『妻はなぜ夫に満足しないのか』 安岡 博之
妻はなぜ夫に満足しないのか―中高年「仮面夫婦」のカルテ (角川oneテーマ21 B 102)
安岡 博之

妻の不満を類型化できれば、男女の過ちに前もって気づくことができるだろうということで読んだ。それぞれ個別の問題であったとしても、同じ男女間の問題が原因かもしれない。
女性は自身の変化について注目してくれることが愛情表現だと思っている。男はお金を稼いで生活を安定させることが愛情表現だと思っている。しかし男は収入の高さが自分の価値だと刷り込まれており、女性でも収入の低い夫には価値がないと思っている。女性はお金もあり、細やかな気配りをできる男を求めるのだが、世の男は稼ぐだけで精いっぱいであり、女性への気配りの余裕がなくなる。それですれ違うのである。あれもこれもムリだと思うのだが、女性にはこのふたつが満足しないとだめみたいである。
女性がもっとも欲しい時に、欲する言葉や行動を察して与えられる男性こそが、女性や妻が理想として、一緒にいたいと思う男性像なのである」
――ムリだって。男の価値である稼ぐことに邁進しようとすれば、長時間労働のうえ疲れ果てて家に帰ってきてへとへとになる。さらにそのうえに気遣いの配慮をおこなえというのはムリだろう。男にとって家庭はやすらぎの場であり、好き勝手にできる場所だと思い込んでいる。しかし妻にとっては家庭は「仕事の場」である。働いているそばでごろごろだらだらされていたら、腹が立つ。稼いでくることは当たり前すぎて、もはや男の働きではないのかもしれない。
子どもが生まれると妻は夫に強い不満をもつ。子供が5歳になるまで女性はほとんど離婚を考えるそうである。家事のうえにさらに育児が加わり、しかも夫は隣でぐうぐう寝ている。自分だけしんどい思いをして夫は手伝ってくれないとなるのだろう。夫は稼いでくることで役割を果たしていると思っているから、家事育児は女性にまかせっぱなしである。男の交換条件は、女性の交換条件とは合致しないのである。どうも家事育児のしんどさの交換も必要なようである。男にしてみれば稼ぐことが家事育児との交換条件だと思っているのだろうが、女性には通用しない。女性は家事育児も夫婦として分担交換してほしいと思っているのである。
そしてこの不満は子供が大きくなっても溜まりつづけ、夫を手のかかる長男と見なすようになり、家でぐうたらしていると怒声、罵声が飛んでくるようになるそうである。なおかつ収入を低いことをなじられたりしたら――それは家事育児の分担の不満のはけ口かもしれないが――男として立つ瀬がないだろう。
よく妻は「家庭と仕事どっちが大事?」と聞くそうだが、男にとってはこのふたつは次元が違い、比較にならない。男の価値である稼ぐことに一生懸命になれば、とうぜん家庭にそぞく余力をのこしえない。それでも夫たるもの仕事より家庭を第一に考えないと妻の満足を得られないのである。プライオリティーを家庭におきつつ、なおかつ収入も高ければならない。そんな完璧男がいるものかと思うが、収入の高い男は家事もてきぱきとこなすそうである。仕事のできる男は家事もできるそうである。収入の低い男はプライドのために家ではなにもしない。そして妻の反感を買い、悪循環である。
妻の不満にはどうも家庭という仕事の交換条件にあるような気がしてくる。男は低収入では男の価値がないと刷り込まれ、妻にもなじられるから、稼ぐことで家事育児の交換条件と見なすようになるだろう。しかし妻にとっては家事育児も交換の対象なのである。子供が生まれると女性はそのほかになにもできなくなるほど忙しくなる。この忙しさを分担することが女性の交換条件だと思っているのだろう。しかし夫にしてみれば、その交換条件は稼ぐことである。家ではお役ごめんでぐうたらしたいと思う。それで妻の憎悪と怨恨を買うみたいである。
要はおたがいのしんどさや辛さを思いやって分担することが必要なのだろう。どちらが一方しんどい思いが積み重なると、ブチ切れる。そういうときの怒りというのは職場の分業でもそうだが、人の基本的な怒りの発端となるものである。男は分業を果たしていると思い込んでいるのだが、女性は疲れている目の前でぐうたらしている夫が信じられないのだろう。このすれ違いに気をつけなければならないようである。
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『非常民の民俗文化』 赤松 啓介
非常民の民俗文化―生活民俗と差別昔話 (ちくま学芸文庫)
赤松 啓介

これは学問や民俗学というよりか、おじいちゃんの人生や世間話を聞いているんだという気になる。私たちは祖父や祖母がどのような人生を送ったのか聞くことは少ないし、伝え聞くこともあまりないだろう。そういうおじいちゃんの人生や世間を聞かせてもらっているという本である。
赤松啓介といえば夜這いだが、老若男女いりみだれてすごかったんだな〜とまたしても思う。この夜這いの話にかなり興味ひかれる。順廻りに若衆が娘のもとをまわるムラがあったり、阿弥陀堂や薬師堂などでオコモリして実地に性教育がおこなわれたり、また夜の山中を帰っていると女の夜這いにあったりしたということである。一夫一婦や純愛などの現代からは考えられないほどのひっくり返りっぷりというものである。現代はなぜこうもつまらなくなったのか。
内容は400ページほどのぶあつい本で、ムラの子どもから女の共同作業、夜這いはもちろんのこと、間引きや尼寺、豪商やスラム街、五十軒長屋と幅広いむかしの人たちの生き方や民俗が伝えられている。もうすこしやわらかかったら、おじいちゃんの世間話そのものである。学問や民俗書と読むのはもったいない。
「金儲けする、立身出世する、これがほんとうの人間だという仮説、規範を作っておいて、これに反抗し、従順でないガキどもは徹底的にしごこうとするのが、臨教審というアホタレがいう自由教育、個性教育だ。こどもを黄金魔や権力魔に仕立て上げることを成功だと思っている民衆、市民、常民のバカともが、そうだ、そうだとわめいている」
最高にすっきりする言葉だ。こういう金儲けや出世の価値イデオロギーしかつくれなかった日本人を最高になさないと思う。
「どこのムラにも家筋、家柄というような目に見えない階層がある。だいたいは草分け、本家、分家、水呑み、被官という程度……。ムラの開発および起立、定着に関係した家を中心に置き、それから枝分かれ、郎従下人、新規移住というように家格が下がってゆく」
ムラにこういう階層があったって知ってましたか。これは現在の経済的実力とまったく関係なく、没落していたり、小作人であっても、祭礼のときには最上座に坐ることもあったそうだ。
「大学は出たけれど、まだ生活が安定しないから、結婚は早いというようなバカなことは思いもしなかった。一人前の賃銭を支払うということは、それで結婚してともかく生活できるのを保証したのである」
たしか団塊の世代とか無職の男であっても結婚やお見合いの話とかがまいこんできたというような話を聞いたことがある。いまはフリーターとかニートの男はまったく相手にされなくなったのだが、むかしは男の将来や可能性が信じられる時代でよかったなと思う。
「私なども、夜這いは夏のほうが盛んなのかと思っていたら、かえって冬の方が盛んで好季節と教えてもらう」
「母と娘、姉と妹がかち合って、大喧嘩をするのも珍しくないらしい」
夜這いのことである。
「船場あたりの豪商が別宅を建てるようになったのは、古くは大川端、明治になって上町台地、夕陽ヶ丘になどに変わり、大正になると住吉、箕面、宝塚、芦屋、浜寺など郊外へ出る」
大阪の人しかわからないだろうが、たしかにこれらの地名には現在でも高級住宅街の名が残っているところもある。箕面や宝塚、芦屋などは阪急電鉄がつくりだしたものであるが。
「〜船場方言の難しさであった。……船場と本町とではもう違うらしい。船場にいわせると道修町など一人前の商人でなく、場違いモンである。心斎橋も船場には入れてもらえず、千日前、難波となると下の下らしい。堂島、北浜は本町系と思うが、本町にいわせると迷惑だそうである。船場がA1、本町がA2、新町がB1、堀江がB2というあたりが公平らしい」
これはてっきり商売の格だと思ったのだが、方言の違いらしい。商売の格だとしたら、心斎橋や難波が下になるというのがおもしろいね。船場で私も働いたことがあるが、いまはもう船場商人という粋や独特さなんててんでありませんでしたね。
「貧民窟から細民街へ、そしてスラム街へ、その名称も変化してきたわけだが、この名称の変化は、また実態の変化と照応していると思う。おおまかにいえば明治の軽工業発達とともに都市に集中してきて脱落した人たちの群居が「貧民窟」であり、大正の重工業発展に吸収されてきた人たちが脱落して形成されたのが「細民街」である。スラム街は昭和になってから、経済恐慌のあおりで集積された離脱の人たちで、それぞれの時代と社会相をもっているだろう」
これはわかりやすい解説である。そして現代では高度成長の日雇い労働者たちが大阪では西成や河川、公園などに青テントを張って暮らしているのである。
「古代や中世では、男女の相互関係は極めて流動的で、かつ多様性をもっていたことが、文献や物語の類でも明らかである。もともと流動的であり、多様性をもつのを本質とする男と女との関係を、国家的管理のために法律をもって固定し、「家」の枠にはめて支配しようとしたのが結婚制度であり、その極端な定型化が一夫一婦制であった」
赤松啓介はおおくのムラの男女関係や自身の経験から、男女の関係が一夫一婦制に収まり切らないことを知り尽くしていたのだと思う。私たちの時代はかれらの目から見るとなんて堅苦しくてつまらなくて禁欲的に見えることだろう。「性は思想である」とたしか伏見憲明がいっていたと思うが、たしかにそのとおりだ。
「「夜這い」が田舎でも盛んになるのは、徳川時代の後期初、享保ぐらいからで、つまり近世商業経済が農村へ侵入し、男たちの出稼ぎや離村が激増してからだ」
なるほどムラの男女の比率が変わることにより夜這いは盛んになったということだ。比率が変わるところに男女の営みも変わるのである。赤松啓介は女性の社会進出によって男女の関係がまたもや変わるだろうと予測している。
たった数件の引用だけでは伝えきれない豊かな内容をこの本はもっているのだが、もしひと昔前のおじいちゃん、おばあちゃんがどのような人生を送ったのかを知りたいと思ったら、この本を手にとるといいだろう。ちょっと底辺や荒くれ者たちの人生が多いのだが、現代の人はあまり階層や底辺といったものの現実感はつかみにくいのではないかと思う。「一億層中流」の時代をへたあとでは、階層の意味はだいぶ変わったというか、見えなくなったのだと思う。
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『ひとを愛することができない』 中島 義道
ひとを愛することができない―マイナスのナルシスの告白
中島 義道

中島義道は自分の経験や体験から自前の哲学をくりひろげる。これこそがほんとうに哲学するという意味だと私も思うのだが、この本はあまりにも自分の家族、親夫婦の愛と憎しみを語りすぎていて、この家族の形態を人に聞かせる価値はあるのか、この形態が普遍的価値をもつのか、少々倦んだ気持ちになった。
ちゃんと普遍の愛や憎しみにつながっているのならえんえんと親夫婦の愛と憎しみを描くのには価値があると思うのだが、そうでないのなら、一家族の愛と憎しみの歴史を赤の他人が読みつづける価値はあるものか懐疑に思った。
中島義道は自分のことや家族のことにものすごく執着している。執着することにより悩みを広げ、そしてまたそのことによって思索の深みを増そうとしているかのようだ。家族のありかたや愛のありかたに執着するがためにどこまでも苦悩を広げ、傷を深めているようだ。
私なんて家族の過去やつながりなんてあっさりと捨ててしまっている。過去の家族のことなんて必要ないし、どうでもいい。中島義道が親夫婦の愛や憎しみ、家族のありようをえんえんと覚えつづけ、憎み、苦悩し、書きつづけるさまは、私には信じられない。そんな過去なんて捨ててしまえばいいじゃないかと私は思うのだが、だから私はこの本の家族の経験談は普遍的価値がないのなら読む価値がないように思えたのである。
この親夫婦は「愛せない夫」に「愛してくれ」という妻がえんえんと憎しみをぶつける話が主軸になっているのだが、家族ってそんなに愛がどうのこうと悩みつづけるのがふつうなんだろうか。私の親夫婦もけっこう憎しみ合っていたりしたが、家族が愛だのどうだのこうだのと奮闘することはまったくなかった。愛なんて恥ずかしい、わが家族にそぐわない、薄い空気のような絆で結ばれるのが家族であった。中島義道の家族のような愛の強迫観念が襲いつづけるファミリーってそんなに多いものなんだろうか。
個人的な家族に歴史には倦んだが、まあ愛の考察はなかなか鋭いものがある思った。ただ、私は愛がどうのこうのと深く悩む性質はない。愛という言葉には冷淡かもしれないし、しぜんに人を好きになったり、親切になったりして、べつにその程度でなんの問題もないと思っている。愛の基準がさっぱりしているから、中島義道の家族のように愛の問題で深く争う価値がさっぱりわからない。
愛についての感銘した考察を引用。
「とくに性愛の場合、あらゆる人が自分の恋人に魅力を感ずるにちがいないという感じにとらえられる。カントが正確に見てとったように、ほかのすべての人が「彼(彼女)は魅力的である」という判断を下すように「要求」するのである」
「より多く愛している者は、いかにしても相手を失いたくないという一点で、すでに敗者である。より少なく愛している者は、相手をいつ失ってもいいという一点で、すでに明らかな勝者である」
「愛とは何か。自己から脱出しようとする欲求。人間は崇拝する動物である。崇拝するとは、自己を犠牲にし、自己を売淫に付すことだ。だからすべての愛は売淫である」――ボードレール
「愛されていないと自覚した者は、不思議な転落の仕方を選ぶ。自滅していく道を選ぶのである」「夫の狼狽ぶりに彼が自分を愛していないことのさらなる確証を得て、わが身を針で刺しつづける。自分をさらにみじめにすることによって、夫をさらにさらに責める理由を見いだす。この醜い復讐劇によって、ますます夫が自分から離れていくことを知りながら、やめることができない」
「「愛」とか「やさしさ」とか「平和」とか「協力」とか「国際貢献」といった、一見誰も異議を唱えることのできないような厳かな言葉で、わたしたちは、わたしたちの自由を、人権を、ソフトで口当たりのいい「服従」の鎖に繋がれてしまう」――落合恵子
「他人が無性に怖いので、私は他人に愛されよう、気に入られようと必死の努力をするが、その結果そのひとから愛され、気に入られると、今度はたいへんな重荷を感ずるのである」
まあ、私は愛という言葉にそんなにこだわらない人間である。中島義道のファミリーは愛という言葉に鎖や強制や拷問のような関係を強要したみたいである。愛の崇拝ファミリーであって、そんなものを崇拝すれば、ぎゃくにそれは拷問や強迫に化してしまう。
戦後の終身婚や一夫一婦制は愛というもろい感情を基盤において生涯を拘束したためにこのような愛の拷問ファミリーが生まれてしまったのかもしれない。家族というのはもとは労働集団であったのであり、生産集団であると考えたほうがいいのかもしれない。愛だの恋だので生涯を男女の拘束としてしまうと、拷問ファミリーが生まれてしまうのかもしれない。わたしたちの感情というのははかないものであり、移り気なものであり、長くはつづかないものである。愛ゆえの憎しみに転化する関係には陥りたくないものである。
『おんなの浮気』 堀江 珠喜
おんなの浮気
堀江 珠喜

なにか漠然とおもしろいかもと思って買ってしまったが、たいしておもしろくもなく、啓発されるところもなかった。
雑誌の延長のようなエッセイがつづくだけの新書である。データで分析するなどの学問をほとんどしていない。この著者は文学研究なのか、ほとんど社会学的視線がない。だから浮気したいかな、してもいいかな、とさまよっているような文章で、そんな自己や世間の風潮をつきなはして冷静に客観的にながめる視点がない。これは社会学者に料理してほしい題材だろう。
一婦一夫制と人間の生態はしっかり合致するのかといった論考あたりならよかったかも。雑誌のような扇情的な文章なんて読みたいとも思わない。自己を客観的に見たり、世間の風潮を反省するような視点が得られないと、学問をした気にもなれないし、得るものもない。
これは新書で出される本ではないと思うのだが、おんなの浮気ごころはおいしいかもと買ってしまう私も私である。この著者はまえに『人妻の研究』(ちくま新書)という本も出していて、男の煽情ワードを煽る戦略本を出しているようである。こんかいは新書の体裁だからつい買ってしまったが、この本はエロ小説の棚におくか、主婦向けの棚においてほしい。
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『婚姻覚書』 瀬川清子
![]() | 婚姻覚書 瀬川 清子 講談社 2006-01 by G-Tools |
私たちはどうしてむかしの結婚を知らないのだろう。祖父母や先祖がどのような結婚をしたのかさっぱり知らない。むかしの結婚に学ぶものなどなにもないほど、私たちは恋愛結婚によって進歩したのだろうか。むかしの結婚によいところや感嘆するところはなかったのだろうか。
ご先祖の結婚の息づかいや喜怒哀楽がつたわってくるような本ならよかったのだが、残念ながらこの本は読みづらかったり、ご先祖を尊敬するという気もちにまではいたらなかった。宮本常一や赤松啓介が書いたくれたらおもしろかったかもしれない。たぶん感情移入ができそうな苦労や情緒が描かれていなかったからだろう。
むかしの家族というのは労働組織と考えたほうがしっくりくるようである。だから結婚もためしてみて家風が合わなければ女中のように給金をわたして里に返したようである。大昔の婿入婚は娘の労働力を惜しむことからおこったようである。結婚とは労働力の移動のようなものだったのである。
現代の結婚は労働力というよりか、おたがいの恋愛感情によって結びつくため、きわめて危うい関係になってしまった。人の好悪だけで結びつく関係はあってもなかってもたいしたことない。労働力として結婚させられたほうが、恋愛感情という細い糸で結びつく関係より、座りはよかったのかもしれない。




『超少子化』 鈴木りえこ
![]() | 超少子化―危機に立つ日本社会 鈴木 りえこ 集英社 2000-07 by G-Tools |
結婚もしたくないし、子どももほしくないという社会はもうそれだけで異常である。人生の目的はシンプルに子孫を継承することだと思う。それなのに先進国は軒並み少子化に直面し、それだけで異常な世界に住んでいるんだと思う。私自身もちっとも結婚が魅力に思わないし、子どもの必要性もそう感じない。先進国はいちばん重要なことが欠落した社会なのだろう。
少子化の原因はこの本の中でもおおくの事柄に目配りされているが、いちばんの根本の原因はなんなのかわからなくなる。途上国の人口爆発が見せるように、貧困とか経済の困難があっても子どもが次々に生まれてしまうようなエネルギーが、先進国には失われてしまっているのだろう。要は後先なんか考えていたら子どもなんか生めないのである。
日本の若い男は妻子を養う経済的負担を嫌ってフリーターやニートとして逃げ出し、女性はなんで女だけで家事や育児を背負わなければならないのかと消費やキャリアに逃げ込む。みんなこのハードな経済社会にへとへとなのである。これ以上しんどいことは背負いたくない。若者たちは人生のストライキをおこなっているのである。
もうみんな経済に特化した社会なんてたまらないと思っているのである。結婚や子育ては金がかかりすぎてしんどいし、老後の保険としての子どもの役割は、福祉国家なみに期待されていない。どうもいまの社会システムのすべてが子育て拒否の方向に向かわしめるようである。貨幣経済なんて交換可能なものばかりに人の魅力をひっぱるから、交換できない生命の継承という最重要事が見捨てておかれるのである。
少子化の対策というのはやっぱり身も心もどっぷりつかってしまった経済至上主義からの脱却しかないのだと思う。金と会社しかない世の中の価値観を捨ててしまうほかない。子どもが減るという事態から、われわれはどんな異常な社会に住んでいるのかとわかるはずである。異常な社会というのは金のために会社にしがみつくわれわれ自身がつくりだしているのである。
少子化対策としても、企業に人権を奪われる男の人生は解放されなければならないのである。社会に男が帰ってきたとき、女性の家事・育児の負担は減ることになるだろう。根本は男の人生が企業に奪われることである。国は金か、子供か、どちらをとるつもりなのだろう。
『明治の結婚 明治の離婚』 湯沢 雍彦
![]() | 明治の結婚 明治の離婚―家庭内ジェンダーの原点 湯沢 雍彦 角川学芸出版 2005-12 by G-Tools |
明治の離婚率は2.6%から3.6%の高い水準にあり、1%台の昭和の離婚率よりはるかに大きかった。時代は進歩すると考えられている私たちにとって、この逆進歩はなんなのだろう。世界一の離婚先進国であったのである。
結婚は長くつづけなければならないという認識が乏しかったり、いつ別れても構わない、長つづきするのはむしろ例外だと、階層に関わりなく考えられていたようである。
地域で見れば東北のほうが離婚率が高く、巨大な家族の前に嫁は労働力と期待されており、親族と相性が悪ければかんたんに離縁された。離婚はたんなる転職であり、離婚を恥とも残念ともまったく思わない人たちがふつうであり、良家でも離婚しないのは偶然の幸いといわれたほどだ。つまりは「終身婚」の誓いなどまったく持ち合わせていなかったのである。
明治31年に離婚率は二割以上も激減した。家父長的な民法の発布と、それにともなう届出を出さない内縁婚が全国に二割ほどもいたそうであるから、国家の家繁栄の考え方が離婚率をおさえてゆくことになったようである。
上層階級の結婚は攻略結婚であり、妻と感情や愛情を交えることは論外であり、それは妾とのあいだで満たされるものと考えるものも多かったのである。世間では一夫多妻制は容認されており、おそらくは最近まで男にそのような意識は強かったのではないかと思う。恋愛結婚などを大マジメに信仰する者たちだけが、一夫一婦の誓いを固く守ってきたのだろう。
樋口一葉の『十三夜』という作品に身分違いの結婚に嘆く話が出てくる。父親から諭されるのだが、夫からずいぶん恩を受けているのだから親兄弟のためにがまんしてくれ、離婚して家を出ても子と会えなくなり、同じ不運に泣くのなら妻として大泣きに泣けといわれる。彼女は自分が死んだつもりで子を守る覚悟を決めるのである。たぶんに女性はいまでもこういう境遇で暮らしているのだと思う。
著者によると明治の結婚の研究書はほとんど存在しないそうである。われわれも明治の結婚の話を聞かないし、じいちゃんばあちゃんがどのような結婚生活を送ったかも知らない。われわれはただ見合い結婚が減り、恋愛結婚が増えたグラフを誇らしげに見せられるだけである。むかしに学ぶことはなにひとつないといいたげである。
明治の結婚は慣習が二人を結婚させた。年頃の男女がいれば、まわりの者たちが恋愛感情なしでも結婚させた。結婚は生活手段の一つにすぎないのであり、義務であったのである。恋愛結婚強迫の現代はその原点を忘れているのではないかと思う。
なおこの本はちょっとおカタくて、読みすすめるのはしんどかったかもしれない。
▼家族をめぐる変容




『結婚しません。』 遙洋子
![]() | 結婚しません。 遙 洋子 講談社 2005-01 by G-Tools |
TVでみる遙洋子は怒りっぽいようであるが、悪い人ではないという印象だ。フェミニズムを日常の生活や感覚から紹介しており、自然で、しっかりした本になっている。
おもに家事労働の無賃労働や奉仕に怒りをあらわにしているが、学者に関する意見は私も同意見だ。「なんだ、私が感じていたことは、皆が研究対象にしていたんだ」ということである。学問はじつに日常のことを研究しているから、私もひきつけられるのである。そして問題はここから探らなければならないと思うのである。それなのになぜニュースが社会の共通問題になるのか? 最重要問題を隠蔽するためか。
「個々の女性には、自分が個人的に関係する男性だけから抑圧を受けているかのように、つまり抑圧は私事のように見える」。この一文からフェミニズムははじまると思うのだが、どうなのだろう、テキをつくる人生はあまりよいものとは思えない。
「フェミニズムは一種のイデオロギー、つまり利害や視点に制約された偏向した思想である」――上野千鶴子
遙洋子は男のつらさなんて一生わからないと切り捨てた。男も同じように企業社会に抑圧されていることに思いをいたらせないとたぶんフェミニズムは自分の利害を主張するだけの思想に終わる。企業社会に人生を奪われると思う男の私は、女は三食昼寝つきでいいなあとイヤミをいいたくなるのだが、やはり両性はたがいの傷みを理解しあう必要があるのだろう。自分の利益だけを追求するのはオトナではないし、学問でもない。
▼結婚・家族・恋愛について




『なぜフェミニズムは没落したのか』 荷宮和子
![]() | なぜフェミニズムは没落したのか 荷宮 和子 中央公論新社 2004-12 by G-Tools |
ひどい本と出会ってしまった。いや、ひどい著者というべきか。これはトンデモ著者である。偏見と思い込みにこりかたまった思考にぎくっとさせられる。なんでこんなトンデモ思考が事実だと思い込めるのか頭を抱えたくなる。
しかもはじめの一章に80年代の価値観をプレイバックしていて、それだけで私はゲロを吐いて本を投げ出したくなった。私は80年代の解毒剤として老荘や隠遁者などの中国思想を必死に学びとったのに、この人はあいかわらず80年代バブリー恐竜女である。時間が止まっていたのか、反省能力がないのか、あるいは女性はいまだにバブル的価値に生きているのか。「私は違う女よ」という話ばかり聞かされた。
二章からはだいぶマトモになって林真理子が女性にウケた理由を説明していて、これはこれで納得できた。自分で稼いだお金で好きなことをしたり、女性が成功しても幸せな日常生活を送ることができる、といったことを体現していたからそうである。女性の不自由さやルサンチマンは謙虚に聞くべきであると思った。
マトモなのか〜と思いはじめたら、また偏見と思い込みの文章に出会い、がくーと信用を落としてしまう。どうしてこんな偏見と思い込みの人が本を出せるのか恐ろしくなる。岩月謙司に近い感じだ。客観性やコンセンサスの欠如である。もうこの本と著者のことは忘れることにしよう。うんそうしよう。
▼バブルの解毒剤に




『性と結婚の民族学』 和田正平
![]() | 性と結婚の民族学 和田 正平 同朋舎 1988-05 by G-Tools |
結婚とはなにかと考えると、世界の民族の結婚をダイジェスト的に知るのが参考になると思うのだが、さっこんの本屋にはあまりそういう本はない。晩婚化を反映して結婚について考える人が減ったからだろうか。この本はかろうじて古本屋で見つけた。
この本では一夫一婦制とかなりかけはなれた結婚制度が紹介されている。一妻多夫制、亡霊結婚、女性婚である。
一妻多夫はだいたい兄弟や父子に妻が共有される制度、亡霊結婚は跡継ぎのない死者のために結婚する制度、女性婚とは不妊の女性が結婚した女性に夫の子どもを生ませるためにおこなうものである。話がかなりややこしく、この本は学術的であるため、定義がかなり混乱してくれるので、正確にはいいあてていないかもしれないが、それほどややこしいのである。
一夫一婦制があたりまえとして凝り固まった頭にはかなり混乱する話で、学術的にも厳密すぎるので、この本はだいぶ退屈なところをふくんでいた。キワモノ結婚をおもしろおかしくマンガで紹介するような本のほうがおもしろかったのかも。それは性と結婚の未来形を垣間見せるものでもあるだろう。
たとえばもし一妻多夫制が許される社会だったら、『タッチ』のカッちゃんタッちゃん南の関係はどうなっていたんだろうと考えることができるし、『キャンディキャンディ』なら(古い!)、アンソニーとテリィと結婚してうはうはだっただろう。亡霊結婚がOKだったら映画『ゴースト』の主人公は結婚していたか(意味は違うが)。人間の社会とはさまざまな結婚制度の可能性があり、また恋愛感情も違ってくるのである。
アラブ人とアフリカ人の土着思想には、女性を油断ならない性の「つわ者」と見ている向きがあり、アラブ人は貞操と禁欲を強制し、アフリカ人は公認された性交渉のカテゴリーを設定して(!)性的発散を可能にしたりしている。
これらの関係に自分をあてはめてみると、いったいどういうふうに感じ、どんなふうにふるまっていたんだろうなと思う。それが人類学の役に立つ使い方だろう。晩婚に進む日本の結婚制度になんらかの方策を示唆するかもしれないのである。一夫多妻制などの形態を知りたくなった。あと、結婚とは名や家を存続させるために必死に保険をかけているんだなと思った。




『売る身体/買う身体』 田崎英明
![]() | 売る身体・買う身体―セックスワーク論の射程 田崎 英明 青弓社 1997-06 by G-Tools |
私たちは恋愛はすばらしいもので、売春はカネで性が売り買いされる悪いものだと思い込んでいる。だが、すこし考えてみると、恋愛や結婚というのも、男がその経済力で女を買う売春となんら変わりはしない実情に気づくはずである。ぎゃくに恋愛という至上なものでその本質を隠蔽してしまうからこそ、裏切られた気持ちになる。
私たちは売春という制度のなかにこそ男女関係の本質を見い出すべきであると思うのである。恋愛という甘いカーテンの向こうには、女がカネのある男をさがす動きと、カネで女を買う男の姿が見えてくることだろう。
恋愛は至上なものと謳いながら、やっていることは売春。本当に恋愛したいと思うのなら、女性も自立できる経済力を身につけなければならないはずである。だけど女性は男の経済力にすがりついたまま、消費生活の甘い蜜を吸おうとしている。ここに恋愛至上主義の最大のウソと欺瞞を見い出さざるをえないのである。
こういうことはこの本を読むと、大正の知識人にとっては共通認識であったというのは驚きである。厨川白村、与謝野晶子、山川菊栄、堺利彦、といった人たちが結婚は売春であると明快に捉えていた(菅野聡美の論文より)。私たちは大正時代より一歩も進んでいなことに愕然とならざるをえないのである。なにが恋愛結婚かと思う。なにが終身の愛を誓う結婚かと思う。
この本を読むと、セックスを生殖のものと快楽のものに分け、一夫一婦制にそのすべてを押し込めようとしたから、売春制とか、あるいは不倫や浮気といったものが生まれることがわかる。生殖のための一夫一婦制という制度が人間のほんらいの性をはみ出させるのである。それが国家や企業とどう絡んでくるのかもまた考えないといけないなと思う。
なお、この本の執筆人は田崎英明、金塚貞文、小倉利丸、菅野聡美といった性や労働について考えた人たちで、少々難しい論議におちいるところもあるけど、売春制度から男女関係を捉える必要をおおいに認識したというしだいである。
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『結婚帝国 女の岐れ道』 上野 千鶴子 信田さよ子
![]() | 結婚帝国 女の岐れ道 上野 千鶴子 講談社 2004-05-27 by G-Tools |
感想を書くのがむづかしい。結婚や家庭の闇を見つめるカウンセラーが対談者の一人なので、社会学的なキレがないように感じた。ふたりとも結婚するなんて信じられないという立場なんじゃないのかなと思った。
私としてはなぜ晩婚や非婚が進むのかということを読みたかったと思うのだけど、ドメスティック・バイオレンスや性的虐待などに話が流れてゆき、私はなにを読んでいるのだろうという気になった。全体としてこの本はなにをいいたかったのだろう。
分裂的な本には、感銘した部分の抜書きのほうが適している。
「三十代を一つの分水嶺として、非常に急速に次の世代に転換が起きているものだから、セクシュアリティを婚姻の中に封じこめてきた母親世代が、自分の生き方を娘に全否定されてしまう気分を味わう」
「一九八〇年代以降、性を含むコミュニケーションモードの中で、「関係の偶発性」が支配的になっていったと指摘しています。「関係の偶発性」というのは、「かけがえのなさ」の解体。「あんたでなくてもよかった」「「わたしでなくてもよかった」ということなんですね。
〜これに対する反動が純愛願望じゃないでしょうか。「どこかにきっと、わたしをかけがえのない他者と思ってくれるだれかがいるはずだ。いなくてはおかしい」
「近代家族の泥沼って、やっぱりある種の定型化した儀礼を壊したときに、わたしとあなたの関係を、むき出しで作らなければいけなくなった男女の問題だと思うんですよ」
「権力とは状況の定義権である」
「あんたがやったことに、他人がなんでゼニ出してくれると思う? その人の役に立つことをやったから、他人の財布から金出してもらえるんでしょ? だったら少しは人の役に立つスキルを身につけろよ。自分が好きなことしてゼニもらえると思うな。自分が好きなことは持ち出しでやるんだ、バカヤロ」
「人間は社会的存在でなければならないということにも、わたしは深い疑問を持ってきました。なぜわたしが生きることに、他者の承認がいるのか? なぜわたしが他人の役に立つ存在でなければならないのか? そうでなくなったときのわたしは、生きる価値を失うのか?」
「寝たきりとか痴呆の人たちともっと接触したら、「自分が存在するということに、他者の許可も承認もいらないんだ」って感じてくれないかな、と思う。だって、こんなに役に立たず、こんなに希望がなく、こんなに自分を自分でどうしようもない人たちが、それでも生きている」



『男と女の過去と未来』 倉地 克直 沢山 美果子
![]() | 男と女の過去と未来 倉地 克直 沢山 美果子 世界思想社 2000-10 by G-Tools |
岡山大学の講義録だが、基本的なことを教えてくれるから、ぎゃくに目からうろこの部分が大きかった。私が知りたいことは、じつは基本的過ぎてあまり言葉にされないことなのかもしれない。
家族の変遷や性のあり方が連続講義されていて、こういう授業を受けられる学生はうらやましいと思う部分もあったが、たぶん学生にとっては退屈であったり、自分のことのように考えられない部分もあったのではないかと思う。授業というのは、その内容を他人事にしたり、成績の対象にしか思わせなくなるものである。
よかった講義としては、さいしょの「開講にあたって」と「性情報の氾濫するなかで」「人類史のなかの性」「売買春を考える」「近代のセクシュアリティ」などである。
感銘したところを抜き出すと、父親を大黒柱と思う女性が七割で男は六割、妻が夫にしがみつき夫がそこから逃げ出そうとしている姿がある。女性は専業主婦願望が男から嫌われる時代にそなえるべきである。
かつて学校教育が共同体を脱コード化したように、70〜80年代にメディアが学校教育を脱コード化し、メディア・クラシーともいえるメディアの専制がおこっており、従来の性別規範と「イケMEN」規範がかつての優等生を追い込んでいるという。このメディアの専制状態は若者にとってはきわめて重大な問題だと思う。
女性の処女性が称えられ、不義密通が罰せられる社会のほうが、制度化された売春もさかんにおこなわれている。つまり自由な性関係の否定、性の抑圧が売春をうみだすのである。日本の社会のありようが見えてくるというものである。
新中間層の恋愛結婚の多くは、処女を結婚の条件に、社会的地位の上昇、安定を図る功利性に支えられたのであった。結婚関係は経済関係であり、したがって処女はモノ化し、商品化してゆくのである。恋愛結婚というのは商売であったのである。この偽善性にはしっかりと言葉にして意識化してゆく必要があるのだろう。
『恋愛自由市場主義宣言!』 岡田 斗司夫
![]() | 恋愛自由市場主義宣言!―確実に「ラブ」と「セックス」を手に入れる鉄則 岡田 斗司夫 ぶんか社 2003-07 by G-Tools |
この本でいっていることは、「運命の人」幻想を捨てよということである。ひとりの人に独占欲や束縛を課すのではなく、恋愛もセックスももっと気軽に広く浅くおこなえということである。一夫一婦制はムリをしすぎているということだ。それを恋愛自由主義というのだろう。
女性はむかしから二つの戦略を発展させてきた。娼婦型は薄く広く男に負担を求める戦略で、対して淑女の戦略は一人にぶらさがって、徹底的に食い込んでゆく。淑女型は終身雇用時代の一夫一婦制であり、娼婦型は会社を移るフリーターのような生き方である。
終身雇用が崩壊した現在、淑女型は非現実的になりつつあり、岡田は女性の生き方は風俗のようなものでいいんじゃないかといっている。実情に合っているし、ラクなんではないかと。
一夫一婦制というのは子どもを安定的に育てるための制度であり、政治的には管理しやすかったから、戦後の経済統制社会では求められてきたのだろう。会社への滅私奉公とか終身雇用が崩れさるということは、必然的に女性との関係も終身婚の誓いが消えてなくなるということである。ひとりの男に終生、愛を誓うといった「オンリーユー・フォーエバー」幻想は音を立てて崩れさろうとしているのである。
われわれは「一人の人を生涯、愛することがすばらしいことだ」とか「結婚したらほかの人を愛してはならない」という思い込みを拭いがたく心の底に刷り込まれている。だから恋愛自由市場的な生き方をする人には「人でなし」とか「ろくでもない人間」だとかの反感を感じることだろう。
滅私奉公のサラリーマンがフリーターに感じる気持ちと同じである。会社への感じ方と恋愛への感じ方はパラレル(平行)だと考えていい。
新しい世代は親の世代がやってきた「会社人間」とか「運命の人」幻想の欠陥やウソっぽさをいやというほど目の当たりにしてきた。そんなものは社畜とか専属の売春婦にすぎないと子どもたちは見抜く。だからそんなものは信じていないし、そういう仕組みから逃げ出したいと思っている。ただ制度の有利さが足かせになって、かれらを押しとどめているだけである。
終身婚やがちがちの一夫一婦制、あなただけを愛すといった「運命の人」幻想は、遅かれ早かれ自由主義にとって替わられるのだろう。官僚主導の統制経済が終わるとき、恋愛や結婚の自由化もはじまるのである。
われわれはひとりの人に全存在を賭すような関わり合いを終えてゆくのだろう。そしてそういう気持ちもやめなければならないのである。たったつひとつの保険にすがりつくことはあまりにもキケンな生き方なのである。ひとりの人だけに愛を誓うといった重みも恋愛や男女関係から消えてゆく。
恐れることはないのだと思う。おそらく明治以前の日本人はこういう生き方をしていたはずである。恋愛や結婚、セックスはもっと軽くて、いまのような重い意味はなかったのだと思う。私たちは重い恋愛結婚のオリの中からようやく抜け出そうとしているのだろう。
政治で謳われているような規制緩和とか小さな政府といったものは、われわれの恋愛や結婚も自由市場化してゆくということなのである。それが改革の真の意味であり、完成であるということだ。われわれは政府や国家に決められた生き方からようやく解放されるのである。
『性の民俗誌』 池田 弥三郎
![]() | 性の民俗誌 池田 弥三郎 講談社 2003-08 by G-Tools |
赤松啓介の『夜這いの性愛論』(明石書店)を読んだとき、性を語るとは人生を語るものなんだなと感動した。現代のマスコミや社会は性をタブーにするような趣があるが、それは人生も語り継がれないことと同じであると思う。一夫一婦制やオンリーラブ・フォーエバーもおそらく人生の経験を狭いものにしているのだろう。
柳田国男とか宮本常一の民俗学もあまり民衆の性といったものをとりあげなかった。この著者によると、「諸国の奇習」集めと思われかねない民俗学への警戒と、好事家の低俗な興味に舌なめずりをされないために、記述には慎重であったという。高級な学問と低俗な性という対比は、おそらく人間の本質をも語れなくしていたのだろう。
この本は古文やむかしの詩の教養がない私にとっては理解がやさしくない部分が多かった。赤松啓介の本で感じたような性に対する圧倒的な念も感じなかった。
参考にいくつか感嘆する記述をあげるとすると、結婚後の数日、夫婦はしとねを共にしないことがあったという。お初穂をえびす様にあげていたそうである(?)。遊女が神社の門前町に発達したわけは、遊女の源流は神に仕えた神の女であり、社に付属した下級の巫女だったということである。むかしの人は性を神を通して捉えていたようだ。紀州に伝えられているところによると、娘が十三、四になると、老人に頼んで女にしてもらうことがあったそうである。
私たちは近代の一夫一婦制とかロマンティック・ラブ・イデオロギーといったものに染めあげられているわけだが、それと圧倒的なのは肉欲への軽蔑と愛の崇高化であるが、なにか人間の本質からずれた強制された観念であるという感をいなめない。相対化の必要があるようである。




『結婚の条件』 小倉千加子
![]() | 結婚の条件 小倉 千加子 朝日新聞社 2003-11-14 by G-Tools |
鋭い本であると思った。感嘆の贈り物をたくさんしてくれる本である。
といってもライト・エッセイであるが、フツーのあたりまえのことをいっているのだと思うのだけど、読みは鋭いと思われた。結婚と女の人生についていろいろ学べる。
著者は短大で女子学生にアンケートをとった経験から、晩婚化は進むと予測した。なぜ専業主婦に固執するのかと尋ねると、女子学生は「自分の時間が持ちたいから!」と答えたそうである。女性はすでに結婚のほかになにか人生の目的があるように思っているのである。結婚はその生活の保証をしてくれる手段でしかない。
女性は男に扶養されるをあたりまえだと思っている。「女は真面目に働きたいなんて思っていませんよ。しんどい仕事を男にさせて、自分は上澄みを吸って生きていこうとするんですよ。結婚と仕事と、要するにいいとこどりですよ」
「専業主婦とキャリア志向の「いいところどり」である。経済は夫に負担させ、自分は有意義な仕事で働き、なおかつ家庭も持っている」
「生活のための労働は、奴隷(男)にさせ、自分は貴族のように意義ある仕事を優雅にしていたい……。今や単なる生活費稼ぎの労働は、男と親と老人だけがするものになりつつある。〜あらゆるつまらない労働、人間がしなければならない「当たり前」の労働から、若い女性たちが総撤退を始めている」
「ラクしたい」「働きたくない」「苦労したくない」――これは若い女性だけが望んでいるのではなくて、若い男も同じことである。女性は男にそのように要望しておきながら、どうして男も同じように考えると思わないのだろうか。
女は男に養われる特権を当たり前だと思い、さらに安定した完璧な生活保証を男に望み、そのうちに若い男たちは働く気をなくし、経済は転げ落ち、若い男たちは不安定雇用に従事し、収入も安いという状況になりつつある。だれもがソンな役回りに回りたくないと思い、おそらく男が養い、子どもを育てるという当たり前の役割すら、みんな放棄してしまうのだろう。
戦後の当たり前の役割にみんな無自覚におんぶして、腐りはじめてるのだと思う。女は男に養われるのが当たり前だと思い、男は会社に養ってもらうのを当たり前と思い、子どもは親に養われるのが当然だと思っている。そういう約束の上にあぐらをかいて増長した人たちがたくさんあふれ返っている。戦後の社会はなにを生み出したのだろうと思う。
みんなラクしてソンな役回りはだれかに押しつけて、奪いとろうとしか思っていない。ソンな役回りは男や親の、あるいは女にとってもとうぜんの義務なのである。こういう押し付け合いの社会はたぶんみんなでイタイ目に合ってはじめて、謙虚に多くを望まず、条件を素直に受け入れる人たちを生み出すのだろう。
欲望の消費社会は商品やサービスのみならず、男や社会にかなり高レベルな要求水準を当たり前のように望む女性たちをたくさんうみだした。女たちがソンな役回りから逃れたいと思っているのなら、男だって同じように考える。いったいだれが好き好んで奴隷のように下支えしてくれるというのか。性別役割の上にあぐらをかく無自覚な女性にはなってほしくないものである。もとい謙虚にいうなら、男も女に育児や家庭を押しつける役割もそうである。
▼追記 ラクをのぞむのはいけないような書き方をしたが、あとから気づいたのだが、過剰な労働や従属の反動という面をわすれて、それだけをとって批判するのはまちがっていると思う。私たちはそれを不条理な権力構造だと思っているからこそ逃れたいと思うのである。道徳倫理だけで批判するのはちがうと思う。

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『電波男』 本田 透
![]() | 電波男 本田 透 三才ブックス 2005-03-12 by G-Tools |
本田透は女性向けに本を書くべきだと思う。それも負け犬女性向けに。カネにまみれた恋愛を呪詛するのである。男に萌えのススメを書くより、女性に恋愛資本主義の終焉をアナウンスすべきなのである。それでこそ本田透のメッセージは真価をもつものだと思う。
この本はあまりにも過剰な文章やおちゃらけが多すぎ、買うのを何度もためらった。恋愛資本主義については興味があったのだが、その過剰さで読めなかった。『萌える男』(ちくま新書)でようやくこの本の意味がわかったが、読んでみるとやっぱり大部分を削ぎ落としてほしいと思ったのは変わらない。鋭い読みには感心することも多いのだが、やっぱり感心しない。
恋愛が商業化され、金にまみれた売春になってしまったという本田透の嘆き。男はうすうすそのことに勘づいているのだろうが、たぶんメッセージや思想として声を大にして批判するということがなかった。なんとなくいやだな、と晩婚や非モテに退去するしかなかった。
オタクだからこそ――女にモテることをあきらめ、二次元の美少女に癒されることができるからこそ、オタクの中から恋愛商業主義の汚さや醜さ、からくりをあからさまにして罵ることができたのである。商業主義の連中がオタクを嫌悪するのは、その不安であったのかもしれない。みんなで恋愛という共同幻想をやらないからである。
ほんとうにもうこの恋愛資本主義はどうにかならないものかと思う。純愛だとか精神的な愛だといっているうちに恋愛は商業化し、売春化してしまったではないか。金の排除を宣言しておきながら、見事に金目当ての恋愛に終わってしまったではないか。
愛する気持ちも人を慕う気持ちも、女性の性や身体もすべて商品化され、金の取引や交換、ビジネスとなり、けっきょく金のためだけに恋愛や結婚する世の中になってしまったではないか。おそらく男女分業や労働の性差別、処女や貞操のイデオロギーなどがつくられたときにその帰結は決まってしまっていたのだろう。
男女の関係は完全に金銭関係に支配されてしまったのである。私たちはこんな関係や世の中を望んでいたのだろうか。恋愛関係に絶望し、晩婚やオタクとしてひきこもってしまうのは故なきことではない。
70年代に政治に絶望した日本人はいままた希望の光であった恋愛に絶望する時を迎えたのである。愚かな夢であった。恋愛や美少女アイドルに崇高な価値があるという国民的熱狂。政治に絶望したからといって、恋愛に国民的崇拝を見い出すのはあまりにも愚かであった。それは恋愛の金銭化と売春化という最悪の結果に落ち込み、ひとりのオタクにその死を宣告された。井上陽水に「傘がない」と政治の死を告発されたみたいに。
私たちは恋愛が死んでしまったということに気づくべきなのである。そしてその共同幻想、あるいは宗教から目を醒ますべきなのである。まるで私たちは新興宗教のお守りとか水晶に大金を巻き上げられる信徒のような存在であったのである。その尖兵が負け犬女性であったのはいうまでもないことだ。
私たちはこの絶望の丘で男と女の関係をどのように構築していったらいいのだろうか。私は残念ながら本田透が提唱するような二次元の萌えには希望は見い出せないが。
『萌える男』 本田 透
![]() | 萌える男 本田 透 筑摩書房 2005-11-07 by G-Tools ![]() |
かなり興奮する書物である。革命的であると思ったくらいだ。ぜひみなさんにお薦めしたい本である。
この本でいっていることは恋愛結婚は終わってしまったということだ。70年代に政治に絶望した若者が見い出した閉塞的な恋愛の世界が、宗教や政治に変わる自我の安定や救済をもたらすものとしておおいに求めたられたのだが、80年代をへて商業化にとりこまれ、恋愛資本主義と化す。神や政治に変わる恋愛という救済のシステムが強迫的な商業システムとなったのである。
しかし家族や恋愛は崩壊し、晩婚化や非婚化で逃げ出す男女は急増し、狩猟的な恋愛市場に救済をもとめられない男の一部はオタクとして脳内の満足で自己の救済をもとめる思考実験をおこなってきたというのである。つまり他者に救いを求められないのなら、自分で自分を救おうというわけである。萌える男とは自分自身の内側に「神」を見い出そうとする試みなのである。
私としては恋愛結婚が終焉してまったということにいちばんインパクトがあった。オタクはその商業化に対する反逆であることはわかっていた。恋愛結婚というのは男に対する女の生産的・経済的な搾取であるという一面があるからだ。崇高な恋愛を経済活動にしてほしくないのだ。しかし女にとって恋愛結婚は経済取引であり、いかに高額な利益を得られるかの経済活動であり、オタクはその経済打算に自己の救済をあきらめてしまったのである。
こういうことは一般的にも大衆的にもよくわかると思うのでこの面をもっと掘り下げてほしかったと思うのだが、この本は「萌え」についての本である。萌え系恋愛ゲームとかアダルト・ゲームの話になると、私は一度もやったことがないし、萌え系キャラというものにもなにも感じないので、いっていることはわかるのだが、いまいち感情移入しにくいところがあった。「恋愛結婚は終わった」という宣言をのべる段階で止めたほうがもっと一般性が獲得できたのになと思う。
それにしてもものすごく好奇心を刺激される本だった。いろいろな疑問が噴出したし、もっとほかの考え方もできるのではないかと、おおくの思考が頭の中を駈け巡った。いろいろ考えてみたいと思わせる本であった。
なんといっても恋愛結婚は終わってしまったということがいちばんの衝撃である。商業化にまみれたそれは総スカンや反逆、廃棄を迫られる時代になったのである。オタクはさっさと自我の安定や自己の救済をほかに求めるようになった。女やマスコミはその商業利益を、あるいは共同幻想をいまだに強迫的に追いかけ回している。
現代は恋愛資本主義にアンチを唱える宣言が必要なのだろう。この本はそのくさびを打ち込む宣言書になった。あるいは萌える男についてより、恋愛資本主義の終焉をもっと声高に主張するべきであったか。
恋愛という神は、あるいは恋愛という商業主義はもう捨て去らなければならない――経済化されすぎたそれは若者の総スカンを喰らいはじめているのである。このことをわれわれはしっかりと認識するべきだ。その反逆を早くから行っていたのがオタクであり、かれらは新しい思想運動を生み出そうとしていたのである。
いろいろ啓発されることの多かったこの本を私の「GREAT BOOKS」に推したい。
▼リンクと恋愛資本主義についての本。
終身愛と「有料セックス資本主義 00/8/30. 私の考え。
00年秋 性愛市場―総力戦 00/10/30. 参考文献。
あすとろはた 本田透のHP




『性家族の誕生』 川村 邦光
![]() | 性家族の誕生 川村 邦光 筑摩書房 2004-07-08 by G-Tools |
いまいちだったかな。性についての学問は目からうろこが落ちるような新たな知識をえぐり出せるはずだと思っているのだが、この本は性意識の変遷をつづっているだけで、べつにあまり感銘をあたえるものではなかった。
明治になって精神的な恋愛が神聖化され、性欲や肉欲は下劣なものとして低俗化・汚濁化される。そして過剰な性欲や手淫、処女や純潔でないものが医学的知識にとりこまれ、神経病や精神病として脅されることになる。近代は学問的権威による性の異常視に彩られているのである。
歴史ではなくて、なぜ性は禁圧されなければならなかったのか、それは経済的なかかわりから出ているのか、あるいは政治的、権力的なものから要請されたものか、解いてほしいのである。性の禁止は経済や商業のかかわりから生まれてきたものなのか。または国家や権力の必要なのか。セクシュアリティはもっと学問される必要があると思うのである。
なお、この本は96年に講談社選書メチエから『セクシュアリティの近代』として出ていたものが、なぜか04年にちくま学芸文庫にとりこまれている。どのような関係になっているのだろうか。
▼参考文献




『ヒトはなぜするのか』 ナイルズ・エルドリッジ
![]() | ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene ナイルズ・エルドリッジ 講談社インターナショナル 2005-03-12 by G-Tools |
「人間は遺伝子をばらまくために浮気する」と生物学でいわれたりするが、そんなわけがないだろう。子どもを生むためにセックスするなんてことも、実感としてはまずない。
竹内久美子の本やドーキンス、社会生物学ではそういうことをいっている。私も竹内久美子の本を何冊か読んで、おもしろいから、繁殖戦略から人間社会や行動が読み解けるものなのかなあと感心したが、やっぱり実感とかけ離れているから、反対意見を聞きたかった。それがこの本である。
進化論の論争というのはときに、なにがなんだかわからなくなる。意見がどう違うのかも混乱する。それでも人間は遺伝子のためだけにセックスするのではないといってくれたこの本は、頼もしいかぎりである。また進化論や生物としての人間のあり方が熟考されたこの本は、さまざまなことを考えさせられる。
人間は繁殖活動のために生きるというよりか、経済的活動のために生きる、進化を推し進めるのは遺伝子ではなくて、環境である、性は快楽のために追求され、自尊心とも深く結びついている、美しくセクシーな人は、平凡な人より多く子どもを残すのか、ダーウィン流なら金持ちは多くの子どもを残すはずだが、じっさいは貧乏人のほうが子だくさんである、等々。
ヒトがするのは快楽のためである。そしてセックスは育児を助けたり、共同生活を営むためのご褒美みたいなものである。人間の性はセックスと生殖が切り離されている。繁殖戦略だけから人間を読み解くには、人間はあまりにも文化に拘束されている。人間は繁殖のためだけにセックスするとはとうてい思えない。
著者もいっているとおり、生物学者の発言は社会原則の支えとなってきた。ときには人間界の規律やルールとなったりしてきた。それは人間の自由や生命の本質にかかわることがらであり、われわれはかんたんに生物学者の発言をうのみにするべきではないのである。
なんか悪人の言い訳ばかりに使われてきたように思える。浮気の正当化、人種差別の合法化、資本主義の強欲さの正当化。。 ろくなものじゃねぇ。生物学者って悪人の提灯持ちなのか。
▼竹内久美子の本。

























