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03 03
2013

社会哲学

「虚構」は「虚構」でしかないものか

 『泣くな、はらちゃん』というマンガの登場人物が現実の世界にとび出てくるドラマがある。

 「虚構は虚構でしかないのだから、虚構に埋没してはならない」という意見が優勢だと思うのだけど、人間の現実は思った以上に虚構に侵食されている。はっきりいって人間は「虚構」でしか現実を認識できないと思ったほうがいいのではないか。

 われわれの多くは都市に住んでいるのだが、都市は人々の「空想」が現実につくりだされたもので囲まれているものである。家や道がつくられるのはまず設計という「空想」をへてからつくられる。

 都市というのはディズニーランドのような空想の中の世界に住んでいるのと近い。こういうのを養老孟司は「脳化社会」とよんで、制御・統制可能な世界からそれが不可能なものを排除するのが都市や文明だといった。自然や病気、死などである。われわれは現実の世界から見たくないものを排除した空想の世界にすでに住まわっているのではないか。

 「現実、現実」というが都市は見たくないものが排斥された空間に囲まれているわけだし、人々がしたがう慣習や制度もひとつの「フィクション」なのではないか。

 オルテガは慣習を分析した『個人と社会』において人を制止する警官は自分の意志でおこなっているのかと問うている。それは「国家」や「警察」というフィクショナルな機構がかれの身体を動かしているのではないかと。

 われわれの制度や機構というのはすでに「フィクション」ではないのか。店員がお客に対応するとき、かれは店員という役割・フィクションを演じているのではないか。学校の教師が教師なのは、学校と教師というフィクションをみんなで約束しているから、かれは教師なのではないのか。もうひとついえば、教師が生徒にものを教えられるのは、生徒が無知で蒙昧な役割=フィクションの立場を守ってくれるからではないのか。

 家族だった父や母、兄弟を演じるフィクションではないのか。われわれは日夜、フィクションを演じている演劇者ではないのか。もし出生の知らない子どもがじつの父母や兄弟とどこかで出会っても、かれは家族と見なせないだろう。

 自分と見なしている自己ですら、「フィクション」や「物語」として自分を捉えているのではないか。過去の記憶や心象だけでは自己をつなげられない。自己を「物語」として記憶・解釈するから、一個の連続した「自己像」がつくられるのではないのか。

 そもそも過去は現実ではない。すでに過ぎ去った、どこにもない記憶だけである。この世界にないという意味で、ひじょうに「空想」や「虚構」に近い存在になる。われわれの自己像というのはそういう空想の世界で組み立てられるものだ。その記憶すら多くは取捨選択された偏った、ひとつの「自己物語」にすぎないのであって、「あれかこれか」の選択も可能であったはずである。「わたし」とはひとつの解釈であり、それはもう「空想」であり、「虚構像」である。

 神秘思想家のグルジェフはそのような虚構の自己像はなぜ生まれたかというと、自己の価値を維持したり、上昇させるために存在するといっている。自己像はその価値をなくすと生きられなくなってしまう。これは現実でも同じである。存在価値をなくさないために自己はたえず「自画自賛」のキャンペーンをおこなわなければならない。頭の中でぶつぶつ人の失礼な扱いや無礼な言動をいつまでも蒸し返すのはそのためである。

 自己をフィクションとして捉えているなら、われわれが人間関係や出来事を捉えることもひとつの「フィクション」だといえる。それはひとつの捉え方だけではなく、ほかの捉え方もできるのであり、ポジティブにもネガティブにも、自分に都合よくも、自虐的にも捉えることができる。しかもそれはこの世界にはすでに存在しない。存在しない頭の中だけのことはすでに「フィクション」ではないのか。現実にあったことではある。だけどそれはもう「解釈」でしかないのではないか。

 人間の頭にあることはほとんどが「空想」や「フィクション」といっていいものではないのか。思考自体が「空想」や「フィクション」なのである。

 頭の中にあることが空想やフィクションでしかないことに気づいたら、わたしたちは自分をがっしりとつかんでいた「ただひとつの現実」という鎖・重みからのがれることができる。それは選択可能なものになる。

 また空想にすぎないのなら、その履歴や思考を消すことができる。思い出さなければ、考えなければそれは存在しないし、わたしを苦しめることもない。借金や追いつめられた現実がなくなるという意味ではない。それを考えない時間をもっと増やして不幸な気分を減らすことが可能になるし、ポジティブな可能性も模索できる。ひとつの現実でも解釈や気分でおおいに変わるものである。

 われわれはずいぶん虚構の中で生きている。物語は虚構でしかないというけれど、虚構は人間の認識世界ばかりか、社会制度や慣習、都市の中まで侵食している。虚構の中でわれわれは暮らしている。

 夢の中で現実に殺される『エルム街の悪夢』という映画があったけれど、われわれは「夢」のなかでもだえ苦しんでいるといえる。仏教ではそれを「迷妄」や「虚妄」の世界といった。「虚構」や「フィクション」の世界で生きているということだ。

 虚構というのは物語だけの世界ではない。わたしたちの日常、世界のすべてをつつんでいる。



▼いっていたのは「共同幻想論」ということね。
 「共同幻想論」を知るためのブックガイド


▼参照文献
唯脳論 (ちくま学芸文庫)個人と社会―人と人びと「私」の心理学的探求―物語としての自己の視点から (有斐閣選書)グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門ものぐさ精神分析 (中公文庫)

07 17
2006

社会哲学

友人間での金のやりとりが嫌われるのなぜか


 私たちはお金とビジネスの世の中に生きているが、友人間や男女間では金のやりとりは嫌われる。だれかに親切にしてもらったり、助けてもらったり、うれしいことをしてもらったときに、金を差し出したりなんかしたら、ぎゃくに非難されるだろう。

 なぜなんだろう。私たちが人になにかサービスや行為をするときは、たいがいお金が絡んだ仕事やビジネスにおいてだ。お金をもらわないことには、たいがいの仕事――パンをつくったり、売ったり、モノをつくったり、売ったりする仕事はしないだろう。

 なぜ仕事は無償でないのだろうか。ぎゃくに友人間ではなぜ無償でなければならないのか。

 その分かれ目は「見返り」を要求するか、しないのかの違いではないかと思う。ビジネスにおいてはサービスを与えますから、代わりにお金という見返りをもらいますよというルールがある。

 反対に友人間においては行為は、「見返り」を要求してはならないというルールがある。つまりお金や自己利益のためにあなたに親切や優しさを与えたのではないということだ。ここでお金が払われるということは、無償でやった親切や優しさに自己利益という見返りのためにやったのだという侮辱を与えることになる。友人間においては、たとえお金のような互酬性がはたらいていたとしても、見返りをあからさまに返すのは、自己利益のためにやったのだという非難を与えることになる。

 ここからお金やビジネスが貪欲で汚いと嫌われるのは、見返りや自己利益のためにやっているという前提とメッセージがあるからとわかる。自分の利益のためにあなたにサービスを与えているのですよ、無償ではあなたにサービスをだれが与えるかとメッセージしていることになる。

 しかしビジネスでカン違いしてはならないのは、金儲けがいくら自己利益のためだからといって、客から奪いとったり、利益のみを得ようと思うのなら、まず儲からないだろう。ビジネスの基本は友人と同じように人に喜びや楽しみをさいしょに与えないことには、だれもお金という見返りを与えようとは思わないだろう。

 ビジネスは優れて利他行為である。友人間の関係と同じである。ただ違うのはさいしょから金という「見返り」を要求するか、しないかの違いがある。見返りがさいしょから返されるという前提があるのがお金のビジネスである。友人間においては、見返りは要求しないばかりか、ぎゃくにそれは侮辱になる。もちろん暗黙にはお金と似た互酬性が成立しないことには長続きするわけなどないのだが。

 ビジネスは利他行為である。見返りはあからさまに要求されるが、利他行為の喜びやうれしさを与えないことにはビジネスは成功しない。ビジネスには自己利益のためにやっているという非難が強いが、利他行為が社会にヒットしたからこそそのビジネスは儲かったのである。自己利益のためだけにやっている非難は当たらないように思うのだが。

 この利己行為か、利他行為かの線引きはむずかしい。お金という自己利益がなかったら、だれが利他行為に生涯を費やすというのだろう。労働強制キャンプにだれが喜んで入るというのだろう。ボランティアは金銭という見返りは要求しないが、おそらくはビジネスが覆った社会への異議申し立てなのだろう。

 私は労働を少なくして、自分の人生の時間を増やしたいとずっと思ってきた。仕事だけが人生じゃないと思ってきた。たぶんに自分勝手というわけではないと思いたいが、他人のために自分の人生を費やすのはいやだと思っているのだろう。だけど社会のサービスを手に入れるためには自分もたくさん社会にサービスを与えないことにはお金が手に入らない。

 お金の世の中というのは、自分のために生きようと思って、他人のためばかりに生きなければならない世の中だと思う。人がつくる魅力的なサービスやモノに幻惑されて、ますます自分のために生きられないドツボにはまる。利他行為がお金という自己利益でないと成立しないように、人は利他行為ばかりに生きたいとは思っていないだろう。

 貨幣のない世の中で生きたいものだが、それなら現代の消費分業社会も生まれなかっただろう。私は自分のために生きているのだろうか、それとも社会のために生かされているのだろうか。


04 05
2006

社会哲学

序列の幸福と主観の幸福

「下流社会」や「階層社会」という言葉が世間をにぎわすようになったが、人を脅かして得するのはだれなのだろう。

 商売なら人の恐怖を煽って儲けるのが常套手段である。たとえば「カッコ悪い」「哀れだ」「なさけない」と脅して上級品や高級品を買わせるようにそそのかすのは、どこかしこの商売にもみられることだ。

 あなたは「下流だ」と脅していちばん得するのだれなんだろう。まずはそういう恐怖を利用してマスコミや知識産業が儲かる。注目が集まる。そして下流社会から逃れ出そうとする奔流を生み出すことだろう。「NON-下流商品」が売れるわけだ。

 私はこの流れは、もう働いたってこれ以上豊かにも幸福になれないと近代社会を投げ出した若者への攻撃ではないかと思っている。モノの豊かさや仕事に生きがいを求める人生の休止や停止する若者への阻止をもくろんでいるのではないかと思う。

 でも「下流になるぞ~、下流になるぞ~」といくら脅したって、労働ばかりの毎日やこれ以上増やしたいモノなんかあるものかというものだ。

 そもそも下流や上流ってなんの序列やヒエラルキーなのか。上位にくるものは人々が無条件に羨ましがり、憧れられるものなんだろうか。デカいけど必要のない邸宅、会社でのちっぽけな地位、終電間際までの労働、そんなものがヒエラルキーの上位なのか。こんな生活のほうがよほど下流域だ。

 戦後の社会というのは序列によって幸福になれるとシステムづけられた社会だ。いい大学にいけば幸せになれるとかいい会社に入れば幸せになって偉くなれると序列づけた社会だった。序列によって幸福の量が決まると信じ込まされた社会である。

 人が幸福になったり豊かになるのはヒエラルキーの上位に来ることだった。つまり人との比較においてでしか幸福はないと決めつけたのである。勝者にしか幸福はない。そういう信仰は戦後の社会にうまく機能したのだろう。

 でも人との比較や優劣、序列だけにしか幸福がないと見なすのは、人生の大いなる失敗であり、錯誤である。人との比較においてでしか幸福がないのなら、敗者はすべて不幸であり、救いのないことになってしまう。また、一位になるのはたったひとりしかいない。ほかのすべての人が敗者ならみんな不幸な社会ではないか。

 私たちは序列の幸福にすっかり慣らされてきたのだが、人が感じる幸福というのはそんなものではない。序列やヒエラルキーのほかに幸福や満足はいくらでもあるし、そんなもの以外に人生は幸福を見い出すべきなのである。

 ヒエラルキーでしか幸福を見つけられない人の人生は不幸でしかない。比較ではなくて、主観において幸福は見い出されるべきなのである。人と比較しての幸福なんか見い出すべきではないのである。

 序列のないところに幸福を見い出す。たいがいの人は序列なんかと関係なく、自分のいるところに幸福や満足を見い出していることだろうし、また見つけるべきなのである。序列にしか幸福がないのなら不幸のままである。

 だからヒエラルキーを煽る人には、せいぜい私の主観の幸福をじゃまされないよう相手にしないほうがいいのである。人がどのように序列に入れたり、下層に押し込めようが、私は私の主観の幸福を見い出せばいいのである。下層を恐がらせる人には、ヒエラルキーの中で一生苦しめばいいと見放してやるべきなのである。もうヒエラルキーの人生なんていりません。


03 01
2006

社会哲学

若者を排斥する社会の若者バッシング


 本田由紀ほかの『「ニート」って言うな!』(光文社新書)でいわれていることは、若者こそが変動する企業社会の犠牲者なのに、怠けややる気のない若者こそが悪いという風潮が盛り上がることに釘を刺していることである。

 なるほどなである。90年代のバブル崩壊の大不況いこう、企業は若者の新卒採用を控えたり、正社員でないアルバイトや非正規雇用で採用することが多くなった。

 こういう時代に呼応するように若者の凶悪化や犯罪がマスコミの大注目を浴びるようになった。つまりは若者が悪いのであって、企業や社会はなにも悪いことなんかしてません、と煙幕を張っているのである。

 企業社会に属する大人たちが自分たちのやましさを覆い隠すために、若者の悪イメージが流布されるのである。犯罪率は終戦後から高度成長以前のほうがよほど多く、減る一方なのに、マスメディアにハマっている人は「どんどん凶悪事件が増えている」と思わされているのである。

 ニュースというのは今日の事件が人類史上最悪の事件だと思わせて、今日の売り上げを増やし、過去の凄惨な事件をまったく思い出させないのである。そろそろわれわれはこの愚かなからくりから卒業すべきである。

 若者がフリーターやひきこもり、ニートになったりするのは、企業社会が若者に正社員の職を与えないようになったからである。若者に活躍の場を与えず、社会的活動を閉鎖に追い込むのである。そのやましさを大人たちは若者の凶悪化や怠けのせいにするのである。

 企業はもともと営利企業である。不景気になればクビを切ったり、採用を控えるのがとうぜんの経済的行為である。

 しかし日本人にとっての企業のイメージというのは終身まで面倒を見てくれる大家族のイメージである。そういうゆりかごのイメージで戦後の日本人は企業を見てきたのである。だから日本のサラリーマンは滅私奉公や愛社精神をもち、「社畜」や「会社人間」になってきたのである。

 しかしそんなものは高度成長期だけの一瞬の幻想である。社会福祉をしているような顔の企業は、大不況に突入するとたちまち、化けの顔をはがした。若者の雇用を減らし、若者の社会保険をつっぱなし、ゆりかごの中高年だけを過去の経緯と既得権がある以上守ろうとした。

 家族を守るやさしい企業というイメージの不整合のために、社会福祉から見捨てられた若者を見えないものにするために、若者の凶悪化ややる気のなさをプロパガンダに利用するのである。社会福祉が切り捨てられているという現実を見えなくさせるために。

 たしかにバブル入社以前の社員たちには社会主義的発想で守られている。それ以降の大不況期の若者たちにはすでにそんなものを与えられていない。社会主義が終わってしまったということを見ないがために、若者はひたすら叩かれつづけるのである。

 そして世の心理至上主義という風潮とあいかさなって、若者はますます自分自身だけのせいにされるのである。つまりはあなたの心や性格が悪いのであって、社会や経済は悪くありませんということだ。心理学が増長する時代というのは、社会学や経済学に悪の原因をみいだせない、改善の要求がつきつけられない時代になるということなのである。

 マスメディアはほんらいなら社会福祉を捨てた企業をいっせいに非難すべきなのである。しかそれを怠り、ぎゃくに犠牲者である若者の資質のせいにした。

 大人たちは社会主義がこの日本でもようやく終わろうとしていることに気づかなければならないのである。企業が社会福祉を過剰に期待された時代は終わり、企業はほんらいの営利企業としての顔で生存しはじめたのである。

 そのような時代に必要とされるのは企業の人権無視や労働違反に厳しく対処する権力者としての政府なのであるが、日本の政府は企業の大親玉のような存在でしかない。後発途上国として日本は全体で株式会社化されなければならなかったからだ。

 この狭間において若者はどんどんと追いつめられてゆくのである。社会福祉を担わないようになった企業の隙間はだれが埋めるのか。あるいは社会福祉で守られている者たちとの不平等はどう解決するのか。この問題が深く進行し拡大しつづけているのである。

 企業に担わせていた社会福祉の役割が終わろうとしているときに、この問題のすりかえが若者に背負わされているのである。


02 05
2006

社会哲学

ステイタスの不安を解消するために

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 いまアラン・ド・ボトンの『もうひとつの愛を哲学する』を読んでいるが、かなりよい本である。ステータスに人びとがどのようにとり憑かれてきたか、悲しいほどにえぐり出している。

私たちは人から見下されたり、軽蔑されたり、侮辱させられたりすることを死ぬほど恐れているのである。だから金や地位や名誉を必死に追い求めるのである。それらの華々しい成功の物証はすべてかれが負ってきた心の傷だと見なせるのである。

 孔子は「利益より、正義を求めよ」といったそうである。ステータスより、無名であるが、道徳的に正しい人のほうがどんなにすばらしいことか。いまの世の中はそういった美徳がすっかり忘れ去られている。利をとるより、正しい人でありたいものである。

 やはり私の中にもステータスを求める気持ちは拭いがたく植えこまれている。私が解毒剤としてもとめた先人たちの知恵とは以下のようなものである。またまた再UPします。とくにアウレーリウスとショーペンハウアーは私の心の言葉となっているし、洪自誠やクリシュナムルティにはひじょうに納得させられる。



 ――マルクス・アウレーリウス『自省録』 Aurelius11.jpg


 ■それともつまらぬ名誉欲が君の心を悩ますのであろうか。あらゆるものの忘却がいかにすみやかにくるかを見よ。またこちら側にもあちら側にも永遠の深淵の横たわるものを、喝采の響きの空しさを、我々のことをよくいうように見える人びとの気の変わりやすいこと、思慮のないことを、以上のものを囲む場所の狭さを。 

 ■死後の名声について胸をときめかす人間はつぎのことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え上がっては消えて行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにその記憶全体が消滅してしまうことを。

 ■もうしばらくすれば君は灰か骨になってしまい、単なる名前にすぎないか、もしくは名前ですらなくなってしまう。そして名前なんていうものは単なる響、こだまにすぎない。人生において貴重がられるものはことごとく空しく、腐り果てており、取るにたらない。

 ■名誉を愛する者は自分の幸福は他人の行為にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にある思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。

 ■昔さかんに讃めたたえられた人びとで、どれだけ多くの人がすでに忘却に陥ってしまったことであろう。そしてこの人びとも讃めたたえた人びともどれだけ多く去って行ってしまったことだろう。


 ――ショーペンハウアー『幸福について』 shopen.jpg


 ■対外的な利益を得るために対内的な損失を招くこと、すなわち栄華、栄達、豪奢、尊称、名誉のために自己の安静と余暇と独立とをすっかり、ないし、すっかりとまではいかなくてもその大部分を犠牲にすることこそ、愚の骨頂である。

 ■他の人たちに見られるような、単に実際面だけの生活、単に一身の安寧をめざしただけの生活、深みの進歩がなく単に延長的な進歩しかなしえない生活は、この知的な生活に比べれば悲惨な対照をなすものだけれども、彼にとっては単なる手段にすぎぬこうした生活を、世の常の人は、それをそのまま目的と認めざるをえないのである。

 ■富や権勢をこそ唯一の真の美点と見て、自分もその点で傑出してみたいと願っているのだから、人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢にのみによって測ろうとする。――ところでこういったことはすべて夫子みずから精神的な欲望をもたぬ人間だということから出てくる帰結である。


 ――洪自誠『菜根譚』
 ■豪奢な人は、いくら富裕であっても、(ぜいたくをするので)、いつも不足がちである。ところが、倹約を守る人は、いくら貧乏であっても、(つつましいので)、いつも余裕がある。

 ■世人は名誉や地位があるのが楽しみであることを知っているが、名誉も地位もない者の方が、もっとも真実な楽しみを持っていることを知らない。また、世人は飢えとこごえで衣食にこと欠くのが憂いであることは知っているが、衣食にこと欠かない富める者の方が、いっそう深刻で憂いを抱いていることを知らない。

 ■富貴の家の中で生長した者は、その欲望は猛火のように盛んであり、権勢に執着することは激しい炎のように盛んである。

 ■栄位のゆえに我を人が尊ぶのは、この身につけた高い冠や大きな帯のためである。微賎のゆえに我を人が侮るのは、この身につけたもめんの衣服とわらぐつのためである。そうとすれば、もともと我を人が尊ぶのではないから、どうして喜んでおられようぞ。もともと我を人が侮るのではないから、どうして腹を立てておられようぞ。

 ■権力の強い者に従い、勢力の盛んな者に付くという人生態度のわざわいは、(権勢の座から失脚したとき、当然であるが)、非常に悲惨なものであり、またその報いも非常に早い。(これに反して)、心の安らかさを住み家とし、気楽な生活を守るという人生態度の味わいは、(一時的な濃厚さはないが)、きわめて淡白であり、またその楽しみも最も永続きするものである。

 ■(人間の欲望には限りがない)、物を得たいと欲ばる者は、金を分けてもらっても、その上に玉をもらえなかったことを恨み、公爵の爵位を与えられても、その上の領土を持つ諸侯にしてくれなかったことを恨む。このようにして権門豪家でありながら、我からこじき同然の心ねに甘んじている。
 (これに反して)、ほどほどで満足することを知る者は、あかざのあつものでも、よい肉や米よりもごちそうであると思い、布で作ったどてらを着ても、高価な皮ごろよりも暖かいと思う。このようにして貧しい庶民でありながら、心ねは王侯貴族よりも満ち足りている。

 ■財産の多い者は、莫大な損をしやすい。だから金持より貧乏人の方が、失う心配もなくてよいことがわかる。また地位の高い者は、つまずき倒れやすい。だから身分の高い者よりは身分のない庶民の方が、(つまずく心配もなく)、いつも安心してられてよいことがわかる。

 ■高い冠に幅広い帯をつけた礼装の士人も、ふと、軽いみのに小さなかさをつけた微服の漁夫や農夫たちが、いかにも気楽に過ごしているのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、うらやましいと思わないでもなかろう。また、豪家なじゅうたんの上で暮らしている富豪も、ふと、竹すだれの下で小ぎれいな机に向かって読書している人が、いかにも悠然として静かに過ごしているのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、慕わしい気持を起こさないでもなかろう。
 それにもかかわらず、世人はどうして、尻尾に火をつけた牛を駆り立てるように、また、さかりのついた馬を誘い寄せるように、(功名富貴を求めることに血まなこで)、そうしてばかりいて、自分の本性にかなった悠々自適の生活をすることを思わないのであろうか。

 ――荘子 sousi1.jpg


 ■お前さんは名声をとうとばれているようだが、名声というものは公共の道具、財産であり、自分だけが欲ばって多く得ようとしてはならないものだ。
 富をよしとして追求するものは、自分の財産をゆずることができず、高い地位にあることをよしとするものは、人に名誉をゆずることができず、権力を愛するものは、人に権力の座を与えることができない。これらのものを手にしているときは、失うことを恐れて震えおののき、反対にこれを失えば嘆き悲しむ。しかも、このあわれむべき状態を反省することもなく、休むひまもない営みに目を奪われているものは、天から刑罰を受けてとらわれの身となっている人間だというほかない。

 ■会うものは必ず離れ、成功するものは必ず失敗するときがあり、きまじめで角のあるものは挫かれて辱められ、地位が高くなれば批評の的になり、何事かを行なおうとするものは妨害を受け、賢明であれば謀略にのせられ、暗愚であれば欺かれるという始末である。これでは世のわずらわしさからのがれようとしても、どうしてそれができようか。あわれというほかない。

 ■小人は財貨を追い求めて身を破滅に陥れ、君子は名声を追い求めて身を犠牲にする。

 ■天下の人びとは、こぞって外物のために自分の身を犠牲にしているといってよい。ところが、仁義のために身を犠牲にすれば、世間ではこれを君子とよび、貨財のために身を犠牲にすれば、世間ではこれを小人とよぶ。自分の本性を犠牲にしていることでは同一であるのに、君子と小人の区別をつけるのである。


 ――老子 rohsi.jpg


 ■欲望が多すぎることほど大きな罪悪はなく、満足することを知らないほど大きな災いはなく、(他人のもちものを)ほしがることほど大きな不幸はない。ゆえに(かろうじて)足りたと思うことで満足できるものは、いつでもじゅうぶんなのである。 


 ――寒山 kanzan1.jpg


 ■貪欲心の旺盛な人間は好んで財産を集めるが、これはあたかも梟が子供を愛するようなものである。その子供は成長すると母親を食べてしまう。財産が多くなればなるほど、かえって自分の身を害することになる。財産を人に恵むなどして無くすれば福が生じ、財産を蓄えるのであれば災難が起って来る。財産も無くまた災難も無ければ、青空の雲の中で翼を自由にはばたくことができる。 

 ■世間の人がうまく体裁をつくろうのを別に羨ましく思わない。世間の人が心身を使い果たしているのは名利のためであって、あらゆる貪欲をもってして自分の体を前進させている。夢幻のようなはかない人生は、あたかも燈火の燃え残りのようなもので、末は墓の中に身を埋めることになりはしないか、そうなるに決まっている。

 ■俗世間の人々を見ると、塵や埃が立ちこめてぼうっとしている道を気忙しく歩いて行く。人生における究極または肝心なことが何であるかを知らずに、いったいどうして船着き場を見つけようとするのだろうか。栄華というのはいつまで持続するのだろうか。親族というものはほんの暫くの間の血のつながりである。たとえ莫大な黄金が自分の所有になるにしても、林の下での貧困な生活にはとても及ばない。

 ――アンゲルス・シレジウス『瞑想詩集』CIMG0002_11111.jpg


 ■最も貧しい人こそ最も自由な人
 財産の乏しい人は何より自由である。だから正に心貧しい人ほど自由な人はないのだ。

 ■放念した者は損をしても悩まない
 この世にまったく所有欲をもたない者は、たとえ自分の家を失ってもその損失を悩むことはない。

 ■平穏無事を求める者は、多くのものを見逃す
 人よ、けちけちと自分の財産だけを守ろうとすると、あなたはもはや真の平安の中に住まなくなるだろう。

 ■欲の深い者は足ることを知らない
 足ることを知っている者はすべてをもっているのだ。欲深く多くを求める者は、どんなに多くのものを得ても、まだまだ足りないと思うのである。

 ■賢明な集め方と愚かな集め方
 守銭奴は愚かな者だ。彼は滅びゆくものを集めようとしている。施しを好む者は賢明な人間だ。彼は滅びぬものを得ようとしている。

 ■賢者と守銭奴の金のしまい場所
 賢者は賢いから金が入ると寄金箱に入れてしまう。ところが守銭奴はその金を心の中にしまい込もうとするから心の休まる時がないのだ。

 ■富は心の中にもつもの
 富はあなたの心の中になければならない。心の中にもたなければ、たとえ全世界を所有したとしても、それはあなたの重荷になるだけだ。


 ――ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』
 ■私たちは、昔の人々が貧乏を理想化したのが何を意味したのかを想像する力さえ失っている。
 その意味は、物質的な執着からの解放、物質的誘惑に屈しない魂、雄々しい不動心、私たちの所有物によってではなく、私たちの人となりあるいは行為によって生きぬこうという心、責任を問われずともいかなる瞬間にでも私たちの生命を投げ出す権利、――要するに、むしろ闘志的な覚悟、道徳的な戦闘に堪えるような態勢、ということであった。

 ■たいていの場合には、富を得ようとの熱望と、富を失いはしまいかという恐怖心とが、おもに臆病を生み、腐敗を広めているのである。貧を恐れない人が自由人となっているのに、富に縛られている人が奴隷たらざるをえないのである。


 ――ジッドゥ・クリシュナムルティ『未来の生』 images[20].jpg


 ■この財産は自分のものだ、他の誰にもそれを渡したくないと思うから、私たちの所有物を保護してくれる政府を作り上げてしまうのである。……君たちが権威を生み出してしまうのは、安全な行動のしかた、確実な生き方を求めているからだ、ということだ。まさに安定を追求すること自体が権威を生み出し、そしてそれゆえに君たちはたんなる奴隷、機械のなかの歯車になり、何も考える力も創造する力もなしに生きる羽目になるのだ。


 ■私たちは、自分に確かさを感じさせてくれるものを望み、多種多様な保護手段を備え、内面的ならびに外面的な保護物で身を固める。自分の家の窓と戸を閉めて内にこもると、私たちはとても安心し、安全で、煩わされないでいられると感じる。……私たちが恐れ、自分自身を閉じれば閉じるほど、それだけ私たちの苦しみはつのる。

 ■君が野心的なとき、宗教的にまた世俗的な意味で君がひとかどの者になろうと努力しているとき、もし君自身の心をのぞきこんでみれば、君はそこに恐怖の虫がいるのを見出すことだろう。
 野心的な人間は、誰よりも一番恐れている人間である。なぜなら彼は、あるがままの自分であることを恐れているからである。彼は言う。「もし私がいまのままの自分だったら、私は何者でもない。それゆえ、私はひとかどの人間にならなければならない。知事、判事、大臣にならなければならない」

 ■私たちはより多くを望む。成功を望み、尊敬され、愛され、見あげられること、強くなること、有名な詩人、聖者、雄弁家になること、総理大臣や大統領になることを望む。……この切望は私たちが不満であること、満足していないことを示している。……そしてより多くの衣服、より多くの力等を手に入れることによって、自分の不満から逃避できると考えていることを意味している。……私はただ、衣服や権勢、車といったものでそれをおおい隠したにすぎないのだ。

 ■自分が重要だということの気持は、必然的に葛藤、苦闘、苦痛をもたらす。なぜなら、君はたえず自分の重要性を維持しなければならなくなるからだ。


 ――ヘンリー・ソーロー『森の生活』 thoreau1.jpg

 ■たいがいの人間は、比較的自由なこの国においてさえ、単なる無知と誤解からして、人生の人為的な苦労とよけいな原始的な労働とに忙殺されて、その最もうつくしい果実をもぐことができないのである。……じっさい労働する人間は毎日真の独立のための閑暇をもたない。

 ■大部分の贅沢は、そして多くのいわゆる人生の慰安物は、人類の向上にとって不可欠でないばかりでなく、積極的な妨害物である。贅沢と慰安に関しては、最も賢い人々はつねに貧乏人よりもっと簡素で乏しい生き方をしてきた。

 ■どうしてわれわれはこうもせわしなく人生のむだづかいをして生きなければならないのか。われわれは空腹にならない前に飢え死にすることに心を極めている。……仕事仕事というが、われわれは大切な仕事なんかしていない。われわれは舞踏病にかかっているので頭をしずかにしておくことができないのだ。 


 ――ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起源論』 rousseau.jpg

 ■彼は自分の卑しさと彼らの保護とを得意になって自慢する。そして自分の奴隷状態を誇り、それにあずかる名誉をもたない人たちのことを軽蔑して語るのである。

 ■おのおのが他人の不幸のなかに自分の利益を見いだすというような商業について、人々はなんと考えてよいのだろうか。……自分の同胞の損害のなかにわれわれの利益を見いだし、一方の損失はほとんど常に他方の繁栄となるのである。


 ▼私の考えた言葉たちです。
   人間の比較序列を超える断想集 99/10/30.
   「なぜ人より優れたり、勝ちたいと思うのか」 99/4/30.
   「社会的劣位を怖れる心」 99/3/31.

01 29
2006

社会哲学

恐怖に縛りつける社会保障


 私たちは社会保障がなければ、恐怖や不安を感じたり、みじめさやあわれさを感じるようになっている。年金や健康保険がないことはたいそう恐ろしいことなのである。

 そのために私たちは会社に必死にしがみつく。会社にしがみつかないと、医者にもかかれないし、年金ももらえないと恐れている。会社に属することはそういう恐怖をとりのぞくことであり、社会的信用というパスポートを手に入れることなのである。

 そのために私たちはどこまでも会社に隷属しなければならなくなった。滅私奉公や会社人間という言葉が生まれ、「社畜」という悪称まで冠せられることになった。社会保障という人質を会社にとられているために私たちはどこまでも会社に奉仕しなければならなくなったのである。

 社会保障は人びとに恐怖の念を植えつけた。それがないことは恐ろしいことであり、みじめなことなのである。新興宗教が恐怖のマインドコントロールで信者を拘束するように、国家や企業はこの恐怖によって人びとを縛りつけてきたのである。

 国民年金法が成立したのは昭和33年のわずか50年前である。国民皆保険がスタートしたのは昭和36年であり、国民皆保険が完全達成されたのは昭和49年である。国家に健康や老後が保障されたことがいままで一度もなかった人たちはこのわずかな期間のあいだにすっかり恐怖に巣食われてしまったのである。しかも払う額はどんどん増え、払われる額もどんどん減りつづけている。

 その間、企業も社会保障を捨てる動きを加速させてきた。臨時工や季節工などを雇ったり、主婦の労働力をパートタイムにしたり、学生や若者をアルバイトとして働かせ、派遣社員や契約社員として、社会保険料の負担を逃れてきたのである。

 企業は社会保障を早々と捨ててきたのである。そしてそれは時代のズレとなり、国民のあいだに社会保障に与かれる層と与かれない層を生み出した。与かれない女性たちはサラリーマンの夫にぶら下がるしかなかったし、時代が下れば若者たちは親たちにしがみつくしかなくなった。おそらくは国家が国民の保障なんかしない時代には人々はこのように協力しあって生きてきたのだろう。

 私たちはこの社会保障が崩れ去ってゆく時代に生きているのだろう。というか、健康保険にしろ本人負担は一割から三割に増えているし、年金も健保の支払額も増えつづけているし、年金の支給年齢も釣り上がる一方である。はじめから破綻予定であり、脱走する企業や人があとを絶たないねずみ講だったというしかない。

 私たちは社会保障という恐怖に縛りつけられた意識にしっかりと向き合わなければならないのである。カルト宗教にしろ、死後の世界の恐怖に縛りつけた既成宗教にしろ、私たちは恐怖によってだれかに隷属させられるのである。支配と服従の常套手段である。良心的な宗教家ならまずは恐怖から自由にならなければ、社会への隷属から自由になれないと教えてくれることだろう。

 私たちはみずからの心の内なる社会保障の恐怖に向き合わなければならないのである。この恐怖が生涯の私たちの不自由さを生み出し、労働強迫社会を持続させているのである。

 まあ、たいがいの人は恐怖の克服より、安心の不自由さを選ぶだろうけど、私も現実問題としてはそういう選択をせざるをえないだろうけど、私たちは恐怖に釘づけになっていると自覚するだけでも人生の余裕度は変わってくると思う。

 ▼社会保障と恐怖について
アメリカは恐怖に踊る「日本」の終わり―「日本型社会主義」との決別国保崩壊―ルポルタージュ・見よ!「いのち切り捨て」政策の悲劇を199153031.jpg

09 21
2005

社会哲学

ギャル系はなぜ早婚なのか~生存戦略の違い


 なぜある人はエグセグティヴをめざしたり、ある人はヤンキーになったり、またはフリーターになったりするのだろう。なぜ女性のある人は専業主婦をめざし、ある人は男のように働こうとし、ある人はふつうのOLをめざそうとするのだろうか。

 三浦展の『下流社会』の「階層化による消費者の分裂」を読んでいて、ふと思った。三浦展は消費者の分裂を、女性は、お嫁系、ミリオネーゼ系、かまやつ女系、ギャル系、ふつうのOL系にわけた。男性は、ヤングエグセクティブ系、ロハス系、SPA!系、フリーター系にわけた。

 たとえばギャル系というのは渋谷にいそうなハデな女性だが、けっこう専業主婦願望が強く、早婚である。これはヤンキーのタイプとまったく同じである。親や学校に反抗することがそのまま家庭や子育てに直結するのである。なんかこのタイプの繁殖戦略は遺伝子にくみこまれているという感じがする。さっさと「上って」しまうのである。でも若くして子育てするから暮らしはキツく、つぎの代にも生き方は遺伝するのである。

 エグセクティブ系とかミリオネーゼ系というのは、キャリア志向である。ステータスを好み、人がよい、ほしいと思ったものをほしがり、文化的・創造的な趣味は弱い。世間体のマシーンみたいなタイプである。高所得なのだが、労働マシーンのように生き、外側の甲羅を飾ることだけに熱中する中身のない人間だという気がする。アイデンティティを世間におくからいいように世間に使われているといえなくもないが、稼ぎはいいのである。世間受けすることが最適生存戦略であるという遺伝子をもっているのだろうか。

 私は趣味や自分らしさを最高と思う人間だから、完全にフリーター系だ。かまやつ女系というのも手に職やアーティスト志向をもつので、フリーター系にのりいれているのだろう。趣味や自分らしさにこだわる人間は企業社会で食いっぱぐれやすく、三浦展はこれから下流階層におちぶれるといっている。

 趣味や自分らしさをあらわすことがこのタイプの生存戦略なのだろう。でないと生きている甲斐がない。計画性や将来展望も弱い。そんなものより大事なのは自己表現である。このような自己顕示がおそらく異性獲得になんらかの利得をもたらしたのだろう、かれらは必死に自己をほかから異ならせようとするが、おかげで稼ぎが得られない。このタイプは自己顕示のために死滅してしまうタイプなのだろう(笑)。でもそのような存在は文化的な創造力で経済の源をつくってゆくのだろう。

 女性のお嫁系は専業主婦志向で、いまだに年収一千万の医者とか弁護士と結婚したいといっている。現実感覚のなさが特徴で、たぶんそれが女のチャーム・ポイントなのだろう。子どもを生み育てるふつうだが、当たり前の生き方を強烈にのぞむのである。私にはこのような女性のはがゆさが信じられないが。でもこれが人間の生きる王道なのはまちがいない。シンプルな女性の生き方は、ゆるぎなく彼女たちの子孫を繁栄させるのに役立ったのだろう。

 ロハス系はスローライフ志向、SPA!系は仕事をするしかないタイプ、またはふつうのOLといったごくふつうの生き方を目指そうとする人たちが世の中の大半を占めるのだろう。かれらは世の中の中庸をめざす。たぶんかれらは左をみて右をみて上下をみて、中央に位置する生き方を本能的に、遺伝的にもっているのだろう。道を外さないのがいちばん安全な生き方だと知っているのだろう。ただ時代に翻弄される弱みはあるのだろう。

 人はそれぞれの生存戦略をもち、先祖からひきついだそれによって生きてゆくものだと思われる。もちろん時代や本人の性格によるものも大きいだろう。われわれはその戦略によって人生の目指すところが異なるのである。それは種族の違いくらいの差があるのかもしれない。こういう生き方の違いが、遠い未来に種の分化を生み出したりしちゃったりして。

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