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04 03
2004

知識論

私はなにを考えてきたのだろう


 私の思索と読書はだいたいある時期ひとつのテーマが決まってそれを集中的に掘り下げるパターンである。いろいろ読んでいるうちにこれを深く考えたいと思うテーマが見つかって本なり思索なりをそのテーマに向かって掘り下げる。

 てんで系統だった思索ではなくて、いきありばったりである。いなごの大群みたいなものである。だからテーマとテーマの連関はほとんどない。ひとつのことを専門的にやっているというわけでもない。全体的に見て私はなにを考えたい、知りたいと思っているのだろう。

  ということでいまままで考えてきたことおおよその概要をまとめて概観できるようにし、整理したいと思う。連関や系統はあるのだろうか。



恋愛論・性愛論      

 個人的にうまくいかない恋愛のために知ろうとした女性の気持ちのこと、心の通じ合い、性のありようなどを探究した。やっぱり男と女の感情の違い、文化の違いは知っておくべきだろう。

知識批判   
 思想家や知識人に憧れることによる弊害や害悪を考えてみた。権力への欲望や栄光への欲望、階層秩序の欲望などが知識人から見えるだろう。

専門家批判   
 商業化・専門化がすすむということは個人のひとりで生きられない無能力がすすむということである。また専門家は個人の不安をあおることによって利益を増進する。

筋肉感情論
 感情と筋肉のかかわりについて調べてみた。腹が立つときには肩の筋肉をいからせたり、不安なときは胸や腹の筋肉を固めたり。感情とは筋肉によって起こされるものなのである。

チャネリング

 霊的存在が語るというソートー怪しいものだが、心の癒し方・扱い方、また身体や物質にたいする世界観がものすごい。ほかは排してもこの部分は謙虚に学ぶべき。

社会生物学

 おもに竹内久美子の著作を読んだが、社会のありようすべてを繁殖戦略から読み取ろうとする姿勢は瞠目ものである。経済も文化も芸術もサブカルも社会現象も繁殖戦略から読み解くべき?

五感のヒエラルキー
 視覚が優遇され、嗅覚、触覚、聴覚、身体感覚が蔑視・差別される現代。視覚優位によって人間の感覚はどんなふうにゆがみ、身体の喜びや感覚が抹殺されてきたことだろう。視覚優位文明は生の貧困を招く?

童話解釈

 子供のころに読んだ童話にはどんな意味やメッセージがこめられていたのだろうか。フロイト派、ユング派、歴史学者からのさまざまな解釈と読み方が感嘆と楽しみをもたらす。


サブカル分析

 映画やマンガなどのサブカルにはどんな意味やメッセージがこめられていたのだろうか。読み解くためにはあまりにも学術的成果は少なすぎ。

民主政治と国民戦争
 民主政治とは国民総力戦のご褒美にすぎない。国家から保障される人権、平等、選挙権、年金、健康保険などは国のために死ぬ交換があるから保障されているのである。タダでもらえるものなどなにもない。代償はあまりにも大きい。

終身愛と有料セックス資本主義
 一人の人に一生の愛を誓うというロマンティック・ラヴとは企業の終身雇用の産物にほかならない。自己犠牲をともなって終身保障は約束される。タダではない。代償は一生分である。近代は女の性が抑圧され、有料になり、男はどこまでも働かなければならなくなった。女はあまりにも高くなった。一生かかっても払いきれないド資産級である。

華厳経
 一滴の滴の中に全宇宙があり、一瞬の中に永遠があるという華厳経を理解しようとして、量子力学などにも手をのばしたが、世界はひとつながりの存在であるという理解は得られなかった。

自己の虚構論
 「私」も「過去」も「他者」も頭の中の概念や言葉がつくりだした「虚構」である。そんなものはどこにも存在しない実体のないものである。頭の中で仮構されるだけである。頭の中の概念、思考、言葉が存在しない虚構と悟られたとき、大きな安らぎを手に入れられるだろう。頭で考えたことに怯えることはないからだ。

感情社会学
 感情は喜びをもたらすと同時に苦悩と苦痛ももたらす。感情はなんのためにあるのか。悲しいときには泣き、楽しいときにはうれしがり、恥ずかしいときには去る、といった社会規範を守らせるために感情の規範はわれわれに植え込まれている。感情という社会制度に管理されないためにこの感情社会学という学問はおおいにこれからの成果が待たれるところだ。

心理主義化社会
 衝撃的な殺人がおこるたびマスメディアに心理学者が登場してきた。犯罪が心理学的に理由づけられ、経済や社会、文化に原因が認められず、個人の心のみが悪いという時代が到来した。心理学に心を脅かされないために心理学者の言説には警戒すべきである。心理学者は大儲けで権力者の野望を抱え持つ。

人間の比較序列の超越
 われわれは人との比較をとおして優劣や劣等、上位や劣位、勝利や敗北の感情を味わう。仏教者はあえてそれらの敗北や劣位を選ぶことにより、比較競争の恐怖を避ける方法をさとしてきた。「愚か者」になれ、「落ちこぼれろ」といってきたのである。心の安らぎはそこにある。

労働至上主義・会社中心社会批判
 仕事ばっかりの一生、会社にどこまで奪われる人生――私はそんな社会が一刻も早く終わることを望んできた。せめてそんな価値観が崩れ去るときがいつか来ることを願ってきた。しかしいつまでたってもその価値観が変わることもなく、労働がわわれれの人生を収奪することの反省はわきあがってこない。ちかごろはあきらめ気味である。また食うためには会社に身を売るしかない。怒りと悲しみを捨てがちである。

漂泊と隠遁
 中野孝次の『清貧の思想』を読んで欲をもたない生き方におおいに共感をもった。これらの著作群や生き方には共感と安らぎが多くこめられている。『山頭火日記』、洪自誠『菜根譚』、『老子』、『荘子』、陶淵明、西行、一遍――賢者の安らぎとはこれらのなかにあるのだろう。

ビジネス書
 世界大恐慌の予測にビビり、現代の経済と社会、歴史の関係を知ろうとした。浅井隆、堺屋太一、ドラッカー、日下公人、トフラー、ハンディ。

大乗仏教
 思考や自己、認識や世界観の虚構性を知るため。『大乗起信論』、唯識論、華厳経。

トランスパーソナル心理学
 感情が思考に起因し、思考は虚構に過ぎないことを知りたかった。カールソン、ウィルバー、クリシュナムルティ、ラジニーシ。

共同幻想論  
 社会の常識や規範、世界観がただの幻想に過ぎないことを知るため。R.D.レイン、岸田秀、リオタール、ニーチェ、竹田青嗣。

現代思想・哲学
 ただ現代の知の頂点を知りたかっただけ。ポスト構造主義、構造主義、実存主義、現象学。。。

大衆社会論
 画一化・均質化する集団を嫌ったため。ニーチェ、フロム、オルテガ、J.S.ミル、リースマン。

04 04
2004

知識論

私が考えてきたことを考える


 私はひとつのジャンルにかかわらずに興味あることを考えてきた。専門がない。ある時期はひとつのテーマにかかわりつづけるが、ある程度の探索が終わるとほとんど興味を失ってしまう。一時期の熱中と埋没はどこ吹く風になってしまう。

 いきあたりばったりである。ある本をきっかけに疑問を解くためにそのテーマに埋没したり、日常の関心や考えからテーマを追求しようということになったりする。そのときは知りたい一心でテーマにあった本をむさぼり読んだり、ずっと同じことを考えていたりする。その時期を過ぎると深い関心はなくなってしまう。ある程度の知の満足がもたらされたからだろう。

 役に立ったかというと、そうであるものとそうでないものがある。役に立った筆頭はトランスパーソナル心理学、精神世界、大乗仏教だろう。悩みや怒り、悲しみの解決法のこれほどの妙薬はないと思う。

 これらが教えるのは怒りや悲しみというのは思考から起こっており、その思考というのはすべて虚構に過ぎない、つまり存在しない絵空事だということである。

 人は頭で考えたことや過去のこと、いま起こっていることを、実体あることや現実のことだと思っている。しかしそれは思考や言葉で把握するという一種の虚構でしか捉えられないことだ。考えること、認識することをやめてしまえば、そんなものはなにも存在しないのである。なにも苦しめられるものはないだろう。このことを知っておれば、大きな安らぎを手に入れられる。でもそれには瞑想によって習慣的になってしまった思考の回路を断ち切る習慣を手に入れる必要があるが。

 社会現象の意味や分析をおこなう知はたぶんあまり役に立たない。知る、理解する、新しい見解を手に入れる、賢明な知を得られる、といった役得はあるだろうが、即物的になにかの特効薬になるというわけではない。ただ近視眼的な愚かさや埋没さはまぬがれる契機にはなると思うが。

 知識は長所ばかりではなく、やはり深甚な害悪ももたらすのを忘れてはならない。知識というのは批判や悪口ばかりに傾く人間をつくってしまい、世界や自分を恨み、呪うという愚かな結末を導いてしまう。さらにはそれが賢明で知的であるという誤解さえ抱かせてしまう。新聞とかニュースというのは「悪口商社」みたいなものになっている。醜い。

 また知識は優越心と侮蔑心をつくってしまうし、商業による位階秩序、ヒエラルキーをつくってしまう。知識のない人への見下しや軽蔑を育むのなら、その知はたんなる暴力への欲望にほかならない。知識の専門化はさっこんの心理学に見られるように人々の恐怖を煽り、脅し、商業マーケットの拡大とボロ儲け、地位権力の拡大の道具になってしまったりする。知識への警戒は怠ってはならない。

 私がめざしてきた知の探究の大きな柱となると、労働社会からの脱却と感情のコントロールを手に入れること、社会の意味や分析をおこなうということだろう。

 労働社会からの脱却はずっとむかしから思いつづけてきたことで、私は二十代をフリーターとして過ごしたわけだが、30歳を過ぎたあたりから求職数が減ることから、これは社会のいうとおりクソまじめに会社に縛られて生きるしかないのではないかと少しは観念してきた。いまはあまり考えないようにしているが、それはどうしても自由をめざすと金や地位や保障があまりにも脆弱になってしまうからで、自由は二十代のモラトリアム期間しか許されないものなのかもしれない。ただこれからは金や保障が得られない時代がやってくるのはまちがいないだろうが。

 感情のコントロールは役に立った知識である。悲観的、批判的に傾きがちだった私に目の醒めるような認識や変容をもたらしてくれた。リチャード・カールソンからはじまって、自己啓発やトランスパーソナル心理学、精神世界の本はひじょうに役に立った。

 われわれはあまりにも思考や頭で考えることの客観性や傍観性の知恵が手に入れられなくなっている。思考を手放す、感情から距離をおくというコントロール法の知見があまりにも身近に見聞きできないものになっている。科学信仰が宗教の拒否反応をつくり、道徳や心のコントロール知識すら拒絶したためで、これはとてつもない損失と損害だと思う。

 社会分析は知の楽しみ自体が目的みたいなところがある。新しい見解や鋭い見方、違ったものの見方を得ることの楽しみがそれ自体の目的なのだろう。若者の脱所有現象、社会生物学や感覚のヒエラルキー、サブカル分析、有料セックス資本主義、消費社会論、大衆社会論、といったものはおもに知る楽しみが大きな目的である。ただもちろん新しい考え方、捉え方は自分の生き方や過ごし方にはねかえってくるのは間違いない。社会を見ながら私は自分の生き方、過ごし方の反省や変更をおこなう。社会とは私の生き方の鏡や基準なのである。

 私はなぜ知を求め、本を読み、考えるのだろうか。自分の考えてきたジャンルに連関や系統や意味はあるのだろうか。私はなにをめざしているのだろうか。まだ答えは見出せなさそうである。

05 01
2004

知識論

私の愛する本たちの写真

CIMG0405011.jpg ニーチェの『権力への意志』。アフォリズムだからいろいろテーマから読めると思うが、私は認識論がいちばん感銘した。
CIMG00021.jpg ニーチェの『善悪の彼岸』と『道徳の系譜』。「善い悪いの基準はたんに自分の利益に過ぎない」――私の道徳観がひっくりかえった。
CIMG00031.jpg 現代思想の入門書となってくれた今村仁司の『現代思想のキイワード』と『現代思想を読む事典』。
CIMG0004_11.jpg 宝島の『現代思想・入門』――これもえらくお世話になった。思想家がとにかくカッコよく見えて私のヒーローになった。ドゥルーズ、フーコー、デリダ、アルチュセール……。
CIMG0005_11.jpg ケン・ウィルバー『無境界』と『意識のスペクトル』。読み返すたびに理解の深みを増す名著だ。
CIMG0006_11.jpg クルシュナムルティの著作たち。『自我の終焉』『生の全体性』『生と覚醒のコメンタリー』『生の全変容』。思考の愚かさ・過ちにこれほどまでに深く気づいた偉大な人はいない。
CIMG0007_11.jpg グルの風貌をまとったラジニーシの著作。『存在の詩』『一休道歌』『般若心経』『瞑想』。宗教として読むのではなく、第一級の心理学と読むべきだ。
CIMG0008_11.jpg 私にとって心の最大の糧となった心理学の本。カールソン『楽天主義セラピー』、ジャンポルスキー『愛と怖れ』、ベンジャミン『グルジェフとクリシュナムルティ』、シバナンダ『ヨーガとこころの科学』。心とは、自我とは、過去とは、悩みとは、絵空事に過ぎない。
CIMG0009_11.jpg ピーター・ドラッカーのハードボイルドなビジネス書。『ポスト資本主義社会』『新しい現実』『すでに起こった未来』『未来企業』など。現在の経済の歴史的理由をあたえてくれる。
CIMG0010_11.jpg マーシャル・マクルーハンの『人間拡張の原理(メディア論』。百円で購入。メディアとは目や耳の拡張である。
CIMG00405012.jpg 童話の解釈学。ベッテルハイム『昔話の魔力』、松居友『昔話とこころの自立』、タタール『グリム童話』。昔話が「わかる」快楽。
CIMG0012_11.jpg カイヨワを筆頭に戦争と民主制の交換関係について。民主制とは生涯を捧げての国家間戦争-競争との交換条件にあたえられる。タダではない。もういらないよ。
CIMG0013_11.jpg 欲を捨てる生き方。中野孝次『清貧の思想』、『陶淵明全集』、『菜根譚』。欲まみれに生きる現代人は賢者の知恵を忘れ去ったのか。
CIMG0405013.jpg ソーロー『森の生活』。仕事に人生を奪われる人たちへの批判。仕事ばかりの人生がほんとうの生といえるのか。
CIMG0405014.jpg 落ち込んだときの人生の最良の対処法。ダイヤー『どう生きるか、自分の人生』、カーネギー『道は開ける』、ピール『積極的考えの力』。心理学より自己啓発のほうがまったく役に立つ。
CIMG0016_11.jpg トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』。人生に対処するそうとう有益なセラピー書だ。宗教として読むな。
CIMG0017_11.jpg 『大乗起信論』、『大乗仏典』、『瞑想の心理学』、『老子・荘子』。心とは虚構に過ぎない。
CIMG0018_11.jpg 堺屋太一の一連の文庫本。歴史から経済を読む。たいへん有益に思えるときもあるし、同じことばっかり言っているように思えるときもある。
CIMG0019_11.jpg エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』、『人間における自由』。社会についての私のバイブル。
CIMG0020_11.jpg オルテガの『大衆の反逆』、『個人と社会』。画一化・均質化する大衆への批判。
CIMG0021_11.jpg ポスト構造主義のヒーロー、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』。見せしめの刑罰から監視・訓育する刑罰へ。
CIMG0022_11.jpg リースマン『孤独な群集』、ラッシュ『ナルシシズムの時代』。現代社会を知るための名著。
CIMG0023_11.jpg ボードリヤール『消費社会の神話と構造』、ゴッフマン『行為と演技』、レイン『自己と他者』。いずれも深く感銘した私にとっての名著。
CIMG0024_11.jpg このあたりまでの村上春樹は大好きでした。カッコよかった。『羊をめぐる冒険』、『風の歌を聴け』、『ノルウェイの森』、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』。
CIMG0025_11.jpg 世界文学の私の好きな作品。ヘミングウェイ『武器よさらば』、モーム『月と六ペンス』、スタインベック『怒りの葡萄』。シブイ。
CIMG0026_11.jpg 古典の名著。ミル『自由論』、ショーペンハウアー『幸福について』、アウレーリウス『自省録』。読みつがれるだけの価値がある。
CIMG0028_11.jpg 言葉についての深遠な書物。丸山圭一郎、ウォーフ、池上嘉彦。われわれは母国語に規定された世界観を見ているに過ぎない。
CIMG0029_11.jpg 『世界の名著』、『60冊の書物による現代社会論』、竹田青嗣の現代思想と哲学入門。ものすごくお世話になった。
CIMG0030_11.jpg 岸田秀の「共同幻想論」はほんとうに感銘した。社会はみんなでつくった幻想を守っている。
CIMG0033_11.jpg 竹内久美子の社会生物学の著作群。人間の文化も行動も心理もすべて繁殖戦略から読み解きなさい。……そうかもしれない。
CIMG0034_11.jpg チャネリングの名著。セス、バーソロミュー、ラムサ、エマヌエル。そうとう怪しいが、心理学の要素は絶対にいただくべきだし、身体観や物質観にものすごいものがある。
CIMG0035_11.jpg ハイキングのガイドブックがいつの間にか4冊にもなっていた。歴史街道もあるが、観光客の人ごみより、人の誰もいない緑のほうがのびのびする。
CIMG0036_11.jpg 身体についての本。頭脳・視覚主義によって抹殺されてきた身体感覚の復権。言葉は、視覚は、明確に分けれない感覚を、性的蔑視とともに抹殺してきたのである。頭と目が偉いというヒエラルキーを考え直せ。世界に境界も分断も対立もない。
CIMG0044_11.jpg 初公開。著者近影。ポーズをとっていますが、うしろは布団が丸見え。


05 15
2004

知識論

私の興味とネット上の情報ソース


 私のこれまで興味のあったジャンルをネット上で探してみました。googleでの検索の上位にくるサイトの中から役に立ちそうなものだけ選びましたので、多くを網羅できているわけではありません。


 テーマ    検索キーワード  リンク 感想

恋愛論・性愛論

●恋愛論・性愛論
●伏見憲明

性の本棚 「性と社会文化」をテーマとした書籍情報サイト
愛情イデオロギーが女性の晩婚化をひきおこす 恋愛現代文化論
近代日本における恋愛の変容 浜田 宏
Project G サイト マップ 性についての疑問・自由な発想
伏見憲明ホームページ
FETISH!
AKAGAWA'S HOMEPAGE 『セクシュアリティの歴史社会学』

恋愛論・性愛論の検索結果はとうぜん多すぎ。検索キーワードの絞込みがうまく見つけられず。
知識批判・心理主義化社会   
●谷沢永一
●『人間通でなければ生きられない』『反日的日本人の思想』
●『フロイト先生のウソ』


谷沢永一さんに 【国賊】 と呼ばれた12人
フロイト先生のウソ
社会の心理学化
書評「心理学化する社会」

知識批判の研究は昨今では少ない。
心理主義化批判がメインになった。
専門家批判   
●『「心の専門家」はいらない』
●イヴァン・イリイチ
●脱学校化社会
●クリストファー・ラッシュ『ナルシシズムの時代』


『「心の専門家」はいらない』 小沢牧子
脱学校の社会を読む 田中宏研究室 読書会
歴史家クリストファー・ラッシュと社会批評 立命館産業社会論集

専門化批判の項目は少なかった。
イリイチもラッシュもいいのがなかなか見つけられず。
筋肉感情論
●ボディーセラピー
●『ボディートーク』増田明
●ボディーワーク


ボディー・マインド:心と体は一体です
ボディートーク協会
知りたい! ボディーワークのこと

とうぜんボディセラピーの商業サイトが検索に多くひっかかってきた。
われわれは現代こんなに病気なのか。
チャネリング

●チャネリング
●セス
●ラムサ
●バーソロミュー
●エマヌエルの書
●霊魂


チャネリング
チャネリングについて 歴史と種類
セスのメッセージ
ラムサ
死者の霊魂の救いに関する研究 キリスト公会
霊魂は存在するのか?
「霊魂の循環」と祖先崇拝
死後の世界と霊魂について
心と霊魂 ― 意識の辺縁から心霊研究へ ― 冲永宜司


怪しい、いかがわしいけど、リンクさせてもらった。
探せばもっと多くあるだろうが、いまは深く掘り下げる気にはならず。
かつての人たちは世界的に見て霊魂の存在を信じてきた歴史がある。
社会生物学
●竹内久美子
●社会生物学

読書のおと(竹内久美子著作のページ)
パソコン初心者の館 竹内久美子の書評
竹内久美子:女のオヤジ 山形浩生
『社会生物学の勝利』


竹内久美子の書評の個人サイトは多くある。
社会生物学、動物行動学はまだまだ探せるはずだが、生物学・進化論の専門性の深入りをする気になれず。
五感のヒエラルキー
●マクルーハン
●感覚の拡張
●感覚の序列・ヒエラルキー
●『感覚の力』
●視覚優位・視覚文化


マクルーハン はてなダイアリー
メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程
『場所感覚の喪失』ジョシュア・メイロウィッツ
人間の拡張
感覚の力
マクルハーンについて語ったものは多くあるが、視覚優位の序列、大量生産とメディアについて語ったものは少ない。
メディア論は本でもネットでもマクルハーンのみが突出した存在で、ほかを探すのは徒労。
童話解釈

●童話の心理学
●ベッテルハイム
●『昔話とこころの自立』
●マリア・タタール
●童話研究


「昔話研究」のための参考文献一覧
グリム童話のブックガイド 鈴木晶
伝説.民話[昔話].ヨーロッパ.西洋 amazon
グリム童話と民間伝承に関する研究文献
グリム童話における男と女日本の昔話における男と女の行動

このジャンルの検索ワードは何にすればいいのか難しかった。
著者名で検索したが、めぼしいのがなかなか見つけられない。
昔話研究は多いのだろうけど。

サブカル分析

●サブカル分析
●マンガ分析
●映画分析
●J-POP批評


日本マンガ学会
マンガ研究の現在 瓜生吉則
タッチは「熱血」を破壊したか? あだち充トラウマ作家論
『りぼん』に関するレビュー・データ
藤川大祐「歌謡曲の教育学」

ざっと一覧しただけではめぼしいのが見つけられなかったが、レビューや批評はネットで増殖中なのだろう。
民主政治と国民戦争
●カイヨワ『戦争論』
●国家総動員体制
●総力戦


「総力戦」はメディアをどう変えたのか? 岩本真一
総力戦体制
二次大戦下の「アメリカ民主主義」 書評
1940年体制からの脱却が鍵を握る
野口悠紀雄
「1940年体制」/野口悠紀雄 書評
「総中流」ゲーム(1940年体制ゲーム)の「順当な結果」としての「不平等社会日本」。 桜井芳生

総力戦の項目は多かったが、交換条件としての民主制に着目した論考が少ない。
終身愛と有料セックス資本主義
●『非婚のすすめ』
●終身結婚制
●セックス資本主義
●『性的唯幻論序説』


「日本型家族」崩壊を超えて 上野千鶴子
シングルはおいしい?
つれづれに TAKUMI
未来形セックス「クラッシュ」 山形浩生
性的唯幻論序説 岸田秀 amazon
青少年のための少女マンガ入門(13)~清原なつの『花図鑑』~資本主義とセックス セックスが「罪深くいやらしいこと」であるから、「処女性」が尊重される 岩井祐介

終身雇用制と終身結婚制のパラレルな関係を探りたかったのだが、ちょっと脱線気味。
華厳経 ●華厳経
●タオ自然学
●フラクタル
●量子力学

華厳経 空殻
高銀『華厳経』 松岡正剛の千夜千冊
モナド的な微塵の感覚と華厳経
華厳経の研究レポート
お経のハナシ(3)・・・「華厳経」
事事無碍法界
華厳経 浮世寺
華厳経 竹村牧男による。
ニューサイエンスとパラダイムシフト 宗教と科学について-ニューエイジ批判を通しての一考察-日蓮宗 現代宗教研究所
アメリカの癒しとニューエージ運動の歴史的背景 村川治彦
フラクタル 石川源晃
量子力学の歴史
西洋的自然科学の否定

多すぎ。仏教もニューサイエンスも量子力学も多すぎてピックアップできません。

自己の虚構論・トランスパーソナル心理学


●カールソン『楽天主義セラピー』●トランスパーソナル心理学
●クリシュナムルティ
●ラジニーシ
●唯識論
●大乗仏典


しあわせ日記
クリシュナムルティ 思考と時間
トランスパーソナル心理学 JUNKUDO BOOK WEB
読書ノート クリシュナムルティ 抜粋
ゴトの読書室
J.クリシュナムルティ 精神世界
我々はなぜクリシュナムルティに数歩も近づけないのか?
和尚ラジニーシの名言
唯識 ウィキペディア
大乗仏教経典 空殻
仏教 広済寺

思考の虚構性についての検索は難しい。トランスパーソナル、クリシュナムルティ、ラジニーシはたくさんある。唯識が意外と見つからない。
感情社会学 ●感情社会学
●感情労働

管理される心 ホックシールド 書評
感情のねうちを勘定する
感情の社会学 文献
社会構築主義と感情の社会学 中河伸俊
管理される心


まあ、本でも感情社会学は少ないのだからネットでも変わりはない。感情労働については増えているのかもしれない。

人間の比較序列の超越
●価値序列
●『捨てて強くなる』
●大愚
●良寛


大愚のすすめ 楽道庵
良寛記念館
良寛 その書その詩 ゆかりの写真


探すのが難航すると思われたが、ほぼ良寛についてしか見つからない。

労働至上主義・会社中心社会批判 ●労働至上主義
●会社主義
●会社人間
●奴隷労働
●フリーター

日本人は勤勉ではない 反社会学講座
「勤勉さ」は虚構されたイデオロギーである  今 本 秀 爾
労働時間-そんなに働きたくないなぁ。
2001年、会社人間はまだ生息しているか 森永卓郎
奴隷労働に関する写真
フリーター問題の核心
平成15年度版 国民生活白書 デフレと生活-若年フリーターの現在
若者に、働くことをどのように伝えるか? リクルートワークス研究所
そのうちみんなフリーターさっ!!
いくらでも探せるはずだと思うのだが、だめ連のように脱労働主義をかかげたサイトのようなものはあまりない。みんなほんとうに労働は心の底から好きなのか。
漂泊と隠遁
●『清貧の思想』
●漂泊
●隠遁
●隠者
●鴨長明
●吉田兼好
●陶淵明


中野孝次の本 bk1
私達の西行の研究
鴨長明『方丈記』 『陶淵明全集』 松岡正剛の千夜千冊
下鴨神社 方丈の庵
人生の無情を楽しんだ吉田兼好

意外に見つからなかった。精神の高貴さをめざすための隠遁がない。
ビジネス書 ●ドラッカー
●堺屋太一
●日下公人
●ビジネス書

P.F.ドラッカー ダイヤモンド社
ドラッカー名言集
ドラッカー氏から「ITプロ」の条件を学ぶ
上田惇生ホームページ ドラッカーの翻訳者
2000. 12/17日 ピーター・ドラッカー博士に聞く
人事マネジメントから見たドラッカー批判
堺屋太一の本 JUNKUDO BOOK WEB
日下公人四方山話
日下公人の本 JUNKUDO BOOK WEB
ビジネス書ベストセラー

探せばいくらでもあるだろうが、ビジネス書の著者名のみでピックアップ。
共同幻想論 ●岸田秀
●リオタール
●大きな物語
●竹田青嗣
●ニーチェ
 
真の自己の幸福論 岸田「自我論」批判
岸田秀の本 amazon
近代とは何か 社会メディア論
リオタールの本 amazon
オタク第一世代の自己分析 竹熊健太郎
竹田青嗣公式ホームページ

ちょっとおざなりに検索した。もっと検索できると思う。
現代思想・哲学 ●ポスト構造主義

●思想家

ポスト構造主義の本 JUNKUDO BOOK WEB
思想家一覧 ウィキペディア
きみはソーカル事件を知っているか?
ファッションとしての現代思想

もう疲れましたので検索はやめ。●今村仁司や●フーコー●ドゥルーズなどの検索ができると思うけど。
大衆社会論 ●大衆社会論
●オルテガ
●フロム
●ミル
●ボードリヤール

大衆社会論の行方
オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』 『消費社会の神話と構造』松岡正剛の千夜千冊
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』 書評
フロムの本 amazon
ジョン・スチュアート・ミル ウィキペディア

やっと終了。疲れすぎました。


06 14
2004

知識論

思想はオタッキーな趣味の世界に帰るべきだ


 勢古浩爾の『思想なんかいらない生活』(ちくま新書)を読んだ。ある程度は興味深く読めた。

 でも「思想なんかいらない」という前に、ほとんどの人が「思想なんてなくても困らない」と思っているだろうから、そんなことすらいう必要もない。

 思想をカッコイイと思ってハマった人のみが「思想なんて自分には必要ない」と悟る必要があるだけであって、最初からほとんどの人にとっては「思想なんか知らない」である。

 もう日本人のたいがいの人にとって「思想なんか存在しない」も同然だろう。いちまつの興味もわかないだろうし、だれかにバカにされたり、共通の話題についていけないということもない。TVや音楽、映画やマンガを知っていれば十分な時代なのである。

 嘆くべきでもないし、悲しむこともない。思想なんてそれを楽しめる人のみのオタッキーな趣味にしておけばいいのだ。まちがって興味ない人に強制したり、知のヒエラルキーに巻き込んでバカにすべきではない。鉄道の趣味やフィギィアの趣味のような奇特な人たちの楽しみに閉じ込めておくべきなのだ。出版業界が欲をもって購買層を増やそうと無知や序列の恐怖を煽るような愚かな真似をするべきではない。新興宗教に対するような反発を食らうだけである。

 思想なんか役に立つとか日常生活に使えるなどといわないほうがいい。私は十年以上読んできてほとんど役に立たなかったぞ。自己啓発のほうがよっぽど役に立った。思想は私を偏屈に意固地に歪ませただけだと思う。奇妙な自尊心を支えてくれたかもしれないが、中には人を軽蔑する人を生み出しただろうし、選民意識をつちかったりするかわいそうな人をつくりだしたかもしれない。優越と軽蔑を育むような思想の扱い方は、懸命な知者になろうと思うのなら、おおいに警戒すべきなのである。

 現代思想なんて知識の優越心を満たすのみしか現在は役に立っていないのではないかと思う。ファッションやブランドと変わりがない。フーコーとかドゥルーズなんて生きてゆく術のなんの役にも立たない。ぎゃくに社会を批判するから世の中を生きにくくするだけだ。

 私にとっての思想の大きな効用はやはりひそかに自尊心や優越心を満足させることではなかったのかと思う。会社社会ではうまく渡ってゆく自信はないし、企業ヒエラルキーの底に位置づけられるし、スポーツや社交で抜群の楽しみを見出せるわけでもない。たまたま思想が自分の頭にすんなりと入ってくるから、どんどんその森の中に入って行っただけだ。

 思想を自分の優越心のための軽蔑や蔑視の道具にしてはならない。つい思想がわかるからといってそれを理解しない人やわからない人を軽蔑のまなざしで見るべきではない。思想がそういう扱いをされるようになったら、知識はなんの役にも立っていないと見なすべきだ。優越や軽蔑を乗り越えることが知の貢献であるべきなのに、その道具にされるのは知識が劣っているとしかいいようがない。

 思想とは私にとっては知ることの楽しみ以外のなにものでもない。ものの見方、考え方、切りとり方を楽しませてもらうのだ。世界の見え方が変わるような思想と出会うのがいちばんの楽しみである。現代の思想が世の中を変えうるとは思わないし、多くの人が読まなければならないとは思わない。知ることの楽しみだけで十分だ。

 出版界が知の序列や軽蔑の戦略をつかってすべての人に思想を読ませようなんかすると、ますます反発を食らうだけだ。純粋に楽しめたり、喜べたりする人が多くいなければ、脅迫のマーケットはいつか狭まるのだろう。学問だって学校システムの全員への強制がなければ、知識をもっと楽しめる人もたくさん増えたかもしれない。知のヒエラルキーをつくり、序列や階級をつくるから、知識ほんらいの楽しみを多くの人から剥奪したのだと思う。

 思想や学問というのは必要のない人にとってはまったく必要のないものだ。興味や必要がなければ、わかることも知ることも必要がまったくない。思想や知識とはそういうものだと思う。興味のないものはいくら読まされても頭に入らないし、ぎゃくに興味があればいくらでも貪欲に吸収したくなるものだ。知識のそういう性質を、人は軽視し過ぎだ。すべての人に知識を強制しても不可能であるばかりか、反発と怨念をつのらされるだけだ。

 知識というのは自分に合うものと合わないものがかなり分かれると思う。いくらでも吸収できる知識とまったく絶理解の知識がある。だれもがフロイトやマルクスを理解できるとは思わない。心に興味あるものはフロイトを理解できるがマルクスがまったくわからなかったり、社会経済に興味があればマルクスをどんどん読みたくなるが、フロイトはまったくと思うかもしれない。それでいいのだと思う。

 すべて等しく理解しなければならないと押さえつけられるから、興味は逸散してしまうのである。興味は一事を掘ってそこから広がってゆくものだと思う。一事も掘らなければ、おそらくどこも掘る気は起こらないだろう。

 だから思想なんて多くが理解できなくていいと思う。フーコーもレヴィナスもウィトゲンシュタインも理解できなくてもいい。ただひとりだけ、たとえばフッサールがおもしろいと思えば十分なのだ。そこから世界は広がるかもしれないし、または広がらないかもしれない。そこで終わるのなら知識は自分にはまだ必要ないか、欲していないのであって、必要のないものは捨てるべきなのである。満腹した腹に食べ物は必要ない。むりやり口につっこもうとするのが教育や知識人である。

 今の世の中は学歴によってヒエラルキーづけられる社会である。知識人が権力の中枢を握る社会である。いや、経済の権力の人的選別を担っているといったほうがいいかもしれない。その選別権を知識が握っているから知識業はその恐怖を煽ってマーケットと権力の拡大をもくろむのである。だから知識には優越や劣等の意識がいやでもまといつき、いやらしい序列感を漂わせるのである。

 優越や劣等感、序列やヒエラルキーがなくなったところにほんとうの知識の楽しみがあると思う。自分の好きなこと、おもしろいことが純粋に追究できるようになるだろう。知識がほんとうに好きなのだったら、そういう世界のほうが楽しいとは思わないだろうか。

 まあ、でも人間から階級や序列をとりさるのはまず不可能だろう。せいぜいそういう序列意識にとらわれない知識を楽しみたいものである。思想もオタクの趣味となんら変わりはないと割り切ったほうが、自然で謙虚な気持ちで知識を楽しめるだろうと私は思う。


07 11
2004

知識論

『思想なんかいらない生活』 勢古 浩爾


思想なんかいらない生活
勢古 浩爾

思想なんかいらない生活

 おもしろかった。思想や知識なんか何の役にも立たないと「悟り」にいたった本である。まあ、思想や知識なんてそういう姿勢からかかわり、それでも知的好奇心がとまらないという人が読むものだと思う。マニアなんだから万人に強要したり、序列づけたりするのはまちがっている。

 思想書の中には「繰り返し沸いてきた疑問は、これはだれに向かってなんのために書かれた本なのかという疑問であり、――どこでどう間違うとひとはこんな場所に突入していくことができるのか」というちんぷんかんぷんな本がたしかにある。私もヘーゲルやカントやメルロ=ポンティで感じたことがある。

 私はそういう目に何度か合って、もう自分の興味の向かないものは理解し得ない、読む必要もない本なのだと決め付けることにした。思想に興味がある人は話題や流行の本をすべて理解しなければならないと思っている人がいるかもしれないが、私はもうそういう読み方はしない。自分の興味のあるものしか入れない。

 思想は知的欲求や知的好奇心を満足させるものだけでよい。知ったからといってどうなるものでもなし、ただ知的満足が得られるものだけでいいと思う。役に立つとか、有益になるとか、そういう目で見る必要ない。知識ってそういうものでいいと思う。

 まあ、たいがいの人にとって思想なんかいらないという前に思想なんか存在しないも同然だと思うから、この本はそういう人には必要ないものだろう。思想なんかムダだと知って、そのまま関係ないと生活するか、役に立たないからぎゃくに楽しめると開き直れたらいいではないかと思う。


生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語 この俗物が! 女はどんな男を認めるのか―10歳からの男と女の基本 ぶざまな人生 なぜ、だれも私を認めないのか
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08 29
2005

知識論

若手作家の台頭と自己表現


 face1.jpg 綿矢りさ。かわいい。顔だけで売れる!

 若手作家が台頭しているということを、今年の三月に『クローズアップ現代』で特集していたそうである。マンガやゲームで育ち、文学を読まない若手作家たちがぞくぞくとあらわれているという。

 だるまBLOG: 文学に異変あり
 Digital Town 若手作家がつぶれる日

 文学といえば十年や二十年前は死んだといわれ、「文学青年」なんか死滅したはずである。そして古典文学から隔絶したところから新しい作家はどんどん生まれてきているのである。

 そりゃそうだろう、鬱屈した日本文学なんか死滅したほうがよかったのである。つまらない伝統文学なんか読まされるから、だれも見向きもしなくなるのはとうぜんのことなのである。

 新しい作家はたぶん古典文学なんか読んでいないだろう。われわれの時代にはマンガにゲームに映画にドラマがあるのである。わざわざ時代遅れのつまらない小説など読みもしない。若手作家はおそらくそういう素養の上に、安上がりな紙とペンのみで創り上げることのできる物語という方法を選んだだけのことだろう。とくべつに古典文学や文学の伝統に思い入れがあるわけではないのだろう。

 われわれはマスコミの創り上げるヒーローに憧れて育ってきた。マスコミで憧れる人間になりたい、ならなければならないと思い込まされる少年時代を送ってきたのである。俳優やミュージシャンがわれわれのヒーローである。むかしは高級品やブランド品をもつことによってまわりの人たちから称賛されたかもしれないが、もういまは、マスコミに称賛されるということが多くの者たちの憧れられる目標になっている。

 モノによる認知から、文化や創作による認知にうつりかわっているのである。モノはしょせん他人や企業がつくった受身的なものであり、他人の創ったもので自慢するなんて情けない。自分でしか創れないものに価値がおかれるのはとうぜんである。

 90年代には文芸誌の新人賞に応募してくる者が購買者を上回っているといわれたことがある。たぶん文芸誌なんかまちがっても読まない書き手たちが確実に増えていたのだろう。小説に思い入れがあるのではない、自分を表現すること、あるいは自分を特別な存在にしたいという思いが強くなっていた人たちが小説を書いたのだと思う。

 そういう欲求が強まっていたころにインターネットというメディアが95年に注目される。自己表現、自己創作のかっこうの媒体を提供したのである。ケータイが普及してメールを打つことによる自己創作もふえた。書くこと、自己を表現することがずっと身近になった。書くことの敷居が低くなり、多くの人に自分の創ったものを見せるという機会が確実にふえたのである。

 小説は紙とペンさえあれば書ける。しかもネットとは違い、商業ベースに乗せることができるし、マスコミという後ろ盾を得ることができる。ものはかんたんに書けるという発見が、さっこんの文学を読まない若手作家の胎動を生み出しているのだろう。

 かれらは作家になりたかったのではない、タレントか有名人になりたかったのだ。世間やマスコミから賞賛され、憧れられる人間になりたかったのだ。おそらくそうでなかったら、存在しないも同然なのだろう。マスコミによる認知はわれわれの存在の根源にそこまで喰いこんでいるのだと思う。

 「一億総評論家」といわれた時代もあったが、現在は「一億総作家」の時代になろうとしているのだろう。人間は自分を認められたい存在である。ちっぽけで見向きもされない人間にはなりたくない。かつてはモノによって認められようとした人たちは、自分にしか創れない書くという行為によって認められようとしているのである。

 社会は人々のそのようなニーズの多い欲求を満たしてやるべきだろうし、確実にそのような方向に進んでゆくことだろう。書くことの評価や賞賛のシステムが必要になることだろう。根本的にわれわれは認められたい存在である。たぶん手段や方法はなんでもいいのである。社会が大きくなり、モノが満たされる世の中になると、創作という方法が必要になっただけだ。そのニーズを早く組み込むことのできる社会が必要なのだろう。


05 16
2006

知識論

YouTubeでフロイト、ニーチェ、ミシマを見る。


 YouTubeで知識人の動画を探しましたが、たいがいはムダでした。トルストイの映像は現存するはずですが、見つかりませんでした。スペルのある本を片手に英語フランス語ドイツ語を打ち込みまくりましたが、徒労でした。かろうじて見つかった映像をUPします。みなさん、ほかに見つけましたらぜひ教えてください。ナマの知識人を見たいよ~。

 Freud
 生フロイトですよ。

 Nietzsche Freud Einstein
 このニーチェは動画なのか。

 será nietzsche?
 上と同じ映像のニーチェのみの映像。

 Yukio Mishima - The Last Speech
 う~むむむ。。三島由紀夫。

 「あの人に会いたい」安部公房(Kobo Abe)
 ノーベル賞にいちばん近い日本人だった。

 HEMINGWAY
 画像のみです。動画がなぜないのか。

 Lenin at Kremilin Presiding
 レーニンです。

 Lenin
 スピーチするレーニン。

 Living Without Conflict Jiddu Krishnamurti
 思考の哲人、クリシュナムルティ。

 krishnamurti
 クリシュナムルティのドキュメンタリーです。

 Osho Enterview
 ラジニーシは活字だけでいいと思ってしまう。

 映像の世紀 第11集 JAPAN part1/3 (明治~大正)
 NHKの名作がありました。「映像の世紀」はほかに何篇かあります。


▼こちらのほうでは構造主義者、ポスト構造主義者をごろごろ見つけましたのでどうぞ。
 ナマの思想家をYouTubeで観る

10 20
2006

知識論

現代思想のはぐれ方。


 du22.jpgderrida11.jpgportrait_foucault_0111.jpgportrait_levi_012.jpgal11.jpg
 左からドゥルーズ、デリダ、フーコー、レヴィ=ストロース、アルチュセール

 文庫になって思わず買ってしまったドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』。6、7千円する高い本なのでなんども手にとっては読むのをあきらめていた本。内容も理解できないのではないかという思いもなくはなかった。じじつ、読み出してかなり難渋している(笑)。

 ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』はポスト構造主義を代表する現代思想書。フランスの思想ではフッサールやメルロ=ポンティの現象学、サルトルの実存主義という流れがあって、60年代前後からレヴィ=ストロース、アルチュセール、フーコー、バルトといった人たちによる構造主義がはじまった。そのあとにきたのがデリダやドゥルーズのポスト構造主義である。

 80年代あたりに「ニューアカデミズム・ブーム」というのがあったそうである。浅田彰や中沢新一、栗本慎一郎といった人が立役者になった。このころから精神世界もひそかにブームになり、話題になることもあったのだが、けれども現代思想が表舞台にあらわれることはなかったと思う。

 いまの私は現代思想を読むことはほとんどなくなったが、90年代は遅れてきた哲学青年として(死語だな)、現代思想にはばりばりに興味をもっていた。有名な思想家の一冊や二冊は読んだと思う。

 なぜ、いまは読まなくなったのか。私の読書というのは「テーマ読書」であるからである。「なぜこれはこうなっているんだろうか」とか「これはどういうことなんだろう」という疑問のもとに本は読まれる。

 いっぽう、現代思想というのは「有名人読み」である。「この人はすごい」とか「この人はエラい」という評価のもとに読まれる。フーコーはどうだとか、デリダはどうだという名のもとに読まれる。私の興味や疑問のもとに読まれるテーマはどうもなかなか現代思想のテーマと合致しないようなのである。だから私は現代思想からはぐれた。

 学問の名著とよばれる評判本も、おおくをカバーしたわけではまったくないけど、いちおうそういう読み方の時期は過ぎてしまった。だから有名人読みの読書がなかなかできないのである。

 現代思想のテーマってなかなか私の興味のひくものにならない。有名人はかなり「スゴイこと」を語っているらしいのだが、私の興味の射程がとどかない。現代思想のいちばんのテーマというのは「真理はわかるのか」あたりだと思うので、べつに私はそんなことにはあまり興味がない。そして私の知りたいこと、考えたいことは長いあいだ、現代思想とクロスすることはなくなった。

 「有名人語り」ってしてみたいんだよな。フーコーがどうだとか、バルトやラカンはどのうのこうのと。でももう私はテーマや興味を度外視しての、「有名人読み」のような冒険はもうできない。なんせ、現代思想って難解で、理解できない代物も多く、興味のない最中にそんな本を読んでもますます文脈は霧の中である。

 現代思想について「人はどうしてそんな思考の中に突入できるのか」みたいなことを瀬古浩爾がいっていたが、まさしくそんな気分である。思い出せば、ハイデガーの『存在と時間』は氷の上をつるつるとすべるようにほぼわからなかったし(以下、笑)、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』は知覚のことを語っておりながらなぜここまでわからないのかと不可解に思えたし、デリダの『グラマトロジー』なんかいったいどこのなにについて語られているのかさっぱりわからなかった。ヘーゲルの『小論理学』は絶望の淵に立たされたし、カントは不可能だと思って薄い本でも手を出せなかった。有名人だからといって、まったくわからない本を最後まで読み通すのはもういやである(笑)。

 私が哲学を読みはじめてものすごく興味をもてたのが「大衆社会論」である。フロム『自由からの逃走』やオルテガ『大衆の反逆』、リースマン『孤独な群集』、ミル『自由論』、ニーチェ『道徳の系譜』などである。これらはほんとに興味をもてたし、貪るように読んだ。思想や哲学というよりか、社会学である。私には理解できるものとできにくいもの、相性というものがあるのだということがよくわかった。そして自分の興味にしたがって読んだほうが有益で、ためになることもわかった。そうして現代思想の「有名人読み」の用途は失われていったというわけである。このHPの97年からのアーカイヴはそういう一皮向けてからの記録である。

 しかし有名人読みができる時代というのは幸せなときだと思う。知的好奇心や探究心があふれだして、なんでもかんでも知の頂点とよばれものを読んでみたいと思う時期なのである。こんなに好奇心が「発情」する時期というのは、後にも先にも「有名人読み」をしてみたいときだけである。そんな無邪気な時期があったんだなと、すっかり自分の興味のみに読書や思考がおさまったいまの私は回顧するのである。

 ▼私の現代思想の勉強本。(たぶん古い)
 CIMG0011_21.jpg44804221291.01._PE00_OU09_SCMZZZZZZZ_V51592031_.jpg4061489216.09.MZZZZZZZ.jpgCIMG0007_21.jpg


02 02
2008

知識論

『データはウソをつく』 谷岡 一郎


データはウソをつく―科学的な社会調査の方法
谷岡 一郎

データはウソをつく―科学的な社会調査の方法


 マスコミのいうことに腹を立てたことはないだろうか。強制や命令の圧力を感じて不快に思ったことはないだろうか。データがなんだかヘンだと思ったことはないだろうか。

 私はとくにマスコミの強制感や支配力に腹をたててきた。孤独なやつはかわいそうだとか、恋愛しない者は恥だとか、流行やブームに乗り遅れるやつはカッコわるいだとか、おまえは精神病質だとかいわれたり、常識や規範はこうだといわれて、マスコミの強大な強制力にずいぶんと腹を立ててきたものである。

 でもたいがいの人はマスコミの強制力や空気とよばれるものの力によってなぎ倒されて、従わされることがほとんどだと思う。「新聞がいっていた、TVがいっていた、雑誌がいってた、だから(正しいから)従え」というようなことは一度は人にいわれたことがあると思う。そのような強制力をバカらしいと一蹴できるようになるためにはマスコミの利用するデータのウソっぱちをしっかり嗅ぎ分けられなければならない。

 この本は「誰がなんと言おうと、自分で考え、疑い、そして他の可能性を求める人間になることで、その意味で、「他に可能性はないか」と考える人間になってもらいたいのです」ということだ。

「世の中、半分以上のデータは単なるゴミだと考えるべきです。半分以上というのは好意に過ぎると思います(本当は七割~八割だと思う)。」



 という著者は「図やグラフを見たら、アラ探しをしてみることを勧めます」といっている。マスコミはどうやって事実をねじ曲げるかというと、世論を誘導したり、意図的な省略と曲解をおこなったり、表現によって誘導したり、データを誤用したり悪用したり、相関と因果をごちゃまぜにしたり、とさまざまな方法をつかう。

 世の中というのはそれぞれの人や集団の「利益」や「損得」でなりたっているものである。公平中立の知識なんかむじゃ気に信じるべきではない。どの個人も集団もみずからの利益や損得があるものである。とくにこんにちのような消費社会や広告社会において、自集団に利益がもたらされるようなデータや情報が流されるのは基本的前提と考えたほうがよい。データや情報は自己の利益から発信されるものである。自商品が売れるためであるのはもちろん、自集団に益をもたらすもの、パーソナルなことがらに利益がもたらされるものを根底にデータや情報は発信されるものである。

 残念ながらみんなが公平に利益がもたらされるような立場や情報なんかないから、データは都合のよいように使われたり、ねじ曲げられたりするのである。そのことはこの社会の絶対的条件と捉えておいたほうがいいだろう。

 この本はそのようなデータのウソを見抜く方法を教えてくれるわけだが、こういうデータや方法論をあつかった本は難しくなりがちなのだが、まあページも薄いし、まあまあは参考になると思う。世の中、学校に習ったような厳然とした「正解」や「事実」があると杓子定規に信じている人にはぜひこのような本を読んでおくべきなのだろう。相対主義のポストモダンの思想でもいいけど。

「この「自分で考えること」はあえて強調しておきますが、リーダーになる必要条件です。これができない人間は使われる駒にはなれても、駒を動かす人間にはなれないのです。これは本当に本当です」



 なおこの本はネットで調べた「平均のウソ八百とバカさ加減」というエッセイの知識の補強をするために読んだ。平均というのは大多数の真ん中にピークがくると思っていたら所得や貯金額では多数が平均以下におさまってしまうし、平均寿命は勘違いされやすい数字である。データってなんかおかしいし、物事をしっかりと捉える役割を果たしているのか疑問に思って、もっと深く理解するつもりでこの「リサーチ・リテラシー」の本を読んだという次第だ。

 下記に関連文献が何冊か載せられているが、けっこう興味深い本もあるようで、もうすこしこのジャンルについて読んでみたい気がするのだが、こういう本って目的のための「手段」を調べることにあるからどうも手がこまねいてしまうのだな。言語学でもそうだが、言葉は手段であるけれども、点検してみるとけっこう大きな発見が手に入れられるものである。手段や道具に蹴飛ばされていることが多いのである。ハンドルやブレーキを知らないで車に乗っているようものだ。しっかりと機会をつくるべきなのだろう。


「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ (文春新書) 統計数字を疑う なぜ実感とズレるのか? メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書 (298)) 「あたりまえ」を疑う社会学   質的調査のセン (光文社新書) データの罠―世論はこうしてつくられる (集英社新書)
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