地方が舞台のドラマはなぜ増えたのか
田舎においてきた恋と夢と情熱。最終回に石原さとみが駅にとり残される。(『ウォーターボーイズ2』
2004年にドラマで『世界の中心で、愛をさけぶ』をみて、田舎の港町が舞台になっていたのは少々驚きであった。ロケ地は静岡県加茂郡松崎町である(ウィキペディア)。再放送でやっていた2004年の『WATER BOYS2』を見ているとこれも田舎の町が舞台である。静岡県磐田市あたりがロケ地(ウィキペディア)。医療崩壊をあつかった『Tomorrow〜陽はまたのぼる』も地方が舞台である。『歌姫』というドラマは高知の片田舎が舞台だった。
私が見た記憶のあるドラマしかあげられないが、田舎や地方が舞台のドラマはほかにもっとあるだろうし、増えているのだと思う。映画でも『UDON』は四国の香川が舞台だったし、『天然コケッコー!』という映画は島根県である。地方が舞台の映画はもっとあるだろうし、マンガやゲームについても地方が増えているそうだ。
なぜフィクションの舞台は地方に移ったか(〜田舎の伝承〜) PSB1981の日記
なぜこうも地方のフィクションが増えたのかと考察したいのだが、多くのドラマや映画をそのようなテーマでもういちど見直したわけではないし、肝心の創作者側の意図をインタビューなりで読んだわけではないので、考察は時期尚早である。が、かんたんな考察を投げ出してみよう。
いちばん思いつきやすいのは、原作者がその地方の出身者であるということである。『世界の中心で、愛をさけぶ』は原作者の出身地が四国の愛媛であり、映画は香川でおもに撮影され、TVドラマは静岡県等で撮られた。『天然コケッコー!』という映画の原作者の出身地は島根県であり、そこが舞台になった。地方出身者の故郷への郷愁、もしくは実体験を描きやすいということで舞台が地方になるのだろうが、かつては主要なメディアに田舎で舞台の物語は受容されただろうか。
東京が舞台になるようなドラマは、全国が「東京化」してしまった今日、あまりおもしろみや新鮮味のあるものではなくなってきたのだろう。地方であろうと東京のようなショッピングモールやロードサイドショップはたくさん並び、「こんなものであろう」という想像はできる。郊外の住宅地は地方の都市にもおおく造成され、画一的で標準的な都市は全国にいきわたった。東京が「輝かしい」ものでなくなってきた背景が、ドラマの地方化にあらわれているのかもしれない。
若者に消費欲の減退や物質欲のなさがささやかれる。団塊ジュニアの女性にへたにバブル期のようなブランドの自慢をすればイタイ目で見られるという話も聞く。消費欲求の減退があるのなら東京の魅力は落ちるし、全国のどこにでもあるようなショッピングセンターをべつのほかの地にもとめる意味もない。東京という消費の中心地は、零落をはじめているのかもしれない。
ただ地方のドラマを見ていてもその舞台や地方が魅力あるものや憧憬されるものとしての描かれ方はしていないと思う。あくまでも「たまたま」の舞台、どこでもよかった舞台のひとつにしか描かれていない気がする。田舎や自然の風景のすばらしさやのんびりとした雰囲気といったものは、そう前面に押し出され、憧憬されるものとしては描かれていない。背景としての地方が舞台になっているだけのようである。ロケーションがすばらしいといった映し方はされていないのである。
考えてみたら日本は広いし、日本の都市というのは多くの山間や海に隔てられた向こうにあり、そのような町が全国に散らばっているのが日本というものであると思う。山間や海の間際に住み人たちもたくさんいる。それなのに東京がただひとつの日本の町であるかのようなメディアの一方通行はながくTV界を支配してきたのだと思う。日本には東京しかなく、メディアを全国で見る人たちは、あたかも東京という街に住んでいるかのようなバックグラウンドを与えてきたのではないかと思う。メディアというものは地方性を抹殺し、相殺し、空間や距離がないような錯覚を与える。私たちは東京という街の住民のような錯覚に陥ってきたのかもしれない。
そして日本全国に東京のようなショッピングセンターやロードサイドショップ、画一化した郊外住宅地をつくり、東京消費基地を全国に蔓延させた。だが消費というのはいつまでも魅力をたもつわけではないし、モノを買ったり買うだけの人生に人は満足するかというと、やはりそのおかしさには気づくものである。「買うためだけに生きているのか」と空しくはならないだろうか。モノであふれた街は全国にできてしまったが、いつまでもモノの魅力が人生を導く原動力にはなりえない。
商品がたくさん選択でき、買える場所というのは人が密集し、交通が混雑し、大きな景色や広がりのある景観がながめられる場所ではない。家を出るとひとりでほっと一息つける空間もない。人だらけである。他人の目を逃れる場所もない。いっぽう、過疎化や都市の移住によって、打ち捨てられてきた田舎や地方には広大で余裕のある土地が広がっている。人がせわしなく動き回らないおかげで、時間もゆっくりと感じられる。地方出身者の原作本は出身地の郷愁を語りながら、都会人の魅力を無意識にひきつけているのかもしれない。
映画の『ALWATS 三丁目の夕日』などで昭和三十年代の郷愁が強まった。昭和の高度成長期前あるいは最中ののどかで夢のあった時代へのノスタルジーがブームになった。そのような時間軸というのは東京と地方という時間軸にも転用できるものである。地方というのは過去であり、失った郷愁をのこしているものである。「失われた時間」という想いをもつ都会人にとっては、地方は「失われた過去」なのである。過去のノスタルジーを探して、地方は求められるのかもしれない。
まあ、でもこの都会と田舎の図式はあまりにも単純であり、類型化されており、こっけいである。書いていてバカらしくなる。そんな単純なステレオタイプがあてはまるわけがない。「都会=ごちゃごちゃ」、「田舎=のびのび」という単純な図式は、都会人の優劣ヒエラルキーがつくりだすひとつの夢想であり、利己的な蔑視意識がつくりだすものである。そのような意識が田舎の蔑視をいっぽうでは生み出すものである。田舎への憧憬というのは、都会人が頭の中で勝手に描く自己優越感の裏返しの「物語」でしかない。いっぽうでは憧憬を生み出し、一方ではバカにする、すべて自分の頭の中のご都合的な浅はかな判断でしかない。
メディアは送り手である特権をもち、そして受け手を抹殺する。東京は送り手であり、地方は受け手となり、存在しないものになる。受信機のような存在になり、判断やまなざす主体である価値を奪われてしまう。地方の存在は一方的にヒエラルキーづけられたり、判断されたり、評価・蔑視されるだけの受動態になる。つまりメディアをもたない人間はメディアをもつ人間の「奴隷」となるのである。一方的に評価され、判断され、ヒエラルキーづけられるだけの存在になってしまう。地方はメディアをもたないがゆえに透明な存在になる。地方というのはながらく判断や意見の主体であるという存在の価値を奪われてきたのではないかと思う。
フィクションに地方が存在しはじめたということは、メディアによって平準化され、画一化され、つまり空間や距離のないものとして表象されていた同一の日本人であるという物語が、地方によって違う、地方には地方の特色があるという相違の発見をうながしてゆくことになるかもしれない。東京のメディアによる平準化が崩れてゆくとするのなら、地方のドラマはおおいに歓迎というところである。まあ、でもそんな希望を楽観的に抱けるものではないが。
▼関連メディア
YouTube 『世界の中心で 愛をさけぶ TV版』 緑豊かな地方が舞台ですね。
YouTube PV ランクヘッド 夏の匂い 田舎には恋の物語がのこる?




阿久悠と「国民」の時代
きのう、阿久悠の一周忌ということで『ヒットメーカー阿久悠物語』をやっていた。私は世代的には阿久悠の全盛期には小学生ていどだったのでヒットした曲はよく聞いたのだが、阿久悠にとくべつの思い入れもないし、いまからふりかえってあの時代はよかったと思うこともないし、郷愁したい思いもない。阿久悠はあの時代に聞けばよかったのだろうが、今日まで長く聞きつづけられるものをつくったかどうか。
北の宿から 都はるみ
石川さゆり - 津軽海峡・冬景色
沢田研二- 勝手にしやがれ
ピンク・レディー 「UFO」
ひと夏の経験 山口百恵
もしもピアノが弾けたなら 西田敏行
宇宙戦艦ヤマト 佐々木功
ピンクレディーが大ヒットしたころ私は小学生でとうぜんのようにふりつけの真似(笑)をした世代なのだが、きのうのドラマを見ていて、『スター誕生』という番組があのころのアイドル歌手やヒット曲を生み出していたことはよく知らなかった。小学生ですからね。森昌子、桜田淳子、山口百恵、ピンクレディー、小泉今日子、中森明菜といった人たちがこの番組からデビューしたそうだ。
このころの時代というのはヒットする曲は国民の誰もが知っていて、国民の関心事になりえた。国民が一体となって、TVの音楽番組を見ていた。今日では音楽は若者やティーンエイジャーのものになり、ヒット曲がそれ以上の大人や国民に知られるということもなくなり、共有されることがなくなった。いまから考えれば「奇蹟のような時代」であり、「国民」はTVやヒット曲により、ひとつになり、一体感をもっていた。ヒット曲やTVは国をゆるがす事件であったのである。
『スター誕生』はそれまで歌手や俳優は専門の才能ある人しかなれないものであったが、となりのしろうとやふつうの子がスターになれるという夢やきっかけを与えたということになるのだろう。ある意味では専門業のしろうと化であり、大衆化であり、低俗化であった。このころを境に歌唱力が抜群によい選抜された歌手という地位は弱くなり、歌がうまくなくてもかわいさや愛嬌で若者に愛されるアイドルというものが生まれていったのである。
80年代はアイドル全盛期となったのだが、個人的には悲惨な時代であったと思う。しろうとのヘタな歌など聴きたくない、プロのうまい歌や深みのある歌唱力といったものを聞くことを期待することが音楽を聞くふつうの動機だと思うのである。それがかわいらしさや愛嬌、美貌だけがアイドル歌手に求められたのである。期待されていたのは音楽ではなく、性的な魅力だけである。音楽は音楽であることをやめた、才能や技能を捨てた、恋愛・性的魅力の市場となったのである。
女性歌手やアイドル歌手には性的な衝撃がもとめられた。公共的な場での性規制の解除といったものに挑戦する姿に私たちは衝撃を受けた。性は個人的なものであるが、メディアという公共的な場での性規制の解除が挑戦されていったのである。性が個人的で隠蔽されるべきものから、公共で共有され、そして心情や行為の情報も共有されるというものへと挑戦されていったのである。性は解放されていったのだが、公共性の規制解除はたんに性の商品化・マーケット化をもたらしたに過ぎないように思えるのだが。性の魅力や欲望がマーケット・貨幣経済にとりこまれていっただけであって、性は市場の新たな拘束・規範を受けるようになっただけと思わなくはない。
TVは幼児化や青少年化をひきおこした。こどもや思春期のティーンエイジャー向けのメディアに占領されたのである。恋愛・性的魅力を売る産業となり、大きく十代の客層をとりこむことになったのだが、同時にそのような低年齢化は、多くの国民の視聴者を去らせた。アイドル・ブームになり、「国民の時代」は終わった。音楽は十代の限られた層だけが聞く、閉じられた市場となり、今日のヒット曲を国民の多くが知り、共有するということはなくなった。TVが国民であった時代は終わったのである。
『スター誕生』はそのような時代の転換期をつくり、そしてしろうとや十代がスターになる可能性を開いたのだが、同時にそれはTVが国民であった時代の幕引きを用意したのだろう。才能や能力がなくてもスターやアイドルになれるという期待や希望の演出は、のちの「おニャン子クラブ」や「モーニング娘。」などにひきつがれて、TVはプロや専門家のメディアであることをやめていったのである。それはTVが最大公約的な視聴者を対象にすることによる避けられない宿命だったのだろう。TVはどこにでもいる「私」のような子でもスターになれるという期待を与えて、そしてこれらの大きな層を客にとりこんだのである。『スター誕生』は客層の拡大化をもたらしたのだろうが、同時にそれは才能や能力の低層化でもあったのである。最大公約数のメディアに高級化や専門化はのぞみえないのである。TVは国民の多くの客層をのぞんだがゆえに、高級化や専門化を捨ててゆき、質の低下を志向するほかないのである。
阿久悠はTVが国民であった幸福な時代に生きた作詞家であったのだろうし、同時にマーケットを広げたがゆえにTVが国民であった時代の幕引きを引いたといえるだろう。力道山のプロレスや王のホームラン、国民的ヒットといったTVが国民を結集し、一体化する時代から、国民がばらばらになり、もはやTVで一体化したり、国民的ヒット曲が生まれるという時代は去ってしまった。『スター誕生』はその国民の時代の終わりを宿命的に幕を引いてしまったといえるだろう。
▼阿久悠周辺の著作




「玉の輿」幻想と干物女とオタク。

恋愛にまつわる二つのドラマの感想。二作とも少女マンガが原作。『山田太郎ものがたり』と『ホタルノヒカリ』。
『山田太郎ものがたり』ではエリート校の男子生徒の「玉の輿」に乗ることに憧れる女生徒と、じつは大金持ちだと勘違いした男子生徒が極貧だったという話を軸に展開される。どちらかというと貧乏がハート・ウォーミングなものとして描かれる。
おそらくこれは女性の「玉の輿」幻想を笑うテーマをもつのだろう。女性の男性にたいする高飛車な幻想や理想を批判しながら、かつその健気さを自虐的に可愛がる。
女性の七割は年収600万以上の男性を結婚相手に希望するが、現実は結婚適齢期の男性の7割が600万以下で、4割が200万から400万のレベルである。年収600万といえば、たったの5%ほどしか存在しないそうだ。
こんな破天荒な理想を女性はしゃーしゃーとのべて、現実を見ないし、知ろうともしない。そういう突拍子もない理想を笑うドラマがこの『山田太郎ものがたり』のメッセージなのだろう。そして極貧男とくっついたさいの心理的衝撃の対処と現実馴致のレッスンもかねているのだろう(笑)。幻想のしゃぽん玉の割り方を女性たちに教えているのである。
それにしても女性たちはどうしてこう楽して棚からぼた餅的発想をもつのだろう。まあ、だれだってラクしてトクしたい気持ちをもっているから、とうぜんの発想なのだろうが、これはあまりにも痛い。
だれもが永遠に赤ん坊のようには生きられない。女性は赤ん坊のように男性にあやしてもらうことを生涯の理想としてしまう。世界は私が赤子であるための揺り籠ではない。世界のまなざしというのは「私」を利用的観点からしかながめていないものである。はやくにこの現実に気づいて、発想を転換しないと、たぶんあなたは世界から痛めつづけられるだろう。被害者や悲劇のヒロインとして感じてしまうだろう。「世界は他人の都合のために存在するものである」
対して『ホタルノヒカリ』の女性は恋愛するより家で寝ていたいという女性が主人公である。「コワい」「不気味」「干物女」として批判される。
恋愛や社交から退却した人間はいつの世も叩かれる。「クライ」「友だちがいない(嫌われ者の印とされる)」「童貞」「処女」「オタク」といってバッシングされる。こういう袋叩きに怖れをなしたボーイズ&ガールズは人に媚びまくり、群れまくり、だれかのあとをついて回る金魚のふんのような品行方正な青年になる。
世間やマスコミはどうしてこう非社交性を叩くのだろうか。やはり彼らの利益が転がってこないからだろうか。彼らの利益とはカネであったり、評価や名声であったりするのだろうか。人が群がることにより、私は評価され、カネが回ってきて、私のつまらない価値は上昇する。つまりは非社交的な人間は私を無視して、ないがしろにして、私を孤独にして、私をつまらない人間にしてしまうから許せないということなのか。
要は私を「ないがしろ」にするなということなのだ。街に出て私をちやほやしろということだ。そこでようやく私の無価値さは救われる。
「非社交性」の代名詞だったオタクは雑誌ファッション文化から叩かれた。他人や社会に対する過剰な装飾や自意識過剰を特徴・生きがいとするファッション・カルチャーは他人の見た目に命を賭ける。私の存在価値は他人からの見た目である。他人に見られ、注目されないと私の価値はない。
そうすると私の価値のない姿を街でさらした者というのは、ファッションや他人に対する見た目をまったく気にしない者である。いうなれば、彼は私の落ちぶれた姿であり、いちばん人にさらしたくない部分である。そんな格好で人に見られるなんて――。
ファッション・カルチャーにとってオタクは自らの見られたくない部分なのである。いうなれば自己嫌悪である。それは私のいちばん価値のないネガ・フィルムなのである。私の丸ハダカなのであり、いちばん恐れている姿なのだ。だからオタクは徹底的に嫌悪され、忌避された。
オタクは戦略であり、対抗である。見た目に過剰に価値を賭けるファッション・カルチャーにたいするアンチである。彼らは見た目を捨てた。私の幻想を、カルチャーを、頭脳の幸福を夢見た。私の幸福を他人の社交や恋愛の中に見い出さず、そんな幸福をハナから相手にしなかった。
そして世間から叩かれつづけたが、オタク・カルチャーが世界中から注目され、日本の輸出産業と見なされるようになると、彼らも現実の恋愛を好むのだとメディア・ミックスにより(『電車男』)、世間に受け入れられるようになりつつある。
ターゲットをなくすと世間は叩くものをまた探し出す。さもないと他人との関係にしか自分の価値のない者は自尊心の撃墜をもたらすからだ。
「私は社交的である、かれらは社交的ではない。ゆえに私は優れている」というタイプの人はたえず他者をバッシングしないと自分の価値を維持できないようである。社交以外に価値や幸福を見い出せる人間が許せないのである。それは私の尊厳の暴虐に思える。私の価値のない姿はたえず叩いていないと、私のみじめさは救えないのである。
ドラマの『ホタルノヒカリ』から飛びすぎたが、彼女は恋愛より家でまったりすることのほうが幸福な人間である。彼女は恋愛のほかに自分の価値を見い出せる、またはそんな価値や自尊心に賭けなくても幸福に生きられる人間なのだろう。
でも彼女はドラマの回を重ねるにつれ、「回心」して、恋愛至上主義的な信心を重ねてゆくことだろう。「恋愛はすばらしい」といって、「ヒモノオンナ」であった自分を悔いてゆくことだろう。それがテレビ・カルチャーの、広告や商業でなりたつメディアの絶対訓戒である。
彼女はみずからで幸福であっては困るのである。欠如があり、不幸でなければならない。「TVが、広告が、消費が、あなたの欠如と不幸を埋めてあげますよ」――それこそがTVの毎日発信しなければならないメッセージであり、視聴者には無料でなりたつというウソみたいな無料メディアの存在理由なのである。
女性はオタクのように闘えないだろう。もし闘ったとしても、それは一般に受ける「美少女」でなければならならい。ブスであるならばだれも見ないし、関心がない。彼女は抹殺されるだけである。そしてそれは女性がいちばん恐れていることである。ヒモノオンナはすっかり自分の「幸福の踏み絵」を踏みつけにするのである。


好きなのにいえない後悔――『プロポーズ大作戦』

ケンゾーと礼『プロポーズ大作戦』はさいしょ欠点ばかり見えたドラマであったが、後半になるに従い設定が気にならなくなって、手に汗握るドラマとなった。好きな者同士の気持ちが通じないもどかしさは古今東西のドラマの金鉱である。
まずはタイトルがふざけすぎている。『プロポーズ大作戦』――むかしそんな人の恋愛行為をさらけだす低俗な番組があったっけ。それから結婚式から毎回のように過去にタイムスリップするなんて、毎回これかよとはやくもマンネリを感じた。でも時がたつにつれ、それは新たな挑戦に期待する前哨となったのだが。
キャストも合ってないように感じられた。山下智久は一途な男というよりぼーっとしすぎだし、長澤まさみは繊細さやクラさがないから、いまいちこのドラマにはぴったしの感じがしなかったのである。
いちばん気に食わなかったのは青春グラフィティティを背景にもってきたことである。学生時代の気さくな関係が社会に出るにしたがって薄れてきて切ないという感情は、あまり美化できる感情ではない。個人的にせいせいしてすっきりしたと思っている私は、このせつなさがどうも共感できない。馴れ合いやじゃれ合いの関係が美しかったと私は思わないのである。
このドラマはもっとシリアスなメロドラマにしてほしかったのである。青春グラフィティティやコメディなんかはよけいだ。『冬ソナ』のようにどろどろのメロドラマでよかったのだ。私はこの点がひじょうに残念で、切なさや悲しさが全編を覆う作品のほうが名作になったと思う。設定やテーマがよいだけにかなり惜しい。
とはいえこのドラマは想い合う者同士がおたがいの気持ちを通じさせることができずにほかの男と結婚するという切なさや悲しさを十分に味わわせてくれるよい作品だった。毎回好きな者同士が別れてゆくというツラさを感じなければならないのである。人はそういう物語にロマンや郷愁を感じるのである。それはたぶん好きな気持ちというものは叶わないからこそ美しく、人を想うという気持ちが昇華されるからだろう。
私個人も好きな女性に気持ちを伝えられずにほかの男と結婚するプロセスを指をくわえてながめていたこともあって、「もしあのときに……」と思わずにはいられなかった。私はこの辛さを正面から向き合おうとしなかった。とはいえ私は私であるから、何度過去をくり返しても同じことだと私は思うのだが。
このドラマのメッセージは「過去を後悔するより、いまから変えよ」ということである。過去なんて変わらない。いまでも間に合う。失うことの後悔や悲しみをかみしめながら、いまから変えよということである。過去の後悔を未来への希望の推進力に転嫁せよということである。
好きな人がほかの人にとられるという絶望は、ふがいない今日の私を180度転回する力を与えてくれるのである。山下智久が何度も過去に帰らなければならなかったのは、変えようというエネルギーを過去の後悔からひきだしてくる必要があったからだろう。失うことの大きさをいつも感じながら、いまを行動せよということである。いったら「明日死ぬように今日を行動せよ」ということだ。「一期一会」も同じような意味である。
このドラマは幼なじみが気持ちを伝えられずほかの男と結婚してしまうという物語であったが、幼なじみは結婚や愛という関係より、友だちや仲良しであるという関係が強く、なかなか結婚の対象とは見れないのではないかと思う。よくわからないのだが、幼なじみは結婚相手というよりか、兄妹や友だち関係に近いのではないかと思う。ふたりはこの関係から抜け出せなかった。
「ケンゾーはなんにもわかってないよ」とは長澤まさみのセリフだが、私もその言葉の意味がどうしてもわからなかった。なにが「わかってない」のだろうか。この言葉が男の私にはかなりナゾである。
長澤まさみは、どうしてケンゾーの気持ちを受け入れられなかったのだろうか。なぜ好きという気持ちに素直になれなかったのだろうか。人はなぜ好きという感情を伝えられないのだろうか。おたがいに好き同士でもそういうことが多々あるようなのである。そして長澤まさみはほかの男と結婚しようとした。たぶん多くの人たちが素直になるという鍵を見つけられずに好きな人との関係を失っていったのだろう。ケンゾーはどうやら最後の最後にその鍵を見つけたようだが。
最期は残念なことにふたりの幸せな姿を見たかったのだが、追いかけてふり返るシーンで終わってしまった。これは悲しい。ともかく土壇場の起死回生が叶ってうれしい。
このドラマは私たちのだれもがもつ心の痛みを思い出させるいいドラマであった。後半から録画したビデオをたまに見てみたいと思う。
▼YouTubeでエンディングテーマをどうぞ。
桑田佳祐-明日晴れるかな
TVエンディング版
piano version
▼こちらはオリジナル小説とサウンドトラック

だからこのフザケ具合が気に食わないって。コウテイペンギンの過酷な子育て越冬

NHK『プラネットアース 第八集 極地 氷の世界』を見て感動した。コウテイペンギンたちは南極の氷点下60度になる真冬のなか、オスたちは四ヶ月もなにも食べないまま、卵を守りつづけるのである。ハドルというおしくらまんじゅう状態でおたがいに寒さをしのぎあいながら、陽ののぼらない真冬を乗り切るのである。
四ヶ月もひたすら卵をあたためたまま、耐えつづけるのである。ブリザードは吹くわ、太陽はのぼらないわ、メスたちは海に戻ってしまうわ、ただただ忍苦のひと言である。寒いからみんなで固まりあう。よくこんな子育て越冬方法を考え出したものである。
コウテイペンギンは身を守る術をなにももたない。捕食者に狙われるとひとたまりもない。もっとも無防備になる卵を守る時期、捕食者、いやほかの生命すらひとつもいない南極の過酷な環境の中で、卵をあたためつづけるのである。クマの冬眠に似ているかもしれないが、ペンギンは穴を掘る腕すらないのである。
メスたちが食べ物をお腹につめて帰ってくるシーンが感動的だった。どんなにオスたちはこの日を待ちわびたことだろうか。そしてオスたちは海に戻るわけだが、そこで力尽きるオスたちもいることだろう。
生まれた子どもたちはこの極寒の環境の中で、母の身体のあたたかみやほかの子どもたちのあたたかみを頼りに生きのびなければならない。親をなくした子はほかの同じように子を失った親たちの奪い合いの末、その体重で押しつぶされて死んでしまう。親からはぐれた子どもたちの群れはおたがいの身体であたためあうが、寒さや心細さはすさまじいものがあるだろう。
極寒の過酷な地に生きる生き物は生きるということの尊厳を感じさせる。一歩間違えば、すぐ死が間近にある過酷さの中で生きているのである。カメラマンの星野道夫がカナダの極寒の地に魅せられた意味がわかる気がする。そしてこんな苛酷な環境の中で、子育てをしなければならないコウテイペンギンたちの追いつめられた状況に哀悼の念を感じないわけにはいかない。かれらの安息の地はほかの生命が存在しない極寒の地、南極にしかないのである。


さいきんのドラマ評三作。『ハゲタカ』『ハケンの品格』『華麗なる一族』
さいきん三作ほど釘づけになったドラマがあった。『ハゲタカ』と『ハケンの品格』、『華麗なる一族』である。どれもこれも社会派ドラマであり、ドラマは社会に風刺や批判をふくんだメッセージをもってほしいものだとあらためて思わせた。

『ハゲタカ』は企業買収をあつかった経済ドラマで、スピード感や迫力、人間ドラマや過去のトラウマ、男たちの怪演などがきわだっていて、鳥肌がたつくらい引き込まれて見た。とくに鷲津政彦を演じる大森南朋の感情を抑えたクールな演技が怖ろしさすら感じさせた。
鷲津は自社銀行の貸し渋りのため自殺した町工場の男のトラウマを背負って、アメリカに渡りハゲタカ・ファンドとして帰ってくる。「腐った日本を買い叩く」といって、不良債権にまみれた死に体企業を買いあさり、売りさばいて利益を得る冷徹な資本主義の男として帰ってくるのである。「日本的なるもの」を容赦なく切り捨て、従業員もかんたんに切り捨てる。日本的人情やしがらみが日本の悪であるかのように、また自分の心の傷を癒すかのように、その方法で日本の再生を願うのである。
対する銀行の上司であった柴田恭平演じる芝野健夫はその日本的なるものや従業員を守ろうとする姿勢を守り通そうとする。その対立を主軸に老舗旅館やワンマンおもちゃメーカー、総合家電メーカーを舞台に、「企業はだれのものか」「日本をどうやって再生するのか」といった問いが投げかけられたのである。
私にはそもそも「企業は私のものだ」とか「日本のものだ」とか、「従業員が守り通すものだ」という観念がまるでない。企業にとって私は単なる下っ端の雇われ人でしかないし、上に行きたいとも毛頭思わない。だから「自分たちの企業」と思われるものが買い叩かれようが、どうなろうが、知ったこっちゃない。転職するだけである。私はそういう集団や共同体に自我を賭ける生き方を嫌悪してきた。
鷲津にはなれないが、資本の論理を通す鷲津のやり方はとうぜんの論理だと思う。自我や「私」を会社に染み込ませてはならないと思う。というよりか、そんなものは「私」でもなんでもない。会社というのは顧客にサービスを届ける「一機関」でしかないと見なすのが妥当だと思う。会社や従業員を守るより、もっと身軽に人が自由に移動できる市場づくりのほうがもっと大切だと思う。
そういう日本人のメンタリティとされるものは、堀江貴文が買い叩こうとして企業上層部の反感を買い、犯罪人に仕立て上げられたように、日本の権力層とぶつかるのかもしれないが、若い人たちにはもうそういうメンタリティは崩れ去っているのだと知っておいたほうがいいだろう。
どうもむかしの日本人は売れなければ市場から撤退するしかないという当たり前の市場の論理を、会社や従業員をまずまっ先に守らなければならないというヘンな使命感をもってきたために、ねじれた会社愛着の精神を醸成したようである。私は会社や従業員を守ることより、まずなによりも人材市場の開拓と再学習の可能性を開けるべきだと思う。売れなくなったら新しい市場を目指すしかない。あたりまえのことだ。私は鷲津のような冷酷な人間にはなれないが、会社にしがみつこうとする日本人のメンタリティはまちがっているとその破壊には賛成である。会社は顧客のためにあるのが市場の大前提だ。
なおこのドラマは放送延期されていて、柴田恭平が肺ガンになったり、中村師童が交通事故で降板になって松田龍作に代わったりといわくつきのドラマであったようである。

『ハケンの品格』はまあマンガみたいなドラマだった。さまざまな資格をもったハケン社員がスーパーに活躍しながら、正社員を小バカにするというトンデモ・ドラマだった。ありえない。たんなる派遣社員のためのウサ晴らしだったのか、これは。
それにしても篠原涼子がいろいろカッコイイ役柄を演じているが、私はどうもこの人がカッコイイとは思えない。『anego』とか『アンフェア』とか。ほんとうに憧れられているのかな〜。この年代にぴったりの女優が不在ということではないのか。
派遣社員をとりあげたという点では社会問題派ドラマとして評価できるのだが、派遣の低賃金や低待遇という悲惨な扱いがまったく深刻にメッセージされていない、というよりか隠蔽されているんじゃないかと思わせた。スーパーウーマンが派遣で活躍したとしても、この深く重い分断は埋めようがないのである。
派遣やパート、フリーターなどは「身分」である。人格に押されたスティグマのような羞恥や劣等感を刻印するのである。たんなる給与額や社会保険の問題ではなく、人格上の問題とされるような雰囲気を刻印させられることが、ほんとうの大きな問題なのだと思う。
日本の労働者というのは全人格を会社に捧げてこそ正社員だという暗黙のルールがある。派遣やパートはその否定であり、欠落である。いったら「人格を認められない」、「仲間ではない」、「われわれではないやつら」ということで、差別や劣等、疎外を押しつけられるのである。派遣やパートはそういう感情的な疎外感をたえず感じなければならないから、非正規雇用は感情的な問題としてくすぶりつづけるのである。正社員でも零細企業なら派遣並みに低い給料も多いのだが、それは問題にならないのである。
『ハケンの品格』はこういう差別や疎外という問題をまっ正面からとりあげたかというと、そうではなかっただろう。いじめや差別、格差、侮蔑といったシリアスな問題はテーマにはならなかった。かれらは将来どうなるかの。格差の未来はどうなるのか。たんにスーパー派遣ウーマンが窮地を救うというウルトラマンなみのマンガであった。これはウルトラマンへのオマージュなのか。こんなドラマになんの意味があるのか。このドラマはやっぱりシリアスでなければならなかった。でないと社会へのメッセージにはなんの効力も影響もない。
ただひじょうに印象に残るエピソードがひとつあって、派遣のコンペを会社に出した主任の責任が問われたときに部長をとどめさせるために、部長の自慢である剣道でわざと負けてやるシーンが圧巻だった。部長は剣道場で子どもたちに負ける姿を見せられない。その自負を逆手にとって部長に要求を呑ませたのである。これは権力者の自尊心をコントロールするというとんでもないワザだと息をのんだ。

さいごに『華麗なる一族』。大そうなドラマだった。ぎゃくにその大そうさが浮いているように感じられなくもなかったが。
こういうドラマがいまどきつくられたのは、私は理想や希望のなくなった時代への批判ではないかと思う。カネ儲けや利益のみに囚われた日本人への批判であると思う。キムタク演じる万俵鉄平の自死はそのことを象徴しているのだと思う。
それともうひとつカインとアベルの物語もふくまれていたように思う。カインとアベルの物語は旧約聖書にある兄弟殺しの罪の物語である。兄カインが嫉妬のために弟アベルを殺してしまうのである。『華麗なる一族』には父と息子の祖父をめぐっての葛藤の物語がある。このテーマともうひとつのテーマはどう結びつくのだろうか。
父万俵大介は銀行を大きくするために息子の理想を追いつめるような裏切りをなし、かれを自死に追い込む。それは祖父への嫉妬のためであった。父-息子の葛藤が理想と守りという対立に重ねられた物語と読むことができるのだろうか。
『氷点』は白雪姫の物語だったとは。

『氷点』はなんどもドラマ化されていて、三浦綾子の原作を読みたかったのだが、こんかいはじめてドラマでみた。
殺人者の娘を育てる――しかも自分の娘を殺した犯人の子どもを――という、とてつもなく辛いドラマなのであるが、みていて辛くて仕方がなかった。とくに女の子が母親に冷淡にされるシーンがいちばん泣けて、つらかった。
「原罪」や「罪と赦し」がテーマになっているとよくいわれているが、私はこれはまるっきり『白雪姫』の物語ではないかと思った。
『白雪姫』は覚えていないかもしれないが、これは母親が娘の若さや美しさに嫉妬する話である。娘は若くて美しく成長してゆくばかりなのに、親として献身的に尽くす母親はそれとは逆に娘に消費されるように老いて美しさは衰えてゆくばかりである。
いわば、娘は母にとって「殺人者の娘」としてあらわれてくるのである。若さや美しさを奪いとり、死――つまり殺人の予告者となってやってくる。そのような存在である娘に嫉妬し、つらく冷酷に当たる。『白雪姫』では義母であるが、それはもちろんじつの母親のオブラートにくるんだ表現であって、白雪姫をなんども殺そうとするのである。
『氷点』はこのような母と娘の若さと老いのテーマの作品であって、原罪という抽象的なテーマではわかりにくい普遍的な関係が根底にあるのである。たしかに表面的には「殺人者の娘」というショッキングな内容が主軸的に展開されるが、この物語が私たちの心を激しくつかむのは、そういう表面的なありえない辛い設定ではなくて、どこにでもあるありふれた母娘の嫉妬や葛藤があるからである。
母は自分の老いてゆく肉体をうけいれてゆかなければならないのだろう。また嫉妬したり、憎悪したりする自分の心を否定するのではなく、うけいれて、ただ浮かんでは消えてゆく心を余裕をもって眺められるようにならなければならないのだろう。私たちはその心をどうにかしようとして、その心のワナに囚われてしまうのである。つまりは否認したりコントロールしようとして、ぎゃくにその嫉妬や憎悪を強く立ち上げてしまうのである。
またこれらの物語にはぎゃくの解釈もある。つまり娘側の嫉妬心を親に投影してしまうがゆえに――なにしろ子は親に逆らえない――親が嫉妬したり迫害したりするのだと思うようになるという精神分析家の分析もある。いったら、娘も嫉妬や憎悪をどうとりあつかうかという物語でもあるのである。
殺人者としてあらわれてくる娘の存在はいわばわれわれが老いや死とどう向き合うのかという問題をもひきつれてくるのである。その怖れがゆえに若さや美しさを不条理に憎み、嫉妬するようになる。『氷点』のショッキングさやつらさはそういう問題をわれわれにつきつけるのである。
▼『白雪姫』の解釈はこれらの本に教えられました。

![4896914228.09.MZZZZZZZ[1].jpg](http://blog-imgs-14.fc2.com/u/e/s/ueshin/4896914228.09.MZZZZZZZ[1].jpg)

松本清張の『指』を見た。

21日に松本清張原作の『指』を見た。後藤真希主演で、スターがのしあがるために数々のスキャンダルを背負わなければならなかったという話だ。まだティーンエイジャーの人にはゴマキの役は衝撃的だったと思う。
私は貧乏人がのしあがるためには女の性すら売らなければならかったという話に思えた。高岡早紀という愛人や萬田久子というパトロンをもち、ゴマキはスターの道を駆け上ってゆく。彼女を追うレポーターも仕事のためには男や女と寝る。松本清張は貧乏人が成功するにはそんな常人なみではない努力や代償が必要なのだと怨念を持って、言っているように思えた。
われわれの社会というのは、成功や名誉を手に入れようとする社会である。すなわち自分でない羨望される者になろうという社会である。それらのために自分を見失った者には最後に破滅が待っている――そういうメッセージは,昭和の『人間の証明』や『砂の器』『飢餓海峡』という映画でもつたえられてきた。清張の作品がさいきん多くドラマ化されるということは、上にのぼりつめるためになにか大切なものを失った人たちがたくさん見受けられるようになったからだろうか。

このドラマでもうひとつ考えたかったことは、芸能人の性はなぜ衝撃的なのだろうかということだ。大人だったら性に関係のない者はいないはずなのに、芸能人の性的なことは衝撃的なものとして、その写真集やゴシップが売れる。
芸能人は私たちの愛着や所有の商品である。自分のものだと思っていたのに自分のものでなくなった――芸能人が性をさらすということは、私たちにそういう衝撃をもたらすのである。失恋の衝撃なのだろう。そして芸能人は失恋の痛みすらセンセーショナルな商品として人びとに消費されるのである。私たちは所有と非所有の狭間を芸能人にいつもビンタされるのである。
■オルタナティヴな生き方。
テレビの『銭形金太郎』(2/22)で、年収40万円のビンボーさんの生き方をやっていた。徳島の山奥にひとり暮らし、月一、二ヶ月出稼ぎで40万稼ぎ、家賃は年間一万円、あとは自給自足の暮らしである。世界を放浪していて、ネパールの坊さんの生き方に触発されて、もう20年近くそういう暮らしをつづけているそうだ。
こういう生き方をほんとうにやっている人も人知れずいるんだと驚いた。私なんかそういう生き方に憧れているんだが、社会が変わることばかり期待して、自分で実践しようとしない。まだ標準からこぼれ落ちることを怖れているのだ。
すぐ人は病気になったらどうするんだとか、働けなくなったらどうするんだとか心配事ばかりまくしたてるが、人類は何万年もそんなものなしに生きつづけてきたのだ。文明の病気である。あるいは家畜の心配といってもいいだろう。生きれるときには生きて、死ぬときには死ねばいいのである。明日の心配など明日にさせればいいのである。いつか私にもそういう生き方ができるか。
『戦国自衛隊 関ヶ原の戦い』と時代

子どものころに強烈な印象をのこした映画がドラマでリバイバルされることはうれしいことである。だけど過去の印象に比して、リバイバル作品はすべてに底が抜けた感じがする。
79年当時は自衛隊が違憲かという議論が盛んで、自衛隊の存在はもっとリアルだった。この25年のあいだに冷戦は終わり、私たちが戦争に巻き込まれる危機感はかなり減った。だからこのドラマの深刻さやリアリティーはぐんと落ちた。いま、このような設定で問題を問う必要性があるのかと思う。だからすべてに底が抜けている感じがした。
79年の映画はもっと仲間で殺し合うような壮絶さがあった。イデオロギーや理念で殺し合いができた。こんかいのドラマは主役の反町がずっと静観であり、どっちつかずである。石田三成の代役になろうとした渡部だってほとんどパロディか、道化である。たぶんわれわれの時代は真剣さやまじめさに生きるという底深い執着が存在しない時代なのだろう。われわれの生は軽薄に上すべりに流されているだけである。2006年の『戦国自衛隊』はほとんどおままごとか、リアルさのないゲームである。
むかしのテーマ曲が泣きそうになるくらいなつかしかった。熱くなるのはそのくらいだけだったか。79年作品は時代の中にはかなく消えてゆく人間の悲しさを強烈に感じたものだったが、こんかいのドラマはお約束としての死があったという感じだった。
ちかごろむかしのテレビや映画がリバイバルされることが多い。大人になった人たちが子どものころに見たなつかしさを味わう楽しみはある。だけど時代背景はまったく異なってしまっているから、現在の時代状況にまったく合わなくなっている。というか、パロディにしかなりえない。映画やドラマはやはり時代背景があってのものなのである。リバイバル作品はなつかしさの期待だけを味うためにあるようである。




若者ポスト近代の壁――『日本の、これから』の感想

NHKの『日本の、これから――知っていますか、若者たちのこと』を見た。だいたいは若者の働くことを中心に議論されていた。
定職か好きなことをして生きるか、就職状況の厳しさ、若者にとって生きづらい社会なのか、無職青年の犯罪件数の増加、中学生の職業体験などがとりあげられていた。
これらの若者の悩みはすべて近代が終わったことのあらわれだと思った。近代というのは豊かになって車や家電に囲まれた生活を送るということである。その目標が終わってしまったから、レールから放り出された若者は、あらゆるところで立ちすくんでいるのである。むかしの青年からすれば、つくられたレールの上を歩くなんてまっぴらだと思っていたころに比べると、ずいぶん夢のような話なのだが。
スタンダードがなくなった時代に、安定や定職、サラリーマンになるというひと昔前の基準がまだ生き残っているという難しい状況である。豊かさという目標の、次なる目標がまったく見当もつかないという状況が、いっぱんの若者たちにじわじわと浸透しているのだなと思った。安定のゆりかごは捨てがたいし、親はうるさいし、しかし人生の目標も意味も見いだせないという状況なのである。
あと、宮本みち子はニートの生まれた理由を製造業がなくなったことに求めていたのはびっくりだ。だれにでもできる仕事がなくなったのだ。ではどうするかということだけど、ふと思ったのだけど、江戸時代のような商品を売り歩いたり、家や道具を修理したりするような、ささいな仕事がもう一度たくさんつくられる必要があるのではないかと思った。人力車のような人を贅沢に使う仕事が必要なのである。
豊かになった社会というのは目標を失ったということである。そして金ピカ社会をつくるための働き手もいらないということである。そうしたらどうやってメシの糧を生み出したらいいのか。意味ある人生とはなんなのか。模索や実験が必要なたいへんに難しい世の中がやってきたということである。若者はたぶんハトが豆鉄砲を喰らったような顔をしているのだろう。
豊かな社会は意外に新参者には生活の糧を得るのがむずかしくなるとはだれも思ってみなかったことだろう。そしてやりがいや自己実現が強迫的に求められる世の中である。この危うい綱渡りのような条件の中で、若者はどのように自分の居場所を見つけてゆくのだろうか。難しすぎる問題なのだが、まずはシンプルにメシを食うために働くことがいちばん大事である。
▼ポスト豊かさの社会を考える




人生を語るドラマはいいなぁ――『ハルとナツ』の感想
期待に胸躍らせたブラジル移民たちぼろぼろと泣いた。NHKの放送80周年記念・橋田寿賀子ドラマ『ハルとナツ 〜届かなかった手紙』。人生を語るドラマはやっぱいいなぁと思った。心の底からこみあげるような涙や感動を味わった。
ブラジル移民と日本にとりのこされた妹の話で、私はいぜんからブラジル移民の日本人には興味をもってきた。なぜなら、げんざいサラリーマンになるしか生きる道のない日本人が、かつてはブラジルに移住するという壮大な夢をもつことができたのである。そのようなスケールの大きい生き方のできたかつての日本人をとても羨ましくおもうのだ。
ブラジルと日本にひきさかれた姉は、儲けのまったく出ないコーヒー農園でこきつかわれ、一方、日本にとりのこされた妹のほうはいじめられる本家から家出し、牛飼いの男と暮らすことになる。姉と妹がひきさかれる船のシーンには泣いたし、コーヒー農園の奴隷のような暮らしには胸がひきさかれる思いがしたし、妹を育ててくれた徳じいが死ぬシーンには涙でぬれた。最終回の移民船でわかれた男たちが何十年かぶりに出逢うシーンは無言ながらものすごく情感が出ていた。
人生を語る名作ってほんとうに出逢うことがないものだ。こういう深いドラマがもっと多くつくられてほしいものである。現代は時代が平穏すぎて、激動の人生を描けないということもあるだろう。平穏すぎる時代は人生をも語れないのである。というか、人生を生きていないのである。
大家族に囲まれるブラジルの姉と、息子たちを見限り、不動産バブルで会社を手放す孤独な妹は、そのままブラジルと日本の現代の状況を写している。日本は金と会社しかない、人や家族も信じられない世の中になってしまったのである。貧しいながらも助け合ったブラジル移民のすがたに、金と会社しかない孤立した日本人の姿が対比されるのである。橋田寿賀子は貧しさは幸せにつながるものだと、現代の孤立した日本人を見てそういうのである。
移民の物語で思い出すのはアメリカでの『ストロベリー・ロード』という映画で、捨てた子どもが富豪になって掘っ立て小屋に住む父の元に帰ってくるのだが、その父は息子などいないといいはった姿がとても印象に残っている。北杜夫の『輝ける碧き空の下で』もブラジル移民の話を克明につづっていて、リアルに体験することができる。入植者の悲惨な経過が描かれているのだが、ジャングルの奥地でゴム需要で金持ちになる男の話がギャンブルみたいでかなりおもしろかった。
激動の人生は壮絶で悲惨だけど、人生を生きてきたという思いをのこす。それに比べて、安定して豊かにに暮らせる現代の人生は、まるで家畜の生のように安全で平穏だが、人生について語るものをなにももたない。これで人生を生きているといえるのだろうか。




「愛と死」の物語は反則だ。

「セカチュー」の映画とドラマ版さいきん増えたと思っていたんだ。愛する人が死んでしまうという映画やドラマが。
そりゃあ、愛する人が死んでしまうのは悲しみや感動を誘うのだけれど、これは「反則」だと私の世代は思ってしまうのである。うわついたトレンディドラマばかり見ていた私たちの世代は、若者が死んでしまうということがまずありえないと思ってしまう。
だから愛する人の死を登場させて、お涙ちょうだいの物語をつくるのはルール違反だというお約束があったような気がする。むかしそういう物語がたくさんあって、いまはそんな悲壮な時代ではないというアンチ的な雰囲気もあったのだろう。
『世界の中心で、愛をさけぶ』が出てきたとき、私はそのような反発を感じた。いまの若者がだまされている、食い物にされていると思った。だけど人が死ぬという「神聖」な物語に、作り手の姿勢を問うという態度は、「冒涜」と見なされるんじゃないかと懸念ものこったのである。
まあ、だけど、『世界の中心で、愛をさけぶ』のTVドラマは、半分あきれながらも見ていました。十数年も前の愛した人の死にいつまでもめそめそしている現在の主人公には驚嘆しました。古びた不治の病という設定に、いまの十代は大マジメにこのドラマにかじりついているだろうかと恐る恐るみていました。
映画のほうは現在の主人公はだいぶさっぱりしていて、いくぶん救われた。白い制服のピュアな恋愛物語が、イノセントな青春時代を思いださせるところがとてもよかった。TVドラマのエンディングも8ミリの映像っぽい演出をしていて、これはかなり好きだった。ただ、回想や思い出から若くして青春を捉える思考法って、なんか人生まちがっていると思うんだけどなぁ。そりゃあ、老人の人生だ。
この物語は愛する人の死によって、愛することの大切さや命がけの愛があぶり出されるわけなのだが、私はどうもドラマという虚構に、死という壮絶さはいまいちフィットしないと感じるというか、虚構の死には没頭できないようになっている。われわれは「虚構の埋没」を笑った世代である。愛の別れはせいぜい空港どまりだった。いまの世代は虚構に埋没して、冷めた距離をおかなくなっているのだろうか。
『黄泉がえり』は愛する人たちが甦る映画であり、死による愛の喪失や大切さがうたわれており、『いま、会いにゆきます』も死の別れによる家族の愛の重要さが語りかけられている。死は喪失の悲しみや失われた愛の重要さを痛切に胸に打ちこむわけだが、さいきんまではタブーだった、虚構に没頭してはならないという訓戒が、私にはどうもひっかかるのだけどなぁ。。
愛する人と死によって別れるというドラマは、山口百恵の『赤い疑惑』(75年)で一大ブームをまきおこした。1960年代には『愛と死をみつめて』という書簡集がベストセラーになったそうである。後の時代はこのくそマジメさに嫌気がさして、軽薄短小の時代をつっ走ったはずである。ドラマのおもしろさを追求した韓流ブームの影響もこの愛と死のテーマの復活にくみしたのだろう。
愛と死というテーマは物語に深刻さや真剣さをつけくわえる。死を笑ってはならないという神聖不可侵性を、物語にあたえるのである。たしかに軽薄で、深みのない物語はもうたくさんだという気もするのだけど、感動をつくれるからといって、死を乱発するのも問題だろう。物語のなかの死に免疫をもっていない若者が、これらの物語とどう距離をとっているのか気になるところである。




『電車男』、『黄泉がえり』、落武者。
『電車男』は感想を書くのがむずかしい。ネットの距離感を冷静に語りにくいからだ。ドラマではじめて接することになったが、シンプルな感動物語であると思った。純愛物語と友情物語がたいへん感動を誘った。毎週みていました。
初恋が成就すること、人と人が信頼しあうということが、原初的なかたちで描かれていて、それは人として生きているからにはたいへん感動的な物語であるわけで、それは恋愛でも、ネットの住人とでも共有され、感動をよんだのである。
ただ伊藤美咲が積極的に電車男に惚れる理由の説明がとぼしかったような気がするが。完全に伊東美咲が「上」の人間である気がしたが、まあ恋愛でも女が「下」の人間に惚れるということもあるわけで。でもなんだか主体性のない女性にみえたが。初恋のときの理想化された女性というものをひさびさに想い出した。
オタクが女性とつきあえるのかが物語の大きな柱であったが、男と女の趣味がちがうのはとうぜんのことである。たぶん双方理解できない。オタクは恋愛市場への立てこもりであるから、その反発ってかんたんに癒せるものなのかなあと思った。
そしてこの物語はネットの時代を宣伝する物語でもあった。地理的にも、関係的にも関わることのない人たちがネットでつながる時代がいまやってきたのである。これは歴史上すごいことである。その感動や共感を『電車男』は高らかに謳いあげていたわけである。ただネットの共感物語を無条件に讃美する気にはなれないが。
映画『黄泉がえり』は感動したなあ。なんだかひさしぶりに作品世界にずっとひたりたくなった映画であった。竹内結子がじつは黄泉がえりだったなんて、うまいつくりであると感銘した。「失うことではじめてわかる大事なものを大切にしなければならない」――この映画は死人が甦るという不思議な現象をとおして、そのことを痛切に訴えているのだろう。

落武者。おもしろすぎ。『水10!』の番組。笑いのツボにひさしぶりにハマってしまった。
それにしても落武者というのは、なんでこんなにおぞましくて、気持ち悪いんだろう。哀れさもひとしおである。
笑いはこの哀れさをもとに、そのみじめさと、臆病さをあぶりだして、われわれにおかしさをもたらした。ビビッている人間を笑うおかしさである。タイの陸軍特殊部隊でのフィクションともノンフィクションともしれない構成が緊迫をもたらした。ひさしぶりに腹をかかえて笑った。「『ぷっ』すま」の記憶絵心テスト以降だ。
『女王の教室』と世間の悪
『いい加減、目覚めなさい』『女王の教室』の最終回をみた。かなりよいドラマであったと思う。ただ終わりのほうに見せ場とかどんでん返しとかなくて、鬼教師の過去やこのような教師になった経緯とか理由が説明されなかったのは残念であった。
この真矢先生というのは、意図的に世間の悪を体現してみせた教師ということになるのだろう。生徒たちが世間の悪や不条理に立ち向かう術や勇気を与えたのである。
対する現実の教師は、世間の理想や夢を与えようとやっきになっており、まるで現実を隠蔽するかのようになっている。というか、ほとんど平等や民主主義をプロパガンダする「メルヘン学校」になっている。でも子どもたちだって、すでに学校空間において、そんなのはありえないと理解しているのだと思うが。
ただ、悪を体現する教師はドラマとしてのメッセージの力はあると思うが、現実にはこのような権力者はぜったいに許すべき存在ではないと思う。しつけや教育のために暴力を正当化する輩はいくらでもいる。これを許したら、児童虐待だって正義になってしまう。
厳しさを教えるのは人為的なものであったら反発を生むだけだが、状況的な厳しさは人を学ばせると思う。私も経験上、人為的な強制はだれが屈するかという怨念を生み出すだけだったが、状況的なものには学ぶものがあったと思う。人はこういうときにこそ、ほんとうに学ぶのだと思う。
『女王の教室』はメルヘンを教える学校に対してのアンチ・メルヘンであったわけだ。平等や民主政治は学校で教えるようにまともに通用しているわけなんかないし、人間社会は権力や政治力で人が虐げられたり、おとしめられたりするところである。理想や夢を教える民主主義教育ははたして子どものためになっているんだろうか。キレイ事を痛快にブッ壊してくれるドラマであった。
それにしても、意外なことにこの数年間、ドラマの名作に出会うことが多くなった気がする。個人的な好みであるが、この『女王の教室』や『僕と彼女と彼女の生きる道』、または『砂の器』、『天国の階段』(日本版)といった心を揺さぶる名作に出会った。
上っ面のトレンディ・ドラマが消えてくれたおかげで、あるいはOLのウケを狙ったヒット作が消えたおかげで、芯の強い心に残る名作は着実に生み出されているんだと思う。じつは若い女性向けのヒット作が、ドラマの質を落としていたのかもしれない。
▼ 『女王の教室』は権力の寓話である
ドラマ『女王の教室』と不平等社会
『女王の教室』は権力の寓話である。

『女王の教室』は、さいしょは平等社会のウソっぽさを告発するドラマだと思っていたが、第四話まで見終わって、これは完全に理不尽な権力者をあらわすドラマに思えてきた。
はじめは成績の悪い生徒に罰をあたえるものでしかなかったが、ドラマが進むにつれ反抗・抵抗する生徒には徹底的に罰をあたえるという姿がみえてきた。仲良し共同体を志向する生徒にはいじめのような暴力が加えられるのである。
これは権力論であり、政治学である。実社会の権力というのはこのように理不尽なものであり、恣意的なものである。つまり判断や論理というものは権力者のさじ加減ひとつでつくられるということである。
これが社会のほんとうの姿というものである。とくに企業社会とはこのようなものである。権力をもった者とはこのような非合理な力をもつものである。
政治では平等や民主主義が謳われて現代はしごく平和な世界に思えてしまうのだが、企業などの社会では理不尽な権力構造がまかりとおっているというのがごく当たり前というものである。『女王の教室』はその権力のありさまを如実にあらわしたドラマにほかならない。学校のいじめはこのような構造からうまれるものである。
番組のBBSには一万二千件の賛否両論の声が寄せられ、打ち切りをのぞむ声も多数あがっているが、人間社会の権力のほんとうの姿をあらわしたドラマは、目をそむけずに正視すべきだと思う。ウソっぽいタテマエ平穏主義はもういらない。「残酷の童話」のように社会のほんとうの姿をあらわしているのである。
子どもにとってはキツイ話かもしれないが、将来に遭遇する権力の理不尽さを知るためのよい記憶になることだと思う。ドラマで見たシーンのような現実といつか出逢うことになるかもしれない。あるいは学校の教室こそ理不尽な権力構造がうずまいている空間ともいえるかもしれない。
ドラマ『女王の教室』と不平等社会

このドラマはやった、と思った。ナマぬるいウソっぱちの学校平等幻想をみごとにひきはがして、競争社会の縮図を子どもたちに叩きこもうとしている鬼教師という物語に、強烈なメッセージ性を感じた。
第一話は成績の悪いふたりの生徒にトイレそうじや給食などの雑用を罰としてすべて与えるものであった。天海祐希演じる女教師はこの世は平等社会ではなく、恵まれた6パーセントの者だけが幸福を享受できると生徒たちに説く。
その他9割のおおぜいは安い給料でこきつかわれ、高い税金を支払うだけの存在だ、そういう連中は愚かにバカをやっていたらいいのだと罵る。こぼれた給食も成績のよい順だけにくばられ、あとの大方は行き渡らないエピソードに強烈な皮肉がこめられていた。
そうなんである。この世は競争社会であるし、階層や不平等社会である。学校だけがバカみたいな平等思想を植えつける。このウソっぱちの欺瞞のせいで、社会の不平等になじむのに時間がかかってしまう。というか、学校自体が生徒たちを強烈に序列づける選別機関なのに、どうして世の親たちは平等の園を願うのだろう。ウソっぱちのオリの中は社会適応を遅らせるだけである。
この鬼教師はこのままつっ走ってゆくのだろうか、それとも改心するのだろうか。私としては鬼教師は平等や同情をもつようになる当たり前の結末に堕してほしくない。それこそが現実の社会の姿というものだからだ。人びとの平等神話を見事に打ち砕くダースベイダーのような存在でありつづけてほしい。
その上で学校や金、会社というモノサシだけでは測れない幸福をみんなが見いだすという物語にしてほしいと思う。スホーツや芸術の成功神話はもっと厳しいと天海に切り捨てられていた。ただ成功や優越というモノサシと違うところで幸福や満足を見いだすのがその他のおおぜいの人たちの生き方であろうし、またそういうモノサシだけで社会が単純に割り切れるわけがないからだ。
そういうモノサシを後生大事に奉っているのは学校や教師、マスコミなどのそのモノサシで上位にくる連中だけである。自分たちの利益を守っているだけなのである。知識産業のプロパガンダ、あるいは広告戦略にだまされてはいけない。
脚本は遊川和彦だけど、私は『十年愛』が好きだった。ハマちゃんの落ちこぼれるさまが破滅派っぽくてよかった。『真昼の月』や『幸福の王子』なんかもよかった。ちょっと期待できそうなドラマである。主役の女の子がちょっと少年っぽかったけど、なんとなく小学校のクラスの好きだった子を思い出しそうになった。
『天国の階段』を見終わって

韓国ドラマは数多くやっているがこのドラマはすんなりと物語世界に入り込むことができた。まあ、メロドラマの最たるもので、ストーリーのおもしろさのためにはあらゆる要素や材料を入れてもかまわないといった姿勢にはある種の潔さがある。
そのためには現実から飛翔しても、ご都合主義と批判されても、初志を貫くわけである。そういうストーリー至上主義が日本には失われた気がする。ドラマにもとめられるのは高尚さや芸術度ではなく、バカみたいともいわれようとおもしろさを追究するのが一番大事だということである。
とちゅうで気づいたのだがこのドラマは『冬のソナタ』のチェ・ジウ版ということだ。記憶を失ったり、失明したりするのは、ヨンさまではなくて、女のチェ・ジウのほうなのだ。いわば『冬のソナタ』のひっくりかえった続編みたいなものである。
それとこの物語は兄弟の愛憎劇が主なテーマになっている。ふたりの兄弟(とような兄)の男に愛されるチェ・ジウが主人公になっており、それを嫉妬する妹が、グローバル・グループという巨大企業の金持ち男を奪い合うという物語になっている。
少女マンガの『キャンディ・キャンディ』も二人の男に愛されて、片一方がだめになってももう一方の男がいるわ、みたいな物語が女性には大ウケするみたいである。しかも相手は大企業の御曹司というもったいぶった大金持ちである。つきそいの男を数人つれて歩き、そのなかには白人も従わせている。女性の願望を満たすウヒヒの物語になっている。
兄妹でくりひろげられるオイディプス構造が主軸になっているわけである。兄弟間の確執はだれもが覚えがあるものだと思うが、そういう欲望や願望の原初的なかたちをあらわした点でこのドラマは韓国で40パーセントの視聴率をとるほど人気が出たのだろう。
いもうとは姉をうらやましいと嫉妬し、ふたりの兄は妹をほしいと思い、母は妹にその男をあてがおうとする。兄妹でぐちゃぐちゃである。家族の親愛の情を断ち切って、外の男に愛情が離脱する段階の家族のドラマなのである。しかし、はて、われわれはそんなに家族の愛情に執着したものだろうか。
私がこの物語を好きになったのは、チェ・ジウが5年間の記憶をとりもどす回からだったと思う。失われていた愛の絆が思い出される瞬間はそれは感動したものである。断ち切られていた愛がとりもどされる様は視聴者としてはこんなにうれしい瞬間はない。
音楽もメロウな曲がなかなかよかった。とくにエンディングで使われていたSonaの『会いたい』が短いながらも陶酔的でよかった。なんでも日本版では『アヴェ・マリア』が使われなかったが、どんなふうに変わっていただろう。
チェ・ジウという女性はかわいく見えたり、ふつうに見えたり、ころころ変わるなと思った。日本でもこの顔は美貌の部類に入るんだろうか。いまの日本の基準からいえば、目が細すぎるのではないかと思う。いまの日本では南方系の目の大きな娘のほうがウケるのである。
『赤い疑惑』とは親の悔恨の物語だった。

きのう石原さとみ主演の『赤い疑惑』を見た。77年に放送された山口百恵の『赤い疑惑』は見ていたはずなのだが、記憶はほとんどなく、血液型の「RH−」型というのが選民っぽくてうらやましかったことくらいを覚えていただけで、はじめてこんな話だったのかと納得した。
眉間にしわを寄せて呻かざるをない内容だった。じわじわと放射能に侵されてゆくさまは、ものすごく心がつらくなった。こんな悲壮な物語はあまり見たくはないんだけど。『世界の中心で愛を叫ぶ』のドラマ版はつくりものぽくてあまり感情移入はできなかったが。
気づいたのは、この物語は親の視点が中心になっていることだ。若者中心のラブストーリーというよりか、親が子どもをいかに幸せにしてやるかといったことが中心になっていた。これは意外だった。
17歳という若い女性のこれからを親の過失で失わせてしまうことへの悔やみが胸を締めつけるのである。「輝かしい未来」を約束できない親の悔恨が、この物語の中心テーマになっていたように思う。
親の悔やみで気づいたのだが、この70年代半ばというのは高校進学率が90%を越えたあたりで、60年代の60%から完成の域に達したころで、親が子どもの輝かしい未来を保障しなければならないという想いが、このドラマへの当時の人々の熱中を生み出したのではないかと思った。
子どもの「輝かしい未来」への親の義務感が、それを断たれた娘の凄惨さから、いやがおうにも盛り上げられたのである。いうならば「受験戦争熱」にくべられた薪木だったわけである。げんざいは17歳の高校生に「輝かしい未来」があるとはとてもいえなくなったけど。
この『赤い疑惑』がリバイバルされたのは韓流ドラマ・ブームの原点だということだろうと思うが、たしかに死を前提にした恋愛や兄妹の恋なんて韓国ドラマにありそうだ。さいきんの日本のドラマは見る気もしないほどつまらなくなったが、この原点は現代人の心の琴線にいまも触れるものだろうか。これを機にドラマの再生がはじまればいいと思うけど。
結婚・三十後の女優も生き残ってほしい。



竹内結子が結婚するそうである。『白い影』のはにかんだ笑顔がものすごくよくて、複雑な表情づくりには感服した。あまり代表作とよべるようなすばらしい作品と出会っていないよう気がするのだが、結婚出産した女優が人気を保てることはあまりない。
ちかごろ三十代をすぎた女性タレント、渡辺満理奈や原田知世が結婚するニュースがあいついだ。女性タレントのようなモテる女性たちが三十代まで売れ残っているというのは、その美貌なのに良縁にめぐまれないという苦渋さ(?)が私には好感がもてたのだが。美人はすぐ嫁ぐより、三十代まで残るほうが、自分を大切にしているみたいですばらしいと思う。
女性タレントは三十代や結婚を機に消えてゆく。彼女たちの人気はあくまでも恋愛市場での独身としての価値である。人格や人間としての価値ではまだまだ評価されていないのである。その意味では三十代や結婚後も残ってゆく女性タレントに期待したいのである。
女性タレントが殿堂入りしたというか、頂点をきわめた例では、鈴木保奈美、山口智子、中山美穂、松嶋奈々子が思い浮かぶ。鈴木保奈美は『東京ラブストーリー』で頂点にのぼりつめたのだが、その美貌と澄んだ声はすばらしかったのだが、結婚後のちはまったく消えてしまった。





山口智子は『スィート・ホーム』でナチュラルな女性を演じて見せてCMでカルトっぽくなったが、結婚後の活躍はあまりない。中山美穂はヤンキーの女性のイメージが見事に清楚な女性に変貌したのだが、結婚後の消息はまったく聞かない。松嶋奈々子は『やまとなでしこ』で好演したと思うが、結婚後はやっぱりぱっとしないのである。
三十代のちの女性タレントが需要されることはあまりないのである。ただ負け犬女性の本が売れたり、ドラマや映画でひんぱんにとりあげられるようになって、個人として評価される女性の年齢がのびてきた兆しはある。結婚市場での価値しかない世間の女性への視点が、崩れてゆくことに期待したいと思うのである。
いぜん三十代をこえた浅野温子・ゆう子の「W浅野」ブームがあった。トレンディドラマで彼女たちがもてはやされたのである。独身消費ライフスタイルのフェーズとして彼女たちは頂点をきわめた。いまはそういう消費価値が落ち込んでしまったから、彼女たちが活躍することはないのだろう。
結婚しても三十代をこえても美貌と人気をたもっているのは黒木瞳くらいである。おそらく稀有の存在である。三十代をこえて女性タレントの需要は激減してしまうのだろう。結婚したら西田ひかるや広末涼子のようにあんなに人気があったのが信じられないくらい人気はガタ落ちしてしまう。女性タレントは結婚市場での価値でしかないのか。
もちろんそういう価値で見てしまうこと自体を全否定するのは間違いだろう。それは人間のサガであり、大きな面を占めるのは否定しようがない。恋愛市場での価値観のほかの面で、女性として、人格として、評価される時代がきてほしいものである。深みや重みのある女性も育ってほしいものである。
韓国ドラマブームは西洋崇拝の終わり?
『天国の階段』『天国の階段』弟9話はチェ・ジウが記憶をとりもどすストーリーで思わず感動してしまいました。この物語も『冬のソナタ』と同じように交通事故で記憶を失って、愛する人と再会しながら愛し合えないという苦しみをたどるストーリーをもっている。
こういう物語は愛する人なのに別人になるという哀しみを訴えているのだが、信頼や受容という関係が寸前のところで断たれる苦しみを味わわせる。そのもどかしさが視聴者を引きつけるのだと思う。
同じ人が別人みたいになるという関係はわれわれもしょっちゅう味わっている。愛する人と別れたり、ふられたり、別人のように冷たくなったり、環境が変わって別人のように見えたりと。信頼があったからこそ、その郷愁があったからこそ、この物語は人を哀しませるのである。
『天国の階段』は関西では土曜の2:30という中途半端な時間でやっているのだけど、つづけて見たくなった。私は『冬のソナタ』もとびとびだけど、ある程度は引きつけられて見ていた。郷愁的なテーマ曲や愛する人と通じ合えないというもどかしさには魅きつけられるものがあった。
『冬のソナタ』よりこっちのチェ・ジウのほうがかわいい。それにしても韓国ブームである。なぜここにきてブームになったのか不思議でならない。『冬のソナタ』がなぜ中高年女性に受けたのかもよくわからない。
日本のトレンディドラマの流れがたいそうつまらなくなっていたのはその一因だろう。もう見るものがなくなっていた。12話で完結してころころすぐ新番組に変わるし、浮かれた上辺だけの物語ばかりつくるし、深みも重みもない二十代女性向けばかりのドラマばかりつくるし、人生や社会を教えてくれるような価値あるドラマはひとつもなくなっていた。まあ、それは日本人の日常そのもの自身の姿でもあるのだろう。





