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03 30
2004

TV評

『僕と彼女と彼女の生きる道』は最高でした。


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 草彅剛主演の『僕と彼女と彼女の生きる道』はすばらしいドラマだった。家庭をかえりみず仕事だけに生きる銀行マンが妻に逃げられ、娘とふたりで暮らさなければならなくなったことから思いやりやあたたかさをとりもどしてゆくドラマで、娘と心を通わせてゆくシーンは涙に震えた。

 さいしょのころの草彅剛はほんとうにひどい男だった。仕事の価値観だけに染まり、妻に逃げられるまで気持ちをまったく思いやってやることもなく、娘もかんたんに祖母の家にあずけようとする。

 心がまるでない男なのである。いっしょに暮らす妻と娘の心もないも同然である。仕事の合理的・競争的な考えかだけでものを考えるようになっているから彼にとっては正しいことなのだろうが、いっしょに暮らして気持ちを慮ってほしい妻と娘にとってはかなり冷酷なことである。

 家庭をもつ男は経済的責任を果たそうとすれば、そうならざるを得ず、安定した収入と地位を維持しようとするのなら、彼は家庭で過ごす時間を失い、妻とも子どもとも心を通わせることがなくなるだろう。これは多くの男たちがおかれている状況なのだと思う。

 妻が家出をして娘の生活にも責任を負わなければならなくなったとき、草彅剛ははじめて娘の気持ちというものに出会う。うんちが出なかったり、音楽会の練習ができなかったり、いじめられたり、娘もいろいろな問題にぶつかり、悩み、苦しんでいるということにはじめて気づくのである。

 娘に接していた冷酷さに気づいたとき、父ははじめて変わろうとする。その心の通い合いのシーンが最高だった。ハーモニカをいっしょに吹いてやったり、いじめの解決に消極的な教師につめよったり、娘を、あるいは人を本気で思いやるという気持ちが芽生えた瞬間は涙に震えるほど感激した。

 草彅剛は娘の面倒を見てやるために銀行を辞める決意をする。エリートの人生を捨ててまで価値のあることを見つけたわけだ。彼の父は仕事の退職後、入院してもだれひとり見舞いにこない現実に直面しており、また出世を断たれた上司は自殺をしてしまう。このドラマでは会社人間への批判もしっかりとこめられているのはすばらしかった。

 かれは残業ができないため仕事が見つからず、レストランで働きつづけることになり、裁判で妻に娘の親権を奪われてしまう。だが、娘とできあがった心のつながりはかんたんに失われるものではないだろう。

 娘のりんちゃん役の女の子はかわいかったのだが、「はい」「はい」ばっかりいってて演技がうまかったのかよくわからなかった。家庭教師役の小雪はどうなのだろう、もうすこしあたたかみのある感じのする女性のほうが合っていたのかもとも思うが。

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 ほかのドラマでは『砂の器』がすごかった。全編音楽が流れつづけるような本格的で深刻なドラマはひさしぶりで、こういう骨太なドラマがもっと帰ってきたほしいものだ。

 それにしてもどうしていま『砂の器』のような松本清張の小説がドラマになったのだろう? この作品のテーマは現代にも求められているものなのだろうか。「宿命」というテーマは現在必要なものなのか。

 やっぱりあの父子ふたりの放浪シーンがすさまじかった。日本の美しくも厳しい自然の季節をバックに放浪しつづけるのだが、最終回の前の回では30分以上えんえんとそのシーンが映し出され、強烈だった。いちばん美しく、また厳しく、迫力のあるシーンだった。

 中井正広が背負った「宿命」とは村八分のために大量殺人をおこなった父をもったということだった。最後のほうで「宿命とはこの世に生まれてくることである。宿命とは生きることである」といわれており、私には生がなぜ宿命なのか、深い想いは抱けなかった。

 この深刻なドラマにドリカムのラブソングは耳には残ったけど、あまりにも似合わない、間の抜けたものに思えた。

 『プライド』はキムタクのカッコよさをまたもや前面に出しており、こういう見せたかはもうカンベンしてほしい。恥ずかしい。野島伸司が脚本を描いて深みのあるセリフはあったけど、またもや野島商法でクィーンのロックが復活したけど、竹内結子のかわいさだけで私は見てしまいました。ゲームの恋が本気になるあたりはよかったけど。

 『エースをねらえ!』はまあなるほど隠れた才能モノは感動と喜びを与えるものだと思った。お蝶夫人とか宗方コーチがどうなるかと思ったけど、けっこうしっくりときていた。ギャグにはならなかった。でも上戸彩のきゃしゃなキャラクターで世界をめざすプレイヤーになれるものなのかと思った。



01 29
2005

TV評

今クールもおもしろいドラマがないな。


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 「おまえもオスか」
 『不機嫌なジーン』より。


 ドラマはまたもや冬の時代に入ったのだろう。ヒット作がたてつづけにあらわれるようなジャンルがない。キムタクのカッコつけだけのドラマが何作かヒットしたけど、ドラマとしてはもちろん見るものがなかった。韓流ドラマにたよるしかないだろう。

 私の好みはもちろん偏っていて、社会問題とかシリアスな社会派の作品を期待するのだが、不況だけど豊かな社会には求められないのだと思う。あとはかわいい子が出ているのがもちろん好きである。

 今クールは動物行動学のあまりおもしろくない『不機嫌なジーン』とあだち充の『H2』、震災をドラマにした『救命病棟24時』くらいしか見るものがない。

 ここ何年かで私が気に入った作品は『僕と彼女と彼女の生きる道』、『砂の器』、『天国への階段』、『やまとなでしこ』くらいが思い浮かぶ。いい作品があれば、エッセイで感想を書きたいのだが、それすら叶わない。何クールか見送ってきた。

 ドラマは時代を写してきた。高視聴率連続ドラマに見える時代の顔をみると66年から正義の時代、ホームドラマ、アクションとアイドルの時代、学園ものの時代、バブルのトレンディドラマと変わってきたのがわかる。

 昔のドラマはもっとマジメでシリアスだった。青春ものの熱血ドラマが流行ったり、社会問題をえぐりだす刑事ものが数多くつくられたり、赤いシリーズみたいな悲劇ものが流行ったりした。一点の冗談も許さないようなドラマが多かったのである。

 熱血ものは高度成長の残りかすがあったからか、または逆にそれが終わってしまったからかコッ恥ずかしい青春賛歌が謳歌され、刑事という尋常ではない職業の人情物語が人びとの同情を買ったり、また悲愴なドラマが人びとの関心をひきつけたりした。

 80年代からはそういう深刻さや悲劇といったマジメさは消え去り、アイドル全盛のうわついた時代がはじまり、バブルのトレンディードラマや純愛ドラマに流れ込むことになる。

 「国家や社会について考えるな」という時代は個人主義や私欲主義の傾向を増長し、そしていまどこにも出口を見出せない閉塞状況をむかえているのだと思う。ドラマだって私消費主義の女性たちをもてはやして、社会問題を無視し、ひたすらハーレクイン・ロマンスのようなドラマをつくりつづけ、いきづまりである。

 社会問題をクソマジメに考えすぎる男たちが増えすぎればぎゃくに社会は危険になるが、さりとて私欲主義だけの社会が個人の目標や生きがいを強く感じさせるに値するのかも疑問だ。ふれ過ぎた振り子はもうすこしもどるべきなのだろう。

 ドラマは人生や社会を考えさせてくれる物語であってほしい。


01 30
2005

TV評

2005年大阪国際女子マラソンのTVと現場の間


 国際女子マラソンは毎年見ていますが、はじめて長居公園に見に行きました。現物のリアル感もいいけど、現場にいてもちっともレースが見えませんね。家がちょっと遠いから自転車で必死にこいでTVを見に帰りました。

CIMG0010.jpg 時計車が通り、カメラ車が通り、先頭集団がやってきました。緊張します。選手がやってくるということと、TVメディアがやってくるという一瞬の緊張です。TVがなければふつうのマラソン大会くらいにしか思わないでしょう。
CIMG00341.jpg 1位のプロコプツカです。独走していた大南を抜いたときにはがっくりきた。
CIMG00402.jpg 3位の弘山です。去年はシモンに抜かれてたいへん残念な思いをしたものですが、ことしはドラマになりませんでした。
CIMG00463.jpg 5位の生シモンを見ました。TVの猫背っぽい走り方と同じです。
CIMG00443.jpg TVで見ていると選手は女性というよりか中性的な目で見ているのですが、現場で見るとけっこうかわいい感じのする女性やセクシーさを感じるものだと思いました。
CIMG0050.jpg 独走態勢の大南は6位でやってきました。そのままつっ走ることはできずにばてばてになり、多くに抜かれていきました。先頭集団とのペースが大事です。
CIMG00592.jpg ヌデレバ。ぬでれば。ぬでれば。ぬでれば。
日本語では意味も感覚もつかめない不思議になる名前です。いまでも黒人を見ると圧倒されます。

02 27
2005

TV評

TV『ラ・ストラーダ 道は何を運んだか』に批判意識はない。


   appia31.jpg ローマ帝国のアッピア街道

 2/26にフジテレビ系で『ラ・ストラーダ 道は何を運んだか』という番組をやっていた。道の歴史についてなにを語るのかと思っていたが、まあこういう教養番組は好きです。

 古代の琥珀の道や塩の道が紹介されたり、ザルツブルグの塩(ソルト)の道がサラリーの語源であるということ(サラリーマンとは塩男?)、ローマ街道の車輪幅はげんざいの鉄道の車輪幅と同じである、馬車生産の産地のハンガリーのコチュ村がコーチの語源ということ、など歴史雑学が多くまなべた。

 なぜ道についての歴史かと思ったが、日産が提供をおこなっていたからだった。番組中の登場人物が日産車の宣伝をするあたりはうまいつくりだなと思ったが、日産宣伝者だけがこういうふうに道に興味をもつだろうけど、一般人が道にそんなふうに興味をもつかと思った。

 道が発展してゆくことによって自動車文化が花ひらいたと自動車帝国の讃美のような番組になっていたのだが、批判的視点がまったく入れられないのが無料テレビ番組の限界だ。自動車文化が肯定的だけに捉えられるのはものすごく片手落ちの教養である。公害がある、交通事故死がある、無益な物質・消費社会の立役者だ、遊びや集いの場を街から奪った、目的ばかりで過程を楽しめない社会をつくった、など批判はいろいろもりこむ必要があるだろうけど、広告でなりたつテレビにはムリな話だ。

 たいそうな歴史ロマン番組だと思ったが、たんに道の雑学的知識が得られただけの番組だったのかもしれない。私も道の何かについて知りたいと思って見たわけではないので何について探究すべきだったといえないけど、道ができることによってなにが変わったか、どのような効用や害悪があったのかと考えてくれればよかったのに思う。

 「道は偉い、なぜなら日産が儲かる」みたいなテーマならこれは教養番組ではない。宣伝番組である。あとから思えば、そういう番組であった。教養はやはり本のようにお金を払ってでないと身につかない。タダほどコワイものはない~。

   rre1.jpg 『ターミネーター3』

 テレビではじめて『ターミネーター3』を見たのだが、期待していたわりには感想も書けないような低調な映画だった。『T2』のような液体金属ターミネーターのような衝撃はないし、女ターミネーターのすごさやしつこさはあまり感じられなかったし、ストーリにもおもしろみがなかった。4作目につなげるための中継ぎ作品にしか過ぎないみたいだ。

 シリーズ作品でいえば、『エイリアン』は二作目がものすごく恐ろしくてよい出来になっていたが、後の作品はてんでよくなかった、『バック・トゥ・ザー・フューチャー』はまあ三作目までおもしろいままだった、古くは『猿の惑星』は4作目以降はほぼ印象にのこらない、といった感じでシリーズは出来不出来が極端だ。

 でも『ターミネーター』ってあまり深いテーマがなくて、ターミネーターの驚異で見せるような映画だったので、中身がむきだしになっただけなのかもしれない。核戦争の脅威はだいぶ薄くなったし、『T2』のような精神病院(因習ともとれる)への批判のようなドラマもなかったし、『ターミネーター』はもう芯が抜けてしまったのだろう。4作目は『猿の惑星』4作目のようにコーネリアスとジーラが抜けてしまったようなますます遠くなる映画になるのだろうな。


03 20
2005

TV評

韓国ドラマブームは西洋崇拝の終わり?


  dffger1.jpg 『天国の階段』

 『天国の階段』弟9話はチェ・ジウが記憶をとりもどすストーリーで思わず感動してしまいました。この物語も『冬のソナタ』と同じように交通事故で記憶を失って、愛する人と再会しながら愛し合えないという苦しみをたどるストーリーをもっている。

 こういう物語は愛する人なのに別人になるという哀しみを訴えているのだが、信頼や受容という関係が寸前のところで断たれる苦しみを味わわせる。そのもどかしさが視聴者を引きつけるのだと思う。

 同じ人が別人みたいになるという関係はわれわれもしょっちゅう味わっている。愛する人と別れたり、ふられたり、別人のように冷たくなったり、環境が変わって別人のように見えたりと。信頼があったからこそ、その郷愁があったからこそ、この物語は人を哀しませるのである。

 『天国の階段』は関西では土曜の2:30という中途半端な時間でやっているのだけど、つづけて見たくなった。私は『冬のソナタ』もとびとびだけど、ある程度は引きつけられて見ていた。郷愁的なテーマ曲や愛する人と通じ合えないというもどかしさには魅きつけられるものがあった。

  001_chejiu1.jpg 『冬のソナタ』よりこっちのチェ・ジウのほうがかわいい。

 それにしても韓国ブームである。なぜここにきてブームになったのか不思議でならない。『冬のソナタ』がなぜ中高年女性に受けたのかもよくわからない。

 日本のトレンディドラマの流れがたいそうつまらなくなっていたのはその一因だろう。もう見るものがなくなっていた。12話で完結してころころすぐ新番組に変わるし、浮かれた上辺だけの物語ばかりつくるし、深みも重みもない二十代女性向けばかりのドラマばかりつくるし、人生や社会を教えてくれるような価値あるドラマはひとつもなくなっていた。まあ、それは日本人の日常そのもの自身の姿でもあるのだろう。

 もちろん韓国の文化開放政策もあるのだろうけど、アメリカという憧れられる文化がもう終わってきたという兆しもあるからかもしれない。高度成長期のアメリカのすべてが輝いて見える時代から遠く離れて、ハリウッド映画は巨額をかける大作に堕し、イラク戦争などアメリカの悪い政治面ばかり見せられて、アメリカ離反がはじまっているのかもしれない。

 韓国ブームは西洋憧憬の時代が終わったことを告げているのかもしれない。

 われわれはようやく自分の身の丈のアジア人であることに恥ずかしさやコンプレックスを感じなくなっているのかもしれない。韓国ブームは男性アイドルがもてはやされる現象からはじまったわけだが、中高年女性からそれがはじまったのは、彼女たちが若者のようにアメリカのような突飛なカッコよさを追いかけないですむ世代であること、神社仏閣や古いものをよしとする価値観がとうぜん年をへるごとに増すだろうから、韓国という身の丈の憧れに飛びつきやすかったのだろう。

 韓国人はほとんど日本人と同じ顔つきをしている。中国人となるとちょっと違和感を感じる顔を見るようになるが、親近感は西洋の白人と比べるべくもない。

 ポップ・カルチャー、メディアというものは国境というものをなんのこだわりもなく通り越してしまう。文明や文化、情報や知識というのはほんらいはこういう性質のものであるはずである。あるいは人だってそういうものだったと思う。漁民や交易は国境というものをほぼ感じないで行き来していたと思われるし、そのもとでの文化伝播はかなり活発におこなわれていたはずである。

 政治や国民国家という縛りが人びとの自由な交流を阻んできたのである。なぜそういうことが必要であったかというと、その国の王や首長が自分の利益や権益を守るために必要であったこと、自国の権力者や勢力者も同じような権益をめざしていたからだろう。その他おおぜいの民衆や庶民はそういう縛りに利益や権益があったかはわからない。

 ポップ・カルチャーやメディアは国境をやすやすと越える。自国がメディアが宣伝するような政治的権利など容易にのりこえる。政治メディアがさえぎっていた鉄のカーテンから見えてくるのは、鬼でも化け物でもない普通の人たちの表情や感情である。ポップ・カルチャーは政治的国家を覆せるのか。


05 14
2005

TV評

結婚・三十後の女優も生き残ってほしい。


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 竹内結子が結婚するそうである。『白い影』のはにかんだ笑顔がものすごくよくて、複雑な表情づくりには感服した。あまり代表作とよべるようなすばらしい作品と出会っていないよう気がするのだが、結婚出産した女優が人気を保てることはあまりない。

 ちかごろ三十代をすぎた女性タレント、渡辺満理奈や原田知世が結婚するニュースがあいついだ。女性タレントのようなモテる女性たちが三十代まで売れ残っているというのは、その美貌なのに良縁にめぐまれないという苦渋さ(?)が私には好感がもてたのだが。美人はすぐ嫁ぐより、三十代まで残るほうが、自分を大切にしているみたいですばらしいと思う。

 女性タレントは三十代や結婚を機に消えてゆく。彼女たちの人気はあくまでも恋愛市場での独身としての価値である。人格や人間としての価値ではまだまだ評価されていないのである。その意味では三十代や結婚後も残ってゆく女性タレントに期待したいのである。

 女性タレントが殿堂入りしたというか、頂点をきわめた例では、鈴木保奈美、山口智子、中山美穂、松嶋奈々子が思い浮かぶ。鈴木保奈美は『東京ラブストーリー』で頂点にのぼりつめたのだが、その美貌と澄んだ声はすばらしかったのだが、結婚後のちはまったく消えてしまった。

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 山口智子は『スィート・ホーム』でナチュラルな女性を演じて見せてCMでカルトっぽくなったが、結婚後の活躍はあまりない。中山美穂はヤンキーの女性のイメージが見事に清楚な女性に変貌したのだが、結婚後の消息はまったく聞かない。松嶋奈々子は『やまとなでしこ』で好演したと思うが、結婚後はやっぱりぱっとしないのである。

 三十代のちの女性タレントが需要されることはあまりないのである。ただ負け犬女性の本が売れたり、ドラマや映画でひんぱんにとりあげられるようになって、個人として評価される女性の年齢がのびてきた兆しはある。結婚市場での価値しかない世間の女性への視点が、崩れてゆくことに期待したいと思うのである。

 いぜん三十代をこえた浅野温子・ゆう子の「W浅野」ブームがあった。トレンディドラマで彼女たちがもてはやされたのである。独身消費ライフスタイルのフェーズとして彼女たちは頂点をきわめた。いまはそういう消費価値が落ち込んでしまったから、彼女たちが活躍することはないのだろう。

 結婚しても三十代をこえても美貌と人気をたもっているのは黒木瞳くらいである。おそらく稀有の存在である。三十代をこえて女性タレントの需要は激減してしまうのだろう。結婚したら西田ひかるや広末涼子のようにあんなに人気があったのが信じられないくらい人気はガタ落ちしてしまう。女性タレントは結婚市場での価値でしかないのか。

 もちろんそういう価値で見てしまうこと自体を全否定するのは間違いだろう。それは人間のサガであり、大きな面を占めるのは否定しようがない。恋愛市場での価値観のほかの面で、女性として、人格として、評価される時代がきてほしいものである。深みや重みのある女性も育ってほしいものである。


05 16
2005

TV評

『赤い疑惑』とは親の悔恨の物語だった。


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 きのう石原さとみ主演の『赤い疑惑』を見た。77年に放送された山口百恵の『赤い疑惑』は見ていたはずなのだが、記憶はほとんどなく、血液型の「RH-」型というのが選民っぽくてうらやましかったことくらいを覚えていただけで、はじめてこんな話だったのかと納得した。

 眉間にしわを寄せて呻かざるをない内容だった。じわじわと放射能に侵されてゆくさまは、ものすごく心がつらくなった。こんな悲壮な物語はあまり見たくはないんだけど。『世界の中心で愛を叫ぶ』のドラマ版はつくりものぽくてあまり感情移入はできなかったが。

 気づいたのは、この物語は親の視点が中心になっていることだ。若者中心のラブストーリーというよりか、親が子どもをいかに幸せにしてやるかといったことが中心になっていた。これは意外だった。

 17歳という若い女性のこれからを親の過失で失わせてしまうことへの悔やみが胸を締めつけるのである。「輝かしい未来」を約束できない親の悔恨が、この物語の中心テーマになっていたように思う。

 親の悔やみで気づいたのだが、この70年代半ばというのは高校進学率が90%を越えたあたりで、60年代の60%から完成の域に達したころで、親が子どもの輝かしい未来を保障しなければならないという想いが、このドラマへの当時の人々の熱中を生み出したのではないかと思った。

 子どもの「輝かしい未来」への親の義務感が、それを断たれた娘の凄惨さから、いやがおうにも盛り上げられたのである。いうならば「受験戦争熱」にくべられた薪木だったわけである。げんざいは17歳の高校生に「輝かしい未来」があるとはとてもいえなくなったけど。

 この『赤い疑惑』がリバイバルされたのは韓流ドラマ・ブームの原点だということだろうと思うが、たしかに死を前提にした恋愛や兄妹の恋なんて韓国ドラマにありそうだ。さいきんの日本のドラマは見る気もしないほどつまらなくなったが、この原点は現代人の心の琴線にいまも触れるものだろうか。これを機にドラマの再生がはじまればいいと思うけど。


06 26
2005

TV評

『天国の階段』を見終わって


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 韓国ドラマは数多くやっているがこのドラマはすんなりと物語世界に入り込むことができた。まあ、メロドラマの最たるもので、ストーリーのおもしろさのためにはあらゆる要素や材料を入れてもかまわないといった姿勢にはある種の潔さがある。

 そのためには現実から飛翔しても、ご都合主義と批判されても、初志を貫くわけである。そういうストーリー至上主義が日本には失われた気がする。ドラマにもとめられるのは高尚さや芸術度ではなく、バカみたいともいわれようとおもしろさを追究するのが一番大事だということである。

 とちゅうで気づいたのだがこのドラマは『冬のソナタ』のチェ・ジウ版ということだ。記憶を失ったり、失明したりするのは、ヨンさまではなくて、女のチェ・ジウのほうなのだ。いわば『冬のソナタ』のひっくりかえった続編みたいなものである。

 それとこの物語は兄弟の愛憎劇が主なテーマになっている。ふたりの兄弟(とような兄)の男に愛されるチェ・ジウが主人公になっており、それを嫉妬する妹が、グローバル・グループという巨大企業の金持ち男を奪い合うという物語になっている。

 少女マンガの『キャンディ・キャンディ』も二人の男に愛されて、片一方がだめになってももう一方の男がいるわ、みたいな物語が女性には大ウケするみたいである。しかも相手は大企業の御曹司というもったいぶった大金持ちである。つきそいの男を数人つれて歩き、そのなかには白人も従わせている。女性の願望を満たすウヒヒの物語になっている。

 兄妹でくりひろげられるオイディプス構造が主軸になっているわけである。兄弟間の確執はだれもが覚えがあるものだと思うが、そういう欲望や願望の原初的なかたちをあらわした点でこのドラマは韓国で40パーセントの視聴率をとるほど人気が出たのだろう。

 いもうとは姉をうらやましいと嫉妬し、ふたりの兄は妹をほしいと思い、母は妹にその男をあてがおうとする。兄妹でぐちゃぐちゃである。家族の親愛の情を断ち切って、外の男に愛情が離脱する段階の家族のドラマなのである。しかし、はて、われわれはそんなに家族の愛情に執着したものだろうか。

 私がこの物語を好きになったのは、チェ・ジウが5年間の記憶をとりもどす回からだったと思う。失われていた愛の絆が思い出される瞬間はそれは感動したものである。断ち切られていた愛がとりもどされる様は視聴者としてはこんなにうれしい瞬間はない。

 音楽もメロウな曲がなかなかよかった。とくにエンディングで使われていたSonaの『会いたい』が短いながらも陶酔的でよかった。なんでも日本版では『アヴェ・マリア』が使われなかったが、どんなふうに変わっていただろう。

 チェ・ジウという女性はかわいく見えたり、ふつうに見えたり、ころころ変わるなと思った。日本でもこの顔は美貌の部類に入るんだろうか。いまの日本の基準からいえば、目が細すぎるのではないかと思う。いまの日本では南方系の目の大きな娘のほうがウケるのである。


07 02
2005

TV評

ドラマ『女王の教室』と不平等社会


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 このドラマはやった、と思った。ナマぬるいウソっぱちの学校平等幻想をみごとにひきはがして、競争社会の縮図を子どもたちに叩きこもうとしている鬼教師という物語に、強烈なメッセージ性を感じた。

 第一話は成績の悪いふたりの生徒にトイレそうじや給食などの雑用を罰としてすべて与えるものであった。天海祐希演じる女教師はこの世は平等社会ではなく、恵まれた6パーセントの者だけが幸福を享受できると生徒たちに説く。

 その他9割のおおぜいは安い給料でこきつかわれ、高い税金を支払うだけの存在だ、そういう連中は愚かにバカをやっていたらいいのだと罵る。こぼれた給食も成績のよい順だけにくばられ、あとの大方は行き渡らないエピソードに強烈な皮肉がこめられていた。

 そうなんである。この世は競争社会であるし、階層や不平等社会である。学校だけがバカみたいな平等思想を植えつける。このウソっぱちの欺瞞のせいで、社会の不平等になじむのに時間がかかってしまう。というか、学校自体が生徒たちを強烈に序列づける選別機関なのに、どうして世の親たちは平等の園を願うのだろう。ウソっぱちのオリの中は社会適応を遅らせるだけである。

 この鬼教師はこのままつっ走ってゆくのだろうか、それとも改心するのだろうか。私としては鬼教師は平等や同情をもつようになる当たり前の結末に堕してほしくない。それこそが現実の社会の姿というものだからだ。人びとの平等神話を見事に打ち砕くダースベイダーのような存在でありつづけてほしい。

 その上で学校や金、会社というモノサシだけでは測れない幸福をみんなが見いだすという物語にしてほしいと思う。スホーツや芸術の成功神話はもっと厳しいと天海に切り捨てられていた。ただ成功や優越というモノサシと違うところで幸福や満足を見いだすのがその他のおおぜいの人たちの生き方であろうし、またそういうモノサシだけで社会が単純に割り切れるわけがないからだ。

 そういうモノサシを後生大事に奉っているのは学校や教師、マスコミなどのそのモノサシで上位にくる連中だけである。自分たちの利益を守っているだけなのである。知識産業のプロパガンダ、あるいは広告戦略にだまされてはいけない。

 脚本は遊川和彦だけど、私は『十年愛』が好きだった。ハマちゃんの落ちこぼれるさまが破滅派っぽくてよかった。『真昼の月』や『幸福の王子』なんかもよかった。ちょっと期待できそうなドラマである。主役の女の子がちょっと少年っぽかったけど、なんとなく小学校のクラスの好きだった子を思い出しそうになった。


07 24
2005

TV評

『女王の教室』は権力の寓話である。


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 『女王の教室』は、さいしょは平等社会のウソっぽさを告発するドラマだと思っていたが、第四話まで見終わって、これは完全に理不尽な権力者をあらわすドラマに思えてきた。

 はじめは成績の悪い生徒に罰をあたえるものでしかなかったが、ドラマが進むにつれ反抗・抵抗する生徒には徹底的に罰をあたえるという姿がみえてきた。仲良し共同体を志向する生徒にはいじめのような暴力が加えられるのである。

 これは権力論であり、政治学である。実社会の権力というのはこのように理不尽なものであり、恣意的なものである。つまり判断や論理というものは権力者のさじ加減ひとつでつくられるということである。

 これが社会のほんとうの姿というものである。とくに企業社会とはこのようなものである。権力をもった者とはこのような非合理な力をもつものである。

 政治では平等や民主主義が謳われて現代はしごく平和な世界に思えてしまうのだが、企業などの社会では理不尽な権力構造がまかりとおっているというのがごく当たり前というものである。『女王の教室』はその権力のありさまを如実にあらわしたドラマにほかならない。学校のいじめはこのような構造からうまれるものである。

 番組のBBSには一万二千件の賛否両論の声が寄せられ、打ち切りをのぞむ声も多数あがっているが、人間社会の権力のほんとうの姿をあらわしたドラマは、目をそむけずに正視すべきだと思う。ウソっぽいタテマエ平穏主義はもういらない。「残酷の童話」のように社会のほんとうの姿をあらわしているのである。

 子どもにとってはキツイ話かもしれないが、将来に遭遇する権力の理不尽さを知るためのよい記憶になることだと思う。ドラマで見たシーンのような現実といつか出逢うことになるかもしれない。あるいは学校の教室こそ理不尽な権力構造がうずまいている空間ともいえるかもしれない。


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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