HOME   >>  TV評
12 26
2016

TV評

『逃げ恥』 無償家事労働が本題ではなかったのか?

逃げるは恥だが役に立つ【TBSオンデマンド】



 ■設定による本題から逃げ?

 『逃げるは恥だが役に立つ』は大ヒットだったわけであるが、わたしは本題からズレつづけた不満をずっともちつづけた。

 なかなか叶わない恋、結ばれない恋は恋愛物語の王道であって、禁じられた恋のもどかしさ=ムズキュンは最高度の熟達した物語であったと思うし、それが人気の理由であるのはもちろんわかるのだが、本題はそれじゃない感をずっとひきずった。

 最終回前にようやく「それは好きの搾取です」とみくりがプロポーズを拒否したのがこの『逃げ恥』の本題であって、本題からズレたところで人気を得ても、それはメッセージの構成上、成功したのか疑問がもやもや残った。

 このドラマは設定がすべてを語っているのであって、就職難民のみくりと恋愛難民の平匡が家事労働で雇用契約を結ぶことに端的にあらわれている。つまり「家事労働はなぜ無償なのか」ということのはずである。

 ふたりが世間の「ふつう」からこぼれ落ちた哀れさをちっともにおわせずに、ただひたすら雇用関係の設定からもたらされるあふれ出る恋心を主題にしてしまって、本題はいったいどこにいったのかと思わずにはいられなかった。

 だから最終回前のみくりの「好きの搾取」宣言はようやく主題に切り込んだわけであるが、これ以降『逃げ恥』は鬱展開になり、あんなにかわいくて従順だったみくりのイメージにギャップがあらわれ出て不満に思った男性諸氏もいると思うが、本題はこの「こざかしいみくり」がずっと問題をひこおこす物語であったはずである。

 最終回あたりに「縛られていたものから解き放たれる」が主題であるかのようなメッセージもあらわされたのであるが、設定はもっとラディカルな問いであったはずである。


 ■ふたりが自尊心をとり戻す物語

 あらためて全話見直してみると、これはすっかりと自尊心をなくした非モテで草食系男子の心をどうやって開くかという主題がメインに展開されていたことが見えた。

 イケメンの風見とみくりが家事労働でシェアされる回で、引け目を感じる平匡がどんどんと心を閉ざしてゆくエピソードが語られるのだが、みくりはそこで拗ねて平匡から離れることになったかもしれないが、ぎゃくに「恋人になってください」宣言で平匡に近づくことに成功する。自尊心をなくした草食系男子の乗り越え方を攻略したのである。

 みくりは就職難によってすっかり自尊心を失って、社会から必要とされることを渇望していたのであって、その金銭的に社会に必要とされていない感を、家事労働で給与をもらうことと、平匡にほめられることで、ようやく自尊心を補われる経験をしたからこそ、みくりは平匡の閉じる心のドアを開ける意志を継続できたのである。

 つまりこの物語の前半は、自尊心を失ったもの同士がどのように承認され、自尊心を回復するかということが描かれていたわけである。

 抑えられた恋心があふれ出すだけではなくて、あなたには価値があるというメッセージをおたがいに満たす関係になったからこそ、ふたりは関係を深めてゆくことができたのである。

 これはすっかりと自信を失い、自尊心を欠落させた者の自尊心の回復と承認の物語であって、ただふつうに恋の成就を語っていたわけではない。そういう意味ではこのドラマは、『イグアナの娘』や『自虐の詩』のような自尊心が破壊されたものの回復物語と同じ系譜に属するのである。


 ■家事労働はなぜ無償なのか、魔法の霧散

 この物語の主題は設定があらわすことは、「家事労働はなぜ無償なのか、タダ働きなのか」ということである。

 雇用関係から恋が成立したとたん、金銭労働はタダ働きになる。世の結婚した女性はなぜ金銭をもらえずに、夫や家庭に無償労働で奉仕するのだろうか。外部に委託すれば家事労働として金銭を要求されるものが、主婦がおこなえばたちまち金銭は魔法のように霧散してしまう。

 みくりが金銭で家事労働をおこなう契約を提起したのは、そういう無償家事労働の対比を浮き彫りにするためである。そして恋心が成就したとたんに金銭が霧消してしまう魔法の瞬間をとらえたのが、最終回前のみくりの「好きの搾取」宣言である。

 この物語がもうすこしラディカルに追究できたなら、セックスにもなぜ金銭は支払われないのかという問題にもふみこめたはずである。そこで金銭を払ってしまえば、売春婦となんら変わりはない。主婦はなぜ無償でセックスに応じ、売春婦は金銭をもらうのか。

 金銭というのは値づけることであり、外部の市場に売りに出すということである。金銭が発生すればそれは市場に開かれるということであり、比較市場が広がって、価格やサービスが良ければほかに交換可能な財として見られることになる。無償というのは、比較金銭市場からの撤退でもある。みくりは金銭で家事契約されている以上、風見の家事代行にシェアできるのである。

 恋が成立した最終回にみくりと平匡は共同経営者・CEOになるという処方箋がしめされていたが、これは労働基準法逃れのために企業がよくやる「名ばかり店長」とか「名ばかり管理職」と同じ戦略である。つまり管理職になってしまえば、労働基準法は適用されずに何時間働かせてもよいし、残業代も発生しない。さらに事業主契約をすれば、保険も払わずにすむ。この物語は、無償家事労働に答えを見出したわけではないんだなと思えた。


 ■無償家事労働論ははるかむかしの議論?

 この物語の主題「家事はなぜ無償なのか」という問題設定を見てすぐにイリイチの『シャドウワーク』を思い出したのだが、未読で、古本屋でもう手に入れることもできなかった。

 フェミニズムはこのドラマはどう評するかと興味をもったのだが、田嶋陽子はやはり「いつまでこんなことをやっているのか、三十年自分たちが努力してきたことがなにも伝わっていなかった」と嘆いていたが、無償家事労働論というのは、聞くところによると、70年代に論争されていたあまりにも古い問題である。

 アマゾンでググれば、『家事労働に賃金を』というそのものずばりのタイトルのマリアローザ・ダラ・コスタの本は、日本では86年に翻訳されている。イリイチの『シャドウワーク』は82年に日本で出されている。それほどむかしのテーマなのである。

 ちょっとこの無償家事労働論に興味をもったから本を読みたいと思うが、どこまで興味を維持できるだろうか。


 ■性的身体の不在

 この物語、男目線ならもっとみくりの着替えシーンや入浴シーンなどエッチなシーンが噴出したと思うのだが(『タッチ』みたいに)、あくまでも女性目線の物語でつくられている。視覚で性欲を駆り立てられる男性ではなく、関係性で親密性があふれだす女性の違いというステレオタイプの説明でよいでしょうか。

 というか、みくりはベッドのお誘いを拒否されて羞恥のあまり家出までして、物語は平匡の自尊心のなさや経験のなさに原因を求めるのだが、みくりはそれまでに性的身体のアピールをまったくしていない。男をそそるアピールがまったく欠如しているのである。TV的な物語の意図や抑制ではなくて、性的身体の誘惑の禁圧が無意識に浸透していると読むべきなのか。性を禁止して性に魅かれて、それでも性的身体の禁圧が横たわる。性的身体の誘惑の不在はなにを意味するのでしょう。


逃げ恥ロスの方はぜひ家事労働論に手を染めましょうw
シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う (岩波現代文庫)家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望家事労働と資本主義 (〈特装版〉岩波現代選書)家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)家事労働ハラスメント――生きづらさの根にあるもの (岩波新書)

 

05 17
2016

TV評

TVドラマとの読み比べ――『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ

4151200517わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)
カズオ・イシグロ
早川書房 2008-08-22

by G-Tools


 TVドラマの『わたしを離さないで』はTVドラマ史上、かつて見たことのない傑作に思えた。これほど深刻なテーマ――生や人生が限られているというテーマをよくお茶の間に臆面もなく流したものだと思う。

 『わたしを離さないで』はドラマ史上に残る一級の名作だ

 つづけて二度見返して、テーマや人物にこめられた造形もだいぶ理解できた。原作にはもっと踏みこんだ解釈が読めるはずだと原作を読んでみた。

 どうしてもドラマの映像が頭にあって、ドラマと読み比べてしまうのだが、原作には死の恐怖、人生が限られているという不安があまり伝わってこないように感じられた。この生が限られているという不安があるからこそ、生は価値ある生を模索することに意味があるのだが。

 たんたんとしていて、抑制が効いていて、ドラマの感動的、情動的盛り上がりがほとんど欠けている。もし、原作のみ読めば、TVドラマほど感動したかと思えるほど、あっさりなにも残らず、読み終えていたかもしれない。

 まあ、わたしが小説の構想力が弱く、書かれていること以外の想像力がとぼしいためかもしれない。ドラマではほかのことを考える余地や空白はいくらでもある。しかし小説は物語を組み立てる想像力にフルに使われて、あとの余地が残らないのだ。

 ドラマでは主題並みにあつかわれていた愛するトモを美和に奪われる恭子の悲しみというものがほとんど描かれずに、たんたんと描かれていたように思われた。猶予を申し出る章になって、そのエピソードがようやく出てきた感じだ。

 ドラマではトモと恭子が贈られたアルバムを聴きながら踊るシーンがあるのだが、原作ではキャシーがひとりで踊るだけ。美和=ルースが人の喜びを奪いとる他人に憧れる現代人の象徴として描かれているように感じられなかった。トム=トモとキャシー=恭子の初恋エピソードもそう描かれていたわけではない。

 ドラマではコテージ編でセックスに溺れるブタのように描かれていたのだが、原作では性はニュートラルで寛容で、あけっぴろげであった。コテージでは詩や哲学を論じる先輩たちが描かれていた。

 陽光学苑=ヘールシャムが洗脳をほどこす不気味な学園として描かれていたわけでもなく、提供者の人権を奪取する運動をしていた真美やホワイトマンションといった存在は原作にはない。TVドラマオリジナルの創作なのである。

 なにより美和=ルースが亡くなるシーンもじつにあっけなく、さらりと流されるだけ。陽光学苑を三人で訪れたエピソードも、座礁した船を見に行く話になっていた。

 これはTVドラマの方が原作よりよほど感動して、よかったと、わたしにはいえるかもしれない。死を前にした、限られた生という不安や恐れはよほどTVドラマの方がひしひしと感じられて、原作からはあまりつたわってこなかった。先にドラマを見たという逆転があるにせよ。

 トムとキャシーは知りたがり屋で、ルースは信じたがり屋だと原作ではいわれている。ドラマではトモ=希望や夢を象徴した存在であり、美和=ルースはいじわるで人の幸福を奪いとる悪魔のような女として描かれ、恭子=キャシーはネガティブながら、トモの希望に魅かれる存在として、造形されていたように思う。

 それは限られた短い生をどうやって希望や夢をもって価値ある人生を生きるかという問いに収斂したエピソードにつながっていったと思うのだが、原作ではなかなかそこまで読みこめなかった。

 わたしにとっては原作より、TVドラマの方がよほどよかったということになりそうだ。視聴率もよくなく、評価もあまり聞くこともなくなったが、これほど魂を揺さぶられたドラマは、おそらくこれ以前にない。





わたしを離さないで DVD-BOX
TCエンタテインメント (2016-08-26)
売り上げランキング: 87,607


TBS系 金曜ドラマ「わたしを離さないで」オリジナル・サウンドトラック
オリジナル・サウンドトラック
SMD itaku (music) (2016-03-02)
売り上げランキング: 29,935


わたしを離さないで (字幕版)
(2013-11-26)
売り上げランキング: 3,561


03 21
2016

TV評

『わたしを離さないで』はドラマ史上に残る一級の名作だ




 ドラマ『わたしは離さないで』は視聴率6%~7%台の低視聴率だったが、わたしはこれはこれまでのドラマ史上にない名作だと思っている。

 臓器提供や不気味な学園など重苦しくなる雰囲気に視聴者がついていけなかっただけで、よくもこんな重くも深いテーマのドラマをお茶の間に流したものだと思っている。視聴率が低いのは、とうぜんである。

 これは臓器提供やクローン人間のSF的な話として、わたしたちの身近な話でもなく、わたしたちと関わりのない悲劇な人たちの物語として突き放すことができれば、私たちに救いがあったかもしれない。

 しかし、これはまさにわたしたちがいつか死すべき存在、限られた生の時間を生きなければならないという、わたしたち自身の物語である。

 このドラマではグロテスクに臓器提供によって人生が奪われてしまう、だれかに命をはく奪されてしまうという運命のクローンを描いて、わたしたちとは違う存在の話だと思うかもしれないが、わたしたち自身もいずれ遠からず人生や命を奪われてしまうのだ。

 このドラマはわたしたちの有限な人生、限られた短さの人生を語ったものにほかならない。

 このドラマは「メメントモリ」、「死を思え」をメッセージにした深刻で重い物語なのである。視聴者が目を背けたがったのは故なきことでない。


限られた短い人生の生きてゆく価値

 このドラマは限られた短い人生で生きる価値、生きてゆく意味を問うた作品である。

 だれかに人生や命を奪われてしまうはかない短い生、だけどそのなかでどうやって人生の価値や意味を見つけるか、生きている希望や夢をもちつづけるかという話である。物語のすべてのパーツがそのテーマに向かって語られている。


人生を慰めるもの、性愛

 わたし的にはいちばん衝撃だった回は、第四話のコテージ編で、限られた人生を有意義にすごすのにはなにがあるかと問われた回である。人生のすぐ先が限られていたら、人は人生の時間をなにに費やそうとするだろうか。

 コテージの人たちは限られた人生を有意義にすごすために、「昼間からサカりのついたブタ」のようにとあからさまに非難されたように、性愛やセックスにふけっている。有限の人生を慰めるものは、「わたしとあなたしかこの世界からいなくなる」ようなセックス、性愛だけなのだろうか。

 さいしょ、綾瀬はるかが演じる恭子はそういったコテージの連中を軽蔑していた。しかし真美(まなみ・中井ノエミ)の運動に賭けている姿、好きなトモ(三浦春馬)を美和(水川あさみ)にとられた空虚さから、「ひとりでは嫌だ」といって、ほかの男に抱かれる。

 限られた短い人生にとって有意義で価値あるものは、セックスしかないのだろうか。恭子はそういった性衝動に支配された人生をその後送ることになるのである。「それしかない」といって。


芸術至上の学園の意味

 臓器提供者のたいていは、そういった性愛にふける日々を過ごす。ほかに慰めるものはないのだ。

 人生が限られたもの、いつか命を奪われるのであったら、人生をどうすれば価値ある生を生きられるだろうか。

 死を前にしたとき、人はなにに慰めと意味を見いだせるだろうか。

 ずっとシニカルであった真美は、ホワイトマンションで芸術や社会研究、権利獲得の運動に賭ける人たちを、恭子に紹介する。これはわれわれが人生を有意義に、価値ある生き方をしようという向き合い方と同じことである。

 しかし死が目の前につきつけられたとき、はたしてわれわれはどのような慰めや意味を見いだせるだろうか。

 恭子たちの育った陽光学苑は不気味で、芸術を至高なものとして教え、洗脳的な学園として描かれていた。しかし美和が最期の提供のとき、恭子は美和に偽善だと思われていた「わたしたちは天使である」という言葉を投げかけるのである。

 人生になんの慰めも救いを見いだせないとき、そういった偽善的で、洗脳的な言葉と思われるものであっても、わずかにすがれる藁になるのである。偽善とわかっていても、限られた人生の価値は、そういった言葉しかないというニヒルスティックな絶望が投げかけられる。

 魂を磨く芸術や、たとえ偽善的な言葉であっても、われわれの有限な人生にわずかな救い、光をさしのべるとこの物語ではいっているのではないだろうか。

 
大切なものを奪った美和の意味

 恭子の大切なもの、大好きだったトモを奪う美和との三角関係がこのドラマの主題であるかのように大きくあつかわれる。

 恭子の大切なものが奪われる悲しさ、愛する人を奪われる悲しさ、憎しみといったものは、そのまま愛する人の命を失ってしまう悲しみにも通じる。そういった意味で、美和は恭子の前に奪う存在の象徴として描かれたのだろうか。

 真美は、恭子に「このままいつまでも支配されたままなのか」と問いかける。真美は、支配されたもの、臓器提供という運命に縛りつける存在や社会と闘おうとした。それは恭子の美和に奪われた大切なものと、通じるものとして同時進行に描かれる。

 支配されたもの、臓器提供者の人生を奪うものの共通項として、美和は描かれるところがある。だけど、美和は支配する社会やシステムと同じような不気味で強権的な力だけなのだろうか。

 美和と恭子の邂逅のとき、美和は恭子が怒ったときに、わかりあえるほんとうの親友になれると思っていたといった。大切なもの奪うことによって、恭子の怒りにふれたとき、ほんとうの絆が築かれると美和はいうのである。

 だけど美和は女同士の比べる心、人と比較し合う心が象徴されているのではと思えた。美和は恭子に憧れる、勝ち負けを競う間柄である。恭子に負けたくない。そのために恭子の大切なものを手に入れることによって、憧れの恭子になりえると思った。

 女同士の張り合う心、競争し合う心といったものがじゃまをするために、われわれは短い人生をムダに費やしてしまうのではないかといったメッセージが、語られているように思えた。

 人はほとんどほかの人と変わりはしないものである。それでもほんのわずかの違いにうれしがったり、嫉妬したり、憎しみ合ったりして、人生の多くの時間を奪われてしまう。

 自分ではない他人になりたがったり、比較することで、人生をムダにすごすな、美和の行動はそういっているように思えた。


限られた短い人生の価値と夢

 このドラマは臓器提供によって人生を奪われる、命をとうとつに断たれてしまうというグロテスクなクローン人間を描くことによって、わたしたち自身もいずれ死すべき存在として、どんな価値ある人生や希望があるのかといった深いテーマを提起していた。

 恭子が好きだったトモはたえず希望や夢をあきらめない少年だった。トモは希望や夢を象徴した存在だったのである。

 恭子はそんな希望を美和に奪われ、すっかり心を閉ざし、夢や希望を失いかけていた。「心なんていらない」とまで追いつめられた。

 だけど、それでも人生になにか一筋の光を見出すしかない、といったものが人生ではないだろうか。このドラマではそういった「なにか」がいくつも提示されていた。

 友と愛し合う証拠を見せれば猶予を与えられるという救いも、じっさいにはなかった。だけど、友と恭子には愛し合うふたりがいっしょになるという希望、夢はとっくに叶っていたのである。


 このドラマでいくどもいわれるメイン・メッセージというのは、

 「生まれてきてよかったと思えるものを見つけて」

ということではないだろうか。

 
 これはドラマの臓器提供者だけにつきつけられた言葉ではない。短い、有限な人生を生きるわれわれ自身にも投げかけられ言葉なのである。

 あなたも、生まれてきてよかったと思えるものをなにか見つけてください。





 わたしを離さないでの動画を無料視聴+視聴率

わたしを離さないで DVD-BOX
TCエンタテインメント (2016-08-26)
売り上げランキング: 4,575


わたしを離さないで ハヤカワepi文庫
早川書房 (2012-08-01)
売り上げランキング: 205


12 13
2015

TV評

掟上今日子の記憶がないのは不幸なのか?

 掟上今日子の備忘録 DVD-BOX

一日で記憶をなくす探偵

 ドラマの『掟上今日子の備忘録』を見ていました。一日で記憶をなくしてしまう忘却探偵の軽いノリの推理探偵モノでした。

 この一日で記憶をなくしてしまうという設定は、「記憶はわたしなのか?」という問いもふくむ、意味深い哲学的問いを投げかけるテーマをあたえていたと思う。

 一日で記憶をなくしてしまえば、「わたしはだれなのか」という問いに毎日向かい合わなければならない。ニセの記憶を『トータル・リコール』のように植えこまれば、だれか違う他人を自分と思ってしまうことだって起こる。最終回で掟上今日子はニセの記憶を植え込まれて、男の妻として家庭に収まりそうになる。

 記憶は大事なもので、わたしとはだれなのかという継続をつなげる、人間にとってなくてはならないものである。『掟上今日子の備忘録』をそういうことを提示しようとしたドラマ・小説なのだと思うが、その深いテーマに気づかせてくれる展開にはなかなかつなげてくれなかったドラマにも思えたが。

 一日で記憶をなくしてしまう掟上今日子はいっぱんの人にとっては不幸な人間に思える。


記憶をなくすことは不幸だけなのか

 だけどきのうの記憶をもたないことは幸福なことでもある。不幸やつらい出来事、いやな思い出を一日でリセット、ないものにしてしまうことができるからだ。

 ドラマでは「今日という一日をたいせつにすること」がメッセージとして語られていた。

 仏教やニューエイジ系の知識では、そういった過去をつぎつぎと手放してゆくことを薦めている。デール・カーネギーの鬱からの解放を説いた『道は開ける』のような本だって、過去を鉄のシャッターで閉ざすことが、幸福の道だと説いている。

 過去の記憶がないことが幸福なことだって、ありうるのである。というか、過去は不幸のかたまりと継続につなげてしまうことが多いのではないか。

 物語の展開のピエロであったような隠館厄介という男は、過去の不運に見舞われたという「記憶」をもちつづけることによって、不幸を背負いつづける存在である。掟上のようにきのうの記憶を一日でなくしておれば、かれは不運や厄運ばかりにおそわれつづける「不幸な存在」だっただろうか。


過去は「どこ」にあるのか?

 記憶の問題が問いかけるのはそれだけではない。じつはもっと大きな意味が隠されている。

 わたしたちは記憶はあたかも「実在」のもののように、目の前に存在する「実体」のものにあつかっている。

 過去にひどいことをされれば、絶対になにか報復や復讐をしてやらなければならないと思っているし、過去のつらい出来事や不幸なことは、いま、ずっと思い出して悶絶して、涙を流し、ずっと悲しい気持ちになったりする。過去の記憶は、わたしたちに不幸のどん底につき落とし、人生を災厄のかたまりにする力ももっている。

 過去はあたかも「実在」のように、「目の前」に存在するかのように、わたしたちは反応し、苦悶や苦痛にのたうちまわる。

 しかし、過去はほんとうに目の前に「ある」のだろうか。目の前に過去をとり出すことなんてできるだろうか。

 過去は「いま」、どこにあるのだろう? いま目の前に「かたち」あるものとして、とりだすことができるだろうか。

 もう、この世界のどこにも存在しない、「頭」の中だけにある「心象」や「イメージ」にしかすぎないのではないだろうか。

 過去は永久に終わってしまい、永久にくり返されることはない、完璧に地上から消え去った「実在しないもの」ではないだろうか。

 では、わたしたちはなぜ過去をあたかも実在するかのように、目の前に存在するかのように苦悶し、絶望するのか。


「実在」しない認識

 それはわたしたちの認識自体がそういう性質のものであるからである。つまり頭のなかの「実在しない」心象や記憶を、あたかも「実在する」かのように、「目の前に」存在するかのように反応するのが、わたしたちの「認識のあり方」だからである。

 この勘違いのありかたを解こうとしてきたのが、仏教の教えである。つまり認識のあやまちを説いてきたのが仏教である。あなたがたが認識する物事は、「虚構」であり、「絵空事」なのですと。

 わたしたちの認識は、映画やドラマの「絵空事」に泣いたり、笑ったりすることと同じである。そんなものは現実にも、この世界のどこにも存在しない「絵空事」である。それなのに、わたしたちは泣いたり、笑ったりすることができる。

 現実の認識のあり方もこういう性質なのである。「存在しない」、「実在しない」記憶や心象に、泣いたり、笑ったりしているだけである。

 そして過去のつらい、不幸な出来事をあたかも現実に、目の前にありつづけると信じて、不幸や悲しみに暮れるのが、わたしたちの日常のあり方である。


過去を手放すむづかしさ

 だから、私たちは過去や認識を手放せばいいのである。そうすれば、不幸やつらい出来事も泡のように消滅してしまう。

 だけど、それはそうかんたんではない。

 わたしたちは認識をあたかも「実在」のように信じ込む世界の中で長年生きてきたし、それが長年の習慣でクセのようになっているし、記憶やそれを反芻する思考は、わたしたちの意思と関係なく、勝手に頭のなかから湧き出してくるのである。

 記憶や思考にとりこまれると、たちまち幻想である出来事も「実在」のようにあつかう習慣にのみこまれる。

 だから、禅や仏教ではひたすら頭を空っぽにすること、思考を流す訓練がおこなわれる。「実在」の波にのみこまれないためである。

 記憶や思考という「実在しないもの」にのみこまれなくなったときにはじめて、わたしたちは実在の不幸や闇から解放されるのである。


至福の瞬間

 むろんドラマの『掟上今日子の備忘録』はそういうメッセージを語っていたのではない。

 一日で記憶をなくす存在を出すことによって、一日で不幸や苦悩をシャットダウンできる至福に近い存在をあらわしていただけである。

 記憶をなくすことはほんとうに不幸なのかと、仏教系の教えと至福からは、考えられるわけである。

 記憶がないことはわたしのアイデンティティや幸福な思い出をうしなうことでもある。同時に不幸やつらい過去も手放す至福のあり方でもある。

 過去に殺されている、過去の呪いに囚われている方には、記憶が一日でリセットされてしまうというあり方をめざせばいいのではないかということができる。

 過去や記憶から解放されるとき、わたしたちは幼子のようにはじめて出会う世界に毎瞬、新鮮な驚きをあじわうことになるだろう。それこそが仏教やニューエイジでいう至福の瞬間ではないだろうか。


人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)わたしは「いま、この瞬間」を大切に生きます時は流れず「時間」を哲学する (講談社現代新書)自我の終焉―絶対自由への道

12 28
2014

TV評

You Tubeで見れるおすすめドラマ名作10選

 お正月のまとまったお時間がある方は、ドラマの一気見とかしてみますか。

 わたしのおすすめできる名作・感動作だけをあつめてみました(当社比)。モニターの前から離れられないかも。

 いまYouTubeでは過去のドラマがたくさん見れる状況になっています。だけど残念なことに肝心の主題歌を消音されていることが多いです。このドラマが見れるのは削除や制限の加えられるまでの限定期間のものかもしれません。

 はじめて見る方、なつかしくてもう一度見たかった方、楽しんでみてはいかがですか。視聴はYouTubeサイトでお願いします。つづきが連続して見られるはずです。




『イグアナの娘』(1996年) 菅野美穂主演
母から娘がイグアナに見えてしまい、すっかり劣等感のかたまりになった主人公。その女性が自尊心をとり戻してゆく様が感動。名作まちがいなし。




『僕と彼女と彼女の生きる道』(2004年) 草彅剛主演
仕事だけに生き、家庭を顧みなかった銀行マンが妻に逃げられ、残された娘と心を通わせてゆく物語。全編、感動作。




『プロポーズ大作戦』(2007年) 山下智久 長澤まさみ主演
幼なじみに告白できなかったばかりにほかの男にとられてしまう主人公。結婚式場でなんども過去にタイムスリップすることによって幼なじみの愛をとり戻そうとします。青春グラフィティー。


八日目の蝉』 つづきは「八日目の蝉 ドラマ動画Youtubeまとめ」から。

『八日目の蝉』(2010年) 檀れい主演
画質悪いです。映画のほうが有名ですが、テレビドラマでは娘ではなく母の視点から物語が進行します。こちらのほうがよほど情感が伝わってきて、泣けます。ドラマでこれほど泣ける名作はないと。


Age35, 恋しくて

『Age35, 恋しくて』(1996年) 中井貴一 田中美佐子主演
アンドレ・ギャニオンの切ない挿入曲が忘れられないドラマでした。夫の不倫、妻の不倫とつづき、家庭を守るか、愛する気持ちをとるかでゆれ動く夫婦が描かれます。切なさ満点のドラマ。PANDORATVはPOPがウザイです。




『やまとなでしこ』(2000年) 松嶋菜々子主演
金持ちと結婚するためなら手段を選ばないスチュワーデスが主人公。金か愛かを問うた軽薄ながら名作だったかもしれません。お金や有用さで満たすことのできない価値というものを人はずっと失ってきたのかもしれません。




『眠れる森』(1998年) 中山美穂、木村拓哉主演
結婚をひかえた女性が過去の謎に巻き込まれてゆくサスペンス。しっとりとした中山美穂がとても美しかったですが、精神分析的にも含蓄ある内容をふくんでいたと思います。おとぎ話の親殺しと同じ自立にいたる奥深いテーマです。




『女王の教室』(2005年) 天海祐希 志田未来 主演
教室の中で格差社会や社会の不条理を教えようとしたすさまじいドラマだと思っています。この鬼教師は、社会の現実の厳しさを身をもってあらわしたのだと思います。




『カバチタレ!』(2001年) 常盤貴子 深津絵里主演
アコギな世の中になってゆく中で、行政書士の力をタテに悪とたたかう女性と世間にだまされる無知な女性が格闘するドラマ。女性をおもな視聴者にすえた構成が特徴。主題歌がなつかしくてね。




『あすなろ白書』(1993年) 石田ひかり主演
SENSの挿入曲が切なさを引き出していたなつかしいドラマ。恋愛が主題で、バブルの風潮がまだあった時代を忍ばせます。恋愛だけでアタマがいっぱいな軽い時代があったんです。


 YouTubeではほかにも見たいドラマとか、見直したいドラマとかたくさん見つかるかもしれません。探してみてはいかがでしょうか。



イグアナの娘 The Daugther of IGUANA DVD-BOX僕と彼女と彼女の生きる道 [DVD]プロポーズ大作戦 DVD-BOX八日目の蝉 DVD-BOXやまとなでしこ DVD-BOX眠れる森 DVD-BOX女王の教室 DVD-BOXカバチタレ! <完全版> DVD-BOXあすなろ白書 DVD-BOX


12 23
2014

TV評

もし人生をやり直せたら。――『君といた未来のために』を題材に

 もし人生をやり直せたら、どのように生きるだろうか。

 年をとって引き返せない時間が積み重なって、選択の後悔がふえるにしたがって、そういった憂慮に心を動かされる振幅の幅も増してくるのではないだろうか。

 人生はやり直せないのはわかっているから、この人生を生きるしかないというのは自明なのだが、時にはこういった思考のお遊びに身をゆだねたくなるときもある。

 またこの社会は「自分ではないだれかほかの人」に憧れて、その人になりたいと思う社会である。またはそのように焚きつけられる社会である。たえず「あの人がうらやましい、あの人のようになれば人生はハッピーだ」と煽られる社会でもある。「自分以外のだれか」になることが幸せだと洗脳される社会である。「自分であることが許せない」と始終、思っているのがわれわれの社会ではないだろうか。

 そういった「もし人生をやり直すことができたら」という願いを物語化した作品はないかと思い返したら、99年に堂本剛、遠藤久美子主演で『君といた未来のために』というドラマがつくられていた。ひじょうに印象に残っているケン・グリムウッドの『リプレイ』が原案である。人生をなんどもタイムスリップして、リフレインする人生の物語である。

 平均視聴率14.4%で、もうほとんどの人には忘れられた、知られていない作品ではないのか。わたしも見ていなかったし、当時どうこのドラマをうけとったのかも記憶にない。YouTubeで全編見ることができるので、はじめて見てみた。


 
 ▲正月にでもまとめて見てみますか。10話目は終りが頭になっていますから途中から再生を。


 まあなかなか感動できる、深く考えされる物語ではなかったのかと思えた。いくつもの人生を生きるうちに人生にとってたいせつなものをつかんでゆくという物語である。アラはいくらかあげることもできると思うが、「もし人生をやり直せたら、どう生きるか」という問いにはしっかり答えているでのはないだろうか。

 主人公の篤志(あつし・堂本剛)はフリーターのふらふらした生き方を父に叱責される日々をおくっている。1999年の年末に死んで、1995年の12月に生き返るという人生をなんどかリフレインする。

 二度目の人生は過去(未来)の記憶を生かして成功と名誉の人生をおくる。だけど最期にはなにもかも失う。三度目の人生はその反省から、幼なじみの由佳(遠藤久美子)とともに生き、父との和解を手に入れる人生をおくる。

 ひとつの人生が終わったあとの再会は、うれしさがよく伝わってくる。とくに幼なじみの由佳とともに生きることは、幼少期からこれまで生きてきた人生の肯定も意味しており、それゆえにいまある人生に対する肯定の意味をよく伝えていると思う。幼なじみとはこれまで生きてきた人生に対する肯定と受容を象徴するのである。

 このドラマの肝は、失って二度ととり戻せないと思っていたものを、もう一度とり戻す喜びを味わえることである。失ってはじめて、そのよさに人は後から気づくものである。だから失いたくないと思うものは、先につかんでおかなければならない。人生は、このドラマのように二度とくりかえすことができないのだから。

 四度目の人生にリフレインしたときに人生の徒労を感じて、同じリフレインを生きる蒔(まき・仲間由紀恵)とともにこれまでの人生のかかわりを断って農業の人生にひっこむことになる。つぎの人生からはこのリフレインをゲームとして遊ぼうとする黛(佐野史郎)に人生を翻弄されることになる。

 だいたいこの四度目の人生までに人が生きる道のいくつかの選択肢をおおかたは示したのではないだろうか。一度めはフリーターのダメダメ人生、二度目は栄光と名誉の人生、三度目はさいしょの人生を肯定してより豊かになる生き方を模索する。タイムスリップもの、リフレインもののメッセージというのは、だいたいこのテーマで収まるのではないか。いま、ある人生を肯定する、豊かに生きる。

 それしか方法はないのである。そしてわたしたちの心、思考はそうでないこと、そうでありえないことを想像できる。この機能ゆえに「もしかして」、「もし」、「こうなれば」、「こうあれば」とありえないものを想像して、みずからを苦しめる。ありもしないものを思い描いて、みずから苦しめるのである。わたしたちはこの「憑き物」を落としたときに、みずから充足できるのではないだろうか。

 「青い鳥」は外に探しにいくのではなくて、みずからの内にあったという結末に落ちつくのだが、それでも人は外に「青い鳥」を求めてしまうものである。自らのあり方に充足できず、肯定できない。それゆえに不幸で不満な結果がふりつもる。

 肯定や受容はみずから見つけてゆく、つくってゆくという方向でないと、ありえたかもしれない人生、憧れる人生にたいする不満や欠損の意識を埋めることはできないのかもしれない。「見つけてゆく」といったほうが近いかもしれない。そこまでわれわれの人生は、欠損や不備を発見・創造してゆく心に蝕まれているのだろう。


 この人生のタイムスリップの原因は、銀行マンの父にさみしさを感じ、自殺をこころみた母によってひきおこされたものだったという謎解きの結末は、仕事中心の生き方しかできなかった戦後と昭和の男に生き方にたいする批判になっている。

 この物語は父と母に承認されることが大きなテーマになっているともいえる。フリーターに生きる篤志は父から生き方を承認されない。母は承認を与える前からすでに死んでいる、と思われている。戦後の経済が破綻して右肩下がりの時代に、旧来の承認をあたえられる人生を若者がおくれなくなっている。そういう時代に承認のあり方を問うたのである。父と母に承認されて、あるいは母が失われた父からの承認を得ることによってタイムスリップが終わる物語になっている。

 ドラマがつくられた99年は大型倒産などがめだった戦後の経済体制が音を立てて崩れた時期である。仕事中心の、それしかない男の人生の反省が求められた時代である。こういった批判と反省がうながされる時代であった。

 けれどあれから15年たったいまでも仕事中心にものを考えるシステム、価値観が転倒したようには思われない社会のままである。仕事や業績だけが人生の価値、人の生きる価値だという価値観はこの社会を覆っている。どのようにすれば、人生の肯定、生きているだけの肯定と受容といった生き方をできるのだろうか。人生に欠損と不足ばかり見いだす人生からわれわれは抜け出すことはできないのだろうか。


▼豊川悦司の『危険な関係』も人生をすりかえる話である。見てみたい。VHSだけです。
危険な関係 完全版(5) [VHS]
フジテレビジョン (2000-05-17)
売り上げランキング: 2,252


4102325018リプレイ (新潮文庫)
杉山 高之 ケン・グリムウッド
新潮社 1990-07-27

by G-Tools


新しい「幸福」への12章―経済と人生哲学の接点から
日下 公人
PHPパブリッシング
売り上げランキング: 150,505


12 20
2014

TV評

『Nのために』がサクセス野望物語でなかったわけ

 湊かなえ原作のドラマ『Nのために』は一話目の衝撃度がとても強かったのだが、瀬戸内海の小島から東京に出てきたあたりから減速して、つまらないものになったように思えた。湊かなえは『夜行観覧車』でも設定の巧みさを発揮するのだが、サスペンスでひき伸ばすつまらなさがあると思っていた。だけど、この作品はそれこそがメッセージの核に思えた。


 


 この作品の衝撃は、父から母子たちの家族の扶養義務を捨てられ、自分たちで生きてゆけとつき離される家庭境遇にあった。捨てられた母は父から捨てられた現実を受け入れられず、醜悪なさまを娘たちにさらす。娘の杉下希美(のぞみ・榮倉奈々)は島から出ること、高いところに昇ることの野望を誓う。

 この設定ではハングリー精神に満ちたサクセス物語を期待するものである。しかしこの物語はそのような逆恨み的な野望を果たす物語ではなかった。そこにがっくりときたのだが、どうもそれが原作者の意図であるようだ。

 父から捨てられる母子という設定は、福祉政策を削除され自助努力で生きてゆく新自由主義を思わせるものである。それに対する福祉が充実した国や金持ちの福祉に期待するリベラル・福祉国家主義の対比がこの作品に描かれていると思われる。

 自分たちの稼ぎで生きてゆける父と愛人は新自由主義の勝者である。父から捨てられて愛人の情けにすがる母子は福祉政策にすがる新自由主義での負け犬で、福祉国家のお情けに頼る存在である。

 杉下希美は父=新自由主義から捨てられた怨念をたぎらせて、非情なサクセスの階段を上ろうとするのではないかと視聴者は期待するのものである。

 しかし物語は希美がそのようなサクセスを追いかける物語に移行しない。ぼろアパートの管理人を協同で助けることをおこなったり、愛する者の罪をかばったりする行為が話の中心になってゆく。

 新自由主義の炎をたぎらせる意図は毛頭ない物語なのである。人々がたがいを思いやり、かばい合い、助け合う関係を犯罪サスペンスというかたちで読み解いてゆく物語なのである。つまりはリベラル・福祉国家の称揚を説いた物語なのである。

 逆恨み的サクセス物語を期待した視聴者は裏切られるのである。怨みを原動力としたサクセス物語はここでは発動されないのである。そこに幻滅との裏腹な作者の意図がこめられている。

 違和感のある希美の余命宣告をうけたガンは、死の恐れや孤独を新自由主義や金は救いうるかというメッセージではなかったのか。


 貧困につき落とされた者が怨みやハングリー精神をたぎらせて非情なサクセスを達成してゆく物語というのは、現代にひじょうに期待される物語になっているのではないのか。低成長、非正規、貧困、格差の固定化といった経済情勢はそういった怨念と上昇欲をたぎらせるにはじゅうぶんなお膳立てになっている。

 70年代の梶原一騎的なハングリー精神が充満してもよい時代になっているのである。『巨人の星』や『タイガーマスク』、『あしたのジョー』といった貧困ゆえのハングリー精神に煮えくり返ったサクセス物語が期待される70年代的状況とひじょうに似ている。

 『ハゲタカ』という2007年の高評価なドラマは経済的に捨てられてゆく日本を安く買い叩くことによって日本の復活を信じる非情な男が描かれた。2009年には『銭ゲバ』という貧困からのし上がる男の破滅が描かれた70年のマンガがテレビドラマ化されている。『カイジ』という貧困底辺層に落ちた男の復活劇ゲームは2009年に映画化されている。2004年には成功の頂点から過去の隠蔽したい事柄によって破滅してゆく『砂の器』もテレビドラマ化されている。

 貧困や底辺に落ちた者が上昇・サクセスしてゆく物語というのは、現代にひじょうに希求されており、そのような怨念が過去の似ている物語を復活させるのである。

 しかし過去に描かれたハングリーサクセス物語の多くは破滅したり、破綻している結末が多い。成功・上昇物語がいさめられる、あやまちを指摘している物語が多いのも特徴である。成功物語に人々がエネルギーを鼓舞されることも多いのだが、じつのところ作者の意図はその破滅や否定をふくんでいるばあいが多々あるのである。

 たいせつなもの、捨ててはならないものをかれらは失ってゆくのだといったメッセージがふくまれ、サクセス物語はじつはアンチ・サクセス物語なのであるといったからくりである。

 こういった系譜の中に『Nのために』も位置すると期待したのだが、話の筋がぜんぜんサクセス野望物語ではないのでがっくりときた。けれども、これまでのサクセス野望物語もサクセス段階を視聴者には提供するのだが、メッセージは同じものであったのである。サクセスの段階で失ったもの、切り捨てたもの、見失ったものへの批判や否定がふくまれていたのである。

 これまでのサクセス物語が成功の陰に隠れた捨ててはならないものを陰画的にあらわしたとするのなら、『Nのために』はその捨ててはならないものを表面にあらわしたのである。怨恨や復讐の達成としてのサクセスではなくて、人々が助け合うという真のメッセージを表に堂々とあらわしたのである。

 サクセス物語に否定がふくまれていたのだが、むかしの人はそのサクセスの過程や頂点までの物語を歓迎した。批判の物語を奨励の物語として応援してきたのではないのか。陰画的なサクセス物語は批判より、応援の物語として機能してきたのではないのか。

 『Nのために』はそういった弊害をくみとって、野望サクセスを表面におかないで、作者がのぞむ真のサクセスを目に見えるものとして表面にもってきたのではないか。そしてそれはつまらないものであったのである。


ハゲタカ DVD-BOX銭ゲバDVD-BOXカイジ 人生逆転ゲーム 通常版 [DVD]砂の器 DVD-BOX


06 26
2014

TV評

『眠れる森』の家族殺害の心理的解釈

 You Tubeで中山美穂主演の『眠れる森』が見れるようになっていたので、98年から十数年ぶりに通して見た。記憶をなくした女性が結婚を前に過去の記憶や家族の殺人を思い出し、向き合ってゆくドラマである。


 


 中山美穂がしっとりとした大人になっていてうつくしいw 98年ころに流行ったトラウマや心理的な題材をテーマにとったドラマである。記憶がフラッシュバックしてゆき、家族を殺した真犯人はだれだったのかというサスペンス調で展開してゆく。

 ネタバレ全開でいきますので、すでに結末を知っている方のみお読みください。

                 *

 これは直季(キムタク)、由理(本上まなみ)、敬太(ユースケ・サンタマリア)が家族を惨殺した三角関係をげんざいになぞっており、ふたりを羨んだ敬太が、家族を嫉妬で殺した輝一郎(仲村トオル)に対応しているというわけである。

 美那子(中山美穂)が家族を惨殺した殺人犯と婚約をしていたという事実はじつにショッキングである。それを知ったときに自分を赦せるだろうか。結末を知った上で、さいしょから見なおすとじつに美那子が痛々しい。

 このドラマの解釈はどうなるのだろうと思っていたが、トラウマなどの心理的な題材、ペロー童話、グリム童話の『眠れる森の美女』をベースにしているなら、とうぜん心理学的な解釈もできるはずである。

 『眠れる森の美女』の解釈を、ブルーノ・ベッテルハイムは荒々しい思春期に向かう前の停滞やひきこもりのような時期も必要だといった物語に解釈している。少女から大人の女性へと成長する段階の話なのである。

 美那子は家族の惨殺というショッキングな事件のために催眠療法でその記憶が封印され、べつの記憶、直季の少年期の記憶が植え込まれたことになっている。これは男性的な原理で思春期に立ち向かうといったことが語られているのだろうか。

                   *

 美那子は家族を殺した殺人犯と婚約するショッキングな道すじをたどっているのだが、しょうしょうつっこんだ解釈をしてしまうと家族殺しというのは少女が大人の女性に自立する前に必要な心理的な象徴だともいえるのではないか。父や母の保護や依存をたちきって、少女は大人になってゆく。

 もちろんこのドラマではじっさいの殺人事件なのだが、おとぎ話や寓話と見なすのなら、そういった心理的解釈の次元も可能だろう。おとぎ話の次元では物語の登場人物がすべて主人公の心の中のできごと、自我を象徴するなにかだということもできる。他者も自己の内部のなにかなのである。

 そうすると嫉妬で家族を惨殺してしまった輝一郎というのは、家族を羨んだり、嫉妬した美那子「自身」の象徴的な抹殺であり、子どもが大人へと成長する前に断ち切らなければならない家族の保護や依存のことだということができると思う。

 つまり真犯人は美那子自身なのである。そしてそれは子供が大人へと成長する前に必要な親への依存、保護から脱出するために通過儀礼――心理的な象徴を担っているのではないか。

 少女が家族に嫉妬したり、羨んだりして家族を憎んで抹殺したいと思ったとすると、そのはげしい感情は幼い少女にはまだ受け止めることができない。それゆえにその感情、記憶は封印され、忘れ去れる。それがこの「眠れる森」のことであり、このドラマでは心理療法で記憶を消され、おきかえられたことになっている。

 つまり子どもは大人へと成長するさいに心理的な「親殺し」をおこなって自立してゆかなければならない。親殺しをソフトにいえば、親への依存や被保護の気持ちを減らしてゆくことである。このドラマでは早すぎた親殺しがショッキングすぎたために記憶の抑圧、退行が必要だったということになる。

 物語は輝一郎という真犯人のおきかえをすることによって、視聴者はオブラートにくるまれた親殺しの代償を心理的に学ぶ、過程を経験するといった体験をうけとる。つまり親殺しを想像上で代替してもらい、準備するのである。

                   *

 このドラマで輝一郎も敬太も殺人を犯す動機が嫉妬である。愛し合ったふたりを羨んで、かげがえのない女性を無きものにして自分のものにしてしまおうとする。これを美那子自身の嫉妬と見なすのなら、姉への嫉妬が抑圧されていたということになるだろう。

 嫉妬心と向き合って、自分のものとして、のりこえてゆくこと。この物語の主要な核はそれがテーマだったのではないか。

 輝一郎は母の幻影にまだ囚われ、母の独占欲からのがれられない青年になっている。つまり母殺し、母からの自立をなせずにとどまっている青年である。

 直季もラストで腹を押さえ、死んだかのような結末をむかえる。これは直季自身も親殺し、親からの自立になんらかのかたちで失敗したと読めるだろうか。

 あるいはこのふたりの男性すらも美那子の心の中の男性原理の象徴であって、見守り、助ける役割の男性原理がその役目を終えて自我の中から必要とされなくなったとも解釈できるだろうか。

                    *

 現実では親や家族を殺すことは凶悪な犯してはならない重大事件である。しかしこれは物語であり、なんらかの象徴や寓話が語られているのである。

 美那子は自分の家族を殺した真犯人と婚約し、結婚しようとしていた。リアルではそんな自分を知ってしまえば、汚い、赦しがたいことに思えるはずである。だけど心理的には少女が大人へと成長するまでに超えなければならない心理的な紐帯を断ち切る象徴のことである。子どもはだれだっていつか親を殺さなければならないのである。心理的な意味で。

 この物語は現実の殺人犯を追うというサスペンスのかたちをとりながら、心の中での象徴的な親殺しをおこない、成長してゆくプロセスを無意識に与える物語になっているのではないだろうか。わたしたちは無意識下でそういった解釈をうけとるのである。


眠れる森 DVD-BOX
ポニーキャニオン (2005-03-16)



昔話の魔力
ブルーノ・ベッテルハイム
評論社






02 05
2014

TV評

自分の価値を認められないから、他人の承認や愛を過剰に求めてしまう ~ドラマ『紙の月』でいっていたこと

 NHKドラマ『紙の月』(角田光代原作)についてのツイートがしょうしょう好評だったようなので、ブログのほうに再録しておきます。

 このドラマは女性の承認と価値についての空しさがテーマであったと思う。他者からの承認を夫からは得られず、年下の恋人にもとめ、銀行のお金を詐欺横領してしまう。その果てに彼女は気づく。

 承認や価値は人から与えられるものではなくて、自分自身で与えるものだと。そのメッセージがこのドラマでいいたかったことではないかとわたしには思えた。

 他者からの承認や必要とされないと、自分の価値はなにもないと考える人は多くいるようである。そのような自分の価値のなさ、消沈に悩む人に角田光代は自分の価値は自分自身で与えるものとメッセージしたのだと思う。


kamituki1.jpg


kamituki2.jpg


kamituki3.jpg


kamituki4.jpg


kamituki5.jpg


kamituki6.jpg


 人から必要とされないと、人から愛されないと自分には価値がないと人は思い込むのだが、ほんとうはその前にまず自分を認めること、肯定することが必要なのではないか。自分の価値を他者の承認でしか得られないと思っている者は、承認を他人にもとめつづけるばかりで、いつまでも得ることはできない。

 なぜならいちばんの身近な人間である自分が認め、肯定もしないで、自分を嫌い、けなしているような人が他者の承認だけを得られるだろうか。自分自身こそがさいしょの他人であり、味方や応援者にならなければ、だれが肯定してくれるというのだろう。いちばん身近な他人に裏切られているばかりの人に承認や価値は得られるだろうか。


▼参考になる本
B000JB4Q6E人間における自由 (1955年) (現代社会科学叢書)
E.フロム
東京創元社 1955

by G-Tools


4087734404もうひとつの愛を哲学する ―ステイタスの不安―
アラン・ド・ボトン
集英社 2005-11-04

by G-Tools


4393316029未来の生
ジッドゥ クリシュナムルティ
春秋社 1989-11

by G-Tools



06 24
2013

TV評

『雲の階段』と「ニセモノの人生」の悲劇

B00DGM4JVK雲の階段 DVD-BOX
バップ 2013-10-23

by G-Tools



 『雲の階段』は名作であったと思う。

 「無資格医」がバレないでいつまで医者をつづけられるかという緊迫感で見せるドラマであったが、テーマは医者のニセモノだけではなく、人間の普遍的な生き方まで到達していたと思う。

 このドラマはニセモノの医者だけの話ではなくて、「ニセモノの人生を生きる」ということの意味を問いかけたドラマだったと思う。

 ニセモノの人生って自分には関係ないと思うかもしれないが、人が承認や世間からの評価をのぞんでしまうとニセモノの人生に落ちるかもしれないという危険とたえず隣り合わせになる。人から求められる人間になるとたえず自分の好きなこと、したかったことと葛藤、対立することになる。

 『雲の階段』の三郎は人から求められる医療という行為のなかに自分の情熱を傾けられることを見つけたのだが、それには資格がないというニセモノから逃れられなかった。

 その先には権力や地位という評価の高いものの「雲の階段」があるわけだが、三郎は無資格医がいつバレてもおかしくないという境遇のためにその志向をもつことがなかった。それゆえに権力志向との対立をうきぼりにする構造があった。

 三郎は美琴島で医療を教えられるまでたえず、「自分には価値がない、何者かわからない」といった意味の感じられない人生を生きていた。人から求められるままニセ医者をつづけるうちに、自分にいちばんいらないものは「意志」だと思うようになる。自分の価値や人から求められることを感じるには、自己の放棄――自分以外の何者か――ニセモノになることを選んだのである。

 医療を教えられることによって、自分の価値や存在する意味をあたえられることになって権力の階段も手に入れることになるのだが、それはニセ医者というニセモノの上でしかなかった。

 原作者の渡辺淳一は承認欲や認知欲のすべてをニセモノ、ほんとうの自分ではないといいたかったのかわからない。三郎はそこに自分の生きている価値、情熱の傾ける先を見つけ出しているからだ。しかしそれは「ニセモノ」だった。

 人に認められて価値あることをめざそうとすれば人はニセモノの人生を生きざるをえないのか、それともニセモノのなかにしか情熱を傾けることを見出せなかったと三郎の悲劇を見せたかったのか。あるいは権力の階梯をのぼるということの批判をこめているのか。

 この作品は院長に象徴される権力への志向がニセモノであったり、批判されるものとしてあげられるのだろう。ニセモノがあしたバレてしまうかかもしれない三郎には未来の不安や未来の保証を守る必要がない。それゆえに権威や学閥といった守るものにこだわる必要がない。患者の命を守るより、たいせつなものをもってしまう医者への批判がこめられていた。「雲の階段」という危うい幻はその階梯のことをいっているのだろう。

 三郎をとりまくふたりの女性の名が「アキコ」という同じ名前だが、このふたりはなにをあらわしているのかいまいちわたしにはわからなかった。看護士の明子は医者に情熱を傾ける三郎に魅力を感じ、かれを守り、かれを「待つ存在」である。院長の娘の亜希子は愛にすがる女、三郎がいないと生きていけないという「依存する女」である。渡辺淳一流のふたつの女性タイプの品評会なのだろうか、待つ女がイイというw

 ある意味、世間から期待されるニセモノの人生を生きてしまう者は母親の期待から逃れられない、反抗期をもたない男だともいえる。親や世間からの期待に翻ったことがない。他人より自分をたいせつにしたことがない。他人より自分の意志を選択したときに人はニセモノの人生から離れられるのかもしれない。

 渡辺淳一の原作はいがいに古く82年の出版である。三十年も前の作品である。2006年に韓国でもテレビドラマ化されたということだが。出版当時はどう評価されて、いまどうしてこの作品がドラマ化されたのだろう。名作はうもれていた。

 このドラマはニセ医者という設定を用いながら、承認と自由が対立し、承認のためにほんとうの自分を見失ってニセモノを生きてしまう人生を揶揄した深い内容になっていると思う。あるいは権力志向の部分だけ批判されたものかしれないが。

 またはニセモノのなかにしか自分の価値あるもの、認められるものを見出せなかった男の悲劇を描いたのかもしれない。わたしは承認や価値あるものといった人がめざしてしまうものはすべてニセモノ・マガイモノといったテーマを感じとってしまったのが、世間の価値や承認をすべて否定するまで厭世的になるべきなのだろうか。

 ラストシーンで三郎は病院をうしなってしまう院長に「おまえはおれだ、おれはおまえだ」といわれ、刺されてしまう。これは承認を求め、価値ある人間になろうとして、権力の階梯を志向してしまう人間のサガのことをいったのだと思う。

 さいご三郎は南の島で医者をつづけるシーンが描かれていたのだが、三郎が死の間際に見た夢だったのかしれないね。むかし『人間の証明』とか『砂の器』といった映画に成功の頂点にのぼりつめた男が転落する悲劇が描かれていて、そういう系列の物語を思いだしたね。

 ニセモノの人生を送らないためには、人気や評価といった世間的価値と、自分の好きなもの、価値あるものは違うというしっかりとした自分の嗜好を知っておかなければならないのだろうね。自分を知らない人間は、ニセモノの人生を送ってしまうのである。



雲の階段(長谷川博己)感想とドラマレビュー - ちゃんねるレビュー


4062772078新装版 雲の階段(上) (講談社文庫)
渡辺 淳一
講談社 2013-03-15

by G-Tools


▼映画のなかに「ニセモノの自己」=「いつわりの仮面」を見出す章がある。
4062563096「本当の自分」をどうみつけるか―映画でみる精神分析 (講談社プラスアルファ文庫)
小此木 啓吾
講談社 1998-12

by G-Tools


▼承認欲求と自分らしさは対立するもの。
4062880946「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)
山竹 伸二
講談社 2011-03-18

by G-Tools


▼名誉欲によるニセモノ批判といえばショーペンハウアー。孤独のなかの自由。
4102033017幸福について―人生論 (新潮文庫)
ショーペンハウアー
新潮社 1958-03-12

by G-Tools

google adsense
全ての記事を表示する
ブックガイド特集
月別アーカイヴ
プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

FC2カウンター

Page Top