麻薬やピストルは禁止されるから高額な価格で取り引きされる。禁止されて高額にはね上がったのは生身の女性の身体であり、性である。性を禁圧された男性は、生涯の終身保証を約束して女性を囲うか(結婚)、ポルノ産業や性風俗産業にお世話になるしかない。

 高潔な主婦は売春婦を憎む。憎めば憎むほど、自分たちの価格は吊り上がるからである。性市場を闇に葬れば葬るほど、売春婦と自分の価格は高騰するのである。売春婦サマサマである。売春婦と主婦の価格は連動しているのである。性のおあずけは自分の価格を高める。

 しかしもちろん女性にも性欲はあるし、恋愛物語に昇華するだけでは不満は解消されないだろうし、禁圧された性関係は、おそらくはファッション産業の無闇な商品競争を激化させるだけなのだろう。女性たちは淫乱でないことを必死におたがいに守りあうように牽制し、それは自分たちの価格が吊り上がるからだが、おかげで男たちは巨大な性産業やオタク・マーケットに逃げ込む構造をつくりだしたのである。

 さっこんの晩婚化はこのことと関係があるのだろうか。女性の価格は高騰するし、消費の女王のために男は奴隷労働に従事しなければならないし、こんなことだったらアニメの美少女に萌えているほうがラクだし、AV産業のほうがナマ身の女性よりカネがかからないし、ラクだ。そうやって男はすごすごと恋愛市場から敗退していったのである。

 女性たちは男性支配社会に抗するかたちでキャリアをめざした者たちも一部にいたが、二重給与構造は変わらないし、男に囲われたほうがいまだに豪勢な消費生活を享受することができる。キャリアをめざせば、結婚もできないし子どもも生めない。男に囲われたほうがラクそうだと思うのだが、満足する消費レベルを維持できる男はいないし、イケメンもいない。男と女の関係は凍結するばかりである。

 そうして生涯一人の人だけに愛と性を捧げるロマンティックラブ・イデオロギーにもとづく一夫一婦性は破綻をきたそうとしているのである。不整合は結婚前の長いOL時代や結婚後の長い主婦生活にあらわれ、それはOLの海外でのリゾート・ラバーやイエロー・キャブ、主婦の不倫願望などによって表出したりするのである。

 これは一夫一婦制がもうダメなのかということなのか、それとも恋愛結婚イデオロギーが破綻しかかっていることなのだろうか。あるいはガス抜きの要求が高まっているだけのことなのか。

 結婚市場というものがなんらかの要因によって硬直している。経済市場なら売れなくなったら大安売りするのが当たり前のことなのだが、こと人間のこととなると尊厳やプライドといったものがあるから、そうやすやすとは安売りできない。自分たちが市場経済に売り買いされている商品という自覚もないし、したがって破綻の原因も市場に求めるということもない。ガンコな性規範や性道徳が感情レベルで埋め込まれているだけである。

 われわれは市場の中で取り引きされる商品にしか過ぎないと見ることで、これからの男女関係の展望は見えてくるのではないだろうかと私は思う。

 ▼参考文献
売る身体・買う身体―セックスワーク論の射程性的唯幻論序説「非婚」のすすめ消費される恋愛論―大正知識人と性  
 ▼ちなみに主婦は専業の売春婦だと知ったのは、私にとっては岸田秀の『性的唯幻論』や森永卓郎の『非婚のすすめ』などがはじめてだと思うが、こんなことははるか昔、大正時代の知識人によってやかましくいわれていたことが田崎英明編『売る身体/買う身体』からわかったし、ボーヴォワールもいっていた。私たちは恋愛至上主義によってそれを必死に隠蔽もしくは忘却してきたのではないだろうか。


04 03
2010

恋愛・性・結婚

老荘系男子と女の生きる道



 きのうTV東京で『たけしのニッポンのミカタ!~女の努力は報われるのか!?』をみた。けっこうおもしろかった。

バトルを煽る番組づくり

 おひとりさまと専業主婦の生き方をバトルにもってゆくやり方はテレビだなあと思った。女のケンカをはやしたてて喜んで見ているのだ。それはふだんはネコをかむった女性に対する皮肉がこめられたおもしろさがあるのだろう。つまりバケの皮をはがしてやるだ。

 ゲストは工藤静香とhitomiで、?だった。評論家がキレよくまとめてほしかった。まあ、若い女性はタレントやミュージシャンにあこがれるもので、彼女たちは生き方のリーダーでもあるのだろう。わたしはマスコミにあこがれるほど人生に害があるものはないと思っているが、なぜなら大半の人はマスコミの賞賛や注目と関係ない世界の片隅で生きなければならない人生をおくるからで、この人生のリスペクト方向は早めにそぎ落としたほうがいいと思っている。身近な目に見える人にあこがれをスライドしたほうが人生は堅実に生きられると思うのだ。勝間和代がゲストに出ていたが、カツマーがあこがれるのは彼女のスキルではなく、「称賛」であるような気がする。「マスコミ的あこがれ」があおられて、目標にされるだけだ。この称賛欲こそをとらなければならないものだと思うが。

 肉食女子や婚活女子がおもしろおかしく過激にあおられるようにデフォルメされていた。肉を喰らう女性と、草をはむ草食系男子というのはいかにも今風のとりあわせだ。若者の非正規率は半数をこえており、男は女性と家庭をやしなえる自信をうしなっており、消費からも撤退しており、若者男子は草食系をとおりこして、もはや「老荘系男子」にたどりついているのだろう。むかしの中国の山水画のように消えかかった存在になっている。女性たちはこのもはやアテにならない男子といかに生きてゆくかを戦略として対応してゆかなければならないのだろう。

もはや存在しないものを狩る女性

 肉食女子や婚活女子は商品選択をおこなうように高収入男子を狩りにいく。しかし彼女たちがのぞむ年収600万円の適齢期の男性はたったの4パーセントしかいない。同年代で高収入男をゲットしようと思ってもたいていの肉食女子は惨敗するしかない。まあ、おとうさんの年齢か、お爺さま社長を狙うしかないか。でもおとうさん年齢も早期退職者募集やリストラなどでかつての年収がガタ落ちして、ふった若者男子とおなじフリーターになってしまったりすることもこれから増えてゆくだろう。

 不安な時代を反映して専業主婦願望もかつてないほど高まっているという。男子の終身雇用願望も高まっている。くしくも政府の内閣府が終身雇用も年功賃金も終わってしまったのだと発表したばかりだ。終わってしまったものに待望をつよくのぞむとはなんとも皮肉なことか。たとえ正社員で就職できても40,50代でリストラされる確率はこの時代ではかなり高くなる。もはや新しい時代を生きてゆく覚悟をしなければならない段階にさしかかったのだ。

 専業主婦願望が強まっているわけだが、たとえ結婚や育児に入れようとも女性も自分で食ってゆく覚悟や準備をしておくべきだと思う。これはぜったいにそう思う。男はいつリストラされるかわからないし、自分がたえられなくていつ離婚してしまうかもしれない。女性のシングルマザーの貧困率はかなり高い、というよりか女性がひとりで生きることは貧困と隣り合わせだと知っておくのは必要なことだろう。三十代の女性が再就職しようと思ってもパートの仕事しかほとんど見つけられないだろう。ワーキングプア決まりの人生が待っている。男のように早朝から深夜まで働く生き方を、子どもをもったシングル・マザーができるわけなどないので、女性は低収入、低待遇に遇されるしかないのだ。男がきちっと定時で帰れるような社会になったら女性も活躍できると思うが。パートの仕事しか残されていない未来を防ぐ手立ては早めに打っておくべきだと思う。専業主婦なんて高度成長期に生まれた奇跡や当たりクジ並みの幸運だったと早めにあきらめたほうがいいだろう。

社会の80年周期

 経済は90年代からずっと転がり落ちている。下り坂の時代だ。80年代までは上り坂の時代であったが、90年代にそのような時代は完全に終わってしまった。いまの20歳が生まれたころだ。生まれたときから坂道を宿命づけられていたのだ。戦後から90年の約40年は上り坂の時代であった。戦後の焼け野原の復旧や自動車のインフラ整備や家電の普及によって奇跡的な成長をむかえた社会は90年に終わってしまったのだ。それからのち約40年は落ちてゆくと考えたほうがいいのではないかと思う。

 社会は約80年ほどの周期で復興や没落をくりかえしているようだ。それは社会のひとつのビジョンが構築されて完成し、崩壊してゆく過程がその年間くらいかかるということだ。家や店の勃興にたとえてみると一代目に創業者ががむしゃらにがんばり、二代目がその維持と拡大につとめ、三代目のぼっちゃんが放蕩と散漫経営で家を傾けてしまうのに似ている。およそ一代が20年と考えると、二代で40年、そのあとは没落の世代が待っているというわけだ。いまはもはやその坂道にさしかかっており、90年を分岐と考えるのなら没落の20年が過ぎ、あと20年はこのような坂道がつづくと考えられる。若者はこのような時代を生きなければならないのだ。日本では江戸時代におよそ70年周期でおかげ参りといってヤケになって伊勢参りが全国的に発生したという話があるから、まあこのくらいの周期法則があるとおぼえておいてもいいかもしれない。

男には頼れない時代

 成長期には男が家庭をやしなうという大黒柱の考えはなりたったが、もはや非正規の若者男子は自分の分だけ食っていくだけでカツカツだ。明日も知れない。男が養い、女が家庭を守るという構図ではこれからの時代はのりきれない。しかしこの男性扶養義務観が男女ともども根強いので草食系男子は撤退してゆかざるをえないのだ。それは扶養義務観がなさせる自責の気持ちからだろう。肉食女子はどこかに恐竜の生き残りはいないかと遠吠えするのだが、はたしてマッチョマン原始人はどこかに存在するのだろうか。豊かな社会に育った男子はもはや過大な欲望や目標をもたず、そこそこやまあまあでいいと思っているし、がんばる必要性も感じられない。環境がはじめから充足された草食系環境や老荘的環境であったのだ。ために時代が落ちる重力に抗うパワーをもちえないのだ。

 女性は自分の足と手で生きてゆかなければならない。男の手足をアテにできない。自分で食ってゆくという生き方がもとめられるのだろう。男に面倒を見てもらい、男におんぶにだっこの生き方が恋愛の至上なものとして刷り込まれたと思うが、旧来の恋愛観はあまりにもリスキーになったと考えるべきだ。男が生涯を養ってくれるという恋愛観は終身雇用時代が生み出した都合のよいイデオロギーである。終身雇用を約束された男がおなじように女性に終身雇用を約束したにすぎない。終身雇用がご破算になれば、男もそんな約束を守れるわけがない。40、50代でリストラされる男性にだれが終身保障を約束できるというのだ。会社が雇用を保障できなくなったら、男も女に保障の約束はできなくなる。現実の情勢はこのように迫っているわけだ。

 女性は「おひとりさま」を主体に生きてゆき、脇に男性や家庭があるという生き方を志向してゆくべきなのだろう。男の頼る生き方はあまりにもリスキーだ。肉食女子は男に頼った生き方でこれまたキケンだ。自分の生活圏を確保した上で男性と関係をもつ生き方がもとめられるのだろう。男が大黒柱としてアテにならない時代をひとりで生きてゆかなければならないのだ。恋愛観も男が面倒をみてくれる構図から、協力して助け合う、それも生活費をというふうに変えてゆかなければならないのだろう。恋愛観なんてただのひと時代の特殊な産物にしかすぎない。男は一生頼れる存在からたまに助けてくれる存在になるしかないのだろう。そのくらいの関係が男が稼げなくなった時代の生き方、考え方なのだと思う。

 「昭和」の時代が終わったという経済の意味を女性も深く考えなければならない時代になったということだ。もはやおとうさん、おかあさんの家庭や恋愛観ではこの時代を生きてゆくことはできない。歴史と教科書上の出来事になったわけだ。女性の方は男に頼って悲惨な目に合うより、ぜひ自分で自立して生きてゆけるようになってほしいと思う。


参考になる本
結婚帝国 女の岐れ道』 上野 千鶴子 信田さよ子
男と女の過去と未来』 倉地 克直 沢山 美果子
結婚の条件』 小倉千加子
恋愛自由市場主義宣言!』 岡田 斗司夫
明治の結婚 明治の離婚』 湯沢 雍彦
萌える男』 本田 透

結婚帝国  女の岐れ道男と女の過去と未来 (SEKAISHISO SEMINAR)結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

恋愛自由市場主義宣言!―確実に「ラブ」と「セックス」を手に入れる鉄則明治の結婚 明治の離婚―家庭内ジェンダーの原点 (角川選書)萌える男 (ちくま新書)

消費される恋愛論―大正知識人と性 (青弓社ライブラリー)02.jpg03hh.jpg

ふざけるな専業主婦―バカにバカと言って、なぜわるい! (新潮OH!文庫)負け犬の遠吠え (講談社文庫)

07 06
2010

恋愛・性・結婚

「金活(キンカツ)女」はなぜ不快なのか

 「婚活女」という言葉があるが、高収入男だけを漁る女を「金活(キンカツ)女」とよばせてもらおう。結婚が目的というより、カネや贅沢な暮らしだけが目的だからだ。カネづるだけがほしいのだ。どうして結婚はこういうカネ目当てだけの打算になってしまったのだろうか。男と女の結婚にはそういう自己利益追求だけのあさましい面があるのだろうか。

 次の投稿ではカネ目当てに結婚した女性が収入減に悩むマンガみたいな嘆きがつぶやかれており、もうひとつの記事では高収入男はカネ目当ての婚活女を信用せずに依存する女を敬遠する傾向が描かれている。

 歯科医師の夫との結婚を後悔…(愚痴) : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE
 高収入な男性が、求める女性、敬遠する女性 西郷理恵子

 バブルころにピークにたっしたのだが、男を年収だけで選ぶ恋愛や結婚もずいぶんふえた。いまでも年収600万を希望する女性も半数をこえるが、適齢期でそれだけ稼ぐ男は3.5%しかいない。女性は男にカネだけを求める傾向が戦後強くなり、バブル期にピークにたっしたのだが、それ以後養えない男がふえたので専業主婦結婚は不可能になりつつある。カネ目当て結婚は中州にとりのこされようとしている。

 なぜ女性の結婚はこんなあからさまなカネめあてだけの結婚になったのだろう。どうして女性は自分の利益だけを奪いとろうとして、互酬性や道徳を見失ってしまうのだろう。しかしこれは女性だけを非難すればいいものではなくて、すべての人間も自分の利益だけが見えてお返しを考えない行動や視野も多いのではないかと思う。自分の利益だけを奪ってお返しや見返りをまったく考えないし、見えないのである。他山の石としなければいけない。

 金活女が不快なのは自分の利益だけを奪いとろうとするからだ。人間関係においては互酬性や見返りを与えるのが基本のルールである。なにも返さないで利益だけを求めるのは泥棒や盗っ人となんら変わりはない。店でモノはもらおうとするが、お金を払わない行為と同じである。金活あるいは婚活ではそれが平気な行動基準になる。店員に押し売りをされて不快な思いをしたり、営業やセールスがいやなのは自分の利益や儲けしか考えない店員や営業員がいるからだ。こちらの利益や得になることが考えられないで自分の利益だけを考えている。互酬性や見返りが考慮されない行為は不快なのである。

 どうして婚活では自分の利益だけ見えてお返しが見えなくなるのだろう。女性であることだけが見返り、あるいは報酬であるという基準があるからかもしれない。女性はそれだけ男に買われ、価値のある代物だという通念があるのだろう。セックスであったり、出産能力、育児・家事能力が男に買われる見返りだということだ。その価値観が男に高く買われる価値がある、年収1000万の価値や見返りがあるという自然の思い込みになるのだろう。女性的価値を返すのだから、一生安泰の生活が保障されてとうぜんだという思い込みができるのだろう。

 バブル期までは女性であるという価値だけで見返りがあると考えられたのだろう。高度成長で経済も富も拡大していたからだ。しかしバブル崩壊後、高値になった女性に生活を保障できる男は少なくなった。経済が右肩下がりで、先行きが不透明で年収も下がりいつリストラや非正規に転がり落ちるかわからない男性もふえた。高値女は買えないばかりか、ふつうの女性すら養えなくなった。終身恋愛結婚モデル、専業主婦モデルが崩壊したのである。デフレ時代というのはモノの価値が下がりつづることだが、女の価値も下がったのである、あるいは購買力をもたない男性がふえたのである。

 金活女は高度成長モデルで生きている。男が大黒柱になり、妻や家族を養うという結婚スタイルである。見返りはただ女だけであるという価値観である。しかし低成長時代では男は妻も家族もひとりで養えない。先行きいつ事業や仕事がいきづまったり、リストラや低収入の憂き目に会ってしまうかもしれない。女性は女であるという理由だけでは養えなくなり、稼ぎや収入の補助が求められるようになった。男の見返りは女であるという価値観だけではなく、稼ぎや収入も求められるようになったのである。金活女の見返りはマイナスになり、満たされない価値となったのである。

 金活女というのは戦後の恋愛結婚モデルのゆがみを拡大表示しているものだと思う。戦後の結婚はカネだけめての結婚を増殖させた。女性は収入の少ない道や補助の仕事しかなかったから選べない選択であったかもしれないが、男の収入にあぐらをかくことがとうぜんであるという考え方をもたらした。それはカネだけめあての金活をうみだすのはとうぜんの帰結だったのだろう。専業主婦モデルはカネがある男と結婚するほうが有利であるという考え方を導き出した。男はカネづるになったのである。戦後の結婚モデルの悲劇であったと思う。カネだけめあてのバブリー女に気づきだした男は二次元やオタクに逃げるしかなかったのである。

 男はカネがないときやカネの価値だけではない人間の価値と婚約してほしいと思っている。その人間と結婚してほしいと思っている。戦後の婚活女はカネや収入だけの結婚を導き出した。女の互酬性はカネだけになってしまったのである。どうして戦後の結婚は人間ではない、カネだけと結婚するかたちを生み出してしまったのだろう。男と女の関係はもともとそういう関係であり、その部分があからさまに拡大されたのが戦後の結婚モデルだとはいえるだろう。男は女の性をもとめて、女はカネ、生活の安定だけを求める。それは生物学的条件かもしれない。しかし互酬性、見返りをどこかで掛け違えたとしか思えない。戦後、女の価値もバブリーだったのであろう。そんな勘違いした思いのままで、男と女の関係がうまくいくとはとても思えない。

 男は人間性の互酬性を求めている。女はカネの互酬性だけを求めているとしたら結婚はうまくいかない。女性がお返しをするのは性や出産だけではなく、男が収入を減らしたり、困ったときでも助ける互酬性である。戦後の結婚モデルではカネの要求を満たさなくなった男は切り捨てられるのである。女は互酬性を満たさなくなったとそこで思う。

 互酬性をカネだけに求めた戦後の恋愛・結婚モデルの大いなる悲劇、不幸だったと思う。オタク男はこのカネづる関係に幻滅し、逃げてきたのである。それはロリータにいってしまったのだが、この互酬性の関係をあらたに描き直さないと悲劇はずっとつづくのだろう。

 結婚をカネと性の交換ととらえるのなら利益の奪い合いはますます浅ましさを増すのだろう。人間性の交換であると新たにリセットした考えを生み出さないことには男女間の信頼は生まれないのだろう。金活女はカネめあてだけであり、盗っ人であり、泥棒であるという考え方は厳しいものであるが、戦後の結婚モデルを考えなおすひとつのきっかけになるのだろう。金活女は自分の利益だけを求めて、男の労働の苦しみ、収入の減少に理解を示さないばかりか、切り捨てるのである。カネだけめあての女と結婚したい男なんているだろうか。


参考文献
萌える男 (ちくま新書)性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫)やまとなでしこ DVD-BOX結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

01 26
2012

恋愛・性・結婚

金より愛が大事というメッセージが金儲けの世の中を止めない理由

 金より愛が大事だというドラマや映画はあふれているが、どうしてその言葉が空疎に思えたり、現実にムリだと思えてしまうのだろう。

 たとえば『ALWAYS 三丁目の夕日』では「金より愛が大事」というテーマに貫かれているし、昭和三十年代の「貧乏でも幸せだった」というメッセージが流されている。松嶋菜々子主演の『やまとなでしこ』(2000年)では愛より金を貪欲にとる女性が主人公だったが、さいごには金より愛をとって感動を与えた。

B0014Z968WALWAYS 続・三丁目の夕日[DVD通常版]
バップ 2008-05-21

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▲売れない作家・茶川は見ず知らずの子どもを養うために一念蜂起して芥川賞をめざすが。

B00005HW84やまとなでしこ DVD-BOX
ジェネオン エンタテインメント 2001-03-23

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▲女の幸せは金持ちの男と結婚すること。


 金より愛が大事という物語は感動したり、納得するのだが、どうしてうさんくささや上っ面のことをいっているようにしか思えないだろう。現実にはまったく効き目がない言葉がどうしてえんえんとたれ流され、感動が与えられるが、なにも変わるわけでもないのだろう。

 金より愛が大事だというメッセージはもう一段考えてみると、けっきょくは愛ゆえにもっと金を稼ごう、愛する人のために豊かな暮らしを与えたいとなってもっと金儲けに邁進する構造になっているのではないか。

 金より愛が大事だいうメッセージは金を否定したわけではなく、皮肉なことにもっと金を稼げ、金儲けに邁進しろというメッセージを発しているのではないか。

 金より愛によって選ばれた男はハッピーエンドに終わるわけではなくて、現実は良心の呵責や金がないことの引け目をずっと感じることになる。金がないことを許されたわけではなくて、金がある豊かな暮らしに程遠いことがたえず念頭にのこる。物語はそこで終わっても、現実の男はそこから生活を支えなければならない。ゆえに金より愛の物語は、現実の男に金儲けの精進道を走らせることになるのだ。

 金より愛は金を否定したわけではなく、約束や交換の信認や確証がずっと高度な約束になるにすぎないのではないか。金で選べば選択は消費やビジネスに近いかたちになり、価値や有効性が減じればかんたんに契約放棄や棄却が可能になる形態ではないのか。

 それにたいして愛で選ばれたものは価値がなくなったら捨てたり、約束を軽く放棄するというわけではない。金より大事な愛によって結ばれている。交換や契約において信認や信頼がより結束された間柄である。

 金より愛が大事だというのはビジネスや消費のように蓮っ葉でドライな契約ではなくて、より信頼感や信認を誓う関係に近いものを選べということではないのか。金で選べば、ビジネスや消費のようにかんたんに捨てられたり、契約を放棄される可能性がある、ゆえに愛を選べということではないのか。甘い綿菓子のメッセージではないのである。

 金か愛かは対立するものではなくて、愛は金をドライブするものだと指摘していたのは岸田秀である。『性的唯幻論序説』のなかで資本主義というのはセックスを買うためにどこまでも金儲けするシステムになっているのだと指摘した。男はセックスを買うためにどこまでも稼がなければならなくなった、それが飽くなき資本主義の根本エンジンなのだと暴いてみせた。

4167540118性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫)
岸田 秀
文藝春秋 2008-09-03

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 終身婚の時代には女のセックスを買うためには男には生涯の生活扶養が必要である。この女性の生涯にわたる禁欲と貞節を手に入れるためには生涯の生活を保障しなければならない。それでどこまでも金を稼ぐ必要が生まれ、資本主義は止まらないというわけである。

 ドラマや映画は金と愛は対立するものだと説く。じつは愛を手に入れるために、愛を守るためにどこまでも金を稼ぐ必要が生まれたのが現在の終身愛や終身婚がうたわれる世の中ではないのか。

 金と愛が対立するものと描かれるのは、愛を手に入れるためには金を稼がなければならないということであって、金より愛だけが大事だといっているわけではない。愛を選ぶから金がもっと必要だ、稼がなければならないということではないのか。

 金がないことが愛を燃焼させてもっと金を儲けたいという原動力に火を点けることなのである。

 なるほど金より愛が大事だというメッセージはいっこうに社会を変えないで、金儲けの世の中をどこまでもつづかせるわけだ。


01 12
2014

恋愛・性・結婚

新自由主義は「男らしさ」の理想、福祉国家は「女らしさ」の理想?

 G.R.テイラーの『歴史におけるエロス』のなかで、性行動の変化と対立はふたつのタイプの対立によって説明できるとされた。それぞれ父親を手本にする者を「パトリスト」と仮によび、母親を手本にする者を「マトリスト」とよんだ。

4403120210歴史におけるエロス
G・R・テイラー
新書館 2008-10-23

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 パトリストは「政治的に権威主義的で保守的」になる。マトリストは「政治的に民主的で進歩的、革命的」になるとされた。

 それぞれ、かんたんに「男らしさに向かう社会」と「女らしさに向かう社会」ということもできると思う。図表では以下のようになる。


パトリストマトリスト
セックスに対する制限的な態度セックスに対する許容的な態度
女性の自由の制限女性の自由
女性を劣等で罪深いと見る女性に高い地位を認める
幸福より純潔を高く評価する純潔より幸福を高く評価する
政治的には権威主義的政治的には民主主義
保守的、反革新進歩的、革命的
調査、研究を信用しない研究を信用しないことはない
自発性の恐怖、禁止が強い自発性、自己顕示
同性愛への深い恐怖近親相姦への深い恐怖
性差の誇張(服装)性差の減少
禁欲主義、快楽への恐怖快楽主義、快楽を歓迎する
父親宗教母親宗教



新自由主義、社会主義はそれぞれ男と女の理想?


 このふたつの区分けは、そのまま経済主義の「新自由主義」と「福祉主義・社会主義」にあてはまることがわかる。保守主義と社会主義はいってみれば、男性性の志向と女性性の志向の対立と見ることもできるのではないのか。

 男らしさは独立や自立を理想とし、女らしさは平等や保護を理想とする。この男らしさ、女らしさの志向性と理想が経済主義に向かったのがそれぞれ保守主義と社会主義だということもできるのではないのか。

 経済主義の理想はそれぞれ男性性と女性性の志向の違いによるものなのだろうか。

 男は平等や保護の思想を屈辱に思い、女は独立や序列の思想を冷酷に思う。性差による理想がこのふたつの思想にあらわれているのではないのか。男性志向と女性志向の社会はそれぞれべつの理想社会に向かっているのではないのか。


女性化・安定志向化された戦後日本

 
 戦後の日本社会は福祉主義による保護や依存を理想とする社会をつくりあげてきた。大企業信仰のような安定志向もまさにマトリスト的理想、女性性を志向する社会をかたちづくってきたのではないのか。

 このような保護的な思想にたいして、男性性を志向するものにとって自立や独立をうながさない社会は屈辱や男らしさを奪うものとして感じられる。男は人に頼らない自立を理想とするものであり、感情をそぎおとし、人に頼ること、保護されることを恥だと思う。

 しかし戦後の日本は母親的な理想を男もとりこみ、大企業信仰や安定志向を目標とするものとなってきた。男も女性的理想を自分のものとしてきたのである。戦後の日本社会はいちじるしい女性志向、マトリスト志向をまとった社会になったのではないのか。戦後のピーク・バブル時代には「女性の時代」といわれるような女性の頂点の時代をむかえた。

 このようなきっかけになったものはもちろん先の大戦による敗戦と戦争放棄によるものだろう。軍事力だけではなく、戦後日本は「男性性」もいっしょに捨てたといえる。もっとも社会の福祉国家化や社会主義化は世界的な趨勢だったということもできるが。

 こんにちの右傾化や自虐史観批判といった動きも、男性性の回顧と復活という見方もできるのではないのか。「男らしさ」を求める人たちが群れをなして集まるが、「軍国化の懸念」はよういにかれらの台頭をゆるさない。男性性の禁圧された時代といえるのであり、男らしさの解放はなんらかの出口を必要としているのではないのか。


男性性に向かう社会、女性性に向かう社会


 歴史には男性性に向かう社会と、女性性に向かう社会の志向が表面に躍り出た時代がとうぜんにあっただろう。戦争時にはとうぜん男性性のたくましさが至上になる時期であろうし、平和時には女性性の理想が社会を染めあげるのだろう。

 戦国時代は男らしさの理想が亢進したことだろうし、女性らしさ、女々しさをあらわすような言動・行動は最大限の蔑視や屈辱を感じさせられる趨勢になっていたことだろう。さもないと命を惜しむ逸脱者は軍事力にならないからだ。明治から戦前昭和にかけての社会も男性性をかなり志向した社会に染めあげられていたのではないのか。

 性差による理想はあまりにもたんじゅんだから忘れられていることが多いが、思想や理想のなかには性差の志向がまぶしこまれていることが多いと自覚することも大切なのではないか。性差の理想を追求しているにすぎないと自覚することも社会趨勢の反省や歯止めには必要なことだ。極端にならずにバランスをとるために男女と性差はこの社会に存在するのではないのか。

 それぞれの性差の理想が暴走し、歯止めをなくしたときにどのような弊害や欠点が現われ出るかを自覚した上で、時代の趨勢を制御することが必要なのでないのかと思う。

 男らしさ、女らしさの理想と志向はこの社会に最善の制度と情勢をつくりだすだろうか。それぞれの理想が極端になったとき、別性の生き方は困窮に窮するのではないだろうか。

 もうすこしこの性差による社会志向の問題の発見とありようについて追求したくなった。


▼以上のようなテーマはこれらの著作のテーマと合致するだろうか。
男のイメージ―男性性の創造と近代社会男の歴史―市民社会と「男らしさ」の神話 (パルマケイア叢書)ナショナリズムとセクシュアリティ―市民道徳とナチズム (パルマケイア叢書)セクシュアリティの帝国―近代イギリスの性と社会 (パルマケイア叢書)「男らしさ」の人類学

日本人の「男らしさ」 -サムライからオタクまで 「男性性」の変遷を追う-「日本男児」という生き方“女らしさ”の文化史―性・モード・風俗 (中公文庫)「女らしさ」はどう作られたのかオトメの身体―女の近代とセクシュアリティ

「女らしさ」の社会学―ゴフマンの視角を通して戦う女、戦えない女: 第一次世界大戦期のジェンダーとセクシュアリティ (レクチャー第一次世界大戦を考える)母性という神話 (ちくま学芸文庫)成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)


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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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