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06 23
2019

書評 心理学

その前段階を知りたいのだけど――『「話し方」の心理学 』 ジェシー・S・ニーレンバーグ



 私は会話をムダに思ったり、嫌ったり、けっこう偏った思い込みによって、会話との距離に苦労してきたと思う。学校というのは同じ友だちと毎日の時間をともにつぶす関係で、しまいに人との日常を維持する関係がつかれてきた。ひとりになりたいと思ったり、集団との共同陶酔の場をきらったりして、私の会話との関係は複雑骨折と回り道に彩られている。

 あたらしい職場に放りこまれたことによって、また会話の懸念が再燃しそうなので、話し方の本を数冊読んだが、私が知りたいのは会話の上達術ではなく、それにいたるまでの関係のあり方や、話してよいのか、距離をおくほうがいいのかといった関係や、場の空気をどう制御するかといった前段階だ。話し方の本は山のように出ているのに、対面の関係以前の段階にふさわしい本がなかなか見つからない。

 基本的に私は会話を軽んじてきた。人はどうしてそんなにしゃべるのが好きなのか、しゃべることにそんなにカタルシスがある意味がよくわからない。その場を維持するための会話もとてもきらいだ。同調圧力もきらいな上にそういう本ばかり読んで、ますます会話を避けて、人との関係を維持することに苦労してきた。

 この本は1963年に出された古典的名著と位置づけられる本のようである。会話についてのそれなりの洞察の深い心理学的なトピックが語られている。心理学的な洞察や解明を得ることができるので、直球的な会話の上達術をめざしたい人にはそれなりの実益のある本になるだろう。

 話にはどのような効用や目的があるのか、つぎのように語られている。

「人とのむすびつきを強く求め、注目されたい、自分を表現したい、人に支持されたいと願う。それが満たされないと孤独感に襲われるという人が多数派なのである。

知性を示したい、徳の持ち主であることを証明したい、スキルを認めてもらいたい、人に影響を与えない、感情を吐露したい、それなのに誰も受け止めてくれない。

会話は金銭に換えられないすばらしいもの――注目、関心、興味、共感、知恵――を相手に与えることができる。物質的なものでは満たされることのない深い飢えを、会話は満たしてくれるのである」



 会話には承認を求めたり、感情を発散させるという効果があるというわけだ。うれしかったり、いやな出来事があったら、人に話したくなる。自分でもちきれない感情は、だれかに話すことで発散される効用がある。だけど悪口ばかりいっているといやがられるし、自慢話や自分のことばかりしゃべっていても、いやがられる。会話とは、発散だけでは御しきれない規制がたくさんある。ぎゃくにそのような規制や禁止が多くて、私みたいに会話はいいやと回避してゆく者もいる。私はさしずめ書くことによって発散や承認を求めてきたから、会話はいらないというタイプだろうか。

 なかなか感銘した節につぎのような文章がある。スタイルのよいセクシーな少女とすれちがったジョーという男の反応についてだ。

「ジョーは性的興奮が少女の側にある、つまり彼女の一部だと信じて疑わない。…わたしたちもジョーのように、ほんとうは自分の経験なのにあたかも客観的な事実であるかのように語る傾向がある」



 こういう自分の体験と他人の体験を分けられない感じ方というものがあるのだな。たとえば病気であったり、イライラしているとき、他人もイライラしているように見えたり、いざこざにぶつかりやすいといったことを想像する。私の機嫌が悪いために、他人の機嫌の悪さに出会うことが多かったりと、他者との境界が未分化になる関係はあるかもしれない。荒れている職場なんて、ドミノのように不機嫌がまわり回っているということもある。楽しいことも、次のように指摘されている。

「自分にとって楽しいことは相手にもきっと楽しいはずだと思うのは幻想である」



 ほかに白黒はっきりせず、グレーゾーンに位置づけるという節にも共鳴した。二元論や全か無か思考ともいうのだが、人はこの世界を両極端のふたつに分けたがり、それ以外はいっさい存在しないと考えがちだ。強いか弱いか、成功か失敗か、ポジティブかネガティブか、そのほかはいっさいないと思いがちだ。

「的確な一般化はまさに人類の知識のエッセンスであり、膨大なリサーチの結果を手間ひまかけて蒸留し、ようやく得た一滴と言える。
…が、誤った知識は知識がゼロの状態よりも救いがない」



 心理学洞察からとらえられた話すことにかんする熟考がくりひろげられる本書であるが、私が知りたいのはこれではない。場におけるふるまいや、TPOにおける会話といった前段階のことをもっと知りたいのだと思う。自分でさえなにを知ればいいのか、不明確である。知識というのは、こういうふうにさいしょの入り口、とば口がいちばん開きにくいというものである。



カーネギー話し方入門 文庫版成功する人の話し方 7つの絶対法則人の心を一瞬でつかむ方法―人を惹きつけて離さない「強さ」と「温かさ」の心理学会話分析入門儀礼としての相互行為―対面行動の社会学 (叢書・ウニベルシタス)


04 04
2019

書評 心理学

被害者は絶対的な正義なのか――『「心の傷」は言ったもん勝ち』 中嶋 聡



 被害者や弱者の権利が回復されたり、主張が社会にうけいれられることはとても大切なことだと思うのだが、SNSでは被害者の権利を叫びつづけて、人の自由や勝手がどんどん奪われることも目に余ってきた。

 たとえば女性が性的表現の雑誌などをコンビニで見かけたら傷つくから撤去しなければならないとか、古くは禁煙運動だってはてしなく喫煙者を追いつめて、副流煙という被害をうけるから街角から一掃せよという流れにまでおよんでいる。被害を声高に叫びすぎて、他人の自由や勝手の権利が侵害され、まったく守られなくなることは、ぎゃくに権利の侵害ではないのか。

 これを「被害者正義」の暴走やいきすぎだと思っていたのだが、このような社会現象を2008年に「被害者帝国主義」という名前で指摘していた人をみつけた。この著者は精神科医で、『ブルマーはなぜ消えたのか』という本も書いており、その本は知っていたから、いまさらながら、そういう被害者正義について書かれた本なのかと気づいた。

 被害者の権利が回復されることはとてもいいことだ。だが人がこれまでふつうに享受していたものが、被害者の権利によって剥奪、絶滅させられることはいいことなのか。人の自由や権利は、なんら尊重されない現象も、同時におこっているのではないか。

 うつ病のような仮病とか怠けといわれかねないものが、社会に理解されるようになったのはいいことだが、この心理的弱者の権利がみとめられる流れは、この「被害者帝国主義」にも力を与えてきた一派ではないだろうか。

 日本女性の権利が低く、平等を求められることは必要なことだ。だが、だからといって男性の権利や自由も剥奪や強奪されてよいものか。このフェミニズムからの流れも、「被害者帝国主義」への奔流へとそそぎこんできたものではないのか。

 この本では朝青龍問題というもう忘れかけのゴシップから語られ、セクハラはそもそも犯罪なのかと問われている。もうこの本が書かれてから十年以上たっているのだが、被害者帝国主義の勢いはいまだとどまってはいない。善や正義と思われてきて、進歩だと捉えられてきたのだが、疑問点や問題点の大きさも、再考がうながされるべき問題ではないのだろうか。

 進歩や正義の印象も多かったのだが、いやけっきょくは別様の被害者を生んでいるだけではないのかという疑問も大きくなってきた。これはポリコレのいきすぎの問題とも重なってくるのだろうか。被害者が暴走すると、まるで「当たり屋」のように被害の大きさを叫びまわることになる。自分の被害の救済を訴えていたことが、「当たり屋」のようになってしまえば、羞恥と倫理観の痛みも感じざるをえないのではないだろうか。

 ニーチェは道徳にひそむ平等化や畜群化に罵倒をくわえて、超人や強人がもっと伸びてゆく社会を理想とした。日本におこっていることはまったく被害者や弱者の暴走や正義化ではないのか。平等がいきすぎる社会にも問題はないのか。

 平等は道徳的にはすばらしいし、道徳的に人の情けや思いやりはすばらしいことだと思う。だが、一方では社会を強いほう、優れたほうを叩きつぶす側面もある。ニーチェ以降のオルテガやリースマン、フロムといった大衆社会論の人たちは、その懸念を語ってきたのではないのか。

 この被害者帝国主義はどこにいきつこうとしているのだろうか。どこまでいけば、気が済むのだろう。またその流れはすばらしいことなのか、それとも一定の警戒や歯止めも求められるべきなのか。もう被害者の救済が、全面的な善や進歩と見ることはできない。



ブルマーはなぜ消えたのか―セクハラと心の傷の文化を問う被害者のふりをせずにはいられない人 (青春新書インテリジェンス)シャーデンフロイデ: 人の不幸を喜ぶ私たちの闇他人を引きずりおろすのに必死な人 (SB新書)道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫)


04 01
2019

書評 心理学

心理学を学びたかった高校生は、その後三十年なにを知ろうとしてきたか

 高校生のときに心理学に興味をもち、大学では心理学を学びたいと思う人は多いと思う。

 べとりんさんの心理学志望に釘を刺す記事がおおいに話題になった。

 悩める高校生よ、「心理学部」を選ぶのはまだ早い

 大学の心理学で学ぶのは、みなさんがイメージするようなカウンセリングや心理療法ではなく、統計や実験をもちいた科学的な心理学であるということである。心理療法というのはあまりにも「非科学的」なので、統計や実験をもちいた「科学」に心理学はなろうとしていて、その「防備」の方法を学ぶことになる。

 「おまえのいっていることは真実なのか、ただの主観や決めつけではないか、正しいというなら証拠を見せろ、実験結果を見せろ」という証明や実証におおくの精力をそそいでいるため、心理療法のような非科学的なやり方は不都合なのである。だから、「非科学的な」心理療法を学べると思ったら、おおいに幻滅することになる。論争に打ち勝つためにさいしょから多くの結果をしめさなければならない科学的手法を学ぶ場なのである。


 ■心理学のなにを知りたいのか

 高校のときに心理学になにを知ろうとしていたのだろうか。多くはクラスでの人間関係や集団とのつきあいに悩んだり、苦しんだりして、どうやって生きてゆけばいいのかという身近な問題から発しているのではないだろうか。

 ときにはふつうや常識的なことができなくて、私は異常ではないか、どこかおかしいところがあるのではないかと思い悩んでいることもあるだろう。「発達障害」とか「アスペルガー症候群」とかいう症名は、自分もそうではないかという恐れをもよわせるし、そうだったらいままでまわりに合わせられなかった原因がわかったと安心したりするだろう。

 精神医学は、病んだ人を治す試みのはずである。しかし境界線にいる人、もしくは悩み多い人には、自分はその異常者ではないかという恐れをもよわせる断罪の振り分けになる。精神医学は、人を振り落とす恐怖の権力の面ももつ。自分は「異常者」として振り落とされ、社会にも適応できないのではないかという恐れを、心理学が生み出す側面もある。

 私も自分で対人不安的なことや神経症的なところがあって、高校のときくらいから心理学に興味があった。新書で宮城音弥の本を読んだり、フロイトの精神分析を読んだのは十代であったと思う。自分の異常視をひたすら恐れるところがあった。

 その後、私は大学で心理学を学ぶことはできなかったが、ひとりで人文書の本を読むことを三十年ほどつづけてきた。自分の疑問や関心あることをずっと考えつづけて、それに関連した本を読むというスタイルを、ずっと三十年はつづけてきた。

 そして自分のほんとうの知りたかったことは、心理学だけだったのかと思えるほうが多くなった。現代思想のほうが興味をひかれたし、社会学の本はびしばしと自分の心に突き刺さってきたし、ビジネス書もかじってきたし、自己啓発は役に立つと思ってきたし、文化人類学、民俗学、社会生物学、神秘思想や仏教と、興味あるものはジャンルと関係なく漁ってきた。

 むしろ自分の知りたいことは心理学みたいに自分の内面だけに向かうだけではなく、社会学や思想、経済学のような社会のほうに目を向けないとなにもつかめないのではないかと思うことが多かった。外側の条件や考え方が、自分の心を責めたり、追いつめたりしている。自分の心を解放したいと思ったら、心の内面をいじるだけではなく、社会のほうを見きわめないとまるでムリではないかと思うようになった。

 心理学は自分を責める方向ばかりに向かいがちだが、社会学や現代思想は「社会クソヤロー」という他責のほうにすすむ。

 心理学は「自罰」であって、社会学は「他罰」である。もし自分を責めるほうに進みがちな性格なら、他罰の社会学のほうに目を向けるべきである。

 心理学は「それはほんとうか」を考える。しかし社会学が心理学をあつかえば、「心理学はなぜそう考えるのか」を問う。ほかの学問が「真実とはなにか」と前のめりに対して、社会学は「なぜそう考えるのか」と皮肉でメタな視点ももちうる。世はセラピーが大流行りである、社会学は「なぜ大流行りなのか」の視点から問う。


 ■高校生のその後の三十年

 フロイトの精神分析や森田療法に興味があった高校生はその後三十年どんなことを知ろうとすることになったか。

 まずは大衆社会論にハマった。これは画一化、同一化してゆく大衆を批判する社会学や哲学の一ジャンルである。「みんながやっているから、おまえもやれ」「流行りや慣習だからおもえもやれ」という強制に腹を立てていた私は、まさにそのことを批判したこのジャンルにおおいに留飲を下げた。友だちや集団の同調圧力やみんなに合わせなければならないという圧力に抵抗を感じている人はぜひこのジャンルに当たってほしい。

 心理学に興味があるだけだと思っていたら、現代思想や社会学のほうがもっとおもしろい、自分が知りたかったことだと気づいた。現代思想は社会学や心理学もふくむ横断的・全体的な俯瞰をもつ統合的なジャンルである。難解でむずかしいと思われるかもしれないが、心理学に興味をもつ人なら、どこかに自分の知りたいことを探っていたかつての思想家を見つけることができるだろう。

 岸田秀は心理学者だが、社会のほうに目を向けた「共同幻想論」や「唯幻論」といったものも、読んでみるのは価値がある。社会の常識やルールといったものは幻想であり、ひとつの虚構であると言い切った人である。もしあなたが、社会の常識や決まりに追いつめられて苦しんでいたとしたら、どの心理療法より解毒剤になる。社会の決まりなんて恣意的な取り決めに過ぎない、と束縛を解いてくれる。

 岸田秀は強迫神経症に悩んだというから、そういう社会の取り決めから解放されることが、彼自身の解放になった。これは現代思想のポストモダン思想とほぼ同じである。ポストモダン思想を学ぶことは、社会の常識や決まりから解放をもたらすセラピーになるのである。

 ひところアダルト・チルドレンという言葉が流行ったが、自分を抑えてまわりに合わせてしまいがちな人を指す。そのような性格は毒親や虐待のような育て方に端を発するのではないかと、アリス・ミラーや加藤諦三のような交流分析派や自己実現セラピーが読まれたわけである。ただ加藤諦三は親の怒りを生き直さなければならないとか、過去の怒りに固着しがちであって、私は後におおいに疑問に思った。

 世はポジティブ・シンキングや認知療法といった考え方を変えれば気持ちも変わるといった現在志向のセラピーも増えた。これは精神分析のように過去を問題としない。いまの考え方を変えればいいという考え方である。うつ病の療法にも認知療法が効くといわれるようになって、過去にこだわりつづけた精神分析はなんの効力があったのだろう?


 ■自己啓発や神秘思想といった非科学的なものも

 ここまでもこれからも、私は厳密には科学的といわれるジャンルをほぼ読んでいないとはいえる。論証や論理で納得してもらうという学説である。一般的な学術書なら、このような本ばかり読もうが、だれにも文句をいわれることはない。心理学でひたすら実証主義的で、統計学的な研究しかできなかったら、このような知識をたくさん学べただろうか。

 私は自分の興味あることだけを羅針盤に本を読んできたから、自分にとって必要な知識をたぐりよせることができたと思っている。心理学で学びたいものというのものは、自分が生きてゆくうえで必要な役にたつ知識や技能ではないだろうか。学校の教えられるとおりのカリキュラムを待っているだけなら、自分の必要な知識がむこうから都合よくやってくるとは限らない。自分にとって必要な知識を、自分が必要なときにたぐり寄せる技能こそが、カリキュラムより大事だと思う。

 自己啓発なんて、科学からいちばん遠い低俗のジャンルと思われているのではないだろうか。「願ったことが叶う」「ポジティブなことを考えていれば、そのような結果がやってくる」といった自己啓発は、主観的な思い込みにしかすぎないと科学は一刀するだろう。

 しかし交流分析の「人生脚本」といった考えはじつに自己啓発の「人は思う通りの人間になる」と同じことであり、認知療法だって、自己啓発の「いいことを考えていればいいことがおこる」といった考えと近いものがある。ポジティブ心理学も学術的にとりこまれることがおおくなったのだが、もとは自己啓発が長らく語ってきたものだ。自己啓発が学術的なお墨付きを与えられるようになった、もしくは心理療法が主観的・精神主義なものにとりこまれているといったらいいか。

 私は自己啓発的なセラピーによって、思索主義的な傾向を一変させることになった。「思考を捨てる」や「思考は現実ではない」といった言葉を聞くことによって、いままでのセラピーや知識を捨てて、精神世界や仏教といったものも読めるようになった。トランスパーソナル心理学ともいう。要は言葉の信頼をいっさい捨てていいという知識に出会ったわけである。科学的な姿勢を学んできた者にはタブーなジャンルであるし、怪しい知識が山ほどあるのは承知だが、この一点を知ることによって、呪縛を解いてよいことがわかった。

 私たちは言葉がつくりだす世界を現実のものと思い、その世界から出ることはなく、言葉が思い浮べるものによって感情や情感がつくられる。その世界は虚構やひとつの幻想であって、現実にあるものではない。言葉や思いといったものは、外界にモノや物体として存在するものではない。その存在しないものにどうして私たちは感情するのか。言葉のない世界というのは、私たちがよって立つ言葉の世界の虚構性をあぶり出すものである。

 神秘思想や仏教といったものは、科学からすればずいぶん怪しくて、いかがわしくて、触れてはならない世界である。でもいちばん安らかで、心が穏やかになれる知識をあずけてくれたのはそのジャンルである。心理学に興味をもった高校生は、三十年かけて自分の知りたいものに到達した気がする。学校では科学だけを信じなさいと教えられ、宗教忌避の態度がつちかわれる。だが、神の存在信仰以外の考え方こそが、多くのセラピーをもたらし、役に立つものとは。

 仏教はまた脱俗や脱世間といって、世間の価値観やヒエラルキー順位から降りる方法を教えたりする。学校での序列、世間での序列を人は勝ち残らなければならないとたいていの子どもは叩きこまれるのだが、仏教はそのような価値観を脱落したり、相対化する知恵を教えてくれたりする。成功や競争、世間体といったものに疲れた人には、仏教は癒しを提供してくれる。

 マインドフルネスといった瞑想を科学的にヴァージョンアップしたものがいまは世に受け入れられつつある。言葉がつくりだす世界を捨てることによって、心の安かさが訪れる。知識や交流は言葉なしではおこなえないものである。感情や思いもそれによってつくられる。だが、その言葉は苦悩や悲嘆といった苦しい情感ももたらす。その言葉をもたない瞬間をもてば、人はどんなに安らかになれることか。





 心理学の進路に悩む高校生に届けばいいと書きはじめた記事だが、とんでもない結末に導いてしまった。たしかに三十年前に心理学を学びたかった高校生は、その後三十年こういう行路をへた。

 言葉や知識をたくさん貯めてものごとを知り思索をたくさんすることがよいと思っていた青年は、うつ傾向になり、ポジティブ心理学や自己啓発をへて、思考や言葉を捨てる神秘思想に出会った。たくさん貯めて、捨ててよいところにたどりついた。

 三十年前に心理学を学びたかった高校生は、自分の興味あることを羅針盤にして、山にのぼって、山をおりるところにきたということですね。まあ、これからも困難や問題に出会って、また手がかりをもとめて人文書全般に手を出すことは変わりはないと思いますが。

 自分の知りたいことは、自分の心にたえず問いかける。自分の知りたいことは、大学やほかのだれかが教えてくれるわけではない。自分でその疑問や謎をもちつづけて、考えたり、関連本を読んだりして、ようやくつかみとれるものである。自分の知りたいことを、都合よくタイミングよく他人が教えてくれるわけではない。自分の疑問は、自分で解いてあげるしかない自分だけのものである。そのときに知識や学問は自分のためのものになり、自分の悩みや問題を解決する杖や技術になり、人生や困難を助ける最大の味方としてほほえんでくれるだろう。


▼心理学を学びたいなら、教科書的な本より、名著ガイドから気に入った名著を読むことをおすすめします。教科書は映画のあらすじや概要をまとめたもの、名著は映画そのものを見ることに等しいです。予告やあらすじだけ読んで、映画見ない?
高校生のための心理学講座: こころの不思議を解き明かそう (心理学叢書)心理学に興味を持ったあなたへ 大学で学ぶ心理学 改訂版高校生のための心理学入門心理学の名著30 (ちくま新書)世界の心理学50の名著 エッセンスを読む


01 12
2019

書評 心理学

病状記――『七秒しか記憶がもたない男』 デボラ・ウェアリング

七秒しか記憶がもたない男 脳損傷から奇跡の回復を遂げるまで
デボラ・ウェアリング
武田ランダムハウスジャパン



 「回想や記憶をもたずにこの瞬間を生きろ」というのが神秘思想や禅の教えである。私は過去の想起による悲哀の痛みを味わってきたので、過去の遮断による苦痛の削除という考えは正しいものだと思っている。

 しかし世間やメロドラマでは、「思い出こそがすばらしい、過去こそが私である」といった考えのメッセージが当たり前である。思い出にひたれば感傷的な感情がコントロールできない痛い目に会うし、だいいち過去なんてこの世のどこにもう存在しないものだ。存在しないものを追う考えが、ほんとうにすばらしいものなのか。

 この整合性がとれないので、しばらく記憶や想起の問題に手をのばしている。記憶喪失物語に、現代の私たちは自己のなにを賭けているのか、そのへんを言語化してつかみたいと思っている。

 この本は、ある意味、神秘思想家が理想とするようなこの瞬間だけを生きる人間のナマの姿を見ることになる。記憶を維持できないと、日常生活もおこなえず、この瞬間はたえず目覚めたはじめての瞬間になるのである。その状態がひたすらくりかえされる。

 禅や神秘思想の瞬間主義というのは、なんらかの記憶は温存されていないと、ふつうには生きていけない。想起や思い出しはやめておけというわけだろうか。禅を字義通りにうけとると、日常生活も送れない病者になってしまう。

 この本は、ウィルス脳炎によって記憶の海馬を破損された夫の初病記を、妻が記したものである。さいしょはインフルエンザとしか医者には診断されていない。その原因が診断されるのはずっと後からで、その間ずっと脳は破損されていたことになる。

 発病の三か月前にふたりで記憶障害の雑誌を読み、議論をくりかえしたという。夫は音楽家でハードワークがたたっており、願望的なものが引き寄せたのかもしれない。

 妻による病状記であって、専門的な議論は期待できない。夫は記憶がその場からもれてゆき、とどめることができない。この瞬間に目覚めてはじめての出会いを喜び、ふたたびその元の状態に戻る。妻とはその会話がえんえんにくりかえされる。そのようなちっとも進まない病状記である。

 時間がない存在というのはまさにこのような存在であるわけだが、ここではその状態が深く考察されているわけではない。記憶力がない人間は、その場その場が新しい瞬間であり、日常生活もままならないのである。

 妻は夫とひと回りは年下であり、夫の介護施設をととのえる尋常ではない努力をしたのち、回復の見込みのない夫と、三十代で子どもをもてない人生に焦燥を感じて、夫と離婚を決意する。イギリスから、ニューヨークやギリシャに住んでみたりして、この苦しみの多い生活から離れようともがく。だれも責めることはできない。

 時間や記憶がないことの考察がもっとおこなわれていれば、参考になる本になっただろうが、病状経過記のようなものであって、そのようなものを期待した向きにはこの本は合わないかもしれない。

 いまやこの瞬間を生きろといっても、記憶を足場に立たないと、なにごともおこなえないのがこの本の教訓だろう。


失った記憶 ひかりはじめた僕の世界 ―高次脳機能障害と生きるディジュリドゥ奏者の軌跡壊れた脳 生存する知 (角川ソフィア文庫)妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)記憶喪失になったぼくが見た世界 (朝日文庫)


01 04
2019

書評 心理学

記憶が私なのか――『奪われた記憶』 ジョナサン・コット

奪われた記憶―記憶と忘却への旅
ジョナサン・コット
求龍堂



 2019年初のブログ記事です。ことしもよいことがありますように。

 この本はうつ病の治療の電気ショック療法のために15年間の記憶をうしなった作家が、さまざまな記憶の専門家にインタビューする本である。心理学者から宗教者まで幅広い。

 あまり感銘をうける本ではなかった。それより、私自身が記憶についてなにを問いたいかも明確にできていない。

 記憶喪失の物語が増えていることと、神秘思想や禅では記憶を断絶する教えが説かれていることとのつじつまとか、そういったところをたぐりよせたいのかもしれない。

 精神の安楽のためには記憶や過去の想起はなるべくおこなわないほうがいい。だが、ちまたの物語では記憶をなくすことの悲しみがうたわれ、思い出の大切さが説かれる。私は記憶をどうとりあつかえばいいのだろう。

 記憶がなければ人生を生きてこなかったようなもの。記憶がなければ、自分が誰なのかわからない。記憶がなければ、ほかの人たちと分かち合った過去のつながりも失ってしまう。

 一方では、記憶力や想像力に欠けた人間は、その日その日を生きることになり、苦しまないともいわれている。愚かで怠け者が、人生を生きるあらゆる秘訣も知っていたともいわれる。

 さいきんのドラマや映画では、恋人の一方が記憶を失い、思い出や関係の記憶が失われ、その悲劇が悲しまれる物語が多い。私たちは思い出や記憶になにを賭けているのだろう? 記憶や思いでの喪失は、自己の死なのか。「私」とは記憶なのか。

 チベット仏教のリンポチェはいっている。私たちはほんとうは誰なのでしょうか。私たちとは、私たちの考えでしょうか。私たちの感情でしょうか。私たちの物語でしょうか。でもよく見れば、私たちは、つねに変化しているのがわかるでしょう。私たちは昨日の私ではないし、明日の私でもありません。

 現代人はとくに、思い出や記憶が私だと思い、片方の恋人の記憶が失われた悲しみに、人生の喪失やゆらぎの不安に脅かされている。

 私たちは、記憶の私とどうつき合ってゆけばいいのだろう? 私の中ではもう思い出や記憶を大切にしない方向に定まっているが、現代とのズレも感じざるをえない。ということでもう少し、記憶の問題は考えてゆきたい。



転生―古代エジプトから甦った女考古学者自伝的記憶の心理学子どもの頃の思い出は本物か: 記憶に裏切られるとき忘れられない脳 記憶の檻に閉じ込められた私つらい記憶がなくなる日―豊かな人生を手に入れるか、過去を失うか (主婦の友新書)


12 28
2018

書評 心理学

言葉で過去を分断する――『記憶の持続 自己の持続』 松島恵介



 そういえばドラマや映画で記憶喪失の物語が増えていて、なにが問われているのか、言語化したいなと思っていた。記憶喪失の物語はなにもいまに増えたのではなく、第一次世界大戦のトラウマからずっとつくれていると本で読んだ。最近はアルツハイマーもその一種につけ加えられてきた。マーク・ローランズの『トータル・リコール』論も忘れがたい。

 まだこのテーマで深堀りする気持ちはないのだが、図書館には記憶にかんする本がそろっているので、思わず記憶の本ばかり借りてしまった。恋愛の記憶喪失物語において、なにが悲しまれているのか。現代人は記憶に自己のなにを賭けているのか。そういう問いにたいしてしっかり返答してくれる記憶の本は、すぐには見つからないのだけどね。

 現代人は、思い出や過去の想起をひんぱんにおこなうために、過去がどこにも存在しなくなることを忘れがちである。そういう過去の不在を元に立てられた過去や想起の上に自己や恋愛がつみあげられて、現代人の「幻想」の自己物語は信仰されている。この物語を言語化したい。つまり相対化したい。情緒だけで感じられる自己物語は、客観化とコントロールの力をもてないのである。

 この本は私の問いと近いかもしれないが、まだ満足するものではとうていない。過去が存在しなくなることをしっかりと根底に捉えた記憶論、過去論でないと、役に立ちそうもないと思うが、この本ではしっかりとそのベースは確保している。

 断酒会の自助会において、なぜ過去を語ることが効用をもたらすのか、言語での分析をこころみている。言語が過去と現在の私を、区切るのである。「飲んでいた過去の私」と「飲まなくなった現在の私」は、語られることによって、過去と現在の区別をしっかりと打ち立てられることになる。過去は語られることによって、現在の私との区別が明確に宣言され、実行されることになる。

 自転車を乗れるようになったら、その前の乗れなくなった私を忘れることになる、これも問われている。「できる人」が「できない人」に教えるのがむずかしいのは、できなかった感覚を知らなかったり、できなかったことができるようになったプロセスをもう思い出せない、もしくは言語化できないからである。入院前や失恋前の私が、自分のことのように思えず、他人事のように考えられる事柄ものべられる。私たちはなにかが変われば、過去の自分を排他的に排除してゆく自己なのである。

 この本では裁判の過去の検証にも焦点が当てられるが、自分のそのつどの変わるかもしれない想起より、調書の過去を基準にされる裁判のむずかしさが語られる。ふと思い出して記憶が変わったり、言葉の誘導によって過去の記憶は変わったりする。しかし裁判では調書の過去が基準となって、その矛盾や違いを問われてゆくことになる。

 私がいまのところ問いたいのは、恋愛物語においての記憶の喪失は、自己のなにが喪失しているのかといったあたりである。だから、この本はそういう問いに直接答えてくれるわけでは、とうぜんない。だけど、記憶や想起の言語化の能力は、こうやって組み立ててゆくしかない。



生み出された物語―目撃証言・記憶の変容・冤罪に心理学はどこまで迫れるか (法と心理学会叢書)記憶はウソをつく (祥伝社新書 177)過去と記憶の社会学―自己論からの展開想起のフィールド―現在のなかの過去想起の思想史: プラトンから大森荘蔵まで

12 20
2018

書評 心理学

思考の制御の失敗――『侵入思考』 デイビッド・A・クラーク編

侵入思考 ‐雑念はどのように病理へと発展するのか‐
デイビッド・A・クラーク編 David A.Clark
星和書店



 侵入思考といえば、どんなことを思い浮かべるだろうか。受け入れがたい考えがとつぜん浮かび、注意をそれに集中させ、否定的な気分に襲われ、制御が困難なものをさす。ふつうの人にもおとずれ、トラウマ的な過去の反復や非道徳的な思考といったものが思い浮かぶが、病的なものに移行する違いはどこにあるのか。

 へえ、こんな研究が進んでいるんだと手にとったが、この書はひじょうに実証実験的な段階の本で、一般的な読書に向けて書かれたものではないので、区別や理解がむずかしいものになっているので、あまりすすめられる本ではない。

 PTSD、うつ病、不眠症、心配、強迫性障害、精神病、性犯罪者における侵入思考がそれぞれの学者によって書かれた興味ある内容になっているが、まだまだ実証分析によって、ああでもないこうでもないという検討の段階の本なので、一般読者は理解に困難を極める本になるだろう。原著2005年、日本版は2006年に出ているので、一般向けのものも出ているころだろうか。

 こういう侵入思考というのは、認知療法とかマインドフルネスのような思考をながめる訓練をもって、はじめて自覚されるような区別だろう。そういう区別を知らない人には、なんだか自分にとって受け入れがたい不快な考えやイメージが頭に浮かび、その後その思考や感情との苦闘や闘いがおこるような心の状態を経験するだけだろう。

 ひじょうにややこしい本なのだが、とくに印象に残ったのが、どの論文も、思考制御は失敗に終わるといっていることだ。厭わしい思考を斥けようとして、ぎゃくにその思考にとり憑かれる皮肉な結果は、「皮肉過程理論」と名づけられており、だれしも大なり小なり経験はあるのではないだろうか。

 思考を抑えようとしたり、なくそうとすると、ぎゃくにその思考の力がもっと強くなる。さまざまな病理的精神状態はすべてこの失敗におこっているかのような様相を呈するのではないだろうか。たとえば、うつ病や強迫観念、不眠症のような精神の困難は、その状態に知らないうちに呑みこまれるというよりか、それをコントロールしようとして、ぎゃくにその増幅に呑みこまれているのではないだろうか。制御の意志がまさに病理状態にひきずりこむのである。

 瞑想やマインドフルネスでも、思考をなくし、頭を空っぽにする状態が望まれるが、意志でそれをしようとすると、ぎゃくに思考にとり憑かれる。緊張して、アガったときに、緊張を抑えようとしてますます緊張が高ぶってしまったという経験はだれでもすると思うが、まさにこの種の失敗が、多くの精神病理のとば口に構えているのではないだろうか。

 わたしはこれは、思考や感情の「実在視」の失敗やまちがいだと思っているが、人は心の状態を「物質」や「物体」のような形状で捉えるために、意志や力でむりやりどかしたり、なくしたりできると思っている。でもじつのところ、一度発動した緊張や感情は収まるまで放っておくしかなく、意志でどうにかできるものではない。それを実在しないものや存在しないものと、やり過ごすことができない。そして、監視や力を入れることによって、ますますその力を増幅させてしまう。

 「のれんに幕押し」という言葉があるが、まさに文字通りの柔らかいものに対して、強い力で押そうとして、失敗するのである。この失敗の根本にあるのは、心や感情の「実在視」、「実体視」なのである。この世界観の過ち自体を改めないと、ずっと対処をまちがえつづける。そして侵入思考のようなものはとくに強力な力でどうにかしようとしてしまうので、よけいにその抑えようとしたものの増強の皮肉な結果におちいるのである。

 恐怖症の根本にもこの過ちが控えていると思う。恐怖を抑えようとするのである。恐怖は自然な反応であって、それを抑えようとしてもムリだ。それが終わるまで放っておくしかない。だけど、われわれはその恐怖の状態を排斥にかかる。そして恐怖の増進という望んでないぎゃくの結果におちいるのである。

 われわれはコントロールの病、自家中毒におちいっている。発動したものはもう止めようがない。思考や言葉を変える段階では、感情を変えることはできる。だが感情は発生してしまえば、あとは放っておくしかない。私たちはこの段階の違いを捉えることはできていないのである。

 受けいれがたい侵入思考も、私たちのコントロールの失敗が控えている。統合失調症の幻聴などは、自分でない声を聞いたような気がして、その帰属をどこかほかの元に求める。制御しようとしても制御しようとしてもそれは襲って来て、気分はもっと悪くなってゆき、監視はもっと行われ、そのことによってその種の思考がもっと増幅することになる。まさに皮肉過程理論だ。

 侵入思考の一般的な解説書が出ることが待たれる。まあ、思考のコントロールは、仏教がずっとやってきたことなんだけどね。



はじめての認知療法 (講談社現代新書)マインドフルネス認知療法:うつを予防する新しいアプローチ悩み・不安・怒りを小さくするレッスン 「認知行動療法」入門 (光文社新書)自我の終焉―絶対自由への道神経質の本態と療法―森田療法を理解する必読の原典


12 06
2018

書評 心理学

心理学を知りたいときは?――『心理学の名著30 』 サトウ タツヤ

心理学の名著30 (ちくま新書)
サトウ タツヤ
筑摩書房



 心理学を知りたくなる時というのは、どういうときだろう? 人間関係でつまずいたり、なにか精神的に困ったことがあったときなどではないだろうか。でも大学の心理学では、動物実験などをやらされて、思っていたことと違うということがよくあると聞く。

 私もいくらか心理学の本を読んできたが、ほとんどは心理療法系や臨床医学になるので、そういった欠落をうめたくてこの本を手にとった。というか、分類すらよくわからない。やっぱりセラピー系でないと、読みたくはならないのだけどね。

 この本の選ばれた30冊の本の中では、セリグマン、カバットジン、フロイト、ユング、ロジャーズ、フランクル、マズローといったあたりになるだろうか。科学系の実験証明を是とする人から見ると、これらは「文学だ」となるかもしれないけどね。臨床医学なんて実証はむずかしいので、そのへんの分断はどうなっているのだろう。

 この本ではセリグマンのポジティブ心理学やカバットジンのマインドフルネスはとりあげられているのだが、認知療法や交流分析をとりあげていないのは、流れ的にはかなりの欠落に思えますが。

 マインドフルネスの説明で、意識を身体中に満たすことであり、なぜそれがうつ病に効くのかあいまいだといっているのだが、たしかにカバットジンの説明は不明瞭である。たんに言葉や思考をなくし、過去も考えないようにすれば、感情は生まれない。うつはなくなるという道理だ。ただ思考は勝手に生まれるので、だからうつや感情は制御できないのである。

 日本の心理学の名著は一冊もとりあげていないのだが、小此木圭吾のモラトリアム論とか、土居健朗の甘え論とか、世間一般にまで話題になった本もある。90年代後半には心理学ブームといったものがあり、猟奇犯罪の心理学やトラウマなどが世間にものすごく注目を集めた時期もあった。そのへんもカバーしていないね。いまはアドラーが注目されているのだが、アドラーもなし。

 私は精神分析ではぜんぜん納得せずに、自己啓発のカーネギーとかダイアー、リチャード・カールソンにだいぶ学ぶことが多く、それは広義の意味では過去を掘り下げないということで認知療法だったと思うし、ついにはトランスパーソナル心理学をへて、神秘思想や仏教にも理解がおよぶことになった。セラピーは自己啓発のジャンルからも、おおいに学ぶことがあると思うのだが、この本ではいっさいふれていない。

 心理学というのは、科学であるためにはたえず実験実証の目から批判がおこる。文学であっては、科学たりえない。そこで実験心理学のような動物や人を実験する実証が必要になるのだろうが、そういう手間をとっていると、現実の問題からずっと遅れて後手にまわってしまう。それは現実に悩み苦しんでいる人への手助けになるのかという知識にもおちいる。ここいらをうめる知識をこの本からも期待したのだけどね。

 ずっとむかしに心理学の基本書を知ろうとして、『カウンセラーのための104冊』のような本も参考にしたことがある。この本を手にとったのは、心理療法の今日的評価を聞きたかったのかもね。



改訂新版 カウンセラーのための基本104冊世界の心理学50の名著 エッセンスを学ぶ心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 (講談社学術文庫)心理療法の交差点―精神分析・認知行動療法・家族療法・ナラティヴセラピー精神分析の名著 - フロイトから土居健郎まで (中公新書)


04 14
2016

書評 心理学

子ども向けとバカにする損失――『子どもの心をいやす魔法のメルヘン』 アンゲリーネ・バウアー


4072303100

子どもの心をいやす魔法のメルヘン
アンゲリーネ・バウアー Angeline Bauer
主婦の友社 2001-10

by G-Tools



 ドラマであれ映画であれ、メルヘン分析は物語の解釈度を高めてくれた。古本で200円で手に入ったので、感謝の気持ちで読む。


 メルヘンが子供向けになったのは19世紀からで、それまでは糸つむぎ部屋や台所で大人同士でかたられた物語なのである。


 お子さんをもっている方はこの本は読むことは、子どもにどのような物語を読めばいいのか教えてくれるだろうし、なにより自分自身がちゃんとした大人の水準にたっしているのかの精査にすらなる。


 とくに「分けること、残すこと」の章や、「約束は大切」の章など、人間関係が大事になる大人にとっていまでも大切な知恵である。分けることは自分の分がなくなると思っている人は、お金でもほかの親切や思いやりの点でも、人に分け与えることができない。大人の課題でもある。


 メルヘンは象徴をまもっているといわれるが、それは防御をともなったむきだしの恐怖に向き合わなくするためである。また、親を愛するとともに憎むことがある感情にむきあうために、継母やバケモノなどといった母や親の象徴が必要なのである。


 この本では子どもの死との向かい方も示唆していて、子どもやわれわれ自身もちゃんと死と向き合えているかの内省にもつながるだろう。


 他人を嫌うこと、他人をあざ笑うことは、自分の弱さや欠点と向き合わないことだといった教訓も語られる。嫌いな人というのは、自分の中の嫌いな部分だということに気づくことは、大人として大切な知恵である。


 メルヘン分析は、大人になって読んでよかったと思える知恵になる。子どものときにはなおさら言語化していないのだから、意識的に理解していない。それをメルヘン分析は言語化して、意識的な理解を助けてくれるのである。


 子ども向けのメルヘンだとバカにしていた自分の浅はかさを恥ずかしく思うことだろう。




 童話はどう読むのかのオススメ本


オススメのメルヘン分析本です


 昔話の魔力昔話とこころの自立絵本と童話のユング心理学 (ちくま学芸文庫)アンデルセン童話の深層 (ちくま学芸文庫)OD>名作童話の深層



02 12
2016

書評 心理学

自分の線引きの失敗?――『分裂病と他者』 木村敏

4480090894分裂病と他者 (ちくま学芸文庫)
木村 敏
筑摩書房 2007-08

by G-Tools


 統合失調症の症状や、なぜそうなるのかということを知りたい初心者的なわたしにとって、衒学的な現代思想や現象学的言説にみちたこの本は難解すぎて、読書としては失敗だった。難しすぎて、意味がくみとれません。

 もう現代思想的な言説を理解しようとする努力をやめてしまって、ふつうの脈絡でも理解できる次元をもとめるようになったからね。

 わたしの統合失調症の興味は、電波や集団ストーカーといわれる他人に監視されていると思ったり、テレビやラジオで自分の考えが放送されていると思うような思考がなぜおこってしまうのかという疑問あたりだ。どうして疑わずにそれを真に信じてしまうのか、理性的に現実をとらえられる一面もある一方で、こういう認識のゆがみももたらされるのか。

 どうも根本的には、「自己が自己自身であることの病だということができる」といっているように、自分を立ち上げることの失敗のようである。

「「自己以前」を「自己」へと創立する時間の病いであることを意味する」といっている。発病の内面の歴史は、「「自己」の確立を求めて挫折した道程の記録となっている」

 自分の思考が抜き取られていると思ったり、集団に監視されていると思ったり、だれかが自分の思考を電波で流しているというのは、頭の中の声や思考が、自分のものか、他人のものか混濁してしまっている。「自分がなくなってしまっている」。

 頭の中の思いが、自分に帰属せずに、他人や外界のものとなっていたり、筒抜けになっていると思ったりする。「わたし」があまりにも希薄で、ゆらいでいる状態といえるかもしれない。

 自分の状態を自分に帰属させずに、他人や外界に読み込んでしまうのだろうか。

 自分と他人、外界の線引きをまちがってしまうのだろうか。わたしだって自分の他人にたいする考えが自分のものにすぎない、他人への怒りが自分の感情環境を最悪にしてしまうという線引きのあやまちを、けっこうな年まで気づかなかった。だけど他人が自分に見えるというような妄想までには発展することは絶対にないのだけどね。

 統合失調症は、わたしとはなにか、わたしをどう立ち上げるか、わたしと他人の線引きに失敗、といえるのだろうか。

 そういう哲学的な問い、立ち上げ方の失敗に思えるのだけど、こういった哲学的問いから問うた統合失調症の本を読みたいと思うのだが、見つかるだろうか。古本屋で探しても、あまりにも見つかる確率が少ない。

 ところで離人症患者の症例は、まったく神秘思想家の言葉とおなじであることも悩ましい。

「目で見るものがとび込んでくる」という離人症の症状は、空海の金星が口に飛び込んできたという覚醒の言葉とまったく同じであり、「物と目とが一体になっている」という状態は、禅者とエックハルトの言葉とまったく同じである。

 統合失調者はときに思考のサラダといった思考錯乱もおこるようだから、覚者とは同列に思えないが、同じ現象を体感しているといえる。


分裂病の現象学 (ちくま学芸文庫)自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学 (ちくま学芸文庫)時間と自己 (中公新書 (674))自明性の喪失―分裂病の現象学精神分裂病―分裂性性格者及び精神分裂病者の精神病理学


プロフィール

うえしん

Author:うえしん
世の中を分析し、知る楽しみを追究しています。興味あるものは人文書全般。神秘思想、仏教、労働論、社会学、現代思想、経済学、心理学、歴史学。。 そのときの興味にしたがって考えています。

Kindle本、2冊発売中です。

 

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