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05 30
2004

書評 心理学

『嫉妬の構造』 荻野 恒一


嫉妬の構造
荻野 恒一
4390115960

 個人的に嫉妬のかたまりのような女性と出会ったから読んでみたが、あまり感銘は受けない本だった。


07 11
2004

書評 心理学

『心を商品化する社会』 小沢 牧子 中島 浩籌


心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う
小沢 牧子 中島 浩籌

心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う

 心理主義化社会に警鐘を鳴らした『心の専門家はいらない』の続刊である。この本のおかげで私もだいぶ心理学というものに批判的に距離をおいてながめられるようになった。

 心理学というのはある程度詐欺師やペテン師と見なす視線はどこかにおいてほしいと思う。科学的といっても心は実体あるものではないから実証もできないものである。いくらても学説や仮説を創作できる代物である。人々のあいだで評価される権威あるものでも常識的な目で判断してほしいし、権威や専門家の意見だからといって盲目に信じるのはやめておいたほうがいい。心理学の学説に出会ったときの違和感や納得できない感じなどは大切に残しておくべきだ。

 心理学者も商売だからマーケットの原理に従って患者数をふやさなければならない。病者の線引きは一方的に専門家にゆだねられている。一億総病人にしないと心理学者は食っていかれない。そういう論理から心理学を捉えてみる視線はとても重要だと思う。自分は病気かもしれないと脅かされて貴重な人生の時間をムダに費やしてほしくないと思う。心理学は恐怖を煽って設ける商売である。自分は病気かもしれないと心配するより、それは心理学者の恐怖を煽る広告戦略かもしれないと疑うことはこれからとても必要だと思う。悪質な商売を警戒するように心理学にも気をつけなければならない。


「心の専門家」はいらない 心理学化する社会―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか 『心のノート』を読み解く 「こころ」の本質とは何か 自己コントロールの檻―感情マネジメント社会の現実
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07 10
2005

書評 心理学

『精神医学とナチズム』 小俣 和一郎


4061493639精神医学とナチズム―裁かれるユング、ハイデガー
小俣 和一郎
講談社 1997-07

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 97年に出版されたばかりなのにもう絶版になっている。心理学人気の陰で、批判精神が忘れられているためだろう。

 知識の崇拝は危険である。心理学のように人を裁く権利をもつ知識ならなおさらのことである。精神医学は人を断罪するばかりか、安楽死の権利さえもつ時代があったのである。

 ナチスのホロコーストは精神病患者からはじまったのである。そして今日でも名前が知られる精神医学者がそのことに関わっていたことがこの本から知ることができる。

 ユングやハイデガー、ヴァイツゼッカーも「全体性」や「統合性」をもとめる思想をもったがゆえにナチスの思想に加担したのである。全体のために、民族や国家のために劣等な個人は犠牲になってもかまわない、あるいは積極的に抹殺すべきだとの見解がなされたのである。

 ヴァイツゼッカーはいっている。命を助けるために火傷した足を切り落とす必要があるように、民族を救うためには一部の病んだ人間を抹殺することが必要なのであると。そういう全体や国家や民族を至上においた思想から大量殺戮はうまれるのである。

 精神医学だけではなく、知識がどのような恐ろしい面をもっているかという面からもこの本は読まれるべきである。知識に人を断罪する権利を与えるべきではないと思う。


02 19
2006

書評 心理学

『キレないための上手な怒り方』


4907725205キレないための上手な「怒り方」―怒りたいのに怒れない、怒ると人を傷つけてしまうあなたに
クリスティン デンテマロ レイチェル クランツ Christine Dentemaro
花風社 2000-12

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 職場でブチギレそうなことがあるために緊急に読む。私はムカついて相手の無視を決めこみ、相手は抵抗するためにますます騒いで、私はますますムカつく。殴ってやろうかとも考えている。

 私は基本的に穏やかな人間だと思っているが、許せないことにはなかなかゆずれない。職場でもさいしょの1、2年は無邪気に笑って過ごせるけど、だんだんムカついてきて沈黙してゆくパターンが多い。なんでだろうと思う。私が怒ることでまわりにも波及してゆき、人によって反応はまちまちであるが、不快な種を蒔いているのはたしかである。

愛と怖れ―愛は怖れをサバ折りにする。  怒りについてはジャンポルスキーの『愛と怖れ』にたいへん重要なことを学び、怒りを捨てることの実際的な効果を私は知っているはずである。人を「直そう」とすることは攻撃であり、人は怖れによって防御しようとするのである。だから怒りの感情を捨てれば、相手の腰を折り、拍子抜けさせてしまうのである。

 だけど、許せいな場合の怒りはどうするのかという課題は残っていた。どうしてもその人が許せいな時には私は怒りを捨てるべきなのか。私の「正しい」ことをしているんだという気持ちや、「直さなければならない」と思っていることを、手放して、相手と和解することはできない。

 さいごの手段として無視を決めこむことになるのだが、これをすると、相手はしゃべり、騒ぐという抵抗手段に出る。持久戦になる。私が怒れば相手の思いのツボにはまったわけだが、いつまでもいやがらせをつづけられると、私もガマンが限界になる。

 ということで職場で殴る前に緊急に怒りについて考え直そうということになった。この本の中ではさいごのほうに許すことについて書かれているが、やっぱり納得はできないのである。う~ん、相手にしない無視という方法はまだ許すということではないのである。どうすべきなのか。

 この本で怒りについて銘記しておきたいことは、怒りはもしかして人によって呼び名が違う場合もあるということだ。この感覚を「わくわくする」「やる気がわいてきた」と思う人と、「怖れ」とか「いやになる感覚」と捉えている人もいるというのだ。

 怒りの感情をもつことは「悪い」ことだと思っている人は、自分が怒っていることすらわからなくなるし、怒りの表現もできなくなるということだ。いい人と怒りは両立するし、怒りが他人の迷惑になるのは人を傷つけるような表現をしたときだけである。怒りの感情を無下に否定するのはよくないのである。

79522366[1]11.jpg 人は「不当な扱いを受けている」とか、無力感を感じたり、自尊心を傷つけられたりしたら、怒りやすい。キリストやシャカならこれは頭の中の「絵空事」の自分を守っているに過ぎないから、そんなものは捨てろというだろう。この方法は認知療法や、「自我」とは自己正当化と自己讃美キャンペーンにすぎないと喝破したベンジャミン『グルジェフとクリシュナムルティ』に多くを学べる。

 さて、私は相手を「直さなければならない」、「自分は正しい」と思う気持ちを捨てられるだろうか。どうしても許せいな相手を許すなんてことはできるのか。


03 05
2006

書評 心理学

『上手な怒り方』 佐藤 綾子

4569642217
PHP研究所 2005-04-07

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 怒りは怖れや自尊心をないがしろにされたことからおこる。怒っている人は怖れているのだ、哀しんでいるのだ、と理解できたとき、こちらが怒りで反応すれば、相手はますます防御の怒りを発動させるのはわかるだろう。かれは自分を守っているのである。怒りや感情を捨てることができれば、相手の反応は驚くほど変わる。

 さいきん職場で怒っていて気づいたのは、怒りは言葉ではっきり表示しないと、だれに向かって、なにに対して怒っているのかわからない人がたくさんおり、自分に向けて怒られているのではないかと思う人がいるということだ。怒りはためこまず、相手の怖れや自尊心を守りながら、ちゃんと伝えてゆく必要を感じたいしだいだ。でも私はそれができないからこそこの本を読んだのだけれど。

 怒りのような感情の用い方や捉え方というのは、人によって動作や習慣が異なるように、塀や檻の中のようにひとりひとり違っている。だからこのような本の事例によって怒りの表われ方が人によってかなり違うことを知ることも大事である。

 いまの世の中は友だちや仲間から外れることを極端に怖れる社会だから、怒りたいのに怒れない人も多々いるものだと思う。外側に向かわない怒りは自分に向かい、うつやひきこもりになってしまうのかもしれない、怖れる必要はないのだけれど。

 私としては、怒りをおこさせる考え方を見なおす方法がおすすめである。怒りというのは怖れや自尊心の侵害からおこるのであって、その考え方をほかの考え方に改めてみるのがいいと思う。論理療法や認知療法の考え方である。さらには自尊心など絵空事なのだからそんなもの捨ててしまえといったのはシャカやキリストなどの宗教家である。禅のような思考を捨てる方法はだいぶ役に立つ。

 この本の巻末の怒りのコントロール方も参考になる。私の課題は対立をつくるまえに、どうやって不満や改善の要求を小出しにつたえるかということだ。私は無視で不満をつたえようとするから対立を生み出してしまうのだ。

 ▼怒り・感情を捨てる方法。
愛と怖れ―愛は怖れをサバ折りにする。リチャード・カールソンの楽天主義セラピー
禅

03 27
2006

書評 心理学

『心はからだの外にある』 河野哲也

4140910534「心」はからだの外にある―「エコロジカルな私」の哲学
河野 哲也
日本放送出版協会 2006-02

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 心理主義を徹底的に批判したすさまじくすばらしい本である。革命的と思えるほど興奮して読んだ。ただし第三章あたりまで。

 現代は「自分探し」や個人の内面に問題を探る風潮が支配的である。まるで政治や社会、経済になんの問題もないかのごとく、ひたすら個人の内面が問題にされ、ただその当人のみが悪いとされる時代である。

 若者は怠惰でやる気がないからニートになるといわれ、雇用情勢が問題にされない。十代の少年が連続的に犯罪を起こしてもマスコミや心理学の知が問われることもなく、ただ当人の内面だけが問題にされる。下流階層化は当人の社交性の欠如のせいだといわれるが、雇用や社会情勢の変化は問題にされない。まったく個人の心理の責任ばかりに帰せられるのである。

 私も十代や二十代に強く心理学に興味をもっていたが、そのうちに心理学の内罰的な傾向や自分を異常視してしまうことへの疑惑をもつようになった。なんで私の心ばかり責められて、社会や経済のせいにされないのだと。(「あなたの心が悪いのです」断想集 2000/2/29.) 問題の原因は社会学や経済学に求めるほうが妥当と思うようになった。

 この本はそのような心理主義を徹底的に批判した本である。痛く感銘した。感嘆の声をあげながら読みたい気分だった。しかもこのような心理主義はデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」の主観主義哲学から導かれた帰結であるという壮大な歴史も提出する。人間の本質は心であると規定したのはデカルトである。

 「自分探し」がブームになっているが、それを心理学に探ろうとする人は多いが、そもそも心理学は、医療上の要請や産業上の有用性の基準から求められてきたものである。つまりは病的概念のオンパレードであり、そんなものを読む私は病気だらけであり、そして産業社会の成功と失敗の選別だけで自分を値踏みする頭をつくってしまう。心理学など政治的なイデオロギーに過ぎないのである。しかも内へ内へと向かう説明方式は、社会からまったく孤立した心というものがあるかのようである。

 人が自分の性格を知りたいということは、自分の行動特性を知りたいのではなくて、自分の行動傾向を変えたいとのぞんでいるのである。それなのに内面に「私」を探そうとする者は、自分の内面深くに行動の指針を与えてくれる社会的基準や社会規範を探そうとするのである。それは心の外部にあるものなのである。私の本質は、私の外部の権力なのである。

 内面がないという第三章もすごかった。私たちはある人を「優しい」とか「愚か」とかいったりするが、それは身体的な行動パターンから観察されるものであり、その背後に実体としての心があるわけではないといっている。内面があるという思い込みは率直な自分の考えや感情の表現が押さえ込まれることから起こる。そして私たちはたいして「真の自己」といったおおげさなものなど隠していないのである。

 私の説明は舌足らずのためにこの本の多くをまったく説明できないが、スリリングな文章で心理主義の解明をおこなってゆくさまはひじょうに読ませるものがある。心理主義批判には胸のすく思いがする。心理主義化した社会にはずいぶん抑圧されてきた思いがあるからである。

 問題を自分の内面へ、心理へ探し求めるのではなく、社会や権力に求めてゆくこと――こういう転回がいままさに必要とされているとこの本ではいっているのだと思う。

自己コントロールの檻―感情マネジメント社会の現実「心の専門家」はいらないフロイト先生のウソCIMG0004111.jpg
森真一『自己コントロールの檻』は心理主義批判の衝撃作である。『心の専門家はいらない』もずいぶん鋭い。『フロイト先生のウソ』も心理学をペテンだと言い切っている。『ナルシシズムの時代』にはアメリカでのセラピー普及現象についての一章がある。心理学は徹底的に叩かれなければならないと思う。

06 18
2006

書評 心理学

『他人を見下す若者たち』 速水 敏彦


4061498274他人を見下す若者たち
速水 敏彦
講談社 2006-02

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 ぶれている。根拠のない有能感によって人を見下す若者を批判しようとしているのだが、そもそも有能感や自尊心といったもの自体が根拠のないものといえるから、若者の人の見下した態度を責める根拠にはなりえない。優越感や自尊心といったものは、なにを根拠に、またはモノサシで立ち上げられるのか、ひじょうにむずかしい。

 この本は著者の若者に無視された経験をもとに実証研究がまぶされた、科学的装いをまとった「ウサ晴らし本」である。「おまえたち、若者はなんでそんなにエラソーなんだ」「根拠はあるのか」ということである。要は著者がかかわる「学校をないがしろにするのはけしからん」ということだが、学校なんてもとからサービス業なはずだし、子どもは大人を尊重するがゆえに大人たちとべつの「場」をつくり、大人は「違う人」だと切り分けるから、大人はいろんなところで相手にされないと思うんだけどな。

 他人を無視した見下す若者の出現を、悲しみを軽視した、ネアカでポジティヴさを強制する社会にも同情心の喪失を見ている。悲しみを評価する社会でないと、同情心が芽生えないということである。by五木寛之。

 著者は教育心理学の人だから、仮想的有能感の出現の理由を商業的理由に求めるのを見事にすとーんと落としている。若者が根拠のない有能感をもつように見えるのは、メディアや消費がかれらに有能感をもたせる消費をおこなわせてきたからである。

 かれらはニュースですべての人をバカにして裁く視点に同一化しているし、音楽や映画、またはモノの消費によって、優越感や有能感を得られる消費をおこなっている。つまり消費社会というのは消費者の優越感を満足させるサービスなのであり、学生のあいだに専業的消費者としてのかれらは王侯的な有能感をじゃぶじゃぶとまとわりつかされるのである。それは企業社会や労働においてはまったく役に立たない基準なので、若者は社会に出ると面喰うのだけど。

 子どもや若者はこの有能感をひじょうに色濃くもっており、学校での有能/無能というモノサシはすでに効力を失っているのである。いくら著者が学校を見下すなと嘆いたところで、時代の趨勢はもう逆戻しにはできないのである。

 有能感や自尊心というのはひじょうにむずかしい問題である。著者は若者の有能感を「仮想的」と命名することによって健全な自尊心と区別しようとするのだが、はたして人を暗黙に見下さない自尊心ってあるのだろうか。根拠のない有能感だというが、自信にみちた成功者も絶対的に根拠にあるものなのか。またことさら人を見下す若者を批判しているが、エリートや上流階級といった人たちはここん下層階級を見下してきたのではないか、かれらは健全な自尊心だといえるのか、さまざまな疑念がおもいうかぶ。

 この本も有能感も優越感もすべて「砂上の楼閣」って気がする。絶対的に根拠のある自尊心ってあるものだろうか。永久の勝ち負けってあるものだろうか。

 また自信というものを責めてしまえば、自信のない萎縮した人生を賛美するわけでもとうぜんないだろう。有能感や優越心は人が生きてゆくうえで必要なものである。私の不快感のために人は自信のない人生を送れっていうのか。人を軽蔑しない有能感が必要だということなのだろうけど、そもそも有能感って軽蔑と優越でなりたっているものではないのか。健全な自尊心ってどこまでいってもウソくさい気がする。せいぜい人を見下さない自信を身につけるということだが、自信って比較なしに立ち上げることはできるのだろうか。「……」である。

 ▼関連ファイル
 「なぜ働かないことに有能感を感じるのか
 「誇大自己症候群」書評


12 19
2006

書評 心理学

『「普通がいい」という病』 泉谷閑示


 『「普通がいい」という病』 泉谷閑示
 講談社現代新書 2006/10 740e

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 いい本ではあるが、タイトルから期待していた内容とちがう。「普通がいいという病」と非難しているから、てっきり多数派や大通りをついてゆく生き方を批判する本と思っていたのだが、それはほんのわずかである。

 普通や多数派のみんなと同じ生き方を批判した本ではない。どちらかというと、大通りからそれてこじれた場合どうするかという本である。

 私としては「病」とつけるからには普通や多数派の生き方をもっと批判してほしかった。そのような本は精神科医に期待するものではなくて、哲学者や社会学者の仕事なのだろう。私は多数派の生き方を批判した本として、J.S.ミルの『自由論』やオルテガの『大衆の反逆』、フロムの『自由からの逃走』、またはニーチェの『善悪の彼岸』、あるいはリースマンの『孤独な群集』などにおおいになぐさめられた覚えがある。その系列ならぶ本でないのは残念である。

 いい本である。洞察力もあり、あちこちの箇所には感心することしきりである。これは親や世間に「普通になれ」と押しつけられ、こじれてしまった場合の本である。いわば、「いつわりの仮面」を脱ぎ捨てて、本当の自分になる話である。これはあくまでも「処世術」にすぎないことを知る必要があるわけである。

 ニーチェは人間の成熟過程を駱駝、獅子、小児にたとえた。駱駝は従順さや忍耐などの象徴である。つまり「いつわりの仮面」の状態である。駱駝にうんざりして怒りで自分を確保しはじめたときに獅子となる。そして「あるがまま」に純粋無垢に創造的に生きる小児の存在になってゆくという。

 この本は駱駝でありつづける人や獅子になれない人のための本である。またはみんなと同じ大通りからはずれ、小径で迷った人のための本である。たぶん楽になれるヒントをたくさん見つけられるだろう。

 ひとつ個人的に気にかかることは精神科医は抑圧されたものは無意識に抑えこまれるというモデルをもっているみたいだが、私は心の問題は禅や瞑想の方法で解決できると考えてきたから、つまり心は虚構であり消せば問題は存在しないという方法に体験的な納得を感じてきたから、精神科医の心的モデルは正しいんだろうかと思う。どちらが現実に近いのでしょうか。

 ついでにいってしまえば、心の問題は神秘思想家がいちばん深淵を知っていると思う。精神科医はまだいつわりの仮面のレベルであり、身体や世界との同一化のレベルにはいたっていないし、言葉や観念の楽観的信頼の段階にとどまっている。西洋の心理学が正統的に神秘思想家に学べるような時代はいつくるのだろうかと思う。


06 18
2007

書評 心理学

『仏教的生き方入門』 長田 幸康


仏教的生き方入門 チベット人に学ぶ「がんばらずに暮らす知恵」 [ソフトバンク新書] 仏教的生き方入門 チベット人に学ぶ「がんばらずに暮らす知恵」 [ソフトバンク新書]
長田 幸康 (2007/05/17)
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 仏教は優れたセラピーである。おだやかで心を流す知恵を与えてくれる。しかしこの仏教国日本で仏教の知識はどんどん忘れ去られている。たぶんにそれは経済的支配者にとって都合の悪い知識だからだろう。

 私は仏教の知恵はなるほどだなと思う。前によく読んだのだが、さいきんは権謀術数の功利的な知識を得ようとしているので、ふっと仏教的おだやかさを思い出したくなったのでこの本を手にとった。

 仏教は心を寛くしてくれる。おだやかに、なだからに、悠然とさせてくれる。気楽にかまえて、むりをせず、いい意味であきらめて、泰然とさせてくれる。

 著者はチベットに惚れて入りびたりのようだ。チベット人のエピソートのうえに仏教の教えがはさまれているのだが、どこの国でも同じだろうが、憧れられる人はいるだろうし、最低の人もいる。チベット人がみんな仏様であるわけがない。

 こんかい心にひっかかってきた言葉を記すことにしよう。

悔やんでも過去は変わらない。悩んでも未来はわからない。

一つひとつのかなわぬ欲望が、苦しみに姿を変えて心の中に積み重なっていき、大きなストレスとなる。これを避けるには、まず「欲しい」と思わないことだ。

こだわるものが少ないほど、人の意識は自由になり、気楽に生きられるようになる

「私」と「それ以外」を分けて考えることが「私」への執着を生み、優劣や好き嫌いを判断することにつながり、すべての煩悩の原因となっていると考えられる。つまり、仏教では「分別がある」は悪い意味なのだ。

憎しみが大きければ大きいほど、自分が苦しむだけで、相手には何の影響も及ぼさないんだ。

多くのチベット人にとって、仕事はお金を得る手段にすぎない。



 ちなみに私の仏教知識は、日本の仏教より、それを経由したアメリカのトランスパーソナル心理学やニューエイジからおおく学んだ。輸入パッケージされた仏教のほうが手にとりやすかったのだ。

 私に必要だったのは心を捨てる方法だった。瞑想や禅の方法を得たかったのである。悲しみや不安を捨てる方法を知りたかったのである。私はそれを捨てる方法を知らなかった。いつまでも悲しみや不安がとりついて離れなかった時期があって、だから心を捨てる方法や心のしくみを知る必要があったのである。それを教えてくれたのがトランスパーソナル心理学であった。私に心の革命をおこした書は以下のものである。

 もしあなたが何らかの感情をとりたいと思うのなら、迷わずリチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』をおすすめする。ケン・ウィルバーの『無境界』は感情や自我に同一化しない方法を教えてくれる。クルシュナムルティの『自我の終焉』は思考の愚かさを精巧に探究した本。ハリー・ベンジャミンの『グルジェフとクリシュナムルティ』は自我が頭の中のおしゃべり、幻想にすぎないことを教えてくれるだろう。これらの本に私は最大限のの賛辞をおくっても惜しまない。

リチャード・カールソンの楽天主義セラピー050[1]11.jpgCIMG0006121.jpg79522366[1]11.jpg

08 05
2007

書評 心理学

『「デタラメ思考」で幸せになる!』 ひろ さちや

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478973126X「デタラメ思考」で幸せになる! (新書ヴィレッジブックス)
ひろ さちや
ヴィレッジブックス 2007-07

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 ひろさちやはいいことをいう。「「働きたくない」という欲望が、いちばん人間らしい欲望です」。「道徳なんて、馬鹿にしたほうがいいのです」。「欲望を充足させると幸福になれるというのは、悪魔の思想です」。

 とくに働きたくない気持ちを正当化するメッセージにはおおいに共感する。私も仕事で遅くなると「いったいなんのために生きているのか?」と怒りに煮えたぎってくるし、仕事をしているたびに人生を奪われている気がする。しかし会社におもねるしか生きる道がないし、年収が低かったり非正規雇用であると「下流」だといって脅される。

 なんで日本はこんなに働くことに価値をおいた社会になったのだろう。なぜ日本は働きたくないというごく人間らしい欲望を認められない社会になったのかと思う。私には正気の沙汰に思えない。マジメに勤勉に働いて、立派な家や豪華な車に乗ることがステータスになってしまって、自分のための人生がない。私はこの価値基準がまったくさかさまだと思う。

 ひろさちやは世間の価値観や欲望の奴隷となった日本社会のありようをすべて批判する。過激で、痛烈なことをいっているはずなのだが、ふしぎなことにひろさちやの筆は危険なことをいっているという感じがない。たぶんやさしい文章で噛み砕いているから、過激さが中和されているのだろう。

 まったくいい社会批判である。そもそも仏教は社会のおおくのことを批判して世間や家族を捨てる思想をもっていたものである。日本の仏教僧は国家公務員であったから、世間や国家の服従を説くようになった。ひろさちやは仏教の原点を社会批判というかたちでくりひろげる。仏教はこのような反社会なものであり、人間の過ちや愚かさを痛烈に批判するものであったはずだ。そういうキバが抜かれた仏教は世間の奴隷や過ちを正す役割をなにひとつもてないのである。

 ひろさちやのお顔の写真をながめていると、この人は破天荒な坊さんという感じはしない。どちらかというと世間に従順に生きるタイプのほうに見えるし、サラリーマンっぽく見える。この人は思想と行動が乖離しているのかな、あるいは世間の力をちゃんと配慮できる人なのかなと思う。

 ひろさちやはこのような社会批判の同じような本を何冊か出していて、私も一、二冊読んだ。同じことだと思っても、好きな主張だから私は確認する意味でもう一度読むのである。ひろさちやは世間の価値観の足元を蹴飛ばす。仏教とはほんらいこのようなものでなければならないと思うし、人々の世間に拘束されたり、欲望のワナにはまる愚かさを指摘する思想であったはずである。この大切な役割をいまの仏教が果たしているとはとても思えない。

 この言葉は好きである。

「立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」



 いくらお金や権力をもてたとしても、人間の必要なスペースと食べられる量は限られているのである。人間はどうも世間の他人にむけて権力や豪勢さの威嚇をしないとコワくてしょうがないみたいである。

「日本語の愛は、本質的に「執着」を意味します。
仏教的には自分を中心にして相手への自分の執着を貫こうとする心持ちをいう。仏教では「愛」を必ずしもよいこととは見ていない。また、概して優位にあるものが弱小のものをいとおしみ、もてあそぶ意の使い方が多かったので、キリスト教が伝来したとき、キリシタンはキリストの愛を「愛」と訳さず、多く「ご大切」といった。
二つのものを比較して、どちらかいいほうを選ぶのが「愛」です。だから仏教は、「愛」を嫌います。「愛するな」と教えます」



 現代日本の至上のものとされる「愛」だが、やっぱりウソっぽさや欺瞞もたくさん感じられるし、利己主義や功利主義ではないか、たんなる経済の要請に過ぎないのではないかと疑問が噴出するのだが、こういう至上のものを足蹴にしてくれる思想は私の強迫観念を吹き飛ばしてくれて、たいへんありがたいのである。


あるがままに生きよ 「狂い」のすすめ (集英社新書 377C) ほとけさまの「ひとりを生きる」智恵―人生の不安をとりのぞく22講 名言・ことわざにならう ひろさちやのゆうゆう人生論 (集英社文庫) 生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)
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ひろさちやの過去に読んだ著作

4569606032仏教に学ぶ「がんばらない思想」
ひろ さちや
PHP研究所 1999-05

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 仏教はまったくいいことをいっている。高度成長とかバブルの時代になにをやっていたのだろうか。この本は競争社会に走りつづける日本人のよい解毒剤になるのはまちがいないのだが、いったいどれだけの人が読み、かつじっさいの生き方に実践するというのだろうか。

 「なぜ日本人は奴隷になったのか」「生きがいなんて要らない」「過去のことをくよくよしない」「明日の心配はしない」「進歩がなくてもいい」といった魅惑的なタイトルが目白押しで、キレイ言ばかりいう仏教というイメージを一新してくれるかなり批判精神の効いた仏教の本である。

 こういう精神のかまえはできるだろうが、じっさいのビジネス社会にどれだけの実効力があるのかというと、やっぱりかなり悲観的にならざるを得ない。

433400718Xお釈迦さまの肩へ―ひろさちやの幸福論 (カッパ・ブックス)
ひろ さちや
光文社 2001-07

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 言っていることはものすごくいいことだと思う。「頑張ってはいけない」「競争の渦に巻き込まれるな」「自分と他人を比較するな」「会社や組織を突き放せ」「よけいなことは考えない」「ほどほど、いいかげんがいい」――涙がちょちょぎれるほど、慰められる言葉群だ。

 右肩下がりの下り坂の時代にはとてもぴったりした知恵だと思う。ただ、ひろさちやの文章はどうも感銘や驚きがなく、あっさりと読み終わってしまう。落とし処やねじりとか、突き放しがどうもない。森毅のような人に言わせたのなら、辛辣に常識の馬鹿が笑えたと思う。かなり惜しい文章である。


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うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。ビジネス書、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、精神世界、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

twitterはこちら→ueshinzz

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