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11 22
2005

恋愛至上主義社会論

アンチ恋愛結婚イデオロギー


 恋愛は無条件に献身的な愛をささげるものだと思われている。それに対して結婚は経済的・社会的な機能を補完するものである。こんにち、恋愛結婚とよばれるものがあまりにも経済主義的・功利主義的になったために若い男女は逃走したり、ひきこもったりすることがかなり多くなってきた。

 無条件の愛を経済功利主義とくっつけようとするから、ぎゃくに若者の憎悪をみちびくのである。あなただけを愛するといっても、じつは年収や身分を狙っているとするのなら、恋愛を美化する男には噴飯ものだろう。ロマンティック・ラブは功利主義を許さないのである。

 女性の約3割が年収400万を期待しており、約4割が600万以上希望、あわせて7割が400万以上をのぞんでいる。それに対して男性の約3割が年収200万以下、約4割が400万以下、トータルで7割が400万以下という東京都の未婚男女のデータがあらわすように、女性は経済功利主義でしか男を見ていない。これは恋愛というよりか、経済活動もしくはより有利な就職活動といったほうが近い。恋愛のイデオロギーはここで破産している。というか男女双方の憎悪をみちびくだけである。

 おまけに男の約6割が結婚のデメリットとして、自由に使えるお金が減ってしまうことをあげている。女性は約4割。若者は確実に恋愛や家族に消費するより、自分に消費したいと思っているのである。そのラディカルなあらわれが、アニメ・キャラに萌えるオタクである。かれらは愛情や性欲を現実の人間関係に求めることをすでに拒否してしまったのである。若者のいくらかが過剰に金を消費しなければならない恋愛の矛盾や欺瞞にいや気をさしていることだろう。

 恋愛感情というのは一時的なものであり、愛情は醒めたり、変質したりするものである。それを経済的な機能である終身的な結婚と結びつけたとき、なにが起こったか。愛への不信と憎悪、拒否がもたらされ、離婚の増加と晩婚化がすすんだ。崇高で無条件な愛が、経済的打算で計算される幻滅を味わわなければならなかったのである。

 90年代に「純愛ブーム」が起こったとき、一方では「三高ブーム(高収入・高学歴・高身長)」が起こった。恋愛結婚への経済功利主義に対する不信という流れで見てみると、これはシャブのように切れる効き目を何度も打ち直さなければならかったということが見えてくる。カネにとち狂っているのに、一方ではこれは「純愛」だと何度も主張しなければ自らを納得できなかったのだろう。恋愛結婚と功利結婚はここで必死に抗争していたのである。

 恋愛信仰はここで徹底的に商業化され、「恋愛資本主義」として「マスコミ・ファシズム」が起こることになった。「恋愛しろ」「セックスしろ」「彼氏・彼女がいなのは恥である・人間ではない」「恋愛しないものは人間にあらず」「童貞・処女であることは恥である」といった強迫めいた雰囲気が社会をおおったのである。恋愛資本主義は強迫と強制をともない、若者の不安を煽情することによって、巨大な「ファシズム・マーケット」として成熟したのである。

 強迫されたものは同様にだれかを強迫しなければ癒されない。恋愛マーケットに脅された人びとはオタクをターゲットにしたのである。犠牲者は犠牲者を生み出したのである。恋愛の強迫めいた商業活動に従事した者たちは、恋愛や性欲を自分の消費のみで満たそうとするオタクたちを異端の徒として非難したのである。かれらはともに「恋愛ファシズム・マーケット」の犠牲者たちなのだろう。若者たちはこの絶望と荒涼としたファシズムの嵐のあとになにを見い出すのだろうか。

 80年代に「女子大生ブーム」が起こったあと、「女子高生ブーム」にまで降りてきて彼女たちの一部は「援助交際」をおこなった。恋愛や性は商品化され、性を売買することに罪悪感や羞恥をもたない女の子をうみだした。

 というよりかこれは恋愛結婚のとうぜんの帰結である。女性はみずからの恋愛と性を資産として売買してきたのである。ジョシコーセーは「みんながやってることなのになぜ悪いのか」と思ったことだろう。恋愛結婚は隠蔽された個別的な商取引といえるが、彼女たちはそれを市場で切り売りしたのである。恋愛のみならず、自分の性すら商品化されると知ったとき、彼女たちは恋愛=処女の価値のイデオロギーなどちっとも信じなくなっていたのだろう。

 恋愛結婚イデオロギーなんてもう死んでしまう必要があるのかもしれない。私たちは新しい認識を必要としているのだろう。あるいは恋愛と結婚を完全に切り離して、べつべつのものと考えるべきなのかもしれない。結婚とは恋愛ではなく、経済取引であり、かつ功利主義なものであると。でないと恋愛の至上性は私たちを傷つけるだけである。結婚しない男女を増やすだけである。私たちは恋愛結婚というイデオロギーのために現実をあまりにも見誤ってしまうのである。

日本の童貞もてない男―恋愛論を超えて478850490111.jpg掟やぶりの結婚道―既婚者にも恋愛を!

11 27
2005

恋愛至上主義社会論

恋愛の売春化と男の女性拒否


 本田透の『萌える男』(ちくま新書)は恋愛結婚は死んだことと、オタクの恋愛資本主義拒絶を宣言する本であった。恋愛結婚を完璧に否定する姿勢は度肝を抜かれた。そこまで言い切ることができるのかと。

 この数日間そのことについていろいろ考えてみたのだが、問いがまとめられないせいか、あまりいい考えは浮かんでいない。結婚の人類学でも読んで、結婚の本質や相対化でもさぐろうかなとでも思ったのだけど。いまのところ恋愛結婚の終焉を告げた本は出ていないと思う。

 恋愛結婚というのはバブル期に顕著になったのだが、かなり経済功利主義である。女が男の経済力を搾取するような構造が露呈した。男はミツグ君やアッシー君とよばれ、レストランやブランド品で消費するトレンディドラマのような関係を強迫された。

 このころからオタクは現実の女性を拒否し、二次元の美少女に萌えはじめ、女性は消費スタイルを落としたくないがために非現実的な年収1000万の医者と結婚したいと思い、晩婚化の道へとつきすすんだ。男と女の双方がそれそれの利益へ向かって、非現実な夢に爆進しはじめたのである。

 恋愛結婚というのはそもそも市場化や貨幣化の拒否であったと思う。カネで買われるような関係にならないことが恋愛であったはずだ。恋愛というのはそれでこそ成立する夢であったのである。しかしバブル期にむき出しになったのは、消費スタイルを維持するための男の経済力だけが求められる経済的関係であった。

 恋愛が商品化されるにしたがって、恋愛は「売春化」してしまったのである。結婚は経済化に特化しすぎたのである。経済的に得するのは女性であり、女性はその利益に盲進し、男はカネだけかよと恋愛にゲンメツし、女性という高額商品をあきらめ、晩婚化か二次元の女性に救いを求めるようになった。

 戦後の社会において女性は労働市場から閉め出された。女性の生きる道は結婚しかなかった。女性差別や男性社会への隷属化がおこなわれ、それはフェミニズムからの男女同権運動として反対が叫ばれるのだが、それは同時に女性による男性への経済力搾取という構造も宿していたのである。

 女は男に非現実的な経済力を要求し、男は女に非現実的な萌える女を要求し、恋愛は売春化し、男と女は出会うこともなく、晩婚化と少子化が進むことになった。

 恋愛というのはおそらく自然な感情であると思う。性愛のエネルギーにつき動かされるのが人間というものである。しかし四六時中、性愛のことばかり考えて暮らす人間は歴史上稀有な存在であったはずだ。人はふつう経済や政治、戦争などにおもな活動をついやすのである。70年代に政治に幻滅した日本人は恋愛にのぞみをたくしたためにそれは莫大な利益をもたらす巨大なマーケットとなった。ポップソングは愛ばかり唄い、物語は恋愛ばかり謳い、「恋愛しないものは人にあらず」という強迫マーケットとなった。

 恋愛が商品化されればされるほど、恋愛は金銭関係になり、売春化していったのである。純真な純愛を信じる男たちは、アニメアイドルに萌えることによって荒涼とした世界から目を背けるしかなかったのである。

 オタクというのは性愛の経済化にたいするけな気な拒否であったというのをわれわれは理解していただろうか。貨幣化する社会の、貨幣化されない最後の砦を恋愛関係に求めたのだろう。しかし現実にはミツグ君やアッシー君の恋愛経済の亡者のような存在があらわれ、男はえらく傷ついたのだろう。純愛はそこで死滅したことを悟ったのだろう。

 オタクは恋愛資本主義に本能的に逆らっているのである。恋愛資本主義はかれら異端者を排斥しなければ、その正統性と至上性を主張できない。ここで争われているのは意外なことに、恋愛の商品化(売春化)とアンチ恋愛商品化(純愛)である。恋愛マーケットと現実の女を拒否したオタクは、この「恋愛至上教」のひきこもり・ニートなのである。

 女性ももちろん純愛を謳っているはずだ。愛かカネかと問われれば、だれもが愛と答える。しかし女性はあまりにも消費経済にとりこまれすぎたのである。自分の消費スタイルを死守するためには金を重視せざるをえない。したがって男に過剰要求である高額贈与を求めてしまうのである。そして男はますます恋愛ひきこもりになってゆくのである。

 こんがらがった糸はどこで解きほぐせばいいのだろうか。なかなか考えが整理できないので、今回はこのくらいにしておこう。


12 02
2016

恋愛至上主義社会論

恋愛主義はどこから強迫になったのか

 男女の恋愛離れが深刻になり、独身男性の7割、独身女性の6割が交際相手のいない時代になった。


 独身男性7割「交際相手いない」 「性経験なし」も増加 産経ニュース 

 「恋愛結婚が当たり前」だった時代の終焉と、これから シロクマの屑籠


  80~90年代の恋愛ソングの大流行、純愛ドラマの大ブーム、「恋愛しなければ人にあらず」の時代から隔世の感がある。恋愛は「しなければならないもの」、恋愛をしないと「あいつはダメなやつ」と侮蔑される時代にくらべて、自由になったのか、それとも「できないやつ」が多数者になっても開き直れる時代になったのか。

 恋愛はそもそも自由や解放のためになされるべきものであった。それが強制的、強迫的なものになり、いつしか恐怖や強迫でおこなわれるものになっていった。クリスマスのカップル強制の雰囲気が、日常社会をおおっていったわけである。

 自由に選択してもよいはずのものが強制となってゆく時点で、恋愛は強制労働的なものに堕していった。あのころの反発をおぼえているころの身としては、いまの独身男女は勝利なのか、敗北なのか。

 問題にしたいのは、自由が強制に転嫁する時点である。よきもの、すばらしきものが、ある時点で、強制的、強迫的なものになる。恐怖を利用した慣習や行為になぎ倒されることほど、屈辱で腹立たしいこともない。多くの人はそれでも恋愛強制の雰囲気にのみこまれて、恋愛をおこない結婚していったのだろうが。

 恋愛はマウンティングや侮蔑のツールに使われやすい。「まだ経験していないのか」、「彼氏、彼女がいない」、「童貞」や「処女」は人を侮蔑する攻撃になる。「もたないもの」は侮辱され、軽蔑される立場に立たされた。侮蔑される恐怖に駆り立てて、若者は恋愛に駆け込んだ、というか逃げ込んだといった表現が近い。それほどまでに恋愛の恐怖感は蔓延していたのである。

 ひとむかし前の団塊世代も結婚しない独身であることに恐怖感をいだいていて、結婚していないと「あの人はおかしなところがある」といって後ろ指をさされないために大多数のものが結婚した。「おかしなところ」というのは、「性的異常」や「同性愛」をニュアンス的にふくむものであった。

 恋愛や結婚は、攻撃されたり、排斥されないための「証明書」や「パスポート」のような「駆け込み寺」の様相を呈していた。恋愛や結婚は、恐怖からの逃走によってなされることが多かったひどいシロモノだったのである。

 「みんながするから、しなければならないもの」はこのような恐怖を利用しておこなわれる。その理由や妥当性はまったく吟味されなく、ただ「みんながしているから、しなければならない」と強制される。

 この恐怖に負けるから、人々は慣習やみんながしていることをおこなう。そこに自由意志や自由選択はない。ただパヴロフ的な恐怖からの逃走があるだけである。

 この恐怖からの解放がない限り、人は慣習や多数者に自由を奪われてゆくだろうし、ロボットや機械のように多数者の反復行動の形骸になる。この強制に警戒し、たちどまり、この恐怖の検討がおこなわれないかぎり、人は社会の奴隷やロボットとなりつづけるだろうし、これからもくり返されるだろう。

 商業や産業は、人々の恐怖を煽ることによって拡大する面がある。コンプレックスや容姿、もたない屈辱感などを煽って、人より劣っていることの恐怖を攻撃し、そこに商業的拡大をもとめる。われわれはこの恐怖産業についての警戒心やリテラシーをもつことが求められる。

 劣等感や恐怖心にかんたんになびいてはならないのである。改善や解放をすぐに求めずに、その恐怖心の源、原因がどこからやってくるのか見極めるゆとりが必要なのである。

 強制や強迫が世の中をおおっているとき、オルタナティブは趣味や産業の面でおこなわれる。たとえばオタクやアニメは恋愛主義や恋愛市場からの逃走をたぶんにふくんでいるし、趣味の多様性は恋愛以外の生きる楽しみを増やしたし、コンビニや家電の充実は家事労働の重要性を減らし、家事結婚の必要性を減らしていった。

 なにより結婚というのは男性にとっては、労働やお金をもっと稼がなければならなくなる負債を増やすことである。女性にとっては無銭労働によって家事や育児の負担に人生を奪われることである。そういうことで結婚、ひいては恋愛にたいする躊躇心というものを増大させていったのだろう。

 恐怖によって駆り立てられていた恋愛や結婚というものは、趣味や商業の発達によって、その成立根拠の根の部分をそぎ落としていったのである。気軽にできる趣味、どこでも気軽に手に入る食べ物といった産業の発達によって、結婚も恋愛も、強制によるインセンティブをそがれていって、若者の恋愛離れや晩婚はすすんでいった。

 恋愛結婚というのは人々に恐怖をあたえ、排斥や侮蔑の恐怖からの逃走をうながし、それはオルタナティブ的な産業の勃興をもたらし、自壊していったというのが、こんにちの恋愛離れにあらわれているのかもしれない。

 恐怖によって強制される慣習や多数者の教訓を、この恋愛主義の勃興と終焉は見せていったと思われる。侮辱や軽蔑を恐れて、多数者やみんながしているからすることは、これからも社会につづいてゆくことだと思う。恐怖から逃走して多数者になびくとき、この恋愛主義のサンプルを思い出してほしいものである。


▼恋愛主義というのは、まことに「自由からの逃走」「多数者の専制」のサンプルであったと思う。
日本の童貞 (河出文庫)萌える男 (ちくま新書)個人と社会―人と人びと自由からの逃走 新版自由論 (岩波文庫)

恋愛しない若者たち コンビニ化する性とコスパ化する結婚 (ディスカヴァー携書)結婚しない男たち 増え続ける未婚男性「ソロ男」のリアル (ディスカヴァー携書)(090)未婚当然時代 (ポプラ新書)非婚ですが、それが何か! ? 結婚リスク時代を生きる恋愛の社会学―「遊び」とロマンティック・ラブの変容 (青弓社ライブラリー)

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