HOME   >>  書評 性・恋愛・結婚
01 29
2014

書評 性・恋愛・結婚

さっぱり意味をつかみかねた――『成熟と喪失』 江藤 淳

4061962434成熟と喪失
“母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

江藤 淳
講談社 1993-10-04

by G-Tools


 母性社会での成熟や近代化論、あるいは男性原理といった話題あたりを語っているのはわかる。農耕社会での死と再生といったわたしの興味のもっている話題も言及されているのがわかる。

 しかしさっぱり意味をつかみかねた。理解に近いところを語られていながら、わたしにはさっぱり明晰さや明確な手ざわりをつかめなかった。

 思想であるとか、心理学、社会学とかを読んできてそれらの理解はわたしなりにしてきたと思っているのだが、この本はその手の本となにかが違うのか、文芸評論というジャンルのせいなのか、明晰な理解におよばなかった。なんなのだろうね、この江藤淳のこの本の理解のしにくさは。

 ジャンル的に近いと思われる河合隼雄の『母性社会日本の病理』のような本なら理解できたと思う。河合隼雄の本なら何冊か読んで理解している。この本はできなかった。文芸評論というジャンルはわたしには「詩的」すぎるのか。

 第三の新人や戦後派作家といった人たちの作品は古くさく感じて、遠藤周作の通俗作品とよばれる本程度しかわたしは読んだことがない。これらの作品がとりあげられていたから、わたしの理解をこばんだというわけではないと思う。

 おそらくこの本でとりあげられている作品は表面的には日常の男女関係だけが描かれていて、わたしには日常の痴話話に近いものに思えて、女性原理や男性原理、近代、アメリカといったテーマが仮託されていることを読み込めなかったかもしれない。そういう読解のむづかしさを明晰にあらわしてくれるものが文芸評論だと思うのだが、この本ではその明晰さや明瞭さをわたしにもたらしてくれなかった。

 興味ありそうなテーマあたりを語っているから、くやしい心残りがのこるのだが、自分に理解できないものを摂取することはできないので手放すしかない本になってしまうのだろう。やむをえない。

 文芸評論というジャンルゆえにわたしの理解をこばんだ。。ということでもなかろう。


母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)母権制序説 (ちくま学芸文庫)愛と性と母権制母権と父権の文化史―母神信仰から代理母まで (人間選書)父親なき社会―社会心理学的思考


01 19
2014

書評 性・恋愛・結婚

男らしくあることもひとつの奴隷状態――『日本の男はどこから来て、どこへ行くのか』 村瀬幸浩ほか編

4434011626日本の男はどこから来て、どこへ行くのか
―男性セクシュアリティ形成(共同研究) (男性セクシュアリティ形成〈共同研究〉)

村瀬幸浩ほか編
十月舎 2001-07

by G-Tools


 どうして男について問わなければならないのか疑問に思う方もおられると思う。端的にいえば、「~ねばならない」「~しなければならない」といった自分ではない強制や強迫のなかにおかれるからである。

 男であることもひとつの社会の「奴隷状態」なのである。またそういう強い男であることを必要とする「もの」はだれなのかといえば、「国家権力」であったり、「支配者」の都合であったりする。隷従状態であることは人間の自由も成長も保証しない。

 男は「女性に負けられない」「男はみんなの先頭に立たなければならない」「リーダーシップをとれないような男は男ではない」「男は一家の大黒柱で、家族を食わせていかなければならない」といった抑圧と強制の中で生きることになる。それは本能というより、社会的な刷り込みなのである。

 刷り込まれた男らしさの内容は、①強者志向 ②他者支配志向 ③感情抑圧志向にまとめられるという。

 この本はそういった男らしさの形成論を研究会でまとめたものでいく人かの執筆者によって書かれている。大学研究者のほかに高校教諭も加わっていることが特徴かな。

 第4章の関口久志「体育・スポーツにみる「男らしさ」培養の歴史」がいままで読みたかった内容にいちばんぴったりきた。スポーツは権力者や国家権力にどう奉仕してきたかのような内容である。

「近代スポーツは、その国家から要求される男性性をどのように身に着けさせるかという目的をもってなされた面が多くある」

 近代スポーツは男性優位が多いのだが、英国からはじまった近代スポーツは男性が優位になる種目が選ばれているということである。

 つづく英国スポーツ、米国スポーツ、日本スポーツの特徴がひじょうに興味深い。

 英国スポーツにはレフェリーの抗議がほとんどないということだが、それは英国ブルジョワジーによる労働者と植民地支配のルール遵守に役立ったということである。

 米国スポーツは勝敗に徹底的にこだわり、成功か失敗しかないアメリカの絶対的目標をあらわしている。メンバーチェンジも大胆にとりいれられているのだが、大量生産の代替交代性をあらわしているのであり、また敗者復活戦を可能とするアメリカの風土もしめしている。

 日本のスポーツは精神性の重視、勝敗のあいまいさ、非客観性、縦型関係の重視にあるという。体制への従順性、不合理性の養成がそこでおこなわれるということである。

 明治の初代文部大臣、森有札はいっている。「兵式体操を施行するのは兵士を育てるためでは必ずしもなく、組織だった行動になじむ身体と心性を育むためである」

 野球が日本でいちばん人気だった理由も興味深い。それは監督システムにあったのではないかという。サッカーやラグビーでは選手任せであるが、野球は一挙手一投足まで指示できる。これは父、教師、国家のいうことはなんでも聞くという縦型管理システムを集団に根づかせ、国民に見せるのに好都合だったということである。

 権力装置としてのスポーツという面からみるとしょうしょう恐ろしいね。スポーツは権力の型やありかたに服従・奉仕する訓育装置になっているわけだからね。

 日本では「負ける恐怖=男でなくなる恐怖」からスポーツの勝利がもとめられ、ために「苦しみに耐える」「罰から逃れる」といった、楽しみや喜びではない負の行動動機が多くなる。

 第6章、小玉亮子「父親論の現在」では「父親の不在」や「権威の喪失」といったことが世論でいわれるようになって久しいのだが、意外にアンケート調査ではそういう実態がまったくないことがしめされている。どうも世論はそういうことに目をつぶって、父親の権威失墜といった印象操作をしたいかのようである。なにがあるのだろうか?

 ほかの論文では近代男性の誕生、近代日本の性教育、戦争における男性セクシュアリティ、マスメディアの男性像、暴力と男性支配といった内容があつかわれている。

 われわれは国家権力や権力者、社会の都合のよい行動規範としての男性性をうえこまれて、社会の機械・反復装置となるのだろうね。

 そういった社会の反射行動としてのみずからの中の規範をはずしてゆくことが人間の成長や自由であるのだと思う。この内面規範を言語化しないことにはわれわれは社会・権力のパヴロフの犬からは自由になれないのだろうね。

 仏教は世俗からの脱俗をメソッドとしてもっているはずなのだが、宗教への帰順装置としてはたらいているのも事実だね。

「野球やバスケットボールで勝ったとしても、それは限られた空間の定められたルールの下で勝利したに過ぎない。その勝利で全人格が相手より優れて、その相手を支配できることにはならない。この当然のことが、スポーツを全日常としたスポーツエリートにはわからないことが多いのである。勉学エリートの多くも同様である。それらエリート男性の多くは、女性を支配するための存在としてみて、自分たちと異質な生き方、すなわち競争的でない男性には警戒と侮蔑の思いを持つことになる」 関口久志




▼スポーツの国家権力論に食指が。
スポ-ツとは何か (講談社現代新書)スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)メディアスポーツ解体―“見えない権力”をあぶり出す (NHKブックス)スポーツの魅惑とメディアの誘惑―身体/国家のカルチュラル・スタディーズ権力装置としてのスポーツ―帝国日本の国家戦略 (講談社選書メチエ)

野球と戦争 (中公新書)スポーツ・ヒーローと性犯罪身体の近代化ースポーツ史からみた国家・メディア・身体 (スポーツ学選書)スポーツと国家―スポーツ社会学確立のために


01 03
2014

書評 性・恋愛・結婚

性の抑圧による狂気と倒錯の歴史――『歴史におけるエロス』 G・R・テイラー

4403120210歴史におけるエロス
G・R・テイラー
新書館 2008-10-23

by G-Tools


 「キリスト教が生み出したヨーロッパの性の狂気!」、「岸田唯幻論の原点」、「フーコーの「性の歴史」の登場を用意した古典」とアマゾンでいろいろ謳われているが、「ヨーロッパの性の狂気」がいちばん当っている本だろうね。

 中世キリスト教によって生み出された性の禁止によって魔女裁判がヨーロッパじゅうにひろがり、いっぽうではセックスにとり憑かれ、倒錯と神経症を生み出した時代がいちばん印象深いのだが、わたしの疑問としてはキリスト教ならびにほかの諸宗教はどうして性の禁止や抑圧をおこなうのだろうかという思いがある。

 生物学的には種の存続という生物の大目的に抗うような性の断絶のような理想を、なぜ諸宗教をもってしまうのだろうね。とくには古代ではこの本で的確に命名されている「繁殖力宗教」といった大地の繁殖力=人間の性の同一視といった世界観が世界じゅうにひろがっていたと思われるのだけど、その対比としてキリスト教の禁欲主義はますます疑問に思えるものになった。

 この本は1953年に出された本である。イギリス人の著者によって書かれ、まだヴィクトリア朝時代の厳しい性道徳がのこっていたころに書かれた本ではないかと推測する。ゆえに性の抑圧がどのような狂気や倒錯、神経症を生み、復讐するのかといったことに重点がおかれた本ではないのかと思う。フロイトの精神分析の影響があちこちにあらわれている。

 この本ではおもに男の子が父親を手本にする傾向が優勢であり、そのような時代には権威主義的、制限的態度が生み出されがちであり、またある時代には母親を手本にする傾向が強く、そのような時代には寛容的・民主的、保護的な姿勢が一般的にあらわれるとしている。前者を「パトリスト」といい、後者を「マトリスト」とよび、このつなひきと拮抗が性にたいする態度をかたちづくってきたと見る。

 パトリストの時代には禁欲主義、快楽の恐怖、権威主義で女性を劣等の存在とみなし、同性愛への深い恐怖をもつとされる。

 マトリストの時代には快楽主義であり、民主的で進歩的で革新的、保護的で女性に高い地位をみとめ、近親相姦への深い恐怖をもつとされる。

 中世の魔女裁判の時代にはパトリストたちが荒れ狂い、ルネサンスやロマン主義の時代にはマトリストの時代、また宗教改革やヴィクトリア時代にはパトリストたちが力をにぎるといった時代絵図を見ることができる。古代の繁殖力宗教は母親宗教的であり、もちろんマトリストたちの時代であった。

 バハオーフェンの母権制と父権制に似ているのだけど、著者は「制度」をいっているのではなく、「態度」をいっているのであり、制度は保守的で変わりにくく、ずれとタイムラグがあまりにも大きく乖離するといっている。

 キリスト教はほんらいは家族を捨てろといった宗教であり、性的快楽にそう目くじらをたてるものでもなく、欲求の満足の重要性も認めていた。博愛主義を訴えた宗教であるのだが、禁欲で権威主義的で、排他主義的なものに変容していった。

 紀元前60年ごろにペルシャからローマにもちかえったひとつの宗教がローマを席巻するようになり、304年に守護神とされた宗教はキリスト教とひじょうに似ていると思ったのだが、これはミトラ教だった。ミトラ教はキリスト教と同じような神話と儀式をもっていたのだが、ある一点の違いのためにキリスト教によって瓦解したとされる。

 ミトラ教では父親のシンボルたる牡牛を息子が殺すに対し、キリスト教では息子は父親に服従し、息子が殺されるということである。ミトラ教は征服の宗教、キリスト教は服従の宗教とされる。攻撃性はミトラ教では外に向けられ(サディズム)、キリスト教では内に向けられる(マゾヒズム)。

 ミトラは生き残るが、キリストは死ぬ。キリスト教を選んだということは、サディズムよりマゾヒズムを選び、死の本能をおのれに向けたことをあらわしているだけではなく、生の本能にたいする死の本能の勝利もあらわす。ミトラ教のシンボルは生命とエネルギーの源泉たる太陽、キリスト教は拷問と死の道具たる十字架。キリスト教の信者たちはまもなく苦行の制度と、強迫的な性の恐怖を発達させる。

 この本は一千年、二千年におよぶ性にたいするおもにキリスト教の態度の変遷をあつかった大部の書である。キリスト教の態度は時代によって極端になり、無定見がひどい。一夫多妻を容認し、一夫一婦制が本質と宣言し、離婚をゆるし、禁止し、試験結婚を認め、禁止し、司祭の結婚をゆるし、禁止した。そういったころころ変わる、極端に厳格さから寛容さにかわる性への態度をながめたのが本書である。

 この本でいいいたかったことは性エネルギーは減らしたり、抹殺できない。はけ口をふさがれるとべつのかたちのはけ口を見出す。代理形式では正常に表現されるときよりしつこくて強迫的である、ということだろうね。

 抑圧的な時代が許容の時代よりセックスに囚われており、したがってより背徳的である。パトリズムの時代の道徳水準が高いと思うのは、その時代のめだった特徴である大量の倒錯と神経症によって目をふさぐことによってつくりあげられた幻想だといっている。

 ひとことでいえば、性を禁止し抑圧することによってどんな狂的で倒錯的な社会がかたちづくられてきたかという告発の書でもあるのだろうね。


▼バハオーフェンの本がまた読みたくなったね。
母権制序説 (ちくま学芸文庫)父親なき社会―社会心理学的思考母権と父権の文化史―母神信仰から代理母まで (人間選書)母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

キリスト教とセックス戦争―西洋における女性観念の構造 (ポテンティア叢書)カトリック教会と性の歴史宗教とエロス (1975年) (叢書・ウニベルシタス)知への意志 (性の歴史)歴史のなかの性―性倫理の歴史


03 01
2013

書評 性・恋愛・結婚

【18禁】 「変態性欲」と「性欲生活」にのけぞる大正セクシュアリティ

 むかしの性的意識って現代から見れば、こっけいですね。国会図書館の近代デジタルライブラリーでそういう本をながめていたら、こっけいを通り越して、のけぞるタイトルにびっくり。

 「変態性欲」とか「性欲生活」という言葉が大正時代に闊歩していて、大マジメに論じられていて、人びとはそのような衝撃的な論述に啓蒙されていたのですね。なにを規制されて、どのような規律がこめられていたのでしょうね。

 大正時代の恋愛論ブームを検証していた菅野聡美という研究者が、次の本に『「変態」の時代』をいう本を出した驚きがわかりますね。

4061498150〈変態〉の時代 講談社現代新書
菅野 聡美
講談社 2005-11-18

by G-Tools


 ミシェル・フーコーの『性の歴史』以来、性意識の変遷は研究のタブローにのせられるようになりました。

知への意志 (性の歴史)快楽の活用 (性の歴史)自己への配慮 (性の歴史)

 これらの明治からのセクシュアリティについては、一冊一、二万もする復刻版も35巻で発売されているのですね(『近代日本のセクシュアリティ』 ゆまに書房)。タダで見れる近代デジタルライブラリーとかぶってしまうのですが、フリーなネットはこれらを駆逐してゆくのでしょうか。 



【変態性欲】

 大正時代に「変態性欲」というすごい言葉が大流行していたようなのですが、当時は変態という言葉は性的なものに限定されるのではなく、昆虫の変態はもちろん、経済や財政、価格とか、または鉄の状態にも用いられる広い意味合いをもっていたようですね(「変態」の検索結果)。通常でない状態とか、急激な変化とかの意味もふくまれていたのでしょうか。いまは変態の頭文字の「H」という略語がふつうの性行為をさすようになったのですが。

hentaiseiyokukouwa.jpg

変態性慾講話 高橋北堂 編 大正10

「変態性欲」という言葉はすごいですね。この言葉によって人びとは「正常」と「異常」の境目を慎重に選ぶようになったのでしょうね。


hentaiseitekifujin.jpg

変態性的婦人犯罪考 石角春之助 著 昭和2.11

婦人にも「変態性的婦人」と名づけられていた時代の恐さが垣間見れますね。


hentaiseiyoku.jpg

変態性欲の研究 羽太鋭治 著 大正10

 この羽太鋭治という人が当時の性的言説をリードしていたようで、大量のセクシュアリティ本を出していますね。


seiyokuseikatu.jpg

性慾生活の変態と正態 性知識普及会 編 昭和11

性的生活に「正常」と「異常」のレッテルが貼られて峻別されたのでしょうね。


sikijyoukyou.jpg

色情狂編 クラフトエビング 著[他] 明27.5

このクラフトエビングという人が「変態性欲」という言葉に火をつけたようですね。医学的に「色情狂」と非難されるわけですね。



変態心理学講義録. 第1篇 日本変態心理学会 大正10

「日本変態心理学会」という学会もございました。


変態風俗の研究 田中祐吉 著 昭和2

日本のむかしの風俗は「変態」になりました。





【性欲】

 性欲というものが医学的にとりあげられた時代。


jyoseihanmon.jpg

性慾に対する女子煩悶の解決 羽太鋭治 著 大正10

「性欲に対する女子煩悶」というすごい内容が問題になりましたね。


現代婦人と性欲生活 羽太鋭治 著 大正11

「性的生活」ではなくて、「性欲生活」。


恋と売淫の研究 羽太鋭治 著 大正10

「売淫」ということも研究対象になりました。


jyoseitoaiyoku.jpg

女性と愛慾 田中香涯 著 大正12

「愛欲」が問題になったのですね。


renaitoseiyoku.jpg

恋愛と性欲 沢田順次郎 著 昭和10

愛か性欲かという問題はこんにち問われることは少なくなりましたね。


性交論及び性慾の新研究 沢田順次郎 著 昭和8

「性交論」という直截的な問題。


女 : その性的及び恋愛生活 ウィリアム・ロビンソン 著[他] 大正9.12

女が性的生活から究明されるまなざし。


seisyokuki.jpg

生殖器及性欲全書 羽太鋭治 著 大正15

「性欲全書」。




【初夜と性交技巧】

こんにち初夜とか結婚生活が医学書でおしえられたりすることはあるのでしょうか。


syojyonosyo.jpg

処女の書 杉田直樹 著 1948

若い女性の性教育のために医学博士が書いたもの。


seiaikenkyuu.jpg

結婚初夜の知識 : 性愛宝典 附・姙娠より育児まで 田代三郎 編 昭和3

初夜に結婚の知識がさずけられるというものですね。


性愛研究と初夜の知識 羽太鋭治 著 昭和2

こんにちでは初夜はすっかり俗っぽい言葉になっているのですが。


seiainogikou.jpg

性愛の技巧 ハヴェロック・エリス 著[他] 大正11

性科学者として活躍した人ですね。


処女及び妻の性的生活 沢田順次郎 著 昭和8

なんだか包囲されたような。





【恋愛論】

 大正時代には恋愛論が一大ブームを巻き起こしました。われわれの時代はマンガやドラマ、映画などで学んだりするわけですが、かつての人は言葉や本で論じました。


kindairenaikan.jpg

近代の恋愛観 厨川白村 著 大正11

この厨川白村のこの本によって恋愛論ブームが巻き起こりました。精神的な恋愛至上主義がここからはじまったのでしょうね。


jiyuuseikouzoku.jpg

自由性交俗と恋愛観の変革 草野忠孝 著 昭和8

変革を求められた恋愛観と性関係。


一夫一婦か自由恋愛か 倉田百三 著 大正15

大正の人のほうがしっかり考えていたような。


恋愛の進化 文芸社編輯部 編 昭和3

進歩するものと考えられていた恋愛。


sisyunkiseitekikankei.jpg

思春期に於ける性的関係 伊藤尚賢 著 大正14

悩める青年のための本という感じですね。


恋愛過剰論 国民社 編 昭和9

昭和9年の「恋愛過剰論」。


恋愛の社会的意義 山田わか 著 大正9

恋愛に社会的意義はあるか、そう問うマジメな人はこんにちほとんどいないでしょうね。


▼近代デジタルライブラリーの民俗学、哲学書等のリンクはこちらから。
 「無料で読める。国立国会図書館の民俗学、哲学書等を独断でリストアップ


01 27
2013

書評 性・恋愛・結婚

羞恥心は西欧近代以前になかったのか―『秘めごとの文化史』 ハンス・ペーター・デュル

4588099086秘めごとの文化史―文明化の過程の神話〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)
ハンス・ペーター デュル Hans Peter Duerr
法政大学出版局 2006-07

by G-Tools


 性はなぜ隠すと魅惑的になるのか、羞恥心とはなにかといった問いをもっていたので、このハンス・ペーター・デュルの『文明化の過程の神話』は興味をもっていたのだが、一冊6千円とか9千円もする大部の著作はとても読めないと思っていた。たまたま古本で8百円で見つけたのでゲット。ほかのシリーズ本はこの単価でないとまず読めないだろうね。

裸体とはじらいの文化史―文明化の過程の神話〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)性と暴力の文化史―文明化の過程の神話〈3〉 (叢書・ウニベルシタス)挑発する肉体―文明化の過程の神話〈4〉 (叢書・ウニベルシタス)“未開”からの反論―文明化の過程の神話〈5〉 (叢書・ウニベルシタス)


 あからさまな陰部にたいする羞恥心がえんえんと世界中、古今東西からの集められていて、エロ本以上のきわどい記述満載の本である。出産と医療の羞恥の歴史、未開民族の陰部にたいする羞恥などがこの巻では追求されてゆく。

 ただこの本の目的は進歩史観・西欧中心主義のノルベルト・エリアスの『文明化の過程』にたいする反論のために書かれた本だとは知らなかった。反論のためにこのような大部の著作をものにできるのかとちょっと驚き。

文明化の過程〈上〉ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)文明化の過程〈下〉社会の変遷/文明化の理論のための見取図 (叢書・ウニベルシタス)


 この本から推察するにエリアスは未開や古代の人は羞恥心というものがなく、人前でも裸や性に関して平気であって、文明化にともなって羞恥心や作法がめばえたという進歩史観をとなえていたようだ。その反論にデュルは未開民族や古代、中世の人たちの羞恥心というものをえぐりだしてゆく。

 まあ、よくある西欧がいちばん偉くて、未開や古代は劣っていて遅れていたという進歩史観や西欧中心主義にたいする反論である。この反論で五冊の大部を書いてしまうとは、エリアスはよっぽどうらまれていたのか、反感を買うものだったのかと思ってしまう。西欧がいちばん偉くて進んでいるのだという優越感は当の西欧人からも疑問や当惑がたくさんつきつけられるようになったのでしょうね。

 わたしの問いとしては、羞恥心はなぜあるのかといった原理的なことであって、進歩史観か歴史相対主義であるとかの対立はあまり関心を占めていない。ただ日本人も江戸時代までは裸や性にかんしてひじょうにおおらかな庶民道徳があったようなので、明治以降の西欧化にともなって裸や性が弾圧されていった歴史は承知のことだと思われるので、未開に組み込まれていた日本としては西欧の目線どおりに従ったことは、歴史の選択として日本人に合致していたのだろうか。

 裸でいる未開民族でも陰部を隠すことのルールはひじょうに厳格に存在していて、洋服で裸を隠さないから淫乱や解放されていたというよりか、性を隠すことのルールは陰部にのみ引き下げられていたと見なすべきようである。西欧人はその段差に性的羞恥心や禁欲が存在しないと見なして、みずからの文明性や進歩度を優越したのだろう。

 デュルは陰部を隠すこと、羞恥心をもつことは、性的魅力を特定のパートナーに限定すること、私物化するためのものだと考察している。性交準備OKの信号をある程度まで管理するということだ。全裸でいる民族でも女性が陰部を隠すこと、男性が陰部を見つめることは厳しく管理されていた。

 性関係の支配関係、所有関係が、性の羞恥心を生み出している、または社会的ルールとして羞恥心を植え込むのでしょうね。所有関係の網の中で、性的魅力の信号を制限して、特定の関係だけにひらかれるあいだがらをつくることは、集団で暮らす人間において追加的に必要となった規則なのでしょうね。

 羞恥心や感情というのは社会が人をコントロールするために植え込む制御装置のようなものだと思う。感情や情動のままにつき動かされることは社会の動物となることである。それを言語化・意識化することはその動物のオリを抜け出すことだと思う。だから羞恥心の源・理由を探り、言語化することは、社会の管理装置をコントロールすることだと思う。操られるか、操るか。知識とはそのために求められるのだと思う。


羞恥の歴史―人はなぜ性器を隠すかパンツが見える。―羞恥心の現代史 (朝日選書)スカートの下の劇場 (河出文庫)お産 女と男と―羞恥心の視点から (勁草 医療・福祉シリーズ)裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心 (新潮選書)

12 28
2012

書評 性・恋愛・結婚

150年前、人前での裸が平気だった日本人―『裸はいつから恥ずかしくなったか』 中野 明

4106036614裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心 (新潮選書)
中野 明
新潮社 2010-05

by G-Tools


 唖然としたというか、驚嘆というか、思わず唸った一冊だった。

 日本人はどうやらわずか150年前、人前で裸をさらすことに羞恥も禁止もなかったようなのだ。こんにちのわたしたちは「そんなバカなこと」と思うだろうし、なかなか信じられないことだろう。

 だからこの本では当時、西洋人が混浴や庭先で行水をする日本人に出会って驚いたり、非難する言葉の記録がつぎつぎとたどられてゆくことからはじまる。わたしたちはもう西洋人と同じ考えと目線しかもてないから、かれらのカルチャー・ショックの言葉のほうがよほどぴったりくる。わずか150年前の感覚すらわたしたち日本人はもうもってはないのである。

 この本は1854年、安政元年に描かれたつぎの下田の公衆浴場のナゾからはじまる。

h08.jpg

 どうもおかしいではないか。男女が混浴で浴場に入っていて、ちっとも裸を隠すわけでも、恥ずかしがるわけでもなく、堂々としている。こんにちではありえないことであるし、わたしたちの知識でもむかしの日本でこんな混浴がごくふつうにおこなわれていたのかさえすでに知らないことになっている。

 そういう謎解きのスリリングな展開がこの本の前半でおこなわれる。わたしたちも西洋人が口々に証言する日本人の露出されたハダカ感覚に驚き、疑いながら、数々の西洋人の証言をたどってゆく。

 全国すべてに混浴がいきわたっていたかというとそうではなくて、まだらのようにあったようである。また銭湯からあがった人は近ければべつに裸で帰ったということである。行水や沐浴のようなことも、外から見える庭で平気でおこなわれていたし、通りや往来に近いところでもべつにふつうに行われていたそうなのである。若い女性でも関係なかった。

 どうしてそういう公衆のまえでも裸でいることに平気だったのかというと、著者は裸は「顔の延長」のようなものではなかったのかと推測する。現代でも顔を恥ずかしがる人なんていない。裸もそういう「顔の感覚」で捉えられていたのではないのかという。

 裸体は制度により「無化」されていたのではないのか。裸は「コモディティ(日常品)」のようなものであり、珍しくもなかったし、隠すこともなかったものではなかったのではないか。社会制度として裸の価値はこんにちのような性的な意味を付与されたり、禁止されるものではなかったのである。

 幕末まではこういう感覚で日本人は人前でも平気に裸をさらしていたのだが、西洋人の非難の言葉や西洋化に流されて、どんどん裸を見せることが罪や恥だといった禁止令や弾圧をおこなわれるようになった。

 そのことによって裸は恥ずかしいもの、「性的」なものであると日本人は気づいてゆく。裸体がコモディティのときには人前で裸体がさらされても性的に感じたり、セクシーさを感じるものではなかった。裸が禁止され、隠されることによって、その性的な価値、セクシーさは増すことになっていったのである。

 思わずうなったというのは、性的なものや羞恥心というのは社会制度によって生まれるということがこの日本人の裸体感覚であぶり出されていたからだ。わたしたちが性的に感じたり、欲情を感じるのは、社会的に制度づけられたものに水路づけられるのではないかということだ。わたしたちは隠したり、見せたりする社会制度の中で欲情している。

 社会の禁止や文化コード(規範)に対して欲情しているとさえいえるのではないのか。

 こんにちでは性的なことは私的なことや日常で感じるというよりか、マスコミで女優やアイドルが脱いだり、ヌードになったという衝撃で、より性的なものを感じるようになっている。つまり公共でどうさらされるかということが性的なこと、セクシーなことになっている。性的な基準というのは社会や公共の基準のことではないのか。基準がセクシーなのである。公共的な基準がわたしたちの性のありようや関心を決める。

 羞恥心や隠すことによるセクシーさの拡大というナゾは、いぜんも問うてみたことがある。隠すことは「自他の境界」や「自己」も生み出すのではないかという探索もしてみた。

 バタイユや栗本慎一郎などは禁止することが快楽を増大させるという理論から、人間の勤勉や労働はポトラッチ的な破壊の快楽のためにおこなわれるといった。ためこんで、ためこんで、ガマンする果ての破壊の快楽は恐ろしいということですね。

 この本はそのへんの周辺の探究にまた火をつけそうな本だ。隠すこと、羞恥心、セクシーさ、そういったものの絡まりの謎解きの快楽をまた与えそうですね。

 隠すことの性的快楽の増大はこんにちのわたしたちがよく知っている。だけど隠さないことによる、裸をオープンにすることによる性の無化という世界を、わたしたちは知りえなくなっている。みんなが裸で平気になる社会は返ってぎゃくに、性的な事柄や魅力が縮小する世界なのだろうか。

 わたしたちは裸を隠して禁止する清らかな社会に生きていると思っているけど、ぎゃくに性的な欲求不満や性的な意識の増大、セクシーに感じることの快楽を知らずに拡大しているのかもしれませんね。「秘すれば花となり」、「チラリズム」といったものですね。

 禁欲の世界は隠して隠して、ためこんでためこんで、破裂する快楽を見つけただけの方法なのかもしれませんね。ガマンした後のビールはうまいというやつと同じですね。

 ナゾと探究の世界に火をつけそうな一冊ですね。


裸体とはじらいの文化史―文明化の過程の神話〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)羞恥の歴史―人はなぜ性器を隠すか岩波近代日本の美術〈2〉隠された視線―浮世絵・洋画の女性裸体像パンツが見える。―羞恥心の現代史 (朝日選書)人はなぜ恥ずかしがるのか―羞恥と自己イメージの社会心理学 (セレクション社会心理学)

地位と羞恥―社会的不平等の象徴的再生産 (叢書・ウニベルシタス)「裸」の文化史秘めごとの文化史―文明化の過程の神話〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)パンツをはいたサル―人間は、どういう生物かだから混浴はやめられない (新潮新書)

女の身体、男の視線―浜辺とトップレスの社会学

11 05
2011

書評 性・恋愛・結婚

三十代・独身女の尽きせぬ将来への不安

 女性の未婚率は25歳から29歳で59.9%となっている。30歳~34歳でも33.3%となっている。50歳の未婚率は9.8%だ。80年代ころからどんどんうなぎのぼりで、二十代後半でも6割の女性が未婚になっているのは驚きだ。結婚しない、できない時代になっている。(図録▽未婚率の推移)

 男性では25歳から29歳で71.1%、30歳~34歳でも46.5%。50歳で19.4%。男は二十代でほぼ結婚せず、三十代で半分くらい結婚する。五十代でも結婚しない人が二割いて、もはや結婚しない男性もふつう。

 どうして晩婚・非婚化がこんなに進んだと思うかというと、やはり男性の収入の減少と不安定化が根本にあるだろう。男の収入に頼る結婚観がここにきて破綻をみせている。恋愛結婚観もぎゃくに恋愛の理想化と強迫となり、多くの人を遠のかせてしまった原因だろう。背景には都市化と効率化のひとりで暮らせるビジネス・マシーン国家の完成があると思う。

 解決は恋愛結婚観の終焉と破綻をアナウンスすることだろう。恋愛のはてに結婚すること、男の稼ぎに養われる結婚観を終わりにさせないとこの晩婚化は終わることはないのだろう。結婚はふたり分の収入をシェアして持ち寄って家庭をささえるものという常識が必要になるのだろう。いがいに恋愛観・結婚観というのは神話や信仰に近いもので、てこでも動かないものかもしれない。自然で、つくられたものではないという意識が強いからだろう。時代や経済の要請によってつくられたものが恋愛観・結婚観というものなんですけどね。

 こういう時代のエポックにぽっかりと落とされ、ただばくぜんと三十代の晩婚の日常をおくる女性の毎日や心情をつづったマンガが益田ミリの『結婚しなくていいですか』だ。

4344415248結婚しなくていいですか。―すーちゃんの明日 (幻冬舎文庫)
益田 ミリ
幻冬舎 2010-08-05

by G-Tools


 四十まぎわになるさわ子と三十代なかばのすーちゃんの独身女性が主人公の日常の何げない日々をひたすらつづったマンガだ。なんの解決もポジティブな決定もない。ただ日常にうかんだ思いや日常の日々が描かれているだけである。そこが脱力系、気が抜ける益田ミリのマンガの魅力であり、とりえである。ただ「聞いて聞いて、こんなことがあった」「わかる~」という共感だけをねらったマンガで、そこにほっこりとした安心と落ち着きがあるだけである。

 益田ミリは1969年生れのアラフォーで、おそらくは等身大の気もちなんだろう。ところで益田ミリは脱力系のほっとするマンガを描くのだが、当人もそんな脱力系の顔と雰囲気をもっているのか顔写真をみてみたいと思うのだが、ネットにもてんであげられていない。

 老後はどうなるのだろうとさわ子もすーちゃんも考えては悩み、どうしようかと思うが解決も思い浮かばず、ただ毎日をすごすだけ。むかしは家族に養ってもらう、農業の手伝いをするといった生き方があったのだろうが、いまは独身でたよる家族や子どもをあてにできなかったり、年金の将来も不安だし、仕事も年をとっても働けるわけではなし、不安がつのる一方である。貧乏な時代はその日を生きるのが精いっぱいで、将来の不安なんて贅沢だったのかもしれない。いっそ将来の不安などそのときに味わえばいいと切ってしまったほうがいいのだろうか。

 女性の生き方というのはファッション雑誌などのメディアが主導してきた。独身女性が増えてきたのはキャリア志向の賜物のような見え方もするが、どちらかというと結婚したいけど相手がいないという消極的な理由が実情に近いかもしれない。

 松原淳子『クロワッサン症候群』や谷村志穂の『結婚しないかもしれない症候群』がバブルころにベストセラーになった。2004年には酒井順子の『負け犬の遠吠え』がベストセラーになった。女性は生き方をメディアと歩調を合わせる、あるいは生き方の選択がメディアで主題になりやすいのだろう。(二つの「症候群」――「クロワッサン」と「結婚しないかもしれない」 / 『負け犬が書かれた理由』)

クロワッサン症候群その後結婚しないかもしれない症候群 (角川文庫)負け犬の遠吠え (講談社文庫)バブル女は「死ねばいい」 婚活、アラフォー(笑) (光文社新書)


 バブルころの女性の生き方は理想やカッコよさに煽られていた。恥ずかしくなるような高級化やコピーが踊っていて、若い女性はファッション的なワンランク上の生き方をめざしていた。『バブル女は「死ねばいい」』という新書が書かれるくらいだ。益田ミリはバブル時代を知っている世代でちょうど就職氷河期のはじめくらいだから、だから脱力系、気力抜けの作風をアンチ的に描くのかもしれない。バブルで植え込まれた熱やパッションを落としているのだ。あるいはむかしからバブルの雰囲気がきらいだったのかもしれない。

 「将来どうなるのだろうか」症候群はどんな老後をむかえることになるのだろうか、あるいは日本にカタストロフィー状況がやってくるのか。老後の安心が国家によって編み出された社会は、老後の尽きせぬ不安も生み出してくれたのもたしかである。

 ところで戦後の恋愛結婚観はなんだったのかという明晰な解答は、本田透の『萌える男』や岸田秀の『性的唯幻論序説』でおこなわれている。セックスと金の交換が恋愛結婚の正体である。男にはこんな醒めた幻滅が草食系や晩婚化の根底にあるのだろう。

萌える男 (ちくま新書)性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫)

10 23
2011

書評 性・恋愛・結婚

恋愛本のおすすめ本・名著15冊

renai15.jpg


 とある雑誌から恋愛本のおすすめ本三冊をセレクトするようにたのまれた。
資料をあつめるためにむかし読んだ本の書評をあらためて読み返した。
どの本をセレクトしようかな。

 わたしとしては『この人と結婚していいの?』と『なぜ彼は本気で恋愛してくれないのか』、『恋愛セラピー』をおしたいのだが、わたしに期待されているのは「評論・新書・哲学」のジャンルらしい。どうしよう。





4101294313この人と結婚していいの? (新潮文庫)
石井 希尚
新潮社 2002-11

by G-Tools


 男と女のすれちがいに悩む人には最高の名著だと思う。男と女の感じ方、考え方のちがいをこれほどまでに明確に具体例をあげて教えてくれる格好の本はないと思う。

 たとえば女性が「話したくない」といったとき、傷付けられたことを訴えたいだけであって、男は言葉どおりにうけとって黙ってしまいがちになるが、そうではないという。女性は気持ちの共感や同情がほしいだけなのである。

 女性は大切にされているという実感をとても大切にするが、その安全基準がどこにあるのか男にはまったくわからない。だから男性には女性がなんで怒っているのか訳のわからないことが多い。タオルの置き場所を怒ることによって、大切にされていない不安を訴えたりする。男性は女性の感情生活により神経をそそぐことが重要なのである。

 男なら女性の脈絡のない会話に閉口したことがあるかもしれないが、男は要件や用事のない会話はムダだと思うからだが、女性は会話する安心感や共有する充実感をとても大切にするため、沈黙をひどく怖れる。関係が破綻しないよう男はなんでもない会話でも共有する努力を怠ってはならない。

 この本はほんとに男と女の言葉と感情のすれちがいを見事に解明してくれていて、感嘆と発見と驚きの連続の本である。経験したかもしれない男と女の言葉や感情のすれちがいの原因をあちこちで見出すことになるだろう。


4584391793なぜ彼は本気で恋愛してくれないのか (ワニ文庫)
ハーブ ゴールドバーグ 角 敦子
ベストセラーズ 2003-12

by G-Tools


 たぶん女性向けに書かれているのだろうが、男がぜひ読むべき女性にとっての男の性質がどのようなものかを教えてくれる驚嘆の書である。男らしさ、男としてよかれとやっている論理や感情の抑制が、女性を傷つけているとはじつに皮肉なものである。

 「少年のころは、身近な人に頼らない男らしさを見せると好感をもたれました。とくに喜ばれほめられた気質は、自立心旺盛、意欲的、野心的、目標志向、ワンパクさ、責任感の強さ、活発さ、といったところでした。
 ――ところが皮肉なことに、彼を「男らしく」見せていた気質が、将来「無神経」で女性に横暴にふるまう男に彼をしたてあげてしまうのです」

 男は男らしくなろうとしてクールで論理的で無口になろうとするものだが、感情と共感をとても大切にする女性にとってはその態度は拒絶や拒否としかとられかねられないものなのである。

 男として条件づけられたものが、女性との気持ちのすれちがいを数々ひきおこしていることがこの本の中で多くとりあげられていて、本書は感嘆することしきりの本である。もちろん女性として条件づられたものが男にどのような気持ちをひきおこさせるかものべられている。

 この本は男と女の違いをのべた私にとっては赤ラインとドッグ・イヤーだらけの貴重で重要な本になった。男女ともども読んでほしい本である。


4845407299恋愛セラピー (ムックセレクト)
松本 一起
ロングセラーズ 2003-08-01

by G-Tools


 かなりすばらしい本である。喧嘩や嫉妬より、愛したり許したりする気持ちのほうがどんなに大切なことか教えてくれる本である。愛する人を失うために怒りや嫉妬に駆られるわけではないのだから。この本は愛する愛おしさの気持ちをなんども思い出させてくれるかなりいい本である。

 「恋人が出来なかったあなたは、今まで自分のことを大切にしていなかったのです。今日からは、あなた自身を過大評価して、上へ上へ舞い上がりましょう」

 「いいですか、人に自慢しては駄目です。あなた自身に自慢してあげるのです。毎日、自慢してください。あなたはたくさんの人の前でも、堂々とあなたでいられるはずです」

 「恋愛の想像は、なぜかマイナス志向が多いのです。頭で思うって分かりますか。気持ちを鎮めることから始めるのです。好きな人のことを悪く悪くイメージして、押さえ付けてゆくのです」

 「嫉妬しない方法。とても簡単なのです。相手を信じればいいのです。悪い想像力を使って、些細なことを広げなければいいのです。たった、それだけのことです。だって、あなたはその人と別れたいのですか。相手の人のことをすべて信じればいいのです。疑うなんて最低です」

 「あなたが、彼のことを心から愛していたり好きだったりしたら、どんなことでも許してあげるのです。――それとも、自分の我を通して、相手を押さえ込んで、相手に謝らせたいのでしょうか。何日も何日もかかって、相手に謝らせたいのですか。その間、音信が途絶えても自分を優位に立たせたいのですか。好きな人と喧嘩して何が楽しいのですか。ただ苦しむだけなのです」


4480088644夜這いの民俗学・夜這いの性愛論
赤松 啓介
筑摩書房 2004-06-10

by G-Tools


 一冊の本を読み終えたら世界の見え方が変っていたということがあるが、この本はまさしくそのような本である。おおらかで積極的で目からうろが落ちるようなむかしの男女の性体験、性風俗が語られていて、こういう語りこそが大人から人生を教えてもらうというものだろうと思った。

 性をあからさまに語るということはまさしく人の生きざまを語るということなのだと思う。性を語れなくなった現代というのは人生をも伝えられないということなのだろう。性に拘泥せずにおおらかに性を楽しんだむかしの日本人の姿を知ることはかなりのカルチャーショックである。とにかく読むべき本である。


4167540118性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫)
岸田 秀
文藝春秋 2008-09-03

by G-Tools


 岸田秀が性についていっていることでいちばんインパクトがあるのは結婚は専属の売春婦になることだということである。そしてセックスは無料ではなく、有料であるため男はどこまでも働かなければならず、それが資本主義の原動力になっているということである。

 要は愛や結婚のオブラートにつつまれた幻想を捨てて、その関係を金銭関係や経済として捉えよということである。まったくそのとおりだ。結婚や性はロマンティックなものではなく、あくまでも金銭取引なのだ。

 ロマンティック・ラブや愛といった幻想は、市場経済を隠蔽する煙幕であり、売春婦が嫌われるのは結婚の金銭売買を隠したり、愛は崇高であるというイデオロギーを完遂させるに必要な目印なのだろう。

 セックスが有料であり、女は売り手であり、男が買い手の役割になったから男はどこまで稼ぎ、資本主義の奴隷労働をしなければならないとするのなら、この売り手と買い手の関係をぜひとも洗い直さなければならないのではないだろうか。


4480062718萌える男 (ちくま新書)
本田 透
筑摩書房 2005-11-07

by G-Tools


 かなり興奮する書物である。革命的であると思ったくらいだ。ぜひみなさんにお薦めしたい本である。

 この本でいっていることは恋愛結婚は終わってしまったということだ。70年代に政治に絶望した若者が見い出した閉塞的な恋愛の世界が、宗教や政治に変わる自我の安定や救済をもたらすものとしておおいに求めたられたのだが、80年代をへて商業化にとりこまれ、恋愛資本主義と化す。神や政治に変わる恋愛という救済のシステムが強迫的な商業システムとなったのである。

 しかし家族や恋愛は崩壊し、晩婚化や非婚化で逃げ出す男女は急増し、狩猟的な恋愛市場に救済をもとめられない男の一部はオタクとして脳内の満足で自己の救済をもとめる思考実験をおこなってきたというのである。つまり他者に救いを求められないのなら、自分で自分を救おうというわけである。萌える男とは自分自身の内側に「神」を見い出そうとする試みなのである。

 私としては恋愛結婚が終焉してまったということにいちばんインパクトがあった。オタクはその商業化に対する反逆であることはわかっていた。恋愛結婚というのは男に対する女の生産的・経済的な搾取であるという一面があるからだ。崇高な恋愛を経済活動にしてほしくないのだ。しかし女にとって恋愛結婚は経済取引であり、いかに高額な利益を得られるかの経済活動であり、オタクはその経済打算に自己の救済をあきらめてしまったのである。

 こういうことは一般的にも大衆的にもよくわかると思うのでこの面をもっと掘り下げてほしかったと思うのだが、この本は「萌え」についての本である。萌え系恋愛ゲームとかアダルト・ゲームの話になると、私は一度もやったことがないし、萌え系キャラというものにもなにも感じないので、いっていることはわかるのだが、いまいち感情移入しにくいところがあった。「恋愛結婚は終わった」という宣言をのべる段階で止めたほうがもっと一般性が獲得できたのになと思う。

 それにしてもものすごく好奇心を刺激される本だった。いろいろな疑問が噴出したし、もっとほかの考え方もできるのではないかと、おおくの思考が頭の中を駈け巡った。いろいろ考えてみたいと思わせる本であった。

 なんといっても恋愛結婚は終わってしまったということがいちばんの衝撃である。商業化にまみれたそれは総スカンや反逆、廃棄を迫られる時代になったのである。オタクはさっさと自我の安定や自己の救済をほかに求めるようになった。女やマスコミはその商業利益を、あるいは共同幻想をいまだに強迫的に追いかけ回している。

 現代は恋愛資本主義にアンチを唱える宣言が必要なのだろう。この本はそのくさびを打ち込む宣言書になった。あるいは萌える男についてより、恋愛資本主義の終焉をもっと声高に主張するべきであったか。

 恋愛という神は、あるいは恋愛という商業主義はもう捨て去らなければならない――経済化されすぎたそれは若者の総スカンを喰らいはじめているのである。このことをわれわれはしっかりと認識するべきだ。その反逆を早くから行っていたのがオタクであり、かれらは新しい思想運動を生み出そうとしていたのである。

 いろいろ啓発されることの多かったこの本を私の「GREAT BOOKS」に推したい。


4062759241電波男 (講談社文庫)
本田 透
講談社 2008-06-13

by G-Tools


 本田透は女性向けに本を書くべきだと思う。それも負け犬女性向けに。カネにまみれた恋愛を呪詛するのである。男に萌えのススメを書くより、女性に恋愛資本主義の終焉をアナウンスすべきなのである。それでこそ本田透のメッセージは真価をもつものだと思う。

 この本はあまりにも過剰な文章やおちゃらけが多すぎ、買うのを何度もためらった。恋愛資本主義については興味があったのだが、その過剰さで読めなかった。『萌える男』(ちくま新書)でようやくこの本の意味がわかったが、読んでみるとやっぱり大部分を削ぎ落としてほしいと思ったのは変わらない。鋭い読みには感心することも多いのだが、やっぱり感心しない。

 恋愛が商業化され、金にまみれた売春になってしまったという本田透の嘆き。男はうすうすそのことに勘づいているのだろうが、たぶんメッセージや思想として声を大にして批判するということがなかった。なんとなくいやだな、と晩婚や非モテに退去するしかなかった。

 オタクだからこそ――女にモテることをあきらめ、二次元の美少女に癒されることができるからこそ、オタクの中から恋愛商業主義の汚さや醜さ、からくりをあからさまにして罵ることができたのである。商業主義の連中がオタクを嫌悪するのは、その不安であったのかもしれない。みんなで恋愛という共同幻想をやらないからである。

 ほんとうにもうこの恋愛資本主義はどうにかならないものかと思う。純愛だとか精神的な愛だといっているうちに恋愛は商業化し、売春化してしまったではないか。金の排除を宣言しておきながら、見事に金目当ての恋愛に終わってしまったではないか。

 愛する気持ちも人を慕う気持ちも、女性の性や身体もすべて商品化され、金の取引や交換、ビジネスとなり、けっきょく金のためだけに恋愛や結婚する世の中になってしまったではないか。おそらく男女分業や労働の性差別、処女や貞操のイデオロギーなどがつくられたときにその帰結は決まってしまっていたのだろう。

 男女の関係は完全に金銭関係に支配されてしまったのである。私たちはこんな関係や世の中を望んでいたのだろうか。恋愛関係に絶望し、晩婚やオタクとしてひきこもってしまうのは故なきことではない。

 70年代に政治に絶望した日本人はいままた希望の光であった恋愛に絶望する時を迎えたのである。愚かな夢であった。恋愛や美少女アイドルに崇高な価値があるという国民的熱狂。政治に絶望したからといって、恋愛に国民的崇拝を見い出すのはあまりにも愚かであった。それは恋愛の金銭化と売春化という最悪の結果に落ち込み、ひとりのオタクにその死を宣告された。井上陽水に「傘がない」と政治の死を告発されたみたいに。

 私たちは恋愛が死んでしまったということに気づくべきなのである。そしてその共同幻想、あるいは宗教から目を醒ますべきなのである。まるで私たちは新興宗教のお守りとか水晶に大金を巻き上げられる信徒のような存在であったのである。その尖兵が負け犬女性であったのはいうまでもないことだ。

 私たちはこの絶望の丘で男と女の関係をどのように構築していったらいいのだろうか。私は残念ながら本田透が提唱するような二次元の萌えには希望は見い出せないが。


4821108429恋愛自由市場主義宣言!―確実に「ラブ」と「セックス」を手に入れる鉄則
岡田 斗司夫
ぶんか社 2003-07

by G-Tools


 この本でいっていることは、「運命の人」幻想を捨てよということである。ひとりの人に独占欲や束縛を課すのではなく、恋愛もセックスももっと気軽に広く浅くおこなえということである。一夫一婦制はムリをしすぎているということだ。それを恋愛自由主義というのだろう。

 女性はむかしから二つの戦略を発展させてきた。娼婦型は薄く広く男に負担を求める戦略で、対して淑女の戦略は一人にぶらさがって、徹底的に食い込んでゆく。淑女型は終身雇用時代の一夫一婦制であり、娼婦型は会社を移るフリーターのような生き方である。

 終身雇用が崩壊した現在、淑女型は非現実的になりつつあり、岡田は女性の生き方は風俗のようなものでいいんじゃないかといっている。実情に合っているし、ラクなんではないかと。

 一夫一婦制というのは子どもを安定的に育てるための制度であり、政治的には管理しやすかったから、戦後の経済統制社会では求められてきたのだろう。会社への滅私奉公とか終身雇用が崩れさるということは、必然的に女性との関係も終身婚の誓いが消えてなくなるということである。ひとりの男に終生、愛を誓うといった「オンリーユー・フォーエバー」幻想は音を立てて崩れさろうとしているのである。

 われわれは「一人の人を生涯、愛することがすばらしいことだ」とか「結婚したらほかの人を愛してはならない」という思い込みを拭いがたく心の底に刷り込まれている。だから恋愛自由市場的な生き方をする人には「人でなし」とか「ろくでもない人間」だとかの反感を感じることだろう。

 滅私奉公のサラリーマンがフリーターに感じる気持ちと同じである。会社への感じ方と恋愛への感じ方はパラレル(平行)だと考えていい。

 新しい世代は親の世代がやってきた「会社人間」とか「運命の人」幻想の欠陥やウソっぽさをいやというほど目の当たりにしてきた。そんなものは社畜とか専属の売春婦にすぎないと子どもたちは見抜く。だからそんなものは信じていないし、そういう仕組みから逃げ出したいと思っている。ただ制度の有利さが足かせになって、かれらを押しとどめているだけである。

 終身婚やがちがちの一夫一婦制、あなただけを愛すといった「運命の人」幻想は、遅かれ早かれ自由主義にとって替わられるのだろう。官僚主導の統制経済が終わるとき、恋愛や結婚の自由化もはじまるのである。

 われわれはひとりの人に全存在を賭すような関わり合いを終えてゆくのだろう。そしてそういう気持ちもやめなければならないのである。たったつひとつの保険にすがりつくことはあまりにもキケンな生き方なのである。ひとりの人だけに愛を誓うといった重みも恋愛や男女関係から消えてゆく。

 恐れることはないのだと思う。おそらく明治以前の日本人はこういう生き方をしていたはずである。恋愛や結婚、セックスはもっと軽くて、いまのような重い意味はなかったのだと思う。私たちは重い恋愛結婚のオリの中からようやく抜け出そうとしているのだろう。

 政治で謳われているような規制緩和とか小さな政府といったものは、われわれの恋愛や結婚も自由市場化してゆくということなのである。それが改革の真の意味であり、完成であるということだ。われわれは政府や国家に決められた生き方からようやく解放されるのである。


4087471160恋愛は少女マンガで教わった (集英社文庫)
横森 理香
集英社 1999-10-20

by G-Tools


 たぶん男のわたしも少女マンガの影響をいくらか受けていると思う。アニメの『キャンディキャンディ』に熱中したり、アネキのマンガを読んだりして、少女マンガ風の一途な恋愛感情といったものを知らず知らずのうちに刷り込まれていたと思う。

 ゲンジツを知ったオトナの目から見ると少女マンガは恋愛のカンチガイと誇大妄想の宝庫である。著者はそのブッとび具合を見事に解説してくれて、この本はとてもおもしろい。

 カンチガイと誇大妄想はときには恐ろしくなる。自分にはすばらしい才能が眠っていて、それをコーチが発掘するという物語は『エースをねらえ!』などにあって少女はダイスキなわけだが、自分はこれだけの人間ではないという想いはこんなところで植えつけられたのかもしれない。

 少女マンガというのは女のエゴイズムと全能感をどこまでも満たす空想である。エゴがどこまでも満たされるひじょ~に自分の都合だけが通る空恐ろしくなるくらいの物語りである。オトコはたえず二人が愛してくれて片一方がダメだったらもう一方に落ち着いたり、努力しなくても足長おじさんのような存在が助けてくれるといったタナからボタもち的物語りが満載されているというわけだ。でもそのなかにはひじょうに深い人生観とか恋愛洞察とかがつめこまれていると著者はいっている。

 エゴと自己都合だけが通るマンガはたしかにとても楽しくて満足するものである。でもゲンジツというのは、たいがいその逆であり、またどちらでもなく、こういうカンチガイの刷り込みはよいことなのか、よくないことなのかちょっと考えさせられた。

 どこまでも満足できない人間をつくりだしたとするのなら、やはり不幸なことだろう。エゴと自己都合が通る認識をつくってしまうと、たいがいのゲンジツはガマンならなくなってしまう。刷り込まれたエゴに振り回されているのに気づかない結果になってしまうかもしれない。でも人はずっと昔から自分の思い通りになるマンガや空想が大好きなのである。


4022615389私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち (朝日文庫)
藤本 由香里
朝日新聞出版 2008-06-06

by G-Tools


 少女マンガを分析するこのような優れた本はもっとたくさん出てほしいものだ。マンガを分析するということは、知らず知らずのうちに刷り込まれた原イメージをもういちど捉え直すということである。私たちは思いのほか子供マンガのくびきにかけられている。

 少女マンガの根本的なテーマは自己否定されている自分を、ほかのだれか(好きな男)に肯定されて居場所が与えられることだそうである。女性は自己否定を両親から与えられ、男によって補完しなければならないわけだ。

 ドジでマヌケな私だけど、「そんな君が好き」と乙女チックマンガはいってきた。男に愛されてしか存在の肯定を得られない女性はたしかに苦しい生き方だ。「人ひとりが完全であるために、他の人間をこれほど欲さなければならないというのはどういうことだ。わたしという人間はそれほどまで欠落した部分を持って生まれたのか」

 少女マンガはこの闘いや克服をこれからもくりひろげてゆくことだろう


4061493388<非婚>のすすめ (講談社現代新書)
森永 卓郎
講談社 1997-01-20

by G-Tools


 この本で驚いたことは、戦後の核家族化は企業の生産性向上のためにおこなわれたということだ。子育てに時間をとられたり、扶養費がかさむようでは企業は利益をあげられないので、その年に生まれた子どもの半数、あるいは出生数以上の中絶が企業の洗脳によっておこなわれたのである。

 ぎゃくに戦時中は兵力と労働力のために「生めよ、増やせよ」で大家族が形成された。われわれの家族のあり方はそのときの国家や企業によってコントロールされてきたのである。国家や企業がここまで浸透しているとは不気味なことだ。

 それにくらべて明治初期の離婚率は四割近くもあり、転職率も世界一だったそうである。明治の時代のほうがよほど「先進的」である。ただそれだけ市場の洗礼が激しかったとはいえるけど。


4062733897掟やぶりの結婚道―既婚者にも恋愛を! (講談社文庫)
石坂 晴海
講談社 2002-03

by G-Tools


 恋愛や結婚についての鋭くて深い洞察だらけで、痛く感服した。引用します。

 「幻想は崩れるよ。でも実際はもっとひどい。エゴ、タカビー、がめつさ、嫉妬深さ、陰湿、冷淡、ヒステリック、まだまだあるけど、そういう生身の女の子のすさまじさに男はことごとく傷つけられながら、ようやく安全な身の置き所を見つける。それがおじさんという立場なんです」

 「会話がない。たったこれっぽっちのことで不倫に走る。なぜなら女にとって「しゃべる」は快楽でありエクスタシーだからだ。その快楽を無視という屈辱的なやり方で取り上げられる」

 「オンナは言葉を覚え、オトコは顔を覚える、と聞いたことがある。自分を小バカにしたようなあの時の顔、ヒスを起こした時の夜叉のようなあの顔、は克明に記憶するらしい。しかし言葉はほとんど覚えない。実際、オンナから見るとオトコの言語記憶能力は赤ん坊並みである」

 まだまだ男と女の鋭い洞察はこの本の中にはたくさんあるが、ふつうの人の声をあつめたこの本はどうしてこんなに鋭い洞察力に満ちているのかと思った。


4022643862結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)
小倉 千加子
朝日新聞社出版局 2007-01

by G-Tools


 鋭い本であると思った。感嘆の贈り物をたくさんしてくれる本である。

 といってもライト・エッセイであるが、フツーのあたりまえのことをいっているのだと思うのだけど、読みは鋭いと思われた。結婚と女の人生についていろいろ学べる。

 著者は短大で女子学生にアンケートをとった経験から、晩婚化は進むと予測した。なぜ専業主婦に固執するのかと尋ねると、女子学生は「自分の時間が持ちたいから!」と答えたそうである。女性はすでに結婚のほかになにか人生の目的があるように思っているのである。結婚はその生活の保証をしてくれる手段でしかない。

 女性は男に扶養されるをあたりまえだと思っている。「女は真面目に働きたいなんて思っていませんよ。しんどい仕事を男にさせて、自分は上澄みを吸って生きていこうとするんですよ。結婚と仕事と、要するにいいとこどりですよ」

 「専業主婦とキャリア志向の「いいところどり」である。経済は夫に負担させ、自分は有意義な仕事で働き、なおかつ家庭も持っている」

 「生活のための労働は、奴隷(男)にさせ、自分は貴族のように意義ある仕事を優雅にしていたい……。今や単なる生活費稼ぎの労働は、男と親と老人だけがするものになりつつある。~あらゆるつまらない労働、人間がしなければならない「当たり前」の労働から、若い女性たちが総撤退を始めている」

 「ラクしたい」「働きたくない」「苦労したくない」――これは若い女性だけが望んでいるのではなくて、若い男も同じことである。女性は男にそのように要望しておきながら、どうして男も同じように考えると思わないのだろうか。

 女は男に養われる特権を当たり前だと思い、さらに安定した完璧な生活保証を男に望み、そのうちに若い男たちは働く気をなくし、経済は転げ落ち、若い男たちは不安定雇用に従事し、収入も安いという状況になりつつある。だれもがソンな役回りに回りたくないと思い、おそらく男が養い、子どもを育てるという当たり前の役割すら、みんな放棄してしまうのだろう。

 戦後の当たり前の役割にみんな無自覚におんぶして、腐りはじめてるのだと思う。女は男に養われるのが当たり前だと思い、男は会社に養ってもらうのを当たり前と思い、子どもは親に養われるのが当然だと思っている。そういう約束の上にあぐらをかいて増長した人たちがたくさんあふれ返っている。戦後の社会はなにを生み出したのだろうと思う。

 みんなラクしてソンな役回りはだれかに押しつけて、奪いとろうとしか思っていない。ソンな役回りは男や親の、あるいは女にとってもとうぜんの義務なのである。こういう押し付け合いの社会はたぶんみんなでイタイ目に合ってはじめて、謙虚に多くを望まず、条件を素直に受け入れる人たちを生み出すのだろう。

 欲望の消費社会は商品やサービスのみならず、男や社会にかなり高レベルな要求水準を当たり前のように望む女性たちをたくさんうみだした。女たちがソンな役回りから逃れたいと思っているのなら、男だって同じように考える。いったいだれが好き好んで奴隷のように下支えしてくれるというのか。性別役割の上にあぐらをかく無自覚な女性にはなってほしくないものである。もとい謙虚にいうなら、男も女に育児や家庭を押しつける役割もそうである。


4022640952美人論 (朝日文芸文庫)
井上 章一
朝日新聞社 1995-12

by G-Tools


 これは美人についての本ではない。美人がどう語られてきたかということの本だ。

 明治のころには美人は罪悪であり、バカであるといわれており、現代では美人はほめたたえられ、だれでもなれるものになった。その理由を解いたがこの本だ。

 美人はかつて立身出世男の優越の目印として学業のなかばでも嫁にもらわれてゆき、したがって卒業する学識ゆたかな不美人の嫉妬となぐさめのために美人罪悪論がとなえられたというわけだ。ぎゃくに現代ではマーケットの要請から、だれもが美人になることを目指してくれないと業界は拡大しないということで、美人の民主化がおこっているというわけだ。

 美人観の変遷を、結婚市場と産業市場、教育のつながりからのべたこの本はなるほどなと納得させる本だ。

 おかげで大衆市場と国民国家や福祉国家の関係もこういう見方でつなげられることに気づいた。つまり国民国家や福祉国家は、国民が産業や総力戦に奉仕するためのご褒美であったというわけだ。


4062567954わかりあえる理由(わけ) わかりあえない理由(わけ)―男と女が傷つけあわないための口のきき方8章 (講談社プラスアルファ文庫)
デボラ タネン Deborah Tannen
講談社 2003-11

by G-Tools


 男と女の言葉と感情のちがいをもっと理解したいと思って読んだ。『この人と結婚していいの?』の後に読むと同じようなことが書いてあるように思うが、この本もけっこう重要なことが書かれているのだろう。

 女性は男性が悩みを聞いてくれないと訴えたりするが、それは女同士では悩みの共感や同情によって慰めるが、男同士では悩みを否定することによって慰めるからである。男同士は地位のレンズで見るから同情することは相手を見下すことになり、思いやりから同情を控えるのである。

 女性は自分の思っていることや感じていることを話す相手がいないと孤独感にさいなまされるそうだが、しかし男性はよほど重要なことか、要件のないことでないと口に出してはならないと思っている。女性が第三者にプライバシーを話すのは男性にはひじょうに不快なのだが、女性は秘密を話すことは親和を強めるための一種の義務なのである。

 私は男と女はあまり変わらないと思っていたが、一種の違う文化圏に生きているんだなとあらためて思ったしだいである。でも脳が原因ではないと思う。文化と慣習だ。


10 01
2010

書評 性・恋愛・結婚

『お父さんなんかいなくても、全然大丈夫。』 オープンブックス編集部

お父さんなんかいなくても、全然大丈夫。―離婚の真実 (オープンブックス)お父さんなんかいなくても、全然大丈夫。―離婚の真実 (オープンブックス)
(2010/01)
オープンブックス編集部

商品詳細を見る


 これはおそらく離婚をためらっている、もしくは離婚をすこし後悔している母のために編まれた本なのだろう。離婚した子どもたちの心境がそのままつづられている。13人のインタビュー集。

 わたしはこういう個人のライフヒストリーというのはどうも忘れる。哲学や社会学みたいな要約や抽象的な言葉しか頭に残らない。そういうなにが重要で覚えておく価値があるかという選択の中で個人の歴史は消えてゆくのだろう。だから読んだ後、もうほとんど個人のヒストリーは忘れている。この本の書評を書くのは適任でない。

 子どもたちは離婚という経験のあと、いじめられたり、グレたり、ヤンキーに走ったり、あるいはごくふつうに成長したりする。離婚をためらう母は世間体や父がいない家庭に子どもは健全に育つのかという不安を抱くのだろう。

 この本が決断のなんらかの肥やしになるかわからないが、わたしの考えは不幸と不健全さをもたらす関係はさっさと清算したほうがいいと思う。世間体や生活苦とかの困難はあるだろうが、不健全な家庭にしがみつくよりよっぽどいいと思う。子どもは環境をあたりまえのものとして適応する生存力はずっと強いのだと思う。

 夫婦も家庭もたんなる人間関係でそれはうまくいかなくこともあるし、うまくいかないこともある。結婚したからといって生涯いい関係がつづくとは限らないのだ。我慢しているほうが損失と損害が多いと考えるほうがいいんじゃないかと私は思う。世間は一銭も助けてくれない。


離婚で壊れる子どもたち 心理臨床家からの警告 (光文社新書) 離婚しても子どもを幸せにする方法 ココ、きみのせいじゃない―はなれてくらすことになるママとパパと子どものための絵本 離婚後の親子たち 離婚は家族を壊すか―20年後の子どもたちの証言
by G-Tools


11 20
2009

書評 性・恋愛・結婚

『私という病』 中村うさぎ

watasiyamai.jpg


私という病(新潮文庫)
新潮社 (2014-11-07)
売り上げランキング: 2,392


私という病 (新潮文庫)中村うさぎ

私という病 (新潮文庫)


 作家中村うさぎがなぜデリヘル譲になったかという話だが、男性諸氏が期待する風俗ルポタージュを満足させる内容ではまったくなくて、またそこまでして世間に名を売りたいのかという不審を払拭する本であり、この本はだれに読まれるべき本であるかというと、「女であること」に悩む女性たちに贈られた本である。射程は東電OL事件もふくまれている。

 内省たっぷりでかなり議論がややこしく、読みがいも考えがいもある本なのだが、男の私としては理論がこんがらがって図式的な理解ができない。要はなにをいいたいのかというと、年をとって男に欲情されなくなった女がふたたび金銭という目印でわかるかたちで、男に欲情されたいということなのだろうか。女の自尊心がつき落とされて、ふたたびそのプライドをリベンジしたいという思いが作家中村うさぎを風俗譲へと駆り立てた。男はすぐに男に飢えているからだろうと短絡して考えるが、地に墜ちた女の自尊心の回復が風俗に走った根底にあるということだ。

 この自尊心回復の物語は東電OLにも通じてくると推測され、エリートOLはおそらく女として生きることを抑制して生きてきたから、女の自尊心を満足させるために彼女は夜の街に立ったのだとこの本ではいわれている。

 女性というのは二つの面を求められる。男に求められ、欲情される娼婦性と、家庭や仕事などで求められる淑女性というふたつの面だ。性的でなけらばならない女性と、性的であってはならない女性に分裂させられる。東電OLは性的な女性であることに嫌悪感や罪悪感を抱いて育ち、社会的成功を手に入れたが、いっぽうでは女としての「負け組」のプライドを回復するために、あるいは女の自尊心の快楽を味わうために夜の街に立ったのだと中村うさぎは分析している。男がすぐ思うように性的衝動につき動かされてではないのだと中村はいいたいようだ。

 女性は性的な匂いをさせていれば男になにをされても仕方がない状況におちいる危険と隣りあわせで、中村が風俗をやったために差別や侮蔑をうけたようにならないために、女性性を隠すように育てられる。それがいきすぎると女性嫌悪や成熟した女性を避けようとする摂食障害になったりする。また女性性を払拭した生き方だけをしても、女性の自尊心も満足されないし、しぜんな性的満足もえられないだろうし、かといって淫売のように男にもてあそばれる存在になる転落とも紙一重だ。女性はそんな狭間で苦しんでいるといえる。

 女性はひじょうに繊細に注意深く自分の女自意識をコントロールしなければならないのである。しかしバランスをうしない、嫌悪や羞恥にとらわれたり、役割意識にからみとられたりして、自身の女性性を疎外しがちになる。しかし心の中の眠れる姫、女性性の願望や叫びはやむことはないのである。

 中村はOL時代やフリーランス時代にセクハラや仕事の代わりに一晩付き合えといわれ、とことん男性憎悪になった。女であることを呪った。ミニスカートをはく女の子は男を誘うためでなく、同性の目やカッコよさを追求しているだけであって、男は誘惑だと勘違いするなと憤っている。女性はこちらの望みと関係なく、性欲や欲望の対象とされてしまう。そういう性的客体にされてしまうことに中村は激烈な怒りを抱いている。しかし心の眠れる姫は許してくれないのである。中村がホスト遊びや風俗譲になったりした理由はこの性的主体になることの試みだといえる。

 私は仏教や老荘などの本を読んできたから、中村の自意識や自我の拡大が気になった。そんなもものは捨ててしまえ、心の思いや考えは無視しろ、自我や思考を大事にするなという考えになじんでいるから、どうも中村が自我拡大の病にかかっている気がした。もちろん論考や分析というのは深く思い、考えるということがなかったらその問題を考えたり、考察することはできないので、とことんその道を追求するのもひとつの道である。深く考えて女性性の問題を開示して分析するのは、同じ女性性の問題になやむ女性たちへの道しるべになるだろう。

 中村は仲のよいオカマに茨姫みたいにトゲトゲの蔓をはりめぐらせていると表現されたそうだが、自意識や自我にこりかたまっているのだ。自分が自我の病にかかって茨のなかに身体ごと放り込んで現代社会の問題を血を出しながら見せてやるといった体当たりを演じている。彼女は権力や欲望や自我の極限をめざして、自己の愚かさや過ちを体験して、過ちをおかし、現代自我の問題を垣間見せようとしているかのようだ。自我というよりか、権力の病に思えるのだが。

 中村うさぎはとことん自我の格闘を演じて、さいごは瀬戸内寂聴のように出家してアガリになればいいと思う。彼女は自我の重みや膨張をとことん追求して、さいごは風船がはちきれるように自我の破裂を経験しようとしているのだろうか。それまでは自我の病、苦しみをとことんわれわれに開示しようとするのかもしれない。「私は現代社会の自我の病の実験台よ、たっぷり自我の病を見せてやるわ」といった使命感をもっているのだろうか。彼女はいつか自我を捨てるのか、それとも重い自我をかかえもったまま人生を全うするのか、それは現代社会のゆくえとも重なってくるのかもしれない。



女という病 (新潮文庫) 芸のためなら亭主も泣かす (文春文庫) 悩んでなんぼ!生きたオンナの作り方 (ゴマ文庫) さすらいの女王 (文春文庫) 美人とは何か?―美意識過剰スパイラル (集英社文庫)
by G-Tools


google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top