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04 14
2016

書評 心理学

子ども向けとバカにする損失――『子どもの心をいやす魔法のメルヘン』 アンゲリーネ・バウアー


4072303100

子どもの心をいやす魔法のメルヘン
アンゲリーネ・バウアー Angeline Bauer
主婦の友社 2001-10

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 ドラマであれ映画であれ、メルヘン分析は物語の解釈度を高めてくれた。古本で200円で手に入ったので、感謝の気持ちで読む。


 メルヘンが子供向けになったのは19世紀からで、それまでは糸つむぎ部屋や台所で大人同士でかたられた物語なのである。


 お子さんをもっている方はこの本は読むことは、子どもにどのような物語を読めばいいのか教えてくれるだろうし、なにより自分自身がちゃんとした大人の水準にたっしているのかの精査にすらなる。


 とくに「分けること、残すこと」の章や、「約束は大切」の章など、人間関係が大事になる大人にとっていまでも大切な知恵である。分けることは自分の分がなくなると思っている人は、お金でもほかの親切や思いやりの点でも、人に分け与えることができない。大人の課題でもある。


 メルヘンは象徴をまもっているといわれるが、それは防御をともなったむきだしの恐怖に向き合わなくするためである。また、親を愛するとともに憎むことがある感情にむきあうために、継母やバケモノなどといった母や親の象徴が必要なのである。


 この本では子どもの死との向かい方も示唆していて、子どもやわれわれ自身もちゃんと死と向き合えているかの内省にもつながるだろう。


 他人を嫌うこと、他人をあざ笑うことは、自分の弱さや欠点と向き合わないことだといった教訓も語られる。嫌いな人というのは、自分の中の嫌いな部分だということに気づくことは、大人として大切な知恵である。


 メルヘン分析は、大人になって読んでよかったと思える知恵になる。子どものときにはなおさら言語化していないのだから、意識的に理解していない。それをメルヘン分析は言語化して、意識的な理解を助けてくれるのである。


 子ども向けのメルヘンだとバカにしていた自分の浅はかさを恥ずかしく思うことだろう。




 童話はどう読むのかのオススメ本


オススメのメルヘン分析本です


 昔話の魔力昔話とこころの自立絵本と童話のユング心理学 (ちくま学芸文庫)アンデルセン童話の深層 (ちくま学芸文庫)OD>名作童話の深層



02 12
2016

書評 心理学

自分の線引きの失敗?――『分裂病と他者』 木村敏

4480090894分裂病と他者 (ちくま学芸文庫)
木村 敏
筑摩書房 2007-08

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 統合失調症の症状や、なぜそうなるのかということを知りたい初心者的なわたしにとって、衒学的な現代思想や現象学的言説にみちたこの本は難解すぎて、読書としては失敗だった。難しすぎて、意味がくみとれません。

 もう現代思想的な言説を理解しようとする努力をやめてしまって、ふつうの脈絡でも理解できる次元をもとめるようになったからね。

 わたしの統合失調症の興味は、電波や集団ストーカーといわれる他人に監視されていると思ったり、テレビやラジオで自分の考えが放送されていると思うような思考がなぜおこってしまうのかという疑問あたりだ。どうして疑わずにそれを真に信じてしまうのか、理性的に現実をとらえられる一面もある一方で、こういう認識のゆがみももたらされるのか。

 どうも根本的には、「自己が自己自身であることの病だということができる」といっているように、自分を立ち上げることの失敗のようである。

「「自己以前」を「自己」へと創立する時間の病いであることを意味する」といっている。発病の内面の歴史は、「「自己」の確立を求めて挫折した道程の記録となっている」

 自分の思考が抜き取られていると思ったり、集団に監視されていると思ったり、だれかが自分の思考を電波で流しているというのは、頭の中の声や思考が、自分のものか、他人のものか混濁してしまっている。「自分がなくなってしまっている」。

 頭の中の思いが、自分に帰属せずに、他人や外界のものとなっていたり、筒抜けになっていると思ったりする。「わたし」があまりにも希薄で、ゆらいでいる状態といえるかもしれない。

 自分の状態を自分に帰属させずに、他人や外界に読み込んでしまうのだろうか。

 自分と他人、外界の線引きをまちがってしまうのだろうか。わたしだって自分の他人にたいする考えが自分のものにすぎない、他人への怒りが自分の感情環境を最悪にしてしまうという線引きのあやまちを、けっこうな年まで気づかなかった。だけど他人が自分に見えるというような妄想までには発展することは絶対にないのだけどね。

 統合失調症は、わたしとはなにか、わたしをどう立ち上げるか、わたしと他人の線引きに失敗、といえるのだろうか。

 そういう哲学的な問い、立ち上げ方の失敗に思えるのだけど、こういった哲学的問いから問うた統合失調症の本を読みたいと思うのだが、見つかるだろうか。古本屋で探しても、あまりにも見つかる確率が少ない。

 ところで離人症患者の症例は、まったく神秘思想家の言葉とおなじであることも悩ましい。

「目で見るものがとび込んでくる」という離人症の症状は、空海の金星が口に飛び込んできたという覚醒の言葉とまったく同じであり、「物と目とが一体になっている」という状態は、禅者とエックハルトの言葉とまったく同じである。

 統合失調者はときに思考のサラダといった思考錯乱もおこるようだから、覚者とは同列に思えないが、同じ現象を体感しているといえる。


分裂病の現象学 (ちくま学芸文庫)自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学 (ちくま学芸文庫)時間と自己 (中公新書 (674))自明性の喪失―分裂病の現象学精神分裂病―分裂性性格者及び精神分裂病者の精神病理学


02 03
2016

書評 心理学

狂気と理性の同居がふしぎ――『ボクには世界がこう見えていた』 小林和彦

4101354413ボクには世界がこう見えていた
―統合失調症闘病記 (新潮文庫)

小林 和彦
新潮社 2011-10-28

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 ネットで集団ストーカーというものを大マジメに信じている人がいたり、ASKAのブログにもそのようなことが書かれていて、統合失調症とはどのようなものかと読んでみた。

 統合失調症を発症した個人の内面をつづった記録であり、あまり個人的な来歴あたりは関心はないのだけど、ほかの統合失調症に関する本も見あたらないこともあって、この本を読んだ。自分の来歴に異常にこだわり、他人はそんなことに興味がないのだという感覚がわからなこと自体、素地があるのかと思える。

 統合失調症というのは、なんでもかんでも自分に結びつけることが特徴で、みんなが自分を監視しているとか殺そうとしていると思ったりする、統合が拡大した状態だといえる。なぜ「失調症」という名称にして、「増大症」とかにしなかったのか謎だ。

 この自分を監視したり殺そうとしているという被害妄想の逆が、自分を神や崇高な存在に結びつける誇大視で、ときの総理大臣はこの著者の身近な存在になり、皇太子だって妹と結婚すべきだとかの言動になる。世界はすべて自分に統合されるのである。

 統合失調症のふしぎなところは脈絡のない思考や言動をおこなう一方、理知的で理性的な知性ものこっており、著者はコリン・ウィルソンやジョン・C・リリー、シュタイナー、大川隆法などの著作も読んでいる。意識の拡大という神秘的思想には興味をひかれて、統合失調症や精神分裂病の病識の本を読まないのである。

 集団ストーカーを記述する人もきわめて精緻にその現象を記述するのだが、その認識自体がおかしいという客観的疑惑が抜け落ちてしまうのである。理性ははたらいていて、一方ではまったくはたらいていないという不釣り合いなことがおこるのが、この病気の最大のふしぎである。

 思考や妄想が暴走することは恐ろしく、もし自分がそうなったら制御できないかもという恐れがあるのか、やっぱりこういう本はどこかでタガが外れてしまわないかという恐れをもよおしてしまう。精神の弱い人、人に影響を受けやすい人は読まないほうがいいのでしょうね。

 この人の発症は、多幸感や自分には大きな使命が課せられているという誇大妄想からはじまり、世界から殺されそうに思う発症をへて、テレパシーや交信でつながるという幻覚を見ることに至る。

 すれ違う人みなに「殺さないでください、殺さないでください」と頼みまわり、喫茶店の洗い場に侵入して迫害される世界から逃れようとして警察に通報され、シャワーにカメラがしかけられていると思い、ホースをひきちぎり、盗聴器を部屋でさがしまわる。

 すれ違う車は自分をひき殺そうとしているように思われ、飛行機の席でとつぜん「生方チューチュードぶねずみー」と叫び、小屋の中に盗聴、盗撮しているグループがいると思い、窓ガラスをたたき割り、はじめて会う精神科医に「あだち充さんですか」と尋ねる。この発狂した様を自分で正確に記述するのが違和感あるふしぎでならない。

 いくども治り、おちついたように思えても、また精神病院に入院を余儀なくされるのが残念に思える。すごく理知的で理性的な語り口ものこしておきながら、どこかで異常思考や言動がたかぶり、異常行動に出てしまうのである。

 この人の主観から見える世界が記述されるのだが、まわりの人はどう思ったのか、どのように迷惑だったのかの感想がない分、不気味さをいっそう増す。

 現代思想や心理学を読んできたわたしとしてはとうぜん人間の精神の謎である精神分裂病の記述はいくらかふれてきたのだが、あまり深くこの病について追求してきたことはなかった。なぜそうなるのか、どうしたら治るのかそういったことをもうすこし読んでみたいと思う。でも近づきすぎたら、片足をふみはずしてしまうのではないかという恐れもないわけではない。



わが家の母はビョーキです統合失調症―精神分裂病を解く (ちくま新書)集団ストーカー―盗聴発見業者が見た真実 (晋遊舎ブラック新書 001)分裂病の現象学 (ちくま学芸文庫)自明性の喪失―分裂病の現象学

精神分裂病―分裂性性格者及び精神分裂病者の精神病理学ひき裂かれた自己―分裂病と分裂病質の実存的研究分裂病の少女の手記―心理療法による分裂病の回復過程新版 分裂病と人類 (UPコレクション)パラダイム・ブック


02 08
2015

書評 心理学

認知療法500ページ――『不安な心の癒し方』 ロバート・L・リーヒ

4757212305不安な心の癒し方
ロバート・L・リーヒ
アスペクト 2006-02-27

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 500ページにおよぶ認知療法の不安にたいする処方が書かれたぶあつい本であり、項目が多すぎて頭のなかでまとまった像を結びにくいほど、内容量は多かった本というべきかな。

 不安にたいする処方箋は基本的につぎの7ステップである。

ステップ1 生産的な不安と非生産的な不安を区別する。
ステップ2 現実を受け入れ、それを変える努力をする。
ステップ3 不安になりがちな思考を変える。
ステップ4 心の奥にある恐れに目を向ける。
ステップ5 「失敗」をチャンスに変える。
ステップ6 心配するだけではなく不安な気持ちを利用する。
ステップ7 時間をコントロールする。



 不安な人にかけられるアドバイスは以下のようなものがよくあるが、数分は気が楽になるが、効果を発揮する確率はゼロであるといわれている。

「もっと前向きに考えろ」、「何も心配することはない」、「すべてうまくいくさ」、「自分を信じろ」、「きみを信頼しているよ」、「そんなことは忘れろ」、「とにかく心配するな」



 不安な人は不安になることで責任感をもっていると思ったり、最悪の事態をみぜんに防げる、解決策になる、感情的になることを抑えてくれるなどの不安にたいするポジティブな思い込みをもっているようだ。だからその思い込み自体に自分自身で納得する答えを見いださないと気がすまない。

 不安な人の大きな特徴として、「あらゆるマイナス志向の思いつきを、本当のことのように受け止める」というステップが大きいと思う。連鎖的に極端で最悪の想像を、現実に緊急に襲ってくるものだとリアルに思い込んでしまう。事実ではない推測や想像でしかないものが、現実の緊急事態のように感じてしまうのである。大きな落とし穴である。

 あまりにも項目が多いので系統だった紹介はできないので、いくつかの項目だけ抜き書きする。この本はその重要性のランク付けをしにくい本かな。

 不安な人の認知の典型的なゆがみは、たとえば他人の心を読みすぎたり、最悪で極端な未来を予想したり、いい面を見ずに否定的な面ばかり見る、たったひとつのよくないことをすべてに当てはめて解釈し、悪いことをすべて自分のせいにしたり、もしそれが起こったらという疑問ばかり思いうかべ、自分の感情を基準に現実を解釈したりする。

 認知療法というのはこれらのゆがんだ考え方に疑問をつきつけ、証拠は、確率は、客観的にどうかといった問いを発する。自分の思い込みにたいしての訂正と修正をおこなってゆく考え方だ。自分の認知の仕方が不安や恐れに落とし入れるのである。

 「自分は悪い想像ばかりしていないだろうか?」、「自分がどう思われているか気になり、人の心を読もうとしていないか?」、「自分の長所など、たいしたことはないと思っていないか?」、「もし何か起こったら、大変なことになると思っていないか(自分には対処能力、解決能力はまったくないのか?)」、「他人を評価するようなやさしい目でなぜ自分を評価しないのか?」といった疑問を自分につきつけることができる。

 「失敗をチャンスに変える」という章はなかなか参考になる知見をあたえられた。失敗の原因を自分の能力や人間性にあると見なした人は、落ち込み、あきらめ、なにをしようと状況は変わらないとそれ以上の挑戦をあきらめる。反対に、失敗しても、自分の努力が足りなかった、難しい仕事だった、運が悪かったと考える人なら、それ以上に努力をすることができるので失敗をそれほどおそれなかった。能力は決まっていると思っている人はもうそれ以上の努力はしない。だけど努力によって伸びる、能力は変わるものだと考えている人は経験や挑戦を重ね、自分の能力を伸ばすことができるのである。

 ふつうレストランで好物の注文がなかったとしたら、食べ物をあきらめるだろうか。代わりのメニューを頼むのはあたりまえである。失敗も同じことである。失敗したなら、ほかの行動や方法をためしてみるものである。失敗はほかのやり方、方法を見つけるためのひとつの障害にしかすぎない。

 不安な人は恐れていることを避けるために、「恐れているものは実際は危険ではないと気づく感情学習ができていないのである」。「恐怖心を乗り越えるには、それを体験すべきである」。「「心配だからやめておこう」でなく、「心配だからこそ、すぐやってみよう」」。

 不安な人は感情的にならないために、不安になっておこうという感情の封印もおこなうようである。「感情はよくない、悪いものである、コントロールできない、くだらない」と思いこんでいたりする。自分にはこのような無意識の思い込みがないかと問いかけ、恐れていることのイメージ体験をしてみることが不安を軽くする。

 不安な人は「いますぐなんとかしないと」というあせりや緊急事態を感じる。感情は一時のものであり、数時間後、半年後にはどうなっているだろう。大きな時間枠で見てみることが緊急事態になっている不安を軽減する。

 第11章からは具体的な不安の対処法が、これまでの方法を使って説かれる。すべて前述の同じステップを適用している。「みんなに嫌われたらどうしよう」「恋人に捨てられたらどうしよう?」、「本当に病気だったらどうしよう?」、「このままお金がなくなったらどうしよう?」、「仕事で何か失敗したらどうしよう?」といった具体的な不安にたいする処方箋が紹介されている。

 認知療法てんこもりの本なのだけど、項目が多すぎて頭でまとめにくく、一撃を与える言葉がすくなかったとすこし辛目になる本ともいえるかな。アマゾンの古本ではお安くなっています。

 

不安からあなたを解放する10の簡単な方法―不安と悩みへのコーピング自己評価メソッド―自分とうまくつきあうための心理学はじめての認知療法 (講談社現代新書)自信をもてないあなたへ―自分でできる認知行動療法マインドフルネス


01 31
2015

書評 心理学

半分は生活法――『不安からあなたを解放する10の簡単な方法』 エドムンド J.ボーン

4791105540不安からあなたを解放する10の簡単な方法
―不安と悩みへのコーピング

エドムンド J.ボーン  ローナ・ガラノ
星和書店 2004-10

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 半分が運動とか食事、自己養育やシンプルな生活を送るといった生活面の注意が描かれていて、そこはあまり効用を感じられない本かな。

 わたし的には「からだをリラックスさせる」、認知療法を説明した「現実に合わせて考えよう」といった章、ほかに「状況に応じたコーピング」といった章だけ効用があった感がある。

 からだのリラックスは漸進的筋肉リラクゼーション運動、受動的筋肉リラクゼーション運動、腹式呼吸、ヨーガといったよく知られた方法がいくつか載せられている。不安は筋肉を緊張させるので、このからだのリラックス法は心の療法と切りはせないものだ。

 誘導視覚化法というのは文章で風景を想像しながらその場所でのリラクゼーションを得る方法で、この方法もけっこう癒される。

 認知療法の不安の解消法がいちばん勉強したくて、この本で不安の原因となる「もしも思考」や「大げさ思考」があげられている。「もしも、~になったらどうしよう」とか、平凡なできごとを誇張して考える「大げさ思考」が自分を不安や恐怖に陥れるのである。

 「大げさ思考」は悪い結果がおこる確率を誇張して過大に想像し、自分の「対処能力」を過少に評価することからはじまる。認知療法ではゆがんだ考えを特定し、その考えの妥当性を問い、より現実に合った考え方に変える。

 「その確率は?」、「その可能性は現実にどのくらいあるのか?」、「過去に同じような状況はなかったか」などと妥当性を問い、「最悪の事態になったばあい、自分には対処能力がまったくないのか?」と疑問をぶつける。「もしも~になったらどうしよう」とか、大げさ思考を放ったらかしにしたままでは不安は煽られたままである。

 この自分にたいする不安を煽る思考は、あまりにもすばやく機械的に発せられるため気づかないことが多く、自分の「破滅的思考」に自分が脅かされることに気づかないのである。まずは「自分を不安にさせる考え方」はどのようなものかと気づかなければならないのである。

 終章に載せられているコーピング(対処)声明も、自己暗示的に効くものだと思う。否定的思考に対抗する肯定的主張というのは、めげそうな考えやつぶやきを発したときには、ぜひ覚えておきたい言葉がつらなっている。「耐えられない」→「もっとうまく対処する方法を習得しよう」、「どうして自分だけが?」→「逆境は強さと思いやりを育ててくれる」といったように。

 抗不安主張のコーピングを何行か引用しておく。

私は悩みを追いやる方法を習得している。
悩みや不安を抑える私の能力は毎日向上していく。
不安な考えが浮かんだら、時間をかけてリラックスし、それを解き放つ。
不安は実体のない考えから生まれる。そんな考えなら私には追いやることができる。
恐ろしい考えは誇張されるものだ。私には自分の意志でそれを消し去る力がついている。
リラックスして自分を不安から脱出させることがだんだん楽にできるようになった。
どんな状況にも対応できることがわかったので自分に自信がついてきた。
私の人生からは怖れが分解して消えていきつつある。私は平静で自信に満ち安定している。
どんな状況もコントロールできることがわかって、どんどん自分に自信が湧いてくる。





侵入思考 ‐雑念はどのように病理へと発展するのか‐内気と不安を軽くする練習帳コンシャス・ヒーリング―免疫力を高める12のイメージワーク「気づき」の呼吸法マインドフルネス認知療法―うつを予防する新しいアプローチ


01 27
2015

書評 心理学

不安の対処法――『不安、ときどき認知療法 のち心は晴れ』 ジュリアン・バター

4791102614不安、ときどき認知療法 のち心は晴れ
―不安や対人恐怖を克服するための練習帳

ジュリアン バター Gillian Butler
星和書店 1993-10

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 不安のただしい対処法をご存知だろうか。不安を誤まってあつかうと身体症状が危機的なものに感じられ、その行為、場所を避けるようになり、生活が制限されるといった悪循環をまねくことになってしまう。そういった落とし穴に落ちないためにだれだって不安のコントロール法、マネジメントが必要である。

 この本は120ページほどの薄い小冊子で、一部は不安のコーピング、二部は対人恐怖のコーピングに分かれていて、内容はほぼ同じようなプログラムが書かれている。

 リラックス法、注意の拡散法、回避行動にたいする段階的学習法、動揺したときの思考内容といったものが紹介されている。

 不安というものは、不安を悪化させるような破壊的な思考が、瞬間的に無自覚に去来するものである。現実離れした誇張されたパターンやなにもかも悪い方向にいってしまうと思ったり、ものごとの悪い面ばかり見てしまうものである。

 そのことによって体内の臓器は動きをはやめ、たたかうか逃げるかの行動のスピードを決断し、反応をすばやくする。危機感を自分でも知らずに思考が煽り、驚いて逃げ出そうと身体をせかせる。だけれど、わたしたちの社会はストレスや不安な状況から逃げてよい社会でも状況でもない。心臓の動悸、発汗、ふるえ、緊張を隠して、人に見られてはならないと思う。そのことによって症状に注意することによって、ますます緊張やパニックが昂進されることになってしまう。症状への注目はその症状を増進させるからである。

 このプログラムでは、だから不安の症状はなにも異常時ではない、ごくふつうの身体症状なのですよとなんども説かれる。心臓がどきどきなっても運動以上の害をなすことはない、身体的に実害をこうむることはない、不安症状で死んだ人はいないと説かれる。

 避けたり、逃げたりするとよけいに恐くなってしまう。恐ろしさがふり積もってしまう。症状に注意を向けなければしぜんと去ってゆくものである。症状についてあれこれ考えるとよけいに悪くなる。だからそれについて考えないことを決意し、注意の拡散法をつかって、思考をそらす。身体症状を恐れるに足りないものと理解できれば症状に注意せずにしぜんに去ってゆくのに任せられるようになるだろう。しかしそれを避けて恐ろしいものと認識してしまうと、恐ろしい避けるべきものはどんどん増えていってしまう。

 不安による緊張状態というのは自分で恐れさせる認識を自分でふり撒いて自分を恐れさせ、自分で身体を脅かせ、逃げるか闘うかの原始的反応状態にしておきながら、自分自身でそのからくりや解除方法を知らないという暴走機関のようなものである。怖れのふりかけを自分で撒いておきながら自分で知らない、自分で息をつめて逃走準備をととのえているのに気づかない、哀れでおびえた子羊のようである。ナイフをふるって脅かす自分の存在に気づかないピエロのようなものである。

 まずは緊張したとき、動揺したとき、思考がどんなに破壊的で破滅的になっているか、自分で気づいて変えていかなければならない。自分がそんなふうに考える証拠はあるのか、なにかもっと自信のつく考えはないのか、最悪の可能性や最善の可能性はなにか、ひと足飛びに結論に飛躍してないか、誇張していないか、なにができるかといった、自分を恐れさせる思考と対峙や消去していなければならない。

 人は自分を脅かすと息をつめて、呼吸を浅くして早くする。身体が逃げるか闘うかの反応をするためである。息がつまるととうぜん体に酸素がいきわたらず、ふるえや動悸、めまいなどおこるのだが、それが恐怖の対象になったり人目を避けようとして、不安の増殖がおこってしまうのである。また症状に注目したり、抵抗すれば、症状は昂進する。身体が恐ろしい状態になっていると恐怖に駆られて、よけいに恐れさせるエネルギーも追加することになる。

 不安や恐れ、パニックというのは、勘違いや無知、身体の機能を知らないことによる錯誤としかいいようがないのかもしれない。そして自分を恐れさせる思考や心のつぶやきといったものの自動性や無自覚さによるものといえるかもしれない。また自分が脅かして身体を恐慌状態にしておきながら、その危機的状況に恐れるといった二重の悪循環を不幸にももっているものである。

 身体がもう脅えている、恐慌状態になっているときには、思考は恐怖思考、せっぱ詰まった考えしか導き出さないものである。身体自身から、胃腸から、胸の息苦しさから、いたるところから不安感や恐怖感がわいてくるようなものである。身体は警告や脅威をサインしつづけるからである。しかし状況にはそんな状態にないことがわかっていても、いちど恐怖に条件づけられた身体は、恐怖を発信しつづける。人間の想像力とは皮肉で無意味な恐れをよく自己洗脳するものであると思う。

 まとめると不安の対処法は、身体の不安状態はふつうの身体感覚にすぎず、害があるものではない、これに恐怖を感じて回避するとますますその場が恐いものに感じられてしまうという皮肉な結果におちいる。症状に注意を向けるとよけいに症状が悪化するので、注意を向かわないようにすれば不安や症状はしぜんに消え去ってゆくものである。それと息をつめて逃げ出すような体勢をとっているので動悸やふるえがおこるが、腹式呼吸でリラックスする練習と習慣が大事だということである。

 対人恐怖症にリラックス法や思考の拡散法、段階的学習法など不安のマネジメントと同じ手法がつかわれているが、症状に固執すること、または思考のゆがみや自信の喪失などがその本質だと思うので、この凝り固まった絡まりを解きほぐせるのかと思ったけど。



不安な心の癒し方不安もパニックも、さようなら 不安障害の認知行動療法:薬を使うことなくあなたの人生を変化させるために不安に悩まないためのワークブック―認知行動療法による解決法不安・恐怖症のこころ模様 パニック障害患者の心性と人間像 (こころライブラリー)不安障害の認知療法―科学的知見と実践的介入


01 17
2015

書評 心理学

初歩的解説書――『不安症を治す』 大野裕



 対人不安や人前に出る不安のつよいことをさいきんは「社会不安障害」とよぶようになったが、性格の問題と考えられてきたが、医療で治せるかもという意味で用いられるようになったらしい。

 著者は認知療法の第一人者ということだが、認知療法では対人不安の考え方をどのような修正するのだろうか。

 不安に悩む人は、「現実を実際以上に重くとらえすぎて苦しんでいることが多い」といわれている。「いちばん危険なところは自分の頭のなかだと気づくことだ」。

 自分をいちばん批判しているのはまわりの人ではなく自分自身なのである。そのような考え方を修正させるのが認知療法である。

 不安な人は思い込みがつよく、パフォーマンスの期待値をひじょうに高く設定していたり、自分の行動のせいによってよくない結果をひきおこすと思い込んでいたり、「わたしはダメな人間だ」といったように自分自身の人間性まで否定していたりする。

 自分のことばかりに目が向きすぎて、しかも「よくないこと」ばかりに向ける。不安が強くなるとちょっとした危険でも見逃さないようにしようとするからだ。

 そうすると現実のうけとり方が極端になり、自分の心の中がそのまま他人につたわっていると思ったり、自分が見ている自己像が他人が見ている自分のイメージそのものだと思い込んだり、緊張で「いつもとは違う感覚」を体験しているのだから、周囲から自分が「ヘンな感じ」に見られているだろうと思い込む。

 本書ではじっさいの認知療法の用例がくわしいわけではない。不安の気持ちは長つづきせず、10分から15分がピークで、その後はしだいに和らいでゆくといわれている。また不安な気持ちを完全になくそうとは考えないといわれている。

 まあもっとくわしいワークブックのような本はほかに求めたほうがいい本である。



対人関係療法でなおす 社交不安障害社会不安障害―社交恐怖の病理を解く (ちくま新書)精神科医が書いた あがり症はなぜ治せるようになったのか ―社会不安障害(SAD)がよくわかる本人の目が怖い「社会不安障害」を治す本―現代人に急増する「心の病」への処方箋 (ビタミン文庫)これって性格?それとも「社交不安障害」? 正しい理解と効果的な治療法 (心のお医者さんに聞いてみよう)


01 13
2015

書評 心理学

恐れという「マボロシ」――『薬なし、自分で治すパニック障害』 森下克也

薬なし、自分で治すパニック障害 (角川SSC新書)
森下克也 
KADOKAWA / 角川マガジンズ (2014-03-27)


 パニック障害とはふしぎな症状である。電車などで動悸、めまい、呼吸苦におそわれ、そこから電車や人ごみなどを不合理に恐れるようになる。人間の恐怖というものがいかに実体のないものに恐れるのかというひとつの証左であると思う。

 有病率は4%といわれ、100人に4人はかかるという、うつ病と同じありふれたよくある病気だそう。

 動悸やめまい、呼吸苦におそわれ、「自分は死ぬのではないか」「電車に乗れなくなったらどうしよう」「自分はどうなってしまうのだろう」と恐れるようになり、そのことによって恐れの「自己洗脳」や「強化」をおこない、「般化」とよばれるほかの場所での恐れにひろがってゆく。

 「すべては無知からはじまる」といわれているように、「先の見えない恐れそのもの」が恐怖をひろげる。不可視の恐れをとりのぞくためには「見えるようにすればいい」。パニック障害は、たまりにたまったストレスによって、ストレスにたえられなくなった身体が、本能的な「逃走」のかまえをとるためにおこるもので、「死にいたることはない」のである。それを知らないで不合理に恐れることによって不安の強化を上書きしてしまうのである。

 「やばいぞ、このままここにいたら心臓が止まってしまうぞ、早く逃げろ、緊急事態だ」と体は知らせるのだが、それはたまりにたまったストレスのせいで、その場所とかかわりはない。動悸は「逃げよ」という過剰な演出であって、あたかもほんとうに命が脅かされていると見せかけて警告をつたえようとする信号にすぎない。演出にだまされてはならない、緊急事態でないと知ることがたいせつである。

 「心臓は悪くないんだ、だから死ぬこともないんだ」「命にかかわることではない」と知ることが改善のポイントなのである。劇的に改善する人は、「発作が起きたときは起きたときだ」と達観して、症状を過剰に恐れず、無視するくらいの気持ちでいられた人である。そういう人は速やかに症状が消えたという。不安の対処法はそれに抗うのではなく、並存させて、勝手に収まるまで放っておくという方法が肝心なのである。

 「どうしよう思考」というものが恐れを増大させる。「どうしよう」から先を考えることができない。「心臓が破裂してしまったらどうしよう」とか「電車から永久に出られないんじゃないか」と、「どうしよう」と不安に思う先から一歩も進めない。

 「自律神経の症状だから死ぬことはない」「恐がることはない」という言葉はひたすら心のかなでつぶやくことが効くという。言語化は、人がものごとを認知するメカニズムそのものであり、ウソでもいいからつぶやきつづけると、通常の認知になってゆく。症状の原因もわからず、ひたすら「どうしよう」と恐れつづけると、不安の場所を増大させてゆくプロセスと同じである。人はこの心のつぶやきによって、恐怖なり、安心なり、ものごとの認知を強化させてゆく。

 「どうしよう思考」は「こうしよう思考」に変えたらいいと説く。どうしよう思考では先の見えない恐怖があおられ、問題の解決法が見つからず、不安がつもる。だから問題の解決策が見えれば、人はだいぶラクになる。「音楽を聴いて気をまぎらわせよう」「いつでも出られるようにドアの側にいよう」「どうしてもダメなら抗不安薬をのもう」と先行きの解決策をもつだけでも安心できる。語尾に同じように「~いいや思考」とつける方法も効く。

 だいたい本書の肝はこんなところである。人間の不安や恐怖は「オバケ」である。実在しない恐れに脅かされて、それでも逃れられない。まだ物語や観念は対処の段階が軽いものだが、身体症状の恐れになるとその「実在性」は数段高くなる。言葉や観念がつくりだした恐れが身体上で実演され、その恐怖ゆえに恐れの場所がひろがってゆく。人間はもともと不合理なものに恐れるものである。言葉でつぶやいた恐れがまた自分の恐れを強化・補強するスパイラルに落とし入れる。恐れの対処法、共存して必要以上にこだわらないといった対処法が試される症状だといえるだろう。

 医者は薬物療法が中心になって、五分間診療で終わることが多いようである。時間がかかるより、薬物を処方するしか経営がなりたたないからだという。薬物の問題は、事実はそうではないのに、症状は「恐ろしいもの」として認識されてしまうことである。得体の知れない恐ろしい発作というブラックボックス的な認識はふせがなければならない。ただ薬物は助けるものとしての使用は推奨されている。

 本書ではほかに自律神経を安定させる方法、薬物療法、漢方薬、認知行動療法などが紹介されている。

 この不安症状というのは、人間の不安や恐怖にたいする対処法が試されているのだと思う。不安を無視や放ったらかしにすることができれば不安は増大することはない。しかしそこに「どうしよう」とか「どうなるのか」という恐れの言葉や思考を上書きしつづければ、どんどん不安の場所は大きくなってゆく。おおぜいの前でしゃべることの緊張とおなじようなもので、緊張はなかなか解けないものである。それが必要以上に恐くなれば、そのような場所を避けるようになる。

 その対処法の間違いの上に死ぬほどの恐れの発作に出会うと、不安や恐怖の言葉をつぶやきつづけて、恐れのスパイラルを招いてしまう。不安や恐れという「マボロシ」の対処法の選択が問われる問題といえるだろう。


不安もパニックも、さようなら 不安障害の認知行動療法:薬を使うことなくあなたの人生を変化させるためにパニック障害からの快復 こうすれば不安や恐怖は改善できるパニック障害と過呼吸 (幻冬舎新書)脳内不安物質 不安・恐怖症を起こす脳内物質をさぐる ブルーバックス途中下車 パニック障害になって。息子との旅と、再生の記録


06 13
2014

書評 心理学

「あなたが見たくないものはなんですか?」――『正義という名の凶器』 片田 珠美

4584124027正義という名の凶器 (ベスト新書)
片田 珠美
ベストセラーズ 2013-05-09

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 タイトルは共感することがらだし、片田珠美という精神科医はネットでなんどか炎上したことがあるので本ではどうなのかという興味から古本で。『他人を攻撃せずにはいられない人』が10万部とか。

 大きな炎上は二度ほどで、ネットでは香山リカとか和田秀樹とか著名な専門家でも妄言ばかりと叩かれる。

 【精神科女医のつぶやき】片田珠美(23)世の「非モテ男」に捧ぐ(1/2ペ...  はてなブックマーク 277 users
 【精神科女医のつぶやき】片田珠美(69)ゴルフの本当の醍醐味は…お...   はてなブックマーク 86 users

 二本目の記事はフロイトの汎性欲説の解釈を扇情的につかったにすぎないのだけど、ネット住人には「異常性欲者」と叩かれる。一般の人には世の中をしたり顔で説明されることに不快感が強いようである。

 精神医学なんて科学のように実証も再現もされないジャンルなので、妄言や仮説ばかりという批判はどうしようもないと思うけどね。論理的説得性を積み重ねるしかないジャンル。

 この本はそのネット炎上の「私憤」のような応報を書籍にしたようにも見えるのだが、内容の論理展開にはべつに異常でもなんともなく、まとも。

 専門家はすくなくとも専門知識のたくさんの知識量はあると思うのだが、ネット住人はその蓄積と応酬する知識量をもっているのだろうか。すくなくともネット住人の批判は氏ではなく、フロイトに投げつけるものだけどね。専門知識の蓄積に目をふさぐようなことにならなければいいのだけどね。


 本の内容のほうは、正義に名を借りた歯止めのないバッシングへの危機感と警鐘のために書かれている。わたしもこの正義ゆえのバッシング過剰に違和感をもつものだが、本では直近の芸能ネタがとりあつかわれているので残念。

 わたしは犯罪者という悪のバッシングが正当化されたものでも、歯止めのないバッシングには脅威を感じるので、正義の正当化も問題にしてほしかった。戦争では敵攻撃の正当化が必ずおこなわれるものだから、この正統的な正義の懐疑こそ問われるべきだと思う。

 なぜバッシングが過剰になるかの説明には、投影や否認といったメカニズムで説明される。「自分のなかの悪」、「見たくないもの」、「羨望」や「嫉妬」など認めたくないものを他者に認めると、他者を徹底的に叩き、あたかも自分にはないように思うことができる。

 「内なる悪」や「弱さ」、「不都合」なものをぜんぶ他人に放り込んで叩けば、自分にはそんなものはないように思える。そういった心理的否認に他者バッシングはおおいに効用をもつというわけである。ユングの「影の部分」である。

「いじめっ子が否認したいのは弱さである。…そんな欠点など自分にはないと否認したいからこそ、それと同じものを相手の中に見いだすと、徹底的に攻撃することになる」



 『新約聖書』には犯罪者に石を投げられるのは、罪を一度も犯したことがないものだけといわれ、だれも石を投げなくなったという話があるがその逆である。罪を否認したいからこそ、石を投げるのである。

 著者のネトウヨ分析も書かれていて、人生がうまくいかないことを否認したくて、とつぜん脈絡無視の在日批判がおこなわれると。

 「正しい」と思い込む人は、「確信」と「訂正不能」という特徴をもつといわれるが、べつの視点を見ようとしないことが、現実を直視しようとしない現実否認を、雄弁に証拠立てるのかもしれないね。

 人は精神の健康上では現実否認はひとつの機能としてもつべきかもと思うのだけど、だれかを犠牲にするような、だれかを徹底的に破壊し尽くすような否認は現実に適合する手段ではないのは確実すぎる事実である。もっとうまい手段をもつべきなのであり、他者を攻撃しないような相対化とかあきらめの世界観をもったほうがいいのかもね。

 消費社会は可能性や夢を煽って、あきらめさせてくれないことが他者のバッシングを昂進させるひとつの原因となっているといっているけど、知識はその防御策をいろいろと説いているので、哲学や宗教のセラピーに学ぶのもひとつの方策と思う。

 この本に欠けていると思う視点は、正義こそを懐疑する視点だと先ほど書いたが、正義という美名ほど世界の歴史に残虐さとか凄惨さをもたらした言葉はないと思うので、他者の赤っ恥を暴き出すより、正義の赤っ恥をさらしてほしいと思うのだけどね。「正義」と「正しさ」に血塗られた歴史。人は正義の名の下になにをしてきたのか。



影の現象学 (講談社学術文庫)「嫌いな自分」を隠そうとしてはいけない「自分だまし」の心理学正義論の名著 (ちくま新書)正義の偽装 (新潮新書 554)


02 18
2014

書評 心理学

「場の倫理」に抗する「個の倫理」――『母性社会日本の病理』 河合 隼雄

4062562197母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)
河合 隼雄
講談社 1997-09-19

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 自分でも問いたいことがわからないのだが、「男らしさの向かう社会」「女らしさに向かう社会」といったものがあるのではないかとこの本を手にとってみた。タイトルの「母性社会」のみをあつかった本ではなかったので、期待はずれ。

 自由主義は自立、独立をめざすということで「男らしさ」をめざす社会、福祉国家は女性の保護や依存をのぞむということで「女らしさ」をめざす社会といえないかといったことを思いついたのだが、その後との問いの方向がさだめられない。

 この本では「日本人の精神病理」や「日本人の深層心理」、「昔話の変遷」といったテーマが語られている。76年の出版でとうじは登校拒否などの子どもや教育の問題が社会の大きな関心であったことを思い出した。いまはそのような問題が主要関心事になることはなく、日本人の平均年齢が40歳といわれるように、社会もその関心事を年齢構成の大きい層によって動いてゆくのかもしれないね。

 ユングは神話や民話を心理的に読み解こうとしたのだが、いまのわたしは原始宗教としてそれを読み解きたい関心が強いので、どうも心理的解釈がしっくりこない。

 河合隼雄は母性社会的な日本において、「場」の平衡状態にもっとも高い倫理性をあたえるのが日本の特徴だといっている。父性原理は「個の倫理」。「場の倫理」というのはちかごろでいう「空気」を読むことであって、場を維持するために上位の者も抑圧を感じており、「日本ではすべての者が場の力の被害者だ」と感じている。

 「場」の力が強く働きすぎ、「個」を確立しようとすると、「場の力を破るもの」として作用するようになり、だから対人恐怖症の人は「場」や「間」をひじょうに苦手とするのである。学校のクラブではしごきや厳格な階級性があるのだが、集団のために個の否定がおこなわれる。つまり場のために自我がつぶされる動きと、個を確立しようとする自我の葛藤が、場を苦手もしくは恐れることになる対人恐怖がひきおこされるのではないかと河合隼雄はいっている。

 場の均衡は母性原理であり、個の確立は父性原理によってうちたてられようとしているのではないか。場から個を確立することは母なるものの象徴グレートマザーに自我を呑みこまれる力に抗うことであり、母親殺しとして象徴される。

 父親殺しは文化的な一般概念や文化規範から自由になることであり、日本人はいずれもその力に呑みこまれようとしているのではないか。母の呑みこむ力、父の拘束する力、いずれからも独立して殻を破ることができず、個を出そうとすれば押しとどめる力が働き、対人恐怖なり、場や世間を恐れる心に呑みこまれるのではないか。

 ちかごろでは「空気読めない人」が排斥される風潮が正当なものとされる。「呑みこまれる」力に呑みこまれることがまったくの正義や優秀なことになってしまっているので、ますます日本人は個の確立と反対の方向にいっているのではないか。

 場や空気といった母なるものの殻を破れないままで、日本人は合理性や個人主義、自我の確立といった父性原理をスープのような母性原理の海に呑みこまれてゆく一方なのか。そういう空気に流されやすい日本人の危険性は山本七平によって指摘されたことだね。

 しかし自我とはなにかとトランス・パーソナル心理学で、自我の「虚構性」を学んだものにとっては概念の意味がわからなくなってくる。その流派では自我は「思考による虚構の産物」である。自我とは自己賛美と自己価値称揚のための内なるつぶやき・キャンペーンのことである。虚構の価値構築が自我というものなのか。

 河合隼雄の文脈でいう自我というのは集団主義に抗する個人主義のことであって、場とか集団に流されない個人主義をうちたてることが近代の目標であり、近代の成熟ということなのだろうか。つまりは個人主義をいいかえただけなのか。

 なぜ日本人は画一的で無個性、没集団的で個性がないのか、個性を育てろとしょっちゅういわれていたことの心理学的バージョンのことなのか。この個性主張というのはけっきょくは消費社会の倫理に呑みこまれていって、高級品消費やワンランクアップ消費といった資本主義の木クズと化していった。

 集団のなかの個性、ほかの人とは違う、NOをいえる個人主義とはなんだろうね。列からはみ出る人間をとずっといわれつづけてきて、就活のときにはみんな同じスーツで列をはみ出ない。資本主義の大量生産と個性消費の拮抗を、言論面で補強しただけなのか。



父性的宗教 母性的宗教 (UP選書)「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))「空気」の構造: 日本人はなぜ決められないのか「集団主義」という錯覚―日本人論の思い違いとその由来心でっかちな日本人 ――集団主義文化という幻想 (ちくま文庫)


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世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

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